連載
posted:2021.3.11 from:宮城県気仙沼市 genre:活性化と創生
〈 この連載・企画は… 〉
ひとつのまちの、ささやかな動きかもしれないけれど、創造性や楽しさに富んだ、
注目したい試みがあります。コロカルが見つけた、新しいローカルアクションのかたち。
writer profile
Haruna Sato
佐藤春菜
さとう・はるな●北海道出身。国内外の旅行ガイドブックを編集する都内出版社での勤務を経て、2017年より夫の仕事で拠点を東北に移し、フリーランスに。編集・執筆・アテンドなどを行う。暮らしを豊かにしてくれる、旅やものづくりについて勉強の日々です。
photographer profile
Kohei Shikama
志鎌康平
しかま・こうへい●1982年山形市生まれ。写真家小林紀晴氏のアシスタントを経て山形へ帰郷。2016年志鎌康平写真事務所〈六〉設立。人物、食、土地、芸能まで、日本中、世界中を駆け回りながら撮影を行う。最近は中国やラオス、ベトナムなどの少数民族を訪ね写真を撮り歩く。過去3回の山形ビエンナーレでは公式フォトグラファーを務める。移動写真館「カメラ小屋」も日本全国開催予定。 東北芸術工科大学非常勤講師。
http://www.shikamakohei.com/
宮城県最北端に位置する気仙沼市。
三陸リアス式海岸の一部である唐桑半島を有し、
東日本大震災で大きな被害を受けた土地のひとつだ。
震災直後、復興ボランティアとして気仙沼に入り、
以来まちをおもしろくする担い手のひとりとなっているのが、
〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。
緊急支援から観光事業を経て、現在は
「ワクワクしている次世代を育てる学びの仕掛け人」として、
中高生を中心とした教育事業に取り組んでいる。
震災から10年、まちはどう変わり、どんな未来を描いているのか取材した。
「東北に行け。後方支援は俺がする」
当時大学4年生だった拓馬さんが気仙沼へやってきたのは、
震災の翌日にかけられた、先輩のこの言葉がきっかけだった。
学生時代ハンセン病を研究し、中国の隔離村で道の舗装やトイレをつくるなど、
ワークキャンプの経験がある拓馬さんの力をかってのことだ。
現場でしか感じられないことがあることを、拓馬さんは知っていた。
「ハンセン病の回復者たちとともに時間を過ごしたことで、
長い間差別を受けてきたのにもかかわらず、
なぜ僕らを笑顔で受け入れてくれるんだろうと、
人間の魅力みたいなものを感じるようになりました。
それからは“誰かを助けに行く”というより、
“本物に出会いに行く”活動をしているという感覚になっていくんです」
この原体験が、拓馬さんの気仙沼への一歩を後押しする。
「3.11があって、東京でスーツを着て働く……それでいいのか、
僕が行かなきゃいけないんじゃないかみたいな、“勘違い使命感”が湧いてきました」
学生でも社会人でもない、何者でもない3月という時期、
4年間ワークキャンプをやってきたらからこその選択だった。
内定を辞退したからには、数日・数週間の短期ではなく、
半年は腰を据えてやろうと長期ボランティアとして気仙沼へ入った拓馬さんだが、
移住しようとまでは思っていなかった。
半年経って瓦礫の撤去が落ち着いたら、東京に戻ろう。
当初はそう考えていた。
しかし、夏頃から地元の人たちの気持ちが落ち込んでいく様子を目の当たりにする。
「『がんばれ東北って言われるけど、もう言われたくない。
もう十分がんばっている』とか、
『唐桑にいてもダメだから仙台に行きたい。もうこのまちはダメだ』
という声を毎日のように聞いていました。短期で来たボランティアには、
『また来てね、がんばるからね』と言うけれど、
ずっといる僕に対しては、もう無理だって本音が出る。
僕にしか聞けない地元のことを聞いているんだなと思ったときに、
瓦礫が片づいたから帰るというのは薄情な気がしてきて、
この人たちはどうしたら元気になるんだっけ? と考え始めました。
まだ僕にやれることがあるんじゃないかって」
9月に瓦礫の撤去が落ち着いても、拓馬さんは帰らなかった。
「まさか10年いるとは思わなかったです。ずるずるといたという表現が正しい」
と拓馬さんは笑うが、2011年の年末に、印象的な出来事があった。
