校舎ににぎわいを取り戻したい!
旧美流渡中学校の校舎再生プロジェクト

撮影:佐々木育弥

2年前に閉校になった中学校の試験活用が始まる

私の仕事場の窓からいつも見えるのが旧美流渡(みると)中学校の校舎とグラウンド。
過疎化によって2年前に閉校。中学校の裏手には同時期に閉校になった小学校もあり、
こちらには息子が2年間通っていた。

小中学校は一緒に運動会をしたり、PTAでの交流もあったりと、
私にとってはどちらもなじみ深い場所。
そして、ふたつある校舎のうちの中学校については、
今年から試験活用が行われることとなった。

学校として使われていた10年ほど前に大規模な改修が行われていて、校舎はとてもきれい。(撮影:佐々木育弥)

学校として使われていた10年ほど前に大規模な改修が行われていて、校舎はとてもきれい。(撮影:佐々木育弥)

閉校については、以前の連載でも書いたとおり、
地域の灯がひとつ、またひとつと消えていく寂しさを感じさせるものではあったが、
同時に私は始まりでもあると捉えたいと思った。

子どもの人数が減っていけば、学校という形態を維持するのは難しい。
それであれば、地域の現状に即した活動内容へと変化させていくことで、
また新しい風が起こるんじゃないだろうか。
何よりわが子の思い出も詰まったこの場所が、
だんだん荒んでいくようなことになるのは避けたい。

そんな思いから、私が代表を務めている地域PRプロジェクト
〈みる・とーぶ〉が中心となって、市内にある北海道教育大学岩見沢校と連携しながら、
一昨年、昨年と学生さんや市民のみなさんと、
校舎活用やまちづくりに関するディスカッションの場を設けてきた。

北海道教育大学岩見沢校の学生たちが考えた美流渡中学校の3年後の未来予想図。

北海道教育大学岩見沢校の学生たちが考えた美流渡中学校の3年後の未来予想図。

このとき、校舎の管理をしている市役所や教育委員会が
どんな展望を考えているのかは、はっきりとはわからなかったが、
市民側からのアクションを続けていくことは大切なんじゃないかと考えていた。
しかし、新型コロナウイルスの感染が拡大していき、
校舎活用のディスカッションも一時中断せざるを得なくなり、
1年ほどこの活動が止まったままとなってしまった。

そんなあるとき、昨年夏に東京から美流渡へ移住し、
地域活動にも関わってくれている画家・MAYA MAXXさん
こんなことを話した。

「雪に覆われた真っ白なグラウンドに、
ひとつだけ巨大なオブジェがあったら美しいと思う」

今年の3月ごろだったのではないかと思う。
美流渡地区は10年ぶりの大雪に見舞われており、
中学校のグラウンドはまだ真っ白な状態だった。
誰も踏みしめていない雪の絨毯を毎日のように見ていたMAYAさんは、
ここに数十メートルのポールを立て、それを芯にクマのオブジェをつくって、
実際に自分でそれを眺めてみたいと思ったという。

一面の雪に覆われたグラウンド。

一面の雪に覆われたグラウンド。

このクマのオブジェというプランは奇想天外なものではあったが、
私はグラウンドを借りられないかと市役所に掛け合うこととなった。

市の担当者と話しているなかで、このオブジェ制作とともに、
校舎の整備や清掃活動も自分たちで行いたいと申し出た。
日々、窓から校舎やグラウンドが見えており、
雪解けとなってからは雑草が勢いを増していく様子を見ていて、
気になってしかたがなかったからだ。

また、小中学校ともに豪雪対策から、1階の窓には雪止めの板が貼られていた。
地域の住民からは、校舎が閉ざされてしまった感じがして
悲しいという声が上がっていたことから、
MAYAさんが窓の板に絵を描いたらどうかという話をしてくれた。

1階が雪止めの窓で塞がれた校舎。

1階が雪止めの窓で塞がれた校舎。

MAYAさんは、昨年アトリエのドアや窓に紺色の絵具で石を描き、今年は倉庫に植物の文様を描いた。美流渡がどんどん明るいムードになっているように思う。

MAYAさんは、昨年アトリエのドアや窓に紺色の絵具で石を描き、今年は倉庫に植物の文様を描いた。美流渡がどんどん明るいムードになっているように思う。

〈セラボラボ〉から発信する
九谷焼のニューノーマル、
〈福LUCKY〉と〈ETHNI9〉

九谷焼を広めるために

伝統と歴史に裏打ちされた焼き物として全国的に名が知られている、
石川県を産地とする九谷焼。
幅広いうつわの種類がある一方で、往年の形式に固執してしまったり、
現代では使いにくいデザインになってしまっている側面もある。

そんな九谷焼をいろいろな角度から知ってもらおうと、
2019年に立ち上げられた複合型文化施設が
〈九谷セラミック・ラボラトリー(通称・セラボクタニ)〉である。

建築家・隈研吾が設計した〈九谷セラミック・ラボラトリー〉。

建築家・隈研吾が設計した〈九谷セラミック・ラボラトリー〉。

この場所は、もともと「花坂陶石」という石から粘土をつくる製土所があった場所で、
建物の老朽化に伴い、〈セラボクタニ〉として生まれ変わった。
それゆえ、現役で製土所としての機能を果たしながらギャラリーや体験工房、
アトリエなどを持ち、九谷焼を多角的に体感できる施設となっている。

セラボクタニの2周年となる今年5月、
新商品開発プロジェクト〈セラボラボ〉が立ち上がり、
第1弾として〈福LUCKY〉と〈ETHNI9(エスニック)〉という
ふたつのブランドが発表された。

「この場所が立ち上がった当時から、オリジナル商品開発の話はありましたが、
2年越しに実現しました。
これまでは窯元や作家さんから商品を預かって販売していましたが、
それに加えてここにしかない商品をつくりたかった」と開発経緯を教えてくれたのは、
セラボクタニを実際に運営している小松市地域おこし協力隊のひとり、緒方康浩さん。

コロナ禍で生み出された「ニューノーマル」を目指す九谷焼は一体、
どんな焼き物になったのだろうか。

小松市の地域おこし協力隊として、セラボクタニに勤務する3人。左から緒方康浩さん、中岡庸子さん、吉田良晴さん。

小松市の地域おこし協力隊として、セラボクタニに勤務する3人。左から緒方康浩さん、中岡庸子さん、吉田良晴さん。

【山井梨沙×人類学者・石倉敏明】
身体性を取り戻していく
「フィールドワーク」とは

この連載では、新潟県を拠点にキャンプを中心とした
ローカルなライフスタイルを提案する
〈スノーピーク〉代表取締役社長の山井梨沙さんが、
ローカルでありプラネット的なモノ・コト・ヒトに出会いながら、
コロナ後の暮らしのスタンダードを探し求める「フィールドワーク」の記録。
そして山井さんの著作『FIELDWORK―野生と共生―』の実践編となる。
初回は、そもそも「フィールドワーク」とは何か、
その言葉が生まれた人類学の研究者・石倉敏明さんに話を聞いた。

秋田市のキャンプ場にて対談は行われた。

秋田市のキャンプ場にて対談は行われた。

新文化はコンタクトゾーンから生まれる

山井梨沙(以下、山井): ご無沙汰しています。
自著『FIELDWORK―野生と共生―』ではすてきな前書きをご執筆いただき、
ありがとうございました。
今回、その続編としてこの連載をさせていただくことになったのですが、
タイトルにも入っている「フィールドワーク」という言葉について、
あらためて石倉さんにお話をうかがえたらと思います。

山井さんの著作『FIELDWORK―野生と共生―』

山井さんの著作『FIELDWORK ─野生と共生─』

石倉敏明(以下、石倉): 「フィールドワーク」とは自分が慣れ親しんだ世界の外に出て、
別の現実に触れる方法のことです。
人類学者は他者の世界に入り込んで、内側からその在り方を体験し、理解しようとします。
「他者」とはヒトだけでなく、人間を取り巻くすべてのモノを含んでいます。
大事なのは何かについての「知識」を得るだけでなく、
他者が体得している「知恵」に触れること。
だからこそフィールドでの体験が重要視されています。
フィールドでは他者との接触から、双方向的な変化が発生していく。
それを歴史学の言葉を借りて、「コンタクトゾーン(接触領域)」と呼ぶこともあります。
例えば、20世紀中盤のアメリカ・テネシー州で、
アフリカ系移民の文化とヨーロッパ系移民の文化が融合して
エルヴィス・プレスリーの歌声と腰つきが生まれ、
ロック音楽やポピュラー音楽となって世界中に広がっていったように。

世界そのものと接触

山井: コロナ禍が続く今は、人との触れ合いが減っています。
大変なときですが、何か大きなシフトが起こりつつある時代という意味では、
コンタクトゾーンの話は参考になりそう。

