木造の空き家が、 可愛い和菓子のお店へ。 シーンデザイン一級建築士事務所 vol.02

シーンデザイン一級建築士事務所 vol.02 
リノベが繋いだ縁

土屋ビル(vol.01参照参照)のあと、2009年11月から始まったのが
「KANEMATSU PROJECT」(山崎 亮ローカルデザイン・スタディ#052参照)でした。
明治、大正、昭和に建てられた3つの蔵と、
それをつなぐ平屋で構成される550㎡の空間を7人でリノベーションし、
シェアオフィスにしたり、カフェや古本屋に貸し出したり。
このプロジェクトでは本当にたくさんの人との出会いがあり、
同時に仕事ではリノベの依頼も増えていきました。

「KANEMATSU PROJECT」が始動してから半年ほどが過ぎた2010年5月、
「シェアオフィスであるKANEMATSUに不動産事務所を構えたい」と、
優しそうな容姿の男性がシーンデザインを訪ねてきました。
雰囲気も服装も全く不動産屋っぽくありません。
聞けば、遊休不動産をまちの有用なストックとして
リノベーションしていくことを事業としていきたいと言います。
わざわざ土屋ビルのリノベ設計者を探し、私のところを訪ねてきてくれたのです。
それが、(株)MYROOMの倉石智典さんとの出会いでした。
倉石さんがKANEMASTUで不動産事務所を開設してからしばらくは、
各々の立場でリノベに関わる仕事を続けていました。
そのうち、土地や中古物件探しを倉石さんに相談したり、
逆に、倉石さんが扱う物件の実測調査や古い建物の図面作成などを
私がお手伝いするというように、連携して仕事をする場面が徐々に多くなっていきました。

キャンプを楽しむように、みんなでリノベを楽しみたい

私も倉石さんも、従来の新築を建てる時と同じような建物の、
予定調和的な“つくりかた”がリノベには合わないのではないか、
また単一の業界の価値基準ではなく、
リノベとはもっと多角的な視点から取り組むべき課題であるのではないか、
とも感じていました。その思いが重なり、
2012年12月、それまで別々に携わってきたリノベに関わる一連の事業について、
各事務所のスキルを横断的に生かしながら取り組んでみようと
「CAMP不動産」という活動を始めました。

建築や不動産、まちのことは
“難しくて面倒”と思い込んでいる人は多いのではないでしょうか。
野外での〝キャンプ〟もそういうところがあると思うんです。
やり方、楽しみ方を知らないと、
ただただ虫が多いとか夜寒いとかBBQのナスが真っ黒で炭みたいだとか、
そういうちょっと残念な思い出で終わってしまう。
でも、虫除けのキャンドルを灯せば雰囲気だってよくなるし、
たき火の付け方を知っていたら一緒に魚も焼けるかもしれない、
ナスはホイルやダッチオーブンで蒸し焼きにすればトロリとしておいしい。
楽しみ方がわかれば見方も変わると思います。
それはキャンプも、地域も一緒。
見方が変われば、不便だと思っていたことが楽しみに変わったり、
使えないと思っていたものが、案外役に立ったりするかも。
だから、「CAMP不動産」はリノベの楽しみ方をサポートしながら
地域(キャンプ場)を良くしていくことを仕事にできたら素晴らしいと考えました。

使う人と建物との相性

そんな「CAMP不動産」が考えるリノベのカタチ(つくりかた)
をおぼろげながらイメージした最初の物件は
2013年5月に完成した「藤田九衛門商店」でした。

善光寺からほど近く、東之門町という場所にある木造2階建ての小さな民家。
もう十年以上、空き家となっていた物件です。

リノベ前の藤田九衛門商店。

床は傾き、外壁や内壁の一部は崩れ落ち、もちろん設備は使えない状態。
あまりの状態の悪さに、これまでこの空き家を紹介しても
なかなか借り手が現れなかった物件です。

柱は傾き、床は今にも抜け落ちそう。

そんな、だれも見向きもしなかった古い建物を借り受けて、
リノベしてお店にしたいと依頼してきたのは、
長年日本料理の世界に携わってきた藤田 治さん。

藤田さんはここで“鯉焼き”(!?)を売る和菓子屋を営みたいという。
鯛(たい)焼きならぬ、“鯉(こい)焼き”のお店を始めたいと
熱く語る関西出身の藤田さんに、「なぜ鯉なんですか?」と聞くと、
「信州と言ったら鯉でしょ」という屈託ない答え。

どちらかというと、鯉と言ったら北信の門前ではなく、
東信の佐久鯉が有名なんだけどな……と、うっすら思いながらも、
そういうノリは嫌いじゃない。県外から見れば北信も東信も“信州”には変わりはないし、
地元民だから持ってしまっている固定概念を軽く壊してくれる藤田さんには、
むしろ好感を抱いてしまいました。

さらに、藤田さんからいただいたイメージスケッチがとてもいい。

最初に藤田さんから頂いたイメージスケッチ。

ボロボロの建物の状況から、ここまでイメージを膨らませた藤田さんの絵は、
よほどこの建物に想い入れがあるのだなと感じさせてくれました。
私には、藤田さんの建物へ向けたラブレターにすら見えたほどです。

使う人と建物との相性はぴったり。

きっと藤田さんなら、一緒にこの建物のリノベを楽しんでくれそう。
そして、藤田さんの思い描くイメージをこの建物で具現化してみたいと思ったのです。

すべてを決めずに始めてしまう思い切り

先ず、藤田さんの要望を聞きながらラフな図面とイメージスケッチを描きます。

簡単な平面図とイメージパースで工事を始めてしまいます。

イメージが了承されれば、この図面だけで概算見積もりを立てて、工事をスタート。

一般的な建築工事では、工事に入る前に詳細な既存調査と実施設計図面を描き、
工務店などに見積もりを取って、詳細な工事金額が確定してから、
ようやく着工となりますが、CAMP不動産ではその部分を大幅に省いています。

これは、設計サイドと施工サイドとの信頼関係(もちろん施主とも)と、
リノベ物件を多く扱ってきたこれまでの経験値によるところが大きいのですが、
そもそもリノベーション工事は予測不可能な部分が多く、
新築工事のような予定調和的な進め方は合わないのです。

“やってみなければわからないのだから、やってみちゃおう!”ということです。

最初にいろいろと決めすぎず、その場その場の状況に合わせて柔軟に、
そしてアドリブいっぱいに工事が進んでいきます。
もちろん、構造的な不具合が見つかればその場で対処していきます。

状況に合わせて考えながらつくっていく

早速、簡単リノベプランをもとに建物の解体工事が始まります。

傍目には、いよいよ駐車場にでもなるのかな・・・と見えたかもしれません。

この時点では、詳細な図面がないのですから、
職人さんは何をどう壊していいかわかりません。
私たちは工事を進めながら解体する部分を現場で即決していきます。

この、行き当たりばったり感(言葉は悪いですが)というか
ライブ感がCAMP不動産の面白いところ。施主はドキドキだと思いますが……。

特に木造一戸建てのリノベ工事は、
解体してみて、初めてわかることも多いので、
状況に応じて構造や工法、施主の要望や使い勝手、
デザインや工事費、時には大家さんやご近所との関係なども総合的に考慮して、
その都度、最適最善と思われる工事を行っていきます。

例えば、壁の足元の「土台」という構造部材が
傷んでいるだろうことは想像していましたが、
傷みの程度と範囲は解体してみなければわかりませんでした。

解体してみて初めて傷んだ部材の範囲が明確になります。

それを、「土台」の状況を確認しながら解体して、
補強が必要な部分を現場で確定していきます。

新しくなった「土台」。

そして本当に必要な部分の「土台」を入れ替えていきます。

一般的に“やってみなければわからない”ことが多いリノベ工事においては、
想定されるリスクを最大限に見積もってしまいがち。
しかし、CAMP不動産ではリスクの内容を現場で見極めてから、
その都度必要に応じた対処をしているので、無駄がありません。
ただし、予想以上の対処が必要な場合もありますので、施主の理解は第一条件です。

ちなみに、藤田九衛門商店の工事では、
解体工事と躯体補強工事などはCAMP不動産主体で進め、
仕上げ工事では施主の藤田さんが中心となって工事が進められました。

そんなこんなで、藤田九衛門商店の場合も、
建物が傾いていたり、土台が腐っていたり、あるはずの柱がなかったり、
木造一戸建ての“リノベあるある”な問題点はひと通り経験して、
ひとまず躯体を使用可能な状態にしていきます。

細かいことまで決まっていないからこそできる“遊び”

躯体の補強を終えて、次は店舗の土間床の仕上げをどうするのか頭を悩ませていました。
というのも、最初に考えていた「洗い出し」(モルタルに砕石や玉砂利などの骨材を
混ぜて塗り完全に乾かないうちに水で洗って表面に石の粒が浮き出るようにしたもの)
という仕上げは、予算的にかなり厳しかったからです。

コンクリート金ゴテで仕上げてしまうのもよいですが、
コストをかけずにひとひねりほしいところ。
そんな時に、CAMP不動産のメンバーでもある、
デザイナーの太田伸幸さんからよいアイデアが出てきました。

「土間床を川に見立てて鯉を泳がせましょう」

忘れていました。
藤田九衛門商店では、鯉のかたちをかたどった『鯉焼き』を看板菓子としていたのでした!
こういう発想は、建築的な仕上げばかり考えて凝り固まった頭をほぐしてくれます。
早速、その頃KANEMATSUに入居していた、
デザイナーの廣田義人くんにお願いして、鯉のデザインと型紙を作成してもらいました。

切り絵が得意な廣田くんにつくってもらった鯉の型紙。

その型紙を土間コンクリート打設時に配置して押さえ、全体に、
ほうき目をつけてでき上がった床がこれ。

店内の床のいたる所に、蓮の葉と鯉が型押しされています。

派手さこそありませんが、なんとも渋い意匠になりました。

きっと、土間床に鯉の型を見つけたお客さんは、ニヤリとするに違いない。
まるで隠れミッキーのようです。

こういう“遊び”をどんどん取り入れちゃうことができる機動力の高さも、
CAMP不動産の面白いところです。

つくることの楽しさを共有する

積極的にリノベという“つくりかた”を選択した施主が、
自ら施工も行いたいという考えに至るのは自然な流れだと思います。
善光寺門前界隈で多数行われているリノベも、
施主自ら施工に関わるケースも少なくありません。

単にコスト削減という理由から、しかたなくセルフリノベを行うのではなく、
むしろ楽しみながら地域のコミュニティに溶け込む手段として
セルフリノベを行おうとする人が増えているのではないかと思います。
これまで誰からも価値がないと思われていた建物が、
自分たちの手で甦る過程を経験することの魅力に多くの人が気づき始めています。

藤田九衛門商店の場合も、土壁や板張り、塗装、かまど制作などは
施主直営のかたちで工事が進められました。
特に土壁は、“土壁づくりを通じて、家や街づくりを自分サイズで考える
緩やかなネットワーク「塗り壁隊」の指揮のもと、
左官工事に関心がある人が自由に参加して仕上げていただきました。

ご近所の金属造形作家の角居康弘さんによる店舗の壁に埋め込まれたタグには、
左官工事に携わった方々の名前が刻まれていたり、
お店のロゴや暖簾は、これまたご近所のデザイナーの関谷まゆみさんがデザインしたりと、
地域に住むたくさんの人の関わりを経て、藤田九衛門商店はできました。

できたばかりなのに、すでに老舗の風格が漂う佇まい。

2013年5月5日、藤田九衛門商店はめでたくOPEN。
そして肝心の鯉焼きは、こんなに素敵な和菓子となりました。

長野県産の花豆を使った自家製餡、生地も長野県産小麦を使用。仏像彫刻家が手掛けた鯉のデザインは躍動感たっぷり。

藤田さん自身、1日50個売れればいいだろうと言っていましたが、
OPEN初日は、なんと10時で完売。
一度店を閉めてから新たに焼いて、12時に再開。
しかし、14時に完売してしまうという売れっぷり。
しかも、その状況が3か月間続いたというから驚きです。

開店時間は朝の6時30分。朝の空気感とお店の雰囲気がとてもよく似合っています。

鯉焼きは、今ではすっかり信州門前のお土産として定着しました。
あの、だれも見向きもしなかったボロボロの建物は、
藤田さんと出会うことで、こんなにもたくさんの方から愛されるお店へと変わったのです。

「土屋ビル」でも感じたことですが、リノベという“つくりかた”は、
今ここにある建物やまち、そして、ひとを“知る”機会をたくさん与えてくれます。

それが、建物やまちやひとに親しみを抱かせ、
つながりを生む要因でもあると強く感じた楽しいリノベとなりました。

informaiton


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藤田九衛門商店

住所 長野県長野市東之門町400-2
電話 026-219-2293
営業時間 6:30~売切次第終了、月曜休
※駐車場はお店の向かい側に1台分あり

information


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シーンデザイン一級建築士事務所

住所 長野県長野市 東町207-1 KANEMATSU内
電話 026-262-1175
http://scenedesign.jp/

大工さん自ら設計! 大胆かつ洗練された空間。 MAD City vol.11

MAD City vol.11
設計から現場もこなす、MAD Cityの頼れるアニキ。

DIYの基本は、「自分でいいものをつくりたい」という気持ちが大事だと思うんです。
常にこの「Do It Yourself」の精神を忘れない大工さんがMAD Cityにはいます。
それが、千葉市稲毛区に事務所を構える昭和12年創業の工務店・木村建造の三代目として、
さまざまな物件の建築に携わってきた木村光行さんです。

まず、MAD Cityと木村さんの関係性について語る前に、
少しだけ「木村さんがどんな人なのか」について説明させてください! 
大工さんというと、どこか伝統的な職人気質なイメージがありますが、
木村さんはそんな「大工」の固定観念を覆す超アグレッシブな大工さんなのです。
まず、学校を出て、稼業の大工を継いだ後、当初は注文住宅などを建てる、
「受注仕事」をメインにおこなっていた木村さんですが、
仕事を重ねるごとに、個性が光る店舗リノベーションや、
家のリノベーションなどにも興味を抱くようになったのだとか。
(詳細はこちらhttp://kimurakenzo.com/

ちなみに、木村さんが「自分の好みをふんだんに盛り込んだ家」と自負する自邸がこちら。

外観からもその広さがうかがえます。

光がたっぷり入る広々リビング。まるでモデルハウスのよう!

清潔感のあるホワイトカラーの浴室。

何から何まで、オシャレすぎるご自宅。
「ウン千万のローンを組んでしまいましたが、おかげでいろいろと勉強になりました」
という木村さん。「自分でやってみたいから」という理由で、
そこまで大金を投じるスタンス。規模が違います!

いろいろ前置きが長くなりましたが、
MAD Cityが管理する物件のひとつである旧・原田米店のあるお部屋の改装時、
現場の作業を木村さんにお願いしたことがきっかけで、
MAD Cityと木村さんのお付き合いが始まりました。

「地域住民やクリエイターなど誰かと一緒に、まちづくりや物件づくりがしてみたい」
と考えていた木村さんは、MAD Cityと意気投合。そして、
かねてからマンションのリノベーションに興味を持っていた木村さんが、
MAD City運営の「いろどりマンション」にやってきてくれたのです。

「いろどりマンション」は、松戸にある大型分譲マンションの一部を
MAD Cityが借り上げ、リノベーション可能な賃貸物件。
住居者の方々の個性を反映して、自由にDIYしている個性豊かな物件です。
木村さんは、そのなかの一室を契約し、
木村スタイルのリノベーションをスタートさせました。

改装前のお部屋の様子。

まずは、壁や押入れ、床など、すべてを取り払って、部屋をワンルームに。

もともとの内装もとり、あらわれたコンクリートの壁。

壁も床も取り払ってすっきり、広々空間に!
むき出しの床に、少しずつフローリングを張っていきます。
もちろんこの作業は当然大工の木村さん自ら全部やられたそうですよ。

床材を貼っている様子。

最終的にはこんなにキレイになりました!

どんな物件を手がけるときも「常に“ハッ”とするポイントをつくりたい」
と語る木村さん。このいろどりマンションで言えば、
特に気を使ったのがブロックを積んだキッチンカウンターです。

カウンターキッチンの脇には、棚のような小さなスペースを設けるなど、
ちょっとひと味違ったカウンターづくりを目指したそうです。

作業としては、ブロックを床に積んで、接着剤とベニヤ板を重ねます。

積み上げていって、一部に「棚」の部分となる空間を作ります。

そして、カウンターとなる板を載せて完成!

実にいい感じです! 以前の畳張りの部屋が嘘のようです。

「ブロックを使用したカウンターって、たくさんあるんですけれども、
こうやってベニヤを積んだかたちでつくることはとても珍しいんです」と木村さん。
というのも、本職の大工さんだったら、「崩れないように」と安全性を重視して、
ぎっしりブロックを上から下までビッチリと積むため、
棚のような空間を作ることなどはまずないのだとか。
「たしかにブロックはきっちり積んだほうが安全ですが、
このくらいのスペースだったら問題ないのはわかっているし、
接着剤とベニヤ板で補強できているので、耐久性には問題ないんですけどね」とのこと。
本職の大工さんだからこそ、
「融通をきかせてもよい部分」が肌感覚でわかっているってことですね!
その他にも床の貼り方など、
同様の「大工ならでは」の工夫をたくさん凝らしているそうです。

一般人のリノベーションだとさじ加減がわからない水回りも
「少しでも広く使えるように」と、トイレの位置を動かしたり、
扉を取り払ったりしたそうです。
このあたりの思い切り具合、さすがプロです。

洗面台の土台。

大きな洗面ボールと鏡を採用し、より開放感のある洗面台に。この大きな洗面ボールはなんと、学校用の製品でお値段も手頃なんだとか。

現在、この部屋はモデルルームとして公開しており、
この部屋を見た同じマンションの住人の人々から、
「自分の部屋もやってほしい」「キッチンのリノベの相談にのってほしい」
などと声をかけられることが増えたそうです。

それにしても、なんでこんなに木村さんは
現状に満足することなく、いろんなことに果敢にチャレンジするのでしょうか?

「まず、ひとつには僕は自分がやったことがないことは、
お客さんに薦めたくないんですよ。たとえば、自宅をつくったときも
『ガラス張りのバスルームを勧めるデザイナーって多いけど、本当にいいのかな?』
『窓が大きくてたくさんあるように設計された家が増えているけど、
それって本当に便利なのかな?』といった疑問があったから。
実際、やってみたらガラス張りのバスルームはオシャレだけど、
すぐに水滴がつくので掃除が大変だし、
窓が多いと夏場は暑くて家のなかが蒸し風呂状態になってしまう(笑)。
こういうことは、自分で実践してみないと、絶対にわからないことだと思うんですよね」
成功と失敗が渾然一体のコメントです。

そして、もうひとつの理由が木村さんの「好奇心」。

「大工の世界は、伝統を重んじる傾向があって、
あまり新しいことにチャレンジしようとする人っていないんですよ。
でも、僕はすごく好奇心が強いほうなので、ほかの人と同じことじゃなくて、
ちょっと違ったことをしてみたい。
そして、誰も見たことがないような新しいものをつくってみたい。
だから、いろんなジャンルに手を出してしまうんでしょうね」

「デザイナーのほうが大工よりカッコイイ、イメージがありますが、『大工だってすごいんだぜ!』ってとこを、もっと見せつけたいですね」と木村さん。

その好奇心はとどまるところを知らず、
現在は、木材でビルをつくるという、
国土交通省の主導する国家事業のプロジェクトチームの一員として参加している木村さん。
そちらは耐震の問題をどうクリアするかという内容らしく、
今では耐震についても詳しくなっているとのこと。
「松戸のまちに木造のビルをバンバン建てたい!」
と目をキラキラと輝かせながら語る木村さんにますます目が離せません。

実はこれから、木村さんがMAD Cityの一員として、
ある企画のプロジェクトを進める計画がありますので、
注目いただけたらと思います! (詳しくはMAD City HPにて)

information


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MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

京都の町家を インタラクティブな空間へ。 HAPS vol.1

HAPS vol.1
20年間空き家だった町家を、ワークショップリノベーション。

京都の祇園や清水寺といった名所にもほど近い東山区の静かな住宅地の一角、
大和大路沿いに、白く塗られた町家があります。
ここは、私たちHAPSが活動拠点とするオフィス。
小さいながらもギャラリースペースやイベントスペースを兼ね備えた複合的な空間です。
HAPSとは、「東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス」の略で、
京都市の事業として市内の若手芸術家をサポートしています。
アーティストと彼らを支える人たちのよろず相談にのったり、
ネットワーク形成を目指し国内外のキュレーターを招聘して、
ワークショップやレクチャーを開催したりと、芸術家支援のために日々活動中です!

そんなHAPSの活動の大きな柱に、
アーティストに向けた京都市内の物件マッチングがあります。
なんと、京都市内には現在、約11万戸の空き家があり、
景観や防犯上、大きな問題となっているのです。
空き家の状態が続けば、家は荒廃します。
しかし、通常の不動産流通のためには
貸し主の側で大がかりな改修が必要で費用もかかります。

一方で、京都には4つの芸術大学がありますが、
卒業生たちの活動拠点となるスタジオに適した物件(広さ、予算、土間ありなどの条件)を
市内では自力で見つけることが難しいという状況があります。

そこで、アーティストが自身で手を動かし空き家をDIY。
大家さんの改修費は抑えられ、アーティストたちは、家賃コストを抑えられ、
双方にとってメリットとなるマッチングサービスが始まりました。

ここでは、そんなさまざまなマッチング事例を綴っていきますが、
まずは、HAPSのオフィスからです。

HAPSの2階のオフィススペース。

2階のミーティングルーム。ここで、アーティストなどの相談に応じています。

1階入り口部分はギャラリースペースとして、夜間展示「ALLNIGHT HAPS」を行っています。
写真は、向井麻理企画「ミッドナイトサマーシアター」での「最後の手段」による上映の様子。

HAPSのオフィスの建物自体も京町家を改修した空き家活用のモデルケースとなっています。

HAPSのオフィスが位置する六原学区は、京都市内でも早くから空き家活用に取り組み、
オフィスとなった空き物件も、地域の自治会から紹介していただきました。
およそ築100年、20年ほど空き家だったもので、長く借家として使われており、
中国地方にお住まいの大家さんは、相続して初めてこの家の存在を知ったそうです。
大家さんとしては、
相続時点で既に10年以上空き家で、床も一部腐っているような惨状だったので、
ご自身で手をかけて賃貸することは考えていなかったそうです。

全体に傾いてしまった物件の歪みを直すための土台からのジャッキアップ、
さらに屋根補修、電気・ガス、水回りの整備など全てを含めると、
設計事務所からの当初の改修見積りは2000万円くらいになりました。
しかし、大家さんとHAPS、どちらにもその予算はありません。
悩んだ結果、建築リサーチチーム「RAD」に相談したところ、
ワークショップ形式での改修をやってみようということになりました。
「RAD」は、Research for Architectural Domainの略で、
彼らは、「建てること」のみならず、
「現にあるものを、どう活かすのか」という視点から活動しています。

ワークショップなどで派生する改修費を全てHAPSで担う代わりに、
家賃は大家さんの固定資産税と火災保険料をまかなえる、
最低限に抑えていただくことになりました。

改修前の建物外観。

ワークショップの講師は、地元の大工さんや左官屋さん、そしてアーティスト。
参加者は、京都ならではの伝統技法や、アーティストの斬新なアイデアを体験でき、
さらに、自身で空き家を活用する際に必要な技術を習得できるので、
空き家活用促進にもつながります。

最初のワークショップの日、
空き家に入ると、床は両端で15cmほど傾き、屋根には大量のホコリが溜まっている状態。
まずは、ワークショップ参加者とともに、
床などの内装や造作家具など不要物の片付けからスタートしました。
2012年7月のことです。
水道・電気設備、コンクリート土間こそはプロの方に工事をお願いしたものの、
ほかは各分野のエキスパートやアーティスト指導のもと、
HAPSが募った一般の参加者とともに改修していきました。
解体や撤去の次は、床を水平にし、建物の骨組みや壁の補強、
棚階段やロフトづくり、壁の塗装や表面の加工、新たな壁や床づくり、
三和土工法での土間づくりなどを行っていきました。

解体・撤去作業1日目(2012年7月)。

アーティスト・市村恵介さんの指導のもと、1階ギャラリー部分の壁を制作(2012年11月)。

町家に用いられる伝統工法のひとつ、古い土壁に布海苔で和紙を貼っていくことで剥落を防止(2012年12月)。

毎回、ワークショップは、中心となるRADの木村慎弥さんによる朝礼からスタート。
グループワークで作業を進めるので、初対面同士でもすぐに打ち解けます。
最初は全くの初心者であっても、繰り返し参加していくことで、
スキルは目に見えて上がっていきました。
力仕事や暑い・寒い時期など、ハードな面もありましたが、常に和気あいあいとしたムード。
昼食や時には夕食もともにしたり、近くの銭湯、大黒湯で一日の作業を終えて汗を流したり。
特にリピーター同士は、その後もイベントに誘いあうなど、交流が続いています。

hyslomによる、アーティストならではの視点で改修を楽しむ塗装ワークショップ(2013年2月)。

ワークショップの合間には、炊き出しをしてともに食事を囲んだ。

RADの提案で、
単に解体したり改修したりするだけではなく、工程を全て記録に残していったのも、
一連のワークショップの特徴です。
今後空き家を活用したいアーティストがDIYで改修する際の参考にできるよう、
手順、作業にかかる人手、時間などをレシピとしてまとめています。
記録の一部は、写真を中心に、Facebook上でHAPS Office renovation projectのページで
見ることができます。

