カメラストラップは〈FURIKAKE〉!
生活を楽しくするプロダクトを
つくりだす高松の夫婦ユニット

いつもの暮らしをちょっと楽しくするカラフルなプロダクト

毎日のように使うカメラ。
記録する、発信する、いろんな意味でカメラはなくてはならない存在。
働いているときも、普段の暮らしのなかでも。
そのカメラを私はサコッシュ(ショルダーバッグ)のように
いつも肩からかけて持ってるのですが、たすきのように左肩から斜めにかけてるのが、
FURIKAKE(フリカケ)〉のカメラストラップです。

カラフルな色がそれだけで元気をくれる〈FURIKAKE〉カメラストラップ。

FURIKAKEさんの事務所で。得丸成人(なるひと)さんと奥さんの美由紀さん(左)と。

FURIKAKEさんは、香川県高松市を拠点に活動するクリエイターチーム。
得丸成人さん(以下、得さん)と奥さんの美由紀さんのおふたりで活動されてます。
コンセプトは、

「FURIKAKEはGood Taste なDesign Seasoning。
手作りによるオリジナルデザインのカメラストラップやアクセサリーを中心に、
生活を楽しくするflavorを創出しております」

とされていて、まさに白ご飯にかけるふりかけ!
白ご飯でも十分おいしいのですが(普段の暮らしでも十分楽しいのですが)、
ふりかけをかけることで(FURIKAKEさんのカメラストラップを持つことで)、
いつもと違う味を楽しめる(いつもよりワクワク感が増す!)。
という感じです。

得さんとの出会いは、2014年の春。
私は〈小豆島カメラ〉という活動を島の友人たちとしていて
(小豆島カメラについてはこのあたりを読んでいただければ!)、
まだ活動が始まりの頃、集合写真を撮りました。

小豆島カメラの活動当初、カメラストラップが黒い頃の集合写真。

カメラはオリンパスのミラーレス一眼レフ。
カメラストラップは最初からカメラについている黒いやつ。
ストラップに関して私たちは特に何も思っていなかったのですが、
その集合写真をたまたま見てくださった得さんは
「ストラップを変えたらもっと楽しくなる!」と感じ、
そこからやり取りが始まりました。

ちょうどFURIKAKEオリジナルのカメラストラップの販売を
スタートしようとしていた得さんが、なんと小豆島カメラオリジナルの
ストラップをつくってくれることに!

いま思えば、同じ香川県同士、同じタイミングでスタートしようとしていて、
カメラの活動とカメラストラップの製作・販売がつながるってすごいご縁。
つなげてくれた井上くん(島の友人)に感謝。

いまはみんな違う色のFURIKAKEカメラストラップを使っています。

いまでは小豆島カメラといえば、OLYMPUSカメラと
FURIKAKEカメラストラップというくらい、小豆島カメラのイメージになっています。

OLYMPUSさんのこの大きさのカメラだから、毎日のように肩からぶらさげて持っていられる。(撮影:牧浦知子)

小豆島カメラオリジナルのストラップはロゴ入りです。

築60年以上の空き家を救いたい!
古家の改修方法を学ぶ
〈セルフビルドの学校〉が始まる

住みたい人がいて空き家もあるのに、移住が進まない理由

岩見沢の山里で、またひとつ新しい挑戦が始まった。
地域おこし推進員(協力隊)の吉崎祐季さん上井雄太さんが企画した、
古家の改修方法を学ぶ〈セルフビルドの学校〉だ。

ふたりはこれまで、この地域に移住を希望する人たちから、
住まいについての相談を受けてきた。
美流渡(みると)をはじめとする山間の地域は元炭鉱街。
閉山とともに人口が激減し、空き家が多数残されているのだが、
その多くは築年数が古く修繕が必要となっている。

「移住を希望するみなさんには、直せば住めますよと話していますが、
わたしたち自身も実際にどうやって直すのかわかりませんし、教えることもできません。
こんな状況なので、移住に興味があっても、結局は住むのは難しいと思う方が多くて、
空き家は年々廃墟のようになっていきます。住みたい人がいて
空き家があるのに、何とかならないだろうかと思いました」(吉崎さん)

ワークショップが行われたのは上美流渡にある古家。

こうした想いから、家を修繕できるスキルを自分たちも身につけたい、
またほかの人たちとも知識を共有したいと考え、
今回のワークショプ開催へと踏み切った。

手がける物件は、一昨年に吉崎さんが上美流渡に取得した築60年以上という古家だ。
ここは森に囲まれている地域だが、炭鉱街だった当時は、
料亭として使われていたようで、2階には丸い窓が取りつけられている。
そのため彼女はここを〈マルマド舎〉と名づけた。

2階にある丸い窓。

人家の少ない森の中に建っている。

吉崎さんがここを取得した理由は、大工の知識を身につけたいと思ったから。
これまでDIYで、マンションや店舗の内装を手がけたことがあるが、
家の構造に関わる部分の改修は未経験。
そこで地元の仲間たちと一緒に、この家を独学で改修しようと考えていたのだが、
あるとき長沼に住む大工〈yomogiya〉の中村直弘さんに出会ったことで、
ワークショプの構想が広がっていった。

講師となった中村直弘さん。

yomogiyaは「まちの大工さん」を掲げ、1坪のガーデニング小屋や
トレーラーで移動できるコンテナサイズの小屋など、
施主のこだわりを引き出すような、木の風合いを生かした建物を生み出してきた。
また古道具や古い建物など、人々の手の温もりを感じる物への愛着もあり、
今回の企画に興味を持ってくれたのだった。

温室つきのガーデニング小屋。(撮影:yomogiya)

1月21日、第1回となるセルフビルドの学校が開かれた。
テーマとなったのは、主に柱や土台など基礎部分をどう修繕するのかだ。
受講者は7名。一般公募したのだが、集まったのはいずれも腕に覚えのある人ばかり。

例えば由仁で鍛金工房(銅・真鍮を打ち出して形をつくる技法)を営む竹島俊介さんや
岩見沢で家具を制作する織田義史さん。
このほか、すでに大工の見習いをやっているという深田康介さんなどだ。

受講者のみなさん。

「もう、みんな勉強しなくてもできるんじゃない?」

講師の中村さんが語るように、
織田さんは自ら建物を修繕してアトリエをつくっているし、
竹島さんも農家の納屋を改装して工房をつくろうとしているところ。
しかし、だからこそ今回のワークショプの重要性を感じたといえるのかもしれない。

「経験はあっても、基礎の部分はこれまで知識がなくて触れなかったんです。
そこがわかれば、今後、古家を探すときにも自由度が広がると思って」(竹島さん)

マルマド舎は、内壁や床などをはがし、柱や土台が見える状態になっていた。

ワークショップ中、推進員のふたりも積極的に作業を進める。上が上井さん、下が吉崎さん。

講師となった中村さんの手元を、受講者たちは真剣に見つめる。

〈BED AND CRAFT taë〉
富山県井波で外国人を引き寄せる
古民家ゲストハウス

富山県南砺市に、木彫刻家が200人以上も暮らす井波というまちがある。
全体の人口が8000人近く(合併前の旧井波地区)と考えると、
人口40人にひとりが彫刻家というユニークな地域だ。
その井波で新たに、宿泊しながら木彫刻や漆塗りなどの
伝統工芸を体験できる古民家ゲストハウス〈BnC taë(たえ)〉
(BnCはBED AND CRAFTの意)がオープンした。

豪農の旧家をリノベーションした宿泊施設

〈BED AND CRAFT〉 とはBed(宿泊)だけではなく、
地元職人の工房でクラフト(Craft)づくりを体験できる旅の仕組み。
現在までに同様のコンセプトで〈BnC KIRAKU-KAN〉、
〈BnC TATEGU-YA〉と2軒のゲストハウスが井波にオープンしており、
2015年のオープン以来、すでに1000人泊を達成。
2017年12月にオープンしたBnC taëは3軒目となる。

BnC taëは井波の中心地で、浄土真宗の名刹である
瑞泉寺(ずいせんじ)の門前町に位置し、
路地に面した豪農・藤澤家の旧家をリノベーションした宿泊施設だ。

間取りは1LDKプラスロフトで、こぢんまりしたサイズの建物ながら、
中に入ると開口部が多く、リビングもロフトと吹き抜けでつながっていて、
天井にもトップライトが切り取られているため、
外観から受ける印象以上に室内は明るく広く感じる。

〈BnC taë〉のリビングで楽しめる石垣の借景。

リビングには隣接した寺院の石垣を借景に取り入れた窓が切り取られていたり、
玄関からは京町屋の走り庭を思わせる土間が伸びていたりと、
設計に遊び心があって飽きがこない。
地方に長期滞在して、田舎暮らしを体験したい人にも最適な空間だ。

BnC taëの和室。玄関から続く土間に面している。

このゲストハウスでは新たな試みとして、マイギャラリー制度を導入している。
マイギャラリー制度とは、ゲストハウスそのものが
専属作家の作品発表の場となっており、
宿泊料の一部が作品レンタル料として作家に還元される仕組み。
展示作品の買い取りも可能で、専属作家の工房でクラフト体験もできる。

BnC taëに関してはリノベーションの段階から、
専属作家で地元の漆芸家の田中早苗さんが深く関わっている。
BnC taëの設計を手掛けた建築家の山川智嗣さんによれば、
田中さんの作品に干渉するような家電を押し入れに隠すなど、
限られたスペース内で設計上の工夫を随所に散りばめたという。

リビングにある椅子に座りながらふと天井を見上げると、
吹き抜けの大空間に古木の太い梁が架け渡されていて、
薄い和紙に朱の漆を吸わせたインスタレーションが、
内気の対流で優しく揺れている様子が見て取れた。

