大阪から徳島市、そして美馬市へ。
2段階移住で始めた
スリランカカレー店〈白草社〉

移住の決め手は「澄みきった穴吹川」

過疎のまちに移住する————。
そう聞くと、地域活性化に貢献したいとか、
これまでの働き方を見直して地域に関わりながら起業したいとか、
何か志を持って移住する人たちを思い浮かべるかもしれない。
でも、「景色のいいところに住みたかった」というシンプルな思いから
移住する人たちもいる。

徳島県西部にある美馬市。
県内過疎地域に指定され、見渡せば大自然が広がるのどかな地域だ。
古い家が建ち並ぶ旧道沿いの一角、
周囲に溶け込むようにスリランカカレーの店〈白草社〉はある。
一見どころか、よくよく見てもその外観にカレー店の手がかりはないが、
今年2021年6月22日に3周年を迎えた。
店を営むのはともに大阪出身の乾亮太さんと、その妻・歩希(あき)さん。

狭い旧道沿いに佇む店。店の目印は突き出し看板だが、そこには店の名前とロゴが入っているだけ。

狭い旧道沿いに佇む店。店の目印は突き出し看板だが、そこには店の名前とロゴが入っているだけ。

窓ガラスに描かれているのは山の稜線。友人が描いてくれた。

窓ガラスに描かれているのは山の稜線。友人が描いてくれた。

大阪から徳島へ、徳島からもっと田舎へ

亮太さんは地元、大阪で雑誌の編集者をしていた。
一度は地方で暮らしてみたいと、2015年8月に徳島市内の出版社に転職。
徳島を選んだのは、両親のふるさとで多少はなじみがあったから。
当時、つき合っていた歩希さんも体を壊すほど激務だった仕事に区切りをつけ、
2か月遅れで徳島へ移り住んだ。

「ただ、引っ越して来た当初から飲食か小売りなのかわからないけれども、
将来的には自営業をしたいねって、話をしていました」(歩希さん)

最初にふたりが暮らしたのは徳島市内の比較的若い世代が多く、利便性の高い地区。

「最初は徳島での新しい出会いにワクワクして結構飲み屋にも行ったんですけれど、
なかなかなじめなくて。それに大阪にいたときよりも仕事が忙しいことや、
地方に来たのにまちなかで暮らしていることなど、
当時の状況にだんだんと疑問を抱くようになって……」と亮太さん。
そして2年が過ぎた頃、
ふたりのなかで飲食店をやりたいという思いがいよいよ大きく膨らんだ。

「徳島のことがなんとなくわかってきて、ここで小売りは難しそうだなって思ったんです。
となると、飲食。ふたりともカレーが好きでよくつくっていたので、
すんなりカレー屋だって決まりましたね」(亮太さん)

「大阪はスパイスカレー大国なんです。雑誌取材でいろんな店に行っていたらどんどんハマって食べ歩きました。それまでは食に全然興味がなかったんですけどね」と亮太さん。

「大阪はスパイスカレー大国なんです。雑誌取材でいろんな店に行っていたらどんどんハマって食べ歩きました。それまでは食に全然興味がなかったんですけどね」と亮太さん。

ここからの動きが早い。歩希さんは飲食の仕事に切り替え、
2017年冬、物件探しをスタート。早い段階で美馬市に絞ったという。
その理由は大きく3つ。
1.きれいな川が近くにあって、景色がよかったから
2.空き家バンク制度が整っていたから
3.移住者の起業に対する支援制度があったから

「たくさん稼ぎたいわけではなかったんです。
僕たちと飼い犬1匹が暮らしていけるくらいの収入があれば十分だと思っていたから、
まちなかに住むというこだわりはなかったですね。
むしろふたりとも川が好きなので、歩いてすぐ川に行けるところが理想でした。
特に水がきれいな穴吹川はいいなあと思っていて。
しかも、『美馬市空き家バンク』という行政主体のサイトが
民間の不動産情報サイトみたいによくできていたから物件を探しやすかったですね。
年明け2018年1月に数件を内見し、ここに決めました」(亮太さん)

店舗スペースつきの大きな家。元お好み焼き屋だったその場所は状態もよく、
少し手を加えるだけですぐお店が始められそうだと思ったことが
大きな決め手になったという。

夏には県内外から人が集まる穴吹川。透明度は国内トップクラス。。

夏には県内外から人が集まる穴吹川。透明度は国内トップクラス。

うるし漫画家・堀道広の旅コラム
「四国八十八ヶ所のお遍路で、
石手寺に招かれた」

かたちから入るお遍路もアリである

完全に自由な旅というのは、いつ以来していないだろう。

10年以上前の話になるが、香川の高松に友人が住んでいたので、
高松を拠点にして「四国八十八ヶ所」の「お遍路」に挑戦したことがあった。

まずは服装から入ろうと、朝一番で高松から徳島に行き、
第1番札所の霊山寺で、すげ笠と白衣(びゃくえ)を買った。御朱印帳も買った。

すげ笠と白衣を装着。

すげ笠と白衣を装着。

そして私はばっちりお遍路ファッションに着替え、
高松で借りたレンタカーにさっそうと乗り込んだ。
……レンタカー?
そう、私は一刻も早く八十八ヶ所を回るため
「レンタカーでお遍路」という禁じ手を使っていた。
レンタカーでお寺に行っては、御朱印帳に文字を書いてもらい(納経は300円)、
次から次へとお寺を回った。

レンタカーにはカーナビがついている。
私は紙の地図を見なくとも、次の札所への道を異様にスムーズに巡ることができた。
あっという間にかなりの数のお寺を巡った。
まるで、ルート宅配をしているような気持ちになってきた。
山の上のほうにありそうな、自力で登山をしなければいけない札所は飛ばした。

夕方、暗くなると拠点である高松にレンタカーを返しに帰り、友人宅で宿泊した。
そして翌日、また友人宅を出てレンタカーを借り、県をまたぎその続きのお遍路をした。
効率が悪い気もするが、当時は宿泊するお金もなかったし、
効率が悪いということすら気づかなかった。
スムーズにお寺を巡るうちに、私は夏休みの都区内ポケモンスタンプラリーをしている
小学生のような気持ちになっていた。
自分はなぜこんなことをしているのか。これになんの意味があるのか。
成し遂げた末に、何があるのか。
すげ笠を被って車を運転しながら根本的なことを自問自答した。

〈セラボラボ〉から発信する
九谷焼のニューノーマル、
〈福LUCKY〉と〈ETHNI9〉

九谷焼を広めるために

伝統と歴史に裏打ちされた焼き物として全国的に名が知られている、
石川県を産地とする九谷焼。
幅広いうつわの種類がある一方で、往年の形式に固執してしまったり、
現代では使いにくいデザインになってしまっている側面もある。

そんな九谷焼をいろいろな角度から知ってもらおうと、
2019年に立ち上げられた複合型文化施設が
〈九谷セラミック・ラボラトリー(通称・セラボクタニ)〉である。

建築家・隈研吾が設計した〈九谷セラミック・ラボラトリー〉。

建築家・隈研吾が設計した〈九谷セラミック・ラボラトリー〉。

この場所は、もともと「花坂陶石」という石から粘土をつくる製土所があった場所で、
建物の老朽化に伴い、〈セラボクタニ〉として生まれ変わった。
それゆえ、現役で製土所としての機能を果たしながらギャラリーや体験工房、
アトリエなどを持ち、九谷焼を多角的に体感できる施設となっている。

セラボクタニの2周年となる今年5月、
新商品開発プロジェクト〈セラボラボ〉が立ち上がり、
第1弾として〈福LUCKY〉と〈ETHNI9(エスニック)〉という
ふたつのブランドが発表された。

「この場所が立ち上がった当時から、オリジナル商品開発の話はありましたが、
2年越しに実現しました。
これまでは窯元や作家さんから商品を預かって販売していましたが、
それに加えてここにしかない商品をつくりたかった」と開発経緯を教えてくれたのは、
セラボクタニを実際に運営している小松市地域おこし協力隊のひとり、緒方康浩さん。

コロナ禍で生み出された「ニューノーマル」を目指す九谷焼は一体、
どんな焼き物になったのだろうか。

小松市の地域おこし協力隊として、セラボクタニに勤務する3人。左から緒方康浩さん、中岡庸子さん、吉田良晴さん。

小松市の地域おこし協力隊として、セラボクタニに勤務する3人。左から緒方康浩さん、中岡庸子さん、吉田良晴さん。

【山井梨沙×人類学者・石倉敏明】
身体性を取り戻していく
「フィールドワーク」とは

この連載では、新潟県を拠点にキャンプを中心とした
ローカルなライフスタイルを提案する
〈スノーピーク〉代表取締役社長の山井梨沙さんが、
ローカルでありプラネット的なモノ・コト・ヒトに出会いながら、
コロナ後の暮らしのスタンダードを探し求める「フィールドワーク」の記録。
そして山井さんの著作『FIELDWORK―野生と共生―』の実践編となる。
初回は、そもそも「フィールドワーク」とは何か、
その言葉が生まれた人類学の研究者・石倉敏明さんに話を聞いた。

