いよいよ決定か?
下田の気になる家
移住先探しの旅を続ける津留崎さん一家。
三重の山間地への移住をあきらめ、次に候補地となったのが伊豆南部。
下田でわくわくするような家を見つけ、ようやく内見の日を迎えます。
実際に家の中を見てみると……?
そしてここでもまた、縁がつながる、
いい出会いがあったようです。
昨年の秋から約半年間、飛騨地域で〈未来の地域編集部 準備室〉が立ち上がった。
これからは地域自らが発信すべく編集部の立ち上げを目指し、
コロカル編集部がお手伝い。
その一環として「編集・ライターワークショップ」が開催された。
そのなかで参加者が実際に取材して書き上げた記事を公開する。
地域に暮らしているからこそ書ける取材内容は、
地域発信における「未来の姿」だといえる。
岐阜県の北部、小さなまち、飛騨古川には、
築100年以上の古民家を改装したカフェ〈壱之町珈琲店〉があります。
この小さなカフェは、今から18年前にオープンしました。
毎日たくさんの人が訪れます。0歳の赤ちゃんから90歳を超えたおばあちゃんまで。
この小さなまちの小さなカフェに、どうして毎日
これほど多彩な人が訪れるのでしょうか。
このお店をいつも訪れる常連さんと、店主の方にお話をおうかがいしました。
まずお話をおうかがいしたのは、東京から飛騨へ移住してきた松本剛さんです。
松本さんは、全国で森林の事業をしているトビムシという会社で、
飛騨の木を使った商品の開発をしています。
東京の本社に勤めながら全国のさまざまな地域に関わっているなかで、
地域で暮らしながら仕事がしたいと思うようになり、
2011年9月、飛騨古川に移住しました。
現在は飛騨を拠点に、東京やその他の地域を行ったり来たりしながら仕事をしています。

松本さんにとってこのお店はどんな場所なのでしょうか。
「家とかではできない考えごとをしたいときや、
ぼーっとしたいときにひとりで来るんだけど、
実は“ひとりになりたいけれど、ほんとにひとりにはなりたくはないとき”なんだよね。
それが都会のカフェとは違うところ」
本当にひとりになりたいときは、ここは不向きだから、と松本さんは言います。
「この場所は、自分のキャラクターに合っているのかもしれない。
僕はみんなでわいわい話すというのはそんなに得意じゃなくて、
基本的にひとりがいいんだけど、本当にひとりぼっちだと寂しくなっちゃう。
このお店では、知り合いに会えば軽く挨拶はするけれど、
会っちゃったから話さなきゃいけないという感じではないんだよね。
会った人と話したいことがあったら話し込んだりもするし、挨拶だけのときもある。
そういうこのお店の空気感が自分の感覚と合っているのかもしれない。
(店主の森本)純子さんは、お客さんに声をかけてもくれるし、
放っておいてもいてくれる。そういう感じだから、
このお店に来るお客さんもそんな感じの空気感。
温度と湿度がきちんと調整されている空間みたい。
心地がいい、程よい距離感。なかなかない場所だよね」

店内にある大きな一枚板のテーブル席。お客さんは思い思いの席に座ります。ほかのお客さんと近すぎず、離れすぎない距離感も、このお店が持つ心地よい空気感をつくっているのかもしれません。
仕事で飛騨を訪れるお客さんを連れてくることもあるのだそうです。
「仕事のお客さんにこのまちを紹介するとき、
〈壱之町珈琲店〉は必ず見てもらいたい場所だと思っている。
古川というまちの魅力を体現していて、
これが『僕の好きな飛騨古川だよ』って自慢したい場所のひとつ。
古川の魅力って、美しく伝統的なまち並みと、
その家ひとつひとつをちゃんと住む場所として人が使っていて、
みんなが心地よく暮らしているところ。
このお店は建物も古川らしい伝統的な建物だし、
お客さんとお店の人との距離感にも、古川らしい魅力がそのまま感じられる。
程よい暮らしや人間関係など、全部入っている場所だよね。
初対面のお客さんに対しても、
純子さんはいつもの感じでやわらかく接してくれるでしょ。
古川に初めて来た友だちや仕事相手に『あ、いいとこ住んでるね』って
言ってもらいたいから絶対連れてくる」
店主の森本純子さんと話すというより「会いたくて」、お店を訪れる人も多いようです。
あたたかいのに近すぎない距離感。
このお店が18年も続いている陰には、
実は見えない「純子さんの気持ち」が隠れているのかもしれません。
「お店をやっていくときに、『常連さんさえ来てくれればいい』とか
『商売と割り切ってドライに』とか決めて営業する方が楽なんだろうけれど、
このお店は、開店以来18年の間、いい塩梅であることを諦めずに、
ずっとチューニングし続けてきた結果、この雰囲気を保っているんだろうなと思う。
それを維持していくことは意識的にがんばらなきゃできないこと。
だからこそ、その心地よさを壊さないように、お客さんも自然と協力したいと思える。
地元の人も、旅行者も、移住者も、みんな誰もがここに来ると、
誰かと出会うことができる場所。
そういう場所をつくることって、実はすごく難しいと思う」

店内には古民家のつくりを生かしたお座敷席も。赤ちゃんや小さなお子様連れに人気です。
お店の人の暮らしも、お客さんが大切に思う。そんな関係性がそこにはありました。
「前にね、連休中の稼ぎ時にもかかわらず、
店先に『親族が集まるBBQに参加するのでお店休みます』って
臨時休業の理由が書いてあったことがあって。この商売っ気のなさ。
東京とかだと、売り手と買い手という関係になってしまうけれど、
ここではお店の人とお客さんという線引きがすごく曖昧。
『あ、BBQなら仕方ないですよね』って思えるお店なんだよね。
お店の人だって人間だし、その人の暮らしもあるから。
顔の見える範囲で経済が回っている古川の雰囲気と、
このお店の持っている雰囲気がそうさせるのかな。
前に東京のイベントでカレーを何十人分もつくることになったとき、
道具とかオペレーションについて純子さんに相談したことがあったんだけど、
惜しげもなく〈壱之町珈琲店〉のカレーのレシピを教えてくれたことがあったんだよ。
カレーはこのお店の看板メニューのはずなのに、材料の銘柄まで全部教えてくれて。
それも関係性の話につながる気がする。
お客さんとお店側という線引きがないことのいい例だよね」

壱之町珈琲店の看板メニュー、カレーライス。これを目指して来るお客さんも多くいます。
松本さんは、このまちに引っ越してきて、
このお店のどんな場面を見てきたのでしょうか。
「自分が見て来た範囲でしかないけど、
この数年間でこのまちで生まれた新しい取り組みのなかには、
〈壱之町珈琲店〉がなかったら生まれなかったものも
あるんじゃないかなと思ってしまうんだよね」
と語る、松本さん。
「都会のコワーキングスペースのように、
『こんなものがあります』みたいなわかりやすいことは言えないけど、
ここはむしろ、じんわりと小さな変化が生まれる場所だと思う。
UターンやIターンの人たち、地元の人や移住者の人、
毎日いろんな人たちがこのまちで暮らしながらいろんなことに挑戦するなかで、
その出会いや話し合いの場所のひとつに必ずこの場所があって。
いろんな人の人生を変えているんだろうけれど、そんなたいそうな言い方よりも、
毎日の暮らしやその暮らしが少し変化するきっかけの場面には、
実はこのお店の存在があったという方がしっくりくる。
そういう場所があるまちって意外と少ないんじゃないかな」
自身も、新しいことに挑戦するときはいつも、
このお店でそっと背中を押される気がするという松本さん。
このお店に立ち寄ることで、前向きな気持ちになれる人は多いのかもしれせん。
2017年3月12日に、4年にわたる修復作業を終えた
国宝・陽明門を擁する日光東照宮や、新型特急車両の登場など、
この春、観光で盛り上がりを見せる栃木県日光市。
はっきりとした四季と、景勝地の数の多さが示す自然の豊かさ、
歴史と文化が色濃く残るこの地は、観光地としてではなく、
居住地として見てみると、また違った魅力に気づくはずです。

世界遺産の日光東照宮。

奥日光の中禅寺湖。
移住定住政策のうち、特に子育て支援に力を入れている日光市。
18歳まで助成の対象となる医療費や、
第2子は半額、第3子は無料になる保育費。
公立が16園、私立・認可外を合わせると23園ある保育園の待機児童はゼロで、
0児保育、延長保育、放課後児童クラブも充実しているということで、
親が働きやすい環境と制度が整っています。

また、地域の子育て支援拠点が充実しているのも日光市の特徴。
子育て相談と子どもの遊び場を兼ねた、〈子育て支援センター〉を
市内3か所に設置しているほか、
子どもの一時預かりや、病児預かりを担う、〈ファミリーサポートセンター〉も利用できます。

さらに、日光市の小学校は平成20年度より教育課程特例校の指定を受け、
英語教育に力を入れています。
小学1年生から担任、英語指導助手2名による、3人体制での英語の授業を行い、
海外への理解と興味関心を高めること、小児期からの英語力の取得、
コミュニケーション能力の向上を目指しています。
何よりも、華厳の滝や中禅寺湖、戦場ヶ原、男体山など、
国内有数の美しさと険しさを併せた自然環境を持つ日光で子育てするということは、
親子ともにいい影響を得られそうです。
「自然環境のよさが移住の決め手」と話す移住者が多いのも納得です。

