立花テキスタイル研究所

一枚の布から始まる、小さくて大きな物語。

広島県尾道市で出会った色とりどりのストール。
ふんわりとやわらかいトーンの色は
尾道市街地から船で渡った向島(むかいしま)に自生する
サクラやモモ、プラム、アメリカセンダングサなどの植物から生まれた色だ。
実は、この色は、向島にある立花テキスタイル研究所が
季節ごとに出る大量の剪定枝や間伐材を集めたものから作っている。
いわば、不要とされているものを有効活用したものだ。

子どもの手による奔放な作品は、未来への希望にあふれている。

その日、向島の立花自然活用村内にある
立花テキスタイル研究所では、子ども向けのアートスクールが開催されていた。
楽しそうに絵を描く子どもたちの微笑ましい姿を眺めていると、
あれ? 普通の絵画教室とは何か様子が違う。
木の端に色付けしたもの、長さの違う紐、はぎれ、
コワレモノを箱に詰める際に使うクッションの中身などが置かれ、
それを子どもたちは触ったり、使ったり……。
「よそではいらないものでも、ここでは楽しい画材に変身します。
その場で不要なもの=ゴミと決めつけているのは大人たちなのよね」
というのは、絵の先生である美術作家の岸田真理子さん。
彼女はここで染色やイラストなどを担当している傍ら
定期的に子ども向けのワークショップを行っている。
「ほら、こうやって色別にまとめておけば、抜けのある色鉛筆セットも
捨てずに活用できるし、色の微妙な違いもわかるじゃない?」
はい、確かに。
固定観念を外すと、用済みのものにも光がさす。
やわらかい色のストールの成り立ちと根本的な思想は同じにみえた。

同じ緑色でも、黄緑やモスグリーン、オリーブグリーンなど、いろんな色がある。

なぜか犬もいる教室内。子どもたちは自由にモノを眺め、アートに触れる。

ぐるり広い所内を見渡してみると、植物採集の展示や、分厚い色見本帳、
インドの糸つむぎ機チャルカ、そして染色したばかりの布が干され、
床には、木の枝、葉などが乾燥用に広げられている。
染料になる前の乾燥した植物は大きな袋にまとめられ、
あちこちの部屋の片隅に無造作に置かれていた。
子ども向けのアートスクールが終わったあとは、
まるで、放課後の学校にいるかのように人気がなく、静かだ。

外にある藍の畑では、代表の新里カオリさんが水撒きをしていた。
傍らには、なぜか山羊。
「可愛いでしょう? 戦前は日本各地で家畜として飼われていたんですよ。
山羊は、綿花や藍の周囲に生えてくる雑草を食べてくれます。
糞は植物への堆肥になるし、乳は飲めるし、すぐれた動物です」
彼らはまるでマスコットのように訪問客にも大人気で、
わざわざ山羊を触りに来る人もいるのだとか。
なんとムダのない働きっぷり。
畑の横でメエメエ鳴いてむしゃむしゃ草を食べているだけにしか見えない
山羊がそんな風に役立っていようとは!

優れた動物、と新里さんが称賛する山羊はレギュラーで5頭いる。

染料となる藍の畑に水を撒く新里さん。となりで綿花も栽培している。

一見、牧歌的な研究所や新里さんの佇まいに
ふわふわとしたものを感じたなら、それは大間違い。
実は、新里さんは立花テキスタイル研究所を
「コミュニティ・ビジネスとして成立させる」という
目標を着々と実現させている。

東京の美術大学で染色を学んだあと、
美術館や学校などで美術教育に関わっていた彼女は
旅で訪れた尾道で、NPO法人工房尾道帆布の木織雅子代表と出会った。
ちょうどその頃、地場産業の帆布は化学繊維に押され、衰退の一途をたどっていた。
魅力のある帆布という素材を、引き続き何かに活かしていくと同時に
天然素材の良さをもっといろんな人に知ってもらいたい、
と考えていた木織さんと意気投合し、
ともに数々のプロジェクトに取り組んでいったという。

新里さんが店舗でお客さんを接客していたある日、こんな出来事があった。
「帆布の素材の綿は、国産なんですか? とお客さんに聞かれたんです。
そこで、調べてみたら国内自給率は0.01%以下。驚きました」
2世代前には日本各地で畑の隅などで綿を栽培していたこと、
しまなみなどの温暖な地域は綿の栽培に適していることなどを知った彼女は
「ここで綿花を育てることができるのでは?」と
2007年からプランターで実験的に綿花の栽培を開始した。

「最初は、帆布を使った商品の開発をするつもりで尾道に来たのですが、
綿花栽培を始めると同時に染色材料を求めるようになり、
毎日のように向島内をフィールドワークしていました。
島の人々に聞き取り調査を行うと、いろんな話が出てきましたね。
みなさんの困っていることや歴史や地域の植生など
島のことが少しずつ見えてきました」
柑橘類の農家の多い向島では、剪定は農家の一大仕事で、
大量の剪定枝は産業廃棄物扱いとなる。
その話を耳にした新里さんは、剪定枝を買い取ることにした。
初めて向島を歩いたときに「染料になる木がたくさんある!」と
喜んだ記憶がここでつながったのだ。

綿花は、地域の人たちと協働して種まきから収穫まで行った。
収穫した棉(わた)で糸を紡ぐワークショップも開催し、
最初から最後までの工程をみるべく、多くの人が集まったという。
徐々に研究所の存在も地域に知られていき、
剪定枝を研究所まで持ってきてくれる人も増えた。

布を通して、人も、資源も、「環」になる。

尾道市向島立花地区にある立花テキスタイル研究所はこんなロケーションの中にある。

向島でフィールドワークした際に染色材料になるものを採集したディスプレイ。

果物の栽培農家の多い向島だけに、染色して面白い素材が集まるという。

立花テキスタイル研究所の製品の材料は、ほとんどが向島から出たものだ。
染料を布に定着させるための媒染剤は、環境への影響を配慮し、
銅や錫は使用せず、造船の鉄くずや牡蠣の殻、木灰など、
尾道ならではの廃棄物を媒染剤用に加工し、有効活用している。
地域で「いらないもの」とされたものを
「必要なもの」に変化させていく魔法に周囲の人もさぞ驚いたことだろう。

「最初は都会から来た女性たちが何かやっているなあという感じだったんですけどね。
今ではいろんな人を巻き込んでやっていますよ」
向島に住む人に聞くと、そんな答えが返ってきた。
しまなみ海道の今治で織ったストールに色を染めて商品化したものは、
路面店での販売を始めるとすぐに感度の高い人たちに知られることとなっていった。

糸の色見本帳は実験の結果。これを見ると向島の豊かな色彩が見えてくる。

ちなみに、2011年と2012年のアンテナショップでの売上を
月別にみると、多い月で前年比1.5倍もの利益を上げている。
立花テキスタイル研究所の在り方は、
環境と共生する地域再生例として広まり、
今や新里さんは国内外の講演にひっぱりだこに。
「まず、私は、社会に参加している経済人だと自覚しています。
身をおく場によっては、“アーティスト”といわれると
社会と分断されたような、特別な存在になってしまう。
それでは、地方では協働はできないんです」
これは、美術教育に関わってきた新里さんだからこそ言える言葉かもしれない。
「多くの人が関わるビジネスモデルとして成り立たせていくためには
いいものを作って満足しているだけではダメなんですよ」と彼女は言う。
色の定着や堅牢度など一定以上の品質を保持できないと持続可能な事業にはならない。
だからこそ、地域の草花を徹底的に調べ、
色を定着させる媒染剤との相性を何種類も試して
あの色とりどりのストールや帆布バックなどを
定番商品として安定的に販売できるようにしたのだ。

関東から向島に生活そのものを移してしまった新里カオリさん。

立花テキスタイル研究所というローカルプロジェクトを立ち上げ、
軌道に乗せた次の目標は和綿の栽培と染料の開発という新里さん。
しまなみ海道の島々をつなぎ、雇用を増やすことが目的だ。
「今ちょうど弓削島の人たちとのワークショップも始まったところです」。
どうやら、またひとつずつ彼女の思い描く理想像が現実になっているようだ。
ふと、彼女が水撒きの手を止めた。
見つめている先には、和綿が棉(わた)となってはじけていた。
「ほら、かわいいでしょう?」
愛情あふれる笑顔でそっと棉をつまむ新里さんを見て、
来年はワークショップに参加をして
自分で摘んだ草花でストールを染めてみるのもいいな、と思った。

和綿のコットンボールは下を向いて開く。種は大切にとって次世代へ。

首にふわりと巻いた向島生まれの自然の色。
それを身にまとうだけで、瀬戸内海に浮かぶ小さな島に
溶けていくような気持ちになるから、不思議だ。
このストールを巻いた日は、立花テキスタイル研究所で
目にしたものをヒントに「環」になるものに思いを馳せることが多い。
そうでなくとも、たまには近所にどんな植物が育っているのか、
そんなふうに周囲を見渡しながら駅に向かうのも、悪くない。

左から岸田真理子さん、新里カオリさん、そして新里さんの元教え子で関東から移住した齋藤知華さん。あと地元尾道出身の廣畑洋介さんがいる。春からは2名新メンバーが入る予定。

Information


map

立花テキスタイル研究所

2009年、しまなみの植物を調査・研究し、糸や布を染め、商品開発につなげることを目的に創設。2012年11月まで尾道商店街にアンテナショップを構え、トートバッグやストール、オリジナルの染色キットなどを販売していたが、2013年春に向島にある旧校舎をリノベーションした新店舗をオープンするため、現在は閉店。オリジナルキリムを作る「フレーム織り体験講座」や羊毛から糸をつむぐ「立花ものづくり体験」などのワークショップや子どもたちのための「立テキアートスクール」は定期的に開催中。
http://tachitex.com/index.html

池ヶ谷知宏さん

ハレの日もケの日も変わらない富士山が好きだから。

日本のシンボルとして悠然とそびえ立つ富士山。
富士写真家、富士登山家という分野があるように、
その御姿に魅了されライフワークとする人は多い。
池ヶ谷知宏さんもそのひとりだ。

「goodbymarket(グッバイマーケット)」の代表、池ヶ谷さんは、
富士山の雄姿をユーモアあふれるプロダクトに落とし込む。

代表作は、『Fuji T』。
3776と書かれたTシャツの裾をつまんで外側にめくると、
めくったところを頂点に富士山が顔を出す。
見た目は数字(言うまでもなく、3776とは富士山の標高)が書かれた
変哲もないTシャツだが、裏地に富士山の絵柄が描かれているのだ。
「初めて富士登山するときにはオリジナルのTシャツを着ていきたいと思っていて、
思案中に着ていた真っ白いTシャツの裾をつまんだときにふと考えついたんです。
あれ、ここにも富士山があるじゃないか! って」
自分が初めて富士登山をするときの記念につくったTシャツが、
今では、静岡市美術館のミュージアムショップや、東京のインテリア雑貨店に並ぶ。
ほかにも、ティッシュを富士山の積雪に見立て、
つまみ出すと先の尖った富士山が完成するという
「ポケットティッシュケース『case 3776』」、
封をする部分に富士山の絵柄を施した
「封筒『Mt.envelope』」と「ポチ袋『Mt.envelope pochi』」などを次々と発表。
生活のなかでふとしたものごとの瞬間を、池ヶ谷さんは敏感に察知し、
ものづくりへと昇華させる。

「ポケットティッシュケース『case 3776』」

「封筒『Mt.envelope』」

池ヶ谷さんのつくり出す富士山はどれも鮮やかな青色をしている。「小さい頃から富士山と言えば“青”で“冠雪”だったんです」(池ヶ谷さん)

静岡県民でもこれほど富士山愛が強い人は稀なのではないか。
池ヶ谷さんは生まれも育ちも静岡市(旧・清水市)だが、
幼いころの住まいは富士山が見えるところではなかったそうだ。
「なので、たまに父が車で出掛けた時に海沿いから見せてくれた富士山は特別だったんです」
と話す。
池ヶ谷さんにとって、近くにいるのになかなか会えない恋人のような富士山。
だからこそ人一倍思い入れが強い。
音楽活動、建築の専門学校への進学、インテリアショップへの就職など、
上京し8年間を都内で過ごしながらも、
「いつかは地元・静岡に戻りたいとずっと思っていた」という宣言通り、
Uターンしたのが2008年。念願の富士山が見える部屋に住みながら、
プロダクトのデザインと販売を手がける企業に勤めたのち、
2011年に「goodbymarket」を設立。以降、静岡県内の企業の依頼で
広告やフライヤー、ロゴのグラフィックデザインを手がけつつ、
富士山をモチーフとしたプロダクト「Fuji」シリーズを企画販売している。

「ほかの地域で生まれ育っていたとしても、きっとその地域のアイデンティティを探してものづくりをしていたと思う」(池ヶ谷さん)

中指の第二間接を折り曲げたとんがりが富士山のようだと気づけば、第二間接部分のみ着色をした「軍手『Fuji Love Glove』」を販売。『Fuji T』とともに、富士登山のおともにどうぞ。

コミュニケーションツールとしてのプロダクト。

冒頭の『Fuji T』の話には続きがある。
Fuji Tをつくって実際に初富士登山に行った池ヶ谷さん。
無事頂上でFuji Tとのツーショットを納めることができた。
「そうしたら、“そのTシャツなに?”“どこで売っているの?”って、
他の登山客から次から次へと声をかけられたんです。
物がそこになくても、“富士山に登ったらこんなTシャツを着ていた人がいてね”
と、物のエピソードは語り継がれる。
いかにしてその商品がコミュニケーションを創造できるかということを
大事にしています」
それ以来、プロダクトには、日本一の霊峰・富士山という、
わかりやすくて誰からも愛されるモチーフから生まれる親近感に加えて、
ツッコミたくなるような、誰かに話したくなるような話題性を織り込んだ。

パッケージに書かれた商品コピーにもその姿勢が見て取れる。

「人生はわずかな思い込みから歯車が動き出すこともある」(『Fuji T』)
「突然の山雨、鼻水、大粒の涙…『突然』に備える人のことをオトナといいます」
(ポケットティッシュケース『case 3776』)

「小さいころから、いたずらをしかけてはその人の驚く顔を見るのが好きでした。
誰かの心を揺さぶるということが僕のテーマだとしたら、
この商品コピーはその延長線上にあるのだと思います」と笑う。
商品コピーを考えることで生まれた「言葉」への探求心は、
やがて池ヶ谷さんのデザイナーとしての活動にも影響を与え、
漢字をリデザインして立体作品やポスターなどで表現する
「emoglyph(emotion(感情)+hieroglyph(象形文字)を組み合わせた
池ヶ谷さん考案の造語。日本語にすると「情形文字」)」の個展を
2011年に県内のアートスペースで開催するなど、活動の幅を広げるきっかけとなった。
「漢字って見方を変えると面白いんですよね。
漢字が本来持つ意味とは違うものを感じたり、かたちを疑ったり。
富士山もそうですが、見慣れたものやあたりまえのものに
違う価値を見つけることが面白いんです」と言う。

よみかた:「気持ちで乗り越える」
意味:「あなたの目の前に現れたのは本当に壁だろうか? 本当にそうだろうか?
もう一度よく見て欲しい。壁を形成している辛(つらい)という文字が、幸(しあわせ)に塗り替えられているでしょ?
そう。その壁は気持ち次第で、壁にも踏み台にもなるわけです」

goodbymarket(グッバイマーケット)の名には、
「“マーケット”に“グッバイ”するのではなく、
“グッド”という感情が作品と結びつく場でもある、“マーケット”を見つめなおし、
新たなコミュニケーションプロダクトの創造を試みたい」
という想いを込める。
「だから、いつか一度くらいは富士山頂で
ポップアップショップの展開なんていいかもしれませんね」
と、茶目っ気たっぷりに言う池ヶ谷さん。その志は富士より高い。

「木」に一冊の本を加えたら「本」になる。一冊用の本棚『HONDANA』。

DESIGNEAST

デザインを、大阪から発信したい。

「デザインする状況をデザインする」ことをコンセプトに、
大阪で行われる「DESIGNEAST(デザインイースト)」。
2009年のスタート以来毎年開催され、
4回目になる2012年も9月15~17日の3日間開催された。
発起人は、プロダクト/空間デザイナーの柳原照弘さん、デザイナーの原田祐馬さん、
建築家の家成俊勝さん、ファッションリサーチャーの水野大二郎さん、
編集者の多田智美さんの5人。
いずれも1974~80年生まれの同世代のクリエイターたちで運営している。

そもそものはじまりは、原田さんや柳原さん、家成さんたちが不定期に開催していた、
関西で活動している建築家たちとの勉強会兼交流会。
あるときお互いの活動をプレゼンし合う会を開いたところ盛り上がり、
もう少しきちんとしたかたちにして何かやってみようということに。
ちょうど実験的に使えるスペースが見つかり、多田さん、水野さんも企画に加わって、
第1回目の「DESIGNEAST 00」をプレイベント的に開催することになった。

柳原さんはミラノやスウェーデンなど海外での活動も多いが、
日本では東京で発表の場があっても、大阪にはなかった。
ほかのメンバーも、大阪はクリエイターにとってチャンスが少ないこと、
“粉もん”文化やお笑い文化といったステレオタイプな大阪のイメージ以外の
カルチャーやイベントがほぼないことに、フラストレーションを抱えていた。
自分たちで新たなアピールポイントをつくっていこう、と立ち上げたのが
このプロジェクトだった。
「でも、たとえば僕たちがデザインした椅子やプロダクトの展覧会をやっても仕方ない。
まずは自分たちの想いや活動を見せたいと思ったんです」と原田さんは話す。
「まず基準を見せることが大事だと思いました。
自分たちが面白いと思う人たちに来てもらって話をしてもらい、
それを受け入れるというところから始めようと、
最初はトークイベントと展覧会を中心とした企画でスタートしました」(多田さん)

トークのゲストも、自分たちの人脈で招聘した。
水野さんはロンドンに10年ほど暮らしていたことがあったり、
5人それぞれが活動のなかでつながりのある建築家やデザイナーに直接お願いして、
海外からもゲストを呼び寄せた。
2回目の「DESIGNEAST 01」では、いろいろな人に協力してもらい、
巨匠エンツォ・マーリにも来てもらった。
世界中から蒼々たるゲストたちがやって来るのは、
きっと彼らの情熱にほだされてのことだろう。

大阪なのに、なぜ「EAST」なのかという問いに、多田さんはこう答える。
「東京から見たら大阪は西ですが、ヨーロッパや世界から見たら、
大阪も東京も一緒やん、という意味でEASTなんです」
大阪も世界の“EAST”であることに変わりはない。
大阪から世界にデザインを発信する、という基本コンセプトはタイトルに表れていた。

当時工事中だった中之島バンクス(現・中之島デザインミュージアム「de sign de」)にて、第1回目を開催した。

第2回目からは、現在「クリエティブセンター大阪(CCO)」と呼ばれる、
名村造船所跡地で開催している。
北加賀屋エリア一帯の新しいまちのあり方をプランニングしている
「千島土地株式会社」「おおさか創造千島財団」が所有する場所で、その名のとおり、
造船所の跡地の4階建ての大きな建物がDESIGNEASTの会場となっている。

今回は4階のスペースでは、東京を拠点とするファッションブランド
「THEATRE PRODUCTS」のワークショップが行われた。
4階は造船所だった頃、原寸大の船の図面を書く場所だったという広いスペース。
そこで服の型紙を使ったワークショップをやったら面白いのではないか。
前年にお客さんとして遊びに来たTHEATRE PRODUCTSの人たちが、
場のポテンシャルを感じてくれ、企画を提案してくれたそうだ。
2013年の春夏コレクションとして型紙を発表し、
お客さんがその型紙を買って生地を選び、その場で服をつくる。
自分がつくった服が、最新コレクションになるという新しい発表スタイルだ。
東京のブランドが大阪で、しかも型紙でコレクションを発表するというのも珍しい。

THEATRE PRODUCTSのワークショップ会場。天井が低く広いスペース。(撮影:川瀬一絵[ゆかい])

布から洋服が立ち現れるユニークな展示。(撮影:太田拓実)

3階はトークのスペース。
ファシリテーターをたて、建築家やデザイナーなど
ジャンルを横断したゲストを招いてのトークセッションを開催した。
「ただ呼ばれたから来て、何を話したらいいですか? ではなく、
話す人に主体的に関わってもらう。
みんな何か伝えたいことや一緒に考えたい話題を持ち寄って、
テーマを考えることも多いです」(多田さん)

ロンドンの公園で行われているようなスタイルにヒントを得て、
同じフロアの3か所で同時にトークをする「スピーカーズコーナー」も開催した。
お客さんがスピーカーを選ぶことになるので、スピーカーはお客さんを獲得するために、
興味を惹く内容や議論をどうつくっていくかなど、ちょっとした工夫が必要になる。
また今回は初めてスピーカーズコーナーの一部で公募枠を設けた。
9つある公募枠に、20~30くらいの応募があったという。
「スピーカーズコーナーも将来的には全部公募にしたら面白いと思っています。
そうすると、話したい、プレゼンしたいという人が続々やって来て、
場のポテンシャルが上がりますから」(原田さん)

お客さんが回遊しながらトークを聞く「スピーカーズコーナー」。(撮影:増田好郎)

デザイナーとお客さんが対話する場所。

2階ではロンドンの「OKAY studio」による家具のワークショップが開催されたり、
数々のショップがオープン。
このワークショップでは図面と材料を各1000円で販売し、その場でつくることができる。
ワークショップの出展者には、世界中どこでも手に入る材料で、
2~3時間でつくれるものを提案してもらっているので、
図面だけ買って後日材料をどこかで購入し、図面を見ながら家具をつくることもできる。
また、図面の売り上げの半分をデザイナーに還元するという、
マイクロファイナンスのしくみも導入。
そして重要なのは、デザイナーがそのワークショップの現場にいること。

「“ソーシャル・サスティナビリティ”をテーマに2回目を開催したときに、
モノをもっと愛せる方法がないかとみんなで考えたんです。
デザイナーズ家具は高価だけど飽きてしまうこともあるし、
安い家具は使い捨てになってしまう。それはモノにとってもかわいそうですよね。
デザインしている人の顔が見えて、どんな想いでデザインしているかを知ったうえで、
さらにそれらを自分でつくることができたら、
少々下手でも愛着がわきますよね」(多田さん)
「デザインした人がつくり方を教えてくれ、手伝ってくれる。
つくるのは難しいけど、かっこよく仕上がったとか、
自分の部屋は狭いから少しサイズを変更したいとか、何でもいい。
ダイレクトにデザイナーに意見が届くんです」(原田さん)
いまでは中学生が友だち同士で来ていたり、家族での参加も増え、
ワークショップ目当てにDESIGNEASTに来るお客さんも増えてきているようだ。

ワークショップでつくった家具は、図面があるので自分で直すこともできる。(撮影:増田好郎)

ショップでは、いつも出店をお願いしている本屋さんがある。
大阪市西区にある、100年以上の歴史を持つ建築書専門書店「柳々堂」。
どこにでもありそうなまちの本屋さんだが、名物店主のおばさんが人と人をつなげてくれ、
原田さん、柳原さん、家成さんもその本屋で出会った。
「柳々堂のおばちゃんに、ここにいてくれたらうれしいなと思って。
3日間、その日のゲストに合わせて本をセレクトしてきてくれて、
ゲストにもお客さんにも喜んでもらえるよう、
毎日品揃えも工夫してくれるんですよ」(原田さん)

人と人をつなぐ、まちの本屋さん「柳々堂」も毎年出店。(撮影:川瀬一絵[ゆかい])

ほかにもさまざまなブランドのショップが並ぶが、基本的につくった人が自分の手で売る。
ここでもつくり手とお客さんが対面し、対話できるようにした。
1階のバーもそう。
建築家に仮設のバーを設計してもらい、建築家自らがバーテンとして立つ。
今年は建築家の大西麻貴さんが設計した。
「お客さんはなかなかゲストに声がかけられないでしょう。
でもバーで注文するためには声をかけなきゃいけない。
コミュニケーションの装置としてバーが機能しているんです」(原田さん)

