寺田本家 後編

からだが喜ぶおいしさ。

《登場人物》
寺田優(以下、寺田):株式会社寺田本家代表取締役
なかじ(通称、なかじ。以下、なかじ):寺田本家蔵人頭、発酵料理家、レシピ本著者
ジャスティン(以下、ジャス):著者。

酒造りの現場をまわって、寺田本家ならではの酒造りについて学んだあと、
蔵と同じ敷地内の部屋で食事をすることにした。
学んだことを振りかえりながら日本酒の味わいを通して
神崎町の発酵フィロソフィーについてより深く掘り下げて聞いてみた。

全員

乾杯! おつかれさまです!

ジャス

夏にはちょうどいいですね、この酸っぱさ。
夏に元気がでそうなお酒って不思議ですね。

寺田

そうですね。

ジャス

でも、この「むすひ」って、正直、好き嫌いが分かれそうな味わいじゃないですか?

寺田

そうですね(笑)。玄米でお酒ができたらいいなと思ったのが、最初だったんですね。
まぁ、“玄米ではお酒ができない”という日本酒の常識があるけど、
玄米を食べるとからだにいいとよく言われているし、
お米であることには変わりないから、じゃあ、玄米でもきっとお酒ができるはずだと、
取り組みはじめました。

ジャス

確かに、僕もはじめて飲んだ時に、お酒が飲みたい!
と思ってむすひを選ぶ人は本当にいるのかなと思っていたんですけど、
お酒を飲むというよりも、自分のからだのため、健康のために薬を飲んでいる感覚で
よく飲む人がいそうだなと思いました。
むすひだけを何週間も少しずつ飲み続けてから、普通のお酒をまた飲んでみると、
もの足りなくなってしまいそう。
それくらい、むすひのクセにはまっちゃう人もいそうですよね。

寺田

飲んだ瞬間、「あぁ、酸っぱい!これはだめだ!」と思っても、
飲んでみるとからだが喜んでくれる実感がある。それが「むすひ」なんでよすね。

発酵って、生活がすごく楽になる。

ジャス

なかじさんは、随分前からマクロビの料理とか、
ベジタリアン料理とかをやっていたと思うんだけど、
発酵ってことを本当に意識しはじめたきっかけってなんだったんですか?

なかじ

それは、蔵に入ってからですね。
今までの料理に、発酵の良いところ面白いところを組み合わせて、
昔の人はどうしていたんだろうとか、
発酵させることでもっと美味しくなるんじゃないかとか考えていました。

ジャス

その料理のスタイル、ベジタリアンとか、イタリアンとか、BBQとか、
料理のスタイルというよりも、なんか、ライフスタイルのほうに近い感じがしますね。

自分で作る権利。

なかじ

今、日本酒、清酒の蔵は減っているけど、もっとビールとかワインみたいに、
小さい、個人とか、造りたい人がどんどん自分で免許をとって、自分で酵母をつくって、
日本酒を造れるようになったらいいなって思うんですよ。
だって、ヨーロッパとかに行くと、小さいビール工場いっぱいあるんじゃないですか?
ワインも種類が豊富。

ジャス

あるある。

なかじ

でも日本酒って、どこに行っても味に大きな違いはないし、大きい蔵しかない。
個人が、カフェとか居酒屋さんをやるみたいに、
日本酒の蔵を作れるとか、なったらいいなと思うんです。
それの入口が清酒の免許だったら難しいけど、
どぶろくの免許とかその他の雑酒の免許だったら
けっこう個人でもいけるんじゃないかなと思うんです。

寺田

そうだね。本当のいいものは受け入れられるし、
これから2、3年がらっと変わってくる気がするんです。
そうなると、本当に発酵の文化がわっと花開くようになるかな。

なかじ

お酒造り、麹作りの智恵とか、お味噌作りの智恵とか、
その醸造関係者が持っている智恵をもっと一般の人に広めて、
自分たちの生活の中に取り戻す必要がありますよね。

ジャス

確かに、最近麹とか、甘酒とかの発酵食品が人気になって、
さまざまなところで手に入るようになることで、
一般の人がその「発酵」というキーワードをもっと意識するようになるのは
すごくいいことなんだけど、その最終的なゴールって、
自分の生活に取り戻すということだったら、
もっと一般の人の日常生活、食生活が大きく変わってもいいはずですよね。

なかじ

やっぱり、自分たちで作る権利が、あるべきだと思う。
酵母とか、麹の種菌とか、一部の大きい会社とか、国が持っていて、
(一般の人が)買えないのではなく、普通に菌はどこでもいるし、どこでも作れるから、
みんなが自分の生活に必要なものは作れる、という智恵と自信を取り戻せたら。
だって、昔はおばあちゃんがみんな適当にやっていたことだから(笑)。

ジャス

そうですね。勘で作ったりとか(笑)。

なかじ

それがもっと気軽になって、敷居が低くなればいいなと思うんですよ。

神崎の不思議なところをたくさん増やしていく。

なかじ

神崎って他のまちに比べて、発酵関係の仕事をしている人はまだまだ少ない。
今から発酵をテーマにして、まちをつくっていこうというスタートの段階ですね。
それでも若い人たちが少しずつ集まってきて、
“お米を作りながら生きていきたい” “野菜を使ってカフェをやりたい”という人が
だんだん出てきている感じですね。
だから “「発酵の里」が始動しますよ!”と世間に広めて、
さまざまな人からアイデアとかいただけたらなぁと思っています。

ジャス

今作ってないんだったら、何をされているんですか?

なかじ

お醤油さんは、大きい醤油屋さんからお醤油を買って、瓶詰めしている(苦笑)。

ジャス

そっか……。もったいないですね。

なかじ

もったいない。でも蔵はまだあるから、やろうと思えばできるはず。
醤油屋さんの30代くらいの跡取りの息子さんが
「発酵の里」のミーティングに参加してくれたんです。
みんな“どうにかしなければ”と思っているということです。
なので、今は、何かが始まっているというよりは、
人が集まってきているという段階ですね。

寺田

今、古民家を借りて暮らしている人がいて、
この民家の庭先に酵素風呂を作ったんですよ。
酵素風呂って、オガクズとか、米ぬかとかを入れて、
堆肥を作るように発酵させるんですね。
そうすると、温度が60℃ぐらい上がるんですよ。砂風呂みたいに身体を突っ込むと、
デトックス効果で、身体中から汗とともに悪いものをわ~っと出してくれて、
すっきりする。これを実際作っている人がいたりとかね。
そういうものをひとつひとつ増やして、
発酵をありとあらゆる場所で体験していただけるまちになったらな、と思っています。

ジャス

最初にこの“発酵”というコンセプトでまちを元気にさせていこうとしたときに、
酵素風呂ができるとはあんまり想像がつかなかったんじゃないですか?
こういう場所があったらいいなとか、こんな人がいてくれたらいいなというよりも、
なんとなく自然な流れで、その時にまちの自然な勢いで無理なく、
自然に現れてくるというほうがいいかもしれないですね。

寺田

そうですね。面白くて、不思議なものや場所がいっぱい集まってきて、
他のところにない特徴が生まれつつある段階ですね。

意識や夢や目標をまちのみんなで共有すること。

なかじ

ひとつの場所でゆっくりと発酵させると美味しいお酒ができることと同じで、
まちをつくるのも、ゆっくり少しずつできるとこからやろうと考えています。
急に大きくすると、すぐダメになる。

ジャス

社会の中でも似たような現象はたくさんあるじゃないですか。
新しいビジネスを立ち上げて、あるかたちでちょっとしたヒットがあって、
あわててスタッフを募集して、一瞬だけ盛り上がるけど、
いつの間にぱしゃーっと空気が抜けてしまって、もう終わり? みたいな。

なかじ

そう、会社と同じだと思う。急に大きくしすぎると、
そのトップの人と現場の人、一番下の社員の意識、そのマインドのレベルの差が激しくて。
そのトップの人はすごく高い夢とか、目標とかあるけど、下の人は……。

ジャス

見えてないこともある。

なかじ

でもお客さんと接する人はこの一番下の人だから、
この差が激しいと絶対いつか失敗するでしょう。
これはいい商品ですよってトップが言ってきかせても、
その現場の人が「いい商品ですよ」って思っていないから、売れなくなる。
つまり、意識や夢や目標をまちのみんなで共有することが、
まちづくりのひとつのキーワードだと思っています。

ジャス

無理に大きくさせるのではなく、もっと持続性のある土台をゆっくり、
しっかり作っていくということですね。

微生物から教わったこと。

寺田

前の当主がよく微生物からさまざまなことを教わったと言っていました。
微生物というのは、みんな仲良しなんだって。
弱肉強食ってそういう世界じゃなくて、それぞれが自分のできることを一生懸命やって、
自分の出番が終わると、次の菌にバトンタッチして、
それぞれがお互い住み分けしながら生きていく。それが本当の自然な世界なんだよって。

ジャス

そのような栄養素以上の価値、その面白さをどう伝えるのかって、
この神崎にいることで言葉で説明しなくても
なんとなく伝えることができる気がしますけどね。
それは体験っていうよりも、体感かな?
やっぱりそれを五感、いや、六感で感じてもらわないとね。

寺田

そうですね。その場で参加してもらって、体験してもらって、
なにかのヒントを感じていただいて、家に帰ってからもそのヒントを発酵させるように、
徐々に暮らしの中に取り入れいただけたらいいなと思いますね。
ただ買って、消費してというだけではなくて、
いかに共感して体験して、というのが大事になってくるんじゃないかなと思います。
遠くから来ていただける人が
本当にこの神崎町というところに愛着や共感してもらえるような、
そういう場所をどんどん増やしていければいいですね。

次のページでは、発酵料理家でレシピ本著者のなかじさんに、酒粕を使ったおすすめレシピを伺います。

第2回出張マチスタ

ヒトミちゃんとFA権。

第2回の出張マチスタは野外音楽フェスでの出店だった。
ステージの前に広がる円形の芝生広場を囲むようにして、飲食関連のブースが20ほど。
天気は申し分ない上に音楽が沖縄系というのもあって、
終始、ゆるい雰囲気が漂う和気あいあいとしたイベントだった。
それにしても天気がよすぎた。
気温は汗ばむほどで、ホットコーヒーを売るにはあまりに不向き。
それでも60杯を売り、焼き菓子も含めて売り上げは2万円を超えた。
しかし今回の最大の収穫は、
我が社アジアンビーハイブの才媛・ヒトミちゃんの有能なアシスタントぶりだった。
接客や会計だけでなく、人数分の豆をその都度測って渡してくれたり、
ポットに水を足したり机の上を掃除したりと実にマメで、
デザイン部門のみならずカフェ部門においても
ユーティリティプレイヤーたりえることを証明してくれた。
(これなら児島のオフィスで週末マチスタとかできたりするかも?)
そんな新しい展開のアイデアさえ浮かんできたほど。
でも、実はヒトミちゃんが来年以降も弊社のスタッフとして在籍しているかどうかは
いまのところ不明。彼女、年を明けたらFA権を取得することになっているのだ。

友人の画家・廣中薫さんからの誘いで、
半年間だけ一緒に岡山の専門学校でイラストコースのゼミを受け持ったことがある。
2007年のことだ。そのゼミを選択した生徒のひとりがヒトミちゃんだった。
生徒とはプライベートの付き合いも一切なかったので、
彼女ともろくに話をしたことのないままゼミを終了。
ところが、それから半年以上経って、偶然児島のカフェで再開した。
それを機に彼女の就職相談にのるようになった。
作品集づくりのアドバイスをしたり面接の練習をしたり。
知り合いのデザイン事務所を紹介して面接にも行った。
当時のことを実はそれほど詳しく憶えていないのだが、
ヒトミちゃんの話から察するに、
暮れが押し迫っても就職の展開は鳴かず飛ばずで、先にぼくが業を煮やしたカタチだ。
「じゃあ、うちに来るか?」
うちに来るもなにも、人を雇ったこともないし、
雇って給与を支払えるような仕事もしていなかった。
そこでぼくは彼女に正社員契約の条件をつけた。
卒業直後から1年間アルバイトをし、
毎日アルバイトが終わったらうちの事務所でデザインの勉強をすること。
その1年間でぼくは彼女を社員に迎えられるような態勢づくりを進めることができる。
ヒトミちゃんにとっても、他業種の仕事を経験したことは、
その後の人生において無駄じゃないだろう。
アルバイトには「事務職でない仕事を」という傍若無人なリクエストをしたこともあって、
ハードルを超える確率は五分五分と見ていた。
結局、彼女はお弁当のチェーン店でのアルバイトを見つけ、
毎日朝から午後2時まで割烹着姿で働き、3時からうちの事務所に通いつづけた。
「体力的にもたないのでは」との思いは杞憂だった。
少女マンガから抜け出したような容姿とは裏腹に、根性のすわった女子だった。
ぼくは春まで待つまでもないと判断し、翌年の1月から彼女を正社員とした。
しかし、彼女には早い段階からこう言っていた。
「3年間は社員として面倒をみる。でも、3年後には独立を考えなさい」
それぐらいの緊張感をもって仕事に臨んでほしいというのが言葉の真意だった。
しかし、そんなこともまた不要な配慮だった。
彼女はギネスブック級の頑張り屋さんだった。
いったんパソコンの前に座ったら根をはりめぐらしたかのようで、
おかげで会社の習慣として10時と3時には必ずコーヒータイムをとるようになった。
お昼には弁当持参で山や海に行ったり、夏にはかき氷を食べに行ったり、
結構外にも連れ出した。そうこうしながらも彼女は着々と力をつけ、
3年目に入った今年は、面倒を見ていたはずのぼくが面倒を見られる側に逆転した感がある。
実際、いまではヒトミちゃんなくして、
我が社アジアンビーハイブがいろんなところで支障をきたすのは明々白々。
それでも、「独立を考えなさい」なんてエラそうに言った手前、
正式にFAの交渉の場を持たざるをえなかった。

出張マチスタの翌週の平日、場所は児島の焼肉屋さん「ぽんきっき」。
安くて美味しいと地元で評判のお店である。
「転職して技術を磨くというのも手だし、独立しても十分やっていけると思う。
それだけの力はつけてる。
独立して自分でやっていく面白さも味わってもらいたい————あ、それ焦げてるけど」
ヒトミちゃんは肉のまわりに焦げが目立つぐらいによく焼かないと食べない。
美味しい肉はレアで食べなきゃ美味しさがわからないと思っているぼくは、
ヒトミちゃんの前にある肉の焼き加減が気になって仕方ない。
「でも、いまのアジアンビーハイブはマチスタのこともあって
ずっと苦しい状態が続いている。ヒトミちゃんには会社に残って、
一緒にやっていってほしいというのが正直なところなんだ————あ、これも焼けてるって」
こうしてぼくはヒトミちゃんに残留を提案した。
給与もボーナスもいまのままでは大幅なアップは望めないが、
それでもいてもらいたいと。
「なにが自分にいいのかわからないんです」
ヒトミちゃんは箸を置いて真剣な顔でそう言った。
彼女のたれの受け皿には、炭化しかけた肉の残骸のようなものがふた切れ重なっていた。
「自分がなにをしたいのか、フリーになりたいのかどうかもわからないんです」
「……じっくり考えたらいいよ。オレはヒトミちゃんがどう決断しようと、
それを尊重する。つき合い方が変わることもないから」
こうしてなんら決定のないまま、その日のFA交渉は終わった。
11月中にも次回の交渉の場をもつことになるだろう。その詳細はまたの回に! 