また、アイスホッケーやアイススケート、ラフティング、釣りなど
自然や地形を生かしたスポーツ&アクティビティが盛んなのも
日光で暮らす楽しみかもしれません。


国内のアイスホッケーチームで唯一地域名がチーム名に付く〈日光アイスバックス〉が、アジアリーグアイスホッケーで活躍中。アジアチャンピオンを目指しています。
「お遍路」といえば四国が有名ですが、実は小豆島にも「八十八ヶ所霊場」があり、
お遍路されてる方がたくさんいます。
私もいままでに「女子へんろ」という企画に参加したりして、
歩いて何か所かの霊場(お寺や庵)をまわりました。
お遍路は年配の方がされるもの、宗教的なものというイメージがあったりして、
私たち世代にとってはなかなか身近に感じられないものかもしれません。
都会で暮らしていたら、お遍路さんを見かける機会もほとんどないですしね。
私もその言葉しか知らず、まさか自分が歩いて霊場をまわるなんて
思ってもみませんでした。
小豆島で暮らすようになってからは、お遍路が身近なものになりました。
島は四国本土に比べたらぐっと狭く、その狭い島の中に八十八ヶ所の霊場があるので、
普段の暮らしのなかでお寺の前を通ったり、お遍路さんを見かけたりします。
同世代の「おじゅっさん(お寺の住職さんや副住職さん)」も何人かいて、
普段からつながりがあったりするので、そういう意味でもお寺やお遍路が身近です。
この3月は、お遍路する機会が2回ありました。
ひとつは、とある雑誌の取材で一緒に歩くことに。
すごくおもしろい特集になると思うので、お楽しみに!
そしてもうひとつは「卒業遍路」。
私は撮影スタッフとして一緒に歩いてきました。

小豆島のお遍路は山や海など自然のすぐ近くを歩くコースが多く、歩いてるだけで楽しい。

山の中の遍路道。先達さんについて歩きます。

卒業遍路実行委員会のメンバーのひとり、常光寺副住職の大林慈空さん。
卒業遍路は、島の有志メンバー(卒業遍路実行委員会)による企画で、
今年で3回目の開催となります。この3月に小豆島の中学・高校を卒業した
学生さんたちを対象とした歩き遍路行事です。
その目的は、こんなふうに書かれています。
春、卒業シーズンになると鈴の音を鳴らしながら、
白装束のお遍路さんが近所のお寺をお参りしている光景を目にします。
一体彼らは何者で何をしているのでしょうか?
自分達には関係の無い存在。そう思ってしまえばそれまでなのですが、
遠方から10時間以上かけて、或いは50年欠かさず、
毎年小豆島を巡礼される人たちがいます。
卒業遍路はたった一日の行事ですが、本格的な遍路行をすることで、
その理由の一旦に触れ、わたし達が生まれ育った場所を知り、
自らの言葉で語れる機会にしたいと思っています。
卒業という人生の大きなターニングポイントにおいて、
この経験が今後の人生を有意義にしてくれるはず!
そう信じて小豆島に根付いていく行事にしたいと想っています。
『小豆島歩き遍路通信てくてく』より
自分が生まれ育った場所のことを、自分の言葉で語れるようにする。
それってすごくすてきなことだと思います。
私は生まれ育った場所のことをほとんど知らずに出てしまいました。
離れてみて、時々人から話を聞いたりして、
あー、岡崎(私の地元です)ってそんなところだったんだなと
あらためてその魅力を知ることが多いです。

同じ部活の仲間と一緒に。

山の中で休憩。中学3年生のみんな。
今回の卒業遍路には、中学3年生が22人、高校3年生が14人の計36人が参加。
島の遍路コースの中でもかなり険しい道のりである、
島北東部の土庄町小部から小豆島町吉田、福田地区までのコースを歩き、
小豆島霊場81~85番札所をまわりました。

島出身、島で働く先輩たちの話を聞く時間も。

洞窟の中で護摩焚き。こんな経験はなかなかできない。
兵庫県北部にある豊岡市には、子どもたちが楽しみにしている保育や授業がある。
脳や心の発達を促す「運動遊び」(幼稚園・保育園・こども園児対象)、
幼児期から英語に触れる「英語遊び」(幼稚園・保育園・こども園児対象)、
そして、演出家・劇作家の平田オリザさんが監修する
コミュニケーション教育の授業(小・中学生対象)。
これらは市内すべての幼稚園、保育園、こども園、小・中学校で行われる。
豊かな自然の中でコウノトリが羽ばたくまちとして知られる豊岡は、
実は子どもが羽ばたく準備を教育面から支える、教育先進都市でもあるのだ。
2017年3月、東京都内にて、豊岡市の教育を体験できるワークショップが行われた。
先生は平田オリザさんや、全国の舞台を中心に活躍する現役の演出家、俳優、
普段豊岡で運動遊びを実践している豊岡市教育委員会の指導員たちだ。
子どもたちは2〜3歳児、4〜6歳児、10〜12歳児クラスに分かれ、
それぞれ30分ほどのワークショップを体験する。
東京の子どもたちが、たったの数十分でどこまで変われるのだろう?
かくしてワークショップが始まると、
子どもたちの変化に驚かされることになった。
当日の朝、9時半。会場のノアスタジオ 学芸大スタジオの一室に近づくと、
子どもたちの嬉々とした声が聞こえてきた。
広いフロアーに解放された子どもたちが、床の上を走りまわっている。
今日のひとコマ目は、2〜3歳児を対象とした運動遊びのクラス。
先生は、豊岡市教育委員会こども育成課の仲義 健(なかぎたける)さん。
颯爽とした体操のお兄さんといった雰囲気だ。
まずは教室の真ん中に集まり、レクチャーを受ける。

豊岡市教育委員会 こども育成課 仲義 健さん。
「昔は子どもが空き地で遊んでいて、
子ども同士の遊びのなかで身につけていたものがたくさんありました。
今の遊びは、ほとんどがゲームですよね。
このままではイカンということで、豊岡ではこんな取り組みをしています」
ここで仲義さんは、簡単な運動を教えてくれた。
右手は右へ回し、左手は左へ回し、交差するところで拍手。
それを数回繰り返したら、今度は逆回し。
単純な動きだけど、逆回しに戸惑ってしまった。
「体には400の筋肉があり、この筋肉を動かすのが、脳です。
その脳と筋肉をつないでいく作業、これが10歳までに完了します。
なので、この動きがすぐにできる人は10歳までにたくさん遊んだ人です」
運動遊びでは、こうした簡単な動きにはじまり、
楽しみながら運動をしていくうちに「動ける身体」をつくり、脳と心の成長を促していく。
松本短期大学教授の柳沢秋孝さんが考案しているプログラムをアレンジしている。
でも、なかには今日体験する運動遊びの動きをすぐにできない子もいるでしょう、と仲義さん。
そんなときの対処法も教えてくれた。
「子どもさんができなかったときは、見ているだけでいいです。
『なんでできないんだ』というのはNGです。
脳は人の動きを見ているだけでも、実際に体を動かすときと、同じところが活性化しています。
もし、家に帰ってから同じ動きをしたら、その時は思い切りほめてあげてください。
僕は11年間この仕事をしていますけれど、
笑顔、ほめる、触れあう。この3つが揃えば、子どもは間違いなく健やかに育つ、そう実感しています」

この後は、いよいよ実践。
手をつないで、部屋のなかをぐるぐるまわったり、
オムレツに見立てた子どもを床の上で揺すったり、軽くほうり投げて受けとめたり。
子どもたちのテンションはみるみる上がっていき、
親御さんたちも童心にかえったような顔をしている。

お父さん、お母さんに背負われておもいっきりダッシュ! 仲義さんはフェイントをかけて笑いを誘い、緊張を解きほぐしていく。

フライパンを揺すってオムレツをつくるように、子どもの足を持ってゆ〜らゆ〜ら。

最後はオムレツを腕の中で成形して……かぶりつく! 子どもたちのキャッキャと甲高い声が響く。
一番盛り上がったのは、動物に変身するゲーム。
四つん這いで歩くクマさん歩きや、ほふく前進のように進むワニさん歩き、
お父さんたちの腕に子どもがぶら下がる象さん歩き。
これらの運動が、自分の腕で体を支える力や、ジャンプ力、ぶら下がる力を身につけ、
「動ける身体」をつくっていくという。

象さん歩きは、支えるほうの体力も必要! お父さんお母さんにとってもいい運動になったようだ。

小さい子どもも少しずつ、一歩ずつ。できなくても注意せず、笑顔で楽しもうとすることがポイント。

ワニさん歩き。大人も子どもも楽しそうに床を這う。
4〜6歳児クラスでは、もう少し難易度の高い運動が行われた。
感動的だったのは、懸垂の練習から始めた女の子が、逆上がりができるようになったこと。

「腕と脇の下に接着剤を塗ります。ペタペタ」と、逆上がりの一番のコツである、腕と胴体を離さないためのおまじないをかける仲義さん。

おまじないが効いた!? 簡単な補助で、逆上がりができた!
「懸垂とひっくり返る動きができれば、逆上がりができるようになります。
体重が30キロを超えると難しくなるので、小さいときから始めることが大事ですよ。
今日やった動きができるようになれば、跳び箱や側転もできるようになります。
親子でにこにこ遊んでいれば、できるようになるんです。
運動が脳の発達を促すというと、スポーツを強制しようとする親御さんがいるんですけれど、
大事なのは子どもが進んで遊ぶことです。
大人の役割はスポーツクラブに強制的に行かせるということではなく、
まずは一緒に遊んであげること。
豊岡では、そんな『運動遊び』を推進しています」

ワークショップの最中には、ぐずりだした子もいた。
でもその子は、最後までお父さんの膝に座って、みんなが遊んでいる様子を見ていて、
仲義さんにポンと頭を撫でられ帰っていった。
仲義さんはそういう子がいても、決してガミガミいわない雰囲気を大事にしているという。
「最初は消極的だった子も、続けていくうちに化けますよ。
そういう子がいかに『やってやろう』となれるか。
そういう機会をつくれるのが、運動遊びのいいところ。
幼稚園・保育園・こども園で行う運動遊びの時間だけではなく、
家に帰ってからも大事です」

