ついに物件購入へ……!?
伊豆下田に移住して4年の津留崎さん。
理想にかなり近い賃貸物件を見つけて暮らしていましたが
再び家探しをすることに。その理由は?
そしていい物件に出会うことはできたのでしょうか……?
意外な展開で進んだ津留崎家の住宅事情について綴ります。
5月のゴールデンウィークが終わりました。
昨年に続き、まさか今年の連休まで、
コロナ禍による自粛の日々になるとは思ってもいませんでした。
1年で一番気持ちのいい季節! と言えるくらい5月初旬の小豆島は最高のシーズン。
毎年GWの連休にはたくさんの観光客の方々が島を訪れます。
島のジェラート屋さんでは長い行列ができ、路線バスのバス停では
人がたくさん待っていて、有名な観光スポットへ向かう道路は渋滞していたり。
気候もいいし、賑やかだし、小豆島全体がとっても楽しそう。
というのが、いつものGW。

5月の小豆島。戸形崎には毎年鯉のぼりが海の上を泳ぎます。

毎年小さな真っ赤な実をつける庭のサクランボ。これも5月の風景。
今年の小豆島の様子はというと、
「例年よりは静か、でも昨年よりは賑やか」という感じでした。
それがいいのか悪いのかは悩ましいですが、飲食店は満席の状態だったり、
列ができたりしていて、やっぱり連休なんだなぁと。
さて、私たちはどう過ごしていただかというと、カフェを数日営業して、
畑仕事、出荷作業と普段と同じように働いていました。
いつもの連休と決定的に違うのが、毎年5月3日に開催される地元の伝統行事
「肥土山(ひとやま)農村歌舞伎」が、昨年に続き今年も中止だったこと。
さすがに2年連続中止となると、いままでそこに当たり前のようにあった
大きなものがなくなってしまって、もの足りないような寂しいような、
そんな気持ちになります。

肥土山農村歌舞伎舞台がある肥土山離宮八幡宮からの景色。新緑のもみじと山々が美しい。
肥土山農村歌舞伎が中止になったことで、
よく言えば時間に余裕ができていつもできないことができたのですが、
この行事がなくなることで失われてしまうことって、
けっこう大きいんじゃないかと漠然と感じています。
正直言って、農村歌舞伎当日を迎えるための準備や練習は本当に大変です。
スケジュールを管理し、全体の調整をする人、
夜に稽古場に集まって演目の練習をする人、
大道具や小道具などのメンテナンスや準備をする人、
集まりのたびに参加者の食事やお茶の準備をする人など。
たくさんの人が関わり、みなさん仕事が休みの日や
仕事を終わらせた夜の時間を使って準備を進めていきます。
ひとつのことを成し遂げるために、役割を分担し、それぞれががんばる。
とても大変だけれども、大変だからこそ、同じ思いを持ち、
同じ時間を過ごすことで育まれる連帯感は強い。いまの肥土山という集落があるのは、
この農村歌舞伎が続いているからといっても過言じゃないような気がします。

参加者や来賓の方々のお弁当づくりは当日の朝3時頃から地元のお母さんたちが行います。数の確認や発注などもすべて。大変な仕事。

役者の人たちは当日まで稽古場で何度も練習します。役者以外にも裏方にはたくさんの人たちがいます。
2017年に山を買った体験をまとめたイラストエッセイ
『山を買う』という小さな本を刊行して以来、
1年に1冊のペースで本づくりを行ってきた。
この出版活動を〈森の出版社ミチクル〉と名づけ、
SNSで告知をしながら細々と本の販売を続けるなかで、知り合いのみなさんから、
ミチクルで本を出したいという相談を受けることが増えてきた。
これまでは、うちで本を出しても、
書店流通に必要なISBNというコードをとっているわけでもないし、
大手ネット通販で販売しているわけでもないので、
それほど広がらないと思うと消極的なお返事をしてきた。
しかし、何人かに声をかけてもらうなかで、
自分の消極的な姿勢に息苦しさを覚えるようになった。
この小さな出版活動に、わざわざ興味を持ってくれる人がいるのだから、
その気持ちに答えたい。そんなふうに思うようになっていった。
新しい本づくりの大きなきっかけをくれたのは、
道南の日本海に面した人口1400人ほどの島牧村に暮らす吉澤俊輔さんだ。
吉澤さんは、ご両親が〈島牧ユースホステル〉を営み、
自身は木工作家として活動をしながら、「さくらの咲くところ」という屋号で、
島牧の豊かな自然の恵みを生かした自給自足の暮らしを探求している。
毎年秋に「小さな町の小さなマルシェ」と題したイベントも開催。
昨年、このイベントを私が訪ね、吉澤さんと知り合うこととなった。

島牧で毎年開催される「小さな町の小さなマルシェ」。オーガニックな農法で作物を育てる生産者をはじめ、素材にこだわった料理やスイーツなどのお店が並ぶ。
マルシェの開催から数か月後、吉澤さんから本をつくりたいという相談を受けた。
4年間、北海道新聞のコラムでほぼ毎月連載を続けており、
それが終わるタイミングで、これらをまとめたいと考えていたのだ。
原稿を読み、島牧の開放的な自然の景色と同じような心地よさを感じた。
仲間と一緒に田んぼを再生させ昔ながらの米づくりを行ったり、
海水をくんでそこから塩をつくったり、豊かなブナの森で山菜やキノコをとったり。
暮らしのあらゆることに手間をいとわず、
しかもそれを心の底から楽しんでいることが、文章の端々から伝わってきた。
時折り、環境問題に鋭く切り込む原稿もあるが、
未来に希望は必ずあると思わせてくれるところも、心を明るくしてくれるものだった。

島牧はブナ林の北限。私が訪ねた秋は葉が色づき、キラキラと輝いて見えた。
よし、吉澤さんと一緒に本をつくってみよう!
そう私も自然に思え、ここから新たな本づくりのプロジェクトが始まった。
都心の大型書店やセレクト書店などで購入できる雑誌のなかに、
最近ではローカル発信の雑誌が増えてきた。
それらはパッと見では、横に並んでいる都市部発信の雑誌とそう変わらぬ顔をしている。
しかしよくよく読んでみると、地域性が滲みでている。
それら「ローカルインディーズ」とでもいえる雑誌の多くは、
地域情報だけを伝えるのではなく、その土地に住んでいるからこそ感じることができる
社会性や文化を誌面に込めて編集されているようだ。
そのひとつに『CONTE MAGAZINE』がある。
沖縄の首里から発信されているこの雑誌、
vol.01の巻頭特集にはいきなり笑福亭鶴瓶さんが登場。
特集テーマには「生きるためには、物語が必要です。」とある。
この雑誌の編集長である川口美保さんに話を聞いていくと、
沖縄とは関係のないように思える鶴瓶さんに取材を行った意味がわかってきた。

発売中の『CONTE MAGAZINE』第1号。2200円。
ということで、まずは沖縄で『CONTE MAGAZINE』と
〈CONTE〉というレストランを手がける川口美保さんの「物語」から始める。
川口さんは、大学在学中から
インタビュー&カルチャーマガジンの『SWITCH』編集部で働き始め、
副編集長を務めるなど約20年間勤めた。仕事も順調ではあったが、
当時から「この先ずっと東京で暮らしていくイメージは持てなかった」という。
「故郷の福岡に帰るという選択肢ももちろんありました。
だけど、もうひとつ故郷みたいな場所をつくれるのではないか、
という思いも持っていました」

