身近にある植物を生かす、暮らしの知恵
庭の草木が生い茂るこの季節。
下田で暮らす津留崎徹花さんは、草刈りしたあとに
葉っぱをいろいろなことに使っているそうです。
匂いの強烈なドクダミは万能薬に。
よもぎやレモングラスなどのハーブはお茶に。
身近な植物を活用して楽しんでいます。
撮影:佐々木育弥
私の仕事場の窓からいつも見えるのが旧美流渡(みると)中学校の校舎とグラウンド。
過疎化によって2年前に閉校。中学校の裏手には同時期に閉校になった小学校もあり、
こちらには息子が2年間通っていた。
小中学校は一緒に運動会をしたり、PTAでの交流もあったりと、
私にとってはどちらもなじみ深い場所。
そして、ふたつある校舎のうちの中学校については、
今年から試験活用が行われることとなった。

学校として使われていた10年ほど前に大規模な改修が行われていて、校舎はとてもきれい。(撮影:佐々木育弥)
閉校については、以前の連載でも書いたとおり、
地域の灯がひとつ、またひとつと消えていく寂しさを感じさせるものではあったが、
同時に私は始まりでもあると捉えたいと思った。
子どもの人数が減っていけば、学校という形態を維持するのは難しい。
それであれば、地域の現状に即した活動内容へと変化させていくことで、
また新しい風が起こるんじゃないだろうか。
何よりわが子の思い出も詰まったこの場所が、
だんだん荒んでいくようなことになるのは避けたい。
そんな思いから、私が代表を務めている地域PRプロジェクト
〈みる・とーぶ〉が中心となって、市内にある北海道教育大学岩見沢校と連携しながら、
一昨年、昨年と学生さんや市民のみなさんと、
校舎活用やまちづくりに関するディスカッションの場を設けてきた。

北海道教育大学岩見沢校の学生たちが考えた美流渡中学校の3年後の未来予想図。
このとき、校舎の管理をしている市役所や教育委員会が
どんな展望を考えているのかは、はっきりとはわからなかったが、
市民側からのアクションを続けていくことは大切なんじゃないかと考えていた。
しかし、新型コロナウイルスの感染が拡大していき、
校舎活用のディスカッションも一時中断せざるを得なくなり、
1年ほどこの活動が止まったままとなってしまった。
そんなあるとき、昨年夏に東京から美流渡へ移住し、
地域活動にも関わってくれている画家・MAYA MAXXさんが
こんなことを話した。
「雪に覆われた真っ白なグラウンドに、
ひとつだけ巨大なオブジェがあったら美しいと思う」
今年の3月ごろだったのではないかと思う。
美流渡地区は10年ぶりの大雪に見舞われており、
中学校のグラウンドはまだ真っ白な状態だった。
誰も踏みしめていない雪の絨毯を毎日のように見ていたMAYAさんは、
ここに数十メートルのポールを立て、それを芯にクマのオブジェをつくって、
実際に自分でそれを眺めてみたいと思ったという。

一面の雪に覆われたグラウンド。
このクマのオブジェというプランは奇想天外なものではあったが、
私はグラウンドを借りられないかと市役所に掛け合うこととなった。
市の担当者と話しているなかで、このオブジェ制作とともに、
校舎の整備や清掃活動も自分たちで行いたいと申し出た。
日々、窓から校舎やグラウンドが見えており、
雪解けとなってからは雑草が勢いを増していく様子を見ていて、
気になってしかたがなかったからだ。
また、小中学校ともに豪雪対策から、1階の窓には雪止めの板が貼られていた。
地域の住民からは、校舎が閉ざされてしまった感じがして
悲しいという声が上がっていたことから、
MAYAさんが窓の板に絵を描いたらどうかという話をしてくれた。

1階が雪止めの窓で塞がれた校舎。

MAYAさんは、昨年アトリエのドアや窓に紺色の絵具で石を描き、今年は倉庫に植物の文様を描いた。美流渡がどんどん明るいムードになっているように思う。
気兼ねなく旅や帰省ができるようになるまで
あともう少し。
次の旅行を考えたり、ガイドブックを見て
旅気分を味わう人もいるのではないでしょうか。
今回は、地元の人がおすすめの場所や施設を紹介。
〈地域おこし協力隊〉のみなさんに、まちを訪れた
旅行者を案内したいスポットについて教えてもらいました。
知る人ぞ知る場所や施設、必見です。

にかほ市のシンボルともいえる鳥海山。
山に降り注いだ雨雪は長い時間かけてろ過され、
それが地下から湧き出したものは伏流水と呼ばれています。
市内の至るところに湧水地があり、
どこを歩いていても水の音がするような水に恵まれたまち。
それを見せつけるかのように、
にかほにはこんな場所があるんです。

道端に突如として現れる「水」と書かれた看板。
ここでは伏流水が勢いよく流れています。
象潟町の本郷という集落にあり、
とくに案内などはありません。

知る人ぞ知る場所ですが、地元からも遠方からも、
空いたボトルを持って水を汲みに来る人がよく見られます。
暮らしに欠かせない水。
その豊かさが、ここの暮らしの豊かさをも
物語っているような気がします。
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國重咲季 くにしげ・さき
京都府出身。秋田県の大学に進学したことを機に、東北各地の1次産業の現場を訪ねるようになる。卒業後は企業に勤めて東京で暮らした後、にかほ市で閉校になった小学校の利活用事業「にかほのほかに」に携わるべく秋田にAターン。地域で受け継がれてきた暮らしを学び、自給力を高めることが日々の目標。夢は食べものとエネルギーの自給自足。
初夏の小豆島、日に日に風景のなかの緑色が濃く、力強くなっていきます。
うちの庭の木々やハーブたちも新しい葉を増やしながらぐんぐん成長してます。
植物の力強さを感じる季節です。