BnC taëの専属作家、漆芸家の田中早苗さんの作品。

パティシエとシェフが
空き家の改修に挑戦!?
下呂市で若者を呼び込む
〈小坂リノベーションペダル〉

飛騨への移住は何が違う?
仕事、住居、暮らしを支える飛騨コミュニティ vol.4

世界中から集まる、多くの旅人の心を掴んで離さない飛騨。
観光地として有名な飛騨は、高山市・飛騨市・下呂市・白川村の
三市一村からなる広域エリアだ。
伝統に触れつつ、新しい生き方を実践できるこの地域には、
観光客だけでなく移住者が増えている。

地域で暮らすうえで、大きなポイントとなるのが、人とのつながり。
縁を感じられる地域には、移住者は自然と集まってくる。
コロカル×未来の地域編集部でお届けする、飛騨の魅力に迫る連載。
外の人々を迎え、つながりを強くする。そんな飛騨のコミュニティを訪ねていく。

ゆっくりでも継続的なリノベーションプロジェクト

日本三名泉として、温泉好きに人気の高い下呂市。
まちなかには風情のある温泉旅館が並び、浴衣姿で湯めぐりをする旅行者も多い。

日常を離れて温泉につかるのもいいが、このまちの魅力は、それだけにとどまらない。
地域に根ざした事業者のなかには、自分たちの手を動かし、
地域の価値を高めていきたい、と考えている人たちもいる。

温泉街から少し北上した下呂市小坂町には、
かつて〈夢みどり館〉という喫茶店があった。
建物自体は下呂市の所有物件だが、閉店して10年ほど、空き家になっている建物だ。

かつて喫茶店だった〈夢みどり館〉。多角形で構成された、ユニークな外観が特徴だ。

今後の活用方法が定まらないなか、建物保存のために立ち上がったのが、
パティシエの北條達也さんと、シェフの松山豪さんのふたりだ。

もともと、北條さんたちは、廃校となった地元の小学校を改修する
プロジェクトを考えていたが、所有者である市との話し合いのなかで、
まずは小さな夢みどり館の改修から提案されたという。

下呂市萩原町でお店を営む松山豪さん(左)と北條達也さん(右)。

「改修といっても、まだ始まったばかり。
休みの日に少しずつやっているので、完成するのはいつになるやら……」

ふたりともそう笑って話すが、10年以上空き家だった物件を自分たちで直すのは、
なかなか時間のかかる作業だ。

改修プロジェクトは、〈小坂リノベーションペダル〉と名づけられ、
時間をかけて進められている。
ゆっくりでも、こいで前に進むペダルのように、継続を願ってつけられた名だ。

このまま再起不能な建物になってしまうのを待つのではなく、できるところから改修し、
いずれはより資産価値のあるものに変えていこうとする思いは強い。

将来は、地域を離れていった若者が帰ってくることができるような
場所をつくりたいというふたりに、話を聞いた。

日光の杉やいちごを活用!
〈NIKKO ART PLANNING〉で
新たな商品をつくる柴田智子さん

外国人の視点を介して、地元の魅力を知る

里山の牧歌的な風景が広がる、日光市東南部の小代(こしろ)地区。
小屋といっていいほど簡素なつくりの東武日光線・下小代(しもごしろ)駅を出ると、
はす向かいにある木造平屋建ての、堂々とした建物が目に飛び込んでくる。
10年ほど前まで、現在の下小代駅の場所にあった旧駅舎なのだが、
それを移築保存した中心人物が、駅前の家で生まれ育った柴田智子さんだ。

柴田さんの実家の隣に、曳家工法で1か月かけて移設された旧下小代駅舎。いまはイベントなどで使うこともあり、柴田さんはこのスペースの活用も考えているという。

1929年(昭和4年)、東武日光線開通時に建設された旧駅舎が、
老朽化を理由に建て替えられることになった際、地元の有志が保存運動を展開して、
2007年に実現。2009年には登録有形文化財となっている。
柴田さんにとって旧駅舎は、幼い頃から毎日目にしてきた
何でもない風景の一部だからこそ、失いたくない場所だった。

「下小代駅は無人駅だったこともあり、道に迷った方や何かに困っている方など、
いろんな方が駅前の私の家にやってくるんです。
日光だから外国人の観光客も多かったし、遠足の途中で雨が降ってきて、
小学生が30人くらい雨宿りをするようなこともありました。

突然わが家に来た見知らぬ人に、母は漬け物を振る舞い、
父は父で偶然出会った外国人を家に招いたりしていたので、
私自身もいろんな人とコミュニケーションをとることが
自然と好きになったのだと思います」

旧下小代駅舎の昔ながらの改札。

東京の美大で設計を学んだ柴田さんは、卒業後、デザインや建築の仕事をしながら、
主に外国人をターゲットにしたキッチン設備のある宿泊施設〈NIKKO INN〉を、
実家の近くでパートナーとともに運営していた(現在は休業)。
訪れた外国人は“何の変哲もない”田舎の風景に感激し、
カエルやセミなどの大合唱に驚いたという。

「外国人が畳や障子や素朴な風景を褒めてくれるのを目の当たりにして、
日本の文化のすばらしさに気づかされたのですが、
それをもっと多くの日本人に実感してほしくて。
そのヒントが食にあるような気がして、
東京で〈WORLD BREAKFAST ALLDAY〉(以下、WBA)という
カフェレストランを始めたんです」

2か月ごとに変わるWBAのメニューにつく、各国の朝食文化にまつわる説明書き。柴田さんが考案し、イラストも手がけた。

2013年、外苑前にオープンしたWBAは、世界各国の朝ごはんの専門店。
たとえば日本の朝食の定番、白いご飯とお味噌汁、納豆、卵、焼き魚などは、
日本の食文化が凝縮されたメニューといえる。
同様に、世界各国の朝ごはんを食べ、その味を懐かしんで来店する外国人と
コミュニケーションをとることで、他国の文化を学び、
ひいては日本の文化を振り返るきっかけになればいいという思いがこもっている。

実家を改装し、NIKKO INNの受付として使っていたスペース。現在はNIKKO ART PLANNINGのアトリエオフィスとして改装準備中。

冬の野良作業、
暮らしを整える大事な時間

ずっと気がかりだった廃材の片づけを敢行!

日本全国大寒波到来中。
小豆島でも寒い日が続いています。
畑の土は凍り、足の指がしもやけでかゆいです。

1月もあっという間に月末になってしまいました。

私たちにとってこの「冬」というのは本当に貴重な時間。
毎週金・土曜日に営業している〈HOMEMAKERSカフェ〉は
12月後半から2月後半までの2か月間は冬季休業。
畑作業はもちろん毎日していますが、それでも夏に比べたら草も生えないし、
水やりも頻繁にしなくていいし、オクラやナスみたいに毎日収穫しなくてもいいし、
忙しさがだいぶ違います。

この精神的にも体力的にもゆとりがある冬時間に、
気になっていたあれやこれやに手をつけていきます。

3年間、積みっぱなしだった廃材。

ひとつずつ切断して片づけ。

今年は年明け4日から、もう3年間くらいずっと気になってた
廃材の片づけを始めました。

私たちが小豆島に引っ越してきた頃、うちの敷地には
祖父ちゃんやひい祖父ちゃんが使っていたたばこの乾燥小屋がありました。
当時すでにぼろぼろで、最初は雨漏り程度だった屋根もいつしか崩れ落ち、
屋根が崩れると、天井や梁など一気に崩れ始めました。
一度は改修も考えたのですが、最終的には撤去することに。

そのときに、処分するのにもお金がかかるし、何かに使うだろうと、
とりあえず残しておいた廃材(主に木材)たち。

再び内装や家具の材として使えそうなもの、使えなさそうなもの。
再利用できなさそうな木材は、オンドルの燃料として
廃材を活用してくれる近所の方のところへ。
捨てればゴミ、燃やしたら暖房!

軽トラに山盛り載せて何往復も。

大きな釘は叩いて潰したり、抜いたり。

廃材の片づけには時間がかかります。
ひとつずつ運べるサイズまでカットしたり、大きな釘を抜いたり。
手伝いに来てくれていた父母とともにいろは(娘)も参戦して3日間。
ようやく地面が見えました。
ほっ。これで気になっていた作業がひとつ完了です。
この冬の間に、ここに野菜の苗を育てるための温室を建てる予定ですが、
できるかな、できないかな。がんばります!(笑)

3年間積みっぱなしだった廃材がきれいに片づきました。広いなぁ(笑)。

北海道の森の中をひとりで開墾!
小さなコンテナに住む移住者
トシくんを訪ねて

フィリピンから日本へ。農業をやりたいと各地を巡って

今月、わが家が引っ越した岩見沢の山間部には、いま個性的な移住者が増えている。
わたしが住む美流渡(みると)地区は過疎化が進んでおり、人口はわずか400人ほど。
市街地に住む多くの人々から見れば“不便な田舎”だが、
あえてここに引っ越してくる移住者は、自分の暮らしを見つめ、
独自の考えを貫こうとしている人と言えるかもしれない。

彼ら彼女らから、わたしはここで暮らすことの意味や
おもしろさを教えてもらうことも多く、常に刺激を受けている。

そうした移住者のひとりが、2016年初夏、
この地にやってきた阿部恵(さとし)さんだ。

みんなからトシくんと呼ばれる彼は、美流渡の隣の毛陽地区に
約2ヘクタールの土地を購入し、たったひとりで雑草を刈ってこの地を耕し、
コンテナを改装した小さな家に住んでいる。
わたしたちが取得した古家の改修や引っ越し作業を率先して手伝ってくれる、
本当にありがたい友人でもある。

トシくんは現在27歳。大学までマニラで育ち、2016年にこの地に移住した。

トシくんのお母さんはフィリピン人、お父さんは日本人。
大都会マニラで育ち、大学では農業化学を専攻したという。
ラボでの実験や座学がメインのコースだったが、大学3年生のときに
田植え体験をしたことが、その後の人生を決めるきっかけのひとつとなった。