移住してすぐは、近所の首里の郷土料理店でアルバイト。高齢の店主夫婦に首里の歴史や食文化を教えてもらったという。
その思いをぐっと引き寄せたのが沖縄だった。
ミュージシャンの取材をすることが多かった川口さんは、
あるとき沖縄のバンド〈ビギン〉が主催する「うたの日コンサート」を取材した。
「その会場には、3世代で来ているお客さんがたくさんいました。
ひとつの音楽で3世代が歌って踊っている光景にとても感動しました。
そしてビギンのメンバーが『その上の世代も喜んでるよ』って言うんです。
ご先祖など、目に見えない存在にも近いという感覚。
それに衝撃を受けて、沖縄の音楽や暮らしを知りたいと思いました」
こうして沖縄に通う機会も増え、ついには2014年に移住することになる。
「約20年間、SWITCHにいたので、やり切った感じもありました。
縁はどこでもつながるはずだから、東京で知り合った人たちでも、
そう簡単には切れないだろうし、一度、違う場所で暮らしてみようと思いました」

〈CONTE〉は大きな窓でゆったりとした空間。
5年前から始めた地域をPRする活動〈みる・とーぶ〉。
展覧会やワークショップ開催など、さまざまな活動を行っているが、
重要な柱のひとつがマップづくり。
表面には美流渡(みると)とその周辺地域(東部丘陵地域と呼ばれている)の
全体マップがあり、中面には地域の人々の似顔絵が散りばめられている。
毎年、更新を続けていて今年で4回目。先月、改訂版がようやく刷り上がった。
中面の似顔絵には何人登場しているのかとあらためて数えてみたら、総勢118名(!)。
毎年、移住者などを加えていっており、充実した仕上がりになっている。

観光スポットは少ないが地域には魅力的な人がたくさんいるという思いから〈みる・とーぶ〉のメンバーでつくり続けているマップ。似顔絵は私が描いた(マップはこちらからダウンロードできます。表面・似顔絵面)。
今回、一番大きくリニューアルしたのは、表面の地域紹介コーナーだ。
紹介しているエリアは上志文、朝日、美流渡、毛陽、万字など、
道道38号線沿いの20キロほどの区間で、
これまではそれぞれの地域の特性を文章で紹介する程度だった。
旅行者がふらりと来て立ち寄れるスポットがあまりなかったため、
簡単な紹介にとどめていたのだが、
今回「ひとやすみしたい場所があります!」というコーナーを設け、
旅ガイド的な役割も持たせようと考えた。

食、宿、体験という3つの項目を設けてスポットを紹介。
紹介したのは、飲食店が6軒、宿泊施設が4軒、体験施設が4軒。
著名な観光地に比べたら、本当にわずかしかないともいえるが、
4年前と比べると紹介スポットは倍に(!)。
訪ねる場所が本当に増えているなあと、
今回紹介コーナーをつくってみてしみじみと思った。
新たな拠点をつくったのは移住者たち。
自分で自分の仕事をつくり出そうという意識を持つ移住者は多く、
飲食店やゲストハウスなどが次々と生まれているのだ。

人口70人ほどの万字地区で2018年からスタートしたゲストハウス〈NORD house〉。このほか美流渡地区にふたつのゲストハウスがオープン。
また、これまでは、駅から車で約30分かかり、
近くに大きなスーパーもコンビニもない不便な地域に何かをつくっても、
経営は成り立たないと考える人が多かったが、
20年以上前にできた森のパン屋〈ミルトコッペ〉には、
休日ともなれば行列ができているし、
スープ&スパイスカレーの店〈ばぐぅす屋〉にはリピーターが多く、
わざわざ訪ねてみたくなる場所となっているのではないかと思う。

〈ミルトコッペ〉は4月28日から今季の営業が始まる。店舗はオーナーが10年かけてセルフビルドした。(撮影:佐々木育弥)
小豆島で農業を始めて、9回目の春を迎えています。
春はいつも、生姜の植え付け、夏野菜の植え付け、さつまいもの植え付けなどなど、
どれもこれも待ったなしで、連日何かに追われています(汗)。
多品目の野菜を栽培している私たち〈HOMEMAKERS〉にとって、4月は大忙しの日々。
とにかくひとつひとつやることを進めていくしかなく、
毎日日が暮れるまで畑で作業しています。

春の畑でブロッコリーの収穫。気温が上がり、野菜の成長スピードも加速。気を抜くとすぐに収穫タイミングを逃してしまう。

トマトの苗を定植。まだまだ定植待ちの夏野菜がいっぱい。

球が大きくなり茎が倒れた新玉ねぎ。辛味が少なくみずみずしいので生のままでも楽しめる!
最近は週に2日、野菜の収穫&発送作業をしているのですが、
その2日間はいつもに増してバタバタ!
まずは朝一番でその日の出荷内容をみんなで確認。
「今日はサナア(畑の名前)のコカルドレッドオークレタスを優先して出荷ね」
「あやめ雪かぶは葉を落として出荷ね」
そのあと畑チームは猛烈なペースで収穫、出荷チームはダンボールを組み立てたり、
納品書や送り状の準備をしたり。
毎回10種類ほどの野菜を順番に収穫していき、
軽トラが出荷作業場に戻ってくるとすぐに出荷の調整作業が始まります。
洗ったり切ったり、重さを量って小分けにしていきます。
虫がまぎれてないか、傷みはないか、そんなチェックをひとつひとつしながら袋詰め。
いまの時期だと、ケールから始まり、レタス、ブロッコリー、
新玉ねぎ、ベビーニンジン、あやめ雪かぶ、ナバナ、葉ネギなど。
荷物の集荷時間16時ぎりぎりまでいつも作業が続きます。