石倉: フィールドワークは、社会という枠組みの外に出て、
世界そのものと再び接触(コンタクト)し直してゆくチャンスかもしれません。
その意味では、野外に出ることも重要です。例えば山に入って感じる木漏れ日や風の匂い、
湿度や雲の動きから何かを感じたりする経験。
フィールドに出ると、僕は幼少期の記憶みたいなものが蘇ってくるんです。
まだ看板の文字や標識の記号が読めなかった幼年時代。動物や子どものように、
文字や記号ではない、生々しい世界の見え方を追体験しているような感覚です。
梨沙さんも、著作の『FIELDWORK』で
子どもの頃のキャンプ体験のことを書いていましたけれど、
あれはまさにフィールドワークを通して味わうことになる感覚ですよね。

写真家・田附勝さんとの共著『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)にて富士山麓での取材の様子。写真提供:『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)

写真家・田附勝さんとの共著『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)にて富士山麓での取材の様子。写真提供:『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)

山井: 私は頭を使ってインストールするのが苦手で、事前に机上で得た知識でも、
とにかく現地に行って体感しないと、自分のなかでなかなか実感・定着しないんです。
新型コロナウイルスがやってきた当初は、
オンラインミーティングや画面上で目と頭だけで情報を得ることだけが続いて、
消化不良を起こしてしまっていたような気がします。
石倉先生にとってのフィールドワークとは、既存の学説を追体験して確認したり、
今までと違う情報や価値観に出合うことを期待するための行為なのでしょうか?

石倉: フィールドワークは、理論の向こう側にある生きた現実を現地で体感し、
受け止め直していく実践だと思っています。
断片的な情報などを手がかりに現地に行ってみると、
実際には期待を裏切られることも多いのですが、
立ち止まる経験も含めて大切なのかもしれないですね。
どんな記録も決して完全なものではなく、そこに視点や感覚のズレがあるからこそ、
新しい発見の余地があります。
キャンプでの火の起こし方とか、水場の位置とかはgoogleで検索できるけど、
炎の熱さや水の冷たさは絶対にググっても感じられない。
それと同じで、客観的に調べることの重要性は踏まえつつも、
書物で調べてもわからないことを、ほかの人の体ではなく、自分の体で体験したい。
そしてその体験を表現して、その場にいない誰かと共有したい。
これはアーティストや人類学者にとっては、とても大事な衝動だと思うんです。

長野県立科町〈町かどオフィス〉
工事費3万円!? 古い建物を再利用して
空き家活用の拠点に

YONG architecture studio vol.6

横浜市の野毛山エリアで活動しながら、
長野県立科町で地域おこし協力隊として活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。

立科町にて、空き家活用の促進をミッションに活動拠点をつくるべく、
まちの中心部に空き店舗を見つけたのが前回まで。
今回はその空き物件のリノベーションの過程と、
そこから広がる活動について紹介します。

〈藤屋商店〉を開く

前回ご紹介した〈藤屋商店〉さんは、築97年と歴史ある建物であり、
まちの中心に位置するため、かつてはまちのみんなが知っている商店でした。

お店は約10数年前に閉店しているが、オーナーさんはまだこの建物に住んでいらっしゃる。

お店は約10数年前に閉店しているが、オーナーさんはまだこの建物に住んでいらっしゃる。

内見させていただくと、当時の様子が想像できる家具や小物がたくさんあり、
移住者である僕にとっては、とても魅力的でどこか懐かしい空気のある場所でした。
なるべくこの雰囲気を壊さないよう、
最小限の手数で活用していくのがよさそうだと思いました。

藤屋商店の山浦文子さん。

藤屋商店の山浦文子さん。

昔の藤屋商店の様子。

昔の藤屋商店の様子。

ただ、こちらの物件の店舗部分には水回りがなく、
トイレも老朽化して撤去された状態でした。
地方では下水道の整備が不十分で、汲み取り式のトイレも少なくありません。
そのため、水回りの工事はコストがかかります。

空き家や空き店舗を活用する際、
「こうした不利な条件をどう捉えるか」が場所づくりのヒントになります。
お金をかけて修繕するだけでなく、現状使えるものから
場所の使い方を考えることで、新しい活用方法が見えてきます。

ここにあるもので何ができるか。

ここにあるもので何ができるか。

藤屋さんの場合、徒歩15秒ほどの距離に、ふるさと交流館〈芦田宿〉があります。
なので、トイレを使うなら交流館へ行けばいいのです。
そして、コーヒーが飲みたくなったり、まちについて聞きたいことがあれば、
同じ通りの〈はじまるカフェ〉さんや〈清水商店〉へ行けばいいのです。

建物がすべての機能を備える必要はなく、積極的にまちや周辺環境に頼れば、
不完全な建物は活路を見い出せるし、まちには人の往来が生まれるようになります。

〈リバーバンク森の学校 友の会〉
廃校の周りの森を間伐し
シェアするコミュニティ

リバーバンクの森をひらく

2010年から「グッドネイバーズ・ジャンボリー」というフェスを、
廃校を舞台に始めたことから、その廃校の運営まで手がけるようになりました。

鹿児島の南の森の中にあった旧長谷小学校が、
いまから30年前に地域の人々の手によって
〈かわなべ森の学校〉という名前で使われるようになりました。
さらに僕らが引き受けて〈リバーバンク森の学校〉と
名前を変えて運営を始めてから3年が過ぎました。
森の学校とその周辺の森は、みなさんからクラウドファンディングの支援も受けて、
開放的な自然体験施設として運営をしています。
以前の記事はこちら

緑に覆われた校庭で自由にキャンプが楽しめる森の学校。

緑に覆われた校庭で自由にキャンプが楽しめる森の学校。

今もなお世界が苦しんでいる新型コロナウイルスの流行もあり、
最近では森の学校も思うように活動できない日々が続きました。
そんなところから、この場に愛着を持っていただいている人たちに協力してもらって
クラウドファンディング(Camp Fireのプロジェクト)を行い、
学校を取り巻く森の開拓に取り組んできました。

この森は40年ほど前まではいまほど鬱蒼とした森ではなく、
畑としても利用されていてとても明るかった。
当時の航空写真にその姿が残っています。

昭和30年代の森の学校の様子。

昭和30年代の森の学校の様子。

建材としての森。その問題点

その後、スギの木を1本植えるたびに補助金が出るというような
戦後から続いた植林政策によって、人工林化が進んでいきます。
なぜスギばかりかというと、
スギは「まっすぐ」に育つことから「すぐ木→スギ」という名前の説があるように、
当時は効率のよい建材として重宝されていたからという理由があります。
つまり当時の山林を保有していた人たちにとっては財テクのひとつでした。

戦後からの高度経済成長期には人口も増え続け住宅も需要がたくさんあったものですが、
現在ではその勢いも止まり人口減少期。
また海外からの安い材木もどんどん入ってくるようになって、
割高になってしまう国産材の需要もどんどん減り、
伐採してもビジネスにならないので間伐もしない。
間伐しないと材木としての質が下がり価値も低下してしまうので
さらに放置に拍車がかかる。
日本中いたるところでスギの放置林が生まれているのはこうした理由です。

鬱蒼として立ち入ることもままならなかったリバーバンクの森。

鬱蒼として立ち入ることもままならなかったリバーバンクの森。

そもそも日本は先進国と呼ばれている世界の国のなかでも有数の森林国ですが、
大部分がスギの森で、その多くが放置されているという状況。
この学校の周辺の森も、それに「右に倣え」だったわけです。

森林組合により伐採作業中。

森林組合により伐採作業中。

材として使う目的のスギの森を育てる場合、
1ヘクタール(100 x100メートル)に3000本ほど植樹して、
それを少しずつ間伐して1000本ほどに減らしていきます。
木にも優劣があるので競わせながらいい木を残すようにして育てていく。
そこには長年培ったその地域ならではの林業の経験がものを言います。

林業を生業としている人たちと話すと、
自分が植樹した木を自分で伐って材にするということはほぼなく、
いま自分たちが製材している木は、1世代も2世代も上の先人が植えてくれたもの。
人間が働く年数よりも木の時間ははるかに長いのです。
先人が残してくれた財産を間伐しながら、大事に育てていい木をつくる。
しかし建材としての需要減少と担い手不足から、
こうした知恵も放置された森とともに失われつつあります。

この森をひらくにあたって、僕らは〈森のエネルギー研究所〉の佐藤政宗さんから
いろいろと森のことを学ぶところから始めました。

グッドネイバーズ・ジャンボリー2020にて、佐藤政宗さん(左)、木工作家のアキヒロジンさん(中)と行われた、焚き火を囲んだトークショー。後ろの観客には働き方研究家の西村佳哲さんの姿も。