「初めて田んぼに入ったとき、すごく気持ちがよかった」

同級生はぬかるみを嫌がったが、トシくんは苗を植える手が
不思議なほどスイスイと動いたそうだ。
この体験が忘れられず、その年に専攻を農業に変え、特に土壌について学んでいった。

その後、本気で農業をやりたいという気持ちが芽生えたのは、
アメリカで有機農法を推進してきたジョエル・サラティンの
動画サイトを見たことだったという。
農薬などの化学物質を使わない持続可能な農業を
自分もやってみたいと思ったトシくんは、その場所として北海道を選んだ。

トシくんの家は森の中にある。

家の前には手づくりの郵便受けが、雪に埋もれながら立っていた。

花火に魅せられた移住者も。
〈響屋大曲煙火〉で働く、
大曲花火を支える人々

毎月花火が打ち上がるまち

大曲といえば花火。花火といえば大曲。
秋田県大仙市の大曲は、それくらい花火で有名な土地だ。
夏の夜空を彩るイメージのある花火だが、大仙市では、
最も有名な8月の全国花火競技大会を筆頭に、毎月どこかで花火が上がっている。

写真提供:大仙市

「花火を打ち上げる会社は全国に400弱あるのですが、
そのうち製造も行っているのは150社くらい。
しかも家族など少人数でやっているところがほとんどなので、
花火をつくる仕事をしたいと思っても、
就職先がなかなか見つからないのが現状だと思います」

こう話すのは、〈響屋大曲煙火〉(以下、響屋)の代表を務める齋藤健太郎さん。
響屋が創業したのは1894年(明治27年)。
全国花火競技大会の前身「第1回奥羽六県煙火共進会」が開催されたのが
1910年(明治43年)だから、かなり歴史のある会社といえる。

響屋の周辺に広がるのどかな田園風景。火薬を取り扱っているため、花火工場は通常、人里離れたところにある。

「実家は代々花火屋で、私は狼煙という信号用花火を専門に製造する会社として、
平成19年に独立しているんです。
その後、花火大会で使われる割物花火も徐々に製造するようになって、
昨年からは実家の会社と歴史も含めて統合して、いまは25名のスタッフでやっています」

響屋大曲煙火株式会社の代表・齋藤健太郎さん。

響屋は花火の製造から打ち上げまですべて行っている。
しかも製造工場としては比較的規模が大きいため、大曲の知名度と相まって、
日本全国から就職希望の問い合わせが来るのだとか。
しかしながら華やかなイメージとは打って変わって、
花火の製造は率直に言うと地味で根気のいる作業。
しかも火薬を扱っているため、気を抜くことができない。

「尺玉といわれる、直径30センチの10号玉をゼロからつくると約1か月、
ものによっては2か月くらいかかります。
工程の途中で何度も乾燥させるので、どうしても時間がかかってしまうんです」

乾燥室の温度は40度を超えていて、夏場はここにいるだけでダイエットになるのだとか。

何度も何度も乾燥の工程を重ね、玉が大きくなっていく。

製造工程は、火薬の配合作業、造粒作業、
仕込み作業、仕上げ作業の大きく4つに分けられる。
配合作業はさまざまな薬品を混ぜ合わせて、色を出す火薬や
音を出す火薬をつくるのだが、その比率は企業秘密。

「僕らから見ると、上がった花火の色でどこの花火屋さんがつくったのか、
すぐにわかるんです。だから火薬の配合比率は昔から門外不出で、
信用できる人にだけ任せられる作業なのです」

「星」と呼ばれる火薬の玉をミキサーで転がしながら、アメ玉大になるくらいまで大きくしていく造粒作業。

作業は基本的に分業制で、ひと通り仕事ができるようになるには、
10年くらいかかるそう。

「10年経ったら一人前になれるわけではなく、やめるまでが修業。
自分で一人前だと認めたら、そこでストップしてしまうので、
誰も一人前になったとは思っていないでしょうね」

齋藤さんでさえ、それなりに満足のいく花火は、1年に1、2発上がるかどうか。
なかなか満足できないのは、工芸品などと違って
形に残らないことも関係しているようだ。

「写真や映像では残せるけど、1、2か月かけてつくったものが
5、6秒で消えてしまう。だからうまく上がったときのイメージを思い浮かべ、
いつもそれを越えたいと考えています。
夜空にそのまま残っていてくれたらいいんですけどね(笑)」

西陣織に大革新!
京都〈細尾〉細尾真孝さんの
クリエイティブな挑戦

音楽活動から伝統的な家業へ

人にとって服とは、布とは、織りとは?
そして未来の織りものとは――?

京都に元禄年間(1688年)から続く西陣織の老舗〈細尾〉の家に生まれた
細尾真孝さんは、伝統にさまざまな革新を織りまぜ、新しいものをつくり続けている。

写真提供:HOSOO

現在の細尾の代表は2000年より会社を受け継いだ父、細尾真生さん。
長男である細尾さんは音楽活動とジュエリー業界を経て、
2008年より家業に携わるようになった。
現在は12代目として常務取締役を務めている。
細尾さんが最初に行った革新は、西陣織の世界では前例のない
150センチ幅の布を手がけたことだった。

京都府上京区の西陣と呼ばれるエリアにあるショールーム〈House of Hosoo〉。この辺り一帯の半径7キロ圏内に、箔を貼る「箔屋さん」、裁断を行う「カッターさん」など、20もの工程を担う職人が集い、西陣織をつくっている。

もともとの西陣織の幅は、32センチ。
日本人の体と着物の伝統から導き出されたヒューマンスケールだ。

だが2008年にフランスのパリ装飾芸術美術館で行われた
『感性 kansei -Japan Design Exhibition-』展で
細尾の帯を見た建築家のピーター・マリノさんから
店舗の壁紙をつくってほしいという依頼があり、
世界標準幅の布をつくることに踏み切る。

それから職人たちと約1年かけて織機を開発し、
西陣の技術と素材をベースにしたファブリックをつくると、
その布が世界90都市の〈クリスチャン・ディオール〉の店舗の壁や椅子に使用された。

以来、広巾になった細尾のテキスタイルは〈シャネル〉や
〈ルイ・ヴィトン〉をはじめとするラグジュアリーメゾンの店舗のインテリアや
〈ミハラヤスヒロ〉の服など、数々のブランドやアーティストとの
コラボレーションを生み出していく。

細尾の布を使ったミハラヤスヒロのドレスとスーツ(2012年パリ・コレクション)。(写真提供:HOSOO)

細尾はつい十数年前まで、先端のファッションやインテリアとは離れた、
帯や着物で知られる老舗だった。幼い頃から職人の仕事を間近に見て育った細尾さんも、
20代の頃は家業を継ぐ気はなかったという。

「西陣織はコンサバティブなものだと思っていたんですよ。
僕はもっとクリエイティブなことがしたかったので、音楽をやろうと思っていました。
高校生の頃にパンクバンド、セックス・ピストルズの『Anarchy in the U.K.』を聴いて、
こんな風にギターを鳴らして叫ぶ、滅茶苦茶な表現でも
音楽として成立するんだと衝撃を受けて。

以来、コンサバティブとは真逆な世界に惹かれるようになって、
パンクバンドを組んだり、ダンスミュージックやエレクトロミュージックを
つくったりするようになっていったんです」

映画監督デヴィッド・リンチとのコラボレーション展『DAVID LYNCH meets HOSOO 螺旋状の夢 夢見るように目覚める』(2016年、表参道・EYE OF GYRE)より。(写真提供:HOSOO)

「大学の頃は高木正勝さんやアーティストグループ
〈ダムタイプ〉のダンサーとコラボレーションしたり、
京都の法然院で虫の声を録音して曲をつくり、
虫たちと共演するパフォーマンスをしたりしていました。
その辺りがいまの活動のルーツにもなっているのかもしれません」

日光の天然氷〈四代目徳次郎〉
日光の魅力を発掘し続ける親子

笑顔がこぼれる、ふわふわのかき氷が生まれる場所

あの『枕草子』にも登場するかき氷は、日本の夏の風物詩だが、
ここ最近は夏に限った食べ物ではないようだ。
パフェ顔負けのゴージャスな盛りつけや、
旬のフルーツをふんだんに使った自家製シロップのかき氷を
年中提供する店が増えていて、繁忙期は長蛇の列ができるほど。
そんなかき氷フリークにも一目置かれているのが、天然氷を使ったもの。

天然氷というのは湧水などの清冽な水を採氷池に引き入れて、
真冬の寒さを利用して自然の中でつくられる氷のこと。
冷凍庫で急速に固める氷と違って、ゆっくりと時間をかけて凍らせていくため、
薄く削っても溶けにくく、口に含むとふんわりとした
やさしい食感を楽しむことができる。

しかしながら冷凍技術が発達した昨今、手間と時間をかけて
わざわざ天然氷をつくるところは、日本全国を見回してもわずか数か所残るのみ。
そのうち3軒が日光にあるのだという。

〈四代目徳次郎〉の天然氷を使った、日光市今市にある〈日光珈琲 玉藻小路〉のかき氷。とちおとめのシロップも、四代目徳次郎のオリジナル。氷があれば冬でも食べることができる。

2018年、年が明けて間もなく、天然氷の蔵元〈四代目徳次郎〉で、
この時期恒例の氷の切り出しが行われた。
JR日光駅からそれほど遠くないところにある採氷池には、
朝早くから代表の山本雄一郎さんと息子の仁一郎さん、
そしてボランティアのメンバーが集まっていた。

表面に線が引かれ、切り出しを待つ氷。採氷池は2面あり、1面から1回で1000枚の氷がとれる。

氷を切り出すタイミングは、厚さ15センチが目安。
といっても自然が相手なので、例年2、3日前に切り出しの日が決定する。
にもかかわらず、これだけ人が集まることにまず驚いてしまう。
聞けば日光市内だけでなく、東京や関西方面からやって来る人もいるそうで、
いつもはひっそりしている池がこの日ばかりは賑やかに。

切り出しは流れ作業で、池に張った氷を動力カッターで切る役、
切られた氷を池から引き上げる役、竹でつくったラインに乗せて流す役、
氷室(ひむろ)とよばれる貯蔵庫に並べていく役などがいる。

寒さに耐えながらの作業で大きな励みとなるのが、
名物のカレーや打ちたてそばなどのお昼ごはん。
四代目徳次郎とつながりのあるシェフやそば職人らが、応援で来てくれるのだ。
氷の切り出しは農作業における収穫のようなもので、お祭り的な空気さえ漂っているが、
雄一郎さんが徳次郎を継いで間もない頃、こんな光景は想像すらできなかったようだ。

切り出しのお楽しみは、那須烏山市の名店〈梁山泊〉の店主が目の前で打ってくれるそば。これを目当てに来る人も!?

