北海道・長沼〈野歩(のほ)〉
地元の農家さんを応援したい!
オーガニック野菜がおいしいお弁当

人と人とをつなぐ才能を持った友人、黒川文恵さん

北海道にエコビレッジをつくりたい。
わたしは自分の夢を友人たちに話していくことで、
この数年のあいだに世界が大きく広がったように思う。

「それなら、みっちゃん、あの人に会ったらいいんじゃない?」

道内の友人たちはそう言って、興味深い活動をしている人を次々と紹介してくれる。
なかでも、特にたくさんの人と引き合わせてくれた
黒川文恵さんのことを今回は書いてみたいと思う。
彼女は、昨年、ようやく自分のやりたいことをかたちにし、
長沼で小さなお弁当屋さんを始めたところだ。

岩見沢生まれの黒川文恵さん。大学進学のためにいったん上京し、30歳で北海道へ戻った。一時は就職するが、その後5年ほど農家の手伝いをしながら暮らしていた。

文恵さんと出会ったのは、わたしが北海道・岩見沢に移住して数年が経った頃のこと。
同じ市内に住んでいた彼女は、農家で畑仕事をしながら、
自分の進むべき道を探っていた。

通っていた何軒かの農家は、いずれも農薬を使わず有機栽培を行うところ。
こうした環境に負荷をかけない農法に興味を持っていた文恵さんは、
食の安心安全を考え、食を通じた持続可能な社会を目指そうとする
スローフードの活動にも関わっていた。
そして、北海道各地のローカルな場所で、独自の生き方を模索している人々との
つながりをたくさん持っていたのだった。

2017年4月から〈ごはんや 野歩〉を始めた。最初は配達がメインだったが現在では店舗販売も。

「会わせたい人がいるから」、彼女はそう言って
何人もの友だちをわたしに紹介してくれた。
実際にエコビレッジのような場所をつくっている人や
山の恵みを生かした暮らしをしている人など、その活動はさまざまだが、
会うと必ずと言っていいほど意気投合できるのだった。

初対面なのにもかかわらず、仕事のことや子どもの教育のこと、
ときには政治や経済のことだって、深く意見交換できることに驚いた。
北海道に移住して2、3年は、友人関係も広がらず、
寂しさを感じることもあったなかで、こうして本音で語り合える人たちと
めぐり合えたことは、わたしの大きな心の支えとなった。

店内では料理関連の本も販売。本屋でアルバイトをしていた経験が生かされている。

こんなふうに、わたしのことをいつでも気にかけてくれていた文恵さんだが、
お弁当屋さんを開くまでの彼女は、いつも自分のことは
“後回し”にしているように思えてならなかった。

「自分が出会ってきた有機栽培や自然栽培の農家さんたちの
野菜を使った加工品をつくってみたい」

農家で働いている頃から彼女はそう話していたが、
なかなかベストな方法が見つけられずに、暗中模索の時期が長かったように思う。

畑を手伝うだけでは収入は十分でなく、厨房の経験を積むために
レストランで働いたり、給食センターで働いたりした時期もあった。
そして、あるときは、わたしの住む美流渡(みると)地区で
一緒にカフェができないかと模索したり、またあるときは、
真空パックしたカット野菜をつくって札幌に卸してみたこともあった。

お弁当の配達も自分で行く。美流渡で開催したイベントのときも、長沼から車で40分ほどかけて、お弁当を届けてくれた。

野歩のお弁当は、近郊でとれた有機栽培や自然栽培の野菜がいっぱい。厚焼き卵も長沼の平飼いの卵。調味料も無添加のものを選んでいるが、値段は650円とお手頃。

飛騨のエアルーム野菜をつくる!
農家コミュニティ
〈Craft Harvest Hida Takayama〉
が考える循環型社会

飛騨への移住は何が違う?
仕事、住居、暮らしを支える飛騨コミュニティ vol.5

世界中から集まる、多くの旅人の心を掴んで離さない飛騨。
観光地として有名な飛騨は、高山市・飛騨市・下呂市・白川村の
三市一村からなる広域エリアだ。
伝統に触れつつ、新しい生き方を実践できるこの地域には、
観光客だけでなく移住者が増えている。

地域で暮らすうえで、大きなポイントとなるのが、人とのつながり。
縁を感じられる地域には、移住者は自然と集まってくる。
コロカル×未来の地域編集部でお届けする、飛騨の魅力に迫る連載。
外の人々を迎え、つながりを強くする。そんな飛騨のコミュニティを訪ねていく。

田舎暮らしは実験の連続だ

雪深い、飛騨高山の森の中。
ゲストを快適に迎えるため、玄関先で男性が雪かきを始めた。

「飛騨の冬は雪があって、あたりまえ。
自然の美しさを感じられる瞬間だから、雪かきも大切な暮らしの一部です」

そう話すのは、高山市の森の中で〈オーベルジュ飛騨の森〉を営む、中安俊之さんだ。
オーベルジュとは、宿泊施設つきのレストランのこと。

取材で訪れた日は豪雪。宿泊していたゲストたちも、宿でゆっくり過ごしていた。

中安さんは、イタリアとオーストラリアでシェフとして活躍し、
長年の海外生活を経て3年前に帰国。
1979年から〈飛騨の森〉というペンションを経営していた奥さんの実家がある
高山市に移住し、地域に根ざした暮らしにシフトした。

飛騨の森は、イタリア料理も楽しめるオーベルジュとして生まれ変わり、
中安さんたちが戻ってきてからは外国人旅行者も増えた。

〈オーベルジュ飛騨の森〉オーナーの中安俊之さん。

中安さんは、高山で自然の恩恵を受けて暮らせていることに、
日々、思いをめぐらせているという。
山はなぜ美しいのか、水がなぜおいしいのか、
そういったことを突き詰めて考えていくと、
田舎はスローライフではなく、実験の連続なのだそう。

自身の考えるまちのビジョンを熱く語り、より良い暮らし方を追求する
中安さんが目指すのは、持続可能な循環型社会だ。
そのヒントを得たのは、イタリアの地方だという。

「この土地に誇りを持ち、自信をもって発信できる人たちを増やしていきたい。
シンプルな考えですが、自分がかつてイタリアの地方で感じていたことを、
高山でもあたりまえにしたいと思っています」

その手段のひとつとして、飛騨地域の農家コミュニティ
〈Craft Harvest Hida Takayama〉を立ち上げたのが2017年の夏。
土と向き合う文化を未来につなげる、若手農家の知識の共有の場だ。

山に囲まれた農地で、待ちに待った収穫。(写真提供:Craft Harvest)

寒冷地で冬が長い飛騨では、作物の収穫時期は限られる。
農業は、個人や家族単位で取り組むことが多いため、
より良い作物を育てようと大胆に実験するにはリスクも伴う。

「作物にもよりますが、この地域だと、年に1、2回しか収穫できません。
そうすると、人生ずっと畑と向き合っても、自分で実験できる回数は限られています。
個人ではなく、地域の農家同士が知識を共有することで、
実験する野菜のテストサイクルを短くできると思っています」

中安さんは、こうした取り組みを通して、
次の世代にバトンを渡すプロセスこそ重要だと話す。
そもそも、どういった経緯でこのような考えに至ったのだろうか。

いなべ市と連携し、映像制作。
再発見した移住先の魅力とは?
ビデオグラファー
ウラタタカヒデさん

まちの魅力は「いいかげん」!?