また、この物件の難点だった歪みは、
「歪んだまま見せる」というテーマのもとで改修を行い、
隠すのではなく、見せるための工夫が随所に施されています。
例えば、2階の床は板張りの周囲四辺をモルタルで囲まれています。
歪みによって、端まで板を張ることができない代わり、
歪みをポジティブに見せるデザインとして取り込んでいきました。

はなれの改修では、元の構造に波板をかぶせることで見せつつ補強(2012年12月)。

週末を中心に、数十回のワークショップを行い、
約100日の作業日数を経て、2013年8月にオフィスは開館しました。
京都内外(愛知、三重、なんと関東、九州からも!)からの参加者の中には、
リピーターとなってさらに友人を連れてきてくれる人もいて、
参加者登録は100人近くにのぼりました。
「建物を自力で解体するというのは、できると普段想像していなかったことだったけれど、
テレビ番組のような体験で印象深かった」とは、ある参加者の証言です。

現在もなお、さまざまな部分の手入れの目的で改修ワークショップは継続しています。
「オープン時点での完成度は80%で、
残りの20%を残したことで、他の人が遊びを加えていけたので、結果として面白くなった」と、改修ワークショップで現場監督を務めたRADの木村さんが、
当時を振り返り話してくれました。

壁づくりワークショップで参加者に説明する木村さん(中央)。

オープン後も意匠や装飾といった部分を改修し続けました。
例えば、オフィスに着くとまず目に付く「HAPS」の看板下部分は、
「都市表層研究所テグラ」によるワークショップででき上がったものです。

ワークショップで制作したタイルを入り口壁面に設置(2014年3月)。

集会スペースには黒板が設置され、改修で出た廃材を使用した本棚が設置されています。
この場所では現在、知識や経験、
技術を共有していく開放的なレクチャープログラム「OUR SCHOOL」が展開されています。

1階はレクチャーやワークショップ等に活用。

今年3月には1階の耐震補修を兼ねた土壁のワークショップを実施。
左官職人の萩野哲也さんをお招きし、
竹小舞(たけこまい/土壁の下地に使う細い竹)の編み方や
材料のつくり方から土壁の塗り方までを指導してもらいました。
素材として用いられる土は、練り直して繰り返し使われているため、
HAPSオフィスの土壁には、江戸時代からの土も混ざっているそうです。

また、この夏は新たに「同じ景色を見ている」
(建築家で一級建築士の木村慎弥さんと映像や舞台制作を行う山田毅さんによるプロジェクト)チームによるワークショップで中庭の壁が完成。
これまでは、お隣の壁面がむき出しで少し殺風景な庭でしたが、
縁あって、ある家から譲り受けてきた、
丹精込められた植木たちとあわせ、潤いある憩いの空間が出現しました。

壁づくりワークショップで、壁の構造につくった木のうろこを貼っていく(2014年6月)。

木村さんによる「土壁の中塗りのワークショップ」も今年の秋に控えています。
建物の歴史にも思いを馳せながら、今も続く改修ワークショップで、
HAPSオフィスは進化を続けています。
最近では親子向けのお話会が定期的に開催されていたり、
またご近所の方々が夜に足を止めて展示を眺めていたりも。
さらに、ご近所で不要品となった毛布やちゃぶ台など、
「誰か必要としている人いないかしら」といった、
ありがたいお話が舞い込んでくることも増えてきました。
一方で、京都のアーティストが日々相談に訪れ、
さらに、世界的なアーティストやキュレーター、美術やまちづくり、
建築などの関係者が国内外から視察に訪れるなど、
HAPSのミッションのひとつでもあるネットワーク形成を体現するような場所になっています。
地元に深く根差しながら、
同時に世界に向けて京都のアートについて発信していくような場でありたいと思います。

次回は、HAPSがコーディネートしたアーティストのスタジオなどを紹介します。

未来に育むものづくりの村

自然と共生してきた滋賀の文化

「滋賀県にものづくりの村がある」
こんな噂を聞いて、期待と妄想をふくらませ滋賀を訪ねてみることに。

滋賀県は琵琶湖を中心に、四方に独特の文化をつくってきました。

北の湖北(こほく)地域は昔から養蚕が盛んで
いまも国産の繭の真綿ふとんが生産されています。

琵琶湖の西に位置する高島地域は、しわ加工を施した、
「高島ちぢみ」と呼ばれる綿織物の産地として知られています。
また、日本六古窯のひとつに数えられる信楽焼は、
陶土が豊富な南部の湖南(こなん)地域を中心に発展しました。

東の湖東(ことう)地域は琵琶湖がつくり出す湿潤な気候から、
「近江上布」として国内有数の麻織物の産地として栄えてきました。

ものづくりの村と呼ばれる「ファブリカ村」はこの湖東地域にあります。

かつて織物工場だった昔ながらののこぎり屋根。ファブリカはスペイン語で工場の意味。

かつての織物工場が、「ファブリカ村」として復活

ファブリカ村の母体である「北川織物工場」は、
1964年に滋賀県の東近江市に建てられました。
ここでは、糸を染め分けることで柄を表現する、
織物技術「絣(かすり)織り」に特に力を入れ、
寝装素材やアパレル向けの麻織物の製造をしてきました。

2000年に入り、織物の製造から近江の麻で服や小物をつくり
直接販売するようになっていきました。

そんななか、県内のデザイナーたちの協力のもと、
眠っていた北川織物の工場を1年かけて改修。
2009年10月、地域文化に触れ、つくるよろこびを体感、
共有できる場所として誕生したのが「ファブリカ村」です。

村長の北川陽子さん(写真左)と副村長の北川順子さん(写真右)。

「ファストファッション、ファストフードは便利かもしれないけど、
それだけになってしまったら、日本の良いものづくりがなくなってしまう」
と話すのは、ファブリカ村の村長であり、染色作家でもある北川陽子さん。

京都の美大で染色を学んだ後に1982年に
家業である北川織物に入った陽子さんは、
代々産地に伝わる、絣織物をつくりながら、
変わりゆく時代に危機感を募らせていきました。

「産地やつくり手の魅力を、広く使い手に向けて発信しなくてはいけない」
つくり手と使い手と社会を繋ぐ、
滋賀での「村づくり」の構想が膨らんでいきました。

地域が子どもを育てる

ファブリカ村には、ショップ、カフェ、ギャラリー、アトリエ
といったさまざまな時間が流れています。

昔ながらののこぎり屋根は北向きですが、多くの窓から自然光がふり注ぎます。

ファブリカ内のショップとカフェスペースに使っている家具や器は、
滋賀の作家作品をコーディネートしています。

照明や椅子には、北川織物の絣生地が使用されています。

ショップでは近江の麻を使った、
北川織物のオリジナルブランド「fabrica」をはじめとする商品が並んでいます。
カフェでは地元の季節の食を味わえ、
ギャラリーでは県内の作家さんたちが展示会を行います。

こだわりの空間で、ゆっくりと、季節の食を味わうことができます。

ファブリカ村で開催される教室では、
絵画、陶芸、料理、着付け、お花など集まった人の得意分野を共有します。

手織り機があり子どもたちが触れることもできます。

「本当によいものを見せて、使ってもらって、
次の世代へもそのよさを伝えていく。
子どもだからといって割れないプラスチック食器でなくて、
本物を使ってもらいたい。
そうやって、自分自身の価値観をもてる子どもたちが増えていくように」

その言葉の通り、陽子さんの情熱は新しい世代にも向けられていて、
遊びの中にアートを取り入れたり、地域の子どもたちと一緒に野菜を育てたり、
県立大の学生達とのワークショップも積極的に行っています。

陽子さんは脈々と受け継がれてきた、
地域の魅力ある伝統や技術、人をファブリカ村に集め、
世代を超えたコミュニケーションをつくっています。

こちらは北川織物が作り続けてきた絣の生地です。

先代からつくられてきた、北川織物の麻の生地です。
こちらの生地も購入可能で、
生地を選び、一着だけのオーダーメードの洋服や浴衣をつくることができます。

経絣と呼ばれる技法で、絣織り独特の風合いが出ています。

地域を五感で楽しむ

ファブリカ村を訪れて、改めて「地域の魅力」について考えてみました。
湖東地域にに流れる気持ちのよい空気を吸い、
陽子さんや現地の方々とコミュニケーションを取り、
この土地で脈々と続いてきた織物文化や食文化に触れると、
僕らは、五感全体が刺激された気がしました。
地域は、五感で楽しむべきところだと思います。

僕自身、東京と各地域を週ごとに行ったりきたりする原動力は、
そこでしか味わえないおいしい時間を贅沢に味わえるところにあると思います。

「もの」だけでも、「人」だけでも、「自然」だけでもなく、
切り離せない関係性のなかで、
日本各地に独特の文化がゆっくりと育まれてきました。

今後も、各地の魅力を五感で楽しめる場所にアンテナを張っていきたいと思います。

いま、町に本屋をつくるとしたら…… 後編

前編よりつづく)

札幌の名物書店「くすみ書房」の名を全国に知らしめたのは、数々の独創的な取り組みだ。
売れない文庫を集め、中高生のために本屋のおやじがおせっかいで本を選ぶ。
そうした取り組みの背景には、くすみ書房が直面する経営難があった。
それはくすみ書房固有の問題ではない。
全国の町の本屋に共通する、いわば本屋が抱える構造的な問題だった。

本屋を襲う三重苦

生々しい話の連続に、圧倒されていた夏葉社の島田さんが問いを投げかける。
1990年に3万軒近くあった本屋が、いまでは1万4,000軒にまで減っている。
町の本屋の経営を、そこまで追い詰めているのは何なのか――と。

くすみ書房の店主、久住邦晴さんの答えは明確だ。
雜誌購入者の減少、粗利の低さ、
そして在庫回転率の低さが、町の本屋の重しになっているという。
出版業界が売上のピークを迎えたのは1996年、そのときの売上は2兆6,000億円にのぼる。
それがいまや1兆8,000億円程度、そのうち、大幅に減ったのは雜誌の売上だ。
紀伊國屋書店やジュンク堂書店のような、ナショナルチェーンと呼ばれる大規模書店は、
書籍、それも専門書の売上がかなりを占めるが、
町の中小規模の書店の多くは、雜誌の売上が店舗全体の売上の5~7割にもなる。
町の本屋にとって生命線とも言えるその雜誌が売上を減らし、休刊するものも少なくない。
しかも、コンビニも雑誌販売の強力なライバルとなっており、
町の本屋は雑誌に代わる稼ぎ頭を見つけ出せてはいない。

2フロアあるくすみ書房では、1階で雑誌やコミックを扱う。雑誌売上の低迷が、町の本屋の経営難と直結している。

粗利の低さは、本屋の商売を難しくしている一番の要因だと久住さんは言う。
本屋が取次から仕入れる価格は、おおまかに雑誌で定価の77%、書籍で78%、
1冊売って、本屋が手にする粗利は20%ちょっとでしかない。
(個別の取引でさまざまなパターンがあるようで、あくまで「おおまかに」である)
つまり、2,000円の本を売っても、本屋の取り分はだいたい400円。
それを1日で50冊、10万円分売ったとしても、粗利は2万円強。
そこから労賃と家賃を捻出しなければいけないわけで、人がひとり食べていくのに、
いったいいくら売らねばならないのかと、想像しただけで頭がくらくらする。
万引きでもされたら、積み上げた利益が吹き飛んでしまうわけで、たまったものではない。

さらに驚いたのは、在庫回転率の話だ。
在庫回転率とは、要するに仕入と売上のサイクルを何回まわせるかということ。
1,000万円の在庫を仕入れて3回転すれば、年間の売上は3,000万円。
回転率が低ければ、売上も低くなるということだ。

雜誌は、月刊誌であれば、毎月1回は必ず在庫が動く。
10冊仕入れて8冊売れれば、2冊は返品になっても、次の月には新しい号が入ってくる。
早い話が、月刊誌は年に12回は棚が回転する。
一方、単行本や文庫といった書籍は、年に1回も動かないものも少なくない。
書籍全体で均すと年に1~1.5回、
雜誌と書籍を平均しても、優良店で在庫が3回まわればいいほうだという。
だが、本屋以外の小売の常識では、在庫は10回転しないと採算が合わないと言われる。

粗利は低いし、在庫も回転しない。
小売としては厳しい経営環境で、かつて稼ぎ頭だった雑誌の縮小傾向も止まらない。
この三重苦に押しつぶされそうになっているのが、町の本屋の現状ということだ。

本屋をつくる思考実験

あまりに険しい現実に、本屋をやろうと思う気持ちが打ち砕かれそうになる。
前もって、知ったつもりになっていたこともあるけれど、
最前線で戦う人が語る生々しい言葉に、考えの甘さを突きつけられた。
町に本屋をつくるなど、軽々しく口走った自分を呪いたくなる。

だがそこは、幾度もの苦境を大胆な発想で切り抜けてきた久住さんだった。
絶望感に包まれつつあった会場に、希望の光りをもたらしてくれた。
それが、「いま、町に本屋をつくるとしたら」を実際にシミュレーションした思考実験だ。

いま、北海道に180ある市町村のうち、本屋のない自治体が60あるという。
人口1万3,000人強の浦河町はそのひとつ。
町には5つの小学校に生徒が660人、3つの中学校に400人の生徒がいる。
高校も看護学校も映画館もある。町には文化を受け入れる土壌があるのに、
かつては2店舗あった本屋も、数年前に店を畳んだ。
現状を憂えたまちづくり団体の人たちが、
町の活性化のために、本屋をつくる相談を久住さんに持ちかけた。
「子どもが走っていける距離に本屋があるべき」が、久住さんの持論。
北海道書店商業組合の理事長でもあった久住さんは、地域への思いも強い。
「それで、私なりに考えてみたんですよ……」と、笑みを浮かべて久住さんは言う。
思考実験とはいえ、リアリティも本気度もたっぷりである。
僕は、しぼみかけていた勇気を奮い立たせ、再び久住さんの話に耳を傾けた。

考えたプランは、2014年2月3日、浦河町の人たちに向けて発表、その様子が北海道新聞で取り上げられた(2月5日)。定員50名のところに70名の町民が集まり、「町の人たちの本屋への関心の高さを感じた」と久住さん。

町民による町民のための町民の本屋

いまの時代、本屋を始めるのは至難の業だ。
それが、ここ何か月か、本屋について勉強を始めて抱いた素朴な実感だ。
本屋には、大きく新刊書店と古書店がある。
新刊書店というのは、雑誌やコミック、文庫や新書、単行本を扱う、
要するに町で普通に見かける本屋のこと。
これをまともに正攻法で始めるには、
一坪あたり何十万円、ときには100万円を超えるお金がかかる。
店が大きければ、千万単位のお金がかかる。それなのに本の粗利は低い。
リスクは高いがリターンは低い。それが本屋という商売の現実だ。
お金をかけずに本屋をやる方法もあるにはあるけれど(古書店はそのひとつ)、
仕入れが制限され、品揃えは制約を受ける。
どちらの道を選ぶべきか、それが僕にとってひとつの大きな問題だった。

久住さんが示してくれたのは、「第三の道」とでも言える方法だ。
仕入れのルートを確保しつつ、リスクを小さく分散する。
と言うと、ドライでビジネス・ライクな言い方になるけれど、
多くの人を巻き込み、気持ちを少額の資金というかたちで提供してもらうやり方だ。

仮に、町の人500人が1万円ずつ、あるいは100人が5万円ずつ拠出くれたとしたら、
500万円の資金を集めることができる。
それを資本に本屋を始める。広さはせいぜい20坪、小さな本屋である。
内装は、地元の工務店の協力を仰ぐなどして極力お金をかけず、
500万円の初期投資のほとんどを、本の仕入れに充てる。
店の運営も町の人たちが担い、町の人たちに向けて本を売る。
町民による町民のための町民の本屋をつくるというアイデアだ。
久住さんの言葉を借りれば、「コミュニティ書店」である。

島田さんが、「そのやり方は、久住さんがやられてきたことですよね」と指摘する。
たしかに、友の会の「くすくす」やクラウド・ファンディングでやってきたことを、
町という地域に舞台を変えて行っていると見ればそのとおりだ。
なるほど、それが「コミュニティ書店」ということかと合点がいった。

おふたりの話に聞き入る、会場に集まった40名を超える人たち。「コミュニティ書店」のアイデアを、どう受け止めたのだろうか。

これはすごいアイデアだ――と、僕は思った。
広く出資を募るのは、株式会社の仕組みと何ら変わるところはない。
それは確かにそうなのだけれど、その方法で町の本屋を立ち上げる発想は僕にはなかった。
まさにコロンブスの卵。「第三の道」が開け、僕の視界はずいぶん明るくなった。

商売を諦め、「成長する本屋」を目指す

久住さん流「コミュニティ書店」を成り立たせるポイントは、
「本屋を商売として考えるのをやめる」というところにある。

本屋において、家賃と人件費はそれぞれ月商の1割程度に収めるのが定石とされる。
月に200万円の売上があったとして、160万円は仕入れの回収に充て、
40万円の粗利から家賃と人件費を払えば、それでも手元に残るものはほとんどない。
回収した160万円を再度仕入れに回しても、棚は元のサイズに戻るだけ、
同じ規模の棚を維持するのが精一杯だ。

商売として考えるのをやめると、そこにもう一手を加えることができる。
役場の空きスペースや町の未利用物件を無償で使わせてもらうことができれば、
家賃を浮かすことができる。そうすれば、その分を本の仕入れに充て、
棚に並ぶ本を毎月少しずつ増やし、本屋を成長させていくことができる。

これを可能にするのは、
「小さいけれども、町に本屋がある」ことに意義を見い出す町の人たちの意識だ。
本屋を「町に必要な機能」として捉え、町全体で運営をサポートする。
商売を諦めることで、町に本屋をつくり、本屋としての成長を目指す道がある。
それが久住さんの描いたシナリオだった。

僕が実際、どんな方法で本屋を立ち上げることになるかは自分でもまだ分からない。
久住さん方式にはとても大きな魅力を感じるけれど、
町の人の思いを、いきなり目に見える形で背負い込むのはちょっと怖い。
自分の力でもっと頑張ってみたい気持ちもあるし、商売としての可能性にも挑んでみたい。

久住さんからいただいたアイデアは、
むしろ、本屋を始めたあとでこそ活きてくるのではないかと感じている。
友の会にクラウド・ファンディング……。
本屋にできることはまだまだある、そう思うと、本屋の厳しい現実とも、
しっかり向き合っていけるような気がしてくる。

久住さんのにこやかな表情が印象的だ。
厳しい状況にあるはずなのに穏やかな物腰でいられるのは、
大勢の人に支えられ、何度も危機を乗り越えてきた自信のあらわれではないかと思う。
きっと、多くの人が本と本屋という場を必要としていることを、
危機に直面する最前線で実感し続けてこられたのだろう。
その姿に、僕はとても勇気づけられた。
本屋を巡る状況は厳しくとも、この思いを受け継いでいかねばならないと僕は感じた。

穏やかに力強く、本屋を守り続ける久住さん。力強い笑顔から、本屋でいられる喜びを感じずにはいられない。

冷めやらぬ興奮を胸に、島田さんと別れて札幌を後にする。
次に島田さんと訪ねたのは、広島の山間の小さな町で、
その名を全国に轟かせる「ウィー東城店」。
僕が本屋をつくろうとしている勝山から、クルマで1時間ほどの距離にある。
僕が見た田舎の本屋は、さながらレジャーランドのようであった。

information


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くすみ書房

住所 札幌市厚別区大谷地東3-3-20 CAPO大谷地(地下鉄東西線大谷地駅隣接)
電話 011-890-0008
営業時間10:00~22:00(2Fは21:00まで) 年中無休

シーンデザイン 一級建築士事務所 vol.01: そこにあることの意味に 想いを巡らすこと

シーンデザイン一級建築士事務所 vol.01 
リノベーションの魅力を知る

9年前の2005年、冬季長野五輪を終えてから8年。
かつて開会式会場をはじめ、オリンピックの中心地となり賑わいを見せた長野市でしたが、
その頃にはうってかわって中心市街地の空洞化が顕著となっていた時期でもありました。
そんな状況のなか私は地元長野の設計事務所、宮本忠長建築設計事務所在籍中に
中心市街地の百貨店跡地再開発の一担当者として関わっていました。
たくさんの古い建物の解体撤去から
現在の再開発ビル群が完成するまでの一部始終を見ることとなり、
長野市の中心市街地の大きな転換点を体感することにもなりました。

古き良き時代の……などというノスタルジックな気持ちではなく、
なんとなくこのプロジェクトに関わっている間中、
心のどこかで気にかかる事柄がありました。

それは、初めて経験する“再開発の現場”が、
都市の多様な考え方や思いを画一化する作業をしていくように思えたことです。
再開発プロジェクトに対する批判ではなく、
そうせざるを得ない状況も多々あることで仕方がないことでもあると思っています。

その一方で、この再開発とほぼ同時期、
私はもうひとつのプロジェクトに携わっていました。
善光寺表参道大門町に江戸の頃から続く老舗旅館「藤屋御本陣」の
リノベーションプロジェクト「THE FUJIYA GOHONJIN」です。
この周辺地域の再生をも視野に入れた老舗旅館のリノベーションと
中心市街地再開発のふたつの案件を担当しながら、
時には同じ日に両方の打ち合わせを行ったりもしていました。

まちの“つくりかた”にはいろいろな方法があるのだと思いますが、
このふたつのプロジェクトほど対照的なものはありませんでした。
どちらも、事業としての成功は企業にとって大きな願いであるし、
まちを元気にしたいという気持ちは同じベクトルのはずですが、
アプローチは全てが真逆でした。どちらが良い悪いといった話ではなく、
同じ時代、同じ地域のまちづくりの一端を担うプロジェクトの意思決定のプロセスが、
これ程までに違うものかと単純に驚き、戸惑ったものでした。

この経験から、リノベーションについて……というか
“つくりかた”について、いろいろなことを考えるようになり、2006年に独立をして
「シーンデザイン一級建築士事務所」を開設するきっかけにもなりました。

独立後、自分の設計事務所の仕事のほかに「ツリーハウスプロジェクト」や
「プロジェクトカネマツ」などの活動も行っています。
それについてはコロカルに取材されたこともありますが、
(山崎 亮ローカルデザイン・スタディ#052 参照)
この連載でも後々もう少し詳しく触れるとして、今は仕事も、そのほかのプロジェクトも、
2005年に携わったあのふたつのプロジェクトに感じた違和感を片隅に留め
“つくりかた”に心を置きながら取り組んでいるように思います。

土屋ビルとの出会い

そんなことを思いながら4年、
2009年のはじめに「THE FUJIYA GOHONJIN」の仕事でお世話になった方を通じて、
築52年の鉄筋コンクリート造の土屋ビルという建物のリノベ計画のお話をいただきました。

善光寺へと通じる長野市中央通り、
長野冬季オリンピックの表彰会場にもなった「セントラルスクゥエア」のほど近くにある
「土屋ビル:長野外国語センター(現ナーガ・インターナショナル)」のことは、
実を言うと知りませんでした。というより、
雑多なまちの風景に完全に溶け込んでしまっていたそのファサードに
意識的な眼差しを向けることがなかったからです。
きっと、ある日、突如としてここが更地になっていたとしても、
かつてここに何があったのか思い出せなかったかもしれません。

リノベ前の土屋ビル外観。周辺には木造、RC、鉄骨、新旧建物が混在している。

この土屋ビルはこれまで、さまざまなテナントが入居してきましたが、
今は「ナーガ・インターナショナル」という語学学校になっています。
英語のみならず、さまざまな国のことばを学べ、同時に文化の違いや、
違う言語の人たちがお互いの考え方を理解するためのお手伝いをする、
長野では老舗の語学学校です。

当時、長野外国語センター30周年の節目を迎えるにあたり、
オーナーは建て替えるのではなく、もう一度このビルに新しい息吹を吹き込んで
リユースすることを選択し、シーンデザインに声をかけてくれました。

さて、依頼を受けてからまじまじ建物を見てみると、3階以上の外壁は、
ほぼすべて金属でできた飾り格子で覆われているという、
かなり個性的なファサードを持った建物であることがわかります。

でも、歩いている人の目線には、こんな光景しか見えません。

エントランスは、所狭しとサインで埋め尽くされていました。

自分が何者であるか、名札をたくさん貼られ、
かえって自分の個性に自信をなくしてしまっているようで建物が可哀そう……。

いや、でももしかしたら、
この特徴的な外壁の飾り格子は室内からはとても役立つ機能を持っているのかもしれない。
たとえばまぶしい日差しを遮るブラインド的な役割とか。

さっそく内部から飾り格子部分を見てみると……

通りに面した空間がもったいない使われ方をしています。

うーん……内部は室内を石こうボードで間仕切られ、室内は倉庫と化していました。
外壁に施された飾り格子には
何の意味も機能も期待されなくなって久しい現況が見て取れまました。

あの鉄格子のファサード、すごく個性的で、この建物にとってなくてはならない、
素晴らしい特徴になり得る可能性をひしひしと放っているのに、
使用者がそのことを忘れてしまっていたり、あるいは気付いていなかったり、
そんな状況がそこにはありました。

近年、リノベーションという言葉や活動を頻繁に目や耳にしますが、
ただ単純に時代の変化を押し付けたり、
目的や用途の変化に合わせて着せ替えても建物は生きてこない。
使う人たちが建物の性格をよく理解してあげていれば、
もっと魅力的な建物になっていくと思うのです。