四代目徳次郎である雄一郎さんは、実をいうと初代から三代目とは血縁関係がない。

「私自身は24歳のとき、霧降高原に〈チロリン村〉というレジャー施設を開業して、
そこのカフェで出しているジュースやアイスコーヒーなどに
日光の天然氷のひとつ〈吉新(よしあら)氷室〉の氷を長いこと使っていたんです。
あるとき、吉新氷室が廃業するという話を、間に入っていた業者から聞いて……」

霧降高原の自然に囲まれたレジャー施設〈チロリン村〉。夏になると、四代目徳次郎の天然氷を使ったかき氷を求めて、多くの人がやって来る。

雄一郎さんは日光の天然氷の文化を絶やすわけにはいかないと、
氷室まで出向いて存続を直談判。
しかし高齢で体力的に厳しくなったのと、天然氷に未来はないという判断から、
廃業を決めた先代の意志はかたかった。

「手伝うから続けてほしいとお願いしたのですが、
辞めることは10年前から決めていたし、廃業届ももう用意してあるのだと。
その日から毎日ここへ通いつめました。

親方は毎朝7時に来て、番屋の薪ストーブをつけるのですが、
私は6時半から車の中で待っていて、煙突から煙が出たら
『おはようございます』と入っていくんです。
日光の氷の歴史とか、初代徳次郎がどうして氷づくりを始めたのかとか、
いろんな話を聞きました。そしたら2週間くらい経った頃、
『ほんとにやる気なのか?』と言ってくれたんです」

先代は一緒に作業はできないけれども、つくり方は指導するという条件を出し、
雄一郎さんに氷室を継承。
2006年、吉新氷室初代徳次郎から三代目の意志、文化を受け継ぐという思いを込めて、
屋号を「四代目徳次郎」とする。雄一郎さんが56歳のときだった。

日光の自然のように厳しくもやさしい、山本雄一郎さん。

雄一郎さんが先代からいろんな話を聞いた番屋。先代はいまでもたまに氷の様子を見に来てくれるそう。

京都府北部地域への
移住シミュレーション!
先輩移住者&起業家を訪ねる旅

京都府北部地域では、2016年より福知山市、舞鶴市、綾部市、宮津市、
京丹後市、伊根町、与謝野町の7市町が広域連携する移住・定住促進プロジェクト
「たんたんターン」を展開。移住・定住促進に力を入れて取り組んでいます。
京都市からも車や電車で1時間半から2時間程度で行き来できるこの地域には、
どんな魅力や暮らしのスタイル、働き方があるのか。
移住者はどんな暮らしを営んでいるのか。

最近移住に興味を持ち始めた、兵庫県西宮市在住のアイシングクッキー作家
佐藤枝里さんと、アウトドアメーカーで商品開発に携わる夫の光将さん、
2歳になる息子一晴くんが、この地域で暮らす移住の先輩たちのもとを訪ねます。

移住したらどんな暮らしや仕事が可能?

アイシングクッキー作家として活動する佐藤枝里といいます。
結婚を機に、生まれ育った東京から兵庫県西宮へ。
現在は2歳の息子を育てながら、オーダーメイドの
アイシングクッキーの制作や販売をしています。

大のアウトドア好きで、週末になると自然豊かな暮らしを求め、
近畿各地へキャンプに出かけている私たち。

都市部と田舎を行き来する暮らしを続けるうちに、
「都会の暮らしはなにかと便利だけれど、365日自然と寄り添う暮らしにも憧れるなぁ。
息子も田舎のほうが伸び伸びできそうだし、
自然を肌で感じることによって学べることも多いのかも……」と、
“地方への移住”についてほんのりと興味を持つようになりました。

今回、縁あって京都府北部の4つの地域を訪ねることに。
先輩移住者の方たちのお話をもとに、それぞれの地域の暮らしや仕事と起業、
子育てについてシミュレーションしてみたいと思います。

福知山市
古民家宿で“グローカル”な活動!?
〈ふるま家〉の沢田さんご一家

最初に訪ねたのは、福知山市で古民家を改装した
ゲストハウス〈ふるま家〉を営む沢田さやかさん。
アメリカの大学を卒業後、横浜の外資系出版社に勤めていた沢田さんが
ふるま家を営むことになったのは、仲間たちとの旅行がきっかけだったそう。

「脱サラ後、たまたまアメリカ人や日本人の友人を連れて
アレックス・カー氏が手がける徳島県東祖谷(ひがしいや)の茅葺きの古民家
〈篪庵(ちいおり)〉へ行く機会があったんです。
そこは囲炉裏を囲みながら食事ができたり寝泊まりしたりできる、
非常に素朴な施設なのですが、『日本の暮らしを体験できた』と友人たちにも好評で」

もともと外国人とのつきあいも多く、自宅でホームパーティや
社交グループをつくってイベントを開催していたこともあり、
「英語能力が生かせるし文化交流もできて自分も楽しめる。
私がやりたいことってこれかも! とひらめきました」

思い立ったら即実行派の沢田さんは、翌日から(!)物件探しを開始。
自身の出身地でもある京都府内で、篪庵の雰囲気に似た
改修可能な茅葺き屋根の古民家を重点的にリサーチ。
そして「家の佇まいも景観も理想的」な物件と出会い、
導かれるように福知山への移住を決めたそう。

「改修は家族の力を借りながら、2年ほどかけて行いました。
オープン後はまずカフェとしてランチやお茶を提供。
同時にWEBの立ち上げや、ブッキングサイトに登録して、
少しずつ宿泊客を増やしていきました」

築210年以上の古民家をセルフリノベーションした〈ふるま家〉。田畑つきの農家民宿として2012年にオープンしました。

現在は宿の運営のほか、月に1度、子連れ家族向けの英語教室「英語カフェ」や
不定期でイベントを開催。ふるま家で知り合い、
結婚したフランス人のご主人ニコラさんとの間に、一昨年、長男のテオ君も誕生。
福知山への移住を機に、人生がガラリと変わったように感じます。

横浜で会社勤めをしていた頃は
「そりゃあもう、バリバリ働いていました」と笑う沢田さん。
「都会で忙しく暮らしているといつの間にか日が昇って、
いつの間にか沈んでいるでしょう? 福知山では自然に寄り添った生活を送っていて、
人間らしい暮らしができているなあって。当たり前のことがしみじみとうれしいんです」
と話してくださったのが印象的でした。

田舎のおばあちゃんの家に遊びに来たように、ほっと寛げる和の空間。宿泊客の約8割は外国客ですが、この1、2年で日本人旅行者の数もかなり増えてきたそう。

三重県の“大人力”が世界を救う!?
〈OTONAMIE × TOKYO〉で
広がる都市部の地元ネットワーク

写真提供:三重県観光連盟

伊勢うどんが世界平和につながる…?

11月上旬、東京・日本橋の某所。
「都会のギスギスをなおすのは、伊勢うどんしかないと思っているんです。
世界平和のためには伊勢うどんが必要!」と熱弁をふるう、ひとりの男性。
そんな彼の話に熱心に耳を傾けているのは、年齢も雰囲気もバラバラな約20名の男女。
この集まりはいったい……?

実はこれ、伊勢うどんを深く愛する人たちによる会合……ではなく
三重県南部地域活性化局が、県内でウェブマガジンを運営している
OTONAMIE(オトナミエ)〉と連携して開催した、
東京に暮らす三重県出身者を対象とした交流イベント。

南北に長い三重県の南部地域は、ほかの地域に比べて
進学や就職時に地域外に転出してしまう若者が多い地域。
でも都市部で生活しているからこそ気づく三重県の魅力もあるだろうし、
きっと都市部に暮らしながらも地元のために何か貢献をしたいと考えている
三重県出身者も多いはず……という想いから誕生したのが、
〈OTONAMIE × TOKYO〉と〈OTONAMIE × OSAKA〉。

東京・大阪在住の三重県出身者と、三重に興味がある人が交流を図りながら、
SNSなどを通して三重県南部地域などの魅力を継続して発信することを目指す
プロジェクトです。そんな〈OTONAMIE × TOKYO〉の発足を記念して、
この日の交流イベントは開催されたのでした。

「三重に暮らす・旅するWEBマガジン」をコンセプトに、三重県各地のディープな情報を発信しているローカルメディア〈OTONAMIE〉。記事を書いているのはプロのライターではなく三重を愛する地元の有志記者で、いまやその数は約130名(!)に。

さて、記事冒頭で伊勢うどんについて熱く語っていた気になる人物。
この方はイベントのメインゲストであるコラムニスト・石原壮一郎さん。
『大人養成講座』『大人力検定』などの著書で、
大人が大人として生きるために欠かせない“大人力”を広めてきた石原さんですが、
出身は三重県松阪市。

また故郷の名物である伊勢うどんを応援する〈伊勢うどん友の会〉を立ち上げ、
2013年には「伊勢うどん大使」(伊勢市麺類飲食業組合&三重県製麺協同組合公認)
に就任し、国内のみならず世界に向けて伊勢うどんの魅力を広め続けているのです。