グッドネイバーズ・ジャンボリー2020にて、佐藤政宗さん(左)、木工作家のアキヒロジンさん(中)と行われた、焚き火を囲んだトークショー。後ろの観客には働き方研究家の西村佳哲さんの姿も。

建築家が地域おこし協力隊に。
長野県立科町で空き家問題に挑む

YONG architecture studio vol.5

横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
今回は2020年6月から活動している、
長野県北佐久郡の立科町(たてしなまち)での取り組みを紹介します。

多拠点で動き回る「風の人たち」

建築の仕事に限ったことではありませんが、複数の地域に拠点を持ち、
地域の人と関わりながら活動している人たちがいます。
横浜で日々接する知人や友人たちにも、そのような暮らし方をする人たちがいました。

地域の風土をつくるには、外からやってくる「風の人」と
地域に根ざした「土の人」の存在が重要だといいます。
風の人の役割は、地域に新しい価値観や人を運んでいくことです。

横浜の藤棚商店街にて〈藤棚のアパートメント〉
〈藤棚デパートメント〉の職住近接の暮らしを送るなかで、
自分も風の人となって横浜以外の別の地域にも関われたなら、
もっと多角的に地域のことを見られるようになるのでは、と思うようになりました。

立科/蓼科との縁

僕にとっての“別の地域”は、長野県の立科町でした。
この立科町は「蓼科」という字のほうがなじみがあるかもしれません。
蓼科山の北側の山麓にあり、県内では東信地区といわれるエリアです。
「蓼」という字が当用漢字になく「立科」という名前が町名になりました。

立科町移住定住支援サイト『旅する移住』より抜粋。立科町は面積66.87平方キロ、人口7000人弱と小さな町で、南北に細長く、中央でくびれているのが特徴。

立科町移住定住支援サイト『旅する移住』より抜粋。立科町は面積66.87平方キロ、人口7000人弱と小さな町で、南北に細長く、中央でくびれているのが特徴。

蓼科山は幼少期からよく家族で訪れていた場所で、
訪れるたびに工作をしたり絵を描いたりして過ごしていました。
自然に囲まれた環境のなかで、最初にものづくりの楽しさに目覚めた場所でもあり、
建築の仕事に進もうと思ったのも当時の環境が影響している気がします。
いつか何かのかたちでここに関わりたいと思いつつ、
それは遠い先の話だと思っていました。

中学生の頃。蓼科に来たら工作するのがお約束。

中学生の頃。蓼科に来たら工作するのがお約束。

「港のある暮らし」はいかが? 福島県・いわき市で 古民家再生に取り組む 〈中之作プロジェクト〉が ガイドブックを発行

「港のある暮らし」を伝えるガイドブック

福島県の東南端に位置するいわき市。
南端は茨城県、東は太平洋に接し、約60キロの海岸線を有しています。
その海岸部に、江戸時代商港として栄えた中之作港に面し、
当時の古き良きまち並みを残す「中之作・折戸地区」があります。

この地区で、古民家再生などを行う〈中之作プロジェクト〉が、
地域の魅力を伝えるガイドブック『港のある暮らし』を発行しました。

誌面では、地区の歴史や、港のある土地ならではのレジャーや食事スポットが紹介されています。

誌面では、地区の歴史や、港のある土地ならではのレジャーや食事スポットが紹介されています。

地域の食材を生かした料理教室など、区内の活発な交流の様子も紹介。中之作港は、暖流と寒流の交わる潮目で、特にカツオは東北屈指の水揚げ量を誇りました。鮮なカツオの刺身は祝い事のごちそうとして欠かせない品なのだとか。

地域の食材を生かした料理教室など、区内の活発な交流の様子も紹介。中之作港は、暖流と寒流の交わる潮目で、特にカツオは東北屈指の水揚げ量を誇りました。新鮮なカツオの刺身は祝いごとのごちそうとして欠かせない品なのだとか。

中之作プロジェクトが立ち上がったのは、2011年秋のこと。
目の前に海が広がるこの地区にも、東日本大震災で津波が押し寄せました。
被害を受けた多くの建物が、震災前より進んでいた過疎化の影響もあり、
修復されることなく解体されていったといいます。

撮影:中之作プロジェクト

撮影:中之作プロジェクト

いわき市内で設計事務所を営んでいた豊田善幸さんは、
震災前、中之作にある江戸時代の古民家の改修の依頼を受けていましたが、
その所有者の方もまた、津波の被害を受けたことで建物の解体を決めてしまいます。

「手をかければ、まだ生かすことができる。
解体をなんとかくい止めたい。貴重な建物やまち並みを後世に残したい」
と考えた豊田さんは、建物を買い取ることを決意。
ここから中之作プロジェクトはスタートしました。

さまざまな業界のアイデアを集結!
5Gが実現する、多様性がある社会

5Gは社会システムにどのような影響をもたらすのか

日本でも5Gサービスがスタートして、約1年が経った。
まだその恩恵を実感する人は少ないかもしれないが、
高速大容量通信、低遅延、多接続など、
従来の通信インフラにないさまざまな特性を備えた5Gは、
これから人々の生活様式を大きく変えることになるはずだ。

5Gとは
5th Generation Mobile Communication System(第5世代移動通信システム)の略。
つまり、1G、2G、3Gと連綿と進化を遂げてきた通信システムの最新規格である。

しかし、数年前に3Gから4Gにアップデートした頃と比べ、
今回の進化はより劇的だ。
よく語られる「2時間の映画が3秒でダウンロードできる」ことは、
あくまで5Gが持つポテンシャルの一端に過ぎない。

例えば低遅延性は自動運転車の普及を強力に後押しすることになるし、
多数の端末への同時接続が可能になることで、
家庭内のめぼしい電化製品がインターネットでつながり、
スマートな暮らしを実現する一助となる。

そしてもちろん、社会システムに及ぼす影響も計り知れない。
5G通信が日本全土を埋め尽くしたとき、私たちの暮らしはどのように変わるのか。
各分野で活発に行われている実証の様子からは、
みんなでアイデアを出し合い、協業しながら実現する姿が見られた。

別府〈湯とひとと〉 温泉文化の本質を見つめた 9人9湯のショートムービー

ゴールデンウィークもお家でまったりと過ごした人は多かったのでは?

どこにも行けない日々はまだ続きそうですが、
旅した気分になる映画やムービーなどを見て、
自由に旅行できる日を待ち侘びたいもの。

今日ご紹介する、大分は別府にて撮影された〈湯とひとと〉は、
温泉文化とそれにまつわる人々の想いをまとめたショートムービー。

旅行できない今だからこそ観たい、日本一の温泉文化の本質に触れ、
その営みや文化のすばらしさを知ることができる内容となっています。

自然とともにある〈夢幻の里 春夏秋冬〉

撮影の舞台となったのは、
約5000を超える源泉のなかから厳選された9つの地。
そして別府の湯にたずさわる9人。

温泉を自然からあずかる、ということ|夢幻の里 春夏秋冬 藤崎謙太郎

別府の山間に佇む立ち寄り湯〈夢幻の里 春夏秋冬〉
ここには、四季折々の風景を楽しめる白濁の硫黄泉があります。

歴史を感じさせるクラシックな岩風呂や
迫力の滝を背に、美しい自然を独り占めできる露天風呂。
心身ともに大自然の恩恵を受け取ることができそうな、そんな極上の空間です。

約100年以上もこの地で受け継がれてきた硫黄泉を継承し、
当時の趣を残した営みを陰で支えるのは温泉の管理人・湯守の藤崎謙太郎さん。
そんな藤崎さんらの、入浴できる状態にするまでの手間隙や想いなどが、
趣向を凝らした美しい映像とともに知ることができます。

日々のたゆまぬ努力から成り立つ〈夢幻の里 春夏秋冬〉。
それがいかに尊いものか、このムービーからひしひしと伝わってきます。

自由な温泉時間を〈ゆふいん束ノ間〉

発展途上にある、温泉保養集落|ゆふいん束ノ間 堀江洋一郎

にぎやかな湯布院中心部より車で5分。
もくもくと立ち上る蒸気を分け入ったところにあるのが
温泉保養集落〈ゆふいん束ノ間〉です。

淡いブルーの温泉が美しい大露天風呂がある同館は、
“温泉のある時間”を自らクリエイトして
自由な滞在を楽しんでほしいというコンセプトで運営されています。
そして、ワーケーションにも対応した現代湯治宿舎〈湯倫舎〉がこの夏オープン予定。

