転職、フリーランス、起業。 3人の女性が青森に UIターンした理由とは? 「青森とわたしのこれから会議」

多様なライフスタイルを描けるようになった現代、
どこで暮らすのか、どう働くのか、その選択肢が広がっています。
「いずれは自分の生まれ故郷へ帰って働きたい」
「自然豊かな土地で暮らしたい」など、
地方へのUIターンを意識する人もいるでしょう。

でも、いざUIターンするとなると、どうやって仕事を探せばいいの?
所得が極端に下がってしまうのでは? など、不安に感じることは多いはず……。
そんなときは、地元の人たちに話を聞くのが近道!

「青森とわたしのこれから会議」ロゴ

11月16日(日)、青森県にUIターンした先輩のリアルな体験談を聞くイベント
「青森とわたしのこれから会議」が、内幸町にあるアンテナショップ
〈八戸都市圏交流プラザ 8base(エイトベース)〉で開催されました。
登壇した3名の女性のUIターン物語を紹介します。

次回は2026年1月24日(土)に開催予定。
申込フォームはこちら

転職してUターン。佐々木芽さんの場合

青森市にある建築会社〈日野建ホーム〉で働く佐々木芽さん

青森市にある建築会社〈日野建ホーム〉で働く佐々木芽さん。
中学までは弘前市、高校からは青森市で過ごした佐々木さんは、
高校卒業後、希望する学科へ進学するために上京しました。

2年間東京で学び、新卒で家電量販店に入社。約4年勤めたのちに転職し、
不動産掲載サイトの営業アシスタントと事務サポートとして働き始めます。

「転職後しばらくは幸福度が高かったのですが、
毎日、満員電車に揺られて通勤することに少しずつ嫌気がさしてきたんです。
自宅から職場まで片道1時間、往復で2時間。これが何十年も続くのか……? と」

転職から4年、佐々木さんが28歳くらいのときに移住を意識し始め、
約1年かけてUターンの準備をしました。
転職先は、県の就職情報サイトや大手の転職サイトから情報収集し、
接客と営業の経験を生かして地元の企業で働きたいとの思いから、
青森市の日野建ホームへ入社。現在はホームアドバイザーとして活躍しています。

これまで家電や不動産の仕事をしてきた佐々木さん。「住まいに関することに興味があるんです」(写真提供:佐々木芽)

これまで家電や不動産の仕事をしてきた佐々木さん。「住まいに関することに興味があるんです」(写真提供:佐々木芽)

自宅から車で約10分の場所に職場があり、
通勤は以前と比べるととても快適だと話す佐々木さん。
ごはんをつくったり、宅建の資格をとるための勉強をしたり、
自由に使える時間が増えたといいます。

「いまはお客さまのご要望を聞いて、理想の家づくりをアドバイスする仕事をしています。
『佐々木さんが担当してくれてよかった』と言っていただけたときはうれしかったですね。
東京では何千人もいる大きな企業に勤めていましたが、
いまは十数人の小さな会社なので、コミュニケーションもとりやすいです」

お客さんからいただいたという柿を、干し柿に。(写真提供:佐々木芽)

お客さんからいただいたという柿を、干し柿に。(写真提供:佐々木芽)

高校生のとき写真部だったという佐々木さん。カメラを片手に出かけることも。(写真提供:佐々木芽)

高校生のとき写真部だったという佐々木さん。カメラを片手に出かけることも。(写真提供:佐々木芽)

休日には、カフェ巡りをしたり、趣味のカメラを楽しんだり。

「私が高校生の頃にはなかったような、個人経営のおしゃれな飲食店や
イベントも増えています。SNSで調べて、休日に出かけるのも楽しみのひとつです」

佐々木さんは青森ライフを満喫しているようです。

横浜町の菜の花畑をバックに。(写真提供:佐々木芽)

横浜町の菜の花畑をバックに。(写真提供:佐々木芽)

フリーランスとしてUターン。栗本千尋さんの場合

フリーライターの栗本千尋さん

続いては、コロカルでもライターとして活躍するフリーライターの栗本千尋さん。
八戸市出身・在住で、Uターン後に3人目のお子さんを出産しています。

旅行系の専門学校に進学し、東京でのひとり暮らしを満喫。
その後、旅行会社や編集プロダクション、
映像関連会社での勤務を経てフリーライターに。
憧れていた雑誌の仕事もできるようになり、充実した生活を送っていましたが、
いつからUターンを意識するようになったのでしょうか。

「東京で同郷の人と結婚したので、いずれは地元に帰るのかな……と、
ぼんやり考えていました。
夫は渋谷の飲食店に勤めていて、いずれ独立したいと話していたのですが、
東京で店を持つことがイメージできず、地元でならできるんじゃないかと。
でも東京での暮らしは大好きだったので、なかなか踏み切れなかったですね」

28歳で第1子、30歳で第2子を出産し、生活は一変。
ぼんやりと考えていたことが現実味を帯びてきました。

「夫の帰りは深夜なので、当時はほぼワンオペ育児をしていて、
東京での子育てに限界を感じるようになりました。
電車やバスに乗るのにも周囲に気を使いますし、
ベビーカーで出かけてエレベーターを待っていて、何往復も見送った末、
両手に子どもとベビーカーを抱えて、泣きながら階段を駆け上がったことも……。
東京での子育ては、いつも謝っていたし、泣いていた気がします。
誰の目も気にする必要のない場所で暮らしたいと思うようになりました」

そうした経験を経て、第1子が小学校に上がるまでには地元へ帰ろうと、
期限を決めたそう。
地元へ帰ってから3年間は夫の実家で2世帯同居し、
その間に、3人目のお子さんも出産。

夏になると親戚で集まり、プールやバーベキューをするのが定番。「このときはプールがなかったのでタライに入れました(笑)」(写真提供:栗本千尋)

夏になると親戚で集まり、プールやバーベキューをするのが定番。「このときはプールがなかったのでタライに入れました(笑)」(写真提供:栗本千尋)

義母の両親が米農家だったため、田んぼで遊んだことも。(写真提供:栗本千尋)

義母の両親が米農家だったため、田んぼで遊んだことも。(写真提供:栗本千尋)

また、コロナ禍で予定より遅れたものの、
2024年には夫の迪(いたる)さんがビストロ〈NOMUU(ノムウ)〉をオープン。
築80年以上の中古物件を購入し、自宅兼店舗にしました。

DIYでリノベーションする様子(写真提供:栗本千尋)

写真提供:栗本千尋

「予算の都合で、床や壁、棚、キッチンに洗面台まで自分たちでDIYしました。
そのぶん愛着が湧いています。東京に住んだままだったら、
家を買ったりお店を出したりする想像すらできなかったので、
地元に戻ってきてよかったと思っています」

お店を出す夢や、自然と触れながらの子育てなどを、地元で叶えていました。

Iターンして起業。永井温子さんの場合

Iターンして起業した永井温子さん

最後は、Iターンして起業した永井温子さんです。

福島県郡山市出身の永井さんは、弘前大学への進学のため弘前市へ。
当初は「何もない」と思い込んでいたという永井さんですが、
徐々に弘前への印象が変化していきました。

「私の地元は福島県の郡山市で、明治維新のあとに大きくなった新しいまちなんです。
歴史的なまち並みや伝統工芸が少なかったので、
それらが豊富にある弘前に魅力を感じました」

大学卒業後は、新卒でフリーペーパーを発行する関東の企業に就職。
2年ほど勤めたのちに転職し、広告代理店の営業として食品メーカーなどを担当しました。

震災関係のシンポジウムに参加した際に、
地域おこし協力隊制度を活用したローカルベンチャー育成プロジェクト
〈Next Commons Lab(ネクストコモンズラボ)弘前〉のコーディネーターと出会い、
「いつか東北で自分の会社をつくりたい」という夢を叶えるため、
弘前への移住を考えるようになったといいます。

「このプロジェクトは一般的な協力隊のように
自治体の臨時職員として雇用されるのではなく、
業務委託契約で個人事業主として委託費をもらいます。
各隊員にパートナー企業が設定され、
アドバイスを受けながら事業をつくっていくというものです。
この制度を活用して、弘前へIターンすることにしました」

2ヘクタールの畑でりんごを栽培(写真提供:永井温子)

写真提供:永井温子

当時の永井さんのミッションは、りんご農家を増やすための事業をつくること。
最初の1年間はりんご畑を手伝ったり、商品開発のお手伝いをしたりしましたが、
その後は会社を立ち上げ、2ヘクタールほどの畑でりんごを育てて、
ジュースに加工しています。

永井さんが運営する〈ヒビノス林檎園〉のりんごジュースは、今回のイベントでも提供されました。特徴的なロゴのデザインも永井さんが自ら手がけています。

永井さんが運営する〈ヒビノス林檎園〉のりんごジュースは、今回のイベントでも提供されました。特徴的なロゴのデザインも永井さんが自ら手がけています。

休日に趣味である「スティールパン」(ドラム缶からつくられた打楽器)を、大自然をバックに演奏する永井さん。(写真提供:永井温子)

休日に趣味である「スティールパン」(ドラム缶からつくられた打楽器)を、大自然をバックに演奏する永井さん。(写真提供:永井温子)

永井さんは、津軽地域の郷土料理を伝える「津軽あかつきの会」にも所属。
なんとこの会がきっかけとなり、結婚したそう。

「『祝言料理の再現をしたいからモデルをしてくれないか』と声をかけられ、
当時つき合っていた夫に聞いたところ、快諾してくれました。
『でも、うちら籍入れてないね、祝言を上げるんだったら結婚しといたほうがいいね』
みたいな。順番が逆だったんですが、祝言料理のために入籍しました(笑)」

津軽あかつきの会での祝言料理の再現の様子。(photo:Shintaro Tsushima)

津軽あかつきの会での祝言料理の再現の様子。(photo:Shintaro Tsushima)

さらに、来年にはご両親が定年を迎えるため、
弘前に引っ越してくることも決まっているんだとか。
来年からの暮らしにワクワクしている様子の永井さんでした。

3つのテーマについてのクロストーク

それぞれのUIターンストーリーを聞いたあとは、
3つのテーマについてクロストークが繰り広げられました。

テーマ①「移住を決意するときの心境は? 決め手はなんでしたか?」

ファシリテーターを務めたのは、青森市出身のフリーアナウンサー、千葉真由佳さん。

ファシリテーターを務めたのは、青森市出身のフリーアナウンサー、千葉真由佳さん。

「社内に地方創生の広告を展開する部署があり、その取り組みを見るうちに
『地方で働くのもありかもしれない』と思うようになりました。
私はひとりっ子なので、いずれは両親の介護も視野に入れなくてはなりません。
将来の生活を考えたときに、地元のほうが、負担が少ないのではないかと思ったんです」
(佐々木さん)

「東京での子育てに限界を感じていたあるとき、
帰省中に八戸の中心街にある〈マチニワ〉の噴水で
子どもたちがずぶ濡れになって遊んでいました。
ひとりのおばあさんが近づいてきて注意されるかもしれないと身構えたのですが、
『拭くのもってらんだが?』とハンカチを差し出してくれたんです。
ここでは子育てすることが許されるんだと感じて移住を決意しました」(栗本さん)

八戸市の中心街にある〈マチニワ〉。最初は手足だけのつもりが、最終的にはずぶ濡れになりがち。(写真提供:栗本千尋)

八戸市の中心街にある〈マチニワ〉。最初は手足だけのつもりが、最終的にはずぶ濡れになりがち。(写真提供:栗本千尋)

「何かひとつが決め手になったわけではなく、いろいろな要因が重なり、
移住の流れに身を任せていったようなイメージです。
もともと、いずれ東北に戻りたいなと思っていたんですが、
そのきっかけは、東京から弘前へ戻ったとき、弘前駅のエスカレーターを降りながら
『あぁ帰ってきた』って思ったんですよね。故郷以外の場所で、
『帰ってきた』と思える場所ができたんだ、と実感しました」(永井さん)

テーマ②「移住する際の準備や情報収集などで役に立ったことは?」

「母に話したところ、市の広報誌から情報を集めてくれて、
就職活動のための交通費の助成があることを教えてくれました。
ほかにも青森県の移住関連のウェブサイトを見たり、有楽町の東京交通会館にある
〈青森暮らしサポートセンター〉で話を聞いたりしました」(佐々木さん)

「青森とわたしのこれから会議」クロストーク

「私も青森暮らしサポートセンターで相談にのってもらいました。
移住にまつわる情報をたくさんもらえたほか、
その後もメールでサポートしてくれたので心強かったです」(栗本さん)

「私は今日のような移住に関するイベントや、
地域おこし協力隊のイベントなどに参加するようにしていました。
そこで意気投合した人も弘前に移住していて、いまでも仲がいいです」(永井さん)

テーマ③「移住前の暮らしと、移住後の暮らしを比べてどうですか?」

「青森とわたしのこれから会議」クロストーク

「給与面は、5~6万円くらい下がるだろうなと覚悟していましたが、
前職と同じくらいのお給料をいただいています。
新車のローンと合わせても、東京で暮らしていた頃の家賃と同じくらい。
青森に帰ってきてからお金の使い方が変わり、
収支のバランスに納得感のある生活ができていると思います」(佐々木さん)

「ちょうど新型コロナウイルスの流行でリモート化が進んだので、
仕事は問題なく続けられています。東京にいた頃は、
子どもに対して叱ったりフォローしたりと、ひとり何役もしていたのですが、
八戸には子どもたちの祖父母もいるので、いろいろな役割から解放された気がします」
(栗本さん)

「青森とわたしのこれから会議」クロストーク

「まだ自分に役員報酬をたくさん払えないのでだいぶ収入は減りましたが、
あまりお金を使うタイプではないので、生活がガラッと変わったわけではありません。
弘前では4万円台の家賃で、6部屋もある一軒家に住んでいます。
物々交換の文化が残っているので、野菜農家さんから野菜をよくいただき、
代わりにりんごをお渡ししています」(永井さん)

ランチとスイーツで歓談

トークセッションのあとは、ランチとスイーツを食べながらの歓談タイム。
津軽鉄道のストーブ列車で食べられる「ストーブ弁当」をオマージュし、
会場となった8baseが、この日のために特別なランチボックスをつくってくれました。