“大人力”シリーズの著作で知られる 石原壮一郎さん。ご自身のサイト『 大人マガジン 』でも、伊勢うどん情報を発信中。

3部構成となったイベントの第1部として行われたのが
『三重大人力講座』をテーマとした、石原さんのトークライブ。
「近畿地方なのか、東海地方なのか、関西なのか、中部なのかと、
よく言われる三重県の武器は、どっちつかずな“なぁなぁ”なところ」と、語る石原さん。

「白黒つけるということは、もう片方を否定するということ。
でもそういう無益な争いに与しないで、両方の味方をする、
両方の良さを認めるというところが、三重県の人のすばらしいところだと思うんです」

三重といえば伊勢神宮。内宮への入り口にある五十鈴川にかかる宇治橋は、神聖な世界へ入っていく、人と神を結ぶ架け橋。(写真提供:伊勢志摩観光コンベンション機構

江戸時代よりお伊勢参りの名物だった「伊勢うどん」。太くてやわらかな麺にかけられた、真っ黒な甘辛いタレ。体を温めてくれる、腹持ちのいいうどんには、伊勢のおもてなしの心がつまっています。(写真提供:三重県観光連盟

そんな県民性と伊勢うどんの共通点について、持論を展開し
「伊勢うどんのことを調べれば調べるほど『“大人力”とは、
結局伊勢うどんのことを言っていたのではないだろうか?』と感じるようになった」
と話す石原さん。コシがなく、太くてやわらかいことが特徴の伊勢うどんですが
「その想像を超えたやわからさが、“うどんはコシが大事”という思い込みが
いかにアテにならないかということを感じさせてくれるんです」

イベント参加者に配られた、伊勢うどん友の会制作の『伊勢うどん手帖』。裏面には「伊勢うどんで味わえる五つの幸せ」の教えが。

「いままでとは違う価値観を導入することによって
『違う考え方、文化、宗教があっても良いのではないか?』ということを訴えかけ、
ありもしない正解にとらわれて悩むことなんてないと教えてくれるのが伊勢うどん。
その魅力を周りに伝えるということで世界の平和や、
ひとりひとりの自分にとって幸せな生き方を伝えることができるんです」と、
三重と伊勢うどんへの愛を深くからめながら、三重県民にとっての“大人力”と
伊勢うどんについてユニークなトークを繰り広げる石原さんでした。

トークイベントのなかでは三重県版「大人力検定」も行われ、高得点を獲得した参加者には特製クリアファイルがプレゼントされました。

谷中〈TAYORI〉
「つくる人」と「食べる人」の
橋渡しをする場所

「食の郵便局」というコンセプトを持つお店

お正月ボケからようやく復帰し、またいつも通りのばたばたした日々を過ごしています。
2018年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年末、とても久しぶりに東京に行ってきました。
〈HOMEMAKERS〉の野菜を使ってくださっているお店へご挨拶に。

日暮里駅で降りて、谷中銀座を歩き、細い脇道に入っていくと、
TAYORI〉というお店があります。お惣菜とお弁当と珈琲のお店です。

谷中銀座から脇道を入ったとことにある〈TAYORI〉。

たよりを運んでくれる配達員さんのロゴがいい!

TAYORIの北川瑠奈さんとの出会いは2年前の冬。
私たちが谷中を訪れお会いし、その翌年の夏には
北川さんが小豆島に遊びに来てくれました。
数日間小豆島に滞在し、私たちを含めた
島のいろいろな生産者さんに会いに行き、島の食材リサーチ。

その食材を使って、〈HAGISO〉というスペースで「旅する朝ごはん」をコンセプトに、
小豆島の食材を使った「HAGI morning」を企画してくれました。

TAYORIの北川瑠奈さんと。直接話すのはやっぱり大事ですね。

そんな流れの中で、去年6月TAYORIがオープンしました。
TAYORIのコンセプトは「食の郵便局」。
日本各地の地域性を反映する野菜や加工食品、調味料を「つくる人」と、
谷中で暮らす&谷中を訪れる「食べる人」の間にあって、
食を通じたコミュニケーションの場。

「たより」という言葉にはいろんな意味が含まれていて、

・「つくる人」からの食の「便り」をその想いとともに編集して

「食べる人」にお惣菜やお弁当として届けること

・「食べる人」からの感謝の手紙(=便り)を受け取り、「つくる人」に送ること

・「つくる人」と「食べる人」の健全な関係性を築き、安心して食べられる食材を使った

日常の食事を提供することで、地域の「頼り」となること

店内には「食の郵便局」コーナーがあります。こういう仕組みをちゃんとつくって運用しているのはすごいなと思う。

HOMEMAKERSへお便りくださいね!

ハプニング続きの移住計画!
岩見沢の山里への引っ越しに
2年もかかった理由

いつまでも引っ越しできなかった理由とは?

2018年1月5日、ついに美流渡(みると)へ引っ越した。
美流渡は、わたしたちが住んでいた岩見沢の市街地から
車で30分ほどのところにある山間の地域だ。
2年前、この地域に暮らす人々と出会って1軒の古家を紹介してもらい、
転居しようと心に決めたわけだが、それからずいぶんと長い時間が経ってしまった。

当初の予定では、大工である夫が1年ほどかけて改修をし、
息子が小学校へ上がるタイミングで引っ越そうと考えていたのだが、
作業は思うようには進まず、転居の目処はまったく立たないまま時が過ぎていた。

2年前に出会った空き家。内壁や床をはがしてみたところ、基礎の部分が腐っていたりなど、修繕が必要な部分が多数見つかった。

転居を見越して、すでに息子は美流渡にある小学校に通わせていたこともあって、
このままズルズルと引っ越しを延ばすわけにもいかなくなっていた。
そこでわたしと夫は苦肉の策として、大がかりな改修をしなくても住める家を、
さらにもう1軒見つけることにした。
そこにとりあえず住んで、ゆっくりと古家を直していこうと考えたのだった。

幸いなことに、昨年10月、状態のよい空き家を見つけることができたのだが、
それ以降も数々のハプニングに見舞われた。

設備の点検をしてみると、ボイラーを入れ替える必要があることがわかったり、
水道管の一部が破裂していたことがわかったりと、
業者さんに直してもらわなければならない部分がいくつも見つかった。
そのうえ夫は家事や育児の合間を縫いながら、
転居先の家の掃除や部分的な改修をするのに手間取っており、
目標としていた11月中の引っ越しは難しくなっていった。

さらにもう1軒見つけた空き家。室内は荷物がキレイに片づけられており、すぐに住めると思ったが……。

このままでは、またもや引っ越しできない状況が続くのではないか?
わたしは、不安に襲われていた。
何か、これまでとは違ったアクションを起こす必要性を感じ、
ある約束事を自分に課すことにした。

それは仕事の時間をギリギリまで減らして、家事と育児にあてる時間を増やすことだ。
わたしの仕事は編集者。これまで原稿の締め切りや単行本の制作などが重なったときは、
家事や育児の大半を夫に肩代わりしてもらっていたのだが、
このことが転居の作業に集中できない大きな原因になっていたのだ。

冬休みになった子どもたちも、空き家の掃除を手伝ってくれた。

1年以上空き家だったようで、たまったホコリを隅々まで掃除。

この約束事を守ることは容易ではなかった。
朝5時半に起床して弁当づくりなどをし、
夕方16時半には仕事を切り上げ夕飯の支度を始める。
仕事にあてることのできる時間は、日中たったの6時間。
第三子が5か月ということもあり、背中におんぶしつつ、
オムツを変えつつなので、実際に働ける時間はもっと少ない。

これまでは毎日10時間ほど仕事に費やしてきたので、
子どもたちを寝かしつけてからも、仕事をせざるを得ない状況が連日続いた。
しかも夜に数回、授乳もしつつ、明け方にはまた起きて……。

今日も雪が降る。岩見沢は北海道有数の豪雪地帯。冬になると快晴の日は少ない。

南インドの出版社〈タラブックス〉
小さな組織だからこそできる、
本づくりの可能性

撮影:吉次史成

〈タラブックス〉の編集者、ふたりのギータが日本にやってきた!

いま、わたしが転居を計画中の岩見沢の山里で、“森の出版社”を始めてみたい。
そんな想いを、この連載で以前に書いたことがある

その構想の源になったのは、〈タラブックス〉という小さな出版社の活動だ。
南インドのチェンナイにあり、手漉きの紙に手刷り、手製本による
工芸品のような美しい絵本を生み出す出版社として、その名を知られている。

長年、出版を行うのは都会がベストという固定観念を持っていたのだが、
これらの本を眺めているうちに、過疎化が進む山間部でも、
印刷工房をつくって出版活動ができるんじゃないか? 
という可能性が感じられるようになったのだ。

ハンドメイド本『夜の木』は、やわらかな質感の黒い紙に手で刷られたもの。インクがしっかりとのったシルクスクリーン印刷ならではの力強さを感じさせる。

タラブックスの活動を深く知るようになったのは、つい最近のこと。
きっかけは、板橋区立美術館で開催中のタラブックスの展覧会に、
長年仕事をともにしてきた仲間が関わっており、
準備段階から話を聞いていたことによる。

さらに、7月に玄光社より刊行された書籍『タラブックス』を読み、
出版社の様子を詳しく知ることができた。
しかも、タラブックスのことをもっと知りたいと思っていた矢先、
展覧会を手がけていた仲間から、関連企画として行うシンポジウムの
資料づくりや司会のサポートをしてほしいと頼まれ、
実際にタラブックスの編集者に会えるという、すばらしい機会がやってきたのだ!

2017年11月25日から板橋区立美術館で開催中の『世界を変える美しい本 インド・タラブックスの挑戦』展。2018年1月8日まで。(撮影:吉次史成)

インドの東部、西ベンガル州に伝わる絵巻物も紹介されている。タラブックスでは、ポトゥア(絵巻物師)の伝統的な語りや新しい物語を、本というかたちで展開する試みを行った。(撮影:吉次史成)

シンポジウムも開催。タラブックスの本づくりの視点とは?

