不動産サービス〈よいチョイス〉
賃貸 or 分譲が選べる、
住まいの新たな選択肢

SWAY DESIGN vol.8

石川県を拠点に、住宅・オフィス・店舗のリノベーション、不動産事業などを展開する、
〈SWAY DESIGN〉永井菜緒さんの連載です。

いよいよ最終回となりました。
今回はSWAY DESIGNが自ら不動産を買い取り、賃貸を行う物件をご紹介。
受託事業がメインの設計事務所が、自社サービスとして
不動産事業に取り組み始めた経緯、さらにはふたつの物件を通じて、
住まいの新たな選択肢について考えていきます。

設計事務所による不動産事業〈よいチョイス〉

これまで店舗や住宅の設計を行うなかで
「設計事務所」という枠組みでは要望に応えることができず、
その受け皿としていくつかの自社サービスが生まれてきました。

今回はそのうちのひとつ、〈よいチョイス〉というサービスのお話。
自社で不動産を購入したり、他オーナーの仕入れを手伝い、
企画から設計・施工、そして販売 or 賃貸を一貫して対応するサービスです。

初期Webサイトに掲げたコンセプト。事業の変化に伴い改正中。

初期Webサイトに掲げたコンセプト。事業の変化に伴い改正中。

サービス開始のきっかけは、ある違和感からでした。

理想の住まいを実現するには家を購入するケースが多く、
つまりは長期所有が前提となってしまう。
設計者はその仕組みが施主にとって最善なのかを問うことなく、
予算やローン返済の月額から建築予算を決め、
その中で行う設計を“最適解”としているのではないか。

設計事務所の強みといえば、ハウスメーカーと違い、
個別対応で施主にとってベストな選択肢を提案できるといいます。
しかし、それはあくまで狭小住宅や変形敷地に対応できる、といった
“建築そのもののつくり方”に対するもの。
住まいづくりの仕組みに関わるものではありません。

自社不動産事業の第1弾、金沢市本多町にある物件。構造はほとんどそのままに、内装の模様替えを行った。

自社不動産事業の第1弾、金沢市本多町にある物件。構造はほとんどそのままに、内装の模様替えを行った。

同じ建築周辺の領域でも、建築予算を算出するファイナンシャルプランナー、
宅地開発する不動産会社、コスパが良い工業製品化した分譲住宅の販売会社など、
専門性が異なるサービスはいくつもあります。

その中で、設計を主体とする自分たちはどの領域まで取り組むべきか。
よいチョイスでは、注力すべき箇所、ルーティン化できる作業などを考え、

・設計については、個別対応の案件よりも作業時間を抑えて、

より良いものをローコストで提案する。

・設計以外では、自らが建物のオーナーとなり、所有の仕方の新しい可能性を示す。

という発想にたどり着き、実践へと移っていきました。

地域のつながりを育む、
小豆島「肥土山農村歌舞伎」

2年連続中止。地域にとっての農村歌舞伎

5月のゴールデンウィークが終わりました。
昨年に続き、まさか今年の連休まで、
コロナ禍による自粛の日々になるとは思ってもいませんでした。

1年で一番気持ちのいい季節! と言えるくらい5月初旬の小豆島は最高のシーズン。
毎年GWの連休にはたくさんの観光客の方々が島を訪れます。
島のジェラート屋さんでは長い行列ができ、路線バスのバス停では
人がたくさん待っていて、有名な観光スポットへ向かう道路は渋滞していたり。
気候もいいし、賑やかだし、小豆島全体がとっても楽しそう。
というのが、いつものGW。

5月の小豆島。戸形崎には毎年鯉のぼりが海の上を泳ぎます。

5月の小豆島。戸形崎には毎年鯉のぼりが海の上を泳ぎます。

毎年小さな真っ赤な実をつける庭のサクランボ。これも5月の風景。

毎年小さな真っ赤な実をつける庭のサクランボ。これも5月の風景。

今年の小豆島の様子はというと、
「例年よりは静か、でも昨年よりは賑やか」という感じでした。
それがいいのか悪いのかは悩ましいですが、飲食店は満席の状態だったり、
列ができたりしていて、やっぱり連休なんだなぁと。

さて、私たちはどう過ごしていただかというと、カフェを数日営業して、
畑仕事、出荷作業と普段と同じように働いていました。

いつもの連休と決定的に違うのが、毎年5月3日に開催される地元の伝統行事
「肥土山(ひとやま)農村歌舞伎」が、昨年に続き今年も中止だったこと。
さすがに2年連続中止となると、いままでそこに当たり前のようにあった
大きなものがなくなってしまって、もの足りないような寂しいような、
そんな気持ちになります。

肥土山農村歌舞伎舞台がある肥土山離宮八幡宮からの景色。新緑のもみじと山々が美しい。

肥土山農村歌舞伎舞台がある肥土山離宮八幡宮からの景色。新緑のもみじと山々が美しい。

肥土山農村歌舞伎が中止になったことで、
よく言えば時間に余裕ができていつもできないことができたのですが、
この行事がなくなることで失われてしまうことって、
けっこう大きいんじゃないかと漠然と感じています。

正直言って、農村歌舞伎当日を迎えるための準備や練習は本当に大変です。
スケジュールを管理し、全体の調整をする人、
夜に稽古場に集まって演目の練習をする人、
大道具や小道具などのメンテナンスや準備をする人、
集まりのたびに参加者の食事やお茶の準備をする人など。

たくさんの人が関わり、みなさん仕事が休みの日や
仕事を終わらせた夜の時間を使って準備を進めていきます。
ひとつのことを成し遂げるために、役割を分担し、それぞれががんばる。
とても大変だけれども、大変だからこそ、同じ思いを持ち、
同じ時間を過ごすことで育まれる連帯感は強い。いまの肥土山という集落があるのは、
この農村歌舞伎が続いているからといっても過言じゃないような気がします。

参加者や来賓の方々のお弁当づくりは当日の朝3時頃から地元のお母さんたちが行います。数の確認や発注などもすべて。大変な仕事。

参加者や来賓の方々のお弁当づくりは当日の朝3時頃から地元のお母さんたちが行います。数の確認や発注などもすべて。大変な仕事。

役者の人たちは当日まで稽古場で何度も練習します。役者以外にも裏方にはたくさんの人たちがいます。

役者の人たちは当日まで稽古場で何度も練習します。役者以外にも裏方にはたくさんの人たちがいます。

地域のみんなで本をつくるプロジェクト
〈ローカルブックス〉始動!

島牧村に暮らす吉澤俊輔さんとの本づくり

2017年に山を買った体験をまとめたイラストエッセイ
『山を買う』という小さな本を刊行して以来、
1年に1冊のペースで本づくりを行ってきた。
この出版活動を〈森の出版社ミチクル〉と名づけ、
SNSで告知をしながら細々と本の販売を続けるなかで、知り合いのみなさんから、
ミチクルで本を出したいという相談を受けることが増えてきた。

これまでは、うちで本を出しても、
書店流通に必要なISBNというコードをとっているわけでもないし、
大手ネット通販で販売しているわけでもないので、
それほど広がらないと思うと消極的なお返事をしてきた。

しかし、何人かに声をかけてもらうなかで、
自分の消極的な姿勢に息苦しさを覚えるようになった。
この小さな出版活動に、わざわざ興味を持ってくれる人がいるのだから、
その気持ちに答えたい。そんなふうに思うようになっていった。

新しい本づくりの大きなきっかけをくれたのは、
道南の日本海に面した人口1400人ほどの島牧村に暮らす吉澤俊輔さんだ。

吉澤さんは、ご両親が〈島牧ユースホステル〉を営み、
自身は木工作家として活動をしながら、「さくらの咲くところ」という屋号で、
島牧の豊かな自然の恵みを生かした自給自足の暮らしを探求している。
毎年秋に「小さな町の小さなマルシェ」と題したイベントも開催。
昨年、このイベントを私が訪ね、吉澤さんと知り合うこととなった。

島牧で毎年開催される「小さな町の小さなマルシェ」。オーガニックな農法で作物を育てる生産者をはじめ、素材にこだわった料理やスイーツなどのお店が並ぶ。

島牧で毎年開催される「小さな町の小さなマルシェ」。オーガニックな農法で作物を育てる生産者をはじめ、素材にこだわった料理やスイーツなどのお店が並ぶ。

マルシェの開催から数か月後、吉澤さんから本をつくりたいという相談を受けた。
4年間、北海道新聞のコラムでほぼ毎月連載を続けており、
それが終わるタイミングで、これらをまとめたいと考えていたのだ。

原稿を読み、島牧の開放的な自然の景色と同じような心地よさを感じた。
仲間と一緒に田んぼを再生させ昔ながらの米づくりを行ったり、
海水をくんでそこから塩をつくったり、豊かなブナの森で山菜やキノコをとったり。
暮らしのあらゆることに手間をいとわず、
しかもそれを心の底から楽しんでいることが、文章の端々から伝わってきた。

時折り、環境問題に鋭く切り込む原稿もあるが、
未来に希望は必ずあると思わせてくれるところも、心を明るくしてくれるものだった。

島牧はブナ林の北限。私が訪ねた秋は葉が色づき、キラキラと輝いて見えた。

島牧はブナ林の北限。私が訪ねた秋は葉が色づき、キラキラと輝いて見えた。

よし、吉澤さんと一緒に本をつくってみよう!
そう私も自然に思え、ここから新たな本づくりのプロジェクトが始まった。

旭川市〈Cafe Sunao〉
歴史ある商店街の居酒屋を
コミュニティカフェに

野村パターソンかずたか vol.8

北海道旭川市で、リノベーションや不動産事業を営みながら、
アーティストインレジデンスなど地域の文化事業を企画・運営する、
野村パターソンかずたかさんの連載です。

元ミュージシャンで世界の都市を巡った背景から、
地元・旭川市にて多様なコンテンツをしかけています。

最終回の今回は、旭川市の中でもひときわ長い歴史を持つ
銀座商店街にあった居酒屋を、地域の人が集えるコミュニティカフェとして蘇らせた
〈Cafe Sunao〉さんをご紹介します。