フードコーナーでも、今年初の試みとしてワークショップと同じようなしくみを導入。
大阪のクリエイティブスタジオ「graf」にお願いして、
オープンサンドをお客さんが自らつくることができる「Fantastic Table」を開催した。
スタッフは野菜の産地やつくり方を教えるだけで、食べる人が自分で選び、
手を動かしてつくる。こんなところまでコンセプトが一貫している。

自分で中身を選んで調理するフードコーナー。マルシェも開催。(撮影:増田好郎)

生演奏のパフォーマンスも。(撮影:増田好郎)

これだけのイベントを、多くのボランティアスタッフたちと一緒につくり上げている。
何より驚きなのが、企業からは現物で協力してもらうことはあっても、
協賛金は得ず、すべて入場料のみで運営しているということ。
「もともと、こういう場が大阪になかったからつくりたいという
ピュアな動機で始めたプロジェクト。それをどうしたらピュアなまま
保持できるかと考えたら、それがいちばんいい方法でした」(多田さん)
「基本的に自分たちがやりたいと思って始めたものなので。
もう究極の趣味ですね(笑)」(原田さん)

実行委員たちは、それぞれもう次回のことを考えているようだ。
「DESIGNEASTはイベントじゃなくて、“プロジェクト”と言ってるんです。
また1年間準備して、続いていくプロジェクトなんです」(多田さん)
「僕らがやっていることを東京の人が面白いと思ってくれたら、パクってもらって大歓迎。
そういう状況が生まれてくることが、ひとつの結果だと思っています」(原田さん)
「デザインする状況をデザインする」。
まさに彼らがやっていることはそういうことなのだ。

「3.11とアーティスト:進行形の記録」

災害と向き合った作家たちは、何を残したのか。

水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されている「3.11とアーティスト:進行形の記録」。
2011年3月11日の東日本大震災を受け、表現活動をする作家たちのなかで何が起こり、
どんな表現が生まれたのか。その立場や姿勢、思いはさまざまで、
そんなアーティストたちの多様な表現、または活動が紹介されている。

この展覧会を企画した学芸員の竹久 侑さんは
「作家たちはさまざまな葛藤を抱えながらも活動してきましたが、
特に目立ったのは若手作家のコミュニティに入った活動。
震災からまだ1年7か月しか経っていませんが、
現在も一部の作家たちが活動を継続しているなかで、
どういうことが実際に行われているのか紹介したいと思いました。
作家の活動を介して、“あれから”の時間と“これから”を
考えていける企画になれば」と話す。

美術館に展示される作品というのは、通常は作品として発表されることが前提だが、
この展覧会ではその限りではなく、アーティストであるということ抜きにした
アクションも紹介されている。
作品としてつくられたもの、何らかの記録、
そして作品として発表することを前提としていなかった活動。
それらがひとつの会場に、時系列に沿って並べられている。

23組のアーティストたちによる32の作品および活動を、時系列で起こった順に展示。同じ作家でも後半で再登場するなど、時間の経過が感じられる展示になっている。

ひとつひとつの作品に活動概要を記したカードが設置されており、背景と経緯も紹介されている。これらはバインダー形式のカタログに収録できるようになっている。

北澤 潤さんは、福島県相馬郡新地町の仮設住宅で
「マイタウンマーケット」というプロジェクトを展開した。
最初はボランティアとして避難所に通い、絨毯を編むという作業を始めた。
その過程で仲良くなった子どもたちのアイデアで、
でき上がった4畳ほどの絨毯の上で、小さな喫茶店を開く。
それがきっかけとなり、今度は仮設住宅でゴザを編む作業を始めた。
するとどんどん人のつながりができ始め、
子どもから大人まで多くの人が集まるようになった。

そこで北澤さんが提案したのが、自分たちのつくりたいまちを手づくりでつくる
「マイタウンマーケット」。
八百屋、パン屋、カフェ、レストラン、博物館、プラネタリウムなど、
地域の人たちが選んだまちを構成する要素を、仮設住宅のゴザの上につくっていった。
これまでに5回開催され、いまではまちの行事となりつつあり、
仮設住宅の外からも多くの人がやって来るという。

回を重ねるうちに、プロジェクトが成長してきたと北澤さんは感じている。
現在では「マイタウンマーケット」の実行委員会は30人ほどになり、
子どもがやりたいことをプレゼンして、大人たちがそれをどうかたちにするか話し合い、
住民たちの自立したプロジェクトとして動いている。
「マイタウンマーケットが、僕のものから地域のものに変わってきた。
ひとりで絨毯を編むことから始まって、こういう状況に至ってくる
プロセスが面白いと思っています」と北澤さん。

そしてこれは、災害支援活動でも公共的なまちづくりでもなく、
あくまでアートプロジェクトだという。
「手づくりのまちをつくるというのは、一見無意味のように思えるかもしれません。
ですがそれによって、地域の人のなかにある創造性が開花したり、
秘めているものが出てくる。
アートというのは、社会の一般的な価値観に結びついたものではなくて、
そういった人間本来が持っているものを呼び起こしていく作業だと思っています。
日常を捉え直したり、新しいアクションを起こすということは、
日常に問いや疑問を感じないと起こりません。
アーティストがその問いを地域に投げかけることによって、
その人たちの活動や創造性を呼び起こすのだと思っています」

色鮮やかなゴザのほか、かごなども編まれた。つくっていく過程で、人が集まるコミュニティが醸成されていったという。

実際のマイタウンマーケットが仮設住宅で開催された記録が、写真とテキストで紹介され、模型も展示されている。

北澤さんは、地域の人たちが日常的に接している環境を、自分たちの手でつくり直すというプロジェクトを、ほかの地域でも行っている。

サイトスペシフィックなインスタレーションを多く発表するニシコさんは、
会期中「地震を直すプロジェクト」の公開制作を行っている。
2011年の秋に被災地である仙台市、東松島市、亘理町を訪ね、壊れたものを持ち帰り、
それらをもとのかたちに戻すという公開制作を横浜で行った。
今回は、1年後に同じまちを訪れ持ち帰ったものを、展覧会の会場で直している。
最初は被災地の方たちからどんな反応があるか恐る恐る訪ねたが、
意外なことに大歓迎だったという。
「不謹慎だとか言われるのではと心配していたのですが、
遠くから来てくれてありがとうと言われました。
そして、実際の状況をよく見て、伝えてほしいとお願いされました」

ニシコさんは津波の体験談や日常生活の話を聞き、さまざまなものを持ち帰った。
割れたお皿、曲がった金属、アスファルトの塊……。
もはやそれらは誰のものでもない、ゴミだ。
彼女はもともと、アクシデントで割れたものを直すというプロジェクトをやっていたが、
それも今回も、持ち主のために修復しているわけではない。
「いったい何が起こったんだろうということを、
直すという行為を通して考えているんです。
アクシデントをきっかけに、ものの見方を変える、捉え方を変えるという試みです」
1年が経った被災地は、ニシコさんにどう映ったのだろう。
その場所、人を思いながら、彼女は壊れたものを直し続ける。

1981年生まれのニシコさんは、オランダで作家活動をしている。被災地の人たちと出会い、過酷な体験を聞きながら、震災と向き合う。

放射能感知服でチェルノブイリを訪問する「アトムスーツ・プロジェクト」などで知られるヤノベケンジさん。今回展示している「トらやんの方舟計画」は、放射能を懸念して外で遊べない子どもたちのため、2011年に福島県立美術館で行われた展示とワークショップを再現。

山川冬樹さんは、2011年の夏に東京で行われた「アトミックサイト展」に出展した
「原子ギター」を展示している。
ガイガーカウンターを使い、放射線を感知するとエレクトリックギターが鳴るしくみだ。
取材時は、茨城県の土から検出された放射線で音が鳴っていた。
「エレキギターは電気によって稼働します。
その電気は福島から送られてきた東京電力の電気。
僕らも電気がないと生活できません。
原発に反対の姿勢であっても、演奏するにも生活するにも電気が要ります。
その矛盾を、このギターが体現しているんです」

震災後、放射能に対する価値観の違いから、分断が起こっていると山川さんはいう。
どこに住むのか、何を食べるのか。
震災後にあらわになった価値観の相違に、戸惑った人も少なくないだろう。
「放射能の問題が人と人とを分断していることに対して、
強く抗議したい気持ちがあります。
福島とは距離があるけれども、明らかに影響がある。
物理的な影響も、心理的な影響も。
その距離感と、距離を隔てた関係性について考えた作品でもあります」

山川さんは「アトミックサイト展」のあと、
自ら「東京藝術発電所」という展示イベントを企画し、
そこでは自分たちが使う電力を自分たちで発電した。
矛盾から一歩前に進み、自分たちが行動しなければいけないというメッセージでもある。

1973年生まれの山川冬樹さんは、ホーメイなど、自らの声や身体を媒介にした鮮烈なパフォーマンスで知られる。ガイガーカウンターが放射線を検出するときに出す放電ノイズをギターのボディに響かせ、その振動でギターの弦が振れるしくみ。

演出家の高山 明さんが主宰する「Port B」が震災後から行い、現在も継続中の「国民投票プロジェクト」。各地で多くの中学生にインタビューを行い、その映像をアーカイブしたキャラバンカーが巡回。これまでに東京、横浜、福島、岩手、宮城で行われ、茨城でもインタビューが実施された。

インタビューの「声」からは、震災後のさまざまな状況が浮かび上がる。キャラバンカーの中でインタビューの映像を見た人は「投票用紙」と呼ばれるアンケートに記入。その一部が展示されている。

それぞれの視点、それぞれの場所から。

この展覧会が始まる前、プレ企画として、写真家の畠山直哉さんと、
映像作家の小森はるかさん、絵描きの瀬尾なつみさんコンビによるトークが、
東京で開催された。

小森さんと瀬尾さんは、東京藝術大学大学院修士課程に在籍中の若い作家。
彼女たちは震災後まもない2011年3月末に車で東北に向けて出発し、
ボランティアをしながら、実際に自分たちの目で見た状況や確かな情報を、
ブログやツイッターで発信していく。
最初は作品をつくるかどうかということも考えず、
とにかく現地に行くことが大事だと直感し、行動した。
あまりの状況に撮影することを躊躇したが、宮古で出会ったおばあさんに
「私が見られないものを見て、撮影してほしい」と言われ、カメラを取り出せたそうだ。
それ以降も東北に通うようになり、今年の4月から、
陸前高田市や大船渡市にほど近い、岩手県気仙郡住田町に移住した。

瀬尾さんはこう話す。
「最初はできる範囲のボランティアをしようと思っていましたが、
私たちは美術をやっていて、表現するということを信じています。
ここで起きていることをかたちにして、表現にまで高めるということを、
私たちがしなければいけないと思った瞬間がありました。
ここで作品をつくるということを意識したときに、拠点を決めて引っ越そうと思いました」

展示したのは、陸前高田に住むおばさん“Kさん”の話をもとに、
瀬尾さんが構成したテキストとドローイング、小森さんによる映像からなる作品。
小森さんは「いつも自分の映画をつくるときは、漠然とイメージがあって、
そのために必要なものを撮っていくということをしていましたが、
今回はそれとはまったく違いました。
撮りためた映像を見返すと、自分が撮りたかったものというよりは、
誰かが必要としているものが映っている気がします。
そしてそれはすごく切実で、現実的なことでした」という。

瀬尾さんは日々、陸前高田のまちを歩き、写真を撮り、
その写真を見てスケッチする、という行為を繰り返して制作した。
「いまこの光景がすごくきれいだなと思う瞬間があっても、
震災後の風景を見てそう思うことを、地元の人たちに対して言えませんでした。
それは辛いことかもしれないから。だから直接的に言うのではなく、
私の視点ではこう見えているということを描いています。
その絵を地元の人に見せたら喜んでくれました。
この土地と、自分が歩くという行為や描くという行為が、
全部きちんと回り始めた気がしています。
そういうあり方のなかで、たくさん絵を描いていきたいと思っています」

「砂粒をひろう(Kさんの話していたこととさみしさについて)」と題される作品。陸前高田に住む“Kさん”の言葉と、陸前高田の景色が発想のもとになっている。

1988年東京都生まれの瀬尾なつみさん(左)と1989年静岡県生まれの小森はるかさん(右)は、東京藝術大学の学部時代の同級生。ちょうど卒業した3月に震災が起きた。

畠山さんは、震災直後の2011年3月18日に、故郷の陸前高田に入り撮影を開始。
以降もほぼ毎月撮影を続けてきた。
そのシリーズは「陸前高田」「気仙川」として、
昨年、東京都写真美術館で開催された写真展「Natural Stories」で発表された。
今回の展示では、未発表のものも含め、これまで撮りためられたものから紹介されている。
「僕の場合は、自分を奮い立たせて、自分ができることはこうだからこうしよう、
ということではなくて、もう少しパッシヴです。
いてもたってもいられなくなって現地に行って、
自分ができることはこれくらいなんだな、という感じ。
そのなかで最高のパフォーマンスをしようと思っているだけです」

展覧会のカタログのために作家たちに投げられた問いに
「震災後、もしアートにできることがあるとしたらそれはどういうことですか」
という内容のものがあったそうだ。
それに対して畠山さんは、その問い自体が成立しないのではないかという。
「アート」や「アーティスト」という概念は
近代的な歴史観や美術史のうえに成立しているものであり、
未曾有の大災害によってあらゆるものが流されてしまったときに、
近代的な「アート」はそれに対抗しうる語彙を持っていないのではないか、というのだ。

が、一方で、畠山さんの写真のなかには、そしてほかの作品のなかにも、何かがある。
「アートか何かわからないけれど、“何事か”がある。
僕はその“何事か”が気になるし、大事にしたいと思っています。
それはアートではないと簡単に断言できるものではない、とても大切なものです。
それをアートと呼ぶかどうかの議論も必要だろうけど、
“何事か”が持っているリアリティのほうが、アートの概念よりも強いような気がします」
そして、小森さんと瀬尾さんを見て
「彼女たちを見ていると、アートに何ができるかという問い以前に、
回答が出ていると思いますよ」と言った。

さまざまなスタンスで作品を発表する作家たち。
その表現活動は、これからも変容しながら続いていくはずだ。

包装紙などを使い、細かい切り込みで造形する作品で知られる照屋勇賢さんは、前橋市で滞在制作中に震災を体験した。その後、群馬県の地方紙「上毛新聞」に、たくさんの小さな芽を立ち上げる作品「自分にできることをする」を制作した。

会津・漆の芸術祭2012 カキコ隊レポート Part3

会津若松市と喜多方市で開催されている「会津・漆の芸術祭」。
会津に古くから伝わる素材である漆を使って、
福島県内外の作家や職人、学生たちがさまざまな作品を展示。
3回目となるこの芸術祭を、ボランティアスタッフ“カキコ隊”のひとりが、
全3回にわたりレポートします。

体験する漆、使う漆。

10月6日から開催されている「会津・漆の芸術祭2012」の会期も、
残すところあとわずか。
漆の芸術祭にボランティアスタッフ「カキコ隊」の一員として参加する中で
私が思ったことは、この芸術祭がみなさんにとって
漆を身近に感じる機会になったらいいなということでした。
このレポートを書くにあたっても思いは同様。
みなさんが、今までより少しでも漆に興味を持ってくださる機会となれば幸いです。

そこで、今回も「触れる・体験する漆」の話題から。

みなさんが普段接する漆というと黒や赤のイメージが強いのではないかと思いますが、
実際には漆液にプラスする顔料によってさまざまな色が表現可能です。
今回私は、そんな色彩豊かな漆を使ったワークショップ、
山中早苗さんによる漆のお手紙プロジェクトに参加してきました。

このワークショップでは、用意されているポストカードに
漆を使って絵やメッセージを描いて乾いた後に投函してもらえるため、
大切な人に送るもよし、自分宛として飾るもよし。
実際に筆をとって漆で絵を描いてみると、
例えば赤と青を混ぜて紫を作ることができたり、
イメージよりずっと漆の色彩表現が幅広いことに驚きます。
ただし、どのような色にでも漆液本来の色である茶褐色が現れてしまうため、
色を混ぜすぎるとどんどん濁った色になってしまったり、
乾いた時にぐっと暗い色になってしまったり。
裏方のような顔をしながら、意外と自己主張が強いのが漆の難しさであり、
面白さであり、私はそこに大きな魅力を感じてしまいます。
今回、私が体験で作成したポストカードも、
乾燥後のできあがりは思っていたよりもずいぶん色が沈んでしまって、
まったく漆を扱うのは一筋縄ではいきません。

そして、この漆のお手紙プロジェクトで使われているポストカードは、
山中早苗さん作成の、それ自体が和紙に漆をしみ込ませて作られたもの。
薄く柔らかな和紙を固くしっかりとしたポストカードに変えるという、
古来より接着や補強の役割も担ってきた、単なる塗料ではない
漆の一面を知ることのできるワークショップでもありました。

漆のお手紙プロジェクトワークショップ。切手代込みで400円。このプロジェクトは、ポストカードを蒔絵で作成する体験を通じ、漆に興味を持ってもらうのが目的であり、1万人に体験してもらうのが目標とのこと。今後、機会がありましたらみなさんもぜひ。

Part1、Part2もあわせてここまでのレポートでは、
実際に「触れる」という体験を多くご紹介してきましたが、
少し変わったかたちでの体験型展示をご紹介。

会津若松エリアのメイン会場でもある末廣酒造嘉永蔵にて展示されている
「くいぞめ椀プロジェクト」(会津塗伝統工芸士会+原忠信)。
なんと、展示されている作品を来場した7歳までの子どもに
プレゼントしてしまおうという企画(応募者多数の場合は選考)。
展示作品がお手元に届くかもしれないというかたちでの参加ができます。
一番のお気に入りを選んで応募用紙に記入いただく企画のため、
どれにしようかと選ぶお子様連れの方はもちろんのこと、
その他の来場者もひとつひとつの椀をじっくりご覧くださっているもよう。

木地:荒井勝祐、塗り:吉田徹の手による25客のくいぞめ椀に、石川喜代治、大沢周一、金川明、小松茂夫、佐藤直樹、志賀房男、曽根英昭、中村浪夫、坂内憲勝、山内泰次が加飾をほどこしました。プレゼントへの応募は、展示会場にて受付。

「漆って、こんな使い方もできるんだ」
「こんなデザインもありなんだ」
という漆の芸術祭ならではの作品ももちろん素晴らしいと思うのですが、
このプロジェクトのように、実際に今作られ使われている会津塗の姿を
じっくり見ていただくというのも、漆の芸術祭だからこその機会であり、
カキコ隊が掃除をした会場であるという思い入れも含めて、おすすめの展示です。

カキコ隊によるくいぞめ椀プロジェクト展示会場掃除のようす。作品が並ぶことで、会場の雰囲気ががらりと変わりました。

これからも、この漆のまちで。

さて、前回は喜多方エリアの大学プロジェクト作品を紹介しましたが、
会津若松エリアにも大学生たちの作品は展示されています。
それが、野口英世青春通りの「BUS CAFE/靑」に展示されている2作品。
ひとつは上越教育大学伊藤研究室の「未来へ託せ!うるしバトン」。
新潟と福島をつなぐ行為として、会津の漆の苗を手に
「新潟の海から歩いて福島の海を目指す」プロジェクトで、
その道筋の記録がカフェに展示されています。まもなくゴールをむかえるとのこと。

カフェの一角が「未来へ託せ!うるしバトン」の展示コーナーになっています。コーヒーを飲みながら、ゆっくりと漆の苗の旅の記録をご覧ください。もちろん、見学のみでも歓迎です。

もうひとつが会津大学短期大学部クラフトゼミによる
会津短大プロジェクト2010「クラシックバスを漆絵で飾ろう」。
こちらはプロジェクト名の通り「会津・漆の芸術祭2010」出品作品で、
クラシックバスの側面を漆絵で飾るコンペを開催し、
優秀作品を会津工芸新生会の協力を得て制作したもの。
それ以来、昨年も今年も「会津・漆の芸術祭」の開催期間には
こうしてBUS CAFE内にあるクラシックバスを飾ってきました。
いわば、漆の芸術祭にとっておなじみの「顔」となりつつある作品です。

2010年コンペにて優秀作品に選ばれた小林眞理子「モダン和柄」。毘沙門亀甲をポップにアレンジした作品。アルミ製パネルを漆で彩色しています。

同様に3年連続の展示で漆の芸術祭の顔となっている作品が、会津若松駅構内にもひとつ。
井波純+吾子可苗によるSLヘッドマーク「金彩朱磨会津桐文」。
2010年10日31日に、実際にSL会津只見号のヘッドマークとして
秋の会津路を走った漆塗りのヘッドマークが、改札口を入ってすぐのケースの中で、
みなさまのお越しをお待ちしております。

会津伝統の技法である朱磨を用いて、オリジナルの桐花丸をデザイン。鉄道以外の交通手段で会津にいらっしゃった方も、ぜひJR会津若松駅にお立ち寄りください。

そして、今回の参加作品ではないのですが、
まち角にもこの漆の芸術祭の歩みを見守ってきた作品があります。
Part1のレポートで紹介した漆のウォールアート「天空の刻」の裏側、
b Prese蔵舗駐車場を飾るウォールアート「桜」。
おととしに初めて漆の芸術祭が開催された際、今回の「天空の刻」と同様に
スタンプを使った蒔絵の来場者参加作品として展示されたもので、
それ以来ずっとこの場所で、漆の芸術祭を、
そして会津で暮らす我々の毎日を見守っています。

b Prese蔵舗駐車場のウォールアート「桜」。漆の芸術祭終了後も、いつでもご覧いただけます。

漆器として普段使いするには丈夫な漆でも紫外線には弱く、
また風雨により金粉も剥がれ落ちて、
当初は美しく咲いていた桜もすっかり退色してしまっています。
塗りたての「天空の刻」と比較することで、またひとつ漆の特色、
今度は弱点を知ることのできる作品でもあるのですが、
その風化に刻まれた時の流れこそが、漆の芸術祭が積み上げてきた
3年の歩みそのものであり、私にはいとおしく感じられるのです。

今年新たにみなさんの手によって輝きを加えられた天空の星たちが、
この桜とともに、末永く漆の芸術祭の月日を刻んでいくことができますよう、
これからもカキコ隊として、一市民としてお手伝いをしていきたいと思っています。

私が光栄にもひとりめの体験者となった「天空の刻」。11月18日(日)、11月23日(金)もウォールアートの体験ができます。みなさんの星をぜひ加えてください。時間は両日とも10:00~17:00。

別府現代芸術フェスティバル2012 混浴温泉世界〈後編〉

劇場化することで、場所をよみがえらせる。

混浴温泉世界では、別府の象徴的な場所を舞台にさまざまな作品が展開されているが、
場所そのものを作品化してしまうプロジェクトもある。
それが「楠銀天街劇場」と「永久別府劇場」だ。
身体表現に関するこのふたつのプロジェクトを企画したキュレーターの佐東範一さんは、
会期中ずっと展示されているアート作品に、
パフォーマンス作品もなんとか対抗したいと思ったという。
「物理的にずっと踊り続けるわけにはいきませんが、
いかに2か月間継続していくか、そして終わってからも継続していけるか。
フェスティバルがひとつのきっかけとなって、
新しいことが別府のまちで続いていくようなしかけをつくりたいと思いました」

楠銀天街は、別府にいくつかある商店街のひとつ。
かつては最も賑やかな商店街だったが、現在ではシャッターが下りている店も多い。
ここにさまざまな廃材を持ち込んで、まるごと劇場空間に変えてしまおうというのが
「楠銀天街劇場」のプロジェクト。
「いま全国でシャッター商店街と呼ばれる商店街が増えており、
かつては人と人との出会いの場所でもあった商店街が、その役割を終えています。
そのような商店街をもう一度、別の役割につくり変えられないかと考えたときに、
劇場が持つ、人が集まる機能とうまく合体させられるのではと思ったのです。
全国のシャッター商店街をよみがえらせるきっかけを、この別府でスタートできたら」
と佐東さん。

