宮城県最北端に位置する気仙沼市。
三陸リアス式海岸の一部である唐桑半島を有し、
東日本大震災で大きな被害を受けた土地のひとつだ。
震災直後、復興ボランティアとして気仙沼に入り、
以来まちをおもしろくする担い手のひとりとなっているのが、
〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。
緊急支援から観光事業を経て、現在は
「ワクワクしている次世代を育てる学びの仕掛け人」として、
中高生を中心とした教育事業に取り組んでいる。
震災から10年、まちはどう変わり、どんな未来を描いているのか取材した。
「東北に行け。後方支援は俺がする」
当時大学4年生だった拓馬さんが気仙沼へやってきたのは、
震災の翌日にかけられた、先輩のこの言葉がきっかけだった。
学生時代ハンセン病を研究し、中国の隔離村で道の舗装やトイレをつくるなど、
ワークキャンプの経験がある拓馬さんの力をかってのことだ。
現場でしか感じられないことがあることを、拓馬さんは知っていた。
「ハンセン病の回復者たちとともに時間を過ごしたことで、
長い間差別を受けてきたのにもかかわらず、
なぜ僕らを笑顔で受け入れてくれるんだろうと、
人間の魅力みたいなものを感じるようになりました。
それからは“誰かを助けに行く”というより、
“本物に出会いに行く”活動をしているという感覚になっていくんです」

〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。兵庫県出身で東京の大学に通い、4年生のときに東日本大震災が起きた。
この原体験が、拓馬さんの気仙沼への一歩を後押しする。
「3.11があって、東京でスーツを着て働く……それでいいのか、
僕が行かなきゃいけないんじゃないかみたいな、“勘違い使命感”が湧いてきました」
学生でも社会人でもない、何者でもない3月という時期、
4年間ワークキャンプをやってきたらからこその選択だった。
内定を辞退したからには、数日・数週間の短期ではなく、
半年は腰を据えてやろうと長期ボランティアとして気仙沼へ入った拓馬さんだが、
移住しようとまでは思っていなかった。
半年経って瓦礫の撤去が落ち着いたら、東京に戻ろう。
当初はそう考えていた。
しかし、夏頃から地元の人たちの気持ちが落ち込んでいく様子を目の当たりにする。
「『がんばれ東北って言われるけど、もう言われたくない。
もう十分がんばっている』とか、
『唐桑にいてもダメだから仙台に行きたい。もうこのまちはダメだ』
という声を毎日のように聞いていました。短期で来たボランティアには、
『また来てね、がんばるからね』と言うけれど、
ずっといる僕に対しては、もう無理だって本音が出る。
僕にしか聞けない地元のことを聞いているんだなと思ったときに、
瓦礫が片づいたから帰るというのは薄情な気がしてきて、
この人たちはどうしたら元気になるんだっけ? と考え始めました。
まだ僕にやれることがあるんじゃないかって」

大きな被害を受けた気仙沼の中心部である内湾地区は、現在は整備され、さまざまな店舗が入った複合施設が並び、まち歩きもできる。

9月に瓦礫の撤去が落ち着いても、拓馬さんは帰らなかった。
「まさか10年いるとは思わなかったです。ずるずるといたという表現が正しい」
と拓馬さんは笑うが、2011年の年末に、印象的な出来事があった。
お酒を飲むといつも「ありがとうな」と言ってくれていた居候先の馬場康彦さんが、
「これからは一緒にやっていくべしな」とぽろっと言ったのだそう。
「それまでは、地元の人間がやらなくてはいけない瓦礫の撤去を、
外から来た支援者がやってくれているという気持ちで
言葉をかけてくれていたと思うんです。
でもこれからは被災者と支援者じゃなくて、
地元の人と、外から来た“風の人”として、
一緒にまちづくりを考えられるかもしれないと思いました」
中長期的におもしろいことができるかもしれない。
2012年、拓馬さんは住民票を気仙沼へ移した。