中央でコーヒーを淹れているのが筆者。ガスの炎の大きさがよく見えない、電圧が安定しないなど、野外ならではの苦労を味わいました。コーヒー自体は「美味しい!」と評判は上々でした。

年齢がふたまわり下のヒトミちゃんには、最初の半年ほどはやせるほど気を遣いました。あまりに気を遣いすぎているぼくを見て、写真家の安村崇さんが「孫とおじいちゃん」と評したほど。

マチスタ、秋のコーヒーは「アフリカン・キャンペーン」。深煎りにジンバブエ、浅煎りにカメルーンを用意しています。エチオピアやケニヤ、ルワンダとはまた異なるアフリカの味を是非この機会に! 

かんこ踊り

奇祭・かんこ踊りを守るまちのチカラ。

三重県松阪市猟師町は、車1台通るのがやっとの狭い路地が入り組んでいる。
それだけに都会とは違って、隣近所とのつき合いも深い。
そのようなコミュニティを築き上げるのに、
年1回の盆踊り「かんこ踊り」が一役を買っている。

かんこ踊りとは、三重県に広く伝わる念仏踊り。
雅楽の楽器である羯鼓(かっこ)という太鼓を持って叩きながら踊ることが由来となり、
転訛して“かんこ踊り”と呼ばれている。
盆の時期に行われ、初盆を迎える先祖を供養する。
三重県に伝わるのは、かつてこの羯鼓が伊勢神宮で奏でられていたからと言われている。
県内でも地域ごとに異なったかたちで現存するかんこ踊りは、
古くは1000年以上前から伝わる郷土芸能であるが、
そもそも一子相伝で外にもらしてはいけないという慣習ゆえ、
全国的に広く知られているわけではない。
このような奇祭を、前出の松阪市猟師町、
そして伊勢市の佐八町と円座町で見ることができた。

猟師町の狭い路地を進んでいき、頭上に行灯がチラホラ見え始めると、
祭りの始まる空気が漂ってくる。まち全体がかんこ踊りを待ち望んでいるのだ。
まちの中心にある海念寺の境内に4人の若者が胸に羯鼓を持って並んだ。
周りで数人が音頭を取り始めると、
人々は4人が持つ太鼓に対して列をつくって並び、
その場にいるみんなが順番に叩き始める。
おじいちゃんから小学生まで、叩き方は全員マスターしているようだ。
小さな子どもに、小学校高学年のお姉さんが教えている姿がほほ笑ましい。

踊りの輪に向けて、遺影を掲げている。最後は笑って送りたいという気持ちだ。

しばらく経つと羯鼓を抱えていた青年たちが、顔にかんむり(さらし)を巻き始めた。
どんどん顔を覆っていくことで、個性を無くし、人間ではなくなっていくという。
「顔に巻いていくうちに、どんどん気持ちが入り込んでいきます。
そして精霊の使者になるんです」と教えてくれたのは、
猟師かんこ踊り保存会会長の八田謙介さん。
顔を完全に隠し、頭には桜の花をモチーフにした
「しゃぐま」(しゃごまともいう。形状は地域によって多種多様)
と呼ばれるかぶりもの、足下は素足。
このいでたちで各自胸に抱えた羯鼓を叩きながら、飛び上がって踊る。
躍動感あふれ、汗がほとばしるエネルギッシュな動き。
しかも、初盆の家庭を1軒ずつ訪れて踊るのである。
今年は39軒あったので、3日間にわけて1日13軒。
夕方から始まって、1軒につき所要約40〜50分。
終わるころには日は昇っている。3日間夜通し踊る、ハードな祭りだ。
ある1軒が終わると、次のお宅へみんなでぞろぞろ移動。
踊りの現場に合わせてまちごと移動しているかのようだ。

子どもの頃から当たり前に繰り返されるかんこ踊り。その存在はきっと理屈じゃない。
「子どもの頃から見ていてかっこいいと思っていました。
身近にあって、みんなが踊っているもの。
他所から言われて初めて、特殊なものなんだと気づいた」と語る八田さんだが、
しかし「このままではかんこ踊りが無くなると思った。
無くしたら猟師町が猟師町じゃなくなると感じた」と、
19歳のときに形骸化していた保存会を復活させた。
「みんな三重のなかでも、うちのかんこが一番やと思っていますよ。
誇りがある。だからこんなにひとが集まるし、かっこ悪いこともできない」

顔にさらしを巻いていく。子どものうちはひとに巻いてもらうが、慣れると自分でも巻けるようになる。

猟師町、佐八町、円座町……、まちごとに伝わるかんこ踊り。

現在行われているかんこ踊りでも、その長い歴史において、
一度途絶えてしまったものを復活させたというまちも多い。
そんななか、「終戦の年に1回休んだだけ」という強者のまちもある。
伊勢市佐八(そうち)町のかんこ踊り。
ここでは500年ほど前から伝承されている。
500年間ほぼ休まず、お盆にかんこが踊られてきた。

中央にたいまつが焚かれ、それを囲うように10数人〜20人程度の列が入場してくる。
通常の盆踊りに近いような陣形だが、姿形はこれまた異形。
馬のしっぽでつくられた「しゃぐま」を頭にかぶり、
垂れ下がった毛で顔を隠す。そして腰蓑を装着。もちろん胸には羯鼓だ。
写真だけみたら、ハワイか何処か南国の民族ダンスと間違えるかもしれないが、
ここは三重県の山のなか。
羯鼓を叩きながらクルクルと回るので、そのたびに腰蓑がスカートのようにフワッと開く。
踊っているのは25歳までの男性。
運営自体も小学校4年生から42歳の厄年までの男性に限られている。
着流しの音頭が数人ごとのユニットとなって歌い、
和太鼓や法螺貝なども鳴り、大変にぎやかだ。

およそ日本とは思えない衣装だが、これもルーツ・オブ・日本。

「佐八では、昔日本にたどりついた韃靼人が故郷を偲んで始めたとも伝えられています。
大火、大病をおさえるためとも言われています。
しかし実際のところは、記録が無いのでわかりません」と、
佐八町・前区長の小坂正通さん。

顔を隠すことの本当の意味はもはや知ることはできないが、
かつては外に広めてはいけないものだったということも関係しているかもしれない。
佐八町でも、踊っていいのは長男のみという一子相伝。
次男などが踊りをマスターしてしまうと、
将来、まちから出ていって踊りが漏れてしまうからだ。
「昔は、盗まれるといけないから、踊りの稽古も山で隠れてやっていましたよ」
というエピソードもあるくらい、厳重そのもの。

「もう、こわくてやめられない」なんて小坂さんは笑うが、
それもあながち冗談ではないだろう。
500年も踊られてきた伝統行事を、何の権利でやめることができようか。
「誰かが率先しているものは、
そのひとがやらなくなったりすると途絶えてしまうと思います。
しかし佐八では誰が中心ということなく、みんながやるという伝統で、
システムができ上がっています。
長男に生まれたからには踊らなければならないし、
次男なども火の番や受付など、さまざまな仕事をしています」
と小坂さんが言うように、何も疑問はなく、自然に行われていることなのだ。
これは松阪の猟師町にも共通して感じることだ。
伝統とは、意気込まず、自然に行われていることの繰り返しなのかもしれない。

4人一組になって歌う音頭。着流しで粋なスタイル。

猟師町、佐八町、円座町のいずれのかんこ踊りも三重県の無形文化財に登録されているが、
“無形”だけに、書面などの記録に残された伝承ではない。
だから起源も曖昧だし、音頭、踊りともに、失われてしまったものも多く、
それを取り戻すことはできない。
だから今重要なのは、現状のものを途絶えさせることなく、伝えていくこと。
その試みに大切なのは、誰かが上から仕組みをつくるのではなく、
地域から生まれる小さな力。
面白いことに、どちらも他の地域のかんこ踊りに詳しくない。
というより、ほとんど興味を持っていない。
「お盆に旅行なんて行ったことない」と猟師町の八田さんが笑う。
お盆は他のまちになんて行かない。我がまちのかんこ踊りに全力なのだ。

猟師町。

猟師町。

猟師町。

猟師町。

佐八町。

佐八町。

円座町。

円座町。

円座町。

猟師町のかんこ踊りが踊られる海念寺。

猟師かんこ踊り保存会会長の八田謙介さん。

最「幸」級の南魚沼産コシヒカリ収穫!

10月10日新米解禁!

とうとうこの季節がやって参りました!
日本人のみなさま、
私たちのDNAに深く刻まれているお米への愛情を思いっきり開放してください!

今年も無事に新米が収穫され、めでたく発売となりました!
毎年のことですが、この感動は何度味わっても格別です!

今年のお米の出来は、
昨年よりも収穫量は減りましたが、(とはいうものの昨年が豊作だったため、例年並みです)
食味は上がりました!
なんと無農薬栽培米は食味値89。
ちなみに昨年は86。
食味値とはアミロース、たんぱく質、水分、脂肪酸化度の成分量のバランスで、評価されます。
ひとつの基準値なので、
高いからといって100人中100人が美味しいと感じるわけではありませんが、
平均60~65という中で89は良い数値なのでテンションが上がりました!
しかし、農家山本は浮かれる僕を横目に
「あくまでも参考的な数値だからあんまり気にならないよ」とクールな様子。流石です。
でも、89は魚沼で見てもいい数値なんですよ!

実際に試食した感想としましては、
減農薬米のレベルが上がってました!
昨年までのものよりも甘みが強くなり、香りも良い。
ツヤツヤのモチモチ感は無農薬栽培米には勝りませんが、
風味は無農薬栽培米に近づいているように感じました。
硬めが好きな自分にはちょうど良いバランスです。
今年は減農薬栽培の水の管理や堆肥の使い方にひと手間掛けたようです。
山本いわく「それが当たったのかな」とのこと。

無農薬栽培米は、相変わらずみずみずしく、ツヤツヤモチモチで甘みと香りが強く、
MAXハイテンション!
ともに試食をした山本の次男坊も白米だけで2膳を完食。
4歳児がおかずなしでモリモリ食べちゃうくらいの美味しさですからね、
間違いないです!

もちろん今年も放射能測定を致しました。
今年は自主的に昨年よりも測定下限値が厳しい検査機関へ。
結果は、下限値未満で検出なし!
安心しました。
詳しくはコチラをご覧ください。
廣新米穀ホームページ「24年産 放射能測定結果報告書」
http://www.wanderingvillage.com/2012/2149.html

何はともあれ、無事に収穫できて何より。
今年も山本がいい仕事をしてくれました。お疲れさま!!!

さぁ、ここからが僕の仕事!

