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土祭だより まとめ

ローカルアートレポート
vol.026

posted:2012.10.14   from:栃木県芳賀郡益子町  genre:アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  各地で開催される展覧会やアートイベントから、
地域と結びついた作品や作家にスポットを当て、その活動をレポート。

editor's profile

Rumiko Suzuki

鈴木るみこ

すずき・るみこ●静岡県出身。出版社勤務を経て渡仏後、フリーランスに。女性誌や生活関連書籍の編集&執筆に携わり、2002年には初代編集長と2人で『クウネル』を立ちあげる。10年間編集に携わったあと、つぎにやるべき楽しいことを模索中。編著に『スマイルフード』『パリのすみっこ』等。

credit

撮影(メイン画像):矢野津々美

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

「ヒジ」の音がめくるもの

ずいぶん、だいそれたことをしようとしたものだ。
益子に滞在し、土祭をリアルタイムでレポートしたいというのは
自分から言い出したことだったが、実際はじめてみると、
あらゆる意味でそれは簡単なことではなく、日を追うにつれ、
わたしのなかではそのような申し訳なさとも情けなさとも言える思いがひろがっていった。

気づきと喜びばかりの2週間であった。
それは土祭という、とくべつな出来事からにかぎらず、
益子という共同体、そこに暮らす人やふくよかな自然、
さらには、このまちの重要な「極」をなすスターネットという場からも
降り注ぐように届けられたもので、わたしという器は、その恵みをぜんぶ受けとめ、
それをまた十全に誰かに送り返すためには、カラッポでありすぎたのである。
つまり、自分のなかに留まったままになっているもののほうが
排出できたものよりずいぶんと多くて重くて、レポーターとしては、
失格と言っていいのかもしれない。

おそらくは自分がいまもっとも必要としていたもの、
問いに対する答えのヒントのようなものが、凝縮してそこにあった。
だから、渇いた土に水が滲みいるように深いところまで浸潤し、
わたしはそれにまだ名前をつけることができないでいる。
ぜんぶを書けたわけではないし、こんな抽象的な言い様は
おおげさに思われてもしかたない。
自分でもわかっているのは、その水がとても清らかで、栄養分に富んでいるということで、
わたしの内面はすでに養われはじめている。
水は、細く光りながら流れ、自分のゆく先の道筋をもつくりはじめているのを感じている。

9月30日。
夜空に浮かぶ満月で幕を閉じるはずだった千秋楽は、
台風接近のニュースを受け、急遽時間をくりあげて午後3時からの開始となった。
演出をつとめた馬場さんは、一時は旧濱田邸に舞台を移しての開催も検討されたようだが、
やはり土祭の象徴ともいえる土舞台を使いたいと考え直し、
時間変更という苦渋の決断をされた。
満月は、天気予報によれば、とうに絶望的になっていた。
「こういうことに、なっていたのかな」
残念ですね、と声をかけたとき、馬場さんはじっと前を向いたまま、
ぽつりとそうつぶやき、わたしは返す言葉が見つけられなかった。
「でもまあ、それはそれで。重要なのは、土舞台で朝崎さんが唄うということだから」

益子の各所で採掘した土を地層状に重ねた土舞台の壁は、前回の土祭で、
カリスマ左官の狭土秀平さんの指揮下、みんなでつくりあげたものである。
震災後の春に益子を訪ねたとき、馬場さんはわたしを駅から直接この場所に案内し、
「地震のあと、まずはこれが崩れていないか確かめに来たんですよ」と言っていた。
馬場さんにとって、これがどれだけ大切なものであるかということだ。
「みんな、足もとの地下にこんなふうに何億年かけて
連綿と積みあげられてきた歴史があることを、すっかり忘れて生きている。
これを見ることで、それを思い出してもらえればと考えてつくったのだけど、
そこに今回の地震でしょ。
………大地も、地球も、生きているということですよね。
生きて呼吸をする生命体なんです」
今回、千秋楽を迎えるまで空白の三和土の舞台には、
スターネットの料理長である星恵美子さんの手で野菜や花が美しく飾りつけられていて、
馬場さんはそれを「よりしろ」だと言っていた。
よりしろ? 
その言葉がわからなかったわたしは、部屋に帰ってさっそく調べてみたわけだが、
「よりしろ=依代=神霊が現われるときの媒体となるもの」と辞書にはあり、
そこが風土の神々や精霊とつながる新たな装置であることを了知したのだった。