世の中のどんな建物も、つくられた当時は
必要とされて生まれてきたに違いはないですよね。
でも、この長野外国語センターも然り、
たいていの場合リノベの依頼を受けて古い建物を下見にいくと、
大概、建物が物理的にダメというよりも、使い手がこの建物の神髄を理解しておらず、
無用の長物にしてしまっている、ということが多いように感じました。
そして、もっと、建物の声に耳を傾けたい、そう思ったのです。

“いいところ”を伸ばすデザイン

調べてみると、土屋ビルは1962年(昭和37年)に竣工し、
長野市では鉄筋コンクリート建築の先駆けであり、
当時は長野で一番高いビルと大変な注目を集めていたそうです。

時は流れて周辺にはより高層の建物が建ち並び、
ビルの用途も薬局、ブティック、ケーキ屋、喫茶店、ディスコ、外国語教室と
さまざまな業者が入れ替わり、その都度改装が重ねられてきました。

改装が重ねられるたびに使用者が変わり、用途が変わるたびに
竣工当初にこの建物に込められた願いは薄れ、忘れられてきたのでしょう。
もはや、飾り格子が何のために施されていたのか
外国語センターの誰も憶えていませんでしたが、
そんな建物の“いいところ”を見つけ出し、
伸ばしていくことができたらと思い、このビルの改修プランを考えました。

依頼を受けてから7か月が経った2009年7月。
実施設計が終わり、いよいよ工事が始まります。

厨房床の跡など、解体工事で建物の履歴が推測できます。

まずは解体工事です。

建物の素顔を見ることができるので、私はこの解体の工程が好きです。
度重なる改修の痕跡を辿るうちに、
建物が本来持っている思いがけない表情に出くわしたりすることも多々。
例えばケーキ屋時代の防水床の跡だとかディスコ時代のミラーボールの残骸など。
今は真面目で教育熱心な先生が、実は昔「暴走族だったんだぞ」と。
そんな話に似ています。
解体してみて初めてわかることも多いから、
その都度、設計を修正しながら工事は進みました。

そして、今回のプランの目玉は、
この建物の最大の特徴である飾り格子をどう生かすかというところに絞られました。
なぜなら、外壁の飾り格子と窓との隙間で見つかったライトアップ用電源などから、
約50年前の竣工当初、まだ明かりが少ないまちなかで、
このビルは行燈のように浮かび上がっていたらしいことがわかったからです。
きっと、当時のまちのランドマークだったのだと思います。
今回の工事では当時のデザインコンセプトを尊重して、
ライトアップを復活させることにしました。
ただし、どんな光源や角度でライトアップされていたかは、
資料が無かったのでわかりません。

この飾り格子には、どんなライトアップが似合うのか、関係者総出で実証実験です。

そこで、クライアントや工事関係者を交えて、
どんなライトアップがこの飾り格子を美しく見せることができるのか実験をしました。

通りを歩く人も、車で通り過ぎる運転手も、みんなこの建物を見上げていく。
その姿を見るのが楽しかった。聞き耳を立てると、行きかう人々からは
「何ができるの?」「いつの間にできたの?」
なんて、会話が聞こえてきます。この建物は約50年間、ここに建っていたのに(笑)。

こうして、照明の色や角度、光の強さなど、
関係者みんなが納得のライトアップが決まりました。
テーマは多文化の融合。外国語センターという用途に由来してのことでした。
その他、外装の工事は1階エントランス部分のみに留め、
2階以上の外壁は既存を生かす計画として、内部に少し手を加えました。

生まれ変わった土屋ビルの外観(でも外装で変えたのは1階部分のみ)。

その他、語学学校の教室となっていた2階の部屋の窓に多数貼られていたサインシート。
これをすべて剥がし、外からも授業の様子がうかがえるようにしたり、
ラウンジで生徒が講師の先生と会話している様子が外からちらちら見えたりします。
内部のアクティビティーがまちに漏れ出すことが建物の表情を豊かにし、
もう過剰なサインが無くても、
語学学校であることは建物自体が語ってくれるようになりました。

内装は暖かい色調で、親しみが持てる雰囲気へと変えました。

土屋ビルがリニューアルオープンしたのは2009年9月のこと。
土屋ビル改修の仕事は、私にとってある視点を得る、転機となるものでした。

そこにあることの意味に想いを巡らすこと

何らかの意図をもってつくられた建物の記憶をたどること。
それは謎解きのようでもあり、新しい物語を綴る作業のようでもあります。
その建物や空間は年月とともにどう進化したか。
ここで何が起こり、それはどのように進展または消滅したか。
模様替えされたところとされなかったところはどこか、そしてそれはなぜか。

そんな風に問いを常に建物に投げかけては想像する。
いま既にあるものを無視したり、否定することなく、
肯定するところから始める姿勢が、まちとどんな関係を
これから結んでいけるのかを考える大事なきっかけになると学んだ気がします。

そして、まちには同じような境遇の建物がたくさんあるかもしれないし、
まずは今ある建物のことを、みんなが“知る”だけでも
まちは変わるんじゃないかと思うようになりました。

真新しいビルに囲まれても、そのなかに埋もれることなく、
むしろ50年間このまちに存在し続けたことを誇らしげに建つことができた土屋ビルは、
見る人にいろいろなことを語りかけてくれたのではないかと思います。

そんなわけで私はリノベーションという“つくりかた”の面白さを確信したのです。

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シーンデザイン一級建築士事務所

住所 長野県長野市 東町207-1 KANEMATSU内
電話 026-262-1178
http://scenedesign.jp/

いま、町に本屋をつくるとしたら…… 前編

名物書店が迎えた激動の夏

小豆島を訪ねた1週間後、僕は北海道へ飛んだ。
4月とはいえ、空港からの道すがら、ところどころに雪が見える。
冬が色濃く残る札幌で、僕は、町の本屋が直面する厳しい現実を垣間見るのと同時に、
本屋のあり方についてのヒントを手にすることになった。

札幌を訪ねたのは、前回同様、
「町には本屋さんが必要です会議」(通称:町本会)に参加するためだ。
この日、町本会を主宰する夏葉社・島田さんが対談するのは、
札幌で70年近い歴史を持つ「くすみ書房」の久住邦晴さん(62歳)。
くすみ書房は、これまで数々のユニークな企画を手がけてきた。
売れ行きの悪い文庫ばかりを集めた「なぜだ!? 売れない文庫フェア」や、
中学生へのオススメ本を集めた「本屋のオヤジのおせっかい、中学生はこれを読め!」など、
その取り組みは新聞やテレビで広く紹介され、北海道のみならず全国にもファンを持つ。

そのくすみ書房が、閉店の危機に直面している――。
とのニュースが流れたのは、2013年6月のこと。
3か月後には、クラウド・ファンディングで300万円の資金を調達し、それも話題を呼んだ。

危機の発覚から10か月が経過した4月の半ば、
くすみ書房の店舗近くのカフェを借りきり、行われたイベントは、
会場にぎっしりと40名を超える人が集まった。
全国的な知名度を持つ書店が、どうして苦境に陥ったのか――。
夏葉社の紹介から穏やかに始まったふたりの話は、
島田さんのこの問いかけで、一気に核心へと入り込んだ。
会場に集まった人たちは、久住さんの話に固唾を呑んで耳を傾けていた。

にこやかに談笑する久住さん(左)と島田さん(右)。本の力、本屋という場の力を信じるおふたりの話に、僕もおおいに勇気づけられた。

3度目の危機

二代目の久住さんが、店を継いだのは1999年、
くすみ書房は、それから3度の危機を経験している。
最初の危機は、2003年に訪れた。当時、店を構えていた札幌市西区琴似(ことに)は、
地下鉄の延伸によって人の流れが変わり、店の業績が急激に悪化する。
客足がもっとも増える夕方以降の売上が、以前の3分の1に落ち込んだというから凄まじい。
打つ手が尽き、店を閉める覚悟が定まりつつあったとき、久住さんは、
『あなたの会社が90日で儲かる』(神田昌典著、フォレスト出版)という
一冊の本を手にする。
「この本で救われる人が必ずどこかにいるだろう」というコピーに、
騙されたつもりで読み始めると、目が醒める思いがしたという。
その本は、売上を求めるよりも、人を集めることの重要性を説いていた。

まだやれることはある――。

そう感じた久住さんは、人を集めるために、ほかの店と違うことをしようと考える。
そこで思いついたのが、先に紹介した「なぜだ!? 売れない文庫フェア」だ。
周りが売れる本を追い求めるなら、うちは売れない本を集めてみよう。
逆転の発想は見事に功を奏し、起死回生の策となった。新聞やテレビでフェアが紹介され、
集めた新潮文庫とちくま文庫の売れ筋下位1500点は、1か月も経たずに完売した。
「売れない」烙印を押されていた本たちが、光を浴びて次々と売れていった。
それを見たほかの出版社が、「うちのほうが売れていない」と企画を持ち込んできた。
フェアの大ヒットで、傾きかけた経営は持ち直すかに見えた。

いまではくすみ書房の顔となった「なぜだ!? 売れない文庫フェア」。ちくま文庫、ちくま学芸文庫、岩波文庫、中公文庫などの文庫が揃う。

ところが、2000年代後半に入ると、近隣に大型書店が相次ぎ出店、売上が再び急降下を始める。
2度目の危機は、大きな決断によって切り抜けた。
2009年、厚別区大谷地にある商業施設からの出店依頼をきっかけに、移転を決意。
新天地は、売り場が以前よりも広くなり、売上は2倍以上になった。
好評だったフェアも常設できるようになった。
だが、攻めの移転によって負った傷も小さくはなかった。
店舗の賃料とともに、在庫の仕入負担も増した。
移転費用や、琴似時代に抱えていた負債も、経営をじわじわと圧迫する。
こうして、3度目の危機に見舞われたのが、2013年のことだった。

6月中に一定額の支払いができなければ、取引を停止する。

本を仕入れる出版取次(出版販売会社、以下「取次」)から、そう通告を受けた。
取次とは、文字通り、出版社と本屋の間を取り次ぐ卸売業者(問屋)のことで、
大手二社が市場の7割を押さえている。
プレイヤーが少ない業界で、取引相手の本屋の経営状況はすぐに広まる。
一社と取引が途絶えたからといって、別の取引に乗り換えることは通常できない。
要するに、取次からの取引停止宣言は、本屋にとって死刑宣告に等しい。
6月はじめの時点で資金繰りの目処は立っておらず、
「さすがに今度こそダメだと思った」と久住さんは述懐する。

くすみが書房なくなる!?

救いの一手をもたらしたのは、長女でフォトグラファーのクスミエリカさんだった。
エリカさんは、店の窮乏を訴え、広く資金を募ることを提案する。
「くすみが書房なくなる!?」と題したウェブサイトを公開し、
2012年に始めた「くすみ書房友の会『くすくす』」への入会者をひとりでも増やし、
支払い資金に充てようということになった。
「くすくす」は、年会費1万円で、久住さん自身が選んだ7000円相当の書籍と、
手づくりの情報誌「くすくす」が届けられる会員サービスだ。

サイトを公開したのは2013年6月14日(金)。
直後から、ツイッターやフェイスブックを介して反響が広がる。
週末には店がごった返すほどの客が来店し、「くすくす」への入会申し込みは400名を超えた。
各方面からも支援が得られ、わずか2週間で必要額が集まった。
これで一件落着だと、久住さんも胸を撫で下ろした。

だが、待ち受けていたのは、予想もしない厳しい現実だった。
取次からは、6月はじめの時点で支払いの猶予を受けていたこともあり、
単行本や文庫など、書籍の出荷を停止するペナルティが課せられた。
雑誌の出荷を続けてくれたのは唯一の救いだったが、
本屋が本の入荷を止められてしまえば、戦場で兵糧の補給路を断たれたに等しい。
「なぜだ!? 売れない文庫フェア」や「中学生はこれを読め!」など、
店の顔とも言える棚も、
「去年の6月以来、売りっ放しで補充ができていない」と久住さんは言う。

もちろん、久住さんも打てる手は打っている。
東京・神田神保町には、中小規模の取次が集まる通称「神田村」と呼ばれる一画があり、
神田村の取次2社に打診し、新刊をいくらかは融通してもらえるようにはなっている。
だが、それで調達できる本は、店として仕入れたい量の3分の1にも満たないという。
書籍の補充は充分にできなくとも、取次への支払いは毎月続く。
クラウド・ファンディングで資金を募ったのも、店を存続させるための一手だった。
(後編へつづく)

くすみ書房の取り組みや3度の危機を乗り越えてきた経緯が、日経新聞で紹介された(2014年4月5日)。記事には、「小さな町の書店が淘汰されていく姿は嫌というほど見てきた。黙って閉店するぐらいなら、『大変だと声を上げるべきだ』との思いはずっと抱いていた」とある。

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くすみ書房

住所 札幌市厚別区大谷地東3-3-20 CAPO大谷地(地下鉄東西線大谷地駅隣接)
電話 011-890-0008
営業時間10:00~22:00(2Fは21:00まで) 年中無休

MAD City vol.10: きっかけをつくる! 「成長する空間」をつくり続ける 建築家

MAD City vol.10
成長し続ける空間づくりとは!?

千葉県松戸市は年2回のお御輿、花火大会、献灯祭り、松戸まつりなど、
地域イベントも盛んな土地柄。
その都度MAD Cityの関係者も関わらせていただいたり、
ほかにもMAD Cityが運営するイベントスペースFANCLUBなど、
毎週のようにさまざまなイベントが開催しています。
そんなとき、MAD Cityがいつも「知恵袋的存在」として頼りにしているのが、
建築家・デザイナーの西尾健史さんです。

松戸在住の西尾さんは、数年前からMAD City周辺で開催される、
イベントの什器制作などでよく中心となって活躍してくださっており、
もはやMAD Cityにはなくてはならない重要人物なのです。

実はMAD cityの新オフィスの設計や家具の制作をしてくださったのも西尾さんです! 本当にお世話になりっぱなしです!

ちなみに、普段西尾さんがメインで手がけているお仕事は、
都内を中心とした展覧会の設計デザイン、プロダクトのデザインなどです。
たとえば……。

渋谷パルコで開催されたネコ好きクリエイターたちによる、ネコをテーマにしたポップアップショップ「POPMOTTO du CAT LOVER」。こちらのデザインと什器制作は西尾さんが担当! おしゃれです。

森アーツセンターギャラリーで開催された「スヌーピー展」の物販スペース。こちらの会場設計も西尾さんが行ったとか。壁面がゆるやかにつながっていてお店というよりひとつの家のようになっているのが特徴です(photo:kenta hasegawa)。

東京でもデザイナーとして活躍している西尾さんが、
いったい松戸ではどんな活動をしているのか。
今回はそれをちょっとご紹介したいと思います。

たとえば、前回紹介したMAD マンションの住民の方で、
屋外で「食」に関するイベントを行っている、
フードユニットteshigotoさんを中心に開催された「Outdoor Kitchen」。
これは松戸中央公園の林のなかでかき氷を作って食べるというイベントだったのですが、
西尾さんはキッチンカウンターのデザインと制作を担当してくれました。
「さまざまな場所でこのカウンターキッチンを使用したい」
というteshigotoさんの要望に応えて、分解ができて、どこででも組み立てが可能。
さらに移動も可能なキッチンカウンターをつくったのだとか。
ちなみに、全部西尾さんの手づくりです。

また、MAD Cityが管理する物件 古民家スタジオ旧・原田米店にある
「松戸探検隊ひみつ堂」さん。
この古民家物件の改装デザインを手がけたのも西尾さんでした。

もともとは何年も使われていなかったこのスペースが……

素敵な観光案内所になりました!

いまでこそ、デザインのみならず、インテリアや家具など
実際に「つくる」ところまで手がけている西尾さんですが
実はこの頃はまだあまりリノベやDIYをやったことがなかったのだとか。

「ひみつ堂さんは、色んな条件が重なり、
僕がDIYリノベをやりはじめるきっかけとなった物件だったので、思い出深いですね。
本格的に大工修業をしたことがあるわけでもないので、
最初は『ちゃんとできるかな』と心配だったんですが、
意外とやってみるとできるもので(笑)。
この物件に携われたのは、ものづくりの達成感以上に
DIYのもつ魅力を感じることができて、すごく自信になりましたね」

出身は長崎で、数年前まで都内に住んでいたという西尾さん。
いったい、なぜ松戸に興味を持つようになったんでしょうか。

西尾さんが松戸に興味を持つようになったのは、
以前の職場が柏だったので土地勘があったということがひとつ。
もうひとつは、MADCityを知り、
いい意味でも悪い意味でも「手を入れる余地を感じられるまち」だったから。

「最近は、いろんな地方都市でその土地に合わせて
デザインの取り組みがおこなわれるようになってきています。
松戸も都心に近く、人口も多いので、おもしろいことができるはず。
活動や取り組みがまちの人に受け入れてもらえれば、
少しずつかもしれないけどきっと成長していくと思うんですよね。
だから、僕はそのきっかけになる『場やコト』を松戸でつくれればいいな、
と考えています」

そんな西尾さんが空間づくりのときに常に大事にしているコンセプトが
「これからの暮らし方、及びそれを取り巻く状況全般をデザインする」ということ。

「僕はもともと単に建築物をつくったり、家具をつくったりするというよりは、
『空間そのもの』をデザインすることに興味があるんです。
できればつくった後も、その場で起きる出来事とともに
成長していくような空間をつくりたいんです」

だからこそ、空間をつくるときには
決して「モノだけのデザイン」にならないように意識するそうです。
では、いったいどんな空間づくりをしているんでしょうか?

たとえば、先日西尾さんがMAD Cityプロジェクトとともに手がけたのが、
松戸市内のショッピングセンターオウル五香の
コミュニティスペース 「ほうほうステーション」。
ショッピングセンターから空きテナントを一時的に活用するアイデアを依頼され、
「親子の交流が生まれる公園のような場をつくろう」という提案をし、実現しました。

西尾さんがつくったのは、本棚にもなるキャスターつきのベンチ。
単なる休憩スペースだけではなく、ここで買い物途中の親子連れが、
本を読みながらひと息つき、
絵本を介したコミュニケーションが生まれるよう配慮したのだとか。
今後は、本の内容も絵本だけでなく、料理本や旅行本等も増やしていきたいそうです。
「お母さんと子どもがここで本を見ながら今日の献立を相談して、
ショッピングセンター内で買い物をしたり、
週末の予定を考えたりと日常的に来てもらえる場所にしたい」
という構想もあるそうです。

また、利用者同士の交流を生むために、
「2冊本を持ってくれば好きな本1冊と取り替えてもOK」
という絵本の交換サービスを行ったりもしているそうです。

平常時はこんな感じ。お母さんと子どもが、お買い物の途中に、絵本を読みながらまったりとひと休みできます。

本棚も兼ねたベンチにはキャスターがついているので、自由にレイアウトの変更が可能なんです! 写真は、よみきかせイベントの様子です。

可動のベンチや山の形をしたパーテーションで、
いろいろな用途に合わせて空間をつくれるため、
「ここでイベントをしたい」という希望者の方も出てきているそうです。
ショッピングモールからは、この場所に次のテナントが埋まったら終わりではなく、
今回の可動式の什器を別の空きテナントに持っていけば
引き続き活動できるというアイデアも評価をいただいたとのこと。

「自分がつくったスペースを地元の方々が気に入ってくれて、
さらにいろいろな利用方法を考えだしてくれるのは本当に嬉しいです。
このスペースも、もっと地元の方々に使っていただけるようになったらいいですね」

「ベッドタウンとしての側面を持つ松戸は、通勤等でどこかしら都内と繋がっています。だからこそ『松戸でやっていることのほうが、都心でやっているものよりおもしろいしカッコいい!』と言われるのが理想です」と西尾さん。MAD Cityと一緒に、もっともっと周辺エリアを盛り上げていきたいですね!

せっかくつくった空間だから、成長させないともったいない。
その場限りで終わらせず、その後も独自に成長していくきっかけとなる種を植えていく。
そんな西尾さんと一緒にMAD Cityもエリア中に
さまざまな種を残していきたいと思います!

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MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

NO ARCHITECTS vol.9: 最終回にして番外編。 このはなの新しいスペース

NO ARCHITECTS vol.9
まだまだあります

この連載では、NO ARCHITECTSがリノベーションで関わった、
大阪市此花区の物件に絞って、記事にしてきました。
このはなには、実はほかにも魅力的なスペースがたくさんあります。
今回は、番外編としていくつか紹介しようと思います。

まずは、「四貫島PORT」。
正面は四貫島商店街のアーケードに面する建物で、
1階は、もともと魚屋さん。
生臭さの残る冷蔵室は解体、錆びたシャッターなどは撤去。
新たに機能的なキッチンと大きなカウンターの設置など、
きれいにリノベーションされ、店長が日替わりで異なる飲食店に。

四貫島PORT日替わり飲食店の1週間。

月曜と土曜日は、じゃこめしと日替わり定食の「ムクロジ」
木曜は、電子工作やプログラミングの相談ができる持ち込みOKの喫茶「すわる」
金曜は、手づくりパンやキッシュの「喫茶ふっくら」
毎日違う店長が入れ代わり立ち代わり、お店を切り盛りしています。

四貫島PORTの1階。僕らもいつも施工でお世話になっている工務店のPOSさんの内装です。

その他、「MIKIKI」の古着マーケットや、
中津にある「本屋シカク」の出張本棚など、ショップコーナーもあります。
上階は、あまり手を入れずに、共同アトリエとシェアハウスとなっています。
近々、4階の大広間をシアターとしてオープンも計画中とのこと。楽しみです。

ほかでは手に入りにくい本が揃う出張本棚。わかりやすいポップも付いています。

続いて、「FIGYA(フィギャ)」です。
アーティストmizutamaくんの住居兼アトリエで、
定期的に展覧会やライブ、ワークショップも開催されるなど、
ギャラリーやイベントスペースとして活用されています。
写真は、撮影時に開催されていたボン靖二個展「ちゃんとする」の様子です。

FIGYAの1階。左の幕で覆われているのは、居酒屋時代のカウンターです。右の白い壁は、今回の展覧会のためにつくったとのこと。

もともとは、モトタバコヤ(vol.4参照)のように、
モトイザカヤという名前で活用されていた場所でもあります。

2013年3月に行われた劇団子供鉅人による、
散歩と観劇を兼ねたツアー演劇『コノハナ・アドベンチャー2』では、
「未来食堂コノハナ」として舞台のひとつにもなっていました。
その時の舞台装飾の銀色のペンキで塗られた壁が今もそのまま残っています。

FIGYAの1階の奥の部屋は、もとは倉庫。真っ白く塗装され、映像などの展示室に。

2階の和室をそのまま展示室に。

3軒目は、「ASYL(アジール)」です。
OTONARI(vol.2参照)と同じ建物の中にあります。
もともとは、梅香堂というギャラリーとして使われていたスペースが、
建物が持っていた雰囲気を尊重しながら、
現在、共同アトリエとして活用されています。

アーティストの前谷康太郎くんを中心に、
作品の制作場所になっています。
今後は展覧会の企画なども考えているそうです。
週末には、楽しそうな声が聞こえてきます。
写真は、FIGYAで開催が始まったボン靖二の個展のオープニングの様子です。

FIGYAで開催されている個展のオープニングパーティの様子。手前の天井が低くなっている部分は、上がロフトになっています。

まちのリズムを受け入れる

紹介しだすと切りがないのですが、
それぞれが独自のスタイルで日々運営されていて、
付かず離れず、良い距離感で共存しています。
僕らNO ARCHITECTSも、事務所を移して3年半、
住み始めてようやく1年が過ぎました。

連載を始めたころから思い返してみても、
既存の建物を使いながらも、新しく生まれる場所もあれば、
惜しまれながらもなくなっていく場所もあります。
すべてをポジティブに受け入れて、
未来を見守る優しいまなざしのようなものが、
まちに関わる人たちには大事だと思うようになりました。

都会ではあまり実感することができない
「人との距離感」や、「まちの音」、「生活のリズム」が、
個人的な日常の暮らしを通して感じられること。
今しかない時間を共有しているということを味わいながら、
このまちで、日々活動をしています。

これからも、このはなの物件はもちろんですが、ほかのまちでも
そのまちを気に入って住み始めたり、
まちとつながるオープンなスペースを持ちたいと思った人などに対して、
リノベーションを通してサポートができれば幸せだなと思っています。

事務所の屋上から見る夕陽。手前の建物は、最近、解体されてしまいました。日々、景色も変わっています。

ひとまずNO ARCHITECTSの連載はここで終了ですが、
また、まちの様子など報告できたらと思っています。
今回初めて読んでいただいた方、続けて読んでいただいていた方、
どうもありがとうございました。また会う日まで。
このまち、このはなでお待ちしてます。

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NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/
https://www.facebook.com/NOARCHITECTS.jp

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四貫島PORT

住所 大阪市此花区四貫島1-6-6
http://shikanjima-port.jp/

島で考える、本と本屋のこと

夜の小豆島にて

小豆島を目指したのは4月上旬。
夜8時半、高松港から島行きの最終フェリーに飛び乗ると、風には冷たさが残る。
薄手のセーターに薄手のジャンパーの装いでは寒さを感じるほどだ。
夜9時半、フェリーが小豆島・土庄(とのしょう)港へ着く。
仕事帰りの勤め人、予備校帰りと覚しき学生たちの列に混じり、僕も島へと降り立った。

