連載
〈 この連載・企画は… 〉
地方都市には数多く、使われなくなった家や店があって、
そうした建物をカスタマイズして、なにかを始める人々がいます。
日本各地から、物件を手がけたその人自身が綴る、リノベーションの可能性。
writer profile
Kenichiro Nagata
永田賢一郎
ながた・けんいちろう●YONG architecture studio主宰。1983年東京出身。横浜国立大学大学院/建築都市スクールY-GSA修了。2013年より設計ユニットIVolli architectureとして活動の後、2018年より永田賢一郎|YONG architecture studioとして活動を開始。2014年よりシェアスタジオ〈旧劇場〉や設計事務所兼シェアキッチンの〈藤棚デパートメント〉、〈野毛山Kiez〉など自身の活動の場を地域拠点化していく活動をライフワークとして展開。藤棚一番街理事。2020年より長野県北佐久郡立科町地域おこし協力隊兼任、横浜と長野の2拠点での活動を始める。
https://www.yong.jp/
横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
今回は2020年6月から活動している、
長野県北佐久郡の立科町(たてしなまち)での取り組みを紹介します。
建築の仕事に限ったことではありませんが、複数の地域に拠点を持ち、
地域の人と関わりながら活動している人たちがいます。
横浜で日々接する知人や友人たちにも、そのような暮らし方をする人たちがいました。
地域の風土をつくるには、外からやってくる「風の人」と
地域に根ざした「土の人」の存在が重要だといいます。
風の人の役割は、地域に新しい価値観や人を運んでいくことです。
横浜の藤棚商店街にて〈藤棚のアパートメント〉と
〈藤棚デパートメント〉の職住近接の暮らしを送るなかで、
自分も風の人となって横浜以外の別の地域にも関われたなら、
もっと多角的に地域のことを見られるようになるのでは、と思うようになりました。
僕にとっての“別の地域”は、長野県の立科町でした。
この立科町は「蓼科」という字のほうがなじみがあるかもしれません。
蓼科山の北側の山麓にあり、県内では東信地区といわれるエリアです。
「蓼」という字が当用漢字になく「立科」という名前が町名になりました。
蓼科山は幼少期からよく家族で訪れていた場所で、
訪れるたびに工作をしたり絵を描いたりして過ごしていました。
自然に囲まれた環境のなかで、最初にものづくりの楽しさに目覚めた場所でもあり、
建築の仕事に進もうと思ったのも当時の環境が影響している気がします。
いつか何かのかたちでここに関わりたいと思いつつ、
それは遠い先の話だと思っていました。
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しかし、そのときは突然やってきました。
ある日偶然に「立科町で地域おこし協力隊を募集します」というWeb記事を発見。
記事を読んで初めて「立科=蓼科」だと知り、
また地域おこし協力隊という制度もこのときに初めてちゃんと知りました。
地域おこし協力隊とは主に首都圏から人材を受け入れて、
その地域に暮らしながら地域協力活動を行うというもの。
募集内容はさまざまで、観光振興や農業支援、婚活支援といったものなど、
各地方自治体が抱える課題に対して人員を募集しています。
協力隊員は実際に住民票を移し、任期後もその地域で継続して
活動を展開していくことを期待されます。
立科町ではそのとき「移住定住担当」「観光振興担当」という2枠を募集していました。
「移住定住担当」は、移住希望者の住居の相談にのることが大きな役割。
これはまさに建築の仕事そのものです。いままで横浜でやってきた活動も
「いかに新しい人たちを呼び込み、地域と交われる場所をつくるか」という、
まさしく「移住定住」にまつわる取り組みだったと、このとき気がつきました。
立科町で移住定住の担当を探しているならば、応募しない手はありません。
その日のうちに応募することに決めました。
建築の仕事で新しく地域と関わる場合、クライアントとのご縁から始まることが多く、
自ら関わりたいと思った地域にアプローチするには、
コンペやプロポーザルで勝つ以外ではなかなか難しいと思います。
だけどこの協力隊という仕組みでは、全国で多くの自治体が人材を募集しており、
こちらから積極的にアプローチすることが可能。
特に建築は地域との関係づくりが非常に重要になるので、
その土地で暮らしながら地域課題に取り組めることはとても有意義なことです。
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こうして2020年6月、立科町へ移住し、地域おこし協力隊の活動を開始しました。
協力隊の制度では、立科町役場の職員として週に4日活動します。