旭川銀座商店街にある店舗。外観ビフォー。

旭川銀座商店街にある店舗。外観ビフォー。

かつては賑やかだった旭川銀座商店街

日本全体で見ると、名前に「銀座」と入る商店街は300を超えるらしい。
旭川銀座商店街もそのひとつで、市内では最も古い歴史をもつ商店街のひとつだ。
実は自分の先祖のルーツがある場所でもある。

私の曾祖父は、戦後に金沢から北海道に移住し、くず鉄拾いからシイタケ栽培まで、
生き抜くためにあらゆる商売をやってきたと聞いている。
銀座商店街の一角に店舗を構えていた彼の商店は、その後も場所やかたちを変え、
最終的には米菓製造に落ち着くことになる。

〈野村製菓〉という米菓会社は、餅の製造に加えて、江戸揚げを主力製品としていた。
江戸揚げは、「かぶきあげ」とも呼ばれ、蒸したもち米をついて、
米油で揚げ、粗塩をふりかけただけのシンプルな菓子だ。
最盛期には、このお菓子を北海道中で何億円分と販売していたというから驚きだ。

残念ながらこの会社はなくなってしまったが、
曾祖父からバトンを譲り受けた祖父に連れられて何度も訪れた旭川銀座商店街の風景は、
自分の幼少期の原風景として記憶に残り続けている。
活気あふれる野菜市、いつ行っても賑わっていた多くのお客さん。
全国どこの商店街も同じかもしれないが、いまとは比較にならない活気に包まれていた。

築51年、元居酒屋の空き店舗

今回紹介する物件の周辺には商店街の顔ともいえる建物が多く存在したが、
年を追うごとにどんどん解体されていった。
個人商店が多く入っていたRCの建物や、吹けば飛ぶような木造2階建てなど、
大通りに近いほうが徐々に潰されていった。

店舗の数には不釣り合いな駐車場だけが目立ち始めていた2019年、
元居酒屋の店舗が売りに出された。
もとは〈千鶴寿司〉という評判の寿司屋だった店舗が、
居酒屋として約10年利用されたあとに閉店して、店舗兼住居として売りに出されていた。
放っておけばまた駐車場がひとつ増えるだけだろう。
家族のルーツがあるこのエリアの物件の取得に向けて動くことにした。

内見パーティの様子。このあと人数は3倍ほどに膨れ上がる。

内見パーティの様子。このあと人数は3倍ほどに膨れ上がる。

物件の購入に合わせて恒例の内見を兼ねたパーティイベントを開催し、
たくさんの人が集まった。2021年のいまとなっては、
マスクもせずに何十人も集まり同じ空間で過ごしたあの夜は、もはや昔話のようだ。

地域の魅力はなんといっても、人!
そんな思いでつくった
似顔絵マップとインタビュー集

地域の人々の似顔絵を集めたマップ、4年目の更新!

5年前から始めた地域をPRする活動〈みる・とーぶ〉。
展覧会やワークショップ開催など、さまざまな活動を行っているが、
重要な柱のひとつがマップづくり。
表面には美流渡(みると)とその周辺地域(東部丘陵地域と呼ばれている)の
全体マップがあり、中面には地域の人々の似顔絵が散りばめられている。

毎年、更新を続けていて今年で4回目。先月、改訂版がようやく刷り上がった。
中面の似顔絵には何人登場しているのかとあらためて数えてみたら、総勢118名(!)。
毎年、移住者などを加えていっており、充実した仕上がりになっている。

観光スポットは少ないが地域には魅力的な人がたくさんいるという思いから〈みる・とーぶ〉のメンバーでつくり続けているマップ。似顔絵は私が描いた。

観光スポットは少ないが地域には魅力的な人がたくさんいるという思いから〈みる・とーぶ〉のメンバーでつくり続けているマップ。似顔絵は私が描いた(マップはこちらからダウンロードできます。表面似顔絵面)。

今回、一番大きくリニューアルしたのは、表面の地域紹介コーナーだ。
紹介しているエリアは上志文、朝日、美流渡、毛陽、万字など、
道道38号線沿いの20キロほどの区間で、
これまではそれぞれの地域の特性を文章で紹介する程度だった。

旅行者がふらりと来て立ち寄れるスポットがあまりなかったため、
簡単な紹介にとどめていたのだが、
今回「ひとやすみしたい場所があります!」というコーナーを設け、
旅ガイド的な役割も持たせようと考えた。

食、宿、体験という3つの項目を設けてスポットを紹介。

食、宿、体験という3つの項目を設けてスポットを紹介。

紹介したのは、飲食店が6軒、宿泊施設が4軒、体験施設が4軒。
著名な観光地に比べたら、本当にわずかしかないともいえるが、
4年前と比べると紹介スポットは倍に(!)。
訪ねる場所が本当に増えているなあと、
今回紹介コーナーをつくってみてしみじみと思った。

新たな拠点をつくったのは移住者たち。
自分で自分の仕事をつくり出そうという意識を持つ移住者は多く、
飲食店やゲストハウスなどが次々と生まれているのだ。

人口70人ほどの万字地区で2018年からスタートしたゲストハウス〈NORD house〉。このほか美流渡地区にふたつのゲストハウスがオープン。

人口70人ほどの万字地区で2018年からスタートしたゲストハウス〈NORD house〉。このほか美流渡地区にふたつのゲストハウスがオープン。

また、これまでは、駅から車で約30分かかり、
近くに大きなスーパーもコンビニもない不便な地域に何かをつくっても、
経営は成り立たないと考える人が多かったが、
20年以上前にできた森のパン屋〈ミルトコッペ〉には、
休日ともなれば行列ができているし、
スープ&スパイスカレーの店〈ばぐぅす屋〉にはリピーターが多く、
わざわざ訪ねてみたくなる場所となっているのではないかと思う。

〈ミルトコッペ〉は4月28日から今季の営業が始まる。店舗はオーナーが10年かけてセルフビルドした。(撮影:佐々木育弥)

〈ミルトコッペ〉は4月28日から今季の営業が始まる。店舗はオーナーが10年かけてセルフビルドした。(撮影:佐々木育弥)

シェアスタジオ〈野毛山Kiez〉
コロナを経て誕生。
築50年の倉庫を仲間たちの作業場へ

YONG architecture studio vol.4

横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
現在は長野県にも拠点を持ち、2地域で活動を展開しています。

今回は京浜急行の戸部駅すぐ近くの元倉庫を改修した
シェアスタジオ〈野毛山Kiez〉について紹介します。
昨年コロナ禍にできたばかりのスタジオで、
これから野毛山エリアで活動を展開していく拠点となります。

事務所の分室を探して

〈藤棚デパートメント〉内の事務所スペース。

〈藤棚デパートメント〉内の事務所スペース。

ホールにある可動の本棚ワゴンスペース。

ホールにある可動の本棚ワゴンスペース。

前回ご紹介した〈藤棚デパートメント〉には、
シェアキッチンとともに自分の設計事務所があります。
利用者さんやまちの人とコミュニケーションをとるには良いレイアウトだったのですが、
年々利用者が増え、次第にホールも事務所も手狭になってきました。

そしてデパートメント開設から2年経った頃、レイアウトを変更し、
さらに近くにサテライトの作業所として使えそうな場所を探すことにしました。

そんなある日、まちの不動産屋さんを訪ねた際、1軒の倉庫物件を紹介されます。
それは、藤棚商店街から徒歩5分ほど、戸部駅近くにある築50年ほどの物件でした。

1間半の幅の建物。なかなかの佇まい。

1間半の幅の建物。なかなかの佇まい。

借り手がつかなければ取り壊すそうで、原状のまま貸すから好きにしてOK、
原状回復の義務はなし、という条件。
建物の状態は悪いですが、駅前にしてはかなりの破格の賃料でした。

1階の様子。奥はかなり傷んでいて、手直しが必要そう。

1階の様子。奥はかなり傷んでいて、手直しが必要そう。

2階は和室がふた部屋。真ん中にはキッチン、トイレがあります。

2階は和室がふた部屋。真ん中にはキッチン、トイレがあります。

藤棚商店街を訪れる方は戸部駅を使う方が多く、駅から商店街までは徒歩10分ほど。
ここの場所はちょうど藤棚に向かう道の途中なので、自分だけで使うのではなく、
なにか近隣の人たちが集まれる場所にできないかと考えていました。
デパートメントと駅の間にもうひとつ拠点ができれば、
それぞれの拠点で生まれる関係が重なって、
面的なつながりをつくっていくことができそうです。

とはいえ、この物件はかなり手を入れる必要がありそうです。
土台は腐り、トイレは使えない状態で、窓も壊れて外れかかっています。
このままでは、さすがに人を呼べそうにありません。

「おいしい!」が人を元気にする。
新玉ねぎとベビーニンジンのかき揚げの
まかないレシピ

大忙しの農家の春、一番の楽しみは……?

小豆島で農業を始めて、9回目の春を迎えています。
春はいつも、生姜の植え付け、夏野菜の植え付け、さつまいもの植え付けなどなど、
どれもこれも待ったなしで、連日何かに追われています(汗)。
多品目の野菜を栽培している私たち〈HOMEMAKERS〉にとって、4月は大忙しの日々。
とにかくひとつひとつやることを進めていくしかなく、
毎日日が暮れるまで畑で作業しています。

春の畑でブロッコリーの収穫。気温が上がり、野菜の成長スピードも加速。気を抜くとすぐに収穫タイミングを逃してしまう。

春の畑でブロッコリーの収穫。気温が上がり、野菜の成長スピードも加速。気を抜くとすぐに収穫タイミングを逃してしまう。

トマトの苗を定植。まだまだ定植待ちの夏野菜がいっぱい。

トマトの苗を定植。まだまだ定植待ちの夏野菜がいっぱい。

球が大きくなり茎が倒れた新玉ねぎ。辛味が少なくみずみずしいので生のままでも楽しめる!