青森のモチーフをちりばめたデザインに包まれたランチボックス、りんごジュースやシードルなど、青森ならではのドリンクが振る舞われました。

青森のモチーフをちりばめたデザインに包まれたランチボックス、りんごジュースやシードルなど、青森ならではのドリンクが振る舞われました。

八戸産の菊芋や、五戸町産のあべ鶏など、八戸圏域の食材を用いて特別につくられたメニュー。八戸の郷土料理であるせんべい汁もセットに。

八戸産の菊芋や、五戸町産のあべ鶏など、八戸圏域の食材を用いて特別につくられたメニュー。八戸の郷土料理であるせんべい汁もセットに。

楽しい歓談タイム。ゲストに話を聞いたり、参加者同士でもおしゃべりに花が咲いていました。

楽しい歓談タイム。ゲストに話を聞いたり、参加者同士でもおしゃべりに花が咲いていました。

参加者は青森県出身者をはじめ、パートナーが青森出身の方、
旅行で訪れてから青森が好きになり移住を考えている方、
年明けにはIターンすることを決めている方などさまざま。
自身の状況や移住後のことなどを、ゲストに相談していました。

「青森とわたしのこれから会議」ランチタイム

スイーツタイムに提供された、りんごのタルト。

スイーツタイムに提供された、りんごのタルト。

ランチとスイーツを楽しみながらの歓談を終えたあとは、
未来の自分への手紙や、アンケートを記入する時間が設けられました。

この日のために特別につくられた便箋と封筒。切手風シールも青森がモチーフ。

この日のために特別につくられた便箋と封筒。切手風シールも青森がモチーフ。

UIターンにかける思いをしたためた手紙は、
1か月後くらいを目処に自宅へ届くというサプライズの仕掛けが。
この時間を思い出しながら、あらためて考えるきっかけになるかもしれません。

イベントの参加者からは、次のような感想が寄せられました。

「東京では待機児童の問題もありますが、
青森では希望する保育園にすぐ入れると聞いて安心しました。
逆に、保育園に入れずに自然に触れながら育てることにも憧れます」

「イベントに参加したことで、青森へ移住しようと考えている仲間が
ほかにもこんなにいるんだなと知ることができて、心強く思いました」

みんなで記念撮影。

みんなで記念撮影。

第2回は、来年1月24日(土)、
赤坂の〈東北cafe&dining トレジオンポート〉にて開催されます。
申し込みは1月9日(金)まで。
当日はゲストや参加者同士だけではなく、移住相談窓口
〈青森暮らしサポートセンター〉の女性の相談員ともお話することができます。

いつか青森にUIターンしたいと考えている人は、参加してみては。
より具体的に未来が描ける機会になりそうです。

第2回のゲスト登壇者についてはこちらの記事で紹介しています。

information

青森とわたしのこれから会議

対象:青森県へのUIターンに関心のある女性

定員:各回20名(応募多数の場合は抽選)

参加費:無料(会場までの交通費等は自己負担)

問い合わせ:info(半角アットマーク)colocal.jp(「青森とわたしのこれから会議」事務局)

主催:青森県

イベント申込フォーム「青森とわたしのこれから会議」

 

第2回

日時:2026年1月24日(土)11:30~14:00(11:15受付)

場所:東北cafe&dining トレジオンポート(東京都港区赤坂3-12-18)

ゲスト:太田真季さん、冨岡未希さん、佐藤宣子さん

応募締め切り:2026年1月9日(金)23:59

 

【当日タイムスケジュール】

11:15 受付

11:30 オープニング

11:40 ゲスト紹介・クロストーク

12:20 ランチ交流タイム

13:00 スイーツ&お茶歓談タイム

13:40 クロージング

14:00 終了

※内容や時間配分が多少変わる可能性があります

青森へのUIターンに興味を持ったら「あおぐら」へ!

〈青森暮らしサポートセンター〉通称「あおぐら」

今回のイベントに限らず、青森県へのUIターンに興味を持ったら
〈青森暮らしサポートセンター〉、通称「あおぐら」へ。
東京交通会館の〈ふるさと回帰支援センター・東京〉内にある、
青森県の移住に関する総合相談窓口です。
青森での仕事や暮らし、各種移住イベントなどの情報を得ることができます。

information

map

青森暮らしサポートセンター

住所:東京都千代田区有楽町2-10-1 東京交通会館8F(ふるさと回帰支援センター・東京内)

Web:青森暮らしサポートセンター

斬新な白い雛人形〈白粋 HAKI〉。 ちりめん細工のバトンをつなぐ 〈京都夢み屋〉の挑戦

京都・丹後地方を中心につくられてきた「丹後ちりめん」を用いた
伝統的な手芸「ちりめん細工」。
その季節飾りなどを製造・販売する〈京都夢み屋〉を、
三菱UFJ銀行一宮支店の中島崇介さん、徳永智久さん、
三菱UFJアセットマネジメントの小西和宏さん、木本朱音さんが訪れました。
着物文化が先細りするなか、伝統産業の一翼を担う企業のあり方をともに考えます。

白くて“顔のない”お雛様が、なぜヒットしたのか

「ちりめん」とは、表面にシボと呼ばれる細かい凹凸のある織物のこと。
京都府では北部の丹後地方を中心に、「丹後ちりめん」という絹織物が
古くからつくられ、着物の生地などに愛用されてきました。

江戸時代の後半、宮中や武家の女性などが、着物の端切れを利用して
小物や人形をつくるようになったのが、「ちりめん細工」の始まりとされ、
残り布を大切にする精神が息づいた、日本の伝統的な手芸といえます。

京都市伏見区にある〈京都夢み屋〉は、ちりめん細工を中心とした季節飾り、
インテリア小物などを製造・販売する企業。
2025年7月に完成したばかりの新社屋には、工房のみならず
ショールームも併設されています。

「ここに並んでいるのは、基本的に自社ブランド商品ですが、
OEM(他社ブランドの製造)も合わせると、500を超えるアイテムを
京都の材料と手作業にこだわって製造しています」と代表取締役副社長の大森清美さん。

代表取締役副社長の大森清美さん。

代表取締役副社長の大森清美さん。

干支の置き物や雛人形、鯉のぼり、兜飾りなど四季折々の飾りものが並ぶなかで、
ひときわ異彩を放っているのが、白を基調とした雛人形や兜飾り。

「10年ほど前に誕生した〈白粋 HAKI〉というシリーズ(以下、HAKI)で、
夢み屋のターニングポイントになったアイテムです。
生地を白とベージュの2色に限定しているので、どんなインテリアにも馴染みますし、
スペースが限られている現代の住宅事情に合わせて、サイズも豊富に揃えています」

昨年販売をスタートした、重厚感のある〈白粋 HAKI 雛人形 奏〉。西陣織の光沢のある着物をまとい、鼻すじや耳をつくったのが特徴。

昨年販売をスタートした、重厚感のある〈白粋 HAKI 雛人形 奏〉。西陣織の光沢のある着物をまとい、鼻すじや耳をつくったのが特徴。

すっきりとミニマルに見えるのは、カラーリングのせいだけではありません。
HAKIのもうひとつの大きな特徴は、雛人形に目や口などの“顔がない”こと。

「お人形と目が合うと子どもが怖がるため、せっかく飾った雛人形を
後ろ向きにしている、という声から生まれたアイデアです」

〈白粋 HAKI 雛人形 奏〉の顔のないお雛様

いまでこそHAKIは、夢み屋の看板商品になっているものの、
発売当時はあまりにも斬新な発想だったゆえに、
「白装束を彷彿とさせる」などとネガティブな声も少なくなかったそう。

「3、4年は泣かず飛ばずの売れ行きだったのですが、
東京の大規模な展示会に出展したとき、
ベビー用品のECサイトを運営する会社が気に入ってくださったんです。
それから出産祝いを中心にターゲットが広がっていき、
徐々に認知されるようになりました」

製造企画部長の中村芳美さんは、節句飾りに対する意識や価値観の変化を指摘します。

「当初は顔がないことに賛否があったようですが、
すてきなお顔を思い思いに想像できるところが、いまでは人気の理由になっています。
兜飾りも従来は勇ましさが重視されてきたと思うのですが、
優しい男の子になってほしいと願う、近年の親御さんのイメージに合う雰囲気を
重視しています」

製造企画部長の中村芳美さん。

製造企画部長の中村芳美さん。

2025年に創業50周年を迎えた夢み屋。

「創業者の飯田景子はフラワーアレンジメントをたしなんでいて、
そのつながりで知り合った仲間と和小物をつくり始めたのが、そもそものスタートです。
当時は和雑貨という言葉もあまり一般的ではなかったようですが、
せっかくだから地元京都のちりめんを使おうと考えたようです」(大森さん)

最初にヒットした商品が、和装用のリボンにかんざしをつけたアクセサリー
「和装リボン」。その一方で、着物を着る人は年々少なくなっていたので、
洋装でも違和感なく身につけられて、
なおかつ若い人にも好まれるようなアクセサリーや和小物を展開し、
ちりめんや西陣織などにあまり馴染みのなかった若年層のファンを獲得していきます。

「最初は数百円の和小物が中心で、財布、巾着袋、エプロンなどと
人気商品を増やしていったのですが、同業他社も類似品を扱うように。
価格競争の激化から脱却するために始めたのが、
現在の流れをくむ季節の置き物でした」(大森さん)

これまでの和小物・和雑貨と比べると、季節の置き物はつくりが細かい分、
手数がかかるにもかかわらず、売れ筋となっていたのは千円前後の安価な商品でした。

「より高単価の商品にシフトすべくデザインを一新させて、
自社ブランドとして売り出したのが、HAKIシリーズだったのです」(大森さん)

西麻布のカルチャー拠点を南房総へ。 〈鴨川スーパーナチュラルデラックス〉 マイク・クベックさん

茅葺き屋根の古民家と蔵をイベントスペースに

2月某日の朝、ふらりと立ち寄った鴨川シーワールドは大いに賑わっていました。
この日は鴨川市民であれば無料で入館できるという、年に1度の優待日だったのです。

チケット売り場でそのことを知ったとき、
渋谷でイベントスペースの運営に携わっていた頃の感覚が急に蘇って
「そうそう、暦の上ではもっとも日数の少ない2月は
売り上げを立てるのが大変だから、集客で成り立っている場所はどこだって
お客さんに向けたさまざまな仕掛けを試みる月でもあるんだよなー」
などといやらしいことを考えてしまいました。
市政が始まった日を記念する太っ腹な周年イベントだということも知らずに……。

さて、鋸南町で暮らしている僕がどうして朝からこのあたりを散歩していたかというと、
この近くにある場所に前日から滞在し、
制作に関わったイベントを2日間にわたって開催していたからなのです。

鴨川シーワールドの前を走る国道「外房黒潮ライン」を横断し、
海岸防風林を抜けた先にある「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)」
というかっこいい名前の街道に沿って、
安房鴨川(あわかもがわ)駅方面に向かって少し歩けば、進行方向右側に
なんだか学校の校門を思わせるオールドスクールなスライド式鉄製門扉と、
その奥に広がる庭園風の空間が目に入ります。

南房総エリアではお馴染みのカナリーヤシの木を見上げつつ
その門の中に足を踏み入れ、花木や果樹や菜園がひしめくその敷地内を進んでいくと、
やがて眼前に立派な茅葺き屋根の建物と古い蔵が建ち並ぶ、
広場のような空間が姿を現します。

そう、ここが〈鴨川スーパーナチュラルデラックス〉。
この土地で明治期より酒造業を営んでいた家の母屋と蔵が残された広々とした敷地が、
2022年9月より、イベントやワークショップのための
新しいスペースとして生まれ変わったのです。

〈鴨川スーパーナチュラルデラックス〉の母屋(左)と蔵(右)。

〈鴨川スーパーナチュラルデラックス〉の母屋(左)と蔵(右)。

ライブ会場として使われることの多い蔵にかけられた暖簾には、デザインユニット〈生意気〉によるお馴染みの目玉ロゴが。目玉に口はないが、〈西麻布スーパーデラックス〉に思い出がある人には「お帰りなさい」と言う声が聞こえてくるのではないか。

ライブ会場として使われることの多い蔵にかけられた暖簾には、デザインユニット〈生意気〉によるお馴染みの目玉ロゴが。目玉に口はないが、〈西麻布スーパーデラックス〉に思い出がある人には「お帰りなさい」と言う声が聞こえてくるのではないか。

「極端にいえば、東京では1か月でやっていたことを
2年かけてまだやれてないくらいなんですよ。
昔のスケジュールを見ると1か月に30個のイベントをやっていたからね(笑)。
帰る時間に朝日を見るようなことが多かったし、
東京タワー越しに昇ってくる朝日を見ながら
“僕はこれから寝るんだけどね!”っていつも思ってたよね。

外房は朝日が昇るのが早いから、久しぶりに朝の時間を楽しめるというか、
海から上がってくる太陽を見て“これからまた1日が始まるんだ”っていう
新鮮な気持ちになれるんだよね。海の近くで暮らすことができるのはうれしい。
夜も、特に冬はめっちゃ星が見えるからね」と、
マイク・クベックさんは楽しそうに話します。

母屋にはバーカウンターが併設されていて、年季ものの梅ジュースや地域の食材を用いたナチュラルな飲み物を楽しめる。

母屋にはバーカウンターが併設されていて、年季ものの梅ジュースや地域の食材を用いたナチュラルな飲み物を楽しめる。

民間主体の地域福祉拠点 〈笹塚十号のいえ〉が目指す “屋根のある公園”のような居場所

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

第8回は、2024年度グッドデザイン賞を受賞した、
東京都渋谷区にある〈笹塚十号のいえ〉を訪ねた。

ここは、渋谷区の笹塚十号通り商店街にある元八百屋を活用し、
複数の民間団体が協働して運営する地域福祉拠点だ。
「屋根のある公園」をコンセプトに、
地域に暮らす人が自由に休憩ができる場を提供するほか、
地域団体の連携促進を目的に、福祉作業所の商品販売、フードパントリー、
生涯学習企画、学生ボランティアなどの活動拠点としても活用されている。

同プロジェクトの中心人物である戸所信貴さん
(一般社団法人〈TEN-SHIPアソシエーション〉代表理事)と、
左京泰明さん(一般社団法人TEN-SHIPアソシエーション理事兼、
一般社団法人〈マネージング・ノンプロフィット〉代表理事)のふたりから話を聞いた。

複数の非営利組織が維持管理費を分担し、都心に常設の活動拠点をつくった事業モデルと、
サービスの提供と享受、有料と無料の境界を取り払うことで、
目的がなくても立ち寄れる日常の居場所創出を通して、「準公共」の最新の意義を探る。

〈笹塚十号のいえ〉は京王線笹塚駅北口下車、徒歩約5分。笹塚十号通り商店街の真ん中にある元八百屋を活用。

〈笹塚十号のいえ〉は京王線笹塚駅北口下車、徒歩約5分。笹塚十号通り商店街の真ん中にある元八百屋を活用。

〈笹塚十号のいえ〉をつくった理由

矢島進二(以下、矢島): 最初に、戸所さんが
〈笹塚十号のいえ〉をつくるまでの話を聞かせてください。

戸所信貴さん(以下、戸所): 東京で店舗関連の建築設計・施工の会社に
勤めていましたが、群馬に住む父と母と祖母が要介護状態になったことがきっかけで、
福祉関連の活動を30歳のときに始めました。

