『New function of Artistic Store for U』

点と点のものづくりが結束する美しいかたち。

那須は、かつて温泉や別荘・ペンションブームで賑わった時代もあり、
観光のまちというイメージが強い。
しかし最近では移住者も多く、特に静かな環境で
じっくりと活動をしたいという若い世代が移り住んでいる。
那須は、外から入ってくるひとが多く、“よそ者”を受け入れる土壌があるのだ。

そんななかで、自分たちのものづくりに没頭し、
それを生業としている5人がいる。
スノーボード用のビーニーをオーダーメイドで製作している
「レイドクロージング」の会田喜文さん、
ヨーロッパから買いつけてきた古着などを
リメイクして販売している「ターボ」の伊藤貴之さん、
手づくりで革靴をつくっている「山十」の大森克明さん、
染め物や織物を手がける「ブリランテ」の遠藤聖香さん、
苔盆栽などを製作・販売している「苔屋」の荒井正樹さん。
この地に移住してきてからつながりを持った同世代の5人だ。
扱っているジャンルは違えど、
どこも自宅兼アトリエ(工房)兼ショップというコンパクトな店構え。

「ものをつくるにはとてもいい環境。
雑念がないから余計な影響を受けにくい」と伊藤さん。
「住んでいるひとは、割と個人主義というか、群れないひとが多い。
ひとに変に合わせることなく、それぞれが独立した考えで動いています」
と遠藤さんもものづくりにおいての環境の良さを語る。

彼らはそれぞれ独立して活動しているが、
時に“個”が結束を持つことがある。
レイドクロージングの会田さんとターボの伊藤さんは、
5年ほど前、同時期に那須にショップをオープンさせた。
ショップのプロモーションをしたかったが、
地方紙などに広告を載せてもイメージと合わないし、
通常の観光客をメインのターゲットにしていたわけでもないので、
その効果は微妙。お互いに同じようなことを考えていた両者は、
「それなら自分たちでつくってしまおう」と、
フリーペーパー『New function of Artistic Store for U』の製作を思い立ち、
前出の3組を誘った。

フリーペーパーと言っても、それぞれの店舗の写真が象徴的に掲載され、
あまり説明的ではない。表紙も大胆なピンク。
それでも、置いてもらえる場所も多いし、すぐに捌けてしまうという。
次号は掲載してほしいという申し出も多数。
那須には彼ら以外にも、個人や夫婦で営んでいるような小さなお店が多く、
しかも扱っているものやつくっているもののクオリティも高い。
このフリーペーパーの“若い感覚”を理解してくれるひとが
地元にも多いようだ。

「那須には二面性があると思うんですよ。
街道沿いに大きな看板を出す、という観光的な表のイメージ。
ほとんどのひとはそれが那須だと思っています。でも観光だけではなく、
もっと生活に根ざした裏の那須もあるんです」(会田さん)

そんな奥深い那須のカルチャーへの突破口となる
この『New function of Artistic Store for U』。
これを片手にぐるっと“ウラナス”巡りしてみるのもいい。
例えばレイドにビーニーをつくりに来るひとたちは、
あまり表の大きな観光スポットには行かないだろう。
だからといって、
レイドのためだけに遠くから那須を訪れるのではもったいないし、
迎える側としても、もっと那須の新しい魅力に気がついてほしい。
そんなとき、このピンクの冊子。
山十やターボ、ブリランテ、苔屋などに行って、
“那須、面白いじゃん”と思ってもらえばしめたもの、という算段だ。

みんなで集まっては冊子を綴じ、酒を飲み、また綴じ、また飲み……。

実はまだゼロ号の『New function of Artistic Store for U』。
果たして次号は? 「もうちょっと掲載店舗数を増やしたいですね」と、
会田さんのやる気のある返答。
しかし「この感じはキープしたいので、無理しない範囲で」と
ガツガツしない独自のスタンスを貫く。
伊藤さんも「かっこいいというのは、
ひとそれぞれ基準や捉え方が違います。
だから自分たちなりの見せ方を少しずつでもやっていきたい」と、
あくまで周囲に迎合せず、個の立ち位置を忘れない。

このスタイルが那須で受け入れられれば、那須へ来る客層の幅も広がるし、
那須で活動しているひとにとっても
これまでになかった刺激になるだろう。
それが那須の活性化につながるかもしれない。
外から押し付けられるのではなく、
ボトムアップでそれが起これば、すごく強度がありそうだ。

「個人の“点々”が特色あるまちだと思います。
アートイベントとかも多いし、面白いことが起こりそうなポテンシャルはあるはずです」
と遠藤さんは言う。
それは、今は閑散としているペンションが握っているのかもしれない。
会田さんも言う。
「これまでのやり方は、箱ものをドンですよね。
でもこのフリーペーパーが発展するようなかたちで、
個人商店がたくさん集まったほうが絶対に盛り上がると思います」
東京都内、特に東東京では、
古い空きビルや廃校などをアーティスト・イン・レジデンスにしたり、
クリエイターの集まる物件にしている場所が増えた。
「那須のペンションも、もう空き物件だらけなんです。
そこにショップやものづくりのひとたちに入ってもらえるようにしたい」
という伊藤さん始め
『New function of Artistic Store for U』クルーは意欲的だ。
今日も誰かの家で、
ぽちぽちホッチキス留めしながら酒宴していることだろう。

山十の靴。牛革と天然ゴムとコルクなど、天然素材を使いオーダーメイドで仕上げる。手縫いのため、少しよれた風合いも味のひとつ。

ひとつずつオーダーメイドされているレイドクロージングのビーニー。あごにストラップが付いていて、バックカントリーなどに行くスノーボーダーに重宝されている。ショップにはランプもあるので、スケーターもぜひ。

古着のTシャツにステンシルや染めなどでカスタムしているターボのアイテム。他にも古着をリメイクしたり、コサージュも手染めで製作している。

ブリランテのバッグとストール。アルミニウムを、那須から得たインスピレーションで柔らかくアレンジ。草木染めなど、森のなかのアトリエで四季を意識した染め物や織物を製作。

Shop Information


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Brillante
染織アトリエショップ ブリランテ

住所 栃木県那須郡那須町高久乙593-245
TEL 0287-74-5158
営業時間 11:00〜17:00
定休日 月・火曜日
http://www.kiyokaendo.com/


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LADE clothing
レイドクロージング

住所 栃木県那須郡那須町大字高久甲5728-7
TEL 0287-74-5102
営業時間 土曜10:00〜20:00 日曜10:00〜18:00
定休日 平日
http://ladestore.com/


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TURBO
ターボ

住所 栃木県那須郡那須町湯本206
TEL 0287-76-3152
営業時間 12:00〜19:00
定休日 水曜
http://turbo15.com/


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山十

住所 栃木県那須郡那須町高久丙899
http://yamajyu.org/


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苔屋

住所 栃木県那須郡那須町高久丙1148-559
http://www.kokeya.jp/

石巻絵のパレード

石巻のまちを絵が歩く!
横浜・寿町発「絵のパレード」が、東北へ。

あれから1年半あまり。
東北のために何ができるかと、ずっと考えてきたのは、アーティストだけではない。
おそらく日本中の人が、ひとりひとり、それぞれ自分のサイズで考えてきて、
導き出した答えが、良かったのか悪かったのか、正解だったのか間違いだったのか。
判断を下すことはまだ難しい。

震災以降、石巻で活動を始めたアーティストたちを応援してくれている商店街の花屋さん。突然の歩く絵たちの来訪に顔をほころばせて喜んでくれた。

ただひとつ、言えることは、
この日、石巻に集まったアーティストたちには、実感があったということだ。
自分が描いた絵を、見てほしい人が石巻にいる。だから、見せに行く。
その人の家の前まで、その人のお店の前まで、キャンバスを持って。
「こんにちはー! お久しぶりです!」
「絵のパレードを、やっています!!」
突然の訪問に、驚いて出てきたその人の顔は、すぐに笑顔でくしゃくしゃになった。
楽器隊の子どもたちや近所のおばさんたちも引き連れて、意気揚々と行進は続く。
(ああ、みんな喜んでくれている。良かったー)と、アーティストたちはうれしくなる。
たしかな実感だ。これだけは、間違いない。

甚大な津波の被害に見舞われ、まるで防波堤のようにがれきがうず高く積まれた石巻の海岸沿いのエリア。「未来へ号」に乗ってやってきたアーティストたちがひまわりの種を植えていた。

2012年8月10日の青空の下。
人も家も消え去った灰色の大地は、月日を経て、生い茂る緑の野原になっていた。
そこにポツンと停まっている黄色いバス。
アーティストと絵を載せて東京からやってきた「未来へ号」だ。

「絵のパレード」の発案者・幸田千依。プールの水面と人とをテーマに絵を描き続けている。寿町でのパレードの後、台湾での滞在制作に臨み、現地でもパレードを行って手ごたえをつかんだ。

「絵のパレード」の発案者は、絵描き・幸田千依。
今年の正月に横浜のドヤ街・寿町で初めてパレードをして以来、
彼女にはたしかな実感があった。(Area Magazine #3
「ギャラリーや美術館へわざわざ足を運んで観に来てもらうのだけがアート表現じゃない。
アーティストが自分の手で絵を運んでまちを歩けば、思いもよらないことが起こる。
もっともっと、すごい出会いが待っている。いろんな場所で、絵のパレードをやりたい!!」

その思いに賛同したのが、東京・恵比寿で7月に開催された
『一枚の絵の力』展(アートセンター「island JAPAN」主催)の出品アーティストたち。
そして、「未来へ号」で全国をめぐる未来美術家・遠藤一郎だった。

どんな時代でも、どんな状況でも、
一枚の絵の力には伝える力があり、人の心を動かす力がある――。
『一枚の絵の力』展に込められた思いは、彼らの信じる道でもある。

石巻のまちとかかわるアーティストたちのあゆみとこれから。

今回のパレードには7枚の絵が出品された。地元の子どもたちも音楽隊として参加。住宅街や商店街をにぎやかに練り歩いた。

昨年の4月中旬、ひとりの女の子が石巻のまちとかかわり始めた。
彼女の名は“さっこ”といって、まちでは今やよく知られた存在である。
アーティストたちの間では、「つるの湯祭りのさっこ」としても有名だ。

当初、彼女がひとりで石巻へ来て始めたのは、
個人宅や商店街の泥除けや掃除、支援物資の整理配布、避難所や仮設住宅での手伝いなど。
あのころ、このまちで必要とされていたことに、何でも次々に取り組むことだった。

あのころ、多くのアーティストが「自分にできることは何か」と思い悩んで、
そのうち幾人かがさっこに導かれて石巻へやってきて、同じように取り組んだ。
幸田千依も、そのひとりである。
たくさんの出会いと、たくさんの体験が重なり、たくさんの思いが連なって、
さっこを中心とするアーティストたちは、
まちの人々といろいろなことを共有できるようになっていった。

といって、アーティストたちはまちの住人になったわけではなく、
思い思いに来ては出て行き、戻って来てもまた出て行くものなのだけど、
「またね!」と言い合って別れるとき、
その気持ちにウソはないとお互いに思い合える関係ができていったということだ。

震災の影響で休業を余儀なくされたが、今年の正月に多くの人々の後押しを得て再開した「つるの湯」。壁の大きな富士山の絵は、明るい前途を祈るアーティストたちによって描かれた。

たとえば、昨年末に開催された「つるの湯祭り」は、
まちの人々と、外からやってきたアーティストたちが、
それぞれさまざまな思いを交わしながらつくりあげたひとつの大きな出来事だった。
津波の被害に遭った銭湯「つるの湯」を再開させようと奮闘する人たち、
その晴れの日を盛大に祝おうと集まってくる人たち、
そして、期待と願望に満ちたみんなのパワーを受け止める一方で、
実は、少なからず不安も抱えていたおかみさんとご主人。
それでも、2012年元旦に初風呂は実現し、今ではまちで唯一の銭湯として、
訪れる人すべての心と体を温めている。

今回の絵のパレードの行進ルートの中でも、「つるの湯」はハイライトのひとつだった。
「久しぶりに会ったおかみさんは、笑顔だった。それがとてもうれしい。
〈つるの湯祭り〉やって良かった、がんばって再開まで応援できて、
ホントに良かったってみんなで話しました」と幸田千依。

——アーティストが来たら、楽しいことが起こる。
――石巻へ行けば、あの人たちにまた会える。
この関係が、まち全体に広がればもっといい。
今の石巻の日常は、昔の日常には絶対に戻らないけれど、
楽しいことを少しずつ増やしていくための力が、一枚の絵にはある。
そう実感する人たちが、もっともっと増えていけばいい。

パレードの後、
絵たちは石巻駅前商店街にある「日和アートセンター」のギャラリーの壁を飾った。
その後もアーティストたちがさまざまな展示やイベント活動を催し続けている。

老舗のフランス料理店のご夫婦にも絵を披露。パレードは住宅街を回り、細い路地を抜け、商店街を闊歩し、石巻の中心街をくまなく歩いて2時間以上も続いた。

コミュニケーション能力

広告プレゼンの思い出。

10年近く前のこと。取材で会った脳科学者の茂木健一郎さんに
「本当に頭がいい人ってどんな人ですか?」と聞いたことがある。
「コミュニケーション能力の高い人でしょうね」
即座にそんな答えが返ってきた。
たとえば、満員電車の中でつり革につかまった老人が隣にいたとする。
そして目の前にはシートに座った若者が。
そんなとき、若者の気を損ねることなく席を譲らせる、
そんな言葉をかけられる人間こそ本当に頭がいいのだと茂木さんは言うのだった。
なるほど。そこでぼくならと想像すると、気を損ねるどころでなく、
流血沙汰の展開しか見えてこない。