小豆島に来たのは、前回紹介した夏葉社・島田さんが主宰する
「町には本屋さんが必要です会議」(通称:町本会)を取材するためだ。
町本会はそれまで、東京のブックカフェを会場に、
本屋のあり方を参加者と一緒に考えるトークイベントを3度開いていたが、
存続の厳しさを指摘されているのはむしろ地方の町の本屋だ。
島田さんもそのことを気にかけていて、4回目にして地方での開催となった。
僕が本屋を開こうとしている勝山(岡山県真庭市)も、いわば本屋の空白地帯。
勝山で店を立ち上げるヒントを求めて、小豆島を訪ねたというわけだ。

島田さんとは、島で落ち合うことになっていた。
すでに島にいる島田さんに連絡すると、「すぐ迎えに行きます」とのこと。
待つことしばし、てっきり島田さんが迎えに来てくれるのかと思いきや、
クルマで僕をピックアップしてくれたのは、
今回の町本会で島田さんと対談するサウダージ・ブックスの淺野卓夫(あさのたかお)さん、
僕がかねてからお会いしたいと思っていたその人だった。

僕が淺野さんのことを知ったのは、2年ほど前のことだ。
お世話になっているミシマ社という出版社のウェブマガジン「ミシマガジン」で、
インタビュー記事を読んだのがきっかけだ。
(思えば、島田さんとのご縁も、「ミシマガジン」での取材だった)
記事で読む淺野さんの経歴は、僕には眩しすぎた。
学生時代に文化人類学を学び、
大学院生のときには、レヴィ=ストロースに憧れてブラジルへ留学する。
レヴィ=ストロースは、ブラジルでのフィールドワークを土台に、
構造人類学という分野を切り開いた20世紀の知の巨人。
『悲しき熱帯』(中公クラシックス)、『野生の思考』(みすず書房)などの著作がある。
怠惰な学生だった僕には、とても手が出せる人ではなかった。

淺野さんは、小学生のころから民俗学者・宮本常一の熱烈なファンでもあった。
きっかけは、祖父から手渡された宮本常一の代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)。
この、辺境の地に生きる老人たちの生きざまを記録した聞き書き集は、
少年だった淺野さんの心をとらえ、
忘れられた庶民の生き方にこそ、生きる喜びや知恵があると感じるようになる。
淺野さんがブラジルへ向かったのは、その思いを確かめ、かたちにするためでもあった。

町本会で本について語る淺野さん。静かな語り口に、本への深い愛情を感じる。

「本のない世界」と「本のある世界」をつなぐ

ブラジルは、20世紀初頭に多くの日本人が移り住んだ「日本の外でもっとも日本人の多い国」。
彼らはいわば、日本の外にいる、もうひとつの「忘れられた日本人」たちだ。
言葉もろくに通じない異国の地で、人生を切り開いた彼らの生きざまが語られることは少ない。
淺野さんは、彼らに会いにブラジルへ行った。
そもそも彼らは、何を求めてブラジルへ旅立ったのか。
子孫たちは、なぜ父母や祖父母の故郷に戻ることなく、かの地に留まったのか。
それを確かめ記録に残すことが、淺野さんのブラジル留学のひとつの目的だった。
宮本常一を読んで育ち、レヴィ=ストロースに憧れた淺野さんは、
自分なりの「忘れられた日本人」を記すために、ブラジルへ向かったのだ。

淺野さんが熱心に話を聞いたのは、ブラジル奥地に住んだ日本人移民の古老たちだ。
そこには、日本人である彼らが解する日本語の本などあるはずもない。
「本のない世界」で、言葉も通じず身よりもない彼らの頼みの綱は、自らの生身の身体だけ。
彼らは、いわば身体という「野生の思考」を武器に人生を切り開いていった。
その生きざまは、淺野さんの心を魅了してやまなかった。

だが、彼らの歩みをアカデミズムの言葉に置き換えることに、
淺野さんはどうしても馴染めなかった。
ブラジルの奥地、「野生の思考」に従い逞しく生きた人たちが奏でる言葉を、
都会の研究室に持ち帰り、データに還元して専門用語で分析する。
そのことに空虚さを感じ、葛藤の末に大学院を辞めて日本に帰国する。2003年のことだ。

けれども、彼らが生きた証をかたちにしたいという思いは、消しがたく心に残る。
ブラジルで会った「忘れられた日本人」の言葉が脳裏にこだまする。
「『本のない世界』に息づく野生の知恵や物語を、
『本のある世界』につなげるような活動をはじめたい」
そういう思いがふつふつと沸き起こり、葉山(神奈川県)でサウダージ・ブックスを立ち上げ、
ブラジルや旅をテーマに本をつくり始める。
その後、2012年に京都を経由し、拠点を小豆島に移すことになる。
瀬戸内の島々に眠る物語を、本というかたちに残したいと思ってのことだった。

小豆島に着いたその晩、淺野さんと島田さん、淺野さんの友人の方々と一緒にご飯を食べる。
入った店は、ちょっとしたショッピングモールのようなところのすぐ近くにあった。
一画には、高松に本店を構え、全国に店舗を持つ宮脇書店もある。
意外に、と言うと怒られるかもしれないけれど、
小豆島は、「島」という言葉から想像していた以上に、ちょっとした町だった。

文藝の島に眠る物語

翌日、淺野さんが小豆島を案内してくれた。
クルマを運転しながら、「小豆島は牛のかたちをしているんですよ」と語る。
牛の頭に相当する部分をグルっと周る途中、西光寺という寺に立ち寄る。
そこには明治から大正時代を生きた自由律俳句の俳人、尾崎放哉(ほうさい)が眠る墓がある。
同時代を生きた種田山頭火とともに「漂白の俳人」と呼ばれる放哉は、
病に侵された身体で小豆島に辿り着き、最晩年をこの寺で過ごして41歳の生涯を閉じた。
寺の敷地内には、放哉が往時を過ごした庵を再建した「尾崎放哉記念館」もある。
展示を見ながら、放哉について何も知らない僕に、淺野さんが解説をしてくれた。
サウダージ・ブックスでは、去年(2013年)の秋、
放哉を主題にした『「一人」のうらに 尾崎放哉の島へ』(西川勝)を刊行している。

放哉は、酒に溺れる質の人だった。
金が手に入ると酒を呑み、金が尽きると誰彼構わず金の無心をする。
それを見かねた放哉の師匠にあたる荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は、
自ら創刊した自由律俳句の機関誌で、放哉直筆の句の買い手を募り、援助の手を差し伸べる。
放哉は、ときの公務員の月給に相当する金額をいとも簡単に手にするも、
それがまた酒に消える。
それでも放哉の才能には多くの同人たちが惚れ込んでいて、
機関誌というメディアを通じて、少なくない資金が放哉のために融通されていた。
「それって今で言うところのクラウド・ファンディングですよね」
そうこぼすと、「そうですね、ソーシャルですね」と淺野さんは笑って応えてくれた。
驚いたのは、帰ってきて放哉のことを調べていたときのことだ。
井泉水が主宰する機関誌の名は『層雲』という。
まさにクラウド(雲)による資金集めではないか、と目を丸くしたのとあわせて、
「漂白の俳人」たる放哉が、雲によって生かされていたと思うと感慨深い。
流れ行く雲は、ひとつところに留まって生きることのできなかった放哉の人生を連想させる。

西光寺に建てられた放哉の句碑。刻まれている句は、「いれものがない 両手で受ける」。『「一人」のうらに 尾崎放哉の島へ』(西川勝)によれば、ひとり病に冒され、暮らしがままならなくなった放哉が、自らの孤独と不如意を笑う句だという。(筆者撮影)

淺野さんいわく、小豆島は文藝の島だ。
圧倒的に有名なのは壺井栄の『二十四の瞳』(角川文庫)だが、島には放哉がいて、
小林多喜二に並ぶプロレタリア文学の旗手として活躍した小説家の黒島伝治もいる。
黒島伝治の短編を集めた『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』も、
放哉の本と同じ時期にサウダージ・ブックスから刊行された。
淺野さんは、これからどんな物語を島から掘り起こしていくのだろう。

町本会のイベントまでには時間があり、島の図書館にも足を運ぶ。
そこは、僕がいま住んでいる町(神奈川県茅ヶ崎市)の図書館と
変わらないぐらいの広さがあるように感じた。
一画では、島の個人蔵書家が寄贈したという本が展示されている。
海外文学全集や萩原朔太郎全集がずらっと並ぶさなかに、
ビジネス書や時事問題を扱う本がひょっこり混じり込む。
一室では古本市も開かれ、
小学校の教室の半分ほどのその部屋は、掘り出しものの本を探す人たちで賑わっていた。
島の人たちも本を求めているのだと、
言葉にしてみれば当たり前のことを確認して、何だか少し嬉しくなった。

島の本屋にも立ち寄った。個人経営のさほど大きくない本屋だ。
聞けば、1階を店舗、2階を住居にしているという。
コミックがあって雜誌があって、旅行のガイドブックがあり、Hな本もある。
売れ筋の文庫や新書、単行本も取り扱う。どこでもよく見かける、ごく普通の本屋だ。
島でどんな本と出会えるのかと期待に胸を膨らませていた僕は、
その普通さに肩透かしをくらったような気分になった。
けれども、それは外からやってきた人間のひとりよがりでしかない。
島の本屋は、たまに外からやって来る人のためではなく、
島に住む人たちのためにあるはずなのだ。

地域を支える「苛烈な読書」

町本会は、西光寺からも程近い「Cafe de MeiPAM(メイパム)」で開かれた。
辺り一帯は、古くから「迷路のまち」と呼ばれるほど、通りが入り組んでいる。
島民たちが、中世の海賊行為や南北朝時代の戦乱から身を守るために、
あえて路地を入り組ませ、部外者に容易に侵入させないようにしたのだそうだ。
「MeiPAM」は、「迷路のまち」全体をミュージアムに見立ててアート活動を行い、
その拠点のひとつとして、カフェを運営している。
店内では、サウダージ・ブックスや夏葉社、ミシマ社など、
近年活動を始めた独立系出版社の本の販売も行う。
その名も「迷路のまちの本屋さん」。本記事冒頭の写真が、店の書棚だ。
カフェの2階では、サウダージ・ブックスが事務所を構える。
つまりここは、淺野さんが本をつくって届ける場でもある。
僕が目指す「本屋」も、こんなふうに始まっていくのだろうか――。

「Cafe de MeiPAM」でのイベント当日の様子。参加者からもさまざまな意見が寄せられた。

イベントの参加者は15人ほど。2時間の予定が3時間になるほど話は盛り上がり、
話題は多岐にわたったが、ここではポイントを絞って紹介したい。

淺野さんは、ブラジルで「辺境」と言われる地を訪ね、
自らの手で暮らしをつくる人たちと直に接し、話を聞いてきた。
「本のない世界」に生きる彼らは、自分自身の身体に豊かな物語と哲学を刻印し、
ひとたび聞き手をつかまえると、あたかも自身の肉体が書物であるかのごとく、
生身の肉体に宿る「身体の言葉」で淀みなく話し続ける。

そういう「辺境」の地にも、「書物の言葉」を持つ人たちがいる。
村の知識人と呼ぶべき彼らは、圧倒的な量の本を読み
本から得た知識と関連づけて地域の歴史を語り、地域の行く末を案じる。
彼らが本を読むのは、都市に住む読書家たちとは理由がまるで違う。
都市の読書家が本を読むのは、あくまで自分ひとりのためだ。
知識欲を満たし、仕事の糧にできればそれでいい。
だが、村の知識人たちは、村のため、地域のために本を読む。
勉学の道に進みたくても進めなかった人たちの思いを背負い、
地域を少しでもよくしたいと願って一心に本を読む。
淺野さんは、それを「苛烈な読書」と呼ぶ。
図書館に寄贈した個人蔵書家も、ここ小豆島で「苛烈な読書」をしていたのだろうか。

町の本屋の担い手たち

淺野さんの話を受け、島田さんが『本屋図鑑』(夏葉社)の取材時の体験を語る。
地方の町の本屋、それも個人店は、戦争から帰ってきた人たちが、
町の文化向上のために始めた店であることが多いという。
店主たちの肩には、戦場で命を落とした戦友たちの思いが見え隠れする。

対談の掛け合いで笑みをこぼす淺野さんと島田さん。島田さんは二度目の出家(前回参照)で、以前とは印象がずいぶん変わった。

ここからは僕の推測だが、そういういわば「苛烈な本屋」が、
戦後の出版文化の一翼を担ってきたのだろう。
だが、本にかける彼らの苛烈な思いも、寄る年波にはかなわない。
終戦時に20歳だった人は、もうじき90歳になる。
1990年代後半に22,000店以上あった本屋が、いまでは14,000店強にまで減った。
その理由はさまざまに語られはするけれど、
「苛烈な本屋」の担い手が店から退き、あるいは生涯を全うしつつあることも、
少なからず影響しているのではないだろうか。

いま、「苛烈な本屋」が築いたひとつの時代が終わりを迎えようとしているのだとすれば、
これから、町と本の関係はどうなっていくのだろう。
いまを生きる僕らが、新たに「苛烈な本屋」にならなければ、
町から本が消えてしまいかねない。
ネット書店が津々浦々に本を運んでくれるとしても、
町に住む人が、ふと本と出会う場が失われてしまう。
それは、本にとっても町に暮らす人にとっても、途轍もなく大きな損失なのではないか――。
規模は小さくとも、町に本のある場をつくることが、
いま求められていることなのだとあらためて噛みしめる。
僕が目指しているのは、きっと、僕なりの「苛烈な本屋」をつくることなのだ。

小豆島からの帰り道、高松行きのフェリーのなかで、そんなことを島田さんと話し込む。
「やろうと思った人間がやるしかない」。そう口走ったことをはっきりと覚えている。
思いだけでは生きていけない。それがわからない年齢ではないけれど、
思いがなくては始まらないと、青臭いことを思う。

高松では、宮脇書店の総本店に島田さんと足を運ぶ。
売り場面積およそ2000坪、日本有数の規模を誇る店舗に足を踏み入れると、
フェリーのなかで抱いた思いが、すべて吹き飛びそうになった。
こんな規模は、個人の力ではどうしたってできっこない。
初めて見る本が、山のようにある。まともに勝負したら、どう考えても勝ち目がない。
イベント参加者のひとりが、「島にも大きな本屋がほしい」と切実に語ったことを思い出す。
弱気の虫が思わず顔を出し、打ちのめされそうになりながら、店を後にする。

ふと、島で立ち寄った本屋のことが頭に浮かぶ。
地方に住む人たちは、どういう本屋を求めているのだろう――。
本屋はそれに、どう応えていけばいいのだろう――。
結局、本屋を始め、続けていくには、この素朴な問いに向かい続けるしかないのだろう。

島田さんと、高松で別れを告げる。次に会うのは一週間後、舞台は札幌だ。
北の大地に、放哉ではないけれど、
クラウド・ファンディングで経営危機を乗り越えようとしている本屋がある。
僕はそこで、本屋の厳しい現実を知り、いくつものヒントを手にすることになった。

山ノ家 vol.9: 山ノ家はこれで完成?

山ノ家 vol.9
半日のおやすみ、トリエンナーレ、アーティストインレジデンス

ドミトリーがオープンすると、
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の開催年ということもあって、
宿泊希望の連絡は早いうちから入ってきていた。
カフェの営業に加え、ドミトリーの営業も始まると
堰を切ったように朝から夜までずっと、スタッフは対応に追われる毎日となった。
運営スタッフの一部は、朝担当と夜担当にそれぞれ分かれて
シフトを組むなどしてなんとかこなしていた。
一日のスタートは、宿泊者のための朝ご飯の準備から始まって、
ランチの仕込み、そしてカフェの通常営業、
合間に、ドミトリーのベッドメイク、夕食を希望する方への夕食準備の対応。
夜はお酒を飲む人も多く、際限なく続いてしまうと次の朝にも影響が出てしまうので
23時を消灯、門限とさせていただいていた。
その後にも片付け、一日の集計や、食材の発注、その他業務は続く。
芸術祭が終わるまでは、休みなしで駆け抜けるつもりだったので、
本当に息つく暇も無い日々。

リノベーションが一応カタチになってからは、
僕もカフェのスタッフとして動いていたり、
毎日来るお客のために、ドミトリーのベッドのシーツを片付けたり、
掃除を手伝ったりと、運営のサポートにまわった。

立ち上げのために現地に滞在してくれたインターンやスタッフには、
シフトの中で週に一度は休日をもうけるようにしていた。
参加してくれたことへのささやかなお礼として、
芸術祭の参加パスポートを皆に渡していた。
これを手に、めいめいプランをたてて、
この時期に展示中の作品を鑑賞する旅に出かけていた。
なかには、ヒッチハイクでまわってきたという強者もいた。
ずっと休みなしで動いていた僕と池田も、半日だけお休みをもらうことにした。
隣町、十日町のキナーレという施設周辺なら、
作品もいくつか集中しているし、さっと見に行って戻って来れる。

十日町にあるキナーレにて。クリスチャン・ボルタンスキーのものすごい作品や、同施設に新たに開館した里山現代美術館を見ることができた。

空き家だった山ノ家を最初に見に来てから約1年。
その間、この土地に展開されたさまざまアートな作品を、ほとんどと享受できていなかった。
こういうかたちで関わるようになって享受していたのは、
まちのことや、人との縁や、めまぐるしい自然の変化だったから。

そんなわけで、久しぶりに旅行者に近い感覚で
ここにあるもうひとつの財産として、
アートが育まれている状況というものに触れる機会を得た。
しばらく滞在しているこの土地のすぐ近くで、
素晴らしいエネルギーをもった作品群があったり、
イベントが行われたりしている状況。
そこには以前見た時とは全く別の、
新鮮なのに親しみがあるような、不思議な感慨が自分のなかに生まれていた。

また山ノ家でも、芸術祭の終わりが近づいた9月初旬の1週間、
アーティストが滞在し、製作と展示を行うことになった。
芸術祭のプログラムではないが、
オープン直前のときに滞在してくれたsawakoさん(vol.5参照)からの紹介で、
ふたりのアーティストが
山ノ家でレジデンスで滞在して展示をやってみたいというのだ。

実は僕らとしても、2階にギャラリースペースを設けたばかり。
と言っても、もともとただの廊下だった部分を行き止まりにしたような、
とてもコンパクトなスペースなのだが。
ここに何かコンテンツを入れたいとちょうど考えていたところだったので
喜んで受け入れることにした。

階段を上がるとすぐに見えてくるこの場所は、もともと部屋の外側にあった回廊の一部だったところで、わざと行き止まりにしてできる不思議なスキマ空間をギャラリーにしたいと目論んでいた。

立ち上げの黎明期において(実際は今でもそうなのだが)、
こういった手つかずのゾーンにスッと入り込むようなタイミングで
お話が持ち込まれることは本当にうれしいこと。
ふたりのアーティストはとても楽しそうにこの地で過ごしながら、
実に上手に2階のスペースを利用して、
音のインスタレーションの空間作品を展開していた。

滞在製作してくれたのは、ベルリンで活動を始めたという日本人のサウンド/ビシュアルアートユニットのpenquo (hisae mizutani,kyoka) のふたり。芸術祭に来たお客や、ドミトリー宿泊の方などが、ここで製作された展示空間を体験した。

まだこのアーティストインレジデンスの仕組みは手探り状態ではあるが、
少しずつ試行錯誤を繰り返しながらも実行し、かたちづくっていけたらと思う。

滞在製作が終わり、展示として始めた初日には、期せずして通り雨の後に虹が。

山ノ家はこれで完成?

工事としてはひとまず終わり、山ノ家はなんとかオープンして、
この土地での日常が動き始めている。
では、これで完成なのだろうか。
東京で芽生えた「開かれた場」をつくりたいという想いが、
縁あってこの土地と結びつき、カフェとドミトリーのある場所をつくった。
ここで何かの問題を解決するために、といった大それた動機ではない。
それどころか気づけば地元の人たちに雪おろしを指導してもらったり、
野菜をいただいたりと、助けてもらうことの方が多いのではないかとさえ思えた。
こういった土地では、ほどよく干渉したくなるようなスキがあるくらいのほうが
関係性を持ちやすいのではないか、
そんなことをさまざまな体験を通してリアルに感じるようになった。

地元の人、移住してきた方たち、芸術祭を軸とした活動をされている方たち、
外から訪れてくれる来訪者、アーティストなど、さまざまな立場、
立ち位置の人たちにとってできうる限りよい刺激となるような存在でありながら、
関わる人々の数だけ視点が生まれる、そのような場所になったら面白い。
当初イメージしていたことだけにとどまらない面白さがこの建物に生まれつつある。
それはリノベーションする前から決定付けられたものではない。
この土地に滞在し、この場所をつくる中で気づいたこと。
空間として、機能として、全てが完成しきっていなくてもよい、
そんな考え方ができるのも、リノベーションだからこそありえる可能性のひとつかもしれない。

気づけば夢中で、ここまで駆け抜けてきてしまった。
豊かな自然や風土、そして10年を超えて育まれてきた大地の芸術祭もある。
そういったことに魅かれてこの地に飛び込んだが、
よき人々に出会うことができ、支えられて
山ノ家が動き出せたことは振り返ってとてもラッキーだった。
いまはまだ、この昔ながらの街道筋の商店街に、
風変わりな事情で気立ての良い移民のお店が一軒できたという感じ。

長い月日をかけてリノベーションをしながら、
東京とまつだいを行ったり来たり、生活を繰り返していくうちに、
ほとんど知らなかった里山のよさをたくさん知っただけでなく、
戻った時に新鮮な視点で東京を見ることができるようになった。
そして、東京と里山、どちらのほうがよいか悪いということではなく
どちらにもよいところがあり、
そこを積極的に拾っていくほうが面白いのではないか。
そう思えるようになったことは自分にとっては大きな変化であり、発見だった。
それは、いつでも戻れる場所をもうひとつ持ったことによる、
安心のようなものから生まれてきたのかもしれない。
僕らが持てたこのような変化は、きっと他の人でももつことができるだろう。

そんな思いを持つ人たちで、この周辺で新たな営みが
2つ、3つと増やしていくことができたりしたら、
また見えてくる風景が少しずる変わっていくかもしれないなと考えている。
気づいたら変わっている、くらいの自然発生的な感じがいいと思う。
それは、まちを変えるというよりは、
いまあるまちにもうひとつ別のレイヤーが加わるという感じで。

大地の芸術祭が終わると、
おそらく地域をおとずれる外からの人が少なくなるだろう。
祭りが終わって、日常が始まる。
でも、ここからが本番だと思っている。試行錯誤はあるだろう。
インターンのシフトも終わり、この先、海外留学に旅立ったメグミさんが
冬に戻ってくるまで、ミナコさんと池田が主に東京とまつだいを行ったり来たりしながら、
山ノ家を運営していくことになる。
また、今まで東京で培ったつながりや、これからこの土地でつながる人々との交流の中で
生まれてくるイベントを企画していけたらと思っている。
都市と里山を行ったり来たりしながら、そのなかで生まれてくる、
どちらのものともつかないような文化をここで紡いでいけたらと思う。
これからまだまだ試してみたいことはたくさんある。

この地域には、中山間地ならではの地形のなかにできた美しい棚田が散見される。
この棚田の美しい景観があるのは、
そこで田んぼをつくり、耕作を続ける農家さんの日々の営みがあるからこそ。
同じように、これから山ノ家の日常の営みを積み重ねていくことが、
新しい風景をかたちづくるきっかけとなることを願って、
いまそのスタート地点に立ったところだ。

MAD City vol.9: 住居用の間取りを取り払い、 人工芝と白壁がさわやかな デザイン事務所に!

MAD City vol.9
築40年弱のレトロなマンションの一室をDIY!

MAD City利用者のなかでも、特に多いのがクリエイターの方々です。
自分の個性やセンスを生かして、自由にDIYできる物件を求める彼らにとって、
MAD Cityの扱う「DIY・リノベ完全自由」な物件は、絵を描くキャンバスと一緒です。

なかでも人気があるのが「MADマンション」と呼ばれる、築40年弱の賃貸マンション。
DIYはもちろん、改造も自由。さらに原状回復不要というMAD Cityの人気物件です。
加えて、家賃も手頃で駅から徒歩5分という好立地も、住人の方々からは評判がよいのです。

MADマンションの外観。

今回、ご登場いただくグラフィック・デザイナーの佐藤大輔さんも、
このMADマンションの住人のひとりです。

佐藤さんとMAD Cityとの出会いは、数年前のことでした。
もともと「生まれも育ちも松戸」というチャキチャキの松戸っ子の佐藤さんが、
松戸の駅前を歩いているときふと目に入ったのが、MAD Cityのオフィス、MAD City Gallery
江戸時代に宿場町として栄えたまち並みの名残ある松戸で、
異彩を放っていた弊社オフィスに好奇心をかきたてられた佐藤さんが
その扉を叩いてくれたのがはじまりでした。

オフィスにいたMAD Cityのメンバーとさまざまな話をしていくうちに、
「松戸にクリエイターの拠点をつくる」という、
MAD Cityのコンセプトに共感してくださった佐藤さん。
その後もイベントに参加してくれたり、
ウェブサイトをこまめにチェックしてくれたり、
なにかとMAD Cityのことを気にかけてくれていました。

とはいえ、8年ほど前にフリーのデザイナーとして独立されてから、
ずっと松戸にあるご自宅でお仕事をしていた佐藤さんは、
当時は物件を借りる気はなかったそうです。
でも、MAD Cityのウェブサイトなどをチェックしていくうちに、
「仕事場と家を別にしたい」「事務所を構えたい」という想いを抱くようになったのだとか。

物件探しの際に、佐藤さんが考えていた条件は3つ。

1)安い
(やっぱり値段は肝心とのこと!)
2)駅から近い
(せっかく事務所を持つなら、クライアントを呼んで打ち合わせもしたいし、
プレゼンとかもできるスペースだとなおうれしい)
3)リノベができる
(自宅だとあまり自由にリノベするのはこわいけれども、
仕事場は思いっきり自分の好きな空間をつくりたい)

以上の条件を満たす物件を1年間ほど探し求めていた佐藤さんの目に止まったのが、
この「MADマンション」でした。

「安くて、駅から近くて、リノベもOK」
という条件をすべて満たしたこの物件の内見後、佐藤さんは即入居を決意。
入居開始の2012年7月から、一気にリノベを開始したそうです。

さて、気になるのが、佐藤さんが行ったリノベ。
「リノベができる物件」をあえて探していた佐藤さんだけに、相当気合が入っています!

