〈 この連載・企画は… 〉
ひとつのまちの、ささやかな動きかもしれないけれど、創造性や楽しさに富んだ、
注目したい試みがあります。コロカルが見つけた、新しいローカルアクションのかたち。
editor's profile
Tsuneichi Hayama
葉山常一
はやま・つねいち●編集者。岩手県出身。コロカルでお酒の連載を目指しているが、まだ叶わず。こくがあってキレがいい日本酒を好み、自分の仕事もそんなこくとキレをと日々奮闘するが、飲むとただのくどいヤツになるのが悩み。
credit
撮影:ただ
2012年8月11日。肘折温泉の外れにある「いでゆ館」ゆきんこホール。
東北芸術工科大学の准教授で、「ひじおりの灯」アートプロジェクトの
担当教員でもある宮本武典さんが提起したイベントが
「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」。
働き方研究家・西村佳哲さんがファシリテーターになり、
山形の5人のカルチャーリーダーたちと語り合う、約4時間のミーティング。
会場には、約100人の、学生たちを中心とする若者が集まった。
なぜ、このミーティングを行おうと思ったのか、
まず、宮本さんと西村さんが対話する。
西村
今日のテーマは、3.11東日本大震災後の東北、山形を
どううけつぎ、生かしていくか?
宮本さんは震災で変わったのだと思っている。
そして今日のゲストは山形県の文化的リーダー。
宮本さんは、このひとたちが変わったように見えるのですね。
家業や、立ち上げた仕事へ意欲を持つひとたちの居所が
変わらざるを得なかったといったことも含めて。
宮本
1年半前の東日本大震災。また肘折では、
外からの往来をつなぐ幹線道路の地滑りによる交通の遮断もありました。
肘折という場所は、地域と大学とが一緒になって、
地域を考えていくひとつの入り口。
これまで100人以上の学生が参加、通い、学んできたのですが、
3.11以降起こったことは、地域とアートでは括りきれない出来事。
学生たちにとっては、これからなにを作ったらいいのか?
が今日のテーマでもあります。
ただし、おそらくアートやデザインを学ぶ学生たちだけでなく、
自分も含めて、この出来事によって、
私たちは、生活全般を作り直さなければならない、
という状況にあるのではないかなという思いがあります。
西村佳哲さんにファシリテーターとして来ていただいたのは、
西村さんの本『いま地方で生きるということ』
がきっかけです。
震災後の山形をどううけつぎ、生かしていくのか?
それぞれの生活や仕事でうけついだもの、うけつぎたいものを、
うかがってみたかった。
復興支援の活動を学生たちとやっているのですが、
あるまちで象徴的な光景を目にしたんですね。
そこは震災によって集落は消え、高台の神社だけが残っていた。
神様だけがそのまま。
アートは、次になにをつくるかという、
新しいものへ向かうことが多いものですが、
ここになにか新しいものをというのではなく、
過去を呼び出す、うけつぐことのほうが重要なのでは
という思いが生まれたんです。
今日のゲストは、前の世代をうけついだひとたち。
でも、ストレートに“うけつぐ”ということが
難しくなっているとも思うんです。
“うけつぐ”と“呼び出す”はニュアンスが違いますが、
土地やひとの歴史にもっと深く感度を上げて、
以前からあるものをカスタマイズしながら、
いまの時代にあったかたちで、うけつぎ、呼び出していく行為。
その“うけつぐ”現場、“呼び出す”現場が
どうなっているのかを知りたいんです。
西村
宮本さんから見て、今日参加してくれている5人の方々は、
理想を実現している印象なんですか?
宮本
んー。いろいろ直面していると思うんです。
でもけっして、「しかたないよ」ではなく、
自分で仮説を立てて、受け身でなく対応している。
それによって、なにかに直面していると思うんです。
まさに、そのことは、アート、農業、観光などに携わる
ひとびとが、業種を超えて共有しなければならないものです。
西村
どう生きていくか、働いていくか。
その実践を語ろうというのは、成功例でこのようになりましょう
ということではけっしてなくて、どう考え、喜び、しんどいか。
おそらく今日は、それを報告してほしいということなんでしょうね。
宮本
問題を発見する能力だと思います。
アートでもほかでも、それがないとピントがあっていかない。
西村
うまくいっている部分というより、期待しているのは、
課題をどう捉えているか知りたい
ということなのかもしれませんね。
今日、みなさんが集まった意味は。
渡辺智史(わたなべ・さとし)
1981年山形県鶴岡市生まれ。鶴岡南高等学校卒業。
東北芸術工科大学デザイン工学部環境デザイン学科卒業後に上京し、
映画制作会社に勤務後フリーとして活動開始。
2011年に映画『よみがえりのレシピ』を完成させる。
西村
最初のゲスト。渡辺智史さんです。
まず、今日のテーマを受けての自己紹介を。
渡辺
私は東北芸術工科大学に1999年に入学しました。
建築に憧れ、環境建築を専攻。
2000年に大学で東北文化センターが立ち上がり、
その活動の一環で、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に参加。
世界中から制作者が集まり、話を聞くというまたとない機会で、
自分の中にひとつ、ドキュメンタリー映画の可能性
という気持ちが芽生えたんですね。
2001年、大学3年生のときです。
9.11のNYテロが起き、その映像を見た瞬間、
言葉では表せない恐怖感を覚えた。
大学の授業は、体系だったものを教えるもの。
では、目の前で起きたことに大学の学問はどう答えられるか?