このプロジェクトを実現するのに白羽の矢がたったのが、
東野祥子さんとその仲間のアーティストたち。
東野さんはダンサーで振付家だが、映像や美術、音楽なども含めた舞台表現を
チームでつくり上げている。楠銀天街を劇場化するにあたり、
彼女たちは、廃棄物を装飾品として生まれ変わらせることを提案。
別府中の業者を回り、廃棄物を収集、それらを商店街に持ち込んで、
空き店舗や通りにさまざまなオブジェをつくり続けている。
これらのオブジェは会期中も増え続ける予定で、会期末の12月1、2日の両日に、
音楽や映像も使ったダンスパフォーマンスが、楠銀天街全体を舞台に繰り広げられる。

それにしても、若者たちがいきなり商店街に廃材を持ち込んで作業していたら、
近隣の人たちに不審がられないだろうか。
最初はそんな懸念もあったようだが、珍しそうに見ていた近所の人たちは、
やがて彼女たちに話しかけ、そのうち自分の人生を語り出すおばあさんや、
1日3回も差し入れしてくれる人まで現れたそうだ。
これぞアーティストの力というべきか。

楠銀天街劇場では音も重要な要素となる。
アーケードの天井にはかつては賑やかに鳴っていたであろうスピーカーがあったが、
もう長いこと音楽は流れていなかった。
今回、断線していた配線をつなぎ直したところ、ちゃんといい音が出たという。
佐東さんは「切れていた線をつなぐだけで、もう一度すばらしい音が出る。
こういうことがやりたかった」と話す。

かつては別府で最大の賑わいを見せた楠銀天街。ここがまるごと舞台となる。

別府市近郊から廃材を集めて制作。空き店舗の中でもさまざまなオブジェが展示されている。

夜になるとオブジェが怪しく光りだし、異空間を生み出す。

左から、音楽と演出を担当するカジワラトシオさん、振付と演出を担当する東野祥子さん、美術を担当する長田道夫さん(OLEO/R type L)。

「永久別府劇場」は、かつて「A級別府劇場」というストリップ劇場だったが、
建築家グループ「みかんぐみ」のリノベーションにより、新たな劇場に生まれ変わった。
ここでは会期中の毎週末、さまざまなアーティストが登場する
「混浴ゴールデンナイト!」を開催している。
コンテンポラリーダンスからベリーダンス、フラメンコまで
バラエティに富んだアーティストが出演するが、
ちょっと珍しいのが、昔ながらの金粉ショー。
体中に金粉をまといパフォーマンスをする金粉ショーは、
かつては温泉地やキャバレーなどで行われていたが、現在はあまり見られない。

実は佐東さん自身、80年代から90年代にかけ
舞踏グループ「白虎社」のメンバーとして活動していた時代に、
金粉ショーをやっていたそう。
「昔はいまのように助成金もありませんから、
自分たちの公演のためのお金は自分たちで稼いでいました。
アングラ演劇といわれる人たちの収入源、
またダンサーとしての身体性を鍛える場でもあった金粉ショーを、
復活させてみようと思ったのです」
もともとストリップ劇場だった空間で、
さまざまな身体表現が見られるというのも面白い。
金粉ショーは「混浴ゴールデンナイト!」の全日程で見ることができる。

「ファサードには、新しい作業が始まるという意味もこめて単管パイプを使った」と、みかんぐみの曽我部昌史さん。パフォーマンスは金・土・日だけ開催だが、月・火・水も館内は見学できる(木曜休館)。

「The NOBEBO」による昔ながらの金粉ショー。きらびやかで妖艶なパフォーマンス。

多様な文化が、別府のまちをつくる。

今回の混浴温泉世界で、最も目につく場所で行われているのが、
別府のランドマークである別府タワーを使ったプロジェクト。
アーティストの小沢剛さんによるこの作品は、
タワーに灯る「アサヒビール」のネオンの文字が、
さまざまな組み合わせにより言葉を紡ぎだすというもの。
それは単に「アヒル」とか「ビル」といった日本語の言葉遊びではない。
私たちには理解できなくても、そこにはさまざまな言語の単語が潜んでいるのだ。
港町である別府は昔から外国人の流入も多く、
現在は立命館アジア太平洋大学(APU)という、
在籍学生の半数近くが留学生という大学もある。
多くの言語、多くの文化が共存する別府の多様性を、
別府のランドマークを使って表したのだ。
昨年の年末から今年の年始にかけて、家族とともに
別府に「生活するように」滞在し、リサーチをしていた小沢さんは、
ある日の夕暮れ、別府タワーのネオンが灯る瞬間を見たときに、
今回のアイデアがひらめいたそうだ。

タワーのネオンは日没から点灯するが、昼間も小沢さんの作品が楽しめる。
商店街でも何かやりたかったという小沢さんは
「やよい商店街」と「ソルパセオ銀座商店街」というふたつのアーケード街で
タワーの「見立て細工」を制作した。
「見たて細工」とは、日用品を組み合わせるだけで造形物をつくるもので、
別府市の浜脇地区で開催される歴史あるお祭り「べっぷ浜脇薬師祭り」では
「風流見たて細工」が名物となっている。
今回は商店街の18店舗に、お店にあるものを用いてタワーを出現させた。
お店の人たちも協力してくれ、このユニークなタワーを楽しんでくれているようだ。

今回の一連の作品に、小沢さんは《バベルの塔イン別府》というタイトルをつけた。
「思い上がらず、向かい合うのが大切」という小沢さんの言葉が印象的だ。

混浴温泉世界の初日、10月6日に、
小沢さんと作曲家の安野太郎さんのコラボレーション
「世界混浴タワー合唱団」によるパフォーマンスが行われた。
ネオンに現れるさまざまな言葉をつないだ歌詞と、安野さんによる曲で合唱曲がつくられ、
それを多人種からなる世界混浴タワー合唱団が、別府タワーで合唱するというもの。
鑑賞者は、タワーの合唱団員の姿が見えるホテルの屋上から
「ワールドプレミア」となる公演を楽しんだ。
歌声は設置されたスピーカーを通してだったし、
当然、合唱団のメンバーの表情までは見えない。
それでも、こちらとあちらで手を振り合ったときは、何か相通じるものがあった。
見えなくても、みんなが笑顔であることは、はっきりとわかった。

アイスクリームのコーンでつくったタワー。

喫茶店のサンプルケースにも。

八百屋にもこんなタワーが出現。

歌詞に合わせてネオンが灯る。11月10日(土)にも「世界混浴タワー合唱団」のパフォーマンスが行われる。

一過性でなく、継続していくプロジェクトへ。

混浴温泉世界のキュレーターのひとりである住友文彦さんはこう語る。
「僕はアートでまちおこしができるとは思っていません。
いま日本中で幻想のように言われていることに対して、
敢えてそう思っていないところがあります。
ただ、こういうアートプロジェクトが行われることで、
まちが変わるということはあると思います。
でもそれは、アートが変えるのではなくて、
アーティストが持っている特殊な能力、
観察力であったり考え方をかたちにしていく技術、
そういうものに地域の人たちが触発されて、何か創造的なことに関わっていく。
そういったことでまちが変わっていくということがあるかもしれない。
一過性のイベントではなくて、
ずっと地域の人たちが関わっていけるような場所、あるいは組織ができていくと、
このプロジェクトは次のフェーズをつくっていけるのではないかと思います」

2009年の混浴温泉世界の開催後、混浴温泉世界の実行委員が中心となり、
市民参加の芸術祭「ベップ・アート・マンス」を毎年開催してきた。
3年ごとに著名なアーティストを招聘する混浴温泉世界とは別に、
さまざまな展示やワークショップなど多くのイベントがまちのいたるところで行われ、
今年も混浴温泉世界と同じ会期で開催される。まちをあげての文化祭といった趣だ。
また前回の混浴温泉世界の「わくわく混浴アパートメント」という企画がきっかけとなり、
清島アパートという古いアパートが、アーティスト・イン・レジデンス施設として、
現在も機能している。実際にそこで暮らすアーティストもいれば、
アトリエとして部屋を使っているアーティストおり、もちろん展示も行われている。
これまで多くのアーティストたちがここで滞在制作をし、出入りしてきた。
このように、混浴温泉世界というアートフェスティバルが、
まちに何らかの変化をもたらしたことは事実だ。

清島アパートでお米を使った作品を展示している安部寿紗さん。かかしのポーズ。

別府のようなまちが、ほかにもできていくとさらに面白いことになるのではないか。
大分県では次のプロジェクトも始動している。
それが国東半島で行われる「国東半島アートプロジェクト2012」だ。
古来からの豊かな自然や神仏習合の文化が残るこの土地を舞台に、
秋期は11月3日から11月25日まで、ふたつのプロジェクトが展開する。
茂木綾子とヴェルナー・ペンツェルによるアーティストユニット「ノマド村」と
画家の千葉正也による「いえをつくる」プロジェクト。
もうひとつは、美術家で演出家の飴屋法水と、小説家の朝吹真理子、
音響エンジニアのzAk、料理家の長谷川ヒヨコらによる
「アートツアー」のプロジェクト。別府と合わせて訪れるのもよさそうだ。

場所が持つ力、アーティストが持つ力。
それらがかけ合わされたとき、まちは変わるのかもしれない。

国東半島・豊後高田市の「田染荘(たしぶのしょう)」。ここでは中世の荘園時代の景観が守られ、受け継がれてきた。

「三人よれば文殊の知恵」の発祥地といわれる文殊仙寺の十六羅漢像。国東には古刹や遺跡が多く残る。

別府現代芸術フェスティバル2012 混浴温泉世界〈前編〉

別府に、かりそめのユートピアを。

大分県別府市で12月2日まで開催されている
別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」。
2009年に続き第2回目の開催となる今回は、国内外の著名なアーティストを招聘し、
別府の市街地を中心に8つのプロジェクトが展開中。
商店街やデパート、別府のランドマークともいえるタワーなどが舞台となり、
別府の日常の風景がいつもと少し違う表情を見せている。

「混浴温泉世界」とは少々奇妙なタイトルだが、総合ディレクターの芹沢高志さんは、
これはフェスティバルのタイトルであると同時に、コンセプトでもあるという。
「私自身が別府という土地にとても惹きつけられました。
別府に来て間もない頃、混浴の露天風呂に入ったのですが、温泉に浸っていると、
年齢、性別、民族、国籍、宗教、そういったものがどうでもよくなり、
ひとりの人間として素っ裸になって、他人と時間を共有していることに気づきました。
でも温泉はずっと入っているとのぼせますから、出たり入ったりする。
次に入ったときには、同じ人と時間を共有できるかわかりません。
百数十年前に港ができて以来、別府にはさまざまな人が流入し、
いまも観光客が滞在しては出て行きます。
かりそめではありますが、混浴温泉のように
人々を分かつバリアを取っ払ってしまうような、ユートピア的な世界を
別府に浮かび上がらせることができたらと思っています」

中心市街地からちょっと離れた鉄輪(かんなわ)地区は、
まちのあちこちに湯けむりがたち、日本有数の温泉地である
別府の象徴的な風景が広がる。この地区に、巨大な竹の彫刻が出現。
中国のアーティスト、チウ・ジージェの作品だ。
別府は古くから竹細工が盛んであり、竹はなじみのある素材。
中国でも竹は身近な素材であり、今回は中国の竹細工の職人の手によって
作品が制作された。別府では温泉の冷却装置に竹が使われており、
今回はその装置と並ぶようにして作品が展示されている。

チウ・ジージェ《そうして物事は日夜流れていく》。このほか、ローマ遺跡の柱をモチーフにした作品も。

滝の中に人面が浮かび上がるようなイメージ。中国の竹細工の職人によって編まれた。

温泉の温度が高すぎるので、竹を使ってお湯を冷ましている。

鉄輪地区はまちのいたるところで温泉が湧き、湯けむりがたっている。

まちの人たちが日常的に入る無料の温泉も。

鉄輪を散策。手前の不揃いの石畳は、明治時代のものをそのまま残している。

市街地の地下街でも作品を展示しているシルパ・グプタの作品《どこでわたしはおわりあなたははじまるのか》。夜にはLEDのサインが灯る。

別府の自然と歴史にふれて。

世界的アーティスト、クリスチャン・マークレーは、
別府国際観光港エリアの餅ヶ浜桟橋で作品を展開。
100本ののぼり旗につけられた鈴が風にはためき、音を奏でるインスタレーションだ。
のぼり旗にプリントされたイメージは、水と火。
温泉地である別府の象徴的な自然のイメージが、もうひとつの自然、風によって揺らめく。
「80年代に日本を訪れたとき、のぼり旗が目について、
いつか作品に使いたいと思っていました。
私のアイデアは日常の端的なものから生まれ、見る人の反応を含めて表現となります。
見に来てくれる人の存在が、表現の意味を変えていくのではと思っています」
とマークレー。この桟橋は、バブル期には豪華客船が停泊していた
にぎやかな場所だったそうだが、現在ではそれほど人は多くない。
久しぶりにこの場所を訪れてみる地元の人も少なくなさそうだ。

歩きながら体感するマークレーのインスタレーション《火と水》。その日の風によって体験が異なってくる。

《The Clock》で世界を驚かせたマークレー。同作は2011年のヴェネチアビエンナーレで金獅子賞(最高賞)を受賞。

別府最大級の商業店舗「トキハデパート」。
別府の人々が日常的に買い物に訪れるこのデパートの1フロアを異空間に変えたのは、
イギリス出身で、ベルギーで活動するアーティスト、アン・ヴェロニカ・ヤンセンズ。
売り場としては使われておらず、物置のようになっていた5階を
まるごと展示に使っている。
暗く広々とした空間に、光や霧が放たれる体験型のインスタレーション。ヤンセンズは
「初めて別府を訪れたとき、自然の印象を強く受けました。
そして水や光、蒸気といった流体は、私に合ったテーマでした。
デパートというのは非常に具体性の強い場所なので、
それに対して物質性の薄い霧や光、空気を中心にした作品にしようと考えました」と話す。

インド出身のアーティスト、シルパ・グプタは、地下街を作品の展示場所に選んだ。
地下街といっても、狭い入り口から続く階段を降りると、
うなぎの寝床のように細長いスペースが広がり、こんなところに、と思うような場所だ。
戦後は小さなバーなどの飲食店が軒を連ねていたが、
昭和40年代にはすべての店が撤退し、閉鎖されていた空間。
地下への階段を下りていくと、部屋の奥に不思議なオブジェがあり、
その中から女性の声が聞こえてくる。
それは、ともするとかき消されてしまいそうな、弱き者たちの声かもしれない。
グプタはこう話す。
「別府の歴史についていろいろな話を聞いたなかで、
心に残ったのは、娼婦と子どもたちの話でした。
私が最近子どもを産んだばかりということも関係あるかもしれません。
地下というスペースは、人間の心や欲望を表すのに適していると思いました。
愛、欲望、母性……自由にさまざまなことを感じてもらえればと思います」

デパートを展示空間にしたヤンセンズ。人工的な光を使った作品と、窓のように自然光を切り取った作品が1フロアで展開されている。

商店街の一角、狭く暗い階段を下りていくとグプタの展示が。バーの古い看板がそのまま残っていた。

別府温泉発祥の地といわれる浜脇地区。
その一角にある築100年を超える長屋に作品を展開したのは、
現在はミラノに活動拠点を持つ廣瀬智央さん。
浜脇は再開発が進み、ところどころに大きなマンションが建つが、
その中に残るひっそりとした長屋の空き家を、
地元の建築家とともに作品として再生させた。
まず待合室のような部屋に入ると、カボスのいい香りに包まれる。
ふと見上げると、天井に張られた薄い膜にカボスが置かれている。
カボスは大分の名産品。地元の人にしてみると珍しくない食材が、
ここでは少し違って見えるかもしれない。
隣の建物に入ると、青いビー玉が敷き詰められた部屋があり、
それを上から見下ろすことができる。
空が反転したような《天空の庭》と題されたインスタレーションだ。廣瀬さんは
「浜脇は別府発祥の地であると同時に、色町でもあった。光と闇、聖と俗のように
相反するものが共存するような世界を表現できればと思いました」と言う。
また、廣瀬さんはインスタレーションだけでなく、
近辺のウォーキングのコースも提案する。
「僕の作品を見たあとに、浜脇というまちを実際に見て歩いていただき、
僕の体験を鑑賞者にも追体験してもらえたら」
どの作家も場所に向き合い、地域の人たちの協力を得て制作に臨んだ。
訪れる人が、その土地を知るきっかけになったり、
忘れられた場所にもう一度目を向けるようなプロジェクトが、
別府のあちこちで展開されている。

後編に続く)

《カボスの家》天井。この部屋で、フレッシュなカボスの果汁を搾った水をいただき、ひと休みできる。

長屋の中に置かれたカボスの木。浜脇地区には、戦災を免れた古い長屋や、遊郭だった建物も残る。

会津・漆の芸術祭2012 カキコ隊レポート Part2

会津若松市と喜多方市で開催されている「会津・漆の芸術祭」。
会津に古くから伝わる素材である漆を使って、
福島県内外の作家や職人、学生たちがさまざまな作品を展示。
3回目となるこの芸術祭を、ボランティアスタッフ“カキコ隊”のひとりが、
全3回にわたりレポートします。

会津とほかの地域を、漆がつなぐ。

みなさんは、いわゆる「芸術祭のボランティアスタッフの仕事」というと、
どのようなイメージを持たれるでしょうか?
ポスター・チラシの配布、会場での来場者案内など、
開催直前あるいは会期中の活動を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。
私自身も、昨年「会津・漆の芸術祭2011」をお手伝いするまでは
そのようなイメージを持っていました。
もちろん、それらも大切な仕事ではあるのですが、
ボランティアスタッフの最も重要な仕事、それは「掃除」なのです。
そもそも芸術祭というもの自体が、みなさんに作品をご覧いただく開催期間だけで
でき上がっているわけではなく、まずは作品搬入前に掃除、
会期が終われば使用前よりもきれいな状態でお返しできるように掃除、
まさに「掃除に始まり、掃除に終わる」ものであるからなのです。

そこで、今回まずご紹介したい展示会場は、喜多方エリアの三十八間蔵。
荒物を扱う嶋新商店の、店舗蔵から敷地奥へと
その名の通り三十八間にわたって連なっている蔵のうち、
2号、3号、4号と3つの商品蔵をお借りした大きな会場です。
以前は、近隣の農家が農閑期に作った笠や籠などの
燃えやすい商品を保管する蔵だったそうなのですが、現在は使われておらず、
漆の芸術祭が蔵の内部を見学できる貴重な機会となっています。
つまりは、蔵内部の掃除ができるのも漆の芸術祭が貴重な機会。
これは、なかなかやりがいがあります。
まさに久しぶりの蔵開きとなった使用初年度の昨年は、
マスクをしていても鼻のまわりが黒くなるほどの埃の中、丸二日がかりの大掃除でした。
2年目である今年でも、再び積もった埃と格闘すること一日半。
まだ夏の暑さが残るなか真っ黒になって掃除をする作業は、
カキコ隊同士が親交を深める重要な機会でもあるとともに、
こうして汗を流して掃除をした会場には深い思い入れができ、
さらにはそこに展示されている作品にも、自然と愛着がわきます。
これぞカキコ隊として参加したからこそ味わうことのできる、
漆の芸術祭の楽しみ方ではないかと思うのです。

明治時代創業の荒物を扱う嶋新商店の、三十八間の長さに連なる蔵。一間=約1.8メートルなので、約68メートル。

掃除中の三十八間蔵(2号蔵)のようす。9月の上旬、まだ連日30℃を超える暑さのなかでの作業でした。

現在、三十八間蔵(2号蔵)に展示されているのは、金沢美術工芸大学喜多方三十八間蔵プロジェクトチームによる「the realm of mind」。

ここ三十八間蔵だけでも、写真で紹介した金沢美術工芸大学のチーム以外に、
秋田公立美術工芸短期大学熊谷研究室作品が展示されているなど、
喜多方市内の会場には全国の大学からの研究室単位での参加作品が多く展示されていて、
喜多方エリアのひとつの特徴となっています。

三十八間蔵からほど近い大和川酒蔵北方風土館にも、3点の大学プロジェクト作品。

富山大学芸術文化学部うふふ研究室「う・ふ・ふ~うるし ふるさと ふくしま~」。干支と花カルタをモチーフにした作品群。作品を見て何気ない幸福感「うふふ」を感じてもらい、それが未来への活力になることを願っているとのこと。

金沢美術工芸大学大和川酒蔵良志久庵プロジェクトチーム「命あるもの」。樹皮を傷つけられ自らを守ろうと滲み出す漆液に生命を感じ、芽吹く、起き上がる、伸びる、増殖するをキーワードに制作した作品。

こちらの2作品は、同様に大学単位のプロジェクトチームによる参加でありながら、
大型の作品を中心に「命」という重厚なテーマを取り上げた金沢美術工芸大学と、
さまざまなサイズの作品を織り交ぜて、色合いもカラフルに
「うふふ」と軽やかに表現している富山大学と、
対照的な作品群となっているのが興味深く、
漆塗りの持つ重厚さと温かさという両面が表されているのではないかと思うのです。
もうひとつの参加大学チームは福島大学渡邊晃一研究室。
絵画や彫刻を表現手段とする先生と学生たちが、漆に挑戦した作品と
漆の漉し紙をつかったワークショップ作品が展示されています。
そして、前回のレポートで取り上げた会津若松エリアの中学生高校生の参加同様、
このように、全国で漆について学び、漆文化を伝えようとする若者たちがいることに
勇気づけられます。

おいしい芸術祭。

さて、前回の会津若松エリアでは、
「触れて、体験して、身近に感じる芸術祭」をご紹介しましたが、
喜多方エリアでは「触れて、食べて、おいしい芸術祭」をご紹介。

大和川酒蔵北方風土館から歩いてすぐにある「食堂つきとおひさま」では、
協賛事業として「漆の器 おもてなしごはん」を提供中。
会津塗の器にて、無国籍料理をいただくことができます。
この企画で使われている器は、明治時代に会津でつくられ、
会津の古い商家で使われていた四つ椀(入れ子になった4客1組の椀)をモデルに、
現代の漆職人たちが制作したもので4種類あります。
4組の木地師と塗師による、それぞれの個性も楽しいところ。
漆塗りの良さは、実際に手に取り使ってみて伝わるものだと思っています。
肉、魚、野菜とバランスのとれたおいしいご飯とともに、
ぜひ漆器の手触りをお楽しみください。

「食堂つきとおひさま」のおもてなしごはん。この日のメニューは、豚とキャベツの味噌炒め、鯖の南蛮漬け、水菜のサラダ、刺身こんにゃくと野菜のわさび和え、大根おろしののった具だくさん卵焼き、十穀米、味噌汁。1000円。
住所:福島県喜多方市字寺町南5006番地 電話:0241-23-5188 営業時間:12:00~21:00(LO 20:00)*おもてなしごはんは12:00~14:30、17:30~21:00、なくなり次第終了 定休日:木曜日、第1水曜日 http://tukitoohisama.com

もう一つご紹介する「おいしい芸術祭」は、
やはり大和川酒蔵北方風土館から歩いてすぐ「お休み処 蔵見世」にて。
昨年3月12日に長野県栄村を襲った地震によって崩れた土蔵から、
喜多方を含む会津地方で作られた漆器が見つかり、
長野県で活動する「地域資料保全有志の会」によって救出、保全されました。
それらの漆器が漆の芸術祭をきっかけに里帰りをし、
こづゆやそば、鰊の田楽といった会津の郷土料理を盛り付けた
「里帰り喜多方御前」(1000円)として、蔵見世にてお楽しみいただけます。
ただし、こちらは不定期での提供となっているため、
お休みの日に当たっちゃったらごめんなさい。
そんな「里帰り喜多方御前」がお休みの日でも、
里帰りした漆器たちはご覧いただくことができます。
蔵見世2階にて展示されていますので、食事でのご利用がない方もお気軽にぜひ。