まずは、間取り。
もともと1DKだったお部屋の壁と押入れを打ち抜き、巨大なワンルームにします。

もともとこんな部屋だったのが……、
扉や押し入れを取り払って……。

押入れは、すべて佐藤さんの独力で取り払ったそうです(しかも、道具は釘抜きやトンカチなど!)

まだまだ取ります!

さすがに床張りや壁などはひとりでは手におえないため、このあたりから工務店さんにお願いしてキレイに仕上げてもらったそうです。でも、途中までほぼ作業は終えていたため材料費を入れてもかなり安く済んだとか。

押し入れを取り払ってきたら偶然出てきたコンクリの壁。「これは面白い!」と思った佐藤さんは、ここだけ壁を貼らずにむきだしのコンクリのままでキープ。費用も浮くし、部屋にメリハリが出て一石二鳥!

壁や柱を取り払ったら、こんなにキレイになりました!
その後は、業者の方にお願いして、フローリングを張ってもらいます。

きれいに張られたフローリング。

白い壁とコンクリ壁にはさまれた、事務所が完成!

「こういうちょっと無機質な部屋にいると気分がピシっとして、余計な雑念が入らない。
だから、仕事部屋はこういうシンプルでできるだけモノがない空間を心がけました」
と佐藤さん。

リノベしたのはここだけではありません!
脂がギトギトだったビニールカーペットが敷かれていたキッチンも……。

木目調のシールと人工芝のカーペットでさわやかに!

ダイニングキッチンから、ワンルーム部分の印象はこんな風に変わりました。

壁を取り払ったお陰で、部屋がスッキリ。
なお、壁塗りは過去ご自宅でも経験があったので、自分で全部手がけたとか。
「また飽きたら別の色にしたい」と佐藤さんのリノベはまだまだ進化を続けています。
「土間をイメージした」ということで、なぜか玄関・キッチンエリアには人工芝が。
「仕事スペースと遊びスペースを分けたかった」という佐藤さん。
ONとOFFが見事にくっきり分かれてます!

キッチンと玄関。玄関ドアの内側の数字は「302」が反転しているのは……?

こちらが入り口からみた玄関ドアの302。裏側では反転していたのでした。

MADマンションの特徴は、部屋の内側だけでなく、
共用部にあたる玄関ドアの外側まで改装OKなこと。
各部屋のドアは、そこに住まう住民の方々の個性が爆発しています。
佐藤さんのドアも、もちろんデザイン&作業ともにご自分でDIYしています。

ちなみに、こんな大胆なリノベをおこなっていらっしゃった佐藤さんですが、
なんとリノベは一度もやったことがなく、今回が初挑戦だったのだとか。

「僕がこの部屋をリノベするときに考えていた条件は、
とにかく『手間をかけないこと』と『シンプルにすること』。
僕はプロじゃないので、あまりにテイストに凝り過ぎると
すごく大変なことになってしまうと思ったんです。
だから、部屋はとにかく余分なものは取りはらって、
より広いスペースを確保できるように意識しました。
また、色も使い過ぎず、壁はシンプルに白で、床はフローリング。
これだったら家具やなんかにもあまりこだわらなくて済みますしね」

なるほどー。
なお、これだけのリノベを行って、総工事時期間はほぼ1か月。

「いろいろと大変だったけれども、やっぱり自分の好きなようにDIYできるのは楽しかったですね!」と笑う佐藤さん。

ステキすぎるDIY事務所を手にいれた佐藤さんですが、
しかしそれ以外にもMADマンションに住むメリットを感じているそうです。

「このMADマンションの住人になるまで、
松戸在住のほかのクリエイターの方に会う機会はほとんどなかったんです。
僕は松戸に長らく住んできたけれども、MAD Cityができて、
こんなにたくさんのアーティストやクリエイターの人がいるなんて思いませんでした。
自分の思い通りの事務所が手に入れられたのももちろんですが、
ほかの住民の方々と一緒にイベントをやったり、
ときどき食事会をしたりして情報交換したり、
いろいろと刺激を受けられるのが魅力的ですね」

MADマンションに住む人たちは、たしかにどなたも個性が爆発している方ばかり。
さらに、佐藤さんのようなグラフィック・デザイナーの方もいれば、
イラストレーター、現代アーティスト、またフードコーディネーターの方など、
それぞれの専門分野も結構バラバラです。

このように強いキャラクターやセンスを持つクリエイター同士が出会うことで
化学反応を起こして、新たな何かをつくり出す。
そんな流れが、またどんどんMADマンションを起点に生まれてくれたら、
MAD City的にはこんなにうれしいことはありません!

なお、そんなほかの住民たちに刺激されて(?)なのか、
佐藤さんは6月にはこの事務所を使って、
日頃お世話になった方向けに作品展を開催予定だそうです。
デザイナーを始めて最初につくった名刺から、最新作まで展示されるとのこと。
会場がマンションということで不特定多数は入場できないので、
まずは佐藤さんとコンタクトをとっていただく必要があるようです。
ご興味ある方は、こちらからお問い合わせください。

こちら作品展のフライヤーも玄関ドアのビジュアルになっています。

information


map

MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

プランターからはじまる綿の物語

身近な素材、綿の国内自給率は0%

四季が豊かな日本では、衣替えを繰り返しながら
コットン(木綿、綿)、リネン、ウール、化学繊維などさまざまな素材が
クローゼットに並びます。
特にコットンは、肌着からジャケットまで1年を通して
袖を通す回数が多く、もっとも身近な素材だと言えます。

しかし、コットン衣料の原料となる「わた」の国内自給率は
限りなく0%だと言われています。
Made in Japanと書かれたタグでも、
綿の原料は、アメリカやインドから輸入されたものを使っています。

僕自身、国内最大の綿織物の産地として有名な
兵庫県西脇市や静岡県浜松市を訪れることはあっても、
綿畑を訪れたことがありませんでした。

現在、国内のわたの栽培は個人や有志団体などの小規模のみですが、
日本の気候風土はわたの栽培に適しています。
実は明治時代の中期にはわたの国内自給率は100%を誇っていたんです。
しかし徐々に、海外から安価なわたや綿布の輸入が拡大し、
それに伴い、国内の綿畑の数もなくなっていきました。

繊維産地を歩き、セコリ荘ではさまざまな方と服づくりについて
語り合う日々の中で、「和綿の復活」とまではいかなくても
みんなでプランターからわたを育て、
もっとも身近な天然素材であるコットンに対して、
新しいアクションを起こせないかと考えはじめました。

みんなでつくる生地

プロジェクトスタートに向けて、
栃木県真岡(もおか)市の「真岡木綿会館」を訪れました。

真岡木綿会館の外観。真岡市までは東京から車で3時間ほど。

真岡木綿の全盛期は、江戸時代。その質の高さから、
江戸の木綿問屋の仕入高の約8割が真岡木綿という人気の品でした。
当時、真岡一帯で、綿の栽培から機織りまでが行われていましたが、
戦後になるとその生産はほとんど途絶えてしまったそうです。

会館には3名の機織りの伝統工芸師が在籍していて、綿栽培から手紡ぎ、機織りまでさまざまなアドバイスを受けることができます。こちらはカーディングと呼ばれる作業。

和綿は海外の綿より繊維が太いのが特徴で着物に適していたと言われています。
現在、真岡木綿会館では、独自に管理する畑で採れたわたを糸にして、
手織り機を使った生地づくりが体験できます。

会館の2階に多くの手織り機があります。

ここでは、個人栽培用の和綿の種を受け取ることができます。綿の歴史や育て方が載ったしおりが同封されています。

個人のプランターや花壇でのわた栽培は、
ほとんどが観賞用になることが多いです。
もちろんわたも収穫できますが少量の糸しか紡げません。
しかし、このプランターや花壇の規模を、何倍何十倍へと広げて、
秋のわたの収穫でそれを集めることができれば、
大量の糸を紡ぎ、大きな生地を織っていけるのではないか!
とこのプロジェクトを始めようと思い立ったのです。

収穫されたわたと種です。コットンの中に種が入っていて、わたと同時に翌年の種も採れることになります。

興味が連鎖して広がるように

「自宅の空いているプランターにコットンの種を植えてみませんか」

フェイスブックでのこんなカジュアルな呼びかけから、
このプロジェクトはスタートしました。

今年の5月10日。
コットンの日に、15名の方々がセコリ荘に集まってくれました。
参加者と一緒に、真岡木綿会館と
西脇にある「大地のぬくもりコットンボール銀行」に
送ってもらっていた種をプランターに植えました。

大阪や埼玉など、県外からの参加者も。

近所の方も賛同してくれて、空いているプランターを貸してくれました。

ひとつひとつの点であるプランターが、
線で繋がりプラネタリウムの星空のように、
広がっていくようにと思いを込めて
このプロジェクトを「週末プランタリウム」と命名。

集まった参加者は、世代も職業もバラバラ。
家庭用の種を配り、みんなで協力して100種ほど植えました。

わたの種植えは6月いっぱいまで可能です。
ベランダで栽培できるようなプランターひとつから参加できるので、
「週末プランタリウム」は随時参加者を募集しています。
参加希望の方には、コットンの種と育て方のしおりを送ります。

種と同封されて届く育て方のしおりです。

成長日記をインスタグラムとフェイスブックで共有していくので、
全国各地のプランターの成長を見るのが楽しみです。

5月10日のイベント後に植えられたプランター。

北は北海道、南は広島まで、
各地の団体が管理する綿畑へも訪れていく予定です。

セコリ荘から伝えたい服が生まれる背景

インターネットを使えば、一瞬で商品の価格比較をして、
ほしい服を素早く買うことができます。
注文後、翌日には手にすることも可能です。

一方、日本では年間約100万トンの服が捨てられると推測されています。
捨てられた服の一部はリサイクルされますが、そのほとんどが焼却されます。

誰もが日常的に袖を通している身近な素材のコットン。
Tシャツ1枚をつくるためにはどれくらいのわたを収穫しないといけないのか。
プランターのわたの成長をインターネットで共有しながら、
服が生まれる背景について、考えるきっかけになればと考えています。

5月10日からスタートした週末プランタリウムは、
宮城、大阪、京都、静岡、埼玉、千葉と、思いが広がり始めています。

ちなみに、6月15日には千葉県柏市沼南町のヨシオカ農園の協力のもと、
畑をお借りして、コットンの種を植えにいく予定です。
また、この企画に協力してくれている、
真岡木綿会館や兵庫県西脇市の綿畑へのプチツアーも
7月と8月に計画しています。

小さな規模でも、この思いが連鎖して各地に広がって、
みんなの生地をつくっていきたいと思っています。

information


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真岡木綿会館

住所 栃木県真岡市荒町2162-1
電話 0285-83-2560
営業時間 10:00〜16:00 火曜休
http://www.mokamomen.com/

information

週末プランタリウム

参加者のプランターに植えたコットンの成長の様子は、
「週末プランタリウム」のfacebookで確認できます。

ビルススタジオ vol.08: カフェ食堂が、シェアハウスの 2階にオープン

ビルススタジオ vol.08
もうひとつの共用リビング

vol.3とvol.4で紹介したシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」に併設する飲食店テナント
カフェのようなバーのようなお店「u-go(ユーゴ)」がオープンしました。

ここはもともとビジネス+カプセルホテルとして使われていた建物。
2階にあったフロントの脇には10坪ほどの小さな喫茶室がありました。
ホテル営業時はここでお客さんたちがそれぞれの朝食をとっていたのでしょう。
しかし、私たちが初めて見たときの室内の印象からは、
お客さん同士や店員さんとの会話など、
察するに「ほぼ無かった」ことがうかがい知れます。

改装前の様子。家具がないこともありますが、殺風景な空気が漂っていました……。

こちらも改装前。ホテルのフロントが目の前。

ここがシェアハウスに変貌するにあたり、
フロントだったところにはオートロックが鎮座することになりました。
その脇にあるこのテナントスペースは
住民が使う、もうひとつの共用リビングのように、
機能していくといいなと思いました。
住民同士の距離感を大切にするこのシェアハウス。
既に、50帖ほどある共用リビングがあります。
ここで、ある程度自由度の高い距離感の取り方はできるものの、
全く別の空間で過ごしたいときもあるかと。
さらには遊びに来た友人を気軽に案内できるダイニングとしても
重宝されるスペースが生まれればいいなと考えていました。

シェアハウスとしての工事も半分ほど進んだある日、
出店希望者として安生大樹さんがやってきました。
安生さんは宇都宮市内の大学を卒業後、さまざまなカルチャーそして人を知りたい、
出会いたいとの想いから都内のカフェ、バーやクラブを6年間渡り歩きました。
その後宇都宮に戻り、独立開業を目指して飲食店の店長を務めていました。

聞けばこのテナントに興味を持った理由は、まず界隈。
この釜川エリアには個性豊かな個人店が立ち並び、
こだわりのあるお客さん層が出歩いているエリア。
さらには近年、この界隈の新旧の店主たちが連携し、
「KAMAGAWA DEPARTMENT」「カマガワヨルサンポ」「かまがわ川床花見」
などのイベントが開催され、新たな客層の集客にも積極的なエリアであります。

そこに新たにシェアハウスができることにより
この釜川界隈を使い倒すであろう住民たちが面白そうだというのです。
安生さんはその時点ではもちろん、誰がここに住むかも知りません。
それでも「きっと面白い」という確信を持ち、出店することを決めてくれました。

工事中の風景。

そして安生さんの改装がスタート。費用を抑えるべく、できるだけ自主施工。
基本のカウンタースタイルは残し、床と天井の仕上げ材をはぎ取り、
コンクリート剥き出しのラフな仕上がりになりました。
荒れてしまっていた壁には自分で木板を張ったり、色を塗ったり。
賃貸契約から開店までには、3か月を要しました。
安生さんは、自分の仕事の合間に施工というだけでも少ない改装時間なのに、
入居が始まったシェアハウスから、
ちょいちょい通い始める住民が現れると、
ついつい話し込んでしまい進みが遅くなる……というということもあったようです。

シェアハウスの入口から脇を見ると、お店。

お店がオープンすると、
住民たちにはいい感じに使ってもらっているとのこと。
夕ご飯だけ食べに来たり、寝る前の一杯だけを飲みに来たり。
「同じ屋根の下」をいいことに、そのまま寝る格好で飲みにくる方も……!

住民全員集合の会もここで開かれたりします。
そういう場合に共用のリビングだと準備や片づけがなにかと煩わしい。
結局住民の中で気が回る誰かがその役を請負うことになります。
それは請負う側もそうでない側も気を使ってしまいます。
そんな時に外に出ずにおいしい料理とお酒のある会を開けるのは
非常にありがたいだろうな、と思います。

また、誰かがカウンターで飲んでいると、他の住民が帰ってくるのが見えます。
軽くアイコンタクトし、一度部屋に戻り、そこに参加したり。
もちろんそんな気分じゃなければそのまま部屋で過ごすもよし。
そんな選べる関係性がこのシェアハウスでは育まれています。
住民割引もあるらしいです(いいなぁ)。

大のパスタ好きな方のために常時用意しています。

住民が友人と飲みにいくときもここは便利。
もはや飲みに行く、という感覚ではないとは思いますが。
ホームの寛ぎが間違いなく得られます。
タクシーや代行を使う必要もなく、スゴく楽。
おいしくて、場所も便利であれば友人も抵抗なくこのお店で納得してくれます。
難点は、先に帰り難い、ということくらいでしょうか。

また、上に住むオーナーさんもしばしばここで食事をしたり飲んだり、
通常では知り合えないような友人知人と遊んでいたりします。
そんな人と気軽に会って話せる機会があるのも魅力だと思います。

ほかに、シェアハウスの住民やその関係者だけではなく、
近隣のお店の人や地域の人たちも利用してくれています。
私が思っていたよりもとてもいいポジションを確立しているようです。

カウンターの風景。安生さんがひとりで切り盛りしています。

私がロンドン留学中に非常に良いな、と感じていたのは、
まちなかのアパートやマンションの1階に必ずあるカフェやパブ、レストラン。
上に住む住民同士や近所の人が日常使いで自然にここに集まり、
界隈のコミュニティを密接にしてゆく機能となっていました。
町内会や商店会などでわざわざ集まらなくても、
同じ建物内や界隈内にどんな人が住んでいるかが勝手にわかる。
近所の軽い問題点や転入者がどんな人かも噂レベルで情報交換できる。
まち並みの美しさ、人通りの多さではなく、
住人たちが自然と集まって来るお店の雰囲気が
「この界隈に住みたいな」と思う一番の理由になりました。

これはロンドンに限ったことではなく、日本でも同じのようで、
リクルート調査のアンケートにて
アパート・マンションに住む人が、その住まいに愛着を持っているかどうかを聞いたところ、
「その愛着度と隣近所に挨拶以上の関係にある知人友人の人数は比例関係にある」
という結果がでています。

住宅街、オフィス街、商業地、というように用途で界隈を形成するのではなく、
特に地方都市ではもっともっと複雑に、ひとつの身体のように
界隈にさまざまな機能を同居させ、絡めていくと
人と人とのぬくもりもすこやかに保てる生活が手に入れられるんだな、と
この釜川界隈とシェアハウスとu-goを見ていると実感できます。

みな、シェアハウスの住民です。なんか仲いいなぁ。

information


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ビルススタジオ

住所 栃木県宇都宮市西2-2-24
電話 028-636-5136

information


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u-go
ユーゴ

住所 栃木県宇都宮市中央5-1-8カマガワリビング2F
電話 028-614-3304
営業時間 14:00-26:00 不定休

町のパン屋のような本屋とはいかに

忘れられない出会い

勝山で本屋を開こう――。
そう思い立つと、ある人の顔が僕の脳裏に鮮やかに浮かんできた。
いや、あの人との出会いがあったからこそ、
「いつか本屋になりたい」という思いを、今日まで温め続けることができたのかもしれない。

その人は、夏葉社という出版社を営む島田潤一郎さん。
2009年9月、たったひとりで夏葉社を立ち上げ、
5年近くのあいだに11冊の本を世に送り出してきた。
昨年7月には、日本各地の町の本屋を紹介する『本屋図鑑』を刊行し、
本好き、本屋好きのあいだで話題を集めた(本連載のイメージ画像を飾る本でもある)。

僕が島田さんに会ったのは、2011年はじめの取材でのことだ。
その時点で、夏葉社からは2冊の本が刊行されていた。
一作目の『レンブラントの帽子』(バーナード・ママラッド著、2010年5月刊)と
二作目の『昔日の客』(関口良雄著、2010年10月刊)、
いずれも30~40年ほど前に出版されたものの絶版となり、
古書店でなければ手に入らない本を復刊したものだ。
「出版不況」が叫ばれる昨今、ひとりで出版社を始めること自体が稀有なことなのに、
けっして広く知られているわけではない絶版本を復刊したことも、
大きな驚きを持って受け止められ、各種メディアで取り上げられて話題を呼んだ。

島田さんがつくってきた本の数々。右端に立ててあるのが『レンブラントの帽子』(バーナード・マラマッド著、小島信夫・浜本武雄・井上謙治訳)。装丁は和田誠さん。島田さんのつくる本からは、ものとしての本への愛が溢れ出ている(撮影:島田拓身)。

島田さんを訪ねるまで、たったひとりで出版社を立ち上げた島田さんを、
威風堂々と自信に満ちた人だと、僕は勝手に想像していた。
ところが、実際に会ってみた島田さんは、拍子抜けするほど控え目な物腰で、
話すときと言えば、はにかみながら訥々(とつとつ)と、
頼りなげにすら聞こえる声で言葉をつなぐ。
そのとき、自分の浅慮に気づいてひとり恥じた。
本は人をあらわすとも言うけれど、
わざわざ出版社を立ち上げてまでつくった本ならばなおさらだ。
この2冊の本が、島田さんという人を何よりも表しているに違いない。
心に沁みる文学をこよなく愛する繊細な人なのだと思いを改めた。

僕に似たひと

ところが、挨拶をひと通り終え、取材を進めると、
島田さんは、物柔らかな仕草や口ぶりからは想像もつかない荒ぶる魂を見せ始める。
自身が語ってくれた自身の半生をかいつまんでまとめると、およそこんな流れになる。

大学に入った18歳の夏、にわかに浮き世に嫌気が差し、
カミソリで頭を剃り上げる「出家未遂事件」を起こすと、
それ以来、生きるよすがを求めて文学の世界にのめり込み、
アルバイトをしながら小説家を目指す20代を送る。
(その間、大失恋と傷心のアフリカひとり旅も経験するおまけつきだ)
20代も終わりを迎え、ようやく仕事に就いたと思っても長続きしない。
いくつかの会社を転々とし、33歳になった2009年春には、
転職先も決めずに会社を辞めてしまう。
そこに待っていたのが、リーマン・ショック(2008年9月)後の大不況。
一風変わった経歴もあいまって、転職活動は50社にエントリーするもあえなく全滅。
再就職を諦めた島田さんが選んだのが、自分で出版社を立ち上げるという道だ。
それまで1冊も本をつくったことがないのに、
はたから見れば無謀としか思えない挑戦に打って出た。

この、繊細さの裏返しとも言える危なっかしいまでの思い切りのよさは、
会社を辞め、ライターとしての人生を歩み始めたばかりの僕の目に、燦然と輝いて見えた。
「やりたい」と「やる」では雲泥の差があると言うけれど、
やる人は、やると決めたら、四の五の言わずにやりきるのだと思い知らされた。
奇しくも、島田さんは僕と同い年。鬱屈を抱えた20代を過ごし、
三十路を超えて新たな人生を歩み始めたところも僕と似ているような気がした。
(島田さんほど激しい人生を送ったわけではないけれど……)
僕もいつか島田さんのように、心に決めたことに果敢に挑戦できる男になりたいと、
取材のかたわら、自分の目標とすべき人と出会えた喜びで胸を熱くしていた。

島田さんには、本のある風景がよく似合う(撮影:キッチンミノル)。撮影場所は、2013年9月、惜しまれながら閉店した神戸の海文堂書店。ちなみに、いまの島田さんは「2度目の出家」をして頭を丸めている。その様子については……、またの機会のお楽しみに。

昔の「本屋」はかくありき

その島田さんが、インタビューの最中にこんなことを口にした。

夏葉社は出版社ですが、まちのパン屋さんみたいな商売の形を目指したいと思っています。
お客さんの顔が見えて、顔馴染みがいて、それでいてすべての人に開かれていて、
誰でも気軽に立ち寄れる。そういう出版社でありたいと思っています。
いい本をつくるのはもちろんですが、本を売ることも、
書店さんや読者の顔を見ながら、丁寧に取り組んでいきたいと思っています。
(「夏葉社は、まちのパン屋さんのような出版社を目指しています」より引用 

この言葉が、なぜか僕の耳にこびりついて離れなかった。
しかも、島田さんの言葉は僕の脳内で微妙に変換され、
「出版社」の部分が「本屋」に置き換わって記憶に定着した。
インタビューを終えてからというもの、
「町のパン屋のような本屋」とはどんなだろうかと、しきりに空想するようになった。

ちょうどそのころ、本と本屋の歴史が気になって、その手の本を読んでいた。
『江戸の本屋さん』(今田洋三著、平凡社ライブラリー)、
『江戸の本屋と本づくり』(橋口侯之介著、平凡社ライブラリー)といった本だ。
これらの本によれば、日本の商業出版の始まりは、江戸時代にまで遡ることができるという。
何百年も前の人たちが、本をつくり届けることに情熱を注いでいたと知って嬉しくなり、
現代の出版のあり方との違いや共通点も見えて勉強にもなった。
なかでも僕の心に強く残ったのが、当時の「本屋」のあり方だった。

いまの出版業界は、本をつくる出版社と、本を読者に届ける書店、
両者をつなぐ流通業者としての取次(とりつぎ)が、それぞれ別個の組織として存在する。
それが本の世界の「当たり前」だと思っていたけれど、江戸時代はそうではなかった。
当時、「本屋」と言えば、これらのすべての機能を担うのが通例だった。
「本屋」は、本を「つくる」ことと「届ける」ことの両方を手掛け、
自分たちがつくった本だけでなく、他の「本屋」からも本を仕入れて販売する。
新刊書も古書も等しく扱い、ときには本を貸し出す貸本業を兼ねることもあった。
いわば、本にまつわる「すべて」を「本屋」が一手に引き受けていた。
喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出し、
江戸の出版プロデューサーとして名高い蔦屋重三郎も、自前の店を持つ「本屋」だった。
(書店事業に力を入れる「TSUTAYA」は、その名を蔦屋重三郎にあやかっている)
ここで余談をひとつ付け加えると、本屋が薬屋を兼ねることも多かったというから面白い。
本屋の複合業態化は、いまに始まったことではないのだ。