2010年に岡山県内で圧倒的な購読率を誇る『山陽新聞』の
130周年記念号を制作させてもらった。
その年の2月あたりだったか、同社系列の広告代理店で第一回の企画のプレゼンを行った。
その場にいた20名ほどのスーツを着た営業マン、
とくに社長を含む上層部の人たちはぼくの企画が理解できないという反応だった。
「そんな企画で広告が売れるわけがないだろう? 
どうやってクライアントに説明すればいいんだ?」
社長の言葉には明らかに怒気が含まれていた。
「そんなこと言われても、なあ?」
ぼくはそう言って、隣にいた唯一の味方、デザイナーのリュウくんと顔を見合わせた。
我ながら最低の受け答えである。
「この写真集を見ると」
そう質問を切り出したのは、同社でデザインを担当しているS女史。
「安村さんは人をまったく撮っていませんが、大丈夫なんですか?」
鋭い質問だった。ぼくの企画は写真家の安村崇に県内在住の一般の人を撮ってもらい、
1ページにつきひとりの写真を掲載して8ページを構成するというものだった。
異様に思われたのは、8ページに入れる文字要素が人名と肩書きだけで、
説明的な文章を一切入れないという点だった。
そんな大胆な企画をたてているわりに、
「こんな写真家です」と渡した写真集には、
こたつの上のミカンだの、お風呂のふただのホッチキスだの、
一般家庭にある普通のモノの写真しかなかったのだった。
実際、安村さんが撮影しているのはモノか風景がほとんどで、
ぼくも彼が人を撮った写真は見たことがなかった。
それでもぼくは自信たっぷりに答えた。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい、絶対いいものができます」
 そう言うと、さらに鋭い返しをくらった。
「その根拠は?」
 根拠、とな? 根拠は……
「……勘です」
その場がさらにざわめいた。
もうこれ以上いても無駄だと思い、ぼくとリュウくんは早々にその場を後にした。
結局、その企画は同社の担当Iさんの熱意に会社がほだされるかたちで実現に至ったのだが、
いま思い返してもひどいプレゼンだった。
たぶん、ぼくはやっちゃいけないのだ、こうしたプレゼンの類は。

児島で縫い子(縫製業者)をやっているフジタくんとは
昼どきから延々とエッチな話に花を咲かせることはできても、
言葉で人に何かを説明するのは苦手だ。
ましてや説得するとか、意見を戦わせるなんていうのは論外な話。
つまりマチスタの経営者はコミュニケーション能力が異常に低い。
茂木さんの論理で言えば、あまり頭がよろしくない人なのであった。

実は本人はかなり以前からそのことには気づいており(当たり前だな)、
致命的な弱点のひとつと認識している。
マチスタでもそんなぼくの性質がマイナスに働いてきたのは疑いない。
開店前まではコイケさんと店の方向性などについて話すこともよくあったのだが、
開店後はほとんど話すことはなくなった。
それでいいと思い込もうとしていたフシがある。
ぼくが口をはさむより、現場に立っているコイケさんとのーちゃんに
すべて任せた方がいいだろうと。
「コイケさんは飲食のプロ、対してぼくはズブの素人」という遠慮があったのも事実だ。
それにしてもコミュニケーションがなさすぎた。
どんどん赤字が膨らんでいくような状況であれば、
なおさらコミュニケーションが必要だった。
そう考えるようになって、
ぼくのコミュニケーション能力の低さの原因が少しわかったような気がした。
ぼくはたんに臆病で、ぶつかるのを恐れていたのだ。

そろそろだ。そろそろマチスタのこれからについて
コイケさんとじっくり話さなきゃなと思っている。

これが例の130周年記念号の表紙。翌年の全広連(全日本広告連盟)の最高賞を受賞している。ぼくの勘は間違っていなかったわけだが、そのわりに以降、同社とは仕事の付き合いがまったくなし。プレゼンの印象が悪すぎたか。

植木屋時代の先輩ジローちゃんのライブイベント「コーヒー&レゲエナイトvol.1」の開催が迫ってきた。日時は9月29日(土)午後6時から。チケットはコーヒー付きで800円。当日はジャマイカのコーヒーを用意して待ってます!

土祭だより Vol.4

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月17日 二日月 きれいな目

初日から、あれこれがんばりすぎてしまった。

今朝はゆっくり休もうと思っていたのだが、
6時きっちり、いきなり聞えてきた音楽で目がさめた。
題名はわからないが、懐かしい童謡である。
町内放送。この音ではいやがおうでも起きてしまうが、
文句をいう人がいないから今日も元気に鳴っているわけで、
益子の人は誰もが6時には起きているということなのだろうか。

ちなみに、その後、正午と夕方6時にも町内放送で音楽が流れた。
朝は早くに起き、正午には労働の手を休めて昼食を食べ、
日が落ちる6時にはその日の仕事を終えるというリズムが、
ものづくりの里である益子には昔から脈々と刻まれていたのだろう。
町内放送の音楽は、田畑を耕す農民にも、
窯や轆轤(ろくろ)場で働く職人の耳にも届き渡る、共同体の時間割なのだ。

本通りのガソリンスタンドで、こんな子たちを発見。この子たちもかわいいが、うしろの年季もののガソリンタンク(?)もかなりかわいい。

お昼前になって、土地勘のある本通りあたりまで行ってみる。

土祭は、益子町内を3つのエリアにわけ、
益子駅からつづくこの商店街のエリアは「土と風のエリア」と名づけられている。
酒屋さん、時計屋さん、文房具屋さん…… 昔ながらの店構えの小売店が軒を並べ、
路地裏に入れば古い蔵や門の跡、
少し奥まったところにある民家の風体もどことなく上品で、
その庭には一本、見あげると顎が痛くなるほど大きな樹がすっくと生えていたりする。

そういえば、はじめて益子に来たとき、いちばん心惹かれたのも、
この、ときどき出現する大きな大きな(と二度くり返したくなるほどの)樹であった。
わたしは鎌倉に住んでいて、まわりに樹はいくらでもあるのだが、
これほど大きな樹を見たという印象はあまりない。それも背景の違いだろうか。
ここはどこも空に抜けている。だから樹のぜんたいが見晴らしよく見えて、
それが「大きいなあ」という印象につながるのかもしれない。

ヒジノワ。左がカフェ、右がコミュニティースペース。土祭中は、彫刻家古川潤さんの展示と、住民プロジェクトとしてグリーンインテリアのワークショップなどが開催。

本通りの真ん中あたりにある「ヒジノワ」は、
土祭という母から生まれた子どものような場所である。

築百年の民家で、信用組合などの事務所として使われたあと、
長く空き家となっていたのを、2009年の土祭で現代アートの展示会場として改修。
その後、改修チームが中心となって地域コミュニティースペース&カフェとして立ちあげ、
いまにいたるまで町民たちの手で自主的に運営されている。
誰のものでもない、みんなの場所なのである。

カフェの店主には町民であれば誰でも立候補可能。
9月の出店者紹介のチラシの献立を見ると、マクロビ、家庭料理、韓国料理、
オーガニックのお菓子に天然酵母パン、
「ふだんは山の工房で陶器をつくってます」なんて陶芸家もいるようであるから、
ある意味「ごっこ」の楽しさがあるのだと思う。

プロフェッショナルではないカフェというものを、わたしはあまり好きではないのだが、
ここはなんだか、このゆるさがうらやましいくらいである。
一回目の土祭をまちの人々がいかに楽しんだか、その余韻がふっくら感じられるのである。
カフェという言葉とはあまりに不釣り合いなおじさんが、不器用に一生懸命に、
でも楽しそうにコーヒーをいれてる姿なんかを見ると、
へりくつよりも心が楽しいのがいちばん大事。
そんなふうに、素直に明るく思えてくるのだ。

前回の土祭で美術家・仲田智さんが発表した、益子釉薬のテストピースを用いたコラージュが、そのまま壁に残されている。

一個のデザートをふたりで分け合っていた女の子たち。可愛らしいのでカメラを向けたら、顔をかくされてしまった。

午後は、昨日にひきつづき「つかもと迎賓館」で開催されるセミナーへ。

今日の講師は発明家で、那須町で「非電化工房」、ご本人いわく「非電化テーマパーク」を
主宰されている藤村靖之さんである。
発明家というのは、獣医につづく、わたしの憧れの職業であるが、
白いおひげをたたえた藤村さんは、
そのどちらといってもおかしくない面立ちをされている。

震災後、にわかに注目を浴びた藤村さんはいま、
書いた本が売れて売れてしかたがないという人生初の体験をされているのだそうだ。
しかし、もちろん藤村さんがされてきたことは、お金儲けとは対極にある、
エネルギーとお金を使わずに人はどれだけ幸せになれるかという高遠な試みであって、
ひっくり返せば「幸せとは何か」ということをずっと問いつづけてきた人
ということになる。

発明家の話を夢中で聞く、いがぐり坊主の兄弟。アフリカの土の家の写真を見ると、「ぼくもつくろうかな」とつぶやいていた。(撮影:矢野津々美)

「エネルギーとお金をかけないということはどういうことか? 
それは自分でつくるということです。自分でつくれば時間がかかるし、
工夫も努力も人との協力も必要になるけど、
幸せというのはその過程のなかにあるんじゃないか」
「ぼくは、たかがお金のために、若者に不幸になってほしくないんです。
だから、ほら、お金なんてかけなくても豊かさを得られるじゃないかということを、
ぼくのテーマパークでぜひ見てもらいたいと思っているんですね」

ひとしきりのお話のあとは、世界各国の土の家を撮りつづけ、
今回の土祭で「たてものの未来 土の家」の展示もしている
写真家の小松義夫さんとの対談となった。
藤村さんが小松さんの本の熱心なファンということから、実現した顔あわせらしい。
小松さんは、子どものための家の本を多数出版されているようだ。

右が小松義夫さん。

藤村

ぼくは、困っている人を助けるのが発明家の仕事だと思ってるから、
よくアフリカに行くんですね。
お金がない、お水がない、アフリカには困っている人がたくさんいるんです。
それでね、世界一貧しいといわれているジンバブエに行ったとき、
そこにある家が世界一すてきだと思ったの。
世界一貧しい国の家が世界一すてき。
そんなことが自分の内で起こったことが愉快で愉快で。

小松

それはあたりまえですよ。アフリカの土の家こそ、未来の家のかたちだと、
ぼくは思っていますから。
日本や先進国の暮らしは、もう行きづまってるでしょ。
行きづまったら、うしろを見るのがいいんです。

藤村

ぼくたちは、つねに、アメリカとかフランスとか、
自分たちより豊かな国の家をすてきだと思ってきた、いや、思わされてきましたね。

小松

うん、そう。でもほんとのユートピアはどっちなのかってことですよね。
貧しい国はお金がないから、そこにある素材で自分たちでつくるしかない。
でも、それがもっとも利にかなって気持ちのいい、
風土になじむ家になるんです。
そこにある素材というのは、その土地と一緒に呼吸してきたものなんだから、
景観として土から生えているようにすてきに見えてあたりまえなんです。

藤村

それが人間味ともいえますね。

小松

ぼくがいつも思うのは、貧しい国でほど、すてきな目に会える。
子どもの目なんて、それはきれいですよ。
それはなぜなのかということを、考えてみるときがきていると思います。

藤村さんが制作指導し、益子町の隣の真岡工業高校の生徒がつくった電気を使わない冷蔵庫。左の女性は図面制作した海老原綾さん。夕焼けバーや「鶴亀食堂」などで使用されている。(撮影:矢野津々美)

気仙沼・男山本店 つながりの地酒。

1912年創業の老舗酒蔵を襲った震災。

宮城県気仙沼市の内湾。
ここは、フェリー乗り場の桟橋が一部を残して海に沈んでいるほかは
瓦礫もきれいに整理された地区だ。
しかし、そんな内湾の海沿いに、ひときわ目を引く建物が倒壊したまま残っている。

この建物は、1912年創業の老舗酒蔵「男山本店」の社屋兼店舗。
国から有形文化財の指定も受けている、歴史ある建造物だ。
もとは木筋コンクリート3階建てだったが、
今は1、2階が潰れて無くなってしまっている。

「震災当時、我々のような直接酒造りに関わるメンバーは店舗近くの酒蔵にいました。
ザーッという波の音と悲鳴を聞いてすぐに、高台に避難したんですが、
山の上から見えるはずの店舗の屋根が、その時にはもう見えませんでした。
あそこまで波が来たのかなと思ってよく見ると桟橋とか、
動くはずのないものが動いている。
驚きとか悲しみとかよりも、夢じゃないのかという気持ちでした」

そう語ってくれたのは男山の副杜氏、柏大輔さん。
気仙沼に生まれ、大学卒業後の就職先で酒類の販売に関係したことがきっかけで、
お酒の造り手となった。男山では、ブログの更新も担当している。

「震災当日は、すぐに帰れると思っていました。
明日は子どもの誕生日プレゼントを買いに行かなきゃなと思っていたくらいだったので、
本当に呑気なものでしたね。
ただ、夜になって火が回った時に、すごいことになっていると気づきました。
はじめて怖いと思ったのも、その時です」

車の中で一夜を明かした翌日。
酒蔵に戻ると、主力銘柄である「蒼天伝」が発酵途中の醪(もろみ)の状態で
無事に残っていた。
生き物とも言えるお酒が搾りの作業を経て完成に至るには、
この状況下でも目を離すことが許されない。
酒蔵には2人の社員を残し、決死の対応で発酵を見守った。
そして、約10日後に新酒の上槽日を迎える。

しかし、電気、ガス、水道はまだ復旧しておらず、
従業員の中にも親や兄弟を亡くした者が少なくない。
この時、前年から仕込みを続けたお酒の完成をあきらめる覚悟もしたという。

「まわりの人がまだ水も電気もない生活を続けている中で、
我々は洗い物をするための水を手に入れようとしているわけですから、
準備が出来てもすぐに気持ちを切り替えられないだろうと思っていました。
こんな状況の中で仕事、ましてや酒なんて造れない」

その時、周辺の人々から応援の声が挙がった。
「地元の生産者として、気仙沼を盛り上げてくれ」
「電気も水も提供するから、是非とも続けてくれ」
従業員達は、この声に背中を押されるかたちで、搾りの作業を実行。
約1600本分の「蒼天伝」が完成した。

男山の社屋兼店舗。目の前に気仙沼湾が広がる。

高台にあった酒蔵も築100年を越える建物。震災の被害は免れた。

震災当時は、タンクに氷を巻き付けて温度調節を行ったそう。

全国から寄せられた応援に応えたい。

「そこから先は怒濤の忙しさで、休みもなく毎日ふらふらな状態。
しかし、ほかの製造業はほとんど動けない状況になっていたので、
私達がやるしかないという使命感で乗り切りました。
あとはなにより、全国の皆様からメールや電話で寄せられた、応援に、
応えたいという気持ちが強かった。
うちは小さい会社なので、市内での流通がほとんどだったのですが、
地元酒販店さんのほとんどが被災し、すぐに商売を再開できる状態ではなかった。
それでも商売を続けることができているのは、
震災をきっかけにできた多くのご縁のおかげです」