老人ホームのケアワーカーをやり、その後、笹塚の地域包括支援センターに移り、
そこで多くの疑問に直面しました。公的サービスでは、必要だと思っても
余計なことはしてはいけないルールがたくさんあるのです。
サービス業として顧客への対応という面からみても不思議なことが多かったです。

例えば、家の中で動けなくなった方のサポートでは、玄関やベランダの掃除、
窓拭き、エアコンの掃除、衣替え、電球交換などはやってはいけない。
買い物も最寄りのスーパーに限定されるなど、
「してはいけないこと」が「していいこと」より多いのです。

地域包括支援センターに12年勤務し、最後はセンター長を務めましたが、
センター長として「これはしてはいけない」とスタッフに言う立場は、
心苦しいものがありました。

行政的には、公平性の問題や税金の使用という観点から、
最低限度のことに絞られてしまう。
地域的には、かつての「向こう三軒両隣」のような助け合いのつながりが希薄になり、
そこに大きな“隙間”が生まれてしまっています。

その隙間を埋めるために、一般社団法人〈TEN-SHIPアソシエーション〉を
立ち上げました。確実なニーズがあることはわかっていましたが、
具体的な方法を模索しているときに左京さんと出会いました。

一般社団法人〈TEN-SHIPアソシエーション〉代表理事の戸所信貴さん。「家族の要介護3人の暮らしを目の当たりにし、超高齢社会では介護者だけでは対応できない課題が多数あることを知り、思い切って退職」。笹塚十号のいえの2軒隣で「まちのお手伝いマネージャー」という活動もしている。

一般社団法人〈TEN-SHIPアソシエーション〉代表理事の戸所信貴さん。「家族の要介護3人の暮らしを目の当たりにし、超高齢社会では介護者だけでは対応できない課題が多数あることを知り、思い切って退職」。笹塚十号のいえの2軒隣で「まちのお手伝いマネージャー」という活動もしている。

矢島: 次に左京さんのプロフィールと戸所さんとの出会いを教えてください。

左京泰明さん(以下、左京): 2006年に特定非営利活動法人〈シブヤ大学〉を
立ち上げました。地域のNPOの方々から運営や企業との連携についての
相談を持ちかけられたことをきっかけに、NPOの経営支援に興味を持ち、
行政や企業とNPOの協働の仕組みづくりを行うために、
一般社団法人〈マネージング・ノンプロフィット〉を2017年に設立しました。

渋谷区の事業では、例えば「渋谷おとなりサンデー」という、渋谷で暮らし、働き、
学ぶ人々をつなぐ地域の交流事業を企画・実施しました。そこで戸所さんと出会い、
個人としてリスクをとってまで個人でお年寄りのサポートを始める理由を知り、
救うべき人を知る戸所さんの知見を、いかに継続的に発展できるかたちにするか、
という役割で参画することになりました。
戸所さんとは最初に社団設立の趣意書を一緒に作成しました。

メディアを通して語られる社会問題は表層的になりがちです。
戸所さんは日常の仕事を通じて、本当に困っている方々と数多く出会っています。
しかし行政の立場では、対応できないことが多すぎることがわかりました。

当初私は、行政サービスでカバーできていない“隙間”を埋めることが
必要だと考えていましたが、実は逆でした。行政が対応できているニーズはごく一部で、
ほとんどのニーズが満たされていないことを戸所さんから教わりました。

一般社団法人〈TEN-SHIPアソシエーション〉理事兼、一般社団法人〈マネージング・ノンプロフィット〉代表理事の左京泰明さん。2006年にNPO法人〈シブヤ大学〉を立ち上げ、14年間学長を務めたが、若い人たちに譲り、現在はNPOの経営支援や地域づくり活動を行っている。

一般社団法人〈TEN-SHIPアソシエーション〉理事兼、一般社団法人〈マネージング・ノンプロフィット〉代表理事の左京泰明さん。2006年にNPO法人〈シブヤ大学〉を立ち上げ、14年間学長を務めたが、若い人たちに譲り、現在はNPOの経営支援や地域づくり活動を行っている。

いま能登のためにできる支援。 思いを届け、人や文化をつなぐ 9つのプロジェクト

2024年元日に起きた能登半島地震から、早1年。
復旧・復興は少しずつ進んではいるものの、復旧業者やボランティアの不足、
さらには9月の豪雨で再び被災するなど、その歩みは決して順調とは言えません。
まだまだ支援が必要です。

支援したくても能登へ行くのはなかなか難しい……
そんなあなたに、「能登へ行かなくてもできる支援の方法」をご紹介します。

今回ピックアップしたのは、能登の人々の声を伝えたり、
文化の保護に尽力する9つのプロジェクト。
このままでは失われるかもしれない能登の豊かな文化を守り、
人から人へと“思い”をつないでいく活動を紹介。
離れた地からでも彼らを応援することは、きっと能登を支える力になるはずです。

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発災直後の気持ちを綴ったZINE『地震日記』

「揺れが収まったときには心が透明で、何も感じないような心になっていた。
ここに自分が生きているという感覚はなく、ちいさく震えていた」――。
能登半島地震発災から5日間の出来事や、心の動きをつぶさに記録した
鹿野桃香さんのZINE『地震日記』。避難先の金沢で手作業で製本した1冊から、
いまでは約1800冊が人の手に渡っている。

『地震日記 能登半島地震発災から五日間の記録』鹿野桃香 著。

『地震日記 能登半島地震発災から五日間の記録』鹿野桃香 著。

鹿野さんは2017年、奥能登国際芸術祭に携わるため石川県珠洲市に移住。
地域おこし協力隊などを経て珠洲市での暮らしにすっかり馴染んでいた。
そこに起きた2024年元日の地震。

「日常のなかで地震が起き、人生がひっくり返るように変わりました。
自分のなかでこんなに大きな出来事があったのに、
避難先の金沢ではみんなが普通に生活していた。
そういった、経験している人としていない人に起きる意識の“違い”を
少しでも埋めたいと思い、私の経験を声に出していこうと思いました」
と鹿野さんは語る。

日記には、鹿野さんが撮影した珠洲市の風景も載せられている。

日記には、鹿野さんが撮影した珠洲市の風景も載せられている。

鹿野さんは『地震日記』の販売や朗読会を通じて、能登の現状を伝え続けている。
春にはこの1年を記録した続編の出版を目指す。

「東日本大震災からもうすぐ14年が経ちますが、
やっと自分の家に住めたという話も聞きました。
きっと能登も、これから長い道のりが待っている。
ありのままの出来事や葛藤を記録に残し、日記というかたちで
より身近に珠洲を感じてもらい、伝えられたらと考えています」

『地震日記』の売り上げは、増刷と、
能登半島地震や珠洲市に関するイベント企画などに充てられる予定。

information

地震日記

Web:Kano momoka

東京と能登を往復し、能登の声を集めた『あれから1年』展

東京・墨田区の銭湯〈電気湯〉で、能登の声を集めた『あれから1年』展が開かれている。
主催するのは、東京都出身・在住の浅見風さん。
能登半島地震発災後は3月から毎月、珠洲市や輪島市でボランティアに参加し、
東京で仲間と支援金を集め、また能登へと戻る。

浅見風さん。『あれから1年』展が開かれる〈電気湯〉前にて。

浅見風さん。『あれから1年』展が開かれる〈電気湯〉前にて。

これまでに東京・清澄白河と東村山で2度の展示を行い、
能登の現状を東京に届けてきた浅見さんだが、
『あれから1年』展では、能登の暮らしや日常を届けたいという。
SNSで能登に住む人や出身者から話を募り、
取材チームが能登へ行き、話を聞いて回った。

能登に行ったことがないけれど、インタビューのテープ起こしをしながら
行きたくなるメンバーもいる。展示の準備をしながら、能登へ思いを馳せる人も。
浅見さんを中心に、思いがつながっていく。

銭湯の浴槽に貼り出された能登の風景と、能登の声。

銭湯の浴槽に貼り出された能登の風景と、能登の声。

会場は、下町の日常の場である銭湯。
待合室や脱衣所、シャワーの上、浴槽など、いたる所に、風景写真や文章が貼られている。
震災前後のさまざまなカットが水平線でつなげられた展示は圧巻だ。
「湯に浸かりながら、能登の人が綴った文や写真を見てほしい」と浅見さん。

いつもの銭湯で、ご近所さんと何気ない会話をするように。
展示は2025年1月31日まで。

information

map

『あれから1年』展

会期:2025年1月5日(日)~1月31日(金)

会場:電気湯(東京都墨田区京島3-10-10)

営業時間:15:00~24:00(最終受付23:30)※日曜 朝風呂8:00〜12:00

定休日:土曜

入浴料:大人550円、小学生200円、乳幼児100円

Instagram:@mikikisurunoto

輪島塗を未来につないでいく。 塗師・赤木明登さんがつくる器と 輪島の景色

いち早く動いた「小さな木地屋さんプロジェクト」

2024年12月21日から26日まで、東京・西麻布にある器と工芸のギャラリー〈桃居〉で、
輪島塗の塗師(ぬし)・赤木明登さんの新作「合鹿椀(ごうろくわん)」の
展示受注会が開かれた。
赤木さんは工芸に関心のある人なら知らない人はいないほどの人気作家で、
この合鹿椀も、店頭での直売分とオンラインでの受注分、
合わせて130個がほぼ初日に完売してしまった。

輪島市の中心部から車で20分ほどのところに工房を構える。

輪島市の中心部から車で20分ほどのところに工房を構える。

合鹿椀は能登に古くから伝わる椀で、一度は途絶えたものの、
1970年代にふたたび注目されるようになったという。
今回の合鹿椀受注会は「小さな木地屋さんプロジェクト×赤木明登」と銘打たれており、
売り上げは「小さな木地屋さん」存続のための資金となる。

その「小さな木地屋さん」とは、赤木さんの椀木地を挽いていた木地師のうち
最高齢だった86歳の池下満雄さんのこと。
2024年元日に起きた能登半島地震のあと、赤木さんがいち早く再建に動いたのが
この「小さな木地屋さん」だった。

輪島塗をはじめ、漆器づくりは基本的に分業制で、
いろいろな専門の職人の手を経てつくられていく。
木地師は漆器のベースとなる木地をつくるという最初の工程を担い、
とても重要な仕事だが、従来、工賃が安いという問題があった。
そのため継ぐ人がなかなかおらず、担い手は減る一方。

木地師だけでなく、どんどん職人がいなくなり、このままでは産地が成り立たなくなる、
なんとかしなくてはと赤木さんが常々思っていたところに、地震が起きた。

元日、赤木さんは群馬県の温泉で休暇を過ごしていたが、
4日になんとか輪島の自宅兼工房へ戻ってきた。
幸い大きな被害はなく、6日に輪島の中心地まで行き、
池下さんの工房を見に行くと、建物はほぼ全壊で池下さんはいなかった。

近所の人に聞くと、池下さんは地震直後、工房の前に呆然と座り込んでいたのだという。
津波がくるから逃げるように促されてもそこを動こうとせず、2日間座り込み、
3日目についに意識を失って病院へ搬送されたそうだ。

「そのときの池下さんの胸中を想像するに、
“71年間ここで職人をやってきて、最後がこれか”と絶望したんじゃないか。
その絶望した状態のまま死なせられないと思って、まずここを再建しようと決めました」

赤木明登さん。自宅兼工房は被害は少なかったが、金沢に2次避難し、4月に輪島に戻って来た。

赤木明登さん。自宅兼工房は被害は少なかったが、金沢に2次避難し、4月に輪島に戻って来た。

能登・和倉温泉の復興を まちづくりとともに考える。 多田健太郎さんが描く未来

いち早く復興に動いた和倉温泉

1200年の歴史があるといわれる、能登半島最大の温泉地、七尾市の和倉温泉。
七尾湾に面して旅館が立ち並ぶが、2024年元日の能登半島地震で
護岸が崩壊するなど甚大な被害を受け、21軒ある旅館のうち、
12月現在で営業再開できた旅館はわずか4軒にとどまる。

「最初の1か月くらいは生きるということで必死でした」

そう話すのは、明治18年創業の旅館〈多田屋〉6代目の多田健太郎さん。
多田屋もほかの多くの旅館と同じく営業再開のめどは立っていないが、
多田さんは多田屋の再建と並行して、
「和倉温泉創造的復興まちづくり推進協議会」の代表も務め、
和倉温泉の復興に奔走する日々を送っている。

〈多田屋〉代表取締役社長の多田健太郎さん。ウェブメディア『能登つづり』で能登の魅力を発信するなどの活動は、コロカルでも2015年に記事で紹介した。

〈多田屋〉代表取締役社長の多田健太郎さん。ウェブメディア『能登つづり』で能登の魅力を発信するなどの活動は、コロカルでも2015年に記事で紹介した

元日、多田屋には120名余りの宿泊客がいた。
地震が起きてから全員の無事を確認し、まず客を避難させた。
周辺の旅館からも観光客が避難したため、避難所となった小学校は
受け入れ可能な人数のおよそ5倍の2000人もの人であふれたという。

なんとかひと晩を過ごし、客は全員無事帰ることができたが、
「本来なら旅館が避難所にならないといけない。
その役目が果たせなかったのがショックでした」と多田さんは振り返る。

現在の多田屋は1972年に建てられたため、旧耐震基準の建物。
館内は段差ができてしまったり、ひびが入ってしまった場所、
壁が剥がれたところもあり、損傷は大きい。

全体が広く複数の建物が入り組んだ構造で、
詳細な調査をしたうえで使える部分と解体すべき部分を
見極めることにしているが、その調査にも時間がかかるという。
能登全域がそのような状態にあるのだから無理もないが、その分、復興が遅れてしまう。
それでも応急措置で済ますのではなく、
きちんと安全性を担保して再開したいと多田さんは考えている。

館内には段差ができてしまった箇所も。揺れの大きさを物語っている。

館内には段差ができてしまった箇所も。揺れの大きさを物語っている。

個々の旅館の復旧のめどが立たないなか、和倉温泉ではいち早く復興に向け動きだした。
能登の復興の鍵を握るのは、やはり人を呼ぶことができる温泉だ。
そこで2040年に向けた「和倉温泉創造的復興ビジョン」策定のため、
次代を担う若手経営者によるワーキング委員会が発足。
多田さんはその委員長に任命された。

これまで和倉温泉では、70代以上の経営者たちがまちづくりを牽引してきたが、
多田さんは自分たちがビジョンを策定するのであれば、
実行までやらせてほしいと訴え、承認を得た。