「いいかげん」という言葉には、
ご存じの通り「ちょうどよい」と「でたらめ」という相反する意味がある。

文脈や受け取る側の印象によって、どちらにも取ることができてしまうわけだが、
三重県いなべ市は大胆にもこの言葉をテーマにプロモーションビデオ(以下、PV)を
つくってしまった。

(いなべ市プロモーションムービー『いいかげんな街 いなべ』より)

『いいかげんな街 いなべ』は、いなべの魅力を市内外に広くPRすることを目的に、
官民協働で制作されたPVだ。
撮影・演出などを担当したビデオグラファーのウラタタカヒデさんは、
愛知県弥富市の出身で、いなべに移住してきたのは7年ほど前。
それ以前は名古屋や京都にも住んでいたことがあり、
いなべにやってきたのもたまたまで、特にこだわりはなかったようだ。

「20代のときはスノーボードに夢中になって、冬場はずっと山にいて、
夏はスノーボードの練習施設で働くような生活をしていたのですが、
映像に興味を持ったのもスノーボードがきっかけでした。
最初は見よう見まねで撮影していたのですが、
サラリーマンをしながら知り合いの下で修業させてもらい、
3年前に会社をやめて独立したんです」

ビデオグラファーのウラタタカヒデさん。

移住してしばらくの間は、いなべに知り合いがほとんどいなく、
遊びも仕事も市外に出かけていて、なかなか地域に入り込む機会がなく、
意識も外に向いていたというウラタさん。

「映像の仕事に関しても、いなべには何もつてがなかったので、
修業させてもらった四日市界隈や伊勢のほうによく行ってました。
それで外の地域のプロモーションに関わらせてもらったとき、ふと思ったんです。
せっかくいなべに住んでいるのだから、僕自身ももっと知りたいし、
いなべをアピールしなきゃいけないんじゃないかなって」

今ではすっかり、地域と深くコミットしているように見えるが、
市民や行政とともに、一体どんなPVをつくったのだろう。
そして自分の暮らすまちに対する新たな発見はあったのだろうか。

藤原町古田地区で、田園風景を撮影するウラタさん。(写真提供:いなべ市役所)

「いいかげん」の裏にあるもの

「いいかげん」という言葉に込めた思いを、
いなべ市企画部広報秘書課の伊藤淳一さんは、こんなふうに説明してくれた。

「いなべは何もないところだと思われがちですし、実際に田舎なんですけど、
都会からもほどよい距離にある。
田舎過ぎず、都会過ぎないちょうどよさを打ち出したいと思いました。
官民協働というのも今回の大きなテーマで、
市民のみなさんに出演していただいていますし、
市内唯一の高校であるいなべ総合学園の放送部の生徒さんが、
メイキングムービーをつくっているんです」

いなべ市役所の伊藤淳一さん。

今回の映像の舞台となった3地区のひとつ、藤原町鼎(かなえ)地区。中央にあるのは映像にも登場する地域拠点〈○鼎家〉(かなえハウス)。(いなべ市プロモーションムービー『いいかげんな街 いなべ』より)

たしかにいなべには、全国的に有名な観光スポットもないし、
自然は豊富だけれどもそのスケールが突出しているわけでもない。
だけど、暮らすうえではその「何もなさ」がむしろちょうどいいのかもしれない。

「『いいかげん』というキーワードを行政の方から聞いたとき、
単純におもしろいなと思いました。だけど、
それを表現するのって実はすごく難しい。だって住んでいる人たちにしてみれば、
『自分たちはいいかげん(でたらめ)に暮らしているわけじゃない』
と思うのは当然じゃないですか。どうやって映像にしていくべきか悩んだのですが、
市役所の加藤さんを主役にすればいいと思ったんです。まさか本当に、
その案が採用されるとは思わなかったけど(笑)」(ウラタさん)

取材のこの日、映像制作に携わったメンバーに〈○鼎家〉に集まってもらった。

大切な本『寂しい生活』との
出会いと気づき。自分の暮らしを
見つめ直すきっかけは、
冷蔵庫にあった!

家計を見直して、津留崎家に起きた変化とは?

伊豆下田に移住したカメラマンの津留崎徹花さん。
『クリアファイル家計簿』という本を参考に
家計を見直したところ、津留崎家に多大な変化が……! 
同時に、ある1冊の本と出会い、感銘を受けます。
暮らしを見つめ直すことで、自分を見つめ直すことになったようです。

第45話・見どころいっぱいの
神戸ハイキング! 塩屋の森や林を
スケッチブック片手に散策

第45話
今日は塩屋〜長田の豊かな自然を満喫。

今回グレアムさんが向かったのは塩屋の「林」。
塩屋から須磨、長田までは、いろんなルートの
ハイキングコースがあるそうです。
グレアムさんは散歩がてらハイキングコースを散策し、
木々のなかで、新しいストーリーを練ったり、
アイデアをスケッチブックに書き出したり。
今回は何やらラッキーな出会いもあったそうで……。

今回もスルスルと横にスライドしながら、お楽しみください。

古い家を直して暮らす。
改修のビフォーアフター!

暮らしながら、いまも少しずつ改修中

私たちがいま暮らしている家は、築130年くらいの古い農村民家です。
たくちゃん(夫)のひいおじいちゃんの代に建てた家
(いつか詳しいことを調べてみたいなと思ってます。
ファミリーヒストリーをもっと知りたい!)。

何十年も人が暮らしてきて、その時々の暮らし方によって手を入れてきた家。
もともとは土間があって竈(かまど)があって、そこで料理をしていたんだろうけど、
そこに床をつくって流しやガスコンロを設置して新たな台所ができたり。
建てた頃にはなかったであろう壁が設置され、部屋が小さく分けられていたり。
そうやって継ぎはぎされて変わってきた家の歴史をひもといていくのは
結構おもしろかったりします。

5年前の冬。最初の写真と比べるとだいぶ玄関まわりは変わりました。

私たちがこの家で暮らし始めたのはいまから5年半前。
私たちにとっての幸運は、古いままで残っているものが多かったこと。
竈は使われてはいなかったけどそのままの形で残っていたし、
家も大きなリフォームはされていませんでした。

ただ逆に言うと、傷んでいる部分がけっこうあって、
床下の材が腐って、床がべこべこしてるところは何か所もありました。
家の横に蔵も残っていたのですが、雨漏りはひどいし、
土壁がくずれてしまって壁がないところはあるしという状態。
5年半経ったいまも、現在進行中でいろいろなところを直しています。

改修前のキッチン。

古いキッチンはすべて撤去して、新しく入れ替えました。

ふと、もともとここはどんな家だったかなと思うことがあり、
改修前の家の写真を見る機会があったので、ビフォーアフターを比べてみようと思い、
改修前と同じようなカットで写真を撮りました。

改修前の竈。すでに使われておらず物置きになってました。

竈は残しました。煙突部分を黒く塗り直しただけでだいぶ雰囲気が変わりました。

ちなみにこれから家を改修しようと思っている方は、
改修前の写真を隅々まで撮っておくことをおすすめします。
当たり前ですが、改修したら前の状態はなくなってしまうので。
その家の歴史を残しておくためにも!
後々、比較したりすると楽しいですしね。

改修前の玄関から居間への引き戸。

畳から板張りに改修。引き戸は新しいものに入れ替え。

ちなみに私はちゃんとしたカメラでは撮ってなくて、
iPhoneで撮ったものしか残っていません。
ま、それでも残っていただけよかったですが。

改修前の縁側。

縁側の床はかなり傷んでいたので張り替えました。窓は透明ガラスに入れ替え。

移住者がさらなる移住者を呼ぶ。
小樽から美流渡へ、
古家でカフェを開く夢を持つ家族

写真提供:Out Works Zootj

運命の糸に導かれるように美流渡(みると)へ来た人

わたしが今年の1月にようやく移住を果たした岩見沢の山間部、美流渡(みると)。
ここに住む人々について、この連載で何度か紹介してきたが、
まだまだ書き足りない、そんな想いを持っている。

昨年秋にこの地へやってきた新田洵司さん、陽子さんは、そうした家族で、
わが家の境遇と重なる部分が多いのも、不思議なめぐり合わせなのかなと思っている。
お互い東日本大震災がきっかけで北海道に移住し、
数年間は住宅街で暮らしていたが、同じくらいの時期に美流渡へ転居。
ほかにも共通点があって、0歳児の子育て真っ最中だし、
古家を自分たちで改修しているところも親近感がわいてくる。

陽子さんと洵司さん。長女の晴ちゃん。神奈川で暮らし、ともにアウトドアメーカーに勤務。2013年2月に洵司さんの出身地である小樽に移住。陽子さんは、そこで〈コーローカフェ〉を営んでいた。

しかし今回、取材にあたって、陽子さんに話をじっくり聞く機会をもらい、
大きく違う点もあることに気がついた。
彼女が美流渡への移住に“ゆるがない気持ち”をもっていたことだ。

わたしたち家族は、右往左往しながら(ゆらぎすぎ!)
美流渡への移住に2年もかかってしまったのだが、
彼女はこの地に足を踏み入れたその瞬間から、
まるで強い磁石に引きつけられるように、たった半年で移住したのだった。

新田さん家族が住む家から見える景色。山に囲まれ、炭鉱住宅が並ぶ場所。(撮影:新田陽子)

わたしが初めて新田さん家族を訪ねたのは昨年10月。もと炭鉱住宅を改修しており、内壁をこれからつくろうという段階。まだ工事現場といった状態のなかで、家族は暮らしを始めていた。

「小樽でカフェをやっていたんですが、ちょうど軌道にのってきた頃に、
子どもを授かったんです。そのとき、どこかに移住したいとフッとひらめいたんですね」

この“ひらめき”は、彼女の第六感と言い換えられるのかもしれない。
さっそく、陽子さんは移住について友人に相談。
すると友人は、彼女に合いそうなところとして、美流渡という場所を教えてくれ、
この地区の地域おこし推進員(協力隊)につないでくれたのだった。

取材の日に訪ねると、中は見違えるように整っていた。梁をそのまま生かしつつ天井を広くとるようにしている。

コーヒーを淹れてくれた陽子さん。小樽で営んでいたカフェで出していたオリジナルブレンド。

〈キャットプラザ with ネコリパブリック@西葛西〉 オープン! 新しい猫助けの仕組みとは?