栄村で暮らしていた漆器たちの「里帰り」展示作業中。カキコ隊も作業をお手伝いしました。右側は震災後の崩れかけた蔵の中のようす、左側はハレの日の準備のために並べられるようすをイメージ。

このように、漆の芸術祭では、営業中の飲食店や漆器店なども、
数多く会場として利用させていただいています。
「食事しないし」「買い物しないし」と躊躇してしまいがちですが、
作品鑑賞のためだけの入店ももちろん歓迎。各店舗からも
「これを機会にお店のようすを知っていただき、次回のご利用につなげていただければ」
との声をいただいておりますし、来場者から
「気になっていたお店に足を運ぶ機会になって楽しい」との感想もきかれます。
冒頭の三十八間蔵のように普段は公開していない建物の内部など、
作品鑑賞だけではなく、まち並みや展示会場となっている建造物そのものを
ご覧いただくのも「会津・漆の芸術祭2012」の楽しみ方のひとつだと思いますので、
ぜひ会津をまるごと体感してください。

Aloha Amigo! フェデリコ・エレロ×関口和之

美術館で行われるウクレレプロジェクト。

金沢21世紀美術館で開催されている「Aloha Amigo! フェデリコ・エレロ×関口和之」。
2012年5月3日から2013年3月17日にわたり開催されているこのプログラムは、
同美術館が行っている「金沢若者夢チャレンジアートプログラム」の一環。
18歳から39歳までの若者に、ワークショップなどを通じて
芸術活動への参加の機会を提供するプロジェクトで、個性豊かなアーティストを招聘し、
長期にわたり地元の若者たちとの協働によって作品を制作していく。
昨年度はイギリスの若手アーティスト、ピーター・マクドナルドを招聘して
制作と展示をしたが、今回はなんとウクレレがテーマ。
サザンオールスターズのメンバーでウクレレ奏者として有名な関口和之さんと、
コスタリカ出身の美術家フェデリコ・エレロのコラボレーションにより、
音楽と美術の世界が融合したプロジェクトを展開している。

それにしても、美術館のプロジェクトでなぜウクレレ? 
このプログラムを企画したキュレーターの村田大輔さんは
「関口さんという、ウクレレの演奏活動のみならず、
ウクレレを通して人々の和を創出してきたアーティストに注目しながら、
音楽の演奏行為にプロジェクトの軸を据えました。
人が音を奏でるという行為と造形芸術も含めた芸術表現の本質を関連づけ、
その意義を考察することが目的です」という。
関口さんいわく、ウクレレは習得しやすく、かわいらしく、
そしてコミュニケーションのツールとして文化を超えて浸透してきた楽器。
楽器を手にし、音を奏で、聴き、自らの身体や意識を再発見するなかに、
重要なものが秘められているのではないかというのが、このプロジェクトの趣旨だ。

エレロは、金沢21世紀美術館とまちをつなぐ「アートバス」の
ボディのデザインも手がけていて、美術館とは密接な関わりがあった。
彼ならウクレレ音楽の世界をうまく空間に表現してくれるのではないかと相談したところ
「自分の表現は音楽的で、開かれていて、
こうしたプロジェクトをやってみたいと思っていた」と快諾。
そこから関口さんとのやりとりが始まり、本格的にプロジェクトがスタートした。
自分の故郷であるコスタリカ、関口さんが活動しているハワイ、
そして日本に共通する「火山」をモチーフとし、巨大なステージ状のオブジェを創出。
この展示空間は《サイコトロピカル・ランドスケープ》と名づけられ、
現在、アーティストと鑑賞者、そしてプロジェクトのメンバーをつなぐ場所となっている。

展示空間でもありステージともなる《サイコトロピカル・ランドスケープ》。エレロの作品は、金沢21世紀美術館に所蔵もされている。

音楽がつなぐ人と人。

このプロジェクトに参加しているメンバーは46名。
彼ら、彼女らは展示室でウクレレを奏で、鑑賞者にウクレレを教える
「ウクレレフリーステージ! 誰でもウクレリアン」プロジェクトを毎日行っている。
鑑賞者は聴くだけでなく、自ら演奏することもできるのだ。
そこでは日々、自然とコミュニケーションが生まれることになる。
日々の体験プログラムのほか、メンバーは毎月定期的に練習会を開き、
演奏会も行っている。展示室だけでなく、湯涌温泉や近隣の老人保健施設でも
コンサートを開催するなど、美術館の外に出た活動を展開中だ。
メンバーたちは、このプロジェクトのなかで
自信と誇りを得ている、と村田さんは感じている。
「鑑賞者とともにメンバーたちもウクレレを楽しみ、自らも何かを学んでいます。
あるメンバーが、“ここは音楽教室ではない。少々音が外れていても、
リズムがおかしくてもオッケー”と言っていたのがとても印象的でした」

自由にリラックスしてウクレレを体験してもらい、音を奏でる楽しみを知ってもらう。

さる8月26日に、「Aloha Amigo! ウクレレサミット」が開催された。
美術館の広場に特設されたステージに、プロアマ問わず
19組のウクレレバンドやフラチームが登場し、多くの来場者がその音色を楽しんだ。
関東から「U900」「JazzoomCafe」「岡田央」など
日本を代表するようなウクレレバンドが参加したほか、
地元の病院スタッフによるグループや、メンバーがふだん活動しているバンド、
子どもたちによるウクレレオーケストラなどが出演。
終盤には、関口さん率いる「関口和之バンド」が登場して、会場を楽しく盛り上げた。
最後はメンバーによる演奏。「幸せなら手をたたこう」をサンバ風にアレンジした、
Aloha Amigo!オリジナルの「幸せのAloha Amigo!」で幕を閉じた。

メンバーの表情はとても楽しそうで、終了後の
「音楽ってこんなに楽しいんですね! もっと演奏し続けたかった!」
というメンバーの言葉が忘れられない、と村田さん。
今後も、メンバーによるウクレレステージやさまざまなワークショップが開催される。
もちろん「ウクレレフリーステージ! 誰でもウクレリアン」は会期中、閉場日を除き毎日開催。
美術館で楽器を介して行われるプロジェクトに、今後も注目だ。

「手のひらを太陽に」「南の島のハメハメハ大王」など、おなじみのメロディも。

天気にも恵まれ、芝生の上でリラックスしながら楽しむ来場者たち。晩夏の夕暮れは気持ちいい。

関口和之バンドのステージでは口笛奏者の分山貴美子さん(写真右)による口笛の吹き方講座も。

会津・漆の芸術祭2012 カキコ隊レポート Part1

会津若松市と喜多方市で開催されている「会津・漆の芸術祭」。
会津に古くから伝わる素材である漆を使って、
福島県内外の作家や職人、学生たちがさまざまな作品を展示。
3回目となるこの芸術祭を、ボランティアスタッフ“カキコ隊”のひとりが、
全3回にわたりレポートします。

触れて、体験して、身近に感じる芸術祭。

10月6日から始まり11月23日までの期間で開催されている「会津・漆の芸術祭2012」。
お手伝いする我々ボランティアには、「カキコ隊」という愛称がつけられています。
これは、漆の木から漆液を掻く職人さん「掻き子」にちなんでいて、
日々、会津の、漆の芸術祭の、アートの樹液をせっせと掻き集めております。
さて、そんなカキコ隊の一員である私が、
漆の芸術祭という幹から掻きとってお届けしたいエッセンスは
「触れて、体験して、身近に感じる漆」について、です。

会期中、私たちカキコ隊がおもに活動しているのは、二丸屋山口商店七日町店。
来場者のご案内をしたり、シールラリーの景品をお渡ししたりしています。
この会場に展示されているのは、会津漆器技術後継者訓練校修了生有志のみなさんの作品。
訓練の一環として、通常、会津塗では使わないような手法や、
ちょっとユニークなデザインにチャレンジした作品を数多くご覧いただくことができます。
漆塗りというと、特別な日のためにあつらえられた
ちょっとかしこまった器を思い描く人も多いのではないかと思いますが、
ここに展示されている作品では、「こんな使い方ができるんだ」
「こんな表現があるんだ」と漆の意外な表情、カジュアルな一面を
発見していただけるのではないかと思います。

二丸屋山口商店七日町店展示室。木地に漆を塗った作品だけでなく、ガラス、陶器、卵殻、布、ひょうたんなど、さまざまな材料が使われています。

触って遊べるてんとう虫のおもちゃ箱は、来場した子どもたちに大人気。

会津では、このように訓練校などを通じて後継者育成も行われているのですが、
そこにつながる裾野の広がりとして、今年度はうれしい市民参加作品が2点。
会津工業高校チームによる「いのちのとりたち」(展示会場:中町グランドホテル)と、
会津学鳳中高美術部による「つなぐ+つながる(陶胎漆ボタン)」
(展示会場:あんてぃーくCafé中の蔵)。
どちらも初めての漆体験。これをきっかけに、
会津の若者たちが地域に根づく漆文化に興味を持って、
担い手あるいは語り手となってくれることに期待です。
そして、学鳳中高作品は、来場者の皆さんにさまざまなかたちに切り取られた和紙を、
漆で彩られた木製や陶製のボタンにとめていただく参加型作品でもあります。

会津工業高校チーム「いのちのとりたち」。塗料は代替漆のカシューを使用。

会津学鳳中高美術部「つなぐ+つながる(陶胎漆ボタン)」。土台はコーヒーで染められたキャンバス。陶、木、漆、キャンバス、和紙とそれぞれの手触りも楽しめます。

このような参加型作品は、ほかにもまだまだ。
会津・漆の芸術祭は、カキコ隊のようなボランティアとしての参加、
中学生高校生のような作品展示での参加、そして、来場者の皆様にも参加いただいて、
初めて完成する芸術祭なのです。

そこでご紹介したいのは、会津若松市のメインストリート、中央通りからもすぐ目に入る
b Prese蔵舗前の作品2点。まずは、ウルシオールによる「あしあと」。
漆が何層にも塗り重ねられたパネルを紙やすりで研ぐと、漆の色層が現れるというもの。
ぜひオリジナルなあしあとを、漆の芸術祭に残していってください。

ウルシオール「あしあと」。いつでも体験いただけるよう、パネルも道具も店舗の外に用意されています。お気軽にどうぞ。

そして、会津漆器協同組合青年部によるウォールアート「天空の刻」。
駐車場の板塀に黒い漆を塗り、会津も関わりのある小説・映画『天地明察』を
イメージした蒔絵が施されています。
ここで体験いただけるのはスタンプを使った蒔絵。
通常の漆器づくりの中でも使われている手法で、
漆の芸術祭のオープニングセレモニーでは、テープカットの代わりに
来賓の方々にスタンプを押していただきました。
この作品は、みなさんのスタンプした金の星、銀の星によって、
漆の黒い空に天の川が描き出される予定です。
そして、こちらの体験は、現役の職人として活躍している
青年部のメンバーがお手伝いしますので、漆に関するあれやこれや、
漆器制作に関わる現場の声を直接聞く機会にもなるかと思います。
ぜひぜひ積極的に声をかけてみてくださいね。

会津漆器協同組合青年部 漆のウォールアート「天空の刻」。今回は青年部会長の小沼さんに教えていただきながら体験。毎週日曜日(10月28日を除く)および11月23日(金・祝)の10:00~17:00に体験できます。

さて、最後にカキコ隊の活動をもうひとつご紹介。
3年目の漆の芸術祭、今年はもう一段階深く参加しようと、
会場内に「カキコ隊情報スペース」を作りました。
カキコ隊からのお勧めなどとともに、協賛イベントなどのチラシも設置してありますので、
漆の芸術祭に関する情報がまとめて収集できる場所のひとつでもあります。
会津若松市内、七日町通りの太郎焼総本舗2階にありますので、
作品鑑賞のまち歩きに疲れたら、ちょっとひと休みついでにのぞいてみてください。
そして、漆の芸術祭や会津についての感想など、書き残していただけたら幸いです。

太郎焼総本舗2階。奥がカキコ隊情報スペース。手前の展示作品は千葉奈穂子さんの「2011年、東北の記憶を千年先まで残すために(サイアノタイプ写真)」。

土祭だより まとめ

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

「ヒジ」の音がめくるもの

ずいぶん、だいそれたことをしようとしたものだ。
益子に滞在し、土祭をリアルタイムでレポートしたいというのは
自分から言い出したことだったが、実際はじめてみると、
あらゆる意味でそれは簡単なことではなく、日を追うにつれ、
わたしのなかではそのような申し訳なさとも情けなさとも言える思いがひろがっていった。

気づきと喜びばかりの2週間であった。
それは土祭という、とくべつな出来事からにかぎらず、
益子という共同体、そこに暮らす人やふくよかな自然、
さらには、このまちの重要な「極」をなすスターネットという場からも
降り注ぐように届けられたもので、わたしという器は、その恵みをぜんぶ受けとめ、
それをまた十全に誰かに送り返すためには、カラッポでありすぎたのである。
つまり、自分のなかに留まったままになっているもののほうが
排出できたものよりずいぶんと多くて重くて、レポーターとしては、
失格と言っていいのかもしれない。

おそらくは自分がいまもっとも必要としていたもの、
問いに対する答えのヒントのようなものが、凝縮してそこにあった。
だから、渇いた土に水が滲みいるように深いところまで浸潤し、
わたしはそれにまだ名前をつけることができないでいる。
ぜんぶを書けたわけではないし、こんな抽象的な言い様は
おおげさに思われてもしかたない。
自分でもわかっているのは、その水がとても清らかで、栄養分に富んでいるということで、
わたしの内面はすでに養われはじめている。
水は、細く光りながら流れ、自分のゆく先の道筋をもつくりはじめているのを感じている。

9月30日。
夜空に浮かぶ満月で幕を閉じるはずだった千秋楽は、
台風接近のニュースを受け、急遽時間をくりあげて午後3時からの開始となった。
演出をつとめた馬場さんは、一時は旧濱田邸に舞台を移しての開催も検討されたようだが、
やはり土祭の象徴ともいえる土舞台を使いたいと考え直し、
時間変更という苦渋の決断をされた。
満月は、天気予報によれば、とうに絶望的になっていた。
「こういうことに、なっていたのかな」
残念ですね、と声をかけたとき、馬場さんはじっと前を向いたまま、
ぽつりとそうつぶやき、わたしは返す言葉が見つけられなかった。
「でもまあ、それはそれで。重要なのは、土舞台で朝崎さんが唄うということだから」

益子の各所で採掘した土を地層状に重ねた土舞台の壁は、前回の土祭で、
カリスマ左官の狭土秀平さんの指揮下、みんなでつくりあげたものである。
震災後の春に益子を訪ねたとき、馬場さんはわたしを駅から直接この場所に案内し、
「地震のあと、まずはこれが崩れていないか確かめに来たんですよ」と言っていた。
馬場さんにとって、これがどれだけ大切なものであるかということだ。
「みんな、足もとの地下にこんなふうに何億年かけて
連綿と積みあげられてきた歴史があることを、すっかり忘れて生きている。
これを見ることで、それを思い出してもらえればと考えてつくったのだけど、
そこに今回の地震でしょ。
………大地も、地球も、生きているということですよね。
生きて呼吸をする生命体なんです」
今回、千秋楽を迎えるまで空白の三和土の舞台には、
スターネットの料理長である星恵美子さんの手で野菜や花が美しく飾りつけられていて、
馬場さんはそれを「よりしろ」だと言っていた。
よりしろ? 
その言葉がわからなかったわたしは、部屋に帰ってさっそく調べてみたわけだが、
「よりしろ=依代=神霊が現われるときの媒体となるもの」と辞書にはあり、
そこが風土の神々や精霊とつながる新たな装置であることを了知したのだった。

その聖なる装置で、前回の土祭にひきつづいて閉幕の儀のフィナーレを飾ったのが、
奄美島唄の唄者、朝崎郁恵さんだった。
「ウタシャ」という言い回しは初めて聞いたのだが、
それはまさしく「歌」ではなく「唄」であり、人の声という芸術、
あるいは神ごとであった。
宵の色という演出効果はなくとも、朝崎さんが一声を発したとたんに場が静まり、
ちいさな子どもすら口をぎゅっと閉じて舞台を凝視した。
「楽譜のない島唄を演奏してくれる、わたしのすてきな家族です」
とバンドのメンバーを紹介する朝崎さんは、柔らかな雰囲気の可愛らしい人で、
照葉の髪かざりに浅黄色の羽織、宮沢賢治が詩を書いた
「星めぐりのうた」を唄ってくださったときは、とてもうれしかった。

演奏会がはじまったときの青空に、しだいに予報どおりの鉛色の暗雲がたちこめ、
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちはじめたときはライブの終盤にさしかかっていた。
「だいじょうぶ。神様は待ってくれてます。いそぎましょう」
ほんとうに黒々としてきた雲の下で朝崎さんはにこやかにそう言うと、
さいごの一曲を熱唱。唄いおえてお辞儀―合掌―をするやいなや
大粒の雨が落ちはじめ、わたしたちは三々五々に席をたったのだが、
胸の奥では誰もが空にむけて一礼をしていたのではないか。
真上の空で準備万端、鼻息も荒い雷神風神に「待て」をしている神様の図を想像して、
わたしもひとり、くすりと笑ってしまった。

雷神風神は堰をきったようにそれから夜まで暴れまくり、
しかし真夜中すぎには雨もやんで雲がきれ、空には、まんまるの満月が輝いた。
ある人は、窓から差し込む月の光が強すぎて
目がさめてしまうほどだったと言っていたのだが、
わたしは、その光に気づくこともなく眠りこけていた。
つまりは土祭のほんとのフィナーレである満月を見逃したのであった。ああ。
その後、朝崎さんが言っていたそうだが、奄美大島では満月の大雨大嵐は
生まれかわること、次に新しきよきことを迎えられる吉兆と、
古くから語り継がれているのだそうだ。
そのうえ満月である。
これはもう最高の、ハッピーエンドということになるのではないか。

できれば会期中にしっかりと書きとめたかったのだが、
結局はたせなかったことがひとつある。
土祭を裏で支えたボランティアの働きについて、である。

はやくから役場のホームページで応募者をつのり、
町内、町外、首都圏からも集まったというボランティアの数は、のべ600人。
背中に縦書きで「土祭」とある揃いのTシャツを着た彼らの仕事ぶりは、
ほんとうに爽やかで献身的で、わたしはずっと頭が下がる思いで見ていた。
展示会場の受付、案内、ワークショップや講演会のヘルプにお茶出し。
開幕するまでの準備も、そうとう大変だったと思う。
展示会場となる古い建物の掃除から改装、
(簡易な組み立て式ではなく)竹と麻ひもでつくる屋台の設営、アーティストの補助、
一枚一枚心をこめて「書」でしたためた登り旗だけ見ても、はんぱな数ではない。

「しかたねえっぺ。おれらしか、できないしよ。まちのためって思ってな」
町役場で会った「益子・竹チーム」のおじさんに
「(設営)大変だったでしょう」と声をかけた答えが、これである。
「しかたない」は照れ隠しで、若者たちと一緒に何かができること、
技術や腕がまちのためにまた生かせることがうれしくてたまらないといった笑顔に、
土祭という新しい祭りが(馬場さんの言う)鍼灸効果をはたすのは、
場所に対してだけでなく人に対してもなのだと実感した。

ボランティアスタッフのための食事の世話は、
まちの料理上手なお母さんたちが、これまたボランティアでつとめ、
公民館が一時的に姿をかえたこの無料食堂は温かな、ほんとうにいい雰囲気で、
わたしはここに行くことを大きな楽しみのひとつにしていた。
「ひとりぶん、お願いしまーす」と厨房に声をかけて席につけば、
三角巾にエプロンのお母さんが「お疲れさまー」とその日の定食を運んできてくれる。
豚丼、カレーライス、おにぎり、開幕と閉幕の日にはお赤飯のごちそうも出た。
お米や野菜は農家の人たちが好意で提供してくれるもので、
山のように盛られたナスやキュウリのお漬けものは好きなだけ食べてよかった。
「ごはんのおかわりは? ほら、農家の人たち、自分たちが新米食べたいからってさ、
古いの、いっぱいもってきてくれちゃって(笑)」
お母さんたちとの他愛ないおしゃべりも楽しくて、
できることなら永遠にここで昼ごはんを食べつづけたいと、
わたしは本気で思っていた。

土祭が他の、いわゆるアートイベントと大きく一線を画すのは、
こういうところなのではないかと思う。
端的にいえば、お金のためだけでなく、多くの人が(町民も作家も参加者も)
みずからの自然発生的な意志や情熱によって動いているということで、
その無償の愛にも近い人間の思いが祭典を支える厚い層となっているのである。

数年前にフランスの修道院を取材したときのこと、
修道女とは世俗の人間関係に倦み、
神様とふたりきりになるためにその道を選ぶのだと思っていたのに、
「他者ともっと近づきたくて修道院の扉を叩いた」と言われ、おどろいたことがある。
それはどういうことかと訊ねてみると、そのシスターは白い紙に大きな円を描き、
その中心に黒い丸を打って、こう言った。
「この円周に人間がいて、真ん中に神がおられるとします。
神に近づこうとつとめる人間がふえればふえるほど、円はどうなりますか? 
そう、どんどんと小さくなって、人と人のあいだの距離も、
より近づきあうことができるのです」
だから神に近づく道はすべての他者に近づく道となり、
神に祈ることは、すべての他者のために祈ることになる、と彼女は言ったのだった。

少し話は違うのであるが、益子の人たちが土祭の成功という
ひとつの大きな目的に向かい、自分の労力と時間を惜しみなく捧げる姿に、
わたしは、シスターが図解してくれた、その円の収縮の話を思い出したのだった。
人と人の直接のつながりも尊いが、人を超えた何か大きなものが介在者となった絆は、
より堅固なものとなるのかもしれない。
神につながることで、人とつながる。
それが祭りというものの本質だったのではないか。

開幕前、クマ母の作家の澤村木綿子さん(「土祭だより Vol.5」参照)とボランティアスタッフのひとこま。物置と化していた酒店奥座敷の大掃除を敢行、ようやく展示を終えてのひと息か。お弁当は澤村さんがみんなのぶんもつくり、持参した。

長くなってしまったが、もうすぐ終わりである。
閉幕の日の朝、幸運にも「土祭」の命名者である武田好史さんにお話を聞くことができた。
すこぶる面白い内容だったのだが、その中から
「命名」が意味することについて話されたことのみ、書きとめておきたいと思う。

編集者でもあり博雅の士でもあり、森羅万象の綾を
無尽蔵な語彙で柔らかくほぐすように解析してくれる武田さんを、
わたしは「言葉の人」と紹介したいところだが、
ご本人に言わせれば「言葉は敵」なのだそうだ。
「言葉側にたつと、言葉にやられる。
ぼくが言葉に詳しいのは、言葉の僕(しもべ)にならないため。
言葉のマトリックスから逸脱して生きるためです」
お顔に柔らかな微笑みを浮かべながら、
たしか、そんな言い方をされていたと記憶している。

概念を結晶化させるネーミングの名人として、
建物、メディア、それこそ、子どもの名前に到るまで、
数えきれない命名を任せられてきた武田さんは、
馬場さんの古い友人でもあり、スターネットの名づけ親でもある。
星とネットワークをつなげた、その名の誕生秘話も面白いのだが、
また別の吸引力の強い話になってしまうので、ここでは省略する。
ただ、そこが「地上界にありながら天空につながる場所のサンプル」
となることを願ってつけたという話は、わたしには非常に腑に落ちるものだった。
「人間は、ある種の天の高みに精神をもっていかないと、それこそ堕落しますからね(笑)。
でも、天空にいるだけ、夢を見てるだけでは足下が崩れますから、
たえず行き来をしないといけない。とどまったら終わりなんです。
馬場さんは、天空を(地上に)うつし、足下もかためるという、
そのふたつをずっとくり返してやってきた。
稀なる人です。おみごとですよね」