という自分の中の課題もそこで生まれました。
その後も、世界中からさまざまなドキュメンタリー映像が集まり、
その濃さに驚いた。市民がビデオを持って作品をつくれてしまう、
作家と市民の境目がなくなった、と思った。
そうして、ぼくは映像の世界に入っていくのですが、
山形のどういうものを掘り下げるか。
自分が探っていたいものは農村だったんですね。
そして、初めて監督した作品が
『湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』。
(2009年廃校になる大蔵村立肘折小中学校の
廃校を迎えるまでのドキュメンタリー)
青年団や地元のひとたちと、映画を撮れた。
映画制作が、撮って終わりでなく、上映にも関わる。
それを体感できたのは貴重な体験でした。
つくるだけでなく、届けること。
ただ、一方で、経済的には成り立たない面もあることに
直面するわけです。
今度新作を撮りました。
『よみがえりのレシピ』という作品で、
テーマは“在来作物”。
その土地特有の野菜は、貴重な地域資源でもあり、
生物多様性の豊かさでもある。
その種を守り、つくる、その在来野菜に光を当てて
メニューを提供する山形イタリアン「アルケッチァーノ」の
シェフ奥田政行氏も登場します。
この製作は、市民有志で製作委員会を構成する
“市民プロデューサーシステム”というかたちで実現しました。
一口1万円の資金を提供する。
上映されることでどうか関わっていけるかなど
トークショーなどもしながら、つくってきました。
西村
この映画は、みんなが見たいと思ったらどうすれば?
渡辺
10月20日からユーロスペースで公開されますが、
肘折でも、東北芸術工科大学でも上映します。
西村
渡辺さんの関わり方は、作品をつくるだけでなく、
届けることもする。そこに活路を見出している。
渡辺
売れる映画というのは製作面でも上映でも
だれかに面倒を見てもらえますが、
ドキュメンタリー映画というのは、
どこか在来作物のようなところがあって、
小規模で、手を差し伸べてもらえることがなかった。
なんとか自分たちで再生産できるように、
経済活動のなかでも生き残れるようにしていきたいと思うと、
こうした手法になります。
西村
日本の戦後の映画興行システムとは違い、
多くのひとは食べさせられなくても、
少人数は生業を立てていけるようなイメージ?
渡辺
東京はフリーのチームの自在なつくり方ができる。
山形でも山形らしいそうしたかたちがつくれたらいいのでは
と思ってます。
西村
私は出身が武蔵野美術大学の工業工芸デザイン。
作品のつくり方は教わったが、つくり方以上のことは
教わらなかった。例えば、ポストカードをつくったとして、
どう届け、広め、稼ぐかを、大学では全く教えてくれなかった。
それは渡辺さんが専攻した建築でも?
渡辺
みかんぐみの竹内昌義先生のような、
現場をもちながら、教えてくれるひとはいますよ。
それは勉強になった。
西村
目の前で生み出されることを知るのはいいよね。
ロサンジェルスに建築を学び行っていた若い友人に
どんな授業を受けているのか訊いたら、
ちょうどその頃は、300人くらいの大きな設計事務所のひと、
10名ほどのアトリエのひと、ひとりでやっているひとなど、
いろんな建築家が週替わりで教室に来て、
仕事の進め方や成り立たせ方を教えてくれているって。
すごくいいなと思った。
渡辺さんは、東北を離れようという考えはなかったのですか?