今日、2月22日は「猫の日」! 
そんな本日、東京・江戸川区に、新しい保護猫のためのスペース
〈CAT PLAZA with NECO REPUBLIC〉がオープンします。

これは、保護猫カフェを全国で6店舗運営する〈ネコリパブリック〉と、
東京/千葉にて5病院を運営する〈ACプラザ苅谷動物病院〉が共同運営する、
保護猫とのふれあいや譲渡促進を目的とした施設。
動物病院と保護猫カフェのコラボレーションによって、
保護猫を家族にする文化の促進を目指します。

〈CAT PLAZA with NECO REPUBLIC〉は、
〈ACプラザ苅谷動物病院 葛西橋通り病院〉内にできた、
保護猫のためだけの、独立した部屋。

ここではネコリパブリックの保護猫達が生活しており、
動物病院を利用する人や、通りがかりの人など、保護猫に興味がある人なら、
どなたでも500円の寄付をすることで、
気軽に保護猫たちとのふれあいができるスペースなんです。

猫部屋にいる保護猫たちは、もちろん全員里親募集中。
ほかのネコリパブリックの店舗と同じように、全員が避妊去勢済みの、おとな猫たちです。
保護猫スペースでふれあって、家族として迎えたいと思ったら、
ネコリパブリックの面談などを経て、審査が通ったら里親になることができます。

学童保育がなければどうする?
働き方を変えてみる!
移住先で複数の仕事をもつ
という選択肢

状況が変わらないなら、自分が変わればいい!

伊豆下田に移住した津留崎さん一家。
娘は4月から小学生ですが、学校近辺に学童保育がないことが判明。
市長に直訴もしてみましたが、事態はすぐに変わるわけではありません。
ならば、自分の働き方を変えるしかない!
と、自宅でできる仕事を探すことに……。
いくつものナリワイを持ちたいと考えていた津留崎さんの働き方に注目です。

カメラストラップは〈FURIKAKE〉!
生活を楽しくするプロダクトを
つくりだす高松の夫婦ユニット

いつもの暮らしをちょっと楽しくするカラフルなプロダクト

毎日のように使うカメラ。
記録する、発信する、いろんな意味でカメラはなくてはならない存在。
働いているときも、普段の暮らしのなかでも。
そのカメラを私はサコッシュ(ショルダーバッグ)のように
いつも肩からかけて持ってるのですが、たすきのように左肩から斜めにかけてるのが、
FURIKAKE(フリカケ)〉のカメラストラップです。

カラフルな色がそれだけで元気をくれる〈FURIKAKE〉カメラストラップ。

FURIKAKEさんの事務所で。得丸成人(なるひと)さんと奥さんの美由紀さん(左)と。

FURIKAKEさんは、香川県高松市を拠点に活動するクリエイターチーム。
得丸成人さん(以下、得さん)と奥さんの美由紀さんのおふたりで活動されてます。
コンセプトは、

「FURIKAKEはGood Taste なDesign Seasoning。
手作りによるオリジナルデザインのカメラストラップやアクセサリーを中心に、
生活を楽しくするflavorを創出しております」

とされていて、まさに白ご飯にかけるふりかけ!
白ご飯でも十分おいしいのですが(普段の暮らしでも十分楽しいのですが)、
ふりかけをかけることで(FURIKAKEさんのカメラストラップを持つことで)、
いつもと違う味を楽しめる(いつもよりワクワク感が増す!)。
という感じです。

得さんとの出会いは、2014年の春。
私は〈小豆島カメラ〉という活動を島の友人たちとしていて
(小豆島カメラについてはこのあたりを読んでいただければ!)、
まだ活動が始まりの頃、集合写真を撮りました。

小豆島カメラの活動当初、カメラストラップが黒い頃の集合写真。

カメラはオリンパスのミラーレス一眼レフ。
カメラストラップは最初からカメラについている黒いやつ。
ストラップに関して私たちは特に何も思っていなかったのですが、
その集合写真をたまたま見てくださった得さんは
「ストラップを変えたらもっと楽しくなる!」と感じ、
そこからやり取りが始まりました。

ちょうどFURIKAKEオリジナルのカメラストラップの販売を
スタートしようとしていた得さんが、なんと小豆島カメラオリジナルの
ストラップをつくってくれることに!

いま思えば、同じ香川県同士、同じタイミングでスタートしようとしていて、
カメラの活動とカメラストラップの製作・販売がつながるってすごいご縁。
つなげてくれた井上くん(島の友人)に感謝。

いまはみんな違う色のFURIKAKEカメラストラップを使っています。

いまでは小豆島カメラといえば、OLYMPUSカメラと
FURIKAKEカメラストラップというくらい、小豆島カメラのイメージになっています。

OLYMPUSさんのこの大きさのカメラだから、毎日のように肩からぶらさげて持っていられる。(撮影:牧浦知子)

小豆島カメラオリジナルのストラップはロゴ入りです。

築60年以上の空き家を救いたい!
古家の改修方法を学ぶ
〈セルフビルドの学校〉が始まる

住みたい人がいて空き家もあるのに、移住が進まない理由

岩見沢の山里で、またひとつ新しい挑戦が始まった。
地域おこし推進員(協力隊)の吉崎祐季さん上井雄太さんが企画した、
古家の改修方法を学ぶ〈セルフビルドの学校〉だ。

ふたりはこれまで、この地域に移住を希望する人たちから、
住まいについての相談を受けてきた。
美流渡(みると)をはじめとする山間の地域は元炭鉱街。
閉山とともに人口が激減し、空き家が多数残されているのだが、
その多くは築年数が古く修繕が必要となっている。

「移住を希望するみなさんには、直せば住めますよと話していますが、
わたしたち自身も実際にどうやって直すのかわかりませんし、教えることもできません。
こんな状況なので、移住に興味があっても、結局は住むのは難しいと思う方が多くて、
空き家は年々廃墟のようになっていきます。住みたい人がいて
空き家があるのに、何とかならないだろうかと思いました」(吉崎さん)

ワークショップが行われたのは上美流渡にある古家。

こうした想いから、家を修繕できるスキルを自分たちも身につけたい、
またほかの人たちとも知識を共有したいと考え、
今回のワークショプ開催へと踏み切った。

手がける物件は、一昨年に吉崎さんが上美流渡に取得した築60年以上という古家だ。
ここは森に囲まれている地域だが、炭鉱街だった当時は、
料亭として使われていたようで、2階には丸い窓が取りつけられている。
そのため彼女はここを〈マルマド舎〉と名づけた。

2階にある丸い窓。

人家の少ない森の中に建っている。

吉崎さんがここを取得した理由は、大工の知識を身につけたいと思ったから。
これまでDIYで、マンションや店舗の内装を手がけたことがあるが、
家の構造に関わる部分の改修は未経験。
そこで地元の仲間たちと一緒に、この家を独学で改修しようと考えていたのだが、
あるとき長沼に住む大工〈yomogiya〉の中村直弘さんに出会ったことで、
ワークショプの構想が広がっていった。

講師となった中村直弘さん。

yomogiyaは「まちの大工さん」を掲げ、1坪のガーデニング小屋や
トレーラーで移動できるコンテナサイズの小屋など、
施主のこだわりを引き出すような、木の風合いを生かした建物を生み出してきた。
また古道具や古い建物など、人々の手の温もりを感じる物への愛着もあり、
今回の企画に興味を持ってくれたのだった。

温室つきのガーデニング小屋。(撮影:yomogiya)

1月21日、第1回となるセルフビルドの学校が開かれた。
テーマとなったのは、主に柱や土台など基礎部分をどう修繕するのかだ。
受講者は7名。一般公募したのだが、集まったのはいずれも腕に覚えのある人ばかり。

例えば由仁で鍛金工房(銅・真鍮を打ち出して形をつくる技法)を営む竹島俊介さんや
岩見沢で家具を制作する織田義史さん。
このほか、すでに大工の見習いをやっているという深田康介さんなどだ。

受講者のみなさん。

「もう、みんな勉強しなくてもできるんじゃない?」

講師の中村さんが語るように、
織田さんは自ら建物を修繕してアトリエをつくっているし、
竹島さんも農家の納屋を改装して工房をつくろうとしているところ。
しかし、だからこそ今回のワークショプの重要性を感じたといえるのかもしれない。

「経験はあっても、基礎の部分はこれまで知識がなくて触れなかったんです。
そこがわかれば、今後、古家を探すときにも自由度が広がると思って」(竹島さん)

マルマド舎は、内壁や床などをはがし、柱や土台が見える状態になっていた。

ワークショップ中、推進員のふたりも積極的に作業を進める。上が上井さん、下が吉崎さん。

講師となった中村さんの手元を、受講者たちは真剣に見つめる。

「カメラマンときどきパン屋」
という働き方は実現可能? 
移住一家の1か月の収支から考える

「二足のわらじ」は
どうしたら実現できる?