おなじく天空と地上を自在に行き来した稀なる魂の持ちぬしとして、
武田さんは宮沢賢治をひいた。
星を巡る物語を多く書いた彼のなかでは、
鍬で耕す表土の下に眠る鉱物も、また星であり、それは賢治が、
天空と地層がまるまるとつながって互いに音楽的に響きあっている、
そんな世界観を生きていたからではないかと。
その賢治も命名の名手であった。
ふるさと岩手は彼のなかでは理想郷イーハトーヴであり、
北上川の西岸はイギリス海岸であった。
「名前をつけるというのは、ひとつの見立て。
世界をつくりかえるということでもあるんです」
そして、名前は、つけたら終わりというものではない。
そこに向かっていくものなのだと、武田さんはいう。
「あなたも、少なからず自分の名前に影響を受けていませんか?」
にっこりとそう聞かれ、わたしは思いあたるフシの多さに慄然とした。
人は名前をめざす。
「呼び方を変えるだけで、ものごとが変質変容するということが起こります。
そのもの自体がすばらしいとして、ふさわしい名前を与えると、
その美質がさらに増幅する、こだまのように。そんなことも起こります。
まさに命の名と書く、命名とはそういうものだろうとぼくは思います」

ならば「土祭」という名に武田さんがこめた思いとは何だったのだろうか。

土祭――それは視覚的にも端的で美しいが、
土という、身近でなじみ深い言葉を「ヒジ」と読ませることで、
ふっと時間軸がねじれるような、無意識下で何かが震えるような、
言い表しがたい感覚を与える音を兼ね備えている。

2009年、馬場さんから相談を受けた武田さんは、
「新しいお祭りをつくるなら、途方もなく根源的なことをやるべき」
ということを、まず思ったのだそうだ。
土を耕し、土を捏ね、土を感じてきたまち、益子――。
「土」という言葉が出てくるのに時間はほとんどかからなかった。
そして、大陸から漢字が伝わる以前の、古代の日本人が交わしていた「やまとことば」を
「ぼくはとても好きなんです」と武田さんはいう。
言葉が、目のものではなく、耳や口のものだった、その時代。
世界はもっと澄み、柔らかな、仮名の音がもつ宇宙が深く響きあっていたにちがいない。
「海」は「アマ」で「ウミ」とも言い、
「海(ウミ)」と「産み」が同じ音であることや、
天も海と同じ「アマ」であることには、昔の日本人の世界観がよくあらわれている。
土は「ヒジ」であり、「ハジ」、「ハニ」といった呼びかたもあった。
「ハニワ(埴輪)」、「ハニ(彩土)染め」といった言葉にも、その名残がある。
「その時代は言葉自体がもっとずっと少なかったから、言葉の構造、骨格というかね、
そういうものがしっかり見えて、(言葉がかたちづくる)世界のスケルトンも
すごく美しく見えていたんじゃないかと想像するんですね。いまは違います。
いまは言葉を生み出しすぎたために、言葉が言葉を相殺してしまっている状態。
中心で響いているものはあるのに、装飾が多すぎて、
よく聞えなくなっている状態なんじゃないかな」

その言葉の過剰の海に、祈るように、清めの一滴として投げ込まれたのが
古代の音「ヒジ」であった。そう解してよいのだろうか。
「言葉というのは、ひとつの気づきから連鎖して、
次々に面白いように『めくれていくもの』なんです。
土を『ヒジ』と読むと知るだけで、土以外のことごともめくれていく、何かが見えてくる。
そのきっかけになるといいなというのはありましたね」

めくれる、というその一言で、わたしはとてもわかった気になってしまい、
その言葉が具体的にしめす意味を武田さんに聞かなかった。
それは暗示的であると同時に非常にプラグマティックな言葉であるとも思った。
めくれる、めくる、剥ぐ、裏返す、返す。何を、どこへ。
「土、泥は、生命が着床し、育まれる宇宙の循環の元であり、
地球そのものを造形している」
武田さんは初回の土祭ガイドブックの序でそう綴った。
「ヒジ」という宇宙の根の音がめくったその先に、
わたしたちは還るのではなく、向かっていくのである。

(了)

『New function of Artistic Store for U』

点と点のものづくりが結束する美しいかたち。

那須は、かつて温泉や別荘・ペンションブームで賑わった時代もあり、
観光のまちというイメージが強い。
しかし最近では移住者も多く、特に静かな環境で
じっくりと活動をしたいという若い世代が移り住んでいる。
那須は、外から入ってくるひとが多く、“よそ者”を受け入れる土壌があるのだ。

そんななかで、自分たちのものづくりに没頭し、
それを生業としている5人がいる。
スノーボード用のビーニーをオーダーメイドで製作している
「レイドクロージング」の会田喜文さん、
ヨーロッパから買いつけてきた古着などを
リメイクして販売している「ターボ」の伊藤貴之さん、
手づくりで革靴をつくっている「山十」の大森克明さん、
染め物や織物を手がける「ブリランテ」の遠藤聖香さん、
苔盆栽などを製作・販売している「苔屋」の荒井正樹さん。
この地に移住してきてからつながりを持った同世代の5人だ。
扱っているジャンルは違えど、
どこも自宅兼アトリエ(工房)兼ショップというコンパクトな店構え。

「ものをつくるにはとてもいい環境。
雑念がないから余計な影響を受けにくい」と伊藤さん。
「住んでいるひとは、割と個人主義というか、群れないひとが多い。
ひとに変に合わせることなく、それぞれが独立した考えで動いています」
と遠藤さんもものづくりにおいての環境の良さを語る。

彼らはそれぞれ独立して活動しているが、
時に“個”が結束を持つことがある。
レイドクロージングの会田さんとターボの伊藤さんは、
5年ほど前、同時期に那須にショップをオープンさせた。
ショップのプロモーションをしたかったが、
地方紙などに広告を載せてもイメージと合わないし、
通常の観光客をメインのターゲットにしていたわけでもないので、
その効果は微妙。お互いに同じようなことを考えていた両者は、
「それなら自分たちでつくってしまおう」と、
フリーペーパー『New function of Artistic Store for U』の製作を思い立ち、
前出の3組を誘った。

フリーペーパーと言っても、それぞれの店舗の写真が象徴的に掲載され、
あまり説明的ではない。表紙も大胆なピンク。
それでも、置いてもらえる場所も多いし、すぐに捌けてしまうという。
次号は掲載してほしいという申し出も多数。
那須には彼ら以外にも、個人や夫婦で営んでいるような小さなお店が多く、
しかも扱っているものやつくっているもののクオリティも高い。
このフリーペーパーの“若い感覚”を理解してくれるひとが
地元にも多いようだ。

「那須には二面性があると思うんですよ。
街道沿いに大きな看板を出す、という観光的な表のイメージ。
ほとんどのひとはそれが那須だと思っています。でも観光だけではなく、
もっと生活に根ざした裏の那須もあるんです」(会田さん)

そんな奥深い那須のカルチャーへの突破口となる
この『New function of Artistic Store for U』。
これを片手にぐるっと“ウラナス”巡りしてみるのもいい。
例えばレイドにビーニーをつくりに来るひとたちは、
あまり表の大きな観光スポットには行かないだろう。
だからといって、
レイドのためだけに遠くから那須を訪れるのではもったいないし、
迎える側としても、もっと那須の新しい魅力に気がついてほしい。
そんなとき、このピンクの冊子。
山十やターボ、ブリランテ、苔屋などに行って、
“那須、面白いじゃん”と思ってもらえばしめたもの、という算段だ。

みんなで集まっては冊子を綴じ、酒を飲み、また綴じ、また飲み……。

実はまだゼロ号の『New function of Artistic Store for U』。
果たして次号は? 「もうちょっと掲載店舗数を増やしたいですね」と、
会田さんのやる気のある返答。
しかし「この感じはキープしたいので、無理しない範囲で」と
ガツガツしない独自のスタンスを貫く。
伊藤さんも「かっこいいというのは、
ひとそれぞれ基準や捉え方が違います。
だから自分たちなりの見せ方を少しずつでもやっていきたい」と、
あくまで周囲に迎合せず、個の立ち位置を忘れない。

このスタイルが那須で受け入れられれば、那須へ来る客層の幅も広がるし、
那須で活動しているひとにとっても
これまでになかった刺激になるだろう。
それが那須の活性化につながるかもしれない。
外から押し付けられるのではなく、
ボトムアップでそれが起これば、すごく強度がありそうだ。

「個人の“点々”が特色あるまちだと思います。
アートイベントとかも多いし、面白いことが起こりそうなポテンシャルはあるはずです」
と遠藤さんは言う。
それは、今は閑散としているペンションが握っているのかもしれない。
会田さんも言う。
「これまでのやり方は、箱ものをドンですよね。
でもこのフリーペーパーが発展するようなかたちで、
個人商店がたくさん集まったほうが絶対に盛り上がると思います」
東京都内、特に東東京では、
古い空きビルや廃校などをアーティスト・イン・レジデンスにしたり、
クリエイターの集まる物件にしている場所が増えた。
「那須のペンションも、もう空き物件だらけなんです。
そこにショップやものづくりのひとたちに入ってもらえるようにしたい」
という伊藤さん始め
『New function of Artistic Store for U』クルーは意欲的だ。
今日も誰かの家で、
ぽちぽちホッチキス留めしながら酒宴していることだろう。

山十の靴。牛革と天然ゴムとコルクなど、天然素材を使いオーダーメイドで仕上げる。手縫いのため、少しよれた風合いも味のひとつ。

ひとつずつオーダーメイドされているレイドクロージングのビーニー。あごにストラップが付いていて、バックカントリーなどに行くスノーボーダーに重宝されている。ショップにはランプもあるので、スケーターもぜひ。

古着のTシャツにステンシルや染めなどでカスタムしているターボのアイテム。他にも古着をリメイクしたり、コサージュも手染めで製作している。

ブリランテのバッグとストール。アルミニウムを、那須から得たインスピレーションで柔らかくアレンジ。草木染めなど、森のなかのアトリエで四季を意識した染め物や織物を製作。

Shop Information


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Brillante
染織アトリエショップ ブリランテ

住所 栃木県那須郡那須町高久乙593-245
TEL 0287-74-5158
営業時間 11:00〜17:00
定休日 月・火曜日
http://www.kiyokaendo.com/


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LADE clothing
レイドクロージング

住所 栃木県那須郡那須町大字高久甲5728-7
TEL 0287-74-5102
営業時間 土曜10:00〜20:00 日曜10:00〜18:00
定休日 平日
http://ladestore.com/


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TURBO
ターボ

住所 栃木県那須郡那須町湯本206
TEL 0287-76-3152
営業時間 12:00〜19:00
定休日 水曜
http://turbo15.com/


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山十

住所 栃木県那須郡那須町高久丙899
http://yamajyu.org/


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苔屋

住所 栃木県那須郡那須町高久丙1148-559
http://www.kokeya.jp/

土祭だより Vol.10

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月29日 風の道

朝、花火が鳴る。
ついに土祭も今日あしたとなった。
二週間益子に滞在し、たくさんのものを見て聞いて、伝えたいことがありすぎて、
筆(?)がまったく追いつかなかった。
わたしが書いたことは、この二週間で起きたことのほんのわずかにすぎないし、
時間をさいて取材させていただいたのに
書けなかったことがいっぱいあって申し訳なく思っている。
今日は、ゆいいつ見残している展示、
映像作品「土の人3Portraits/6月の夜」を見にいってみよう。
国内外で活躍する若手映像作家が、益子の風土とともに生きる(生きた)自然観察者、
手漉し粘度職人、陶芸家の姿を追ったものであるという。

結局、開幕の日の夜に見て、つぎに明るい昼に見て、
さらに友だちを連れて見に行って、作家による朗読会にも出かけと、
今回もっとも多く足を運んだのが橋本雅也さんの彫刻展「風の回廊」であった。
スターネットの丘の上の建物「zone」の白く天井の高い空間に、
ただひとつ、14頭の鹿の角から穿(うが)たれたという作品が展示されている。
それは硬質で闘争的な角とは、にわかに信じられないほどに薄く繊細な作品で、
発光しながら風を追い、風においていかれてしまった恰好のまま、
静かにそこに存在している。
その悲しい躍動は、わたしに、アポロンの愛から逃げるために
月桂樹に姿を変える瞬間のダフネを思わせる。

橋本さんは数年前にも、鹿の角や骨を削った花の作品をいくつか発表しているが、
それは自ら撃った一頭の鹿から生まれたものであり、
その際の凄まじい物語を彼は一冊の本にまとめている。
先導をした猟師がその鹿を解体しようとナイフで腹を切り、
体内に宿された小さな胎児を目の当たりにしたときの頭を殴られたような衝撃。
いのちというものが、忽然と重力をもって、のしかかってきた。

その瞬間に映像として脳裏に浮かんだ白い花々を、
自分の場所に帰った橋本さんは一年かけて彫りすすめていく。
供養というよりは、命を受けとったものが担う役割りを
ただ無心に果たしていたようだったと橋本さんはいい、
花が一本生まれるたびに、心は落ち着きを取り戻していった。
七本の花が生まれた。

それから数年、橋本さんは、花にした残りの骨を同じ山に返しに行って、
今回の作品のベースになった鹿と出会うことになる。
しかし前回と違うのは、その鹿ははじめから死んでいた。
まるで橋本さんに、その身を捧げるかのように。

「けもの道ってありますよね。人は通らない、動物だけの通り道。
あてどもなくそこを歩いていくと小高い頂きに出て、
そこは峰から吹きおろされる風の道だったのか、強い風が吹く場所でした。
ぼくは目を閉じて風の音を聞くうちにいつしか眠ってしまって、
ふと目を覚まして引き返そうと歩き出すと、ツツジの木の下で鹿が死んでいたんです」

それはりっぱな角をもった雄の鹿で、外傷もなく、自然死に見えた。
けもの道を行けば自然死した動物と出会うことはあるが、
そこは急な斜面に囲まれた頂きで、橋本さんには、
死期を悟った鹿が、あえて死ぬ場所として、その風の道を選んだようにも思えた。
その魂の気高さに身震いがした。
半年後に再びそこを訪れると、朽ちて白骨化した鹿の骨と角が森に点在していた。
橋本さんはその角をていねいに拾い、持ち帰った。

(撮影:矢野津々美)

その鹿の角で新しい作品をつくろうと思ったとき、
橋本さんの頭にはすでにこの場所、「zone」があったのだという。
馬場さんに相談してみると、「それならやりなさい」という答えが返ってきた。
22日の夜には会場で、橋本さんと馬場さんとの対談がおこなわれたが、馬場さんからも
「この作品が、今回の土祭のはじまりだった」という発言が出た。
「ぼくたちが失ってしまったもので、いま取り戻さなければいけないもの。
それは霊的なものといっていいと思うけれど、この作品にはそれがある。
橋本さんは、古代の仏師が仏さまを彫るような気持ちでこの作品をつくったと思う。
ある意味、命の移しかえともいえる行為なんじゃないか」

その後のことだ。偶然、益子にもってきていた一冊の本に、
こんなくだりを見つけて、はっとした。

「村の中、特に山の中には時空の裂け目のようなものがある。
それをこの世とあの世を継ぐ裂け目といってもよいし、
霊界と結ぶ裂け目、神の世界をのぞく裂け目といってもよい。
異次元と結ぶ裂け目である。この裂け目は人間には見えないが、動物にはわかる。
そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。
埋まらないかぎり永遠に口を開けていて、その裂け目に落ちた者は命を落とす」
(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節著より)

橋本さんを風の吹く道に招いたものは、いったい何か。

橋本さん(左)と馬場さんの対談。前作の月下美人の花の彫刻も特別に展示。(撮影:矢野津々美)

土祭だより Vol.9

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月27日 夕焼け

綱神社のふもとにある鶴亀の池は、鎌倉時代に宇都宮氏が造園した浄土庭園の一部とされ、
いつしか埋没していたのが近年整備されて、ふたたび水を湛えるようになった。
浄土庭園とは阿弥陀仏のいる西方浄土への往生を願ってつくられるもの。
その、おめでたいというか、ありがたい名を冠した「鶴亀食堂」の人気は
聞きしに勝るもので、週末はもちろん、平日の昼どきも大賑わいである。
二週間限定オープンの食堂店主は、
東京を拠点に活躍する料理ユニット「南風食堂」さんで、わたしもお名前は知っていたが、
料理や活動のことはよく知らなかったので行くのを楽しみにしていた。

近頃は、南風さん(なんぷうさん。ぷう、と口をとがらすときが快い)のように、
自分の店をもたず、イベントやギャラリーのオープニングといった
特別な場に料理を届ける、若い女性のケータリング屋さんがふえているように見える。
経済的な問題もあるかもしれないが、場所を所有せずに、
臨機応変に場所をつくっていくというスタイルは、
わたしの世代にはなかった新しい働き方で面白いと思う。
ただおいしい料理をつくって届けるだけでなく、
いわば、しあわせな空間や時間を、自分から動いて人に届けようとする。
南風食堂さんは、その代表ともいえる存在となっているのかもしれない。
ユニットというからふたり組だが、ただいま相方が子育て中で、
今回は三原寛子さんがひとりで参加。
今年益子に移住してきたという女性が、お手伝いに厨房に入っている。

かまどや七輪で調理する神社のふもとの食堂、というコンセプトは、
総合プロデューサーの馬場さんからの提案らしいが、
冷蔵庫も藤村靖之さん考案の手づくり非電化冷蔵庫を使用し(「土祭だより Vol.4参照)、
こちらも手づくりのかまどで朝に農家から仕入れる野菜を蒸し、
スープは七輪でことこと温めるという、前近代的で、
同時に未来的な食堂の実験がこころみられている。
現実的には、夜が晴れないと非電化冷蔵庫は機能せず、
お客が押し寄せればガスコンロも使わなければとても手が回らないようではあるが、
わたしたちの食をめぐるリズムが電気とガスなしではどうなるか、
そのことを体験として知るだけでも大きな収穫にはなる。
「待つ」訓練を、みんながするときがきている。

お父さん、お母さんと来ていた、とてもお行儀のよい子。

杉の木だろうか、設計者である日置拓人さんは、
長い縁側をイメージしてこの建物をつくったのだという。
その縁側の一端がなぜかくるりと渦を巻き、お客は靴をぬぎ、
その渦巻きをくぐって食堂に入るようになっているのだが、意味はよくわからない。
もしかしたら渦巻きは、食堂の結界としての暖簾のようなものなのだろうかとも思ったが、
設計者には残念ながら聞きそこねている。
お皿やコップは、益子の陶芸家である鈴木稔さんが、
二週間限定のこの店のために特別に焼いてくれたもの。
食事のメニューは日替わりの定食プレートのみで、朝に農家をまわり、
手に入った素材のならびを見て、その日の朝に考えるのだそうだ。
そう聞いて、思わず何時に起きるのかと訊ねてみると、始動が7時半だといい、
開店時間の10時から逆算すると、その反射力というか即興力に思いがいたる。
毎日おおよそ50皿ぶんを仕込み、それが13時には尽きてしまうこともあるのだという。
なぜ「なんぷう」とつけたのかとか、食の場づくりのことなど、
いろいろ聞きたいことはあったのだが、タイミングを逃して聞けずじまいで、
ついに最後の週末になってしまった。

鶏肉は、通常はワークショップにも登場した高田さんの平飼い鶏だが、この日はたまたま手に入らず。非常に弾力のある、おいしい鶏肉なんだそうだ。むちむちのナスは山崎農園のもの。

先日の日替わりプレートは、
鶏肉とトマトのバジル煮込みにレンズ豆とベーコンのサラダ、
ナスのレモングラス蒸しに玄米という献立(900円)。
掘りゴタツ式の縁側に座り、それをのんびりいただいているときのこと、
むこうから杖をついた、腰の曲がったおじいさんがてらてらとやってきた。
「おお、(人が)入っとるなあ」
おじいさんはいきなり大きな声をあげ、
「なに、わしも食べてみるかな。ヨッコラショ」
と、渦巻きの玄関を完全に無視して縁側にあがろうとしてきた。
聞けば老翁はこの地区に住む綱神社の管理人、
「こんなはずれた場所に人が来るわけないって近所では悪口いっとったんだが、
悪かったね(と三原さんに向かって)。
おかげさまで綱神社の賽銭も日ごとにふえましてな」
と、ほくほく顔である。

そういえば開幕の日に訪れたお隣の「食卓の家」でも、
はじめはどこか不満げな近所の人たちが、建物ができるにつれて「いいねえ」と、
一緒に楽しんでくれるようになったのがうれしかった、という話を聞いた。
「朝早く勝手に内部に入って過ごしているらしき痕跡を見つけたこともあった」
と微笑ましげにいっていたが、それもやっぱり、三和土に残った杖の跡だった。
老人たちは、半分閉めきった窓からこそっと顔を出し、
眠っていたこの場所にあらたな息吹がふきこまれる過程を、
懐疑半分、期待半分で眺めてたろうにちがいない。
縁側にちょこんと座りこんだおじいさんは、
「綱神社の階段は昔は百段ありましてな」
「昭和半ばの二度目の改修でなぜか一段へり」
「いやいや、土祭のおかげで社務所の屋根も新しくできました」などと、
誰に向けてというわけではなく、神社の歴史を諳んじて、それは何とも誇らしげだった。

お昼どきが過ぎ、落ちつきを取戻した食堂。かまどの煙が見える。

この食堂にはお酒も用意され、ここで夕焼けをみながら飲むのはすてきだろうと思う。
益子の夕焼け空は毎日ちがって、それは圧倒的な美しさなのである。
メイン会場である土祭広場の屋台を「夕焼けバー」とつけたのは、
益子人にしてみればごく自然なことだったのだろうなと、いまになってわかる。
今日の夕焼けは、まちのはずれの山中にある西明寺から見た。
空がここまで雄弁なことに、毎日驚いている。

川内倫子『照度 あめつち 影を見る』

引き寄せられるように撮った、阿蘇の野焼き。

だれもが「知っているかもしれない」と思う日常の一片を、
みずみずしく掬い上げてきた写真家、川内倫子。
今年は彼女の作家としてのキャリアの中で、
2002年の木村伊兵衛写真賞受賞から10年目にあたる。
2001年に初めての写真集を3冊同時出版して以来、
彼女の新作はつねに待望され、国内外の出版社が、出版の機会を待っている。
川内は忙しく仕事をこなす一方で、美術館やギャラリーの展示をはじめとする
さまざまなプロジェクトに招聘され、休むことなくあらゆる都市を旅し続けている。

印刷という行為と深く結びついた写真メディアを表現の中心にしている川内は、
他の多くの写真家と同様に東京の一角に活動拠点をもつ。
手のひらにのせた生まれたばかりの小さな蛙や、母の乳を吸う新生児、
あるいは光のあたる階段を上っている制服の学生たちの足もと、などのように、
日常をどきりとする鮮やかさで切り取ってきた川内倫子が
2012年に発表したシリーズ「あめつち」は、身近な世界から一転して、
広大な風景を目の前に、一層スケールアップした世界を見せた。

どこまでも広がる大地。なだらかなカーブをみせる塚を、やきつくす炎と煙。
「あめつち」の中で核となる阿蘇の野焼きの写真は、川内が写真撮影を前提に、
一年に一日だけ行われるその「場」に立ち会い続けた行為の記録だ。
7月まで東京都写真美術館で開催されていた展覧会『照度 あめつち 影を見る』で、
彼女の写真の前に立ち、むき出しにされた広大な土地に向き合った私たちは、
無防備なまま自分たちの内部にも実は抱いていた
「むき出しの何ものか」に引き合わされた。
観客が川内の写真の前からなかなか立ち去れなかったのは、
言葉にできない「むき出しのものに出会う体験」をどう自分は引き受けたらいいのだろう、
という想いを、草を食む牛のように反芻していたからではないだろうか。