その聖なる装置で、前回の土祭にひきつづいて閉幕の儀のフィナーレを飾ったのが、
奄美島唄の唄者、朝崎郁恵さんだった。
「ウタシャ」という言い回しは初めて聞いたのだが、
それはまさしく「歌」ではなく「唄」であり、人の声という芸術、
あるいは神ごとであった。
宵の色という演出効果はなくとも、朝崎さんが一声を発したとたんに場が静まり、
ちいさな子どもすら口をぎゅっと閉じて舞台を凝視した。
「楽譜のない島唄を演奏してくれる、わたしのすてきな家族です」
とバンドのメンバーを紹介する朝崎さんは、柔らかな雰囲気の可愛らしい人で、
照葉の髪かざりに浅黄色の羽織、宮沢賢治が詩を書いた
「星めぐりのうた」を唄ってくださったときは、とてもうれしかった。

演奏会がはじまったときの青空に、しだいに予報どおりの鉛色の暗雲がたちこめ、
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちはじめたときはライブの終盤にさしかかっていた。
「だいじょうぶ。神様は待ってくれてます。いそぎましょう」
ほんとうに黒々としてきた雲の下で朝崎さんはにこやかにそう言うと、
さいごの一曲を熱唱。唄いおえてお辞儀―合掌―をするやいなや
大粒の雨が落ちはじめ、わたしたちは三々五々に席をたったのだが、
胸の奥では誰もが空にむけて一礼をしていたのではないか。
真上の空で準備万端、鼻息も荒い雷神風神に「待て」をしている神様の図を想像して、
わたしもひとり、くすりと笑ってしまった。

雷神風神は堰をきったようにそれから夜まで暴れまくり、
しかし真夜中すぎには雨もやんで雲がきれ、空には、まんまるの満月が輝いた。
ある人は、窓から差し込む月の光が強すぎて
目がさめてしまうほどだったと言っていたのだが、
わたしは、その光に気づくこともなく眠りこけていた。
つまりは土祭のほんとのフィナーレである満月を見逃したのであった。ああ。
その後、朝崎さんが言っていたそうだが、奄美大島では満月の大雨大嵐は
生まれかわること、次に新しきよきことを迎えられる吉兆と、
古くから語り継がれているのだそうだ。
そのうえ満月である。
これはもう最高の、ハッピーエンドということになるのではないか。

できれば会期中にしっかりと書きとめたかったのだが、
結局はたせなかったことがひとつある。
土祭を裏で支えたボランティアの働きについて、である。

はやくから役場のホームページで応募者をつのり、
町内、町外、首都圏からも集まったというボランティアの数は、のべ600人。
背中に縦書きで「土祭」とある揃いのTシャツを着た彼らの仕事ぶりは、
ほんとうに爽やかで献身的で、わたしはずっと頭が下がる思いで見ていた。
展示会場の受付、案内、ワークショップや講演会のヘルプにお茶出し。
開幕するまでの準備も、そうとう大変だったと思う。
展示会場となる古い建物の掃除から改装、
(簡易な組み立て式ではなく)竹と麻ひもでつくる屋台の設営、アーティストの補助、
一枚一枚心をこめて「書」でしたためた登り旗だけ見ても、はんぱな数ではない。

「しかたねえっぺ。おれらしか、できないしよ。まちのためって思ってな」
町役場で会った「益子・竹チーム」のおじさんに
「(設営)大変だったでしょう」と声をかけた答えが、これである。
「しかたない」は照れ隠しで、若者たちと一緒に何かができること、
技術や腕がまちのためにまた生かせることがうれしくてたまらないといった笑顔に、
土祭という新しい祭りが(馬場さんの言う)鍼灸効果をはたすのは、
場所に対してだけでなく人に対してもなのだと実感した。