庭の緑も庭越しに眺める山の緑も夏に向かって濃くなっていきます。
いまの家で暮らし始めて9年目。
少しずつ少しずつ手を入れて育ててきた庭。
観賞用の美しい庭もいいのですが、ハーブなど食べられる植物をメインで育てる
「エディブルガーデン」(食べられる庭)にしたいなと思い、
ハーブの苗を分けてもらったりして、毎年増やしてきました。

小豆島で暮らし始めて9年目のうちの庭。リュウゼツラン(トゲトゲしたアロエみたいな植物)がだいぶ大きくなりました。

レモングラスにセージにローズマリー。庭に近寄って見てみると実はいろんなハーブが植わってます。
植物には1年で枯れてしまう「一年草」と、
何年も枯れずに育ち続ける「多年草」があります。
例えば、スイートバジルは、苗を植えてもその株は1年で枯れて終わってしまいます。
種が自然と落ちて、環境がよければ次の年の春に新しい芽が出てきます。
ちなみにバジルは熱帯地域を原産とするシソ科のハーブで、
本来は毎年枯れずに成長する多年草なのですが、
寒さに弱く四季のある日本では冬に枯れてしまいます。
一方で、ローズマリーは寒さに強く、小豆島では年中葉を茂らせています。
越冬しますが、新しい葉が出てきて元気に成長するのは春夏です。
やっぱり冬はじっと寒さに耐えてる感じですね。
それから、ミント! ミントは宿根草で、冬の間は地上の葉は枯れてしまったり、
残っていても弱々しい感じですが、しっかり土の中で生きています。
一年草か多年草かといえば多年草ですね。
ミントに関しては地植えをおすすめできないほど
土の中で根を増やし、毎年繁殖してきます。
気づけば庭中ミントだらけ。力強い植物です。
そんな知識も何年も庭の手入れをしているとだんだんとついてきます。
「今年はここらへんにパクチーの苗を植えてみよう」
「レモンバームをもっと増やしたいなぁ、株を分けて移植しようかな」
その植物が1年で枯れてしまうのか、来年もそこに残り続けるのか、
そんなことをイメージしながら植えてます。

鉢植えで育てているレモングラス。いつもこの葉を摘んでハーブティーにしてます。

昔おじいちゃんが植えた松の木やサルスベリの木、あやめなども残っています。少しずつ庭もリノベーション。

小さな丸い葉がかわいいタイムは冬の間はほとんど枯れてしまいますが、春になるとまた新しい芽が出てきます。
昨年から岩見沢市の美流渡(みると)地区に借りた仕事場で
日課となっているのは、庭づくり。
幅10メートル、奥行5メートルくらいの広さがあって、
雪解けから少しずつ手入れをしている。
手入れといってもすごく簡単で、イネ科の草とセイタカアワダチソウという外来種を
ときおり抜いていくだけ。少しだけ花を植えたり畑にしたりもしているが、
あとは野草が自然にまかせて育つのを見守るようにしている。
なぜ、イネ科の草とセイタカアワダチソウだけを抜こうかと思ったかというと、
以前、岩見沢の市街地で暮らしていたときに、何もしていなかった庭が、
だんだんとイネ科の草とセイタカアワダチソウに覆われて、
ほかの植物が消えていく様子を見ていたからだ。
全面を覆うカバー力のある植物の繁殖を弱めてあげると、
いろんな野草が生えるんじゃないかと考え、
借りたばかりのときは荒れ放題となっていたこの庭の手入れを始めた。

庭には野草がいっぱいに生えている。
今年は雪解けとなった4月中旬頃から、この手入れを始めており、
昨年とは庭の様子が明らかに変わっていった。
以前の住人が植えたバラやボケなどの低木の勢いもよく、
その手前には、白と赤の花を咲かせるクローバーが成長していった。
ほかにも、アサツキやミツバ、ドクダミ、ヨモギ、フキなどが芽を出し、
あっという間に緑に覆われていったのだが、昨年とは違い
植物たちが上手に棲み分けしながら、調和を持って育っているように見えた。
このエリア分けを崩さないように、小さな道をつけてみると、
さらに庭らしい雰囲気となっていった。

野菊があちこちに生えている。東京で暮らしてきた私にとっては、雑草として刈ってしまうのは惜しいくらいの美しさがある。
あえてタネや苗をお店で買って植えたわけではない庭だけれど
(ほかの家と様子がかなり違う)、それでもいろいろなものが収穫でき、
毎日の楽しみになっている。
ほとんど雑草のようにあちこちに自生しているアサツキやミツバをつんで薬味にしたり。
スギナやカキドオシを干してお茶にしたり。

スギナ、ヨモギ、カキドオシなどを干してお茶にする。
そして、今年どうしても挑戦したいと思っていたのがバームづくりだ。
化粧品のジャンルでいえば、クレンジングや保湿などに使われるオイルを
固形化させたものがそれにあたる。
ネットで調べてみると、自分でもつくれることがわかり興味を持った。
今回挑戦したのは、ヨモギのオイルバーム。
ヨモギは、かぶれやかゆみをやわらげる効果があるというので、
虫に刺されたときに使ってはどうかと考えた。
以前から、ドクダミの花をホワイトリカーにつけた
「ドクダミチンキ」を虫刺され対策として愛用していたのだが、
かきむしったあとにつけるとしみるので、子どもたちには案外不評。
ヨモギのオイルであれば、アルコール分がないからしみないんじゃないか。
効くか効かないかはよくわからないが、
何かつけると子どもたちはひとまず安心するので、
おまじないのような役目を果たしてくれればと思った。