本をつくっていると、自分で本を届けたくもなる。
本に携わるひとりとして、自分が本の「すべて」に関わることができたら楽しいだろうなと、
江戸の「本屋」を羨ましく感じていた。

「パン屋」に学ぶ「本屋」の姿

前回紹介した「パン屋タルマーリー」さんと出会ったのは、そういうタイミングだった。
「町のパン屋のような本屋」に思いを巡らし、
本をつくって届ける江戸の「本屋」を羨望していたら、
パンをつくって届ける現実のパン屋さんとのご縁ができた。
それも、ただ知り合ったという次元ではない。「パン屋の本」をつくることになったのだ。
この辺から、僕の思いはぐちゃぐちゃに入り交じる。
いつか「町のパン屋のような本屋」になりたいという思いが、
心のなかで少しずつ、そして確実に大きくなっていった。

タルマーリーさんの本をつくる過程で、タルマーリーさんから教わったことは数知れない。
そのすべてをここで言い尽くすことはできないけれど、
(面と向かっては恥ずかしくて言えないけれど、じつは人生の師匠だとさえ思っている)
自分の手で何かをつくり、それを自分の手で届けることは、
働く大きな喜びであることをはっきりと気づかせてくれた。
自分でつくったものを自分で届けたくなるのは自然な心の動きだし、
届ける責任を負うからこそ、つくることに真剣に向き合うことができる。

パンと本では、仕事のやり方も扱うものの性質もまったく異なるけれど、
本でもパンと同じようなことができないだろうかと、妄想が頭をよぎる。
いまの時代に、「つくる」ことと「届ける」ことを両方手掛けることはできないだろうか。
江戸の「本屋」と同じように、本の「すべて」を引き受けるような、
そういう「本屋」になれないだろうかと思いが膨らむ。

夏葉社の島田さんと出会い、タルマーリーさんと出会ったことが、
僕の「本屋」への思いを静かに育むことになったのだ。

「パン屋タルマーリー」の店主・職人の渡邉格(いたる)さんと、奥さんで女将の麻里子さん。自分で店を始めようとして、ふたりがやってきたことのすごさをあらためて痛感。(写真提供:パン屋タルマーリー)

本屋をつくる取材の旅

ほかにも思い浮かぶことはいろいろある。
町の奥行きが浮かび上がるような本屋とか、
もっと単純に、人と本が出会える場所をつくりたいという思いもある。
とくに、子どもに対してそういう場をつくりたいと強く思う。

何をどこまでできるかは、正直やってみないとわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
それは、僕には本を「届ける」現場での経験が、決定的に欠けているということだ。
本をつくったこともなく、いきなりひとりで出版社を立ち上げた島田さんに、
「無謀ですね」とからかわれる。でも、いったいどちらが無謀なのだろう――。
それに対して、「新参者」だからこそ挑めることがある、
などと言うのは、単なる強がりでしかない。
心の内では、そんな状態で「本屋になる」と公言してしまったことへの怖さと、
ある種の申し訳なさのようなものが渦巻いている。

どうにかして、現場経験のなさを補う術はないものかと気持ちばかりが焦る。
すると幸い、島田さんが町の本屋のあり方を考える活動を始めるという。
その名も、「町には本屋さんが必要です会議」(通称:町本会)。
各地の町の本屋を訪ね、町の本屋の現状を聞き、
集まった人たちでこれからの本屋について議論を重ねる。
そこで得られたなにがしかを、『本屋会議(仮)』なる一冊の本に編み上げるのだそうだ。

僕にとっては、他ならぬ島田さんが取り組む活動だ。
島田さんが訪ねる町の本屋のいまを見てみたい。
本を「届ける」現場にいる人の声を聞いてみたい。
『本屋図鑑』以降の、島田さんの本屋への思いも探ってみたい。
もちろん、自分が気になる本屋にも足を運ぶ。

これは、本屋をつくるための取材の旅だ。
つくるべき本のかたちが、取材を積み上げた末に見えてくるように、
僕が目指すべき本屋の姿を、取材を重ねて浮かび上がらせていきたい。
その過程で、現場経験のない僕がやるべきこともはっきり見えてくるはずだ。

島田さんを追いかけて、僕が最初に向かったのは瀬戸内海に浮かぶ小豆島(香川県)。
ただし、島田さんが訪ねたのは、正確には本屋ではない。
小豆島で出版レーベル「サウダージ・ブックス」を展開する淺野卓夫さん。
文化人類学から本の世界に足を踏み入れた淺野さんは、人類史を俯瞰して本を語る言葉を持つ。
本のつくり手として、僕もかねてから気になっていた人だ。
島で本をつくる淺野さんは、いま、本と本屋について何を語るのか――。
期待を胸に、高松港から、小豆島行きのフェリーに乗った。

NO ARCHITECTS vol.8: シェアしたみんなが 思うようにつくる家 後編

NO ARCHITECTS vol.8
つくりながら考える

vol.7に続き、「シェアしたみんなが思うようにつくる家」の後編です。
僕らが住む家「大辻の家」とつながるアパートを友人とシェアしています。
その一室のリノベーションをリアルタイムでリポートします。

大辻の家の右手の路地のSPACE丁の三角コーン看板、手づくりの門扉を抜けると裏のアパートがあります。

部屋の間取りがわかりにくいと思うので、スケッチを描いてみました。
アパート2階の踊り場に面した引き戸の玄関越しに見た部屋の見取り図です。
玄関を入ってすぐ左手は遠藤シェフのキッチンとバーカウンターです。
その奥は共有のリビングで、みんなでごはん食べたり、まったりしたりします。
右の突き当りの窓際あたりは、
黒瀬のブランド「ツクリバナシ(vol.7参照)」のアトリエになっています。

6畳三間のL型のプランです。あくまでイメージ図です。

さて、進捗の報告です。
床は、完成しました。玄関から部屋の奥まで、
下地の角材で高さを揃えてベニヤ板を張り、フラットなワンルームに。

床が完成した次の日の朝。安心できる居場所が生まれる瞬間で、毎回とても感動します。

玄関横の壁は、ほかの壁と仕様を変えて、
柱の上からベニヤ板を貼って大壁(柱を見せない構造)にしています。
他の部屋の雰囲気との差別化を強調しています。
塗装はまだですが、色は、うっすらグレーがかった白にする予定。
少しパブリックな場所になるので、展示などもできるように考えています。

トイレ脇の押入を解体してできた窪みのような小さな部屋は、
遠藤の自転車のカスタムスペースに。
「遠藤サイクル」とプリントしたのれんとポロシャツもつくるらしいです。
気がついたら自転車の空気を入れてくれていたり、
お願いしておいたら、カゴとか付けてくれたりします。
いつもありがとう。これからもよろしく。

さっそく自転車の整備をしているところ。コンパクトに収まっています。作業もしやすそう。

トイレは、既存のドアの壁ごと取っ払って、
ホームセンターにて見本品で安売りになっていたドアを買ってはめ込んで、
それに合わせて隙間に枠を回して断熱材も詰めて
清潔感と安心感のあるトイレに。あとは、塗装したら完成。

バーカウンターは、10cmの角材で既存の柱を補強しながら、
テーブルも同じ角材をボルトで締めあげてつくるという男らしいデザイン。
遠藤のこだわりのカウンターです。吊り棚も取り付けて、
ワイングラスをシャンデリアのように垂らすそうです。
楽しみ。

カウンターが完成した夜、さっそくカクテルを。建築家ル・コルビュジエの「カップ・マルタンの休暇小屋」に隣接するバー・レストラン「ひとで軒」みたい。椅子はOTONARIの開店に合わせてつくったハイスツール。

やっぱり思い通りには進まない

玄関付近のオープンキッチンは、まだ未完成です。
前回の記事の最後に、「完成した姿を報告できると思います」
と大口を叩いたものの、
普段の仕事の合間や休みの日に少しずつ進めている感じなので。
この記事を書くために、ペースを合わせるほうが不自然。
本当にリアルなレポートということで、お許しください。

できたばかりのカウンターで、
このスペースをどう使っていきたいか、ふたりに聞いてみました。
黒瀬は、
「自分の部屋をアトリエにしていたときよりも、
たまたま近くにいた人に世間話しながら意見をもらえたり、
試着してもらえたりするのは、とても刺激的だし、楽しみ。
これからつくるものにも影響しそう」とのこと。

ぼくらも、できたての服や染めたての生地を見せてもらうのを、
いつも楽しみにしているので、より近くでミシンの音が聞けてうれしい。

抜群の集中力を見せる、ミシン作業中の黒瀬先生。

「基本的には、Café the Endのメニュー開発などの、日々の修練の場所。
カクテルのイベントや、料理教室なども企画中。
あと、屋上と合わせてのパーティもやりたい」
と、遠藤の今後の意気込みも聞けました。

久しぶりに遠藤と木工作業をしていて、
大学院時代のスタジオを思い起こしながら、懐かしい気持ちにもなりました。
修士設計で、現在のNO ARCHITECTSの西山と奥平、そして遠藤の3人で、
キャンパス内にツリーハウスをつくるプロジェクトをしたことがあります。
(当時の鈴木明研究室のブログ http://akiralab.exblog.jp/i9/

カウンターをつくっているところ。

そんなこんなで、自分たちのスペースを
自分たちらしく楽しく暮らしていけるようにつくり変えていくこと。

そんなスペースが、まちの中に少しずつ、それぞれマイペースに進んでいる。
それも、ぼくらが知らないところでもと想像すると、ワクワクしてきます。
そういうことが許されているまちは、
自然とクリエイティブな空気で満ち溢れています。
地主さん、不動産屋さん、大家さん、そして住まい手の関係性がとても大事で、
この界隈は、とても幸せな状況にあるということなんです。

みなさんも、次に住む場所を考えるとき、
間取りや日当たり、駅からの距離だけで選ぶのではなく、
実際にいろんなまちや家、そして人に会いに行って、
その場所が持っている空気感や雰囲気を感じてほしいです。
きっと、新しい暮らし方のイメージが湧いてくると思います。

共有のリビングにて、配置したばかりの椅子やソファでくつろぎながら、お披露目イベントのミーティングをしているところ。

information


map

NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/
https://www.facebook.com/NOARCHITECTS.jp

山ノ家 vol.8: ドミトリーの完成と夏の終わり

山ノ家 vol.8
工事が終わりそうでなかなか終わらない?

カフェには連日いろいろな人が訪れ、あっという間に過ぎていく時間。
そして2階のドミトリーのための工事も大詰め、のはずなのだが、
なかなか終わりが見えない……?
それもそのはず、手を入れる部分はカフェのときよりもはるかに多い。
床貼りや塗装など、わかりやすく進んで見える工程もほぼ終えて、
納まりの細かい部分が多くなり、調整が重なってくるとさらに進みが遅く感じる。
加えて1階のカフェを営業させながらの作業は、やはり少しやりづらい。
仮囲いをいつまでもつけているわけにもいかない。
このままでは、完成がどんどん遅れる可能性も……。
大工さんからの進言もあり、考えた末に運営チームとも相談して
8月の後半は週末のみカフェを営業、平日はクローズにして、
その間は工事のみに集中することにした。

2階廊下の壁と天井を塗装。これが終わらないと、客室のドアや、天井照明などを取り付けることができない。塗装は常にさまざまな作業工程と絡んでくる。

1階の客席、テーブルを一度片付けて場所を空ける。ここは、茶箱を利用したベンチの席が最終的に設置される。

そんなさなか、8月の最後の週末には、
山ノ家のあるほくほく通りで昔から行われているお祭りがあった。
(知ったのが直前過ぎて、盆踊りのとき〈vol.7参照〉のように出店をする余裕はなかった)
「しちんち祭り」と呼ばれ、
目の前のほくほく通りを2日間に渡って、手づくりも含めた
さまざまな神輿がにぎやかに通り過ぎていく。
楽しげな中にもなんとも言えず、季節の変わり目が近づいているような、
そんな名残り惜しそうな気分を醸し出しているように思えた。

地元の人によれば、このお祭りは
やはりこのまちの夏の終わりを告げる風物詩のようだ。

「しちんち祭り」の様子。山ノ家のある通り沿いをさまざまな神輿が行列で練り歩くお祭り。

少しずつ、みなが現場を離れる日が

8月の後半の平日をクローズにしてでも(芸術祭は開いているのにも関わらず)
工事を優先しようと考えた決断には、
もちろんドミトリーを早くオープンできるようにしたい
というのもあったのだが、もうひとつ理由があった。

実は、8月いっぱいに作業を終わらせることを
あらかじめ目標にしていたこともあって、
そのタイミングを最後にこの現場から離れなければならない人が何人かいた。
7月からずっとこのリノベーションにつきあってくれたアキオくんと、
インターンで約1か月滞在し続けていたジュンくん。
さらに、立ち上げやインターンの取りまとめなど、
さまざま奮闘してくれたgift_スタッフのメグミさんも、
9月からの3か月、海外に語学留学にでることになっていた(戻ってきたら、
また一緒にgift_の一員として復帰してもらうことももちろん約束の上で)。

彼らに、少しでも最終形に近い山ノ家を目にしてもらいたかったのだ。
結局彼らがいる間には完成できなかったのだが。

それまでにも、インターンとして入ってくれていた人たちが
1週間から2週間ほど来ては帰っていく、ということを繰り返し、
何人もの協力のもとにこの山ノ家はつくりあげられてきた。
引き続き芸術祭が終わる9月後半まで、
インターンさんたちは入れ替わり来てくれるシフトになっている。
さまざまな経緯、興味で応募してきてくれた彼ら・彼女らへの感謝は、
いくら述べてもつきない。

現在もgift_スタッフとして活躍中のメグミさん(左)。後ろ髪ひかれながらもあわただしく現場を後にした。

アキオくんとジュンくん。滞在最終日にお祝いのシャンパンならぬお気に入りのトラピストビールを掲げて記念写真。彼らもドミトリーの完成を見ずに現場を離れなければならなかった。

ついにドミトリーもオープン、新たな日常が始まる

ずっと滞在して寝食を共にした人たちが現場を離れていくなか、
まだその後も滞在してくれている人たちと最後の仕上げ。
最後まで完遂することがミッションの工務店の大工さんももちろんいる。

主要なメンバーがいなくなった後に、残った人たちで最後に1階のレセプション部分となる床の染色を行ったり。

実は、山ノ家でつかわれているインテリアのなかには
もともとこの家に残っていた
いろいろなものを利用してできている什器や家具がある。

例えば、カフェオープン時にはなかったベンチソファー席。
この家の放置されていた茶箱を利用することをある時に思いついた。

工事前の写真。もともとこの家にあった、6つの茶箱。これを何かに利用できないかと当初から考えていた。

この茶箱の紙を剥がして、外壁と同じ黒染めの塗料で塗って。

その箱を脚として、別手配したクッション部分をのせて、ベンチソファーが完成。

茶箱を利用すると、座高が高くなってしまうことが懸念されたが、
小さな子にとってはテーブルが近くなり食べやすく、
ベンチだと親との距離も近くなるようで、
小さな子を持つ親には好評となった。

それから、桐たんす。
調湿に優れ、持ちがよく本当に美しい伝統的な家具だが、
独特な時代感が漂ってしまう家具なのでどう扱うか最初はちょっと考えあぐねた。

これも工事前の写真。この立派な桐たんすが、ふたつもあった。

池田の「引き出しを取り外して棚として使ったらよいのでは」
という思いつきをやってみることにした。
そこに置くものを美しく並べることで、
見違えるような感じになり、これがとてもよかった。

カフェにて、引き出しを全てはずしてオープンな棚として使用した。日常をより美しくみせるツールに。

そして、店舗の什器で使用していたと思われる鉄のフレームがあったので、
これを物販用の棚として再利用したり。

少し錆び付いていたので紙ヤスリをかけ、鉄の生地肌ともとの塗装を何となく残しながら、その後錆び止めクリアの塗料を塗った。

板を新調し、現在はショップの棚として利用している。

他にも、ここにもとあったものを新たなかたちで再利用することができたことは、
とてもラッキーだった。
それらをどう使うかは、僕らにとっては一番の楽しみでもあり、
この空間にとっても幸せなことなんだと思う。
この場所の雰囲気をつくりだすのにとても重要な役割を果たしている。
例えば近所の人がカフェに来てもなじめる雰囲気があるとしたら、
これらもとあった家具たちのおかげだと思う。
そんな1階の空間づくりとは異なり、
2階のドミトリーは、逆の考え方によって構成されている。
宿泊するのは、カフェに比べれば少なからずこの土地以外の人。
外から来る人を想定し、モダンな気分となる要素を取り入れたかった。

既存の屋根裏の梁などを露わにしながらも、
この家のもとあった古くからの部分を引き出すのとは
対照的な雰囲気のインテリアを取り入れる。

その象徴となるのは2段ベッド。
ハシゴを木造などにはせずに、
金物(ステンレス)にしようと考え、
金工をやっている知人に製作を依頼することにした。

ベッドは、個別に区切れるカーテンレールをなるべく自然に使えるよう考えたり、
携帯や小物や手元灯りを置けるような細い台になるスペースをつくったり、
寄りかかれるような大きなクッションを置けるようにしたりと、
少しでも快適に使えるようにと工夫した。
その上、マットレスの底の通気性を考えたら
スノコ状にスキマを空けて張るべきだったりと、
造作としては結構な複雑さとなり大工さんと納まりについて
侃々諤々(かんかんがくがく)とやりあいながら、最終的にまとめ、ようやくの完成となった。

最後の山場、2段ベッドがついにでき上がった!

これで、ドミトリーもかたちが整い、およそ全体の要素が揃った。
そうしてなんとか、9月に入ってドミトリーを無事オープンさせることができた。

最初に泊まったお客さんは、
スタッフの知人だったこともありとても和やかな夜となった。

ドミトリーを利用するお客を迎えることは、とても新鮮で不思議な感覚だった。
個人的には「客」を迎える、というよりは、
「新しい友人」を迎えているような心持ちで、
できることなら全ての人と話をしたいくらいだった。
これは現在でもそうで、どちらかというと家をシェアしているような感覚なのだ。
(もちろん、プライバシーはきちんと尊重した上で)

次の日の朝、宿泊客を見送ったあとに、
シーツなどを片付けにいったところで嬉しいサプライズを発見。

写真ではちょっと見えにくいが、「おめでとう!」とマジックで書かれた風船が枕元に並んでいた。

季節はすでに、夏から秋に向かっていた。
大地の芸術祭の終わりも見えてきたころにようやく、
山ノ家の全体の新しい日常が始まりだした。

つづく

こうして僕は、町に本屋をつくることにした

「ないないづくし」のスタートライン

吾輩は本屋になる。名前はまだない。物件もなければ、本屋で働いたこともない。
しかも、手持ちの資金は200万ほど、潤沢な資本もない。
おまけに、本の世界はインターネットの影響で大きな変化に直面し、
本屋は町からどんどん姿を消している。
1999年に22,296店あった本屋は、
2013年には14,241店にまで減った(調査会社のアルメディア社調べ)。
数字を眺める限り、本屋は右肩下がりの斜陽産業、夢も希望もないように見える。

こんな「ないないづくし」の状態で、僕は「町の本屋」になろうと思い立った。
不安はどうしたってつきまとう。
それでも、交錯するさまざまな思いが、僕の気持ちを本屋へと向かわせる。
心のうちには、本屋という場所への確信にも似た思いがある。
一冊の本に力があるように、本が集まる場所にも大きな力があるはずだ。
本と本屋に助けられてきた実感を持つひとりとして、
そういう場所が、人の暮らしのすぐ近くに必要だと思うのだ。

僕は、人生ずいぶん遠回りをした挙げ句、
30代半ばで本づくりに携わるようになった(5年ほど前のことだ)。
まだまだ本づくりの何たるかもわかっていない「新参者」の分際ではあるけれど、
激変する本の世界に身を置いて、
自分の仕事と本の世界の「これから」が気になって仕方がない。
うまくは言えないけれど、その両方を考えるヒントが、
本を「つくる」ことと「届ける」ことを近づけることにあるような気がしている。
自分(たち)で本をつくって届けること――。
それが、本の原点であり未来であるような気がするのだ。
本を「つくる」ことと「届ける」ことの両方を視野に入れ、
本の世界に関わっていきたいという思いが、僕を「町の本屋」へと静かに駆り立てる。

いま、町に本屋をつくるとしたら……

勝算は、あるのかないのか、自分でもよく分からない。
本屋はもう商売として成り立たないという意見を目や耳にすることもある。
であるならば、無理して本の販売で収益をあげなくてもいいのではないかとも思う。
本以外のもので収支を合わせるという手もあるだろうし、ほかの方法だってあるかもしれない。
もちろん、商売として成り立たせる可能性は、全力で探っていきたいけれど……。
それがはたして「本屋」なのか――という疑問も確かにある。

ただ、「本屋」の存続が厳しくなっている(と言われる)いま、
「本屋」のあり方を見つめなおすことにも意味があるのではないだろうか。
それは、本の世界に足を踏み入れたばかりで背負うものの少ない、
「新参者」だからこそ挑めることのようにも思えてくる。
のっけから大風呂敷全開で、巨大な壁に体当りする小バエのようで滑稽でもあるけれど、
蝶の羽ばたきが遠隔地の天候を左右するという「バタフライ・エフェクト」なる言葉もある。
何事もやってみなければわかりはしない――と、
気を抜くと腰が引けそうになる自分にしっかりと言い聞かせる。

本屋を僕なりに見つめなおすにあたり、本をつくるように本屋をつくることを目指したい。
「ああでもない、こうでもない」と思索を巡らせ、取材をして筋書きをつくり、
書いてはボツにしてはまた筋書きを練り直す。
そんなふうにして、これからの「町の本屋」のひとつのかたちを浮かび上がらせてみたい。
これも、本を「つくる」ことと「届ける」ことを近づける僕なりのひとつのアプローチだ。

JR中国勝山駅に降り立つと、山並みが静かに出迎えてくれる。同じ駅でも、東京の駅とは佇まいがずいぶん違う。電車の本数は上り下りあわせて1日なんとわずか20本!