秋田市のキャンプ場にて対談は行われた。

秋田市のキャンプ場にて対談は行われた。

新文化はコンタクトゾーンから生まれる

山井梨沙(以下、山井): ご無沙汰しています。
自著『FIELDWORK―野生と共生―』ではすてきな前書きをご執筆いただき、
ありがとうございました。
今回、その続編としてこの連載をさせていただくことになったのですが、
タイトルにも入っている「フィールドワーク」という言葉について、
あらためて石倉さんにお話をうかがえたらと思います。

山井さんの著作『FIELDWORK―野生と共生―』

山井さんの著作『FIELDWORK ─野生と共生─』

石倉敏明(以下、石倉): 「フィールドワーク」とは自分が慣れ親しんだ世界の外に出て、
別の現実に触れる方法のことです。
人類学者は他者の世界に入り込んで、内側からその在り方を体験し、理解しようとします。
「他者」とはヒトだけでなく、人間を取り巻くすべてのモノを含んでいます。
大事なのは何かについての「知識」を得るだけでなく、
他者が体得している「知恵」に触れること。
だからこそフィールドでの体験が重要視されています。
フィールドでは他者との接触から、双方向的な変化が発生していく。
それを歴史学の言葉を借りて、「コンタクトゾーン(接触領域)」と呼ぶこともあります。
例えば、20世紀中盤のアメリカ・テネシー州で、
アフリカ系移民の文化とヨーロッパ系移民の文化が融合して
エルヴィス・プレスリーの歌声と腰つきが生まれ、
ロック音楽やポピュラー音楽となって世界中に広がっていったように。

世界そのものと接触

山井: コロナ禍が続く今は、人との触れ合いが減っています。
大変なときですが、何か大きなシフトが起こりつつある時代という意味では、
コンタクトゾーンの話は参考になりそう。

石倉: フィールドワークは、社会という枠組みの外に出て、
世界そのものと再び接触(コンタクト)し直してゆくチャンスかもしれません。
その意味では、野外に出ることも重要です。例えば山に入って感じる木漏れ日や風の匂い、
湿度や雲の動きから何かを感じたりする経験。
フィールドに出ると、僕は幼少期の記憶みたいなものが蘇ってくるんです。
まだ看板の文字や標識の記号が読めなかった幼年時代。動物や子どものように、
文字や記号ではない、生々しい世界の見え方を追体験しているような感覚です。
梨沙さんも、著作の『FIELDWORK』で
子どもの頃のキャンプ体験のことを書いていましたけれど、
あれはまさにフィールドワークを通して味わうことになる感覚ですよね。

写真家・田附勝さんとの共著『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)にて富士山麓での取材の様子。写真提供:『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)

写真家・田附勝さんとの共著『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)にて富士山麓での取材の様子。写真提供:『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(淡交社)

山井: 私は頭を使ってインストールするのが苦手で、事前に机上で得た知識でも、
とにかく現地に行って体感しないと、自分のなかでなかなか実感・定着しないんです。
新型コロナウイルスがやってきた当初は、
オンラインミーティングや画面上で目と頭だけで情報を得ることだけが続いて、
消化不良を起こしてしまっていたような気がします。
石倉先生にとってのフィールドワークとは、既存の学説を追体験して確認したり、
今までと違う情報や価値観に出合うことを期待するための行為なのでしょうか?

石倉: フィールドワークは、理論の向こう側にある生きた現実を現地で体感し、
受け止め直していく実践だと思っています。
断片的な情報などを手がかりに現地に行ってみると、
実際には期待を裏切られることも多いのですが、
立ち止まる経験も含めて大切なのかもしれないですね。
どんな記録も決して完全なものではなく、そこに視点や感覚のズレがあるからこそ、
新しい発見の余地があります。
キャンプでの火の起こし方とか、水場の位置とかはgoogleで検索できるけど、
炎の熱さや水の冷たさは絶対にググっても感じられない。
それと同じで、客観的に調べることの重要性は踏まえつつも、
書物で調べてもわからないことを、ほかの人の体ではなく、自分の体で体験したい。
そしてその体験を表現して、その場にいない誰かと共有したい。
これはアーティストや人類学者にとっては、とても大事な衝動だと思うんです。

〈リバーバンク森の学校 友の会〉
廃校の周りの森を間伐し
シェアするコミュニティ

リバーバンクの森をひらく

2010年から「グッドネイバーズ・ジャンボリー」というフェスを、
廃校を舞台に始めたことから、その廃校の運営まで手がけるようになりました。

鹿児島の南の森の中にあった旧長谷小学校が、
いまから30年前に地域の人々の手によって
〈かわなべ森の学校〉という名前で使われるようになりました。
さらに僕らが引き受けて〈リバーバンク森の学校〉と
名前を変えて運営を始めてから3年が過ぎました。
森の学校とその周辺の森は、みなさんからクラウドファンディングの支援も受けて、
開放的な自然体験施設として運営をしています。
以前の記事はこちら

緑に覆われた校庭で自由にキャンプが楽しめる森の学校。

緑に覆われた校庭で自由にキャンプが楽しめる森の学校。

今もなお世界が苦しんでいる新型コロナウイルスの流行もあり、
最近では森の学校も思うように活動できない日々が続きました。
そんなところから、この場に愛着を持っていただいている人たちに協力してもらって
クラウドファンディング(Camp Fireのプロジェクト)を行い、
学校を取り巻く森の開拓に取り組んできました。

この森は40年ほど前まではいまほど鬱蒼とした森ではなく、
畑としても利用されていてとても明るかった。
当時の航空写真にその姿が残っています。

昭和30年代の森の学校の様子。

昭和30年代の森の学校の様子。

建材としての森。その問題点

その後、スギの木を1本植えるたびに補助金が出るというような
戦後から続いた植林政策によって、人工林化が進んでいきます。
なぜスギばかりかというと、
スギは「まっすぐ」に育つことから「すぐ木→スギ」という名前の説があるように、
当時は効率のよい建材として重宝されていたからという理由があります。
つまり当時の山林を保有していた人たちにとっては財テクのひとつでした。

戦後からの高度経済成長期には人口も増え続け住宅も需要がたくさんあったものですが、
現在ではその勢いも止まり人口減少期。
また海外からの安い材木もどんどん入ってくるようになって、
割高になってしまう国産材の需要もどんどん減り、
伐採してもビジネスにならないので間伐もしない。
間伐しないと材木としての質が下がり価値も低下してしまうので
さらに放置に拍車がかかる。
日本中いたるところでスギの放置林が生まれているのはこうした理由です。

鬱蒼として立ち入ることもままならなかったリバーバンクの森。

鬱蒼として立ち入ることもままならなかったリバーバンクの森。

そもそも日本は先進国と呼ばれている世界の国のなかでも有数の森林国ですが、
大部分がスギの森で、その多くが放置されているという状況。
この学校の周辺の森も、それに「右に倣え」だったわけです。

森林組合により伐採作業中。

森林組合により伐採作業中。

材として使う目的のスギの森を育てる場合、
1ヘクタール(100 x100メートル)に3000本ほど植樹して、
それを少しずつ間伐して1000本ほどに減らしていきます。
木にも優劣があるので競わせながらいい木を残すようにして育てていく。
そこには長年培ったその地域ならではの林業の経験がものを言います。

林業を生業としている人たちと話すと、
自分が植樹した木を自分で伐って材にするということはほぼなく、
いま自分たちが製材している木は、1世代も2世代も上の先人が植えてくれたもの。
人間が働く年数よりも木の時間ははるかに長いのです。
先人が残してくれた財産を間伐しながら、大事に育てていい木をつくる。
しかし建材としての需要減少と担い手不足から、
こうした知恵も放置された森とともに失われつつあります。

この森をひらくにあたって、僕らは〈森のエネルギー研究所〉の佐藤政宗さんから
いろいろと森のことを学ぶところから始めました。

グッドネイバーズ・ジャンボリー2020にて、佐藤政宗さん(左)、木工作家のアキヒロジンさん(中)と行われた、焚き火を囲んだトークショー。後ろの観客には働き方研究家の西村佳哲さんの姿も。

グッドネイバーズ・ジャンボリー2020にて、佐藤政宗さん(左)、木工作家のアキヒロジンさん(中)と行われた、焚き火を囲んだトークショー。後ろの観客には働き方研究家の西村佳哲さんの姿も。

写真家・植本一子さんの旅コラム
「なにもないように見えて
すべてがある〈豊島美術館〉」

仕事の旅、そして、そのローカルを旅する

写真家として、撮影で遠方に行くこともあるのですが、
それはもはや旅ではなく、常に気の張った仕事です。
出張でいろんなところへ行けてうらやましいといわれることも多いのですが、
これが結構疲れるものなのです。

旅行という言葉で思い起こされる、気の抜けた、のびのびとした感じとはほど遠く、
撮影も無事に終わり、空いた時間でちょっとでもその土地を堪能しようと思っても、
重たい機材や、納品のことなんかを考えると、とてもそんな気分にはなれないのです。

ですが、数年前から文章を書き始め、それが運よく出版され……となると、
地方にある本屋さんからイベントに誘われることも増えました。
本についてのトークショーをするために行くのです。
遠方にいる読者の方に会えるのはもちろんうれしいし、
呼んでくださった本屋さんとも親しくなり、本を出版するたびに、
トークとかこつけてその土地へ行くことにすっかりハマってしまいました。

そんななか、大好きな場所を見つけました。
数年前の夏、高松の本屋さんで刊行記念のトークをした際、
同行していた編集さんや地元の人に勧められ、
豊島(てしま)に行ってみることにしました。

高松の船乗り場から、
まるでアトラクションのようにびゅんびゅん波の上を進む高速艇で、
瀬戸内海に浮かぶ小さな島々を横目に約35分。のどかな小さい島に着きました。
そのときは編集さんの運転するレンタカーに乗せてもらい、一気に山を登りましたが、
電動のレンタサイクルでのんびり走っている人もたくさんいます。

豊島へ向けて出発!