野菜の出荷作業日。収穫してきたらすぐに小分けしていきます。

ケールミックスの袋詰め。ケールは乾燥に弱くすぐにしなっとなってしまうので、急いで作業。

まだ球が大きくなる前の赤玉ねぎ。ほんとはもっと大きくなってから収穫するのですが、この若いときもおいしい。
2015年に、南阿蘇鉄道の無人の駅舎にオープンした小さな古本屋〈ひなた文庫〉。
その翌年、2016年に熊本地震が起き、鉄道が不通のいまも、
同じ駅で週末だけの営業を続けています。
そのひなた文庫の店主が、この5年を振り返り、いまの思いを綴る特別寄稿です。
5年前の4月14日、熊本県益城町を中心に起きた大きな地震。
南阿蘇村の隣、大津町の自宅のベッドで横になっていて強い揺れを感じた。
本棚からバラバラと落ちてくる本から頭を守りながら
訳もわからないまま揺れが収まるのを待った。
熊本が震源の大きな地震なんていままで記憶になかったので、まさかという思いだった。
私たちの近所や自宅アパートはそんなに被害はなかったものの、
風呂場のタイルが剥がれて使えなくなったので、
翌日は南阿蘇の実家に泊まることにした。
昼の間も体に感じる揺れは何度もあったが、通常通り仕事を終え、
〈ひなた文庫〉のある駅舎の様子を見に行った。
建物に被害もなく安心し、帰って家族でごはんを食べながら、
「益城町はひどいことになっている、まだ余震もあるから怖いね」
などと話して床についた。
深夜午前1時25分、 ゴゴゴゴという
どこから聞こえてくるのかわからない大きな地響きと、
肩を掴んで思い切り揺さぶられたような激しい揺れにいきなり襲われた。
14日に感じたものとは比べものにならなかった。
声にならない悲鳴が口から漏れ、早く収まることだけを願っていた。
真っ暗闇のなか、必死に耐えたあのときの恐怖は未だに忘れられない。
揺れが収まるのと同時に、隣で寝ていた夫と、
別の部屋で寝ていたお義母さん、お義父さんはおばあちゃんをおんぶして、
やっとの思いで縁側から外へ出た。
すると家の裏山の方向から、カラカラと石の転がる音がしていた。
その後、この地震は震度7を2度も記録した観測史上初の大きな地震だったとわかり、
14日に起きた地震を前震、16日に起きた地震を本震と呼び、
「熊本地震」と名づけられた。
この地震によって崩落した阿蘇大橋は実家から車で2分もかからない場所にあった。
裏山は阿蘇大橋を丸ごと押し流してしまった山と同じ地続きの山だ。
あのカラカラと聞こえてきた音を思い出すとぞっとする。
ほんの少しでも時間や場所が違っていたら、逃げる方向が違っていたら、
そう考えると、あの地震で死を免れたというのは偶然のことなのだと思う。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。
〈森の出版社ミチクル〉という名前で小さな出版活動を始めて4年。
そのなかで、いつも頭を悩ませていることがある。
それは“印刷”についてだ。
自分の本は絵も文字も手書きで、デザインも含めて全部手で行っているのだが、
印刷という段階になると、どうしてもほかの会社に委ねることになってしまう。
ネット印刷などを利用する場合は、入金してデータをアップロードしてと、
フォーマット化された作業の流れに自分の本を載せるのだが、
これがどうにも馴染めない。
しかも、印刷にはコストが結構かかり、気軽に誰もが本をつくることが難しい、
その要因になっているのではないかと感じている。
自分の手で印刷までできる方法はないだろうか?
最近、真剣に考えていたなかで、友人から
オンラインワークショップに参加してはどうかという誘いがあった。
講座は「Virtual Risograph Basics」。
ポートランド州立大学の教授でイラストレーターの
ケイト・ビンガマン・バートさんによる
〈リソグラフ〉という印刷機を使った作品づくり体験だ。
私に声をかけてくれたのは、ポートランド在住の山中緑さん。
札幌からの移住を「冒険の旅」として、
美流渡(みると)でお話会をしてくれたことがあり、
このワークショップ開催のためにつくられた団体
〈いろいろイロラボ〉の推進役のひとりでもある。

〈リソグラフ〉は刷り色を自分で選んで印刷する。2色を重ねてつくったワークショップ参加者の作品。
リソグラフとは〈理想科学工業〉の製品で、
チラシや教材の印刷で広く使われている印刷機。
コピー機と同じように見えるが仕組みが異なり、コピー機よりも省エネルギーで、
高速で印刷できるため、1枚ごとの単価が安いのが特徴。
こんなふうに説明するとオフィス機器としての印象が強くなるが、
この印刷機独特の風合いに注目して、
クリエイターらが作品づくりに生かすケースも多く、世界中にファンがいる。
オンラインワークショップが開催されたのは3月28日。
日本とアメリカから63名の参加があった。
司会と進行役を務めたのは、いろいろイロラボの代表・井出麻衣さん。
井出さんは日本でテキスタイルデザイナーとして活動後、
ポートランドに活動の拠点を移し、現在州立大学でアートを専攻している。
大学で学ぶなかでケイトさんと出会い、
彼女の主宰するアートスタジオ〈アウトレットPDX〉をたびたび訪ねて、
リソグラフによる作品づくりを体験してきた。
このすばらしいワークショップを日本の皆さんにも伝えたいという思いから、
日本語による「Virtual Risograph Basics」を今回企画したという。

司会と進行役を務めた井出麻衣さん。

講師となったのはケイトさん(左)とアシスタントのリランド・ヴォーンさん。
ワークショップの始まりは、ケイトさんのこれまでの活動紹介から。
ケイトさんはイラストレーターとして、世界中のクライアントと仕事をしてきた。
2006年から1日も休まずに、目に止まった日用品などを
ペンで描くことを続けているという。
「これがすべてのインスピレーションの源です。
ここからリソグラフでZINEをつくったり、陶器のデザインをすることもあります」

15年間、毎日かかさず続けているというドローイング。インスタグラムでも配信している。
こうした制作とともに大切にしているのが、人にものづくりの楽しさを伝える活動。
「私はできるだけ人と出会いたいと思ってワークショップを行ってきました。
旅行を兼ねてスタジオを訪ねてくれる人もいて、とてもうれしかったですね」
対面でのワークショップがスタートしたのは2017年。
これまで1000名以上が参加したという。
リソグラフの魅力を直接伝えることを重視していたため
オンラインでの開催はしてこなかったが、
2020年3月からコロナ禍となり、方向転換を余儀なくされた。
「実際に始めてみると、世界中のリソグラフ・ファンとつながることができて、
とても興奮しました」
小豆島でもあちこちで桜の花が咲き始めました。
今年も春がやってきます。
ちょうど1年前のいまごろ、新型コロナウイルスの影響で
子どもの学校が急にお休みになってしまい、学校には行けない、
遊びにも行けない、これじゃひきこもりになっちゃう。と悩みました。
そのときに、「そうだ! こんなときこそ島を歩こう!」と思いたち、
友人たちと一緒に小豆島のお遍路道を歩き始めることに。

小豆島の桜は自然のなかにある。桜と山。桜と海。そんな景色を眺めながら歩くのが楽しい。
「お遍路」といえば四国が有名ですが、
実は小豆島にも八十八か所の霊場(お寺や庵など)があり、
その霊場をまわる遍路道があります。
小豆島遍路は、四国遍路に比べて距離が短く、
全行程で150キロほど(ちなみに四国遍路は10倍の約1500キロ)。
ひたすら長い距離を歩くというよりも、海や山など美しい景色を楽しみながら歩けます。

山の中の遍路道。ハイキングとしても楽しめます。

歩いていると、ぱっと美しい景色が広がったりする。
お遍路いいなぁ、歩いてみたいなぁと思っていても、
いったいどこからスタートしたらいいんだろう?
白い服を着ないといけないのかな?
何か必要なものはあるのかな?
わからないことが多くて、そもそもスタートできない。
なんて人が多いんじゃないかと。
とにかく歩き始めてみる!
私たちはまず「小豆島霊場総本院」に行きました。
小豆島霊場総本院と文字だけ見ると、なんだかすごそうな場所で
簡単には行けなささそうな感じがしますが、受付みたいな場所があって、
「これから遍路してみたいんです」と相談すればいろいろと教えてくれます。
そこでまずは「納経帳(のうきょうちょう)」と「納札(おさめふだ)」を購入。
納経帳は、般若心経などのお経を唱えたり、写経を納めたり、
奉納経した印として、御朱印を押してもらう冊子。
納札は、各霊場を参拝したときに納める紙札で、
自分の名前、参拝日、裏には願いを書きます。
このふたつと、遍路用の詳細な地図
「小豆島八十八ヶ所巡拝 おへんろ道案内図」、お賽銭を用意。

納経帳と納札。ちなみに納札は巡拝回数によってお札の色が変わります。巡礼70回以上からは錦のお札で納めてもよいそう。

この「小豆島八十八ヶ所巡拝 おへんろ道案内図」なくしては歩けない。各お寺からお寺までの距離なども書いてあります。
本格的にお遍路をしたい場合は、白衣(はくえ)や杖、経本など、
ほかにも用意したほうがいいものがあります。
でも、あるお寺の住職さんも言っていたのですが、
「まずは気軽に歩いてみたらいい。お経も完璧に唱えられなくてもいい。
まずは歩いてみる。歩いてお寺をまわっていくなかで少しずつ遍路のことを知っていく。
知りたくなっていく。そのときに必要なものをそろえていけばいい」と。
だから私たちは、いつもの服で歩きやすいスニーカーを履いて、
リュックには地図と納経帳と納札とお賽銭を入れて、
見た目はハイキングみたいな感じで歩いています。