備品を保管してあった部屋。壁が剥がれてしまっていた。

備品を保管してあった部屋。壁が剥がれてしまっていた。

2月8日に第1回会議が開かれ、数回の討議を重ね、
アドバイザーからのアドバイスも受けながら、2月29日に復興ビジョンを発表。
その後、ビジョンを具体的なまちづくりの計画に落とし込むため、
策定会議を引き継ぐかたちで、委員会が
「和倉温泉創造的復興まちづくり推進協議会」となり、
多田さんはその代表を務めている。

奥能登国際芸術祭がつないだ縁。 〈サポートスズ〉と 〈奥能登珠洲ヤッサープロジェクト〉

芸術祭がきっかけとなり移住

能登半島の最北端に位置し、能登半島地震の甚大な被害を受けた珠洲市。
それまで珠洲という地名を知らなかった人も多いかもしれないが、
アートに関心のある人たちには知られていた。
2017年から珠洲市を舞台に〈奥能登国際芸術祭〉が開かれていたからだ。

「さいはての地に最先端の美術を」と始まった芸術祭は
3年に1度開催するトリエンナーレ形式で、
2020年はコロナ禍のため翌年開催となったが、2023年までに3回開催された。
芸術祭を訪れ、アートだけでなく、その圧倒的な自然や美しい里山里海の風景、
そして巨大な行燈の山車が引き回されるキリコ祭りなど独特の文化に触れ、
この地に魅了された人は多い。筆者もそのひとりだ。

2017年の芸術祭から常設されているトビアス・レーベルガー『Something Else is Possible/なにか他にできる』。この作品は被害はほとんどなかった。

2017年の芸術祭から常設されているトビアス・レーベルガー『Something Else is Possible/なにか他にできる』。この作品は被害はほとんどなかった。

双眼鏡をのぞくと、看板の「Something Else is Possible」という文字が見える。いま見ると何か別の意味を帯びてくるようにも感じられる。

双眼鏡をのぞくと、看板の「Something Else is Possible」という文字が見える。いま見ると何か別の意味を帯びてくるようにも感じられる。

芸術祭を機に、珠洲に移り住んだ若者たちもいる。
芸術祭実行委員会とともに運営に関わる仕事をしたり、
会期後も作品のメンテナンスなどをする一般社団法人〈サポートスズ〉の一員である
小菅杏樹さんと西海一紗さんも、2022年に珠洲に移住してきた。

小菅さんは、2021年の芸術祭「奥能登国際芸術祭2020+」で
実行委員会事務局で活動していた姉を訪ねて珠洲に遊びにくるうち、
自身も芸術祭に関わりたいと移住。
西海さんは東京で働いていたが、違う場所で暮らしたいと思っていたときに
サポートスズの求人を見つけ、面接のため訪れたのが初めての珠洲だった。
そのときに「ビビッときた」そうで、面接にも合格して移住してきたのだという。

2022年に珠洲に移住してきた〈サポートスズ〉の小菅杏樹さん(左)と西海一紗さん(右)。

2022年に珠洲に移住してきた〈サポートスズ〉の小菅杏樹さん(左)と西海一紗さん(右)。

それからは芸術祭の準備で忙しい日々を送り、
2023年9月23日から11月12日まで開催された芸術祭を駆け抜け、
会期後も後処理などであっという間に年の瀬を迎えたところに、地震が起きた。

元日、西海さんは珠洲にいた。たまたま友人の家にいたが、自分の家は全壊。
1月10日に珠洲を出て、金沢から小松空港へ向かい、北海道の実家へ。
それから3月までは実家で過ごした。

小菅さんは実家の奈良にいたが、珠洲に置いてきた猫の様子を見るため
地震からまもなく珠洲を訪れると、地域の人たちが猫を保護してくれていた。
猫を救出していったん奈良に戻り、3月は新潟県の越後妻有〈大地の芸術祭〉の
運営チームであるNPO法人〈越後妻有里山協働機構〉に1か月間出向したという。

傾いたままの電柱はあちこちに見られる。

傾いたままの電柱はあちこちに見られる。

周囲の人たちも被災し、この先どうなるかわからず、不安と混乱の日々が続いたが、
東京ではいち早く、芸術祭の総合ディレクターを務める北川フラムさんが
〈奥能登珠洲ヤッサープロジェクト〉を発足。

「ヤッサー」は珠洲のお祭りで使われる掛け声。
芸術祭で生まれた縁を大事にしながら復興の力となるため動き始め、
芸術祭の作品制作を担う〈アートフロントギャラリー〉のスタッフが
毎週のように珠洲を訪れ、地域の手伝いや作品の状況を確認していったという。

「あわぶっく市」と南房総エリアで 人と本が出合う機会をつくる。 前田浩彦さん

オルタナティブな遊び場「夜の音楽鑑賞会」

南房総エリアに暮らす人々は日常的にそれなりの距離を移動します。
そりゃそうでしょ、車社会なんだから……と言われると元も子もないのですが、
特に週末になれば大抵どこかのまちでマルシェが開かれていますし、
南房総エリアに点在するユニークなお店や場所も週末中心の営業だったりするので、
皆さん、仕事のない日こそ、より活発に動き回っているのではないでしょうか。

オールインワン、つまりひとつの場所にすべてが揃っているということが
決して当たり前ではない環境だからこそ、
必要なものはとにかく自分で取りにいくというライフスタイル。
新参者の自分にとっても1時間を超える車の運転はまったく苦にならないどころか、
むしろ南房総エリアを起点とする自分専用の移動ルートを
カスタムしていくようなおもしろさを日々感じています。

とはいえ、当然ながら僕がそんな南房総流の動き方を初っ端からできていたはずもなく、
コツを掴むまでにはやはりそれなりの時間を要しましたが、
僕の脳内マップの面積とアイデアの振り幅は、
あるカフェで開催されていたイベントに参加したことがきっかけとなり、
さらに広がることとなりました。

僕が住んでいる内房の鋸南町と外房の鴨川市を横一文字に結ぶ長狭(ながさ)街道、
その起点として知られる横渚(よこすか)交差点の角に建つ雑居ビル内に
〈カフェ・カルトーラ〉があります。
ここでは2か月に1度、日曜の夜に「夜の音楽鑑賞会」が開かれています。

その内容は至ってシンプルで、それぞれが持参した2曲を参加者全員で聴くというもの。
ただしルールがひとつだけあって、毎回設けられているテーマに沿って
選曲するということ。
例えばある回のテーマは「地名」で、18名の参加者によって選ばれた
さまざまな地域にまつわる音楽が全36曲、リレー形式でかけられました。

弦楽トリオ〈ショーロクラブ〉の新作CDを手に、イベントの告知をする店主の卜部一(うらべはじめ)さん。カルトーラでは時々ライブも行われている。

弦楽トリオ〈ショーロクラブ〉の新作CDを手に、イベントの告知をする店主の卜部一(うらべはじめ)さん。カルトーラでは時々ライブも行われている。

The Lounge Lizards『I Remember Coney Island』、
馬喰町バンド『わたしたち』、SANTANA『They All Went To Mexico』、
北島三郎『風雪ながれ旅』、Caetano Veloso『Sampa』、
宇多田ヒカル『Somewhere Near Marseilles~マルセイユ辺り』、
Europa『Black Magic』……といった具合に、
選曲された音楽のジャンルも年代もバラバラで、
音源の再生メディアもCD、レコード、カセット、スマホと何でもあり。

僕は渚ようこ『新小岩から亀戸へ』と
中井昭・高橋勝 とコロラティーノ『思案橋ブルース』を持って行きました
(偶然ですが、帰宅後にこの日が渚さんの命日だったということに気づいて
とても驚きました)。

自分の好きな音楽を聴くためにライブハウスやクラブへ遊びに行く。
DJを頼まれたからレコード屋をはしごしながら選曲について考える。
それは都市部ならではの音楽との出合い方だといえますが、
この音楽鑑賞会は音楽に触れられる機会の少ない南房総エリアだからこそ、
音楽好きたちによってつくられたオルタナティブな遊び場なのです。

同じ音楽を好きな人たちだけが集まっているわけではありませんし、
地元育ちの人も移住者も参加していて、
なんというか特定のコミュニティには見られない風通しの良さが感じられます。

また僕のように鴨川市外からの参加者も多く、
こちらの人たちが自分のまちに閉じこもることなく
南房総エリア全域で遊んでいるという感覚を共有できたことが、
自分にとって重要な出来事だったのでした。

瀬戸〈中外陶園〉 働き方改革と新しいデザインで 進化する招き猫

「せともの」のまち愛知県瀬戸市で、招き猫や干支置物など、
縁起置物や季節飾りを製造してきた〈中外陶園〉。

三菱UFJ銀行東支店の伊藤大知さん、堀紗緒理さん、
三菱UFJニコスの中村直幹さんが、その工房や〈招き猫ミュージアム〉、
体験型複合施設〈STUDIO 894〉を見学。
伝統を受け継ぎながら、新しいプロダクトやものづくりの環境に
さまざまな改革を起こしてきた、4代目社長の鈴木康浩さんにお話をうかがいました。

複雑な立体を生み出せる、瀬戸の土

中世から現代まで生産が続く焼きものの産地、六古窯(ろっこよう)。
愛知県瀬戸市を中心に生産される瀬戸焼は、その六古窯のひとつとして
約千年もの歴史を紡いできました。陶磁器全般を指す「せともの」という言葉が、
瀬戸の焼きものに由来していることも、瀬戸焼の歴史の古さや影響力を物語っています。

「焼きものには陶器と磁器がありますが、両方を焼ける産地は全国でも瀬戸くらいです」
と説明するのは、〈中外陶園〉の鈴木康浩社長。

ふたつの大きな違いは、原料。
陶器は「土もの」と呼ばれ、粘土が主な原料なのに対して、
「石もの」の磁器は長石や珪石、粘土を用い、それぞれ製法も異なります。

1952年に創業した中外陶園は、陶器と磁器の両方を製造していますが、
「せともの」としてよく知られる食器ではなく、
招き猫や干支の飾りのような置物に特化したものづくりを行っています。

江戸時代末期に江戸で誕生したといわれる招き猫は、日本ならではの縁起物。
瀬戸で量産されるようになり、いまなお中外陶園の主力アイテムです。
どこか懐かしく愛らしい佇まいの〈瀬戸まねき猫〉や、
〈BEAMS〉とコラボしたオレンジ色のまねき猫、
「シンプル」と「新しさ」を追求し、表情さえも削ぎ落とした〈SETOMANEKI〉など、
ユニークなラインナップを展開しています。

技法やスタイルを受け継ぎ新たにブランド化した〈瀬戸まねき猫〉。

技法やスタイルを受け継ぎ新たにブランド化した〈瀬戸まねき猫〉。

現代的でスタイリッシュなデザインが特徴の〈SETOMANEKI〉。

現代的でスタイリッシュなデザインが特徴の〈SETOMANEKI〉。

組紐を未来につなぐ 〈龍工房〉の守りと攻めの ものづくり

飛鳥時代に伝来し、時代とともに用途が移り変わってきた組紐。
その製造を糸づくりから一貫して行う東京・日本橋の〈龍工房〉を、
三菱UFJ銀行神田駅前支店の中澤正浩さん、大久保優さん、
アコムの勝村知里さん、福本花音さんが訪れました。
「江戸の粋は進化する」を体現する福田隆さん、隆太さん親子の“守りと攻め”が、
組紐の未来を切り拓きます。

一貫して手がけるから可能なこだわり

組紐とは文字通り、複数の糸を組むことでつくりあげる伝統工芸。
その歴史は非常に古く、仏教の伝来とともに日本に伝わり、
平安時代には独自の技法が確立したと考えられています。
伸縮性にすぐれ、結びやすくほどけにくい特性に用の美を兼ね備えており、
経巻の紐や茶道具、武具甲冑など、時代に寄り添って用いられてきました。

現在は主に着物の帯締めに使われていますが、着物離れが進み、
多くの人にとって馴染みが薄いものになってしまっているのも事実。

そんななか東京・日本橋の〈龍工房〉は、伝統を守りつつ、
現代のライフスタイルに沿った組紐のあり方を探求している革新的な工房です。
1889年に家業として創業し、現在は4代目の福田隆さんと
息子の隆太さんがその伝統を受け継いでいます。

〈龍工房〉の桐箪笥の中には、これまでにつくられてきた組紐がたくさん。

〈龍工房〉の桐箪笥の中には、これまでにつくられてきた組紐がたくさん。

「もともとは職人集団で、群馬県の農家さんとともに、養蚕から糸づくり、
デザイン、染め、組み、そしてデパートや呉服店などに納めるまでを
50人ほどで一貫して行っているため、お客様の細かな要望にお答えすることが可能です」

4代目の福田隆さん。

4代目の福田隆さん。

こう説明する隆さんは、厚生労働省が表彰する「現代の名工」や、
黄綬褒章を受章している、日本屈指の組紐職人。
その帯締めは皇族をはじめ、歌舞伎界や茶道界からも愛されており、
正倉院宝物殿や中尊寺金色堂の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)公の棺に入っていた
古代紐の研究・復元にも取り組んでいます。

隆さんが復元に携わった古代紐。右は中尊寺金色堂に伝わる古代紐のひとつ。

隆さんが復元に携わった古代紐。右は中尊寺金色堂に伝わる古代紐のひとつ。

一方、息子の隆太さんは、先代からの技術を磨きながら、進化した組紐の可能性を探り、
さまざまな企業やアーティストとコラボレーション。
レディー・ガガのヒールレスシューズを代表作に持つ、
現代美術家の舘鼻則孝さんとつくった〈KUMIHIMO Heelless Shoes〉は、
ロンドンの〈ヴィクトリア&アルバート博物館〉に収蔵されています。

舘鼻則孝さんとのコラボレーションにより生まれた〈KUMIHIMO Heelless Shoes〉。(NORITAKA TATEHANA & EDO TOKYO KIRARI PROJECT, Photo by GION)

舘鼻則孝さんとのコラボレーションにより生まれた〈KUMIHIMO Heelless Shoes〉。(NORITAKA TATEHANA & EDO TOKYO KIRARI PROJECT, Photo by GION)

前橋市〈馬場川通り アーバンデザインプロジェクト〉 川と遊歩道と道路を一体でデザイン

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

今回は、2024年度グッドデザイン・ベスト100を受賞した、
群馬県前橋市の〈馬場川通りアーバンデザインプロジェクト〉を訪ねた。

前橋は、〈白井屋ホテル〉を藤本壮介さん、
〈まえばしガレリア〉を平田晃久さん、
〈しののめ信用金庫〉を宮崎晃吉さん、
ほかにも永山祐子さん、長坂常さん、高濱史子さんら著名建築家が市内中心部で
次々に意欲的なプロジェクトを行うことで、現在最も耳目を集めているまちだ。