球が大きくなり茎が倒れた新玉ねぎ。辛味が少なくみずみずしいので生のままでも楽しめる!

最近は週に2日、野菜の収穫&発送作業をしているのですが、
その2日間はいつもに増してバタバタ!
まずは朝一番でその日の出荷内容をみんなで確認。
「今日はサナア(畑の名前)のコカルドレッドオークレタスを優先して出荷ね」
「あやめ雪かぶは葉を落として出荷ね」

そのあと畑チームは猛烈なペースで収穫、出荷チームはダンボールを組み立てたり、
納品書や送り状の準備をしたり。

毎回10種類ほどの野菜を順番に収穫していき、
軽トラが出荷作業場に戻ってくるとすぐに出荷の調整作業が始まります。
洗ったり切ったり、重さを量って小分けにしていきます。
虫がまぎれてないか、傷みはないか、そんなチェックをひとつひとつしながら袋詰め。

いまの時期だと、ケールから始まり、レタス、ブロッコリー、
新玉ねぎ、ベビーニンジン、あやめ雪かぶ、ナバナ、葉ネギなど。
荷物の集荷時間16時ぎりぎりまでいつも作業が続きます。

野菜の出荷作業日。収穫してきたらすぐに小分けしていきます。

野菜の出荷作業日。収穫してきたらすぐに小分けしていきます。

ケールミックスの袋詰め。ケールは乾燥に弱くすぐにしなっとなってしまうので、急いで作業。

ケールミックスの袋詰め。ケールは乾燥に弱くすぐにしなっとなってしまうので、急いで作業。

まだ球が大きくなる前の赤玉ねぎ。ほんとはもっと大きくなってから収穫するのですが、この若いときもおいしい。

まだ球が大きくなる前の赤玉ねぎ。ほんとはもっと大きくなってから収穫するのですが、この若いときもおいしい。

金沢市〈本多町コーポ〉
築50年の空室マンションが、
店舗複合の人気物件へ

SWAY DESIGN vol.7

石川県を拠点に、住宅・オフィス・店舗のリノベーション、不動産事業などを展開する、
〈SWAY DESIGN〉永井菜緒さんの連載です。

今回は金沢市本多町にある築約50年の3階建てRCマンションの改修事例をご紹介。

改修前の稼働率は12戸中6戸で、建物の残存価値はなく、
ほぼ土地値に近い価格で販売されていました。

そんな収益性の低い物件はなかなか買い手がつかず、
家賃を下げても入居者は集まりません。
しかし、いまでは満室稼働の人気物件に。その経緯を振り返ります。

オーナーとの出会い

〈SWAY DESIGN〉を立ち上げて3年を過ぎた頃、
東京・石川の2拠点生活をしていた時期がありました。
石川で仕事を続けることに迷いが生まれ、
独立前に東京でお世話になっていた会社を手伝いながら、石川と行き来する日々。

そんななか、東京で担当していた案件で施工をしていた
建設会社の会長さんと出会います。
それがその数年後に本物件のオーナーとなるYさんです。

当時Yさんには、東京の現場の合間に、事業を継続していくことの難しさや
技術面での悩みなどを聞いていただき、ときには叱られながら、
自分に足りない知識と意識を叩き込まれる日々でした。

東京からUターンして個人事業主になったものの、少しだけ弱気になり
「石川の事務所を引き払って、また東京で正社員として勤め先を探そうかな」
と考えていた時期でしたが、このYさんとの出会いが
SWAY DESIGNにとっての大きな転機を生むことになりました。

物件との出会い。難しい課題へと挑む

東京の仕事が竣工し、石川へ一時帰省していたとき、
Yさんから久しぶりに連絡をいただきました。
「知人から金沢のマンション売買の相談を受けて金沢に行くから、
一緒に物件を見てほしい」とのこと。

金沢駅近くの高層分譲マンションでしたが、劣化が激しく、その物件の話は中止に。
でもせっかく金沢に来たのだからと、地域を案内しながら話していると、
首都圏と地方都市の物件価格の違いや
不動産市場がどうあるべきかの議論で盛り上がります。

そして「再生できる可能性があるのに、
前例がないために動き出さない建物の利活用事例をつくろう」と、
新たな物件探しにのりだしたのでした。

複数の内見を経て見つけたのが、〈本多町コーポ〉です。

売却時の状態。塗装が剥がれ、手すりには錆が浮き、舗装はガタガタで草が生えている。

売却時の状態。塗装が剥がれ、手すりには錆が浮き、舗装はガタガタで草が生えている。

金沢市本多町にある昭和47年築のRC3階建て、全12室の賃貸マンション。
諸事情で不動産会社が買い取り、投資物件として一棟売りされていました。

古いうえに長い間修繕されておらず、雨漏りがあり、水道からは錆水が出る始末。
一部の居室は空室のまま賃貸にすら出ておらず、それ以外は倉庫としての賃貸。
実際に人が住んでいるのは、3室のみでした。

当時の室内の状態。和室2室の2DK。

当時の室内の状態。和室2室の2DK。

投資物件として売却されていましたが、劣化が激しく、
改修費を概算するのも難しい建物。

駐車場が不足しているエリアなので、解体して月極駐車場にする選択肢もありましたが、
土地の形状的に効率よい配置計画ができません。
解体費用を考えると、超長期的な回収計画になります。

購入してもそのまま使えず、解体しても収益が出にくく、
誰も手が出せず放置されている物件。ほかの物件と比較検討した結果、
前例のない空き物件の活用事例をつくるため
「難易度が高いからこそ、ここに決めよう!」と、
自ら苦労を買うような道のりを歩み始めたのでした。

オーナーはYさんであり、私は建築士という役割分担。
Yさんは所有権の移転手続きを無事に終え、
私は契約前に調べていた物件の状況をより綿密に調査。

建設会社の代表でもあるYさんは自ら現場監督を担い、
ふたりで協力して調査、計画から工事へと進むことになりました。

熊本地震から5年。
南阿蘇〈ひなた文庫〉が振り返る
あのときのこと、これまでのこと

2015年に、南阿蘇鉄道の無人の駅舎にオープンした小さな古本屋〈ひなた文庫〉。
その翌年、2016年に熊本地震が起き、鉄道が不通のいまも、
同じ駅で週末だけの営業を続けています。
そのひなた文庫の店主が、この5年を振り返り、いまの思いを綴る特別寄稿です。

大きな2度の地震

5年前の4月14日、熊本県益城町を中心に起きた大きな地震。
南阿蘇村の隣、大津町の自宅のベッドで横になっていて強い揺れを感じた。
本棚からバラバラと落ちてくる本から頭を守りながら
訳もわからないまま揺れが収まるのを待った。
熊本が震源の大きな地震なんていままで記憶になかったので、まさかという思いだった。

私たちの近所や自宅アパートはそんなに被害はなかったものの、
風呂場のタイルが剥がれて使えなくなったので、
翌日は南阿蘇の実家に泊まることにした。

昼の間も体に感じる揺れは何度もあったが、通常通り仕事を終え、
〈ひなた文庫〉のある駅舎の様子を見に行った。
建物に被害もなく安心し、帰って家族でごはんを食べながら、
「益城町はひどいことになっている、まだ余震もあるから怖いね」
などと話して床についた。

深夜午前1時25分、 ゴゴゴゴという
どこから聞こえてくるのかわからない大きな地響きと、
肩を掴んで思い切り揺さぶられたような激しい揺れにいきなり襲われた。
14日に感じたものとは比べものにならなかった。
声にならない悲鳴が口から漏れ、早く収まることだけを願っていた。
真っ暗闇のなか、必死に耐えたあのときの恐怖は未だに忘れられない。

揺れが収まるのと同時に、隣で寝ていた夫と、
別の部屋で寝ていたお義母さん、お義父さんはおばあちゃんをおんぶして、
やっとの思いで縁側から外へ出た。
すると家の裏山の方向から、カラカラと石の転がる音がしていた。

その後、この地震は震度7を2度も記録した観測史上初の大きな地震だったとわかり、
14日に起きた地震を前震、16日に起きた地震を本震と呼び、
「熊本地震」と名づけられた。

この地震によって崩落した阿蘇大橋は実家から車で2分もかからない場所にあった。
裏山は阿蘇大橋を丸ごと押し流してしまった山と同じ地続きの山だ。
あのカラカラと聞こえてきた音を思い出すとぞっとする。
ほんの少しでも時間や場所が違っていたら、逃げる方向が違っていたら、
そう考えると、あの地震で死を免れたというのは偶然のことなのだと思う。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

プリントの楽しさを再発見!
ポートランドから
ケイト教授のアート講座

スタジオからオンラインで〈リソグラフ〉について学ぶ

〈森の出版社ミチクル〉という名前で小さな出版活動を始めて4年。
そのなかで、いつも頭を悩ませていることがある。
それは“印刷”についてだ。

自分の本は絵も文字も手書きで、デザインも含めて全部手で行っているのだが、
印刷という段階になると、どうしてもほかの会社に委ねることになってしまう。
ネット印刷などを利用する場合は、入金してデータをアップロードしてと、
フォーマット化された作業の流れに自分の本を載せるのだが、
これがどうにも馴染めない。

しかも、印刷にはコストが結構かかり、気軽に誰もが本をつくることが難しい、
その要因になっているのではないかと感じている。

自分の手で印刷までできる方法はないだろうか?