渡辺
6年ぐらいは東京にいました。
映像制作の事務所にいたことがあるのですが、
そこでは、まず企画書を書いて、ゼロから始める。
そこで鍛えられました。
山形でやろうと思って、縁あって
『湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』を
つくることができたのですが、
その時、後ろめたさも感じたんです。フォーカスする場所について。
なので、『よみがえりのレシピ』というのは、鶴岡を舞台に、
自分の生まれた場所で映画をつくろうと思った。
それは、自分が距離を置いていた故郷と
関わり直すことでもあった。
ドキュメンタリーというのは、撮る側も、見る側も
学びのツールだなとつくづく感じます。
真剣勝負で関わることで、とても勉強になる。
西村
東京では離合集散ベースで作品制作はできるが、
山形でそれをやるのは難しいのかな?
ひとが少ないから?
渡辺
フリーランスで活動しているひとが少ないですね。
映画だけで食べていくのは難しい現実がある。
だけども地道に上映活動をすることで、
地域の観客としっかりした関係が生まれ、
継続して映画制作を応援してくれる土壌ができあがる。
そのためにも『よみがえりのレシピ』の上映活動を
地道に行っていこうと思っています。
西村
震災の前後で世界や認識は変わりましたか?
渡辺
ひとの動きが変わったと思います。
FacebookなどのSNSをやるひとが山形県内でも増えた。
故郷に帰るデザイナーもいる。そんなひとたちと、
ゆるやかな連帯の中から、
ビジネスの芽を見つけようとしています。
インターネットのことなどは、
地元にいるスペシャリストから知恵をいただいて、
進めていたり、ということが起こっています。
西村
それが聞けてよかった。
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菜穂子(なほこ)
1981年生まれ。横浜国立大学を卒業後、
農家である山形の実家に戻り、5年間農業の研修を積む。
女性ならではの感性で、新しい農業の価値づくりに取り組む
「女子から始める農業改革」実現のため、
2009年国立ファーム(株)山形ガールズ農場を設立。代表取締役。
著書「山形ガールズ農場!」(角川書店)
http://www.kf831.com/girls/index.html
菜穂子
山形ガールズ農場代表の菜穂子です。
名前で名乗っています。
私たちの活動はひと言でいえば、“女子から始める、農業改革”。
農業のイメージというのは良くない。
じいちゃんばあちゃんの仕事、きつい仕事、儲からない仕事。
そんなイメージを変えることから始めようと、
4年前にスタートした、女性だけで運営する農場です。
両親は農業をやっていましたが、
私が農業をやることに関しては反対でした。
女だから、儲からないからというのが理由。
でも、私は父親の姿を見ていて、
山形で、農業を仕事として、働きたいと思ったんですね。
個人的なことを言えば、横浜で送っていた大学生活が、
夜更かししたり、不規則だったりで、
どこか荒れてるなと感じていた。
そして、いつからか、山形で暮らすという選択が、
すばらしいものに思えてきたんです。
では、仕事としてどうきちんと生産性のあるものにできるのか
ということを考えた。
農業は生産性以外では、非常にいい仕事だと思うんです。
気持ちいいし、意義もある。
ただし、正当な対価を得られる仕事にしないといけない。
父はリンゴの木を育てていましたが、
それが減っていったとき、悲しかったですね。
利益が出ないからという理由で。
私は横浜国立大学の教育学部で学びました。
そこで、子どもたちの未来をどうしていくかについて
考えさせられました。
継承という今日のテーマで言えば、
子どもたちが健やかに育つことができる環境をどううけつぐか。
そして、私は子どもたちの未来に関わる方法を、
教育でなく、農業で選ぼうと決意しました。
始めて10年。
周りをみると、相変わらず高齢化が進んでいます。
なかには若いひとが従事している場所もありますが、
その共通点は、ある程度儲かっていること。
これまでのガールズ農場はイメージを変える役割を担っていた気がしますが、
これからは観光との結びつきも強化しながら、
きちんと産業化していく必要を感じています。
例えば、人参を作るにしても、低価格でという競争ではなく、
〇〇ばあちゃんが作って送ってくれた。
そこに価値を生んでいきたい。
新しいシステムで“メイド付農園”ということも始めました。
市民農園の管理は大変。
仕事が忙しいひとでもやれるスタイル。
私たちがかわりにやる。種蒔き、雑草取り、収穫。
こんなふうに生産だけにとらわれないやり方で、
農業をうけついでいくというのがいまの私たちです。
西村
子どもたちが健やかに育つ環境。
健やかに育つって、菜穂子さんにとっては
どういうことなんでしょう?
菜穂子
いま、子どもたちがこころを壊すという状況が
深刻化していると思うんです。
原因は、親子関係のくずれ、学校、社会、地域の関わり方など
いろいろあると思うのですが、私のアプローチは、
食べることで命は大切だという実感を持ってほしいなと。
そこの体験の場所として畑があるのでは。
西村
食育ということですか?