ドクダミの花を摘んで、それをホワイトリカーにつけるとチンキになる。
横浜市の野毛山エリアで活動しながら、
長野県立科町で地域おこし協力隊として活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
立科町にて、空き家活用の促進をミッションに活動拠点をつくるべく、
まちの中心部に空き店舗を見つけたのが前回まで。
今回はその空き物件のリノベーションの過程と、
そこから広がる活動について紹介します。
前回ご紹介した〈藤屋商店〉さんは、築97年と歴史ある建物であり、
まちの中心に位置するため、かつてはまちのみんなが知っている商店でした。

お店は約10数年前に閉店しているが、オーナーさんはまだこの建物に住んでいらっしゃる。
内見させていただくと、当時の様子が想像できる家具や小物がたくさんあり、
移住者である僕にとっては、とても魅力的でどこか懐かしい空気のある場所でした。
なるべくこの雰囲気を壊さないよう、
最小限の手数で活用していくのがよさそうだと思いました。

藤屋商店の山浦文子さん。

昔の藤屋商店の様子。
ただ、こちらの物件の店舗部分には水回りがなく、
トイレも老朽化して撤去された状態でした。
地方では下水道の整備が不十分で、汲み取り式のトイレも少なくありません。
そのため、水回りの工事はコストがかかります。
空き家や空き店舗を活用する際、
「こうした不利な条件をどう捉えるか」が場所づくりのヒントになります。
お金をかけて修繕するだけでなく、現状使えるものから
場所の使い方を考えることで、新しい活用方法が見えてきます。

ここにあるもので何ができるか。
藤屋さんの場合、徒歩15秒ほどの距離に、ふるさと交流館〈芦田宿〉があります。
なので、トイレを使うなら交流館へ行けばいいのです。
そして、コーヒーが飲みたくなったり、まちについて聞きたいことがあれば、
同じ通りの〈はじまるカフェ〉さんや〈清水商店〉へ行けばいいのです。
建物がすべての機能を備える必要はなく、積極的にまちや周辺環境に頼れば、
不完全な建物は活路を見い出せるし、まちには人の往来が生まれるようになります。
小豆島の「醤(ひしお)の郷」という醤油蔵が立ち並ぶ地区に、
〈キッチンUCHINKU(うちんく)〉というカフェレストランがあります。
「うちんく」とは、四国地方の方言で「私の家」という意味。
元そうめん工場の倉庫をリノベーションした広くてゆったりした店内で、
もうひとつの自分の家で過ごしているような気分で
ごはんを食べたり、話をしたりできるお店です。

住宅街にあるそうめん工場の倉庫をリノベーションした〈キッチンUCHINKU〉。

ワークショップで子どもたちと一緒につくったみんなの「うちんく(私の家)」が店内に飾られています。
UCHINKUは、小豆島に移住してきた西本さんご夫妻が2017年4月にオープン。
奥さんの西本理香さんは小豆島出身。
移住する前にご家族で何度も小豆島を訪れていたそうで、
京都や大阪のレストランで、20代にして店長を務めてきたご主人の西本真さんは、
いつかこの場所で自分のお店をやりたいと思っていたそう。
オープンして4年、いつも地元の人たちがごはんを食べに来ていて、
ランチ時は特に賑わっています。

周年おめでとう! の絵をお子さんが描いてくれたそう。こういうの宝ですね。

ランチのデリプレート。野菜いっぱいでうれしい。パンは奥さんの理香さんが焼いてくれます。

パスタやデリプレート、グリーンカレーヌードルなどいろんなランチを楽しめます。
UCHINKUさんには毎週、私たち〈HOMEMAKERS〉の野菜をお届けに行っています。
島内のレストランやカフェなどで野菜を使ってもらえるのは、
私たち農家にとってとてもありがたく、うれしいことです。
「来月ってどんな野菜があります?」
「花ズッキーニが採れるけどどうかな?」
「エンダイブ育ててほしいんですよ」
近くにいてちょくちょく会えるからこそ、そんなやりとりができる。
お互いにフィードバックしながら野菜を育てる、料理する、そんな関係です。

コリンキーやインゲンなどを使ったサンドを試作中。盛りつけを一緒に検討。

「焼くとうまいんすよ」とグリル。うん、たしかにおいしい。
前回の連載で、岩見沢市の美流渡(みると)に昨年移住した
画家のMAYA MAXXさんが陶芸の制作をしていることを書いた。
実は傍らで、昨年の冬から私も週1回、陶芸をするようになった。
きっかけはMAYAさんと一緒に、地域にある〈栗沢工芸館〉を訪ねたことだ。
ここは市民が予約をすればさまざまなクラフトが体験できる施設で、
冬季は地元の陶芸家のきくち好惠さんが担当となり、
陶芸制作を中心にした体験が行われている。
MAYAさんがあるとき、きくちさんに「菊練り」を学ぶというので、
私も教えてもらうことにした。
菊練りとは、粘土の中に残っている空気の粒を抜くために行う基本の工程で、
一度ちゃんと知っておきたいと思っていたのだ。

〈栗沢工芸館〉には地域の人々がクラフトを体験できる環境がある。
午前中、たっぷり菊練りを練習。
けれど練った粘土をどうするのか、私はまったく考えていなかった。
せっかく練ったんだから、何かつくってみようかな。
そう思ったとき頭に浮かんだのは、函館にある北海道唯一の国宝、「中空土偶」だった。