伊豆下田に移住したカメラマンの津留崎徹花さん。
パン好きが高じてパンづくりに熱中し、周囲にも好評の
手づくりのパンを販売してみよう! ということに。
2日間のイベント販売は盛況に終わり、これからも本業の傍ら、
ときどきパン屋をやりたいと考える徹花さんですが、
どうしたらそれが可能? そもそも、それで家計は成り立つの??
移住者が今後の働き方を考える、実践的なストーリーです。

積丹の天然〈神海苔〉を知ってる?
神恵内村〈いちき岡田商店〉
地元民に愛される、幻の味

ほとんどが地域内で消費される、幻の海苔

ウニ、イクラ、サケ、カニ、ホッケなど、数多ある北海道の海産物のなかで、
海苔のイメージはあるだろうか。
実は北海道の多くの日本海沿岸の地域では天然の岩海苔が採られている。
しかし天然ものゆえに少数ロットしか生産されず、
ほとんどは地域内消費に終わってしまっている。
札幌にすら、あまり流通していない状況だ。

積丹半島にある神恵内村(かもえないむら)も然り。
そんな地元の海苔のおいしさを広く伝えたいと、
Uターンで神恵内村に戻ってきた〈いちき岡田商店〉の岡田順司さんは、
地元で食料品などを販売する商店経営のかたわら海苔づくりを始めた。

「沿岸地域の人たちにとって、
この時期においしい海苔が食べられることは常識です。
それを神恵内の価値として、世に出したいと思いました」

と、きっかけを話してくれた岡田さん。

高校から札幌に出て、そのまま大学に進学した。
大学ではヒップホップダンスに目覚め、踊りに明け暮れる毎日。
そのときの経験を生かし、現在でも村の子どもたちにダンスを教えている。
積丹周辺の学校の先生にも、年数回、指導に行くこともあるという。
そんな異色のセンスと派手なルックスを携えて、
神恵内村に戻ってきたのは約10年前、25歳の頃だ。

冬の神恵内村。

「戻ってきたときは、村に活気がないと感じました。
経済循環も悪いし、疲弊している。
対外的に“神恵内”という名前の認知度が低かったことも問題でした」

海苔業の担い手も少なくなっていた。
岡田さんが師匠と呼ぶ3人は50代、60代、80代。
だから30代の岡田さんが技術を受け継いでいくことに意味がある。
そして海苔を広めていくことにより、神恵内村のブランディングができて、
知名度を高めていくことができる。そんな思いで海苔づくりに乗り出した。

岡田さんのつくる〈神海苔〉は、希少な天然の海苔。まず封を開けるとふわっと磯の香りが漂ってくる。後味にも風味が残り、ご飯がいくらでも食べられる。少し直火であぶると最高だ。

天然海苔の風味は、養殖の10倍!

大寒の頃の天然岩海苔が、一番品質が良いとされている。
だから地元では「寒海苔」と呼ばれている。
そこで岡田さんは、神恵内の「神」の字を用いて
〈神海苔〉(かんのり)と名づけた。

漁の季節、積丹半島は当然、雪に覆われる。

「養殖に比べたら、天然海苔は風味が10倍良い」と表現する岡田さん。
「師匠からは、海苔を採るときにその場でちょっと食べてみて、
おいしかったら採ればいいと教わりました。
その場で食べてみると、爆発的な磯の香りがしますよ」

時に冷たい水しぶきを浴びながらの作業。

〈神海苔〉のつくり方を教えてもらった。
まずは海で岩海苔を採る。
海苔漁が漁協から許可されているのは、12月下旬から4月末までの7〜12時。
真冬なので、厳しい寒さとの闘いだ。
波打ち際の岩場に張り付いている岩海苔を見つけては、剥していく。

繊維の長い岩海苔は「糸海苔」と呼ばれている。

日光の杉やいちごを活用!
〈NIKKO ART PLANNING〉で
新たな商品をつくる柴田智子さん

外国人の視点を介して、地元の魅力を知る

里山の牧歌的な風景が広がる、日光市東南部の小代(こしろ)地区。
小屋といっていいほど簡素なつくりの東武日光線・下小代(しもごしろ)駅を出ると、
はす向かいにある木造平屋建ての、堂々とした建物が目に飛び込んでくる。
10年ほど前まで、現在の下小代駅の場所にあった旧駅舎なのだが、
それを移築保存した中心人物が、駅前の家で生まれ育った柴田智子さんだ。

柴田さんの実家の隣に、曳家工法で1か月かけて移設された旧下小代駅舎。いまはイベントなどで使うこともあり、柴田さんはこのスペースの活用も考えているという。

1929年(昭和4年)、東武日光線開通時に建設された旧駅舎が、
老朽化を理由に建て替えられることになった際、地元の有志が保存運動を展開して、
2007年に実現。2009年には登録有形文化財となっている。
柴田さんにとって旧駅舎は、幼い頃から毎日目にしてきた
何でもない風景の一部だからこそ、失いたくない場所だった。

「下小代駅は無人駅だったこともあり、道に迷った方や何かに困っている方など、
いろんな方が駅前の私の家にやってくるんです。
日光だから外国人の観光客も多かったし、遠足の途中で雨が降ってきて、
小学生が30人くらい雨宿りをするようなこともありました。

突然わが家に来た見知らぬ人に、母は漬け物を振る舞い、
父は父で偶然出会った外国人を家に招いたりしていたので、
私自身もいろんな人とコミュニケーションをとることが
自然と好きになったのだと思います」

旧下小代駅舎の昔ながらの改札。

東京の美大で設計を学んだ柴田さんは、卒業後、デザインや建築の仕事をしながら、
主に外国人をターゲットにしたキッチン設備のある宿泊施設〈NIKKO INN〉を、
実家の近くでパートナーとともに運営していた(現在は休業)。
訪れた外国人は“何の変哲もない”田舎の風景に感激し、
カエルやセミなどの大合唱に驚いたという。

「外国人が畳や障子や素朴な風景を褒めてくれるのを目の当たりにして、
日本の文化のすばらしさに気づかされたのですが、
それをもっと多くの日本人に実感してほしくて。
そのヒントが食にあるような気がして、
東京で〈WORLD BREAKFAST ALLDAY〉(以下、WBA)という
カフェレストランを始めたんです」

2か月ごとに変わるWBAのメニューにつく、各国の朝食文化にまつわる説明書き。柴田さんが考案し、イラストも手がけた。

2013年、外苑前にオープンしたWBAは、世界各国の朝ごはんの専門店。
たとえば日本の朝食の定番、白いご飯とお味噌汁、納豆、卵、焼き魚などは、
日本の食文化が凝縮されたメニューといえる。
同様に、世界各国の朝ごはんを食べ、その味を懐かしんで来店する外国人と
コミュニケーションをとることで、他国の文化を学び、
ひいては日本の文化を振り返るきっかけになればいいという思いがこもっている。

実家を改装し、NIKKO INNの受付として使っていたスペース。現在はNIKKO ART PLANNINGのアトリエオフィスとして改装準備中。

冬の野良作業、
暮らしを整える大事な時間

ずっと気がかりだった廃材の片づけを敢行!