それから1年数か月がたち、激務からは解放されつつあるが、
全国から届く励ましと、営業を再開した地元酒販店のために、現在も懸命に出荷を続けている。

「気仙沼を全国に発信するとは言っても、私たちの本業はお酒を造ること。
気仙沼の地酒をできるだけ多くの人に届けたいし、楽しんでもらいたい。
それが、結果的にでもこのまちのためになれば本望です」

震災後に入社した伊藤さんは、元漁師だ。

蒼天伝をはじめとした男山のお酒は、ホームページでも購入可能。

ラ・ターブル&雫ギャラリー

屋久島生まれの新しいカルチャーを発信したい。

屋久島を一周巡る県道の南部を走っていると、
白を基調とした都会的なデザインの建物が現れる。
ラ・ターブルというレストランと、ジュエリーと絵画を扱う雫ギャラリーだ。
典型的な“屋久島らしさ”からは少し距離を置いたたたずまい。
ナチュラルでウッディな建物が多い中で、異色の存在だ。
ここを仕掛けているのは、ジュエリーデザイナーの中村圭さんと
画家の高田裕子さん夫婦、料理家の羽田郁美さんの3人。

中村さん、高田さん夫婦は、もともと大阪で活動をしていた。
自然のなかで創作したいという思いをずっと持っていたというふたりは、
たまたま訪れた屋久島に惚れ込んでしまった。
最初は屋久島に通いながら創作活動していたが、
次第に1か月、3か月と滞在期間が長くなっていったこともあり、
思いきって屋久島へ完全移住することにした。
「常に模索しながら、作家性を深めたいと思っていた」(中村さん)
「それまで想像で描いていた森のイメージが、屋久島に全部ありました」(高田さん)
というように、屋久島で田舎暮らしをしたいからというよりも、
自らの創作をより深めたいという思いのほうが強い移住だった。

屋久島で感じたことを作品に落としていくというスタイルで創作していた
中村さんと高田さんにとって、
それらの作品を東京や大阪だけで発表することに違和感を感じ始めていた。
「この土地で感じたことを、この土地で共有したいという思いがあって、
そういう場所があったらいいなとイメージしていたんです」(中村さん)

そんなとき、羽田さんの自宅に遊びにきた中村&高田夫妻は、
裏にちょうどいいサイズの小屋を発見。そこをギャラリーとして定め、
「そのときに横にくつろいでもらえるようなカフェやレストランがあれば
いいなと思ったので、郁ちゃん(羽田さん)に相談しました」(中村さん)

その頃、羽田さんはその自宅をアトリエと兼ねてケータリング業を営んでいた。
もともとは東京都出身だったが、山や川、海のある環境に住むことに憧れていた。
社会人になって数年経ち、食の世界へ進むうち、
住む場所と自分の追求したい食の仕事が屋久島にあると感じ、移り住むことに。
ホテルや料理家のもとなどで料理の修業を積みつつ、
移住して3年目でケータリングを始めた。
こうした流れで、羽田さんの裏庭にあった小屋はギャラリーに、
自宅兼アトリエはレストランへと生まれ変わることになった。

右がジュエリー、左が絵画エリア。温帯植物とのコントラストがまぶしい白亜のギャラリー

雫ギャラリーのジュエリーと絵画のフロアは、入り口は別だが内部の窓でつながっている。

あえて“屋久島らしくない”仕掛けを。

このラ・ターブルと雫ギャラリーは、白い。
いわゆる“屋久島らしさ”はあまり感じられない。
彼ら3人が都会からの移住者だからとはいえ、屋久島の中では不思議な空間となっている。
都会的な要素があったほうが、地元のひとは喜んでくれるのではないか
という思いから生まれたコンセプトだ。

「屋久島にいると、自然があるから
昔に戻らないといけないのではないかというような気がしてくるけど、
今あるいいものを紹介するかたちがあってもいいと思います」(中村さん)
「屋久島は、オシャレしてヒールを履いていくような場所が少ないんです。
今までの洋服が着られないとか、移住者同士だとそういう話で結構盛り上がる」
と高田さんも笑う。

そういった目論見があたって、
ラ・ターブルには特に地元のひとが多く訪れているという。
“フレンチベースのレストランで、平日は一組限定”という、
屋久島ライフからは想像し難いスタイルであるにも関わらず、
「島民の方たちがパリッと着替えて何回もリピートしてくれたりしてうれしいです」
と、その思いがけない利用法に羽田さんも喜んでいる。

しかし、レストランも、ジュエリーも、絵画も、
屋久島の通常の生活から考えたら、決してお手軽ではないかもしれない。
少し背伸びして通ったり、買ったりしなくてはならない。

「使う素材、仕込みの手間、自分の提供したい料理の方法を考えると、
今はこの価格設定になってしまいますが、
思いきってやってみたいことに直球で向かってみようと思いました」(羽田さん)
「幅広いひとになんとなく広めるよりも、
それぞれがやりたいことを突き詰めれば、
共感してくれるひとたちが、例え少人数でもいると思うんです」(中村さん)

屋久島の食材を中心に、今の島では珍しいメニューを提供。前菜は毎週のように変わる。

デザートには、ラ・ターブルの定番バナナチーズケーキ。

彼らは作家であって、ものをつくり、
そこからカルチャーを生み出したいという思いが強い。
それは観光資源が豊富な屋久島からは、なかなか生まれてこない発想なのだ。

「今は、屋久島という島を消費したり、
切り取ったりするような観光がどうしても中心になりがち。
そうではなく、ゼロから何かをつくり出したい。
屋久島から得たインスピレーションを元に生み出された新たなカルチャー。
そこにお客さんに来てもらうという仕組み」(中村さん)
「屋久島らしさって何だろう? と考えたときに、
屋久杉や豊かな自然のイメージが強すぎる。
自然はもちろん素晴らしいし影響を受けているんだけど、
それに頼ってばかりでは、山も森も消耗して自然が壊れていく方向しかない。
でも、屋久島らしい美術や音楽、文化が生まれれば、
それが新たな資源になるはず」(高田さん)

シダのブローチなど、屋久島の自然をモチーフにしたジュエリーの数々。

屋久島の雄大な自然を感じさせる大きな絵が飾られている。下のボトルは、高田さんの絵がラベルに使われている焼酎「水丿森」。

屋久島は自然が豊かな島、というだけの認識でひとを呼ぶことが、
この先どうなんだろうという違和感があるのかもしれない。

「森にばかり重荷を負わせるのもね。私たちが森からもらっているパワーを、
違うかたちに変換して、少しずつ返していきたい」(高田さん)

屋久島への大きなリスペクトは払いつつ、
しかし彼らは、自給的な田舎暮らしに憧れて移住して来たわけではない。
中村さんが言うように、今はもう
「ライフスタイルをそのまま持ってくることができる」時代。
若者はどうしても、一度都会に憧れ、島外に出ていってしまいがちだ。
しかし屋久島にも都会的なカルチャーが生まれれば捨てたものじゃない。
屋久島の高校生ががんばって「ラ・ターブル&雫ギャラリー」へ行くことが、
都市のカルチャーへの第一歩となり、
新たな屋久島カルチャーとして進化していくのかもしれない。

購入しやすいように小さな絵も売られている。白い壁に色が映える。

ちょっとしたオブジェもかわいい。モダンなセンスを意識的に。

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・後編

3.11以降の生き方、うけつぎ方を問いかけてみる。

2012年8月11日。肘折温泉の外れにある「いでゆ館」ゆきんこホール。
東北芸術工科大学の准教授で、「ひじおりの灯」アートプロジェクトの
担当教員でもある宮本武典さんが提起したイベントが
「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」。
働き方研究家・西村佳哲さんがファシリテーターになり、
山形の5人のカルチャーリーダーたちと語り合う、約4時間のミーティング。
会場には、約100人の、学生たちを中心とする若者が集まった。

なぜ、このミーティングを行おうと思ったのか、
まず、宮本さんと西村さんが対話する。

働き方研究家の西村佳哲さん(左)と東北芸術工科大学准教授の宮本武典さん。

Talk1 宮本武典(東北芸術工科大学准教授)×西村佳哲
<どうしてこの企画を?>

西村

今日のテーマは、3.11東日本大震災後の東北、山形を
どううけつぎ、生かしていくか?
宮本さんは震災で変わったのだと思っている。
そして今日のゲストは山形県の文化的リーダー。
宮本さんは、このひとたちが変わったように見えるのですね。
家業や、立ち上げた仕事へ意欲を持つひとたちの居所が
変わらざるを得なかったといったことも含めて。

宮本

1年半前の東日本大震災。また肘折では、
外からの往来をつなぐ幹線道路の地滑りによる交通の遮断もありました。
肘折という場所は、地域と大学とが一緒になって、
地域を考えていくひとつの入り口。
これまで100人以上の学生が参加、通い、学んできたのですが、
3.11以降起こったことは、地域とアートでは括りきれない出来事。
学生たちにとっては、これからなにを作ったらいいのか?
が今日のテーマでもあります。
ただし、おそらくアートやデザインを学ぶ学生たちだけでなく、
自分も含めて、この出来事によって、
私たちは、生活全般を作り直さなければならない、
という状況にあるのではないかなという思いがあります。

西村佳哲さんにファシリテーターとして来ていただいたのは、
西村さんの本『いま地方で生きるということ
がきっかけです。
震災後の山形をどううけつぎ、生かしていくのか?
それぞれの生活や仕事でうけついだもの、うけつぎたいものを、
うかがってみたかった。
復興支援の活動を学生たちとやっているのですが、
あるまちで象徴的な光景を目にしたんですね。
そこは震災によって集落は消え、高台の神社だけが残っていた。
神様だけがそのまま。
アートは、次になにをつくるかという、
新しいものへ向かうことが多いものですが、
ここになにか新しいものをというのではなく、
過去を呼び出す、うけつぐことのほうが重要なのでは
という思いが生まれたんです。
今日のゲストは、前の世代をうけついだひとたち。
でも、ストレートに“うけつぐ”ということが
難しくなっているとも思うんです。
“うけつぐ”と“呼び出す”はニュアンスが違いますが、
土地やひとの歴史にもっと深く感度を上げて、
以前からあるものをカスタマイズしながら、
いまの時代にあったかたちで、うけつぎ、呼び出していく行為。
その“うけつぐ”現場、“呼び出す”現場が
どうなっているのかを知りたいんです。

西村

宮本さんから見て、今日参加してくれている5人の方々は、
理想を実現している印象なんですか?

宮本

んー。いろいろ直面していると思うんです。
でもけっして、「しかたないよ」ではなく、
自分で仮説を立てて、受け身でなく対応している。
それによって、なにかに直面していると思うんです。
まさに、そのことは、アート、農業、観光などに携わる
ひとびとが、業種を超えて共有しなければならないものです。

西村

どう生きていくか、働いていくか。
その実践を語ろうというのは、成功例でこのようになりましょう
ということではけっしてなくて、どう考え、喜び、しんどいか。
おそらく今日は、それを報告してほしいということなんでしょうね。

宮本

問題を発見する能力だと思います。
アートでもほかでも、それがないとピントがあっていかない。

西村

うまくいっている部分というより、期待しているのは、
課題をどう捉えているか知りたい
ということなのかもしれませんね。
今日、みなさんが集まった意味は。

Talk2 渡辺智史(ドキュメンタリー映画作家)×西村佳哲
<山形でドキュメンタリーを撮り続けることは可能か?>

渡辺智史(わたなべ・さとし)
1981年山形県鶴岡市生まれ。鶴岡南高等学校卒業。
東北芸術工科大学デザイン工学部環境デザイン学科卒業後に上京し、
映画制作会社に勤務後フリーとして活動開始。
2011年に映画『よみがえりのレシピ』を完成させる。

西村

最初のゲスト。渡辺智史さんです。
まず、今日のテーマを受けての自己紹介を。

渡辺

私は東北芸術工科大学に1999年に入学しました。
建築に憧れ、環境建築を専攻。
2000年に大学で東北文化センターが立ち上がり、
その活動の一環で、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に参加。
世界中から制作者が集まり、話を聞くというまたとない機会で、
自分の中にひとつ、ドキュメンタリー映画の可能性
という気持ちが芽生えたんですね。
2001年、大学3年生のときです。
9.11のNYテロが起き、その映像を見た瞬間、
言葉では表せない恐怖感を覚えた。
大学の授業は、体系だったものを教えるもの。
では、目の前で起きたことに大学の学問はどう答えられるか?
という自分の中の課題もそこで生まれました。
その後も、世界中からさまざまなドキュメンタリー映像が集まり、
その濃さに驚いた。市民がビデオを持って作品をつくれてしまう、
作家と市民の境目がなくなった、と思った。

そうして、ぼくは映像の世界に入っていくのですが、
山形のどういうものを掘り下げるか。
自分が探っていたいものは農村だったんですね。
そして、初めて監督した作品が
湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』。
(2009年廃校になる大蔵村立肘折小中学校の
廃校を迎えるまでのドキュメンタリー)
青年団や地元のひとたちと、映画を撮れた。
映画制作が、撮って終わりでなく、上映にも関わる。
それを体感できたのは貴重な体験でした。
つくるだけでなく、届けること。
ただ、一方で、経済的には成り立たない面もあることに
直面するわけです。
今度新作を撮りました。
よみがえりのレシピ』という作品で、
テーマは“在来作物”。
その土地特有の野菜は、貴重な地域資源でもあり、
生物多様性の豊かさでもある。
その種を守り、つくる、その在来野菜に光を当てて
メニューを提供する山形イタリアン「アルケッチァーノ」の
シェフ奥田政行氏も登場します。
この製作は、市民有志で製作委員会を構成する
“市民プロデューサーシステム”というかたちで実現しました。
一口1万円の資金を提供する。
上映されることでどうか関わっていけるかなど
トークショーなどもしながら、つくってきました。

西村

この映画は、みんなが見たいと思ったらどうすれば?