函館市南茅部地区で発見された中空土偶で「茅空(カックウ)」という愛称で親しまれている。〈函館市縄文文化交流センター〉で公開。
土偶は縄文時代につくられた素焼きの造形物で、全国各地で出土している。
以前から土偶の独創的な形に惹かれていて、
写真集や文献を集めたり、絵本を描いたこともあった。
2016年に近隣の地区に山を買ったときには、山の土で土偶をつくったこともあった。
そのとき、土をきちんと精製していなかったため手のひらサイズしかできなかったが、
いつか大きな土偶をつくってみたいという気持ちを持っていた。
土偶の何が好きなのかは言葉で言い表すことが難しいのだが、
私にとってはかわいいぬいぐるみを見たときのように心が和み、
またさまざまな土偶の形を見れば見るほど、
なぜこのような造形になったのかとあれこれ想像するのがとても楽しい。

2012年につくった絵本『DOGU』。ウェブで公開したことがある。

山の土を使ってつくった土器と土偶。
というわけで、中空土偶をまったく同じようにつくってみようと考えた。
この土偶の高さは41.5センチ。
中が空洞になっている「中空」構造の土偶の中で最大の大きさ。
きくちさんにアドバイスをもらい、上半身と胴体、足をパーツに分けてつくり、
最後に合体させることにした。
私は美術大学に通っていたので、粘土で立体をつくった経験はあった。
しかし、中を空洞にした大きな物体をつくるのは今回が初めて。
手探りのなかで少しずつ作業をしていった。

まずは上半身をつくっていった。
横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
今回は2020年6月から活動している、
長野県北佐久郡の立科町(たてしなまち)での取り組みを紹介します。
建築の仕事に限ったことではありませんが、複数の地域に拠点を持ち、
地域の人と関わりながら活動している人たちがいます。
横浜で日々接する知人や友人たちにも、そのような暮らし方をする人たちがいました。
地域の風土をつくるには、外からやってくる「風の人」と
地域に根ざした「土の人」の存在が重要だといいます。
風の人の役割は、地域に新しい価値観や人を運んでいくことです。
横浜の藤棚商店街にて〈藤棚のアパートメント〉と
〈藤棚デパートメント〉の職住近接の暮らしを送るなかで、
自分も風の人となって横浜以外の別の地域にも関われたなら、
もっと多角的に地域のことを見られるようになるのでは、と思うようになりました。
僕にとっての“別の地域”は、長野県の立科町でした。
この立科町は「蓼科」という字のほうがなじみがあるかもしれません。
蓼科山の北側の山麓にあり、県内では東信地区といわれるエリアです。
「蓼」という字が当用漢字になく「立科」という名前が町名になりました。

立科町移住定住支援サイト『旅する移住』より抜粋。立科町は面積66.87平方キロ、人口7000人弱と小さな町で、南北に細長く、中央でくびれているのが特徴。
蓼科山は幼少期からよく家族で訪れていた場所で、
訪れるたびに工作をしたり絵を描いたりして過ごしていました。
自然に囲まれた環境のなかで、最初にものづくりの楽しさに目覚めた場所でもあり、
建築の仕事に進もうと思ったのも当時の環境が影響している気がします。
いつか何かのかたちでここに関わりたいと思いつつ、
それは遠い先の話だと思っていました。

中学生の頃。蓼科に来たら工作するのがお約束。
日本には、その土地それぞれで発展した言葉・方言があり、
挨拶や日常的に使う言葉も、まちが違えば言い回しも異なります。
今回は〈地域おこし協力隊〉のみなさんに
お住まいのまちで話される方言のなかでも
特に好きな言葉を教えてもらいました。
相手への思いやりやあたたかい気持ちが
ひとつの言葉のなかに込められたものばかり。
みなさんが住んでいるまちでは、どんな言い回しをしていますか?
ぜひ比べてみてください。

「まんず、かだれ」
にかほ市で暮らすようになった頃に
地元の方からかけられた言葉でした。
「かだる」というのは
「仲間になる、参加する」という意味の方言。
秋田県のほか、山形県や岩手県でも使われることがあるそうです。
地元の方が集まる場にお邪魔した際、
輪に入れず側で立っていた私に、
「まんずかだれ」と声をかけてくれました。
「仲間に入りなよ!」なんて、
大人が口に出すのはなかなか気恥ずかしいような気がしますが、
「かだれ」は「こっち来なよ」というくらいの
気軽な感じで使うことができるうえ、
相手に「仲間になってもいいんだ」と、
安心感を与えられる言葉です。
よそ者の私にとっては、魔法のように心温まる言葉でした。
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國重咲季 くにしげ・さき
京都府出身。秋田県の大学に進学したことを機に、東北各地の1次産業の現場を訪ねるようになる。卒業後は企業に勤めて東京で暮らした後、にかほ市で閉校になった小学校の利活用事業「にかほのほかに」に携わるべく秋田にAターン。地域で受け継がれてきた暮らしを学び、自給力を高めることが日々の目標。夢は食べものとエネルギーの自給自足。
新規就農はローカルでなく東京でもできる。
その実例を見せたいと「東京の農業」にこだわっている
〈繁昌(はんじょう)農園〉の繁昌知洋さん。
農業のイメージアップのため、これまでとはひと味違うやり方で、
農業の可能性を広げようと努めている若手農家だ。
〈BESS〉の家を拠点に、東京都青梅市に16か所の農地を持つ繁昌さん。
学生時代から自然に関わる仕事を求めていて、
農業に惹かれていったのは当然のなりゆきだった。
そして体験農園や農業スクール、2年間の農家研修などを経て、
2016年、自身の名を冠する農園を独立開業することになった。

繁昌知洋さんと妻の美智(みさと)さん。
「独立するときは、まさか東京でできるとは思っていなかったので、
千葉や長野などで土地を探していました。
そんななか、偶然、東京都の立川市で農業をやっている人に出会ったんです。
その人と話して、“東京でも農業ができるんだ”と思いました」
東京での農業に大いに可能性を感じた繁昌さんは、
さっそく農地を探し始め、現在の青梅の農地を見つけた。

