豊田市足助町にステイしながら まちのためのプランを考える。 滞在型プログラム参加者募集中

1か月の共同生活でどんなことができるだろう?

愛知県豊田市足助町が、地域での活動や事業創生、2拠点生活などに
関心のある若者を募っています。
期間は1か月。共同生活を送りながら、
地域内外の新たな関わりのかたちを生み出すきっかけをつくる、という
地域滞在プログラムです。

足助町は愛知県豊田市中心部から車で30分、名古屋から車で1時間。
大都市にほど近い中山間地域に位置しています。
かつては街道の商家町として栄え、
その面影は今も重要伝統的建築物保存地区に選定された
美しいまち並みとして残っています。

秋の香嵐渓。

秋の香嵐渓。

足助のまち並み。

足助のまち並み。

石巻が舞台の総合芸術祭 〈Reborn-Art Festival〉 夏会期が始まっています!

『White Deer(Oshika)』名和晃平

23組のアーティストが石巻を彩る

現在、宮城県石巻市が舞台のアート・音楽・食の総合芸術祭
〈Reborn-Art Festival〉の2021年夏会期がスタートしています。

3回目となる同イベントのテーマは「利他と流動性」。

今年は東日本大震災から10年という節目。
引き続き、地域の内側からの復興と新たな循環を生み出す目的のもと、
利他と新しい日常や本質を形作る想像力、関係性に
改めて向き合うべく、さまざまな催しが企画されています。

毎回盛りだくさんのアートは、今回新たに女川エリアも加えて、
全6会場で参加アーティスト23組の作品を展示。

『Wish Trees』[1996 / 2021] オノ・ヨーコ

『Wish Trees』[1996 / 2021] オノ・ヨーコ

『Coho Come Home』 [2021] 岩根愛

『Coho Come Home』 [2021] 岩根愛

『forgive』 [2021] 森本千絵 × WOW × 小林武史

『forgive』 [2021] 森本千絵 × WOW × 小林武史

『億年分の今日』 [2021] 志賀理江子+栗原裕介+佐藤貴宏+菊池聡太朗

『億年分の今日』 [2021] 志賀理江子+栗原裕介+佐藤貴宏+菊池聡太朗

キュレーターの窪田研二さんのキュレーションのもと、
廣瀬智央さん(石巻市街地エリア)、オノ・ヨーコさん(女川エリア)、
岩根愛さん(桃浦エリア)、森本千絵さん × WOWさん × 小林武史さん(桃浦エリア)、
片山真理さん(荻浜エリア)、志賀理江子さん+栗原裕介さん+
佐藤貴宏さん+菊池聡太朗さん(小積エリア)などなど、
多彩なラインナップがまちを彩ります。

旧美流渡小・中学校に
アートの力で賑わいを。
窓板にMAYA MAXXが絵を描く

30枚以上の窓板に絵を描く新たな挑戦

6月に、私の仕事場の向かいにある、
2年前に閉校した旧美流渡(みると)中学校の活用プロジェクトが始まり、
前回の連載では7月に行った活動についてリポートした。
今回紹介したいのは、8月に入って、
校舎の1階の窓に打ちつけられた板に絵を描く取り組みについてだ。

活用を進めている中学校に隣接して、同じく閉校になった小学校があり、
どちらの窓にも落雪による破損を防ぐために、閉校してすぐに板が張られた。
岩見沢市は豪雪地帯であるため雪止めの板を張るのは仕方のないこと。
けれど、ここが閉鎖された場所であることが強く感じられて、
建物全体が物悲しい印象となっていた。

煉瓦造りの小学校の校舎。窓に貼られた板の1枚は幅5メートルにもなる。(撮影:佐々木育弥)

煉瓦造りの小学校の校舎。窓に貼られた板の1枚は幅5メートルにもなる。(撮影:佐々木育弥)

白い壁の小学校の校舎。こちらにも大きな窓板が10枚ある。(撮影:佐々木育弥)

白い壁の小学校の校舎。こちらにも大きな窓板が10枚ある。(撮影:佐々木育弥)

この校舎活用の中心的なメンバーとなっている、
昨年美流渡に移住した画家のMAYA MAXXさんは、
あるとき窓の板に絵を描いてはどうだろうと提案してくれた。

窓にたくさんの板が張られているのは主に小学校側。
この校舎は築年数も古く、内部の活用は難しいのではないかという話が
持ち上がっており、それならばせめて廃墟のようなイメージにならないように
外観だけでも明るい印象にできたらとMAYAさんは考えてくれた。

そこで、私は市役所や教育委員会、町内会のみなさんと相談をし、
さらに市内にある北海道教育大学岩見沢校にも協力を呼びかけ、
8月6日から「MAYA MAXX 窓板ペインティング」を実施することとなった。

先頭に立って動くMAYA MAXXさん。(撮影:佐々木育弥)

先頭に立って動くMAYA MAXXさん。(撮影:佐々木育弥)

ペインティングの初日、北海道教育大学の学生9名と
札幌などからSNSを見て駆けつけた数名が集まった。
窓の板は非常に大きく、小学校の煉瓦造りの校舎にある3枚は、
高さ約2メートル、幅5メートル。
高い位置にあるため足場を組んでの作業となった。

まず、周囲にペンキがかからないように養生をして、
合板のヤニを止めるためにシーラーを塗る作業から始めていった。
しかし、この日は午前中で32度。
風通しが悪く壁面から反射する熱もあって、体感温度はそれ以上。
熱中症にならないようにこまめに休みを入れたものの、
体力の消耗が激しく、午前中で作業は終わらせることにした。

壁面にペンキがつかないように養生をする。(撮影:佐々木育弥)

壁面にペンキがつかないように養生をする。(撮影:佐々木育弥)

2日目も10数名の参加者が集まってくれたのだが、
この日もたいへんな猛暑だったため、思うように作業ははかどらなかった。
日陰部分の作業を優先させつつ、ようやくメインの壁面のシーラーが塗り終わり、
上から下地となる白いペンキを少し塗り始めたところで作業が終了。
当初の予定では、この時点で下地となる白いペンキをすっかり塗り終えて
絵を描いているだろうと予想をしていたが、状況はまったく違っていた。

あまりの暑さに水道水をかぶるMAYAさん。

あまりの暑さに水道水をかぶるMAYAさん。

「手伝いに来てくれる人は、下地塗りじゃなくて
絵を塗りたいと思っているんじゃないかな。
早く絵を描ける状態になったらいいよね」

そんなふうにMAYAさんも語っており、
とにかくどこか1面だけでも下地を完成させる必要があると私は感じた。

そこで、次の日、私は集合より2時間早く現場に行って、白ペンキを塗ることにした。
白ペンキは1度塗っただけでは下の板の色がうっすらと見えてしまうので、
2度塗りが必要。
なんとか集合時間までに2度塗りまで仕上げられれば、
すぐにMAYAさんが絵を描き始められるんじゃないかと考えた。

窓に張られていた板はOSB合板。細かな凹凸があるため刷り込むようにペンキを塗る。(撮影:佐々木育弥)

窓に張られていた板はOSB合板。細かな凹凸があるため刷り込むようにペンキを塗る。(撮影:佐々木育弥)

キャンプ民泊とローカルの旗振り役。
ふたつの顔を持つ〈NONIWA〉と
新しいキャンプのかたち

アウトドアブームで、キャンプ人口は増加の一途というけれど、
そのほとんどは自宅とキャンプ場の往復に終始し、
訪れた地域のいいところを何も見ずに帰ってしまうという。
せっかく多くの人がその土地に足を運んでいても、
地域の魅力を発見するチャンスを逃しているといえる。

確かにキャンプの目的は自然の中で過ごす時間。
でも、その土地のおいしいものやいい感じの温泉なんかを味わわないのはもったいない。

そんなキャンプブームの裏側に着目し、ユニークな取り組みをしているのが
埼玉県ときがわ町にあるキャンプ場〈キャンプ民泊NONIWA〉だ。
キャンプ場と民泊を組み合わせた施設で、
オーナーの青木さん夫婦はときがわ町の魅力を発信しながら
アウトドアの楽しさを伝えている。

埼玉県ときがわ町にあるキャンプ場〈キャンプ民泊NONIWA〉。場所は非公開で利用するには事前の申し込みが必要。

埼玉県ときがわ町にあるキャンプ場〈キャンプ民泊NONIWA〉。場所は非公開で利用するには事前の申し込みが必要。

リサーチに2年かけて見つけた移住先

都心からクルマで90分、埼玉県の中央部に位置するときがわ町。
少し足を延ばせば、秩父・長瀞といったアウトドア・レジャーの名所があり、
手前には多くの観光客でにぎわう川越がある。その中間に位置し、
山と川に囲まれた日本の里山風景が残るエリアが埼玉県比企郡ときがわ町である。

