地元で愛され続ける理由
直営店のカウンターに並ぶ具材は約50種。シングルでも注文できるが、
パンの片側ずつに異なった具材を塗る「ミックス」、
上下に異なった具材を塗る「半々」を合わせると、
味の組み合わせは2000種にもおよぶといわれる〈福田パン〉は、
盛岡市を中心に愛されている岩手県のご当地パンだ。
具材の種類は数あれど、それを挟んでいるパンは1種類。
きつね色の、大人の顔の長さほどに大きくふっくら膨らんだコッペパンが福田パンの顔だ。
岩手県内のスーパーやコンビニにも、袋詰めされた福田パンは毎日並び、
お盆やゴールデンウィークなど、多いときには1日2万個、
平日でも1日約1万個の売り上げを誇っている。

業務用も含めて3サイズあるが、125グラムの生地を膨らませたこのサイズが、おもに直営店と、コンビニ、スーパーなどに流通している。
創業は、戦後間もない1948年。3代目の現社長 福田潔さんの祖父・留吉さんが、
国産イーストの開発に取り組んでいた大手製パン業者・マルキ号製パンの
〈マルキイースト菌研究所〉の勤務を経て、パン屋を始めた。
留吉さんは、花巻市生まれ。貫郡立稗貫農学校(現・花巻農業高等学校)に進学し、
当時教師だった宮沢賢治の教え子となる。
卒業後は、学費が払えなかったため学問を諦めようとしていたが、
賢治の紹介で盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へ。
発酵や醸造を専門とする教授の助手となり、働きながら学んでいたという。
開業当初は、パン屋を名乗りながらも、ジャムや乳酸菌飲料をつくって販売するなど、
生計を立てるために食に関わる事業にはさまざま挑戦したそうだ。
パンに具材を塗るスタイルも、初期の頃からだと潔さんは話す。

3代目社長の福田潔さん。
「昔はこのスタイルのパン屋は全国にいっぱいあったそうですよ。
デニッシュとかクロワッサンとか、今はいろんな種類のパンをつくることができますが、
当時はそれができなかったんでしょうね。
だからパンは1〜2種類だけど、中身を変えてレパートリーを増やしていた。
世の中にだんだんそういうスタイルがなくなってきたけど、うちはこのかたちが人気で、
残ったんですね」
正確な時期は記録に残っていないが、開業してまもなく、留吉さんは、
母校・岩手大学でパンの販売を始める。それが現在のコッペパンの原型。
当時は砂糖や油脂など、パンを柔らかくする材料が入手できなかったこともあり、
生地はソフトフランスパンだったが、福田パンを象徴する大きなパンは、
「学生にお腹いっぱい食べてもらいたい」という想いから生まれた。

直営店の注文カウンターの奥に並ぶ具材のペーストは見るだけでワクワクする。
また、留吉さんは、岩手の小学校でパン給食が始まった際に創設された、
〈岩手県パン工業組合〉の初代メンバーでもあるそう。
給食用のパンのレシピは指定されており、福田パンの製法とは異なるものだったが、
県内の小学校へ届ける量産ラインを徐々に構築していった。
そうして1970年代に始まったのが、高校での出張販売。
潔さんの母校でもある盛岡商業高等学校を皮切りに、
市内のほぼすべての高校に福田パンが並ぶようになる。
「すごかったですよ。まだコンビニが普及していない時代でしたからね。
だいたいみんな、お弁当は2時間目の後に食べ終わってしまうので、
昼休みに福田パンが販売に来ると、人だかりができていました。
盛商(盛岡商業高等学校)だけで、1日500個くらい売れていたんです」

出荷用の箱はグレーと決まっている。この箱に見覚えがある盛岡市民も多いのだろう。「福田製パン」は初代、赤い「フクダパン」は先代、黒い「フクダパン」は潔さんの代のもの。「赤字は嫌だな、黒字がいいなと思って黒にしました」と潔さんは笑う。
盛岡市で高校時代を過ごした人なら、
たぶん一度は食べたことがあると想像できるエピソード。
福田パンがソウルフードとして定着してきた大きな理由のひとつは、
この高校での出張販売だろう。
「若い頃、お腹を空かせていたときの味って思い出深いですからね」と潔さん。
自身も授業を抜け出し、真っ先に買いに行っていたそうだ。
また、同社の製造の98%はコッペパンだが、業務用で食パン、ドックパン、
ハンバーガーのバンズ、テーブルロールなどもつくり、
盛岡市内を中心とした喫茶店や惣菜店、病院、幼稚園・保育園の給食、
老人ホームなどに卸している。
形は変わっても、生地はほぼコッペパンというこれらのパンを、
知らず知らずに食べ慣れていることも、
福田パンをローカルフードにしているゆえんかもしれない。























































