連載
posted:2019.8.30 from:東京都豊島区 genre:アート・デザイン・建築
〈 この連載・企画は… 〉
各地で開催される展覧会やアートイベントから、
地域と結びついた作品や作家にスポットを当て、その活動をレポート。
writer profile
Natsuki Ishigami
石神夏希
いしがみ・なつき●東京都生まれ、神奈川県育ち。劇作家。〈ペピン結構設計〉を中心に活動。近年は国内各地や海外に滞在し、都市やコミュニティを素材とした演劇やアートプロジェクトを手がける。『Sensuous City[官能都市]』(HOME'S総研, 2015)等調査研究、NPO法人〈場所と物語〉代表、遊休不動産を活用したクリエイティブ拠点〈The CAVE〉設立など、空間や都市にまつわるさまざまなプロジェクトに関わっている。「東アジア文化都市2019豊島」舞台芸術部門事業ディレクター。
雑司が谷に江戸時代から伝わる伝統行事
「御会式(おえしき)」を軸に展開するアートプロジェクト〈Oeshiki Project〉。
その背景やプロセスを、劇作家であり、このプロジェクトのディレクターである
石神夏希さんが紹介していきます。
雑司が谷の御会式コミュニティは、すごく濃厚だ。
30万人が集まる一大イベントだけれど、一番楽しんでいるのは
やっぱり太鼓を叩いている人たちだと思う。
なんたって地域の人たちが、1年かけて準備をしている。
いい意味で「内輪」なのだ。
内輪で盛り上がっていてこそ、ローカルな文化はおもしろいと思う。
でも実は、雑司が谷に住んでいない人も講社(チームのようなもの)に入れるし、
異なる信仰を持っていても(本人がよければ)太鼓を叩くことができる。
そんな「内輪だけど、閉じてはいない」ローカルのあり方が、絶妙だと思う。
だが思ったより知られていない。これは結構、もったいない。
さまざまな人が暮らす都市で、「御会式」という場がいまより少しだけ開かれる。
異なる文化を持った人たちが、違いを確かめ合いながら、
ひとつの音楽をつくることはできないか。一緒に歩くことはできないか。
そんな着想からOeshiki Projectでは、まちを舞台に、
御会式の太鼓をモチーフにした『BEAT』という
参加型パフォーマンスをつくることになった。
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では御会式が「自分と異なる誰か」に開かれるとしたら、
誰に向かって開かれたらいいだろうか。
たとえば「村の祭り」から一番遠い人は、誰か。
都会に住む人? 海外の人?
否。私は「隣村の人」だと思う。
人間というのは「隣人」ほど比べたり、張り合ったり、
そっぽを向いたりしがちなものじゃないだろうか。
だとしたら、雑司が谷の御会式から、もっとも近くて遠い「隣人」は誰だろう?
そんなとき知人から、池袋駅の北西には
中国籍の人たちがたくさん住んでいると教えられた。
南東にある雑司が谷から見ると、ちょうど反対側だ。
ツアーパフォーマンス『BEAT』を通じて、
このふたつのコミュニティ同士を、御会式の夜に出会わせることはできないか。
そこで声をかけたのが、中国出身のアーティスト、
XiaoKe x Zihan(シャオクゥ×ツゥハン)だ。
シャオクゥ×ツゥハンは、上海に拠点を置くパフォーマンスアーティスト。
ふたりは世界各国を旅しながら、その土地ごとにリサーチを行い、
作品を制作・発表している。
現在、彼らが取り組んでいるのが〈CHINAME〉というプロジェクト。
世界に散らばる中国系移民の人々へのインタビューをもとに
「中国とは何か? 中国人とは何か? 国籍とは、国とは何か?」
を問うパフォーマンス作品だ。
私は2018年夏に台北でこの作品を見て、
Oeshiki Projectでのコラボレーションを依頼した。
中国人である彼らが台湾で「中国とは何か?」を問う行為には、緊張感を伴う。
でも彼らの表現には深刻ぶるのでもなく皮肉でもなく、
ド直球にぶつけてくるがゆえに笑ってしまうような、ユーモアと切実さがあった。
2019年現在、豊島区の人口の約1割が外国籍。
なかでも一番多いのは、中国籍を持つ人たちだ。
世界各地の「チャイニーズ」を見てきたシャオクゥとツゥハンの目に、
彼らはどう映るのだろうか。
そこには、どんなコミュニティの姿が浮かび上がってくるだろうか。
2019年4月。ふたりを日本に招き、
さまざまな「日本で暮らす中華系の人々」に会いに行った。
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最初に会ったのは、池袋の西口~北口で中華料理店を営むオーナーたち。
彼らの話から私たちが知ったのは、池袋には