こんなアクロバティックな動きも……!
豊岡では、現在37の幼稚園、保育園、認定こども園で、この運動遊びを取り入れている。
また、0〜15歳を一元的にとらえる施策も進められており、
幼稚園の子たちと小学生が一緒に遊ぶ試みなどが行われている。
昨年の秋から約半年間、飛騨地域で〈未来の地域編集部 準備室〉が立ち上がった。
これからは地域自らが発信すべく編集部の立ち上げを目指し、
コロカル編集部がお手伝い。
その一環として「編集・ライターワークショップ」が開催された。
そのなかで参加者が実際に取材して書き上げた記事を公開する。
地域に暮らしているからこそ書ける取材内容は、
地域発信における「未来の姿」だといえる。
のんびりとした暮らしや子育て環境に憧れて、
田舎への移住が気になる方も多いのではないでしょうか。
移住先での暮らしについて、よくある大人の感想はさておいて、
あまり表に出てこない、子どもの目からの体験談を聞いてみました。
インタビューの相手は、飛騨古川に住む
森本時蔵(ときぞう)くん(9歳・小学3年生)と
多良(たら)くん(8歳・小学2年生)の兄弟。
そしてお母さんのおりえさんです。
飛騨生活は4年目。
兵庫県西宮市からそれぞれが6歳と5歳のときに引っ越してきて、
近所の保育園に編入しました。現在は、小学校に通っています。
ーーどうして飛騨に引っ越して来たの?
時蔵(以下「兄」): 知らない。とーちゃんとちゃーちゃんが行くって言うから。
多良(以下「弟」): 気がついたら飛騨にいた。
おりえ(以下「母」): 我が家も例に漏れず、飛騨の豊かな自然と文化に惹かれて
移り住んで来ました。ただそれまで、主人以外は誰も飛騨に来たことがなく、
私自身も知らない国を旅するような新鮮な気持ちでした。
長男の小学校入学に間に合わせるタイミングを選びました。
ーー冬は雪が積もるけど大丈夫?
兄: 毎朝、雪かきしてから学校に行く。タラは寝ぼすけでやらないけど。
屋根に雪が積もりすぎると、家がゆがんで戸が開かなくなる。
弟: 学校にもスキーウェア着てブーツ履いて行く。
校庭には除雪した雪で大きな滑り台ができるし、
体育の授業は近所のスキー場に行くよ。
母: 移住初日には、子どもたちは雪でカマクラをつくったり大はしゃぎでしたが、
数日すると道の雪かきや屋根の雪下ろしなどの大変さがわかり、喜ばなくなりました。
「雪またじ」は人手がかかるので、ふたりはすでに我が家の大事な戦力です。
雪またじとは雪かきのこと。飛騨方言で片づけの事をまたじ、
あと片づけをあとまたじ、 雪かきを雪またじ、といいます。

転入届けを出しに行った2013年1月。その月は森本家の分だけ人口減少が緩やかになったはず。
ーーふたりが通う小学校のことを教えて。
弟: 家から歩いて5分。1クラス25人で、2年生は3クラス。
兄: 3年生も同じ。遠い子はバスで通ってる。飛騨市で一番大きな小学校やで。
母: 偏見ですが、もっと生徒数の少ない木造校舎の学校に
通わせるのではないかと思っていたので、
都会と変わらないサイズで少々拍子抜けしました。
ただやはり、同じ飛騨市でも、山之村の小学校では全校生徒が6人です。

ふたりが通う小学校。約10年前に改築された近代的な建物。
ーー遠足や社会見学はどこに行った?
兄: 黒内果樹園や安国寺とか。
果樹園で教えてもらったからリンゴの種類に詳しくなったよ。
弟: 高山バスセンターとかスーパー駿河屋とか。
同じクラスの友だちのお父さんが働いてた。
母: 時蔵が行った安国寺の経蔵は国宝、隣町の高山は人気の観光地ですし、
すばらしい目的地が近所にたくさんあって飛騨は文化的教育も恵まれています。

毎年9月下旬の運動会。稲刈りと重ならないように、また冬が早いので運動会も少し早め。
ーーほかに都会の学校と違うことある?
弟: 〈古川祭〉の日は、学校が休みになるで。
兄: 運動会のとき、椅子はお酒のケースやし、
天神様(応援歌)は友だちのじいちゃんのときから歌ってるって言ってた。
母: 4月19、20日の古川祭では、子どもたちも囃子や歌舞伎などで活躍、
1か月ほど前から毎晩、公民館に集まって練習します。
大人や中高生に混ざって励み楽しむ様は、
学校とはまた別の世界で、子どもたちを大きくしてくれます。

初めての飛騨での冬に時蔵がつくったカルタ。よっぽど寒かったんだね。
肩に猟銃を下げた安田佳弘さんが、
雪が残る山の中を庭のように慣れた足取りで歩いていく。
「ここは動物がよく通るので、自然と道ができているんです」

安田さんがいつも猟をしている、自宅のすぐ裏の山の入り口へ。かつてこの辺りは、田んぼがあった。

比較的新しいシカの糞を発見。
三重県いなべ市北勢町新町の鈴原という森の中に、ひっそりとある集落。
寒桃の里といわれるこの地には、11月下旬から12月にかけて成熟する珍しい桃の樹があり、
春になるとまるで桃源郷のような美しさだという。
安田さんは、奥さんの真紀さんと5歳になる凪くんとともにここで暮らしながら、
自分たちで建てた〈MY HOUSE〉という山小屋で、雑貨と喫茶のお店を営んでいる。

MY HOUSEの入り口。
「出身は大阪市。土を踏まずに過ごしたような町っ子です。
だけど自然が好きで、図鑑を模写しているような子どもだったらしいです」
大阪芸術大学に進学して、自然環境の再生と保存について
芸術方面からアプローチするユニークな学科を専攻。一方で探検部に所属して、
海外や無人島へ好奇心の赴くままに出かけていく。猟に触れたのはそのときだ。
「自然好きというバックボーンがありつつ、大学で学んだことと探検部での活動が、
今の暮らしにつながっているのだと思います」

安田さんとともに山を歩く。家の裏山の一部は、次の世代のためにとこの土地の先人たちが植林したスギやヒノキが。

庭先に干してあった、シカの毛皮。
いなべ市に移住したのは、大学の研究生だったとき。
自然やアウトドアに携わる仕事がしたいと考えていた安田さんは、オープンして間もなかった、
〈青川峡キャンピングパーク〉というオートキャンプ場の住み込み職員になる。
「空き家を探しても、当時はなかなか見つからなくて。
それで僕は古い技術や知恵が好きだったこともあって、
老人会に顔を出しまくり、猟に連れて行ってもらったり、ワラを編んだりなど、
いろんなことを教えてもらいました。
おじいさん、おばあさんを下の名前で呼んで、
なるべく方言を使うように心がけていたら、
5年くらい経った頃から急に空き家情報が溢れんばかりに出てきて、
あるじゃんと思って(笑)」

山を歩くと、動物の気配とともに昔の暮らしの痕跡が残っていることを安田さんが教えてくれた。ここは、江戸時代に獣害防止のため土手をつくった〈猪鹿垣(ししがき)〉の跡。ほかにも山水を水田用水にひくために整備された〈まんぼ〉という石積みの水路跡もあった。
連れてきてもらった瞬間、「このロケーションはやばい」と思ったという、
傾斜の上に立つその家は、自給自足的生活をしたいと思っていた安田さんにとって、
周辺の自然も含めて理想的な環境だった。家が決まってすぐに、
大阪で暮らしていた真紀さんと結婚。鈴原での暮らしも、8年目になる。

写真好きだった大家さんのお兄さんが自費出版した写真集。安田さんたちが暮らしている家の往時の姿が残されている。
「若い子たちが住み始めて、何か変なことをやっているって、
近所のおじいさん、おばあさんが毎日めっちゃ来るんですよ。
坂の下に住んでいる84歳の大家さんなんか、夏場は1日10回くらい来ます(笑)。
働いていた僕と違って奥さんは、人とのつながりがまったくなかったから、
最初は苦労したみたいだけど」

今では親戚以上の付き合いをしている、大家さんと。
真紀さんは、
「大家さんとその同級生の家で、10時と3時にお茶をしているんですけど、
そこにときどき行くくらいでした。畑仕事などやることはいろいろあったので、
暮らし自体にはすんなり入ることができたのですが、
同世代との付き合いがほとんどだった大阪とは真逆の生活だったので、
月1回くらいは帰って友だちと遊んでいましたね」

奥さまの真紀さん。かぶっているチャーミングな帽子も真紀さんのお手製。
MY HOUSEで雑貨を販売するようになったのは、6年前から。
芸大出身のふたりだけに、置いているものはほとんどが手づくり。
木や竹、毛皮、動物の骨、石など、家の周りで見つけた“地球の落とし物”を利用して、
アクセサリーや雑貨などをつくっている。2年ほど前から、同じ場所でカフェも始めた。