お酒を飲むといつも「ありがとうな」と言ってくれていた居候先の馬場康彦さんが、
「これからは一緒にやっていくべしな」とぽろっと言ったのだそう。
「それまでは、地元の人間がやらなくてはいけない瓦礫の撤去を、
外から来た支援者がやってくれているという気持ちで
言葉をかけてくれていたと思うんです。
でもこれからは被災者と支援者じゃなくて、
地元の人と、外から来た“風の人”として、
一緒にまちづくりを考えられるかもしれないと思いました」
中長期的におもしろいことができるかもしれない。
2012年、拓馬さんは住民票を気仙沼へ移した。
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それからの拓馬さんの活動は目覚ましい。
外からのエールではなく、自ら立ち上がろうとしている地元の人を紹介しする
フリーペーパー『KECKARA けっから。』(地元の言葉でタダであげるから)を創刊。
まちづくりサークル〈からくわ丸〉を設立し、
外から来る学生ボランティアと唐桑半島の魅力や課題を掘り起こし、
絵地図にして住民に還元していった。
活動を続けるなかで、地域に惚れ込んでいった拓馬さん。
唐桑半島は、駅を中心にまちができるのではなく、浜に向かって集落ができていて、
浜から資源が上がってくる。
浜のある暮らしをしているこのまちの魅力を次世代に伝えていきたいと、
2015年には〈まるオフィス〉を設立。観光事業を始めた。
まるオフィスの「まる」は船の名前によくある「○○丸」のまる。
仲のいい漁師から、船に「丸」がつくのは、
「出発点に戻ってこられるようにという願いが込められているから」
と教えてもらい、いい言葉だなと思ったという。
からくわ丸には、地域はひとつの船という意味、
まるオフィスには、船を動かしていくオフィスとして
地域の中のコーディネーターのような役割を担いたいという思いが込められている。
「観光客に向けて漁師体験を始めたのですが、1、2年で辞めちゃったんです。
僕が笑顔にしたいのは観光客じゃない。
地元のことを次の世代に伝えたいんだったら、
地元の子たちを呼んでこようと思い始めて、
地域の子ども向けの体験事業に切り替えたんです」
こうして、地元の小中学生と気仙沼で働く大人を結びつける事業が始まった。
気仙沼の港の景色がすごく好きだと言う拓馬さん。
その理由は工業港ではないからだという。
確かにもくもくと煙が出る煙突は見当たらない。
「湾の底が浅いので、大型船が入れず、企業城下町として成り立たなかったみたいです。
中小の経営者がたくさんいて、自分たちで漁師をおもてなしし、
漁師を輩出して、魚を揚げることで経済を潤し、
まちをつくってきたという自負が、地元の人にはあります」
地域内通勤・通学率も県内で断トツ1位。
まちのことが自分ごとの人がたくさんいて、すごく丁寧に暮らしている。
まちのためになるのであればと、チャレンジを起こすときに
応援してくれる大人たちがいることは、気仙沼の一番の魅力だと拓馬さんは話す。
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応援してくれる大人のひとりが、唐桑で被災した自宅を改修して民宿を始めた
〈唐桑御殿 つなかん〉の女将・菅野一代(いちよ)さんだ。
漁師が、己の誇り高さと心意気を表し、競って建てたといわれる
入母屋造りの唐桑御殿は、瓦屋根が特徴的。
多くの家が津波で流されたなか、1階が鉄筋コンクリートだった菅野邸は
元の場所に残ったが、海水は3階まで入った。
一代さんは当初、取り壊すつもりだったという。
2011年の夏、唐桑半島に長期滞在していた拓馬さんは、
ボランティアと現場をマッチングする役割を担うようになっていた。
学生ボランティアの寝泊りする場所が不足したため、
菅野邸を使わせてもらえないかと相談。
屋根があるだけで雨風はしのげると、ビニールシートとダンボールを敷き、
延べ約1000人が利用した。
「そうしたら一代さんが、『家が生き返った』って。
明かりが灯ったのがすごくうれしかったみたいで、
『拓馬、私、夢ができた。私はここを取り壊すのをやめて改装して、民宿にする。
将来この子たちが大人になって家族と一緒にまた戻ってこられるように、
私はここを民宿にするんだ』って宣言して、本気でやり始めたんです」(拓馬)
