今年の春、わたしが住む美流渡(みると)地区にあった小中学校が閉校となった。
閉校前の生徒の数は、小中合わせてわずか18名。
学校をなんとか存続させたいという地域の想いもあったのだが、
今後は入学者がいない年もあると予想されることもあり、閉校が決まったのだった。

小学校の全校生徒は7名だったが、教室には元気いっぱいの声が響き渡っていた。(撮影:佐々木育弥)
昨年より閉校に関するPTAの話し合いが何度も行われた。
わたしの息子が小学校に通っていたため、
この話し合いに参加していたのだが、そのたびに
「当たり前にあった学校が地域から姿を消すこととはいったいどんなことなのだろう?」
「校舎は今後どのようになっていくのだろう?」と疑問がわいた。
そこで、学校の施設を管理する教育委員会の職員や校長先生に、
今後の校舎利用の方針について尋ねてみたりもしたが、
検討中ということで展望は開けていない状態だった。

小学校の閉校式の様子。開校から115年ということで、115個の風船を飛ばして学校とのお別れをした。(撮影:佐々木育弥)
そんななか、地域のPRなどで日頃から活動をともにしている仲間と、
機会があるごとに、学校利用について語り合ってきたが、
なかなかアイデアを実行に移すことができないでいた。
細々と続けている地域PRの活動ですら本業との両立が難しくて手薄になっており、
学校の活用プランまで手が回らないというのが現状で、
気がつけば春になり、閉校を迎えることになってしまった。
校舎1階の窓には板が取りつけられ、雑草もどんどん大きく育ち
閑散とした風景が広がるようになった。
そして、市街地の学校へと通うことになった生徒の家族数名が、
この地域を離れていくこととなった。

閉校後の小学校の校舎。玄関や1階の窓には板が貼られ、ひっそりと静まり返っている。
わたしは校舎の脇を通り過ぎるたびに、
見て見ぬ振りをしていてはいけないのではないかという思いが募っていった。
また、息子に荒んでいく学校を見せたくないという気持ちもあった。
こうした悶々とした気持ちを抱えていたときに、
北海道教育大学岩見沢校の教授・宇田川耕一先生から、
計画中のプロジェクトへ協力してほしいという依頼があった。
そのプロジェクトとは「万字線プロジェクト」という名称の教育プログラム。
万字線とは、岩見沢の山あいがかつて炭鉱街として栄えた時代に、
主に石炭輸送のためにつくられた鉄道路線のことで、
わたしが住む美流渡地区をはじめ各地に駅があった(1985年に全線廃止)。
教育大では、現在過疎化が進んでいるこの地域で、学生がリサーチを行い、
必要とされる拠点づくりなどの企画やイベントを実施し、
そのプロモーションも行うという一連の体験を通して、
実践的な課題解決に取り組める人材を育てるプログラムを行おうと考えていた。

宇田川先生は、芸術・スポーツビジネス専攻の教授。毎年1年生を美流渡に引率し、フィールドワークも行っている。こうしたつながりから「万字線プロジェクト」が生まれていった。
宇田川先生の話を聞いていくなかで、わたしはハッとひらめいたことがあった。
「万字線プロジェクト」のひとつの目玉として、
炭鉱街として栄えた時代に多くの生徒でにぎわっていた美流渡の小中学校を、
学生の手によって復活させるというプログラムにしてはどうかと提案した。
北海道教育大学岩見沢校は、市内では唯一の大学で、
芸術、スポーツ、それをつなぐビジネスという専攻が集まっているという特徴を持つ。
美流渡をはじめとする岩見沢の山あいには、
工芸家やアーティスト、ミュージシャンなども住んでおり、
移住者によってスポーツのアクティビティも増えていることから、
この大学の専攻との親和性も高いとわたしは思っていた。
宇田川先生は「それはおもしろいですね」と目を輝かせてくれ、
わたしが学校復活のアイデアの大枠を書くことになった。

プロジェクトの最初に書いたプラン。
名づけたタイトルは「森の学校 ミルトをつくろう」。
学生たちが炭鉱街としてにぎわった歴史を探り、
こうしたなかからイベントや施設利用の企画を生み出し、
活動全体を外に向かって発信していく、
リサーチ・アクション・プレゼンテーションを行う
ラボスペースのようになればと考えた。
そして、わたしの構想をもとに、宇田川先生が
7月の毎週土曜日に3回連続でセミナーを行うことを計画してくれた。

セミナーで話をする宇田川耕一先生(中央)。