美しい温泉ですが、自噴のためコントロールが難しく、
広々とした敷地も相まって、管理はかなり手がかかるといいます。

「うちだけの話じゃなくて、
みなさん温泉トラブルで苦労していると聞きます。
けれどそれ以上に、温泉に浸かったときの豊かさというのは、
これをやり続けないと味わえないからしゃあないなと思っています」

と、オーナーの堀江洋一郎さん。
ムービーを観て、大変な労力を知ったうえで入る〈ゆふいん束ノ間〉の湯は、
きっととても心に沁みることでしょう。

いちき串木野市の廃校の記憶を
記録に残す、地域映画プロジェクト。
「かんぷくシネマ」

地域プロデュースとして映画をつくる

2010年に鹿児島県南九州市で〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉という
フェスを始めてから10年以上が経ち、
運営している僕たち〈リバーバンク〉のチームには
商業施設や公園といった「公開空地」でのイベント企画や、
人が集まる場としてのショッププロデュースといった依頼が
舞い込むようになっていました。

そのなかで、リバーバンクが活動している南九州市ではなく、
鹿児島県いちき串木野市という自治体から、
地域を盛り上げるための企画を考えてほしいという依頼がありました。

地域では古くから、霊山として大事にされてきた冠岳の風景。

地域では古くから、霊山として大事にされてきた冠岳の風景。

いちき串木野市は市来(いちき)と串木野というふたつのまちが合併してできた、
人口3万人弱の地方都市です。市来も串木野も東シナ海に面した港町ですが、
内陸に入った中山間地域に冠岳という霊山があります。
その冠岳地区と麓の生福(せいふく)地区もまた、御多分に漏れず過疎化に悩む地域。

この地域を、芸術文化を切り口に関係人口を創出して盛り上げられないか、
というのが自治体からのオーダーでした。
ひとくちに芸術文化といっても、
それこそ子どもたちの書道や絵画展から現代アートまで、想定される領域は広大です。
これまで僕らも全国あちこち見て回るなかで、
いきなりエッジの効いたキレキレのアートを持ち込んでも、
地域に古くから暮らす人たちには響かないという事例をいくつも見てきました。
だからといってクオリティ度外視でなんでもありの展覧会などでは、
そもそも域外からの関係人口の巻き込みは難しい。

まずは、この地域に足を運んで見て回ろうということで
僕が代表を勤めるディレクション会社〈BAGN Inc.〉のメンバーと
地域を歩き回ってリサーチを始めました。
実は本当にたまたまですが、僕の父は合併前の串木野市の出身で、
子どもの頃は夏休みになると市街地にあった祖父母の家に預けられたりしていました。
しかも祖父母のルーツはそこから車で20分ほどの冠岳〜生福地域。
墓参りなどでときどき来ていたこともあり、多少の土地勘はありました。
でも僕自身はこの地域のことはほとんど知らなかった。
ここに自分のルーツがあるということも、
この仕事のオファーがあって調べているうちにあらためて認識したくらいでした。

かつてこの地を訪れた中国の伝説の人物、徐福の像。

かつてこの地を訪れた中国の伝説の人物、徐福の像。

旭川市〈Cafe Sunao〉
歴史ある商店街の居酒屋を
コミュニティカフェに

野村パターソンかずたか vol.8

北海道旭川市で、リノベーションや不動産事業を営みながら、
アーティストインレジデンスなど地域の文化事業を企画・運営する、
野村パターソンかずたかさんの連載です。

元ミュージシャンで世界の都市を巡った背景から、
地元・旭川市にて多様なコンテンツをしかけています。

最終回の今回は、旭川市の中でもひときわ長い歴史を持つ
銀座商店街にあった居酒屋を、地域の人が集えるコミュニティカフェとして蘇らせた
〈Cafe Sunao〉さんをご紹介します。

旭川銀座商店街にある店舗。外観ビフォー。

旭川銀座商店街にある店舗。外観ビフォー。

かつては賑やかだった旭川銀座商店街

日本全体で見ると、名前に「銀座」と入る商店街は300を超えるらしい。
旭川銀座商店街もそのひとつで、市内では最も古い歴史をもつ商店街のひとつだ。
実は自分の先祖のルーツがある場所でもある。

私の曾祖父は、戦後に金沢から北海道に移住し、くず鉄拾いからシイタケ栽培まで、
生き抜くためにあらゆる商売をやってきたと聞いている。
銀座商店街の一角に店舗を構えていた彼の商店は、その後も場所やかたちを変え、
最終的には米菓製造に落ち着くことになる。

〈野村製菓〉という米菓会社は、餅の製造に加えて、江戸揚げを主力製品としていた。
江戸揚げは、「かぶきあげ」とも呼ばれ、蒸したもち米をついて、
米油で揚げ、粗塩をふりかけただけのシンプルな菓子だ。
最盛期には、このお菓子を北海道中で何億円分と販売していたというから驚きだ。

残念ながらこの会社はなくなってしまったが、
曾祖父からバトンを譲り受けた祖父に連れられて何度も訪れた旭川銀座商店街の風景は、
自分の幼少期の原風景として記憶に残り続けている。
活気あふれる野菜市、いつ行っても賑わっていた多くのお客さん。
全国どこの商店街も同じかもしれないが、いまとは比較にならない活気に包まれていた。

築51年、元居酒屋の空き店舗

今回紹介する物件の周辺には商店街の顔ともいえる建物が多く存在したが、
年を追うごとにどんどん解体されていった。
個人商店が多く入っていたRCの建物や、吹けば飛ぶような木造2階建てなど、
大通りに近いほうが徐々に潰されていった。

店舗の数には不釣り合いな駐車場だけが目立ち始めていた2019年、
元居酒屋の店舗が売りに出された。
もとは〈千鶴寿司〉という評判の寿司屋だった店舗が、
居酒屋として約10年利用されたあとに閉店して、店舗兼住居として売りに出されていた。
放っておけばまた駐車場がひとつ増えるだけだろう。
家族のルーツがあるこのエリアの物件の取得に向けて動くことにした。

内見パーティの様子。このあと人数は3倍ほどに膨れ上がる。

内見パーティの様子。このあと人数は3倍ほどに膨れ上がる。

物件の購入に合わせて恒例の内見を兼ねたパーティイベントを開催し、
たくさんの人が集まった。2021年のいまとなっては、
マスクもせずに何十人も集まり同じ空間で過ごしたあの夜は、もはや昔話のようだ。

熊本地震を伝える
ミュージアム〈記憶の廻廊〉
旧東海大学阿蘇キャンパスを訪れて

熊本県の阿蘇地方は、カルデラや草千里といった自然豊かな大地が広がる。

2016年の4月14日と16日に発生した熊本地震。

28時間以内に2度も震度7を記録する大地震は観測史上初めてのことだった。
四季折々の美しい姿を見せてくれる阿蘇も、
地震により甚大な被害を受けた地域のひとつだ。

震災から5年。
熊本地震の記憶を伝える場所があるということで、南阿蘇村を訪れた。

熊本地震の記憶を未来へつなぐ

熊本市内から車で約1時間、2020年10月に開通した
国道57号を北上すると阿蘇の玄関口に差し掛かる。

ここは、「数鹿流(すがる)崩れ」と呼ばれる
大規模山腹崩壊や、阿蘇大橋の崩落が起きた場所だ。
黒川を挟んだ対岸に残された橋の一部が見える。
その生々しい光景に、思わず足がすくんでしまう。

地震によって崩れ落ちた阿蘇大橋。

地震によって崩れ落ちた阿蘇大橋。

未だ災害の爪痕が残るその場に立つと、被害の大きさが肌で伝わってくる。

熊本地震の経験から得られた教訓を後世に伝えるために、
熊本県と関係市町村は、さまざまな地域に点在する
「震災遺構」と情報発信の「拠点」を広域的に巡る、
フィールドミュージアムの取り組みを進めている。

それが、熊本地震 震災ミュージアム〈記憶の廻廊〉だ。

この震災ミュージアムは回廊型である。
県内8市町村(熊本市、宇城市、益城町、南阿蘇村、宇土市、
御船町、西原村、大津町)が連携し、震災遺構や防災拠点センター、
役場庁舎、熊本城などの拠点を広く巡ってもらおうという取り組みである。

この日訪れたのは、その震災ミュージアムの
拠点のひとつである〈旧東海大学阿蘇キャンパス〉だ。

南阿蘇村に位置する旧東海大学阿蘇キャンパスは、
「地表地震断層」と「1号館建物」が震災遺構として
保存されており、県防災センターと並ぶ
震災ミュージアムの中核拠点として機能する。