ボランティアスタッフのための食事の世話は、
まちの料理上手なお母さんたちが、これまたボランティアでつとめ、
公民館が一時的に姿をかえたこの無料食堂は温かな、ほんとうにいい雰囲気で、
わたしはここに行くことを大きな楽しみのひとつにしていた。
「ひとりぶん、お願いしまーす」と厨房に声をかけて席につけば、
三角巾にエプロンのお母さんが「お疲れさまー」とその日の定食を運んできてくれる。
豚丼、カレーライス、おにぎり、開幕と閉幕の日にはお赤飯のごちそうも出た。
お米や野菜は農家の人たちが好意で提供してくれるもので、
山のように盛られたナスやキュウリのお漬けものは好きなだけ食べてよかった。
「ごはんのおかわりは? ほら、農家の人たち、自分たちが新米食べたいからってさ、
古いの、いっぱいもってきてくれちゃって(笑)」
お母さんたちとの他愛ないおしゃべりも楽しくて、
できることなら永遠にここで昼ごはんを食べつづけたいと、
わたしは本気で思っていた。

土祭が他の、いわゆるアートイベントと大きく一線を画すのは、
こういうところなのではないかと思う。
端的にいえば、お金のためだけでなく、多くの人が(町民も作家も参加者も)
みずからの自然発生的な意志や情熱によって動いているということで、
その無償の愛にも近い人間の思いが祭典を支える厚い層となっているのである。

数年前にフランスの修道院を取材したときのこと、
修道女とは世俗の人間関係に倦み、
神様とふたりきりになるためにその道を選ぶのだと思っていたのに、
「他者ともっと近づきたくて修道院の扉を叩いた」と言われ、おどろいたことがある。
それはどういうことかと訊ねてみると、そのシスターは白い紙に大きな円を描き、
その中心に黒い丸を打って、こう言った。
「この円周に人間がいて、真ん中に神がおられるとします。
神に近づこうとつとめる人間がふえればふえるほど、円はどうなりますか? 
そう、どんどんと小さくなって、人と人のあいだの距離も、
より近づきあうことができるのです」
だから神に近づく道はすべての他者に近づく道となり、
神に祈ることは、すべての他者のために祈ることになる、と彼女は言ったのだった。

少し話は違うのであるが、益子の人たちが土祭の成功という
ひとつの大きな目的に向かい、自分の労力と時間を惜しみなく捧げる姿に、
わたしは、シスターが図解してくれた、その円の収縮の話を思い出したのだった。
人と人の直接のつながりも尊いが、人を超えた何か大きなものが介在者となった絆は、
より堅固なものとなるのかもしれない。
神につながることで、人とつながる。
それが祭りというものの本質だったのではないか。

開幕前、クマ母の作家の澤村木綿子さん(「土祭だより Vol.5」参照)とボランティアスタッフのひとこま。物置と化していた酒店奥座敷の大掃除を敢行、ようやく展示を終えてのひと息か。お弁当は澤村さんがみんなのぶんもつくり、持参した。

長くなってしまったが、もうすぐ終わりである。
閉幕の日の朝、幸運にも「土祭」の命名者である武田好史さんにお話を聞くことができた。
すこぶる面白い内容だったのだが、その中から
「命名」が意味することについて話されたことのみ、書きとめておきたいと思う。

編集者でもあり博雅の士でもあり、森羅万象の綾を
無尽蔵な語彙で柔らかくほぐすように解析してくれる武田さんを、
わたしは「言葉の人」と紹介したいところだが、
ご本人に言わせれば「言葉は敵」なのだそうだ。
「言葉側にたつと、言葉にやられる。
ぼくが言葉に詳しいのは、言葉の僕(しもべ)にならないため。
言葉のマトリックスから逸脱して生きるためです」
お顔に柔らかな微笑みを浮かべながら、
たしか、そんな言い方をされていたと記憶している。

概念を結晶化させるネーミングの名人として、
建物、メディア、それこそ、子どもの名前に到るまで、
数えきれない命名を任せられてきた武田さんは、
馬場さんの古い友人でもあり、スターネットの名づけ親でもある。
星とネットワークをつなげた、その名の誕生秘話も面白いのだが、
また別の吸引力の強い話になってしまうので、ここでは省略する。
ただ、そこが「地上界にありながら天空につながる場所のサンプル」
となることを願ってつけたという話は、わたしには非常に腑に落ちるものだった。
「人間は、ある種の天の高みに精神をもっていかないと、それこそ堕落しますからね(笑)。
でも、天空にいるだけ、夢を見てるだけでは足下が崩れますから、
たえず行き来をしないといけない。とどまったら終わりなんです。
馬場さんは、天空を(地上に)うつし、足下もかためるという、
そのふたつをずっとくり返してやってきた。
稀なる人です。おみごとですよね」