野焼きは酪農業を営むため、日本国内でも多くの場所で行われているが、
川内は、直感的に「自分が撮るのは、阿蘇でなければならない」と選択し、
2008年から導かれるように、その地を毎年、訪問した。
野焼きが行われるのは、毎年2月末から3月の第3週までの、どこかの日曜日。
「その日」を逃せば翌年まで記録することはできない。
多忙をきわめる川内が、仕事のスケジュールを調整しながらも他人任せにせず、
自分自身が「その地」を訪問し続けることにこだわり、撮り続けたこの連作は、
2012年初夏に東京都写真美術館において大判プリントで展示され、
来春アメリカの出版社アパチャーから刊行される作品集にまとまる予定だ。

「まずは、自分がその場所に行って、その土地を、その場所を、体感してみたいんです」

一度は3月に真っ黒に焼かれた塚が、5月になると急に緑で覆われる。
野焼きは、美しい草原を草原のままに保つために、
牛の餌を絶やさないために、欠かさず行わなければならない作業だ。
川内は、異なる季節にも訪れ、写真のほかに映像でも記録した。

《無題》(シリーズ〈あめつち〉より)2012年 ©Rinko Kawauchi

《無題》(シリーズ〈あめつち〉より)2012年 ©Rinko Kawauchi

「大きな星に立っている小さな自分」を感じて。

世界中を飛び回る川内が、阿蘇にこだわり、野焼きにこだわって、
自分の作品世界を拡げようとした、その理由はどこにあるのだろう。

「撮り始めたころは、『もっと土地の力をダイナミックに実感したい』、
と考えていたんだと思います。
阿蘇に行ってみて、初めて、どんな遠くの国にいった時よりも
『大きな星に立っている小さな自分』を実感できたんです。
初めて自分が『惑星の上に立った』というような」

以前アフガニスタンでもそれに近い感覚を得たことがあるが、
阿蘇での体験はより強烈なものだったという。
星の王子さまの絵本に出てくる絵のように、「惑星の上に自分の足で立つ」という感覚。

「『自分がここに住んで生きていること』や、『自分の小ささ』を実感したいんです。
東京にいると、それはなかなか感じることができない。
現地に行って感じたのは、神社に行って詣でるような新鮮さでした。
あらためて、畏敬の念を抱くことができました」

阿蘇も広いし、熊本もとても広い。
野焼きは朝の9時から14時くらいまで、いくつもの塚で行われる。
燃える時は、一気にワーっと燃え、あっという間に燃えて真っ黒になる。
そして、5月になると急に緑の草原になる。

「阿蘇の野焼きは1300年間続いていると言われていますが、
その目的は、放牧のための草原をキープするため。
焼かないで放置すると森になってしまうからです。
あの、阿蘇のきれいな緑の景色も、人の手によって作られたもので、
害虫駆除や草原を保持するという実用的な目的から生まれたものなんですね」

「牛を飼っている人たちからすれば、野焼きを続けられるかどうかは死活問題なんです。
最近は阿蘇でも過疎化が進んで、この野焼きを継続できるかどうかが問題になっています。
現在では野焼きに興味のあるボランティアの方たちが参加して成り立っていますが、
非常に危険な作業でもあるので、あまり経験のない人だと
事故に巻き込まれる可能性もあるんです」

本来は腰が重く、写真を撮るという理由がなければ、
何度も同じ場所に通わなかった、と川内は言う。
阿蘇の野焼きを撮る、という想いにひっぱられて、同じ場所に通い続けたのは、
このシリーズが初めての試みだった。
それには自分も周囲も納得させる、深い動機があったはずだ。あえてそこを問うと、
「はじまりについて、考えてみたかった。いろいろなことの、起源をみたかったんです」
と語った。

土祭だより Vol.8

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月25日 与える

益子滞在10日目。
毎日、受け取るものがあまりに大きくて、それを記録するのが追いつかない。
今日も実際には25日の火曜日なのであるけれど、
23日、先週の日曜日のことを書いておかねばと思う。
あの日は土祭一週間目。
一日じゅう雨であったが、夜には雲の切れ間からきれいな上弦の月が顔を出し、
この地はやはり何かに守られていると思えた晩だった。

益子の食のレベルはかなり高いと思うのだが、それは材料の新鮮さにつきる。
宿泊中の町営ホテルについた食堂でも、サラダなどの野菜がとてもおいしく、
聞けば早朝に農家から採れたての野菜がごっそりと届くのだという。
トマトなど、東京で食べるものとはくらべものにならない。
10日間ここで暮らしていたら、外で食べる料理に使われている野菜の割合が、
どこの店でもなんとなく似通っていることに気づいた。
それはそのまま、益子の畑の生りものの割合なのだろう。
ちなみに、ここ数日でカボチャの頻度が忽然とふえ、
残暑の名残りか、まだ採れるニガウリをなんとか使い尽くそうと苦心している形跡が、
小さく刻まれた緑に感じとれたりもする。
新米の季節、ごはんもおいしい。
里山の実りがそのまま食卓に。これこそ「健康」だなと思う。

今年も実りの季節。

循環型の農業を営む山崎農園のことを知ったのは、「スターネット」を通してだったが、
23日の日曜日の午後には「山崎農園とゆかいな仲間達」による
「みんなで考えよう食の安全のこと」というワークショップが開かれた。

同じ時間、土祭セミナーでは「BEAMS」バイヤーの北村恵子さん、
「D&DEPARTMENT」代表のナガオカケンメイさん、
「ランドスケーププロダクツ」代表の中原慎一郎さんという、
伝統や手仕事をビジネスとして成立させるための
太いパイプラインとなっている人々による講演がおこなわれていた。
近隣から大勢の若者が集まったようで、「スターネット」の馬場さんは、
その光景や熱気からも「得るものがあった」と仰っていた。
わたしは、どちらに行くべきかと迷ったのだが、
気づいたら車のハンドルを山崎農園方向にきっていたのだった。
「3.11以降の食の安全とその取り組み」というテーマは聞くべきものと思った。
陶器屋が並ぶ城内坂の交差点を
左折したのははじめてだったが(直進すると本通りにつながる)、
すぐさま田園地帯が一望にひろがって、空がぐんと大きくなった。
雨に煙る益子も、またきれいだ。

集会所の土壁の前で、雨水の流れ道をつくる若者たち。

はたして場所がわかるだろうかという一抹の不安を抱えて走っていたが、
目印といわれた新しい土壁が、すぐに見えてきた。
この無人の一軒家は以前から集会所として、
みんなで酒を酌み交わしながら語りあう場になったり、
あるときは都会から農村留学で来る子どもたちの
キャンプ地となったりしてきた場所だそうだが、
今回の土祭をきっかけに、あらためて
「益子の農の未来を考える拠点」として始動すべく、
仲間たちの手で、崩れていた壁の化粧直しがほどこされた。
「拠点というか、まあ、ここで酒でも飲みながら話そうというのは変わらないでしょうが」
というのは、「たてものの未来 食卓の家」の制作者で、壁づくりの隊長でもあり、
このワークショップの司会進行もつとめる建築家の町田泰彦さんである。

各地を転々としたのちに益子に定住を決めて約7年という町田さんは、
非常にクリアにヴィジョンを語る人で、この土地に少しでも早く根づき、
この地のために何かをしたいという熱い思いにあふれている。
自然の豊かさ、文化的な土壌、東京とのほどよい距離感もあってか、
益子を新天地として移り住んでくる人は、それこそ濱田庄司の時代から絶えない。
その大半は、焼きものをはじめ、ものづくりをしながら生きる暮らし、
あるいは自給自足をめざした人たちで、
山間の小さな農村としては驚くほどの民度の高さは、
そうした蓄積や文化の混血の上に成り立っているのだと思う。

この会の主宰者名は「山崎農園とゆかいな仲間達」とあるが、
この地に生まれ育って土と格闘してきた山崎さんのような人と、
外から来た町田さんのような若いクリエーターたちが、
互いに境界線を引くことなく交じり合い「仲間」になっている事実が、
わたしにはとてもまぶしく、貴重なことと思えた。
彼らをつなぐものは「理想」である。
はたして、こんな場所が、ほかにあるのだろうか? 
いや、わたしが知らないだけで、いまは、こんな未来的な親和が
日本各地で起きはじめているのかもしれない。
3.11をきっかけとして。

裏山から採ってきた枝ものを、大きな花器に目にも鮮やかな勢いで生けているのは山崎さんの奥さん。

ワークショップ第一部のディスカッションは、
養鶏家の高田さんの開口一番、いきなり放射能汚染の話からはじまった。
「(原発事故で)日々の暮らしが壊された。
静岡以北の作物はほとんど動かなくなっちゃったのが現状」
スーパーの陳列棚に並ぶ野菜のなかで、
もっとも南の生産地を選んで買うのが習慣になっている自分は、
身の縮む思いでそれを聞いた。
益子は、地震で被災したうえに、放射能汚染の風評がそれに追い打ちをかけた。
生産者が訴え、町民に寄付を募って測定所をつくり、
それでようやく比較的汚染度が低いということが判明したのだが、
その間に出荷した作物はまったく売れず、
土地を離れた若い生産者はまだ戻ってきていないという。

パネラーは五名。
生産者(それも山崎さんと同様に無農薬の循環型農法でがんばってきた養鶏家と米農家)、
益子にセカンドハウスをもつ経済界の大物、
東京在住の山崎さんの長年来の顧客であるデザイナーに編集者など、
五者五様の原発事故への思いが語られ、
その温度差には非常に考えさせられるものがあった。
放射能問題については、事故直後ほどではないにしても、
いまだ情報が錯綜して、何を信じればよいかがわからない。
だから安全策としてリスクのあるものはなるべく避けるという人は、
わたしのように多いのだと思う。
しかし、その態度は怠慢以外のなにものでもなく、
正直な仕事をしてきた生産者の人たちを窮地に追い込んでいるという紛れもない現実を、
わたしははじめて目にした。そして悔いた。

とくに、十数年来、山崎さんから届く野菜で旬を知り、
料理が楽しくなったと語る編集者の多田さんの発言は胸に滲みるもので、
「事故後はネットに氾濫する情報を読んで迷いに迷い、
でも不確かな情報に左右されて山崎さんの野菜をやめたら、
自分は(安全よりも)もっと大きなものを失うことになると思った。
わたしは自分が信じる人を信じよう、そう決めた」
という言葉に、人としての大きさが感じられた。
「食べます! 送ってください」
多田さんからその連絡を受けた山崎さんは、
「救われる思いだった」と、多田さんにむかってペコリと一礼をして、
「事故のあと、畑にたんまりできたチヂミホウレン草を見て、
これ、ぜーんぶゴミになっちまうのかなあって思ってたからね。
お客さんの半分以上、お子さんがある人なんかは離れたけど、
半分の人は『放射線の悪いことが出るのはあの世いってからだ』なんて、
温かいような諦めのような(笑)こといって続けてくれた。
あのとき食ってもらったのは、ほんと、うれしかった。感謝してます」
会場から自然に拍手が湧いた。

司会をつとめた町田さんと、長靴をはいた可愛いアシスタント。

左端が、養鶏家の高田さん、その隣が米農家の小島さん。右端が編集者の多田さん。

栃木なまりが温かい山崎さんは、「益子のキーパーソン」と誰もが認める人物である。
この人がいるから益子にいるという移住者も多いと聞いたが、
ご本人の語り口をはじめて拝聴して、人をそこまで動かす理由がわかった気がした。
「今後は、わたしたちもきちんと情報を調べながら、
細々とでもやっていければと思ってます。
来年にはセシウム、137だったかな、134だったかな、が半減するらしいから、
そろそろ枯葉を(堆肥として)山からもらってきてもいいのかなって。
そろそろ自信をもって、食べてもらってもいいのかなって、そんなふうに思っています。
離れちゃったお客さんは戻ってこないけど、
でも、こんなふうにつながりをつくっていければ、また(新しい人たちと)
つながっていけるかもしれないなって希望も抱いています。
よろしくお願いします」

農園主の山崎光男さん。『北の国から』の黒板さん(田中邦衛)を柔和にしたような。

熱く語る高田さん。

柔らかに語る山崎さんに対し、
養鶏家の高田さんの怒りを隠さないストレートな言葉も、
また胸に滲みた。魂のこもった言葉だったので、
そのまま(録音はしていないので記憶に頼り。方言はイメージ)書いておく。

「オレがいいたいのは、『止まれ』って。
立ち止まって、自分がいる状況をよく見てみろって。
震災後にオレが思ったのは、人間、ふたつしかないってことで、
自分さえよければで生きていくか、お互いよくなるかのどっちか。
日本は高度経済成長期に『自分さえよければ』ばかりが発達しちゃって、
でも、お金があったって、明日はどうなるかわかんないって、みんなわかったっぺ。
お金ためて老人ホーム入ったって、オレが卵を届けに行って見ると、
みーんな下を向いて暮らしてるよ。そんなの、しあわせか? 
だから、ここで立ち止まって、自分は何のために生きてるか、
しあわせって何かを考えないといけないでしょ。
オレはニワトリ育ててるけど、
ニワトリは人間に食べられるために生まれてきたわけじゃないわけで、
だったら生きもんを食べるとき、ぼくらは『自分は何のために生きているのか』に対して、
しっかりとした答えを出さなきゃいけない。それが3.11以降の課題。
それからなにより、自分でケツのしまつができないもん(原発)なんて、
つくっちゃだめ。つづかない。以上」

青い夕闇に包まれる17時から第二部がスタート。

山崎さんの奥さんが生けた花の前に、お月見団子とろうそく、さらには、たくさんの手料理が並ぶ。

秋サンマも炭火で焼かれ。

今夜の山崎農園プレート。

夕暮れて、第二部は「益子の食を楽しむ時間」、端的にいえば宴会となった。
山崎さんのお母さんが生けた花にスポットライトがあてられ、
採れたての野菜を中心にしたごちそうが並ぶ。
オクラの天ぷら、かきあげ、冬瓜と挽肉の煮たの、葉もののサラダ、
カボチャのサラダ、キュウリとナスの漬けもの、エトセトラ、エトセトラ。
これもすべて、お母さんの手料理。お母さん、すごい。
ビールにワインに日本酒と、お酒もたっぷり用意され、
「飲んでるか? 食ってるか?」と、山崎さんは集まった人のあいだを
声をかけながらまわっている。
わたしもお酒を飲んで、すっかり楽しくなり、
しかしこの光景はいったい何なんだろうと夢を見ているような気持ちにもなった。
お客さんの3分の1は、おそらく東京圏から、この益子の、
田んぼのなかの一軒家でひらかれるこの会のためにやって来た人である。
「益子は精神的には東京のはしっこのようなものだからね」
たしかそういっていたのは、髭の木工作家の高山さんである。

山崎さんは、見知らぬわたしにも、
「ほら、食いな。酒も飲んでるか? 何? 車で来た? 
だれが送ってってやる人がいるから、だいじょぶだ。飲め飲め」
と、なんやらかんやらすすめてくれる。
食事のクライマックスは、お釜で炊いた無農薬の新米に、
高田さんの平飼いのニワトリが生んだ卵をかけて食べる、特製卵かけごはんだった。
その味を知る地元の人たちからは大きな歓声が湧き、
わたしも、益子の大切な宝のようなものを、ご相伴させていただいた。
よそものに、あるいは知らない人間に、彼らはこんなにも惜しみなく与える。

「自分さえよければで生きるか、お互いよくなるかのどちらか」

わたしがこの晩のことを、どうしても書きたかった理由がわかってもらえたら、
うれしい。

土祭だより Vol.7

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月22日 手と頭と心と

よく雨が降る。
雨が降るごとに朝夕すっかり涼しくなり、
森の音やにおいから、長い夏がようやく終わったことを実感する。
わたしがいるのは、ドアの向こうには森がひろがる町営ホテルなのである。

今日は11時から「光る泥団子」のワークショップに参加。
藁を混ぜた土の芯玉に、しあげの化粧土をごく薄く重ね、
ていねいに磨くことで光らせる泥団子のワークショップは、
土の不思議や可能性を伝える企画として2009年にも開催され、
子どもたちに人気を博したようだ。

見目陶苑のギャラリーに集まったのは、今年もやはり子どもたちがメイン。
まずは色違い質違いで8種類ある化粧土からひとつを選ぶのだが、
女の子が多かったからか、人気は桜色の桜土に集中していた。
土は益子の各所から陶芸家が採掘してきたもので、
こんなにいろいろな色や質感があるものなのかと、子どもといっしょに勉強である。
ちなみわたしは、北郷谷地区で採集されたという白いボクリ土を化粧土に選んだ。
昔は陶土にむかないと捨てられていた土だそうだ。

どれにしようかな。

泥玉を大理石(のよう)にする錬金術を考案したのは榎本新吉さんという名左官。
本格的な京壁塗りの第一線として活躍し、
日本各地の美しい色土を左官材として次々提案してきた進取の人らしい。
光る泥団子づくりは、その新吉さんが完成させた「現代大津磨き」という技を、
小さな手でもできるように応用している。
秘密はどうやら化粧土に混ぜた石灰の特性と、
とにかくていねいに根気よく磨くという2点にあるようで、
30分もたった頃には会場のあちこちでぴかぴかに輝く小さな惑星が誕生していた。
途中でいやになって投げ出し、お父さんやお母さんに磨かせていた子も何人かいたが、
同じく根気のないわたしの泥団子も、ボランティアスタッフが
手伝ってくれたにもかかわらず、どこか鈍い光で終わってしまった。

栃木県内で保育士をしているというそのボランティアさんは、
自分の保育園の子どもたちにもおしえたくてボランティアに応募し、
8月から益子に通って泥団子づくりの研修を受けたのだという。
最初に渡される土の芯玉も、彼女たちボランティアの手で
百個以上が用意されたと聞いて驚いた。
それは、ほんとうに、まんまるなのである。
これをひとつつくるだけでも、大変なことだと思うのだ。
自分で磨いた泥団子は特製の箱に入れて持ち帰れるのだが、
この箱も、こんな箱を用意しようと思いついた人たちの心もすてきである。
ダンボール製の簡易なものだが、内側には鳥の巣状の紙のクッション材も入っていて、
そこに泥団子をおさめると、とてもりっぱな宝物に見える。
その瞬間の子どもたちの、うれしそうな顔。
前回は新聞紙にくるんで持ち帰らせてしまった反省から生まれたアイディアだと聞いたが、
こんなちょっとしたことが気持ちを豊かにして、ものを大切にする心を生むのだろう。

芯玉にバターナイフで化粧土を塗りつける。この後、フィルムケースの口で余分な土をそぐように取り、できるだけ薄く塗るのがコツ。

小さな惑星、できました。次の週末、29、30日にもワークショップあり。予約優先。参加費1000円。

お昼は今日も「土祭食堂」へ。鶏肉の塩糀漬け、きんぴら、かきあげ、味噌豆の「ましこプレート」800円。テーブルにはマリーゴールドの花。野に咲く花を摘んで飾るという行為が、益子ではごくふつうにおこなわれているのを感じる。

てんやわんやの厨房をひとのぞき。

午後は、先週にひきつづいて「土祭セミナー」へ。
会場の「つかもと迎賓館」と同じ敷地内の石の蔵では、
生井亮司さんの彫刻展「少年の詩学」が開催されている。
ひんやりとした闇に佇む少年たちは一見すると
何でできているのかがわからないのだが(「ブロンズかしら」という声も聞いた)、
主に漆の樹液、黄土を焼いた砥の粉、麻布などを
土を媒介にして結びつけた乾漆技法というものだそうだ。
静謐に手触りがあるとしたら、こんな感じかしらという質感である。
少年たちの存在感は恐いほどに清らかで、ひとりきりでそこにいたら、
わたしは何か罰を受けているような気持ちになってしまった。

「少年の詩学」の展示。(写真提供:土祭実行委員会)

石蔵の脇にも、ほら、大樹が。

セミナーは今日から「民藝と手仕事から考える益子の未来」にテーマが変わり、
本日の講師は日系アメリカ人で、16歳で仏教思想家の鈴木大拙に出会い、日本に帯同、
大拙が鎌倉松ヶ丘文庫で逝去するまで秘書をつとめた岡村美穂子さんである。
席につかれると、まずは1935年生まれとは思えないその若々しさに驚いた。
黒い瞳が、きらきらと輝いている。
鈴木大拙は柳宗悦の学習院時代の英語教師で、
生涯ふたりには親子のような親密な関係があったという。
柳の民藝、その美論は深く宗教に結びついている。

1950年代の半ば、アメリカの大学でおしえる大拙を見舞った柳は
「ぜひ益子に一緒に行って濱田庄司に会ってほしい」と懇願。
その際、大拙に付き添い、のちに3番目のバーナード・リーチ夫人になる
ジャネット・ターネルも同行し、みんなで上野駅から電車に乗って遠路はるばる来たのが
岡村さんと益子とのはじめての出会いで、濱田邸に着いてみると
「見たことのない厚手物の器」に手料理のごちそうが盛られて並び、
「うぉーと思った」という、とても魅力的な出だしのお話に最初から深く引き込まれた。
うぉーと目を丸くしている若い小娘に、隣に座っていた柳は
「どうだ、美穂子さん。(この焼きものを)どう思うか?」と訊ねてくる。
突然そう聞かれ、答えに詰まっていると、柳はひとこと、こういったのだそうだ。
「健康でしょ」と。
「この焼きものは少々のことでは割れたりもしないんだぞ」と。

健康、という言葉は、民藝の本質が語られるときによく出てくるキーワードだが、
もちろんそれは頑強という意味に終わらない。
そこで岡村さんは「健康」を「自由」という言葉におきかえ、
仏教の考えにおける人間の自由とはどういうことかという哲学的な話になっていくのだが、
結論を先にいえば、それは人間が本来の状態を取り戻したときだという。
本来とは大本(おおもと)でもあり、人間が意識をもつ以前の状態をさす。
その大本が分かれて主観と客観が生まれたこと、
もとはひとつだったものがふたつになったことで人は迷うようになり、
そして不自由になったという論理はわたしには非常にわかりやすく、
おのずから旧約聖書のアダムとイブの楽園追放の物語を連想させた。
彼らが食べた「禁断の林檎」とは、もちろん意識のことである。

しかし、と岡村さんはいう。
「西洋の人は、それ以前を考えないんですね。
西洋文化は意識が生まれたところが幕開けで、
その前に大本があるという考え方は日本独自の文化です」
ならば日本人(仏教)が考えるその大本とは何かといえば、それが「無」である。
アメリカ育ちの岡村さんには「無」の存在ということが実感としてわからず、
60以上歳の離れた大拙を質問攻めにしては、
「本来なんにもないんだよ、美穂子さん」
「本来無一物なんだよ、美穂子さん」と、
「それこそ殴られるように、いわれつづけました」と笑う。

無とか意識とか、こういう形而上的なことを考えていると、
わたしの小さな頭はすぐにキャパを超えてきゅうっと痛くなるのだが、
それはけっこう快感でもある。
こういうことは、あるとき頭からふっと下に降りて、腑に落ちるときが必ずあって、
その瞬間にぱっと視界がひろがる体験を、もう何度もしてきている。
だから、しつこいようだが、頭を整理する意味でも書いてみようと思う。