繁昌さんのスタイルは少量多品種生産。
現在では約140種類のオーガニック野菜を育てている。
「始めた当初は、売り先も定まらないまま、とにかくつくる日々。
売れたらいいけど、見込み生産みたいなものでした。
でも最近は、ニーズに合わせた受注生産に近いです」
東京産であることを打ち出すことで、都内のお客さんからの注文が増えている。
さっそく東京で農業をしているメリットを生かすことができたようだ。
「特に都心部のお客様は舌が肥えているというか、
普通のスーパーなどで売っていないような野菜を望む人が多いんです。
西洋野菜のカーボロネロとかコールラビとか。
お客様のニーズにそれぞれ応えていったら、自然と品種が増えていきましたね」
新規就農者の場合、最初から大規模農地を用意することが難しく、
特に東京や都市圏では飛び地の農地で活動している人も多い。
大量につくれないという特性を逆に生かせば、少量多品種という可能性が見えてくる。
もうひとつ、繁昌さんが「新規就農者がやるべき」と掲げるのが伝統野菜だ。
「各地の伝統野菜の復活も、新規就農者だからこそやりやすいことだと思います。
僕の場合は、江戸東京野菜。
亀戸大根、金町こかぶ、のらぼう菜、八丈オクラなどを栽培しています。
一般流通している野菜は、食べやすいように品種改良されているものが多いですが、
野菜はもう少しえぐみのあるもの。
伝統野菜にはそうした野菜本来の味が残されているので、
その味も忘れないようにしていきたいです」

収穫したばかりの亀戸大根。
伝統野菜が忘れられつつある理由には生産効率や流通、味などがあるだろう。
ほかにも農業にはフードロス、後継者不足など、社会課題がたくさんある。
その課題解決には、少なからず新しい目線を持った取り組みが必要になる。
それを解決していくには、新規就農者のほうがやりやすいのだろう。
繁昌さんは、それらの課題を明確に見据えながら農家としての道を歩んでいる。
昨年7月に東京から北海道の美流渡(みると)地区へ移住した
画家のMAYA MAXXさんと
木工作家の臼田健二さんの二人展が、吉祥寺で開催されている。
開催の経緯は思いがけないものだった。
昨年秋、私は雑誌の取材で道北・下川町に住む臼田さんのもとを訪ねたことがある。
このとき運転が苦手な私に代わって車を出してくれたのがMAYAさん。
道内各地を巡ってみたいという思いもあって一緒に下川町を訪ねてくれた。

臼田さんは下川町木工芸センターで作品を制作している。工房には樹種も形もさまざまな器が無数に並んでいた。
臼田さんは静岡県出身。東京でシステムエンジニアとして働いた後、
1992年に北海道に移住し木工制作を始めた。
東川町で工房を開き、2015年に下川町に拠点を移した。
主に器を制作していて、ナラやセンなどさまざまな樹種が使われている。
クルミの器は、木の皮の部分をあえて残していて、その有機的な形からは、
天に向かって木が伸びていく生命力のようなものが感じられる。

クルミの器。皮の部分と内側の部分の色のコントラストが美しい。
臼田さんは地元の材を使うことにこだわりを持っている。
北海道の広葉樹は、紙の原料としてチップにされてしまうことが多い。
年月を経て大きくなった木でさえも、粉々になってしまう状況を見て、
そこに新しい命を吹き込むことはできないだろうかと考えたという。

取材で訪ねた日、臼田さんは所有する森に案内してくれた。2016年に山を買い、自ら間伐をして道をつけ、大きなウッドデッキもつくった。

「道北の風景は美流渡はとはまた違う」、下川町を訪ねMAYAさんは語った。
MAYAさんは取材に同行するなかで、偶然にも
以前から家に置きたいと思っていたランプシェードが
臼田さんの手によるものだったことに気づいた。
ちょうど欲しいサイズがネットで売り切れていたという話をMAYAさんがしたところ、
その翌日、取材帰りの私たちに臼田さんがランプシェードを手渡してくれた。
昨日、取材を終えてすぐに工房でつくってくれたというのだ(!)。

MAYAさんの自宅に取りつけられたランプシェード。
6月、梅仕事の季節です。
梅干し、梅シロップ、梅酒、梅コンポート、梅酢など、1年分の梅食材を仕込む季節。
私たちにとって、特に「梅干し」は欠かせない食材なので、
梅仕事は暮らしの大事な仕事です。
小豆島に移住して、この地で育った梅で梅干しをつくるようになって
今年で9年目(途中仕込めなかった年もありますが)。
ようやくレシピも落ち着いてきたので、
今回は私たち〈HOMEMAKERS〉の梅干しのつくり方をご紹介します。
塩分18%の昔ながらの梅干しづくりです!

幼稚園時代の娘。一緒に梅の収穫をしました。

夏休みに梅干しを干す仕事。
まずは主役となる「梅」の準備。
梅干しに使う梅は黄色く熟した完熟梅が理想的。
黄色く熟して、樹から自然に落下した梅を使うのが最高なのですが、
それはなかなか難しいので、熟し始めた頃に木から梅を手摘みします。
ちなみにうちは梅専門の農家ではないので、
そんなにたくさんの梅の木があるわけではありません。
祖父が残してくれた大きな梅の木。
もう収穫しないからと近所の方から譲り受けた梅の木。
耕作放棄され、山に戻ってしまいそうな段々畑に植えられている木も多く、
自然栽培といえば聞こえがいいですが、自然の中でワイルドに育った梅たちです。
農薬も化学肥料も使わず、自然の中で育った梅で梅干しをつくれることがうれしい。