日本全国大寒波到来中。
小豆島でも寒い日が続いています。
畑の土は凍り、足の指がしもやけでかゆいです。

1月もあっという間に月末になってしまいました。

私たちにとってこの「冬」というのは本当に貴重な時間。
毎週金・土曜日に営業している〈HOMEMAKERSカフェ〉は
12月後半から2月後半までの2か月間は冬季休業。
畑作業はもちろん毎日していますが、それでも夏に比べたら草も生えないし、
水やりも頻繁にしなくていいし、オクラやナスみたいに毎日収穫しなくてもいいし、
忙しさがだいぶ違います。

この精神的にも体力的にもゆとりがある冬時間に、
気になっていたあれやこれやに手をつけていきます。

3年間、積みっぱなしだった廃材。

ひとつずつ切断して片づけ。

今年は年明け4日から、もう3年間くらいずっと気になってた
廃材の片づけを始めました。

私たちが小豆島に引っ越してきた頃、うちの敷地には
祖父ちゃんやひい祖父ちゃんが使っていたたばこの乾燥小屋がありました。
当時すでにぼろぼろで、最初は雨漏り程度だった屋根もいつしか崩れ落ち、
屋根が崩れると、天井や梁など一気に崩れ始めました。
一度は改修も考えたのですが、最終的には撤去することに。

そのときに、処分するのにもお金がかかるし、何かに使うだろうと、
とりあえず残しておいた廃材(主に木材)たち。

再び内装や家具の材として使えそうなもの、使えなさそうなもの。
再利用できなさそうな木材は、オンドルの燃料として
廃材を活用してくれる近所の方のところへ。
捨てればゴミ、燃やしたら暖房!

軽トラに山盛り載せて何往復も。

大きな釘は叩いて潰したり、抜いたり。

廃材の片づけには時間がかかります。
ひとつずつ運べるサイズまでカットしたり、大きな釘を抜いたり。
手伝いに来てくれていた父母とともにいろは(娘)も参戦して3日間。
ようやく地面が見えました。
ほっ。これで気になっていた作業がひとつ完了です。
この冬の間に、ここに野菜の苗を育てるための温室を建てる予定ですが、
できるかな、できないかな。がんばります!(笑)

3年間積みっぱなしだった廃材がきれいに片づきました。広いなぁ(笑)。

北海道の森の中をひとりで開墾!
小さなコンテナに住む移住者
トシくんを訪ねて

フィリピンから日本へ。農業をやりたいと各地を巡って

今月、わが家が引っ越した岩見沢の山間部には、いま個性的な移住者が増えている。
わたしが住む美流渡(みると)地区は過疎化が進んでおり、人口はわずか400人ほど。
市街地に住む多くの人々から見れば“不便な田舎”だが、
あえてここに引っ越してくる移住者は、自分の暮らしを見つめ、
独自の考えを貫こうとしている人と言えるかもしれない。

彼ら彼女らから、わたしはここで暮らすことの意味や
おもしろさを教えてもらうことも多く、常に刺激を受けている。

そうした移住者のひとりが、2016年初夏、
この地にやってきた阿部恵(さとし)さんだ。

みんなからトシくんと呼ばれる彼は、美流渡の隣の毛陽地区に
約2ヘクタールの土地を購入し、たったひとりで雑草を刈ってこの地を耕し、
コンテナを改装した小さな家に住んでいる。
わたしたちが取得した古家の改修や引っ越し作業を率先して手伝ってくれる、
本当にありがたい友人でもある。

トシくんは現在27歳。大学までマニラで育ち、2016年にこの地に移住した。

トシくんのお母さんはフィリピン人、お父さんは日本人。
大都会マニラで育ち、大学では農業化学を専攻したという。
ラボでの実験や座学がメインのコースだったが、大学3年生のときに
田植え体験をしたことが、その後の人生を決めるきっかけのひとつとなった。

「初めて田んぼに入ったとき、すごく気持ちがよかった」

同級生はぬかるみを嫌がったが、トシくんは苗を植える手が
不思議なほどスイスイと動いたそうだ。
この体験が忘れられず、その年に専攻を農業に変え、特に土壌について学んでいった。

その後、本気で農業をやりたいという気持ちが芽生えたのは、
アメリカで有機農法を推進してきたジョエル・サラティンの
動画サイトを見たことだったという。
農薬などの化学物質を使わない持続可能な農業を
自分もやってみたいと思ったトシくんは、その場所として北海道を選んだ。

トシくんの家は森の中にある。

家の前には手づくりの郵便受けが、雪に埋もれながら立っていた。

花火に魅せられた移住者も。
〈響屋大曲煙火〉で働く、
大曲花火を支える人々

毎月花火が打ち上がるまち

大曲といえば花火。花火といえば大曲。
秋田県大仙市の大曲は、それくらい花火で有名な土地だ。
夏の夜空を彩るイメージのある花火だが、大仙市では、
最も有名な8月の全国花火競技大会を筆頭に、毎月どこかで花火が上がっている。

写真提供:大仙市

「花火を打ち上げる会社は全国に400弱あるのですが、
そのうち製造も行っているのは150社くらい。
しかも家族など少人数でやっているところがほとんどなので、
花火をつくる仕事をしたいと思っても、
就職先がなかなか見つからないのが現状だと思います」

こう話すのは、〈響屋大曲煙火〉(以下、響屋)の代表を務める齋藤健太郎さん。
響屋が創業したのは1894年(明治27年)。
全国花火競技大会の前身「第1回奥羽六県煙火共進会」が開催されたのが
1910年(明治43年)だから、かなり歴史のある会社といえる。

響屋の周辺に広がるのどかな田園風景。火薬を取り扱っているため、花火工場は通常、人里離れたところにある。

「実家は代々花火屋で、私は狼煙という信号用花火を専門に製造する会社として、
平成19年に独立しているんです。
その後、花火大会で使われる割物花火も徐々に製造するようになって、
昨年からは実家の会社と歴史も含めて統合して、いまは25名のスタッフでやっています」

響屋大曲煙火株式会社の代表・齋藤健太郎さん。

響屋は花火の製造から打ち上げまですべて行っている。
しかも製造工場としては比較的規模が大きいため、大曲の知名度と相まって、
日本全国から就職希望の問い合わせが来るのだとか。
しかしながら華やかなイメージとは打って変わって、
花火の製造は率直に言うと地味で根気のいる作業。
しかも火薬を扱っているため、気を抜くことができない。

「尺玉といわれる、直径30センチの10号玉をゼロからつくると約1か月、
ものによっては2か月くらいかかります。
工程の途中で何度も乾燥させるので、どうしても時間がかかってしまうんです」

乾燥室の温度は40度を超えていて、夏場はここにいるだけでダイエットになるのだとか。

何度も何度も乾燥の工程を重ね、玉が大きくなっていく。

製造工程は、火薬の配合作業、造粒作業、
仕込み作業、仕上げ作業の大きく4つに分けられる。
配合作業はさまざまな薬品を混ぜ合わせて、色を出す火薬や
音を出す火薬をつくるのだが、その比率は企業秘密。

「僕らから見ると、上がった花火の色でどこの花火屋さんがつくったのか、
すぐにわかるんです。だから火薬の配合比率は昔から門外不出で、
信用できる人にだけ任せられる作業なのです」

「星」と呼ばれる火薬の玉をミキサーで転がしながら、アメ玉大になるくらいまで大きくしていく造粒作業。

作業は基本的に分業制で、ひと通り仕事ができるようになるには、
10年くらいかかるそう。

「10年経ったら一人前になれるわけではなく、やめるまでが修業。
自分で一人前だと認めたら、そこでストップしてしまうので、
誰も一人前になったとは思っていないでしょうね」

齋藤さんでさえ、それなりに満足のいく花火は、1年に1、2発上がるかどうか。
なかなか満足できないのは、工芸品などと違って
形に残らないことも関係しているようだ。

「写真や映像では残せるけど、1、2か月かけてつくったものが
5、6秒で消えてしまう。だからうまく上がったときのイメージを思い浮かべ、
いつもそれを越えたいと考えています。
夜空にそのまま残っていてくれたらいいんですけどね(笑)」

日光の天然氷〈四代目徳次郎〉
日光の魅力を発掘し続ける親子

笑顔がこぼれる、ふわふわのかき氷が生まれる場所

あの『枕草子』にも登場するかき氷は、日本の夏の風物詩だが、
ここ最近は夏に限った食べ物ではないようだ。
パフェ顔負けのゴージャスな盛りつけや、
旬のフルーツをふんだんに使った自家製シロップのかき氷を
年中提供する店が増えていて、繁忙期は長蛇の列ができるほど。
そんなかき氷フリークにも一目置かれているのが、天然氷を使ったもの。

天然氷というのは湧水などの清冽な水を採氷池に引き入れて、
真冬の寒さを利用して自然の中でつくられる氷のこと。
冷凍庫で急速に固める氷と違って、ゆっくりと時間をかけて凍らせていくため、
薄く削っても溶けにくく、口に含むとふんわりとした
やさしい食感を楽しむことができる。

しかしながら冷凍技術が発達した昨今、手間と時間をかけて
わざわざ天然氷をつくるところは、日本全国を見回してもわずか数か所残るのみ。
そのうち3軒が日光にあるのだという。