おなじく天空と地上を自在に行き来した稀なる魂の持ちぬしとして、
武田さんは宮沢賢治をひいた。
星を巡る物語を多く書いた彼のなかでは、
鍬で耕す表土の下に眠る鉱物も、また星であり、それは賢治が、
天空と地層がまるまるとつながって互いに音楽的に響きあっている、
そんな世界観を生きていたからではないかと。
その賢治も命名の名手であった。
ふるさと岩手は彼のなかでは理想郷イーハトーヴであり、
北上川の西岸はイギリス海岸であった。
「名前をつけるというのは、ひとつの見立て。
世界をつくりかえるということでもあるんです」
そして、名前は、つけたら終わりというものではない。
そこに向かっていくものなのだと、武田さんはいう。
「あなたも、少なからず自分の名前に影響を受けていませんか?」
にっこりとそう聞かれ、わたしは思いあたるフシの多さに慄然とした。
人は名前をめざす。
「呼び方を変えるだけで、ものごとが変質変容するということが起こります。
そのもの自体がすばらしいとして、ふさわしい名前を与えると、
その美質がさらに増幅する、こだまのように。そんなことも起こります。
まさに命の名と書く、命名とはそういうものだろうとぼくは思います」

ならば「土祭」という名に武田さんがこめた思いとは何だったのだろうか。

土祭――それは視覚的にも端的で美しいが、
土という、身近でなじみ深い言葉を「ヒジ」と読ませることで、
ふっと時間軸がねじれるような、無意識下で何かが震えるような、
言い表しがたい感覚を与える音を兼ね備えている。

2009年、馬場さんから相談を受けた武田さんは、
「新しいお祭りをつくるなら、途方もなく根源的なことをやるべき」
ということを、まず思ったのだそうだ。
土を耕し、土を捏ね、土を感じてきたまち、益子――。
「土」という言葉が出てくるのに時間はほとんどかからなかった。
そして、大陸から漢字が伝わる以前の、古代の日本人が交わしていた「やまとことば」を
「ぼくはとても好きなんです」と武田さんはいう。
言葉が、目のものではなく、耳や口のものだった、その時代。
世界はもっと澄み、柔らかな、仮名の音がもつ宇宙が深く響きあっていたにちがいない。
「海」は「アマ」で「ウミ」とも言い、
「海(ウミ)」と「産み」が同じ音であることや、
天も海と同じ「アマ」であることには、昔の日本人の世界観がよくあらわれている。
土は「ヒジ」であり、「ハジ」、「ハニ」といった呼びかたもあった。
「ハニワ(埴輪)」、「ハニ(彩土)染め」といった言葉にも、その名残がある。
「その時代は言葉自体がもっとずっと少なかったから、言葉の構造、骨格というかね、
そういうものがしっかり見えて、(言葉がかたちづくる)世界のスケルトンも
すごく美しく見えていたんじゃないかと想像するんですね。いまは違います。
いまは言葉を生み出しすぎたために、言葉が言葉を相殺してしまっている状態。
中心で響いているものはあるのに、装飾が多すぎて、
よく聞えなくなっている状態なんじゃないかな」

その言葉の過剰の海に、祈るように、清めの一滴として投げ込まれたのが
古代の音「ヒジ」であった。そう解してよいのだろうか。
「言葉というのは、ひとつの気づきから連鎖して、
次々に面白いように『めくれていくもの』なんです。
土を『ヒジ』と読むと知るだけで、土以外のことごともめくれていく、何かが見えてくる。
そのきっかけになるといいなというのはありましたね」

めくれる、というその一言で、わたしはとてもわかった気になってしまい、
その言葉が具体的にしめす意味を武田さんに聞かなかった。
それは暗示的であると同時に非常にプラグマティックな言葉であるとも思った。
めくれる、めくる、剥ぐ、裏返す、返す。何を、どこへ。
「土、泥は、生命が着床し、育まれる宇宙の循環の元であり、
地球そのものを造形している」
武田さんは初回の土祭ガイドブックの序でそう綴った。
「ヒジ」という宇宙の根の音がめくったその先に、
わたしたちは還るのではなく、向かっていくのである。

(了)

information

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EARTH ART FESTA
土祭2012

2012年9月16日(日)~9月30日(日)
栃木県益子町内各所
http://hijisai.jp

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