その要因は、「前橋アーバンデザイン」というまちづくりの明確な指針があり、
そしてそれを実現する個々の建築と、それらをつなぎ、
まちのアイデンティティにもなる質の高い公共空間によるもの。
そうした視点で有効に機能しているのが、馬場川通りの再整備だ。

このプロジェクトは、単なる景観整備にとどまらず、
官と民が前例のないスキームで連携し、市民の力を結集させた
新しい都市再生の取り組みといえよう。

同プロジェクトの中心人物である
〈前橋デザインコミッション〉企画局長兼事務局長の日下田伸さんと、
〈ランドスケープ・プラス〉代表取締役の平賀達也さんに話を聞いた。

多くの地方都市同様、中心市街地の衰退に悩まされてきた前橋が、
どのような仕組みとプロセスで社会実装に成功したかを、
馬場川通りアーバンデザインプロジェクトを通して検証し、
「準公共」の最新の役割を探る。

「蓋がされていた川を開き、人と水の近さをデザインしました。バブルの頃の補助金で、クラシックなガス灯や、花壇などができたのですが、デザインコードがなく、ハチャメチャな状況でした。それを『レンガと緑と水』をデザインの骨格に据えて再整備しました」と平賀さん。

「蓋がされていた川を開き、人と水の近さをデザインしました。バブルの頃の補助金で、クラシックなガス灯や、花壇などができたのですが、デザインコードがなく、ハチャメチャな状況でした。それを『レンガと緑と水』をデザインの骨格に据えて再整備しました」と平賀さん。

民間の寄付で行う公共工事

矢島進二(以下、矢島): 「馬場川(ばばっかわ)通り」とは、
前橋中央通り商店街と〈アーツ前橋〉を結ぶ
幅員12メートル、距離約200メートルの通りの名称ですが、
最初に〈馬場川通りアーバンデザインプロジェクト〉の特徴を教えてください。

日下田伸(以下、日下田):  このプロジェクトは、2024年春にできた
前橋中心市街地の再生事業で、遊歩道公園、準用河川、道路、公衆トイレなどからなる
公共工事なのですが、地元の有志による資金で行い、
地域の団体による活動で管理運営を担っているのが最大の特徴です。

そして、かつての生活基盤であった水路のつながりを生かし、
グリーンインフラやウォーカブルな社会に資する環境基盤に再編し、
前橋の新たな拠点をデザインしたものです。

〈前橋デザインコミッション〉企画局長兼事務局長の日下田伸さん。以前は〈星野リゾート〉や〈東横イン〉、医療法人、環境ベンチャーなどで主に事業再生を手がけてきた経験をもとに、いまは「まちの再生」に取り組んでいる。

〈前橋デザインコミッション〉企画局長兼事務局長の日下田伸さん。以前は〈星野リゾート〉や〈東横イン〉、医療法人、環境ベンチャーなどで主に事業再生を手がけてきた経験をもとに、いまは「まちの再生」に取り組んでいる。

矢島: このプロジェクトが始まった背景について教えてください。

日下田: 前橋の中心部は県庁所在地のわりに、寂しいと言われていました。
昭和50年代の終わり頃は、メインストリートの週末の通行量が約2万人だったのが、
バブルの頃は車社会化が進んで1.5万人に、
2005年頃には2000人を切るまで落ち込みました。

いわゆるシャッター商店街をテーマにする報道があると、よくここの商店街が登場します。
ただ、テナント需要がないのではなくて、
実際は貸すのが面倒だから空いているところが多いですね。

日本の賃貸借契約は借り手に強くできているので、固定資産が下がっているいま、
人に貸すより物置にしていたほうがいいと思っているオーナーが多いのです。
そういう空気を変える活動も私たちはやっています。

南房総エリアでカルチャーは可能? 渋谷区から鋸南町に移住した筆者が いま考えていること

撮影:江田晃一

あの夜、〈YANE TATEYAMA〉で起こったこと

西陽が眩しいコンクリート打ちっぱなしの
だだっ広い部屋の其処彼処に置かれたソファ席のひとつを陣取って、
僕はいまこれを書いています。
ここは房総半島の最南端にある館山のまち。
僕が活動の拠点を東京より南房総エリアへと移してから、
すでに1年半が過ぎようとしています。

〈YANE TATEYAMA〉と名づけられたこの3階建ての古いビルの中には、
書店、カフェ、ジビエレザー工房、イタリア料理屋といった店舗が、
階の上下あるいは同じフロア内でシームレスに連なり合っていて、
最上階にはなんとホテルが。
ビル内では時折イベントやワークショップが行われていたりもして、
さながら宿泊機能を兼ね備えた小さな複合文化施設のよう。

写真提供:YANE TATEYAMA

写真提供:YANE TATEYAMA

〈YANE TATEYAMA〉の2階。カフェや書店の利用者がくつろぐサロンのような空間。(写真提供:YANE TATEYAMA)

〈YANE TATEYAMA〉の2階。カフェや書店の利用者がくつろぐサロンのような空間。(写真提供:YANE TATEYAMA)

しかしこのビルは、駅前から徒歩5分以内という好立地にありながら、
つい最近まで廃墟同然の空き家でした。

〈北条文庫〉の店内。“土着”と“土発”がテーマだというだけあって、この南房総地域ならではのレア本も。(写真提供:YANE TATEYAMA)

〈北条文庫〉の店内。“土着”と“土発”がテーマだというだけあって、この南房総地域ならではのレア本も。(写真提供:YANE TATEYAMA)

YANE TATEYAMAの地上階にある、今年オープンしたばかりの書店〈北条文庫〉では、
これまでに2度の映画上映会が開催されています。

最初の上映会は僕も企画段階から協力し、『Caravan to the Future』を上映。
日本、フランス、アフリカの3拠点を行き来しながら活動している、
ジャーナリストで作家のデコート豊崎アリサさんが、
ラクダにまたがってサハラ砂漠を征くトゥアレグ族の
長く過酷な行商の旅を記録したドキュメンタリー映画です。

アリサさんはこの映画が初めて日本で上映された頃からの友人なのですが、
郷土史とアートと旅をテーマに本を揃えている北条文庫と
この映画の相性は抜群ですし、また偶然にも彼女の日本滞在と
北条文庫のオープンの時期が重なったということもあって、
この上映会が実現する運びとなりました。

監督のデコート豊崎アリサさん(左)と筆者。(写真提供:YANE TATEYAMA)

監督のデコート豊崎アリサさん(左)と筆者。(写真提供:YANE TATEYAMA)

ふだん見慣れているはずのまちの風景の一部が変化したことへの
地元の人々の関心と期待の高まりが相まってか、
この上映会は平日夜の開催であったにもかかわらず、
予約受付を始めてからたった2日で申込数が定員に達し、
僕たちは座席の数を増やす工夫や新たな駐車場の確保などに追われることに。
たかだか30人程度の人数を集めるだけでも大騒ぎです。

当日にドタキャンするお客さんはひとりもおらず、
上映後のトークショーで設けたQ&Aコーナーでは
お客さんからのアリサさんへの質問が途切れることなく続き、
終了予定時間を大幅に延長することとなりました。

これが、少なくとも僕のような人間にとってどれだけ画期的な出来事だったことか。
というのも、僕はこの房総の地に、これまで自分が続けてきた仕事や生活の
“先”を求めてやってきた人間だからです。

『Caravan to the Future』上映会当日の様子。(写真提供:YANE TATEYAMA)

『Caravan to the Future』上映会当日の様子。(写真提供:YANE TATEYAMA)

久留米絣を世界へ! 〈藍染絣工房〉と〈IKI LUCA〉が 切り開く、絣の新しい可能性

愛媛県の伊予絣(かすり)、広島県の備後絣とともに、
日本三大絣のひとつとされる福岡県の久留米絣。

その伝統を受け継ぐ〈藍染絣工房〉を、
久留米絣を用いたブランド〈IKI LUCA(イキルカ)〉の小倉知子さんとともに、
三菱UFJモルガン・スタンレー証券福岡支店の田中鈴音さん、矢原寛人さん、
三菱UFJフィナンシャル・グループ経営企画部の糸川佳孝さんが訪問。
久留米絣を世界へ、そして現代のライフスタイルへつなぐ方法を模索します。

手づくりと量産、共存してこそ成り立つ産地

福岡県南部の久留米市を中心とする筑後地方で
伝統的につくられてきた藍染めの綿織物、久留米絣。
糸の段階で染め分けて柄を織りなす先染めの織物です。

広川町にある〈藍染絣工房〉を訪れると、
織り上がった藍色の反物が青空の下にはためいていました。
1891年創業のこの工房は現在、4代目の山村健(たけし)さんと
5代目の山村研介さんが親子で営んでいます。

「私にとってこの工房は、藍染めの冒険が始まった場所なんです。
偶然ですが、研介さんと私は同い年。
隣町同士、筑後川の水で育ったので、妙に親近感が湧くんですよね(笑)」
と元気よく話すのは、久留米絣を100%使用したファッションブランド
〈IKI LUCA〉の代表を務める、久留米市荒木町出身の小倉知子さん。
金融業界から転身した、異色の経歴の持ち主です。

〈IKI LUCA〉の小倉知子さん。この日着ているのも同ブランドの服。

〈IKI LUCA〉の小倉知子さん。この日着ているのも同ブランドの服。

制作現場を見せてもらう前に、まずは久留米絣の歴史や特徴を
研介さんと小倉さんが説明してくれました。

「久留米絣は、1800年頃に井上伝という
当時12~13歳の少女が考案したと伝えられています。
着古した着物のかすれた部分に注目して、生地をほどいてみると、
藍染めの糸がところどころ白くなっていたんです。
そこから逆算して、糸に最初から白い部分をつくって織り上げたら、
模様ができるのではないかと考えたのです」(研介さん)

最初に作成する図案。黒く塗りつぶされているところに括りを入れる。出来上がりは、この部分が白くなる。

最初に作成する図案。黒く塗りつぶされているところに括りを入れる。出来上がりは、この部分が白くなる。

筑後地方には、九州最大の河川であり、日本三大暴れ川のひとつで
「筑紫次郎」の異名を持つ筑後川が流れ、
肥沃な大地では綿花や藍の栽培が盛んに行われていました。
そんな綿織物の産地で、久留米絣を発案した井上伝は、
やがて1000人もの弟子を抱えるほどに。
西南戦争の際は、官軍兵士が土産として久留米絣を持ち帰り、全国に広まっていきます。

同じ柄だが、左は新品で、右は40年着ている生地。「藍染めには青い成分以外に、アクと呼ばれる不純物が入っていて、繰り返し洗ううちにそれが抜けることで色が冴えてくるんです」(研介さん)

同じ柄だが、左は新品で、右は40年着ている生地。「藍染めには青い成分以外に、アクと呼ばれる不純物が入っていて、繰り返し洗ううちにそれが抜けることで色が冴えてくるんです」(研介さん)

「基本的には普段着の生地に用いられていたのですが、
当時の着物はほとんどが無地や縞、格子。
久留米絣ように柄の入った着物は革新的だったようです」(研介さん)

〈藍染絣工房〉4代目の山村健さん(左)と5代目の研介さん(右)。

〈藍染絣工房〉4代目の山村健さん(左)と5代目の研介さん(右)。

おしゃれな日常着として一世を風靡した久留米絣。
その歴史に驚きつつ、MUFGの糸川さんが質問をします。

「つくるのに手間も時間もかかったと思うのですが、
普段着のわりに高価格にはならなかったのでしょうか?」

「最盛期の戦前は、年間200万反も生産していたそうですが、
色や柄のバリエーションは少なく、効率重視で簡単につくっていました。
戦後は洋装化に伴い生産量が減り、デザインは逆に複雑化していきます」(研介さん)

白い部分が多いほど括りが多くなるので、そのぶん手間がかかる。細かなグラデーションも表現。

白い部分が多いほど括りが多くなるので、そのぶん手間がかかる。細かなグラデーションも表現。

生産量は現在も年々減っていて、10年ほど前は30軒あった織元が
20軒ほどになっているといいます。

「現代の久留米絣は、うちのような藍染め・手織りの織元と、
化学染料・機械織りのところの、2パターンに大きく分けられます」(研介さん)

IKI LUCAの生地は藍染絣工房ではなく、八女市の〈下川織物〉で織られたものですが、
そのようにさまざまな織元がいるのもこの産地の魅力。

「私が履いているこの赤いスカートは、IKI LUCAの最初のアイテムで、
化学染料で赤に染めた糸を機械織りした生地でつくっています。
無地の絣ですが、IKI LUCAでは、敢えてシンプルな
無地や縞の生地を使用した服を展開することで、
いままでアプローチできなかった層にも久留米絣が広がっていけばいいな、
という思いと狙いがあります。

なので、そういった生地をつくる工房に行くと、色とりどりの反物が置いてあって、
こことはまた異なる雰囲気ですよ」(小倉さん)

すると、MUFGの田中さんからも質問が。

「山村さんの工房のように昔ながらの伝統的なつくり方をしている方たちは、
化学染料・機械織りの久留米絣に対して、
どういう思いを持っていらっしゃるのでしょう?」

「価格的に手に取りやすいものと、昔ながらのもの、
両方あることが産地の強みだと思っています。
自分たちのような工房だけなら、おそらく産地として存続できていなかったと思うので、
このふたつがあって現在の久留米絣ということができるでしょう」(研介さん)

〈盛岡バスセンター〉 閉鎖されたバス発着拠点を 地域のハブとして再生

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

第6回は、2023年度グッドデザインを受賞した、
岩手県の〈盛岡バスセンター〉を訪ねた。

盛岡バスセンターは、1960年から半世紀以上、
市民のインフラとして親しまれていた民間施設。

建物の老朽化が進み、建て替えを計画したが、
東日本大震災の影響による建設資材の高騰の影響もあり、
再整備の目途が立たず2016年に閉鎖。
盛岡市はバスターミナル機能を維持するため、土地を先行取得し、
2022年10月に民間主導の公民連携事業として復活させた。

新バスセンターは、バスターミナル機能に加え、
盛岡ならではの食を楽しむことができるフードホール、
ホテル、スパなどの商業施設を一体で整備した。

お話を聞いたのは、運営を行う〈盛岡ローカルハブ〉企画部長の小笠原康則さんと、
このプロジェクトのアドバイザーである〈オガール〉代表取締役の岡崎正信さん。

少子高齢化や物流の「2024年問題」など大きな課題があるなか、
盛岡市が民間と一体となり、市民が希求する公共施設のスキームを再構築し、
賑わいを取り戻した事例から「準公共」の役割を探る。

〈盛岡ローカルハブ〉企画部長の小笠原康則さん(右)と〈オガール〉代表取締役の岡崎正信さん(左)。

〈盛岡ローカルハブ〉企画部長の小笠原康則さん(右)と〈オガール〉代表取締役の岡崎正信さん(左)。

盛岡初の民間主導の公民連携事業

矢島進二(以下、矢島): ここには長年、市民に親しまれていた
バスターミナルがあったのですね?