渡辺

10月20日からユーロスペースで公開されますが、
肘折でも、東北芸術工科大学でも上映します。

西村

渡辺さんの関わり方は、作品をつくるだけでなく、
届けることもする。そこに活路を見出している。

渡辺

売れる映画というのは製作面でも上映でも
だれかに面倒を見てもらえますが、
ドキュメンタリー映画というのは、
どこか在来作物のようなところがあって、
小規模で、手を差し伸べてもらえることがなかった。
なんとか自分たちで再生産できるように、
経済活動のなかでも生き残れるようにしていきたいと思うと、
こうした手法になります。

西村

日本の戦後の映画興行システムとは違い、
多くのひとは食べさせられなくても、
少人数は生業を立てていけるようなイメージ?

渡辺

東京はフリーのチームの自在なつくり方ができる。
山形でも山形らしいそうしたかたちがつくれたらいいのでは
と思ってます。

西村

私は出身が武蔵野美術大学の工業工芸デザイン。
作品のつくり方は教わったが、つくり方以上のことは
教わらなかった。例えば、ポストカードをつくったとして、
どう届け、広め、稼ぐかを、大学では全く教えてくれなかった。
それは渡辺さんが専攻した建築でも?

渡辺

みかんぐみの竹内昌義先生のような、
現場をもちながら、教えてくれるひとはいますよ。
それは勉強になった。

西村

目の前で生み出されることを知るのはいいよね。
ロサンジェルスに建築を学び行っていた若い友人に
どんな授業を受けているのか訊いたら、
ちょうどその頃は、300人くらいの大きな設計事務所のひと、
10名ほどのアトリエのひと、ひとりでやっているひとなど、
いろんな建築家が週替わりで教室に来て、
仕事の進め方や成り立たせ方を教えてくれているって。
すごくいいなと思った。
渡辺さんは、東北を離れようという考えはなかったのですか?

渡辺

6年ぐらいは東京にいました。
映像制作の事務所にいたことがあるのですが、
そこでは、まず企画書を書いて、ゼロから始める。
そこで鍛えられました。
山形でやろうと思って、縁あって
『湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』を
つくることができたのですが、
その時、後ろめたさも感じたんです。フォーカスする場所について。
なので、『よみがえりのレシピ』というのは、鶴岡を舞台に、
自分の生まれた場所で映画をつくろうと思った。
それは、自分が距離を置いていた故郷と
関わり直すことでもあった。
ドキュメンタリーというのは、撮る側も、見る側も
学びのツールだなとつくづく感じます。
真剣勝負で関わることで、とても勉強になる。

西村

東京では離合集散ベースで作品制作はできるが、
山形でそれをやるのは難しいのかな?
ひとが少ないから?

渡辺

フリーランスで活動しているひとが少ないですね。
映画だけで食べていくのは難しい現実がある。
だけども地道に上映活動をすることで、
地域の観客としっかりした関係が生まれ、
継続して映画制作を応援してくれる土壌ができあがる。
そのためにも『よみがえりのレシピ』の上映活動を
地道に行っていこうと思っています。

西村

震災の前後で世界や認識は変わりましたか?

渡辺

ひとの動きが変わったと思います。
FacebookなどのSNSをやるひとが山形県内でも増えた。
故郷に帰るデザイナーもいる。そんなひとたちと、
ゆるやかな連帯の中から、
ビジネスの芽を見つけようとしています。
インターネットのことなどは、
地元にいるスペシャリストから知恵をいただいて、
進めていたり、ということが起こっています。

西村

それが聞けてよかった。

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・前編

山形県のちいさな温泉街でおきていること。

山形県大蔵村は、全国に44ある「日本で最も美しい村」のひとつ。
山形県のほぼ中央に位置し、JR新庄駅からならクルマで約30分の小さな村。
その村の中心部から、さらに山を越えたところ、
肘折火山の噴火が作ったカルデラに佇むのが肘折温泉。
月山、葉山などの山々を水脈とする銅山川の水は豊富で、
川沿いに寄り添うように並ぶ20余りの旅館や小さな温泉街の通りには、
水も源泉も惜しみなく流れ続けている。

開湯1200年と伝えられる肘折温泉は、
東北地方を中心としたひとびとの湯治場として愛されてきた。
風情のある旅館は縁側も開放され、
ひとびとはそこでのんびりと無駄話を楽しむ光景が見うけられる。
商店には、みやげものだけでなく、地場の山菜、日用品、食材が並び、
そして、毎朝5時には地元農家のばあちゃんが開く朝市も起ち、
自炊も含めた湯治文化が残っていることを感じさせる。
旅館のごはんも、滋味溢れる地元の食材を、
米どころ山形のうまい飯でいただく。美味しさをしみじみ堪能できる。

大蔵村四ヶ村地区にある棚田は、日本の棚田百選にえらばれ、夏にはほたる火まつりが行なわれる。

カルデラ温泉館に湧き出る炭酸泉。飲泉として利用すれば、胃腸や肝臓などの働きを良くしてくれる。

これが肘折温泉のメインストリート。旅館と商店が並ぶ、小規模な温泉街。

商店にはおみやげとしても自炊湯治にも使える地元の名産が並び、朝市も立つ。

ものの5分もあれば、端から端へと行き着いてしまう温泉街。
普通なら、高齢の浴衣姿の客がそぞろ歩く静かな湯治場であるはずが、
ここはちょっと違って、若者たちのグループや、若い家族連れやカップルの姿も多い。
その呼び手となっているのが、山形市にある東北芸術工科大学の活動。

肘折もかつてに比べると、訪れる客も減り、後継者の問題も根深くある。
そんな温泉街に2007年から東北芸術工科大学がアートプロジェクトを立ち上げ、
学生たちが訪れ始める。
アーティストが滞在して作品を制作するアーティストインレジデンスや、
『ひじおりの灯』と名づけられたプロジェクト。
これは今年で6回目を迎える。
肘折は夏や、秋の収穫を終えた農閑期には湯治客で賑わうが、
冬は3メートルほども積もる雪のなかで、ひっそりと、
本当に地元のひとびとだけがひっそりと家の中で暮らす土地になるという。
その雪が消え始める春先、
東北芸術工科大学の学生たち(あるいはいまでは卒業生も)が、温泉街にやってくる。
旅館に滞在しながら、旅館や店の歴史や物語を聞き、
それを月山和紙に灯ろう絵として起こしていくのだ。
その灯ろうは、毎年、7月終わりから9月にかけて、それぞれの家に吊るされ、
毎夜、灯が灯されて、観光客たちの目を愉しませている。

おそらく、アートには、つくられた作品によってひとを招く力だけでなく、
制作する過程の中で、土地の記憶を呼び覚ます力、ひとをつなげる力、
土地の伝統文化や資源を保全する力、その土地の価値を高める力があると思う。
そうした、アートの可能性を、学生たちと地元のひとびとが模索し、
協力し、実践する、大きな実証の場にこの肘折温泉はなっている。

温泉街の真ん中に、旧肘折郵便局舎の建物がある。
この昭和12年に建てられた洋館は、肘折温泉のひとつのランドマークで、
これまでの灯ろう絵のギャラリーを学生たちが運営しながら、
毎朝、はたきを持って、灯ろうの手入れをし、夜は灯ろうに灯をともす。

旧肘折郵便局の建物から始まる、毎年恒例の「ひじおりの灯」のイベント「肘折絵語り・夜語り」。

肘折には、いま学校がない。かつて、大蔵村立肘折小中学校があったが、
村の中心部の学校に統合され、2009年廃校となった。
それ以前ももちろん、中学を卒業すると村の子どもたちは、
さらに外の高校へ行き、その後の進学や就職によって
肘折をいったんは離れていくというケースも多いと聞く。
そして、ある時期に、家業を継ぐために帰村するかどうか選択する時がくる。

肘折でそば屋さんを営む、肘折青年団の団長の早坂隆一さんは、
大学院を出た後、東京のIT系の会社に勤め、2005年に肘折に帰り、家業のそば屋を継いだ。
東北芸術工科大学のアートプロジェクトや、
そのOBのドキュメンタリー映画監督渡辺智史さんの肘折での映画制作に関わる中で、
青年団の活動の輪を広げていった人物。
彼が語った言葉。
「ひじおりの灯というのは、この場所の、
地元の自分たちが見えていなかったものを見せてくれる活動。
例えば、この村に自然があるのはあたりまえのことなんですが、
それをひとつの作品というかたちで見せてもらえるのが新鮮だった。
外のひとたちの視線や体験が残したいものを照らしてくれる。
そして、そのこと自体も、残したい財産のひとつになっている気がします」

ある大学とある温泉集落。ここで営まれることの価値は、
次第に内外のひとびとを巻き込み、あるかたちを見せてきている。
これは、確かなこと。

渋すぎる売り上げ

マチスタの救世主現るか!?

飲食店業界では「6月は悪い」というのが通説らしい。
おっしゃる通り、マチスタの6月の売り上げが
20万円以上の赤字を計上したことは前に報告した通りだ。
でも、とりたてて「6月が悪い」というからには、7月には通常上向くはずで、
なのにマチスタの7月の売り上げは6月とほとんど変わらず。
そして8月までもがほぼ同レベルの売り上げで推移した。
これほどの低迷はさすがに想定外だ。
世の中、そう甘くないとは思っていたけど、ちょっと渋すぎるよ、これ。
「夜なんかね、考えると眠れなくなるから、もう考えないようにしてます」
そう言うと、電話の向こう、ジローちゃんが
「そうか、それは困ったな」といつもの鼻にかかった声で。
「じゃあ、まちおこし的にマチスタでオレのライブやるか?」
やっぱりそうきたか。
ジローちゃんにはここ数か月、
ことあるごとに「ライブをやらせろ」と言われ続けている。
ぼく自身がジローちゃんのライブを見たことがないのを理由に
やんわり断ってきたんだけど、これが簡単に引き下がるタマじゃない。
「この間やったライブがyoutubeにアップされてる。
それ見て決めてくれていいよ。9月は連休があるから、
オレも岡山に行きやすいんだけどね」

ジローちゃんは、ぼくが世田谷の「三栄造園」という植木屋で働いていたときの先輩だった。
もう25年以上も前の話だ。当時からレゲエのミュージシャンをやっていた。
カラダはほっそりして、長い髪を後ろで束ね、見るからに「レゲエやってます」
という感じだったんだけど、力はあるし職人としての腕はよかった。
ちなみに、当時のぼくも体力はそこそこのもので、
剣スコ(先が尖ったスコップ)のスピードでは負ける気がしなかった。
そんなことはさておき、ジローちゃんだ。
ジローちゃんは長男の誕生後にほどなくして高松に引っ越して行った。
それからの10数年はほとんど会うこともなかったんだけど、
ぼくが岡山に帰った2006年以降、高松でちょくちょく会うようになった
(児島・高松間は電車で約30分)。
近年のジローちゃんも相変わらずラスタマンな感じで、バンドは止めて久しいものの、
ときどき馴染みの小さなクラブでレゲエのDJをやっていた。
イベントにも2度ほど顔を出したことがある。
何人かいるDJのなかでジローちゃんは頭抜けて最年長だった。
レコードを変えるときは、わずかな照明を頼りに老眼鏡をかけてジャケットを見る。
慣れた手つきとは言いがたかった。
一度、DJの途中で、かけたりはずしたりしているうちにどこに置いたかわからなくなり、
「眼鏡がない!」と大騒ぎしたこともあった。
そんなジローちゃんが、「オレ、ギターを始めたのよ」と言ったのは1年ほど前だったか。
「これが案外悪くないのよ。最近は自分でオリジナルもつくっとるしね」
「サックスはもう吹いてないの?」
「ああ、あれ売った。結構いい値段で売れたんよ」
ジローちゃんはあっけらかんとそう言った。もう眼中にないという感じで。
「岡山でライブしようか? 赤星、知ってるところあるやろ?」
そんな感じで、「ジローのレゲエ弾き語りライブ」の押し売りが始まったのだった。

ジローちゃんに言われてyoutubeの映像を見た。
あんまりこの表現は使いたくないけど、うーん、ちょっと微妙だ。
味があるといえばあるが、ただの酔っぱらいのように見えなくもない。
どっちに転ぶかわからない、そのわずかな可能性に賭けてみるか。
「とゆうわけで、もうさすがに断れなくなってきたんですよね」
コイケさんは声に出さずに笑いながら聞いていた。
コイケさんも街スタで何度かライブを引き受けたという。
最高で50人ぐらい入ったこともあるとか。
「ライブ、どうですかね、やってもいいですか?」
「いいですよ、やりましょう」
これで決まった。
ジローちゃんの岡山初ライブ「コーヒー&レゲエ・ナイト@マチスタ」。
日時は9月22日(土)の18時開場、18時半開演あたりでどうか。
「ちょうどその日はダメなんよ。イベントの前座が入っとるんよ」
ジローちゃんはそのイベントの詳細を聞いてもらいたそうだったが、
ぼくはまったくそこには触れずにいたら、
「その次の週の土曜日なんてどうよ?」
「だって、ジローちゃん、普通の土曜日は仕事があるが」
「そんなん、休むがな」
というわけで、「コーヒー&レゲエ・ナイト@マチスタ」は
9月29日(土)の18時開場、18時半開演に開催が決定。
詳細はこの『マチスタ・ラプソディー』の次回でもお伝えします。
というのも、肝心の本人にはまだこの決定を伝えていないもので。
ちなみにジローちゃんのミュージシャンネームは「Jah South」。
「Jah」はラスタの世界では神を意味するらしい。
あれ、もしかしたら「マチスタの救世主はジローちゃんだった」
みたいなことになっちゃうのか? 俄然、期待。ジロー、頼んだぞー!

ぼくが家で使用しているコーヒーマグ。ピッチャーの球種の握りを示したイラストがお気に入り。2年ほど前に番長からNY土産でいただきました。こんなのマチスタで出せたらいいなあ。

寺田本家 前編

「発酵の里」神崎町へ。

《登場人物》
寺田 優さん(以下、寺田):株式会社寺田本家第24代当主・代表取締役。
南 智征さん(通称、なかじさん。以下、なかじ):
寺田本家蔵人頭、発酵料理家、レシピ本著者。
ジャスティン(以下、ジャス):著者。

都内に住んでいる僕にとって、千葉県はもっとも身近にある農作物の産地というイメージがある。
その一方で、「お酒」から「千葉」という言葉がなかなか連想できない。
でも美味しいお米ときれいな水があるところに、美味しいお酒がないはずはない!
今回それを信じて、成田からほんの少しの距離にあり、
「発酵の里」として徐々に知られつつある神崎町(こうざきまち)に行くことにした。
ここには、まちならではの独特な発酵フィロソフィーがあり、
地元の人たちの発酵ライフを後押しする酒蔵「寺田本家」が中心となって活動している。
酒づくりにも最新技術を導入することなく、
日本最古の発酵の智恵を掘り起こして酒づくりを行っていると知って、
どんな味が醸し出されているのか興味津々で訪ねた。
僕たちを出迎えてくれたのは、寺田本家蔵人頭のなかじさん。

ジャス

おはようございます!