みなさん、一番美味しい新米の時期に、
最「幸」級の南魚沼産コシヒカリをぜひ召し上がってみてください☆

大南信也さん

ちゃんと地域に“イン”するということ。

地方部の人口減少が叫ばれるなか、増加に転じたまちがある。
徳島駅から車で40分ほどの山間部にある人口6300人のまち、徳島県神山町。
ここ神山は2011年度、転出者が139人に対し転入者が150人と、
町の制定以来初めて転出者が転入者を上回った。
こうして注目される神山の陰に、NPO法人グリーンバレーの姿がある。
神山への移住を希望する人を支援し、地域としっかりつなぐことが彼らの仕事。
神山に数多くある古い空き家を、グリーンバレーが移住希望者に紹介し、
安値で住居やオフィス、アトリエとして使ってもらう。
そのグリーンバレーを立ち上げたのが、理事長として神山で日々奔走する大南信也さんだ。

神山が注目される理由は、移住希望者と神山のユニークなマッチング方法にもある。
「特定の物件についてですが、将来まちにとって必要な働き手を呼び込むために、
“逆指名権”をグリーンバレーが持ちます。
例えば、“神山でIT企業を起こしませんか?”“パン屋を開業する人はいませんか?”と、
特定の職種を逆指名するんです」と大南さん。
それが「ワーク・イン・レジデンス」という規格。
仕事を神山で探すのではなく、
既にスキルを持った人が仕事ごと神山にやってくるというイメージだ。
田舎暮らしに憧れて、という理由で移住する人ばかりでは、
持続可能な地域を築くことは難しいと考える大南さんたちグリーンバレーが、
ちゃんと若い人たちに定住してもらうには、と思案した上での「逆指名権」だった。
行政では決してできない「逆指名権」をNPOであるグリーンバレーが有することで、
窯焼きのパン屋、IT企業のサテライトオフィスや研修施設、
特産である梅を使った料理が自慢のカフェなどの誘致に成功し、
2008年以降約70人が移り住んだ。
爆発的に増えることはないが緩やかに右肩上がりに伸びていく移住者数。
順調に政策が進んだ理由について大南さんは、
「1999年から始めた“アーティスト・イン・レジデンス”のノウハウがあったことが、
“ワーク・イン・レジデンス”の導入にうまくつながったんです」と言う。

神山で生まれた大南さんは、高校で徳島市内、大学で東京、
大学院ではアメリカへ渡ったことで、「神山を客観的にみる機会が多かった」と話す。
スタンフォード大学大学院を修了後、故郷神山で家業の土木建設業を引き継ぎ、
その仕事の傍ら神山の国際交流事業に携わる。
「戦前にアメリカから神山の小学校に送られた
青い目の人形の『アリス』を送り主に届ける、いわゆる“里帰り”させたのがきっかけで、
神山は世界に目を向けた地域づくりに舵をきり、
神山町国際交流協会が発足します。これがグリーンバレーの前身です」
神山を真の国際文化村に。大南さんはアートを基軸にした神山イノベーションに乗り出す。
1992年のことだった。なぜアートだったのか?
「補助金などの支援策で人をまちに呼び込もうとすると失敗してしまうでしょう。
なぜなら、移住希望者は各自治体で提示される“条件”で選んでしまうから。
条件に惹かれて移住してきたとしても、
それがまちの力になるかといったらそうではない。
“まちの空気が好き”“まちと相性がいい”と言ってもらえるような
まちの雰囲気づくりが大切。アートはその雰囲気づくりの力を持っていると思いました」
もちろん大南さんも町民もアート作品を評価する専門家ではない。
だから必然的にアートそのものではなく、
遠く海を越えてでも神山で活動をしたいという高い志を持つアーティストたちに期待を込める。
「アート作品の金銭的価値を高めるのではなく、
神山で活動するアーティスト自身の価値を高めることを神山ではやっていきたい」
と大南さんは力強く話す。
やってくるアーティストにも、ちゃんと神山に“イン”することを求める。
地域と真剣に向き合い、神山に新しい価値をもたらしてくれる。
そんなアーティストを神山は求めている。

こうしてアーティスト・イン・レジデンスが始まった1999年以降、
毎年8月から3か月間、日本国内や海外から3名のアーティストが神山町に滞在している。
作品を制作し、11月初旬に展覧会を開催。
もちろんプログラムが終わったあとも希望すれば神山に住み続けられる。
応募者の8割が欧米を中心とした海外からなのだという。
こうしてアーティスト・イン・レジデンスを成功させ、
神山に外から人を受け入れるという気風と体制をつくった功績が町から認められ、
グリーンバレーは移住政策も受託することとなった。

プラスの落差が神山の魅力。

どんなに安く家やオフィスが借りられるとは言え、
それだけでは神山に移住したいという理由には直結しづらい。
それでもIT企業などからの熱視線が集まるのにはわけがある。
「ネットインフラは万全の状態で整えています。
神山では、全世帯高速光通信が使用でき、しかも都会みたいに回線が混雑することもない。
“こんな山のなかで光通信が使えるの!?” というプラスの意外性は感動につながるんです」
実は徳島県は2011年のケーブルテレビの普及率が
全国No.1というネットワーク王国の一面がある。
そのプラスの落差が神山の魅力でもあるのだ。

“落差”というところでもうひとつ話題にあがったのが、
神山の地域情報ウェブサイトの「イン神山」。
「イン神山のウェブサイトは、“デザインしすぎない”というのがコンセプトです。
ウェブデザインを依頼したリビングワールドの西村佳哲さんの
“イン神山のデザインモチーフはグリーンバレーの人たちそのもの”
という考え方がベースとなっています」
それでも神山で暮らす人々の健やかさを前面に出して
ウェブ上でそのままの姿を見せることにした。
その理由は、実際に神山に入ってきた人が、
ウェブで見た神山の様子との落差を感じてしまうからだと言う。
「イン神山は、“小窓”。神山に住んでいる人それぞれの生活が、
“小窓”を通してちらりちらりと見えるような感じです。
神山で生活している人の様子がここで見られるから、
実際に神山を見た感じとの落差がなく、見たままの神山を受け入れることができる。
だから、飾り立てする必要がないんです」

この“デザインしすぎない”という難しいウェブサイトの企画制作を手がけたのが、
西村佳哲さんや、トム・ヴィンセントさんだった。
彼らのアイデアやアドバイスを組み込んでできたサイトは、
グリーンバレーのスタッフによって毎日更新され、随所に人のぬくもりを感じる。
県外向けに特別なチラシもつくらない。海外向けの英語のパンフレットもつくらない。
神山の情報をぎゅっと集約させた「イン神山」が、
一番神山を知るのに最適なツールとなったのだ。

「世界の神山・アクセスログ」では、イン神山のサイトへの世界各地からの最新のアクセス状況を公開。国内からのアクセスだけでなく、海外からのアクセスも多いことが一目瞭然。

これから公募を始めるという古民家を見せてもらった。
ひと家族で住まうには充分すぎる広さ。使われ方はまだ構想中なのだと言う。
「過疎化、少子高齢化、経済の活性化という
地域の課題を解決できるような人に来てもらえれば」と大南さん。
これからこの家で、どんなファミリーがどんな将来設計を描き、
どう神山の人に迎えられるかが楽しみだ。

お遍路さんへのお接待文化の息づく神山町。昔から、よそから来た人でも抵抗なく受け入れる気質がある。

東京に本社がある株式会社ソノリテのサテライトオフィス。大きな窓からは陽がさんさんと降り注ぎ、目の前には畑も。

「神山の歌姫」こと宮城 愛さんは神山育ちでご両親が移住組。普段はこの長屋でセレクトショップを構える。

まちの中心地からもほど近い場所にある、現在空き家の蔵つき古民家。新たな移住者を迎える準備は着々と進んでいる。

三陸映画祭 in 気仙沼

気仙沼で映画祭が行われる“希望”を、園子温が語る。

10月5〜7日にかけて、三陸映画祭が宮城県気仙沼市で行われた。
気仙沼のカフェやバー、コミュニティスペースなど、
津波に堪え、残っている建物12か所が会場だ。
一番大きい市民会館こそ1000人規模の会場だが、
他はすべて30〜40人程度の小さな会場ばかり。
座布団の上でお茶を飲みながら“寅さん”を観たりと、
のんびりとした雰囲気が漂う会場もあった。

東北が舞台となっている『男はつらいよ』を上映。寅さんのイメージキャラクターもサマになっています。

「映画はもちろん楽しく観て欲しいですけど、気仙沼を始め、
とにかく被災地は情報を発信し続けなくてはならない。
そうすることで、何かにつながる。
気仙沼という名前が出ることに意義があります」と話すのは、
実行委員のひとり、伊藤雄一郎さん。
メディアに出る機会が減っていくなかで、私たちを忘れるなという願い。
また、どうしても仮設住宅などに引きこもりがちになってしまうという市民に、
何かの目的を持ってまちへ出てきやすい仕掛けもつくり続けないといけない。
映画祭と銘打ってアピールし、県外などからもたくさんひとが訪れたが、
地元のひとの交流にも一役買うことになるのだ。

市民会館に飾ってあったのは流されてしまった大漁旗を洗ったもの。小さな布にメッセージを書き込んで、思いを縫いつける。

三陸映画祭では何人もの有名な映画監督が訪れ映画を公開したが、
なかでもひとつの話題作がジャパンプレミアとして初公開された。
『希望の国』。園子温監督が気仙沼をロケ地のひとつとした原発を巡る物語だ。

舞台挨拶直前、「だんだん緊張してきた」という園監督。

園監督は、釜山国際映画祭からその足で舞台挨拶のために気仙沼を訪れた。
映画の内容としても、
気仙沼という地で舞台挨拶の直前に受けるインタビューという意味でも、
緊張感のある、神妙な面持ちであった。

「すぐに映画を撮らないといけないと思って、
昨年の夏には取材を始めていました。
風化する前に、急いで公開しないといけない。
日本映画がだまっててはイカンと思って」と語る園監督。

気仙沼など、本当の被災地がロケ地として使われたことで、当然批判もあった。
「今日、ここに来るまでの間も、もうあの頃の風景ではありません。
撮影しているときも、日々、変わっていくまちを目の当たりにしていました。
だからこそ、記録に残そう、歴史に刻もうと自分を奮い立たせて
撮影に臨んでいました」と、撮影時にはかなり葛藤があったようだ。

(C) 2012 The Land of Hope Film Partners

『希望の国』をどのような気持ちで見ればいいのか、
複雑な感情が生まれてくる。
ただわかることは、被災者とそうでないひとを分ける映画ではないということ。
「東京から気仙沼に来ると、自分は被災者ではないような気がする。
でも東京でも放射線が検出されることもある。
だから被災者なのか、そうではないのか、というのは
角度によっていくらでも変わるものなんです。
これは取材をしていたときの僕の素直な気持ち。
両方の気分が行ったり来たりします。日本は小さな国なんだし、
そういうことはもうそろそろ言わなくてもいいんじゃないかな」

気仙沼がロケ地となったカット。(C) 2012 The Land of Hope Film Partners

すべての日本国民にそんな思いを喚起させたい。だから映画を撮る。
「すでにここで取材を受けている時点で映画を制作した意味があります。
何か一歩踏み出せば、それなりに反響が起きる。そして何かを変えていく。
それを信じられなかったら、映画をやっている意味がありません。
この映画を撮ったことで、自分が映画監督であることを誇りに感じています。
でもなんで僕なんでしょうね。
あの監督やこの監督が撮っても良さそうなのに(笑)」

マルト齊藤茶舗は、明治30年創業のお茶屋さん。全壊状態だったが、ボランティアと店主の手で修復された。こんなところも会場に。

このインタビューの直後には、舞台挨拶に立つことになる。
被災地で映画を観終えた観客が待っている。これはかなりの緊張感だろう。
「正直、気分は良くないですよ(苦笑)。
“みなさん、今日は楽しんでもらえましたか?”
なんて言える作品じゃないですからね。でも観てもらわないといけない。
すごく覚悟を決めて舞台に立たなければなりません。
ただ、こんな覚悟を決めなければならない映画を撮れて良かったとも思います。
自分にとっても一歩前進しました」

撮影時にフィルムコミッションのスタッフからもらったという、気仙沼のゆるキャラ「ホヤぼーや」ジャケットを着て登壇。

最後に『希望の国』というタイトルの話。
皮肉のようにも取れるし、ストレートな気持ちのようにも思える。
「最初は皮肉のつもりだったんですけど、
でもだんだんそんなこともないかなと。
今年の初日の出を福島県の南相馬町で見たんです。
かつて凶暴だった海が静かに広がっていて、
徐々に上ってくる初日の出が海を赤く染めていく。
その太陽があまりにも輝いていて、
今までの人生でもっとも美しい初日の出でした。
それを見た瞬間に、何の理屈もなく直感的に、
この国は希望の国であると確信しました」

園監督は、3.11をテーマした映画をこれからも撮り続ける。
「やめられなくなってしまった」という。
今作のラストシーンは、衝撃をもたらすものだったが、
時間とともに変化していく園監督の心情を
これから公開されるであろう映画で追っていきたい。

みなみまちcadoccoは、ドラえもんやポケモンなど、子どもたち向けのコンテンツで賑わっていた。

このように大物監督から子ども向けのアニメ映画まで、
幅広い映画を放映した三陸映画祭。
でもなぜ「気仙沼映画祭」ではないのか? 実行委員の伊藤さんはこう話す。
「三陸全体で盛り上げていきたいんです。
だから来年は可能なら、石巻、南三陸、陸前高田とか、
ほかの場所で三陸映画祭をやりたい」
さて、来年はどちらのまちで映画を観ましょうか。

鹿折地区の復幸マルシェでは、プレゼント争奪じゃんけん大会が開催。ストライダーやゲームソフトが景品だ。

STUDY グリーン熱証書

自然エネルギーの熱利用の経済的なインセンティブを与える仕組み。

日本国内の自然エネルギーによる発電の普及のための民間レベルの仕組みとして
10年ほど前から発展を遂げてきたグリーン電力証書を以前ご紹介しました。
同様に、自然エネルギーによる熱利用の普及のため、
数年前から新たに始まった制度が「グリーン熱証書」です。
太陽熱やバイオマス、雪氷熱などの自然エネルギー由来の熱の持つ環境価値を
証書化するグリーン熱証書制度は世界的にみても実施例は少なく、
日本でも制度化の検討が開始されたのは5年ほど前です。
グリーン電力証書の認証を行っているグリーンエネルギー認証センターは、
当初からグリーン熱証書の制度化を視野にいれて検討を行ってきていました。
2009年度からは、太陽熱を対象としたグリーン熱の認証基準が整備され、
設備認定が始まりました。
東京都は住宅用の太陽熱利用機器の普及への補助制度として、
グリーン熱証書の活用を前提とした制度をこのときスタートしています。
2010年にはマンションに設置された太陽熱利用システムの設備認定が行われ、
日本初のグリーン熱証書が発行されました。
木質バイオマスや雪氷熱など国内で普及が期待されるほかのグリーン熱については、
2011年に木質バイオマスと雪氷熱が制度化されています。
木質バイオマスについては、木質バイオマスによる温水利用、
そしてコジェネレーション(熱電併給)の場合の木質バイオマスの蒸気利用に対して
グリーン熱の認証が行われました。
雪氷熱に対しては、冬に積雪した雪を貯蔵して、
夏の冷房にその冷熱を冷水として利用する方式の認証が行われています。
技術的な課題として熱量測定があり、計量法に基づく厳密な熱量計測が求められる中、
熱量計測のコスト低減が求められています。
自然エネルギーによる発電については2012年7月からスタートした固定価格買取制度により、
経済的なインセンティブや事業性が確保され、今後の導入の加速が期待されています。
一方、自然エネルギーの熱利用については、化石燃料の高騰に伴い、
太陽熱や木質バイオマスなど少しずつ注目されていますが、
本格的な普及には程遠い状況が続いています。
グリーン熱証書は、そのような状況の中で、
自然エネルギーの熱利用の経済的なインセンティブを与える仕組みとなっており、
民間レベルの自然エネルギー熱利用の普及制度として期待されています。