小笠原康則(以下、小笠原): はい、ここは1960年に
日本初のバスターミナルとして開業し、
2016年までの56年間、盛岡におけるバスの発着拠点でした。

盛岡市のバスの拠点は、盛岡駅前と、
市内の河南地区にあるこのバスセンターのふたつあり、
駅前は主に市の北部に、バスセンターは主に南部への路線と、すみ分けされていました。
両者は約2キロ離れていて、この区間が中心市街地となっており、
両者を結ぶバスの便数が多いのが盛岡市の公共バス交通の特徴となっています。

小笠原さんは〈盛岡地域交流センター〉の営業企画部特命部長兼ローカルハブ事業課長も兼務している。

小笠原さんは〈盛岡地域交流センター〉の営業企画部特命部長兼ローカルハブ事業課長も兼務している。

矢島: 旧バスセンターは、バス乗り場だけだったのですか?

小笠原: いえ、旧バスセンターにも商業テナントが多数入っていて、
日常的に賑わっていました。大食堂や甘味店、理髪店などがあり、
屋上にはデパートの遊園地のようなレジャー施設もあったそうです。

矢島: 昭和のレトロ感があったのでしょう。
それが8年前に閉じてしまったのですね。
それだけ市民に親しまれていたのであれば、閉鎖する必要はなかったのではないですか?

岡崎正信(以下、岡崎): 旧バスセンターは公共施設ではなく、
完全な民間施設でした。その民間企業が、建物の老朽化に伴い再整備を計画したものの
資金的に難しくなり、やむを得ず閉鎖したものと認識しています。
あくまで私が知る範囲ですが、市民に親しまれていたことと、
経営とは相関関係はないと思います。賑わいがあったからこそ、
経営的にも成り立たせる運営をしっかりやらなくてはいけなかったのです。

岩手県紫波町で公民連携によるプロジェクトを成功させた、オガール代表取締役の岡崎さん。

岩手県紫波町で公民連携によるプロジェクトを成功させた、オガール代表取締役の岡崎さん。

小笠原: 公共交通の拠点が廃止になるということで、
利便性の面から存続を希望する市民の声が大きかったです。
また、まちの活性化、賑わいの喪失という点でも非常に危惧され、
行政にとっても大きな課題でした。

矢島: それで、行政としても動かざるを得なくなり、
閉鎖した翌年の2017年にこの土地を盛岡市が取得したのですね。
市はよく判断しましたね。

岡崎: 逆に言えば、買わなかったらもっと大変な状況になっていたはずです。

建物は東棟と西棟がL字型で連結し、1階はバス乗り場、待合室、マルシェ。2階はフードホール、子育て支援センター。3階はホテル、スパ・サウナなどで構成。

建物は東棟と西棟がL字型で連結し、1階はバス乗り場、待合室、マルシェ。2階はフードホール、子育て支援センター。3階はホテル、スパ・サウナなどで構成。

矢島: バスセンターが復活するまでの経緯を簡単に教えてください。

小笠原: 盛岡市は、土地の取得後、新バスセンターの整備に向けて
さまざまな調査を行い、2018年に「整備事業基本方針」を策定しました。
その際に、バスセンターには賑わい機能も併設すべきということになり、
私が現在所属する〈盛岡地域交流センター〉が「市の代理人」に指定され、
公民連携で事業を進める方針が示されたのです。

そして、2019年に「基本計画」、2020年に「事業計画書」が策定され、
それに伴い、同センターが出資し、バスセンターを整備し運営する
特別目的会社〈盛岡ローカルハブ〉を設立し、
2022年秋に民間主導の公民連携事業として復活したのです。

矢島: 公民連携は、当時の市長のアイデアだったのですか?

岡崎: 正確にはわかりませんが、バスの拠点としての再生は
市の事業としてできるけれど、賑わいを生み出すことは市が主体では難しい、
民間と一緒にやらないとうまくいかない、という自己分析をしたのだと思います。
それは極めて真っ当な発想だと思います。

矢島: バスセンター以前に、盛岡で公民連携での開発事例はあったのですか?

小笠原: なかったので、盛岡初の公民連携事業になります。

“食”で団地の可能性を拓く 〈「団地キッチン」田島〉。 団地管理会社によるコミュニティ施設

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

第5回は、2023年度グッドデザインを受賞した、
埼玉県のJR西浦和駅前にあるコミュニティ型複合施設
〈「団地キッチン」田島〉を訪ねた。

お話を聞いたのは、「“食”や“本”を通じたコミュニティ拠点の運営」でも
グッドデザイン・ベスト100を受賞した〈日本総合住生活(JS)〉の
住生活事業計画部の中野瑞子さんと、上野雅佐和さんのおふたり。

「団地キッチン」田島は、コミュニティ形成を目的として、
銀行の支店跡地を、カフェ・シェアキッチン・ブルワリーに改装し、
2022年8月にできた複合施設だ。テーマを「食」に絞ることで、
多様な属性を持つ市民の日常生活の延長線上にありながら、
サードプレイス的な場に育っている。

団地の存在価値が変わらざるを得ない状況のなか、その先行的な取り組みを通じて、
今後、団地及び地域社会に求められる「準公共」の役割を探る。

〈「団地キッチン」田島〉は、JR西浦和改札から徒歩2分、田島団地の入口に位置する。(写真提供:JS)

〈「団地キッチン」田島〉は、JR西浦和改札から徒歩2分、田島団地の入口に位置する。(写真提供:JS)

食のプロジェクトを田島団地からスタートした理由

矢島進二(以下、矢島): ここは、JR西浦和駅の近くの
「さいたま市桜区」ですが、なぜ食のプロジェクトを
この田島団地からスタートしたのですか?

中野瑞子(以下、中野): まずは立地です。
団地は駅に近いものは少なく、バスを使うところが多いのです。
飲食系の施設は、やはり駅から近くないと不利ですので。

そして、西浦和駅周辺のまちづくりに関する基本合意を
市とUR都市機構が結んでいることと、
UR田島団地にて団地再生事業が進められていること、
さらにURグループである当社の技術研究所が近くにあることもここに決まった要因です。

「浦和」の名がつく駅は全部で8つあるのですが、
ほかと比べ西浦和駅周辺は特徴があまりないといわれているなか、
“食”に着目すれば、魅力を出せると考えました。
食には地域の歴史が反映されるので、食材や料理の仕方なども
地域の魅力を伝える機会になると、コンセプトをまとめていくなかで見えてきました。

ここのステートメントは「いえの味をまちの味へ」です。
家の中で閉じられていたものをまちに開き、自分たちで育て、
結果まち自体を育てていくことを目指しています。

〈日本総合住生活〉住生活事業計画部の中野瑞子さん。建築系の出身で、都市計画やまちづくり、農村計画を学び、学び直しをした際はコミュニティを研究した。

〈日本総合住生活〉住生活事業計画部の中野瑞子さん。建築系の出身で、都市計画やまちづくり、農村計画を学び、学び直しをした際はコミュニティを研究した。

矢島: それで“住”の専門組織であるJSが、“食”にチャレンジしたのですね。

上野雅佐和(以下、上野): はい。まずは誰もが気軽に立ち寄れるカフェを
2022年8月末にオープンしました。
次はつくり手にフォーカスしたかったので、
はやり始めてきたシェアキッチンを検討しました。

シェアキッチンは、ルールづくりがかなり大変で、
厳密にしすぎてしまうとコミュニティ拠点としては機能しないという悩みを抱えながら、
年明けの2023年にオープンしました。正直、いまでも運用は試行錯誤の連続です。

さらに、自分たち自らがつくり、ここから発信する機能も必要だと考え、
ブルワリー(地ビール醸造所)も加えました。
こうして、シェアキッチン・カフェ・ブルワリーの3機能を融合した
ユニークな施設「団地キッチン」田島ができました。

上野雅佐和さん。サブゼネコンを経てJSに。「最初の仕事がキッチンカーの設計で驚きましたが、まさか私がビールをつくることになるとは、夢にも思いませんでした」と笑う。

上野雅佐和さん。サブゼネコンを経てJSに。「最初の仕事がキッチンカーの設計で驚きましたが、まさか私がビールをつくることになるとは、夢にも思いませんでした」と笑う。

東長崎のコーヒー店〈MIA MIA〉に 多くの人が集まる理由。 まちの新たなコモニング拠点とは

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

第4回は、2023年度グッドデザイン・ベスト100を受賞した、
豊島区のベッドタウン東長崎の駅前にあるコーヒー店
〈MIA MIA(マイアマイア)〉を訪ね、
オーナーのアリソン理恵さんとヴォーンさんのおふたりに話を聞いた。

デザインといっても、スタイリッシュで斬新なインテリアのカフェでもなく、
流行りのコワーキングスペースでもなく、いわゆるサードプレイスでもない、
不思議な佇まいの小さなまちのコーヒー店だ。

オープンしてちょうど4年となるが、懐かしくて居心地が良く、
世界中から集まる多くのお客さんでいつもにぎわう、
まちのコモニング拠点に育っている。

行政による公民館ではないが、なぜかパブリック性と界隈性を感じるMIA MIAから、
「準公共」の新たなスタイルと役割を探る。

日本にはないコーヒー店を始める

矢島進二(以下、矢島): おふたりはどこで出会ったのですか?

アリソン理恵(以下、理恵): ヴォーンとは学生時代に半年インターンした
オーストラリアのメルボルンで出会いました。

ヴォーン: ライブハウスで会ってひと目惚れしたのです。

理恵: 帰国するときに、ヴォーンを連れて来ました。
行きはひとり、帰りはふたりで(笑)。
ヴォーンは日本に来て、英語の講師やモデル、音楽プロモーターなど、
いまでもいろいろ好きなことをやっています。
特にコーヒーが大好きで、コーヒーに関するブログを続けていました。

完全に趣味なのに、締め切りを決め、フォトグラファーに撮影してもらうとか、
ロゴを毎月デザインするとか、日英2か国の記事を書き続けていたのです。
そうしたら、コーヒーを紹介するメディアの立ち上げや、雑誌のコーディネーター、
インタビュー、さらにカフェのアドバイスなど、趣味が徐々に仕事になってきました。

私は帰国後、設計事務所で働き、2015年に友人と共同で
建築設計事務所〈teco〉を設立しました。
福祉施設関連の設計を数多く手がけさせていただいたのですが、
子育てしながらだったこともあり、2019年に過労で倒れてしまいました。

それでまず休むことにして、家族でメルボルンに帰りました。
その際に、これからどう生きていくのかをふたりで話し合い、
メルボルンにあるようなコーヒー屋を一緒に東京で始めたらどうかな? 
ということになったのです。

メルボルンの市民は、1日に何度もコーヒー屋に行き、
コーヒー屋が情報とネットワークのハブになっています。
ガイドブックやネットで検索するより、
コーヒー屋で聞くのが一番いい情報が得られることを知り、
「こういう場所が日本にあるといいよね」と話して、物件を探し始めました。

一級建築士事務所〈ara〉アリソン理恵さんと、モデル活動や音楽プロモーターなど多彩な活動をしているヴォーンさん。現在ふたりは全国のファミリーマートで展開されている「コンビニエンスウェア」のモデルでもある。

一級建築士事務所〈ara〉のアリソン理恵さんと、モデル活動や音楽プロモーターなど多彩な活動をしているヴォーンさん。現在ふたりは全国のファミリーマートで展開されている「コンビニエンスウェア」のモデルでもある。

矢島: どのようにしてこの物件と出合ったのですか?

理恵: 偶然、魅力的な賃貸物件だけを集めた不動産紹介サイト
『DIYP』で見つけました。写真をみてカワイイと思い、
すぐに東長崎に来てまちなかを歩いたら、すごくいいなと。
都心でありながら人の営みが見えて、こんな便利な商店街が残っているのに驚きました。

ヴォーン: 東長崎はまったく知らないまちでしたが、ひと目惚れしました。
なんかチャーミングで一瞬で気に入りました。

矢島: 大家さんはどんな方で、借りるにあたって条件はあったのですか。

理恵: 私たちと同世代で、ずっとこのエリアに住み続けている方です。
自分の子どもが産まれ、昔と比べて元気がなくなったので、
親としてこのまちを盛り上げたいと思っていらして、
「地域を盛り上げてくれる人」と「面談して決める」が条件だったのです! 
私たちも大家さんに会って決めたいと思っていたので、
もうこれは運命だな、完璧だ、とふたりで声を上げました。

矢島: ヴォーンさんは、日本で1000店以上のコーヒー店を巡ったそうですが、
見本となるお店はあったのですか?