シカの角でつくった人形〈角偶(つのぐう)〉。説明書きによると、財布にしのばせたり、人に自慢したり、恋の相談をもちかけたり、取り扱い方はいろいろ。


山で拾った木の実も、立派な商品に。都会のデスクに置いておきたくなるような素朴さがいい。
「雑貨だけだと来にくいと思ったので、もうちょっと気軽に来て、
お茶の時間を楽しんで、散策できるような場所にしたかったんです」と真紀さん。
例年より少し早く、北海道にも春の気配がやってきた。
雪が解けた地面から、ふきのとうがちょこんと
顔を出しているのを見かけるようになった。
来月には息子もいよいよ小学1年生。
いま、4月からの生活について具体的に考える時期にさしかかっている。
春に岩見沢の中山間地・美流渡へ移住するにあたり、息子は在校生8人の小学校に通う。
学校のことについては以前にも書いたが、
入学にあたって私の頭を悩ませている問題があった。
美流渡地区の人口は400人。
子どもの数も少ないため、小学校から歩いて行ける距離のところに、
児童館など放課後に子どもを預かってもらえる施設がない。
これまで息子は幼稚園の制度を利用して、夕方まで預かってもらっていたが、
これから帰ってくる時間は早まることになる。
特に4月は午前中で終わる週もあることを考えると、
このままでは午後は仕事ができなくなる予感……。
私の本業は編集者。自宅で原稿を書いたり編集をしたりしているので、
ある程度は時間の融通がきくのだが、締め切りが重なる時期などは、
いくら時間があっても足りないような状態になってしまう。
さて、どうしようかと考えていたところ、
同じような悩みを抱えている人たちがいることを知った。
また、地域おこし推進員(協力隊)の吉崎祐季さんや上井雄太さんによれば、
美流渡で子どもを預けることができる場がほしいという声は、
ずっと以前からあったという。
ならば、困っているお父さんお母さんと何か行動を起こすことができるんじゃないか、
そんなふうに思い、話し合いの場を設けてみることにした。

雪のあいだから顔を出すふきのとう。ようやく北海道に春が来た!
2月に一度開いた話し合いには、わが家を含め、
今年、美流渡小学校の1年生になる親子が3組と3年生になる親子のほか、
地域の保育園に通う親子や保育士の女性などが集まった。
また、私が誘ったのが、これまで岩見沢市街地で活動を続けてきた
プレーパークを主宰するふたり。
プレーパークとは「ケガと弁当は自分持ち」を合い言葉に、
子どもが自発的に遊ぶ場のことで、これまでの経験から、
何かヒントをもらえるんじゃないかと思い参加をお願いした。

話し合いには子どもたちも参加。何人か集まると大騒ぎ!
それぞれの家の事情をまず聞いてみると、
私と同じく仕事を持ち、放課後の子どもの預け場所があったらと
考えているお母さんがいることがわかってきた。
また、17、18年前に美流渡に移住したという地域の保育士さんからは、
自身の子どもが小学生だったころ、学童保育をできる場をつくれないかと
活動したこともあったというが、実現には至らなかったそうだ。
つねに、この地域では放課後子どもを預かる場所が必要という話は
持ち上がっているようだが、組織だった動きにはならず、
親戚や近所の人を頼ったりしながら、そのときそのときで
なんとかやりくりをしていたというのが現状らしい。
私としては、まずは自分たちのできる範囲で、
小さな一歩を踏み出せたらという想いがあった。
ゆくゆくは行政などの力を借りることも必要だろうが、
手を差し伸べてくれるのを待っているだけでは、何も事は動かない。
例えば、困っている親子が数名集まって、自分のできる範囲で
ローテーションが組めれば、小さな預け合いの場をつくることができるんじゃないか。
そんな提案をしてみたところ、うれしいことに
3人のお母さんの賛同を得ることができたのだった。

この春、1年生になる息子と友だち。学校に入る前から、すでに仲良し。
ただ、同時に不安の声もいくつかあった。
一番大きい心配は、もし子どもがケガや事故にあってしまったらというもの。
その責任の重さを考えると、預け合いをしたくても躊躇してしまうという意見だ。
これは、私も立ち上げに関わった岩見沢のプレーパーク活動でも
議論の的になった問題だ。
このときはプレーパーク開催時に救急箱をつねに携帯すること、
また子どもが自らの責任で遊ぶ場であることを、
参加者みんなに周知していくなどの意見が出された。

岩見沢のプレーパークでの様子。木登りやロープ遊びは定番。

泥んこもOK。何をやっても基本子どもの自由。大人は細かいことに口出しせずに、温かく見守るのがプレーパークの精神。
今回話し合いに参加してくれた、プレーパークの代表・林睦子さんの体験談を聞くと、
2014年に活動をスタートして以来、ヒヤッとした出来事は2回。
子どもが木登り中に足を滑らせて落ちてしまったこと。
足をくじいて病院に行った子どもがいたこと。
しかし、いずれも大事にはいたらなかったという。
100パーセント安全ということは、なかなか難しいが、
プレーパークのように「ケガや事故はお互い様」の精神を持って、
それに共感してくれる人たちと会をつくっていこうということで話はまとまった。

3月で開催50回を迎えた岩見沢プレーパーク。今春から新しいポスターを制作。ちなみにデザインを私が担当。
飛騨市の畦畑地区に移住し薬草の文化を広めている塚本夫妻、
そして下呂市の馬瀬地区に移住し
「里山ミュージアム」ガイドとして活動する吉永夫妻に、
飛騨でのコミュニティについて聞いた。
塚本浩煇さん・東亜子さん夫妻は18年ほど前に
飛騨市古川町の畦畑(うねはた)地区に移住してきた。
そもそも浩煇さんの母親が陶芸を趣味にしており、この地に移住していた。
横浜に住んでいた浩煇さんたちは、母親のもとに遊びに来たときに、
現在の家を見て気に入り、購入することになった。
「買った当時は、徐々に直しながら、別荘のような感覚でした」
しかし何度も訪れているうちに「飛騨のほうがいい」と移住することになる。
「まさか住むことになるなんて」という東亜子さん。

塚本浩煇さんと東亜子さん。
横浜と飛騨を行き来していた期間は約3年間。
その間に、飛騨の人たちとも少しずつ顔見知りになっていく。
そのおかげで、移住時も違和感なく地域に入れたようだ。
助走期間というのは、移住にとって案外いいのかもしれない。

かなり雪深いエリアで、家の前もこの積雪。
「私はバブル時代を経験したから(笑)、野菜の旬も知らないような都会人でした。
だからここへ来たら、まちではできない、都会の人が羨ましがるようなことを
しなくちゃいけないと思っていたんですね」と東亜子さんはいう。
自然の中で暮らしていることで、「四季」というものを強く感じるようになる。
周りは農家が多く、本来、野菜は採れる季節が決まっていることを知る。

リースづくりをしてみたが東亜子さんいわく「すぐ飽きちゃったのよね(笑)」
「あるとき、食べられそうなトマトがたくさん捨ててあったんですよ。
それを見て、“欲しければあげるよ”と農家に言われて。
3ケースも4ケースももらったので、
それでトマトソースやホールトマトをつくったりしていました」
農家は規格外のトマトを捨ててしまう。
利用価値のないものであり、何かに加工しようなんて思わなかったようだ。
しかし「何かやりたい」東亜子さんにとってもらえるトマトは宝の山。
そのうち周りの人もつくり始め、地域の婦人会で一緒につくって売るようになる。
「捨てるようなものとか、その辺にあるもので、
いろいろなものがつくれちゃうことがわかったんです。
スカンポもそう。このあたりでは“イッタンダラケ”ともいいます」
スカンポ(イタドリ)とは、竹に似た見た目で、食用や薬草としても使える植物だ。

商品化された「スカンポジャム」。砂糖とブランデーで煮詰める。
東亜子さんは、以前にルバーブを育てて、ジャムにしたことがあった。
その酸味が野生のスカンポに似ていると感じた。
試しにスカンポでジャムをつくってみると予想通り。
すごくおいしいジャムができた。ルバーブとスカンポのジャムは、
古川のまちにある〈壱之町珈琲店〉で商品化することもできた。
飛騨の山奥に住みながら、そこにあるもので楽しく生活することができているようだ。

月に2〜3回訪れては長居しているという〈壱之町珈琲店〉。店主の森本純子さんとのトークに花が咲く。
飛騨の山には薬草がたくさんあるという。
あるとき、薬草の権威である村上光太郎先生が、薬草を調べに飛騨にやってきた。
そのときの拠点として塚本邸に寝泊まりすることになったのだ。
当然その間に、村上先生から薬草のことを初めて学ぶことになる。
それ以来、塚本夫婦は薬草にはまっていった。
浩煇さんが山に入り、薬草を摘んでくる。それをふたりで処理していく。
クズの花、烏梅(うばい)、ドクダミ、キハダ、メナモミ、野ブドウなどは
毎年手がけているものだ。

キハダを見せてくれた。8月20日頃じゃないと、この皮はうまく剥けないという。
烏梅は痛み止めになる。毎年5月に40度をキープしながら
煙で青梅を燻し続け、全工程で1週間以上かかる。これを煎じて飲む。
クズは、花びらだけを丁寧に分けて、乾燥させて粉にする。
その後ハチミツを使って丸薬にする。
肝臓にいいので、塚本家でお酒を飲むときは、まずこちらが供されるらしい。
野ブドウは焼酎につけて、蚊に刺されたら塗るかゆみ止め用。
コブシのつぼみを焼酎につけたものはボケ防止にいいという。
その代わり、雪山を分け入って採ってこなくてはならない。
「こういうことをやっていると1年が楽しいですね」

梅を燻してつくった烏梅。

クズの花を粉にし、丸薬に。肝臓にいい。
ほかにもたくさんの薬草を加工している。しかしこれらは販売用ではない。
「自分たちのためなので、実際に使ってみていいと思ったものしかつくりません。
自分で飲んだり、人にあげたり」と浩煇さん。
「良かったものは材料やつくり方の知識などをみんなと共有しています」
と言う東亜子さんは、女性の薬草の会である
〈山水女(さんすいめ)〉というグループに入っている。
おもなメンバーは古川の農家たちだ。
みんなで薬草を使った料理を研究したり、ケーキをつくったり。
「せっかく山に囲まれた地域に住んでいるので、
暮らしのなかに薬草を取り入れる生活を自然体で楽しめればと思っています。
そういった暮らしを、みんなで一緒に楽しめればなと」