旧東海大学阿蘇キャンパスへ

高台にある白い建物

高台にある白い建物が旧東海大学阿蘇キャンパスの校舎だ。
以前はここで農学部の学生たちが集い学んでいた。

実習フィールドを残してキャンパスはすでに移転してしまったが、
旧校舎は取り壊されることなく、震災遺構として
2020年8月1日から一般公開されている。

「震災遺構」というと重々しく感じてしまうが、
校舎の周りののどかな風景は、開放的で清々しい。

「もし自分がこの場所に通えるなら居心地がいいだろうな」と、
そんなイメージを膨らませてしまうほど、気分がいい。

この日の案内人である鉄村拓郎さん。

この日の案内人である鉄村拓郎さん。

笑顔で出迎えてくれたガイドの鉄村さんにさっそく案内をしていただく。
ガイドは30名ほど在籍しているそう。
団体を除いて、多い時に1日で100名前後を案内するという。

時間は30〜40分程度、阿蘇独特の地形から、震災遺構である地表地震断層、
1号館建物や地域のことについて丁寧に解説してもらえる。
阿蘇は隆起の激しい珍しい地形だとあらためて驚く。

断層が校舎を貫く凄まじさ

地表地震断層と呼ばれる地割れは、校舎裏の広場に当時のままの状態で保存されている。
断層は一直線に校舎へ向かっている。

断層の種類や性質など図解でわかりやすい。右横ずれ断層の特徴である雁行(がんこう)についての説明を聞く。

断層の種類や性質など図解でわかりやすい。右横ずれ断層の特徴である雁行(がんこう)についての説明を聞く。

本来一体である校舎の倒壊を防ぐために、1号館建物は4分割にされていた。
窓ガラスが割れ、階段や壁に大きく亀裂が伸びている。
断ち切られた校舎や波のように割れた地面が痛々しい。

「中央の校舎の被害が左右に比べて大きいのはなぜでしょうか?」
と突然クイズが投げかけられた。

来場者が受け身になりすぎず、一緒になって考えることが必要なのだと気づかされる。
答えは、ぜひ訪れた際に確認してほしい。

壊れた柱や外壁もそのまま保存されている。

壊れた柱や外壁もそのまま保存されている。

外から見る事務室の中には、散乱した家具やバスの時刻表、
カレンダーが当時の日付のまま掲示されていた。

通常、損壊した建物は取り壊されて再建されるのが一般的だ。
さらに震度6強の揺れを受けながら倒壊しなかった
大規模な建物と断層が一体となって保存されている事例は、国内に例を見ないという。

解説パネルや写真、映像では伝えきれない現実。

リアルな環境だからこそ、目で見ること、声を聞くことで実感となり、
「自分にも関わること」として受け止めやすくなる。
現地に来なければわからないことだと感じた。

マガジンハウスが 新たなメディアプロジェクト始動。 福祉をたずねるクリエイティブマガジン 〈こここ〉創刊!

「個と個で一緒にできること」を合言葉に、ウェブマガジン始動

2021年4月15日、マガジンハウスは
福祉とクリエイティブをテーマに新たなメディアプロジェクトをスタートしました。

メディアプロジェクトの第一弾として創刊したのは、ウェブマガジン〈こここ〉
「個と個で一緒にできること」を合言葉に、
福祉につらなる人や場所、活動、表現、創造性をたずね、
紹介していくメディア事業を軸に展開していきます。

〈コロカル〉に続く、社会課題に向き合うウェブマガジン

マガジンハウスでは、
2012年1月に「日本の地域」をテーマにした〈コロカル〉を創刊。
日本各地のユニークな取組みやパワフルなプレイヤーを紹介しながら、
その根底にある雇用不足や高齢化、過疎化などの問題に向き合ってきました。

新たにはじまるウェブマガジン〈こここ〉もまた、
高齢化社会を迎える日本での介護人材の不足、
「生きづらさ」や「わかりあえなさ」を感じる人の増加などの
社会課題を背景に創刊します。

福祉の現場には、社会に生きるひとりひとりの心身や
置かれた状況に日々向き合い、汗をかき、奔走してきた経験が宿っています。
同時に、社会全体の構造的な課題にさらされ、
立ち向かうことを求められてきた領域でもあります。
また、近年では、福祉の現場から驚くほど創造的な活動や表現も生まれ、
さまざまなクリエイターやアーティスト、専門家が関わっています。

ウェブマガジン〈こここ〉では、「クリエイティブ」を入り口に、
福祉領域に関わる人・活動・テーマをたずね、
やわらかく紹介していくことで、
これからの社会を共に生きていくうえでのヒントを読者とともに考えます。

メディア運営には、
2012年コロカルを立ち上げた及川卓也が統括プロデューサーとして、
編集長は、これまでアートプロジェクトや
コミュニケーションプランニングの領域で活動してきた中田一会さんが参加。

熊本地震から5年。
南阿蘇〈ひなた文庫〉が振り返る
あのときのこと、これまでのこと

2015年に、南阿蘇鉄道の無人の駅舎にオープンした小さな古本屋〈ひなた文庫〉。
その翌年、2016年に熊本地震が起き、鉄道が不通のいまも、
同じ駅で週末だけの営業を続けています。
そのひなた文庫の店主が、この5年を振り返り、いまの思いを綴る特別寄稿です。

大きな2度の地震

5年前の4月14日、熊本県益城町を中心に起きた大きな地震。
南阿蘇村の隣、大津町の自宅のベッドで横になっていて強い揺れを感じた。
本棚からバラバラと落ちてくる本から頭を守りながら
訳もわからないまま揺れが収まるのを待った。
熊本が震源の大きな地震なんていままで記憶になかったので、まさかという思いだった。

私たちの近所や自宅アパートはそんなに被害はなかったものの、
風呂場のタイルが剥がれて使えなくなったので、
翌日は南阿蘇の実家に泊まることにした。

昼の間も体に感じる揺れは何度もあったが、通常通り仕事を終え、
〈ひなた文庫〉のある駅舎の様子を見に行った。
建物に被害もなく安心し、帰って家族でごはんを食べながら、
「益城町はひどいことになっている、まだ余震もあるから怖いね」
などと話して床についた。

深夜午前1時25分、 ゴゴゴゴという
どこから聞こえてくるのかわからない大きな地響きと、
肩を掴んで思い切り揺さぶられたような激しい揺れにいきなり襲われた。
14日に感じたものとは比べものにならなかった。
声にならない悲鳴が口から漏れ、早く収まることだけを願っていた。
真っ暗闇のなか、必死に耐えたあのときの恐怖は未だに忘れられない。

揺れが収まるのと同時に、隣で寝ていた夫と、
別の部屋で寝ていたお義母さん、お義父さんはおばあちゃんをおんぶして、
やっとの思いで縁側から外へ出た。
すると家の裏山の方向から、カラカラと石の転がる音がしていた。

その後、この地震は震度7を2度も記録した観測史上初の大きな地震だったとわかり、
14日に起きた地震を前震、16日に起きた地震を本震と呼び、
「熊本地震」と名づけられた。

この地震によって崩落した阿蘇大橋は実家から車で2分もかからない場所にあった。
裏山は阿蘇大橋を丸ごと押し流してしまった山と同じ地続きの山だ。
あのカラカラと聞こえてきた音を思い出すとぞっとする。
ほんの少しでも時間や場所が違っていたら、逃げる方向が違っていたら、
そう考えると、あの地震で死を免れたというのは偶然のことなのだと思う。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

三浦半島の先端のまちに
ユニークな野菜直売所が出現。
小屋×アート〈koyart〉とは?

神奈川県の南東部。
三方を海に囲まれた三浦半島は漁業と同様、農業も盛んな土地として知られる。
温暖な気候を利用して栽培されているのは、大根やキャベツといった露地野菜。
海岸近くまで延びる広大な台地に、見渡す限りの畑が広がる、
独特な農の景色を見せている。

ここ三浦半島で、いま、おもしろいプロジェクトが進行しているのをご存知だろうか? 
その名も小屋とアートを重ね合わせた造語〈koyart(コヤート)〉。
空間やアート、サイエンスを専門とする団体が、
生産者(農家)、地域の学生らと共創し、
主に野菜の販売小屋をテーマにした作品づくりを通して、
訪れた人と地域のコミュニケーションの広がりを目指すという。

直売所に置かれたバス停のような看板。各農家の特徴をとらえたマークは、横須賀市横須賀総合高等学校美術部の生徒が制作した。

直売所に置かれたバス停のような看板。各農家の特徴をとらえたマークは、横須賀市横須賀総合高等学校美術部の生徒が制作した。

3月のある日、そのkoyartのイベントが1日限りで開催。
常設の2か所に、建築を学ぶ学生が制作した3か所を新たに加えた、
計5か所で実際に野菜販売を行った。

それらを周遊するための仕組みとして、各所にバス停のような看板を設置し、
ほかの直売所の位置情報を掲出。
同時に、野菜を購入した人が次の人のために、売られている商品の状況を
インスタグラムを使ってアップロードする取り組みも。