グリーン熱証書の仕組み(出典:エナジーグリーン株式会社資料)

TOPIC 東総台地風力発電所群

一大風力発電所群の影響と課題。

前回は、標高1,000mの高原にある大規模風力発電所を紹介しました。
今回は、海に近い台地に建設された、風力発電所群を紹介します。

千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、
東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。
関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、
1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、
旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、
過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。
車で成田空港方面から国道296号線を東進し、
さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、
まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。
そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、
丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、
海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基)と
銚子屏風ヶ浦風力発電所(1,500kW×1基)も見えてきます。
そして126号線を外れて東総広域農道へ入ると、右も左も風車だらけの風景になります。
この広域農道を東進した終点付近に、域内最大の風力発電所である
銚子風力発電所(1,500kW×9基)が道路を囲むように建っています。
さらにこの風力発電所群の北にも、椎柴風力発電所(1,990kW×5基)や
銚子ウィンドファーム(1,500kW×7基)があり、一大風力発電所群となっているのです。
 

前回紹介した郡山布引高原風力発電所は人里離れた山奥にありましたが、
こちらは台地の畑の中とはいえ、国道が走り、
車も人も行き交う農道や生活道路が何本も走る中に建っています。
国道を走っていると突如として現れる風車の群れという景色は、
初めて訪れる人を驚かせるものでしょう。
風車の近くに行ってみると、本当に畑の一部の区画が切り取られてフェンスで囲われ、
風車と付帯設備がこぢんまりと建てられています。
風力発電機はこんなに小さなスペースで建てられるのかという驚きと、
こんな場所に建てることができてしまうのだという二つの驚きが得られます。 
畑の中に風力発電機が立ち並ぶ景色というのは、ヨーロッパを思い起こさせる風景ではあります。
一方で、人口密度の高い日本において
このような建て方はありなのだろうかという疑問も抱かれます。
特に、銚子市内の風車はどれも1,000kW以上の大型風車で、
それが林立する様は景観にも大きな変化をもたらしたことでしょう。
また、さまざまな事業者が建設したため、
全体の配置などに統一感がなく、雑多な印象も受けます。
風力発電所が地域に与えるさまざまな影響を考えるにあたって、
この東総台地風力発電所群は重要な示唆を与える事例といえるでしょう。

田園風景の中に建つ風車。

道路のすぐそばにも風車が。

域内最大の銚子風力発電所。

深夜の行軍

コイケさんとのーちゃんとの食事会。

突然降ってわいたように長い距離を歩きたくなることがある。
20代の終わり、吉祥寺に住んでいた頃に吉祥寺から新宿まで歩いた。
7年前には市ヶ谷から中目黒まで歩いて帰ったこともある。
深夜、遊びに行った黒住光の部屋で一緒にDVDを見ていたら、
黒住が本格的にいびきをかいて寝はじめた。
それほど見たい映画でもなかったので、黒住を起こさず部屋を出たのだった。
この2回の深夜の行軍に共通しているのが、ともに月夜だったということ。

まさか岡山で終電に乗り遅れるなんて思いもしなかった。
午前0時20分。駅を出たところでタクシーはいくらでもいたが、
なんとはなしに歩き始めた。
しばらく歩くと、こころもち汗ばんだカラダに風はひんやりとして心地よかった。
なにより10月の月の明るいこと。
秋の澄んだ夜気と冴えわたるような月が呼び水となって、
ぼくは完全に夜の行軍モードに入っていた。
でも、実はそうやって気持ちよく歩けるのはせいぜい最初の1時間なのだ。
前の2回もそうだった。
とくに市ヶ谷から歩いて帰ったときは、表参道あたりで脚が重くなって、
でも「ここまで歩いたんだから」と無意味な意地をはり、
渋谷あたりからは歯をくいしばって歩いたのをよく憶えている。
さて、今回も意地をはるのか? 
はたまた、体力の衰えを認めてタクシーを拾うのか? 
分水嶺の国道2号線バイパス妹尾西交差点、時刻は午前1時半。
ぼくは、ちょっと遠回りだけどタクシーを拾えるかもしれない県道ではなく、
トラックが時速100キロで行き交う最短ルートのバイパスに足を踏み出した。

マチスタの営業がスタートして半年。
コイケさんとのーちゃんと3人でまともに食事をするのはそれが初めてだった。
のーちゃんがセレクトしたのは西川緑道沿いに新しくできた創作料理の店。
食事会は8時半にスタートした。
とりあえず、「おつかれさま」の乾杯。
その後、会話のネタはその場で出される料理、ほとんどそれのみだった。
細かなジャブも一切なし。潔癖なまでに誰もマチスタのことに触れようとしない。
話すべきことがまったく遡上に上がらないまま、
コイケさんは若干お眠のモードに入っているような。
これじゃいかんと、「最近のマチスタはどうですか?」と
向かうべきところに話の矛先を向けたのは10時も過ぎていた。
しかし、ぼくもコイケさんものーちゃんも、いったん店の話を始めると、
思っていることをわりとストレートに口にした。

断言しよう、バイパスというのは人が歩くようにできていない。
苦行のようだった。街灯の類は一切ないし、
1メートルぐらいのすれすれのところを
時速100キロ以上の猛スピードで車が走って行くし、
何年前に枯れたのかわからないような枯れ草がごっそり歩道にもたれかかっているし、
突然変な方向に歩道が逸れていたりするし。
当然、すれ違う人はいないと思いきや、
一度、さっそうと歩く男性とすれ違って思わず声をあげそうになった。
道は延々とのぼり坂が続いていた。脚はまさに鉛のようで、
一歩前に出すごとにその重みを感じていた。
普段車で走っているときは、ホントあっという間に越えてしまって、
それが山であることも認識できないほどなのに、
その夜はぼくの前に立ちふさがっておわせられた。

お互いの間に結構な溝をつくってしまったようだった。
誰が悪いって、ぼくが悪い。
5月の連休以降、仕事の忙しさや体調の悪さにかまけて、
マチスタにほとんど顔を出していなかったのだから。
それだけじゃなく、コイケさんとのーちゃんの提案をむげに却下したこともある。
そんなことも何度かあり、「どうせ言っても無駄」という雰囲気をつくってしまったらしい。
もちろん、ぼくなりに考えあってのことだったんだけど、
それを理解してもらうように努力しなきゃいけなかった。
しかし、その夜も話題になった営業時間については、
「そのまま後ろに数時間スライドさせた方がいい」という
コイケさんとのーちゃんの意見は受け入れなかった。
枝葉の部分は積極的に変えていいと思っているけど、
幹の部分は動かしたくない。と、そんなこんなのやりとりをしていると
時間が過ぎるのも早い。あっという間に12時近くになった。
ぼくたち3人は店の前で別れ、ぼくはそのまま歩いて駅に向かった。

早島のアパートに到着したのは午前2時50分。
途中、何度も両のふくらはぎがつりそうになった。カラダはもう限界だった。
約2時間半の行軍の間、ぼくはマチスタのことだけを考えていた。
どうやったら彼らとの間にできた溝を埋め、
さらに高いモチベーションで店を運営してもらうことができるか。
普段、そんなふうにひとつ考えに集中することもないので、
カラダは疲れきっていても、脳は変な具合に覚醒していた。
(さて、今晩は眠れんかもしれん。)
そんなことも思ったりしたのだが、布団に入ったが最後、2秒で眠りについたのだった。

10月21日の日曜日、2度目となる出張マチスタやります。場所は岡山サウスヴィレッジ(南区片岡)。午前11時から午後4時までの5時間。ヒトミちゃんとぼくがコーヒーを淹れます。このポスターが目印です。

『BRUTUS』最新号のコーヒー特集で、福岡と岡山のコーヒー事情を書かせてもらっています。紹介したお店に記事を見てお客さんが来てくれたら嬉しい。取材にご協力いただいた福岡・岡山のみなさん、どうもありがとう!

女川サンマ漁・水産加工業が歩む、復“幸”への道

サンマを中心とした水産加工でまちづくり。

ほとんどの建物を失った女川のまちのなかで、早朝の魚市場は活気が渦巻いている。
サンマのシーズンということもあり、3隻の大型漁船からサンマが水揚げされている。
それぞれ100トン程度、合計300トン以上のサンマが女川から全国に旅立つ。
しかし震災前は最大で1000トンものサンマが女川で水揚げされており、
やっと3分の1程度まで持ち直してきたところだ。

「本当はまだ200トンがくらいが限界なんですけど、
正直、他の東北の港もパンク寸前なんです。
だから女川でももう少し受け入れないと。
今日だけで、北海道から女川までの漁港で約7000トンもの水揚げがありますから」
と話してくれたのは、女川で廻船問屋「青木や」を営む青木久幸さん。
港自体の復興が間に合っていないので、
物理的にもたくさんの漁船を受け入れることはできない。
さらに、港の周囲で壊滅的なダメージを受けた水産加工業者は、
ほとんど手付かず状態。
「今までは水揚げしたさんまを各地に発送する以外にも、
いろいろな方法で処理していました。
冷凍保存、二次加工、他の魚の餌、圧縮して肥料など。
しかし今、地場でのこのような処理は、まだかつての10分の1程度しかできていません」
と青木さんは言う。

漁船は、どの港に水揚げしてもいいので、たとえ水揚げ量が増えたしても、
港周辺の水産業全般が盛り上がらないと
本質的な意味での復興への道とは言い難いのだ。
やはり復興予算などは一次産業に優先的に使われていく。
それは仕方がないのだが、それでは受け入れ側の態勢が整っていかない。

大きな被害を受けた女川魚市場周辺の水産加工業のなかで、
「マルキチ阿部商店」の工場も流されてしまった。
現在は少し離れた場所に仮工場を借りて経営している。
現在の主力商品はオリジナル商品の「リアスの詩(うた)」というさんまの昆布巻き。
このあたりに伝わる郷土料理のようなものだ。
今の仮工場では、これしかつくれないという。

廻船問屋「青木や」の青木久幸さん(左)と「マルキチ阿部商店」の阿部淳さん(右)。

女川魚市場周辺にあった水産加工業者の多くは、辞めてしまったり、
石巻や仙台など他の地域に移転してしまい、女川に残っているひとは数少ない。
「せっかくの技術力がもったいない。
サンマの切り身ひとつにしても、それぞれのノウハウを持っているはず。
こんなときこそ、みなさんの持てる力を結集して、
まちの財産としていきたいんです」と、
阿部さんは水産のまちとして、その技術を用いたまちおこしをイメージしている。

そこで阿部さんや青木さんをはじめ、町内のさまざまな職種の若手たちが、
「復幸まちづくり女川」という合同会社を立ち上げ、
女川水産業のブランディングに乗り出した。
前出の「リアスの詩」のように、
女川の新鮮な魚とすぐれた技術力を駆使してつくられている水産加工品はたくさんある。
そのなかから20品目ほどを取り扱い、月3000円程度の定期購買などを予定している。

「なるべく一般のひとの意見を取り入れて、巻き込んでいきたい。
本当は、土地の造成などが終わったあとに場所をつくって、と、
しっかりやりたいんですけど、それでは何年かかるかわからないので、
とにかく事業を立ち上げようと思いました」
という青木さん。このままの女川ではマズイという危機感から、
スピードと熱のこもったものになった。
食べておいしいと思ってもらうこと、これが最大の宣伝効果だ。
そのためにまずは女川の水産加工品を広める活動をしていく

そんな女川PR業務の一環として、
おながわ秋刀魚収穫祭」のホームページをプロデュースした。
これは慶応義塾大学の学生たちと共同で立ち上げられた。
たんなる収穫祭の情報だけでなく、
メディアとして継続するようなコンテンツが読みごたえアリ。
「女川なう。」や「女川絶景」など、
水産以外にも女川のことを知ることができるサイトだ。

さんまを食べることが、最大の復興のお手伝い。

「女川には高校がなくなってしまったので、
しばらくは必然的に外に出ていってしまうと思うんです。
そういうひとたちが、大人になって戻ってこられるようなまちにしたい」
と話す青木さん。
「ただでさえ人口流出が問題だった土地なのに、震災の被害も甚大だし、
戻って来ないつもりのひとも多いと思います。
自分も、別のまちでも同じ仕事はできるので出ていけばいいと言われるけど、
そこは意地ですよね」と阿部さんも決意を新たにする。
こうした復興には「企業によるスピード感のある復興」の必要性を語る阿部さん。
企業が成長して、雇用を生み、水産加工品がもっと全国へと流通するようになる。
「復幸まちづくり女川」がそれを目指す。
もともと右肩上がりの産業ではないだけに、
元通り以上の復興を目指していかないと、女川の未来は震災前と変わらないのだ。

そして女川が活性化するにはサンマを食べてくれるのが一番だと、
女川魚市場で働くひとは口を揃える。

ということで、ここまで読んできて、
どうしてもおいしいサンマが食べたくなってしまったひとに朗報。
10月20日に、「おながわ秋刀魚収穫祭」が東京の日比谷公園で行われる。
女川では毎年行われている収穫祭の出張バージョンだ。
10トンのサンマを無料配布してくれる。数にすると、なんと約6万匹!