豊島へ向けて出発!

農園であり、家である。
新しい「東京の農業」を
次々と発信する拠点

新規就農して「東京の農家」になる

新規就農はローカルでなく東京でもできる。
その実例を見せたいと「東京の農業」にこだわっている
〈繁昌(はんじょう)農園〉の繁昌知洋さん。
農業のイメージアップのため、これまでとはひと味違うやり方で、
農業の可能性を広げようと努めている若手農家だ。

〈BESS〉の家を拠点に、東京都青梅市に16か所の農地を持つ繁昌さん。
学生時代から自然に関わる仕事を求めていて、
農業に惹かれていったのは当然のなりゆきだった。
そして体験農園や農業スクール、2年間の農家研修などを経て、
2016年、自身の名を冠する農園を独立開業することになった。

繁昌知洋さんと妻の美智(みさと)さん。

繁昌知洋さんと妻の美智(みさと)さん。

「独立するときは、まさか東京でできるとは思っていなかったので、
千葉や長野などで土地を探していました。
そんななか、偶然、東京都の立川市で農業をやっている人に出会ったんです。
その人と話して、“東京でも農業ができるんだ”と思いました」

東京での農業に大いに可能性を感じた繁昌さんは、
さっそく農地を探し始め、現在の青梅の農地を見つけた。

繁昌さんのスタイルは少量多品種生産。
現在では約140種類のオーガニック野菜を育てている。

「始めた当初は、売り先も定まらないまま、とにかくつくる日々。
売れたらいいけど、見込み生産みたいなものでした。
でも最近は、ニーズに合わせた受注生産に近いです」

東京産であることを打ち出すことで、都内のお客さんからの注文が増えている。
さっそく東京で農業をしているメリットを生かすことができたようだ。

「特に都心部のお客様は舌が肥えているというか、
普通のスーパーなどで売っていないような野菜を望む人が多いんです。
西洋野菜のカーボロネロとかコールラビとか。
お客様のニーズにそれぞれ応えていったら、自然と品種が増えていきましたね」

新規就農者の場合、最初から大規模農地を用意することが難しく、
特に東京や都市圏では飛び地の農地で活動している人も多い。
大量につくれないという特性を逆に生かせば、少量多品種という可能性が見えてくる。

もうひとつ、繁昌さんが「新規就農者がやるべき」と掲げるのが伝統野菜だ。

「各地の伝統野菜の復活も、新規就農者だからこそやりやすいことだと思います。
僕の場合は、江戸東京野菜。
亀戸大根、金町こかぶ、のらぼう菜、八丈オクラなどを栽培しています。
一般流通している野菜は、食べやすいように品種改良されているものが多いですが、
野菜はもう少しえぐみのあるもの。
伝統野菜にはそうした野菜本来の味が残されているので、
その味も忘れないようにしていきたいです」

収穫したばかりの亀戸大根。

収穫したばかりの亀戸大根。

伝統野菜が忘れられつつある理由には生産効率や流通、味などがあるだろう。
ほかにも農業にはフードロス、後継者不足など、社会課題がたくさんある。
その課題解決には、少なからず新しい目線を持った取り組みが必要になる。
それを解決していくには、新規就農者のほうがやりやすいのだろう。
繁昌さんは、それらの課題を明確に見据えながら農家としての道を歩んでいる。

さまざまな業界のアイデアを集結!
5Gが実現する、多様性がある社会

5Gは社会システムにどのような影響をもたらすのか

日本でも5Gサービスがスタートして、約1年が経った。
まだその恩恵を実感する人は少ないかもしれないが、
高速大容量通信、低遅延、多接続など、
従来の通信インフラにないさまざまな特性を備えた5Gは、
これから人々の生活様式を大きく変えることになるはずだ。

5Gとは
5th Generation Mobile Communication System(第5世代移動通信システム)の略。
つまり、1G、2G、3Gと連綿と進化を遂げてきた通信システムの最新規格である。

しかし、数年前に3Gから4Gにアップデートした頃と比べ、
今回の進化はより劇的だ。
よく語られる「2時間の映画が3秒でダウンロードできる」ことは、
あくまで5Gが持つポテンシャルの一端に過ぎない。

例えば低遅延性は自動運転車の普及を強力に後押しすることになるし、
多数の端末への同時接続が可能になることで、
家庭内のめぼしい電化製品がインターネットでつながり、
スマートな暮らしを実現する一助となる。

そしてもちろん、社会システムに及ぼす影響も計り知れない。
5G通信が日本全土を埋め尽くしたとき、私たちの暮らしはどのように変わるのか。
各分野で活発に行われている実証の様子からは、
みんなでアイデアを出し合い、協業しながら実現する姿が見られた。

建築デザイナー・関祐介さんの旅コラム
「お好み焼き発祥の地、
神戸のにくてんを味わう」

さまざまなクリエイターによる旅のリレーコラム連載。
第18回は、建築デザイナー、関祐介さんの地元である神戸のお好み焼き巡り。
神戸はお好み焼きの発祥地といわれ、
店舗や人それぞれに強いこだわりがあるようです。

茶道にも通じる(!?)お好み焼きの原点

先日友人と喧嘩した。ぴえん。
理由は京都で食べたお好み焼きの味について。
こうやってテキストに書くのもまじバカバカしい。
だけど、お互い譲れない部分があったのです。
私にとってお好み焼きはローカルフードなので、
それぞれお店の個性があれば多少焦げていたりしてもいいという認識なのだけど、
彼は違った。理想の味、焼き方があるらしい。
そしてその持論をわざわざひけらかしてきたので、
お酒も入っていたのでそこで衝突しました。
ちなみに私は神戸生まれ、彼は大阪生まれ。

それだけ思い入れが個々に存在するお好み焼き。
元々のルーツは千利休が好んだという「麩の焼き」とよばれる料理。
茶道にも通じる(ほんまかいな)。
そこからもんじゃ→にくてん→お好み焼きへと進化しているらしい(進化なの?)。

さりげなく入っている「にくてん」というワード、
これが戦前の神戸で生まれたお好み焼きの前身です。
薄く引いた生地の上に具材を載せて焼く重ね焼きスタイル。
そのあとに現代のお好み焼き
(生地にキャベツやネギ、天かすなどを混ぜ込んだ通称「混ぜ焼き」)となります。

そんな背景をもつお好み焼き。
その発祥といわれる私の出生地、神戸にあるお好み焼きの名店を旅しました。

映画『旧グッゲンハイム邸裏長屋』
公開。
日常に近い「演技」から見える
神戸・塩屋の暮らし

キャストは、実際に長屋に住む住人

神戸駅から電車で15分、潮風薫る静かな海辺のまち・塩屋。
このまちの名物建築、築100年以上の洋館を舞台にした
映画『旧グッゲンハイム邸裏長屋』が公開される。

この映画は、音楽ライブや結婚式などが開催される〈旧グッゲンハイム邸〉の本館、
そしてその裏に佇む長屋の住人たちの物語。
ストーリーには大きなアクションや派手な演出があるわけではなく、
ひとつのテーブルをみんなで囲む朝ごはんのシーンから、その住人たちによる会話劇、
というより、限りなく日常に近い“おしゃべり”で暮らしの風景が描かれていく。

ドキュメンタリーではなく脚本がある、けれどキャストは(撮影時の)実際の住人たち。
ひとつ屋根の下で暮らす間柄だからこそ伝わってくる生活感と親しみ。
むしろプロの役者では演じられないようなアットホームさ、
いうなれば普段着のユルいムードの輪に引き込まれてしまう62分だ。
鑑賞後、この塩屋の長屋で暮らしてみたい、という人がいるのも納得できる。

最大で9名が入居可能の裏長屋。奥に見えるのがその入り口。現在はすべての部屋が埋まっているそう。

最大で9名が入居可能の裏長屋。奥に見えるのがその入り口。現在はすべての部屋が埋まっているそう。

旧グッゲンハイム邸は明治41年に建てられた(と推測されている)
木造2階建てのコロニアルスタイルの洋館で、
阪神大震災後も変わらない塩屋の風景のひとつ。
そのロケーションから、数多くの映画・ドラマ作品の舞台となり、
最近では黒沢清監督の『スパイの妻』にも使用されている。

すでに「第6回賢島映画祭特別賞」、
そして「第21回TAMA NEW WAVE特別賞」を受賞しており、
初の劇場公開が〈シネ・リーブル神戸〉にて決定した。
(※新型コロナウイルスの影響により、公開日調整中)

前田実香監督(一番左)は、平日は映画制作のプロジェクトを神戸に誘致するなどの活動を行う、神戸フィルムオフィスに勤務する。映画のワンシーンのような取材中の風景。

前田実香監督(一番左)は、平日は映画制作のプロジェクトを神戸に誘致するなどの活動を行う、神戸フィルムオフィスに勤務する。映画のワンシーンのような取材中の風景。

いちき串木野市の廃校の記憶を
記録に残す、地域映画プロジェクト。
「かんぷくシネマ」

地域プロデュースとして映画をつくる

2010年に鹿児島県南九州市で〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉という
フェスを始めてから10年以上が経ち、
運営している僕たち〈リバーバンク〉のチームには
商業施設や公園といった「公開空地」でのイベント企画や、
人が集まる場としてのショッププロデュースといった依頼が
舞い込むようになっていました。