ナツメ、山ブドウ、マタタビ、コブシなどをお酒に漬けている。
〈薬草で飛騨を元気にする会〉というNPO法人も発足している。
〈山水女〉としても、薬草を広める活動ならばと協力を惜しまない。
飛騨市で薬草事業に力を入れていくほどに、
「学びたい人がいて、そこで人とつながる」と薬草を介するコミュニティは
どんどん広がっていくようだ。
■『グッとくる飛騨』では、こちらのインタビューも↓
琵琶湖の北西に位置する、滋賀県高島市をご存じだろうか。
市が行った調査によると、822名の回答のうち、東京での認知度はわずか5%余り。
隣の京都でさえ、6割ほどの人しか知らなかった。
この数字は少々極端かもしれないが、土地の魅力に反して認知度が低いのは否めない。
そこで外の人にもその魅力を知ってもらおうと、ひとりの男性が立ち上がった。
といってもその人自身は、もともと高島に縁もゆかりもなかったのだが。

比良山地や野坂山地など、森林が広がる自然豊かなまち。棚田も美しい。撮影:三上紀顕

琵琶湖のなかに大鳥居が立つ高島市鵜川の白鬚神社は、近江最古の神社と言われている。今も昔も琵琶湖は高島に多大な恩恵をもたらしている。写真提供:平井さん
平井俊旭さんが、スープ専門店チェーン〈Soup Stock Tokyo〉を運営する
株式会社〈スマイルズ〉に、デザイナーとして加わったのは2001年のこと。
ブランドのグラフィックや店舗テザイン、食器類のプロダクトなどに携わっていたが、
2008年、同ブランドが事故米の不正転売事件に巻き込まれてしまう。
「とある問屋が食用ではないもち米を食用と偽って、
Soup Stock Tokyoがスープの製造委託をしている工場などに転売していたのです。
原料がどこから来ているのか、会社としてきちんと追うことの重要性を痛感しました」
同じ頃、店舗の内装などに使う木材も
海外から違法に流入しているものが含まれている可能性を知り、
国産の木材を積極的に使うように。
食材と木材、このふたつに着目して北海道から沖縄まで
いろんな地域を見て回ると、ある共通点が浮かび上がってきた。
それはディレクションをする人が不足しているという事実だった。
「いろんな魅力があるのに、
それらをうまく表に出すことのできていない地域が、圧倒的に多い印象を受けました。
スマイルズの場合、社長の遠山正道が
Soup Stock Tokyoを企画する段階でブランドイメージを明確にしていたので、
自分のようなデザイナーがインハウスでやっていました。
地方も理屈は同じはずなのですが、それ自体が何らかの利益を生まない仕事は、
なかなか価値が認められにくい。
だけど誰にどうやって売るのかを考えないと、仕事も生まれないし、
人も地域に入ってこない。都市に集中せず、人がもっと分散して、
それぞれの地域のよさを生かせたらいいのにと思ったんです」
地域が抱える問題を感じ始めたとき、たまたま高島市にも縁ができた。
「国産の木材を使うようになったのは、
三重県紀北町の〈速水林業〉との出会いがきっかけです。
速水 亨代表が主宰している林業塾に毎年参加させていただくようになり、
岡山県の〈西粟倉・森の学校〉(当時)の代表である牧大介さんと知り合いました。
牧さんは高島で林業6次産業化のコンサルティングをしていた時期があったのですが、
彼がやるくらいならおもしろい場所に違いないと。
自分がもし地域で何かやるなら、都市にある程度近いところがいいと思っていました。
おもしろそうだからちょっと行ってみようかな、
と都市から気軽に足を運べる範囲がよかったというか。
その点、高島は京都から車で1時間足らずでアクセスできる。
しかも立地的なメリットがあるわりには、
よさを発信しきれていない印象を受けたんです」
長く勤めた会社での立ち位置や、自分がやれることについても、客観的に考えていた。
「自分が入った創業間もない頃、
Soup Stock Tokyoは事業として行き詰まっていて、
いつなくなってもおかしくないような状況でしたが、
逆にいろんな可能性を感じられて、商売としては厳しかったのですが、
新しいブランドをつくるという仕事として実は一番おもしろかったりもしました。
地域が置かれている状況もそれに近くて、
もしかしたらこのまま人口が減少して立ち行かなくなってしまうかもしれないけども、
誰かが動かなければいけない。
自分が民間企業でやってきた経験を地域で生かしてみたい、と思ったんですよね」
2014年のゴールデンウィークに日帰りで初めて高島を訪れ、
7月に再訪したときは1泊して、周辺の地域も見て回った。
そのうえで問題点を洗い出し、
「別に求められてもいないのに、牧さんに高島市の職員だった清水安治さんを
ご紹介いただきに勝手に企画を提案した」のが、10月のこと。
「12月には〈雨上(あめあがる)株式會社〉を登記し、
年が明けて4月に高島に引っ越してきました。
提案はしたものの具体的な仕事は、何ひとつ決まっていなかったんですけどね」

オフィスにて。平井俊旭さん。
移住後、コンペを経て平井さんに課せられたミッションは、主にふたつ。
高島の交流人口と定住人口を増やすことと、高島の農業を活性化させることだ。
「高島をもっと知ってもらうために、
まずは市民の人が高島を自慢できるようになることが重要だと考えました」
平井さんがお手本にしたのは、博報堂の「属ブランディング」という考え方。
「ブランドはそれをつくりたいと思う人の志が先にあって、
そこにデザインや仕組みができて、ファンがついてくるものです。
Soup Stock Tokyoをつくっていくなかで経験があったからわかるのですが、
窮地に陥ったとき、
自分たちはいいものをつくっているのだという揺るぎない信念がないと、
途端にうまくいかなくなるんですよね。
人から言われたからやっているというスタンスだと、
やめる選択肢があっさり出てきてしまう。
ブランドは一朝一夕でできるものではないので、
市民が本当に高島をいいと思ってブランド化しない限り、
自分みたいに外から来た人間がロゴや仕組みだけをつくったところで、
うまく機能しないと思うんです」
そして市民が自分たちの地域を知ることを目的に、
平井さんが立ち上げたのが「高島の食と人 –3つの◯◯−」というウェブサイト。
ここでは高島で食材がつくられて食べられるまでの一連の流れを、
3章立てのストーリーで紹介している。
2016年1月から秋冬編と春夏編として計36話を掲載して、
3月に一旦終了するのだが、ずらりと並んだストーリーからは、
高島の多彩な食材と、それらをさまざまなかたちで提供したり、
味わったりする人たちの豊かさが伝わってくる。


山羊のチーズの商品化を目指す中嶋さんの紹介記事。撮影:古田絵莉子
「テーマは僕が選んでいるのですが、
カメラマンもライターも地元の人たちにやっていただいています。
そうすると取材した側もされた側も、自分ごととしてとらえてくれるんですよね。
地元の人は地元のことを意外と知らなくて、
外から来た自分が人や情報をジョイントさせることで、
直接やり取りをするようになったケースもあります」
ブナ、カエデ、ホオ、山桜などさまざまな木の木目や色を生かした、薄手のプレートやボウル。
しかも、シンプルなオイル仕上げなので、その美しさがより際立つ。
藤原 隼(じゅん)さんが旋盤を使ってつくるこれらの木の器は、
ウレタンのコーティングと異なり、使うほどに味わいが出てくるという。
でも何より目を引くのが、そのゆがんだフォルムだ。

生木は「動き」があるので、使うタイミングが重要だ。
このフォルムは、材料の「生木」がつくりだしている。
藤原さんは、切って間もない生木を手に入れ、乾燥させずにそのまま使うので、
つくっている途中に水分が抜けてかたちが変わっていく。
できあがるのは、「世界にひとつだけの器」だ。
「木工作家の須田二郎さんが生木でつくる器をインターネットで見つけて、
こんな器をつくってみたいと始めたんです。
木の器づくりを始めて半年くらい経った頃だと思います。
須田さんについては、作品はもちろん考え方も好き。
ブログを何年も前にさかのぼって読んでいるくらいです」


ほぼ毎日8時から20時頃まで作業する。忙しい時には、2~3日間そのまま工房に泊まることも。
神奈川県で農業と山仕事をしていた須田氏は、獣害で農業を辞めたあと、
木工旋盤を買って独学で器づくりを始めた人だ。
山仕事をしていただけに、森林保護の観点から、切り出した障害木を主に使う。
生木のまま使うので、木がゆがむことをある程度計算しながらつくり、
動きが止まった時点で不安定な部分だけを修正する、というやり方だそう。

西和賀に工房を構えてから町内外の人と知り合う機会が増えた、と喜ぶ。
2011年に、自宅のある紫波町で本を見ながら
手彫りの木の器をつくり始めた藤原さんだったが、須田氏の作品や考え方に出会い、
さっそく木工旋盤を購入。
同町にある岩手県森林組合から、材木として売れない生木を仕入れて器をつくり始めた。
最初に手に入れたのはケヤキ。
それで、ボウルをつくったという。
「薪やキノコのほだ木にしかならないような木が器になる、というのがいいと思うんです。
仕入れた木はできるだけムダにしないよう、木取りなどにも気を遣っています」
それでも、つくっているうちに節や虫くいの跡が出てくることもある。
そこでそうした器は、自ら企画した無償レンタルシステム〈うつわbank〉で利用する。
できるだけ有効に利用したいという、木への深い愛情がうかがえる。