「妻の影響でキャンプにハマって以来、
いつかは仕事と趣味が一緒になったような生活をしてみたいと思っていました。
でも、一気に環境を変えるのは怖くて。当時働いていた会社が川越にあったので、
まずは都内から川越に引っ越しをして、そこを拠点に
近隣エリアで良いところはないかを探し始めました」

と語るのはオーナーの青木達也さん。
つい最近まで、川越に本社がある輸入商社に勤めながら、
二足のわらじで〈NONIWA〉の運営を進めてきた。

青木さん夫婦は、「野あそび夫婦」としてSNSやYouTubeチャンネルを運営するなど、積極的に情報発信も行っている。

青木さん夫婦は、「野あそび夫婦」としてSNSやYouTubeチャンネルを運営するなど、積極的に情報発信も行っている。

一方、奥さんの江梨子さんはテレビ制作会社のディレクターというキャリアを持ち、
移住に向けてのリサーチは彼女が積極的に担ってきたという。

「ローカル線の旅番組のディレクターをやっていて、
いろんな土地の方にも取材でお会いしていたんです。
だから、行きあたりばったりで移住するのはよくないというのは知識としてあって。
かなり念入りにリサーチして、実際に移住するまで2年くらいかかりました」(江梨子さん)

達也さんの仕事の兼ね合いもあり、
川越まで通勤できるという条件で絞り込んだのがときがわ町。
決め手となったのは東京から近いわりに里山の風景があり、
自然環境が厳しすぎないことだった。さすが旅番組のディレクター。
リサーチ力は当然プロレベルだった。

「でも実際は、ときがわ町を調べ出したのはひらがな表記でかわいかったからです(笑)。
個人経営のカフェがいっぱいあるし、気になるお店に足を運んでいくうちに、
若い移住者が多いということもわかっていきました。
農家民宿を運営している方の移住相談にも泊りがけで行きましたし、
地元の企業がやっている起業塾にも参加しました。
そういった人たちとの出会いが財産になっていて、
いまでも大変助かっています」(江梨子さん)

〈fan! -ABURATSU-
Sports Bar & HOSTEL〉
宮崎県日南市の商店街に
“ファン”が集うゲストハウスを

PAAK DESIGN vol.1

はじめまして。
宮崎県日南市で〈PAAK DESIGN株式会社〉という
設計事務所の代表をしている鬼束準三と申します。

PAAK DESIGNは、地元にUターンして4年目に設立した会社です。
設計をしながら地域の課題に悪戦苦闘して向き合っていたところ、
いまでは設計だけでなく、宿泊や物販などさまざまな事業に取り組むようになりました。
大学や設計事務所で学んだ、建築の美しさや先進性を追求することからは
ずいぶん離れているなと感じながらも、
いまでは、設計をベースにどこまでできるかを試している感覚もあります。

そんな建築家やデザイナーとしては邪道とも思える現状や取り組みが、
地方においては、ものすごく大事なのではないかと思うのです。
この連載では、携わってきたリノベーションの事例を通して、
日南市の魅力ある活動や場所や人、まちの変化を伝えられたらと思っています。

第1回は、Uターンしたきっかけから、起業するまでの空白の3年間と、
商店街にオープンしたゲストハウス
〈fan! -ABURATSU- Sports Bar & HOSTEL〉の事例を振り返っていきます。

エントランスロビー兼カフェエリア。

エントランスロビー兼カフェエリア。

地元の魅力を再認識してUターン

大学を卒業して東京で設計事務所に勤務後、独立し、ひとりで建築の仕事を始めました。
上京して10年ほど経ち、仕事はなんとか続けられる状況になっていた頃、
ふと地元の日南市のことが気になり始めました。
いままで、2〜3年に1度しか帰らなかったのですが、
独立して自由に動けるようになり、年に何度も帰省してみると、
自分は地元のことをなにも知らないのだと自覚していきます。

ひとまず人脈づくりから始めようと、いろんな場所へ出向き、
気になる人に積極的に会いに行くことに。

すると、地元資源である飫肥杉(おびすぎ)のこと、
それにまつわる活動をする〈オビスギデザイン会〉という団体や、
少し前から日南に移住して商店街の活性化に尽力していた人、
そのほかにも、自然の魅力や、磨けば輝きそうな不動産などを含め、
たくさんの遊休資源と出合うことができました。

日南の自然(乱杭野山頂・霧島神社から)。

日南の自然(乱杭野山頂・霧島神社から)。

このいろいろな出会いが、その後の私のUターンを大きく後押ししました。
地元に根を張り、地域の課題と向き合っている人がいたり、
外から来て日南のためにとがんばってる人がいたり、
ふと顔をあげるときれいな自然があったり。

いま、動ける状況にあり、なおかつ地元人である私が
何かできることがあるのではないか、
自分も何か貢献しなければいけないのではないか? と一念発起し、
東京の事務所や家を引き払い、地元に戻ってきました。

日本一組みやすい自治体・日南市

最近の日南市では、日々いろんなことが起こっています。
2013年に崎田恭平さんが当時33歳の若さで市長になったことが話題になり、
就任後は若い民間人を積極的に登用して事業を行い、
商店街活性化事業を成功させたり、10社以上ものIT企業を誘致したり、
伝統的建造物群保存地区の利活用事業を推進したり。
いまでは「日本一組みやすい自治体」と言われたりしています。

なおかつ、海・山・川とすべての自然要素がすごく豊かで、
現在の日南市は日本の中でも「人」と「自然」の資源が豊富な地域のひとつです。

日南の海辺の風景。

日南の海辺の風景。

美しい飫肥杉林。

美しい飫肥杉林。

親子で一緒に! 岩手の〈鹿踊(ししおどり)〉。 継承への願いを込めたイベントを開催

自粛で踊る機会が失われた〈鹿踊〉を取り戻す!

岩手県内に広く多数伝わる〈鹿踊(ししおどり)〉。
大地を跳ね、踏みしめて地の悪魔・疫病を祓い、清浄にし、
生きる糧の豊穣を祈り願う郷土芸能です。
岩手県全域で踊られていますが、地域ごとに衣装や踊りも異なり、
郷土の誇りと特色を感じさせます。

独特な衣装の鹿踊。上半身を覆う「前幕」は、上下二枚を縫い目(ステッチ)で結び合わせて一枚の幕に仕立て、紋様を染め抜いているのが特徴。写真は行山流舞川鹿子躍。

独特な衣装の鹿踊。上半身を覆う「前幕」は、上下二枚を縫い目(ステッチ)で結び合わせて一枚の幕に仕立て、紋様を染め抜いているのが特徴。写真は行山流舞川鹿子躍。

ところが、昨今の自粛制限によって、各地の祭りや催事が延期・中止になり、
鹿踊を披露する機会も減少。
団体によっては集まることができないために練習もできない、
継承のモチベーションがあがらないなどの理由によって継承が難しくなったり、
収入減によって活動の維持が困難になるなど、
現状が長期化すればするほど活動継続を断念せざるを得ない状況となっています。

そこで、東北の地域文化の活動支援をする〈縦糸横糸合同会社〉と
一関市で染め物や祭り衣装などのプロダクトを手がける
〈京屋染物店〉が立ち上がり、
鹿踊の衣装に込められた色や形をもとにデザイン・制作した
手拭いを販売開始しました。
手拭いの売上金の半分は、鹿踊団体の活動資金に充てられます。

鹿踊の伝承が込められる縫い目(ステッチ)と、鹿踊の幕のスタンダード柄である九曜紋、不浄を吹き清める意味の扇をつないだデザイン。

鹿踊の伝承が込められる縫い目(ステッチ)と、鹿踊の幕のスタンダード柄である九曜紋、不浄を吹き清める意味の扇をつないだデザイン。

アフリカ太鼓に日本舞踊、壁画制作。
美流渡らしい旧校舎の活用が始まる

活用から1か月。こんなふうに使いたいという声が上がって

仕事場の向かいにある旧美流渡(みると)中学校。
2年前に閉校になったこの校舎の利活用の取り組みが、約1か月前から始まった。
私が代表を務める地域PRプロジェクト〈みる・とーぶ〉が
活用の窓口になったことは、以前の連載で書いた。
その後、オンラインで校舎の試験活用についての説明会を行ったり、
月1回の清掃活動を行ったりするなかで、予想以上の広がりが生まれようとしている。

今年は試験活用期間ということで、
まず地域のみなさんにさまざまなかたちで使ってもらって、
意見をヒアリングして、今後につなげていこうと考えており、
さっそく、体育館を使ってみたいと申し出てくれたのは、
岩見沢市の山あいの万字地区に2018年に移住した岡林利樹さんと藍さんだった。