シンポジウムのテーマは「世界を変える本づくり」。
パネリストはこの出版社の編集者、ギータ・ウォルフさんと
V・ギータさん(ふたりのギータと呼ばれている)に加え日本から7名が参加。
日本のパネリストも個性的な本づくりに関わっていることもあり、
開催前から注目度は高く、定員300名の会場は事前予約でいっぱいとなった。

11月28日、東京都港区の〈コクヨホール〉でシンポジウムが開催され、
まずウォルフさんの基調講演が行われた。
20分と短いものではあったが、タラブックスがどんな視点で
本づくりを行っているのかが多角的に語られていった。

1994年にタラブックスを創設した代表のギータ・ウォルフさん。インドの絵本は西洋の翻訳本が中心だった状況のなかで、子どもたちに向けたインドならではの新しい本づくりを開拓。タラブックスから20冊以上の著作を出している。(撮影:南阿沙美)

基調講演ではV・ギータさんも壇上で本を紹介してくれた。広げているのは、日本人作家・タカハシカオリさんとつくった『ぱたぱた絵本 くまさんどこかな?』。上下左右にページが開かれるという独創的なもの。本の形状の可能性を広げる実験も、タラブックスの特徴のひとつ。(撮影:南阿沙美)

飛騨市の高校がチャレンジする
教育革命!
地域を担う高校生を育てる、
〈YCKプロジェクト〉

飛騨への移住は何が違う?
仕事、住居、暮らしを支える飛騨コミュニティ vol.3

世界中から集まる、多くの旅人の心を掴んで離さない飛騨。
観光地として有名な飛騨は、高山市・飛騨市・下呂市・白川村の
三市一村からなる広域エリアだ。
伝統に触れつつ、新しい生き方を実践できるこの地域には、
観光客だけでなく移住者が増えている。

地域で暮らすうえで、大きなポイントとなるのが、人とのつながり。
縁を感じられる地域には、移住者は自然と集まってくる。
コロカル×未来の地域編集部でお届けする、飛騨の魅力に迫る連載。
外の人々を迎え、つながりを強くする。そんな飛騨のコミュニティを訪ねていく。

育てていくのは考える力。地元出身者が支える母校の挑戦

岐阜県の最北端にある飛騨市。
中心街である飛騨古川は、富山市と高山市に挟まれた山深い地域で、
まちなかには風格ある古い町家が残っている。

映画『君の名は。』の舞台となったことで注目を集めたこのまちには、
飾らない暮らしがあり、日々の小さな幸せがあふれている。
そんな飛騨古川で、地域と深く関わる吉城(よしき)高校での取り組みについて、
話を聞いた。

飛騨古川の古いまち並みと、下校中の小学生。

〈吉高地域キラメキプロジェクト(YCKプロジェクト)〉がある。
YCKプロジェクトとは、地域と連携して学びの場をつくっていく、
地域課題解決型キャリア教育のことだ。

2015年からスタートしたこのプロジェクトは、
「観光」、「教育」、「福祉」、「防災」の4分野で24項目の地域活動があり、
生徒はこの中から希望する活動に参加することができる。
地域に飛び出し、社会と関わることで、今後の自分たちのキャリアについて
考えてもらうことが目的だ。

このプロジェクトに、キャリア教育コーディネーターとして関わることになったのが、
地元出身の関口祐太さんだ。

関口さんは、吉城高校卒業後、名古屋の大学に進学。
卒業後、家業である〈有限会社関口教材店〉を継ぐため、
2006年に飛騨市に戻ってきた。
現在は、教材販売業と並行して、メンタルコーチとしても活動中。
教育、経営、スポーツの分野で、さまざまな方の夢の実現を支援している。

飛騨古川出身の関口祐太さん。吉城高校は自身の母校でもある。

「最初話をいただいたときは、高校教育についてわからないことばかりだったんです。
でも、僕自身の出身校でもあるし、学校で困っていることがあるなら、
役立ちたいという思いでスタートしました」

キャリア教育とは、従来の進路指導教育とは異なる。
卒業後の進路にかかわらず、生徒が将来就く仕事をはじめ、
今後の人生をどう生きていくか、指針を与える教育方法だ。

文部科学省によると、これからの高校教育では、
「学ぶこと」や「働くこと」への意欲を育むと同時に、
自らのキャリア形成ができる力を育成しておくことが重要だという。
(参考:高等学校におけるキャリア教育の論点と基本的な考え方

進学についてアドバイスをする進路指導と比べると、
キャリア教育とは、生徒がいずれ社会で自立して生きていくために、
必要な能力や態度を育てること、自分らしい生き方を実現していくことを
支援する教育といえるだろう。

〈テマトカ〉
小豆島に移住して、
オリーブを育てる夫婦

手間ひまかけてつくられた小豆島産オリーブオイルが誕生!

2017年も残すところ数日。
いよいよもう年末! というこの時期に、
新しいオリーブオイルを発売したご夫婦がいます。
今日はそのふたりのことを書きます。

テマトカ〉の高野真也さんと夕希子さんご夫妻。
おふたりとの出会いは4年前(だったかな)。
私たちは小豆島に引っ越してきたその翌年、
香川県丸亀市の有機農家へ1年間農業研修に行っていたのですが、
高野さんたちとはその農園で出会いました。

実は高野さんたちも小豆島で暮らしたいと考えていたそうで、
東京からいったん香川本土へ移住し、これからどうしようかというときだったそうです。

たくちゃん(夫)が研修先の丸亀市の〈よしむら農園〉さんで一緒だった高野さんご夫妻(写真左側)。

農園での研修が終わったあとも、何度か小豆島へ遊びに来てくれて、
一度住む家も決まりかけたのですが白紙に戻ってしまったり。
その後、オリーブの収穫の仕事で住み込みで何週間か島に滞在したり。
去年の冬には、私たちの家の離れに住み込みで
生姜収穫&加工の手伝いにも来てくれました。

どうなるかなぁ、住む家見つかるかなぁ、仕事見つかるかなぁと思っていましたが、
ちょうど去年の今頃、手伝いに行っていたオリーブ農家さんから
畑を一部譲ってもらえることになり、そしてなんと家も決まり、
めでたく小豆島への移住が決まりました!

引っ越し先の家をみんなで一緒に見に行きました。

奥さまのゆっこさん。しばらく滞在していたうちの離れの壁を漆喰塗りしてもらいました。

さぁ、引っ越し! と思いきや、ここから引っ越し完了までにはまだ長い道のりが。
新居となる家は改装工事真っ最中で、今年の春は2か月間くらい
島の友人たちの家を転々としていたような。
うちにも1か月くらい住んでいたような(笑)。

もうひとつひとつのことが普通じゃなくて、書くと長くなりすぎちゃうので、
もし気になる方はぜひ小豆島に遊びに来てご本人たちからお聞きください。

テマトカのオリーブ畑は、山の斜面にあります。

一本一本、大事に補強されたオリーブの木。

それにしても、島で暮らし始める前からすでに島に何人もの友人がいて、
その友人たちの家を転々としながら、これから暮らす家を直したり、
すでに島で働き始めていた高野さん夫妻のサバイバル能力とつながり力は、
ほんとにすごいなと思います。

オリーブの実を収穫する高野さん。

大きな実は〈マンザニロ〉という品種のオリーブ。

地元の素材で高級食パンをつくる
〈brivory〉
Uターン者が日光で開いたパン工房

地元・日光でオープンした、こだわりのパン工房

午前8時、朝の光が差し込むパン工房で、4人の女性たちが作業台を囲み、
発酵した生地と対話をするように、言葉少なに手を動かしている。

発酵が進んだ生地の空気を抜きながら、つやが出るようにしっかりと丸め直す。スピーディながら生地を扱う手つきはやさしく、愛情が伝わってくる。

「生地の状態を見ながら、だいたいこのくらいの時間から
パンを丸める作業が始まります。
一般的なパン屋さんは朝の4時くらいからつくり始めて、
焼きたてのパンが店頭に並ぶ頃なのですが、
家庭を持つ女性でも無理なくできるパン屋さんにしたいと思っているんです。
朝の家事を済ませて、子どもを学校などに送り出してから、
ここへ来てパンづくりを始めるといった感じで」

24時間寝かせた生地。卵や油脂などの副材料を一切使っていないため、時間をかけてじっくりと発酵させて旨みを引き出す。

更家友美さんが日光市今市本町にパン工房〈brivory(ブライヴォリー)〉を
オープンさせたのは、2017年9月19日のこと。
趣味が高じて仕事になるパターンは珍しくないかもしれないが、
更家さんの話を聞いていると、その探究心とパンに対する情熱には驚くばかり。

「日光で生まれ育ったのですが、小さい頃からパン好きで、
東京の会社に就職してからも、パン屋さん巡りをして食べ比べていたんです。
就職先もパンやお酒の小売店で、だんだん食べるだけではなく
自分でもパンをつくってみたいと思うようになりました」

さまざまなパンを食べ歩いて特に魅了されたのが、
日本の高級パンブームの先駆けとなった東京・世田谷区の〈recette(ルセット)〉。
退職して日光に戻った更家さんは、一度は断られたものの
諦めきれずに再度かけ合って、recetteでアルバイトをさせてもらうことに。

「平日は日光で別のお仕事をしつつ、週末だけ東京に通って
recetteで働く日々を2年くらい続けました」

その後、recetteが規模を拡大するタイミングで、フルタイムで働くことになり、
再び拠点を東京に移す。店長として10年ほど働きながら、
パンコーディネーターの資格も取得した。

パンコーディネーターとは、更家さんいわく
「パンのある生活を広めるプロフェッショナルな資格」。
パンに関する仕事をしたい人が製パン理論や、
シーンやニーズに合わせたパンの食べ方など基礎知識を学ぶところから始まり、
企業やカフェ、ホテルなどに企画提案を行うための知識を身につける「エキスパート」、
パンの知識や技術を第三者に伝える教授法を学ぶ「アドバンス」まで、
3つの段階に分かれている。

更家さんは最高位のアドバンスまで取得し、recetteで働きながら
パン教室や専門学校の講師を務めたり、レシピ本を出版したりなど、
パンとより広く深いかたちで関わっていく。

更家さんが講師を務めるパン教室に通っていた人に声をかけられ、2008年に出版したレシピ本。パンを使った料理や、パンに合う料理を紹介している。

空き家の改修中に
もう1軒、空き家を発見!
山間部への移住はできるのか?