もうひとつ、藤原さんのこだわりが、オイル仕上げだ。これも、須田氏ゆずりである。
木製の器は、実用性を考えてウレタンでコーティングされることが多いが、
藤原さんは「手間ひまかけて化学物質を塗る必然性がない」と言い切る。
汚れの付着やカビの発生が気になるが、
「使ったらすぐに洗う、長時間水に浸したり濡らしたまま放置しないなど、
少しだけ気を遣って使ってもらえれば問題ない」そうだ。
逆に、コーティングされていないから盛り付けた料理の油が自然に染みこんで、
使いこむうちにいい味になる。
もし表面がカサカサになってきたら、サラダ油やオリーブ油を塗ればいいとのこと。
そうやって「器を育てる」楽しみもあるということなのだろう。

藤原さんの工房。

「仕入れた木を見ながら、『これを何にしようかなあ』と考えている時間が一番楽しい」と話す藤原さん。
3月、まだまだ寒い日が続きますが、それでもやっぱり陽射しや空気、
草たちが春を感じさせてくれます。
長ーい冬休みを経て、2月末からカフェも営業再開。
ゆったりと過ごしていた1、2月が嘘だったかのように、
いろんなことが一気に動き出して、ちょっとあたふたしています。
あー、春が来る!
毎年こんな感じで冬から春に季節が変わっていきます。

2か月間冬休みだったカフェも営業再開。

いつもの島の方々が訪れてくれます。うれしいなぁ。
小豆島での暮らしも5年目になるのですが、
ようやく私たちの1年のリズムができあがってきました。
1、2月はいろんなもののメンテナンス期間。
暮らす環境のメンテナンス、働く環境のメンテナンス、自分たちの体のメンテナンス。
カフェもお休みして、いつもよりはスローペースというか、
いろんなものに振りまわされずに自分たちのペースで時間を過ごします。
そして3月、カフェ営業再開、春夏野菜の準備と急に忙しくなります。
さらに、毎年5月に行われる「肥土山農村歌舞伎」の準備もこの頃から本格的に始まり、
平日の夜は演目の練習、週末はリハーサルなど、頭の中も半分くらいは常に歌舞伎。
そんななか、4月は生姜の植付け。
友人たちにも手伝いに来てもらって何百キロもの種生姜を植えます。
肥土山農村歌舞伎が終わり、ちょっとホッとしたら、
もう秋までは一気に毎日が過ぎていきます。
畑では草刈り、水やり、収穫を繰り返し、金土曜日はカフェ。
汗かいて働いて、ビール飲んで寝て、そんな日々。
暑さが落ち着き、10月には「秋の太鼓まつり」。
10月頭から中旬にかけては島全体がお祭りモードになります。
それが終わると、私たちは生姜の大収穫祭!
私たちふたりではやりきれない作業なので、
もうお祭りみたいにして、みんなに収穫してもらいます。
掘って、洗って、ジンジャーシロップにするために加工します。
それが11月から12月にかけて続いていきます。
1年で一番人の出入りが多い賑やかな時期かも。
生姜の作業が終わって年末最後の大仕事が玉ねぎの植付け。
夏から育ててきた1万本以上の苗を一気に植えます。
これが終わってようやくお正月休み。心底ほっとします(笑)。
これが私たちのいまの1年のリズム。
自分たちの暮らしをつくる、仕事をつくるっていうのは、
このリズムをつくっていくことなのかなとふと思う。
人によってそれはさまざまで、毎年リズムが違う人もいるだろうし、
ひとつの周期が1年じゃない人もいるんじゃないかな。
農業をしている私たちにとっては「季節」というのが絶対的な周期で、
それにあわせて自分たちがどう歌おうか、そんな感じ。

3月限定、白菜のナバナ。

さっと茹でただけ。これに好みのドレッシングをかけていただきます〜。
この春移住する岩見沢の美流渡(みると)をはじめとする
中山間地をピーアルするために、4月11日から札幌で展示を計画している。
これは〈Go North〉というイベントの一環として行われるもので、
私たちとともに、東京、札幌、福岡で活動をする作家が参加し、
札幌市資料館の展示ギャラリーで、それぞれの手しごとの品が販売される。
企画の中心となったアクセサリーデザイナーの岩切エミさんが、
昨年、美流渡でワークショップを開催したことがきっかけとなり、
この企画に私たちも参加することとなったのだ。
このイベントに合わせて考えた、私たちが行う展示のタイトルは〈みる・とーぶ〉。
岩見沢の中山間地は、東部丘陵地域と呼ばれており、
この地域をもっと見てもらいたいという想いからそう名づけ、
昨年より地域のみんなと準備を進めている。

イベントのDM。ブランド〈E・I〉でアクセサリーを制作する岩切エミさん、福岡を拠点に活動するキルト作家のこうの早苗さん、札幌のフェルト作家Chicoさんとともに、私たち〈みる・とーぶ〉チームも参加。
この連載で、進行状況について何度か書いてきたが、
いよいよ開催まであと1か月となってしまった。
準備の進み具合いを考えると、かなりまずい……。黄色信号点滅状態になっている。
私がやらなければならないのは大きくふたつ。
地域の人々の顔を掲載した地図づくりと
昨年買った山をテーマにした本の制作だ。
地図は、この地域を知ってもらうための最重要ツール。
現在、岩見沢の地域おこし推進員(協力隊)のふたりが、
地元を足でまわってひとりひとりのポートレートを写真に収めているところ。
それを私が似顔絵にして地図に落とし込んでいるのだが、
これはかなり地道な作業!(終わらない……)
さらに、山をテーマにした本については、
いまだにまったく手がつけられていない状態!!(ああ、どうしよう……)
私自身はこんな状態なのだが、このイベントを一緒に運営しているメンバーは
心強い面々で、全体の準備はかなり進んでいることが、本当にありがたい。
まず、ロゴのデザインが完成し、HPができあがった!

ロゴを制作したのは〈ea〉。私が長年仕事をともにしてきたデザイン事務所で、この地域をイメージするモチーフを散りばめたデザインとなった。
また、展示物で一番のメインとなるのはリンゴのポーチ。
東部丘陵地域の特産のひとつであるリンゴをかたどったポーチの中に、
地域の地図を入れ、それを会場のあらゆる場所につり下げて
空間をつくっていこうと考えている。
岩切エミさんのデザインをもとに、地元のみんなで縫い上げたもので、60個ほど完成!
布と糸、リボンの組み合わせはひとつとして同じものはなく、
気に入ったものを来場者が選んで持って帰ってくれたらと考えている。

東部丘陵地域には果樹園が多いことから、リンゴがモチーフになった。

果樹園を営むメンバーが「リンゴの葉っぱも飾りたい!」と、葉っぱ型のアクリルたわしをつくってくれた。こんなアイデアの広がりも楽しい。

このほかリンゴのお手玉も制作中で、リンゴモチーフのものが会場をにぎわす予定。
兵庫県豊岡市。日本海に面した兵庫県の北部にあるまちです。
大都市のような大きさや競争はないけれど、
コウノトリの野生復帰を行っていることや、独自の教育法を実施していること、
日本一のカバン産業をさらに成長させるために学校をつくったことなど、
このまちにしかない資産を生かし、また新たな価値を創造しています。
そんな豊岡市では、〈飛んでるローカル豊岡〉というスローガンのもとで、
移住定住事業を行っています。
2016年9月には、移住定住のポータルサイト〈飛んでるローカル豊岡〉がオープン。
一般のポータルサイトの記事のつくり方は、
編集やライターがネタを探し、ライターが取材しに行き、カメラマンが写真を撮り、
それを編集がまとめるというフローですが、
この〈飛んでるローカル豊岡〉は少し違います。
先輩移住者を中心とした市民が、自分でネタを探し、自分で執筆し、自分で写真を撮る。
編集はそれを監修したりアドバイスするという分担なのです。
移住メディアの雛形編集部とコロカル編集部がその編集役を担っています。
だから〈飛んでるローカル豊岡〉の記事は、市民だからこそ知っていることや、
地域と暮らしに根ざしたネタがたっぷり。
豊岡市民にとっては日常の話なのですが、驚きに満ちた情報を提供してくれます。
そこで、今回は〈飛んでるローカル豊岡〉で執筆をしているふたりの方に、
〈飛んでるローカル豊岡〉の市民ライターについて、どう感じているかを聞いてみました。


〈飛んでるローカル豊岡〉編集会議の様子。
京都府北部地域の福知山市、舞鶴市、綾部市、宮津市、京丹後市、伊根町、与謝野町。
これらの7市町が広域連携し、
2016年に移住・定住促進プロジェクト「たんたんターン」が始まった。
このプロジェクトをサポートしているのが、
地域社会のブランディングを支援する「ロコブラ」などを手がける博報堂、
移住定住を推進するメディア『雛形』を運営するオズマピーアール、
そしてコロカル編集部が連携した「地域エディットブランディング」チームだ。
京都府北部にはどんな魅力や暮らしのスタイル、働き方があるのか。
移住者はどんな暮らしを営んでいるのか。
半年をかけてそれを探り、新しい価値を見つける活動を自治体とともに行ってきた。
ここには、想像以上に多種多様な移住のかたちがあり、
それを受け入れる地域のふところの深さがあった。

日本海沿いにある京丹後市、伊根町、宮津市、舞鶴市。
緑豊かな田園風景が広がる与謝野町、福知山市、綾部市。
これらの7市町までは、京都市内から車で1時間30分〜2時間程度。
“いわゆる京都”のちょっと先の場所に位置している。
この地域には今もなお、なつかしい里山の景色が残り、
ゆったりとしたリズムで穏やかな時間が流れている。