最近、真剣に考えていたなかで、友人から
オンラインワークショップに参加してはどうかという誘いがあった。
講座は「Virtual Risograph Basics」。
ポートランド州立大学の教授でイラストレーターの
ケイト・ビンガマン・バートさんによる
〈リソグラフ〉という印刷機を使った作品づくり体験だ。

私に声をかけてくれたのは、ポートランド在住の山中緑さん。
札幌からの移住を「冒険の旅」として、
美流渡(みると)でお話会をしてくれたことがあり、
このワークショップ開催のためにつくられた団体
〈いろいろイロラボ〉の推進役のひとりでもある。

〈リソグラフ〉は刷り色を自分で選んで印刷する。2色を重ねてつくったワークショップ参加者の作品。

〈リソグラフ〉は刷り色を自分で選んで印刷する。2色を重ねてつくったワークショップ参加者の作品。

リソグラフとは〈理想科学工業〉の製品で、
チラシや教材の印刷で広く使われている印刷機。
コピー機と同じように見えるが仕組みが異なり、コピー機よりも省エネルギーで、
高速で印刷できるため、1枚ごとの単価が安いのが特徴。

こんなふうに説明するとオフィス機器としての印象が強くなるが、
この印刷機独特の風合いに注目して、
クリエイターらが作品づくりに生かすケースも多く、世界中にファンがいる。

オンラインワークショップが開催されたのは3月28日。
日本とアメリカから63名の参加があった。

司会と進行役を務めたのは、いろいろイロラボの代表・井出麻衣さん。
井出さんは日本でテキスタイルデザイナーとして活動後、
ポートランドに活動の拠点を移し、現在州立大学でアートを専攻している。
大学で学ぶなかでケイトさんと出会い、
彼女の主宰するアートスタジオ〈アウトレットPDX〉をたびたび訪ねて、
リソグラフによる作品づくりを体験してきた。

このすばらしいワークショップを日本の皆さんにも伝えたいという思いから、
日本語による「Virtual Risograph Basics」を今回企画したという。

司会と進行役を務めた井出麻衣さん。

司会と進行役を務めた井出麻衣さん。

講師となったのはケイトさん(左)とアシスタントのリランド・ヴォーンさん。

講師となったのはケイトさん(左)とアシスタントのリランド・ヴォーンさん。

ワークショップの始まりは、ケイトさんのこれまでの活動紹介から。
ケイトさんはイラストレーターとして、世界中のクライアントと仕事をしてきた。
2006年から1日も休まずに、目に止まった日用品などを
ペンで描くことを続けているという。

「これがすべてのインスピレーションの源です。
ここからリソグラフでZINEをつくったり、陶器のデザインをすることもあります」

15年間、毎日かかさず続けているというドローイング。インスタグラムでも配信している。

15年間、毎日かかさず続けているというドローイング。インスタグラムでも配信している。

こうした制作とともに大切にしているのが、人にものづくりの楽しさを伝える活動。

「私はできるだけ人と出会いたいと思ってワークショップを行ってきました。
旅行を兼ねてスタジオを訪ねてくれる人もいて、とてもうれしかったですね」

対面でのワークショップがスタートしたのは2017年。
これまで1000名以上が参加したという。
リソグラフの魅力を直接伝えることを重視していたため
オンラインでの開催はしてこなかったが、
2020年3月からコロナ禍となり、方向転換を余儀なくされた。

「実際に始めてみると、世界中のリソグラフ・ファンとつながることができて、
とても興奮しました」

三浦半島の先端のまちに
ユニークな野菜直売所が出現。
小屋×アート〈koyart〉とは?

神奈川県の南東部。
三方を海に囲まれた三浦半島は漁業と同様、農業も盛んな土地として知られる。
温暖な気候を利用して栽培されているのは、大根やキャベツといった露地野菜。
海岸近くまで延びる広大な台地に、見渡す限りの畑が広がる、
独特な農の景色を見せている。

ここ三浦半島で、いま、おもしろいプロジェクトが進行しているのをご存知だろうか? 
その名も小屋とアートを重ね合わせた造語〈koyart(コヤート)〉。
空間やアート、サイエンスを専門とする団体が、
生産者(農家)、地域の学生らと共創し、
主に野菜の販売小屋をテーマにした作品づくりを通して、
訪れた人と地域のコミュニケーションの広がりを目指すという。

直売所に置かれたバス停のような看板。各農家の特徴をとらえたマークは、横須賀市横須賀総合高等学校美術部の生徒が制作した。

直売所に置かれたバス停のような看板。各農家の特徴をとらえたマークは、横須賀市横須賀総合高等学校美術部の生徒が制作した。

3月のある日、そのkoyartのイベントが1日限りで開催。
常設の2か所に、建築を学ぶ学生が制作した3か所を新たに加えた、
計5か所で実際に野菜販売を行った。

それらを周遊するための仕組みとして、各所にバス停のような看板を設置し、
ほかの直売所の位置情報を掲出。
同時に、野菜を購入した人が次の人のために、売られている商品の状況を
インスタグラムを使ってアップロードする取り組みも。

地元・三浦の人々と学生、そして企業が一緒になって、地域の未来を考える。
その現場を訪ねた。

〈アーティストインレジデンス
あさひかわ〉元ミュージシャンが故郷に
つくったカルチャーの拠点〈VKTR〉

野村パターソンかずたか vol.7

北海道旭川市で、リノベーションや不動産事業を営みながら、
アーティストインレジデンスなど地域の文化事業を企画・運営する、
野村パターソンかずたかさんの連載です。
元ミュージシャンで世界の都市を巡った背景から、
地元・旭川市にて多様なコンテンツをしかけています。

今回は、野村さんが自社事業として始めた芸術家受け入れプログラム
〈アーティストインレジデンスあさひかわ〉と、
その拠点施設で、元印鑑屋の店舗をリノベーションして生まれた
〈VKTR(ヴィクタ)〉をご紹介します。

アーティストインレジデンスとは、芸術家を一定期間にわたって招き入れ、アーティストがその土地に滞在しながら作品制作を行う事業のこと。〈VKTR〉はその拠点として誕生した。

アーティストインレジデンスとは、芸術家を一定期間にわたって招き入れ、アーティストがその土地に滞在しながら作品制作を行う事業のこと。〈VKTR〉はその拠点として誕生した。

旭川市がユネスコ創造都市ネットワークに加盟

先週、物件活用事例をまとめて紹介する機会をいただいた。
「Placemaking Week Japan」という名前のこのイベントは、
文字通り、場所(Place)をつくる(Making)活動を実践している人々が
世界中から集合し、それぞれの物語を共有する一大イベントだ。

都市計画や建築の博士号などを持っているような博識なスピーカーに紛れて、
僕も旭川市の事例を共有させてもらった。
コロナ禍でオンライン開催となったが、
その分さらにグローバルな事例を自宅にいながら学ぶことができた。

2年前の2019年にも同様のイベントに参加した。
クアラルンプールで行われた「City at Eye Level Asia」は
オランダの機関〈STIPO〉が主催するプレイスメイキングのイベントで、
コロナ禍前の開催だったので、世界各国からプレイスメーカーが集っていた。

このイベントとちょうど同じ頃、旭川市がユネスコ創造都市ネットワークに
デザイン分野で加盟するというニュースが飛び込んできた。
このネットワークは、加盟都市間の文化芸術を通した交流や、
都市の活性化、文化多様性について理解の増進が目的とされている。

ユネスコに旭川市が提出した申請書の中に
「アーティストインレジデンス(通称AIR)の推進」の文言があったことから、
僕が長年温めていた構想が急ピッチで動き出すことになった。

アメリカでのミュージシャン時代の様子。18歳で渡米し、ソロミュージシャンとして全米デビュー。600本以上の公演を行ってきた。

アメリカでのミュージシャン時代の様子。18歳で渡米し、ソロミュージシャンとして全米デビュー。600本以上の公演を行ってきた。

故郷にアーティストインレジデンスをつくりたい

初めてAIRのようなものを訪れたのは、2005年頃のニューヨークだった。
当時20歳だった自分は、シアトルで出会った日本人ふたりと
ノイズ即興の音楽をやっていた。

ツアーの中でたまたま演奏会場だったNYCの〈ABC No Rio〉。
ここは1980年から続くアーティストハブであり、
NYCのパンク・ハードコア音楽の震源地でもあった。
もしかするとAIRという呼び方は適切ではないかもしれないが、
常にアーティストが入り乱れ、建物の中で勝手に寝泊まりして活動する様子が
脳裏に焼きついている。

次に演奏で訪れたのは、アメリカ東北部のロードアイランド州にある〈AS220〉だ。
ここは4階建の建物で、1階にレストラン&ライブハウス、
2階から上がアーティストのスタジオ兼生活場所になっていた。
ツアーで訪れるたびに何度も世話になり、
いつかこんな場所をつくりたいと思い続けてきた。

小豆島ハイキング! 
景色を楽しみながら遍路道を歩く

お遍路歩いてみたいけど、どうすればいいの?

小豆島でもあちこちで桜の花が咲き始めました。
今年も春がやってきます。

ちょうど1年前のいまごろ、新型コロナウイルスの影響で
子どもの学校が急にお休みになってしまい、学校には行けない、
遊びにも行けない、これじゃひきこもりになっちゃう。と悩みました。
そのときに、「そうだ! こんなときこそ島を歩こう!」と思いたち、
友人たちと一緒に小豆島のお遍路道を歩き始めることに。

小豆島の桜は自然のなかにある。桜と山。桜と海。そんな景色を眺めながら歩くのが楽しい。

小豆島の桜は自然のなかにある。桜と山。桜と海。そんな景色を眺めながら歩くのが楽しい。

「お遍路」といえば四国が有名ですが、
実は小豆島にも八十八か所の霊場(お寺や庵など)があり、
その霊場をまわる遍路道があります。
小豆島遍路は、四国遍路に比べて距離が短く、
全行程で150キロほど(ちなみに四国遍路は10倍の約1500キロ)。
ひたすら長い距離を歩くというよりも、海や山など美しい景色を楽しみながら歩けます。

山の中の遍路道。ハイキングとしても楽しめます。

山の中の遍路道。ハイキングとしても楽しめます。

歩いていると、ぱっと美しい景色が広がったりする。

歩いていると、ぱっと美しい景色が広がったりする。

お遍路いいなぁ、歩いてみたいなぁと思っていても、

いったいどこからスタートしたらいいんだろう? 
白い服を着ないといけないのかな? 
何か必要なものはあるのかな? 