地元・三浦の人々と学生、そして企業が一緒になって、地域の未来を考える。
その現場を訪ねた。

岩手県洋野町をもっと知りたくなる!
地域との関わりをつくる
『ひろのの栞』を読む

三陸沿岸の北部にあり、青森県に隣接する岩手県洋野町(ひろのちょう)。
東に太平洋を望み、内陸の北上山系に囲まれた海と高原の美しいまちだ。
しかし、この場所で一般社団法人〈fumoto〉を立ち上げた大原圭太郎さんは言う。

「自然と生活が共存する里山の風景は、日本中にたくさんあります。
洋野町は、地域おこし団体や移住者の数がまだまだ少なく、
いい意味で、“地方創生”のフロンティアのような状態です」

アパレルから転身した大原圭太郎さん。

アパレルから転身した大原圭太郎さん。

事実、洋野町が国の推進する地域おこし協力隊の受け入れを始めたのは2016年と、
第一歩を踏み出してまだ日が浅い。
そんな洋野町に移住し、fumotoを立ち上げた大原さんは、
洋野町の「地域おこし協力隊」第1号、その人でもある。

アパレル店員から岩手県洋野町「地域おこし協力隊」第1号へ

太平洋を望む洋野町。マリンレジャーから豊かな海産物まで洋野町の暮らしを育む。

太平洋を望む洋野町。マリンレジャーから豊かな海産物まで洋野町の暮らしを育む。

大原圭太郎さんは仙台出身だが、
奥さんの出身地である洋野町は第2の故郷のような場所だった。

それまでは仙台や東京で服飾の仕事をしていたが、東日本大震災をきっかけに
「より地域に根ざした仕事」、そして「自分が本当にやりたいこと」を見つめ直したとき
洋野町の地域おこし協力隊募集の知らせが目に入った。

それまで考えていた、仙台から新しいものを生み出したいという気持ちは、
アパレル業界ではなくても、実現できるのではないか、
アパレルでやってきたことも実は地域おこしに近く、
洋服はあくまで手段だったんだと思うようになった。

それならば洋野町で地域おこしをするのもおもしろいのではないか、という考えにいたった。

「父が気仙沼出身でよく遊びに行っていたということもあり、
洋野町の生活圏と自然との距離感や海が見える風景に親しみを感じました」

そして2016年10月、はれて洋野町の地域おこし協力隊として、
洋野町の仕事に携わることになった。
自治体のHP制作や、移住者誘致のイベントへの出展、近隣地域と協力した取り組みなど
洋野町の観光振興推進員として、まちの観光協会の業務などを中心に行ってきた。

野毛山〈藤棚デパートメント〉後編
商店街に開かれたシェアキッチンと
設計事務所

YONG architecture studio vol.3

横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
現在は長野県にも拠点を持ち、2地域で活動を展開しています。

今回は藤棚商店街で始まったシェアキッチンのプロジェクト
〈藤棚デパートメント〉の後編。
資金集めから工事、オープン後の変化についてお届けします。

実現の方法を考える

藤棚商店街で構想を始めたシェアキッチン計画ですが、果たしてどう実現していくか。
最適な物件とやりたい計画はすでにありましたが、
手元に活動資金が全然ありませんでした。
そこでまずは「野毛山ミーティング」の資料や〈藤棚のアパートメント〉の活動など、
新たに商店街でやりたいことを企画書にまとめ、銀行や信用金庫を回ることにしました。

藤棚商店街の中にある横浜信用金庫さん。

藤棚商店街の中にある横浜信用金庫さん。

まだ設計事務所として数年しか経っておらず、融資の実績もなかったので
「借りるのは無理でしょう」との声もありましたが、まずは相談。
すると、いくつか回るうちに商店街の中にある横浜信用金庫さんが
「地域のためになるならぜひ」と快く相談にのってくださることになりました。

事業化することは、設計の幅を広げること

融資を受けるには具体的な事業計画が必要です。
家賃の設定、月々の稼働時間、ランニングコスト、設計事務所の営業との両立など、
自分が事業者になって初めて見えてきたことがたくさんありました。

特に感じたのは、設計と運営、事業計画を一緒に考えることで
設計の幅を広げていける、ということでした。

内装設計をまとめ、見積もりを出して金額の調整をする。
そのとき提案の一部が削られても、アイデアを温存しておき、
その後の事業展開で再度取り込むことができます。

そこでまた工事が必要になった場合、
その資金は日頃の運営で得た収入から捻出するので、
使いやすい場所づくりができていれば収益が上がり、
新たな工事に投資できる額も増えます。

模型で使い方を検証。

模型で使い方を検証。

どういう場所が使いやすいのか。どれくらいの席数だと居心地がよくなるのか。
設計段階で検証したことが、運用されたときにリアクションとなって返ってきます。
空間に対するフィードバックが常にあり、
その都度使い方や仕様を検証しながらアップデートできる。

つまりは、設計者が事業をすることで、利用者さんすべてをクライアントとして
設計し続けているとも言えます。

気づくことで、豊かになる 滋賀の魅力が伝わる 移住PR動画を公開中!

豊かな自然環境に恵まれるとともに都市部への良好な交通アクセスを有する滋賀県。
琵琶湖を中心に東西南北で環境や人々の暮らしぶりが大きく異なるのが特徴です。

このたび、そうした「滋賀ぐらし」の魅力を発信するため、3種類の動画を制作しました。

ひとつ目は、InstagramなどのSNSを通じて、
たくさんの人から投稿された動画をもとに制作した「滋賀移住コンセプトムービー」。
滋賀の風景や暮らし、文化など「滋賀ぐらし」の日常を捉えた動画を
多くの方々から投稿いただきました。

投稿された動画には、雄大な琵琶湖や地域のお祭り、自然の中ではしゃぐ子どもたちなど
何気ない日常の風景が映し出され、
どこかホッとするような滋賀らしさ、滋賀の豊かさが感じられます。

「滋賀移住コンセプトムービー」より。

「滋賀移住コンセプトムービー」より。

「滋賀移住コンセプトムービー」より。

「滋賀移住コンセプトムービー」より。

また、動画のバックに流れる歌にもご注目。
澄んだ歌声が印象的なこの歌は、滋賀県民のソウルミュージック『琵琶湖周航の歌』です。
歌と編曲を手がけたのは、湖南市に移住した夫婦デュオ・よしこストンペアさん。
明るくポップな曲調が懐かしくも新しい印象です。

気仙沼をワクワクがあふれるまちに。
〈まるオフィス〉加藤拓馬さんが
手がける“人づくり”

宮城県最北端に位置する気仙沼市。
三陸リアス式海岸の一部である唐桑半島を有し、
東日本大震災で大きな被害を受けた土地のひとつだ。

震災直後、復興ボランティアとして気仙沼に入り、
以来まちをおもしろくする担い手のひとりとなっているのが、
〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。

緊急支援から観光事業を経て、現在は
「ワクワクしている次世代を育てる学びの仕掛け人」として、
中高生を中心とした教育事業に取り組んでいる。
震災から10年、まちはどう変わり、どんな未来を描いているのか取材した。

背中を押されて気仙沼へ

「東北に行け。後方支援は俺がする」

当時大学4年生だった拓馬さんが気仙沼へやってきたのは、
震災の翌日にかけられた、先輩のこの言葉がきっかけだった。
学生時代ハンセン病を研究し、中国の隔離村で道の舗装やトイレをつくるなど、
ワークキャンプの経験がある拓馬さんの力をかってのことだ。

現場でしか感じられないことがあることを、拓馬さんは知っていた。

「ハンセン病の回復者たちとともに時間を過ごしたことで、
長い間差別を受けてきたのにもかかわらず、
なぜ僕らを笑顔で受け入れてくれるんだろうと、
人間の魅力みたいなものを感じるようになりました。
それからは“誰かを助けに行く”というより、
“本物に出会いに行く”活動をしているという感覚になっていくんです」

〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。兵庫県出身で東京の大学に通い、4年生のときに東日本大震災が起きた。

〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。兵庫県出身で東京の大学に通い、4年生のときに東日本大震災が起きた。

この原体験が、拓馬さんの気仙沼への一歩を後押しする。

「3.11があって、東京でスーツを着て働く……それでいいのか、
僕が行かなきゃいけないんじゃないかみたいな、“勘違い使命感”が湧いてきました」

学生でも社会人でもない、何者でもない3月という時期、
4年間ワークキャンプをやってきたらからこその選択だった。

「これからは一緒にやって行くべしな」

内定を辞退したからには、数日・数週間の短期ではなく、
半年は腰を据えてやろうと長期ボランティアとして気仙沼へ入った拓馬さんだが、
移住しようとまでは思っていなかった。
半年経って瓦礫の撤去が落ち着いたら、東京に戻ろう。
当初はそう考えていた。