さて、岡村さんは、「無」から分かれて意識が発達し、
主観と客観、善と悪、上下と左右、美と醜といった相対するものの間でつねに迷い、
自由に動けなくなってしまった人間は「ハテナ病」にかかっているのだという。
ふたつのものの間で、つねに「ハテナ?」と立ち止まってしまう。
進化してハテナの業を抱えてしまった人間が大本に戻ることはもはや不可能なのだが、
たったひとつだけ、それを乗り越え、人間が「無」を、自由を取り戻す方法がある。
それは、くりかえすこと。反復である。
その例として日本のお稽古ごとをあげる。
茶道、華道、武道、柔道、合気道……道がつく修行のほとんどが、
ほら、同じふるまいや練習をくりかえすことで、
最終的には「無」を会得することをめざしているでしょうと。
念仏を百万遍唱えるのも同じことをめざしているのですよと。

話はここでようやく民藝につながるのだが、たとえば職人が、妻子を養い
少しでも豊かに暮らしたいと、日夜たくさんのものを一生懸命につくる。
そこには美醜について迷ったり、あるいは意識の産物である自我を込めるひまなどもなく、
つまりは無心であるがゆえに自己を超えた大きな力が入り込み、
思いがけない美しいものが生まれてくることがある。
職人は自分でも知らぬうちに本来の自由を取り戻していたわけで、
そんな心と手から生まれた無作為の美を「健康」と、柳宗悦はいったわけである。
健康な美の源にはいつでも健康な暮らしがあり、
そこから生まれてくる働きものの美だけが人を救い、人をしあわせにするのだと。
いってみればそれは偶然の産物であるともいえるのだが、
ときに意識をもって、意識を超えることができる達道の人がいて、
その希有な人間が濱田庄司だった。
「濱田先生は、ものが『生まれる』といっていました。
『つくった』とはいわないのですね。無心を体得されていたのだと思います」
と岡村さんはいう。

ほかにも、濱田が、庭先の畑でみずみずしく熟れるナスやキュウリを見ながら、
「自分もこんなふうに(作品が)できたらなあ」と心底うらやましそうに語ったという話。
夜ふけに少しだけ開いていた障子の隙間から灯火に濱田が読書する姿が見え、
おしゃべりな人と認識されていたが、深い次元では静かな人と直感したという話。
そして鈴木大拙が逝去したとき、益子からひと晩かけて鎌倉まで車を飛ばし、
書生に名を訊ねられると「濱田です」と一言。
中にも入らず、自分の焼いた花瓶をひとつポンと玄関先において帰った話など、
岡村さんから語られる濱田庄司像はひどく魅力的で、
彼のことをもっと知りたいと、わたしは思ったのだった。

岡村美穂子さん。

陶芸メッセ益子内に移築された旧濱田邸では、
綱神社にも音を奉納する川崎義博さんが手がけたサウンドインスタレーション
「Leave it as it is」がおこなわれている。
いや、「おこなわれている」という表現は正しくなく、
川崎さんは、ただそこにあるがままあるよう、音を置いているだけだ。
誰もいないときに、ここを訪れることができた人は大変な幸運である。
反復する音に耳をすますうちに、自分がどこまでも澄んでいくという体験を
味わってみてほしい。

隣接する益子陶芸美術館では
「濱田が出会った魅惑の近代」と題された展覧会がおこなわれているが(〜12月2日)、
その出口付近に設置されたモニターに流されている映像は必見である。
メキシコ人の女性陶芸家、グラシエラ・ディアス・デ・レオンが濱田庄司に師事し、
益子に逗留した夏のある一日を記録した映像のようだが、
桃源郷のような1950年代の益子の田園風景や、
岡村さんのお話にもあった濱田家の晩餐、早朝黙々と作陶する濱田の姿などが
淡々とモノクロームで写し出されて、夢を見ている気分になる。

土祭って、なんて贅沢なお祭りなんだろう。

濱田のコレクションを所蔵する「益子参考館」の空間も、作曲家の畑中正人さんによる新たな音の表現に満たされている。

濱田が作陶をしたロクロ場にも静かな音楽が。

白い猫がふりむいた。

ヤマイエヒト

半分、この土地で働き、暮らしてみる。

「大地の芸術祭」のメイン開催地でもある新潟県十日町市松代。
「農舞台」のあるまつだい駅のほど近く、ほくほく通りに
「山ノ家」という名のカフェ&ドミトリーがオープンした。
古民家のような外観だが、入ってみると外観のイメージとはまた違った
洗練された内装で、居心地のいい空間が広がる。
1階がイベントなども開催できる多目的スペースとしてのカフェ、
2階はアーティストが制作のために滞在できるレジデンスと、
旅人のための簡易宿泊施設になっている。
無線LAN完備で、カフェではノートパソコンを開く人がちらほら。

山ノ家プロジェクトの母体となっているのは、
このプロジェクトのために立ち上げられた社団法人「ヤマイエヒト」。
立ち上げメンバーの河村和紀さん(写真右)、後藤寿和さん(写真中央)、
池田史子さん(写真左)は、もともと東京の恵比寿で活動する、
地域在住在勤のクリエイターたちがゆるやかに連係し、協力し合うコミュニティ
「START EBISU」の仲間たち。河村さんの本業は映像制作、
後藤さんは空間デザイン、池田さんはアートやデザインプロジェクトの企画制作だ。

この場所との縁は、河村さんの知人で、
学生時代から地域活性コンサルティングをしていた佐野哲史さんが発端。
十日町市内の別のエリアで古民家再生プロジェクトを推進していた佐野さんは、
この松代のプロジェクトを引き受けた直後に起きた東日本大震災の復興のために
急遽東北に赴くことになり、松代の空き家プロジェクトを引き継いでもらえないかと
河村さんに相談。河村さんは場とコンテンツのクリエーションサポーターとして、
旧知の後藤さんと池田さんに声をかけた。
まずは現地を見てみようとこの空き家を訪れた3人は、
この場所に直観的に大きな可能性を感じたという。
「僕は映像の仕事をしていて、これまでもいろいろな地域に行ったことがあるのですが、
ここは単なるいなかまちじゃないな、と最初から強い確信を持ちました」(河村さん)
「これまでにも芸術祭を見にこの地に来たことはあり、
ローカルと現代アートが共存している状況をとてもリスペクトしていましたが、
その膨大なアート作品を抜きにしても、とにかく自然や大地そのものの磁場が
すごく強いところだとあらためて感じました」(池田さん)

もともと大地の芸術祭のオフィシャルプロジェクトでも、
空き家そのものをアートワークとしてリ・クリエイトしたり、
土壁を塗り直すことで新たに建築としての再生を促すプロジェクトなどが
先行して取り組まれていた。この山ノ家が面するほくほく通りでは、
長年この地に居住し活動しているドイツ人建築家のカール・ベンクスさんが、
通り沿いの民家を昔ながらの建築様式に外装改修するプロジェクトを、
市と共にちょうどスタートさせたところで、
この空き家はその改修プロジェクトの助成対象家屋だった。
単なる1軒の空き家のリノベーションではなく、
地域内の複数の場所にコミットしていく過程で、そこに人が集ったり、
その場所が活性化していくしくみがつくれるのではないか、というのだ。

そもそも、前出の佐野さんにその空き家プロジェクトを紹介したのは、
大地の芸術祭の現場運営の母体であるNPO「越後妻有里山協働機構」の理事長であり、
地元の地域活性の旗ふり役として活躍している若井明夫さん。
若井さんと出会い、話し合いを重ねていくなかで、この地で何かを生み出していく
原動力になることが求められているのだということを体感した3人は、
”良きヨソモノ”として、元来の活動本拠地である首都圏とこのエリアとを
往還するライフスタイルを実験をしてみようということになった。
従来型の、ローカルへのややエスケープ的、もしくは自己犠牲的な完全移住ではなく、
都市とローカルの価値を同等に享受し、都市⇔里山を行き来する
「移民」と自分たちを定義し、方向性が固まった。
こうして、プロジェクトの発端をつくった佐野さんと、
地元の強力なサポーター若井さんを顧問に、
河村さん、後藤さん、池田さんで、社団法人ヤマイエヒトを設立し、
拠点となる山ノ家の企画運営母体となる組織「MPM」も、
同じメンバーで同時に立ち上げることとなった。

外観は助成のルールに沿った設計だが、内装のディレクションはふだん空間デザインの仕事をしている後藤さんが手がけた。地元の工務店や大工さんたちの手を借りながら、これまでも東京での地域展覧会構成を協働した仲間たちや有志の“インターン”が集結し、のべ30名を超える若者たちと共にセルフビルドして、2012年8月に完成。

複数の拠点を持つ、ということ。

場所はある。ではこの場所で、何をやるべきかと考えた。
「いろいろとやることを想定しつつ調べてみたら、やはりすでに大地の芸術祭で、
たいていのことはやってしまっているんですよね。
じゃあ僕らがやれることって何だろうと、もう一度考え直したんです。
そのなかで出てきたアイデアが、背伸びしない、僕たちの日常。
東京の日常の延長のような場所として、いかに特別じゃないかということを
やろうと思いました」(後藤さん)
十日町の風景に触れ、ここの空気を吸うだけで、自然と非日常にスイッチは切り替わる。
けれど山ノ家に入れば、無線LANは自由に使えるし、おいしいコーヒーも飲める。
東京では当たり前になっていることも、この土地ではまだ貴重だ。
「実は、移民たちのカフェというのが裏テーマ。
ここで出す料理は地元でとれた素材を使っていますが、郷土料理ではなくて、
私たちが日常的に食べているもの。
妻有ポークを使って、中近東風のハンバーグをつくっちゃおうとか。
地元の食材に自分たちの感覚をかけ合わせたらどうなるか。
けっこうみなさん、おいしいと言って食べに来てくれますよ」(池田さん)

東京と十日町を行ったり来たり、となるとネックは移動の問題だが、
実は十日町市が、農業体験をする人や十日町で働く人のために、
東京と十日町をつなぐ無料の往復バスを週末だけ運行させている。
山ノ家で働いているスタッフも、東京方面からそのバスを利用して来ているそう。
おもにアートや建築を学ぶ学生さんたちに、いわばインターンとして来てもらう。
彼ら、彼女らにしてみれば滞在費はほとんどかからないし、おいしいごはんが食べられて、
いろいろな人に出会え、オフの日は芸術祭を見て回ることもできる。
お互いハッピーというわけ。
「土地の持つパワーがあり、芸術祭があることで
カルチャーインフラがすでに存在していたこと、そして移動のシステム。
この3つがあるから、この場所が成立しえたと思います」(池田さん)

十日町の面積は、東京23区と同じくらいだが、
人口密度は1キロ平方メートルあたり十日町が100人弱なのに対し、
東京は6000人と、ものすごい差だ。
「ある時代の流れのなかで、人にしろ情報にしろ、
高密度であることが善になっていったのだと思いますが、
3.11以降は特に、それだけでいいのだろうかという考えが強くなってきたと思います。
僕らも根底にそういう思いがなかったら、ここに来ていなかったかもしれない」(後藤さん)

でも、3人は東京を捨てたわけではない。あくまで、拠点が増えたということ。
「帰れる場所が複数あったほうがいいんじゃないかと思うんです。
いまも週に一度くらいは東京に戻っていて、東京の利便さも手放していないけど、
こちらの生活も満喫しています。
ホームグラウンドが倍になって、ダブルローカルという感じ。
次はトリプルローカルにできればと思っています」(池田さん)
震災後に移住した人は少なくないが、移住に踏み切れないでいる人はもっと多いはず。
“東京かローカルか”ではなく、こういうライフスタイルも、
選択肢のひとつとして考えてもいいはずだ。
「人口密度の高いところと低いところを行き来するのが重要なのではと思っています。
移動にはコストも時間もかかりますが、みんながどれだけ快適に移動できるかという
しかけづくりもしていきたいと考えています」(河村さん)

キッチンでは朝からスタッフがせわしなく動き回っていた。アートや建築を学ぶ学生のインターンも多い。

山ノ家でいただく朝ごはん。万願寺唐辛子と鶏肉のハーブ焼き、塩豆腐、まいたけご飯、みそ汁。このあたりでとれた素材で自分たちが食べたいものを。

「茶もっこ」文化があったから。

山ノ家を立ち上げるにあたってキーパーソンとなったのが、先述の若井明夫さん。
池田さんいわく「シンクグローバル、アクトローカルの権化のような人」で、
完全無農薬農法で農業をしたり、どぶろく特区制度の認定を全国で最初に取得したりと、
バイタリティあふれる人。
山ノ家で出すみそ汁は、若井さんの畑でとれた大豆でつくった自家製のみそを使っている。
その若井さんのアイデアからできた「ほくほく茶もっこウォーク」という
ストリートマップが置いてあった。
ほくほく通りは江戸時代から街道筋として栄え、旅人が来ては休んでいくエリアだった。
このあたりには、旅人たちにあたたかく声をかけ、お茶でも飲みながら話をする
「茶もっこ」とよばれる文化が古くからあり、それを復活させて
外から来た人に体験してもらおうと、茶もっこができる場所をマップにしたのだ。
「僕らが初めてこの場所を見に来たときに、向かいの方がひょこっと出てきて、
“何しに来たの?”と聞かれたんです。ここで何かやろうと思って、と話すと、
ふた言目には“まあコーヒーでも飲んで行け”と(笑)。
それが最初の体験としてすごく印象的でした」(後藤さん)
「もともとここには茶もっこの文化があったから、
外から来る人に対してオープンハートなんです。
このマップはほくほく通りの有志でつくったんですが、
こういうことがやりたいけど最初はみなさんどうしたらいいのかわからない。
じゃあ私たちがお手伝いできることがあるので、やりましょうと。
私たちは逆に、畑のことや雪の下ろし方を教えてもらったり。
お互い助け合っています」(池田さん)

まずは、新しい拠点ができた。
第2フェーズとしては、芸術祭が終わったあと、秋から冬にかけて
自分たちオリジナルのイベントやプロジェクトを発信していこうと、3人は考えている。
「実は、オフシーズンの妻有も楽しいんですよ。
芸術祭の会期中でなくても見られる作品もあるので、
オフシーズンの妻有アートツアーみたいなものができないかとか。
あと私たちはもともと映像やメディアアートのネットワークがあるので、
冬は雪原にプロジェクションマッピングをしたり、雪の中でのサウンドとビジュアルの
アート祭りをやりたいなとか、いろいろ考えています」(池田さん)

イベントだけではなく、ジャムのプロジェクトも進行中。
それも若井さんのアイデアで、休耕地に木の実がなる木を植えて、
その野生に近い木の実でジャムをつくるというもの。
畑は人手が足りなくなるとどうしても休耕地が増えてしまうが、
ほとんど手を入れなくても木の実は実る。
実際に若井さんがつくった木イチゴで試作品のジャムをつくっているところだ。
「私たちは、いい意味で異分子だと思いますが、若井さんも期待してくれています。
いろいろなことで化学反応を起こしてほしいと思っているみたい。
実際に少しずつ、起こしつつあると思います」(池田さん)

東京のフードクリエイターが山ノ家に来たときに、野生の木イチゴでつくったジャムの試作品。

棚は、もともと履物屋だったこの家に置いてあったものを磨き直して使用。近くの下条地区の蔵からたくさん出てきて捨てられそうだった漆の器も譲り受けた。

information


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YAMANOIE Café & Dormitory
山ノ家 カフェ&ドミトリー

住所 新潟県十日町市松代3467-5
電話 025-595-6770
http://yama-no-ie.jp
https://www.facebook.com/pages/Yamanoie-CafeDormitory/386488544752048

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YAMAIEHITO
社団法人ヤマイエヒト

東京・恵比寿を拠点に活動するクリエイティブユニット「gift_」のスペース+サウンドデザイナーの後藤寿和とクリエイティブディレクターの池田史子、それに映像ディレクターの河村和紀で立ち上げ、佐野哲史、若井明夫が顧問として参加。複数拠点のワーク&ライフスタイル実験の場としてカフェ&ドミトリー「山ノ家」を2012年8月にオープン。

土祭だより Vol.6

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月20日 ゆっくり満ちるもの

考えてみれば、2週間もつづくお祭りというのは、そうない。
長くて3日。それも週末などにあて、日常を忘れ
集中的に賑わいで燃えつきるといったものが多いのではないか。
土祭にしても、もちろん2週間まるまる益子の日常機能が停止するわけではなく、
週末が過ぎてウィークデーになれば、勤め人は会社に行き、子どもは学校に行くという、
ごくふつうの生活が戻ってくる。

火曜以降は、訪れる観光客もちらほらになった。
しかし、ふだんどおりの益子の営みのすぐ隣には
アートや特設ショップなどが依然として存在しているわけで、
高揚感が底に流れる静けさというか、日常と非日常が混在する面白い空気を感じている。
エッジのきいた現代アートの会場の受付で、
ボランティアのおじさんがこっくりこっくり居眠りしている様子などは、
なんとも、ほのぼのとしていい。

初日のセミナーで、小倉美惠子さんは
お祭りとイベントの違いから話をはじめていたのが印象的だった。
その意識が風土に向いているとお祭りになり、人に向いているとイベントになると。
新月の奉納演奏会から、満月の千秋楽まで。
風土と先人にじゅうぶんな感謝を捧げるのに、2週間は長すぎない。
月のテンポでゆっくり満ちるものを土祭はめざしている。

以下、昨日と今日の断片。

益子の陶芸家の若杉集さん、造形作家の庄司千晶さん、染め絵作家の冨山麻由子さんによる「益子の土を用いたそれぞれの表現」。築年明治38年の陶器店、岩下太平商店にて。(撮影:矢野津々美)

同上の展示。益子の地層を表現した作品についていた言葉。

19日の6時からは、スターネット「recode」で、土祭の総合アートディレクターをつとめる吉谷博光さんの映像作品『土祭』が上映された。前回の初日未明から満月の直会までを追った、土祭の精神あるいはエッセンスともいえる作品。その後、急遽依頼されて、なぜかわたしが吉谷さんの対談相手に。(撮影:矢野津々美)

上映とライブの合間には、ヒジノワにも出店している「色実茶寮」さんによる軽食が販売された。おむすび、おいしかった。(撮影:矢野津々美)

「土祭」のエンディングソングを歌ったarcoさんによるライブ。歌は益子の山中で録音され、同じその日にarcoさんは、お腹に新しい命が宿ったことを知ったのだとか。(撮影:矢野津々美)

戦前に窯業技術の伝習所として使用されていた小峰邸は、地元食材を使った益子の家庭料理が味わえる「土祭食堂」としてオープン。陶器店が軒を連ねる城内坂の路地裏、毎日11時半〜15時の営業。(撮影:矢野津々美)

畳に座って、わいわいと。(撮影:矢野津々美)

道祖土の信号から駅に向かう途中の右、見目陶苑の敷地には、かつての益子のまち並みを彷彿とさせる魅力的な建物が並ぶ。その奥の窯場が、小松義夫さんの写真展「たてものの未来 土の家」の会場。

映っているもの、小ささ、飾り方、どれもユニーク。

ときどき、ここで店を出すというワゴン車の移動パン屋さん「泉’sベーカリー」に遭遇。濱田庄司がブルガリアから持ち帰り、いまも濱田家に受け継がれているというヨーグルト種を分けてもらい、酵母に使用しているそうだ。

益子焼共販センターのシンボル、巨大たぬき。益子の今昔の移りかわりを、どう見ているのだろう。

共販センターの隣にある陶芸教室。

歩いていると突然に出現するビルボード。「益子の山には古い地層がむきだしになった箇所が幾つかあって、過去が現在に横溢してくるふしぎな感覚をおぼえる。それと同じ感覚をまちのなかでも起こしてみようと思った」と、アートディレクターの吉谷さんは、そんなことをいっていた。死んでしまった先人たちがいまの益子に蘇る。それがすべて働く姿であることに、どれだけの人が気づいているのだろう。

吸い込まれそうな夕暮れの空。

変わらない日常。

土祭だより Vol.5

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月18日 三日月 いのり

澤村木綿子さんの展示は、本通りの岡田酒店奥座敷にある。

かつて醤油やはちみつなどの食品の仲卸を営んでいた岡田屋。
その左脇を入ってまずある百年経った石蔵が商いのはじまりだそうで、
震災の爪痕か、瓦や土壁が一部崩れ落ちたその蔵でも
展示がおこなわれている(藤原彩人さんによる陶器の人の彫刻「空と色」)。

さらに奥にある座敷は、多くの従業員や使用人を寝泊まりさせるのに利用された建物で、
一階の応接間では結婚式なども挙げていたのだという。
廻り廊下で縁どられたその畳間は、襖も取り払われて開け放されているというのに
ひっそりと暗い。その薄闇の宙にふんわりと白いものが見えた。
キツネである。

キツネは、きらきらとした錦糸の刺繍のある茜色というか桜色のオーガンジーの衣装を、
まとうのではなく、まっしろの立派な尻尾を見せびらかしながら、
その衣装のうえに鎮座していて、「宙」にいるように見えたのはそのせいであった。

この、キツネつき衣装は人が身にまとうものなのである。
身にまとうと、ちょうどキツネが自分の肩に足をまわして
乗ってくれている姿になるそうで、わたしのようなものは想像しただけでも胸が騒ぐ。

動物のぬいぐるみというものに異常な愛情を抱く子どもだった。
母親に、おんぶひもで3匹も4匹も身体にくくりつけてもらい、
みんなでおさんぽと称して近所を歩き回っていた。
この年齢になっても、よくできたぬいぐるみをみると胸がときめくのは、
お恥ずかしいばかりなのだが、
いま思えば、あの行為は、好きなものとひとつになりたいという
生物としての根源的な欲求から来ていたのかもしれない。
なんて、それらしい言い訳をしたりして。

澤村さんのつくる動物は、ぬいぐるみというにはあまりに精巧でリアルで、
あまりに気高くて神々しいから、わたしはちょっと泣きそうになる。

彼女は数年前から、このキツネのように身にまとえる動物の立体作品を
「いのり」シリーズとしてつくりつづけている。
「自然界のすべての存在はつながっていて、
そのつながりから生まれる心安らぐ場をつくりたい」
使用する素材や染色も、できるかぎり天然をめざし、
身にまとうのは、べつの存在とつながるためのひとつの手段なのである。

喜び、はしゃぎまわる子どもを見つめる白キツネ。

さて次は、踏むたびにミシミシと音をたてる階段を登り、そっと2階にあがる。
ここで目に入ってくるものの姿に、ほとんどの人は思わず声をあげるだろう。

と、ここまで書いて、これから土祭に来るつもりの人がいたら、
種あかしをしすぎるのはどうなんだろうと思えてきた。
そのつもりの人たちは、ここから先は読まないで、なにがいるのかを楽しみに来てほしい。

さて、六畳ほどの和室の真ん中に立っているのは、大きな白熊である。
毛糸のエプロンスカートをはいているから、
女(メスとはどうしてもいえないわたし)の熊にちがいない。
前にまわって正面から見てみると、少し目を伏せ、
両手をエプロンの前でそっとあわせた、なんともいえない優しい姿をしている。

澤村さんによると、これは「お母さんグマ」なのだそうだ。
だから、エプロン、なのである。

冬の森のエプロンスカートをはいたお母さんグマ。身にまとった人の顔は、熊の顔の下にくるようになっている。

生きものの表情は、大好きな動物写真家の
星野道夫さんの写真からインスピレーションを受けることが多いそうだ。
このお母さんグマの顔つきも、星野さんが撮った親子の熊の写真を
何十枚と見ているうちに、子熊を見る表情が人間のお母さんと同じということに気づいて、
こうなったのだという。

目は天然石の瑪瑙(めのう)を少しだけ着色し、
鼻と爪は桜の木を彫ってつくっている(「土祭だより Vol.3」に写真あり)。
毛並みは木綿のファーで、手の甲のリアルな茶色は
コーヒーと紅茶で染めて出しているのだという。
エプロンスカートも、もちろん手づくりだとは思ったが、
その長い制作過程を聞いて、わたしは気が遠くなった。