「今回の秋刀魚収穫祭に関しては、女川をアピールするつもりではありません。
全国に先駆けて10万トンのがれきを受け入れてくれた東京都に対して
本当に感謝しています。そのお礼なんです」と話してくれたのは、
主催者である女川魚市場買受人協同組合の高橋孝信理事長。
復興に関しても「ボランティアにもたくさん来てもらったし、
義援金もいただきました。それはとても感謝していますが、
本当の復興を支えてくれるには、サンマをはじめ、
たくさん魚を食べてもらうことです。それが一番うれしい」と、高橋理事長。

日比谷公園では、焼きサンマ、生サンマ、女川汁(すり身汁)などが
無料で配布される。もう、この秋、サンマを食べてしまったというひとも、
「おながわ秋刀魚収穫祭in日比谷公園」でもう一匹、いや二匹! サンマをどうぞ。

Information


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おながわ秋刀魚収穫祭

日程 2012年10月20日(土)
時間 10:00〜
場所 日比谷公園
http://onagawa-town.com/sanma/

Shop Information


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マルキチ阿部商店

住所 宮城県牡鹿郡女川町旭ケ丘1-14-8(仮住所)
TEL 0225-53-5432
http://www.kobumaki.jp/

タミゼ クロイソ

黒磯の文化を自然体の暮らしで継承する。

かつては、天皇陛下が御用邸へと向かう駅として賑わった黒磯駅。
そこから歩いてほどなく、古いガレージのような色あせた建物が現れる。
外から中をうかがい知ることはできないが、
建物の前にあるグリーンや薪の並べ方に洗練されたセンスを感じる。
ここは東京にも店舗を構える古道具店、タミゼの黒磯店。
そして店主の吉田昌太郎さんの住居も兼ねている。

吉田さんはもともと、このショップから数百メートル離れた場所で
生まれ育った黒磯ローカル。
昭和天皇が黒磯駅に降り立ち、それを歓迎する地元民。
そんな賑わいを子ども心に感じつつ、新幹線の駅が隣の那須塩原駅にできてからの
寂れていく過程も同時に見て育った。そこに一抹の寂しさを感じるのは当然だ。

かつては古い蔵などもたくさんあったのだが、
今、その多くは駐車場などに変わっている。
「駐車場なら儲かるだろうという安易な発想で
歴史のある建物が壊されてしまうのは、古道具屋としてはしのびない」
と言う店主の吉田昌太郎さんは、ひとつひとつにあったはずの歴史を思い、
「こういう建物を残すことも僕の役目のひとつ。ただ物を売るだけではなく、
まちの歴史や文化もともに助けていきたい」と言う。
確かに壊されてしまっては、歴史は語れない。

天井が高く、商品を見るにも気持ちがいい。むき出しの梁に歴史を感じる。

もともとこの建物は昭和初期に建てられ、タクシー会社の車庫と整備工場だった。
子どもの頃からこのタクシー会社の前を通っていたが、
古道具屋の視点でこの建物を意識し始めたのは10年ほど前から。
古いものを愛でる感覚は、お猪口だろうが、建物だろうが同じ。
その感性がたまたまこの建物を捉えた。
タクシー会社が30年以上前の家賃で借りたまま、ほとんど使われていなかったのだ。
「不動産屋さんがおじいちゃんだったため、
僕の活動を説明しても、いまいち理解してもらえなかったんです。
何度か交渉しても、面倒くさがって後回しにされていたんです。
あるときタクシー会社のオーナーが代わり、その新しいオーナーに相談したら、
使っていないので、ということで僕たちが使わせてもらうことになったんです。
3年越しで借りられるようになりました」と、黒磯出身の吉田さんでも、
地域に入っていくのに苦労があった。

店舗に入ると、天井が高く、大きな倉庫のよう。
空間を贅沢に使い、小物やインテリアなど、古道具が鎮座している。
ピクニック用のトートバッグ、別荘用の白ワインを入れるピッチャーや花瓶、
旅帰りに電車のなかで読む本や詩集など。
東京の店舗はもう少しマニアックな品揃えだが、
黒磯店では、立地や店舗自体の大きさを活かしたセレクトを提案している。
もの選びの視点は同じだが、より身近で手頃なものが多い。
「東京ではあり得ない、のびのび楽しいゆとりのある生活のため」と
吉田さんは表現する。

「観光案内所」と呼んでいる黒板には、吉田さんオススメの飲食店情報も。

スペースシャトルにも積み込まれたことのある「パン・アキモト」の缶詰は、オリジナルラベルで発売。

黒磯で楽しく暮らす意義とは?

ときに、吉田さんはこの店の前の木陰でバーベキューしたり、本を読んだり、
朝食を食べたり、コーヒーをフィルターで淹れたりしている。
「地元のひとからは“何してるんだ?”って感じで見られますね。
昔ながらの素敵なことを普通にやっているだけですが、
これは僕なりにまちのひとに刺激を与えているつもりです」
そういう楽しみ方を失ってしまっている。
地方都市は、車でコンビニに行って、アウトレットに行って、
パチンコ屋に行ってという生活になりがちだ。
「都会のひとのほうが趣味や生活を楽しむということに長けていますよね」と
吉田さんは自分の行動を通して、
豊かなライフスタイルや自然の使い方を感じてほしいと願う。

東京の店舗も、黒磯の店舗もどちらも運営しなくてはならない。
はじめは商売的なことよりも、別荘的な感覚だったという。
主な住まいは東京。恵比寿の店舗は火曜から日曜日にオープンしているが、
日曜日はアルバイトに任せ、
朝は蚤の市に仕入れに行き、13時には黒磯に来て店を開ける。
日曜・月曜と黒磯で過ごし、火曜日の午前中に東京に帰るという生活。
吉田さんの休みはナシになるが、黒磯ではある程度奥さんに店番を頼み、
フライフィッシングやジョギングなど、メリハリのある二重生活を送っている。
そして黒磯では自分たちで薪割りや、家のちょっとした大工仕事など、
“家事”が東京より多い。
暑ければ換気を施し、寒ければ熱を閉じこめる工夫をしなければならない。
すごく当たり前のこと。今年の夏も、窓をひとつ開けた。

自宅スペースは、白を基調に、窓も大きいので明るい。

冬は寒い那須、暖炉は必需品。

そんな住居スペースは、店舗と隣り合わせだが、
ガラスで仕切られているだけなので丸見えだ。
生活感を感じさせるコーディネートで、洗練された家具や食器が並ぶ様は、
タミゼの世界観を凝縮したモデルルームと言ってもいいかもしれない。
豊かな生活を提案するという基準で、使って楽しむこと。
「これらのお皿やナイフを使うことで、生活に潤いを与え、
歴史とか文化の楽しさや重さを感じてもらいたい。
そうすれば、料理がさらにおいしくなったりします」

自分の育ったまちの文化を残しながら、
しかも、より豊かなライフスタイルを提案する。
それは今は個人の暮らしぶりかもしれないけれど、
地元・黒磯に影響を与えるくらい愛情がたっぷりなのだ。

とくしまマルシェ

マルシェの、効能。

食欲の秋、豊穣の秋が到来!
週末ともなれば、全国津々浦々、産直市や青空マーケットなど
生産者と消費者を直接つなぐ、食のイベントが目白押し。
食いしん坊にはたまらないこのシーズンだが
徳島に、回を重ねるごとに集客が増えているという、話題の産直市がある。

それは、毎月最終日曜日に開催される「とくしまマルシェ」。
徳島経済研究所が、2010年12月からスタートさせた
「徳島の農業ビジネス活性化構想」のプロジェクトの一環だ。
市中心部にある新町川沿いのしんまちボードウォークに
白いパラソルが並び、フランスのマルシェ(市場)さながらの様子。
20回目を迎えた現在、毎回60店舗ほどが出店、
平均して1万人もの人びとが集まる人気イベントに成長した。

徳島市は市の面積の13.6%を川が占めている水の都。まるで、市民の心のオアシスのような場所が会場に選ばれた。

運営するのは、とくしまマルシェ事務局。
出店者の選定からイベント企画、マルシェ当日の監督、清掃、警備
ホームページ更新やネット販売、他社とのコラボレーション企画、
毎月の東京への出店など、常駐3名のスタッフで「なんでもござれ」。
「行政からの補助金に頼らずに事業でやっていく、と決めています。
立ち上げ時は1年だけ助成金はいただきましたけど」と
気骨のある声をあげるのは、事務局長の金森直人さん。
東京の大学を卒業後に徳島に戻り、しんまちボードウォークで
パラソルショップのプロデュースを成功させていた彼に、
マルシェの発起人、田村耕一さん(徳島経済研究所専務理事)が声をかけた。
「首都圏から有名人を呼んで人を集めるのではなく、
地域発信ならではのものにしたいと思いました。
企画の面白さで人に楽しんでもらえるマルシェをつくるのが目標」と力強く語る。

左からとくしまマルシェの東京進出プロデューサー、中西章文さん、発起人の田村耕一さん、事務局長の金森直人さん。中西さんと金森さんは毎月、とくしまマルシェの商品を車に乗せて東京へ運んでいる。撮影:在本彌生

そもそも、徳島県はれんこんやすだち、さつまいも
生しいたけなどの一大産地として知られており、
人口の多い近畿圏への野菜出荷量は、他県の群を抜き、農業は県の一大産業だ。
にもかかわらず、厚生労働省が2012年1月に発表した国民健康・栄養調査結果によると
徳島県の成人男性の1日当たりの野菜摂取量は
47都道府県中、最も少ないという残念な統計が発表されている。
さらには、人口10万人当たりの、糖尿病・肝臓疾患患者の死亡率が全国ナンバー1であり、
野菜摂取量の少なさを指摘する専門家もいるという。

なんという、矛盾。
徳島県人は阿波おどりの激しい練習のおかげで、
みんなスリムでヘルシーなわけではなかった。
奇しくも、お隣の香川県と並び、まちを見渡せば
安くて早い、スタンドうどんがすぐに見つかる。
お好み焼きやラーメン屋も多い「粉物」人気の食文化圏だけに、
金森さんらは県民がわざわざマルシェに足を運んで
スーパーマーケットに並んでいるものよりも高くつくこだわりの産品に、
お金を出す価値を見出してくれるかどうかを心配したという。

そこで、とくしまマルシェの特性を打ち出すために出店者を一般募集しないことにした。
自らが気になる農家へ出向いて話を聞き、
そして出店にふさわしいと納得できるところだけに依頼をした。
もちろん、販売という未知の体験に、出店を断るところもあった。
そこはやはり自分たちで選んだ生産者のこと、
マルシェのことをきちんと理解をしてもらうため、何度か足を運んだという。
そして、どのくらいの価格でどんな商品なら、消費者も値段に納得して買うか。
ノウハウの少ない人たちとともに、販売アイデアを考えた。
「徳島の本物の産品は県内には流通せず、他県に流出する一方。県民は徳島産品の美味しさを知らないことが残念で、徳島の美味しい農産物をみんなに味わってもらいたかったんです。そのために、まず、良質な地産地消の味を、地元に定着させることを目指しました」(金森さん)
安定した現在の来場者数を見ると、すでに答えは出ている。

また、ブランド戦略の一環として、各店舗の商品を並べるためのオリジナル木箱を配布し、
エコバッグやパンフレットなどもあわせて会場全体のデザインを統一。
川沿いの心地良い空間を演出することで、さまざまな年代の人たちが集まるようになった。
公式ホームページのほか、TwitterやfacebookなどのSNSも
積極的に取り入れ、動画サイトのUstreamに会場を中継した模様を
逐次アップして集客促進に励んでいる。

生産者と消費者が直接やりとりできる機会が定期的にもてるのが生産者側から見たマルシェの魅力。お客さんもじっくりと時間をかけて商品を選ぶ。この相互作用がマルシェそのものの質を高めていく。

子どもたちが農作物の植付けから収穫・加工・販売まで行なっているキッズファーマープロジェクトも、他の生産者に負けてはいられません。自分たちのつくったものを、自信を持ってアピール!