勝山の町に魅せられて

と、御託を並べてみたものの、
かねてから頭にあった本と本屋を巡るさまざまな思い(というより妄想)が、
具体的なかたちと質感を帯び始めたのには、ひとつのはっきりとしたきっかけがある。

それは、僕が魅せられた町に本屋がなかったことだ。
町の名は、岡山県真庭市勝山。鳥取県との境に近い山間の町だ。
岡山市からクルマで1時間強、電車ならローカル線を乗り継いで2~3時間はかかる。
人口8,000人弱、毎年100人ほど人口が減り続ける過疎の町だ。
商売を成り立たせるのが難しい場所であることは、商売に疎い僕でも察しがつく。
「ないないづくし」のスタートには、このマイナス要素も付け加えておかねばなるまい。

勝山とのご縁は、昨年秋に出版された一冊の本の制作に関わったことに始まる。その本とは、
勝山にある「パン屋タルマーリー」の店主・渡邉格(わたなべ・いたる)さんが出した
『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』(講談社)だ。
タルマーリーさんの取り組みは、コロカルでも紹介していただいた。
本をつくる過程で、勝山に何度か足を運んだ。
初めて勝山を訪ねたとき、なんだかとても懐かしい気分になった。
日に何本かしかない電車で駅(JR西日本の中国勝山駅)に降り立つと、
町を取り囲む山々が、静かに僕を出迎えてくれる。
山の向こうには青々とした空が広がり、
山の空気を目いっぱい吸いたくなって、思いっきり伸びをして深呼吸をする。
山間の町の平日の昼間に、はばかるほどの人目はない。

駅から歩くことおよそ5分、タルマーリーが店を構える通りに足を踏み入れると、
タイムスリップしたような感覚に襲われて思わず歩みを止める。
白壁と格子窓の昔ながらの日本家屋が立ち並び、
軒先にかかる色とりどりの暖簾が、静かに風をいなしている。
勝山は、古くから交通の要衝として栄えた地だ。
町には出雲(島根県)と姫路(兵庫県)をつなぐ出雲街道が通り、
古代には出雲の鉄を大和(奈良県)に運び、
中世には、隠岐島(島根県)へ流罪となった後鳥羽上皇や後醍醐天皇が通ったこともある。
江戸時代には、参勤交代や物資の輸送、出雲大社への参拝の道として賑わい、
城下町としての役割も担った。
タルマーリーが店を構える通りは当時の町人街、いまも町の人たちがそこで暮らしを営む。

写真左手、看板が見えるのが「パン屋タルマーリー」さん。右手でのれんがはためいているのが、勝山の町づくりの中心人物・加納さんが営む「ひのき草木染織工房」。この風景を、はやく僕の日常にしたい……。

2つの拠点、2つの視点

大阪の外れで生まれ、神奈川で育った僕は、東京的なものにずっと馴染めずにいた。
東京の巨大さにちっぽけな自分が飲み込まれてしまうのではないかとビクつき、
次々と押し寄せる流行の波に戸惑い(大縄跳びにうまく入れないあの感覚に似ている)、
たまに大きな町に行くと、人やクルマ、目と耳に押し寄せる情報の多さにめまいを感じる。
そんな東京から離れたくて、首都圏の大学には目もくれず、みずから望んで京都に行った。
それからいろいろあって、東京での暮らしも経験し、育った神奈川に戻ってはきたものの、
「自分の場所ではない感覚」がつきまとって離れない。
座りの悪い椅子に我慢して座り続けているような、そんな落ち着かなさをずっと感じていた。

「ここが自分の居場所だ」と思える地は、世界のどこかにあるのだろうか――?
三十路を過ぎて思春期の少年のような青臭い悩みを抱える僕を、
初めて訪ねた勝山は温かく迎えてくれた。少なくとも、僕にはそう感じられた。

僕は、勝山に住む人たちにも魅せられた。
ここには、自分の手でものをつくり出す職人が多く住まう。
タルマーリーは、発酵の担い手である菌と向き合い素材を見つめ、
優しくも力強い味わいのパンをつくる。
その向かいでは、草木染めの職人・加納容子さんが「ひのき草木染織工房」を営む。
加納さんは、通りの軒先にかかる暖簾をすべて手がけ、
勝山の町づくりを語るうえでも欠かせない存在だ(過去にコロカルでも紹介されている)。
通りを少し歩けば、創業1804(文化元)年、
200年以上の歴史がある日本酒蔵元「辻本店」があり、
勝山伝統の竹細工に人生を賭ける、僕と同世代の平松幸夫さんもいる。

みな、地にしっかりと足をつけ、確かな実感を得られるものを自分の手で紡ぎ出している。
僕には、その姿がとてもたくましく、生きる力で満ち溢れているように見えた。
この町と、ここに住む人たちがいっぺんに好きになった。
本ができてからも勝山に何度か通い、やがて「ここに住みたい」と思うようになった。
幸い、仕事はさほど場所を選ばない。
取材をしたあと、書くときはどうせ家に引きこもる。
その場所が神奈川でも勝山でも、それほど大きな違いがあるとは思えない。
条件をいろいろ考えると、東京と勝山を行き来する
「2拠点」生活が成り立つような気がしてきた(神奈川に実家があるのも大きい)。
むしろ、自分にいい刺激を与えてくれる人たちのそばで日々を過ごすのは、
暮らしの面でも仕事の面でもプラスに働くようにも思えてくる。
東京(都会)と勝山(田舎)の両方の視点を持つことが、
本づくりに活きることだってあるはずだ。
そう、最初は「住む場所」と「本をつくる場所」の問題だったのだ。

やってみなけりゃ始まらない

移住を視野に入れ、何度か勝山に通ううち、ふとひとつの事実に気がついた。
この町には、本屋がない――。
勝山は、自然が豊かで、誇るべき歴史もあり、たくましく生きる人たちもいる。
それなのに、ここには本だけがない。本だけが、町からごっそり抜け落ちている。
「こんなに面白い町なのに、本と出会う場がないのはもったいない」
「ここに本屋があったら、町はもっと面白くなるだろうな……」
そんな思いが、頭をよぎる。
そうこうするうち、目の前の風景と、
かねてから抱いていた本と本屋への思いがひとつに結びついた。

そうだ、ここで自分が本屋をやればいいんじゃないか? 
この場所で、本を「つくる」ことと「届ける」ことの両方を手掛けてみたい――。
ほのかに芽生えたその妄想を、タルマーリーさんに話し、加納さんに伝えると、
嬉しい答えが返ってきた。
「いいじゃないですか、やりましょうよ」とタルマーリーの渡邉さん。
「あらいいじゃない、やってやって」と加納さん。加納さんの息子さんも娘さんも、
そのとき初対面の僕に、「楽しみにしとるけんね」と温かい言葉をかけてくれる。

僕の心に芽生えた妄想は、町の人たちの期待も背負う目標になった。
というか、心のどこかでずっと本屋を始めるきっかけを探していた僕は、
勝手にそう思い込んだ。
僕は根が単純な人間だ。おだてられたり喜ばれたりすると、
ブタよりも木登りが下手くそなくせに(めちゃくちゃ不器用なのだ)、
尻尾を振って木に登ろうとしてしまう(ブタも嬉しいときは尻尾を振るらしい)。
それで案の定、何度も木から落ちる痛い目に遭うわけだけれど、
諦めが悪いというか状況を理解する力が乏しいというか、落ちたことにも気が付かず、
木の皮肌にしがみついて何とか登ろうとする。

この、要するに戦略なき気合い至上主義は、我ながら始末が悪い気もするけれど、
「一念岩をも徹す」と言えば格好がつくだろうか。
念力で岩を砕くように、なんとしてもやるしかない。
と、勇ましい言葉に頼るのは、ひとえに自分を奮い立たせるためだ。
内心けっこうビビってもいるけれど、とにかく、やってみなければ何も始まらない。
僕はこうして、勝山の町に本屋をつくるべく、
木登りには向かない爪をひとりせっせと研ぎ始めたのだった。

勝山の町を流れる旭川から望む町の風景。広い空、雄大な山々、歴史の面影……。川っぺりで本を読んだら、そりゃ気分は最高に決まってます。

MAD City vol.8: 古びた一軒家から生まれた 真っ白な壁が囲むアトリエ空間

MAD City vol.8
古くてボロい残りもの物件にだって、「福」がある?

誰も借り手がいなくて、空き家のまま放置されているようなボロボロ木造の一軒家。
みなさんのまわりにも、そんなおうちがあるんじゃないでしょうか?

普通の不動産屋さんならば「ここは普通には貸せないな」「値段がつけられないな」
と思うような物件も、実はMAD City不動産で扱っています。
なぜこれらの物件を扱うのか。それには理由があるんです。

まず、ひとつ目のメリットは
これらの物件は、単純に「借り手が少ないのでそもそも賃料が安い」という点。

また、もうひとつは改造が自由なケースが多い点。
木造建築は長年人が住んでいないと傷んでしまうため、
ボロボロの物件は、多くはそのまますぐに住めるような状態ではなく、
入居の際には内装工事が必要になります。

業者に工事を頼めば数百万円ぐらいかかってしまいますが、
DIYができる人にとっては、材料費のみで自分の使い勝手が良いように、
自由にいくらでも改造ができるわけです。

さらに、木造物件はコンクリートや鉄筋の住宅と違って、
壁や床、天井などもいじりやすいため、
自分でリノベがしやすいという利点もあるんです。

なんだかちょっと褒めすぎてしまっているようですが、
人によってはこれが理想的な物件になることもある、ということです。

まさにこんな物件を探し求めていたのが、
兄弟そろってペインターというアーティストの菅 隆紀さんと雄嗣さん。
ふたりが当初探していたのは
「とにかく安くて、アトリエとしても住居としても使える物件」でした。

お兄さんの隆紀さんは油絵を主体としたアーティスト。http://sugar-w.com/
弟の雄嗣さんも現在東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻に在籍する油絵画家。

とにかく壁が広くて、大きな作業音を出しても近隣の方から怒られず、
しかも、住居としても利用可能な物件。
でも、いざ探してみると、この条件に合う物件は、どれも賃料が高かったり、
お風呂などの生活スペースがなかったりと
住居として使うのは難しい物件ばかりだったそうです。

そして、2012年の年末。
物件探しに明け暮れるふたりが出会ったのが、
MAD City不動産の築年数40年以上の木造建築「それもできます」でした。

「それもできます」はMAD City不動産の命名ですが、
その名の通り、「なにをしてもOK」という物件。
改造・DIYはもちろんのこと、住居としての利用だけではなく、
カフェやアトリエなどの店舗としての利用も相談可能。
しかも、庭付きの2階建て。
それでいて、家賃は一軒丸々借りきって4万円台と、
管兄弟のニーズにばっちり合った物件だったのです。

「それもできます」のDIY前の室内。広さはあるものの、ボロボロの木造の壁と腐りかけた畳張りの室内で、すぐに住むのはちょっとむずかしそうな様子でした。

「この物件を最初見たときに、『一見ボロボロだけど、
自分たちでリノベすればまだまだ使える!』と思ったんです。
そこで、即入居を決めました」と語る菅兄弟。

壁はボロボロ。畳の床は腐りかけ。
普通の人ではちょっと躊躇してしまうような大変な中古物件ではありますが、
そのポテンシャルを一度の内見で見抜いた菅兄弟。
これまでにもスーパーの居抜き物件に手を加えて
アトリエとして利用していたことがあったというだけあって、
ふたりにとってリノベはお手のものだったそうです。

そして、この物件をDIYするときにふたりが心がけた一番のポイントは
「とにかく作品を飾れる広い壁をつくる」ということでした。

「僕らペインターにとって、広い壁のあるアトリエスペースって、
実はすごく重要なんです」と語る菅兄弟。
作品を客観的に見るためには、家具も壁紙もない白い壁に自分の作品を飾って、
何度も眺める機会を持つことが重要。
視界に邪魔が入らない場所に作品を置いて、作品を客観的に眺め、また再考する。
この作業を繰り返すことで、自分の作品に対するポテンシャルを探ることができるのだとか。

「でも、普通の住居だとなかなか数メートルもある大型の作品を飾れるだけの
広い壁がないので、この物件を改造するときは
『とにかく広くて白い壁をたくさんつくろう』と心がけました」

まずは広い壁とスペースを確保するべく、押入れも壁もすべて取り払って巨大なワンルームに!
屋根を支える大事な柱や壁以外の箇所は、ほぼ全部取り払ったそうです。
そして、従来のボロボロだった壁には、真っ白に塗ったベニヤ板を張り巡らせて、
念願だったホワイトキューブのような真っ白なアトリエスペースをつくりました。
「木造で老朽化していたからこそ、作業も楽でしたね」と語る菅兄弟。

DIY前の居間。

押入れや壁を取り払い、ベニヤを貼り付け真っ白に塗り直すことで、巨大なアトリエスペースに! 奥行きがあるので、壁をシアターとして利用して、映画を大画面で観たりしているとか。

また、腐りかけてボロボロになっていた畳も全部剥がして、
骨組みをつくり、その上からベニヤ板を敷き詰めて床も補強。

床も全部張り替えてます! 作業時にペンキが飛び散るので、現在はベニヤ板の上からシートを敷いて利用しています。

これらの作業はすべてを兄弟ふたりで行って、かかった期間は約1か月間。

費用は板やペンキなどの資材とゴミの廃棄代以外はほとんどかかりませんでした。
DIYのよいところは、自分たちの思う通りに部屋を変えられるし、
失敗してもすぐにつくり直せる。
また、壊れてきたらそこからまた補強できるところですね」

改造前(上)と後(下)のキッチンスペース。

作品づくりに使用するペンキ類はもともとあった靴箱を再利用して置き場を確保!

改装で余った木材を使って、本棚もDIYしています。たった4枚の木材でできていますが、ハードカバーを数十冊置いても壊れません。

隆紀さんが「sugar-w」という名前でペイントした靴の作品制作もこのアトリエで。できた靴がずらりと並びます。

DIYした白い壁には、数メートルある大型のものから小さなものまで、
十数点の作品がところ狭しと展示されています。

残り物には福がある」という格言にもありますが
今回、菅兄弟の物件の活用ぶりを見ていたら、
そのポテンシャルさえ見抜ければ、
どんなに古い物件もリノベとアイデア次第で
いくらでも生まれ変われるんだと思わずにはいられません(しかも格安!)。
ポテンシャルの高い物件はきっと日本中にたくさんあるのに、
本当にもったいないです!

1階の間取り図がこちら。赤枠部分が、白い壁が全面つながるワンルーム。2部屋をつなげただけでは飽きたらず、押し入れを取り払ってさらにもう1部屋つなげるという荒業!

さらに、当初は「物件重視」で松戸付近にアトリエを構えることになったふたりですが、
松戸近辺に住むことで、次第に松戸の地理的メリットにも気づくようになったのだとか。

「松戸は常磐線沿線で芸大の取手キャンパスにアクセスしやすいし、
東京や表参道にも電車1本で行ける。
また、成田にも近いので、海外からのアーティストが立ち寄ったりすることもあるため、
アーティストにとっては地理的にかなり便利な場所なんです。
だから、松戸近辺に定住したりアトリエを構えたりするアーティストは結構多いんですよ」

なお、兄の隆紀さんが今年度からオーストラリアでアーティスト活動を開始するため、
今後しばらくは弟の雄嗣さんだけでこの物件を使用する予定とのこと。

「この物件のようにスペースが広くて、汚してもOKなアトリエを借りようと思ったら、
なかなか見つからないし、あってもかなりお金がかかってしまいます。
芸大仲間のアーティストでもこの立地、この価格、この条件ならば、
アトリエスペースとして利用したいという人はいるはずなので、
兄がいなくなった後はこの家を共同アトリエとして複数人で利用するつもりです」
と雄嗣さん。

また、雄嗣さんはアトリエ自体の利用だけではなく、
今後は、自分たちと同じように松戸を拠点として集まるアーティストたちと一緒に、
まちとつながるようなアートイベントや展示会などもどんどん行って、
まちをアートで活性化させていきたいとも考えているそうです。
こういうあたりも、MAD Cityで取り組んできたことと関連しているので、
これから一緒に何ができるか夢が膨らみます。

菅兄弟のように、地方都市に眠る宝の山を掘り起こす人たちが
つながっていける仲間の輪を広げたいし、つくっていきたい。
MAD Cityでは、そういう人々が集まるエリアを目指して日々奮闘中です。

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MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

(READYMADE)PRODUCTS/吉田木型製作所

“型”屋がつくる、ライフスタイルプロダクト

直接炭火にもかけられて、食材の旨味を凝縮させる調理器具「ダッチオーブン」。
キャンプやバーベキューなどを楽しむには欠かせないアイテムのひとつだ。
そんな鋳物のダッチオーブンシリーズ「WEEKENDER」を展開するのが、
プロダクトブランド「(READYMADE)PRODUCTS」。
つくられているのは、鋳物の産地としてはあまり耳にすることも少ない、
福岡県南部の八女郡広川町。
博多から南へ車を走らせること1時間ほど、田園風景の広がる広川町を訪れた。

(READYMADE)PRODUCTSのダッチオーブンシリーズ、WEEKENDER。写真はスクエア型。リフターも別売りされている。

左3点がスクエア型で、右がラウンド型。WEEKENDERはフタと合わせてスタッキングできるのも特徴。フタは単体でも使用でき、いずれもうれしいIH対応。

WEEKENDERは、
鉄板皿のようなスクエアタイプと鍋のようなラウンドタイプがあり、
フタのデザインは、シンプルなものとパターンが施されたものと2種。
ちなみに、この(READYMADE)PRODUCTSは、
2014年春に立ち上がったブランドで、
WEEKENDERは、その第一弾として販売がスタートしたばかりだ。

このブランドを主導するのは、
福岡県八女郡広川町にある吉田木型製作所の吉田いずみさんと、
ブランディングをサポートしているのは、福岡を拠点に活動している
クリエイティブディレクターでデザイナーの中垣幸成さん。
(READYMADE)PRODUCTSは、吉田木型製作所の
技術を活用して立ち上げられたプライベートブランドだ。

吉田木型製作所 常務を務める吉田いずみさん。

いずみさんの祖父が始めた吉田木型製作所は、昭和10年創業。
その名の通り、鋳造用の「型」をつくる工場を始めた。
隣まちである久留米市を中心に、広川町周辺のエリアでは、
軍事用のさまざまな鉄工部品を製造するための型の需要があったのだそう。
現在は、農機具や造船などの機械部品の型など精密なものから、
公共の橋の欄干、地域モチーフのマンホールなど大型なものまで
産業向けを中心に、あらゆる鋳物の型をつくっている。

佐賀県武雄市のマンホールの古い木型。

そもそも、鋳造用の「型屋」とは、どういう仕事なのか。
鋳造は、砂でできた「砂型」に溶鉄を流し込み、
鉄が冷え固まったら、その砂型を叩き割って取り出すという加工法。
その砂型をつくるにも、元となる型が必要になる。
この元型を専門につくっているのが吉田木型製作所の仕事だ。
現在は、用途に応じて木型、樹脂型、金型を製造。
さらに金型を用いたシェルモールドと呼ばれる特殊な砂型まで製造している。

木型は、一部現在でも手彫りで行っている。特に仕上げや細かな調整などは、熟練職人の勘と技術が必須という。細部の精密さはまるでアート作品のような雰囲気も。

木型場の引き出しには大小さまざまな鉋(かんな)がたくさん!

こちらはマシニングによる木型を削り出しているところ。

WEEKENDERは、シェルモールドと呼ばれる特殊な砂型で製造されており、
特に精度が高い製品に仕上がっている。
さまざまな素材の型を状況に合わせて対応できるのが吉田木型製作所の強み。
何より、熟練した技術を有する職人が揃っている。

金型に樹脂を含有した砂を吹き込み、熱で砂を硬化させて砂型(シェルモールド)をつくる。

完成した大量の砂型を最終微調整する地道な作業。

そんな吉田木型製作所を取り巻く状況も変化しつつある。
「北部九州エリアの鋳物産業は、
鋳造所と木型屋に分業化されているのがスタンダードなんです。
木型屋といえば、2〜3人の家族経営の会社がほとんど。
かつては公共事業などによる大規模な受注も多かったけれど、
時代の変化とともに、
後継者がおらず廃業されていくところも少なくないです」
と、いずみさんが教えてくれた。

たくさんの砂型(シェルモールド)鋳造所への出荷を待つ(写真は、WEEKENDERのものではない)。

「今は、まだ父が社長であり、現役で職人として勤めていますが、
この先、女性である私がこの会社を受け継ぐ番になったとき、
これまでの経営、事業展開のままでいいのだろかと不安を抱え、
今できることは何だろうかと考えていました」
といずみさんは続ける。

そこで彼女が約4年前に参加したのが「九州ちくご元気計画」だ。
これは、福岡県が主導する雇用促進のためのプロジェクトで、
筑後地域の15市町村の事業者が新規事業や販路開拓などを勉強するための、
講座や研究会などさまざまなプログラムが設けられている。
ここで、当時東京から帰郷したばかりで、
このプロジェクトに関わっていた中垣さんと出会った。

プロジェクト企画、デザイン、プロモーション、販売に至るまで一貫して吉田木型製作所のパートナーとしてブランディングのサポートを行っている中垣さん。インテリアデザイナーとして多くのコマーシャルスペースのデザインに携わった経歴を持つ。

中垣さんと相談しながら、いずみさんが考えたのは、
「これからは、培ってきた技術力とノウハウを生かした、
吉田木型製造所のものづくりを外へも発信していくことが
必要なんじゃないだろうか」ということ。

そこで、(READYMADE)PRODUCTSを立ち上げることになるが、
製造、企画、販売までを自社で行うことを想定すると、
製造業にとっては、覚悟のいることだった。
製造業であり職人集団である吉田木型製作所は、
受注したものをつくることには長けているが、
自ら何かを生み出し、外へ発信することに対しては経験がない。
いずみさんは、ひとつひとつ、時間をかけて実現可能な方法を選んでいった。

最初のデザインをベースに自社の木工技術を活用してつくった木製のモックアップ(プロダクトの模型)。

最終的に、自社商品の候補にあがったのが「ダッチオーブン」。
もともといずみさんが、以前から手ごろな鉄皿がほしくて、
自社でつくれるんじゃないかなと考えていたのが、きっかけとなった。

「単純だけど、地元には新鮮な食材が豊富にあり、
それを自分たちの技術でつくった道具で
最高においしく食べられるって素敵なんじゃないか」
と中垣さんは考え、いずみさんに提案。
「まずは自分たちが楽しくなるような道具からつくろう」
と家庭でも気軽に楽しめるようなダッチオーブンの開発がスタートした。

WEEKENDERラウンドタイプの金型。これで砂型(シェルモールド)が製造される。ラウンドタイプを製造するために金型は8型も必要となる。

完成までに、一番苦労したのは、
砂型(シェルモールド)の精度をあげることだった。
デザインから金型をおこして、
砂型(シェルモールド)を製造するところまでは比較的スムーズに。
しかし、その砂型で実際に鋳造試作してみると、
製品として流通させるクオリティーにはほど遠く、
不良率がかなり高かったのだ。

大量につくる工業用製品とは違った視点を持つ必要がある。
さまざまな視点と可能性を模索しながら、
砂型の精度と協力先の鋳造技術とも向き合い、
1カ所1カ所、検証しながら、細かい修正作業が続いた。

そして、最初の鋳造試作から半年を経て
ようやく納得のいくクオリティーに仕上がった。

プロジェクト自体の構想からすると足かけ4年、
(READYMADE)PRODUCTSのダッチオーブンシリーズ、
WEEKENDERが完成したのだ。

職人たちにとっても、新たな発見の機会となったよう。
これまで、自分たちが納品した型からどんな鋳物がつくられるかは
ほとんど見ることも知ることもなかったが、
WEEKENDERをつくるのは、最終的なかたちを見据えた作業。
今回のことで、製造に対する向上心や意識がより深まったという。

改良途中のWEEKENDERのシェルモールド(砂型)。何個つくったかわからないくらい試作を重ねたそう。

使いやすいサイズ感で気軽にダッチオーブン料理を楽しめるWEEKENDER。
洗練されたデザインも反響が大きく、
販売開始後間もないが、オーダーが増え始めているのだそう。

「吉田木型製作所の技術には、
既存の鋳造専門の型屋にはとどまらないポテンシャルが眠っています。
(READYMADE) PRODUCTSでは、
『型から生まれるプロダクト』をキーワードに、
鋳物以外にも他の素材を使ったアイテムも
少し時間をかけて展開して行く予定です」
と今後について中垣さんは話す。さらに、
「一方で、背伸びしすぎない自分たちのスタンスを大切に、
進化していく型屋として、
吉田木型製作所のビジネスモデル構築を
裏方としてサポートできればと思います」と続けた。

いずみさんの思いと職人の技術を融合し完成した
ダッチオーブンシリーズ、WEEKENDER。
これからの吉田木型製作所を担っていく、
いずみさんのチャレンジはまだまだ始まったばかりだ。

吉田木型製作所のスタッフのみなさん。

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吉田木型製作所

住所 福岡県八女郡広川町藤田1423-12
電話 0943-32-3806
www.yoshidakigata.jp

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別冊コロカルでは、(READYMADE) PRODUCTSのダッチオーブンシリーズWEEKENDERを扱っている久留米市内のライフスタイルショップ「PERSICA」を訪ねました!
詳しくはこちらから

NO ARCHITECTS vol.7: 住んでいるみんなでDIYする シェアハウス 前編

NO ARCHITECTS vol.7
衣食住がそろうシェアハウス

前回の記事の最後に登場した、
僕らが住む家「大辻の家」の裏にある
アパートの一室のリノベーションが現在進行中です。
進捗状況を2回に分けてリアルタイムでリポートしようと思います。

左にあるのが僕らが住む大辻の家、右が今回リノベーションする部屋があるアパート。2棟合わせてSPACE丁(スペース・テイ)と呼んでいます。

部屋の場所がわかりにくいと思うので、スケッチを描いてみました。
丁字路の正面右手の路地を抜けて左手にある階段を上がってすぐの、
2階の踊り場に面した部屋が今回の物件です。

大辻の家とアパート丸々一棟を合わせて借りていて、
アパートには4部屋あります。
2部屋は各々が生活するプライベートな部屋として使っていて、
残りの2部屋の活用法をずっと考えていました。

その空き部屋は、押入れ付きの6畳の座敷がふた間と、
板の間の台所がひと間のL型2DK。
僕らが入る以前から、かなり長いあいだ空き部屋だったらしく、
廃墟同然で、カビ臭いどんよりした空気が流れていました。

今までは倉庫として使ってきましたが、それではもったいないので、
みんなの生活と連続するかたちで、
ものを作ったり考えたりするための共同アトリエとして、
リノベーションすることになりました。
ちなみに1階にも同じ間取りの部屋が空いていて、
ここの使い方はまだ思案中です。

vol.1の記事でも紹介させてもらったように、
大辻の家と裏のアパートとは、2階の踊り場で繋がっています。

クローゼットの奥に勝手口を開けると左に玄関が見えます。vol.1「住みながらつくる家」より。

屋上への階段の下の洗濯機置き場より、現場の玄関を見たところ。上のスケッチではわかりやすく広めに描いたけど、実際はとてもせまい。

今のところ、服をつくっている黒瀬空見と、シェフでパティシエの遠藤倫数、
空間をつくる僕らの4人で借りています。
それぞれが“衣食住”をかたちにすることを仕事としています。
着たい服があればミシンを、食べたいものがあればフライパンを、
住みたい家があればインパクトドライバーを。
そんなメンバーが揃ったシェアハウスです。
皆、大学院の同級生で、同い年で、仲良し。

ひとまず、ふたりの紹介を。

黒瀬は、
2010年より「日常のなかに物語を」をコンセプトに、
ツクリバナシとして日常着の制作を始めました。
そして、2013年の春に、東京からこのはなに越してきました。
「このまちは物語があふれていて、
もはや“日常を物語に”という気持ちになってきています。
ですので、最近では、その生活に合う服をつくることを目指しています」(HPより抜粋)
とのことです。

ツクリバナシの服の写真です。撮影場所はSPACE丁の屋上。(撮影:樋口祥)

つづいて、遠藤は、
岐阜県のケーキ屋とレストランで修業し、
2012年の春にこのはなに越してきました。
モトタバコヤのオープンスタッフとして、
シェアショップ内の「Café the End」の店長に。
月に1回開催されていたカクテルパーティは、毎回大盛況でした。
最近では、新規事業に向けて準備を進めているそうです。

カクテルパーティの様子。毎回違うテーマに沿ったカクテルメニューを考案して、それにあうケーキやキッシュなどを食べられるという企画。この会は、ピーチナイトでした。

みんなで決めて、みんなでつくる

さて、本題のリノベのリポートです。

特に打ち合わせしたり、図面を描いて検討したりはせず、
一緒にご飯を食べている時や、家の前でたまたま会った時に
立ち話したりしながら、それぞれのイメージを少しずつすり合わせていって、
あとは、現場スタートの日時の調整をして、作業が始まりました。
それぞれが計画者でもあり、施主でもあり、
現場作業までするといったプロジェクトになりました。