わからないことが多くて、そもそもスタートできない。
なんて人が多いんじゃないかと。

とにかく歩き始めてみる! 
私たちはまず「小豆島霊場総本院」に行きました。

小豆島霊場総本院と文字だけ見ると、なんだかすごそうな場所で
簡単には行けなささそうな感じがしますが、受付みたいな場所があって、
「これから遍路してみたいんです」と相談すればいろいろと教えてくれます。

そこでまずは「納経帳(のうきょうちょう)」と「納札(おさめふだ)」を購入。
納経帳は、般若心経などのお経を唱えたり、写経を納めたり、
奉納経した印として、御朱印を押してもらう冊子。
納札は、各霊場を参拝したときに納める紙札で、
自分の名前、参拝日、裏には願いを書きます。

このふたつと、遍路用の詳細な地図
「小豆島八十八ヶ所巡拝 おへんろ道案内図」、お賽銭を用意。

納経帳と納札。ちなみに納札は巡拝回数によってお札の色が変わります。巡礼70回以上からは錦のお札で納めてもよいそう。

納経帳と納札。ちなみに納札は巡拝回数によってお札の色が変わります。巡礼70回以上からは錦のお札で納めてもよいそう。

この「小豆島八十八ヶ所巡拝 おへんろ道案内図」なくしては歩けない。各お寺からお寺までの距離なども書いてあります。

この「小豆島八十八ヶ所巡拝 おへんろ道案内図」なくしては歩けない。各お寺からお寺までの距離なども書いてあります。

本格的にお遍路をしたい場合は、白衣(はくえ)や杖、経本など、
ほかにも用意したほうがいいものがあります。

でも、あるお寺の住職さんも言っていたのですが、
「まずは気軽に歩いてみたらいい。お経も完璧に唱えられなくてもいい。
まずは歩いてみる。歩いてお寺をまわっていくなかで少しずつ遍路のことを知っていく。
知りたくなっていく。そのときに必要なものをそろえていけばいい」と。

だから私たちは、いつもの服で歩きやすいスニーカーを履いて、
リュックには地図と納経帳と納札とお賽銭を入れて、
見た目はハイキングみたいな感じで歩いています。

地図を見ながら、次のお寺まで2.5キロだよ~と確認しながら歩く。

地図を見ながら、次のお寺まで2.5キロだよ~と確認しながら歩く。

見た目はハイキング。いまの私たちにはこれくらいのスタイルで遍路道を歩くのがちょうどいい。

見た目はハイキング。いまの私たちにはこれくらいのスタイルで遍路道を歩くのがちょうどいい。

まだまだ、旅の途中。
伊豆下田に移住した一家の
働き方とコロナ禍での暮らし

伊豆下田に移住してもうすぐ4年になる津留崎鎮生さん、徹花さんと娘の一家。
夫婦が交互に綴ってきた、移住と自分たちの暮らしにまつわる連載も、
スタートから4年半になります。

101回目となる今回も、前回に続き特別編として、
津留崎さん夫妻にいまの暮らしや働き方について聞いてみました。

移住して変わった、働き方

――移住していろいろなことが変わったと思いますが、
そのひとつが働き方だと思います。
徹花さんは東京と行き来しながらフォトグラファーとして働き、
鎮生さんは〈高橋養蜂〉での農園管理の仕事と、最近ではライター業など
在宅でもできる仕事、複数の仕事を組み合わせる働き方ですね。

徹花: 新型コロナウイルスの感染拡大前は、月に2~3回東京に行って、
まとめて撮影して帰ってくるということが多かったですが、
いまは頻繁に行き来することもできません。
下田でも仕事をいただいてますが、東京の仕事を継続することで収入も安定するし、
以前からの仕事仲間とのつながりも継続できる。
仕事のついでに東京に住んでいる母にも会えるし、
2拠点で仕事ができるとちょうどいいバランスでした。

鎮生: このコロナ禍で、そのバランスがかなり崩れたね……。

徹花: 東京の仕事が減った時期もありますが、
同時に観光地である下田の仕事も影響を受けています。
でも新しいやり方も今後展開してみようと思っているんです。

――新しいやり方?

徹花: コロナ禍のさなかに、地元の方から撮影の依頼を受けたのですが、
商品を海辺のシーンで自由に撮ってほしいと。
普段だとスタッフが何人も集まって商品撮影をするのですが、
商品だけ渡されてあとはお任せというのは初めての経験でした。
実際に撮影していると下田はロケーションに困らない。
すぐそこに海も山もあるし、朝日も夕焼けも撮影できる。
この環境を生かして、たとえば商品を都市部から送ってもらって
撮影して写真を納品する、というやり方もできるなと思って。

――それはすごくいいですね! 東京の出版社にとってもありがたいのでは。

徹花: ある雑誌の編集長からの提案で、
海とか風景写真を下田で撮影してストックしてもらえないかと。
エッセイやコラムのページに、イメージカットとして
使わせてもらいたいという提案でした。
もちろん掲載した写真については料金をお支払いしますとのこと。
この下田の環境を生かしながら、そうした仕事のやり方もできるなぁと思いました。

絵描きとして地域とつながる。
鎌倉生まれ鎌倉育ちの
横山寛多さんが描く、このまち本来の姿

鎌倉から考えるローカルの未来

長い歴史と独自の文化を持ち、豊かな自然にも恵まれた日本を代表する観光地・鎌倉。

年間2000万人を超える観光客から、鎌倉生まれ鎌倉育ちの地元民、
そして、この土地や人の魅力に惹かれ、移り住んできた人たちが
交差するこのまちにじっくり目を向けてみると、
ほかのどこにもないユニークなコミュニティや暮らしのカタチが見えてくる。

東京と鎌倉を行き来しながら働き、暮らす人、
移動販売からスタートし、自らのお店を構えるに至った飲食店のオーナー、
都市生活から田舎暮らしへの中継地点として、この地に居を移す人etc……。

その暮らし方、働き方は千差万別でも、彼らに共通するのは、
いまある暮らしや仕事をより豊かなものにするために、
あるいは、持続可能なライフスタイルやコミュニティを実現するために、
自分たちなりの模索を続ける、貪欲でありマイペースな姿勢だ。

そんな鎌倉の人たちのしなやかなライフスタイル、ワークスタイルにフォーカスし、
これからの地域との関わり方を考えるためのヒントを探していく。

横山寛多さんが自宅兼仕事場を構えている海辺のまち・材木座。隣町の大町で長年過ごした後、現在は海から徒歩数分の場所にある古民家で暮らしている。

横山寛多さんが自宅兼仕事場を構えている海辺のまち・材木座。隣町の大町で長年過ごした後、現在は海から徒歩数分の場所にある古民家で暮らしている。

絵描きの家系に生まれ育ったクリエイター

四季折々の自然に囲まれ、歴史的遺産も豊富な鎌倉は、
古くは鎌倉文士の時代から、多くの表現者たちが創作活動の拠点としてきたまちだ。
そんな鎌倉で「絵描き」の家系に生まれ育ち、
現在もこのまちを拠点に活動を続けているのが、横山寛多さんだ。

風刺漫画で一世を風靡した横山泰三さんを祖父に、
『フクちゃん』で知られる横山隆一さんを大伯父に持つ横山寛多さんは、
幼い頃から自然と絵を描き始め、
鎌倉の豊かな自然や風土のなかで若き日を過ごしてきた。

20代後半よりイラストレーターとして本格的に活動を始めてからは、
さまざまな媒体のイラストを手がける傍ら、
〈邦栄堂製麺〉〈朝食屋コバカバ〉〈かかん〉など、
本連載でも紹介してきた地域を代表する店舗のロゴや看板、
パッケージなどのヴィジュアルを制作してきた。

さらに、地域の子どもたちに向けたお絵描き教室などを積極的に行い、
コロナ禍にはテイクアウト可能な飲食店マップを有志でまとめるなど、
絵描きとして、一住民として、このまちと関わり続けている。

日本有数の観光地としてだけではなく、近年は居住地としての人気もますます高まり、
横山さんが生まれ育った鎌倉のまちを取り巻く状況は年々変わりつつある。
さらに、昨今のコロナ禍の影響によってこのまちはいま、大きな岐路に立たされている。
こうした状況のなかでも自然体を貫き、日々の創作や生活を淡々と続ける横山さんは、
鎌倉というまちの本来の姿や、持続可能な未来のあり方というものを、
僕らに伝えてくれているように思える。

鎌倉のまちと関わり続け、地域の表情をかたちづくってきた
クリエイターの素顔に迫るべく、
横山さんの自宅兼仕事場である材木座の古民家を訪ねた。

野毛山〈藤棚デパートメント〉後編
商店街に開かれたシェアキッチンと
設計事務所

YONG architecture studio vol.3

横浜市の野毛山エリアにて、
オフィスや住宅、アトリエなど複数の拠点をつくり活動する
〈YONG architecture studio〉永田賢一郎さんの連載です。
現在は長野県にも拠点を持ち、2地域で活動を展開しています。

今回は藤棚商店街で始まったシェアキッチンのプロジェクト
〈藤棚デパートメント〉の後編。
資金集めから工事、オープン後の変化についてお届けします。

実現の方法を考える

藤棚商店街で構想を始めたシェアキッチン計画ですが、果たしてどう実現していくか。
最適な物件とやりたい計画はすでにありましたが、
手元に活動資金が全然ありませんでした。
そこでまずは「野毛山ミーティング」の資料や〈藤棚のアパートメント〉の活動など、
新たに商店街でやりたいことを企画書にまとめ、銀行や信用金庫を回ることにしました。