ふたりはアフリカ太鼓の奏者。週末に美流渡地区で開かれることになった
小さな音楽会に参加することになり、そのリハーサルを行いたいというのだった。
リハーサル当日には、道内各地からアフリカ太鼓仲間が集まってきて、
体育館で音合わせが行われた。

広々としたスペースでリハーサル。

広々としたスペースでリハーサル。

その傍らで、太鼓メンバーの子どもたちがボールを蹴って駆け回っており、
これだけ広いスペースがあれば、練習をする大人も、
それを待っている子どもも伸び伸びできてハッピーだということがわかった。

駆け回るスペースも十分。

駆け回るスペースも十分。

また、定期的に体育館を使いたいと言ってくれたのは、
一昨年に美流渡地区に移住した陶芸家のこむろしずかさん。
こむろさんは日本舞踊の名取にもなっていて、
地域の人たちと一緒に踊る教室を開くようになっている。

「ソーラン節」や「炭坑節」など、地域のお祭りがなかなか開催できないなかで、気分だけでも味わってほしいと、少人数で開催。

「ソーラン節」や「炭坑節」など、地域のお祭りがなかなか開催できないなかで、気分だけでも味わってほしいと、少人数で開催。

みる・とーぶでも、8月から9月にかけてイベントを企画。
校舎活用の中心的存在になってくれている、
昨年夏に美流渡に移住した画家のMAYA MAXXさんと
1階の窓に打ち付けられている雪止めの板に絵を描く企画を進めている。

期間は8月6~11日の6日間。
地元の人や市内にあるアートとスポーツに特化している
北海道教育大学岩見沢校の学生にも協力を呼びかけ、
MAYAさんの下描きをもとに、みんなで色を塗る予定。

中学校の隣に立つ、同時期に閉校した小学校側のものを合わせると、
窓は全部で40枚近く。
大きい窓は縦2メートル、横5メートルにもなるので、
絵ができたらきっと迫力あるものになるに違いない。

小学校の一部は煉瓦造り。窓は大きく幅は5メートルにもなる。(撮影:佐々木育弥)

小学校の一部は煉瓦造り。窓は大きく幅は5メートルにもなる。(撮影:佐々木育弥)

このほか9月には教育大学と連携しながら
教室にMAYAさんの作品を展示する計画も進行中だ。
現在、福岡アジア美術館で開催中の『おいでよ! 絵本ミュージアム』で、
MAYAさんは何十メートルにもなるダンボールに、動物や木々を描いており、
これをなんとか美流渡に運び入れて、こちらでも展示ができたらと
調整をしているところだ。

『おいでよ! 絵本ミュージアム』の展示風景。縄文文様のようにうねる木々をMAYAさんが現地で描いた。(撮影:小川真輝)

『おいでよ! 絵本ミュージアム』の展示風景。縄文文様のようにうねる木々をMAYAさんが現地で描いた。(撮影:小川真輝)

“山をのぼってでも食べたい” 〈南阿蘇のやさしい氷 2021夏〉 開催中! 大自然で贅沢なかき氷を楽しんで

南阿蘇でしか食べられない、特別なかき氷

熊本県の阿蘇地方といえば、
世界最大級の大きさを誇るカルデラや草千里など、
大自然を満喫できる人気の観光エリアです。

その自然あふれる南阿蘇で
2019年から始まった〈南阿蘇のやさしい氷〉。

南阿蘇周辺の飲食店が夏の期間、
それぞれの個性を生かしたかき氷を提供する取り組みです。

「南阿蘇のやさしい氷」がロゴになった暖簾。阿蘇のシンボルである阿蘇五岳と立ち上る噴煙、そしてお皿に盛られたかき氷をモチーフに制作された。

「南阿蘇のやさしい氷」がロゴになった暖簾。阿蘇のシンボルである阿蘇五岳と立ち上る噴煙、そしてお皿に盛られたかき氷をモチーフに制作された。

きっかけは、以前南阿蘇で行われた農業体験イベントで
参加者のために配布したという「かき氷マップ」。
県内外から集まった人たちに好評だったそう。

「南阿蘇はおいしいかき氷がたくさん!知らずに帰るなんてもったいない!」
という思いから、せっかくなので観光客の方々にも配ろうと
〈南阿蘇かき氷部〉が発足、かき氷マップを制作しているのです。

もう、イメージするだけで甘いシロップと
キンと冷たい氷が口の中で溶けていきそう……。

暑い日には、かき氷に引き寄せられてしまいますね。

今年参加しているのは7店舗。
どこも南阿蘇ではお馴染みのお店です。

ひとつずつ、ご紹介していきます!

シェアスタジオ〈南太田ブランチ〉
2拠点居住者の
新たな住まいのつくり方

YONG architecture studio vol.7

横浜市の野毛山エリアで活動しながら、
長野県立科町で地域おこし協力隊として活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。

今回はついに最終回。横浜で新しく立ち上げた、
住居兼シェアスタジオについてご紹介していきます。

横浜での新たな暮らし方

2020年6月から始まった、横浜と長野の2拠点生活。
横浜には金・土・日の週3日の滞在になり、
それまで住んでいた〈藤棚のアパートメント〉から引っ越すことになりました。
日中は仕事場の〈藤棚デパートメント〉〈野毛山Kiez〉があるので、
夜に寝泊まりができる25平米くらいの小規模な物件を探すことになったのです。

4年間暮らした〈藤棚のアパートメント〉を出ることに。

4年間暮らした〈藤棚のアパートメント〉を出ることに。

藤棚のアパートメントの管理でお世話になっていた
〈東京R不動産〉さんに物件を問い合わせてみると、
横浜駅から京急本線で7分ほどの南太田にある物件を紹介されました。

4階建てのビルのうち3〜4階が住宅仕様で空いたままになっており、
主に3階が住居スペース、4階は倉庫と屋上という構成。
3〜4階の室内の面積は約180平方メートル、
屋上を合わせるとおよそ300平方メートルの物件です。

〈荒川電気商会〉さんという電気資材問屋の物件で、
3〜4階は前会長宅であったようでした。
老朽化が進んでいますが、改修して活用できそうか相談したいとのこと。
探していた物件は25平方メートル。かなりスペースを持て余しそうですが、
ひとまず現地へ行ってみることになりました。

南太田にある4階建てビル。

南太田にある4階建てビル。

3階の既存図面。3階には7つの部屋とキッチン、4階には広い屋上と倉庫がある。

3階の既存図面。3階には7つの部屋とキッチン、4階には広い屋上と倉庫がある。

全部で7部屋、各部屋が25平方メートルくらいはあります。
室内には以前の生活感が残りますが、それぞれ特徴のある仕上げで
そのまま使えそうな部屋もあり、とても魅力的な物件でした。
とはいえ、自分だけでは使い切れない大きさです。
何か活用できないかと考えていました。

雰囲気のあるテクスチャーの廊下が迎える。

雰囲気のあるテクスチャーの廊下が迎える。

寝室はRのかかった織り上げ天井に暖炉も。

寝室はRのかかった織り上げ天井に暖炉も。

子ども部屋は壁のクロスが印象的。

子ども部屋は壁のクロスが印象的。

グラフィックデザイナー・原研哉
「グローバル/ローカル」の時代。
価値はローカルに眠っています。

さまざまな分野の第一線で活躍するクリエイターの視点から、
ローカルならではの価値や可能性を捉える「ローカルシフト」。
その第1回は、日本を代表するグラフィックデザイナーであり、
自主的なプロジェクトやエキシビションも
数多く手がける原研哉さんに話を聞いた。

個人の視点で見出す風景

無印良品、ヤマト運輸、蔦屋書店、JAPAN HOUSE……。
原研哉さんは現代の日本を象徴するような数多くの企業やプロジェクトに、
グラフィックデザイナーとして関わってきた。
1959年に亀倉雄策らが創業した日本デザインセンターの社長を
2014年から務めていて、英訳された著書もあり、海外でもよく知られる存在だ。

この4月1日から使用が開始された〈ヤマトホールディングス〉の新しいクロネコマークやロゴも、原さん率いる日本デザインセンターが手がけた。

この4月1日から使用が開始された〈ヤマトホールディングス〉の新しいクロネコマークやロゴも、原さん率いる日本デザインセンターが手がけた。

そんな原さんが、〈低空飛行〉という新しいプロジェクトを
発表したのは2019年のことだった。
これはクライアントをもたない自主的なプロジェクトで、
原さんが日本各地を訪れ、自身で撮影し、原稿を書き、
月1回のペースでインターネットに公開していく。
現在までに巡った場所は北海道から九州の五島列島までの30か所以上に及ぶ。