地図を見ながら、次のお寺まで2.5キロだよ~と確認しながら歩く。

見た目はハイキング。いまの私たちにはこれくらいのスタイルで遍路道を歩くのがちょうどいい。
伊豆下田に移住してもうすぐ4年になる津留崎鎮生さん、徹花さんと娘の一家。
夫婦が交互に綴ってきた、移住と自分たちの暮らしにまつわる連載も、
スタートから4年半になります。
101回目となる今回も、前回に続き特別編として、
津留崎さん夫妻にいまの暮らしや働き方について聞いてみました。

――移住していろいろなことが変わったと思いますが、
そのひとつが働き方だと思います。
徹花さんは東京と行き来しながらフォトグラファーとして働き、
鎮生さんは〈高橋養蜂〉での農園管理の仕事と、最近ではライター業など
在宅でもできる仕事、複数の仕事を組み合わせる働き方ですね。
徹花: 新型コロナウイルスの感染拡大前は、月に2~3回東京に行って、
まとめて撮影して帰ってくるということが多かったですが、
いまは頻繁に行き来することもできません。
下田でも仕事をいただいてますが、東京の仕事を継続することで収入も安定するし、
以前からの仕事仲間とのつながりも継続できる。
仕事のついでに東京に住んでいる母にも会えるし、
2拠点で仕事ができるとちょうどいいバランスでした。
鎮生: このコロナ禍で、そのバランスがかなり崩れたね……。
徹花: 東京の仕事が減った時期もありますが、
同時に観光地である下田の仕事も影響を受けています。
でも新しいやり方も今後展開してみようと思っているんです。

――新しいやり方?
徹花: コロナ禍のさなかに、地元の方から撮影の依頼を受けたのですが、
商品を海辺のシーンで自由に撮ってほしいと。
普段だとスタッフが何人も集まって商品撮影をするのですが、
商品だけ渡されてあとはお任せというのは初めての経験でした。
実際に撮影していると下田はロケーションに困らない。
すぐそこに海も山もあるし、朝日も夕焼けも撮影できる。
この環境を生かして、たとえば商品を都市部から送ってもらって
撮影して写真を納品する、というやり方もできるなと思って。

――それはすごくいいですね! 東京の出版社にとってもありがたいのでは。
徹花: ある雑誌の編集長からの提案で、
海とか風景写真を下田で撮影してストックしてもらえないかと。
エッセイやコラムのページに、イメージカットとして
使わせてもらいたいという提案でした。
もちろん掲載した写真については料金をお支払いしますとのこと。
この下田の環境を生かしながら、そうした仕事のやり方もできるなぁと思いました。
長い歴史と独自の文化を持ち、豊かな自然にも恵まれた日本を代表する観光地・鎌倉。
年間2000万人を超える観光客から、鎌倉生まれ鎌倉育ちの地元民、
そして、この土地や人の魅力に惹かれ、移り住んできた人たちが
交差するこのまちにじっくり目を向けてみると、
ほかのどこにもないユニークなコミュニティや暮らしのカタチが見えてくる。
東京と鎌倉を行き来しながら働き、暮らす人、
移動販売からスタートし、自らのお店を構えるに至った飲食店のオーナー、
都市生活から田舎暮らしへの中継地点として、この地に居を移す人etc……。
その暮らし方、働き方は千差万別でも、彼らに共通するのは、
いまある暮らしや仕事をより豊かなものにするために、
あるいは、持続可能なライフスタイルやコミュニティを実現するために、
自分たちなりの模索を続ける、貪欲でありマイペースな姿勢だ。
そんな鎌倉の人たちのしなやかなライフスタイル、ワークスタイルにフォーカスし、
これからの地域との関わり方を考えるためのヒントを探していく。

横山寛多さんが自宅兼仕事場を構えている海辺のまち・材木座。隣町の大町で長年過ごした後、現在は海から徒歩数分の場所にある古民家で暮らしている。
四季折々の自然に囲まれ、歴史的遺産も豊富な鎌倉は、
古くは鎌倉文士の時代から、多くの表現者たちが創作活動の拠点としてきたまちだ。
そんな鎌倉で「絵描き」の家系に生まれ育ち、
現在もこのまちを拠点に活動を続けているのが、横山寛多さんだ。
風刺漫画で一世を風靡した横山泰三さんを祖父に、
『フクちゃん』で知られる横山隆一さんを大伯父に持つ横山寛多さんは、
幼い頃から自然と絵を描き始め、
鎌倉の豊かな自然や風土のなかで若き日を過ごしてきた。
20代後半よりイラストレーターとして本格的に活動を始めてからは、
さまざまな媒体のイラストを手がける傍ら、
〈邦栄堂製麺〉〈朝食屋コバカバ〉〈かかん〉など、
本連載でも紹介してきた地域を代表する店舗のロゴや看板、
パッケージなどのヴィジュアルを制作してきた。
さらに、地域の子どもたちに向けたお絵描き教室などを積極的に行い、
コロナ禍にはテイクアウト可能な飲食店マップを有志でまとめるなど、
絵描きとして、一住民として、このまちと関わり続けている。

日本有数の観光地としてだけではなく、近年は居住地としての人気もますます高まり、
横山さんが生まれ育った鎌倉のまちを取り巻く状況は年々変わりつつある。
さらに、昨今のコロナ禍の影響によってこのまちはいま、大きな岐路に立たされている。
こうした状況のなかでも自然体を貫き、日々の創作や生活を淡々と続ける横山さんは、
鎌倉というまちの本来の姿や、持続可能な未来のあり方というものを、
僕らに伝えてくれているように思える。
鎌倉のまちと関わり続け、地域の表情をかたちづくってきた
クリエイターの素顔に迫るべく、
横山さんの自宅兼仕事場である材木座の古民家を訪ねた。

三陸沿岸の北部にあり、青森県に隣接する岩手県洋野町(ひろのちょう)。
東に太平洋を望み、内陸の北上山系に囲まれた海と高原の美しいまちだ。
しかし、この場所で一般社団法人〈fumoto〉を立ち上げた大原圭太郎さんは言う。
「自然と生活が共存する里山の風景は、日本中にたくさんあります。
洋野町は、地域おこし団体や移住者の数がまだまだ少なく、
いい意味で、“地方創生”のフロンティアのような状態です」

アパレルから転身した大原圭太郎さん。
事実、洋野町が国の推進する地域おこし協力隊の受け入れを始めたのは2016年と、
第一歩を踏み出してまだ日が浅い。
そんな洋野町に移住し、fumotoを立ち上げた大原さんは、
洋野町の「地域おこし協力隊」第1号、その人でもある。