「見えない中華街(Invisible Chinatown)」が存在している、ということ。
確かに意識して歩くと、中華料理屋さんが多い。
メニューにも、日本では見慣れない料理名が並ぶ。
とはいえ、まち全体としての印象は控えめだ。
ビルの上階にあるお店が多いせいかもしれない。
そして、不意に耳に飛び込んでくる中国語。
振り返れば、冗談を言い合って笑い転げるティーンエイジャー。
スマホに向かって話すビジネスマン。
その様子から、観光客ではなく、ここで暮らしている人たちだとわかる。
10年ほど前、池袋北口には「東京中華街構想」が持ち上がった。
もともと中華料理店が多く存在する池袋駅北側のエリアを
中華街としてPRしよう、という計画だった。
いわば、すでに存在していた見えない(Invisible)中華系コミュニティを
見える化(visible)する計画だ。
何十年も池袋で暮らす中国人のキーマン、そして中華料理店オーナーたちの
「地域を盛り上げたい」という思いから生まれた構想だった。
だが、実現には至らなかった。
たとえば横浜の中華街は、中国南部から移ってきた人が多いという。
開港まもない横浜で、通訳や貿易の仲介人として雇われた中国人たちを中心に、
初期の中華街が生まれた。
だが池袋周辺に住む中国からの移住者には満州、中国東北部の出身者が多い。
きっかけは、1978年の鄧小平政権による経済政策。
中国は海外資本の導入など対外的に経済を開放し、市場経済への移行を図った。
「その経済成長の過程で押し出された人たちが、
日本へ来て、池袋に住み着いたらしい」(シャオクゥ)
日本で最初の中国語の新聞や、中国の映画や音楽のレンタルソフト店も、
池袋で生まれたそうだ。
「ただ、このあたりの中国人同士はビジネスのつながりが強くて、
“コミュニティ”というような関係じゃないみたい」(シャオクゥ)
異国の地で生き抜いてきた彼らが、仕事や商売の面で連帯するのはよくわかる。
では、このまちで生まれ育つ子どもたちはどうだろうか?
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池袋駅の北口から、さらに北上したところにある「池袋小学校」。
ここは現在、全児童280名のうち約3割が外国籍。
豊島区の中でも特に国際色の豊かな小学校だ。
なかでも最も多いのが、中国語圏の子どもたち。
どんな授業を受けているのか、クラスはどんな雰囲気なのか、
授業を見学させてもらった。
この日、6年生の社会科では、修学旅行で訪れる土地について調べていた。
「何について調べるか」を先生が問いかけ、意見を出し合ったあと、
タブレットで各自が調べる。
別の学年の教室では、日本語が得意でない子どもたちの横に、
通訳スタッフが付き添っていた。
次は、日本語以外を母国語とする子どもたちが受ける日本語クラスへ。
日本語クラスは、学年ではなく習熟度に合わせて分かれている。
たとえばあるクラスでは、桜にまつわる日本の文化を学んでいた。
「花いかだ」なんて、風流な言葉も出てくる。
別の教室では、日本語で教える先生に対して、児童たちが中国語で答えている。
言語を学ぶときは、その言語しか話さない先生から習ったほうが、
早く上達すると聞いたことがある。
子どもたちが日本語の辞書を開くかたわらで、先生も中国語の辞書を開く。
互いに単語を指差ししながら、教わり合うような授業風景が心に残った。
印象的だったのは、「20分休み」の出来事だ。チャイムが鳴ると、
一斉に飛び出してきた子どもたちで、グラウンドは即、満員状態に。
そんなにぎやかな風景を、校庭の隅から眺めている男の子がいた。
「中国から来た子ですよ」と教えられ、シャオクゥが中国語で話しかけた。
ところが彼はそれに答えず、近くにいた友だちに日本語で何かを言って、
サッと立ち去ってしまったのだ。
授業見学のあと、日本語クラスの先生たちにお話を聞いた。
「子どもたちは一生懸命、日本語に取り組んでいます。
小さい子ほど柔軟で、すごいスピードで吸収していく。
ただ、それと同じ速さで、自国の言語を忘れていってしまうんです」
10代の多感な時期を日本で育つ子どもたちは、複雑な思考や繊細な感情を、
自国の言葉で表現する機会を失ってしまう。
すると大人になったときに、両親とうまく意思の疎通ができず、
家庭内のコミュニケーションがうまくいかなくなってしまう。
先生たちは、そのことを強く危惧しているという。
シャオクゥとツゥハンは先生に、
さっき中国語で答えてくれなかった男の子のことを尋ねた。
「私たちも、“家の中では、できるだけ自分の国の言葉で話しなさい”と伝えています。
でも、なかなか難しいですね。
自国の言葉で話すことを、恥ずかしがる子どもたちもいます」