藤棚商店街の中にある横浜信用金庫さん。

藤棚商店街の中にある横浜信用金庫さん。

まだ設計事務所として数年しか経っておらず、融資の実績もなかったので
「借りるのは無理でしょう」との声もありましたが、まずは相談。
すると、いくつか回るうちに商店街の中にある横浜信用金庫さんが
「地域のためになるならぜひ」と快く相談にのってくださることになりました。

事業化することは、設計の幅を広げること

融資を受けるには具体的な事業計画が必要です。
家賃の設定、月々の稼働時間、ランニングコスト、設計事務所の営業との両立など、
自分が事業者になって初めて見えてきたことがたくさんありました。

特に感じたのは、設計と運営、事業計画を一緒に考えることで
設計の幅を広げていける、ということでした。

内装設計をまとめ、見積もりを出して金額の調整をする。
そのとき提案の一部が削られても、アイデアを温存しておき、
その後の事業展開で再度取り込むことができます。

そこでまた工事が必要になった場合、
その資金は日頃の運営で得た収入から捻出するので、
使いやすい場所づくりができていれば収益が上がり、
新たな工事に投資できる額も増えます。

模型で使い方を検証。

模型で使い方を検証。

どういう場所が使いやすいのか。どれくらいの席数だと居心地がよくなるのか。
設計段階で検証したことが、運用されたときにリアクションとなって返ってきます。
空間に対するフィードバックが常にあり、
その都度使い方や仕様を検証しながらアップデートできる。

つまりは、設計者が事業をすることで、利用者さんすべてをクライアントとして
設計し続けているとも言えます。

石川県能美市〈ユトリヒト診療所〉
空き家だった元美容室を、
温もりあるクリニックへ

SWAY DESIGN vol.6

石川県を拠点に、住宅・オフィス・店舗のリノベーション、
不動産の有効活用を提案する不動産事業などを展開する、
〈SWAY DESIGN〉永井菜緒さんの連載です。

今回は、石川県能美市の精神科・心療内科クリニックのご紹介です。
元は依頼者の母が営んでいた美容院。
数年の空白期間を経て、施主自らが運営するクリニック
〈ユトリヒト診療所〉へと生まれ変わりました。

空き物件の活用相談からスタート

依頼者Tさんとの接点は
「母が経営していた元美容院の建物を賃貸に出したい」
というご相談から生まれました。

この建物があるのは、石川県能美市。
「行政の空き家バンクに登録したものの反応が弱く、
このままでは劣化が進むだけ。どうしたらよいでしょう」というお話でした。

空き家バンクや不動産屋へ売却or賃貸の依頼をしたあと、
所有者ができることは、反応を待つのみ。
立地や条件のよい建物であれば、早い段階で問い合わせが重なり、
購入や賃貸に進むケースがあります。

しかし、アクセスの悪い郊外にあったり、そのままでは使えない状態の物件は、
数か月経っても問い合わせがゼロということも。
そんな場合はどうすればよいのでしょうか。

外観ビフォー。空き家状態となってしばらく放置。内外ともに劣化が進んでいた。

外観ビフォー。空き家状態となってしばらく放置。内外ともに劣化が進んでいた。

イラストエッセイ
『山を買う』の販売は?
小さな出版活動の経済について考える

出版活動4年目。その実情を振り返って

2016年、岩見沢市の山あいに8ヘクタールの山を買ったことがきっかけで、
私の出版活動は始まった。

購入の動機は、エコビレッジをつくりたいという構想をかたちにするためだった。
いまのところ、この土地でのエコビレッジづくりはまだまだ先の話だけれど、
山を買ったことに興味を示してくれる人が多く、
2017年春に、購入の経緯をイラストエッセイとしてまとめた
『山を買う』という小さな本をつくった。

買った山は木が伐採された跡だが、年々、幼木が大きくなっている。

買った山は木が伐採された跡だが、年々、幼木が大きくなっている。

本といっても大手ネットショップでの販売もしていないし、
ほぼ書店営業もしていない状況ながら、予想を超える反響があり、
現在までに800部ほどが売れた。
この出来事は、時間をかければ、小さな出版活動も
やがては経済が回るようになるのではないかという可能性を感じさせる出来事だった。
今回は、出版活動の実情を振り返りつつ、未来の可能性について考えてみたい。

『山を買う』。文字は手書きでイラストも自分で描いた。A6サイズ24ページの小さな本。

『山を買う』。文字は手書きでイラストも自分で描いた。A6サイズ24ページの小さな本。

これまで商業出版に携わっていたこともあって、本の流通や印刷費のことを考えると、
自費で出すということに魅力を感じられずにいたが、
『山を買う』の刊行で新しい世界が開けたように思った。

その世界とは、顔の見える関係性だ。
本をいつもレジの横に置いてくれた書店さん、
講演会を企画してくれた図書館のみなさん、
たびたび記事にしてくれた新聞記者さん。
地元のみなさんが本の販売をサポートしてくれ、
「本読んだよ!」と声をかけてくれたことが、次なる行動の原動力となった。

これまで何百冊と本をつくってきたけれど、
読者の姿はSNSの投稿で知る程度だったこともあり、
身近な地域の人たちが本を読んでくれたことに、本当に勇気づけられた。

ふきのとうの一生を切り絵によって表した絵本。A6サイズ、24ページ。造本作家の駒形克巳さんが本づくりのアドバイスをしてくれたおかげで生まれた。

ふきのとうの一生を切り絵によって表した絵本。A6サイズ、24ページ。造本作家の駒形克巳さんが本づくりのアドバイスをしてくれたおかげで生まれた。

2018年夏に、切り絵の絵本『ふきのとう』刊行を機に、
この出版活動の名前を〈森の出版社ミチクル〉として、
さらなる本づくりをやっていこうと考えた。

翌年には、北海道の道南せたな町で、
オーガニックな農法で作物や家畜を育てる〈やまの会〉に取材した本
『やまの会と語った死ぬと生きる』を刊行。

2020年には、山主や林業関係者などに取材した内容をもとに
『山を買う』の続編をつくった。

『やまの会が語った死ぬと生きる』。せたなで農業を行う5名と漁師1名にインタビューを行った。A5サイズ、88ページ。

『やまの会が語った死ぬと生きる』。せたなで農業を行う5名と漁師1名にインタビューを行った。A5サイズ、88ページ。

地方に移住して農業をしたい!
何から始めたらいい?

私たちが移住して農業を始めたわけ

あの大きな震災から10年が経ちました。
私たちは震災の1年半後に小豆島に移住し、いま農業を生業(なりわい)にしています。

9年目の春を迎えた私たち〈HOMEMAKERS〉の畑。

9年目の春を迎えた私たち〈HOMEMAKERS〉の畑。

春作のジャガイモ植え付け準備。

春作のジャガイモ植え付け準備。

都会から地方に移住して農業をしたい! 
そう思っている人が少なからずいると思います。
移住して農業をするには何から始めたらいいか? 

時々そんな質問をされることがあるのですが、
「農業」とひと言でいっても規模も形態もさまざまで、
そのスタイルによって適した地域や勉強すべき内容、
取り組み方もまったく違うので、答えはひとつじゃないです。

ここでは、実際に小豆島という離島に移住して
8年間農業に取り組んできた、いまの私たちが思っていることを書きます。

家で食べるように収穫した半端もの野菜たち。きれいに育てられなかったビーツや畑に残っていたワケギなど。それでも自分たちが食べるには十分。

家で食べるように収穫した半端もの野菜たち。きれいに育てられなかったビーツや畑に残っていたワケギなど。それでも自分たちが食べるには十分。

10年前の3月11日、私は名古屋のオフィスビルで働いていました。
ぐわーんぐわーんと船に乗っているみたいな感覚がして、それがあの地震でした。
その日は急いで子どもを保育園に迎えに行ったのを覚えています。

それから数日、テレビやネットでさまざまな報道を見ていて、
地震という自然のとてつもない力の怖さ、
一瞬でなくなってしまう普段の生活の脆さを感じ、
直接被害を受けなかった自分が何をできるのかなど、さまざまな思いがめぐりました。

いろいろ考えたなかで、いまでも頭の中に残っているのは、
人は「買う」ということにすごく依存して生きているんだなと感じたこと。

物流がストップし、スーパーが営業できず、食べものが買えない。
野菜を買うために行列ができて、並んでも数が足りなくて買えない。
誰かが用意してくれたものを「買う」ことで生活してる。
いざ買えなくなってしまったら、当たり前だと思っているいつもの生活が
すぐにできなくなってしまうんだなぁと。

そのとき、もっと生きる力を身につけたい、
生きるために必要なものを自分の手でつくれるようになりたいと漠然と思いました。
なんでもかんでもお金を払って買うんじゃなくて、
少しでも自分で生み出せるようにする。自分たちが食べるものをつくりたい。
その思いが、私たちが農業を始めたひとつのきっかけです。

小豆島に移住してすぐに畑で撮影した家族写真。これがスタート。

小豆島に移住してすぐに畑で撮影した家族写真。これがスタート。

連載100回記念!
津留崎家の移住をめぐる“旅”

移住先探しの旅に始まり、紆余曲折を経て、下田に移住した
津留崎鎮生さん、徹花さんと娘の一家。
自分たちの暮らしを見つめ直し、そのときどきの思いを
夫婦でリアルに綴ってきたこの連載もスタートから4年半、
ついに100回を迎えました。

今回は特別編として、人気記事のベストテンをご紹介しながら、
これまでの移住をめぐる“旅”を振り返ります。

――連載100回おめでとうございます! ここからは、連載開始からいままで、
よく読まれた記事をカウントダウン形式で振り返りたいと思います。

第10位 移住、どこで暮らす? 一家で移住先を探す旅へ

42歳の夫、42歳の妻、5歳の娘の津留崎家は移住することを決意。夫は会社を辞めて、移住先探しの旅へ。(2016年9月)

42歳の夫、42歳の妻、5歳の娘の津留崎家は移住することを決意。夫は会社を辞めて、移住先探しの旅へ。(2016年9月)

――10位は記念すべき第1回目でした。
移住先探しの旅を始めると聞いて、私たちも驚きました。

鎮生: いま思えば、移住先を決めないで旅に出るって、よく行ったよね。
行っちゃえば、移住できるだろうという気持ちはあったけど。

徹花: まだ迷いはありました。移住したいけれど、
どういう暮らしがいいという具体的なことは、はっきりしていなくて。
でも旅先で出会った人たちの暮らしを見ながら、こんなことができるんだと、
自分たちが求めていたものがわかるような旅でした。

車中泊ができるように車を改造。自分たちの暮らしを探す旅が始まりました。

車中泊ができるように車を改造。自分たちの暮らしを探す旅が始まりました。

第9位 こんな人は要注意!? 移住に向いていない人ってどんな人?

