愛媛県の伊予絣(かすり)、広島県の備後絣とともに、
日本三大絣のひとつとされる福岡県の久留米絣。
その伝統を受け継ぐ〈藍染絣工房〉を、
久留米絣を用いたブランド〈IKI LUCA(イキルカ)〉の小倉知子さんとともに、
三菱UFJモルガン・スタンレー証券福岡支店の田中鈴音さん、矢原寛人さん、
三菱UFJフィナンシャル・グループ経営企画部の糸川佳孝さんが訪問。
久留米絣を世界へ、そして現代のライフスタイルへつなぐ方法を模索します。
福岡県南部の久留米市を中心とする筑後地方で
伝統的につくられてきた藍染めの綿織物、久留米絣。
糸の段階で染め分けて柄を織りなす先染めの織物です。
広川町にある〈藍染絣工房〉を訪れると、
織り上がった藍色の反物が青空の下にはためいていました。
1891年創業のこの工房は現在、4代目の山村健(たけし)さんと
5代目の山村研介さんが親子で営んでいます。
「私にとってこの工房は、藍染めの冒険が始まった場所なんです。
偶然ですが、研介さんと私は同い年。
隣町同士、筑後川の水で育ったので、妙に親近感が湧くんですよね(笑)」
と元気よく話すのは、久留米絣を100%使用したファッションブランド
〈IKI LUCA〉の代表を務める、久留米市荒木町出身の小倉知子さん。
金融業界から転身した、異色の経歴の持ち主です。

〈IKI LUCA〉の小倉知子さん。この日着ているのも同ブランドの服。
制作現場を見せてもらう前に、まずは久留米絣の歴史や特徴を
研介さんと小倉さんが説明してくれました。
「久留米絣は、1800年頃に井上伝という
当時12~13歳の少女が考案したと伝えられています。
着古した着物のかすれた部分に注目して、生地をほどいてみると、
藍染めの糸がところどころ白くなっていたんです。
そこから逆算して、糸に最初から白い部分をつくって織り上げたら、
模様ができるのではないかと考えたのです」(研介さん)

最初に作成する図案。黒く塗りつぶされているところに括りを入れる。出来上がりは、この部分が白くなる。
筑後地方には、九州最大の河川であり、日本三大暴れ川のひとつで
「筑紫次郎」の異名を持つ筑後川が流れ、
肥沃な大地では綿花や藍の栽培が盛んに行われていました。
そんな綿織物の産地で、久留米絣を発案した井上伝は、
やがて1000人もの弟子を抱えるほどに。
西南戦争の際は、官軍兵士が土産として久留米絣を持ち帰り、全国に広まっていきます。

同じ柄だが、左は新品で、右は40年着ている生地。「藍染めには青い成分以外に、アクと呼ばれる不純物が入っていて、繰り返し洗ううちにそれが抜けることで色が冴えてくるんです」(研介さん)
「基本的には普段着の生地に用いられていたのですが、
当時の着物はほとんどが無地や縞、格子。
久留米絣ように柄の入った着物は革新的だったようです」(研介さん)

〈藍染絣工房〉4代目の山村健さん(左)と5代目の研介さん(右)。
おしゃれな日常着として一世を風靡した久留米絣。
その歴史に驚きつつ、MUFGの糸川さんが質問をします。
「つくるのに手間も時間もかかったと思うのですが、
普段着のわりに高価格にはならなかったのでしょうか?」
「最盛期の戦前は、年間200万反も生産していたそうですが、
色や柄のバリエーションは少なく、効率重視で簡単につくっていました。
戦後は洋装化に伴い生産量が減り、デザインは逆に複雑化していきます」(研介さん)

白い部分が多いほど括りが多くなるので、そのぶん手間がかかる。細かなグラデーションも表現。
生産量は現在も年々減っていて、10年ほど前は30軒あった織元が
20軒ほどになっているといいます。
「現代の久留米絣は、うちのような藍染め・手織りの織元と、
化学染料・機械織りのところの、2パターンに大きく分けられます」(研介さん)
IKI LUCAの生地は藍染絣工房ではなく、八女市の〈下川織物〉で織られたものですが、
そのようにさまざまな織元がいるのもこの産地の魅力。
「私が履いているこの赤いスカートは、IKI LUCAの最初のアイテムで、
化学染料で赤に染めた糸を機械織りした生地でつくっています。
無地の絣ですが、IKI LUCAでは、敢えてシンプルな
無地や縞の生地を使用した服を展開することで、
いままでアプローチできなかった層にも久留米絣が広がっていけばいいな、
という思いと狙いがあります。
なので、そういった生地をつくる工房に行くと、色とりどりの反物が置いてあって、
こことはまた異なる雰囲気ですよ」(小倉さん)
すると、MUFGの田中さんからも質問が。
「山村さんの工房のように昔ながらの伝統的なつくり方をしている方たちは、
化学染料・機械織りの久留米絣に対して、
どういう思いを持っていらっしゃるのでしょう?」
「価格的に手に取りやすいものと、昔ながらのもの、
両方あることが産地の強みだと思っています。
自分たちのような工房だけなら、おそらく産地として存続できていなかったと思うので、
このふたつがあって現在の久留米絣ということができるでしょう」(研介さん)