とくしまマルシェ、自慢の農産物がズラリ。もし、当日現地に行けなくても開催当日にマルシェから旬の野菜・フルーツを直送する「お届けマルシェ詰め合わせセット」(送料込みで3000円)もある。お申込みはホームページから。

とくしまマルシェに出店している、人気の生産者に話を聞いてみると、
口々に「お客さんとやりとりできる環境ができたのがいい」と言う。

「マルシェでは、他店の華やかな軒先に並べると、卵は見た目の変化に乏しい商品なので、
ちゃんと内容を説明しないと何がどういいのか伝わりません。
だから、毎回、伝え方を工夫しているんですよ」
と言うのは、コレステロール値の低いヘルシーな
白い黄身の卵「地米」がマルシェで話題となっている
「たむらのタマゴ」の二代目、田村桂樹さん。
地米のほか、黄身が黄色の「濃蜜」、オレンジがかった
「たむらのタマゴ」と
三種類の卵を割って展示し、餌によって黄身の色が違うのを説明。
鶏にストレスをかけない土地を選び、風通しのいい鶏舎をつくり、地元の米を使い、
EM菌を混ぜた独自の餌づくりについて説明するほか、
知るとなるほど納得するようなたまご豆知識のメモを毎回用意する。
なぜたむらのタマゴがスーパーで売っている卵に比べて
値が張るのかという理由を理解してもらうことがポイントだ。
「モノの良し悪しをどうわかってもらうかが重要です。
それを伝える努力をしないと、どんなにいいものと思ってつくっても、
人の手に渡らないから……。」と言う桂樹さん。
二代目の熱い思いはマルシェ出店によって少しずつ広がってきた。
「こちらが話せば、ちゃんとお客さんは聞いてくれます。
お陰さまで回を増すごとにリピーターの方が増えてきたのを実感しています」
徳島市まで1時間以上かけて阿南市の鶏舎から
新鮮な卵を持って駆けつける、桂樹さんの努力は実ってきている。

桂樹さんの隣は父である社長の智照さん。
「本物は黙々として語らず、いいものはそのまま伝わると思いながら仕事をしていたんだが、時代は変わっていくね」

鶏が密集する熱を逃がすように自然の風が通りやすいよう設計されている鶏舎。鶏の糞が下へ落ちるように2Fに鶏がいるようになっているので匂いが少ない。鶏へのストレスが少ない鶏舎で生まれる卵は美味しくて当然だ。

それはそうと、農に携わる人は販売に慣れていないはずなのに
マルシェでの商品の見せ方がとても上手。

「最良の農作物をつくる人は、最良のセンスをもってつくるのだから
商品のスタイリングが上手なのは当然」
というのは糖度8から12もの高糖度のトマト
「ももりこ」で知られる樫山農園の樫山博章社長。
これまで、樫山農園のトマトは高級品として首都圏、近畿圏の
高級スーパーやレストランなどに求められてきた。
地元では、安値でないと売れない。
どんなに手をかけて美味しいトマトをつくっても評価がないのでは
農家だってモチベーションが上がらないし、
品質向上のための投資もできない。
樫山農園の事務所を訪れると、試験管がズラリ並んでいた。
10年以上かけて完成させたビール粕をまぜた肥料でつくる
糖度10以上の「珊瑚樹(さんごじゅ)」のほか、
昨年発売となったオリジナルブランド「ももりこ」など
美味しいトマトの研究開発に余念がないのもうなずける。

「都会だけでなく、地元でも自分たちのつくるトマトの価値を
わかってもらいたいと思ったのです。
県主催のマーケティングフェアに出店し、近所のJA直売所では
少し傷のついたものなどを250g、350円で出しました。
すると、隣県からも買いに来る人がいるくらい人気が出てしまって。
2011年2月からはとくしまマルシェにも参加しました。
マルシェで消費者の方と交流し、新しい取引が始まったり、ファンになってもらったり……。
それまで、生産ばかりに注力していましたが
いいきっかけで自分たちの殻が破れた気がしました」と言うのは、専務の直樹さん。
マルシェでは軒先に立って、率先して販売する。
直樹さんは、国内外へ阿波徳島の食材をアピールするグループ
「若士(わかいし)」にも参加している。
ちなみに、「若士」はとくしまマルシェをきっかにつくられた若い農家の会で
「たむらのタマゴ」の桂樹さんもメンバーのひとりだ。

「お客さんを説得するのは女性を口説くのと一緒。マルシェでは、あの手この手で頑張っているんでしょうね」
と、息子である直樹さんを見ながら樫山社長は笑う。

低温でゆっくりと熟成させた樫山さんのトマトは、冬に一番美味しくなる。反対に水分を含む夏場は、樫山さんはトマトで出店はしない。「ここのトマトでないといかんのよ」というお客さんに人気は支えられている。

マルシェの効能は、売上を上げることだけではない。
つくり手のモチベーションアップにつながった。
結果、地元での消費が増えることに成功し、おそらく食生活の質も、一部向上しているはずだ。
さらには、他県から個人やバスツアーで人が訪れてお金を使っていく。
なんと、市内の百貨店はマルシェの開催日には売上がのびるという。
生産者だけではなく、運営側もマルシェに付加価値をつけるために
家族連れが楽しめるイベントを考え、何度も足を運ばせる工夫をする。
マルシェで買った新鮮食材を自宅へ直送できる
お届けマルシェや気に入った生産者から収穫の時期にあわせて
野菜などが購入できるショッピングモールサイトでのフォローもある。
事務局は、ここで利益を上げ、次なる仕掛けを考える。
中心市街地の賑わいを創出、観光振興とあわせて
農業ビジネスの活性化をめざした、発起人の田村氏の狙いは間違っていなかった。
もちろん、それはすべてがプラスに作用したからであって
休みも関係ない多忙な農家がわざわざ出店したくなる
場づくりを行った事務局の功績は大きい。

さあ、地元での認知が高まったところで、全国へ———。
事務局、生産者、そして実際に消費している徳島県人が盛り上げる、地元の産直市。
関わる人、産地、販売する商品とつくられる背景すべてをひっくるめて
あり方そのものが、「とくしまマルシェ」というブランドに成長したことが
マルシェ開催の“一番の効能”なのかもしれない。

大久保秀和さん

米づくりへの自信

茨城県北部、日本三名瀑のひとつに数えられる袋田の滝がある大子町(だいごまち)。
中山間地であるこの地には、清流久慈川が流れ、いくつもの支流が田んぼを潤す
豊かな水の恵みを受けてきた土地であり、古くからおいしいお米の産地として知られている。
この地で、代々農業を営み、米づくりに携わってきた大久保さん一家。
秀和さんと父である憲治さんを中心に、現在は約20ヘクタールの田んぼで米づくりを行っている。

左から大久保憲治さん、三枝子さん、そして秀和さん。

「自分が家を継ぎ農業を続ける」
当然のごとくそう考えていた秀和さんは、茨城県立農業大学校を卒業後
実家において父、憲治さんとともに米づくりに取り組み始める。
「最初の頃はキュウリ栽培も行っていたのですが、この周辺で米づくりをする人が減っていき、
田んぼの管理を頼まれることが多くなり、米づくり中心の農業となっていきました」

大久保家に代々続く米づくりのノウハウを研究しそれを高めることによって
よりおいしいお米を生みだそうと努力を重ねていく。
そして、この努力は確実な結果として表れ、
周囲でも評判のおいしい米づくりができるようになっていった。
「しかし、いくらおいしさに自信のある米をつくっても、それが認知されなければ
単なる自己満足に終わってしまう」
そんな思いの中で2006年に、お米の食味コンテストとして権威ある
「お米日本一コンテストinしずおか」に自慢のコシヒカリを出品することにした。

「正直なところ、ある程度の評価をいただければいいという思いでした。
しかし、結果を聞いてビックリ!」
結果はなんと最優秀賞を受賞。「日本で一番おいしいお米」の称号を受けたのだ。
これは茨城県初の快挙だった。
「昔からの米ぬかをベースとしたオリジナル肥料を使い、丁寧な米づくりを行う。
あとは豊かな土地と気候が育ててくれます」
と、米づくりの秘訣についてあっさりと語る秀和さんだが、
その奥に熱く秘められた情熱は、日本一となったあとも、次なる未来へと向けられている。

「新たに静岡、福島、山形の米づくりを行う仲間たちと
『カミアカリドリーム』という勉強会を通して、
巨大な胚芽をもつ新しい玄米食専用品種『カミアカリ』を育てようと取り組んでいます。
新しい品種は次々と生まれてきていますが、自分たちの手で育て、
後生に残す品種をつくりあげようと、仲間たちと協力しているところです」

丘陵の間に広がる大子町の田んぼ。この豊かな土地で日本一のコシヒカリが生まれた。

地元を思う心が生み出す新しい農業へのチャレンジ

2006年に「お米日本一コンテストinしずおか」で最優秀賞を受賞後、
秀和さんは米づくり以外の新しいチャレンジも始めている。
「地方の一農業者が、企業や行政の大規模な企画や予算の事業ではなく、
小規模だけど自分たちのこだわりの詰まった商品を生みだし消費者に届ける。
という農業のひとつのかたちを示したかった」
と、まずは仲間と日本酒づくりに取り組んだ。

きっかけは、地元を愛する仲間たちとの会話からだった。
それは単に農家が酒米をつくるということではなく、
仲間とともに、酒米づくりに始まり自分たちの考える日本酒への思いを酒蔵さんに伝え
米農家と仲間たちが生み出した、こだわりの日本酒を完成させることだった。
大子町で生産される「米」、それにかかわる「人」にこだわり、
この地の古い呼び名にちなんで名付けられた純米酒「穂内郷(ほないごう)」。
大子町の豊かな土地を感じさせる深い味わいをもつ日本酒はすぐに評判となった。

また、日本各地の中山間地と同様に、
大子町も農業後継者がいないために増え続ける休耕地が問題となっているが
そんな休耕地を利用してのそば栽培にも取り組んでいる。
大子町はもともとそばでも知られた土地。
そこで休耕地を利用してそばを栽培し、
乾麺そば「保内郷(ほないごう)蕎麦」として販売したところ
大子町のお土産として喜ばれている。

日本酒づくり、そばづくり、ともに地元生産の素材を活かし
少しでも地元が活気づき、元気になる力となれば、という思いから始めたものだ。
「地元をアピールすることで特徴も生まれ差別化もできる。
米や野菜、その素材をつくった人の顔が見えるものづくり、これからはそんな時代だと思う」

大久保農園のコシヒカリ「大久保農園の米」「日渡の米」。そして「保内郷蕎麦」と純米酒「穂内郷」。

今年、10月6日から12月9日(水曜定休)まで
秀和さん、そして憲治さんも卒業した旧上岡(うわおか)小学校において
「おいしい さとやま学校」というイベントが行われる。
これは、2001年に廃校となり、保存された趣ある旧上岡小学校の木造校舎において
東京にある有名なイタリアンレストランのシェフが、
地元大子町の素材を活かした料理を提供する期間限定のレストラン&ライブイベント。

地域活性化を目的としたこのイベントへの食材提供はもちろん
運営や準備にと、忙しい農作業の合間をぬって飛び回った秀和さん。
「大子町にはすばらしいものがいっぱいあります。そこに住む我々がそのすばらしさを知り、
守り、アピールしていくことで輝いてくると思います」
生まれ育った大子町への熱い思いが、
農業だけでなく地域を巻き込んだチャレンジへとつながっている。

profile

HIDEKAZU OKUBO
大久保秀和

1971年生まれ。茨城県立農業大学校を卒業後、実家で父とともに農業を営む。06年、「お米日本一コンテストinしずおか」で最優秀賞を受賞。08年、農事組合法人 大久保農園を設立。
http://www.okubo-farm.com/

information


map

おいしい さとやま学校

住所 茨城県久慈郡大子町大字上岡957-3 旧上岡小学校
営業期間 2012年10月6日(土)〜12月9日(日)
営業時間 10:00〜19:00(水曜定休)
http://oishii-satoyama.com

1988 CAFÉ SHOZO

旅人の目的地となるカフェ。また次へと旅立っていくために。

カップに入ったコーヒー豆や、透明のキャニスターに入った紅茶の葉が
ディスプレイされ販売されている1階を通り、
階段を上っていくとカフェが現れる。
古い建物を上品に、大切に使っていることが感じられる空間。
イスやテーブルの向きや配置、席それぞれの距離感が心地よい。
本の並べ方など、きちんとしているようで、ちょっとしたぬけがある。
堅苦しくない。だが、少しだけ背筋が伸びる気分だ。
自然にやっているようで、すべて計算されたバランスなのだろう。
何だか“はじっこ感”が落ち着くカフェだ。
「自分が気持ち良く仕事したい。来てもらうひとにも気持ち良くなってほしい。
お客さんのターゲット層とか“どんなお店にしたいか”なんて
考えたことはなくて、どうすれば気持ち良く過ごせるか。それだけです」
と話すのは1988 CAFÉ SHOZOの菊地省三さん。
店名の通り1988年にオープンしたこのカフェは、
オープン当初から雰囲気は変わらず、現在ある多くのカフェの参考にされた。
イスやテーブルがバラバラなのに統一感がある、
なんて今のカフェでは珍しいことではない。
が、ここでは20年以上前からやってきたことだ。

1階では、コーヒ豆や紅茶のリーフを販売。

本を横に倒して置く。空間に広がりを感じる。

オーナーの菊地省三さんは高校卒業後「やりたいことがなかった」と、
なんと海上自衛隊に入隊する。物腰やわらかい話しぶりからは、
まったく想像ができない体育会系キャリアに驚く。
そこで「自分でやらないと満足ができないんだと思ったんですよね。
団体でやっていると、楽しめはするけど自己表現はできないでしょ」と、
自分のお店を持つことを決意する。

その後、数年、東京に出てみる。
多くのひとがそうだと思うが、
東京は人口が1000万人以上にもかかわらず、
生活のなかで主に関わるひとは10数人程度。
「それでふと考えた。5万人の田舎だとしても、
きっと関わりを持つひとは同じく10数人なんだろうなと。
それなら東京にいる必要がないと思ったんです」

さらに東京での勝ち負けや、トップを取るという目標設定が当然であるという
社会に対しても違和感を抱いていた。
「東京でお店をやって、ただお金儲けをして意味があるのだろうか。
自分の生まれたところではない東京で自己表現しても、
意味がないのではないか。
それより自分の生まれたまちで自己表現できたら、
充実感が得られるんじゃないかと思いました」
省三さんの考える人生とは、競争ではなく自己表現だった。

ひとり旅が好きだったという。
特別何もないようなまちでも、個性の強い店が1軒、ひとがひとりいるだけで、
そのまちが目的地となる。いろいろなまちや場所を旅しながら、
やはり思い起こすのは自分の故郷だった。
「黒磯も、ひとがたくさん訪れてくれるようなまちにしたい。
だから旅人が好んで目的地としてくれるようなカフェをつくりたい
という思いがあります」と、旅人の視点を生かした店づくりを心がけた。

いたるところに蔵書が。旅ものが多いのが、省三さんらしさ。

まずは、ひとが歩いている“通り”をつくろう。

1988年当時は、すでに地方にシャッター通りが増え始めていた時代。
黒磯のこの通りも同様だった。
「自分がわくわくして他のまちに旅するような気持ちを、この黒磯にもつくりたい。
だからいろいろなお店をつくって、通りをつくろうと思ったんです」
お店ができると通りができる、通りができるとひとが集まる。
こうしたことは、確かに地方のほうがやりやすいし、可能性もある。
そして目的地になれる。
こうしてカフェ以外にも、
インテリア、洋服雑貨などのショップもオープンさせる。
もう数店は、省三さんの手を離れ、独立した運営も進められている。
「まちをひとが歩いているって素敵じゃないですか。
近くにショップを並べちゃえば、車を置いてひとが歩く」
たしかに車で走りながら歩いているひとの姿を見ると、
“ここに何かあるのかな?” と思わせる。
効果は徐々に現れている。ひとが集まるという意味には、
旅や観光だけでなく、“ここにお店をつくりたい”と集まるひとも含まれるのだ。
「小さくてもいいから、自己表現してくれるひとが
たくさん居てくれるといいんだよね。
そうすると、自然と強い集団になると思います」と、
無理のないかたちでの通りづくり、いや、まちづくりを思い描く。