6月に入ってから梅の収穫が始まります。

まだ少し緑色の梅。梅干しをつくるときは、収穫後に追熟させます。

梅ひと粒ひと粒を手で摘みます。
収穫した梅は、より柔らかくふっくらした梅干しになるように
「追熟(ついじゅく)」させます。
収穫してからも梅は呼吸していて、熟していきます。
このとき気をつけないといけないのが、追熟させる環境。
ビニール袋などに入れたままでは傷んでしまいます。
おすすめなのはダンボールに新聞紙を敷いて、
そこになるべく重ならないように梅を広げ、フタは半開きの状態にして、
常温で直射日光の当たらない風通しのいいところに置いておくこと。
そうすると、梅が緑色から黄色に変わり、なんともいい香りがしてきます。
皮が柔らかくなってきたら、梅干しにするグッドタイミングです!
(ちなみに最初から熟した黄色い梅であれば、この追熟は必要ないです)

追熟して黄色くなった梅。部屋中に梅のいい香りが漂います。
さて、ようやく梅干しづくり。
大きな流れとしては、
1 梅を塩漬けする(6月中旬)
2 赤紫蘇を入れる(6月下旬)
3 土用干しする(晴れの日に3日ほど干す)(7月下旬)
という感じ。
時期はあくまでも目安で、赤紫蘇を入れるのが7月になってしまっても、
梅を干すのが8月になってしまっても、梅干しがつくれないわけじゃないです。
ただ、梅が採れるタイミング、赤紫蘇が採れるタイミング、
晴れが続くタイミングに合わせると、だいたいこのような時期になります。
5月のゴールデンウィークが終わりました。
昨年に続き、まさか今年の連休まで、
コロナ禍による自粛の日々になるとは思ってもいませんでした。
1年で一番気持ちのいい季節! と言えるくらい5月初旬の小豆島は最高のシーズン。
毎年GWの連休にはたくさんの観光客の方々が島を訪れます。
島のジェラート屋さんでは長い行列ができ、路線バスのバス停では
人がたくさん待っていて、有名な観光スポットへ向かう道路は渋滞していたり。
気候もいいし、賑やかだし、小豆島全体がとっても楽しそう。
というのが、いつものGW。

5月の小豆島。戸形崎には毎年鯉のぼりが海の上を泳ぎます。

毎年小さな真っ赤な実をつける庭のサクランボ。これも5月の風景。
今年の小豆島の様子はというと、
「例年よりは静か、でも昨年よりは賑やか」という感じでした。
それがいいのか悪いのかは悩ましいですが、飲食店は満席の状態だったり、
列ができたりしていて、やっぱり連休なんだなぁと。
さて、私たちはどう過ごしていただかというと、カフェを数日営業して、
畑仕事、出荷作業と普段と同じように働いていました。
いつもの連休と決定的に違うのが、毎年5月3日に開催される地元の伝統行事
「肥土山(ひとやま)農村歌舞伎」が、昨年に続き今年も中止だったこと。
さすがに2年連続中止となると、いままでそこに当たり前のようにあった
大きなものがなくなってしまって、もの足りないような寂しいような、
そんな気持ちになります。

肥土山農村歌舞伎舞台がある肥土山離宮八幡宮からの景色。新緑のもみじと山々が美しい。
肥土山農村歌舞伎が中止になったことで、
よく言えば時間に余裕ができていつもできないことができたのですが、
この行事がなくなることで失われてしまうことって、
けっこう大きいんじゃないかと漠然と感じています。
正直言って、農村歌舞伎当日を迎えるための準備や練習は本当に大変です。
スケジュールを管理し、全体の調整をする人、
夜に稽古場に集まって演目の練習をする人、
大道具や小道具などのメンテナンスや準備をする人、
集まりのたびに参加者の食事やお茶の準備をする人など。
たくさんの人が関わり、みなさん仕事が休みの日や
仕事を終わらせた夜の時間を使って準備を進めていきます。
ひとつのことを成し遂げるために、役割を分担し、それぞれががんばる。
とても大変だけれども、大変だからこそ、同じ思いを持ち、
同じ時間を過ごすことで育まれる連帯感は強い。いまの肥土山という集落があるのは、
この農村歌舞伎が続いているからといっても過言じゃないような気がします。

参加者や来賓の方々のお弁当づくりは当日の朝3時頃から地元のお母さんたちが行います。数の確認や発注などもすべて。大変な仕事。

役者の人たちは当日まで稽古場で何度も練習します。役者以外にも裏方にはたくさんの人たちがいます。
2017年に山を買った体験をまとめたイラストエッセイ
『山を買う』という小さな本を刊行して以来、
1年に1冊のペースで本づくりを行ってきた。
この出版活動を〈森の出版社ミチクル〉と名づけ、
SNSで告知をしながら細々と本の販売を続けるなかで、知り合いのみなさんから、
ミチクルで本を出したいという相談を受けることが増えてきた。
これまでは、うちで本を出しても、
書店流通に必要なISBNというコードをとっているわけでもないし、
大手ネット通販で販売しているわけでもないので、
それほど広がらないと思うと消極的なお返事をしてきた。
しかし、何人かに声をかけてもらうなかで、
自分の消極的な姿勢に息苦しさを覚えるようになった。
この小さな出版活動に、わざわざ興味を持ってくれる人がいるのだから、
その気持ちに答えたい。そんなふうに思うようになっていった。
新しい本づくりの大きなきっかけをくれたのは、
道南の日本海に面した人口1400人ほどの島牧村に暮らす吉澤俊輔さんだ。
吉澤さんは、ご両親が〈島牧ユースホステル〉を営み、
自身は木工作家として活動をしながら、「さくらの咲くところ」という屋号で、
島牧の豊かな自然の恵みを生かした自給自足の暮らしを探求している。
毎年秋に「小さな町の小さなマルシェ」と題したイベントも開催。
昨年、このイベントを私が訪ね、吉澤さんと知り合うこととなった。