そのなかで、リバーバンクが活動している南九州市ではなく、
鹿児島県いちき串木野市という自治体から、
地域を盛り上げるための企画を考えてほしいという依頼がありました。

地域では古くから、霊山として大事にされてきた冠岳の風景。

地域では古くから、霊山として大事にされてきた冠岳の風景。

いちき串木野市は市来(いちき)と串木野というふたつのまちが合併してできた、
人口3万人弱の地方都市です。市来も串木野も東シナ海に面した港町ですが、
内陸に入った中山間地域に冠岳という霊山があります。
その冠岳地区と麓の生福(せいふく)地区もまた、御多分に漏れず過疎化に悩む地域。

この地域を、芸術文化を切り口に関係人口を創出して盛り上げられないか、
というのが自治体からのオーダーでした。
ひとくちに芸術文化といっても、
それこそ子どもたちの書道や絵画展から現代アートまで、想定される領域は広大です。
これまで僕らも全国あちこち見て回るなかで、
いきなりエッジの効いたキレキレのアートを持ち込んでも、
地域に古くから暮らす人たちには響かないという事例をいくつも見てきました。
だからといってクオリティ度外視でなんでもありの展覧会などでは、
そもそも域外からの関係人口の巻き込みは難しい。

まずは、この地域に足を運んで見て回ろうということで
僕が代表を勤めるディレクション会社〈BAGN Inc.〉のメンバーと
地域を歩き回ってリサーチを始めました。
実は本当にたまたまですが、僕の父は合併前の串木野市の出身で、
子どもの頃は夏休みになると市街地にあった祖父母の家に預けられたりしていました。
しかも祖父母のルーツはそこから車で20分ほどの冠岳〜生福地域。
墓参りなどでときどき来ていたこともあり、多少の土地勘はありました。
でも僕自身はこの地域のことはほとんど知らなかった。
ここに自分のルーツがあるということも、
この仕事のオファーがあって調べているうちにあらためて認識したくらいでした。

かつてこの地を訪れた中国の伝説の人物、徐福の像。

かつてこの地を訪れた中国の伝説の人物、徐福の像。

レストラン〈CONTE〉と
雑誌『CONTE MAGAZINE』。
沖縄・首里から発信されるふたつの物語

首里へ移住し、雑誌『CONTE MAGAZINE』をつくる

都心の大型書店やセレクト書店などで購入できる雑誌のなかに、
最近ではローカル発信の雑誌が増えてきた。
それらはパッと見では、横に並んでいる都市部発信の雑誌とそう変わらぬ顔をしている。
しかしよくよく読んでみると、地域性が滲みでている。

それら「ローカルインディーズ」とでもいえる雑誌の多くは、
地域情報だけを伝えるのではなく、その土地に住んでいるからこそ感じることができる
社会性や文化を誌面に込めて編集されているようだ。

そのひとつに『CONTE MAGAZINE』がある。
沖縄の首里から発信されているこの雑誌、
vol.01の巻頭特集にはいきなり笑福亭鶴瓶さんが登場。
特集テーマには「生きるためには、物語が必要です。」とある。
この雑誌の編集長である川口美保さんに話を聞いていくと、
沖縄とは関係のないように思える鶴瓶さんに取材を行った意味がわかってきた。

発売中の『CONTE MAGAZINE』第1号。2200円。

発売中の『CONTE MAGAZINE』第1号。2200円。

ということで、まずは沖縄で『CONTE MAGAZINE』と
〈CONTE〉というレストランを手がける川口美保さんの「物語」から始める。

川口さんは、大学在学中から
インタビュー&カルチャーマガジンの『SWITCH』編集部で働き始め、
副編集長を務めるなど約20年間勤めた。仕事も順調ではあったが、
当時から「この先ずっと東京で暮らしていくイメージは持てなかった」という。

「故郷の福岡に帰るという選択肢ももちろんありました。
だけど、もうひとつ故郷みたいな場所をつくれるのではないか、
という思いも持っていました」

移住してすぐは、近所の首里の郷土料理店でアルバイト。高齢の店主夫婦に首里の歴史や食文化を教えてもらったという。

移住してすぐは、近所の首里の郷土料理店でアルバイト。高齢の店主夫婦に首里の歴史や食文化を教えてもらったという。

その思いをぐっと引き寄せたのが沖縄だった。
ミュージシャンの取材をすることが多かった川口さんは、
あるとき沖縄のバンド〈ビギン〉が主催する「うたの日コンサート」を取材した。

「その会場には、3世代で来ているお客さんがたくさんいました。
ひとつの音楽で3世代が歌って踊っている光景にとても感動しました。
そしてビギンのメンバーが『その上の世代も喜んでるよ』って言うんです。
ご先祖など、目に見えない存在にも近いという感覚。
それに衝撃を受けて、沖縄の音楽や暮らしを知りたいと思いました」

こうして沖縄に通う機会も増え、ついには2014年に移住することになる。

「約20年間、SWITCHにいたので、やり切った感じもありました。
縁はどこでもつながるはずだから、東京で知り合った人たちでも、
そう簡単には切れないだろうし、一度、違う場所で暮らしてみようと思いました」

〈CONTE〉は大きな窓でゆったりとした空間。

〈CONTE〉は大きな窓でゆったりとした空間。

岩手県洋野町をもっと知りたくなる!
地域との関わりをつくる
『ひろのの栞』を読む

三陸沿岸の北部にあり、青森県に隣接する岩手県洋野町(ひろのちょう)。
東に太平洋を望み、内陸の北上山系に囲まれた海と高原の美しいまちだ。
しかし、この場所で一般社団法人〈fumoto〉を立ち上げた大原圭太郎さんは言う。

「自然と生活が共存する里山の風景は、日本中にたくさんあります。
洋野町は、地域おこし団体や移住者の数がまだまだ少なく、
いい意味で、“地方創生”のフロンティアのような状態です」

アパレルから転身した大原圭太郎さん。

アパレルから転身した大原圭太郎さん。

事実、洋野町が国の推進する地域おこし協力隊の受け入れを始めたのは2016年と、
第一歩を踏み出してまだ日が浅い。
そんな洋野町に移住し、fumotoを立ち上げた大原さんは、
洋野町の「地域おこし協力隊」第1号、その人でもある。

アパレル店員から岩手県洋野町「地域おこし協力隊」第1号へ

太平洋を望む洋野町。マリンレジャーから豊かな海産物まで洋野町の暮らしを育む。

太平洋を望む洋野町。マリンレジャーから豊かな海産物まで洋野町の暮らしを育む。

大原圭太郎さんは仙台出身だが、
奥さんの出身地である洋野町は第2の故郷のような場所だった。

それまでは仙台や東京で服飾の仕事をしていたが、東日本大震災をきっかけに
「より地域に根ざした仕事」、そして「自分が本当にやりたいこと」を見つめ直したとき
洋野町の地域おこし協力隊募集の知らせが目に入った。

それまで考えていた、仙台から新しいものを生み出したいという気持ちは、
アパレル業界ではなくても、実現できるのではないか、
アパレルでやってきたことも実は地域おこしに近く、
洋服はあくまで手段だったんだと思うようになった。

それならば洋野町で地域おこしをするのもおもしろいのではないか、という考えにいたった。

「父が気仙沼出身でよく遊びに行っていたということもあり、
洋野町の生活圏と自然との距離感や海が見える風景に親しみを感じました」

そして2016年10月、はれて洋野町の地域おこし協力隊として、
洋野町の仕事に携わることになった。
自治体のHP制作や、移住者誘致のイベントへの出展、近隣地域と協力した取り組みなど
洋野町の観光振興推進員として、まちの観光協会の業務などを中心に行ってきた。

〈徳山コーヒーボーイ〉山本統さん
コーヒーに導かれた、
自由で自分らしい生き方

山口県内に6つのカフェを展開している〈徳山コーヒーボーイ〉。
店によって異なる外観や内装などチェーン店らしからぬつくり込みと、
こだわりの焙煎から生まれる甘みのあるコーヒーで、
県内外のカフェやコーヒー好きから愛されている。

その副社長を務めているのが、山本統さん。入社7年目で異例の抜擢を受けた。
いかにもやり手に思えるが、
社会に出たばかりの頃は無力感に苛まれ、惰性で日々を生きていたこともあるという。

そんな彼が、徳山コーヒーボーイに入社し、副社長を務めるようになるまでには、
どんな道のりと出会いがあったのだろうか。

旅とコーヒーが大好きだった大学時代

山口県上関町(かみのせきちょう)で生まれ育ち、大分の大学に進学した山本さん。
大学時代は、とにかく海外に行くのが好きで東南アジアを旅したほか、
1年間オーストラリアにも留学している。
さらに、卒業旅行では7か国を経て、日本へ戻ってくる壮大なひとり旅を経験。
異国の地を気ままに歩き、まち並みや食文化の違いを楽しみながらさまざまな人と交流した。