太平洋を望む洋野町。マリンレジャーから豊かな海産物まで洋野町の暮らしを育む。
大原圭太郎さんは仙台出身だが、
奥さんの出身地である洋野町は第2の故郷のような場所だった。
それまでは仙台や東京で服飾の仕事をしていたが、東日本大震災をきっかけに
「より地域に根ざした仕事」、そして「自分が本当にやりたいこと」を見つめ直したとき
洋野町の地域おこし協力隊募集の知らせが目に入った。
それまで考えていた、仙台から新しいものを生み出したいという気持ちは、
アパレル業界ではなくても、実現できるのではないか、
アパレルでやってきたことも実は地域おこしに近く、
洋服はあくまで手段だったんだと思うようになった。
それならば洋野町で地域おこしをするのもおもしろいのではないか、という考えにいたった。
「父が気仙沼出身でよく遊びに行っていたということもあり、
洋野町の生活圏と自然との距離感や海が見える風景に親しみを感じました」
そして2016年10月、はれて洋野町の地域おこし協力隊として、
洋野町の仕事に携わることになった。
自治体のHP制作や、移住者誘致のイベントへの出展、近隣地域と協力した取り組みなど
洋野町の観光振興推進員として、まちの観光協会の業務などを中心に行ってきた。
豊かな自然環境に恵まれるとともに都市部への良好な交通アクセスを有する滋賀県。
琵琶湖を中心に東西南北で環境や人々の暮らしぶりが大きく異なるのが特徴です。
このたび、そうした「滋賀ぐらし」の魅力を発信するため、3種類の動画を制作しました。
ひとつ目は、InstagramなどのSNSを通じて、
たくさんの人から投稿された動画をもとに制作した「滋賀移住コンセプトムービー」。
滋賀の風景や暮らし、文化など「滋賀ぐらし」の日常を捉えた動画を
多くの方々から投稿いただきました。
投稿された動画には、雄大な琵琶湖や地域のお祭り、自然の中ではしゃぐ子どもたちなど
何気ない日常の風景が映し出され、
どこかホッとするような滋賀らしさ、滋賀の豊かさが感じられます。

「滋賀移住コンセプトムービー」より。

「滋賀移住コンセプトムービー」より。
また、動画のバックに流れる歌にもご注目。
澄んだ歌声が印象的なこの歌は、滋賀県民のソウルミュージック『琵琶湖周航の歌』です。
歌と編曲を手がけたのは、湖南市に移住した夫婦デュオ・よしこストンペアさん。
明るくポップな曲調が懐かしくも新しい印象です。
山口県内に6つのカフェを展開している〈徳山コーヒーボーイ〉。
店によって異なる外観や内装などチェーン店らしからぬつくり込みと、
こだわりの焙煎から生まれる甘みのあるコーヒーで、
県内外のカフェやコーヒー好きから愛されている。
その副社長を務めているのが、山本統さん。入社7年目で異例の抜擢を受けた。
いかにもやり手に思えるが、
社会に出たばかりの頃は無力感に苛まれ、惰性で日々を生きていたこともあるという。
そんな彼が、徳山コーヒーボーイに入社し、副社長を務めるようになるまでには、
どんな道のりと出会いがあったのだろうか。

山口県上関町(かみのせきちょう)で生まれ育ち、大分の大学に進学した山本さん。
大学時代は、とにかく海外に行くのが好きで東南アジアを旅したほか、
1年間オーストラリアにも留学している。
さらに、卒業旅行では7か国を経て、日本へ戻ってくる壮大なひとり旅を経験。
異国の地を気ままに歩き、まち並みや食文化の違いを楽しみながらさまざまな人と交流した。
コーヒーもこの頃からの大切な人生の相棒。海外でさまざまなカフェスタイルに触れた。
また、家でも学校でもない「サードプレイス」という考え方に共感して
スターバックスでアルバイトもした。
旅好きを生かせる仕事として地理の教員になることを志し、教員免許を取得。
そして新卒でまずは大手旅行会社に就職した。
「僕が高校の頃に出会った地理の先生は、
自分が行った国や地域の話になるととても生き生きと授業をしていました。
聞いている側にもそれが伝わってきて、ああなりたいなと。
添乗員としていろんな場所に行くことで、
のちに教員になったときに実感のこもった授業ができるのではないかと考えました」

焙煎時に一番いいタイミングで窯出しした豆で淹れる、徳山コーヒーボーイのコーヒーは甘みが強いのが特徴。
そうして6年ほど勤めた。しかし次第に、ルールやノルマが課せられる職場の窮屈さが、
山本さん自身の気力を削いでいった。
教員になるという夢も諦め、
どこかやり切れなさを抱えながら数字と向き合う日々を送っていた。
そして東日本大震災が起こり、生き方に向き合う気持ちが変化していった。
「このまま会社にいていいのか、もっと納得できる生き方があるのではないかと考え、
会社を辞めることにしたんです」
もう誰かの下で働くのは嫌だ。
大好きなコーヒーに関わりながら、自分のペースで暮らしたい。
そう思った山本さんは当時結婚したばかりの奥さんと上関町で生活を営む準備を始めた。
当時は空き家になっており、幼少期を過ごしていた祖母の家を借りて、
コーヒー豆を売って生計を立てていこうと計画。
会社を辞めるまでの1年間はその準備に費やした。

BEANS&GIFT店にて。直営店ではドリンクの提供だけでなく、自家焙煎したコーヒー豆の販売も行っている。
こうして7年勤めた会社を2012年に辞めた山本さんだったが、
すぐにある転機が訪れる。
2016年、岩見沢市の山あいに8ヘクタールの山を買ったことがきっかけで、
私の出版活動は始まった。
購入の動機は、エコビレッジをつくりたいという構想をかたちにするためだった。
いまのところ、この土地でのエコビレッジづくりはまだまだ先の話だけれど、
山を買ったことに興味を示してくれる人が多く、
2017年春に、購入の経緯をイラストエッセイとしてまとめた
『山を買う』という小さな本をつくった。

買った山は木が伐採された跡だが、年々、幼木が大きくなっている。
本といっても大手ネットショップでの販売もしていないし、
ほぼ書店営業もしていない状況ながら、予想を超える反響があり、
現在までに800部ほどが売れた。
この出来事は、時間をかければ、小さな出版活動も
やがては経済が回るようになるのではないかという可能性を感じさせる出来事だった。
今回は、出版活動の実情を振り返りつつ、未来の可能性について考えてみたい。

『山を買う』。文字は手書きでイラストも自分で描いた。A6サイズ24ページの小さな本。
これまで商業出版に携わっていたこともあって、本の流通や印刷費のことを考えると、
自費で出すということに魅力を感じられずにいたが、
『山を買う』の刊行で新しい世界が開けたように思った。
その世界とは、顔の見える関係性だ。
本をいつもレジの横に置いてくれた書店さん、
講演会を企画してくれた図書館のみなさん、
たびたび記事にしてくれた新聞記者さん。
地元のみなさんが本の販売をサポートしてくれ、
「本読んだよ!」と声をかけてくれたことが、次なる行動の原動力となった。
これまで何百冊と本をつくってきたけれど、
読者の姿はSNSの投稿で知る程度だったこともあり、
身近な地域の人たちが本を読んでくれたことに、本当に勇気づけられた。

ふきのとうの一生を切り絵によって表した絵本。A6サイズ、24ページ。造本作家の駒形克巳さんが本づくりのアドバイスをしてくれたおかげで生まれた。
2018年夏に、切り絵の絵本『ふきのとう』刊行を機に、
この出版活動の名前を〈森の出版社ミチクル〉として、
さらなる本づくりをやっていこうと考えた。
翌年には、北海道の道南せたな町で、
オーガニックな農法で作物や家畜を育てる〈やまの会〉に取材した本
『やまの会と語った死ぬと生きる』を刊行。
2020年には、山主や林業関係者などに取材した内容をもとに
『山を買う』の続編をつくった。