しかし、夏頃から地元の人たちの気持ちが落ち込んでいく様子を目の当たりにする。

「『がんばれ東北って言われるけど、もう言われたくない。
もう十分がんばっている』とか、
『唐桑にいてもダメだから仙台に行きたい。もうこのまちはダメだ』
という声を毎日のように聞いていました。短期で来たボランティアには、
『また来てね、がんばるからね』と言うけれど、
ずっといる僕に対しては、もう無理だって本音が出る。

僕にしか聞けない地元のことを聞いているんだなと思ったときに、
瓦礫が片づいたから帰るというのは薄情な気がしてきて、
この人たちはどうしたら元気になるんだっけ? と考え始めました。
まだ僕にやれることがあるんじゃないかって」

大きな被害を受けた気仙沼の中心部である内湾地区は、現在は整備され、さまざまな店舗が入った複合施設が並び、まち歩きもできる。

大きな被害を受けた気仙沼の中心部である内湾地区は、現在は整備され、さまざまな店舗が入った複合施設が並び、まち歩きもできる。

9月に瓦礫の撤去が落ち着いても、拓馬さんは帰らなかった。

「まさか10年いるとは思わなかったです。ずるずるといたという表現が正しい」
と拓馬さんは笑うが、2011年の年末に、印象的な出来事があった。
お酒を飲むといつも「ありがとうな」と言ってくれていた居候先の馬場康彦さんが、
「これからは一緒にやっていくべしな」とぽろっと言ったのだそう。

「それまでは、地元の人間がやらなくてはいけない瓦礫の撤去を、
外から来た支援者がやってくれているという気持ちで
言葉をかけてくれていたと思うんです。
でもこれからは被災者と支援者じゃなくて、
地元の人と、外から来た“風の人”として、
一緒にまちづくりを考えられるかもしれないと思いました」

中長期的におもしろいことができるかもしれない。
2012年、拓馬さんは住民票を気仙沼へ移した。

栃木・裏那須の〈Chus〉が6周年! 食が集うワークショップが目白押しの 「Something nice !」開催

祝・アニバーサリー!

栃木県の那須塩原市に店を構える〈Chus(チャウス)〉。

“大きな食卓”というコンセプトのもと、
朝市を日常的に楽しめる直売所〈MARCHE〉、
その食材を使った料理を味わえるダイニング〈TABLE〉、
そして魅力あふれる那須の旅の拠点にできる宿泊施設〈YADO〉で
構成されるChusが、めでたく6周年を迎えます。

以前は家具を扱う大型の倉庫だったという〈Chus〉の店舗。味のある看板が目印。

以前は家具を扱う大型の倉庫だったという〈Chus〉の店舗。味のある看板が目印。

1Fは、那須の野菜や加工品が並ぶ「MARCHE」、その奥に那須の食材をたのしめる「TABLE」。広々とした空間が広がります。

1階は、那須の野菜や加工品が並ぶ〈MARCHE〉、その奥に那須の食材をたのしめる〈TABLE〉。広々とした空間が広がります。

2Fの「YADO」にはさまざまなタイプのお部屋が。

2階の〈YADO〉にはさまざまなタイプのお部屋が。

もともと、年に2回開催していた「那・須・朝・市」という
マルシェイベントを実店舗に落とし込んだというChus。

店長の森俊崇さんは、
「Chusがある黒磯は、那須の温泉地のお膝元で“裏那須”と呼ばれる地域。
移住者やこの土地のよさを再認識して帰ってくる人も多く住みやすいまちです。
黒磯は、〈SHOZO COFFEE〉というコーヒー屋さんの周りに
個性的なお店が集まってきたことで、徐々に今のまちが形成されてきました。
Chusもその一部として、この土地の人たちと関わり合いながら
お店を営んでいます」と話します。

個性豊かな人たちが集まっているという〈Chus〉メンバー。

個性豊かな人たちが集まっているというChusメンバー。

那須のおいしいものと出会い、そのおいしさをわかち合い、
笑顔が溢れ、心がつながるーー。
Chusは大きなテーブルをみんなで囲むことで
ひとつの家族のようになれる場所になったらと、
そんな願いが込められているそう。

できることからアクションを!
「わたしのまちのSDGsの取り組み」

今月のテーマ 「わたしのまちのSDGsの取り組み」

最近耳にすることの多くなったSDGs。
持続可能な世界を実現するために
貧困や教育、資源、気候変動など
17のゴールから構成された取り組みのことです。

企業や団体が取り組んでるもの、と思っている人もいるのでは?
実は、私たちひとりひとりが行動・意識を持つことで
目標を達成する一助となることができます。

そこで今回は〈地域おこし協力隊〉のみなさんに
まちで行われているSDGsアクションについて紹介してもらいました。

大きな目標ですが自分の身近なところから始めるられる
SDGsの取り組みについて考えるヒントを探ってみてください。

※SDGsについての詳しく知りたい人は、
こちらをチェックしてみて。

【岩手県奥州市】
人×モノ×コト。SDGsを身近なものへと変える掛け算

奥州市環境市民会議〈奥州めぐみネット〉は2010年に発足。
奥州市環境基本計画である
「未来を見つめる100年循環都市 地球と共存する奥州(まち)」の
実現に向けて現在約90名の会員が
さまざまな取り組みを実施しています。

代表の若生和江さんは
「SDGsという言葉ができる前から環境問題に意識を向けていました。
自分がしていることはなんとなく大事と思っていましたが、
SDGsという目標が国連で掲げられたことをきっかけに
これまでの活動の意義が明確になった。
背中を押されたと感じました」と話してくれました。

若生さんは岩手県環境アドバイザーとして「エコクッキング」などの講座もされています。

若生さんは岩手県環境アドバイザーとして「エコクッキング」などの講座もされています。

これまでの米・野菜づくりも
やり方次第で環境に負荷をかけていることにも気づけたそう。
岩手は自然が豊かな分、環境やリサイクルなどの
SDGsの目標を都市部より身近に感じられるので、
ひとつのことが多方面へ影響することを痛感するそうです。

SDGs目標を体験できるよう開催された稲刈りイベント。飢餓や土地の豊かさを経験を通して考えるきっかけになりそうです。

SDGs目標を体験できるよう開催された稲刈りイベント。飢餓や土地の豊かさを経験を通して考えるきっかけになりそうです。

市営バスで巡る地元の歴史を辿るツアー。ツアーを通して「住み続けられるまちづくり」や、「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」などのSDGs目標を実現する取り組み。

市営バスで巡る地元の歴史を辿るツアー。ツアーを通して「住み続けられるまちづくり」や、「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」などのSDGs目標を実現する取り組み。

最近では地元の南部鉄器の会社が
他業種の企業とタッグを組んでイベントを開催。
お互いの持ち味を生かしながら
SDGsが掲げる目標への取り組みを
幅広い世代に伝えるきっかけづくりの場になっています。

南部鉄器の及源鋳造とコラボイベント。地元企業がつくる商品を使うことで「つくる責任 使う責任」、「質の高い教育教育をみんなに」などを体験を通して感じられます。

南部鉄器の及源鋳造とコラボイベント。地元企業がつくる商品を使うことで「つくる責任 使う責任」、「質の高い教育教育をみんなに」などを体験を通して感じられます。

「SDGsそのものは世の中を変える魔法の言葉ではなく、
各々が意識・行動を変えることで
初めて意味を成していくんです」と、話す若生さん。

〈奥州めぐみネット〉は豊かな暮らしのバトンをつなげられるよう
まずは自分ができることから始められるイベントや、
新たな地域交流の場を生み出す環境づくりを進めています。

information

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奥州めぐみネット事務局(奥州市役所市民環境部生活環境課内)

住所:岩手県奥州市水沢大手町1丁目 1 番地

TEL:0197-24-2111

FAX:0197-51-2374

Mail:seikatsu@city.oshu.iwate.jp

Web:奥州市めぐみネット

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小川ちひろ おがわ・ちひろ

東京都品川区出身。大学で移民を学び、言語や異文化に興味を抱く。オーストラリア留学、台湾ワーキングホリデーと海外生活を経験。着任前は都内ギャラリーカフェに勤務。2018年5月岩手県奥州市地域おこし協力隊着任。今年度は台湾向けに東北のリアルライフスタイルやカルチャーシーンを伝えるウェブメディア立ち上げを目指し、自身も旅するように東北でしか味わえない経験を堪能中。

野毛山〈藤棚デパートメント〉前編
空き店舗を使って、
商店街の課題解決に挑む

YONG architecture studio vol.2

横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
現在は長野県にも拠点を持ち、2地域で活動を展開しています。