「絶対にこのままで生かしたいと思ったの。
拓馬たち大学生の声を聞いていると、家が息を吹き返した気がして。
やっぱり人ってすごいよね、自然もすごいけど、
それにちゃんと打ち勝つ人間はすごいと思う」(一代)
「うちのばぁちゃん(義母)も、もう一度やる気になったんだよね。
牡蠣の養殖業をやっていたんだけど、
泥の中からロープとか牡蠣剥きナイフを拾いだしたの。
じぃちゃん(義父)も、網と編み針を拾ってきて修理を始めて。
私はもうダメだなって投げやりになっていたんだけど、
80歳の人たちがやる気になっている姿を見て、負けてられないってスイッチが入った。
それが再生の第一歩だった気がする」
避難所でも、どうやって生きていけばいいんだと落ち込む若者に、
お年寄りは、その辺からわかめでもあわびでも拾ってきて天日干しろと言ったという。
大丈夫だから。生きていけるんだから、どんなときでも生きていけるんだからと。
がむしゃらに走ってきた10年だったというが、
一代さんはまた前に進もうとこれからの夢を語る。
コロナ禍でも、つなかんに設置された移動式サウナ
〈サウナトースター〉の利用客が絶えなかったことから、
被災した牡蠣の作業場にサウナをつくりたいと考えているのだ。
そこは一代さんが唐桑にお嫁に来てがんばって仕事をし、
お茶を飲んでごはんも食べた思い出の場所。目の前は海だ。
「土地がある。海がある。きれいな景色が見られる。
やっぱりあるものは強いんだよね。残されたものは強い。
生かさなきゃって思う」
「いい人生だなって思って死にたいし、あの世に行っても
胸を張ってただいまって言いたい。天国にいる家族からも、
いい仕事やってきたなって思われるように、もうひとがんばりしようかなって。
だから、次に行くよ、次に!」
一代さんの言葉は力強い。
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地域を持続させるために体験事業を進めてきた拓馬さんに、転換点は再び訪れる。
知人から聞いた「集落コミュニティは夢を諦めさせる装置だ」
という言葉にはっとさせられたのだ。
時同じくして〈気仙沼ニッティング〉の御手洗瑞子さんからも
「地域の持続性のための教育は大人のエゴでしかない。
気仙沼の子どもたちに足りていないのは本物を見る機会」という言葉をもらう。
「子どもにとっての人生を考えたとき、必ずしも地域の産業を継続させることや、
気仙沼で生きていくことがすべてではない。
50年100年先も、ここの暮らしがありますようにという願いは、
移住者の僕のエゴだと気がついたんです」
目指すべきは、子どもたちが何者にもなれるんだという
ワクワクを共有できる機会をつくること。
拓馬さんのビジョンが明確に切り替わったのは、2018年頃のことだ。
現在は中高生が自分のプロジェクトをつくり、
チャレンジすることを応援する〈まるゼミ〉に奔走している。
中学校の「総合的な学習の時間」に
「探究学習コーディネーター」として参加し、授業をサポート。
中学生からは、コロナ対策を啓発するための小説や、
海洋プラスチックゴミの回収装置、
外国人が住みやすいまちにするための外国語のゴミ出し表をつくるなど、
さまざまなアイデアによるプロジェクトが生まれた。
高校生とは、放課後や週末にオンラインゼミを開催。
企画を発表する「マイプロジェクトアワード」も年に1度開催し、
高校の「総合的な探究の時間」で行う研究を、アワードで発表する生徒も増えてきた。
「チャレンジしたというPDCAサイクルを、
中高生が地域の大人たちとまわし始めている。この体験を重ねていくと、
気仙沼というまちとポジティブに関わり続ける人口も増えていくと思うんです」
実際、効果は見られてきた。
今年、震災10年の節目に、拓馬さんは現役の高校3年生に
この10年を総括してもらうインタビュー動画を撮影した。話を聞いて感じたことは、
「その土地への愛着みたいなものは、親と学校の先生以外の大人に
どれくらい出会っているかに比例する」ということ。
「大人に協力してもらってプロジェクトを実践した経験がある子は、
圧倒的に気仙沼が好きだと言う。中高生のチャレンジは、
結果的に地域の持続性にも寄与していると思うんです」
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ひとづくりに力を入れるのは、拓馬さんたちだけではない。