『やまの会が語った死ぬと生きる』。せたなで農業を行う5名と漁師1名にインタビューを行った。A5サイズ、88ページ。
あの大きな震災から10年が経ちました。
私たちは震災の1年半後に小豆島に移住し、いま農業を生業(なりわい)にしています。

9年目の春を迎えた私たち〈HOMEMAKERS〉の畑。

春作のジャガイモ植え付け準備。
都会から地方に移住して農業をしたい!
そう思っている人が少なからずいると思います。
移住して農業をするには何から始めたらいいか?
時々そんな質問をされることがあるのですが、
「農業」とひと言でいっても規模も形態もさまざまで、
そのスタイルによって適した地域や勉強すべき内容、
取り組み方もまったく違うので、答えはひとつじゃないです。
ここでは、実際に小豆島という離島に移住して
8年間農業に取り組んできた、いまの私たちが思っていることを書きます。

家で食べるように収穫した半端もの野菜たち。きれいに育てられなかったビーツや畑に残っていたワケギなど。それでも自分たちが食べるには十分。
10年前の3月11日、私は名古屋のオフィスビルで働いていました。
ぐわーんぐわーんと船に乗っているみたいな感覚がして、それがあの地震でした。
その日は急いで子どもを保育園に迎えに行ったのを覚えています。
それから数日、テレビやネットでさまざまな報道を見ていて、
地震という自然のとてつもない力の怖さ、
一瞬でなくなってしまう普段の生活の脆さを感じ、
直接被害を受けなかった自分が何をできるのかなど、さまざまな思いがめぐりました。
いろいろ考えたなかで、いまでも頭の中に残っているのは、
人は「買う」ということにすごく依存して生きているんだなと感じたこと。
物流がストップし、スーパーが営業できず、食べものが買えない。
野菜を買うために行列ができて、並んでも数が足りなくて買えない。
誰かが用意してくれたものを「買う」ことで生活してる。
いざ買えなくなってしまったら、当たり前だと思っているいつもの生活が
すぐにできなくなってしまうんだなぁと。
そのとき、もっと生きる力を身につけたい、
生きるために必要なものを自分の手でつくれるようになりたいと漠然と思いました。
なんでもかんでもお金を払って買うんじゃなくて、
少しでも自分で生み出せるようにする。自分たちが食べるものをつくりたい。
その思いが、私たちが農業を始めたひとつのきっかけです。

小豆島に移住してすぐに畑で撮影した家族写真。これがスタート。
移住先探しの旅に始まり、紆余曲折を経て、下田に移住した
津留崎鎮生さん、徹花さんと娘の一家。
自分たちの暮らしを見つめ直し、そのときどきの思いを
夫婦でリアルに綴ってきたこの連載もスタートから4年半、
ついに100回を迎えました。
今回は特別編として、人気記事のベストテンをご紹介しながら、
これまでの移住をめぐる“旅”を振り返ります。
――連載100回おめでとうございます! ここからは、連載開始からいままで、
よく読まれた記事をカウントダウン形式で振り返りたいと思います。

42歳の夫、42歳の妻、5歳の娘の津留崎家は移住することを決意。夫は会社を辞めて、移住先探しの旅へ。(2016年9月)
――10位は記念すべき第1回目でした。
移住先探しの旅を始めると聞いて、私たちも驚きました。
鎮生: いま思えば、移住先を決めないで旅に出るって、よく行ったよね。
行っちゃえば、移住できるだろうという気持ちはあったけど。
徹花: まだ迷いはありました。移住したいけれど、
どういう暮らしがいいという具体的なことは、はっきりしていなくて。
でも旅先で出会った人たちの暮らしを見ながら、こんなことができるんだと、
自分たちが求めていたものがわかるような旅でした。

車中泊ができるように車を改造。自分たちの暮らしを探す旅が始まりました。

下田に移住して1年余り。実際に移住してみて、こんな人は移住に向いていないかも? というポイントをまとめました。(2018年8月)
――9位はこちら。移住したいと考えている人たちにとって興味深い内容だと思います。
こんな人は難しいかも、というポイントとして
・収入を下げたくない
・虫、爬虫類と暮らせない
・心配性すぎる
・教育機関にこだわる
・免許がない、車の運転が苦
を挙げていましたが、いま振り返ってどうですか?
鎮生: たしかにそうですね。
徹花: 収入は本当に下がりました。それで不安になる人は大変かも。
ほかに何かあるかな?
鎮生: 人づき合いが苦手な人はちょっと難しいかな。
ただ、ご近所づき合いが嫌なら別荘地とか山の奥で暮らすという手もあります。
徹花: コミュニティが小さいと何をしてるか丸見えで、
たとえば庭に車がないと「出かけてたの?」とわかっちゃう。
そういうことが苦手だときついかもね。
うちは人づき合いが嫌いじゃないから、居心地はいいです。

最初は業者に依頼したスズメバチの巣の撤去も、自分でできるように。田舎は虫は多いけれど、慣れるそうです。
周南市の中心部から車で40分ほど走ったところに、
15の農家が集まってできた〈須金フルーツランド〉がある。
標高200メートルの盆地に果樹園が広がり、
50年ほど前から梨、ぶどうの産地として知られ、
毎年秋には、フルーツ狩りに訪れる多くの人で賑わう。
その入り口から3キロほど奥に進んだところに、
須金フルーツランドに所属する農園のひとつ〈きときと果樹園〉が見えてくる。
田中友和さん、和歌子さん夫妻が20種類ほどのぶどうを育てている果樹園だ。
ふたりとも、もともと果樹栽培はまったくの未経験。
先代から農園を承継するために、一家そろって須金に引っ越し、
2017年12月にきときと果樹園をオープンした。
「ずっと農業をやりたかったから承継を決意した」と話す友和さんだが、
その道のりは決して平坦ではなかった。
「辞めたいと思ったこともある」というが、やり遂げられたのはなぜなのだろうか。

須金の中でも奥まった場所にあるため果樹園の入り口を示す看板をつくった。必要なものはできる限り自分たちの手でつくっている。
きときと果樹園のある須金は、山と川に囲まれ、昼夜の寒暖差が大きい地区。
果樹の栽培に適した環境で、ぶどうは日の光を多く浴びながら育てられる。

桜が咲く時期のきときと果樹園。1.2ヘクタールのぶどう園のすぐ後ろに山がある、のどかな土地だ。(写真提供:きときと果樹園)
取材で訪れた1月は収穫期を終えたオフシーズン。
それでも、田中さん夫妻は忙しく働いていた。この日行っていたのは、ぶどうの木の剪定。
樹形を整えることは、作業の効率を高めるうえで欠かせない作業だそう。

慣れた手つきで枝を剪定していく友和さんと和歌子さん。自分の背よりも高い枝を切ることもある、なかなか大変な作業だ。
ほかにも、古くなったぶどう棚の修理やぶどう狩りの時期に
お客さんを迎え入れるスペースの整備もこの時期の仕事だ。
一年中ほぼ休みなく働きながら、3人の子どもの子育ても行っている田中さん夫妻。
それでも、いまの生活は充実していて、移住にまったく後悔はないという。
その根底には、「ずっとやりたかった農業をできている」という田中さんの思いがあった。
須金に移住する前、友和さんは福岡県庁に勤める農業系の技師だった。
大学では農学を専攻し、就職のタイミングで農家になることも考えていたが、
技師の採用試験に合格したためそちらに進んだ。
以降は、農道の整備やため池づくりなど農家をサポートする仕事を15年ほど続けてきた。
他県に単身赴任していた和歌子さんが山口に転勤になったのをきっかけに、
山口県の中央に位置していた小郡町(おごおりちょう。現在は山口市)に引っ越した。
その頃から、休日は和歌子さんや子どもと山口県内の観光農園によく出かけるようになる。
観光農園で目にしたのは、自分の手で果物をもいでおいしそうにほおばる子どもの表情や、
そんなお客さんを見てよろこぶ園主たちの姿。