下田に移住して1年余り。実際に移住してみて、こんな人は移住に向いていないかも? というポイントをまとめました。(2018年8月)

下田に移住して1年余り。実際に移住してみて、こんな人は移住に向いていないかも? というポイントをまとめました。(2018年8月)

――9位はこちら。移住したいと考えている人たちにとって興味深い内容だと思います。
こんな人は難しいかも、というポイントとして

・収入を下げたくない

・虫、爬虫類と暮らせない

・心配性すぎる

・教育機関にこだわる

・免許がない、車の運転が苦

を挙げていましたが、いま振り返ってどうですか?

鎮生: たしかにそうですね。

徹花: 収入は本当に下がりました。それで不安になる人は大変かも。
ほかに何かあるかな?

鎮生: 人づき合いが苦手な人はちょっと難しいかな。
ただ、ご近所づき合いが嫌なら別荘地とか山の奥で暮らすという手もあります。

徹花: コミュニティが小さいと何をしてるか丸見えで、
たとえば庭に車がないと「出かけてたの?」とわかっちゃう。
そういうことが苦手だときついかもね。
うちは人づき合いが嫌いじゃないから、居心地はいいです。

最初は業者に依頼したスズメバチの巣の撤去も、自分でできるように。田舎は虫は多いけれど、慣れるそうです。

最初は業者に依頼したスズメバチの巣の撤去も、自分でできるように。田舎は虫は多いけれど、慣れるそうです。

気仙沼をワクワクがあふれるまちに。
〈まるオフィス〉加藤拓馬さんが
手がける“人づくり”

宮城県最北端に位置する気仙沼市。
三陸リアス式海岸の一部である唐桑半島を有し、
東日本大震災で大きな被害を受けた土地のひとつだ。

震災直後、復興ボランティアとして気仙沼に入り、
以来まちをおもしろくする担い手のひとりとなっているのが、
〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。

緊急支援から観光事業を経て、現在は
「ワクワクしている次世代を育てる学びの仕掛け人」として、
中高生を中心とした教育事業に取り組んでいる。
震災から10年、まちはどう変わり、どんな未来を描いているのか取材した。

背中を押されて気仙沼へ

「東北に行け。後方支援は俺がする」

当時大学4年生だった拓馬さんが気仙沼へやってきたのは、
震災の翌日にかけられた、先輩のこの言葉がきっかけだった。
学生時代ハンセン病を研究し、中国の隔離村で道の舗装やトイレをつくるなど、
ワークキャンプの経験がある拓馬さんの力をかってのことだ。

現場でしか感じられないことがあることを、拓馬さんは知っていた。

「ハンセン病の回復者たちとともに時間を過ごしたことで、
長い間差別を受けてきたのにもかかわらず、
なぜ僕らを笑顔で受け入れてくれるんだろうと、
人間の魅力みたいなものを感じるようになりました。
それからは“誰かを助けに行く”というより、
“本物に出会いに行く”活動をしているという感覚になっていくんです」

〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。兵庫県出身で東京の大学に通い、4年生のときに東日本大震災が起きた。

〈一般社団法人まるオフィス〉代表理事の加藤拓馬さん。兵庫県出身で東京の大学に通い、4年生のときに東日本大震災が起きた。

この原体験が、拓馬さんの気仙沼への一歩を後押しする。

「3.11があって、東京でスーツを着て働く……それでいいのか、
僕が行かなきゃいけないんじゃないかみたいな、“勘違い使命感”が湧いてきました」

学生でも社会人でもない、何者でもない3月という時期、
4年間ワークキャンプをやってきたらからこその選択だった。

「これからは一緒にやって行くべしな」

内定を辞退したからには、数日・数週間の短期ではなく、
半年は腰を据えてやろうと長期ボランティアとして気仙沼へ入った拓馬さんだが、
移住しようとまでは思っていなかった。
半年経って瓦礫の撤去が落ち着いたら、東京に戻ろう。
当初はそう考えていた。

しかし、夏頃から地元の人たちの気持ちが落ち込んでいく様子を目の当たりにする。

「『がんばれ東北って言われるけど、もう言われたくない。
もう十分がんばっている』とか、
『唐桑にいてもダメだから仙台に行きたい。もうこのまちはダメだ』
という声を毎日のように聞いていました。短期で来たボランティアには、
『また来てね、がんばるからね』と言うけれど、
ずっといる僕に対しては、もう無理だって本音が出る。

僕にしか聞けない地元のことを聞いているんだなと思ったときに、
瓦礫が片づいたから帰るというのは薄情な気がしてきて、
この人たちはどうしたら元気になるんだっけ? と考え始めました。
まだ僕にやれることがあるんじゃないかって」

大きな被害を受けた気仙沼の中心部である内湾地区は、現在は整備され、さまざまな店舗が入った複合施設が並び、まち歩きもできる。

大きな被害を受けた気仙沼の中心部である内湾地区は、現在は整備され、さまざまな店舗が入った複合施設が並び、まち歩きもできる。

9月に瓦礫の撤去が落ち着いても、拓馬さんは帰らなかった。

「まさか10年いるとは思わなかったです。ずるずるといたという表現が正しい」
と拓馬さんは笑うが、2011年の年末に、印象的な出来事があった。
お酒を飲むといつも「ありがとうな」と言ってくれていた居候先の馬場康彦さんが、
「これからは一緒にやっていくべしな」とぽろっと言ったのだそう。

「それまでは、地元の人間がやらなくてはいけない瓦礫の撤去を、
外から来た支援者がやってくれているという気持ちで
言葉をかけてくれていたと思うんです。
でもこれからは被災者と支援者じゃなくて、
地元の人と、外から来た“風の人”として、
一緒にまちづくりを考えられるかもしれないと思いました」

中長期的におもしろいことができるかもしれない。
2012年、拓馬さんは住民票を気仙沼へ移した。

震災から生まれたものづくり。
〈石巻工房〉の新たな拠点
〈Ishinomaki Home Base〉

宮城県東部・太平洋沿岸に位置する石巻市は、牡鹿半島の一部や金華山を抱え、
全国屈指の水揚げ量を誇る水産都市として栄えてきたまち。
仙台に次ぐ県内第2の人口を擁するこのまちも、東日本大震災で大きな被害を受けた。

ここに、震災直後に立ち上がり、いまでは世界の家具業界から
そのデザインや機能性が注目される〈石巻工房〉がある。
昨年の秋には、新たな拠点として〈Ishinomaki Home Base〉をオープン。
どんな10年だったか、そしていま何を見据えているか、
代表取締役・工房長の千葉隆博さんに話を聞いた。

新たな拠点が誕生

石巻駅から車で約10分、国道398号線を走ると、
洗練された別荘のような建物が現れる。
2020年10月にオープンした〈石巻工房〉のカフェ兼ショールーム
〈Ishinomaki Home Base〉だ。

この建物の設計を手がけたのは、石巻工房を設立した共同代表の建築家・芦沢啓治さん。
内部の造作家具は石巻工房によるもので、石巻工房の製品も数多く並ぶ。
1階のカフェテナント〈I-HOP CAFE〉を利用すると、
知らず知らずのうちに実際に工房の家具を利用できるのが魅力だ。

I-HOP CAFEを運営するのは、農業で地域を盛り上げようと、
石巻市北上町で活動する〈イシノマキ・ファーム〉。
コーヒーのほか、自ら育てたホップを使用したクラフトビール〈巻風エール〉や、
ホップティーを販売。週末はファームで育てた野菜でつくる
プレートランチを提供している。

石巻・北上産のホップを使用した〈巻風エール〉(700円)。

石巻・北上産のホップを使用した〈巻風エール〉(700円)。

2階はゲストハウスになっており、各部屋の設えは、
工房ゆかりの建築家・プロダクトデザイナーがそれぞれデザインした。
〈トラフ建築設計事務所〉による「Takibi」、
寺田尚樹さんによる「Hato」、
〈ドリルデザイン〉による「Eda」、
〈藤森泰司アトリエ〉による「Noki」の4部屋がある。

「Takibi」は、焚き火をイメージした照明が特徴的。道路に面するこの部屋の利用者はデッキを占有することができる。1泊1名利用:1室8000円、2名利用:1室14000円。

「Takibi」は、焚き火をイメージした照明が特徴的。道路に面するこの部屋の利用者はデッキを占有することができる。1泊1名利用:1室8000円、2名利用:1室14000円。

「noki」は軒下にいるような場所をイメージしてデザインされた。ベッドにもなるソファがあり、最大3人利用可。1泊1名利用:1室8000円~3名利用:1室13500円。

「noki」は軒下にいるような場所をイメージしてデザインされた。ベッドにもなるソファがあり、最大3人利用可。1泊1名利用:1室8000円~3名利用:1室13500円。