日本には、こんなにすばらしいところがこれほどたくさんあったのか!
〈低空飛行〉を見ると、それぞれの美しさや豊かさに圧倒されてしまう。
ホテル、旅館、ミュージアム、庭園、ものづくりの現場など、
原さんの目にかなった場所が、彼ならではの研ぎ澄まされた
感性と考察を通して紹介されているのだ。

〈小田原文化財団 江之浦測候所〉で撮影する原さん。〈低空飛行〉の撮影や原稿執筆は、基本的に原さんがひとりで行っている。

〈小田原文化財団 江之浦測候所〉で撮影する原さん。〈低空飛行〉の撮影や原稿執筆は、基本的に原さんがひとりで行っている。

「〈低空飛行〉で取り上げるのは、長持ちしそうな場所ですね。
土地の魅力を見定めて、その魅力を生かすことを生業にする人がいることが大切です。
一方で新しさには執着しません。
僕は建築好きですが、建築的才能に頼って新しく奇抜なものをつくると、
建築が自然に対して屹立してしまいます。
ただしはっきりした選考基準はなく、基本は直感です」

校舎ににぎわいを取り戻したい!
旧美流渡中学校の校舎再生プロジェクト

撮影:佐々木育弥

2年前に閉校になった中学校の試験活用が始まる

私の仕事場の窓からいつも見えるのが旧美流渡(みると)中学校の校舎とグラウンド。
過疎化によって2年前に閉校。中学校の裏手には同時期に閉校になった小学校もあり、
こちらには息子が2年間通っていた。

小中学校は一緒に運動会をしたり、PTAでの交流もあったりと、
私にとってはどちらもなじみ深い場所。
そして、ふたつある校舎のうちの中学校については、
今年から試験活用が行われることとなった。

学校として使われていた10年ほど前に大規模な改修が行われていて、校舎はとてもきれい。(撮影:佐々木育弥)

学校として使われていた10年ほど前に大規模な改修が行われていて、校舎はとてもきれい。(撮影:佐々木育弥)

閉校については、以前の連載でも書いたとおり、
地域の灯がひとつ、またひとつと消えていく寂しさを感じさせるものではあったが、
同時に私は始まりでもあると捉えたいと思った。

子どもの人数が減っていけば、学校という形態を維持するのは難しい。
それであれば、地域の現状に即した活動内容へと変化させていくことで、
また新しい風が起こるんじゃないだろうか。
何よりわが子の思い出も詰まったこの場所が、
だんだん荒んでいくようなことになるのは避けたい。

そんな思いから、私が代表を務めている地域PRプロジェクト
〈みる・とーぶ〉が中心となって、市内にある北海道教育大学岩見沢校と連携しながら、
一昨年、昨年と学生さんや市民のみなさんと、
校舎活用やまちづくりに関するディスカッションの場を設けてきた。

北海道教育大学岩見沢校の学生たちが考えた美流渡中学校の3年後の未来予想図。

北海道教育大学岩見沢校の学生たちが考えた美流渡中学校の3年後の未来予想図。

このとき、校舎の管理をしている市役所や教育委員会が
どんな展望を考えているのかは、はっきりとはわからなかったが、
市民側からのアクションを続けていくことは大切なんじゃないかと考えていた。
しかし、新型コロナウイルスの感染が拡大していき、
校舎活用のディスカッションも一時中断せざるを得なくなり、
1年ほどこの活動が止まったままとなってしまった。

そんなあるとき、昨年夏に東京から美流渡へ移住し、
地域活動にも関わってくれている画家・MAYA MAXXさん
こんなことを話した。

「雪に覆われた真っ白なグラウンドに、
ひとつだけ巨大なオブジェがあったら美しいと思う」

今年の3月ごろだったのではないかと思う。
美流渡地区は10年ぶりの大雪に見舞われており、
中学校のグラウンドはまだ真っ白な状態だった。
誰も踏みしめていない雪の絨毯を毎日のように見ていたMAYAさんは、
ここに数十メートルのポールを立て、それを芯にクマのオブジェをつくって、
実際に自分でそれを眺めてみたいと思ったという。

一面の雪に覆われたグラウンド。

一面の雪に覆われたグラウンド。

このクマのオブジェというプランは奇想天外なものではあったが、
私はグラウンドを借りられないかと市役所に掛け合うこととなった。

市の担当者と話しているなかで、このオブジェ制作とともに、
校舎の整備や清掃活動も自分たちで行いたいと申し出た。
日々、窓から校舎やグラウンドが見えており、
雪解けとなってからは雑草が勢いを増していく様子を見ていて、
気になってしかたがなかったからだ。

また、小中学校ともに豪雪対策から、1階の窓には雪止めの板が貼られていた。
地域の住民からは、校舎が閉ざされてしまった感じがして
悲しいという声が上がっていたことから、
MAYAさんが窓の板に絵を描いたらどうかという話をしてくれた。

1階が雪止めの窓で塞がれた校舎。

1階が雪止めの窓で塞がれた校舎。

MAYAさんは、昨年アトリエのドアや窓に紺色の絵具で石を描き、今年は倉庫に植物の文様を描いた。美流渡がどんどん明るいムードになっているように思う。

MAYAさんは、昨年アトリエのドアや窓に紺色の絵具で石を描き、今年は倉庫に植物の文様を描いた。美流渡がどんどん明るいムードになっているように思う。

〈セラボラボ〉から発信する
九谷焼のニューノーマル、
〈福LUCKY〉と〈ETHNI9〉

九谷焼を広めるために

伝統と歴史に裏打ちされた焼き物として全国的に名が知られている、
石川県を産地とする九谷焼。
幅広いうつわの種類がある一方で、往年の形式に固執してしまったり、
現代では使いにくいデザインになってしまっている側面もある。

そんな九谷焼をいろいろな角度から知ってもらおうと、
2019年に立ち上げられた複合型文化施設が
〈九谷セラミック・ラボラトリー(通称・セラボクタニ)〉である。

建築家・隈研吾が設計した〈九谷セラミック・ラボラトリー〉。

建築家・隈研吾が設計した〈九谷セラミック・ラボラトリー〉。

この場所は、もともと「花坂陶石」という石から粘土をつくる製土所があった場所で、
建物の老朽化に伴い、〈セラボクタニ〉として生まれ変わった。
それゆえ、現役で製土所としての機能を果たしながらギャラリーや体験工房、
アトリエなどを持ち、九谷焼を多角的に体感できる施設となっている。

セラボクタニの2周年となる今年5月、
新商品開発プロジェクト〈セラボラボ〉が立ち上がり、
第1弾として〈福LUCKY〉と〈ETHNI9(エスニック)〉という
ふたつのブランドが発表された。

「この場所が立ち上がった当時から、オリジナル商品開発の話はありましたが、
2年越しに実現しました。
これまでは窯元や作家さんから商品を預かって販売していましたが、
それに加えてここにしかない商品をつくりたかった」と開発経緯を教えてくれたのは、
セラボクタニを実際に運営している小松市地域おこし協力隊のひとり、緒方康浩さん。

コロナ禍で生み出された「ニューノーマル」を目指す九谷焼は一体、
どんな焼き物になったのだろうか。

小松市の地域おこし協力隊として、セラボクタニに勤務する3人。左から緒方康浩さん、中岡庸子さん、吉田良晴さん。

小松市の地域おこし協力隊として、セラボクタニに勤務する3人。左から緒方康浩さん、中岡庸子さん、吉田良晴さん。

【山井梨沙×人類学者・石倉敏明】
身体性を取り戻していく
「フィールドワーク」とは

この連載では、新潟県を拠点にキャンプを中心とした
ローカルなライフスタイルを提案する
〈スノーピーク〉代表取締役社長の山井梨沙さんが、
ローカルでありプラネット的なモノ・コト・ヒトに出会いながら、
コロナ後の暮らしのスタンダードを探し求める「フィールドワーク」の記録。
そして山井さんの著作『FIELDWORK―野生と共生―』の実践編となる。
初回は、そもそも「フィールドワーク」とは何か、
その言葉が生まれた人類学の研究者・石倉敏明さんに話を聞いた。

秋田市のキャンプ場にて対談は行われた。

秋田市のキャンプ場にて対談は行われた。

新文化はコンタクトゾーンから生まれる

山井梨沙(以下、山井): ご無沙汰しています。
自著『FIELDWORK―野生と共生―』ではすてきな前書きをご執筆いただき、
ありがとうございました。
今回、その続編としてこの連載をさせていただくことになったのですが、
タイトルにも入っている「フィールドワーク」という言葉について、
あらためて石倉さんにお話をうかがえたらと思います。