ヴォーン: 日本には参考になる店が少ないですね。
少ないというか、ないのです。

理恵: その理由は、おそらく日本では「ターゲット」や
「マーケティング」という考え方が浸透しすぎているからだと思います。
そうするとデザインも障壁になります。
「◯◯風」にデザインしてしまうと、それ以外の人が入りにくくなりますし、
マーケティングが先鋭化するあまり、排除される方も出てしまうのです。

メニューにしても、コーヒーに詳しくないと
オーダーもしづらかったりする店がありますよね……。
かと思えば、コミュニティが強すぎて、敷居が高く、入りにくいお店も多いです。

矢島: 昔の「喫茶店」の時代はどうだったのでしょうか。

ヴォーン: 昔の喫茶店は、すごくいいところがあったのですが、
いまは個人の店はすごく少なくなって、みんなチェーン店に変わってしまいました。
コンビニや自動販売機のようなコーヒー屋が多くなり、
カルチャーを生むような店はありません。オーストラリアやヨーロッパは、
個人経営で個性のある店が多数あって、それがまちのインフラになっています。

理恵: チェーン店と個人店の両方あったら、
個人店にお金払いたい、というのがオーストラリア人の気質です。
顔の見える人にお金を払うと、自分たちの周辺に回ってくるのが見えやすいけれど、
チェーン店で払ったお金は、どこに行くかわかりませんよね。
メルボルンでは、そうしたことに敏感な人が多いのです。

〈MIA MIA〉とは、オーストラリアの先住民の言葉で、家族や友人、通りがかった人などが集うシェルターとして建てられた小屋という意味。

〈MIA MIA〉とは、オーストラリアの先住民の言葉で、家族や友人、通りがかった人などが集うシェルターとして建てられた小屋という意味。

若手職人の育成から生まれた ヒット商品〈あかいりんご〉。 南部鉄器〈タヤマスタジオ〉の挑戦

南部鉄器では珍しい、つるんとした丸いフォルムが特徴的な〈あかいりんご〉。
今回は、この商品を生み出した岩手県盛岡市にある南部鉄器の工房〈タヤマスタジオ〉を、
三菱UFJ銀行仙台支店の久保誠一郎さん、真野和樹さん、
三菱UFJフィナンシャル・グループ経営企画部の松井恵梨さんが訪問。

業界では革新的な職人の育成方法を実践し、
現代のライフスタイルに馴染む鉄瓶のあり方を提案する、
代表の田山貴紘さんにお話をうかがいました。

“変える”ことは、現状を否定するプロセスでもある

岩手県を代表する伝統工芸品、南部鉄器。

「広い意味では、盛岡藩主の南部氏が盛岡城とともに城下町を建設する際、
生活の道具として職人に鋳物をつくらせたのが始まりといわれています。
諸説あるのですが1625年に始まり、来年で400年になります」

盛岡市で南部鉄器の工房〈タヤマスタジオ〉を営む田山貴紘さんは、
南部鉄器についてこう説明します。

〈タヤマスタジオ〉代表・田山貴紘さん。

〈タヤマスタジオ〉代表・田山貴紘さん。

狭義には、昭和49(1974)年にできた「伝産法」
(伝統的工芸品産業の振興に関する法律)によって、
材料などが詳細に定められているほか、
商標を持つ南部鉄器協同組合に加盟する事業者がつくったもの、とも。

400年もの歴史を有する伝統工芸品と聞くと、格式高そうな気がしてしまいますが、
盛岡市中央公園内にある工房はモダンな佇まい。
働いている職人も20代、30代がメインで、
一般的な伝統工芸のイメージとかけ離れています。

田山さんがこの道に入ったのは、30歳になる年。
それ以前は、関東で理系の大学院を卒業し、
健康食品メーカーの営業として全国を飛び回る日々を送っていました。

20代後半になって、自分が本当にやりたいことを考えるようになり、
東日本大震災が大きなきっかけとなってUターン。
そして南部鉄器の職人で、2018年には「現代の名工」として
厚生労働大臣から表彰を受けている、父の田山和康さんに師事します。

鉄を流し込むための鋳型をつくる工程。粗い砂から細かい砂へと何層も重ねていく。

鉄を流し込むための鋳型をつくる工程。粗い砂から細かい砂へと何層も重ねていく。

「2013年1月から修業を始めて、
その年の11月にタヤマスタジオ株式会社を設立したのですが、
修業中の身なので起業のことは黙っていたんです。
父親はのちのちメディアを通して知ることになるのですが、
『おまえ、何やってるんだ』と怒られました(笑)。

会社をつくったのは、いろんなチャレンジをしたかったからなのですが、
言い換えると“変える”ということなのかもしれません。
何かを変える行為には、現状を否定するプロセスがどうしても入ってきますが、
そのために職人をいちいち説得するのは、おそらく相当手間がかかる。
自分で責任を持ってやるほうが早いだろうと思ったので、
実績を出して納得してもらおうと考えての決断でした」

まち歩きに干物づくり体験も。 地元愛あふれる地域サポートチームと 巡る「熱海ソウルフードツアー」

地域活性サポーターが紹介、熱海のおいしい“推し”を巡る

東京駅から東海道新幹線で約40分。
古くから別荘地やビーチリゾートとして栄えてきた熱海は、
関東周辺に暮らす人々にとってなじみ深い観光地だ。
旅館や観光ホテルが立ち並ぶ温泉地でもあり、おこもり旅が定番だが
「実は、まち歩きが楽しい」と、地域を知る人は言う。

地元に愛される新旧の名店巡りに、鮮魚店に教わる干物づくり体験など、
知られざる熱海を楽しむツアーが、2024年1月20日に開催された。
題して「地域活性ビジネスアドバイザーと巡る、熱海のソウルフード実食ツアー」
(以下、「熱海ソウルフードツアー」)。地域の食を支える老舗食材店を巡り、
「暮らす人の目線」で熱海の魅力を再発見するのが目的だ。

この「熱海ソウルフードツアー」は、
“旅を介して、地域の活性化や人々の交流に貢献する”ことを目指す
〈NICHER TRAVEL(ニッチャートラベル)〉が主催する旅のひとつ。

ニッチャートラベルは、旅行会社の〈阪急交通社〉と
ナビゲーションサービス〈ナビタイム〉が2022年にスタートさせた共同プロジェクトで、
「愛する地元を盛り上げたい」と願う地域の人々と一緒に、
新しい旅の提案を行っている。

これまでDJのMUROさんと巡る渋谷レコードショップツアーや、
写真家の平野太呂さんと行く渋谷フォトセッションツアーなど、
ユニークなツアーを催行してきた。
三重県松坂市で実施された「松坂偏愛ツアー」の模様は、コロカルでもレポートしている。

今回、「熱海ソウルフードツアー」を企画し、当日のガイド役も務めたのは、
熱海市役所の産業支援窓口〈A-supo(エーサポ)〉で活動する
茨木彩夏さんと高原すずかさん。
市内の事業者や起業希望者をサポートし、地域活性を支えている。

熱海愛あふれる〈A-supo〉のふたり。左が熱海出身・在住の茨木彩夏さん、右が新幹線で週2日熱海に通う高原すずかさん。

熱海愛あふれる〈A-supo〉のふたり。左が熱海出身・在住の茨木彩夏さん、右が新幹線で週2日熱海に通う高原すずかさん。

高度経済成長期に急成長した観光地・熱海は、バブル経済崩壊後、衰退の一途をたどり、
2006年は市が財政危機宣言をするほどの落ち込みを見せた。
が、近年、企業などの再開発により、活気を取り戻しつつある。
あまりに有名な観光地ゆえ、その栄枯盛衰ばかりが語られるが、
地域の人々が“暮らす熱海”と、旅人をつなげるのが目的だ。

観光客が集中する熱海銀座商店街。駅周辺と熱海銀座以外のエリアの集客も現在の課題だ。

観光客が集中する熱海銀座商店街。駅周辺と熱海銀座以外のエリアの集客も現在の課題だ。

ツアーの集合場所は、〈熱海魚市場〉。
海から少し離れた、まちなかにある珍しい魚市場で、創業から80余年の歴史を持つ。
ふだんは仲買人しか入れない場所だが、この日はツアーの会場として特別に開かれ、
カラフルな大漁旗が参加者を出迎えた。

和室の集会所に集まり、アイスブレイク。
エーサポのふたりから、コースの説明や各店の魅力が熱く語られ、
期待値がぐっと高まる。続いて15人の参加者の自己紹介。
東京近郊のみならず、長野や大阪など各地から集まった参加者の中には、
ニッチャートラベルのリピーターも数組。
男女混合、40代から70代と年齢層も幅広いチームが1日の旅を共にすることとなった。

アイスブレイク。ツアーのテーマや訪問先の魅力をエーサポのふたりが熱く語る。

アイスブレイク。ツアーのテーマや訪問先の魅力をエーサポのふたりが熱く語る。

プログラムは以下。
まずは地元に愛される4軒の個人商店訪問を軸に、まちなかを散策。
次に、熱海鮮魚市場で、干物づくり体験。
そのあとは、でき上がった干物や漁師鍋をメインに、
各自、散策中に買ったもので食卓を囲む交流会が予定されている。

神戸〈東遊園地〉 “幸せな風景”をデザインし 人が集まる公園に

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

第3回は、現代のパブリック・パークのあり方として高く評価され、
2023年度グッドデザイン・ベスト100を受賞した、神戸市の〈東遊園地〉。
このプロジェクトを発意し、実現させた
〈リバーワークス〉の村上豪英さんに話を聞いた。

「砂漠のように」寂しかった公園を、
村上さんが8年間、行政と対話を続け、社会実験を重ねながら、
神戸市民にとっての「幸せな風景」にデザインしたプロジェクトだ。

市が長年管理していた公園を、Park-PFIを活用しながら、
民間人がどうやってパブリック性とプライベート性を見事に融合させ、
まさに「準公共」と呼べる理想的な市民のための公園に生まれ変わらせたかを探る。

建設業はまちに貢献できる仕事

矢島進二(以下、矢島): 昨晩(2023年10月29日)は、
公園内で「ナイトピクニック」という恒例のイベントを開催したそうですが、
いかがでしたか?

村上豪英(以下、村上): 満月だったからか、
予想をはるかに超える人たちが来てくださいました。
今年の夏は猛暑で、ようやく気候もよくなったこともあり、
初めて来園する方も多く、隙間がないくらい多くの市民で賑わいました。
とてもうれしい反面、新しい課題も見つかりました。

矢島: そうだったのですね。まず、村上さんの経歴を教えてください。

村上: 私は1972年に神戸で生まれ、子どもの頃からずっと自然が好きでした。
京都大学大学院で「生態学」を勉強し、卒業後は三和銀行系のシンクタンクに入社し、
自治体の政策づくりのサポートなどをしていました。
その後、〈村上工務店〉へ転職し、現在は代表取締役社長をやっています。

〈リバーワークス〉代表の村上豪英さん。「社会実験をしていた頃はいつも、スーツじゃなくてパーカーかTシャツを着ていました。公園はリラックスするための場所なので、服装から気をつけていたのです」

〈リバーワークス〉代表の村上豪英さん。2003年にリバーワークスを設立し、社会実験「アーバンピクニック」の企画運営をしてきたほか、神戸のまちと関わるさまざまなプレイスメイキングプロジェクトに参画。「社会実験をしていた頃はいつも、スーツじゃなくてパーカーかTシャツを着ていました。公園はリラックスするための場所なので、服装から気をつけていたのです」

村上: 村上工務店は建設会社で、マンションなどを建てる
地域のゼネコンのひとつです。
子どもの頃は建築にはあまり関心を持っていなかったのですが、
大学4回生の終わり間際、1995年1月に阪神・淡路大震災が起きたのです。

粉々になってしまったまちが再生されていく姿を目にして、建設業の力を認識し、
結果として父が経営していた会社に27歳のときに入りました。
建設業は「まちに貢献できる仕事」だと思ったからです。

ですが、2011年に東日本大震災が起きたときに、阪神大震災から16年も経っているのに
「自分が神戸のまちに対して何もしていなかった」と強く内省したのです。
それで、同じ神戸出身の経営者仲間たちと一緒に、
「神戸モトマチ大学」という勉強会を始めました。
これが私がまちづくりと直接関わる契機となったのです。

神戸モトマチ大学については、2016年に「コロカルニュース」でも紹介。また、2012年7月の村上さんによるプレゼンテーションはこちらで公開されている。(写真提供:リバーワークス)

神戸モトマチ大学については、2016年に「コロカルニュース」でも紹介。また、2012年7月の村上さんによるプレゼンテーションはこちらで公開されている。(写真提供:リバーワークス)

村上: 市役所の方とも、2014年頃ここで知り合い
「神戸の中心部を良くするために、何かアイデアはありませんか?」と聞かれたので、
ずっと考えていたこの〈東遊園地〉の活性化プランを提案したのです。

私は行政に要望を出し、行政がすべての段取りをする
「要望型の市民活動」は好きではありません。
ですので提案はしましたが、行政がその気になってくれたら、
自分たちのできることをするのは当然だ、というスタンスでいました。

〈東遊園地〉は以前から春の神戸まつりと、冬のルミナリエではメイン会場にも使われてきた。

〈東遊園地〉は以前から春の神戸まつりと、冬のルミナリエではメイン会場にも使われてきた。

〈FUJI TEXTILE WEEK 2023〉 富士山の麓のまちで開かれる 国内唯一の布の芸術祭

ジャファ・ラム(林嵐)《あなたの山を探して》(photo:Kenryou Gu)

織物産業で栄えたまちの景色が変わる

山梨県富士吉田市にとっての秋冬は、織物フェスティバルのシーズンだ。
10月には全国各地のテキスタイルや雑貨などが集まる
〈ハタオリマチフェスティバル〉(2016年開始)、
続いて11~12月には布をテーマにした国内唯一の芸術祭
〈FUJI TEXTILE WEEK〉(2021年開始)が開かれている。

パシフィカ コレクティブス《Small Factory》ストリートカルチャーのアーティストがドローイングを描き、手染めの毛糸から制作。(photo:Kenryou Gu)

パシフィカ コレクティブス《Small Factory》ストリートカルチャーのアーティストがドローイングを描き、手染めの毛糸から制作。(photo:Kenryou Gu)

富士吉田市、西桂町を中心とした郡内地域は、
織物産業の養蚕、撚糸、染色、織りを担う産地として1000年以上続く歴史を持つ。
富士山がもたらす豊富な湧水が染色に適し、織物産業が盛んになったとも言われている。

しかし10数年前から社会や産業の変化により工場の閉鎖が続き、
織物産業の再興を図るアート・デザインプロジェクトが複数立ち上がった。

移住者や市外から関わりを持つ人々の新たな力が加わり、
使われなくなった工場や倉庫、店舗などをリノベーションして
ホテルやカフェを立ち上げたり、アーティスト・イン・レジデンス施設や
展示会場として再利用したりすることで、まちの景色が少しずつ変わってきた。

〈FabCafe Fuji〉。カフェのほか、テキスタイルの展示やライブラリーなどもある。(撮影:吉田周平)

〈FabCafe Fuji〉。カフェのほか、テキスタイルの展示やライブラリーなどもある。(撮影:吉田周平)

今年で3回目となるFUJI TEXTILE WEEK 2023(11月23日~12月17日)の
テーマは「Back to Thread/糸への回帰」。
織物産業の歴史を保存・検証する「デザイン展」と、世界6の地域と国内から
アーティスト11組がテキスタイルを用いて表現する「アート展」で構成されている。
総合ディレクターを南條史生、キュレーターをアリエ・ロゼン、
丹原健翔らが務めている。

今回は11月21日に行われたツアーの様子を紹介したい。

“食べられない果物”が、 おいしく大変身! カリンのまち、 まんのう町の新たな挑戦

カリンのまちに、ご当地カリン商品が誕生

カリンを使った粉末ドリンクにアイスクリーム、チョコレート。
これらの商品は、カリンのおもな産地のひとつである香川県まんのう町で、
地元の企業によって開発されたもの。

でもカリンそのものの味を想像できる人は少ないのでは。
それもそのはず、実はカリンは生では食べられず、加工も難しいことから、
シロップやリキュールなどに漬け込むような食べ方くらいしか知られておらず、
商品化にもつながりにくかったのだ。

そのカリンをなんとかおいしく食べてもらおうと、試行錯誤のうえ完成した商品は、
今回〈カリンのトリコ〉ブランドとして、
まんのう町で開催された「かりんまつり」で来場者に提供された。