島牧で毎年開催される「小さな町の小さなマルシェ」。オーガニックな農法で作物を育てる生産者をはじめ、素材にこだわった料理やスイーツなどのお店が並ぶ。
マルシェの開催から数か月後、吉澤さんから本をつくりたいという相談を受けた。
4年間、北海道新聞のコラムでほぼ毎月連載を続けており、
それが終わるタイミングで、これらをまとめたいと考えていたのだ。
原稿を読み、島牧の開放的な自然の景色と同じような心地よさを感じた。
仲間と一緒に田んぼを再生させ昔ながらの米づくりを行ったり、
海水をくんでそこから塩をつくったり、豊かなブナの森で山菜やキノコをとったり。
暮らしのあらゆることに手間をいとわず、
しかもそれを心の底から楽しんでいることが、文章の端々から伝わってきた。
時折り、環境問題に鋭く切り込む原稿もあるが、
未来に希望は必ずあると思わせてくれるところも、心を明るくしてくれるものだった。

島牧はブナ林の北限。私が訪ねた秋は葉が色づき、キラキラと輝いて見えた。
よし、吉澤さんと一緒に本をつくってみよう!
そう私も自然に思え、ここから新たな本づくりのプロジェクトが始まった。
都心の大型書店やセレクト書店などで購入できる雑誌のなかに、
最近ではローカル発信の雑誌が増えてきた。
それらはパッと見では、横に並んでいる都市部発信の雑誌とそう変わらぬ顔をしている。
しかしよくよく読んでみると、地域性が滲みでている。
それら「ローカルインディーズ」とでもいえる雑誌の多くは、
地域情報だけを伝えるのではなく、その土地に住んでいるからこそ感じることができる
社会性や文化を誌面に込めて編集されているようだ。
そのひとつに『CONTE MAGAZINE』がある。
沖縄の首里から発信されているこの雑誌、
vol.01の巻頭特集にはいきなり笑福亭鶴瓶さんが登場。
特集テーマには「生きるためには、物語が必要です。」とある。
この雑誌の編集長である川口美保さんに話を聞いていくと、
沖縄とは関係のないように思える鶴瓶さんに取材を行った意味がわかってきた。

発売中の『CONTE MAGAZINE』第1号。2200円。
ということで、まずは沖縄で『CONTE MAGAZINE』と
〈CONTE〉というレストランを手がける川口美保さんの「物語」から始める。
川口さんは、大学在学中から
インタビュー&カルチャーマガジンの『SWITCH』編集部で働き始め、
副編集長を務めるなど約20年間勤めた。仕事も順調ではあったが、
当時から「この先ずっと東京で暮らしていくイメージは持てなかった」という。
「故郷の福岡に帰るという選択肢ももちろんありました。
だけど、もうひとつ故郷みたいな場所をつくれるのではないか、
という思いも持っていました」

移住してすぐは、近所の首里の郷土料理店でアルバイト。高齢の店主夫婦に首里の歴史や食文化を教えてもらったという。
その思いをぐっと引き寄せたのが沖縄だった。
ミュージシャンの取材をすることが多かった川口さんは、
あるとき沖縄のバンド〈ビギン〉が主催する「うたの日コンサート」を取材した。
「その会場には、3世代で来ているお客さんがたくさんいました。
ひとつの音楽で3世代が歌って踊っている光景にとても感動しました。
そしてビギンのメンバーが『その上の世代も喜んでるよ』って言うんです。
ご先祖など、目に見えない存在にも近いという感覚。
それに衝撃を受けて、沖縄の音楽や暮らしを知りたいと思いました」
こうして沖縄に通う機会も増え、ついには2014年に移住することになる。
「約20年間、SWITCHにいたので、やり切った感じもありました。
縁はどこでもつながるはずだから、東京で知り合った人たちでも、
そう簡単には切れないだろうし、一度、違う場所で暮らしてみようと思いました」

〈CONTE〉は大きな窓でゆったりとした空間。
5年前から始めた地域をPRする活動〈みる・とーぶ〉。
展覧会やワークショップ開催など、さまざまな活動を行っているが、
重要な柱のひとつがマップづくり。
表面には美流渡(みると)とその周辺地域(東部丘陵地域と呼ばれている)の
全体マップがあり、中面には地域の人々の似顔絵が散りばめられている。
毎年、更新を続けていて今年で4回目。先月、改訂版がようやく刷り上がった。
中面の似顔絵には何人登場しているのかとあらためて数えてみたら、総勢118名(!)。
毎年、移住者などを加えていっており、充実した仕上がりになっている。

観光スポットは少ないが地域には魅力的な人がたくさんいるという思いから〈みる・とーぶ〉のメンバーでつくり続けているマップ。似顔絵は私が描いた(マップはこちらからダウンロードできます。表面・似顔絵面)。
今回、一番大きくリニューアルしたのは、表面の地域紹介コーナーだ。
紹介しているエリアは上志文、朝日、美流渡、毛陽、万字など、
道道38号線沿いの20キロほどの区間で、
これまではそれぞれの地域の特性を文章で紹介する程度だった。
旅行者がふらりと来て立ち寄れるスポットがあまりなかったため、
簡単な紹介にとどめていたのだが、
今回「ひとやすみしたい場所があります!」というコーナーを設け、
旅ガイド的な役割も持たせようと考えた。

食、宿、体験という3つの項目を設けてスポットを紹介。
紹介したのは、飲食店が6軒、宿泊施設が4軒、体験施設が4軒。
著名な観光地に比べたら、本当にわずかしかないともいえるが、
4年前と比べると紹介スポットは倍に(!)。
訪ねる場所が本当に増えているなあと、
今回紹介コーナーをつくってみてしみじみと思った。
新たな拠点をつくったのは移住者たち。
自分で自分の仕事をつくり出そうという意識を持つ移住者は多く、
飲食店やゲストハウスなどが次々と生まれているのだ。