山井さんの著作『FIELDWORK―野生と共生―』

山井さんの著作『FIELDWORK ─野生と共生─』

石倉敏明(以下、石倉): 「フィールドワーク」とは自分が慣れ親しんだ世界の外に出て、
別の現実に触れる方法のことです。
人類学者は他者の世界に入り込んで、内側からその在り方を体験し、理解しようとします。
「他者」とはヒトだけでなく、人間を取り巻くすべてのモノを含んでいます。
大事なのは何かについての「知識」を得るだけでなく、
他者が体得している「知恵」に触れること。
だからこそフィールドでの体験が重要視されています。
フィールドでは他者との接触から、双方向的な変化が発生していく。
それを歴史学の言葉を借りて、「コンタクトゾーン(接触領域)」と呼ぶこともあります。
例えば、20世紀中盤のアメリカ・テネシー州で、
アフリカ系移民の文化とヨーロッパ系移民の文化が融合して
エルヴィス・プレスリーの歌声と腰つきが生まれ、
ロック音楽やポピュラー音楽となって世界中に広がっていったように。

世界そのものと接触

山井: コロナ禍が続く今は、人との触れ合いが減っています。
大変なときですが、何か大きなシフトが起こりつつある時代という意味では、
コンタクトゾーンの話は参考になりそう。

石倉: フィールドワークは、社会という枠組みの外に出て、
世界そのものと再び接触(コンタクト)し直してゆくチャンスかもしれません。
その意味では、野外に出ることも重要です。例えば山に入って感じる木漏れ日や風の匂い、
湿度や雲の動きから何かを感じたりする経験。
フィールドに出ると、僕は幼少期の記憶みたいなものが蘇ってくるんです。
まだ看板の文字や標識の記号が読めなかった幼年時代。動物や子どものように、
文字や記号ではない、生々しい世界の見え方を追体験しているような感覚です。
梨沙さんも、著作の『FIELDWORK』で
子どもの頃のキャンプ体験のことを書いていましたけれど、
あれはまさにフィールドワークを通して味わうことになる感覚ですよね。

写真家・田附勝さんとの共著『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)にて富士山麓での取材の様子。写真提供:『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)

写真家・田附勝さんとの共著『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)にて富士山麓での取材の様子。写真提供:『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)

山井: 私は頭を使ってインストールするのが苦手で、事前に机上で得た知識でも、
とにかく現地に行って体感しないと、自分のなかでなかなか実感・定着しないんです。
新型コロナウイルスがやってきた当初は、
オンラインミーティングや画面上で目と頭だけで情報を得ることだけが続いて、
消化不良を起こしてしまっていたような気がします。
石倉先生にとってのフィールドワークとは、既存の学説を追体験して確認したり、
今までと違う情報や価値観に出合うことを期待するための行為なのでしょうか?

石倉: フィールドワークは、理論の向こう側にある生きた現実を現地で体感し、
受け止め直していく実践だと思っています。
断片的な情報などを手がかりに現地に行ってみると、
実際には期待を裏切られることも多いのですが、
立ち止まる経験も含めて大切なのかもしれないですね。
どんな記録も決して完全なものではなく、そこに視点や感覚のズレがあるからこそ、
新しい発見の余地があります。
キャンプでの火の起こし方とか、水場の位置とかはgoogleで検索できるけど、
炎の熱さや水の冷たさは絶対にググっても感じられない。
それと同じで、客観的に調べることの重要性は踏まえつつも、
書物で調べてもわからないことを、ほかの人の体ではなく、自分の体で体験したい。
そしてその体験を表現して、その場にいない誰かと共有したい。
これはアーティストや人類学者にとっては、とても大事な衝動だと思うんです。

長野県立科町〈町かどオフィス〉
工事費3万円!? 古い建物を再利用して
空き家活用の拠点に

YONG architecture studio vol.6

横浜市の野毛山エリアで活動しながら、
長野県立科町で地域おこし協力隊として活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。

立科町にて、空き家活用の促進をミッションに活動拠点をつくるべく、
まちの中心部に空き店舗を見つけたのが前回まで。
今回はその空き物件のリノベーションの過程と、
そこから広がる活動について紹介します。

〈藤屋商店〉を開く

前回ご紹介した〈藤屋商店〉さんは、築97年と歴史ある建物であり、
まちの中心に位置するため、かつてはまちのみんなが知っている商店でした。

お店は約10数年前に閉店しているが、オーナーさんはまだこの建物に住んでいらっしゃる。

お店は約10数年前に閉店しているが、オーナーさんはまだこの建物に住んでいらっしゃる。

内見させていただくと、当時の様子が想像できる家具や小物がたくさんあり、
移住者である僕にとっては、とても魅力的でどこか懐かしい空気のある場所でした。
なるべくこの雰囲気を壊さないよう、
最小限の手数で活用していくのがよさそうだと思いました。

藤屋商店の山浦文子さん。

藤屋商店の山浦文子さん。

昔の藤屋商店の様子。

昔の藤屋商店の様子。

ただ、こちらの物件の店舗部分には水回りがなく、
トイレも老朽化して撤去された状態でした。
地方では下水道の整備が不十分で、汲み取り式のトイレも少なくありません。
そのため、水回りの工事はコストがかかります。

空き家や空き店舗を活用する際、
「こうした不利な条件をどう捉えるか」が場所づくりのヒントになります。
お金をかけて修繕するだけでなく、現状使えるものから
場所の使い方を考えることで、新しい活用方法が見えてきます。

ここにあるもので何ができるか。

ここにあるもので何ができるか。

藤屋さんの場合、徒歩15秒ほどの距離に、ふるさと交流館〈芦田宿〉があります。
なので、トイレを使うなら交流館へ行けばいいのです。
そして、コーヒーが飲みたくなったり、まちについて聞きたいことがあれば、
同じ通りの〈はじまるカフェ〉さんや〈清水商店〉へ行けばいいのです。

建物がすべての機能を備える必要はなく、積極的にまちや周辺環境に頼れば、
不完全な建物は活路を見い出せるし、まちには人の往来が生まれるようになります。

〈リバーバンク森の学校 友の会〉
廃校の周りの森を間伐し
シェアするコミュニティ

リバーバンクの森をひらく

2010年から「グッドネイバーズ・ジャンボリー」というフェスを、
廃校を舞台に始めたことから、その廃校の運営まで手がけるようになりました。

鹿児島の南の森の中にあった旧長谷小学校が、
いまから30年前に地域の人々の手によって
〈かわなべ森の学校〉という名前で使われるようになりました。
さらに僕らが引き受けて〈リバーバンク森の学校〉と
名前を変えて運営を始めてから3年が過ぎました。
森の学校とその周辺の森は、みなさんからクラウドファンディングの支援も受けて、
開放的な自然体験施設として運営をしています。
以前の記事はこちら

緑に覆われた校庭で自由にキャンプが楽しめる森の学校。

緑に覆われた校庭で自由にキャンプが楽しめる森の学校。

今もなお世界が苦しんでいる新型コロナウイルスの流行もあり、
最近では森の学校も思うように活動できない日々が続きました。
そんなところから、この場に愛着を持っていただいている人たちに協力してもらって
クラウドファンディング(Camp Fireのプロジェクト)を行い、
学校を取り巻く森の開拓に取り組んできました。

この森は40年ほど前まではいまほど鬱蒼とした森ではなく、
畑としても利用されていてとても明るかった。
当時の航空写真にその姿が残っています。

昭和30年代の森の学校の様子。

昭和30年代の森の学校の様子。

建材としての森。その問題点

その後、スギの木を1本植えるたびに補助金が出るというような
戦後から続いた植林政策によって、人工林化が進んでいきます。
なぜスギばかりかというと、
スギは「まっすぐ」に育つことから「すぐ木→スギ」という名前の説があるように、
当時は効率のよい建材として重宝されていたからという理由があります。
つまり当時の山林を保有していた人たちにとっては財テクのひとつでした。

戦後からの高度経済成長期には人口も増え続け住宅も需要がたくさんあったものですが、
現在ではその勢いも止まり人口減少期。
また海外からの安い材木もどんどん入ってくるようになって、
割高になってしまう国産材の需要もどんどん減り、
伐採してもビジネスにならないので間伐もしない。
間伐しないと材木としての質が下がり価値も低下してしまうので
さらに放置に拍車がかかる。
日本中いたるところでスギの放置林が生まれているのはこうした理由です。