早生のブラックビート。(写真提供:きときと果樹園)
「いいなあ、自分もやっぱり農業をやりたいなという気持ちが強くなっていきました。
特に、観光農園はお客さんと直接話せることが魅力的でしたね」
そう思っていた友和さんに、ある日大きな転機が訪れた。

剪定した枝は一輪車に乗せて運んでいる。枝の向きを揃えているところに和歌子さんの丁寧な姿勢がうかがえる。
新型コロナウイルスの影響で、暮らし方・働き方が大きく変わった近年。
当分テレワークが続く、あるいはもう毎日通勤というスタイルはないかも……
という方もいるのではないでしょうか。
そんな変化により、
自分たちに合った、より良い住環境を求める人たちが検討しているのが、
都心からの近距離の地方都市への移住です。
「もはや、移住というよりも“引っ越し”」というニュアンスに近いのですが、
ライフスタイルの多様性を受け、今注目を集めています。
例えば、茨城県。
都心からのアクセスにすぐれ、
二拠点生活や仕事を変えずに都心への通勤も可能な絶妙な距離感。
JR常磐線特急で上野から約70分の水戸、
学園都市としても知られ、つくばエクスプレスで秋葉原から45分のつくば、
ものづくりのまち笠間、ロックフェスで知名度のあるひたちなかなど、
特色ある数々のまちを擁します。
茨城県では、「IBARAKI DELTA ACTIONS」と称して、
地域や地域住民との多様な関わりを持ち、
その地に活力を生んでいくような深い関係人口づくりを目指して、
戦略的な関係人口施策を、3年前から行ってきました。
このような取り組みは継続しつつ、
「テレワーク」という時代の流れを、
県内に住んでもらうためのひとつのきっかけにすべく、リニューアルしたのが、
移住定住のためのポータルサイト「Re:BARAKI」です。
サイトを見てみましょう。
家の裏には田んぼが広がっていて、遠くには丹沢山系を望むことができる。
夜になると、その手前に2両だけのJR御殿場線がぼんやりとした光を放ちながら走る。
この家に住む松本茂高さん・弘美さん夫妻からそんな話を聞くだけで、
この場所の魅力が伝わってくる。
1年半ほど前、神奈川県小田原市に
〈BESS〉の「倭様(やまとよう) 程々の家」というモデルを建てたのは、
土地からの影響が大きかったという。
「初めてLOGWAY(BESSの展示場)に行って、1週間後には決めていたかな。
ほかのモデルも検討したんですけど、
この土地、そして自分たちの年齢やライフスタイルを考えると
『倭様 程々の家』という選択になりました」と言う茂高さん。

建設関係の仕事をしている松本茂高さんと弘美さんと愛犬・さくら。広縁でリラックス。
奥様の弘美さんも「初めて見にきたときは夏の暑い日の夕方で、
山のほうからすごく気持ちいい風が吹いていたんですよね」と、
この場所に決めた理由を教えてくれた。

家の裏手は広々とした田園風景。
かつて小田原市のまちなかに住んでいたときは、
「家の中にしか居場所がないからどこかに行きたくなって」月1回くらいは
旅行していたという。
しかし今は室内から土間、庭や広縁(ひろえん・奥行きのある縁側のこと)といった
内と外がゆるやかにつながる敷地全体が居場所となり、
「暮らし面積が広がって」あまり遠出をする必要がなくなったそうだ。
「特に最初の1年間はとにかく庭づくりが楽しくて、一日中、庭で過ごしていました。
誰よりも日に焼けていましたよ。
家を建てて完成ではなく、5年、10年かけて充実させていくつもりです」
立派な木ではなく、まだ細い木が多いのはそのためだ。
これから木が生長し、根を張って葉が生い茂る。
夏は木陰をつくり、冬は葉が落ちて日が差す。そんな木々の生長を楽しむ。

これから育つ過程を楽しむ「細い」木。
家を建てる前は森の中の別荘がほしいと思っていたというが、
家を建てることが決まると「自分の庭に雑木林をつくろう」と発想を転換。
「広縁の前を中心に植えています。木は1本ではなかなか育たない。
本来はいろいろな雑木を植えて初めて、正常に育つもの。
根がネットワークになって情報伝達しているんですよね。
これから伸びてきたら剪定など大変ですけど、それはこれからの自分の楽しみです」
木が順調に育っていけば、夏はサンシェードの代わりになる。
ちなみに通常のサンシェードはそれ自体がかなり高温になってしまうという。
「真夏の日差しが強いときにサンシェードの裏側の温度を計ると、
40〜50度になっていることもあります。しかし葉っぱの裏側を計ると28度くらい。
葉には蒸散作用があるので、天然のミストシャワーみたいなものです。
これで夏も快適に過ごせるとイメージしています」
本当の完成は数年後になる。
しかしそもそも、その年月が自然とともにある暮らしの本質なのかもしれない。

土間からつながるリビング。テーブルはウォルナットの木を自分で磨いた。
内閣府が昨年5〜6月にかけて実施した
「新型コロナウイルス感染症の影響下における
生活意識・行動 の変化に関する調査」によると、
首都圏・中京圏・近畿圏の三大都市圏居住者のうち、
これまでに比べて15.0%ほど地方移住への
関心が高まったという結果が出ているという。
この先何を大切にして生きていくかという指標をある程度決めたなら、
住む場所、働くフィールドは環境によって柔軟に変化する、
そんな時代が到来している。
2018年、島根県浜田市にレストラン
〈Fathers my first hero〉をオープンし、昨秋にはナチュラルワイン専門店を新設した
岡本皓資(こうすけ)さん、誉至子(よしこ)さん夫妻も、
そんなふうに人生を歩んでいるふたりだ。
木の茂る丘を開墾した、まるで隠れ家のような佇まいの一軒家レストランは、
コロナ禍にあっても、地元の人たちにとっては非日常の体験ができる場所と評判だ。

丘の上にある雑木林を紹介され、ピンときたという皓資さん。すでにあった空き家を解体するところから工事は始まり、幹線道路から丘の上につながる坂道もつくった。
浜田で不動産業を営む義父の紹介で、
まったく手のつけられていなかった雑木林のような場所を見つけた皓資さんは、
すぐに森や自然の中にポツンとある一軒家レストランのイメージが沸いたという。
「モダンでクリーン、清潔感のある場所にしたかったんです」
開放的な大きな窓から庭を楽しむというコンセプトを据え、
北欧など海外の若いシェフが働いているようなレストランを参考に資料を集めた。
心地よい空間の指標は、自分のポリシーでもある
「目障りなものは置かない」ということ。
デザイン事務所に勤務していた皓資さんは、店のイメージを自分で考えた。
2階分の高さを吹き抜ける天井部分も含めて
無垢材を使用した温かみのある空間だが、
特注の家具とコンクリートの床は硬質なものを選んでスタイリッシュに。
壁にかかったポップなアートや観葉植物のほか
視界に入るものは、庭の眺望以外は必要最低限。
シンプルな空間の中にゆとりが生まれ、
窓の外から差し込む太陽の光の移ろい、
風のゆらめき、星の瞬きなどが彩りを添える。