伊根町には〈舟屋〉と呼ばれる民家が伊根湾に沿って建ち並び、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。舟屋は、230軒ほどがずらっと並び、その長さは5キロメートルにもわたる。

京丹後市にある八丁浜のビーチ。
海とともに暮らすまちにある壮大な景色。水がきれいで、心地よい浜風を浴びながら、
自由気ままなライフスタイルを過ごせる。
釣りはもちろん、サーフィンなどのアクティビティも充実。
また、海沿いにある公園は、夜になればきれいな星空の下、
友人たちと語らいの場としても使われることも。

棚田や民家など集落を含めた里山景観が注目される、宮津市の上世屋集落。四季折々に移ろう大自然のエネルギーを身近に感じられる。

舞鶴市の昔なつかしい日本家屋。伝統的なつくりを残しつつリノベーションで特別な空間に。
山には穏やかな空気が流れ、棚田や笹葺き屋根の家屋からは日本特有の情緒が漂う。
歴史文化も7市町に内在するキーワード。
景観、家のつくり、集落など、レトロでなつかしいまち並みが残り、
後世へと受け継がれている。
農業をしながら自給自足の生活を営む人もなかにはいて、
生きる工夫が生活の豊かさにつながっていく。
人それぞれ、十人十色の暮らし方がここにはある。

京丹後市のとれたての魚をネタにしたお寿司。ときには、みんなでお寿司づくりを楽しむパーティーが開催される。
海の幸、山の幸ともに充実し、旬の魚、野菜、果物をたらふく食べることができる。
今朝あがったばかりの魚、収穫したばかりの野菜や果物などを使った
贅沢なごちそうを常日頃から味わえる。水がきれいだからお米もおいしい。
そして、おいしいごちそうを一緒に食べる仲間に囲まれて、
楽しい団欒のひと時もこの地域の魅力のひとつ。
2015年には、京都府北部地域と京都市内をつなぐ自動車専用道路が開通された。
市内からさほど遠くなく、簡単に遊びに行けるため、住民たちの行き来も多くなっている。
なかでも、綾部市は京都市内へ通勤圏内という場所でもある。
適度にアクセスがよく、自然だけでなく伝統文化や食文化、
レジャーなど豊富な地域資源を使った楽しみもあるため、最近では観光業が発展してきている。
なにより人同士のつながりが強い京都府北部地域。
この地域のこれらの魅力に惹かれて、移住を決めた人たちがいる。
彼らがどういった経緯で移住を決心して、現在はどんな暮らしを送っているのか?
「地域エディットブランディング」チームが、7人のキーパーソンの移住スタイルを追った。
農家の冬は夏に比べたらだいぶゆったりしています。
夏は何よりも暑さと草との戦い。
すごい勢いで成長する雑草たちに負けないように刈り続け、抜き続け、
そしてトマトやピーマン、ナス、キュウリなど毎日収穫、
メンテナンスしないといけない野菜たちの世話。
雨が降らなければ、水やりも欠かせない。
それを猛烈な陽射しのもとでやらないといけない。
畑仕事以外のことはほとんど何もできずに毎日が終わっていきます。
冬は、野菜も雑草も成長スピードがゆっくりなので、そこまで追われ続けません。
ただ春に向けての準備や、収穫・販売の作業はあるので決して暇ではないのですが、
私たちは毎年1月2月はカフェ営業もお休みし、自分たちの体も含め、
働く環境、暮らす環境のメンテナンスをする期間にしています。
私たちにとってこの期間は本当に大事な時間です。

ほこりを被っていた大きな棚。拭いて塗って蘇る。

とにかく掃除。流木や引き出しなどいいなーと思ったものをどんどん集めてきてしまうので、とにかくうちはものが多い。

置き場に困っていたソファを外に置くことに。ここを畑作業の憩いの場にします(笑)。
今年の冬はどこに手を入れようか。野菜出荷場、農具や工具の収納場所、
これから民泊できるようにしようと思っている離れの建物。
それから家のリビングやデスクまわり。
直したいところは山ほどあって、たぶんこの冬中には全部できないので
できるところから。
自分たちの暮らす場所、働く場所をつくりあげていくことは、
私たちにとって何よりも楽しい時間。
自分たちが毎日過ごす拠点=HOMEを快適で楽しい場にする、
そしてそこにいろんな人たちを招き、いい時間を共に過ごす、
それこそが私たちのしたいことなんだよなーと思っています。
そのHOMEっていうのは、家という物理的な建物だけじゃなくて、
庭も畑も含まれているし、もう少し広げて、
私たちが暮らしている肥土山(ひとやま)地区、さらには小豆島も。
ただあまり広げすぎてしまって、真ん中の部分が手抜きになってしまったら
楽しくないし強くもないので、まずは自分たちの拠点をひとつずつ、つくっていきます。

イルミネーションを屋根の下にとりつけ。夜になってピカピカさせるといい雰囲気。

蔵と離れの間のスペースがだいぶスッキリしました。休みの日はいろは(娘)もお手伝い。

ストーブを直すたくちゃん(夫)の横で、宿題をするいろは。うちはいつもこんな感じ。
岩見沢の中山間地、美流渡(みると)への移住計画については、
この連載で何度も触れてきているが、今回は、
息子がこの春から入学する小学校のことを書いてみたい。
そもそも、この時期の移住を決めたのは、
息子が新1年生になるタイミングというのが大きかったし、移住計画の当初、
親戚や知人が反対する一番の理由に、息子の小学校問題があったからだ。
現在の住まいは、岩見沢駅から車で5分ほどのところで、
この学区にある小学校の児童数は約300人。
1年生は2クラスあり、人数は岩見沢市街のほかの学校と同様の規模だ。
しかし同じ市内であるものの、ここから車で30分ほどの美流渡地区にある
美流渡小学校まで行くと、在校生はたったの8名(2016年度)。
昨年入学した1年生はおらず、2・3年生と5・6年生が同じ教室で学ぶ、
複式学級となっているのだ。

美流渡小学校は、現在の児童数は少ないが、ほかの市街地の小学校と校舎の規模は変わらない。一部の壁にレンガが使われていて味わい深い。
移住を懸念していた親戚や知人は、生徒数の多い学校のほうが、
学力の面や学校行事を行ううえでも安心感を持っているようだった。
自分自身を振り返れば、1学年5〜6クラスという
第2次ベビーブーム世代であったため、わずか10人に満たない学校が
どんなところか想像が及ばず、児童数が多い学校のほうがいいのではないか?
という意見に、なんと返したらいいのか言葉につまってしまうことも多かった。
そんななか、美流渡小学校について知っていくにつれて、
少人数には少人数なりの良さもあるんじゃないかと思うようになった。

改装中の古家からの通学路。両脇の雪を崩し崩し息子は歩く。
昨年秋に、学校の様子を知りたいと、美流渡小学校に見学に行ったことがある。
複式学級の授業とは、ひとつの教室に異学年の生徒がいて、
授業時間をだいたい半分に分けながら、
先生が各学年の授業を進めていくというやり方だ。
例えば同じ学級となっていた2・3年生の教室を見ると、
前と後ろに黒板が設置されていて、先生が2年生の授業を前の黒板で行ったら、
次に後ろの黒板に移って3年生の授業を行っていた。
別の学年の授業が行われているあいだ、もう1学年の生徒は
自主的に学ぶ時間となり、生徒はプリントで問題を解いていた。
このように先生が語る時間は限られるが、このとき2・3年生はひとりずつのため、
ほぼマンツーマン。もし理解ができていない部分があったら、
個別に対応できる環境があることがわかってきた。
また、人数が少ない場合に工夫が必要な授業は体育。
全学年で行うほか、他学校との交流授業などをしながら
カリキュラムをつくっているという。
2月になってこの春新1年生となる子どもたちの体験入学が行われた。
この日、移住予定の美流渡の古家から、息子と通学路を歩いてみることにした。
今年、岩見沢は降雪量がとても少ないが、それでもこの地区には雪がたっぷり。
大人の足だと小学校までは15分ほどだが、息子は雪山で遊びながら歩くので、
倍くらいの時間がかかった。

美流渡の古家。屋根につもった雪が玄関先に落ちてきており、山になっている。除雪をしないとなかに入れない状態。

息子はたっぷりの雪に大喜び。「学校に行くよ〜」と声をかけても知らんふりで、ソリ遊びに夢中。
通学路の途中でばったり会ったのは、この地域で果樹園を営む東井さん母子と、
美流渡の駐在所に夫が勤務している曽我さん母子。
子どもたちは、わが家と同じ新1年生。
すでに息子と何度も遊んだことがある友だちで、
お互い笑い合いながら、並んで学校のほうへと駆け出した。
2017年度の1年生は、いまのところ息子を含めて4人(例年に比べると多い!)で、
そのうちの2人の両親とはすでによく知る間柄というのは、
実はわたしにとって、とても心強いことだった。
以前から、父母会などの集まりには、すぐに馴染むことができず、
初めてのママさんたちとの会話は結構苦手。
息子の幼稚園が新学期になって顔合わせの父母会があると、
ちょっと気が重いような、そんな気持ちになっていた。
ましてや小学校など新しいところに飛び込むとなると、
わたし自身も相当なプレッシャー。
だから、美流渡小学校に知り合いが多いというのは、本当にありがたいことなのだ。