なかじ

おはようございます!

ジャス

今日はよろしくお願いいたします。

なかじ

よろしくお願いします。ふたりとも旅しているような格好ですね。*
*(半ズボンとサンダルをはいた、いろんな荷物を背負っている姿の僕と
フォトグラファーの飯野さんのこと)

ジャス

そうですね。まぁ、旅している感覚で楽しくやろうかなと思ったけど(笑)。

なかじ

いいんじゃないですか(笑)。

農家の人たちが自分で楽しむためにつくっていたお酒。

陽気ななかじさんに連れられ寺田本家に行くと、
何人かの蔵人さんが蔵の端から端まで駆け足で往復していた。
そこで寺田さんと合流。
挨拶が終わった途端、「よかったら手伝いませんか?」と聞かれ、
いつの間にか蔵の作業に参戦! 笑顔で指示していただきながら
「マイグルト」(100%植物性乳酸発酵飲料)用のお米を
仕込みタンクまで何往復か運んでいく。
これが寺田さん流のウェルカム・スタイル。
その後、寺田さんとなかじさんに蔵を案内していただきながら、
寺田本家さんの酒づくりについて特別に見せていただいた。

ジャス

ここは冬場だけじゃなくて、夏にもお酒づくりをやっていらっしゃるんですね。
こんなに外気が入ってくる構造の蔵だから、温度とか環境の調整が難しそうですね。

寺田

発芽玄米のお酒「むすひ」(昔の日本語には濁点がなかったということで、
「むすび」と発音する)と、「醍醐のしずく」というお酒は
夏場でもつくれるんですよ。
両方とも、もともと酸味があって、酸っぱいお酒ですね。
この蔵にいろいろな酸味麹があるおかげで、年中通して元気に発酵していく。
このお酒のつくり方が、エアコンもなかった、昔からのつくり方なんです。

ジャス

そういうお酒を再現させようとしているのですね。
どぶろく系のお酒というか。

寺田

まさにどぶろくのつくり方ですね。
このつくり方でやると、
暑い夏でも腐ったりしないでちゃんとお酒になるからって、広まったお酒で、
農家の人たちが、自分で楽しむためにつくっていたお酒なんですよ。
夏の時期プレミアムなお酒はつくれないから、
自然な、そして、気軽な酒づくりというイメージですね

マイナスからはじまる。

ジャス

お酒のつくり方が時代と共に変わってくるにつれて、
酒づくりの技術という言葉の意味合いも
少し変わったんじゃないのかなという気がしますね。

寺田

そうですね、つくっている特徴が、例えば「醍醐のしずく」の場合ですと、
生のお米を水に浸して、それをしばらく放っておくんですよ。
そしたらその浸している水自体がだんだん酸っぱくなっていくんですね。
まるで腐っているみたいに酸っぱくなっちゃうんですよ。
で、だいぶ臭くなったらその生のお米を取り出して蒸して、
麹とその蒸したお米と合わせてそこにくさ~いにおいがするお水を入れて、合わせて、
発酵がはじまるんです。
その生米と腐った水を漬けた状態のこと、腐れ元っていうんですよ。
元々腐っている状態からはじまるじゃない?
でもそれが美味しいお酒になっていくのがこの「醍醐のしずく」の面白いところ。
マイナスからはじまるみたいな。

ジャス

“マイナスからはじまる”。少し意外ですね。なんとも興味深い!

地元の持ち味と“地酒”の意味。

寺田

これは製麹室(せいぎくしつ)といいます。麹をつくる部屋ですね。
靴を脱いで、入っちゃってください。

ジャス

はい、オッケー。あれ、でもこのままで入っちゃっても本当に大丈夫ですか?
何も帽子被ったりとかしなくても?

寺田

いえ、大丈夫ですね。

ジャス

え~、珍しい。これは、もしかして寺田本家さんの麹室だからできる、というか……

寺田

そうですね。お客さんにいらしていただいて、
さまざまな雑菌を持ってきてくれるのが、
うちの美味しい麹づくりの元になってるんじゃないかな~と。

ジャス

へぇ~!

寺田

いろんな菌が入って、その菌のバランスのなかでできる麹というのが、
お酒の命となっているんじゃないかなと思いますね。

ジャス

そしてこれは、玄米麹ですね、「むすひ」の?

寺田

そうですね。これは今日で3日目、明日完成するので甘みもまだ途中ぐらいですが、
麹本来の甘みを感じていただければと思うので、
どうぞちょっと味見してみてください。

ジャス

……あ、本当だ。ほんのりの甘みが。でも美味しい。

寺田

明日になったらもっともっと甘くなって、
玄米由来なので、複雑な味と香りになっていくんです。
お米、玄米のままの成分というよりも、麹菌がつくことで、
栄養成分も4倍ぐらい増えて、お米自体の成分がどんどん変化していくんですよ。
たんぱく質を分解するプロテアーゼとか、でんぷんを分解するアミラーゼとか、
いい麹菌は麹のなかで酵素をたくさん蓄えるので、いい麹ができあがるんですね。
うちの場合この麹菌のもともとの菌が稲麹という、
田んぼから採ってくる麹菌を使っているんですよ。

ジャス

稲麹って、なかなか聞かない言葉ですね。

寺田

稲麹自体はどこにでもあると思うんです。
でも、それを実際麹づくりに活用しているところは、なかなかないかもしれない。

ジャス

確かに、普段は日本でもほんのわずかしかない種麹屋さんから種麹を頼んで、
お酒をつくっているところがほとんどですね。

寺田

そうですね。それは普通のつくり方なんでね。
うちの場合は、自分のところで育っている麹菌を持ってかえってきて、
それをお米につけて、種麹をつくっちゃう。本当に地元の菌で。
お米の品種でも在来種のように、昔からつくっている品種って、
よく麹菌がつきやすいんですよ。
病気になりやすくなったりとかもあるんですけど、逆に微生物がつくことで、
発酵しやすいんじゃないかなと思うんですね。
だから、本当の酒米というのは麹がつきやすくて、発酵しやすいお米じゃないかな。
一般の酒米って、精米しても割れにくいのがいいお米だ、と言われているんですけど、
うちではね、稲麹がつきやすい米がいい酒米なんじゃないかなと思っているんです。

ジャス

そういう意味では、各地域のお酒ならではの持ち味というか、
それを上手く表現するにはやっぱり地元の田んぼで……

寺田

そう。地元の田んぼで育った菌。

ジャス

そう考えると地酒という言葉って、
定義自体が普通とはちょっと違う捉え方になりそうですね。
酵母にしても、地元のものを活用するのではなくて、
違う地域の研究所でつくった酵母を使っている“地酒”って多いから。

寺田

うちのは“本当の地酒”って言ってね。うちの麹菌は地元の菌で、
酵母菌も蔵づき。人工的な酵母菌を添加してないですね。
自然にブクブクわいてくる菌を生かして、
すべてあそこら辺にいる菌でできるんですよ。
どこかのラボでつくって、地酒だ! と言うより、
地元でいいものをつくったら、微生物が現れてきてくれて、
それで発酵しはじめてくれる。
身土不二、地産地消、いろいろ言い方考え方がありますが、
そこの地が持っているエネルギーを、そのまま取り込むということが、
良いお酒づくりに繋がってくるんじゃないかなと思います。
微生物やお酒の発酵でもそうだとは思いますが、
その土地のエネルギーを取り込むという点では、
もしかしたら、人間でも同じことが言えるんじゃないかな。

 

次回は、発酵料理家でもあるなかじさんに、とっておきの麹レシピを教えていただきます。
to be continued!

満月・宮酒ワインバー

よなよな小田原、ぶらりと一杯。

神奈川県小田原市に満月の夜だけ営業するというバーがある。
バーといっても、そこは築80年の建物を改装した、
昼間はカフェをやっている店。
バーを開くのは小田原の隣、足柄上郡中井町で酒屋を営む若夫婦。
ご主人の宮川満洋さんはシニアワインアドバイザーの資格も持っており、
毎回、季節やその日に出る食事にあわせたワインや酒を数種類用意する。

さて、現地に着いたら、1枚500円の満月券を購入する。
何枚買ってもいい。余れば戻せばいいのだ。
さあ、満月券を買ったら、お月見のひとときの始まり。
今宵、満月を愛でながら、何を飲み、食べましょうか。
誰と、どんな話を語りましょうか。

小田原駅から徒歩10分ほどの場所にあるカフェ「暮らしの遊びnico café」で、
満月の夜だけ開かれている「満月・宮酒ワインバー」は
次の満月(8月31日)で開催9回目を迎える。
最初は主催者である宮川酒店の若奥様、綾さんが
ブログで小さく告知を始めたのが、
TwitterやFacebookでいつの間にか広まっていき、
今では4~50人程度のお客さんが、満月の夜を楽しみにやってくるという。
グループもいれば、帰りがけにSNSで見かけて
ひとりでひょいと顔を出す人もいて
メインのテーブルは知らない人同士が座っていても不思議と盛り上がっている。
これも満月の魔法のなせるワザなのだろうか。

この日、料理を担当するのは湘南・鵠沼海岸で
野菜たっぷり無添加の玄米ランチ配達を行う「Vegiko(ベジコ)」。
湘南の奥様方に人気のアジアンテイストの料理は
ケータリングで運ばれ、店主の岡村恵子さんがサーブする。
ちなみに、前回は茅ヶ崎の「海席 cuisine 空海」が出店していた。
このイベントでは、毎回地元の人気レストランによるケータリングが人気で
好きなものを選んで食べられるようになっている。
盛り合わせの種類の多さで1~2枚の満月券を支払う。

Vegikoのアジアンテイストにあわせて南足柄市のパン工房polonがバインミー用のバケットを用意。

バインミー、さんまのレモングラス風味揚げなど、アジアに旅した気分の3種盛り合わせで2満月券。

今回の飲み物の目玉は埼玉県川越市を拠点とする
コエドブルワリーのCOEDOビールだ。
基本的には酒屋が営むワインバーがウリなのだが、
盛夏であること、ケータリングがアジアンテイストということで、
先日、宮川満洋さんが工場見学に行って、気に入ったCOEDOをチョイス。
「今日はアジアンフードが出されるので、飲んだあとにクローブなど
スパイス香が広がる“shiro”という銘柄の生ビールを用意しました。
ほかには、芳醇な香りと苦味がビール好きに好まれる“kyara”を。
ワイングラスで香りを楽しみながら飲んでいただきたいですね」
というのは、小江戸・川越からはるばるやってきた
ビール伝道師の松永将和さん。
生産者でもある彼の手から一番美味しい状態で、
ワイングラスにビールが注がれる。
それはもう、贅沢極まりない生ビールの完成である。

松永さんが泡の状態を見ながら注いでくれる。白濁色が特徴の小麦のビール、“shiro”を一杯。

Hair Room HB のみなさんは今回が2度目。「ここに来ると感覚の合う人に出会える」という。

この日はCOEDOビールのほか、
ワインは赤白あわせて14本、さらに日本酒2本が並び、
お客さんはシニアワインアドバイザーの満洋さんに相談しながら
飲みたいお酒を選んでいく。一杯、1満月券。
「レストランだったら一杯ン千円するワインが
一杯500円で、しかもいいグラスで飲めるんだからお得じゃない?」
と喜ぶのはお隣、南足柄市から営業終了後に
電車に乗ってかけつけたHair Room HBのみなさん方。
満月・宮酒ワインバーでは、上代が1本1000円台後半から
4000円くらいのワインや日本酒が並ぶ。
HBのみなさんはワインカウンターの後ろに陣取り、
グラスが空になったらすぐに飲める体制。

こういった様子なので、この場所には、
西湘方面を中心に、湘南、町田あたりまで
飲むことが好きな人たちが仲間と、そしてひとりでもふらりと飲みに訪れる。
「初めて来ても、ワインが好きであれば、そこにいる誰かとは話があいますし、
ひとりで寂しいなどという心配はありませんね」
という40代の男性はテーブルの隣に座った美女と初対面でツーショット。
ちなみに、これはナンパではありません。
宮川さんが毎回配布しているワインリストを眺めながら
楽しくワインのお話をしているんですよ。

ワイン好き同士が偶然隣になれば、こうやってワイン話で盛り上がる、の図。

わざわざ電車を降りてでも小田原に人々を惹きつけるのは
お店の力も大きいのでは? ということで、
場所を提供している「暮らしの遊び nico café」の店主、
和田真帆さんに話を聞いてみた。
nico cafeを作る前は空間プロデュースや
設計ディレクションを生業としていた和田さん。
いつか自分の理想の空間をつくりたいと思っていたときに
この古い建物に出合ったという。
「自分自身を表現する場所が欲しかったんです。
生活の役にたたない“いやしもの”を置きたかったの。
ある程度カタチになってきたところで
このハコをいろんな人に表現してもらったらどうだろうと思って
夜は自分が声をかけた人に営業をしてもらっていました」
和田さんがつくる居心地のいい空間に引き寄せられて
シャッター通りだった通りに人が少しずつ戻ってきた。

築80年の面影を残す建物が妙に居心地のいい空間に。これは、店主、和田さんの魔法。

さあ、今月はブルームーンだから2回開催! 夫唱婦随の宮川満洋さんと綾さん。

でも、どうして宮川さんが満月だけワインバーを開くことに?
「nico caféの和田さんから、夜の営業を週一でやらない? と誘われたんです。
酒屋の営業をしながら毎週は大変だから
月に一回がいいなということで満月の営業になりました。
ワイン会の延長線のようなイメージで、
店主が選んだとっておきのワインたちと
色んなお店のシェフが作る“ワインの相棒”。
そんな素敵なコラボを楽しんでもらいたいと思って。
宮川酒店のPR活動の一環でもあるけれど、
酒屋がやっているバーということで、いろんなお酒を
お客さんに楽しんで欲しかったんです」
と、宮川酒店の「酒屋の嫁」、宮川綾さん。
3人の子どもを持つお母さんでもある。
根っからのお酒好きな夫婦ふたり、
自分たちの扱う商品はどんな特徴があるのか、なんの料理があうのか、
小さな酒屋だからこそできるお酒との付き合い方の楽しみを
「スナック二人」と称してTwitterでも発信しており、
このnico caféでのワインバー開催は
まさに夫婦ふたりの思いと実益がかなったもの。

宮川酒店がある中井町は、
「湘南の端っこ、西湘の端っこ」的な位置と綾さんはいう。
そんな中で感じるのは、小田原・西湘地区は横のつながりが豊かだということ。
「趣味や仕事、カフェや雑貨屋、レストランなどのお店を通して、
心地良い距離間を持って人々が知り合っていく、
そんなイメージがこの地域にはあります」
満月・宮酒ワインバーやワイン会をやっているからか、
ワインを好きな方って意外とたくさんいるんだな、と
実感しているという宮川夫妻。
彼らのお酒を通したコミュニケーションへの思いは、
和田さんや地域のみなさんの協力もあって、少しずつ地域にて浸透中のようだ。

満月は動物の生理状態に影響するとも一説では言われているけれど
この満月・宮酒ワインバーでは、アルコールや美味しい食事が相乗効果を発揮して
人びとを開放的な気持ちにさせている模様。
現に、閉店時間になっても満員御礼の人だかりだった。
美味しいお酒を仲間たち、見知らぬ人たちと楽しむ。
そんなコミュニケーションスペースで飲む、
珠玉の料理とよりすぐりのお酒。
次の満月は足取り軽く小田原まで、一杯いかが?