皓資さん自ら設計案を出し、建築家や大工である義弟と一緒につくった空間。写真は、皓資さんのこだわりをかたちにした、浜田市内を見下ろす開放的な大きな窓や特注の大きなモルタル材のテーブル。庭はまだ発展途上にあり、少しずつ手を入れて育てていく予定。

昼はジビエを使ったハンバーガー(写真は猪のハンバーガー)、夜はコース料理を提供。いずれも併設のワインショップで選ぶ自然派ワインとのマリアージュが楽しい。魚や野菜はおもに地元浜田から旬のものを仕入れるようにしており、バーガーのバンズはお隣の江津市にある、国産小麦、天然酵母を使用した無添加パンのベーカリー〈紬麦〉のものを使用。肉は産地にこだわらず、味やルートに信頼のおけるものを選んでいる。
3月が近くなってくると、いつも思うことがある。
もうすぐ東日本大震災が起こった、あの日がやってくるのだと。
毎年、節目となる日を、何かしらのかたちで残したいという気持ちになる。
昨年は、美流渡(みると)に移住した画家のMAYA MAXXさんとのプロジェクトである
〈Luceプロジェクト〉を、3月11日に立ち上げた。
今年は、この地域の人々にインタビューをした書籍
『いなかのほんね』の発行日を、あの日に設定させてもらった。
ついに10年が経ち、ここでもう一度、記憶を振り返ってみたいと思う。

岩見沢市の美流渡と周辺地域に暮らす人々10組にインタビューをしてまとめた本『いなかのほんね』はもうすぐ刷り上がる。北海道教育大学のプロジェクトの一環として中西出版より刊行。
あの日を境に暮らしはまったく変わっていった。
当時、東京の武蔵小金井にある1969年に建てられた古いマンションで暮らしていた。
長男は生後5か月。私は育児休暇中で家にいた。
偶然、夫も仕事を休んでいた日に震災に遭遇。
12階にいて建物は激しく揺れ、本棚のものがすべて落ちた。
最初は何が起きたのかわからなかったが、その直後に余震が来て、我に返った。
このままでは建物が崩れるのではないかと思い、
息子を抱えて同じ市内にあった実家に避難した。
それからずっとテレビに釘づけとなり、やがて福島第一原発に事故が起こったと知った。

岩見沢市は10年ぶりの大雪。私たちが移住した年も、災害級の雪が降った。
私は大学生のとき、なぜだかわからないけれど、
チェルノブイリ原発事故や世界各地で行われている核実験について
調べていたことがあった。
写真集やドキュメンタリー映画を見たり、
放射線とは何かについての科学的な知識を得たりしていたこともあり、
事故が起こったときには、いままでに感じたことのない、
全身が恐怖で埋め尽くされるような感覚を覚えた。
さまざまな情報が飛び交うなかではあったが、
関東にもホットスポットができていたこともあり、
私は夫の実家があった北海道岩見沢市に移住を決めた。
幸いなことに当時勤めていた出版社が、
北海道での在宅勤務を認めてくれたこともあって、
2011年の夏に引っ越し、テレワークを始めた。

東京では見慣れない花が道端にたくさん咲いていた。
地方への移住というと、スローライフを求めてとか、自然に近い暮らしをしたいとか、
夢を実現させるために踏み出すというのが一般的な捉え方のように思う。
そして、どこに住むのかがとても重要だと思うのだが、
このときの私はとにかくすぐに移住できる場所ということで岩見沢市を選んだ。
移住のビジョンもとくになかったし、
会社のなかでたったひとりだけテレワークを始めたといううしろめたさや、
武蔵小金井のご近所で親しくしていた仲間との別れもあって、
コミュニティから外れてしまった喪失感は大きかった。
岩見沢市で暮らし始めても、なかなか友だちが増えなかった。
テレワークであっても管理職であったため朝から晩まで働いていて、
ほとんど外出しなかったし、息子が通う幼稚園の集まりにも時々参加する程度。
そして話す内容にも気を使っていて、
震災や原発事故について語ることは控えていたため、
移住してきた理由や意味を北海道のみなさんにうまく伝えることができなかった。

こちらに移住して初めて桑の実を木から取って食べた。
最近耳にすることの多くなったSDGs。
持続可能な世界を実現するために
貧困や教育、資源、気候変動など
17のゴールから構成された取り組みのことです。
企業や団体が取り組んでるもの、と思っている人もいるのでは?
実は、私たちひとりひとりが行動・意識を持つことで
目標を達成する一助となることができます。
そこで今回は〈地域おこし協力隊〉のみなさんに
まちで行われているSDGsアクションについて紹介してもらいました。
大きな目標ですが自分の身近なところから始めるられる
SDGsの取り組みについて考えるヒントを探ってみてください。
※SDGsについての詳しく知りたい人は、
こちらをチェックしてみて。
奥州市環境市民会議〈奥州めぐみネット〉は2010年に発足。
奥州市環境基本計画である
「未来を見つめる100年循環都市 地球と共存する奥州(まち)」の
実現に向けて現在約90名の会員が
さまざまな取り組みを実施しています。

代表の若生和江さんは
「SDGsという言葉ができる前から環境問題に意識を向けていました。
自分がしていることはなんとなく大事と思っていましたが、
SDGsという目標が国連で掲げられたことをきっかけに
これまでの活動の意義が明確になった。
背中を押されたと感じました」と話してくれました。

若生さんは岩手県環境アドバイザーとして「エコクッキング」などの講座もされています。
これまでの米・野菜づくりも
やり方次第で環境に負荷をかけていることにも気づけたそう。
岩手は自然が豊かな分、環境やリサイクルなどの
SDGsの目標を都市部より身近に感じられるので、
ひとつのことが多方面へ影響することを痛感するそうです。

SDGs目標を体験できるよう開催された稲刈りイベント。飢餓や土地の豊かさを経験を通して考えるきっかけになりそうです。

市営バスで巡る地元の歴史を辿るツアー。ツアーを通して「住み続けられるまちづくり」や、「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」などのSDGs目標を実現する取り組み。
最近では地元の南部鉄器の会社が
他業種の企業とタッグを組んでイベントを開催。
お互いの持ち味を生かしながら
SDGsが掲げる目標への取り組みを
幅広い世代に伝えるきっかけづくりの場になっています。

南部鉄器の及源鋳造とコラボイベント。地元企業がつくる商品を使うことで「つくる責任 使う責任」、「質の高い教育教育をみんなに」などを体験を通して感じられます。
「SDGsそのものは世の中を変える魔法の言葉ではなく、
各々が意識・行動を変えることで
初めて意味を成していくんです」と、話す若生さん。
〈奥州めぐみネット〉は豊かな暮らしのバトンをつなげられるよう
まずは自分ができることから始められるイベントや、
新たな地域交流の場を生み出す環境づくりを進めています。
information
奥州めぐみネット事務局(奥州市役所市民環境部生活環境課内)
住所:岩手県奥州市水沢大手町1丁目 1 番地
TEL:0197-24-2111
FAX:0197-51-2374
Mail:seikatsu@city.oshu.iwate.jp
Web:奥州市めぐみネット
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小川ちひろ おがわ・ちひろ
東京都品川区出身。大学で移民を学び、言語や異文化に興味を抱く。オーストラリア留学、台湾ワーキングホリデーと海外生活を経験。着任前は都内ギャラリーカフェに勤務。2018年5月岩手県奥州市地域おこし協力隊着任。今年度は台湾向けに東北のリアルライフスタイルやカルチャーシーンを伝えるウェブメディア立ち上げを目指し、自身も旅するように東北でしか味わえない経験を堪能中。