〈四代目徳次郎〉の天然氷を使った、日光市今市にある〈日光珈琲 玉藻小路〉のかき氷。とちおとめのシロップも、四代目徳次郎のオリジナル。氷があれば冬でも食べることができる。

2018年、年が明けて間もなく、天然氷の蔵元〈四代目徳次郎〉で、
この時期恒例の氷の切り出しが行われた。
JR日光駅からそれほど遠くないところにある採氷池には、
朝早くから代表の山本雄一郎さんと息子の仁一郎さん、
そしてボランティアのメンバーが集まっていた。

表面に線が引かれ、切り出しを待つ氷。採氷池は2面あり、1面から1回で1000枚の氷がとれる。

氷を切り出すタイミングは、厚さ15センチが目安。
といっても自然が相手なので、例年2、3日前に切り出しの日が決定する。
にもかかわらず、これだけ人が集まることにまず驚いてしまう。
聞けば日光市内だけでなく、東京や関西方面からやって来る人もいるそうで、
いつもはひっそりしている池がこの日ばかりは賑やかに。

切り出しは流れ作業で、池に張った氷を動力カッターで切る役、
切られた氷を池から引き上げる役、竹でつくったラインに乗せて流す役、
氷室(ひむろ)とよばれる貯蔵庫に並べていく役などがいる。

寒さに耐えながらの作業で大きな励みとなるのが、
名物のカレーや打ちたてそばなどのお昼ごはん。
四代目徳次郎とつながりのあるシェフやそば職人らが、応援で来てくれるのだ。
氷の切り出しは農作業における収穫のようなもので、お祭り的な空気さえ漂っているが、
雄一郎さんが徳次郎を継いで間もない頃、こんな光景は想像すらできなかったようだ。

切り出しのお楽しみは、那須烏山市の名店〈梁山泊〉の店主が目の前で打ってくれるそば。これを目当てに来る人も!?

四代目徳次郎である雄一郎さんは、実をいうと初代から三代目とは血縁関係がない。

「私自身は24歳のとき、霧降高原に〈チロリン村〉というレジャー施設を開業して、
そこのカフェで出しているジュースやアイスコーヒーなどに
日光の天然氷のひとつ〈吉新(よしあら)氷室〉の氷を長いこと使っていたんです。
あるとき、吉新氷室が廃業するという話を、間に入っていた業者から聞いて……」

霧降高原の自然に囲まれたレジャー施設〈チロリン村〉。夏になると、四代目徳次郎の天然氷を使ったかき氷を求めて、多くの人がやって来る。

雄一郎さんは日光の天然氷の文化を絶やすわけにはいかないと、
氷室まで出向いて存続を直談判。
しかし高齢で体力的に厳しくなったのと、天然氷に未来はないという判断から、
廃業を決めた先代の意志はかたかった。

「手伝うから続けてほしいとお願いしたのですが、
辞めることは10年前から決めていたし、廃業届ももう用意してあるのだと。
その日から毎日ここへ通いつめました。

親方は毎朝7時に来て、番屋の薪ストーブをつけるのですが、
私は6時半から車の中で待っていて、煙突から煙が出たら
『おはようございます』と入っていくんです。
日光の氷の歴史とか、初代徳次郎がどうして氷づくりを始めたのかとか、
いろんな話を聞きました。そしたら2週間くらい経った頃、
『ほんとにやる気なのか?』と言ってくれたんです」

先代は一緒に作業はできないけれども、つくり方は指導するという条件を出し、
雄一郎さんに氷室を継承。
2006年、吉新氷室初代徳次郎から三代目の意志、文化を受け継ぐという思いを込めて、
屋号を「四代目徳次郎」とする。雄一郎さんが56歳のときだった。

日光の自然のように厳しくもやさしい、山本雄一郎さん。

雄一郎さんが先代からいろんな話を聞いた番屋。先代はいまでもたまに氷の様子を見に来てくれるそう。

京都府北部地域への
移住シミュレーション!
先輩移住者&起業家を訪ねる旅

京都府北部地域では、2016年より福知山市、舞鶴市、綾部市、宮津市、
京丹後市、伊根町、与謝野町の7市町が広域連携する移住・定住促進プロジェクト
「たんたんターン」を展開。移住・定住促進に力を入れて取り組んでいます。
京都市からも車や電車で1時間半から2時間程度で行き来できるこの地域には、
どんな魅力や暮らしのスタイル、働き方があるのか。
移住者はどんな暮らしを営んでいるのか。

最近移住に興味を持ち始めた、兵庫県西宮市在住のアイシングクッキー作家
佐藤枝里さんと、アウトドアメーカーで商品開発に携わる夫の光将さん、
2歳になる息子一晴くんが、この地域で暮らす移住の先輩たちのもとを訪ねます。

移住したらどんな暮らしや仕事が可能?

アイシングクッキー作家として活動する佐藤枝里といいます。
結婚を機に、生まれ育った東京から兵庫県西宮へ。
現在は2歳の息子を育てながら、オーダーメイドの
アイシングクッキーの制作や販売をしています。

大のアウトドア好きで、週末になると自然豊かな暮らしを求め、
近畿各地へキャンプに出かけている私たち。

都市部と田舎を行き来する暮らしを続けるうちに、
「都会の暮らしはなにかと便利だけれど、365日自然と寄り添う暮らしにも憧れるなぁ。
息子も田舎のほうが伸び伸びできそうだし、
自然を肌で感じることによって学べることも多いのかも……」と、
“地方への移住”についてほんのりと興味を持つようになりました。

今回、縁あって京都府北部の4つの地域を訪ねることに。
先輩移住者の方たちのお話をもとに、それぞれの地域の暮らしや仕事と起業、
子育てについてシミュレーションしてみたいと思います。

福知山市
古民家宿で“グローカル”な活動!?
〈ふるま家〉の沢田さんご一家

最初に訪ねたのは、福知山市で古民家を改装した
ゲストハウス〈ふるま家〉を営む沢田さやかさん。
アメリカの大学を卒業後、横浜の外資系出版社に勤めていた沢田さんが
ふるま家を営むことになったのは、仲間たちとの旅行がきっかけだったそう。

「脱サラ後、たまたまアメリカ人や日本人の友人を連れて
アレックス・カー氏が手がける徳島県東祖谷(ひがしいや)の茅葺きの古民家
〈篪庵(ちいおり)〉へ行く機会があったんです。
そこは囲炉裏を囲みながら食事ができたり寝泊まりしたりできる、
非常に素朴な施設なのですが、『日本の暮らしを体験できた』と友人たちにも好評で」

もともと外国人とのつきあいも多く、自宅でホームパーティや
社交グループをつくってイベントを開催していたこともあり、
「英語能力が生かせるし文化交流もできて自分も楽しめる。
私がやりたいことってこれかも! とひらめきました」

思い立ったら即実行派の沢田さんは、翌日から(!)物件探しを開始。
自身の出身地でもある京都府内で、篪庵の雰囲気に似た
改修可能な茅葺き屋根の古民家を重点的にリサーチ。
そして「家の佇まいも景観も理想的」な物件と出会い、
導かれるように福知山への移住を決めたそう。

「改修は家族の力を借りながら、2年ほどかけて行いました。
オープン後はまずカフェとしてランチやお茶を提供。
同時にWEBの立ち上げや、ブッキングサイトに登録して、
少しずつ宿泊客を増やしていきました」

築210年以上の古民家をセルフリノベーションした〈ふるま家〉。田畑つきの農家民宿として2012年にオープンしました。

現在は宿の運営のほか、月に1度、子連れ家族向けの英語教室「英語カフェ」や
不定期でイベントを開催。ふるま家で知り合い、
結婚したフランス人のご主人ニコラさんとの間に、一昨年、長男のテオ君も誕生。
福知山への移住を機に、人生がガラリと変わったように感じます。

横浜で会社勤めをしていた頃は
「そりゃあもう、バリバリ働いていました」と笑う沢田さん。
「都会で忙しく暮らしているといつの間にか日が昇って、
いつの間にか沈んでいるでしょう? 福知山では自然に寄り添った生活を送っていて、
人間らしい暮らしができているなあって。当たり前のことがしみじみとうれしいんです」
と話してくださったのが印象的でした。

田舎のおばあちゃんの家に遊びに来たように、ほっと寛げる和の空間。宿泊客の約8割は外国客ですが、この1、2年で日本人旅行者の数もかなり増えてきたそう。

里山を悩ませる「負の連鎖」とは?
「ミツバチの楽園」づくりで
土地を再生させながら考えたこと

伊豆の里山で感じたこと、考えたこと

伊豆下田で暮らし、いくつかの仕事をする津留崎さん。
そのひとつが「ミツバチの楽園」づくり。
養蜂家の夢を実現すべく、週に何度かその仕事に携わっています。
と聞くとなんだか楽しそうですが、そこにはとても重大な問題が。
日本各地の里山で起きている、その問題とは。

三重県の“大人力”が世界を救う!?
〈OTONAMIE × TOKYO〉で
広がる都市部の地元ネットワーク

写真提供:三重県観光連盟

伊勢うどんが世界平和につながる…?