解体途中の写真です。

3部屋あるうちの奥の部屋は、黒瀬のアトリエに。
玄関からキッチン辺りを遠藤のバーカウンターとオープンキッチン、
そして、黒瀬のアトリエとキッチンの間に共有のリビングルームをつくる計画。

まず、部屋と部屋とのあいだの間仕切りの垂れ壁を解体し、
L型のワンルームにすることを目指しました。
不要な壁をなくすことで南側からの太陽光を奥の部屋に取り込もうとしました。
さらに部屋を少しでも広げるために、
押入も解体して、段差をなくして床も繋ぎました。

解体のゴミの処理や、床と壁の施工や電気工事などは、大学の後輩で大工チームのshirokuroにお任せしました。左が親方の伊藤くん。右は見習い中の杉本くん。杉本くんは大学で建築を学びながらというから将来が期待大。

ぼろぼろになった畳も撤去し、床も入り口からひとつながりの板張りに。
黒瀬は染色作業などもするので、防水塗料は厚塗りで。

もとの壁は砂壁で粉がぽろぽろ落ちてくるので、薄いベニヤ板でおさえて塗装。
染めた色や布の色が際立つように、柱を残して真っ白に。

抜群の集中力を見せる、塗装作業中の黒瀬先生。

トイレは、ドアを付け替えて壁も補強。床のタイルはそのままに。
押入れ部分の天井は、遠藤がベニヤを張って点検口まで取り付けてくれました。

といったところで、前編はここまで。
来月の後編では、いったん完成した姿を報告できると思います。
僕らも完成形があまり見えてないリノベーションの行く末は——
乞うご期待。

ハンマーで既存の台所を破壊する遠藤シェフ。新しくできるキッチン楽しみです。

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NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/
https://www.facebook.com/NOARCHITECTS.jp

孫の代まで着継ぐスーツ生地を  葛利毛織が守ってきた昭和の機械技術

昔ながらのションヘル織機で生地づくり

愛知県一宮市周辺は、奈良時代から織物の産地として栄えた地域。
その一帯は尾州と呼ばれ、スーツやコートになる
国産のウール素材の約80%が生産されています。
国産のウール素材でつくられるスーツは限られたもののみ。
例えばオーダーメイドのスーツなどです。
今も入学や入社を記念にオーダースーツを仕立てる方も多いかと思いますが、
オーダーメイドでスーツを仕立てるのが主流だった昭和初期から
数々のテーラー職人たちに愛用されてきたのが「葛利(くずり)毛織」の素材です。

その絶大な評価は今も変わりません。
業界内から熱い注目を集める葛利毛織のものづくりの裏側を
のぞこうと工場を訪れてみました。

大正元年。木曽川町で、葛利毛織工業株式会社は創業しました。
先人のものづくりの技術を着実に受け継いできた同社は、
2012年に創業100周年を迎えました。

葛利毛織でつくられるのは、いわゆるウール素材の「生地」です。
主に羊の毛で生地を織るわけですが、
そんな葛利毛織のものづくりを支えるのが
昔と変わらずに使い続けている、
「ションヘル織機」と呼ばれる8台の低速織機です。

ションヘル織機とは1950年頃に国内で普及した国産の織機で、
生地を織るときに糸を左右に運ぶために「杼(ひ)」を用いることから
シャトル織機とも呼ばれています。

これが糸を左右に運ぶ杼です。

1980年頃に時代は「大量生産・低コスト」への転換期を迎え、
杼を使わず、空気や水の力で糸を高速で左右に飛ばす、
「革新織機」と呼ばれる高速織機が導入され始めました。
「ガチャマン時代」とも呼ばれ、消費者はとにかく多くの服を求め、
メーカーはそれに応えるかのように大量の衣料を生産していきました。
ちなみに、高速織機は1日に150m〜200mもの生地を織ることができるのに対し、
ションヘル織機は50mを織るのに3〜4日ほどかかります。

そこで、多くの工場は生産性の低いシャトル織機を廃棄していく一方、
葛利毛織はその道を選びませんでした。

右手が葛谷幸男社長。左手が専務取締役の葛谷 聰さん。

「多くの機屋(はたや)が生産性をあげるため、高速織機を導入しました。
しかし、経糸(たていと)の張りがゆるく、
糸の形状に合わせて左右するシャトルで
やさしく織り上げるションヘル織機でないと、
素材の良さを生かした手織りに近い風合いが出せません。
昔ながらの丁寧なものづくりを続けるほかないと考えました」

と話してくれたのは、葛谷幸男社長。
生産量を重視すると、糸や設計が量産のための設定となり、
スーツに適した生地の柔らかさと伸縮性が消えてしまいます。

社長は、機屋のつくるウール素材が均一化していくことに危機を感じ、
独自のものづくりに磨きをかけることを選びました。
現在ではシャトル織機の台数も、それらを扱える職人の数も減っています。
ウールの風合いを最大限に生かせる織物技術は高く評価されています。

受け継がれてきた技術と職人の勘

早速、工場を案内してもらいました。

光が多く入る工場は、古い木材と鉄筋が共存。そこに年期の入った織機が並んでいます。

ションヘル織機は繊維に無理な負荷を与えずに織り上げるのが特徴です。
ションヘル織機で織られていく様子を見ていると、
緯糸(よこいと)1本1本が空気をまとい、
生地に立体感を生み出していることがわかります。
この糸の膨らみが、スーツになった時に生きるハリを生み出します。
これはハイテク織機には出せない、ションヘル織機ならではの味です。
部品のひとつひとつがまるで職人の手のように、与えられた役割をこなしていきます。

やさしく織られているのがよくわかる表情。

手織り機の構造に近いションヘル織機は、
職人による多くの手作業が入ります。
そもそも、織機を動かす前にまず4日かかります。
織るための糸を織機にかけ、
それらを1本1本調整していきます。
その糸数が生地の密度によって異なるそうですが、
多いときで、10000本以上!
僕ならあきらめてしまいそうなくらい、
気が遠くなりそうな作業です。

すべての糸をいくつもの器具に通していきます。

織っているところ。

そこには正確かつスピーディーな作業が必要となるので、
熟練の技術が必要となります。
これらの工程にはマニュアルはなく、
素材と機械と対話しながら得た、
職人の勘のみがわかる機械操作となります。
それは、昨日今日ではなし得ない技術。
葛利毛織では、それらを大切に、丁寧に受け継いできました。

切れた経糸(たていと)は、手作業で結ぶ。

「ションヘル織機はローテクな機械なので、
糸の状態に合わせて織機の微調整ができます。
使い込むほどに素材の良さを生かしたものづくりが可能になります。

例えば、糸が通る部分は、使い込むと糸の接触面がなめらかになり、
繊細な糸をかけても糸を傷つけることなく織ることができるようになります。
現在弊社で扱っているような繊細なウール素材の糸をかけられるようになるには、
数年かかります。ションヘル織機にこだわり続けたからこそ、
繊細な糸でも扱える技術が確立できたとも言えます」
と話すのは、専務取締役の葛谷 聰さん。

部品が壊れたときは、安易に新しいものに取り替えないで
産地内の鍛冶屋さんに修理に来てもらい、
メンテナンスしながらションヘル織機を使い続けてきました。

年期の入った道具です。修理道具も一緒にあります。

羊毛は刈り取る時期や気候によって、糸の太さや品質が変わってきます。
その時々の糸の質に合わせて、8台のションヘル織機の中から、
最適なものを選び、微妙な調整までできます。
だから、葛利毛織はローテクでありながらも、
最先端のものづくりとも言えます。

ふっくらとした生地から細番手の高密度まで、
さまざまな生地を生産しているのも葛利毛織の魅力です。
ウールはもともと繊維に油分を多く含むので、
それを超高度密度に織った葛利毛織の生地は、
撥水加工がなくても多少の雨なら弾くそうです。

この生地の張りを眺めていると、雨の多い英国で、
多くのテーラーたちが傘をささずに歩く姿が浮かんできます。

超高密度に織られています。

愛され続けるものづくり

本物を愛する国内テーラーや、
海外の有名メゾンから注目を集める葛利毛織のものづくり。
彼らが仕上げた生地を使って、
一流のテーラーによって仕立てられた本物のスーツは、
世代を超えて着継がれていけるほど丈夫なものです。
たとえスーツ一着でも、親から子へ、子から孫へ仕立て直され、
着継がれていくものなのです。

つくる側、使う側ともに、価格のモノサシだけでなく、
本物のものづくりと、その価値に向き合うときなのかもしれません。

木曽川の土手。木の茂みの奥に川が広がる。

葛利毛織をあとにして、愛知県と岐阜県の間に流れる、
木曽川沿いを歩いてみました。
豊富な水は、染色加工用など繊維産地の発展には欠かせないので、
各産地には、大きな川が流れているものです。

大量生産型では成立し得ない葛利毛織のような、
時を経ても変わらない地域に根ざしたものづくりが
今後、孫の代まで大切に受け継がれていってほしいなぁと思います。

information


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セコリ荘

住所 東京都中央区月島4-5-14
電話 080-5378-0847
http://secorisou.blogspot.jp/

山ノ家 vol.7: 気だてのいい移民になろう  二拠点生活への覚悟の芽生え

山ノ家 vol.7
カフェのにぎわいと、熱気の中でのドミトリー工事

無事、山ノ家の「カフェ」はオープンしたが、2階のドミトリーはまだ工事中。
少しでも早く来訪者に開きたいという想いから、
まずは1階のカフェだけでも先に工事を終わらせて、
お盆より前にはオープンしようという計画だった。
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の期間中に
遅ればせながらオープンし、手配りのチラシの効果もあって、
カフェを利用するお客さんも増えてきた。
僕らは連日泊まりがけで合宿のように生活しながら、
カフェの運営チームは来訪者のために大忙しで、
数少ない男子と、大工さんたちはドミトリーの工事を進めている。

カフェのキッチン内には常に3〜4人のスタッフが入り、忙しく動き回っていた。ここが元和室であったことを考えると、何とも新鮮な光景。

ドミトリーができるまでに必要な残りの作業は、2階の床張り、
壁のボード貼り+塗装、1階のシャワーブースや2階の水回り、
そして一番の作業はドミトリーのための、2段ベッドづくりなど。
カフェのにぎわいの裏では、ドミトリー完成へ向けた工事が続いていた。

カフェはこんな感じでにぎわっていてうれしい限り。しかしその裏で……。

2階ではこのような感じで作業をしている。これは廊下の塗装を行うための、階段の養生。

カフェが営業している時は外への出入りに気を使ったり、
道具や資材の搬入などでどうしても融通がききづらかったりと、
作業をするためのスペースや導線確保の大切さを再認識した。

追加資材の搬入は2階の窓からユニック(クレーン付きトラック)でカフェの開店前に行った。

まつだいの8月は焼けるように暑く、
1階に設置したばかりのエアコンがフル稼働という状態。
しかし、2階にはまだエアコンがついていない。
こもる熱気の中でみな黙々と作業を続けていた。

暑い中での作業。アキオくんは大工さんからアドバイスをもらいながら自分で床張りをマスターしていた。

カフェから生まれる、地元との接点

カフェが開店したこともあってか、
いろいろなかたちで地元の方々とつながる機会がいくつか生まれていた。
ある日、工事を見てくれていた近隣の大工棟梁さんが、
僕らに相談を持ちかけてくれた。
「お盆の8月15日に、近くの小学校で盆踊り大会があるんだけど、
近隣の人に知ってもらうのにいいチャンスだと思うから、
店を出してもらえたらと思うんだけど」
地元で彼の世代(30〜40代)がこの盆踊りを仕切ることになったから、とのことだった。
始めたばかりのカフェの営業はまだまだ落ち着かないが、
これはとても良い機会だからなんとか工夫してやろうということになり、
夕方に店頭に貼り紙をして、小学校で出店することにした。

近隣の小学校の盆踊り大会に、キーマカレーやマフィンなどを急遽仕込んで出店。反応はなかなかよかった。

またある日は、関東圏から十日町に帰省した大学生が立ち寄ってくれて、
「地元にこんな素敵なお店ができたなんて!」と感激してくれた上に意気投合。
なんとカフェのお手伝いを1日してくれることになった。

写真の奥にいるのが、地元がこの近くという大学生。地域の過疎化を心配し、まちづくりなどにも興味があるようで、僕らがここで拠点を持つことになった経緯などにとても共感してくれた。

また、お隣の方などが「たくさんとれたから」
と野菜をドサっと持ってきたりしてくれたのはとてもうれしいことだった。
冬の工事の時から、通りかかるおばあちゃんなどに
「ここは何かできるの?」と聞かれ
「ここで喫茶店をやります。是非来てくださいね!」
などとなるべく丁寧に接してきたことなどが思い出された。

この先の可能性がいろいろと広がるのが少しだけ見えた気がして、
本当にここでやってよかったと思った瞬間だった。
このころから何となく「気だてのよいヨソモノでいよう」
というキーワードが自分たちの中で浮かびあがっていた。

根城を転々とする、移民としての生活

僕らは若井さんが使用している近隣の一軒家
(味噌づくりのために使っている「味噌工房」と呼ばれている借家)
の部屋を借りて寝泊まりをしていた。
実はその前にも、工事が始まるころから
しばらく寄せていた場所があった。
しかし、大地の芸術祭をお手伝いをする方たちが来たら
部屋を空けることになっていたので、
その後に若井さんの「味噌工房」に移動していた。

若井さんの味噌工房のある家。この脇の土地で、少し前から畑もやらせてもらっていた。

もちろん、山ノ家の上に泊まれたらそんなに楽なことはないのだが。
アキオくんは「ここのユニットシャワーがついたら、休憩中に汗を流せる!」
などと冗談を交えながら作業していたが、
そこはまだ粉塵が舞う戦場のような工事現場で、
とても落ち着けるような状態ではない。
泊まるための場所をつくりながら、自分たちは別の場所に寝泊まりしている。
なんとも歯がゆい状況での現場、というか、生活。
例えばこれが東京での話ならば、
皆それぞれの住む場所から通って現場で集まるだけという、あたりまえのこと。
ここでは、その前提が無い状況なのだ。
普段とは全く違う土地で生活をしながらリノベーションを行うということ、
そして共同生活を伴ったかたち。楽しくもあり、難しい部分でもある。
この状況のなかで、皆が生き生きと活動していることが
本当に何ものにも代え難い心の支えだった。

そんな中、カフェがオープンする前後に、
若井さんが言いづらそうに僕に相談をしに来た。
「実はお盆前後に、毎年農作業を手伝ってくれる人たちが
泊まりにくることが前から決まってしまっていて、君たちの寝泊まりする場所を
どこか他に移動してもらわなくてはならないんだよ」と。
お盆が近づいてきて、宿泊できそうな場所はみな似たような状況で、
新たな宿を見つけなければならない状態になっていた。
また、移動しなければならないのか……。
とはいえ、どこにも行くアテが無い。
まさに移民(というかむしろ難民に近い)。

若井さんがいろいろと周辺の人をあたってくれて、
なんとかなりそうな場所の情報を持ってきてくれた。
そこは僕らがよく行く温泉のすぐ近くのロッヂで、
地元の有志でつくったらしいが、震災のあとは使っておらず、空いているという。
なぜなら、ほんの少しだけ床が傾いていたりして、
直す目処がたたない状態だから、とのこと。
加えて、いままでは現場に徒歩で行ける距離だったが、
そこはちょっと離れていて車での移動が必須な場所だ。
いろいろとハードルは上がるが、いまのところ他に選択肢がない。
掃除をして、そこにあった布団を使用するので干すついでに、下見に行く。
うーん……大丈夫だろうか。
1年半空いているだけならきっと大丈夫だろう……。
というより背に腹はかえられない。
お盆を目前にした頃、僕らは「大移動」をした。
その時現地に乗り込んでいた僕らのチームは、およそ10人くらい。
実際には、1年半空いていただけというにはずいぶんとラフな状況だった。
しばらく人が使っていない場所というのは、どうも空気が重たい。

ロッヂでの生活がしばらく始まる。

ペンを置けば転がる床で寝ることは、思ったよりも不安定な気持ちだった。
正直キツかったが、皆連日の疲れもピークなせいか、すぐに寝てしまった。

次の日の朝、なぜかいつもよりも早く目が覚めた。
その時、窓に広がっていたのは、

見事な雲海!

いまの大変な状況が一気に報われるような、素晴らしい景色だった。

ここまで長くひとつの所に滞在して活動するということはなかなかない経験で、
短期間の滞在では気づけない日々のわずかな気候の変化や、
この地の風景をさまざまな角度から見ることや、
鳥や虫や、木々や緑の生命力のたくましさや美しさなどを
目の当たりにしていくことで、得難い何かをからだ全体で感じていた。
そしてときどきこんなふうに、
風景はその土地の特別な顔をかいま見せてくれるのだ。

これが別の土地で日々の営みをつくっていくことなのかもしれない。
旅行でも移住でもない、二拠点生活への覚悟の芽生えが出てきていた。

そしてとても好きなのは、カフェがオープンしたことで、
みんなで朝食を山ノ家でとれるようになったこと。

眠そうにしているが、みんなリラックスしているのがわかる。

自分たちの作った空間で、とてもおいしい朝ご飯を食べられるというのは
何とも言えない充実した時間だった。

朝のまかないご飯。自分たちが借りていた畑でとれた野菜や、ご近所の方にいただいた野菜を使って。

すべて出来上がるまで、あともう少し。

MAD City vol.7: 頭の中のモヤモヤを整理整頓。 住みたい空間を叶える、 建築家・森さんのDIY

MAD City vol.7
既存の間取りを自在に変化させ、最大限の居心地を。

MAD Cityでは、まちの中で使われていなかった物件を
地域のオーナーさまから借り上げては、改装可能などの条件を加えて、
アトリエや工房、住居、イベントスペースなどとして入居者に提供しています。
入居者は、各自のセンスと技術で、物件に手を加えていきますが、
そんなDIY作業を助けてくれるのが、
MAD Cityの入居者たる多くのアーティストやクリエイターです。
今回は、そんなアーティストのひとり・森 純平さんを紹介します。
彼はMAD Cityが運営する「旧・原田米店」でアトリエを借りる入居者です。

森さんは東京藝術大学の建築科を卒業した、今年30歳の若き建築家。
アーティストとしても、舞台美術や展覧会、コンサートなど幅広い作品を手がけています。

森さんです! ちなみに、最初に彼がMAD Cityを気に入ってくれた理由は、「『マッドシティ』という名前が攻めているから」だったとか。

森さんがMAD Cityに関わり始めてくれたのは、4年ぐらい前から。
MAD Cityのスタッフが、たまたま森さんの大学の同級生だったことから、
2010年の「松戸アートラインプロジェクト」という
地域アートプロジェクト(現「暮らしの芸術都市」)に協力してくれたのがきっかけでした。

森さんが初めて松戸に関わったイベントの様子。松戸駅のデッキを会場に音楽ライブの舞台をつくってくれました。

もともと東京・北千住や横浜・黄金町などのまちづくりにも携わっていた森さんは、
既存の建物をどう生かすかという視点を常に持っています。
そして、彼はとっても「掃除」がうまいんです。
もちろんこれは、別にお客さんの家の掃除をするわけではありません。

「とりあえず、一部屋だけリノベをしてみたい」
「やり方はわからないけど、DIYしたい」
「でも、なにをしていいかわからない」

という人が結構います。実際、リノベ初心者の人の場合、
仮に自分が「こういうDIYしたい!」という明確な意志を持っていても、
やりたいことが多すぎて予算オーバーになってしまったり、
いざやってみると後に「あれ、本当にこれがやりたかったんだっけ?」
「本当にこれで使いやすいんだろうか」などと疑問を持つことが多いのです。

そんなお客さんにヒアリングして、相手がモヤモヤと抱いているイメージから、
余計なものをどんどん削り落としていく。
そして「その人が本当にその物件を通じて求めているもの」を浮き彫りにしていき、
お客さんと一緒に建物をDIYしていくんです。

お客さんにとって必要ないと判断したものは、
森さんはカウンセリングの最中にバッサバッサとそぎ落としていきます。
だから、森さんが手がけるリノベは、
お客さんが当初考えていたものとはまったく違うかたちになることも多々あります。

たとえば、当初は部屋に壁をつくって間仕切りする予定だった家も、
結局つくり付けの家具を置くだけにして、
家具を移動させるだけで簡単に部屋の広さを変えられるようにしたり。
部屋の狭さに悩んでいる人には、床を張り替えたり、
壁を抜いてみるだけで、ぐっと部屋を広く見せたり。

住まい手にとって必要でないことは、仮に頼まれても絶対にやらない。
「その人が本当に必要としている住まい」
「10年後、30年後でもその人にとって暮らしやすい部屋」を
本質的に追求していこうとする森さんの作業を、
僕らが「掃除」と呼ぶようになったんです。

現在が森さんがアトリエとして使う「旧・原田米店」にて。

通常のマンションだと「基本の間取りにはあまり手を加えられない」
と思ってしまいがちなんですが、
森さんはいまある設計が相手のニーズにそぐわなければ、
天井も抜くし、壁も壊す。柱も切るし、床もバンバン張り替える。
その思い切りのよさ、かなり豪快です。

MAD Cityにもいろんなクリエイターさんが関わってくれていますが、
間取りなどの既にある条件を、ここまで躊躇なく気にしないのは、
おそらく森さんくらいでしょう。
でも、裏を返せばそれは、多少の無理をしてでも
最大限「使う人のニーズ」を考えてくれている証拠なんです。

森さんの最近のリノベ。研究者である依頼主と一緒に考えた結果、蔵書のための本棚をつくり付ける、依頼主の父親が使っていた製図板をテーブルにする、といった展開に。

ちなみに、MAD Cityの現在の事務所の改装を手がけてくれたのも森さんです。
ただ、僕らが現在の事務所を決めたとき、
「今後MAD Cityがなにをしていくのか」「僕らにどんな場所が必要なのか」は
まだ、試行錯誤の状態でした。
不動産屋でもあるけれども、コミュニティとしての活用ができる場でもあってほしい。
そんな場所をどうつくったらいいか、簡単に答えが出そうにない。
モヤモヤとずっと考え続けているなか、タイムリミットはどんどん迫ってくる。
そして、数回にも渡るヒアリングの末、
そんな僕らの想いを汲み取って森さんがつくってくれたのが、
真っ白なキャンバスのような壁がある、とてもシンプルなオフィスでした。

「まだまだ、MAD Cityにはいろんな可能性があるから。
最初はあまりお金をかけず、後々加工しやすいもののほうが
使いやすいんじゃないかと思って。これだけシンプルなら、
いくらでも後から手を加えていけるから」(森さん)。

そんなわけでMAD Cityの事務所は森さんに相談しながら、
オープンしたあとも、ちょっとずつ変わっています。
日々のアイデアで、新しい機能を付け加えていくといった感じですが、
そうやっていじり続けるのがDIYの本質だなと思います。
それを助けてくれているのが森さんというわけです。

MAD Cityの事務所「MAD City Gallery」。最近では、入居者の料理人たちの「料理のレシピ」を配布するコーナーができたりと、ちょっとずつ進化しています。

森さんは現在、MAD Cityが管理する「旧・原田米店」内にアトリエを構え、
使いながら、いろいろと改修中です。
旧・原田米店は、全体の敷地が400坪近い、広い日本家屋群を
アーティストたちがシェアアトリエとしている建物ですが、
まだまだ改修の余地があります。
ここから森さんは、僕らと一緒にいろんなプロジェクトに関わってくれています。
得意の森さんの“掃除”は、建物と入居者だけでなく
裏庭をどう活用しようかというアイデアなど、
まちと人とのつながりにも射程が広がっています。

現在は主に「作業場」として使用されている「旧・原田米店」ですが、場合によってはギャラリーやイベントスペースとしての使用も検討中。

アトリエなので、いろんな用具がぎっしり!

「地域のなかで人の流れを生み出す場をつくり、
建築がまちへと作用するような動きを見たい」
と考える森さんは、この旧・原田米店を
「家を増築して、もっとアトリエスペースを広くしてみんなが使えるように」
「広い庭に東屋をつくって地域住民が使える憩いの場に」など、
いろいろな構想を準備しているようです。

「MAD Cityは古くからの松戸市地元民とは結びつきはあるけれども、
マンションに住んでいるような
新しくこの土地に来た人たちとの接点があまりないんですよね。
旧・原田米店が、もっといろんな人が共有で使える場になってくれたらいいなぁ」
と森さん。

アトリエの裏側も昔ながらの日本家屋。屋根はまだ張られていませんが、東屋が少しずつつくられている様子、わかるでしょうか。これも森さんの活動です。

さまざまなネットワークをつなぎながら、
都会のような田舎のような、松戸での暮らしを楽しむMAD CityのDIY。

僕らはもっとDIYが日常的になって、
分譲マンションのお部屋がどれも超個性的になってしまう、
そんな状況が生まれたりしてほしいなと思います。
部屋をリノベしたいけどどうしよう……といった依頼者が気軽に相談できる、
森さんのような建築家がどんなことを仕掛けてくれるのか。
これからが楽しみです。

旧・原田米店で森さんがいじっているスペースのリニューアルは
もみじが色づき始める10月頃の予定とのこと。
さてさて、どんな空間に変身しているのでしょうか。
気になる人はぜひ見に来てください。

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MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/