連載
posted:2021.3.3 from:北海道岩見沢市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。
writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/
3月が近くなってくると、いつも思うことがある。
もうすぐ東日本大震災が起こった、あの日がやってくるのだと。
毎年、節目となる日を、何かしらのかたちで残したいという気持ちになる。
昨年は、美流渡(みると)に移住した画家のMAYA MAXXさんとのプロジェクトである
〈Luceプロジェクト〉を、3月11日に立ち上げた。
今年は、この地域の人々にインタビューをした書籍
『いなかのほんね』の発行日を、あの日に設定させてもらった。
ついに10年が経ち、ここでもう一度、記憶を振り返ってみたいと思う。
岩見沢市の美流渡と周辺地域に暮らす人々10組にインタビューをしてまとめた本『いなかのほんね』はもうすぐ刷り上がる。北海道教育大学のプロジェクトの一環として中西出版より刊行。
あの日を境に暮らしはまったく変わっていった。
当時、東京の武蔵小金井にある1969年に建てられた古いマンションで暮らしていた。
長男は生後5か月。私は育児休暇中で家にいた。
偶然、夫も仕事を休んでいた日に震災に遭遇。
12階にいて建物は激しく揺れ、本棚のものがすべて落ちた。
最初は何が起きたのかわからなかったが、その直後に余震が来て、我に返った。
このままでは建物が崩れるのではないかと思い、
息子を抱えて同じ市内にあった実家に避難した。
それからずっとテレビに釘づけとなり、やがて福島第一原発に事故が起こったと知った。
岩見沢市は10年ぶりの大雪。私たちが移住した年も、災害級の雪が降った。
私は大学生のとき、なぜだかわからないけれど、
チェルノブイリ原発事故や世界各地で行われている核実験について
調べていたことがあった。
写真集やドキュメンタリー映画を見たり、
放射線とは何かについての科学的な知識を得たりしていたこともあり、
事故が起こったときには、いままでに感じたことのない、
全身が恐怖で埋め尽くされるような感覚を覚えた。
さまざまな情報が飛び交うなかではあったが、
関東にもホットスポットができていたこともあり、
私は夫の実家があった北海道岩見沢市に移住を決めた。
幸いなことに当時勤めていた出版社が、
北海道での在宅勤務を認めてくれたこともあって、
2011年の夏に引っ越し、テレワークを始めた。
東京では見慣れない花が道端にたくさん咲いていた。
地方への移住というと、スローライフを求めてとか、自然に近い暮らしをしたいとか、
夢を実現させるために踏み出すというのが一般的な捉え方のように思う。
そして、どこに住むのかがとても重要だと思うのだが、
このときの私はとにかくすぐに移住できる場所ということで岩見沢市を選んだ。
移住のビジョンもとくになかったし、
会社のなかでたったひとりだけテレワークを始めたといううしろめたさや、
武蔵小金井のご近所で親しくしていた仲間との別れもあって、
コミュニティから外れてしまった喪失感は大きかった。
岩見沢市で暮らし始めても、なかなか友だちが増えなかった。
テレワークであっても管理職であったため朝から晩まで働いていて、
ほとんど外出しなかったし、息子が通う幼稚園の集まりにも時々参加する程度。
そして話す内容にも気を使っていて、
震災や原発事故について語ることは控えていたため、
移住してきた理由や意味を北海道のみなさんにうまく伝えることができなかった。
こちらに移住して初めて桑の実を木から取って食べた。
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こんなもどかしさが解かれていったのは
「北海道にエコビレッジをつくりたい」と思うようになってからだ。
同時期に会社から独立。これを機にコロカルの編集者である榎本市子さんに、
この構想を話したところ、ここで連載を始めることができて、
より大きな変化が訪れた。北海道に住む人たちから
「エコビレッジをつくりたいなら、この人に会ったらいいよ」
と次々に紹介してもらえるようになったのだ。
そうした人たちは、自給自足的な暮らしをしていたり、
環境に負荷をできるだけかけないような取り組みをしていたりして、
価値観の近い人が多かった。
取材で幼少期からこれまでの話を聞いていくなかで、
自然と打ち解けていくようになった。
コロカルの連載の第1回目は「山、買っちゃう!?」。2015年8月にエコビレッジづくりの土地探しをリポートした。
取材をするなかで、北海道に移住した理由を震災と語る人は少なくなかった。
また、北海道で暮らしてきた人のなかにも、震災をきっかけにして、
エネルギーの自給の取り組みを始める人たちもいた。
いままで心の奥底にしまっていた震災や原発事故についての思いを
語り合えることができるようになって、私は本当に救われた。
また、2017年に市街地から美流渡地区に引っ越して、
より“素”でいられるようになった。
この地の移住者に共通するのは、都会の便利な生活よりも、
不便さがありつつも資源を無駄にせず、
自分たちの手でやってみようと挑戦するマインドがあること。
初めて会ったのに旧知の仲のような感覚があって、
なんでも話せることで、とても心が穏やかになった。
世界中を旅し、岩見沢市の万字地区に移住した岡林夫妻は、東日本大震災を機に自給的な暮らしを真剣に考えるようになったという。
2011年当時、いまのような暮らしをしているなんて、まったく想像していなかった。
震災がなければ、きっといまも武蔵小金井で暮らしていたと思う。
いまはコロナ禍で東京になかなか行けないけれど、数年前までは
このまちに住む古くからの友人たちが開催している小さなイベントを時折訪ねていた。
そんなとき、都会であっても比較的ローカルで、
ここでも持続可能な暮らしを目指す仲間がいて、
居心地のよさをじんわりと感じていたし、
桜が満開の並木を歩くと東京もいいなあと思うこともあった。
連載では北海道以外の取材もした。神奈川に〈廃材エコヴィレッジゆるゆる〉をつくったのは傍嶋飛龍さん。東日本大震災をきっかけに勤め先を退職し、廃工場をエコビレッジにする活動をスタートさせた。
それでもやっぱりいまは北海道がホームなのかな。
東京以外で暮らしたことのなかった自分にとって、この10年は未知の経験ばかり。
その経験を踏んでいくなかで、自分にとって中心となる「文章を書く」という仕事が、
水が流れるようにすんなりとできるようになったことは確か。
これまでずっと苦手意識がつきまとっていて、いつも眉間にシワを寄せながら
1週間以上うんうんうなって書いていた頃と、いま何が違うのかと言えば、
この地で暮らしている自分を、ようやく肯定できたということなのかもしれない。
ご近所さんが除雪に来てくれた。豪雪地帯だからこそ地域の助け合いがありがたい。
思っていることを等身大で書けば、それでいい。
もうすぐ3月11日がやってくる。
鎮魂とともに、震災のおかげで私はここにこうしていることを
静かに噛み締めながら、時を過ごしたい。
まだまだ雪深い美流渡だが、子どもたちは元気。家の裏がゲレンデ。
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