2023年10月29日に国営讃岐まんのう公園で開催された「かりんまつり」には多くの人が訪れた。(写真提供:ロッテ)

2023年10月29日に国営讃岐まんのう公園で開催された「かりんまつり」には多くの人が訪れた。(写真提供:ロッテ)

甘すぎない爽やかな味わいに
「カリンは子どものときからある、身近な存在」
「懐かしい味にも感じた」と、カリンのまちならではの声が。一方で、
「シロップやのど飴くらいしかカリンのことを知らなかった」
「カリンって食べられるんだ!」という声も。
どうやらカリンのイメージは千差万別のようだ。

写真提供:ロッテ

写真提供:ロッテ

実はこの3商品、まんのう町と株式会社ロッテによる
取り組みのひとつとして開発されたもの。

1985年から〈のど飴〉を販売してきたロッテにとって、
カリンは大切な原料のひとつであり、シンボルマーク。
しかし、生では果実を食べられないこともあり、市場にはあまり出回っておらず、
実際にカリンの実を目にしたことがある人は少ないのが現状だ。

だが、カリンは1000年以上前から日本に根づいてきた果物。
家庭によっては寒くなり乾燥した季節になると、
カリンを漬け込んだシロップを飲むなど、古くから日常的に親しまれてきた。

そんなあまり知られていないカリンが持つ魅力を伝えるため、
ロッテは2022年9月に、商品に使用するカリン原料をすべて国産にリニューアル。
同時に、かねてよりカリンでまちを売り出そうとしていたまんのう町と
「まんのう町民のかりん認知拡大推進に関する連携協定」を締結し、
一緒にカリンを盛り上げていく仲間として、さまざまな取り組みを行っているのだ。

かりんまつりに先立ち実施された「かりん認知拡大推進に関する報告会」では、
ご当地カリン商品の開発に協力した、地元で活躍する3企業による商品の紹介と、
まんのう町のふたつの小学校で行われたカリンの魅力を伝える地域授業について報告。
ご当地カリン商品について、栗田隆義町長も
「カリンそのものを食べるのは難しいのですが、研究開発していただき、
おいしい商品ができたことを非常に喜んでいます」と太鼓判。

カリン商品に期待を寄せるまんのう町の栗田隆義町長(一番左)と、カリン生産者の田中阿佐実さん(左から2番目)。株式会社ロッテの豊田直弥さんと地元企業の担当者も〈カリンのトリコ〉ユニフォームで報告会に参加。

カリン商品に期待を寄せるまんのう町の栗田隆義町長(一番左)と、カリン生産者の田中阿佐実さん(左から2番目)。株式会社ロッテの豊田直弥さんと地元企業の担当者も〈カリンのトリコ〉ユニフォームで報告会に参加。

また、毎年7月頃になると約75万本が満開になるという、
まんのう町の夏の風物詩ひまわりと合わせて、
「春夏にはひまわり、秋冬にはカリンで、
まち、町民、カリン栽培者、企業みんなでカリンを盛り上げ、
ひまわりとカリンで元気あふれるまんのう町を推進していきたい」と、
まちぐるみでカリンを盛り上げていく意欲を語った。

「曖昧な境界」をデザインした
〈morineki〉大東市公民連携
北条まちづくりプロジェクト

この連載は、日本デザイン振興会でグッドデザイン賞などの事業や
地域デザイン支援などを手がける矢島進二が、
全国各地で蠢き始めた「準公共」といえるプロジェクトの現場を訪ね、
その当事者へのインタビューを通して、準公共がどのようにデザインされたかを探り、
まだ曖昧模糊とした準公共の輪郭を徐々に描く企画。

第2回は、大阪府大東市にある市営住宅の建て替えを、
民間主導の公民連携型で進めた国内初のプロジェクト〈morineki〉。
2022年度グッドデザインを受賞したこのプロジェクトを手がけた
大東公民連携まちづくり事業株式会社(現〈株式会社コーミン〉)の入江智子さんと、
グランドデザイン設定から建築デザインまでを担った
〈株式会社ブルースタジオ〉の大島芳彦さんのふたりに話を聞いた。

morinekiのある大東市は、大阪市の東に位置する人口約12万人のまち。
JR学研都市線四条畷駅から徒歩5分、生駒山系の自然と清流に守られたエリアに
2021年3月にできた、まさに「準公共」と呼べるプロジェクトだ。
古いまちを、デザインによってどのように市民のための新しい居場所に変えたかを探る。

民間主導による国内初の公民連携プロジェクト

矢島進二(以下、矢島): 〈morineki〉は、
多々ある公民連携プロジェクトのなかでも、
独自で新規性のあるスキームによって実現したと思いますが、
なぜ実現できたかをお聞きします。まず最初にプロジェクトの概要を教えてください。

入江智子(以下、入江): morinekiをひと言でいうと、大阪府大東市による
「市営住宅の建て替えを民間主導の公民連携型で進めた国内初のプロジェクト」です。
市と民間が連携してPPP*手法を用いて、
古い市営住宅があった約1ヘクタールの市有地を、
民間賃貸住宅、オフィス、商業施設や芝生の都市公園などにつくりかえ、
賑わいの場を創出し、地域全体のリノベーションの起点となるプロジェクトです。

市民にとって、ちょっと自慢ができる風景をデザインすることで、
市にも土地の賃貸料収入や固定資産税などが新たに入り、
地価も上がり、人口減少の歯止めにもなっています。

*PPPとはパブリック・プライベート・パートナーシップの略で、行政(Public)が行う行政サービスを、行政と民間(Private)が連携(Partnership)し、民間の持つノウハウを活用することで、行政サービスの向上、行政の業務効率化などを図るスキーム。PPPの中に、PFI(プライベイト・ファイナンス・イニシアティブ)、指定管理者制度、さらに包括的民間委託などのアウトソーシングなども含まれる。

PPPエージェントである大東公民連携まちづくり事業株式会社(現〈株式会社コーミン〉)が市のビジョンに基づき、テナントリーシングを行い、特定目的会社である東心株式会社が大東市とコーミンからの出資及び、金融機関からの融資で事業を実施。建物は東心株式会社が所有し、大東市はその民間賃貸住宅を市営住宅として借り上げるほか、公園・河川・周辺道路の整備を行う。(画像提供:コーミン)

PPPエージェントである大東公民連携まちづくり事業株式会社(現〈株式会社コーミン〉)が市のビジョンに基づき、テナントリーシングを行い、特定目的会社である東心株式会社が大東市とコーミンからの出資及び、金融機関からの融資で事業を実施。建物は東心株式会社が所有し、大東市はその民間賃貸住宅を市営住宅として借り上げるほか、公園・河川・周辺道路の整備を行う。(画像提供:コーミン)

〈コーミン〉代表取締役の入江智子さん。

〈コーミン〉代表取締役の入江智子さん。

矢島: 入江さんは市役所職員でしたが、
このプロジェクトを実現させるために退職され、
まちづくりのための会社に移籍したと聞きます。
当時はどんな部署にいて、なぜこのプロジェクトはスタートしたのですか?

入江: 私は兵庫県宝塚市の出身で、京都工芸繊維大学を卒業後、
大東市役所に入庁し、建築技師として市営住宅や学校などの営繕を担当していました。
市営住宅の建て替え担当者は、交付金を使い
ごく普通のマンション形式にするのが通常の業務だったのですが、
「本当にこのやり方でいいのか?」といった課題意識をずっと抱いていて、
何か違う手法を探していました。

市営住宅の建て替えは、国交省による交付金制度できっちり固まっています。
morinekiのような面倒な手続きをしなくても、
粛々と建て替えができるシステムが用意されているのです。
ですがそれでは「どこにでもある市営住宅」しかできません。

そうしたなか、市長がまちづくり専門家の木下斉さんの講演会に行き、
岩手県紫波町での、国の補助金に頼らない公民連携の成功例
〈オガールプロジェクト〉を知ったのです。

折しも第2次安倍政権によって「まち・ひと・しごと創生本部」が内閣に設置され、
地方も自ら人の流れをつくり、稼ぐことが求められていました。
大東市は、創生総合戦略に
1.市民や民間を主役に据える、
2.大阪市にはなく大東市にあるものを磨く、
というふたつの政策的な視点を掲げ、その実行部隊として、
市役所に「地方創生局」を新設しました。

その局長が、木下さんらが始動した「公民連携プロフェッショナルスクール」
(現・都市経営プロフェッショナルスクール)の1期生として
参加したのが大きな起点です。

〈morineki〉は、約3000平米の公園と、74戸の住宅のほか、レストラン、アウトドアショップ、ベーカリー、アパレル、雑貨などの店舗が軒を連ね、2階はテナント〈ノースオブジェクト〉の本社事務所になっている。

〈morineki〉は、約3000平米の公園と、74戸の住宅のほか、レストラン、アウトドアショップ、ベーカリー、アパレル、雑貨などの店舗が軒を連ね、2階はテナント〈ノースオブジェクト〉の本社事務所になっている。

morinekiの名は、「森」と、河内弁で“近く”を表す「ねき(根際)」をあわせた造語。〈UMA/design farm〉原田祐馬さんデザインのロゴマークは、mの字形と3本の新芽を表す。

morinekiの名は、「森」と、河内弁で“近く”を表す「ねき(根際)」をあわせた造語。〈UMA/design farm〉原田祐馬さんデザインのロゴマークは、mの字形と3本の新芽を表す。

別府市〈TRANSIT〉と
各地のアート拠点の事例から考える
アーティストと地域の関係

photo:Takashi Kubo 写真提供:NPO法人BEPPU PROJECT

別府に誕生した、クリエイターと地域をつなぐ拠点

別府市に2023年1月に誕生した、別府市創造交流発信拠点〈TRANSIT〉。
昭和3年に建てられ、電話局や児童館などさまざまな用途に使われてきた
国登録有形文化財の建物〈レンガホール〉の1階の一部をリノベーションし、
展示室と相談室が開設された。

展示室ではアーティストや地域のクリエイターの作品を展示したり、
相談室ではアーティストやクリエイターからの移住相談や
地域課題についての相談を受け付けたりしている。
ここから別府の芸術文化を発信するだけでなく、
移住促進や、企業や市民とクリエイターをつなぐ拠点となることをめざすという。

同じく別府の〈GALLERIA MIDOBARU〉の空間設計も手がけた建築設計事務所〈DABURA.m. Inc.〉によりリノベーションされた〈TRANSIT〉が入る〈レンガホール〉。(photo:Takashi Kubo 写真提供:NPO法人BEPPU PROJECT)

同じく別府の〈GALLERIA MIDOBARU〉の空間設計も手がけた建築設計事務所〈DABURA.m. Inc.〉によりリノベーションされた〈TRANSIT〉が入る〈レンガホール〉。(photo:Takashi Kubo 写真提供:NPO法人BEPPU PROJECT)

別府市ではこれまで、1998年から「別府アルゲリッチ音楽祭」、
2009年からは「混浴温泉世界」「in BEPPU」などの芸術祭、
2010年から市民参加の文化祭「ベップ・アート・マンス」など、
さまざまなアートに関する取り組みをしてきた。
その結果、2017年の調査では、2009年以降の
アーティストやアートに携わる移住者が120名にもなったという。

そこで2022年、アーティストやクリエイターに特化した移住定住促進の政策を策定。
地域の課題に向き合うクリエイターや、
新たな価値を創出しようとするアーティストの力を地域資源と捉え、
地域の活力再生に向けた好循環をめざすというもの。
また、2030年までに移住者を1200名にすることを目標に掲げている。

そのモデルエリアに別府市の南部・浜脇地区を指定し、
ハブとなる拠点として誕生したのがTRANSITなのだ。

別府では2008年からアーティスト・イン・レジデンスのプログラム「KASHIMA」や、
2009年からはアーティストが暮らしながら制作する
「清島アパート」の活動も続いており、
アーティストの存在は地域の人にも認められつつある。
今後は南部・浜脇エリアの空き家を活用しながら、
アーティストの活動拠点となる施設を増やしていくという。

TRANSITで、清島アパートで活動するアーティストたちの活動を紹介した『こんにちは、清島アパートです。』の展示風景。(写真提供:NPO法人BEPPU PROJECT)

TRANSITで、清島アパートで活動するアーティストたちの活動を紹介した『こんにちは、清島アパートです。』の展示風景。(写真提供:NPO法人BEPPU PROJECT)

TRANSITの相談窓口では、空き家や空き店舗のマッチングや、
地域課題を解決するためにクリエイターの力を借りたいという市民や
企業の相談なども受け付ける。
移住してきたアーティストの才能や職能と、地域や企業の課題をマッチングし、
商品・サービスの開発や賑わいづくりなどに生かすことで、
アーティストの活躍機会を拡大し、別府の活性化につなげることが狙いだ。

一方アートプロジェクトも、2016年から続けてきた、
毎年ひとりのアーティストを招聘する個展形式の芸術祭「in BEPPU」は一時休止し、
2022年からは新たに「ALTERNATIVE-STATE」というプロジェクトが始動。

このプロジェクトでは4年間で8つの作品を制作し、別府市内各所に長期設置する。
これまで期間限定のイベント形式で作品を公開してきたが、
いつでも鑑賞できる作品とすることで、
文化的観光資源として活用されることを狙っている。
これまでに、サルキスとマイケル・リンの作品を設置。
第3弾にはトム・フルーインを迎え、アクリルパネルを使った作品を制作予定だ。

[ALTERNATIVE-STATE #1] マイケル・リン『温泉花束』撮影:山中慎太郎(Qsyum!) ©︎混浴温泉世界実行委員会

[ALTERNATIVE-STATE #1] マイケル・リン『温泉花束』撮影:山中慎太郎(Qsyum!) ©︎混浴温泉世界実行委員会

[ALTERNATIVE-STATE #8] サルキス『Les Anges de Beppu』撮影:山中慎太郎(Qsyum!) ©︎混浴温泉世界実行委員会

[ALTERNATIVE-STATE #8] サルキス『Les Anges de Beppu』撮影:山中慎太郎(Qsyum!) ©︎混浴温泉世界実行委員会

これら別府のアート活動の運営を担ってきたのが〈BEPPU PROJECT〉。
TRANSITも別府市の事業をBEPPU PROJECTが受託し運営している。

そのTRANSITで、KASHIMAの関連企画として、
3月18日に「地域にアーティストがいること」と題されたシンポジウムが行われた。
秋田市のNPO法人〈アーツセンターあきた〉の事務局長を務める三富章恵さん、
松戸市の〈PARADISE AIR(パラダイスエア)〉ディレクターで建築家の森純平さん、
東京・吉祥寺の〈Art Center Ongoing〉代表の小川希さんが登壇。
ここで発表された、それぞれの事例を紹介していこう。