小学校でのこの体験は、シャオクゥとツゥハンにも強く印象に残ったようだ。
私は、ある中華料理店オーナーの
「子どもを日本人が多い小学校に入れるために、別の校区まで引っ越した」
という言葉を思い出していた。
「そのほうが、早く日本語が覚えられるし、周りに馴染めるから」と。
どんな環境で成長するか、子どもたちは選べない。
その成長過程で抱える想いを、話せる相手はいるのだろうか。
その気持ちをうまく表現してくれる言葉と、彼らは出会えるのだろうか。
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王 霄峰(ワン・シャオフェン)さんは雑司が谷に住む二胡奏者だ。
北京出身の王さんは1987年、留学生として日本にやってきた。
千葉大学を卒業後、祖国へ帰つるもりだった王さんを、
中国にいた両親は「もう少し日本にいなさい」と押し留めた。
実は、両親には「文化大革命」の苦い経験があった。
毛沢東の独裁政治のもと、1966年から約10年間続いた革命運動だ。
国立楽団の二胡奏者、つまり文化人であった父は、
遠く離れた地方の農村に追放され、強制労働に従事させられた。
幼い頃の王さんは父を知らず、医者の母とふたりで暮らしていた。
そんな父が帰ってきたのは、王さんが幼稚園生の頃。
母子家庭だった王さんは、送迎バスで自宅マンションに帰ってくると、
いつものようにエントランスでひとり遊びをしていた。
すると、ひどく汚れた男たちを荷台に載せたトラックがやってきた。
トラックを降りた男たちは、近所の人たちに迎えられ、
それぞれ別々の家へと入っていく。
そんななか、ひげボウボウの男性が、何も言わずに王さんをじっと見つめている。
やがて母が、仕事を終えて帰ってきた。
いつものようにマンションの部屋へ入ろうとすると、その男もついてくる。
もじもじしている王さんを見て、リラックスさせようと思ったのか。
母は「ほら、おじさんにご挨拶しなさい」と促した。
だが王さんは子ども心に「“おじさん”と呼んじゃいけない」という気がして、
答えられなかった。
「自分たちがそんな経験をしたから、
息子も(当時は)まだ政情が不安定だった中国に帰ってくるより、
日本にいるほうがいいと思ったのでしょうね」(王さん)
大学卒業後、東京で働き始めた王さんは日本人の女性と結婚し、子どもを授かった。
現在は二胡奏者としてステージで演奏したり、音楽教室で教えたりするほか、
テレビや映画で俳優としても活躍している。
中国人はもちろん日本人の友だちも多いし、地元にも顔なじみがいる。
「文化大革命という悲劇はありましたが、それは過去のこと。
両親は中国政府を嫌っているわけではないし、あれだけ大きな国をまとめあげて、
現在のような経済発展を遂げたことに賛同しています。
私もいまの中国、これからの中国に目を向けているのです」(王さん)
インタビュー後、王さんと一緒にまちを歩いた。
御会式でも歩く不忍通りを下って、護国寺へ。
歴史あるものが好きだという王さんは、日本の文化に造詣が深い。
日本の刀剣愛好家でもあり、何気ない会話の中でも
「良寛にこんな言葉があるんだけど……」なんて言葉が飛び出す。
「同じ中国人といっても、育った環境や受けた教育によって、考え方は全然違う。
私たちが何をやっているのか、説明してもうまく伝わらない人も多い。
でも、王さんは私たちの意図を、すぐに理解してくれた」(シャオクゥ)
CHINAMEは、中国という国に対する批判ではない。
「なぜ人間は、互いを国籍で分けるのか。
国籍の異なる人々を、社会はどのように受け入れていくのか」と問うているのだ。
音羽通りを抜け、神田川沿いを雑司が谷まで歩いた。桜がきれいだった。
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今回、たくさんの人にインタビューをした。ここで紹介したのは、ごく一部だ。
中国籍を持ち日本で生まれ育った人、中国残留孤児の2世として帰国した人。
好きなことを学ぶために来日した人、
「日本が大嫌い」と言いながら日中友好の仕事をしている人。
日本の大企業で活躍しているビジネスマン、
地域のお年寄りと交流しまちづくりに取り組む留学生。
台湾の人、香港の人。
ひとりひとりの人生が、大きな歴史と関わっている。
バラバラだった「私の人生」と「あなたの人生」とが、都市という空間で交差する。
「彼らに、お客さんとして『BEAT』や御会式に参加してもらうのではなく、
パフォーマーとして出演してもらうのはどうかな?」
リサーチ・対話を重ねるうち、誰からともなく、そんなアイデアが自然と生まれてきた。
ところでシャオクゥ・ツゥハンの目に、雑司が谷はどう映ったのだろうか?