人口70人ほどの万字地区で2018年からスタートしたゲストハウス〈NORD house〉。このほか美流渡地区にふたつのゲストハウスがオープン。
また、これまでは、駅から車で約30分かかり、
近くに大きなスーパーもコンビニもない不便な地域に何かをつくっても、
経営は成り立たないと考える人が多かったが、
20年以上前にできた森のパン屋〈ミルトコッペ〉には、
休日ともなれば行列ができているし、
スープ&スパイスカレーの店〈ばぐぅす屋〉にはリピーターが多く、
わざわざ訪ねてみたくなる場所となっているのではないかと思う。

〈ミルトコッペ〉は4月28日から今季の営業が始まる。店舗はオーナーが10年かけてセルフビルドした。(撮影:佐々木育弥)
小豆島で農業を始めて、9回目の春を迎えています。
春はいつも、生姜の植え付け、夏野菜の植え付け、さつまいもの植え付けなどなど、
どれもこれも待ったなしで、連日何かに追われています(汗)。
多品目の野菜を栽培している私たち〈HOMEMAKERS〉にとって、4月は大忙しの日々。
とにかくひとつひとつやることを進めていくしかなく、
毎日日が暮れるまで畑で作業しています。

春の畑でブロッコリーの収穫。気温が上がり、野菜の成長スピードも加速。気を抜くとすぐに収穫タイミングを逃してしまう。

トマトの苗を定植。まだまだ定植待ちの夏野菜がいっぱい。

球が大きくなり茎が倒れた新玉ねぎ。辛味が少なくみずみずしいので生のままでも楽しめる!
最近は週に2日、野菜の収穫&発送作業をしているのですが、
その2日間はいつもに増してバタバタ!
まずは朝一番でその日の出荷内容をみんなで確認。
「今日はサナア(畑の名前)のコカルドレッドオークレタスを優先して出荷ね」
「あやめ雪かぶは葉を落として出荷ね」
そのあと畑チームは猛烈なペースで収穫、出荷チームはダンボールを組み立てたり、
納品書や送り状の準備をしたり。
毎回10種類ほどの野菜を順番に収穫していき、
軽トラが出荷作業場に戻ってくるとすぐに出荷の調整作業が始まります。
洗ったり切ったり、重さを量って小分けにしていきます。
虫がまぎれてないか、傷みはないか、そんなチェックをひとつひとつしながら袋詰め。
いまの時期だと、ケールから始まり、レタス、ブロッコリー、
新玉ねぎ、ベビーニンジン、あやめ雪かぶ、ナバナ、葉ネギなど。
荷物の集荷時間16時ぎりぎりまでいつも作業が続きます。

野菜の出荷作業日。収穫してきたらすぐに小分けしていきます。

ケールミックスの袋詰め。ケールは乾燥に弱くすぐにしなっとなってしまうので、急いで作業。

まだ球が大きくなる前の赤玉ねぎ。ほんとはもっと大きくなってから収穫するのですが、この若いときもおいしい。
2015年に、南阿蘇鉄道の無人の駅舎にオープンした小さな古本屋〈ひなた文庫〉。
その翌年、2016年に熊本地震が起き、鉄道が不通のいまも、
同じ駅で週末だけの営業を続けています。
そのひなた文庫の店主が、この5年を振り返り、いまの思いを綴る特別寄稿です。
5年前の4月14日、熊本県益城町を中心に起きた大きな地震。
南阿蘇村の隣、大津町の自宅のベッドで横になっていて強い揺れを感じた。
本棚からバラバラと落ちてくる本から頭を守りながら
訳もわからないまま揺れが収まるのを待った。
熊本が震源の大きな地震なんていままで記憶になかったので、まさかという思いだった。
私たちの近所や自宅アパートはそんなに被害はなかったものの、
風呂場のタイルが剥がれて使えなくなったので、
翌日は南阿蘇の実家に泊まることにした。
昼の間も体に感じる揺れは何度もあったが、通常通り仕事を終え、
〈ひなた文庫〉のある駅舎の様子を見に行った。
建物に被害もなく安心し、帰って家族でごはんを食べながら、
「益城町はひどいことになっている、まだ余震もあるから怖いね」
などと話して床についた。
深夜午前1時25分、 ゴゴゴゴという
どこから聞こえてくるのかわからない大きな地響きと、
肩を掴んで思い切り揺さぶられたような激しい揺れにいきなり襲われた。
14日に感じたものとは比べものにならなかった。
声にならない悲鳴が口から漏れ、早く収まることだけを願っていた。
真っ暗闇のなか、必死に耐えたあのときの恐怖は未だに忘れられない。
揺れが収まるのと同時に、隣で寝ていた夫と、
別の部屋で寝ていたお義母さん、お義父さんはおばあちゃんをおんぶして、
やっとの思いで縁側から外へ出た。
すると家の裏山の方向から、カラカラと石の転がる音がしていた。
その後、この地震は震度7を2度も記録した観測史上初の大きな地震だったとわかり、
14日に起きた地震を前震、16日に起きた地震を本震と呼び、
「熊本地震」と名づけられた。
この地震によって崩落した阿蘇大橋は実家から車で2分もかからない場所にあった。
裏山は阿蘇大橋を丸ごと押し流してしまった山と同じ地続きの山だ。
あのカラカラと聞こえてきた音を思い出すとぞっとする。
ほんの少しでも時間や場所が違っていたら、逃げる方向が違っていたら、
そう考えると、あの地震で死を免れたというのは偶然のことなのだと思う。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。