鬱蒼として立ち入ることもままならなかったリバーバンクの森。

鬱蒼として立ち入ることもままならなかったリバーバンクの森。

そもそも日本は先進国と呼ばれている世界の国のなかでも有数の森林国ですが、
大部分がスギの森で、その多くが放置されているという状況。
この学校の周辺の森も、それに「右に倣え」だったわけです。

森林組合により伐採作業中。

森林組合により伐採作業中。

材として使う目的のスギの森を育てる場合、
1ヘクタール(100 x100メートル)に3000本ほど植樹して、
それを少しずつ間伐して1000本ほどに減らしていきます。
木にも優劣があるので競わせながらいい木を残すようにして育てていく。
そこには長年培ったその地域ならではの林業の経験がものを言います。

林業を生業としている人たちと話すと、
自分が植樹した木を自分で伐って材にするということはほぼなく、
いま自分たちが製材している木は、1世代も2世代も上の先人が植えてくれたもの。
人間が働く年数よりも木の時間ははるかに長いのです。
先人が残してくれた財産を間伐しながら、大事に育てていい木をつくる。
しかし建材としての需要減少と担い手不足から、
こうした知恵も放置された森とともに失われつつあります。

この森をひらくにあたって、僕らは〈森のエネルギー研究所〉の佐藤政宗さんから
いろいろと森のことを学ぶところから始めました。

グッドネイバーズ・ジャンボリー2020にて、佐藤政宗さん(左)、木工作家のアキヒロジンさん(中)と行われた、焚き火を囲んだトークショー。後ろの観客には働き方研究家の西村佳哲さんの姿も。

グッドネイバーズ・ジャンボリー2020にて、佐藤政宗さん(左)、木工作家のアキヒロジンさん(中)と行われた、焚き火を囲んだトークショー。後ろの観客には働き方研究家の西村佳哲さんの姿も。

建築家が地域おこし協力隊に。
長野県立科町で空き家問題に挑む

YONG architecture studio vol.5

横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
今回は2020年6月から活動している、
長野県北佐久郡の立科町(たてしなまち)での取り組みを紹介します。

多拠点で動き回る「風の人たち」

建築の仕事に限ったことではありませんが、複数の地域に拠点を持ち、
地域の人と関わりながら活動している人たちがいます。
横浜で日々接する知人や友人たちにも、そのような暮らし方をする人たちがいました。

地域の風土をつくるには、外からやってくる「風の人」と
地域に根ざした「土の人」の存在が重要だといいます。
風の人の役割は、地域に新しい価値観や人を運んでいくことです。

横浜の藤棚商店街にて〈藤棚のアパートメント〉
〈藤棚デパートメント〉の職住近接の暮らしを送るなかで、
自分も風の人となって横浜以外の別の地域にも関われたなら、
もっと多角的に地域のことを見られるようになるのでは、と思うようになりました。

立科/蓼科との縁

僕にとっての“別の地域”は、長野県の立科町でした。
この立科町は「蓼科」という字のほうがなじみがあるかもしれません。
蓼科山の北側の山麓にあり、県内では東信地区といわれるエリアです。
「蓼」という字が当用漢字になく「立科」という名前が町名になりました。

立科町移住定住支援サイト『旅する移住』より抜粋。立科町は面積66.87平方キロ、人口7000人弱と小さな町で、南北に細長く、中央でくびれているのが特徴。

立科町移住定住支援サイト『旅する移住』より抜粋。立科町は面積66.87平方キロ、人口7000人弱と小さな町で、南北に細長く、中央でくびれているのが特徴。

蓼科山は幼少期からよく家族で訪れていた場所で、
訪れるたびに工作をしたり絵を描いたりして過ごしていました。
自然に囲まれた環境のなかで、最初にものづくりの楽しさに目覚めた場所でもあり、
建築の仕事に進もうと思ったのも当時の環境が影響している気がします。
いつか何かのかたちでここに関わりたいと思いつつ、
それは遠い先の話だと思っていました。

中学生の頃。蓼科に来たら工作するのがお約束。

中学生の頃。蓼科に来たら工作するのがお約束。

「港のある暮らし」はいかが? 福島県・いわき市で 古民家再生に取り組む 〈中之作プロジェクト〉が ガイドブックを発行

「港のある暮らし」を伝えるガイドブック

福島県の東南端に位置するいわき市。
南端は茨城県、東は太平洋に接し、約60キロの海岸線を有しています。
その海岸部に、江戸時代商港として栄えた中之作港に面し、
当時の古き良きまち並みを残す「中之作・折戸地区」があります。

この地区で、古民家再生などを行う〈中之作プロジェクト〉が、
地域の魅力を伝えるガイドブック『港のある暮らし』を発行しました。

誌面では、地区の歴史や、港のある土地ならではのレジャーや食事スポットが紹介されています。

誌面では、地区の歴史や、港のある土地ならではのレジャーや食事スポットが紹介されています。

地域の食材を生かした料理教室など、区内の活発な交流の様子も紹介。中之作港は、暖流と寒流の交わる潮目で、特にカツオは東北屈指の水揚げ量を誇りました。鮮なカツオの刺身は祝い事のごちそうとして欠かせない品なのだとか。

地域の食材を生かした料理教室など、区内の活発な交流の様子も紹介。中之作港は、暖流と寒流の交わる潮目で、特にカツオは東北屈指の水揚げ量を誇りました。新鮮なカツオの刺身は祝いごとのごちそうとして欠かせない品なのだとか。

中之作プロジェクトが立ち上がったのは、2011年秋のこと。
目の前に海が広がるこの地区にも、東日本大震災で津波が押し寄せました。
被害を受けた多くの建物が、震災前より進んでいた過疎化の影響もあり、
修復されることなく解体されていったといいます。

撮影:中之作プロジェクト

撮影:中之作プロジェクト

いわき市内で設計事務所を営んでいた豊田善幸さんは、
震災前、中之作にある江戸時代の古民家の改修の依頼を受けていましたが、
その所有者の方もまた、津波の被害を受けたことで建物の解体を決めてしまいます。

「手をかければ、まだ生かすことができる。
解体をなんとかくい止めたい。貴重な建物やまち並みを後世に残したい」
と考えた豊田さんは、建物を買い取ることを決意。
ここから中之作プロジェクトはスタートしました。

さまざまな業界のアイデアを集結!
5Gが実現する、多様性がある社会

5Gは社会システムにどのような影響をもたらすのか

日本でも5Gサービスがスタートして、約1年が経った。
まだその恩恵を実感する人は少ないかもしれないが、
高速大容量通信、低遅延、多接続など、
従来の通信インフラにないさまざまな特性を備えた5Gは、
これから人々の生活様式を大きく変えることになるはずだ。

5Gとは
5th Generation Mobile Communication System(第5世代移動通信システム)の略。
つまり、1G、2G、3Gと連綿と進化を遂げてきた通信システムの最新規格である。

しかし、数年前に3Gから4Gにアップデートした頃と比べ、
今回の進化はより劇的だ。
よく語られる「2時間の映画が3秒でダウンロードできる」ことは、
あくまで5Gが持つポテンシャルの一端に過ぎない。

例えば低遅延性は自動運転車の普及を強力に後押しすることになるし、
多数の端末への同時接続が可能になることで、
家庭内のめぼしい電化製品がインターネットでつながり、
スマートな暮らしを実現する一助となる。

そしてもちろん、社会システムに及ぼす影響も計り知れない。
5G通信が日本全土を埋め尽くしたとき、私たちの暮らしはどのように変わるのか。
各分野で活発に行われている実証の様子からは、
みんなでアイデアを出し合い、協業しながら実現する姿が見られた。

別府〈湯とひとと〉 温泉文化の本質を見つめた 9人9湯のショートムービー

ゴールデンウィークもお家でまったりと過ごした人は多かったのでは?