まずは、猫がたくさんいる点が気に入ったようだ。
上海郊外の自宅にも、家の周りにもたくさん猫がいる。
海外へ出るときは、ご近所のおばあちゃんたちに、何キロものエサを預けてくるらしい。
地域住民による組織「御会式連合会」会長をはじめ、
雑司が谷の人たちとも一緒にごはんを食べたり、自宅にお邪魔したりした。
皆さん、人懐こいふたりのことが、気に入ったようだ。
ふたりのほうも、雑司が谷の人たちが
しょっちゅう挨拶を交わしたり、立ち話をしているのを見て
「中国での自分たちの暮らしに似ているから、ホッとする」と言う。
池袋駅の反対側で暮らす人たちも、もしかしたら雑司が谷の御会式を見て、
「懐かしい何かに似ている」と感じるのかもしれない。
2週間のリサーチを踏まえて、『BEAT』をどのような作品にしたいか。
シャオクゥ・ツゥハン、音楽ディレクターの清宮陵一さん、
ドラマトゥルクの安東嵩史さん、建築家の嶋田洋平さんら
クリエーションチームのみんなと話し合った。
「池袋駅の北東と南西は、『発展(development)と伝統(tradition)』
という言葉で対比することができると思う。
そこから考えたのは“伝統とは何か?”ということ」(シャオクゥ)
現在のような御会式がかたちづくられたのは、江戸時代と考えられている。
当時から江戸は、日本中いろいろな地域の人たちが集まって暮らすまちだった。
文化も言葉も異なる人たちが生み出した「最新の流行」が、
数百年経つうちに「伝統」になった。
遡れば、仏教も大陸から伝来したものだし、鬼子母神はインドからやってきた。
いま私たちが考える「国」や「国籍」という概念を超えて、
大昔から人や文化は行き来し、混交してきたのだ。
そのことを思い出すだけで、日本の「伝統文化」や「地域コミュニティ」や
「ルーツ」と呼ばれるものたちは、いまより少しだけ開かれるのじゃないだろうか。
逆にいえば、駅の反対側で生まれつつある新しい文化やコミュニティが、
数百年経って「国」や「地域」の「伝統文化」になる未来がやってくるかもしれない。
そこに「Oeshiki」のDNAはどのように入り込み、生き延びることができるのだろうか。
なんだか超ローカルなSFみたいになってきた。
でも『BEAT』ではそんなことを、大真面目に、おもしろがりながら語ってみたい。
そして思い描いたもうひとつの「Oeshiki」を、中華系だけでなく
さまざまな国籍・文化を持つ人たち、日本の観客たちと
「一緒にやってみる」場になりそうだ。
もちろん最後には、現在の「御会式」にも突入(?)する。
そのとき、どんな衝突と融合が起こるのか。いまから楽しみだ。
information
東アジア文化都市2019豊島〈Oeshiki Project〉
ツアーパフォーマンス公演『BEAT』
会期:2019年10月16日(水)~18日(金)
作:石神夏希、シャオクゥ × ツゥハン
音楽ディレクター:清宮陵一
ドラマトゥルク:安東嵩史
空間資源活用ディレクター:嶋田洋平
作曲:青柳拓次
衣装:矢内原充志
リサーチ・制作:ペピン結構設計+長澤雪恵、井上知子
協力:威光山法明寺、御会式連合会ほか
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