屋久島〈送陽邸〉の朝ごはん。 毎日でも飽きない絶品の朝食には トビウオは欠かせない。

薄味でシンプル。実は毎日でも飽きない、屋久島定食。

毎年数多くの観光客を迎えている屋久島。
観光客にとって欠かせない楽しみのひとつが、
その土地ならではの食事であろう。
そこで屋久島の永田地区に1992年にオープンし、
屋久島の海から聞こえる波の音をBGMに
泊まることができる宿「送陽邸」の朝ごはんを覗いてみた。

食卓にあがったのは、ごはん、みそ汁、お漬物、のり、屋久とろ、
そしてトビウオとシンプルな献立。古き良き日本の魚定食だ。
やはり屋久島名産というだけあってトビウオは欠かせない。

「塩に漬けてひと晩置いたものです。うちでは焼かずに湯がきます。
焼くより塩分が落ちるのでヘルシー。それに焼くより簡単(笑)」と
こっそり打ち明けてくれたのは、家族経営のなかで、
料理の総監督を務める奥さまの岩川エツ子さん。
かつての屋久島はトビウオ漁が大きな産業となっていたが、
最近では漁獲量もかなり減ってしまったという。
屋久島出身のエツ子さんは、トビウオ漁の昔話をしてくれた。

「昭和40年代くらいまでは、トビウオ漁に何十台もの漁船が出ていました。
大漁だと漁船が旗を立てて戻ってくるんですね。
すると村にはサイレンが鳴って、
学校にいた子どもたちも港に行ってお手伝いをしたものです。
すぐに塩漬けにして、樽に頭を揃えて並べて一晩漬けました。
翌日はゴザを敷いて、その上にそのトビウオを並べて干すんです」

トビウオは昔から屋久島のひとに食べられてきた魚で、
今も変わらず愛されている。保存するためにとられた塩漬けの製法が、
食べたときのほんのりとした塩味となる。
トビウオは淡泊で脂分が少ないので、
少し塩味を加えるだけで飽きずにずっと食べられてきたのだ。
他にも首折れサバなど、屋久島名産にはやはり淡泊な魚が多い。
このトビウオ以外にも全体的に味は薄味で、塩分控えめ。
九州の味付けは一般的には甘めだと言われるが、
屋久島はトビウオからもわかるように、薄味が好まれるようだ。

屋久島産の屋久とろは、通常の山芋よりも粘りが強く、
みそ汁をつくっているときに入れるとそのまま団子状になるというほど。
ご飯にかけてツルッと、というより食感もしっかりしていて、
食べごたえがある。立派なおかず感覚。

みそ汁にも、もちろん屋久島産の具がたっぷり。
なるべくたくさんの品目を入れたいと、10種類程度は野菜などを入れている。
これが味に深みを与えてくれる。
野菜や屋久とろなどは、近くの農家からもらえることも多く、
土地の恵みがたっぷりつまったみそ汁だ。

食後には、黒砂糖がひとつ用意されるのが「送陽邸」流。
屋久島のひとたちはよくお茶菓子として食べている。
これ一粒で元気が出てくる気がするから何だか不思議。
これから山登りするのに、最高のエネルギーチャージとなるのだ。

送陽邸の食堂はほぼ海の上。
海からの風を感じながらいただくトビウオが格別なのはいうまでもない。

田中俊三さん 阿弓さん

自然に負荷をかけない暮らし、ということ。

屋久島は移住者が多い島だ。
田中さん夫妻も、4年前に屋久島へ移住した一組。
もともとは神奈川県葉山町や東京都国立市など都心の郊外に住んでいた。
まずは移住地を探しながら旅をしようと車にベッドを取り付けるなどの改造を施し、
いざ北海道から南へ向けて出発しようというときに、なんと阿弓さんの妊娠が発覚!
日本列島縦断の旅は断念し、屋久島へ居を移すことにした。

「五島列島や鹿児島の南部など、他にも候補地はいくつかありました。
だからすごく積極的な理由で屋久島に決めたわけではありませんが、
新婚旅行も屋久島でしたし、縁もあると思ってここにしました」(俊三さん)

俊三さんは葉山に住んでいた頃、
子どもたちを対象にシュノーケリングやカヤックなどを通して
自然を体験してもらう「インタープリター」という仕事をしていた。
そのときの体験を生かし、屋久島に移り住んだ現在は、ガイド業を営んでいる。
ガイドの仕事はオフィスがなくても、
予約などのやりとりはメールや電話で完結させることができるし、
当日はお客さんを宿や空港、港などへ直接、迎えに行くことが多い。
事務仕事は自宅で行い、職場は屋久島の自然の中へ、という日々を送っている。

自宅は、もともと日本の一般的な家構え。
縁側が大きく、通り抜ける風は気持ちいい。
借家ではあるが、理解のある大家さんのおかげで、壁をつくったり抜いたり、
薪ストーブ排気用の穴をあけたり、自分たちの手で自由に改装している。
その自宅の一部を大幅に建て増しして、昨年10月にオープンしたのが、
阿弓さんが手がける「おひさんの畑」というパン屋さん。

手前は自宅スペース、奥にパン屋さん「おひさんの畑」。大通りから入り、舗装されてない道を行く、静かな環境に建っている。

大きな窓からたっぷりの日差しが降り注ぐ。夏はすだれをうまく使って風通し良い空間に。

新たな木材などを使わずに、リサイクル、リユースした木材を使って
建てたいと思い、自分たちの手でつくり上げた。
その分ぬくもりのある、こぢんまりとしたかわいい店舗だ。

「知り合いの家で解体するという話があれば、
夫が行って解体させてもらって、その廃材をいただいて建てました。
4軒くらい解体させてもらいました(笑)」(阿弓さん)

「骨組みをつくるのは、少し大変でしたが、
失敗しながら4か月くらいかけて楽しく建てました。
一棟建てたのは初めてでしたが、ちゃんと建てられるんだと思いましたね。
もちろん仕事として他人の家を建てるのは無理ですが、
自分たちが住むものならいけます」(俊三さん)

内装担当は阿弓さん。壁に使った漆喰はもらいもの、
棚に使った木材も製材所から出る廃材をもらったもの。
コストはほとんどかかってない。
「あとは丸ノコとインパクト(電動ドライバー)があればなんとかなります」
となんともたくましい。

「おひさんの畑」のパンは、阿弓さんが自ら酵母を育てている。
屋久島には小麦農家が2軒しかなく量が足りないので、小麦は熊本産。
自分の庭でも少しだけ小麦を育てていて、
ゆくゆくは小麦もすべて自家製にしていきたいそうだ。
具材に使う野菜は自家製のものと屋久島産を使用。
バターは鹿児島産、チーズは広島と、できるだけ屋久島産、
無ければ極力近くから取り寄せたいという。

店内には10種類程度のパンが販売されている。夕方には売り切れ続出。

「新じゃがの味噌マヨネーズ」は180円。

現状、週3日オープン。今できる範囲で、ベストのやり方と量を考えると、自然とそうなる。

「畑で野菜をつくったり、子どもとの時間を大切にしながらだと、
ひとりで毎日大量につくるのは難しい。それに大量生産しようと思うと、
材料や商品の質が落ちてしまいます。でも、安心安全な材料を使いながらも、
お土産品のような特別なものではなく、
体が喜ぶ自然なものを日常のなかで地元の方に食べてもらいたいので、
極力値段は抑えています」(阿弓さん)

みずからの畑では、かぼちゃ、トマト、枝豆、アスパラガスなど、
常時20種類程度育てている。それらはパンの具材としても使われている。

「季節ごとにできるものは違うから、いろいろな品目をつくっておかないと
食べるものがなくなってしまうんですよね。
ハンダマはいつでもできるので、常に食卓に上っています」(阿弓さん)

畑には紫の葉が特徴的なハンダマが育っていた。屋久島ではメジャーな野菜だ。

ハンダマとは、京都などでは水前寺菜とも呼ばれる葉野菜。
冬でも枯れないし、肥料を与えなくても、耕さなくても勝手に育つ。
これからは大豆、小豆など穀物を育てていきたいと、農業に意欲的だ。

「自給率は年々アップしています。食卓のお米以外、
すべて自分たちの畑で採れたものっていうときもありますね。
今までは自給用と、パンに少し入れるくらいと思っていたんですが、
これからは出荷できるように比重を増やそうと思っています。
そのために土地の購入も検討しています」(俊三さん)

ほかにも鶏舎があり、今は小さなひよこがピヨピヨ鳴いている。
敵が多く、蛇やたぬき、イタチなどから命を守らなければならない。
成長してニワトリになると、土をひっかき、つつき、フンをする。
つまり勝手に耕してくれて、肥料まで与えてくれる。
これはチキントラクターと呼ばれ、パーマカルチャーに根ざした考えだ。

岐阜のもみじという品種のひよこ。大きく育って卵を産んでくれることを期待。

このように、ひとつの敷地内にいろいろなものを抱え、
パーマカルチャーの考え方を取り入れた暮らしを目指している。

「家もある程度、自作できるし、食べ物もつくれる。
これからは自然に負荷をかけない持続可能な生活をしていきたいんです。
この場所で実現できるかはわかりませんが、
今はその予行練習のようなものですね」(俊三さん)

窓際に飾ってあった大きなドリームキャッチャーが存在感あり。

竹でできた原始的な洗濯物干し台。家に似合っているから不思議だ。

赤いカバのお店

「どがんかなろうが、まあ心配すなや」

梅雨に入ったあたりからあんまりいいことがない。
梅雨明けの後はいろんなことがさらに悪くなる一方で、
期待していたお盆明け、そろそろ災厄も過ぎ去ったかと思って
おそるおそる傘をはずして見上げてみたら、瞬間、
バケツをひっくり返したような大量の水を頭から浴びてしまった。
まさにふんだりけったりの2012年の夏は、
8月の終わりが見えてきたいまも快方に向かう兆しが見えない。
この強烈な呪いをぼくだけに留めるべく、愚痴めいたことは書かないと決めた。
ところが、だ。いったんそう決めたら、
しばらく週イチのペースで進めてきたこの『マチスタ・ラプソディー』が
まったく書けなくなった。
そんなわけで、マチスタがクローズドになったと思われても
おかしくないほどの期間を空けてしまった次第。
いろんな方に心配してもらったり、人によってはご迷惑をかけたかと思う。
ほんと、すいませんでした。

ところで、何年か前、地元で神主をやっている叔父から、
「おまえはあの世で絶対幸せになれる」と言われたことがある。
叔父が伝えたいことはわからないではなかったけど、
当然といえば当然、嬉しくもなんともなかった。
許されるのであれば、いま、この世で幸せになりたい。それがすべての根底にある。

先日、ふと思い立って、Aの墓参りに行った。
Aとは十代の頃からの付き合いで、
お互い上京してからも唯一頻繁に東京で会う同郷の友人、大切な親友だった。
なのに、一度もAの墓に行ったことがなかった。
Aの死を知らされたのは、2006年の12月、
撮影の仕事でポーランドにいるときだった。
共通の友人からの電話で、交通事故で死んだとだけ教えられた。
冬の東欧で聞くニュースとしてはあまりに現実感に乏しかった。
帰国したからといってリアルになるわけではなかった。
それから今日の今日まで、墓参りに行こうと思ったことは一度もなかった。
現にAの墓がどこにあるのかもまったく知らなかったのだ。

Aの墓は瀬戸内海を見下ろす山の上の、こぢんまりとした霊園にあった。
お盆も明けた平日の午後、夏の太陽が容赦なく降り注いでいるとあって
人っ子ひとりいなかった。墓はすぐに見つかった。
小さいけど新しくて綺麗な墓だった。
Aの父親も眠るその墓はA自身が生前に建てたものに違いなかった。
つまりすべてお膳立てした後にAは死んだのだ。
ひしゃくで墓に水をかけながら、つくづくと、
本当に心の底からスゴいヤツだと思った。高校時代から感じていたのだ。
こいつには到底かなわないと。
同じ世代でそそう感じたのは、50年近い人生で後にも先にもAひとりである。
そんな男がぼくの人生の大半、すぐ近くにいてくれた。
それだけでぼくはAに感謝するべきなのだろう。
目の前にある墓を見てそう思った。
帰りの車中、この6年で初めてだと思う、こと細かにAのことを思い出した。
車高を低くした車でバカみたいな運転をして笑い転げていたこととか、
一緒に行ったソウルで泥酔したAがタクシーの運転手にしつこくからんだこととか。
思い出が次から次へと蘇った。
Aはいまのぼくの状況を知ったらどう言うだろうか。
たぶん、「アホじゃのお」と言って笑うだろう。
でも、最後は「どがんかなろうが、まあ心配すなや」、
十中八九、そんなやりとりになったはずだ。
涼しくなったら、もう一度ぼくはAの墓に行こうと思っている。

これもまたふと思い立って、マチスタの内装に手を入れてみることにした。
その第一弾が「バルセロナの暴れ馬」こと、シマムラヒロシの作品の展示である。
この作品はもともとアジアンビーハイブのオフィスに飾っていたもので、
存在感だけなら、同じくオフィスにある森山大道の写真にもひけをとらない。
なにせ、作品がデカい。それに、カバが赤い。
シマムラヒロシは大阪の専門学校を卒業後、ヨーロッパに渡り、
スペインのバルセロナで10年以上に渡って活動してきた。
5年前に広島県三原市に拠点を移した後も作風は変わらない。
キャンバスに描いた絵の上に、
合板をカットして作った動物やキャラクターを重ねていくのが彼のやり方。
世界でもっとも予約がとれない店として知られるスペインの「エル・ブリ」が、
彼の描いたフレンチブルドックの絵を飾っていたという噂もある。
「エル・ブリ」に次いで2店舗目となるのが岡山の「マチスタ・コーヒー」なんて、
なかなかシュールな話だ。ちなみに、この作品が映えるようにと、
展示の壁となる市松模様の板をコイケさんと白に塗り替えた。
おかげでお店の外からでもバッチリ目を引く。
これで、「ああ、あの壁が青い店ね」という認識から
「ああ、あの赤いカバの店ね」と変わるかもしれない。
赤いカバの店、たぶんそんな店は世界中探してもないんじゃないか?