コーヒーもこの頃からの大切な人生の相棒。海外でさまざまなカフェスタイルに触れた。
また、家でも学校でもない「サードプレイス」という考え方に共感して
スターバックスでアルバイトもした。

旅好きを生かせる仕事として地理の教員になることを志し、教員免許を取得。
そして新卒でまずは大手旅行会社に就職した。

「僕が高校の頃に出会った地理の先生は、
自分が行った国や地域の話になるととても生き生きと授業をしていました。
聞いている側にもそれが伝わってきて、ああなりたいなと。
添乗員としていろんな場所に行くことで、
のちに教員になったときに実感のこもった授業ができるのではないかと考えました」

焙煎時に一番いいタイミングで窯出しした豆で淹れる、徳山コーヒーボーイのコーヒーは甘みが強いのが特徴。

焙煎時に一番いいタイミングで窯出しした豆で淹れる、徳山コーヒーボーイのコーヒーは甘みが強いのが特徴。

震災がもたらした疑問と新しい道

そうして6年ほど勤めた。しかし次第に、ルールやノルマが課せられる職場の窮屈さが、
山本さん自身の気力を削いでいった。
教員になるという夢も諦め、
どこかやり切れなさを抱えながら数字と向き合う日々を送っていた。
そして東日本大震災が起こり、生き方に向き合う気持ちが変化していった。

「このまま会社にいていいのか、もっと納得できる生き方があるのではないかと考え、
会社を辞めることにしたんです」

もう誰かの下で働くのは嫌だ。
大好きなコーヒーに関わりながら、自分のペースで暮らしたい。
そう思った山本さんは当時結婚したばかりの奥さんと上関町で生活を営む準備を始めた。
当時は空き家になっており、幼少期を過ごしていた祖母の家を借りて、
コーヒー豆を売って生計を立てていこうと計画。
会社を辞めるまでの1年間はその準備に費やした。

BEANS&GIFT店にて。直営店ではドリンクの提供だけでなく、自家焙煎したコーヒー豆の販売も行っている。

BEANS&GIFT店にて。直営店ではドリンクの提供だけでなく、自家焙煎したコーヒー豆の販売も行っている。

こうして7年勤めた会社を2012年に辞めた山本さんだったが、
すぐにある転機が訪れる。

やちむん×沖縄タコス
どんなシーズンでも楽しめる
沖縄独自の“B面”文化

夏でなくても楽しめる沖縄

サンサンと降り注ぐ太陽に、ビーチやマリンレジャーが沖縄のA面とするなら、
夏の賑わいを削ぎ落とした市井の「うちなー時間」を堪能できる沖縄はいわばB面。
そのなかで「やちむん」と「沖縄タコス」は、
ともに沖縄独特の文化として定着しているが、
ここ数年で観光客や現地の若い世代を中心にさらに注目を集めている。

沖縄の伝統的な陶器、やちむんは、沖縄の人だけではなく、
観光客や全国からの移住者である新鋭作家たちによって再評価を受けている。

一方、沖縄タコスは、メキシコで生まれたタコスがアメリカナイズされ、
米軍基地を経由し、沖縄で独自に進化してきた。
メキシコのタコスでもなく、アメリカのタコスでもない。
沖縄タコスとはどんなものなのだろうか。

どちらも沖縄で研磨され独特の進化を遂げたもの。
その先で、しっかりと沖縄の文化として定着してきた。
テイクアウトした沖縄タコスをやちむんに盛りつけて味わえば
コロナ禍の沖縄のB面も、新しい表情を覗かせてくれるに違いない。

やちむんと聞いてまず思い浮かぶのは、陶芸家の工房が集まるやちむんの里・読谷村。特にこの登り窯は圧倒的な存在感だ。

やちむんと聞いてまず思い浮かぶのは、陶芸家の工房が集まるやちむんの里・読谷村。特にこの登り窯は圧倒的な存在感だ。

沖縄の「やきもの」だから「やちむん」

やちむんを求めて訪れたのは、浦添市にある〈港川外人住宅街〉だ。
別名〈港川ステイツサイドタウン〉の名で、
カフェや雑貨屋、飲食店が軒を連ねる人気のスポット。
近年、徐々に拡大しながら沖縄のエッセンスを発信している。

港川外人住宅街の名の通り、もとは米軍関係者の住宅地として使われていた一角で
ポーチこそないが、平屋のコンクリートづくりの家屋が60軒あまり建ち並び、
アメリカの田舎町にいるような感覚にとらわれる。

港川外人住宅街の店舗は元米兵の住宅とあって、大きな窓に高い天井と那覇市内にはないレトロな雰囲気が漂う。

港川外人住宅街の店舗は元米兵の住宅とあって、大きな窓に高い天井と那覇市内にはないレトロな雰囲気が漂う。

この港川外人住宅街のなかで、個性あふれるやちむんを
多く取り扱っているお店が〈PORTRIVER MARKET〉だ。

東京から移住してきた麦島さん夫婦が2013年にオープン。
沖縄の衣食住に関わるものをセレクトしたライフスタイルショップだ。
やちむんだけでも小鉢から茶碗、豆皿、植木鉢など、
さまざまな作家の作品を取り揃えている。

「やちむんには、沖縄の土を使わなければならないとか、
伝統的な製法でなければならないとか細かな定義がありません。
沖縄の『やきもの』だから、訛って『やちむん』なんです」

PORTRIVER MARKETはやちむんを中心に沖縄の雑貨や調味料などを揃える。沖縄色を生活に取り入れられる、麦島さんのセレクト眼が光る。

PORTRIVER MARKETはやちむんを中心に沖縄の雑貨や調味料などを揃える。沖縄色を生活に取り入れられる、麦島さんのセレクト眼が光る。

こう話すのは、店主の麦島美樹さん。
沖縄にやってくる前は東京で〈BEAMS〉で働き、
そこで出会った今の旦那さんと沖縄にやってきた。

BEAMSで培った審美眼もさることながら、別注づくりもお手のもの。
沖縄の生活で知り合ったやちむん作家とのコネクションや、
たまたま飲食店で見かけたものなど
「ビビっと」きたものはすぐにピックアップし、作家さんと連絡を取って
PORTRIVER MARKETオリジナルの商品として生みだしていく。

「やちむんは、比較的ポテっとした表情で、
沖縄の自然になぞらえたアースカラーのものが多いですね。
なので、日常生活にもすごくマッチするんです。
和洋中、なにを盛りつけても相性はいいと思います。
クラシックなスタイルだけでなく、アレンジの効いた作品も多いので、
作家さん単位で探していくと、きっとお好みのものが見つかると思いますよ!」

そのほかにも調味料や日用品など、PORTRIVER MARKETには
麦島さん夫婦のお眼鏡にかなったアイテムが
ギュギュッと詰め込まれている。

「『港川』をそのまま英語にしてPORTRIVER MARKET。
ここに来れば沖縄のいいものがすべて揃っている
『港川商店』みたいなイメージですね。
この一角は、飲食店からコーヒーショップ、
雑貨屋となんでも揃っているので一日中遊べますよ。
個人でやっている個性的なお店が多いですね」

港川外人住宅街の店舗はすべて平屋。ミリタリーハウジングとして栄えたブロックで、現在は各通りにアメリカの州名がつけられている。

港川外人住宅街の店舗はすべて平屋。ミリタリーハウジングとして栄えたブロックで、現在は各通りにアメリカの州名がつけられている。

さてやちむんに沖縄タコスを合わせる、そんな使い方は沖縄では一般的なのだろうか。

「やちむんにも、もちろんマッチすると思います。
やちむんが『沖縄の焼きもの』としかいえないように、
沖縄タコスにもお店ごとに個性があって、
どこかゆるい感じが似ていますね」

どちらもはっきりとした定義がないのならば、捉え方は幅広い。
その組み合わせは無限大かもしれない。

〈きときと果樹園〉田中友和さん
大好きだった観光農園を受け継ぎ、
20品種以上のぶどう狩りを実現

周南市の中心部から車で40分ほど走ったところに、
15の農家が集まってできた〈須金フルーツランド〉がある。
標高200メートルの盆地に果樹園が広がり、
50年ほど前から梨、ぶどうの産地として知られ、
毎年秋には、フルーツ狩りに訪れる多くの人で賑わう。

その入り口から3キロほど奥に進んだところに、
須金フルーツランドに所属する農園のひとつ〈きときと果樹園〉が見えてくる。
田中友和さん、和歌子さん夫妻が20種類ほどのぶどうを育てている果樹園だ。

ふたりとも、もともと果樹栽培はまったくの未経験。
先代から農園を承継するために、一家そろって須金に引っ越し、
2017年12月にきときと果樹園をオープンした。

「ずっと農業をやりたかったから承継を決意した」と話す友和さんだが、
その道のりは決して平坦ではなかった。
「辞めたいと思ったこともある」というが、やり遂げられたのはなぜなのだろうか。

須金の中でも奥まった場所にあるため果樹園の入り口を示す看板をつくった。必要なものはできる限り自分たちの手でつくっている。

須金の中でも奥まった場所にあるため果樹園の入り口を示す看板をつくった。必要なものはできる限り自分たちの手でつくっている。

山の中に広がる1.2ヘクタールのぶどう園

きときと果樹園のある須金は、山と川に囲まれ、昼夜の寒暖差が大きい地区。
果樹の栽培に適した環境で、ぶどうは日の光を多く浴びながら育てられる。

桜が咲く時期のきときと果樹園。1.2ヘクタールのぶどう園のすぐ後ろに山がある、のどかな土地だ。(写真提供:きときと果樹園)