キッチンもある宿泊者の共用スペース。

キッチンもある宿泊者の共用スペース。

Ishinomaki Home Baseができるまでには、
石巻工房の役員でもある若林明宏さんの存在が大きい。
不動産業を営む若林さんは、大手保険会社の海外駐在経験があり、語学が堪能。
海外取引を拡大している石巻工房が人材を探していることを知り、
以前から製品のファンであったことから手を挙げ、活動に参加し始めた。

「時折、製品を見たいとお客さんが訪ねてくるのですが、工房はいわゆる作業場。
若林さんがそれを見て、ショールームがあったほうがいいよねと提案してくれたんです。
若林さんは自転車ブランドをつくりたいという夢も持っていたので、
じゃあ一緒にやろう、カフェも始めてお客さんを呼ぼう。
せっかくだから泊まれるショールームにしよう、
それならばこれまで石巻工房に関わってくれたデザイナーさんに声をかけてみよう、と
どんどん夢が広がって、いまのかたちになりました」

工房長の千葉隆博さん。もともとは鮨職人だったが、震災後、石巻を訪れていた芦沢さんと出会った。

工房長の千葉隆博さん。もともとは鮨職人だったが、震災後、石巻を訪れていた芦沢さんと出会った。

「テナントも若林さんが見つけてきました。
つくり手のつくりたいアイデアと、つくる人をつなぐのがうまいんです」

準備中の若林さんのブランドのほか、1階には牡鹿半島で狩猟を行い、鹿肉でソーセージを、鹿皮で小物製品をつくる島田暢さんのブランド〈のんき〉も入る。

準備中の若林さんのブランドのほか、1階には牡鹿半島で狩猟を行い、鹿肉でソーセージを、鹿皮で小物製品をつくる島田暢さんのブランド〈のんき〉も入る。

震災から10年。
未来へ語り継ぐ方法をつくる
アーティスト、小森はるか+瀬尾夏美

東日本大震災後のボランティアをきっかけとして、
岩手県陸前高田市を中心に、人々の記憶や記録を
未来へ受け渡す表現活動を行ってきたアーティスト、小森はるかさんと瀬尾夏美さん。
「小森はるか+瀬尾夏美」名義でユニットとしても活動し、
現在、共同で制作した映画『二重のまち/交代地のうたを編む』が全国公開中。

また、グループ展『聴く-共鳴する世界』(アーツ前橋で2021年3月21日まで)、
『3.11とアーティスト:10年目の想像』(水戸芸術館現代美術ギャラリーで
5月9日まで)にも参加している。
この10年の変化について、水戸芸術館で話を聞いた。

小森はるか+瀬尾夏美『あわいゆくころ再歩』2011-2021年 『3.11とアーティスト:10年目の想像』水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景。瀬尾さんが2011年から続けてきたツイートから選んだテキストとドローイング、小森が撮影した映像のなかを歩く。背景には水戸芸術館が作成した2011年以降の主な災害などの年譜が。

小森はるか+瀬尾夏美『あわいゆくころ再歩』2011-2021年 『3.11とアーティスト:10年目の想像』水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景。瀬尾さんが2011年から続けてきたツイートから選んだテキストとドローイング、小森さんが撮影した映像のなかを歩く。背景には水戸芸術館が作成した2011年以降の主な災害などの年譜が。

関係性のなかで生まれるものを希求していた美大生

2011年3月11日、東京藝術大学先端芸術表現科4年生の小森はるかさんは、
東京のアルバイト先に、瀬尾夏美さんは東京の自宅にいた。
卒業制作展を終えた頃だった。

『あわいゆくころ再歩』より。

『あわいゆくころ再歩』より。

先端芸術表現科は、油絵科や彫刻科のように
メディアを決めてから何を表現するか考えるのではなく、
コンセプトややりたいことを先に発想し、
そのために必要なメディアを選びながら制作できる場所だった。
この「つくり方からつくる」考え方がいまでも基礎にある。

瀬尾さんは写真を撮っていた。

「ポートレートは、相手との関係性のなかで写真を撮ることだと考えていました。
私が相手の笑顔がいいと思っても、相手にとっては
自分のイメージとズレていることってありますよね。
つまり、共同作業のなかから生まれるものだと思っていて、
それはいまの語りの問題につながっていると思います。

体験は、私とあなたの関係のなかで語られ、聞き手によっても編集される。
また、写真ではなく絵画でなら、記録されていない、
誰かと一緒に見た風景を再び立ち表すこともできるかもしれないと考え、
大学院で絵を学ぼうと思っていたところでした。
この“失われた風景を描く”ということが、
震災を機に広い領域へと開かれていったと思います」

絵画や文章を描く瀬尾夏美さん。

絵画や文章を描く瀬尾夏美さん。

小森さんは、先端芸術表現科で映像を学びながら、
映画美学校で劇映画をつくる方法を学んでいた。

「脚本を書いて、演出をして、16ミリフィルムで撮影するといった、
1年間でフィクション映画をつくるプログラムでした。
けれど、稽古では輝いていた演者が本番では撮りたかったその人から逸れていくとか、
風景も練習で撮っていたときのほうがよかったなということがあって、
自分はドラマをつくり込んでいきたいわけではないんだなと戸惑うこともありました。

その後、脚本から俳優の方と一緒に制作したり、
その人にとってルーツになるような場所で撮影したり、
ドキュメンタリーという意識ではなかったんですけど、
監督、俳優、カメラマンという役割を分け切らないかたちで
一緒に映画をつくる方法を実験していました」

映像作家の小森はるかさん。

映像作家の小森はるかさん。

震災の直後から、被災地の安否情報や写真などが
SNSで流れてくるなかで、瀬尾さんは
「こんな状況で絵に何ができるのか、これからどうなるんだろう」
と不安になった。

と同時に、「大学と家族と友人くらいの狭い社会にいたのに、
急に震災が自分の問題として接続してしまった感覚で、
現場を見ないと何もわからないと思いました。
当時、被災地に物見遊山で行くなといった批判もあるなかで、
中学生がボランティアをしているニュースを見て、
迷惑ではないかと懸念する前に行ってみようと思ったんです」

東日本大震災をきっかけに
北海道に移住して10年。
文章を書く苦しさから解放されて

ビジョンのなかった移住。東京の仲間と離れた喪失感

3月が近くなってくると、いつも思うことがある。
もうすぐ東日本大震災が起こった、あの日がやってくるのだと。
毎年、節目となる日を、何かしらのかたちで残したいという気持ちになる。
昨年は、美流渡(みると)に移住した画家のMAYA MAXXさんとのプロジェクトである
〈Luceプロジェクト〉を、3月11日に立ち上げた。

今年は、この地域の人々にインタビューをした書籍
『いなかのほんね』の発行日を、あの日に設定させてもらった。
ついに10年が経ち、ここでもう一度、記憶を振り返ってみたいと思う。

岩見沢市の美流渡と周辺地域に暮らす人々10組にインタビューをしてまとめた本『いなかのほんね』はもうすぐ刷り上がる。北海道教育大学のプロジェクトの一環として中西出版より刊行。

岩見沢市の美流渡と周辺地域に暮らす人々10組にインタビューをしてまとめた本『いなかのほんね』はもうすぐ刷り上がる。北海道教育大学のプロジェクトの一環として中西出版より刊行。

あの日を境に暮らしはまったく変わっていった。
当時、東京の武蔵小金井にある1969年に建てられた古いマンションで暮らしていた。
長男は生後5か月。私は育児休暇中で家にいた。
偶然、夫も仕事を休んでいた日に震災に遭遇。
12階にいて建物は激しく揺れ、本棚のものがすべて落ちた。

最初は何が起きたのかわからなかったが、その直後に余震が来て、我に返った。
このままでは建物が崩れるのではないかと思い、
息子を抱えて同じ市内にあった実家に避難した。
それからずっとテレビに釘づけとなり、やがて福島第一原発に事故が起こったと知った。

岩見沢市は10年ぶりの大雪。私たちが移住した年も、災害級の雪が降った。

岩見沢市は10年ぶりの大雪。私たちが移住した年も、災害級の雪が降った。

私は大学生のとき、なぜだかわからないけれど、
チェルノブイリ原発事故や世界各地で行われている核実験について
調べていたことがあった。

写真集やドキュメンタリー映画を見たり、
放射線とは何かについての科学的な知識を得たりしていたこともあり、
事故が起こったときには、いままでに感じたことのない、
全身が恐怖で埋め尽くされるような感覚を覚えた。

さまざまな情報が飛び交うなかではあったが、
関東にもホットスポットができていたこともあり、
私は夫の実家があった北海道岩見沢市に移住を決めた。
幸いなことに当時勤めていた出版社が、
北海道での在宅勤務を認めてくれたこともあって、
2011年の夏に引っ越し、テレワークを始めた。

東京では見慣れない花が道端にたくさん咲いていた。

東京では見慣れない花が道端にたくさん咲いていた。

地方への移住というと、スローライフを求めてとか、自然に近い暮らしをしたいとか、
夢を実現させるために踏み出すというのが一般的な捉え方のように思う。
そして、どこに住むのかがとても重要だと思うのだが、
このときの私はとにかくすぐに移住できる場所ということで岩見沢市を選んだ。

移住のビジョンもとくになかったし、
会社のなかでたったひとりだけテレワークを始めたといううしろめたさや、
武蔵小金井のご近所で親しくしていた仲間との別れもあって、
コミュニティから外れてしまった喪失感は大きかった。

岩見沢市で暮らし始めても、なかなか友だちが増えなかった。
テレワークであっても管理職であったため朝から晩まで働いていて、
ほとんど外出しなかったし、息子が通う幼稚園の集まりにも時々参加する程度。
そして話す内容にも気を使っていて、
震災や原発事故について語ることは控えていたため、
移住してきた理由や意味を北海道のみなさんにうまく伝えることができなかった。

こちらに移住して初めて桑の実を木から取って食べた。

こちらに移住して初めて桑の実を木から取って食べた。