どこにも行けない日々はまだ続きそうですが、
旅した気分になる映画やムービーなどを見て、
自由に旅行できる日を待ち侘びたいもの。

今日ご紹介する、大分は別府にて撮影された〈湯とひとと〉は、
温泉文化とそれにまつわる人々の想いをまとめたショートムービー。

旅行できない今だからこそ観たい、日本一の温泉文化の本質に触れ、
その営みや文化のすばらしさを知ることができる内容となっています。

自然とともにある〈夢幻の里 春夏秋冬〉

撮影の舞台となったのは、
約5000を超える源泉のなかから厳選された9つの地。
そして別府の湯にたずさわる9人。

温泉を自然からあずかる、ということ|夢幻の里 春夏秋冬 藤崎謙太郎

別府の山間に佇む立ち寄り湯〈夢幻の里 春夏秋冬〉
ここには、四季折々の風景を楽しめる白濁の硫黄泉があります。

歴史を感じさせるクラシックな岩風呂や
迫力の滝を背に、美しい自然を独り占めできる露天風呂。
心身ともに大自然の恩恵を受け取ることができそうな、そんな極上の空間です。

約100年以上もこの地で受け継がれてきた硫黄泉を継承し、
当時の趣を残した営みを陰で支えるのは温泉の管理人・湯守の藤崎謙太郎さん。
そんな藤崎さんらの、入浴できる状態にするまでの手間隙や想いなどが、
趣向を凝らした美しい映像とともに知ることができます。

日々のたゆまぬ努力から成り立つ〈夢幻の里 春夏秋冬〉。
それがいかに尊いものか、このムービーからひしひしと伝わってきます。

自由な温泉時間を〈ゆふいん束ノ間〉

発展途上にある、温泉保養集落|ゆふいん束ノ間 堀江洋一郎

にぎやかな湯布院中心部より車で5分。
もくもくと立ち上る蒸気を分け入ったところにあるのが
温泉保養集落〈ゆふいん束ノ間〉です。

淡いブルーの温泉が美しい大露天風呂がある同館は、
“温泉のある時間”を自らクリエイトして
自由な滞在を楽しんでほしいというコンセプトで運営されています。
そして、ワーケーションにも対応した現代湯治宿舎〈湯倫舎〉がこの夏オープン予定。

美しい温泉ですが、自噴のためコントロールが難しく、
広々とした敷地も相まって、管理はかなり手がかかるといいます。

「うちだけの話じゃなくて、
みなさん温泉トラブルで苦労していると聞きます。
けれどそれ以上に、温泉に浸かったときの豊かさというのは、
これをやり続けないと味わえないからしゃあないなと思っています」

と、オーナーの堀江洋一郎さん。
ムービーを観て、大変な労力を知ったうえで入る〈ゆふいん束ノ間〉の湯は、
きっととても心に沁みることでしょう。

いちき串木野市の廃校の記憶を
記録に残す、地域映画プロジェクト。
「かんぷくシネマ」

地域プロデュースとして映画をつくる

2010年に鹿児島県南九州市で〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉という
フェスを始めてから10年以上が経ち、
運営している僕たち〈リバーバンク〉のチームには
商業施設や公園といった「公開空地」でのイベント企画や、
人が集まる場としてのショッププロデュースといった依頼が
舞い込むようになっていました。

そのなかで、リバーバンクが活動している南九州市ではなく、
鹿児島県いちき串木野市という自治体から、
地域を盛り上げるための企画を考えてほしいという依頼がありました。

地域では古くから、霊山として大事にされてきた冠岳の風景。

地域では古くから、霊山として大事にされてきた冠岳の風景。

いちき串木野市は市来(いちき)と串木野というふたつのまちが合併してできた、
人口3万人弱の地方都市です。市来も串木野も東シナ海に面した港町ですが、
内陸に入った中山間地域に冠岳という霊山があります。
その冠岳地区と麓の生福(せいふく)地区もまた、御多分に漏れず過疎化に悩む地域。

この地域を、芸術文化を切り口に関係人口を創出して盛り上げられないか、
というのが自治体からのオーダーでした。
ひとくちに芸術文化といっても、
それこそ子どもたちの書道や絵画展から現代アートまで、想定される領域は広大です。
これまで僕らも全国あちこち見て回るなかで、
いきなりエッジの効いたキレキレのアートを持ち込んでも、
地域に古くから暮らす人たちには響かないという事例をいくつも見てきました。
だからといってクオリティ度外視でなんでもありの展覧会などでは、
そもそも域外からの関係人口の巻き込みは難しい。

まずは、この地域に足を運んで見て回ろうということで
僕が代表を勤めるディレクション会社〈BAGN Inc.〉のメンバーと
地域を歩き回ってリサーチを始めました。
実は本当にたまたまですが、僕の父は合併前の串木野市の出身で、
子どもの頃は夏休みになると市街地にあった祖父母の家に預けられたりしていました。
しかも祖父母のルーツはそこから車で20分ほどの冠岳〜生福地域。
墓参りなどでときどき来ていたこともあり、多少の土地勘はありました。
でも僕自身はこの地域のことはほとんど知らなかった。
ここに自分のルーツがあるということも、
この仕事のオファーがあって調べているうちにあらためて認識したくらいでした。

かつてこの地を訪れた中国の伝説の人物、徐福の像。

かつてこの地を訪れた中国の伝説の人物、徐福の像。

旭川市〈Cafe Sunao〉
歴史ある商店街の居酒屋を
コミュニティカフェに

野村パターソンかずたか vol.8

北海道旭川市で、リノベーションや不動産事業を営みながら、
アーティストインレジデンスなど地域の文化事業を企画・運営する、
野村パターソンかずたかさんの連載です。

元ミュージシャンで世界の都市を巡った背景から、
地元・旭川市にて多様なコンテンツをしかけています。

最終回の今回は、旭川市の中でもひときわ長い歴史を持つ
銀座商店街にあった居酒屋を、地域の人が集えるコミュニティカフェとして蘇らせた
〈Cafe Sunao〉さんをご紹介します。

旭川銀座商店街にある店舗。外観ビフォー。

旭川銀座商店街にある店舗。外観ビフォー。

かつては賑やかだった旭川銀座商店街

日本全体で見ると、名前に「銀座」と入る商店街は300を超えるらしい。
旭川銀座商店街もそのひとつで、市内では最も古い歴史をもつ商店街のひとつだ。
実は自分の先祖のルーツがある場所でもある。

私の曾祖父は、戦後に金沢から北海道に移住し、くず鉄拾いからシイタケ栽培まで、
生き抜くためにあらゆる商売をやってきたと聞いている。
銀座商店街の一角に店舗を構えていた彼の商店は、その後も場所やかたちを変え、
最終的には米菓製造に落ち着くことになる。

〈野村製菓〉という米菓会社は、餅の製造に加えて、江戸揚げを主力製品としていた。
江戸揚げは、「かぶきあげ」とも呼ばれ、蒸したもち米をついて、
米油で揚げ、粗塩をふりかけただけのシンプルな菓子だ。
最盛期には、このお菓子を北海道中で何億円分と販売していたというから驚きだ。

残念ながらこの会社はなくなってしまったが、
曾祖父からバトンを譲り受けた祖父に連れられて何度も訪れた旭川銀座商店街の風景は、
自分の幼少期の原風景として記憶に残り続けている。
活気あふれる野菜市、いつ行っても賑わっていた多くのお客さん。
全国どこの商店街も同じかもしれないが、いまとは比較にならない活気に包まれていた。

築51年、元居酒屋の空き店舗

今回紹介する物件の周辺には商店街の顔ともいえる建物が多く存在したが、
年を追うごとにどんどん解体されていった。
個人商店が多く入っていたRCの建物や、吹けば飛ぶような木造2階建てなど、
大通りに近いほうが徐々に潰されていった。

店舗の数には不釣り合いな駐車場だけが目立ち始めていた2019年、
元居酒屋の店舗が売りに出された。
もとは〈千鶴寿司〉という評判の寿司屋だった店舗が、
居酒屋として約10年利用されたあとに閉店して、店舗兼住居として売りに出されていた。
放っておけばまた駐車場がひとつ増えるだけだろう。
家族のルーツがあるこのエリアの物件の取得に向けて動くことにした。

内見パーティの様子。このあと人数は3倍ほどに膨れ上がる。

内見パーティの様子。このあと人数は3倍ほどに膨れ上がる。

物件の購入に合わせて恒例の内見を兼ねたパーティイベントを開催し、
たくさんの人が集まった。2021年のいまとなっては、
マスクもせずに何十人も集まり同じ空間で過ごしたあの夜は、もはや昔話のようだ。

熊本地震を伝える
ミュージアム〈記憶の廻廊〉
旧東海大学阿蘇キャンパスを訪れて

熊本県の阿蘇地方は、カルデラや草千里といった自然豊かな大地が広がる。

2016年の4月14日と16日に発生した熊本地震。

28時間以内に2度も震度7を記録する大地震は観測史上初めてのことだった。
四季折々の美しい姿を見せてくれる阿蘇も、
地震により甚大な被害を受けた地域のひとつだ。

震災から5年。
熊本地震の記憶を伝える場所があるということで、南阿蘇村を訪れた。

熊本地震の記憶を未来へつなぐ

熊本市内から車で約1時間、2020年10月に開通した
国道57号を北上すると阿蘇の玄関口に差し掛かる。

ここは、「数鹿流(すがる)崩れ」と呼ばれる
大規模山腹崩壊や、阿蘇大橋の崩落が起きた場所だ。
黒川を挟んだ対岸に残された橋の一部が見える。
その生々しい光景に、思わず足がすくんでしまう。