桜が咲く時期のきときと果樹園。1.2ヘクタールのぶどう園のすぐ後ろに山がある、のどかな土地だ。(写真提供:きときと果樹園)

取材で訪れた1月は収穫期を終えたオフシーズン。
それでも、田中さん夫妻は忙しく働いていた。この日行っていたのは、ぶどうの木の剪定。
樹形を整えることは、作業の効率を高めるうえで欠かせない作業だそう。

慣れた手つきで枝を剪定していく友和さんと和歌子さん。自分の背よりも高い枝を切ることもある、なかなか大変な作業だ。

慣れた手つきで枝を剪定していく友和さんと和歌子さん。自分の背よりも高い枝を切ることもある、なかなか大変な作業だ。

ほかにも、古くなったぶどう棚の修理やぶどう狩りの時期に
お客さんを迎え入れるスペースの整備もこの時期の仕事だ。

一年中ほぼ休みなく働きながら、3人の子どもの子育ても行っている田中さん夫妻。
それでも、いまの生活は充実していて、移住にまったく後悔はないという。
その根底には、「ずっとやりたかった農業をできている」という田中さんの思いがあった。

県庁マンとして農家をサポートする日々

須金に移住する前、友和さんは福岡県庁に勤める農業系の技師だった。
大学では農学を専攻し、就職のタイミングで農家になることも考えていたが、
技師の採用試験に合格したためそちらに進んだ。
以降は、農道の整備やため池づくりなど農家をサポートする仕事を15年ほど続けてきた。

他県に単身赴任していた和歌子さんが山口に転勤になったのをきっかけに、
山口県の中央に位置していた小郡町(おごおりちょう。現在は山口市)に引っ越した。
その頃から、休日は和歌子さんや子どもと山口県内の観光農園によく出かけるようになる。

観光農園で目にしたのは、自分の手で果物をもいでおいしそうにほおばる子どもの表情や、
そんなお客さんを見てよろこぶ園主たちの姿。

早生のブラックビート。(写真提供:きときと果樹園)

早生のブラックビート。(写真提供:きときと果樹園)

「いいなあ、自分もやっぱり農業をやりたいなという気持ちが強くなっていきました。
特に、観光農園はお客さんと直接話せることが魅力的でしたね」

そう思っていた友和さんに、ある日大きな転機が訪れた。

剪定した枝は一輪車に乗せて運んでいる。枝の向きを揃えているところに和歌子さんの丁寧な姿勢がうかがえる。

剪定した枝は一輪車に乗せて運んでいる。枝の向きを揃えているところに和歌子さんの丁寧な姿勢がうかがえる。

アラスカの大自然にふれてわかった
日本のやさしく美しい四季。
雨も風も心地いい庭と家

風が気持ちいいから、この土地に決めた

家の裏には田んぼが広がっていて、遠くには丹沢山系を望むことができる。
夜になると、その手前に2両だけのJR御殿場線がぼんやりとした光を放ちながら走る。
この家に住む松本茂高さん・弘美さん夫妻からそんな話を聞くだけで、
この場所の魅力が伝わってくる。

1年半ほど前、神奈川県小田原市に
〈BESS〉の「倭様(やまとよう) 程々の家」というモデルを建てたのは、
土地からの影響が大きかったという。

「初めてLOGWAY(BESSの展示場)に行って、1週間後には決めていたかな。
ほかのモデルも検討したんですけど、
この土地、そして自分たちの年齢やライフスタイルを考えると
『倭様 程々の家』という選択になりました」と言う茂高さん。

建設関係の仕事をしている松本茂高さんと弘美さんと愛犬・さくら。広縁でリラックス。

建設関係の仕事をしている松本茂高さんと弘美さんと愛犬・さくら。広縁でリラックス。

奥様の弘美さんも「初めて見にきたときは夏の暑い日の夕方で、
山のほうからすごく気持ちいい風が吹いていたんですよね」と、
この場所に決めた理由を教えてくれた。

家の裏手は広々とした田園風景。

家の裏手は広々とした田園風景。

かつて小田原市のまちなかに住んでいたときは、
「家の中にしか居場所がないからどこかに行きたくなって」月1回くらいは
旅行していたという。
しかし今は室内から土間、庭や広縁(ひろえん・奥行きのある縁側のこと)といった
内と外がゆるやかにつながる敷地全体が居場所となり、
「暮らし面積が広がって」あまり遠出をする必要がなくなったそうだ。

「特に最初の1年間はとにかく庭づくりが楽しくて、一日中、庭で過ごしていました。
誰よりも日に焼けていましたよ。
家を建てて完成ではなく、5年、10年かけて充実させていくつもりです」

立派な木ではなく、まだ細い木が多いのはそのためだ。
これから木が生長し、根を張って葉が生い茂る。
夏は木陰をつくり、冬は葉が落ちて日が差す。そんな木々の生長を楽しむ。

これから育つ過程を楽しむ「細い」木。

これから育つ過程を楽しむ「細い」木。

家を建てる前は森の中の別荘がほしいと思っていたというが、
家を建てることが決まると「自分の庭に雑木林をつくろう」と発想を転換。

「広縁の前を中心に植えています。木は1本ではなかなか育たない。
本来はいろいろな雑木を植えて初めて、正常に育つもの。
根がネットワークになって情報伝達しているんですよね。
これから伸びてきたら剪定など大変ですけど、それはこれからの自分の楽しみです」

木が順調に育っていけば、夏はサンシェードの代わりになる。
ちなみに通常のサンシェードはそれ自体がかなり高温になってしまうという。

「真夏の日差しが強いときにサンシェードの裏側の温度を計ると、
40〜50度になっていることもあります。しかし葉っぱの裏側を計ると28度くらい。
葉には蒸散作用があるので、天然のミストシャワーみたいなものです。
これで夏も快適に過ごせるとイメージしています」

本当の完成は数年後になる。
しかしそもそも、その年月が自然とともにある暮らしの本質なのかもしれない。

土間からつながるリビング。テーブルはウォルナットの木を自分で磨いた。

土間からつながるリビング。テーブルはウォルナットの木を自分で磨いた。

絵描き・Lee Izumidaの旅コラム
「大好きな家で旅の思い出に浸れる
本とかたいパン」

さまざまなクリエイターによる旅のリレーコラム連載。
第17回は、絵描きのリー・イズミダさんが旅するときに
はずせないという、本とパンの話。
旅は本屋とパン屋から始まり、
帰宅してからも、その旅の思い出を彩ってくれるようです。

旅行先で必ず探し訪れる場所

私は自分の家が世界中のどんな場所より好きだ!
休日に少しお出かけしてもすぐに家に帰ってしまう。
旅行へ行くときは家に持って帰って思い出に浸れるものを探す。
代表的な例でいえば「本とかたいパン」。

私が旅行へ行く機会が増えたのはちょうど2年前、
絵描き一本で仕事を始めたのがきっかけだ。
今回書くことも2年前ぐらいになんとなく空港の搭乗アナウンス待ちで
時間を持て余したときに思いつき、続けている。

京都にて。今回の旅写真は、すべてフィルムで撮影したものです。

京都にて。今回の旅写真は、すべてフィルムで撮影したものです。

私の場合、旅行といっても仕事で行くことがほとんどだ。
そしていつも仕事柄、大荷物を持って旅行へ行くことが多く、基本的に単独行動だ。
旅行鞄の中は絵の具やスケッチブック、筆など、どれも重くかさばるものばかり。
プライベートの旅行でも、
スケッチブックや絵の具は少しでも持って行かないと落ち着かない。
いくら荷物を減らせといわれても、減らすのは洋服で画材は持っていくだろう。
そんな性格なので、私の旅行に持っていく荷物はスマートだったことがない。

はりきって沢山行動するのもそこまで好きではないので
みずから事前に計画を立てることもない。
そんな私だがホテルに着くとまずは近くにパン屋と本屋があるかどうかを
グーグルマップで確認する。
近くになければ歩く、見つからなければ現地の人に聞く。
おもしろいことにパン屋と本屋はどこに行っても1軒や2軒はある。
これは国内だけではなく海外も一緒だ。

パン屋の店員さんにはなぜか話しかけやすい。
人見知りの私でもパン屋の店員さんには
「ここらへんでおいしいご飯ありますか?」とか
「観光できる所ありますか?」と気軽に話しかけることができる。
調子がいいときは「今日は天気がいいですね〜」なんて話しかけることもある。
そしてみんな親切に教えてくれる。
本屋にはガイドブックがあるので、人に聞かなくとも探すことができる。
本も親切に教えてくれる。
おもしろいことに、これも国内だけではなく海外も一緒だ。

鹿児島。

鹿児島。

多島美を愛でる穴場スポット。
山口県下松市の笠戸島は、
トレイルランでの島旅がちょうどいい

トレランで回れる距離感がちょうどいい笠戸島観光

自分の足で直に自然を感じられるからと、
世界的に人気が高まっているトレイルランニング。
日本でも、全国各地で地域おこしを兼ねた大会が開かれている。
そのなかで毎年リピーターを増やし、存在感を高めている大会のひとつが
〈くだまつ笠戸島アイランドトレイル〉だ。
舞台となるのは山口県下松(くだまつ)市の笠戸島。
住みよいまちランキングの上位常連である下松市から、
瀬戸内海にひょっこりと突き出す、三日月形をした12平方キロ弱の島になる。