状態のいい、すぐに住める空き家は見つかるか?

岩見沢の市街地から山間部への移住を計画してから約2年。
その間、取得した古家を大工である夫がたったひとりで改修していたのだが、
いろいろな困難に遭遇し、いま年内の完成は断念せざるを得ない状況となっている。
そこで苦肉の策ではあるが、この地区でもう1軒、
わたしたちは空き家を探すことにした。
なぜなら子どもの通学の問題があるためだ(詳しくは連載50回)。

わたしたちが移住をしようと思っている美流渡(みると)は、
以前炭鉱街として栄え、閉山とともに人口が激減した地区。
現在の人口は約400人。過疎化が進み、道を歩けば、
そこかしこに空き家を見つけることはできるのだが、たいていは屋根が壊れていたり、
床板が腐っていたりなど修繕しなければ住むのは難しい状態だ。

炭鉱街として栄えた時代に建てられた家は、年々傷みが激しくなっている。毎年、豪雪に見舞われるため、修繕をしないと使い続けるのは難しい。

こうした状況のなかで、わが家は、この地域では希少な
“すぐに住める”空き家探しを始めたのだった。

この地区の物件情報は、不動産屋にはほとんどあがらない。
頼りになるのは、地元の皆さんの情報だ。
わが家の窮状を聞きつけ、移住にさきがけて
息子が通っている山間部の小学校の同級生のお母さんや、町会や消防団の皆さん、
そして、日頃、この地域のPR活動を一緒にしている
地域おこし推進員(協力隊)の皆さんが、いろいろな情報をよせてくれた。

この地区に移住をしようと思ってから2年が経ち、
少しずつ地域の人たちとのつながりができていなければ、
こんな風に空き家探しはできなかったんじゃないかと思う。
地域の皆さんの温かい協力が、とてもとてもありがたかった。

「○○さんの隣の家が空いているよ」
「○○さんが前に住んでいた家があるよ」など、
皆さんの情報を頼りに、実際に空き家を見に行ったりしてみたのだが、
わたしたちが住むには大きすぎたり、修繕が必要だったりと、
なかなかコレ! という物件が見つからないまま時間が過ぎていった。

北海道の冬は早い。今年は10月中旬を過ぎて霜が降りた。

豪雪の岩見沢。雪が降る前に、なんとしてでも引っ越したい

ああ、冬になったらどうしよう……。
息子が通う小学校は、現在住んでいる家から車で30分。
岩見沢は北海道有数の豪雪地帯だ。朝は車にたっぷり積もった雪を落とし、
車庫や玄関まわりを除雪しなければ外には出られない。
加えて路面はアイスバーンとなり、ときには吹雪でホワイトアウト。

通学が難しくなる前に家を見つけたいと気を揉む日々が続くなか、
10月中旬、ついに有力情報が舞い込んできた。

ホワイトアウトはいつ起こるか予想がつかない。吹雪になったと思ったら、あっという間に白い世界におおわれることもある。

その空き家は築年数は古く、もともとは炭住(炭鉱労働者が住んでいた家)
だったそうだが、前の住人がしっかりとリフォームしており、
中を見せてもらうと荷物もなく、大がかりな修繕も必要なさそうだった。
しかも、夫は“平屋好き”ということもあり(地面が近くにないとイヤなのだそう)、
まんざらでもない様子。

家を見た子どもたちも、脇に大きな川が流れ、
地面にはドングリがたくさん転がっていたこともあり、ロケーションに大喜び。
持ち主の方との話し合いもトントン拍子に進み、
ここに住まわせてもらうことになったのだった(ヤッター!)。

見つかった空き家。息子が通う学校からも近い。

家の前にはナラの木々が。奥には原っぱがあり、子どもたちが思いっきり駆け回れそう。

家から少し行ったところに大きな川が流れている。息子は、この川が特に気に入ったよう。

「11月中には引っ越したいね!」
雪が本格的に降り積もる前に引っ越そうと、家族で話し合った。
古家の改修がのびのびになり、新しい暮らしが始まらないことに、
なんとも残念な想いを抱えていたわたしにとっては、
晴れやかな気持ちでいっぱいになった。

自然の豊かな場所で、動植物の営みや四季の変化を敏感に感じとりながら、
執筆や編集の仕事をさらに深めてみたい。
また、この地域をもっとよく知るなかで、
ゆくゆくはエコビレッジのような活動をしてみたい。
そんな想いに、ようやく近づけるのかと考えるだけでワクワクした。

港区芝〈東京港醸造〉
東京の水道水で酒をつくる?
一世紀の時を超え都会に蘇った酒蔵

オフィス街・田町に酒蔵が誕生!

JR田町駅で、電車を降りてみる。
改札の先には、西側に三田口、東側に芝浦口と、大きなふたつの出口が待ち構え、
スーツのきまったサラリーマンや、フォーマルスタイルのOLが早足で往来している。
より人通りの多い三田口を降りれば、第一京浜とも呼ばれる国道15号線が走り、
高層ビルがずらり。

そう、田町周辺はオフィス街として知られるエリア。
有名企業の本社や、税務署などの官公庁施設が数多く存在し、
赤レンガが美しい慶應義塾大学をはじめ、教育施設も多数。
ついでに、芝浦口の先には、かつて一世を風靡した〈ジュリアナ東京〉もあった。

そんなオフィス街、田町に、麹づくりから瓶詰め、販売に至るまで、
酒づくりのすべてをまかなう酒蔵が誕生した。
その名も〈東京港醸造〉。

4階建てのコンパクトなビルが酒蔵!?

第一京浜から一歩路地を入ると、辺りに酒のやわらかな芳香が漂い、
香りに導かれるままフラフラと行けば、上がり藤の家紋を染め抜いた暖簾と、
杉玉のかかるビルが。ここが「東京芝の酒 醸造元」と銘打つ、東京港醸造だ。

しかし周辺には、通常の酒蔵にあるような大きな蔵も煙突もない。
コンパクトな4階建てのビルがあるだけ。

「4階が麹室と蒸米のフロア、3階が洗米する場所と事務所、
2階が発酵・搾り・貯蔵の階で、1階が瓶詰めと販売所です」

そう説明してくださったのは、杜氏であり、蔵内部の設備設計を監督した寺澤善実さん。
酒蔵を立ち上げる際、一番はじめに考慮したのは、
この4階のビルでいかに効率よく作業できるか、ということ。
原料などを自分たちで上げ下げしなければならないため、
4階から1階に向かって工程が流れるような設計にしたという。

コンパクトな空間を有効利用するため、寺澤さんの工夫やアイデアが随所に反映された醸造所内。

東京港醸造でつくられる清酒は、精米歩合60%以下の純米吟醸酒のみ。
蔵の代表銘柄である〈江戸開城〉のほか、六本木・麻布・芝・銀座をイメージした、
味わいや香りの違う〈東京シリーズ〉も。ほかにはどぶろく、甘酒、リキュール、
ミード(蜂蜜からつくられるお酒)などを製造販売している。

各エリアをイメージしてつくられた東京シリーズ。左から、六本木、芝、麻布、銀座。

ちょっと斬新かも?〈東京港醸造〉の酒づくり

この蔵の日本酒には、いくつかのおもしろい特徴がある。

まずは、荒川水系の“水道水”を酒造用水に使っていること。
日本酒成分の約80%は水。よって、水の品質は酒づくりにとって非常に重要なもの。
多くの酒蔵は、名水と呼ばれる地下水を仕込み水に使うが、
こちらでは堂々と「東京の水道水を使用」と謳っている。

しかしそれは、東京の水道水は高度な浄水処理がなされているうえに、
京都伏見や、広島西条の水と硬度が近い、中軟水だから。
簡単なろ過はするものの、酒づくりに使うにはまったく問題ないのだという。

また醸造所内には、発酵タンクはあるが、貯蔵タンクはほぼない。
つくったらすぐに搾って瓶詰めし、出荷するのだという。
つまり、常にできたてのお酒がいただけるというわけだ。
その日のうちに搾った酒を、その日のうちに酒販店に卸す「直汲み今朝搾り」も対応。
東京の都心という地の利を生かした商品となっている。

また、多くの日本酒にほどこされる割水や炭素ろ過は一切行わず、
「原酒」として販売しているのも特徴。
酒づくりの工程を半分に減らすことにつながり、効率よく醸造し、販売ができる。
小さな酒蔵ならではのアイデアだ。

日々の風景が写真展に。
小豆島での暮らしを撮り続けること

同じようで、少しずつ違う日常を撮る

今年も残りわずか。
ほんとに毎年あっというまに過ぎていきます。

この小豆島日記も気づけば連載189回目!
小豆島に引っ越してきたのが2012年10月で、
その半年後の2013年4月から書かせていただいていて、
もうすぐ5年書き続けてることになります。
我ながらよく続いているなぁと驚き。

時々振り返って読んだりするのですが、この小豆島日記は
私たちの小豆島暮らしの記録そのもの。
いまやなくてはならない大切なものです。
意外と忘れてしまっていることも多く、あー、こんなことあったなぁ、
いろは(娘)が小さいなぁ、懐かしいなぁとしみじみしながら読んでます。

小豆島で暮らし始めた頃は、何もかもが新鮮で、
書きたいこと伝えたいことであふれかえってました(笑)。
毎週更新してましたからね。すごいな。
いまも書きたいことはたくさんありますが、
2週間に1回くらいのペースが書き続けるにはちょうどいい感じ。