11月上旬、東京・日本橋の某所。
「都会のギスギスをなおすのは、伊勢うどんしかないと思っているんです。
世界平和のためには伊勢うどんが必要!」と熱弁をふるう、ひとりの男性。
そんな彼の話に熱心に耳を傾けているのは、年齢も雰囲気もバラバラな約20名の男女。
この集まりはいったい……?

実はこれ、伊勢うどんを深く愛する人たちによる会合……ではなく
三重県南部地域活性化局が、県内でウェブマガジンを運営している
OTONAMIE(オトナミエ)〉と連携して開催した、
東京に暮らす三重県出身者を対象とした交流イベント。

南北に長い三重県の南部地域は、ほかの地域に比べて
進学や就職時に地域外に転出してしまう若者が多い地域。
でも都市部で生活しているからこそ気づく三重県の魅力もあるだろうし、
きっと都市部に暮らしながらも地元のために何か貢献をしたいと考えている
三重県出身者も多いはず……という想いから誕生したのが、
〈OTONAMIE × TOKYO〉と〈OTONAMIE × OSAKA〉。

東京・大阪在住の三重県出身者と、三重に興味がある人が交流を図りながら、
SNSなどを通して三重県南部地域などの魅力を継続して発信することを目指す
プロジェクトです。そんな〈OTONAMIE × TOKYO〉の発足を記念して、
この日の交流イベントは開催されたのでした。

「三重に暮らす・旅するWEBマガジン」をコンセプトに、三重県各地のディープな情報を発信しているローカルメディア〈OTONAMIE〉。記事を書いているのはプロのライターではなく三重を愛する地元の有志記者で、いまやその数は約130名(!)に。

さて、記事冒頭で伊勢うどんについて熱く語っていた気になる人物。
この方はイベントのメインゲストであるコラムニスト・石原壮一郎さん。
『大人養成講座』『大人力検定』などの著書で、
大人が大人として生きるために欠かせない“大人力”を広めてきた石原さんですが、
出身は三重県松阪市。

また故郷の名物である伊勢うどんを応援する〈伊勢うどん友の会〉を立ち上げ、
2013年には「伊勢うどん大使」(伊勢市麺類飲食業組合&三重県製麺協同組合公認)
に就任し、国内のみならず世界に向けて伊勢うどんの魅力を広め続けているのです。

“大人力”シリーズの著作で知られる 石原壮一郎さん。ご自身のサイト『 大人マガジン 』でも、伊勢うどん情報を発信中。

3部構成となったイベントの第1部として行われたのが
『三重大人力講座』をテーマとした、石原さんのトークライブ。
「近畿地方なのか、東海地方なのか、関西なのか、中部なのかと、
よく言われる三重県の武器は、どっちつかずな“なぁなぁ”なところ」と、語る石原さん。

「白黒つけるということは、もう片方を否定するということ。
でもそういう無益な争いに与しないで、両方の味方をする、
両方の良さを認めるというところが、三重県の人のすばらしいところだと思うんです」

三重といえば伊勢神宮。内宮への入り口にある五十鈴川にかかる宇治橋は、神聖な世界へ入っていく、人と神を結ぶ架け橋。(写真提供:伊勢志摩観光コンベンション機構

江戸時代よりお伊勢参りの名物だった「伊勢うどん」。太くてやわらかな麺にかけられた、真っ黒な甘辛いタレ。体を温めてくれる、腹持ちのいいうどんには、伊勢のおもてなしの心がつまっています。(写真提供:三重県観光連盟

そんな県民性と伊勢うどんの共通点について、持論を展開し
「伊勢うどんのことを調べれば調べるほど『“大人力”とは、
結局伊勢うどんのことを言っていたのではないだろうか?』と感じるようになった」
と話す石原さん。コシがなく、太くてやわらかいことが特徴の伊勢うどんですが
「その想像を超えたやわからさが、“うどんはコシが大事”という思い込みが
いかにアテにならないかということを感じさせてくれるんです」

イベント参加者に配られた、伊勢うどん友の会制作の『伊勢うどん手帖』。裏面には「伊勢うどんで味わえる五つの幸せ」の教えが。

「いままでとは違う価値観を導入することによって
『違う考え方、文化、宗教があっても良いのではないか?』ということを訴えかけ、
ありもしない正解にとらわれて悩むことなんてないと教えてくれるのが伊勢うどん。
その魅力を周りに伝えるということで世界の平和や、
ひとりひとりの自分にとって幸せな生き方を伝えることができるんです」と、
三重と伊勢うどんへの愛を深くからめながら、三重県民にとっての“大人力”と
伊勢うどんについてユニークなトークを繰り広げる石原さんでした。

トークイベントのなかでは三重県版「大人力検定」も行われ、高得点を獲得した参加者には特製クリアファイルがプレゼントされました。

谷中〈TAYORI〉
「つくる人」と「食べる人」の
橋渡しをする場所

「食の郵便局」というコンセプトを持つお店

お正月ボケからようやく復帰し、またいつも通りのばたばたした日々を過ごしています。
2018年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年末、とても久しぶりに東京に行ってきました。
〈HOMEMAKERS〉の野菜を使ってくださっているお店へご挨拶に。

日暮里駅で降りて、谷中銀座を歩き、細い脇道に入っていくと、
TAYORI〉というお店があります。お惣菜とお弁当と珈琲のお店です。

谷中銀座から脇道を入ったとことにある〈TAYORI〉。

たよりを運んでくれる配達員さんのロゴがいい!

TAYORIの北川瑠奈さんとの出会いは2年前の冬。
私たちが谷中を訪れお会いし、その翌年の夏には
北川さんが小豆島に遊びに来てくれました。
数日間小豆島に滞在し、私たちを含めた
島のいろいろな生産者さんに会いに行き、島の食材リサーチ。

その食材を使って、〈HAGISO〉というスペースで「旅する朝ごはん」をコンセプトに、
小豆島の食材を使った「HAGI morning」を企画してくれました。

TAYORIの北川瑠奈さんと。直接話すのはやっぱり大事ですね。

そんな流れの中で、去年6月TAYORIがオープンしました。
TAYORIのコンセプトは「食の郵便局」。
日本各地の地域性を反映する野菜や加工食品、調味料を「つくる人」と、
谷中で暮らす&谷中を訪れる「食べる人」の間にあって、
食を通じたコミュニケーションの場。

「たより」という言葉にはいろんな意味が含まれていて、

・「つくる人」からの食の「便り」をその想いとともに編集して

「食べる人」にお惣菜やお弁当として届けること

・「食べる人」からの感謝の手紙(=便り)を受け取り、「つくる人」に送ること

・「つくる人」と「食べる人」の健全な関係性を築き、安心して食べられる食材を使った

日常の食事を提供することで、地域の「頼り」となること

店内には「食の郵便局」コーナーがあります。こういう仕組みをちゃんとつくって運用しているのはすごいなと思う。

HOMEMAKERSへお便りくださいね!

ハプニング続きの移住計画!
岩見沢の山里への引っ越しに
2年もかかった理由

いつまでも引っ越しできなかった理由とは?