穏やかな瀬戸内海に囲まれた笠戸島。

穏やかな瀬戸内海に囲まれた笠戸島。

例年なら2月に行われる大会は、新型コロナウイルスの影響で
残念ながら2020年に続き、2021年も2年連続で中止となってしまった。
けれども「あのコースをもう一度、タイムを気にせず回りたい」と、
大会のコースを走りに訪れるトレイルランナーも少なくない。

くだまつ笠戸島アイランドトレイルのプロデューサーである、
プロトレイルランナーの奥宮俊祐(おくのみやしゅんすけ)さんもそのひとり。
実は、この大会が縁で「くだまつ観光大使」にも選ばれている。
トレラン×地域創生にも取り組む奥宮さんに、
コースを振り返りながら笠戸島の観光スポットを聞いた。

オーシャンビューの国民宿舎でインフィニティ風呂が待っている

「笠戸島は大部分が森林で、細長く延びた形をしています。
集落は山あいに点在していて、古くからそれぞれをつなぐ山道が切り拓かれていました。
それらの古道を整備した、
島の端から端までをつなぐ『スカイ・ハイキング・ルート』もあるんですよ。
こうした島の特徴は、
トレイルランニングの人気大会の舞台になりやすい条件が揃っているといえます。
もともとは縁もゆかりもない場所だったのですが、
今ではコースの準備や、トレイルランのセミナーにかこつけて訪れるのが待ち遠しくって」

日本各地から1000名近いエントリー者を集める。

日本各地から1000名近いエントリー者を集める。

コース上からはところどころで瀬戸内海の海と島、いわゆる多島美を眺められる。
日本ではそう数の多くないオーシャンビューのトレイルだ。
西側が開けているから夕陽も抜群に美しい。

〈国民宿舎 大城〉からの夕陽。

〈国民宿舎 大城〉からの夕陽。

「なかでも好きなのが、〈国民宿舎 大城〉から眺める夕陽です。
客室からもいいのですが、ここの温泉が自分史上最高クラス。
目の前のオーシャンビューを遮るものが何もない『インフィニティ露天風呂』があるんですよ。
陽が沈めば少し先の造船所の明かりが夜景を彩って、
何ともいえない雰囲気に浸れます」

大会でもスタート・ゴールの会場として使われ、
笠戸島唯一の温泉宿として島の観光では外せない。

大城のインフィニティ風呂。大人720円、小人310円

大城のインフィニティ風呂。大人720円、小人310円

笠戸島は魚の養殖も盛んだ。
「山を走るだけでなく、海で釣りをするのも趣味」という奥宮さんは、
大城に泊まるときに、新鮮な魚介に舌鼓を打つのも忘れない。

「『笠戸ひらめ』と呼ばれる養殖ひらめが特産品で、
ランチでも夕食でもひらめ尽くし。何といっても一番はお刺身ですね。
あとはとらふぐ。ヒレを熱燗に浸したふぐのヒレ酒は病みつきになります。
笠戸ひらめが恋しくなったら、
炊飯器で手軽につくれる〈笠戸ひらめパエリアの素〉をお土産にぜひ。
養殖ひらめをはじめ、きのこやレモン、にんにく、容器のブリキ缶にいたるまで、
オール下松産のお土産なんです」

ひとつで2合分が調理できる〈笠戸ひらめパエリアの素〉は1080円。お米と一緒になったギフトセットも。写真は調理例。

ひとつで2合分が調理できる〈笠戸ひらめパエリアの素〉は1080円。お米と一緒になったギフトセットも。写真は調理例。

お手本としている神山町。
小さなまちから学んだ地域のあり方を
鹿児島県・川辺に生かす

鹿児島県・川辺と徳島県・神山の共通点

今回はこれまでの連載「文化の地産地消を目指して」で
ずっと書いてきた鹿児島県南九州市川辺町から少し離れて、
僕らがシンパシーを感じるもうひとつのローカルについて書いてみたいと思います。

ミュージシャンとして活動していると、
いろんなまちに演奏に出かける機会があります。
長年そういう暮らしをしていると、1度だけじゃなく何度も訪れるまちが出てくる。
何度も手招きされて訪れているうちに友人も増え、
そのうちふらっと訪れても顔見知りにばったり会って
「おかえり」なんていわれるようになる。そんな気の合うまちというのができてきます。
そうやって地域と人は精神的な距離を縮め、
物理的な距離のハードルが低くなり関係人口化していくのだと思います。
関係人口はまず「歓迎人口」から。

そのなかで僕らがベースにしている鹿児島の川辺町と同じくらいの規模感で、
なにかと気になってお手本としているのが徳島県の神山町です。
このふたつの小さなまちにはいくつかの共通点があります。

まず、近隣の中心市街地から車でだいたい40〜50分の位置にあること。
中山間地域で豊かな里山はあるものの、特別目立った観光資源があるわけではないこと。
古くから農業と林業で成り立ってきたということ。
それぞれ過疎化と少子高齢化に悩む地域であるということ、などなどです。

山あいの神山の風景。

山あいの神山の風景。

こうした地域課題は全国どこでも見られるものではありますが、
特に神山町はその課題解決の先進地として有名なので、
地域の課題に関心のある人にとってはよく知られたまちでもあります。

〈TARO〉山中健生さん
イチゴはもっと、おいしくなれる!
10年越しに掴んだ手応え

山口県の最東部、広島県との県境にある岩国市。
市内でも瀬戸内海に面した由宇町(ゆうちょう)でいま注目を集めているイチゴ農園がある。
農園での直販も、オンラインでの販売も、いつも即完売。
山中健生さん・歩さん夫婦が営む〈TARO〉だ。

「イチゴ本来のおいしさをいかに引き出すか」。
それだけを追求して栽培に取り組んできた山中夫妻の10年を聞いた。

市場に卸すより、おいしく食べてほしいから

TAROでは、4つのビニールハウスでイチゴを育てている。
中を見せてもらうと、イチゴの実が赤く色づき、ミツバチが飛んでいた。
取材を行った1月中旬は、収穫のシーズン。
この時期は農園での直販や発送があるため、毎朝3時に起床。
収穫と検品をしているうちに、あっという間に直販を始める11時になっているという。
ハードな日々が続くが、直販を行う理由はイチゴの味へのこだわりにある。

TAROで栽培している品種は「さちのか」。ビタミンCが多く含まれているのが特徴。TAROでは、先まで赤くなってから収穫している。

TAROで栽培している品種は「さちのか」。ビタミンCが多く含まれているのが特徴。TAROでは、先まで赤くなってから収穫している。

「市場に卸す場合、お客さんが手に取るまでの時間を逆算して、
一番熟した状態よりも早く収穫する必要があるんです。
うちはハウスの横にある販売所で売っているから、一番状態のいいイチゴを、
その日の朝収穫して、そのまま売ることができます。
これが、私たちのイチゴを一番おいしく食べる方法だと思っているので」

おいしいイチゴの噂は、遠くまで伝わる。
一度食べた人の多くはリピーターになり、遠方から買いにくる人もいる。
今でこそイチゴの販売について自信とこだわりを持って話す山中さんだが、
農家になる前の、会社員をやっていた頃は、劣等感を覚えることもあったという。

はたして自分は、仕事に没頭できているか

山中さんは茨城県つくば市の会社で働くシステムエンジニアだった。
25歳のとき、大学院で植物病理学を研究していた、のちの妻となる歩さんと出会う。
農業について楽しそうに語り、「いずれ自分で農業をやりたい」と話す歩さんに、
大きく心を動かされたという。

会社員をやっていた頃には、自分がのびのびと働ける場所を求めて何度も転職した。

会社員をやっていた頃には、自分がのびのびと働ける場所を求めて何度も転職した。

その理由は、組織で働くことから感じる窮屈さだった。

「会社の先輩たちを見ると、エンジニアの仕事を心底楽しそうにやっている。
エンジニアに強い思い入れがなかった自分には追いつけないと思ったし、
『一流にはなれないだろう』と漠然と思ってもいました。
寝ても覚めても仕事に没頭できる人には勝てませんからね。
でも妻と出会って、農業だったら育てる作物も育て方も自分の思ったように決められる。
責任は重たいけれど、いつか没頭できるようになるのでは、と考えました」

組織という枠がないからこそ、知らないうちに自分に課していた枠を超えて、
可能性を広げられるのではないか。そんな期待を農業にかけたのだった。

前橋〈白井屋ホテル〉で
建築とアートを堪能。
まちづくりの新拠点となる!