通学路でばったり会った新1年生の友だち。学校の雪山に登ってさっそく遊びが始まる。
Uターンして飛騨市で〈kongcong〉を立ち上げた千原誠さんと、
白川村に移住し〈ホワイエ〉を起業した柴原孝治さんに、
飛騨での仕事のつくり方について聞いた。
飛騨市古川町にある〈kongcong(コンコン)〉は、
一見カフェと見間違えてしまいそうなクリエイティブオフィス。
雪を連想させる名前。ともに雪国・飛騨出身でUターンしてきた
千原誠さんと森瀬なつみさんのユニットだ。
クリエイティブディレクターの千原さんは、古川のまちで育ち、高校卒業後、名古屋へ。
25歳頃までは音楽活動をしていて、インディーズながらCDもリリースしていた。
音楽のイベント制作会社の人たちと一緒にイベントをつくり上げていくなかで
広告の大切さやPRすること自体に興味を持ち、広告代理店に入社。
その後は独立してフリーランスでディレクター職に就き、
百貨店のディスプレイ企画や催事のキュレーションなどを手がけるようになる。

kongcongのクリエイティブディレクター、千原誠さん。
この頃には少しずつ「地元、飛騨の魅力を外へ伝えることを、
クリエイティブの力でやりたい」と思うようになる。
また、現在の仕事のパートナーである森瀬さんも、ひと足先に飛騨に戻っており、
当時の仕事から独立しようとしていた。
いくつかのタイミングが重なり、千原さんも家族でUターンすることにした。

グラフィックデザイナーの森瀬なつみさんも、古川出身でUターンしてきた。
そして2016年5月からkongcongをスタートする。
飛騨に来て地ならしすることもなく、移住していきなり自分たちの事務所を始めた。
高校生までいたとしても、飛騨での社会人経験はない。
飛騨に自分のような職種の需要があるのか、
飛騨の人たちが何を大切にしているのかなどもわからない。
「すごく不安でしたよ。だから飛騨に帰ると決めてから、たくさんの人に会いました。
飛騨の人にも、東京の人にも、名古屋の人にも。
僕が『飛騨でこういうことをやりたい』と話すと
『それならこうしたら?』とか『こういう人がいるよ』とか、
みんなアドバイスをくれましたね。
そのなかで出会ったつながりはいまでも残っているし、
話していくうちに自分の考えもまとまって、移住後の仕事の方向性が見えてきたんです」

千原ファミリー。奥さんの清花さんも、子育てと並行してフリーランスライターとして活動している。
現在ではさまざまなイベントの企画、ブランディングなど
クリエイティブディレクターとして働いている。
職種としては名古屋時代とそう変わったわけではないが、飛騨での位置づけを考えた。
「働き方や事務所としてのコンセプトはすごく考えました。
ただでさえわかりにくい仕事なので、ちゃんと言葉にすることで、
自分たちのできることや大切にしたいと思っていることを、自分でも再認識し、
関わっていただける人たちに伝えたいと思いました」

立ち上げ当初に考えたコンセプトシートの一部。
千原さんはUターン。その強みは存分に生かしながら、
しかし自分が外から持ってきた視点も忘れないように気をつけているようだ。
「飛騨に暮らすことで、人の結びつきや思いに直に触れられるので
課題は見えやすくなると思うのですが、
その分、客観的な立ち位置でものごとを見ることが難しくなっていきます。
愛着や思いが出てしまうので……。だからバランスがすごく大切だと思っています。
クライアントさんの思いはちゃんと受け止めつつも
アウトプットするときに自分が客観的な立ち位置でどう魅力を引き出せるのか。
この仕事の一番の難しいところでもあり醍醐味でもあります」

カフェと間違える人が多いらしい。
「クライアントさんとの距離が物理的に近いので
電話しているうちにオフィスに来ちゃったり、突然やって来たりすることもありますが、
これは僕とクライアントさんの気持ちの距離感みたいなものが
ぐっと近くなったことでもあります。
意外ですが、結果として信用していただける部分も増え
ミーティングなどの時間が全体的に減りました」
直接的に会って話すことが多くなるのが地方での働き方。
だからこれまでの時間の使い方とは大きく変わるだろう。
「午前中に資料整理しようと思っていたら、年賀状のつくり方がわからないとか、
野菜を持ってきたよとか、訪問客が結構来ます。
名古屋で仕事をしていたときは基本的に、
自分ひとりであれこれ考えて働いていましたが、
飛騨に来てからは、子どもと過ごしたり、
いろんなことを妻やなっちゃん(森瀬)に相談したり共有することで、
作業の効率が格段に上がりました。
名古屋にいた頃には、考えもつかないやり方でした。
kongcongはデザイナーも妻も子どもも含めてkongcong。
飛騨に来てクリエイティブをする環境として一番大切な場所になっています」

就農を支援するパンフレットを制作。
kongcongとして、飛騨での具体的な仕事を教えてもらった。
まずは〈JAひだ〉との仕事。
JAひだはこれまで年に100回程度もワークショップやイベントを企画していたが、
もっと若い世代の人にもこの活動を知ってほしいという相談がきた。
そこで期間限定カフェイベント〈LOL -Laugh out Loud in Hida-〉を企画。
若者を呼ぶには若者を知ることからということで、
農業を料理の側面からわかりやすく伝えながら、
空間やデザイン、プロダクトなどのライフスタイルを
飛騨で活躍する人たちとともにつくることで、クライアント自身も学びながらPRした。
「実際、本当の始まりはこれからだと思っています。
たくさんの課題が見つかったことで今度はそれをどうしたらクリアできるか。
僕自身、クライアントさんも含めて一緒に向き合っているところです。
まだまだ道半ば! というのが本当のところです」

〈三寺まいり〉を斬新なかたちで提案。

幾何学的でポップなデザインのお守り。
古川では毎年1月15日に〈三寺まいり〉という300年以上続く伝統行事がある。
文字通り古川にある3つのお寺をお参りするもの。
雪で覆われたまちが、和ろうそくや雪像ろうそくで灯され、幻想的な風景になる。
これをきっかけにした、通年楽しめる仕掛けを考えたいという仕事を受けた。
そこで「きつね火レッド」「春祭りピンク」「大銀杏イエロー」「白壁モノトーン」
などの、古川のまちをイメージしたお守りを用意。
来た人はそれを購入し、お寺にあるスタンプを捺し、
願いごとを書いてお守りに入れる。この仕組みが3月から始まる。
これで年1回の三寺まいりのアピールにもなるし、通年訪れるきっかけにもなる。
「ちゃんと機能するものをつくりたいと思って、客観的な目線は大切にして考えました。
このご相談については主体者の方はすごく熱意を持っておられたので、
あと大切なことは“外の目線”かなと、何となく感じました。
どちらかに依存して進めるのではなく、一緒に悩んで一緒にぶつかること。
継続的に続けたいと思ったので、いまはそうやって一緒に
“あーでもないこーでもない”と準備しているところです」
千原さんにとって、飛騨に移住して得た一番の財産は
「家族や仕事仲間とコミュニケーションする時間が増えたこと」だという。
本人がそうであったように、子どもにもこのまちを好きになってもらいたい。
そのために飛騨をおもしろい場所にしていきたい。そんな野望で道を拓いていく。
information

kongcong
■『グッとくる飛騨』では、こちらのインタビューも↓
私たちは農業を生業にして田舎で暮らしています。
まだまだ生業とは言えないような所得ですが、それでも野菜を育てて、売って、
そのお金が生計の大きな部分を占めています。
移住を考えてる人やまわりの人などから
「どうやって農業を勉強したの?」
とよく聞かれます。
たしかに農業っていきなりやろうとしても、何から始めたらいいのか、
どんな道具がいるのかまったくわからないですよね。
今日はそのことを書こうと思います。
私たちが小豆島に引っ越してきたのは、2012年10月。
そのときは自分たちが食べる分くらいの野菜を育てたいなと考えていました。
『半農半Xの種を播く』『家族で楽しむ自給自足』『月3万円ビジネス』
そんな本を読みながら、思い描く暮らし方はありました。
ただ具体的な働き方、稼ぎ方は、いまにして思うと明確には決めていませんでした。
そんな状態で夫婦揃って会社を辞めて引っ越してきたんだから、
ある意味すごい勇気だなと自分たちのことながら思います(笑)。
ま、でもそれくらい当時の働き方、生き方を変えたいという思いが
強かったんですけどね。
引っ越してきた数日後には、じいちゃんが残してくれた道具を使って畑を耕し始め、
種をまいたり苗を植えたりしていました。
名古屋で暮らしていた頃は、プランターで
ミニトマトくらいしか育てたことがなかった私たち。
とにかく見よう見まねでやる、近所のおじちゃん、おばちゃんたちにも教えてもらって、
少しずつできることが増えていきました。
大きな転機は翌年の春。
小豆島で暮らすようになり半年経った頃、農業に関する補助金の話もあり、
本格的に農業を頑張ってみよう! と新たに農地も借り、
中古の軽トラも購入し、野菜の販売も始めました。
ただ圧倒的に知識も技術も足りない。
農薬は使いたくない、化学肥料は使いたくない、
そんな何も知らない素人の思いだけしかない。
有機農業をしたいならちゃんと研修を受けたほうがいいという
まわりからのアドバイスもあり、農園に研修に行くことになりました。
そのとき出会ったのが、香川県にある〈よしむら農園〉さんです。

よしむら農園の皆さん。

よしむら農園で育てられたお野菜たち。
よしむら農園は、香川県・讃岐平野のほぼ中央部、丸亀市にあります。
化学農薬、化学肥料や除草剤を使わない有機農業で野菜を栽培し、
有機JASの認証も受けている農園です。
常に研修生が何人か来ていて、私たちが連絡したときも空きがない状態だったのですが、
運よく研修させてもらえることになりました。

寒い寒い冬の作業。レタスの苗を植えます。

ひと苗ひと苗、丁寧に。

苗を植えてから、これまた丁寧に水やりします。