まずは茶からグレイまでのグラデーションの4色の羊毛をそろえ、
足りない中間色は桜で染めてつくる。
その羊毛を簡易機で小さな長方形に織って(そのとき熊手という道具を使うそうだ。
だから「ほんとに熊の手で織ったんですよ」と澤村さん)、
何十枚かが織れたところでスカートのかたちに縫い合わせ、
さらにそのうえから毛糸で刺繍をした。
刺繍は雪の日の森をイメージしたもので、この冬の森のスカートのなかには小さな人、
つまりは子どもが数人、入れるようになっているのだそうだ。

そのアイデアは素晴らしいと思った。
なぜなら、わたしもお母さんのエプロンのなかに入りたくて仕方のない子どもだったから。
しかも、熊のお母さんのエプロンスカートに入れるなんて、僥倖以外のなにものでもない。

染めて、織って、刺して。

薄暗いせいで、気づく人は少ないのだが、1階と2階の床の間には、
澤村さんがこれらの作品に込めた思いを綴った文章が掛けられている。

わたしも見過ごすところであったが、よく読んでみようと近づいて見て驚いたのは、
黒い紙と思ったのは黒い布で、しかもその文字は
白い糸のチェーンステッチで刺繍されたものであったのだ。

作品がしあがったあとにはじめたその作業は、土祭開幕の朝までかかったという。
ここに2階にあった澤村さんのメッセージを引用してみたい。

 もりは きれいな くうきをつくる
 とりは そらを とぶことができ

 くじらは ひろい うみを およいでいける
 にんげんは……
 にんげんは
 そうぞうすることができる
 こどもたちの
 そのこどもたちの
 そのまたこどもたちの……
 ななつせだいさきの こどもたちの
 しあわせなくらしを
 そうぞうすることができる
 すべての いのちと ともに

パソコンで打てば、1分もかからない。それを何日もかけて手で刺す。
「いのり」とはそういうことなのである。

土祭においては、アートとその舞台になっている場の関係性を見るのも、非常に興味深い。アーティストは何か月も前から益子に通い、与えられた場に新しい命を吹き込むための展示を考えぬく。場は作品の一部であり、「畑の真ん中に訳のわからない異物」にならないのはそのせいである。これは大田高充さんのインスタレーション「風を招く試み」。風が吹けば竹林が揺れ、木造倉庫に取りつけられたプロペラがいっせいに回りはじめる。風の道が見える。

土祭だより Vol.4

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月17日 二日月 きれいな目

初日から、あれこれがんばりすぎてしまった。

今朝はゆっくり休もうと思っていたのだが、
6時きっちり、いきなり聞えてきた音楽で目がさめた。
題名はわからないが、懐かしい童謡である。
町内放送。この音ではいやがおうでも起きてしまうが、
文句をいう人がいないから今日も元気に鳴っているわけで、
益子の人は誰もが6時には起きているということなのだろうか。

ちなみに、その後、正午と夕方6時にも町内放送で音楽が流れた。
朝は早くに起き、正午には労働の手を休めて昼食を食べ、
日が落ちる6時にはその日の仕事を終えるというリズムが、
ものづくりの里である益子には昔から脈々と刻まれていたのだろう。
町内放送の音楽は、田畑を耕す農民にも、
窯や轆轤(ろくろ)場で働く職人の耳にも届き渡る、共同体の時間割なのだ。

本通りのガソリンスタンドで、こんな子たちを発見。この子たちもかわいいが、うしろの年季もののガソリンタンク(?)もかなりかわいい。

お昼前になって、土地勘のある本通りあたりまで行ってみる。

土祭は、益子町内を3つのエリアにわけ、
益子駅からつづくこの商店街のエリアは「土と風のエリア」と名づけられている。
酒屋さん、時計屋さん、文房具屋さん…… 昔ながらの店構えの小売店が軒を並べ、
路地裏に入れば古い蔵や門の跡、
少し奥まったところにある民家の風体もどことなく上品で、
その庭には一本、見あげると顎が痛くなるほど大きな樹がすっくと生えていたりする。

そういえば、はじめて益子に来たとき、いちばん心惹かれたのも、
この、ときどき出現する大きな大きな(と二度くり返したくなるほどの)樹であった。
わたしは鎌倉に住んでいて、まわりに樹はいくらでもあるのだが、
これほど大きな樹を見たという印象はあまりない。それも背景の違いだろうか。
ここはどこも空に抜けている。だから樹のぜんたいが見晴らしよく見えて、
それが「大きいなあ」という印象につながるのかもしれない。

ヒジノワ。左がカフェ、右がコミュニティースペース。土祭中は、彫刻家古川潤さんの展示と、住民プロジェクトとしてグリーンインテリアのワークショップなどが開催。

本通りの真ん中あたりにある「ヒジノワ」は、
土祭という母から生まれた子どものような場所である。

築百年の民家で、信用組合などの事務所として使われたあと、
長く空き家となっていたのを、2009年の土祭で現代アートの展示会場として改修。
その後、改修チームが中心となって地域コミュニティースペース&カフェとして立ちあげ、
いまにいたるまで町民たちの手で自主的に運営されている。
誰のものでもない、みんなの場所なのである。

カフェの店主には町民であれば誰でも立候補可能。
9月の出店者紹介のチラシの献立を見ると、マクロビ、家庭料理、韓国料理、
オーガニックのお菓子に天然酵母パン、
「ふだんは山の工房で陶器をつくってます」なんて陶芸家もいるようであるから、
ある意味「ごっこ」の楽しさがあるのだと思う。

プロフェッショナルではないカフェというものを、わたしはあまり好きではないのだが、
ここはなんだか、このゆるさがうらやましいくらいである。
一回目の土祭をまちの人々がいかに楽しんだか、その余韻がふっくら感じられるのである。
カフェという言葉とはあまりに不釣り合いなおじさんが、不器用に一生懸命に、
でも楽しそうにコーヒーをいれてる姿なんかを見ると、
へりくつよりも心が楽しいのがいちばん大事。
そんなふうに、素直に明るく思えてくるのだ。

前回の土祭で美術家・仲田智さんが発表した、益子釉薬のテストピースを用いたコラージュが、そのまま壁に残されている。

一個のデザートをふたりで分け合っていた女の子たち。可愛らしいのでカメラを向けたら、顔をかくされてしまった。

午後は、昨日にひきつづき「つかもと迎賓館」で開催されるセミナーへ。

今日の講師は発明家で、那須町で「非電化工房」、ご本人いわく「非電化テーマパーク」を
主宰されている藤村靖之さんである。
発明家というのは、獣医につづく、わたしの憧れの職業であるが、
白いおひげをたたえた藤村さんは、
そのどちらといってもおかしくない面立ちをされている。

震災後、にわかに注目を浴びた藤村さんはいま、
書いた本が売れて売れてしかたがないという人生初の体験をされているのだそうだ。
しかし、もちろん藤村さんがされてきたことは、お金儲けとは対極にある、
エネルギーとお金を使わずに人はどれだけ幸せになれるかという高遠な試みであって、
ひっくり返せば「幸せとは何か」ということをずっと問いつづけてきた人
ということになる。

発明家の話を夢中で聞く、いがぐり坊主の兄弟。アフリカの土の家の写真を見ると、「ぼくもつくろうかな」とつぶやいていた。(撮影:矢野津々美)

「エネルギーとお金をかけないということはどういうことか? 
それは自分でつくるということです。自分でつくれば時間がかかるし、
工夫も努力も人との協力も必要になるけど、
幸せというのはその過程のなかにあるんじゃないか」
「ぼくは、たかがお金のために、若者に不幸になってほしくないんです。
だから、ほら、お金なんてかけなくても豊かさを得られるじゃないかということを、
ぼくのテーマパークでぜひ見てもらいたいと思っているんですね」

ひとしきりのお話のあとは、世界各国の土の家を撮りつづけ、
今回の土祭で「たてものの未来 土の家」の展示もしている
写真家の小松義夫さんとの対談となった。
藤村さんが小松さんの本の熱心なファンということから、実現した顔あわせらしい。
小松さんは、子どものための家の本を多数出版されているようだ。

右が小松義夫さん。

藤村

ぼくは、困っている人を助けるのが発明家の仕事だと思ってるから、
よくアフリカに行くんですね。
お金がない、お水がない、アフリカには困っている人がたくさんいるんです。
それでね、世界一貧しいといわれているジンバブエに行ったとき、
そこにある家が世界一すてきだと思ったの。
世界一貧しい国の家が世界一すてき。
そんなことが自分の内で起こったことが愉快で愉快で。

小松

それはあたりまえですよ。アフリカの土の家こそ、未来の家のかたちだと、
ぼくは思っていますから。
日本や先進国の暮らしは、もう行きづまってるでしょ。
行きづまったら、うしろを見るのがいいんです。

藤村

ぼくたちは、つねに、アメリカとかフランスとか、
自分たちより豊かな国の家をすてきだと思ってきた、いや、思わされてきましたね。

小松

うん、そう。でもほんとのユートピアはどっちなのかってことですよね。
貧しい国はお金がないから、そこにある素材で自分たちでつくるしかない。
でも、それがもっとも利にかなって気持ちのいい、
風土になじむ家になるんです。
そこにある素材というのは、その土地と一緒に呼吸してきたものなんだから、
景観として土から生えているようにすてきに見えてあたりまえなんです。

藤村

それが人間味ともいえますね。

小松

ぼくがいつも思うのは、貧しい国でほど、すてきな目に会える。
子どもの目なんて、それはきれいですよ。
それはなぜなのかということを、考えてみるときがきていると思います。

藤村さんが制作指導し、益子町の隣の真岡工業高校の生徒がつくった電気を使わない冷蔵庫。左の女性は図面制作した海老原綾さん。夕焼けバーや「鶴亀食堂」などで使用されている。(撮影:矢野津々美)

土祭だより Vol.3

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月16日 新月 土祭開幕・午後の部

開幕の日については書きたいことがたくさんあり、午前、午後と分けてみた。

開幕式のあとは、隣接する鶴亀の池周辺につくられた「たてものの未来 食卓の家」と
「鶴亀食堂」をめぐり、そのまま本通りまで戻って、前々から楽しみにしていた
澤村木綿子さんの作品「いのちはつながっているのだから」をとんで見にいった。
澤村さんとは東京で一度お会いしたことがある。
はかなさの奥に底知れない強さを感じさせる彼女が、この益子に与えられた場で、
どんなものをつくりあげるかがとても気になっていた。

ふらりと入った「食卓の家」は、縄文の竪穴式住居を
地場で手に入る天然素材だけで再現した、
作者のひとりである高山英樹さんいわく「ほったて四阿(あずまや)」で、
木と土と石と水、そして火と光という地球の基本エレメントが
むきだしで感じられる空間になっている。
人が気持ちいいと感じるために、ほんとに必要なものはこれだけでしょ。
そういっているような小さな家である。

「こんなところでお茶が飲みたい、夜は酒が呑みたいっていう、
シンプルにそんな場所をつくりたかった。
みんなにもここに座ってもらって、なんだかよくわかんないけど気持ちいいという、
その感じを体感してもらうことで何かが変わっていくんじゃないかなと」

今回の土祭には、ほかにも「たてものの未来」をテーマに、
これからの住環境、というとなにやら難しくなるが、つまりは生活の器、
煎じつめれば人間の居場所を考えていく展示がいくつかあるようだ。
震災後に、とってつけたように大企業が喧伝しはじめた「スマートハウス」に
ほんとうの豊かさがあるとは思えない。
原発をつくってきた家電メーカーの「すりかえ」に、わたしたちはもうだまされはしない。

ならば、ほんとうの豊かさって何だろう。
高山さん、そしてもうひとりの作者である町田泰彦さんから聞いた話は
とても面白かったのだが、(またまた長くなるので)ほかの展示も見たあとで、
あらためてまとめてみたいと思う。

篠竹と間伐材の「おとし」(廃棄部分)を組み合わせてつくられた食卓の家。小さな窓(?)からの眺めも粋に設計されている。何が見えるかは行ってのお楽しみ。

日干し煉瓦の囲炉裏ふう食卓を囲む座は、地元の庭師さんからもらい受けた石。「板の隙間も生きてるでしょ」と高山さん。光が遊ぶ。

澤村木綿子さんの作品の一部を予告編として。桜の木でできたこれは、さて何の手でしょう。このお話はあらためて。

つい忘れてしまうのだが、益子も昨年の震災で大きな被害を受けた被災地なのである。
3月11日のあの震災は、日本人のひとりひとりに
「これから、どう生きていくべきか」という命題をたたきつけた。

誤解を恐れずにいえば、わたしはやっぱり神様はいると思ったのであり、
ぎりぎり、もう地球がぎりぎりという一歩手前で、
わたしたちに情けをかけ、最後の警告を与えてくれたのではないかと思っている。
言いかえれば、いまならまだ間に合う、そうおしえてくれたとも思われるのだ。

いまならまだ間に合う。このフレーズを、わたしは近頃よく耳にする。

この日の午後のセミナーでお話をされた小倉美惠子さんの口からも、
このフレーズが出て、はっとした。
「いまならまだ間に合う」。そのことに気づき、動きはじめている人がたくさんいる。
震災前のとおの昔から危うさを察知し、こつこつ着々と
自分のできることをしつづけてきた人たちもいる。
人が動いている姿は、あらたな人を動かす。

今日明日、そして来週週末に全5回の予定で開催される土祭セミナーの講師には、
どうもそんな人たちが選ばれているようだ。風土、自然、民藝、手仕事……
益子を益子たらしめるこれらをキーワードに講演をおこなうのは、
話題の映画『オオカミの護符』のプロデューサーで、同名の著書も出版した小倉美惠子氏、
発明家で「非電化工房」主宰の藤村靖之氏、
禅研究の大家である鈴木大拙の秘書を長年つとめた岡村美穂子氏に、
日本民藝館学芸部長の杉山享司氏……。
なんとも興味深いラインナップ。これはどれも聞き逃したくはない。

セミナー会場となる「つかもと迎賓館」は、隣の茂木町から移築した、この地方の代表的な庄屋造り。棟方志功がアトリエがわりに滞在したこともある。(撮影:矢野津々美)

今日の小倉美惠子さんのお話からして、非常に示唆に富んだ内容だった。

わたしは小倉さんと同じ年である。
高度経済成長の申し子として恩恵にあずかりつつも、
大切なものがどんどん壊されていく、大切なものから消えていってしまう、
何かが間違っている! と叫び出したいような、
時代への反発をずっと抱きながら成長したという点では共通するものがある。

『オオカミの護符』は、加速度的な開発で生まれ育った農村が
「まち」へと変貌を遂げるなか(それが川崎であることに驚くのだが)、
昔から変わることなく生家の土蔵の扉に張りつけられていた1枚のオオカミのお札に、
小倉さんの目(意識)が留まるところからはじまる。
ずっと見ていたのに、見えていないものがある。
それが忽然と見えてくるのは「とき」が熟したということで、
小倉さんは牙のある「オイヌさま」に導かれ、
日本人が捨ててきたものをていねいに拾い直すような心の旅に出ることになるのだ。

ゆっくりと咀嚼して身体にしまいたいような言葉がたくさん聞けたのだが、なかでも
「所有しないことが、そのものの命を永らえさせる唯一の知恵」といわれたときは、
がんと頭を殴られたようだった。

講演後は映画の上映もあった。出てくる老人はみんないい顔をしていて、
これを映像として記録できただけでもよかった、「間に合った」のだと思った。

途中で機械の調子が悪くなり、1時間ほど中断するハプニングもあったが、
席を立つ人がいないのも驚きだった。
ぎりぎりまで待って、電車の時間があるからと残念そうに帰った女性がいたが、
彼女にしても川崎の小学校の先生で、小倉さんにぜひ子どもたちに話をしに来てほしいと
一言を残して帰っていった。

種が蒔かれれば、そのうちのいくつかは発芽する。まずは蒔くことが大切なのである。

夕暮れどきから夜にかけては、土祭広場に設置された櫓と土舞台で恒例の奉納演奏会が。和太鼓、獅子舞、神楽、雅楽、お囃子など益子各地に受け継がれている伝統芸能が披露された。(撮影:矢野津々美)

土祭広場に建つ「夕焼けバー」の屋台は、昨年の「前(まえ)土祭」で地元の大工さんたちが杉を用いて制作したもの。終了後に解体し、廃校になった小学校に保管していたものを再び組み立てたのだという。出店は地元商工会青年部や料理店、カフェのオーナーなどで、今年は非電化冷蔵庫の試みもあり。器は使い捨てのプラスチックではなく益子焼。そういうところが、この祭りの真骨頂ともいえる。新月の夜。星が降りそうだった。(撮影:矢野津々美)

土祭だより Vol.2

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月16日 新月 土祭開幕・午前の部

朝9時。益子町の東のはずれ。大羽の里。

ボランティアによる手作りの登り旗が会場をさししめす。準備期間を含め、のべ600人のボランティアの働きが祭りを支えている。

第二回土祭の開幕の儀は、かつてこの地を治めた宇都宮氏が築いた菩提寺、
地蔵院に隣りあう綱神社の境内でとりおこなわれた。

建立1194年の木造本殿は茅葺き屋根に寸尺の板間のささやかさだが、
背負うように森に取り囲まれて、空気がひたすら澄んでいる。

綱神社に奉納品が並ぶ。(撮影:矢野津々美)

まちはずれの雑木山中にひっそり佇み、地元でも知らない人が多いという
この神社を開幕の儀の会場に選んだのは、
おそらくは前回にひきつづいて土祭の総合プロデューサーをつとめる
馬場浩史さん(「スターネット」主宰)に違いない。
「いいでしょ、この場所」
馬場さんと話すと、わたしはいつも一瞬にして遠いところに連れていかれる
(いわば下界から天上足下と縦横無尽に)思いがするのだが、
この朝もそうだった。

ほんの数分の間に話は神社の森の奥につらなる山々のいにしえの歴史となり、
その山の歴史が益子の里の文化に
どう影響を及ぼしてきたかをいっきに明快に語ると、
綱神社があるこの一帯を、馬場さんは
「この地のもっとも古い“極”」と表現した。

「極」とは、そこから先はない最果てであると同時に、
中心、という意味ももつ言葉である。
約千年の昔に、この地を守るため、そして子孫を守るために
先人が築いた祈りの場所。
しかし時の流れのなかで忘れられつつある聖地にあらためて人が集い、
厳かなる儀式をおこなうことで、
「極」としての力をふたたび蘇らせたい。
馬場さんには、そんな気持ちがあったのかもしれない。

境内で隣りあう摂社大倉神社。綱神社同様に茅葺きが美しい。

土祭において、アートはとても重要なファクターである。
今回も40人近いアーティストが参加して、
町内各所の会場で新しい表現を見せてくれることになる。

じつはわたしは、ここ数年のブームともいえる地方のまちおこし的芸術祭に対しては、
ひややかな思いを抱いている人間であった。
なぜ畑の真ん中に人がつくった訳のわからない異物(もちろん佳作もあるが)を
運びこまねばならないのか。
それこそ、あるがままのつらなりが台無しになるだけじゃないか。
朽ちるものは、そのまま朽ちさせてやってくれという、
諦観というか、なげやりな一面が自分のなかにはあった。

無知からくるそんな思い込みを軽くとっぱらったのも馬場さんの言葉で、
半年前にやはり益子を訪れ、土祭の話題になったとき、
たしかこう仰ったのだった。
「アートはお灸のようなもの」と。
いや、もしかしたらハリだったかもしれない。
とにかく、益子という場所のツボと思われる場所
——歴史のある建物や人知れずひっそりある聖地——を新しい表現の舞台にすることで、
停滞していた場の血のめぐりをよくして、ふたたび生き生きとさせたいのだと。

この例え話は非常によくわかった。
目の曇りがきれいに洗われたようであった。

もともと芸能というものは人と神さまの仲立ちする行為で、
場所を言祝ぐ力があるとされていた。
それに等しい人を超えた力が、いまはアートに期待されているのだ。

この綱神社から隣接する鶴亀の池一帯も、
日本のフィールドレコーディングの草分け的存在である
川崎義博さんによるサウンドインスタレーションの舞台となる。

開幕式の際も「楽を奏す」という次第で束の間だがその音が流されたが、
気配が泡立つというか、森が、さらにひろがったようであった。
これはぜひ、人のいない時間にもう一度訪れてみたい。

宮司の祝詞を頭を垂れて聞く町の人々。

活力に溢れた大塚朋之町長は47歳。(撮影:矢野津々美)

開幕の儀は、土祭実行委員長でもある大塚朋之町長の挨拶につづき、
町の有志が竹林から切り出して手作りしたという
青竹の杯による乾杯で幕を閉じた。

関係者にボランティアに氏子代表、古老に親子づれに
一見して移住者とわかる都会的な人々。
この多様な集まりを見ただけでも、ここがほかとはどこか違う
チャーミングなまちであることが伝わってくる。

若き町長さんの挨拶がまた洒落ていた。
「見たことのない顔が見え、聞いたことのない音楽を聞かされて、
神さまもきっと驚かれていることでしょう。
しかし、この状況をきっと喜んでくれていると私は思います。
過去をていねいにていねいに見つめていくことで、
益子の未来が自然に見え、開かれてくる。
土祭が、そんな二週間になることを願っています」

儀式終了後、人気のなくなった境内で黙々と片づけをする氏子たち。

土祭だより Vol.1

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月15日 土祭前日

数えてみたら、益子を訪れるのはこれで五回めだった。
もっと来ているような気がするのは、そのつどそのつどの時間の深度のせいだろう。
来るたびわたしは、ああ、日本も昔はこのように美しかったのだ、
という感慨でいっぱいになる。
山から森、森から川、川から田んぼ、そして人の暮らす里山が、みなつらなってある。
つらなって美しいという感覚は、イギリスの田舎が
なぜこんなに美しいのかと考えていたときに気づいたことで、
そこには人の征服欲による自然の分断が見えないからであった。
ちいさく、もろい、わが国であるから、コンクリートによる支配は
ある意味しかたがないとしても、必然はとっくに超えて過剰というのが現実だろう。
どこもかしこも固めつくされ、つまりは土が覆われ視界から消され、
その感触や匂いが希薄になるにつれて、日本人の心は変わっていった。
かくじつに鈍麻していった。これは単なる個人的見解だが、人の心の襞は、
その身体がどれだけ多くの手触りを知っているかに比例して育つように思う。
たくさんの本を読んだ人より、たくさんのものを触っている人のほうが人間として強い。
とくに土から離されると、よるべなくなるのが人であるはずなのに、
つるりとした人工的な世界に慣らされ、
そんな根源的な感覚すら麻痺してしまっている人のなんと多いことかとも思う。

益子の昔の暮らしぶりを写しだしたモノクロームの写真が、町の各所に特大パネルにして飾られている。これは大正13年前後、新年の益子焼初出荷のようす。

土を耕し、土を捏ね、土に触れながら生きてきた益子の人々の心には、
自然がおのずからある景色を美しいと感じ、積極的に放置するというまっとうさが、
いまもふつうに息づいてある気がする。
そして、ただあるものを守るだけでなく、卑屈に心を閉じず、
外からやってくる人や新しい文化を受け入れる柔らかな土壌もここにはあった。
しかし、それは何でもかんでもというわけでなく、
自分たちの生活をより豊かにするものを主体的に嗅ぎわけての受容だったのではないか。
濱田庄司の民芸運動しかり。いまでいえば「スターネット」しかり。
2009年に第一回めがおこなわれた土祭(ひじさい)は、ちいさなまちのお祭りとしては、
かなり特殊なものだったと思うが、それもこの地だから実現しえたことだろう。
「ひじ」とは、古代における土や泥の呼びかたなのだそうだ。

 益子の風土、
先日の知恵に感謝し、
この町で暮らす幸せと
意味をわかちあい、
未来につなぐ。

これが土祭のめざすところである。
あした、月が闇に消える新月の日。第二回めの土祭が幕を開ける。

厳しい残暑のなか、もうコスモスが揺れていた。

そば畑だろうか。白い花が一面に。

益子に到着したのは、山に夕日がしずむ直前。