世界的アーティストが集結し、ローカルの拠点となるホテル

創業300年を超える〈白井屋旅館〉。
1975年にホテル業態に変更したものの、2008年に惜しまれつつ廃館してしまった。
群馬県前橋市民にとっては馴染みのあるこの跡地に、
何ができるのか? どうなるのか?
市民が興味深く見守っていたところ、2020年12月12日、
前橋の地域創生に深く関わってきたアイウエアブランド〈JINS〉の代表、
田中仁さんが引き継ぐかたちで〈白井屋ホテル〉として再生。
コミュニティの拠点となる宿泊業態がまちからひとつ減ることを免れ、
結果として、新しいまちづくりの拠点ができた。
白井屋ホテルと田中さんによる、前橋を盛り上がる挑戦のひとつである。

かつてと同じ宿泊施設ではあるが、その様相は大きく異なる。
国道50号沿いを歩いていると、突然、ホテルのポップな看板が現れる。
ニューヨークの作家、ローレンス・ウィナーさんによるタイポグラフィだ。

無機質な国道沿いのビルの並びのなかに、異質なサイン。(写真提供:木暮伸也)

無機質な国道沿いのビルの並びのなかに、異質なサイン。(写真提供:木暮伸也)

これ以外にも、エントランスからロビー、各部屋にいたるまで、
アートがあふれる空間になっている。
象徴的なのが、ロビーの吹き抜けスペースにあるレアンドロ・エルリッヒさんの作品。
まるで水道の配管のように設置された「ライティング・パイプ」には
LEDライトが仕込まれていて、季節や時間帯によってさまざまな表情を見せてくれる。

さらにアーティストがまるごとプロデュースを手がけた
4部屋のスペシャルルームがかなり豪華だ。

まずひとりめは上述のアルゼンチンの作家、レアンドロ・エルリッヒさん。
ロビーと同様のライティング・パイプが部屋では金属製に変わり、
天井に張り巡らされている。
それほど広くない部屋なのでパイプの密度を高く感じ、「アートを体感」できる部屋だ。

次にイタリアの建築家、ミケーレ・デ・ルッキさん。
本来は外装に用いるような板葺きで部屋の内壁を覆った部屋。
合計2725枚の板からできている。
やわらかな表層を生み出す伝統的な技法から着想され、
日本の雪国の雰囲気もあり、板から漏れ落ちる光がとても美しい。
落ち着いた気分になれそう。

ロンドンのプロダクトデザイナー、ジャスパー・モリソンさんが手がけたのは、
木製の箱に入ったかのような部屋。
床も木なので素足が気持ちいい(ちなみにこの部屋は土足禁止)。
日本らしいヒノキの浴槽も、彼のオリジナルデザインである。
広い部屋にポンとベッドが置いてあり、
空間の余白を生かしたミニマルなつくりになっている。

最後にホテルの全体設計を担当している建築家の藤本壮介さんの部屋だ。
LEDライトに照らされた植物により、
前橋のまちづくりコンセプトである「めぶく。」が表現されている。
絨毯は、壁や天井などの打ちっ放しのコンクリートを模した柄で、
藤本壮介さんのオリジナルデザイン。
これは館内のほかの客室にも一部採用されている。

〈TRIP BASE COCONEEL〉
松田寛之さん
美祢の観光体験を
1軒のゲストハウスから変える

日本最大級のカルスト台地・秋吉台。
春や夏は石灰岩が降り積もってできた台地に緑が生い茂る。
秋には枯れて黄金色になり、すすきが風にそよぐ。
地下には、日本最大規模の鍾乳洞・秋芳洞など400以上の洞窟が広がっている。

自然の力と雄大さを感じられるこの地で、
ゲストハウス〈TRIP BASE COCONEEL〉を営んでいるのが、松田寛之さん。
秋吉台のある美祢(みね)市で生まれ育ち、
東京での暮らしを経て、2019年4月にUターンした。

54平方キロメートルもの面積を誇る秋吉台。毎年2月には山焼きが行われる。一年を通して、さまざまな景色を見せてくれる。

54平方キロメートルもの面積を誇る秋吉台。毎年2月には山焼きが行われる。一年を通して、さまざまな景色を見せてくれる。

宿泊業はほぼ未経験ながら、ゲストハウスを開業。
以来、外からの観光客はもちろん、地元の人たちのたまり場としても親しまれている。

周りに「何もない場所」といわれた美祢を
「観光地として成立する」と言い切る松田さん。
一度美祢を出たからこそわかる地域の魅力や、観光のバリエーションを増やす取り組み、
ゲストハウスの役割について聞いた。

ゲストハウスの経営なら美祢で生活できる

美祢市で生まれ育ち、バンド活動のために22歳で上京。
アルバイトなどをしながら12年間活動したが、30代半ばで方向展開。
結婚を機にシステムエンジニアとして都内の企業に勤めた。

「上京するときから、いずれ美祢に戻りたいという気持ちがありました。
バンドを諦めてからは、特に東京にいる必要もないし、
都会のあわただしさから逃れたいと思っていましたね」

一度外に出たぶん、美祢への思いは強い。上京するきっかけになったロックバンドでは、ギターを担当していた。

一度外に出たぶん、美祢への思いは強い。上京するきっかけになったロックバンドでは、ギターを担当していた。

思いは日に日に強くなり、2018年12月にUターンを決意。
奥さんは「もっと先のことだと思っていた。30代半ばでの移住は早いのでは」
と渋ったという。
ネックのひとつは、働く場所や職種が限られていて、
平均賃金も決して高いとはいえないことだった。

移住を諦めたくなかった松田さんは、美祢市について調べ、妻にプレゼンを重ねていく。
そのうちに、美祢市は年間の観光客数が130万人を超えているにもかかわらず、
秋吉台周辺には宿泊施設がほとんどないことに気づいた。

需要が見込める宿泊業をやることで、妻が懸念している課題を解消できるのではないか。
なにより、自分は人とコミュニケーションを取るのが好きだから、
それを生かす仕事がしたい。

ゲストハウスをやろう。決めてからの行動は早かった。
さっそく2019年の1月から宿泊業の認可を取るための講習などを受け始めた。

ロンドンパブへのあこがれを表現したゲストハウス&パブ

場所は、祖父母がかつて経営していた定食屋を改装することに決め、
2019年4月にUターン。
以降、オープンまでの5か月は父親とひたすらDIYで改装を行った。

秋吉台から車で10分足らずのところにあるTRIP BASE COCONEEL。周囲には、田畑が広がっている。天気がいい日はテラス席でくつろぐ人も。

秋吉台から車で10分足らずのところにあるTRIP BASE COCONEEL。周囲には、田畑が広がっている。天気がいい日はテラス席でくつろぐ人も。

「内装は、かっこよくビールを飲める、をコンセプトにしました。
パブで立ったままビールをラッパ飲みするの、いいなって。
本当はロンドンパブのようにしたかったのですが、
結果としていろんな要素が混じっていますね。
木の感じが好きなので、前面に出しています」

店内は、写真のフラッグのほか、だるまやオーディオセットなどが混在している。「僕が好きなものを集めていったらこうなりました。いずれいい味が出てくるといいな」と松田さん。

店内は、写真のフラッグのほか、だるまやオーディオセットなどが混在している。「僕が好きなものを集めていったらこうなりました。いずれいい味が出てくるといいな」と松田さん。

「みんながフラッと立ち寄ってくれる、かっこいい酒場のような場所にしたい」
そんな思いとこだわりを込めた改装は終わり、
2019年9月にTRIP BASE COCONEELはオープンした。

真鶴で釣り三昧!
〈SON OF THE CHEESE〉山本海人の
両極端な2拠点生活

都会のクリエイターが真鶴へ移住した

真鶴半島のとある場所で海釣りに興じているのは、山本海人さん。
アパレルブランド〈SON OF THE CHEESE〉やサンドイッチ店〈BUY ME STAND〉、
蕎麦とバーが融合した〈Sober〉などを手がけているクリエイターだ。
ここには東京から遊びに来たわけではない。彼は真鶴半島の高台、
しかも半島の両側の海を見下ろせる最高のローケーションの家に住んでいる。

アパレルブランド〈SON OF THE CHEESE〉などをディレクションしている山本海人さん。

アパレルブランド〈SON OF THE CHEESE〉などをディレクションしている山本海人さん。

現在は、もともと住んでいた東京の家と真鶴の家を往復する2拠点生活を送っている。
きっかけはライススタイルの変化だった。

「2年前に、家から家具が全部なくなっちゃったんですよね。
ベッドひとつと犬2匹というミニマルアーティストみたいな暮らしになっちゃって。
その頃、なんとなく東京に居心地の悪さも感じて、真鶴に来てみました。
住民票も会社の登記もすぐに真鶴に移しましたよ」

真鶴の西側、湯河原、熱海方面を望むことができる。

真鶴の西側、湯河原、熱海方面を望むことができる。

こうして山本さんが移住してきたのは2018年。実は現在住んでいるこの家は、
山本さんの両親が5年ほど前に建て、別荘として使っていた家。
そこに居を移したのだ。

「最初は東京には一切行かずに、真鶴にいながら東京の会社をコントロールしました。
でも100%リモートというのはコントロールが難しくなって、
いまは半分ずつの生活に落ち着いています」

現在は新型コロナウイルス感染症の影響もあって、両親も真鶴を中心に生活している。
ローコストでつくることをテーマにした家だというが、
「古い物を寄せ集めて置いている」という家具も含め、
瀟洒なデザインの部屋がお父さんのセンスをうかがわせる。

ウッドテラスはくつろげる仕様に。

ウッドテラスはくつろげる仕様に。

テラスからは真鶴半島の西海岸を眺めることができ、
犬が快適に過ごせそうな広い庭からは反対側の漁港周辺を見下ろすことができる。
スペインや南仏あたりのリゾートを思わせる雰囲気だ。

アーチが特徴的な部屋の内観。

アーチが特徴的な部屋の内観。