当面、マチスタはこの赤いカバが目印です。そういえば、お菓子メーカーのカバヤは岡山の企業だったような。なんか連携を探ってみますか?

夏限定マチスタスペシャル第2弾の「杏仁豆乳シェイク・ジャスミン茶ゼリー入り」がようやく登場! ポップのデザインは久々にぼくが手がけました。中華的な。

STUDY 導入ポテンシャル

自然エネルギーの宝庫、日本。

日本で自然エネルギーがどれだけ導入できる可能性があるのかを考えたとき、
可能性のある自然エネルギーには以下の様にさまざまな種類があります。
これらの自然エネルギーの可能性を考えると
日本はまさに自然エネルギー資源が豊富な国であることに気がつきます。

・太陽光発電
・太陽熱による熱利用および発電
・風力発電
・バイオマスの熱利用、発電および輸送燃料(バイオ燃料)
・水力発電(大規模なダム式の水力発電、小水力発電)
・地熱の熱利用および地熱発電
・波力などの海洋エネルギー

実際に、日本を地域別にみた自然エネルギーの導入ポテンシャル
(将来、導入が可能な発電設備の容量)は非常に大きいことが分かっています。
例えば、日本国内でも導入が進んでいる住宅用の太陽光発電では、
全世帯の7割程度の屋根に設置した場合、日本全体の発電量の10%程度に相当します。
さらに環境省による自然エネルギーの導入ポテンシャル調査では、
住宅用以外の太陽光発電、小水力発電、そして風力発電について
国内全域の導入ポテンシャルを推計しています。
太陽光発電については、工場やビルなどの屋根の上に太陽光パネルを取り付けるほか、
遊休地などさまざまな未利用の土地が日本全国で活用できることが示されています。
小水力については、水資源の豊富な全国の山間地域において導入が可能であり、
その導入可能量は1400万kWと推計されています。
風力発電については、従来から導入が進められてきた陸上について、
特に東北地域や北海道において導入ポテンシャルが大きく、
その導入可能量は、2億7300万kWと推計されています。
さらに現在、技術開発が世界中で進んでいる洋上風力については
北海道を中心とした地域で導入ポテンシャルが大きく、導入可能量は1億4100万kWと推計され、
陸上とあわせた導入可能量は4億kWを超えています。
これは、日本国内に現在ある発電設備の全設備容量を遥かに上回る量です。

この地域別の導入ポテンシャルを風力発電について見てみると、
北海道や東北そして九州に多くのポテンシャルがあることが、
さまざまな調査でもわかっています。
特に北海道では現在導入されている全ての発電設備(火力や原子力を含む)に対して、
30倍もの導入ポテンシャルがあるという調査結果となっていますが、
その豊富な自然エネルギーによる電力を、
エネルギー需要の大きい他の地域へ送る為の
インフラ(送電系統など)の整備が課題となっています。
その中で、陸上での導入に加えて洋上での風力発電の導入も期待されており、
日本国内でも技術開発や実証試験が始まっています。
さらに日本国内には、世界第三位の地熱資源による地熱発電や
地熱利用の大きな可能性があります。
産業技術総合研究所が2008年度に行った地熱資源量の評価結果では、
大規模な蒸気を利用した地熱発電の導入可能量が約2300万kWあります。
これは現在の設備容量の40倍以上に達します。
さらに日本には高温のため利用されていない温泉のエネルギーがあり、
それを発電に活用する温泉熱発電(バイナリー発電)の導入可能量は
約700万kWあると推計されています。

市町村別陸上風力ポテンシャル量と洋上風力ポテンシャルマップ(出典:一般社団法人 日本風力発電協会)

TOPIC GREENY岐阜

市街地民家における再生可能エネルギープロジェクト。

前回は、古民家における再生可能エネルギープロジェクトを紹介しましたが、
今回は、市街地の民家での再生可能エネルギープロジェクトを紹介します。
ともに、岐阜県が、環境省の委託費を得て行っている新エネルギーパークの事例となります。

GREENY岐阜と名付けられた実験施設は、岐阜駅から遠くない市街地の中にあります。
前回紹介した「電池三兄弟」、つまり、太陽電池、燃料電池、蓄電池の3つに加えて、
このサイトでは、小型風力発電を組み合わせていました。
管理を委託されているイビケン株式会社の服部哲幸さんにいろいろと説明いただきました。
まず、太陽電池は、2009年11月のコストで、
kWあたり60万円でSANYO三洋製のパネルを6.3kW購入したということです。
GREENY岐阜では、午後に電柱が常に太陽光パネルにかかっていて、
期待値の8割しか発電量が得られていないということです。
モジュールが直列になっているため、
一部に影がかかる場合でも全体の発電量が減少するということでした。
これから太陽光を設置する場合には、十分注意しなければならない点だと思います。
なお、最近は、モジュールを並列に組んでいる太陽光パネルも市場に出ているようです。
燃料電池のエネファームは、年間2000kWhで、
補助金85万円分を除いて100万円で購入ということでした。
ただ、燃料電池は蓄電池には直接つないでいません。
蓄電池は、太陽光パネルと小型風車の電力のみということになります。
太陽光パネルを付けている家庭では、燃料電池の使用によって電気代が減った分、
電力会社に売電できるので、
結果的に、間接的なインセンティブを与えることができるということになります。
リチウム蓄電池はSANYO製で、9.7kWh、500万円ということでした。
現在の価格水準は、4.15kWhで120万円くらいということです。
最大出力まで溜めて、使い切るという使用法だと耐用年数が短くなるため、
7割充電して止めて、使うという方法なら10年以上は持つようです。
つまり、耐用年数を考えると、7割までしか使えないということです。
この容量で、この建物で生活するためにぎりぎりのところということでした。
GREENY岐阜では、体験宿泊を受け入れているのですが、
最初の客に電力を使い切る可能性があることを伝えなかったところ、
蓄電池容量をすべて使ってしまったので、
その後のお客さんにはその可能性を伝えています。
そうすると、蓄電池容量を使い切るお客さんはいなくなったということです。
つまり、意識すればこの容量で生活できるということです。
ちなみに、照明はすべてLED照明で約3kWh。その他、テレビ、冷蔵庫、
パソコン、ゴパン(お米からパンをつくる装置)などが置かれています。
小型風力は、ゼファーのエアドルフィン4kWで160万円です。
しかし、年間27kWhしか発電していません。
年間500kWhくらい発電してくれると期待していたが、
屋根からの突き出し方が足りなかったということです。
また、小型風力を建物本体に付けてしまったので、
建物と共鳴して騒音が発生してしまったということです。
わたしが訪問したときも、
ほとんど発電していなかったのにもかかわらず、うるさく感じました。
太陽熱給湯器は置かれていませんでしたが、
太陽光パネルにたまった熱をファンで室内に持ってくる設備を設けています。
これは日中だけ使えることになりますが、
ファンで使う電力の10倍分くらい熱エネルギーが回収できるということでした。
全体をコントロールするHEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)は、約500万円です。
服部さんは、直流のままバッテリーから家電に流すことができれば、
もっと効率が良くなり、LEDも直流で点くため
DC家電(直流で動く家電)の整備が必要と指摘しています。
GREENY岐阜によって、約10kWhの容量の蓄電池があれば、
太陽光による昼間の充電で、一家族が一晩暮らすことができるということがわかりました。
蓄電池は高価ですが、現在、販売されているプラグインハイブリッド車に積まれた蓄電池は
かなり大きな容量が大きく、三菱アイミーブで16kWh、日産リーフで24kWhとなっています。
すでに車から家庭へ電力を供給するプラグも販売されています。
太陽電池とプラグインハイブリッド車の組み合わせで、
家庭のエネルギー自給を図ることが現実的になってきています。
岐阜県の事例では、太陽電池、燃料電池、蓄電池の「電池三兄弟」に注目した取り組みでしたが、
太陽熱給湯器、地中熱ヒートポンプ、薪・チップ・ペレットによる熱供給など、
熱にも注目して、建物単位・コミュニティ単位のエネルギー自給を進めていくことが
重要だと思います。

GREENY岐阜全景(左の電柱のおかげで太陽光発電量が2割減となっている)

GREENY岐阜の内部(窓際におかれている黒い装置が蓄電池)

河合 誠さん

山の中から発信されるバッグづくりとコミュニティ。

岡山の市街地から車で約30分。山道をくねくね上っていくと、napが現れる。
napはシュペリオール・レイバーというバッグブランドを中心に、
メンズ・レディスも扱うアパレルメーカーだ。
ここは本社であり工場。すべての機能が集約されている。
もともと本社は岡山市内にあった。
岡山はアパレル産業で有名だが、それでもやはりファッションの中心地は東京。
岡山市内でも不便はあっただろうが、もっと不便ともいえる山の中に、今年3月に引っ越した。

「海外のブランドってよく環境の良さそうな雰囲気のいい
アトリエを持ってるじゃないですか。
海外を相手にするときに、日本の田舎の雰囲気を大切にしながらものづくりをしないと、
同じ土俵に立てない気がしたんですよね。
それなら日本には里山文化というものがあるので、
懐かしい風景を織り交ぜて、それらを生かしてみようと。
ゆくゆくは、小さな会社であっても、
世界的な位置づけを持つ会社を目指していきたいと思い決断しました」
と語るのは、社長の河合誠さん。

懐かしさを残しながら、洋風にリノベーションされた校舎。校舎の前には校庭もある

この場所はまちから購入した小学校の廃校跡で、校舎を改築している。
それ以外にも、敷地内に2棟建てて、社長夫妻の自宅もつくった。

「初めてこの場所を見せてもらったときに、
“開拓魂”と書かれた紙が黒板にバンッと貼ってあったんです」

このあたりは戦後の開拓村で、
開拓者の子どもたちが通う小学校として昭和22年に開校。
一番最初に1軒だけ入植したのが、現在の住民会長の父親だ。
そのような背景にも共感し、自分たちもフロンティアスピリッツを
持ち続けていこうという心意気でこの場所を購入することにした。

「校舎は壊しても構わなかったけど、壊すと二度と古いものはつくれないし、
1991年まで使われていた学校ということは、今の30代以上のひとたちは通っていたんですよね。
それなら残しておくほうがいい」と、
校舎は雰囲気を残しながらリノベーションして利用することにした。

この地区に住んでいるのは現在、河合さん世帯を含め19世帯。
半径1kmにはひとが住んでいない。
「昨日も、朝、大声出してみたけど……(笑)」 もちろん反応ナシ。
そんな刺激が少ないと思われるような場所でクリエイティビティはどのように生まれるのか。

「例えば、何かものをつくるのに、
道具と材料があってやり方を教われば誰でもできると思うけど、
それでは工夫は生まれません。ここにくると、大工仕事とか電気工事とか、
ちょこちょこは業者には頼めないので、自分たちでやるようになります。
階段、石垣……、いろいろなものをつくりました。
僕個人的には、石にはまっていますね。ひとつひとつかたちが異なるものを組んで、
どうやったらきれいになるか、丈夫になるか工夫します。
こういう道具があればいいなと思えば、自分でつくってみる。
そのような創意工夫を、どのようにものづくりに落とし込めるか。
そういう姿勢を持って、都会暮らしのものづくりからは変わっていかなくてはなりません」

刺激は、ひとから与えられるだけではないということ。自ら生み出せる。

「アパレルの常識でものをつくっていたら、なんとなく違うだけで、
大きくは変わらない。違う仕事のいいところを、
どんどん自分の仕事に落とし込まないといけません」

これから色を塗るバッグにマスキング中。大胆な色使いがシュペリオール・レイバーの特徴でもある。

小さな財布に金具の取り付け作業。手仕事へのこだわりが強い。

旧校舎の内部は、バッグの組立を行っている工房。15人程度のスタッフが働いている。

各地の地域性を打ち出したnap village構想。

napは、nap villageという村構想を描いている。
アパレルメーカーとしてだけでなく、
飲食店やセレクトショップがあり、きれいな小川やガーデンがあり、あひる小屋も建設中。

「今はスタッフの平均が20代ですが、
これから数年後、会社としてアパレル以外の受け皿を考えておかなければなりません。
そういうときに、この場所はすごく可能性を感じる場所です。
行政と近いし、住民にももっと貢献できるような仕事があるんじゃないかと模索中です」

小学校にレザークラフトを教えにいったり、
吉備中央町からの要望でイノシシの革を使った商品開発をしたり。
まちとの関係はより密接になる。
そういったなかで生まれる新しいアイデアは、どんどん採用していきたい。

「よく、儲からないからダメ、といわれがちですが、
みんなで考えればできる方法はきっとあるはず。
いきなりNOとはいわずに、真剣に考える会社にしたいです」

この場所だからこそできるものづくりがある。
東京でなくても、まだまだ地域にはポテンシャルがあるはずだ。

「地方である程度成功すると、東京にショップを出したくなりますよね。
でも僕たちみたいなレベルだと、
恵比寿とか中目黒のはずれあたりにせいぜい15坪くらい。
そこで直接売っても大きな意味があるかどうかは疑問です。
それよりも、うちは何をすべきか考えた結果、工場をつくったんです。
岡山では業界が縮小して工場がドンドン倒産している時期だったので、
いろいろなひとに反対されました。
でも、新規参入するひとがいないので、逆にミシン屋さんは大喜びだし、
糸屋さん、生地屋さんも大歓迎でしたよ」