気仙沼市も、「市民が主役のまちづくり」を掲げる。
まち全体を〈気仙沼まち大学〉という学びの場に見立て、
さまざまな場所でチャレンジが生まれていく「まち大学構想」を2016年にスタート。
「経営未来塾」や20~30代の“やりたい”をかたちにする「ぬま大学」など、
市が主催の人材育成プログラムも数多く立ち上がってきた。
民間やNPOとともに〈気仙沼まち大学運営協議会〉もつくり、
〈気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザ〉内に、
シェアスペース〈□ship(スクエアシップ)〉も立ち上げた。
相談窓口を持ち、学びの場やプロジェクトの事例を紹介するなど、
チャレンジの後押しを行っている。
「ここではプロジェクトが活発に行われていて、新鮮な出会いばかりです。
新しいことを始めるっておもしろいし、
かっこいいという感覚が広がっていると感じます。
必ずしもみんながプレーヤーでなくてもいいと思うんです。
周りの人も、チャレンジする人をいいねって応援できることが大切」
と話すのは、気仙沼まち大学運営協議会のコーディネーターを務める成宮崇史さん。
気仙沼市の取り組みは、拓馬さんたちまるオフィスの活動の追い風にもなっている。
「どんどん仕事を提案しにこいと言ってくれる市の企画部長がいるんです。
気仙沼の勝海舟って呼んでるんですけど(笑)。
行政の方たちと一緒に議論できるのは、すごく大きなことですね」(拓馬)
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どんな10年だったかと拓馬さんに聞くと、
「新卒で気仙沼というまちに入社して、育ててもらった10年だった」
という答えが返ってきた。
さらに気仙沼というまちにとっての10年は、現役高校生の姿に映し出されていると話す。
震災10年のいま、何を取り上げてほしいかと聞くと、
「自分たち」と答えるのだという。
「子どもの頃被災して、10年間気仙沼で暮らしてきて、
いまこうしていろんなことをやろうとしている高校生を取り上げてほしい」と。
「自信がついてきているんです。外から来た人たちと混ざり合っている
いまの気仙沼がおもしろいと、胸を張っている。
『拓馬さんたちの世代が楽しそうにまちづくりをやっている姿にも
めっちゃ影響を受けてますよ!』って言ってくれたのもうれしかったです」
楽しそうに働く大人の姿は確実に高校生の未来を広げている。
「一方で、気仙沼に帰ってきます、気仙沼に恩返しますってみんな言うんですけど、
17、18歳でそんなに小さくまとまらなくていいんじゃないか、
海外で何かやってきてもいいのでは、という次の違和感も生まれてきています」
違和感と向き合い、悩み、改善し、新しい活動を推進してきた拓馬さんは、
まだまだ進化していく。
まるオフィスでは〈気仙沼市移住・定住支援センター MINATO〉も運営しているが、
いま増やそうと目指しているのは、定住人口ではなく、
「そこでプロジェクトをやっている人口」だという。
「副業・兼業が当たり前になるとすれば、仕事のうちのひとつは
気仙沼でプロジェクトをやろうかなという選択ができるようになると思います。
何かしらプロジェクトをやりたくなるまち。
そういうライフスタイルを気仙沼から提案できたらいいですね」
教育分野では、子どもたちが自分でアクションを起こせる環境や仕組みを、
まちぐるみでつくりたいと考えている。
さらなる夢は、気仙沼だけがよくなればいいというわけではないと、
ほかのまちへもその仕組みを広げていくことだ。
「気仙沼のような6万人規模のまちづくりの事例はまだまだ少ないんです。
平成の大合併で同じくらいの規模になっているまちは多いので、
気仙沼が中規模のまちのモデルになるとうれしいです」
みんな未来を見ている。
拓馬さんからも、このまちで生きる人たちからも、
気仙沼というまちからも、ワクワクがあふれていた。
information
一般社団法人まるオフィス
Web:まるオフィス
information
information
気仙沼まち大学
Web:気仙沼まち大学
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