前回は藤棚の商店街で始まった〈藤棚のアパートメント〉と、
そこから地域へと広がる暮らしについてご紹介しました。
今回は次第に見えてきた商店街や地域の課題、
その後に立ち上げたシェアキッチンのプロジェクト
〈藤棚デパートメント〉の成り立ちを振り返っていきます。

暮らすことで聞こえてきた地域の課題

藤棚商店街では、毎年5月に「こども商店街」というイベントが開催されます。
地域の方々が商店街に露店を出し、地域の子どもが店長になって
お店を出したりと家族で楽しめるお祭りで、毎年多くの人が
商店街にやってきます(昨年はコロナで中止となってしまいました……)。

〈藤棚のアパートメント〉も屋台を出させてもらえることになり、
いつもお世話になっているご近所の方たちと一緒におやつやスープなどを出しました。

ちなみにこの屋台は、本連載で以前に紹介した、
同じ神奈川県の山北の間伐材を使った屋台です。
当時のプロジェクトを知っていてくれた商店街の方が
「ぜひ、商店街でも使ってください」と声をかけてくれたのがきっかけで、
藤棚まで運ぶことになりました。

「こども商店街」では商店街を歩行者天国にして露店が賑わう。

「こども商店街」では商店街を歩行者天国にして露店が賑わう。

また、夏休みには、商店街の近くにある映画館
〈シネマノヴェチェント〉さんでのアニメ上映との連動企画として、
藤棚のアパートメントでアニメキャラお菓子ワークショップなども開催。
ご近所の方々が親子で参加してくださり、小規模ですが盛況のうちに終わりました。

日本一小さなフィルム映画館〈シネマノヴェチェント〉。

日本一小さなフィルム映画館〈シネマノヴェチェント〉。

〈藤棚のアパートメント〉にて。アニメ映画のキャラクターのお菓子づくりは親子で参加。

〈藤棚のアパートメント〉にて。アニメ映画のキャラクターのお菓子づくりは親子で参加。

こうして日々、商店街や地域と関わりながら暮らし、活動しているうちに、
次第に地域の課題や本音を耳にするようになります。

「商店街で教室を開ける場所があったらいいのに」
「気軽に集まれる場所が商店街の中にあったら」
「ランチの選択肢があまりない」

地域の人たちの声はさまざま。

地域の人たちの声はさまざま。

一方その頃、お祭りや映画イベントなどを経て
商店街の理事会にもたまに参加させていただくようになり、
お店の方々の声も聞くことができました。

「空き店舗が増えてきた」
「若い人がもっと商店街に来てくれるといいのだけれど」

店舗が突然立ち退いてしまったり、理事会の人数が減って
商店街の運営が難しくなった時期があったりと、
みなさん地域を守るために苦心されてきたようです。

商店街の理事のみなさん。

商店街の理事のみなさん。

そんななか、商店街の理事のひとりである、かまぼこ屋さんの今井宏之さんから
「お祭りで使っていた屋台をポップアップショップとして商店街で使えないか」
という提案をいただきました。

藤棚の商店街では、歩道にアーケードがかかっています。
そこに屋台を置いて、1日限定出店というかたちで新しい人を外から呼べたら、
話題にもなるし、賑わいになるのでは、という相談でした。

「ぜひやりましょう!」とすぐ返事をして意気込んでいましたが、
これがなかなか難しかった……。
軒先を使わせてくれる店舗が見つからず、
また、屋台をストックしておく場所もネックとなりました。

商店街の新たな活動を牽引する老舗かまぼこ屋〈今井かまぼこ店〉の今井宏之さん。

商店街の新たな活動を牽引する老舗かまぼこ屋〈今井かまぼこ店〉の今井宏之さん。

スチールラックと間伐材でつくったワゴン。

スチールラックと間伐材でつくったワゴン。

お手本としている神山町。
小さなまちから学んだ地域のあり方を
鹿児島県・川辺に生かす

鹿児島県・川辺と徳島県・神山の共通点

今回はこれまでの連載「文化の地産地消を目指して」で
ずっと書いてきた鹿児島県南九州市川辺町から少し離れて、
僕らがシンパシーを感じるもうひとつのローカルについて書いてみたいと思います。

ミュージシャンとして活動していると、
いろんなまちに演奏に出かける機会があります。
長年そういう暮らしをしていると、1度だけじゃなく何度も訪れるまちが出てくる。
何度も手招きされて訪れているうちに友人も増え、
そのうちふらっと訪れても顔見知りにばったり会って
「おかえり」なんていわれるようになる。そんな気の合うまちというのができてきます。
そうやって地域と人は精神的な距離を縮め、
物理的な距離のハードルが低くなり関係人口化していくのだと思います。
関係人口はまず「歓迎人口」から。

そのなかで僕らがベースにしている鹿児島の川辺町と同じくらいの規模感で、
なにかと気になってお手本としているのが徳島県の神山町です。
このふたつの小さなまちにはいくつかの共通点があります。

まず、近隣の中心市街地から車でだいたい40〜50分の位置にあること。
中山間地域で豊かな里山はあるものの、特別目立った観光資源があるわけではないこと。
古くから農業と林業で成り立ってきたということ。
それぞれ過疎化と少子高齢化に悩む地域であるということ、などなどです。

山あいの神山の風景。

山あいの神山の風景。

こうした地域課題は全国どこでも見られるものではありますが、
特に神山町はその課題解決の先進地として有名なので、
地域の課題に関心のある人にとってはよく知られたまちでもあります。

前橋〈白井屋ホテル〉で
建築とアートを堪能。
まちづくりの新拠点となる!

世界的アーティストが集結し、ローカルの拠点となるホテル

創業300年を超える〈白井屋旅館〉。
1975年にホテル業態に変更したものの、2008年に惜しまれつつ廃館してしまった。
群馬県前橋市民にとっては馴染みのあるこの跡地に、
何ができるのか? どうなるのか?
市民が興味深く見守っていたところ、2020年12月12日、
前橋の地域創生に深く関わってきたアイウエアブランド〈JINS〉の代表、
田中仁さんが引き継ぐかたちで〈白井屋ホテル〉として再生。
コミュニティの拠点となる宿泊業態がまちからひとつ減ることを免れ、
結果として、新しいまちづくりの拠点ができた。
白井屋ホテルと田中さんによる、前橋を盛り上がる挑戦のひとつである。

かつてと同じ宿泊施設ではあるが、その様相は大きく異なる。
国道50号沿いを歩いていると、突然、ホテルのポップな看板が現れる。
ニューヨークの作家、ローレンス・ウィナーさんによるタイポグラフィだ。

無機質な国道沿いのビルの並びのなかに、異質なサイン。(写真提供:木暮伸也)

無機質な国道沿いのビルの並びのなかに、異質なサイン。(写真提供:木暮伸也)

これ以外にも、エントランスからロビー、各部屋にいたるまで、
アートがあふれる空間になっている。
象徴的なのが、ロビーの吹き抜けスペースにあるレアンドロ・エルリッヒさんの作品。
まるで水道の配管のように設置された「ライティング・パイプ」には
LEDライトが仕込まれていて、季節や時間帯によってさまざまな表情を見せてくれる。

さらにアーティストがまるごとプロデュースを手がけた
4部屋のスペシャルルームがかなり豪華だ。

まずひとりめは上述のアルゼンチンの作家、レアンドロ・エルリッヒさん。
ロビーと同様のライティング・パイプが部屋では金属製に変わり、
天井に張り巡らされている。
それほど広くない部屋なのでパイプの密度を高く感じ、「アートを体感」できる部屋だ。

次にイタリアの建築家、ミケーレ・デ・ルッキさん。
本来は外装に用いるような板葺きで部屋の内壁を覆った部屋。
合計2725枚の板からできている。
やわらかな表層を生み出す伝統的な技法から着想され、
日本の雪国の雰囲気もあり、板から漏れ落ちる光がとても美しい。
落ち着いた気分になれそう。

ロンドンのプロダクトデザイナー、ジャスパー・モリソンさんが手がけたのは、
木製の箱に入ったかのような部屋。
床も木なので素足が気持ちいい(ちなみにこの部屋は土足禁止)。
日本らしいヒノキの浴槽も、彼のオリジナルデザインである。
広い部屋にポンとベッドが置いてあり、
空間の余白を生かしたミニマルなつくりになっている。

最後にホテルの全体設計を担当している建築家の藤本壮介さんの部屋だ。
LEDライトに照らされた植物により、
前橋のまちづくりコンセプトである「めぶく。」が表現されている。
絨毯は、壁や天井などの打ちっ放しのコンクリートを模した柄で、
藤本壮介さんのオリジナルデザイン。
これは館内のほかの客室にも一部採用されている。