地震によって崩れ落ちた阿蘇大橋。

地震によって崩れ落ちた阿蘇大橋。

未だ災害の爪痕が残るその場に立つと、被害の大きさが肌で伝わってくる。

熊本地震の経験から得られた教訓を後世に伝えるために、
熊本県と関係市町村は、さまざまな地域に点在する
「震災遺構」と情報発信の「拠点」を広域的に巡る、
フィールドミュージアムの取り組みを進めている。

それが、熊本地震 震災ミュージアム〈記憶の廻廊〉だ。

この震災ミュージアムは回廊型である。
県内8市町村(熊本市、宇城市、益城町、南阿蘇村、宇土市、
御船町、西原村、大津町)が連携し、震災遺構や防災拠点センター、
役場庁舎、熊本城などの拠点を広く巡ってもらおうという取り組みである。

この日訪れたのは、その震災ミュージアムの
拠点のひとつである〈旧東海大学阿蘇キャンパス〉だ。

南阿蘇村に位置する旧東海大学阿蘇キャンパスは、
「地表地震断層」と「1号館建物」が震災遺構として
保存されており、県防災センターと並ぶ
震災ミュージアムの中核拠点として機能する。

旧東海大学阿蘇キャンパスへ

高台にある白い建物

高台にある白い建物が旧東海大学阿蘇キャンパスの校舎だ。
以前はここで農学部の学生たちが集い学んでいた。

実習フィールドを残してキャンパスはすでに移転してしまったが、
旧校舎は取り壊されることなく、震災遺構として
2020年8月1日から一般公開されている。

「震災遺構」というと重々しく感じてしまうが、
校舎の周りののどかな風景は、開放的で清々しい。

「もし自分がこの場所に通えるなら居心地がいいだろうな」と、
そんなイメージを膨らませてしまうほど、気分がいい。

この日の案内人である鉄村拓郎さん。

この日の案内人である鉄村拓郎さん。

笑顔で出迎えてくれたガイドの鉄村さんにさっそく案内をしていただく。
ガイドは30名ほど在籍しているそう。
団体を除いて、多い時に1日で100名前後を案内するという。

時間は30〜40分程度、阿蘇独特の地形から、震災遺構である地表地震断層、
1号館建物や地域のことについて丁寧に解説してもらえる。
阿蘇は隆起の激しい珍しい地形だとあらためて驚く。

断層が校舎を貫く凄まじさ

地表地震断層と呼ばれる地割れは、校舎裏の広場に当時のままの状態で保存されている。
断層は一直線に校舎へ向かっている。

断層の種類や性質など図解でわかりやすい。右横ずれ断層の特徴である雁行(がんこう)についての説明を聞く。

断層の種類や性質など図解でわかりやすい。右横ずれ断層の特徴である雁行(がんこう)についての説明を聞く。

本来一体である校舎の倒壊を防ぐために、1号館建物は4分割にされていた。
窓ガラスが割れ、階段や壁に大きく亀裂が伸びている。
断ち切られた校舎や波のように割れた地面が痛々しい。

「中央の校舎の被害が左右に比べて大きいのはなぜでしょうか?」
と突然クイズが投げかけられた。

来場者が受け身になりすぎず、一緒になって考えることが必要なのだと気づかされる。
答えは、ぜひ訪れた際に確認してほしい。

壊れた柱や外壁もそのまま保存されている。

壊れた柱や外壁もそのまま保存されている。

外から見る事務室の中には、散乱した家具やバスの時刻表、
カレンダーが当時の日付のまま掲示されていた。

通常、損壊した建物は取り壊されて再建されるのが一般的だ。
さらに震度6強の揺れを受けながら倒壊しなかった
大規模な建物と断層が一体となって保存されている事例は、国内に例を見ないという。

解説パネルや写真、映像では伝えきれない現実。

リアルな環境だからこそ、目で見ること、声を聞くことで実感となり、
「自分にも関わること」として受け止めやすくなる。
現地に来なければわからないことだと感じた。

マガジンハウスが 新たなメディアプロジェクト始動。 福祉をたずねるクリエイティブマガジン 〈こここ〉創刊!

「個と個で一緒にできること」を合言葉に、ウェブマガジン始動

2021年4月15日、マガジンハウスは
福祉とクリエイティブをテーマに新たなメディアプロジェクトをスタートしました。

メディアプロジェクトの第一弾として創刊したのは、ウェブマガジン〈こここ〉
「個と個で一緒にできること」を合言葉に、
福祉につらなる人や場所、活動、表現、創造性をたずね、
紹介していくメディア事業を軸に展開していきます。

〈コロカル〉に続く、社会課題に向き合うウェブマガジン

マガジンハウスでは、
2012年1月に「日本の地域」をテーマにした〈コロカル〉を創刊。
日本各地のユニークな取組みやパワフルなプレイヤーを紹介しながら、
その根底にある雇用不足や高齢化、過疎化などの問題に向き合ってきました。

新たにはじまるウェブマガジン〈こここ〉もまた、
高齢化社会を迎える日本での介護人材の不足、
「生きづらさ」や「わかりあえなさ」を感じる人の増加などの
社会課題を背景に創刊します。

福祉の現場には、社会に生きるひとりひとりの心身や
置かれた状況に日々向き合い、汗をかき、奔走してきた経験が宿っています。
同時に、社会全体の構造的な課題にさらされ、
立ち向かうことを求められてきた領域でもあります。
また、近年では、福祉の現場から驚くほど創造的な活動や表現も生まれ、
さまざまなクリエイターやアーティスト、専門家が関わっています。

ウェブマガジン〈こここ〉では、「クリエイティブ」を入り口に、
福祉領域に関わる人・活動・テーマをたずね、
やわらかく紹介していくことで、
これからの社会を共に生きていくうえでのヒントを読者とともに考えます。

メディア運営には、
2012年コロカルを立ち上げた及川卓也が統括プロデューサーとして、
編集長は、これまでアートプロジェクトや
コミュニケーションプランニングの領域で活動してきた中田一会さんが参加。

熊本地震から5年。
南阿蘇〈ひなた文庫〉が振り返る
あのときのこと、これまでのこと

2015年に、南阿蘇鉄道の無人の駅舎にオープンした小さな古本屋〈ひなた文庫〉。
その翌年、2016年に熊本地震が起き、鉄道が不通のいまも、
同じ駅で週末だけの営業を続けています。
そのひなた文庫の店主が、この5年を振り返り、いまの思いを綴る特別寄稿です。

大きな2度の地震

5年前の4月14日、熊本県益城町を中心に起きた大きな地震。
南阿蘇村の隣、大津町の自宅のベッドで横になっていて強い揺れを感じた。
本棚からバラバラと落ちてくる本から頭を守りながら
訳もわからないまま揺れが収まるのを待った。
熊本が震源の大きな地震なんていままで記憶になかったので、まさかという思いだった。

私たちの近所や自宅アパートはそんなに被害はなかったものの、
風呂場のタイルが剥がれて使えなくなったので、
翌日は南阿蘇の実家に泊まることにした。

昼の間も体に感じる揺れは何度もあったが、通常通り仕事を終え、
〈ひなた文庫〉のある駅舎の様子を見に行った。
建物に被害もなく安心し、帰って家族でごはんを食べながら、
「益城町はひどいことになっている、まだ余震もあるから怖いね」
などと話して床についた。

深夜午前1時25分、 ゴゴゴゴという
どこから聞こえてくるのかわからない大きな地響きと、
肩を掴んで思い切り揺さぶられたような激しい揺れにいきなり襲われた。
14日に感じたものとは比べものにならなかった。
声にならない悲鳴が口から漏れ、早く収まることだけを願っていた。
真っ暗闇のなか、必死に耐えたあのときの恐怖は未だに忘れられない。

揺れが収まるのと同時に、隣で寝ていた夫と、
別の部屋で寝ていたお義母さん、お義父さんはおばあちゃんをおんぶして、
やっとの思いで縁側から外へ出た。
すると家の裏山の方向から、カラカラと石の転がる音がしていた。

その後、この地震は震度7を2度も記録した観測史上初の大きな地震だったとわかり、
14日に起きた地震を前震、16日に起きた地震を本震と呼び、
「熊本地震」と名づけられた。

この地震によって崩落した阿蘇大橋は実家から車で2分もかからない場所にあった。
裏山は阿蘇大橋を丸ごと押し流してしまった山と同じ地続きの山だ。
あのカラカラと聞こえてきた音を思い出すとぞっとする。
ほんの少しでも時間や場所が違っていたら、逃げる方向が違っていたら、
そう考えると、あの地震で死を免れたというのは偶然のことなのだと思う。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。