そんなお店やひとが増えてくれば、黒磯が変わるのかもしれない。
20年、30年後、今の高校生が大人になり、東京のカフェで
“そういえば黒磯にもこんな感じのカフェがあったな。黒磯も悪くない”
と思ってくれたらしめたもの。
「黒磯に戻ってみようかなというひとが増えたら、
やっていた価値もあるんじゃないかな」と省三さんは、
自分が過去に出合ってきたカフェを思い浮かべる。
数々のまちで出合ってきたカフェには、たくさんの思い出がつまっているのだ。
「喫茶店は、ひとの数だけ物語が出てきそうな感じがするんですよ。
それは外に広がっていく」とひとが集まる場所のパワーを信じている。

最後にこんな例え話で締めくくってくれた。
「ヘトヘトになって死んじゃう渡り鳥もいるんですよ。
でもそんなとき、丸太が浮いていたら?
この丸太はどこに行こうとも思ってない、ただ浮いているだけ。
でも、この丸太でひと休みできたら、渡り鳥は次の場所にまた飛んで行ける。喫茶店なんてそんなもの」

もう一度、旅の目的地として黒磯に行ってみたくなった。

自家焙煎の煙突とコーヒーの香ばしさが迎えてくれる。

インタビューは、読書に集中できそうなこぢんまりとした席にて。

石巻2.0

ここ、石巻で継続的な活動をするということ。

2012年7月21日〜8月1日、石巻の中央地区において、
イベント「STAND UP WEEK」(以下SUW)が開催された。
SUWは石巻のまちづくりプロジェクトチーム「石巻2.0」が、
伝統的なお祭りである川開きまでの10日間の期間に企画したイベントで、
今回は昨年に引き続き2回目の開催となる。
野外映画上映会、まちづくりシンポジウムに加え、
まちコンやITビジネスコンテストなどが催された。

私が石巻を訪ねるのは、ちょうど1年ぶり。
ガレキも整理され、落ち着きを取り戻しつつあるまち並みと同様に、
彼らの活動にも少し落ち着きが見えたように思えた。
それは、石巻2.0の活動が継続的なものになりつつある証拠でもある。
インフォメーションセンター「IRORI」、宿泊施設「復興民泊」など、
1年前には存在しなかった施設をみるだけでも、
この1年の活動の充実度をうかがい知ることができる。

そんな、石巻2.0の活動の中でも目立つのが、
震災をきっかけに石巻を訪れることになったメンバーたちの活躍だ。
いわば「よそ者組」とも言える彼らが、どうしてこの地にたどり着き、
継続的な活動を続けているのだろうか。

東京工業大学・真野研究室の渡邊享子さんは、そんな「よそ者組」のひとりだ。
「ここに来たのは大学の研究室の一員としての活動がきっかけで、
それまで石巻とは全く縁がありませんでした。
昨年は修士論文を書きながらの参加だったので、行ったり来たりだったんですけど、
今は博士課程なので時間には余裕があります。
会いたい人に会う感覚で毎週通っているうちに、
今では月のほとんどを石巻で過ごすようになりました」

今年のSUWでは渡邊さん自らが企画した「ゆかたdeまちコン」も開催され、
この1年でプレイヤーとして成長できた自覚がある、と渡邊さんは語る。
「ここにはさまざまな才能を持った人が集まるので、いい刺激にもなっているし、はやく彼らと同じくらい貢献できるようになりたいと思っています」

渡邊さんら学生たち数人をを率いて石巻を訪れ、今回のSUWではまちづくりシンポジウムに登壇した東京工業大学の真野洋介准教授は言う。
「被災地での活動は、阪神淡路大震災の時にも経験があったから、
僕らにとっては当然のことで、特別なことをやっている感覚はなかったです。
ただ、もしこの活動が自分たちの中だけで完結していたら、
こんなに強烈な色を持った活動には発展しなかったと思います。
自らの活動に本気で向き合っている者同士が出会うことで、
予想を超える力を持った活動ができているのだと思います。
逆に言えば、自分の仕事に向き合えなければ、被災地に行っただけ、
見ただけで終わってしまうということでもあるんですが」

石巻2.0発行のフリーペーパー「VOICE」の編集長である飯田昭雄さんも、
震災をきっかけに石巻を訪れた。
「震災直後から、支援物資を持って行くような活動をしているうちに
石巻の人々の熱い想いに触れる機会があり、そこで感電状態になってしまったんです。

東京に住む八戸出身の東北人として、なにか力になりたいと思いました。
この冊子ができたのもさまざまな人との出会いが重なった結果だし、
とにかく奇跡のようなタイミングで新たな出会いが続いて、流れが止まらない。
僕たちはこれを石巻ミラクルと呼んでいます(笑)」

彼らからは、被災地のために身を削って力を貸すというような、
ボランティア精神は感じられない。
むしろ、自らの能力を存分に生かすことができる環境に身を置くことを
楽しんでいるように見える。

渡邊さんは言う。
「私は石巻に住んでいたわけでも、震災で傷負ったわけでもないから、結局はよそ者です。
石巻のために頑張ると言うのはおこがましいと感じるし、
むしろ自分はこの環境に助けてもらった側だと思います。
東京では、早く就職を決めなきゃ、
安定した人と結婚しなきゃというようなことを気にしながらモヤモヤしていたけど、
ここでは自分のやりたいことが必要とされていて、それを躊躇する必要もない。
自分の場合は、そういう環境をたまたま石巻で見つけたというだけで、
被災地に限らず、人それぞれにそういう土地がどこかにあるんだと感じています」

石巻2.0の本拠地「IRORI」は、無線LAN・電源が使い放題。

渡辺さんが取り仕切ったまちコンも人気。

野外上映会には多くの親子がつめかけた。

ジローちゃんのライブ

植木職人だったころ。

兄から手紙なんかもらったのは、後にも先にもあれきりだ。
1986年の秋、大学にはまったく顔も出さず、
世田谷の植木屋で働いていたときのことである。

ユタカくん、植木職人になるそうですね。
お前は昔から少し変わっていたから、なるほどユタカらしい選択だと思いました。
でも、一方的にそれを告げられた父と母の気持ちを考えたことがありますか?
うちが経済的にまったく余裕がないことはよく知っていると思います。
それでも両親はお前を東京の私大にやり、
4年もの間少なからずの額の仕送りもしてきました。
そんな彼らがお前にどれだけ期待をしていたか、考えたことがありますか?
もちろん、ああゆう人たちだから、
今後もお前のことに口を挟むようなことはしないでしょう。
でも、父も母もお前のこのたびの決断におおいに失望しています。
もう一度考え直すことはできませんか?

雰囲気こんな感じの内容だった。
いかにも教員らしい、説教くさい文言が便せん3枚にびっしり書かれていた。
ぼくは無理矢理いびつなカタチに固められたシャービックにでもなったような気がした。
これじゃまるっきり典型的な「出来の悪い弟」じゃないか。
それにしても、こんなに『出来のいい兄』気取りのことがよく書けたなと
ほとほと感心した。親にかけた心配を累積したら、
兄こそメジャー、ヤンキースのクリーンナップクラスなのだ。
それに、「植木職人のどこが悪い?」という反発する思いもあった。
当時、すでに1年近く働いていたぼくは、植木屋の仕事に惚れこんでいたのだ。
とはいうものの、「貧しい」とか「仕送り」とか「親の苦労」といったいくつかのワードが、
いちいちグサリとガラスの破片みたいに心に刺さったのも事実だった。
実際、うちの両親は苦労していた。
それを知っていたから、留年するとわかったときに「仕送りはもういらない」と断った。
そして、生活費を稼ぐために探した仕事がたまたま植木屋だったというわけなんだけど。

「こりゃあれだな、一回どこかに就職したほうがいいんじゃねえか?」
場所は明大前の居酒屋、目の前には当時しょっちゅう一緒に遊んでいた
植木屋の先輩のシンちゃん。そしてその隣に斉藤さん。
ぼくは彼らに兄からもらった手紙のことを話したのだった。
「それでよ、やっぱりダメだってんなら、そんとき戻ってきたらいいんだよ。
植木屋なんて、いつでもなれんだからよ」
シンちゃんがそう言って、斉藤さんが大きくうなずいた。
ふたりの意見をすぐにすんなりと受け入れたわけでもなかったんだけど、
結果、そのように考えるようになっていった。
そして、急遽就職活動を始めたのが11月。
当然、学校にも求人はほとんどなく、
就職課の職員からは「あるわけないでしょ、この時期に」とあきれ顔で言われながら、
それでも「これでも受けてみたら」と素っ気なくわたされたのが、
青山にある編集プロダクションの2次だか3次だかの募集の要項だった————。

もしもあのとき、兄から手紙をもらわなかったら。
もしもあのまま植木職人になっていたらと考える。
ぼくは東京の下町の2DKのアパートに住み、
猫の額ほどの小さなベランダには仕事で身につけている脚絆や足袋が干してある。
3人の子どもはみんなぼくのことが大好きで、
ぼくが仕事から帰るとまとわりついてしばらく離れない。
奥さんも子どもに負けず明るくて、毎朝弁当を作ってぼくを送り出してくれる。
スライディング・ドアを一枚隔てたぼくの生活は、つつましくも幸せそうだ。
いまも高松で植木屋をやっているジローちゃんのレゲエを聴きながら、
ぼくはそんなこっ恥ずかしい想像をめぐらせていたのだった。

マチスタ初のイベント、「コーヒー&レゲエナイト vol.1」。
ジローちゃんのライブはとてもよかった。
鼻にかかった声が素朴な歌い方にマッチしていて、巧くはないんだけど、
適度な情感も感じさせてくれた。
カフェリコの稲本さんに焙煎してもらったジャマイカのコーヒーも格別だった。
それもそのはず、ジャマイカというと最高級コーヒーのブルーマウンテンらしく、
ライブの直前にコイケさんから「原価がうちのコーヒーの3倍ですよ、
喫茶店で出したら1000円以上のコーヒーですよ!」と笑顔で軽くしかられたのだった。
ちなみに当日の入場料はそのブルマンが一杯ついて800円。
赤字は逃れられそうにない。でも、来てくれた人たちがみんな喜んでくれたのでよかった。
子どもたちまでそれなりに楽しんでくれた。
なにより、ぼくの植木屋時代の先輩のジローちゃんが
「またやろうぜ!」と言ってくれたのが嬉しかった。
参加人数は約20人と決して多くなかったが、
秋の夜の、実にマチスタらしいイベントだった。

大丈夫。ぼくのいまの人生も、そんなに悪いもんじゃない。

ホント、いい感じでした。高松からジローちゃんを迎えての「コーヒー&レゲエナイト」。vol.1としたからには、きっとvol.2もあるでしょう。来年の春あたりかな。

コロナを飲みながら切々と歌うジローちゃんの横で、しらふのコイケさんが淡々とコーヒーを淹れる。まさにレゲエとコーヒーの競演! 新しいパフォーマンスを見るようでした。

10月をホットドック強化月間とすることにしました。熱々の肉汁が飛び出してヤバいソーセージに、特別に焼いてもらっている天然酵母のパン。絶対美味しいけん! 今回のポップもデザインはヒトミちゃん。グッジョ!

おいしいサンマは不思議な魚

イチ、ニ、サン、マーッ!

秋の味覚を代表するサンマ。
みなさんはサンマの塩焼きを食べるとき、はらわたもガブリといくワイルド派ですか?

ワイルド派の代表ともいえるのが、幕末から明治時代にかけて活躍した
作家・ジャーナリストの福地桜痴(ええと、たとえばsocietyを社会と翻訳したのは彼です)。
彼はサンマのはらわたが大の好物で、
身を残してはらわただけをムシャムシャと20匹とか食べていたという逸話が残っています。

そもそも、なぜサンマは、はらわたから丸かじりできるのでしょう。
それはサンマには胃がないからです。おまけに腸もすごく短い。
つまり、お腹に消化中のエサ(動物プランクトン)が溜まっていないから、
はらわたも美味しく食べることができるのです。

さて、冒頭の質問ですが、
魚好きに「はらわたが一番うまいのにガブリといかないでどうするの?」
と怒られてしまうのですが、どうしても躊躇してしまうんですよね。
というのも、ガブリといったときに、
口の中にウロコのようなものが残ることがあるじゃないですか
(というかウロコなのですけれど)。あれが苦手なんです。
「ややや、なんでお腹からウロコが?」って不思議に思ったことはありませんか?