最近の週末は山へよく遊びに行ってます。

山から少しだけおすそ分けいただいて、クリスマスの飾りをつくったり。

山でカップヌードルを食べるのが楽しみのひとつ。

私は小豆島に来る前は、都会で働く会社員でした。
写真を撮ることは昔から好きで、大学生の頃くらいから一眼レフカメラを持って
旅したりしてたけど、写真は趣味で、それで稼げはしませんでした。

いろはが生まれてからは、どこかに写真を撮りに行くというより、
子どもや暮らしを撮ることがメインに。
本を読んだりしてカメラのことを少し勉強して、
当時よく読んでいた『ダカフェ日記』でオススメされていた
カメラとレンズを購入。日常的に写真を撮るように。
いつか写真を仕事にできたらいいなぁと漠然と思っていました。

この日は、たくちゃん(夫)の誕生日。家の中でのささやかなお祝い。

いろはがつくってくれたお祝いのくす玉。

日光で楽しむシャワーウォーク!
Uターンという道を選んだ
アウトドアガイドと歩く

山、森、清流、湖がそろうフィールド

紅葉の隙間からやわらかな光が降り注ぐなか、
川の中を上流に向かってじゃぶじゃぶと歩く。
肌に当たる水はひんやりと冷たく、日に日に秋が深まっていることを教えてくれる。

なだらかな一枚岩の川床が続く、霧降川の「床滑」。水の流れに逆らって上っていくのが楽しい。

「ここの川底は大きな一枚岩になっていて、
シャワーウォークにぴったりの場所なんですよ」
「冷たくないですか? こっちのほうが比較的浅くて、歩きやすいですよ」

前を歩くふたりが、こちらの様子をいちいち気にしながら声をかけてくれる。

「夏にここを歩くのも気持ちよさそうですね」と言うと、
「だけど夏は歩くだけでも汗をかくから、膝下だけ水に浸るシャワーウォークより、
全身ずぶ濡れになるキャニオニングのほうが断然おすすめですよ」とのこと。
シャワーウォークは紅葉シーズン限定の、贅沢なアクティビティなのだ。

川の中でも滑りにくい、沢登り用のシューズを着用。

「これからの季節だと1月下旬くらいから、
雲竜渓谷のスノートレッキングがイチオシですよ。
滝や渓谷が凍って、巨大なつららができるのですが、
その年によって形が全然違うんです。

それと、スノーシューという西洋“かんじき”を履いて奥日光を歩く、
スノーシューツアーもおすすめですね。
本州の北海道と言われていて、サラッサラのパウダースノーの上を
歩くことができるんです。奥日光の温泉とセットで楽しむと最高ですよ!」

厳冬の日光の自然を体験できる雲竜渓谷でのスノートレッキングは、NAOCのトレッキングツアーで一番人気。(写真提供:NAOC)

奥日光は、本州ではなかなかない極上のパウダースノースポット。スキーより手軽に楽しめるスノーシューツアーも人気。(写真提供:NAOC)

高山の夜祭り〈本町四丁目夏酒場〉
シャッター商店街にグルーヴを。
人生にロックンロールを!

写真提供:hiroko.hashimoto

飛騨への移住は何が違う?
仕事、住居、暮らしを支える飛騨コミュニティ vol.2

世界中から集まる、多くの旅人の心を掴んで離さない飛騨。
観光地として有名な飛騨は、高山市・飛騨市・下呂市・白川村の
三市一村からなる広域エリアだ。
伝統に触れつつ、新しい生き方を実践できるこの地域には、
観光客だけでなく移住者が増えている。

地域で暮らすうえで、大きなポイントとなるのが、人とのつながり。
縁を感じられる地域には、移住者は自然と集まってくる。
コロカル×未来の地域編集部でお届けする、飛騨の魅力に迫る連載。
外の人々を迎え、つながりを強くする。そんな飛騨のコミュニティを訪ねていく。

レトロな商店街で人々を熱狂させる、夏の恒例イベント

歴史ある家屋が並ぶ「古いまち並み」や、
日本三大朝市のひとつ〈宮川朝市〉で有名な高山市。
まわりを山に囲まれた情緒深いまちの風景は、近年外国人旅行者にも人気が高い。

趣のある夕方のまち並み。日中は外国人旅行者も多数訪れる。

ちょうど、まちの中心を流れる宮川に沿って、レトロな雰囲気の本町商店街がある。
ここでは、毎年夏に多くの人々を熱狂させる
〈本町四丁目夏酒場〉(夏酒場)というお祭りが行われている。

このイベントを主催するのは、本町四丁目商店街振興組合のみなさん。
商店街の持続と発展を目的として、四丁目で商店を営む19名で構成されている。
40年以上前からある組合だが、近年は高齢化や後継者問題を抱える商店も多く、
昔と比べて活動規模は縮小している。

そんな商店街で毎年行われている夏酒場は、飛騨地域には珍しい屋外の大型イベントだ。
いまでは、夏の恒例イベントとして多くの人に知られるようになったが、
活動が始まった背景には、さまざまな人たちの思いが詰まっていた。

空き店舗をなんとかしたい! 靴屋の原田さんの思い

原田憲一さんは、本町四丁目にある〈靴のハラダ〉の息子として生まれ育った。
大学進学を機に上京し、東京の靴屋で修業時代を過ごした後、25年前に帰郷。
高山で自身の靴屋をオープンさせた。
もともと郊外に出店していたが、何度かの移転を経て、
現在は本町四丁目でブーツ専門店〈Knockin’ Boots〉を営んでいる。

Knockin’ Bootsはネット販売が中心。店舗では、原宿系のカラフルなブーツが目を引くこともあり、外国人旅行者がよく立ち寄るという。

「この場所で靴屋を始めたのは2012年。
ちょうど四丁目でも空き店舗が目立ってきた頃でしたね。
昔は、地元の人は商店街で買い物していましたが、やっぱりいまは、
郊外の大型店やショッピングモールなどに出てしまう人が多い。
何もせずに放っておいたら、衰退する一方です」

本町四丁目は、市街地のメインストリートから少し離れていることもあり、
人通りが多いとは言えない。
なかには、どうしても環境の変化に対応しきれない商店もある。
シャッターが下り、空き店舗が目立つようになってきた商店街は、
原田さんにとって、なんとかしたい課題だった。

夜の商店街は、人通りもまばら。閉店してしまっている店舗も多い。

「もともと、本町では毎年8月1、2日に〈納涼夜市〉というお祭りがありました。
一丁目から四丁目まで、それぞれの組合が管理していますが、この日は一致団結。
本町商店街がすべて歩行者天国になって、金魚すくいや動物のレースなど、
お祭りらしいことをやっていたんです。
組合としては、自分たちの父親世代が頑張っていた時期ですね」

以前は靴以外にも商品を販売していたが、現在はブーツが看板商品だ。

一丁目から三丁目までは、いまでも多くのお店が開店しているが、
空き店舗が増えてきた四丁目では、イベント運営が徐々に難しくなっていった。
原田さんがUターンしてお店を始めた頃は、
四丁目のみ納涼夜市のすべての運営を企画会社に委託していたという。

子どもの頃に体験したかつての賑わいと、
目の前にある空き店舗だらけの商店街とのギャップ。
何かできないかと思案していた原田さんに、ある店で転機が訪れた。

いい働き方をしたい。
小豆島に移住して農業を営む
〈HOMEMAKERS〉の畑の1日

私たち、こんなふうに働いてます!

11月中旬からぐっと寒くなりました。
天気予報では、1月並みの寒さになるでしょうとか初雪を観測しましたとか。
いよいよ冬ですね。

この秋初収穫のフェンネル。肌がとてもきれい。

レタスの葉の上を歩くてんとう虫。アブラムシを食べてくれます。

11月の畑は、夏にはなかった野菜たちがいっぱいです。
大根、にんじん、白菜、なばな、とにかく緑の葉っぱがわさわさしてます。
1年のなかで、畑が一番きれいな時期なんじゃないかなと思います。

今日はそんな私たち〈HOMEMAKERS〉の畑の1日について書こうかと。
こんなふうに働いています!

私たちは週に3回、野菜の収穫&出荷作業をしています。
レタス農家、さつまいも農家さんなど、単一のお野菜を栽培しているところは、
1年のなかで出荷のシーズンが決まっていて、その時期に出荷作業が集中しますが、
私たちはいろいろな野菜をつくっていて、1年を通して収穫&出荷作業をしています。
もちろん野菜が多い時期、少ない時期などあるので、量は変動しますが。

11月23日(木)、この日は出荷の日。
朝一番で、その日の出荷リストや宅配用の宛名、
お届け案内などを作成します(前日にしておくこともありますが)。
私たちは島外のお客さまにもお野菜を宅配でお届けしているので、
その宛名の準備や、ダンボールの中に野菜と一緒に入れる野菜の説明や
納品書などを用意するのに結構時間がかかります。

野菜の出荷リストを作成。これをもとに収穫していきます。

この時期の大根は葉もきれいでまるごと食べられます。

にんじんも掘りたてを出荷します。

この時期、畑に出るのは9時から。
ほかの農家さんと比べたらちょっと遅めかも。
それでも家族そろって朝ごはんを食べて、子どもを送り出して、ストレッチとかして、
片づけや準備、事務作業などしているとあっという間にその時間。
朝のこの時間がけっこう貴重だったりします。

9時、畑チームのみんな集合、いざ出動です。
この日はいつもより少し多めの6人体制(私たち夫婦も入れて)。
この時期は玉ねぎの定植、生姜の収穫などやることが多いので、
みんなにお手伝いをお願いしています。
玉ねぎの定植チームと収穫出荷チームに分かれて作業を進めていきます。

種をまいて育てた玉ねぎの苗を掘り上げて、等間隔に定植していきます。

秋は青虫の被害がひどいので、防虫ネットをはって野菜を守ります。

赤かぶ。これは週末カフェで使います。