2018年1月5日、ついに美流渡(みると)へ引っ越した。
美流渡は、わたしたちが住んでいた岩見沢の市街地から
車で30分ほどのところにある山間の地域だ。
2年前、この地域に暮らす人々と出会って1軒の古家を紹介してもらい、
転居しようと心に決めたわけだが、それからずいぶんと長い時間が経ってしまった。

当初の予定では、大工である夫が1年ほどかけて改修をし、
息子が小学校へ上がるタイミングで引っ越そうと考えていたのだが、
作業は思うようには進まず、転居の目処はまったく立たないまま時が過ぎていた。

2年前に出会った空き家。内壁や床をはがしてみたところ、基礎の部分が腐っていたりなど、修繕が必要な部分が多数見つかった。

転居を見越して、すでに息子は美流渡にある小学校に通わせていたこともあって、
このままズルズルと引っ越しを延ばすわけにもいかなくなっていた。
そこでわたしと夫は苦肉の策として、大がかりな改修をしなくても住める家を、
さらにもう1軒見つけることにした。
そこにとりあえず住んで、ゆっくりと古家を直していこうと考えたのだった。

幸いなことに、昨年10月、状態のよい空き家を見つけることができたのだが、
それ以降も数々のハプニングに見舞われた。

設備の点検をしてみると、ボイラーを入れ替える必要があることがわかったり、
水道管の一部が破裂していたことがわかったりと、
業者さんに直してもらわなければならない部分がいくつも見つかった。
そのうえ夫は家事や育児の合間を縫いながら、
転居先の家の掃除や部分的な改修をするのに手間取っており、
目標としていた11月中の引っ越しは難しくなっていった。

さらにもう1軒見つけた空き家。室内は荷物がキレイに片づけられており、すぐに住めると思ったが……。

このままでは、またもや引っ越しできない状況が続くのではないか?
わたしは、不安に襲われていた。
何か、これまでとは違ったアクションを起こす必要性を感じ、
ある約束事を自分に課すことにした。

それは仕事の時間をギリギリまで減らして、家事と育児にあてる時間を増やすことだ。
わたしの仕事は編集者。これまで原稿の締め切りや単行本の制作などが重なったときは、
家事や育児の大半を夫に肩代わりしてもらっていたのだが、
このことが転居の作業に集中できない大きな原因になっていたのだ。

冬休みになった子どもたちも、空き家の掃除を手伝ってくれた。

1年以上空き家だったようで、たまったホコリを隅々まで掃除。

この約束事を守ることは容易ではなかった。
朝5時半に起床して弁当づくりなどをし、
夕方16時半には仕事を切り上げ夕飯の支度を始める。
仕事にあてることのできる時間は、日中たったの6時間。
第三子が5か月ということもあり、背中におんぶしつつ、
オムツを変えつつなので、実際に働ける時間はもっと少ない。

これまでは毎日10時間ほど仕事に費やしてきたので、
子どもたちを寝かしつけてからも、仕事をせざるを得ない状況が連日続いた。
しかも夜に数回、授乳もしつつ、明け方にはまた起きて……。

今日も雪が降る。岩見沢は北海道有数の豪雪地帯。冬になると快晴の日は少ない。

島での暮らし方と人生を考える。
先輩移住者は、
なぜ壱岐と対馬を選んだ?

移住者だからできる仕事の生み出し方

11月3日~5日、2泊3日のスケジュールで開催された、対馬と壱岐の移住体験ツアー。
長崎県が主催するこのツアーは、一般的な観光ツアーと異なり、
暮らすという視点で仕事や居住の候補となるような場所を見学し、
先輩移住者ともコミュニケーションを取ることのできる貴重な機会だ。

今回参加した6名は、どちらの島も初めて訪れる人ばかり。
韓国人観光客が増加している対馬で起業の可能性を探りに来た人、
海外で暮らした経験があり、家族で島暮らしをすることに興味を持っている人、
在宅勤務をしながら二拠点居住をゆくゆくはしたいと考えている人など、
参加の動機もさまざまだ。

羽田空港から飛行機でまず向かったのが、対馬市。
九州と朝鮮半島に挟まれた対馬海峡に浮かぶこの島は、
韓国の釜山まで直線距離でわずか50キロ弱。
気候条件によっては、釜山の夜景を目視できる「国境の島」だ。
到着早々、対馬名物の〈対州そば〉と、
醤油、味噌などをベースにした甘辛の焼肉ダレに漬けこんだ豚肉〈とんちゃん丼〉を堪能すると、
南北に長い島をバスで1時間ほど北上。
移動にかかる時間や景色の変化からも、島の広さを実感することができる。

対州そばは、原種に近いかたちで残っている対馬特産のそば。とんちゃん丼とともに。

最初の企業訪問は、上県町佐須奈にある〈一般社団法人MIT(ミット)〉。
代表理事を務める宮城県仙台市出身の吉野元さんが、
移住者ならではの客観的な視点やこれまでのキャリアを生かして、
対馬の資源や魅力を“みつけ・いかし・つなぐ”ことを目的に、
幅広い事業を展開している。
たとえば対馬にしか生息していないツシマヤマネコが、田んぼでエサを取ったり、
子育てしていることに着目して、減農薬米を〈佐護ツシマヤマネコ米〉としてブランド化。
吉野さんの奥様の由紀子さんが、
パッケージデザインや関連グッズを製作している。

2013年6月に創業したこの会社は、メンバーのほとんどが移住者。
吉野さんが、プロジェクターを使って説明してくれたのだが、自己紹介のあとに登場したのが、
タチウオ、ハガツオ、アナゴ、サバなど
思わず生唾を飲み込んでしまうような刺盛り写真の数々……。

「長崎のなかでも、対馬の魚が一番おいしいと思います!」と力説する吉野さん。
知り合いの漁師からこうした魚を日々おすそ分けしてもらえるだけでなく、
吉野さん自身も小さな舟を所有しているそうで、
仕事をしながら朝夕に釣りを楽しむ暮らしがここでは可能なのだとか。

ほかにも霞が関で20年以上働いていたという事務方のプロや、
漁師になりたくて移住した人、
ツシマヤマネコが好きすぎて早期退職して移住した人など、ユニークな人材ばかり。

「たとえば“半漁半MIT”じゃないですけど、MITの仕事をしながら趣味の釣りをしたり、
絵を描いたり、農業をしたり、ヤマネコを愛でたり……。
せっかく移住したのだから、好きなことを好きなだけやって新しい働き方を発信するのが、
私たちの使命なのかなと思っています」

対馬の暮らしを満喫しているMITのみなさん。霞が関で働いていたという冨永健さん(左)、吉野元さん(中)、吉野由紀子さん(右)。

急増する韓国人観光客。ビジネスチャンス到来!?

続いて訪れたのは、
対馬最北の比田勝でオープンを控える(取材当時。2017年11月オープン)
〈ホテルDAEMADO(テマド)比田勝〉。
船でやってくる韓国人観光客の多くは、比田勝港国際ターミナルで下船することもあり、
この辺りはハングルの看板がかなり目につく。
当ホテルもそんな観光客の利用を見込んでつくられたそうで、
「DAEMADO」は韓国語で対馬を意味している。

「韓国人にとって対馬は、最も近い海外旅行先。
今まで比田勝には大型の宿泊施設がなく、日帰りする方が多かったのですが、
今後は楽しみ方も変わってくると思います」
と、総支配人の豊福誠一郎さん。
急増する来島者数に対して宿泊施設などをはじめとする受け皿は
まだまだ足りていないそうで、
比田勝は今後発展していくであろう注目のエリアであることがうかがえた。

ホテルDAEMADO比田勝の開業を機に福岡から移住してきた、総支配人の豊福誠一郎さん。島の人の優しさに日々助けられているそう。

その晩行われた交流会には、MITの吉野元さんと由紀子さん、
そして同じくMITの理事を務める漁師の細井尉佐義さんが参加。
17年前に移住してきたという細井さんは、吉野さんたちも一目置く先輩移住者で、
一本釣りで生計が立てられる漁場を探して、対馬に辿り着いた“Iターン漁師”。
移住当初は第一次産業が今ほど注目されていなかったため、
漁師を取り巻く環境は厳しかったこと、
自然環境保全と資源保護を第一に考えた持続可能な漁業を対馬で実践していること、
そして対馬の暮らしの魅力などを熱く語ってくれた。

交流会は対馬でとれた刺し身と韓国料理で。

翌日は、最も人口の多い厳原地区にある〈対馬バーガーKiYo〉を訪問。
Uターンして2009年に同店をオープンした新庄清孝さんは、
ご当地バーガーブームの波に乗るかたちで、対馬バーガーを考案。
対馬の特産であるひじきを練り込んだパテと、
プリプリのイカを甘めのソースで絡めたハンバーガーなのだが、
韓国人観光客がブログやSNSに投稿したことがきっかけで、
日本よりも先に韓国で注目されるように。今では島内に2店舗、釜山に1店舗、
そして福岡にも移動式店舗を展開するほどの人気ぶりで、
対馬におけるビジネスチャンスをこんなふうに語ってくれた。

甘辛の和風ソースが絶妙な対馬バーガー。

「ほかの離島と違うのは、150キロ圏内に釜山や福岡などの大都市があること。
これらのエリアを含めてビジネスを考えると、いろんなチャンスが見えてきますし、
対馬で生まれたものを使って外で勝負するという意味では、
すごくおもしろい場所だと思います」

彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀り、竜宮伝説が残る和多都美神社。

和多都美神社の背後にそびえる烏帽子岳の展望台から、対馬のリアス式海岸を一望。