工場をつくったということは、ものづくりの方向に向いたということ。
シュペリオール・レイバーが今ファッション誌を賑わしている理由は、
デザイン性もさることながら、その姿勢によるところも大きいはずだ。

「世界観という言葉がありますね。でもそれはあくまで“観”にすぎない。
それよりも僕がここでつくりたかったのは“世界”。
たとえ片づけができてなくてゴチャゴチャしていても、
それが実際の僕たちの世界であって、ここに来てもらえばすべてがわかる」
世界観ではなくてリアルな世界。そこには強さがある。

このnap villageは地域性を強く打ち出している。
その象徴ともいえるのがショップ『& thingsハチガハナ』。
このショップはレストラン&セレクトショップで、自社の商品は置かない。
これを各地に展開する構想を抱いている。
そこで忘れたくないのがもちろん地域色。

地元の食材をつかった料理を提供。フランスの田舎料理風にジビエ料理なども。

「ハチガハナというのは、ここのピンポイントの地名なんです。
今後、このショップ形態で他の地域に出店して、その土地のいいもの、
おいしい食材を探して、それを打ち出すようなショップを展開したいです。
もちろんその場所の地名を店名に付けて」

単純にフランチャイズするのではなく、コンセプトのみを展開する。
そうすれば地域の特色を持った「& things ○○○」が増えていくだろう。
ファッション業界にも、東京発信ではない、
地域発信の小さなコミュニティが湧き上がる時代がくるかもしれない。

細部にも、ちょっとした気の利いたデザインがアパレルらしい。

information


map

& thingsハチガハナ(nap village内)

住所 岡山県加賀郡吉備中央町上田東字ハチガハナ2395-5
電話 0867-34-1133
営業時間 10:00 〜 18:00 土日祝のみ営業
http://www.nap-dog.com/
http://www.andthings-hachigahana.com/

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MAKOTO KAWAI
河合 誠

1966年にM.leatherを創業。古着の買い付けで世界を回り、レザー商品なども扱う。1999年、ペット用品店をオープン。オリジナルのレザーグッズなどを展開する。2006年に有限会社nap設立、2007 S/Sシーズンよりバッグを中心にしたブランド「THE SUPERIOR LABOR」をスタート。2010 S/Sよりレディスブランド「La rosa de la fabrica」を手がける。

古田秘馬さん

生産者と会える“食のライブハウス”。

東京・六本木のビルに囲まれた農園付きのレストラン
「農業実験レストラン 六本木農園」をプロデュースした古田秘馬さん。
ニューヨークでコンサルティングの会社を経営していた古田さんが、
東京に戻ってきたのが2002年。
仕事や友人の紹介などを通して、全国各地に足を運ぶうちに、
地域の豊かな食事情に古田さんの心が揺さぶられたことが、
「六本木農園」オープンのきっかけとなった。
「食に興味があったのは昔からなんですけど、
それに加えて食べ物の“物”としてのストーリーに惹かれたり、
食べる雰囲気、食べる仲間含めて、
食っていろいろなものとくっつきやすい“細胞”なんだなぁと気づきました」
その“細胞”を生かすレストランの構想は、この頃に立ち上がる。
「生産者の方々と話しているときに、
“生産者が生産までのこだわりやストーリーを語る場や、
生産者同士や生産者と消費者がくっつきやすい場所ってないよね”という話に。
じゃあ生産者に出会える“ライブハウス”をつくるのはどうだろうと考え、
六本木農園をオープンしました」
ライブハウスは本来新しい才能や、自分好みのミュージシャンに出会う場。
その食の生産者版があってもいいんじゃないかと古田さんは思ったのだと言う。
現在「六本木農園」では、
レストランで出している料理の生産者に来て語ってもらう「農家ライブ」を
週に2回ほどのペースで行っている。
「最近の農家さんは、iPadなどでプレゼンをしたり、
席をまわりながらプレゼンをしたりとアイデアの限りを尽くしてくれるし、
プレゼンがとても上手。
やっぱりこだわりを持ってつくる農家さんは、そのこだわりを話したいと思うし、
食べる方もどうせ食べるなら、なんでこれがおいしいのか、
どうやってつくられているのか知って食べたほうがより話が広がって、
おいしさも違うと思うんですよね」
話を聞いて味わって。
生産者の方を目の前にしてそのひとを想って食べるという機会は
普段なかなかないことに参加者は気づかされるそうだ。

「生産者と消費者、生産者と生産者が出会う、今まで農業業界がやって来なかったことを実験する場所」という意味で、「農業実験レストラン」と名付けた。

「六本木農園」は予約必須。週に2回ほど行われている「農家ライブ」やイベントの予定などは、ホームページをチェック。

トマトを農園内で栽培中。残念ながら料理にこのトマトが出ることはないそうだが、六本木のまちなかでトマトやハーブが栽培されていることに驚く。

「生産者と消費者をつなげましょうと言うのは簡単ですが、
実際は各地域にいる生産者と都心に集中する消費者という構図ができてしまっています。
その構図を変えてみせたい」と語る古田さん。
「食のライブハウス」は六本木だけではなく、全国各地で展開している。
「地産地消から地産継承へ」というキャッチコピーを掲げた
「にっぽんトラベルレストラン」は、
生産者たちに直接会いに行って、話を聞いて、料理人が調理して食す、
一日限りの出張レストランだ。
「集落で代々伝わっている製法などを地域で受け継ぐひとがおらず、
次の代に伝わっていない、ということが増えてきました。
地域で大切にされているものを“継承”していかないと、
“地消”もされなくなってしまいますよね」
参加者は、“継承”すべき生産者の現場を見、料理人が調理する様子を見、
そして舌で味わい語り合う。何とも贅沢なレストラン。
富山では、ホタルイカで有名な漁港に行き、漁師さんとともにホタルイカ漁に同行。
穫ったホタルイカをその場で炭火で焼いて食べた。
さらに、冬の新潟では、雪のテーブルをつくってそこで食べたのだという。
生産者も、料理人も、お客さんもイマジネーションが広がる体験となった。

丸の内で学ぶ。地域で実践する。

東京・丸の内で開講している、丸の内朝大学の「地域プロデューサーコース」は、
数多くある講座のなかでも人気の講座で、40名が朝7時15分からの講義に参加する。
丸の内朝大学の企画を構想し、
実際に「地域プロデューサーコース」の講師として自らも教鞭をとる古田さん。
そもそもこの「地域プロデューサー」の定義について
古田さんはどう考えているのか?
「ガバメントソリューションという行政の理論と、
マーケットソリューションという企業の理論、
そして、それだけでは成り立たないと気づいた3.11以降起きた、
ボランティアやNPOなどのコミュニティソリューション。
それぞれのレイヤーってそれぞれでつながっているだけで、
横軸を縦につなぐひとがいない。
行政でもない、企業人でもない、ボランティアのみをやっているひとでもない、
全てを縦につなげられるひとが“地域プロデューサー”です。
結果的に行政出身のひともいれば、民間企業に属するひともいるけど、
活動的にいろいろなものをつなげているひと、というのが特徴です」
この丸の内朝大学の「地域プロデューサーコース」に集まる“学生”は、
20代半ばから50代までで、職業もバックグラウンドもさまざま。
いずれは、自分の地域に戻って地域振興のための活動をしたいと思っているけれど
きっかけがなかったり、地域に戻ってなにができるのかというイメージができない
という悩みを抱えた学生たちが、ヒントときっかけを求め古田さんのもとに集う。
「地域プロデューサコース」の一番の醍醐味は、
古田さんと学生全員で参加するフィールドワーク。
地域にまず一緒に入ること、地域の風土を感じることを古田さんは学生に求める。
例えば、ある産業が廃れているのだけど、どうしたらマーケットに受け入れられるのか?
という地域の悩みを解決すべく、学生の中でチームをつくり、現地に行く。
行政や企業の担当者も一緒になって考え、古田さんはヒントを与える。
「コンテンツではなく、コンセプトを打ち出しましょう。
例えば、出雲大社になぜひとが集まるのかを考えてみて。
縁結びの神さまというコンセプトがあるわけで、
合コンなどのコンテンツがあるわけではない(笑)。
コンテンツ化の例だと、農業体験などが最近多いけれど、
単なる農業体験だったら、別にその地域でなくてもできること。
それでは、ひとは呼び込めません。
コンテンツ化するのではなく、地域をコンセプト化する。
そしてそのコンセプトに共鳴してもらわなくてはならないですよね」
こうしてカリキュラムを終えた学生は、
地域に戻るひともいれば、東京と地域をつなぐような役目に徹しているひともいる。
古田さんのもとで学んだ卒業生が活躍する姿を見られるのも
そう遠い日の話ではなさそうだ。

東京生まれ東京育ちの古田さんにとって「故郷」は憧れのようなものだと言う。
「地域に足を運ぶときって、観光客か地元民というステータスしかないですよね。
観光客か観光客じゃないかという言い方や、
行く側と迎える側という言い方では言葉に縛られすぎる気がします。
違うステータスをつくりたいですね」

富山の陶芸家のもとで土づくりの話を聞く古田さん。(写真提供:丸の内朝大学)

新潟のフィールドワークに参加する、丸の内朝大学「地域プロデューサーコース」受講者のみなさんと。(写真提供:丸の内朝大学)

profile

HIMA FURUTA
古田秘馬

プロジェクト・デザイナー。東京都生まれ。慶應義塾大学中退。山梨県・八ヶ岳南麓「日本一の朝プロジェクト」、東京・丸の内「丸の内朝大学」、日本中の素敵なソーシャルプロジェクトを紹介する「いいね!JAPANソーシャルアワード」などの数多くの地域プロデュース・企業ブランディングなどを手がける。2009年、農業実験レストラン「六本木農園」を開店。2011年、生産者とお客様をつなぐ現代版三河屋「つまめる食材屋七里ヶ浜商店」を開業。日本中の美味しいものを探して1年の半分は旅をしている。株式会社umari代表。
http://asadaigaku.jp/
http://www.roppongi-nouen.jp/

information


map

六本木農園

住所 東京都港区六本木6-6-15 TEL 03-3405-0684
営業時間
月 18:00 ~ 23:30(LO 22:30)
火~金 12:00 ~15:00 / 18:00 ~ 23:30(LO 22:30)
土~日 12:00 ~ 15:00 / 18:00 ~ 23:00(LO 22:00)
http://roppongi-nouen.jp/

東新町一丁目商店街

踊り手の熱気で満たされる商店街。

午後7時半。あたりの商店が店じまいをする頃、
甲高い鉦(かね)の音と、力強い太鼓の音とともに、
「やっとさー」「やっと やっと」と男女の声がアーケードに響く。
その音に誘われるように近所の人が集まり、帰宅途中の人は足を止め、
夜静まりかえるはずの商店街は、昼間以上の熱気を帯びてきた。
8月12日から始まる「徳島市阿波おどり」に向けて、
阿波踊り振興協会所属の阿呆連(あほうれん)が公開練習を行っているのは、
徳島市の中心街として古くから徳島市民の生活を支えてきた東新町一丁目商店街。
この場所で、踊り手とお囃子が1時間半ほどの練習で汗を流す。

透明屋根のアーケードは平成11年に完成。昼間はさんさんと太陽が降り注ぎ、商店街全体に明るい雰囲気を醸し出す。

阿呆連は、昭和23年に結成され、
数ある「連」(阿波踊りのチーム)の中でも2番目に結成が古い有名連。
その踊りは阿波踊りの「3大主流」のひとつと呼ばれ、
豪快で、躍動感あふれる挙動と、
江戸庶民の遊び、凧揚げの様子を模した「やっこ踊り」はオリジナル性が高く、
県内外のファンも多い。
その阿呆連が東新町商店街で練習を始めるようになったのは、およそ6年前。
商店街の活性化を願う東新町一丁目商店街と、
照明完備、雨が降ってもアーケードのおかげで練習ができる阿呆連のメリットが重なり、
本番間近の6月から週に一度、商店街で練習を行うようになった。
月曜日から木曜日までの普段の練習は、河原や公園などで行われるが、
その環境は抜群とは言い難い。
週に一度金曜日の商店街での練習は、
道幅が広くて長さもある商店街の利点を生かして通し練習ができる貴重な時間なのだ。

「商店街を通るお客さんがこうやって立ち止まって見てくれるんですよ。
お客さんとの距離も近いし、本番さながらのいい緊張感で練習ができます」
そう語るのは、高校3年で阿呆連に入連し、今年で21年目の宮村憲志さん。
お子さん2人もこの日の練習を見に来ていた。
「この商店街は庭みたいなものですね。
だからここで踊るのは桟敷で踊るより思い入れがあるかも」と目を細める。

高校時代には、野球部の練習が終わってからその足で阿波踊りの練習に参加するほどの入れこみ。いつか2人のお子さんと同じ衣装に身を包むことを夢見る。

この日、女踊りの指導にあたっていた宇津宮亜由美さんは、高校2年で入連し、今年で10年目。
徳島市内在住で、高校生の頃にはよくこの東新町一丁目商店街に遊びに来ていたのだと言う。
「商店街で練習していると、商店街のお店のひとと顔なじみになれたり、
つながりが持てるところがいいですね。
高校生の頃とはずいぶんお店も変わってしまったけど、
やっぱり思い出が詰まっているこの商店街で踊れるのは嬉しい」

厳しい経営状態や集客は東新町一丁目商店街も例外ではないが、
こうして、東新町一丁目商店街という場に愛着を持つ若い世代を増やすことが、
商店街の発展と存続に希望を持たせる。
本番に向けて練習もいよいよ大詰め。
力のこもった指導と練習で阿波の夜はいっそう熱さを増しそうだ。

自家用車で移動する人が多い徳島。商店街近くにはコインパーキングが多いため、通いやすいのだという。この日は踊り手とお囃子合わせて70名ほどが練習に参加した。

「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損」。未来の女踊りのセンターポジションの有望株。小さい子にも踊り手のDNAは刻まれている。