そして残りの3日間を横浜の事務所である藤棚デパートメントや
〈野毛山Kiez〉などで活動し、
ふたつの地域で暮らしながら活動するという動き方になりました。
とはいえ、実際は緊急事態宣言の影響で、
立科町への移動は当初より1か月以上ずれ込み、
また2拠点での活動のため、最初は往来も制限されました。
コロナとタイミングが重なり、また横浜以外の場所で活動を始めたことや、
建築家として協力隊になることに不安がありましたが、
立科町に来て美しい自然に触れ、草木のにおいを嗅いだ瞬間
「ここに来て正解だったんだ」という確信に変わっていました。
立科町の協力隊は町役場と、役場のすぐ近くにある元銀行を改修した、
ふるさと交流館〈芦田宿〉という施設を拠点にしています。
協力隊はまちの活性化のために日々いろんな人と接し、
まちに訪れた人の案内や、店の片づけの手伝い、空き家の相談、
地域行事の手伝いなどを行い、地域との関係を深めます。
地域の人だけでなく、行政の人たちとも関係性を築いてけることも
協力隊の魅力かもしれません。
いきなり新たな地に飛び込んでも、地域と関係性を築くのに苦労すると聞きます。
協力隊になることは、その後そこで活動していくうえで
とてもいい選択肢のように感じます。
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立科町は北側は標高700メートルほど、南の高原エリアは1500メートルほどと、
町内で800メートルの高低差があります。
役場や交流館など主に地域の人たちが暮らすのは、
標高の低い北側の里山エリアで人口の9割がここで暮らしています。
一方、標高の高い南側の高原エリアは別荘地帯です。
小さなまちですが、のどかな風景も観光資源もあり、
例年40~50組ほど移住の問い合わせがあります。
長野県自体が移住先として人気があり、首都圏からの移住希望者が多いです。
一方で、立科町には空き家が250軒以上あると言われています。
引っ越したあと次の借り手が見つからなかったり、
ご年配で介護施設に入られたり、また亡くなられたり、といったケースが多く、
長い間放置されて廃墟化していくものが少なくありません。
長野県の空き家率自体、全国3本の指に入るほどの多さなのです。
年間40~50組の問い合わせに対してそれだけ空き家があれば
うまく回りそうなのですが、そうもいきません。
立科町には空き家バンクの制度がありますが、登録件数はたったの5件ほど。
大多数の空き家は賃貸も売買もされず、積極的に活用されていないようです。
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移住したくても、住める場所がなければ始まりません。
空き家バンクの活性化と利用可能な空き家の発掘が最重要課題でした。
空き家の発掘は、所有者さんの理解がなければ進まないので、
最初は人づてに空き家のオーナーさんを紹介してもらい、空き家を探していきます。
ボロボロの物件もたくさんありますが、中には魅力的な物件も多くあります。
しかし所有者さんや地元の人からすると、ただの汚い廃屋、
散らかった建物といった認識で
「貸せる状態じゃない」
「もう取り壊すつもり」と諦めてしまう方も多いのが現状。
また、空き家バンクという制度自体がまだまだ知られていなかったり、
「うちはまだ空き家ではないから」と関心が薄い人も多いことも問題でした。
また、所有者の方は、建物のどこに価値があるのか、
どのように空き家を活用できるのか、といった具体的なイメージがしづらいようで、
それも二の足を踏ませている要因でした。
もし空き家の活用実例を見られたり、資料が集まる場所がまちの中にあれば、
地域の人が空き家の活用に対してもっと気軽に、
そして具体的に考えられるようになるかもしれません。
僕らの拠点である交流館の周辺は中山道沿いということもあり、
老舗の商店などがたくさんあります。
空き店舗もありますが、空き店舗を借りてカフェを立ち上げた方などもいて、
まちの再活性化の中心エリアになっていきそうです。
この周辺に空き家の相談所をつくれば、通りの賑わいづくりにも、
空き家の活用事例としても良さそうだと考えました。
まちの空き家や空き店舗を見せていただくなかで出会った、
まちの中央の角地にある〈藤屋商店〉さん。
こちらの店舗部分がちょうどいい大きさでした。
役場からも交流館からも近く、中山道沿いの交差点の角地という好条件。
この場所をまちの空き家相談所にできたら、
地域の人たちの目にも止まる場所になりそうです。
ここをどのように借りて、どう活用していくか。
まずは企画をまとめて、役場や大家さんと交渉しなければいけません。
この続きは次回、生まれ変わった空間と、
ここから始まる活動について紹介していきます!
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