これは漁法に関係があります。
現在、サンマの漁獲はほとんどが「サンマ棒受け網漁」。
太平洋戦争末期に発明された、
サンマが光に集まる習性を利用して大きな網で一気にすくいあげる漁法です。
魚体を傷つけず、仕組みも単純で人手もエサ代もかからないことから、
戦後の人も物資も足りない時代に、あっという間に広がり、サンマの漁獲高が激増しました。

サンマ棒受け網漁の船。船の大きさによって漁の解禁日が異なる。(ロケ地:北海道・霧多布)

で、網にサンマがわんさかと入ったとき、カラダがこすれ、
剥がれたウロコを飲み込んでしまったというのが、はらわたにあるウロコの正体です。

サンマは日本海から北米大陸まで北太平洋に広く棲息している回遊魚で、南の海で生まれ、
春に黒潮にのってエサの豊富な北の海へ北上して、栄養をたっぷり摂ってまるまると太ります。
そして夏の終わりになると産卵のために南へと下ってきます。
その一部が北海道道東→三陸沖→銚子沖と日本列島に沿って群れを作って通過するので、
日本沿岸域は恵まれたサンマ漁場になっているのです。

安くておいしく馴染み深いサンマですが、謎が多い魚でもあります。たとえば産卵の謎。
サンマの卵にはヒゲのような糸があって、
流れ藻などの浮遊物に絡み付けるようにして産みつけます。
でないと海水より卵の比重が重いので海の底に沈んでしまいます。

となると、大量のサンマが生まれるには、膨大な量の流れ藻が必要になるはずですよね。
でも、それだけ大量の流れ藻は存在しないのではないかという疑問があがっているのです。
実際、流れ藻の少ない季節や、流れ藻がない遥か沖合でも稚魚が見つかっています。
ということは、流れ藻以外にどこかで産卵しているの???
まだ、専門家にもよくわかっていないそうです。

ウナギは卵や稚魚が見つからなかったため、
いつどこで生まれるのかずっと謎だったのですが、
サンマは逆に、どこでも卵や稚魚が見つかるので、どういう生活史を送っているのかが、
今ひとつよくわからないのだとか。

魚の年齢や成長の研究に使われる「耳石」から、
サンマの寿命が約2年と分かったのも2006年のことですから、わりと最近です。
この内耳に年輪のように形成される耳石をサンマの研究者に見せていただきました。見たい?

こんなものです。

サンマの耳石。1匹から2つしか採れません。

さて、8月の終わりごろから道東で獲れはじめる脂ののったサンマ、美味しいですよね。
ただ残念ながら漁場が南に移ると「脂がのっていない」とサンマを見下す人がいます。

でも、どうなんでしょう。秋の深まりとともに、だんだんサンマの脂が抜け、
逆に旨味が増していく。味の変化も、季節を感じる楽しみのひとつなんですけどね。
例えばサンマの酢締めは、脂がほどよく落ちた方が、美味しく作れると料理人はいいます。
紀伊半島の熊野灘あたりまで来るとすっかり脂が落ちて、塩焼きには向かなくなりますが、
そういうサンマだからこそ紀南地方名物サンマ寿司が生まれたわけです。

それから伊豆半島や紀伊半島の冬の名物、サンマの丸干し。
これはうま味成分の塊で最高の酒の肴です。伊豆半島や紀伊半島では、
春先に北へ向かうサンマの幼魚(ハリコ)も丸干しにして食べます。

ハリコと呼ばれるサンマの幼魚。身肉はないけど、しっかりサンマテイスト。

余談ですが、ヨットで旅をすると房総半島、伊豆半島、紀伊半島の港には共通点が多く、
黒潮文化圏的なものを感じます。

今では全国で当たり前に食べられているサンマの刺身ですが、
生食がブレイクしたのは十数年前のこと。
それまでは、サンマ離れが進み消費量がどんどん減っていました。

ところが、生食が大ヒットして、今ではどこの居酒屋でもサンマ祭り。
スーパーでも普通にサンマ刺しが並ぶようになりました。
特に東日本に比べるとサンマを食べる習慣があまりなかった大阪でも
消費量が伸びているのは刺身の影響が大きいそうです。
この10年で冷却技術や輸送手段に格段の進歩があったわけでもなく、
ただただ生で食べる美味しさが広まったからというのが、ちょっと不思議です。
個人的には回転寿司が生食サンマの普及に
かなり貢献しているのではないかとニラんでいるのですが、どうでしょう。

ちなみに北海道や三陸の水揚げ港では、サンマの刺身は醤油+一味唐辛子で食べます。
まだという方、ぜひこの秋に一度試してみてください。

今年の新米は如何に!?

4か月間の振り返りを……。

コロカルをご愛読のみなさまお久しぶりです。
気がつけば前の投稿から4か月……(汗)。
未熟さゆえに仕事の雪崩に埋もれ、遭難しておりました。
コロカル編集部の温かさに救われ、何とか無事生還を果たしましたので、久々の更新を!

前回の記事は田植えイベントで終わっていますが、
現在魚沼では、バリバリ稲刈りが行われております☆
追いつかねば!

ということで、この4か月間を振り返ってみることに。

東京田植え体験。

前回の記事で募集をさせていただいた東京田植え体験ですが、
不安定な天候により田植えが中止となり、
懇親会BBQのみ開催という素敵なかたちに着地しました!

イベント協賛 COLEMAN様

当日、何とか雨は回避。
都会のど真ん中渋谷のとあるビルの屋上で、
魚沼からお持ちした、もち豚・アスパラ・八色しいたけ・エリンギなどのBBQと共に
みなさんと美味しく楽しいひと時を過ごさせていただきました。
田植えをできずに残念でしたが、その分ゆ~っくりとお話しさせていただくことができました。
たくさんの方々に応援していただいていることを実感し、
ポジティブなパワーをたくさんいただき、僕らにとっては本当に有意義な時間となりました!
「災い転じて福と成す」とはこれまさに。

6代目覚醒計画。

山本家6代目ゆうと君(7歳)の将来の夢は自衛隊。
立派な夢ではありますが、RICE475を進行する我々としては、
何とか6代目にも農家になってもらわねば! という、超おせっかい企画を開始。
ゆうと君、おじいちゃんとパパと一緒に小さな田んぼを始めました。

田植え。意外と真面目にやってます。

草取り。もちろん除草剤は撒きません。当たり前か。

スクスク成長中。

こんなところに稲が? 6代目、新農法の開発研究か!?

やはり農家のDNAを受け継いでいるだけあり、ちゃんとお世話をしていましたよ。
果たして、味はいかに? 親父を超えることが出来るのでしょうか?
そして、収穫を迎えたとき、6代目の将来の夢はどこへ向いているのでしょうか?

続く

除草体験ツアー。

無農薬栽培で大きな難儀は「雑草」との戦いです。
今回はそれをみなさんに体験していただこう! ということで除草ツアーを開催!
実は昨年も除草を募集していたのですが、参加者3名という、
RICE475史上最少参加人数を記録したほろ苦い思い出が。
ですが、なんと! 今年は一晩で定員を大きく超える申し込みの数!
予想以上の大盛況でした。

総勢50名近い参加者が田んぼに入り、草を取る。
なんて素晴らしい光景でしょう!
どんどん積み上がる雑草の山。農家山本も大喜び!

みなさん一生懸命、一心不乱に草を取っていただいて、
それだけでも本当にありがたいのに、みなさん「全然取りきれなくてすいません。」と。
え~!? なんて良い人たちなんだ~! と、山本と感謝の涙を流しておりました。
しかも、翌日みなさんからお礼のメッセージがたくさん。
魚沼に草取りに来てもらって、お礼を言われるなんて、
もう「ありがたい」を通り越して「かたじけない」ですよ。

みんなで育てているって感じ、素敵ですよね!
たくさんの想いが詰まった美味しいお米になるはずです。
絶対。

さまざまな場所でRICE475に会えます。

現在RICE475は、
SLOW HOUSE by ACTUS
FADNESS INLET FARM(弊社の衣食複合セレクトショップ)
廣新米穀WEBサイト
で購入していただくことができますが、
意外に少ないのです。そもそも商品の数が卸をするほどありません。

常時販売しているのは上記の店舗のみですが、
今年もいろんな場所でRICE475を販売させていただいております。
地元のイベントのほかに、県外のお祭りで販売させていただいたり、

なんとレザーブランドCOACHさんの70周年イベントでも!
ノベルティとしても採用していただきました。

カッコいいお米でしょう! 自慢の息子です☆

10月以降も東京、愛知などなど行きますよ~!
そしてさらに今年はみなさんに常時購入していただける窓口が増える予定です。
なんともありがたいこと!
確定次第、こちらでもお知らせできればと思います。

そんなイベントを挟みつつ、山本は日々作業を続けます。

日々の作業は、
RICE475のTwitter(@rice475)やホームページのRICE475カテゴリーで発信しています。

初年度は青虫の異常発生、
昨年は猛暑からの豪雨洪水。収穫間近の田んぼがいくつも土砂で埋まっていました。
今年は猛暑で渇水。
フジロックでも雨が降らなかったという、記録的な少雨。
毎年、天候や気温が変わっていく中で、クオリティーを保ち続けるというのは
とても難しいことだと、3年目にして実感しました。

それでも山本は美味しいお米をつくり続けます。
さぁ、今年の新米は如何に!!!
乞うご期待です☆

なんか、夏休みの宿題の日記を一気にまとめて書いた感じ。笑
ではでは。

STUDY 木質ペレット

国内ペレット生産規模の増加の背景。

木質バイオマスの熱利用としては、
製紙工場や製材工場等に併設される大型のバイオマスボイラーや
施設に設置される木質チップやペレットによるボイラー、
そして家庭などに設置される薪や木質ペレットによるストーブの熱利用など、
さまざまな種類があります。
この中で化石燃料を代替する固形のバイオ燃料として注目されている木質ペレットは、
日本国内でも1980年代に石油ショックの影響で一時生産が増加した時期がありましたが、
1990年代に入ると石油価格が下がり木質ペレットの生産量も大きく減少しました。
その後2000年代になって、環境問題や地域資源の見直しなどで
再びペレット生産が増加してきており、
2008年度には年間生産量が6万トンにまで増加しています。
ただし、欧州のペレット工場と比べて1か所あたりの規模が小さく、
全国のペレット工場の平均的な規模は年間生産量が1000トン程度となっています。
木質ペレットの生産を効率化し、普及につながる価格に下げるには、
木質ペレットの原料の調達方法や生産方法などに多くの課題があります。
例えば、原料の調達面では、間伐材の破砕や乾燥から行う必要があり、
製材工場などにペレット製造工場を併設することによる改善が期待されます。
一方、欧州では2000年代の初頭から木質ペレットの本格的な生産が始まり、
オーストリアでは年間50万トン以上生産され、国内での利用のみならず輸出も行われています。
また、スウェーデンでは年間200万トン以上の需要があり、
国内で大規模工場での生産が行われると共に、国外から輸入しています。
いずれの国でも大型の施設でのペレットボイラーの利用だけではなく、
地域での熱供給や家庭でのペレットボイラーの設置まで行われており、
木質ペレットの生産・流通・供給体制がしっかりと構築されています。
この際、木質ペレット運搬には、バルク供給方式が採用され、
タンクローリーのような輸送車が使われています。
また林業の盛んな地域では木材産業まで一貫した木質バイオマス利用が進んでおり、
木材生産時の端材やおがくずなどが地域内で流通し、
各ペレット工業が比較的容易に使いやすい原料の調達が可能となっています。
一方、近年の原油価格高騰により木質ペレット価格が灯油と競争できる価格になってきたことが、
国内ペレット生産規模の拡大の背景となっていると考えられます。
木質ペレットは暖房用ストーブと温水用ボイラーに利用されています。
ストーブは家庭向けが中心ですが、
ボイラーは温泉・プール・農園芸施設・公共施設・官庁などでの利用が普及し始めています。
国内全体としてのバイオマス熱利用の統計データはまだまとまったものがなく、
自然エネルギーの統計データとして今後の課題となっています。

木質ペレットの外見(スウェーデンにて筆者撮影)

TOPIC 郡山布引高原風力発電所

大規模風力発電所のメリット・デメリット。

近年、発電出力2,000kWを超える大型の風力発電機が
何本も建てられた大規模な風力発電所(ウィンドファーム)が、
国内各地で次々と建設されています。
その中でも国内最大の風力発電所である、福島県郡山市の郡山布引高原風力発電所は、
33基の風力発電機で合計65,980kWの発電出力を持っています。
今回は、2007年2月に運転を開始し、年間で約1億2,500万kWhを供給する
この大規模風力発電所を紹介します。

郡山布引高原風力発電所は、猪苗代湖の南、会津布引山の山頂に広がる布引高原にあります。
現地は標高1,000mを越える非常に風況のよい場所で、
麓から20分以上かけて車で山道を登り切った先には、
とても山頂とは思えない高原が広がっています。
高原からは猪苗代湖や磐梯山が一望でき、その高原の全域にわたって風車が建っている風景は、
とても日本とは思えないものです。
高原に人家などはありませんが、観光用の設備や道路が整備され、
風車の中を歩いて回ることができます。
ここに建っている風車は羽の先端までが最大で全高100mに及ぶ巨大なもので、
林立する風景は高原の景色としてみると壮観です。
もともとこの高原では、布引大根の産地として農業が営まれており、
ひまわり畑なども広がっています。
高原の農地で人家はなく、車でなければ辿り着けず、公共交通機関も通っていませんが、
こういった地理条件であればこそこれだけの大規模風力発電所を建設でき、
さらに観光地化もできているという特徴が見えてきます。
現地を訪れたのは週末でしたが、家族連れなどがひっきりなしに山を登ってくる光景があり、
高原の観光地として定着しているような雰囲気を感じました。

大規模風力発電所の環境面での課題は、自然環境への影響、生態系への影響、
景観への影響、生活環境への影響などがあります。
郡山布引高原風力発電所の場合も風車の騒音はかなり大きく、
正面200mほどの距離だと高度1,000m程度の飛行機の航路の下にいるくらいの音を感じます。
今後、再生可能エネルギー電力の固定価格買取制度スタートによって
国内で更に大規模風力発電所の開発が進むことが予想されます。
これらの問題と、どのように向き合っていくのか、
また建設地とは縁のない企業が大規模開発に乗り出してきた場合、
地元に対するメリットは何であるのかを示し、考えていくことが必要です。
圧倒されるような大規模風力発電所のある風景には、
そのような問題に向き合う重要性を改めて認識させられます。

道路が整備されて観光地化されている。

2MWの大型風車群。

ひまわり畑の中に建つ風車。