女性たちがやっていることを手がかりにしたい。
菜穂子
親子や女子大生が集まりやすい農園にしたいなと
思ったんです。
じいちゃんばあちゃんの田畑は、
外のひとが訪れるには敷居が高いような。
私たちはわかりやすく伝えることができる。
西村
菜穂子さんのおとうさんは、大学まで行かせたんだから、
仕事はどこかに勤めてくれと望んでいたのかな?
菜穂子
公務員にと。
西村
起業でなく、なにか仕事があれば就職していましたか?
菜穂子
山形にはなかったんです。
やはり、山形は仕事が少ない。
だから同級生の多くも帰って来ない。
でも主産業ということで考えると、農業なんですね。
私は、山形に戻ってきたかった。
若いひとが農業をやれればと思いました。
西村
でも、農業を始めてみたら、
いろいろと難しかったとおっしゃってましたね。
菜穂子
例えば、8万円をかせぐことの大変さと質の違い
ということでしょうか。
教師でかせぐことに比べて、
農業で生産したものを売ってお金を得ることは大変でした。
西村
その質の違いはどうですか?
菜穂子
ものをつくって暮らしていくというのは、
いい仕事だと実感できました。
でも、実際生きていくためには、
これまでのやり方ではきついと思った。価格決定権もなく。
自分で決めるためにはなにか変わらなければともがいていた。
なにかを変えたい。農業から食育に関わることをやりたいと。
でも、はっきり言って心が折れそうでした。
西村
ガールズ農場は男のひとは働けないんですよね?
女性だけの良さと問題点ということでは、どうなんですか?
菜穂子
女性同士は、感覚が似ているんですね。
父とやっているときは、対立していて、
まあ、ベテランの視点から見ると、
私がやろうとする新しい発想は、あぶなっかしくて、
そんなのうまくいくわけないという意見になることが
多かったんですね。
でも、いまのメンバーは背中を押してくれる。
そんな良さを感じてます。
西村
今日のテーマですが、3.11の大震災の前と後では、
なにかが変わりましたか?
菜穂子
そのことをずっと考えていたんですが、
私自身は大きく変わってない。
西村
理由は?
菜穂子
周りにいるお客さまは変わったんです。
食や家族のことを違う角度で考えるひとも増えた気がしますし、
その結果、畑を選ぶひとも多くなった。
それに伴って、これまでと違った観光のかたちが
生まれつつあるような気がしています。
西村
家業としての農業があって、
そうではない農業をやってみようとした。
前の世代をそのままうけつぐのでなく、別の枠組みをつくった。
そのときに、ひとりでがんばれるのか?
背中を押してくれるひと、メンバーのサポートがあった。
やはり、起業というのはひとりでは無理と思うひとも多いと
思うのですが、その点はいかがですか?
菜穂子
まずは、自分で求めないとダメだと思うんです。
そして、自分に足りないことを、求めて誰かに会いにいく、
そして考える。体裁など気にせずに。
西村
どんなふうに会っていったんですか?
菜穂子
例えば、講演会を聞きにいって、
このひとだと思ったら、メールをしました。
「私は山形の農業を良くしたいと思っている!
お会いしたいんです」と。
そんなふうに、いまもこれからも進んでいくつもりです。
志田美穂子(しだ・みほこ)
月山志津温泉の旅館娘。震災後から地元で活動。
出羽三山をフィールドにさまざまな文化体験を企画。
山菜採りや猟に興味を持ち地元のおじいちゃんについて山へ入り、
山の智慧を教わり中。女山伏を目指している。
志田
月山の南側、山形県西村山郡に志津はあります。
開村400周年の村で、つたやは創業310年。
いまの主人が15代目となります。
志津温泉は、出羽三山参りの最後の宿場村。
私は志津で15歳まで育ちました。小学4年生までは分校。
複式クラスで、先生ふたりはご夫婦でした。
この先生たち、ちょっと天気がいいと
外に出る授業をするんですね。
冬なら、クロスカントリースキーをはいて、
弁当持って出かける。私は、そんな授業が好きでした。
逆に本校に行くようになって、
いわゆる普通の教室での授業の毎日がいやだったという記憶があります。
中学高校へ進学すると、志津出身ということで可哀想がられる。
でもそれはすごく違和感がありました。
ひと言で言えば、志津は不便ではあったが、不幸ではなかった。
私は子どもの頃から母親に、
「どこで生きるかより、どう生きるかが大切だよ」と
教えられ続けてきました。
やがて私は、東京で働き、海外での生活も経験しました。
東京では3年間会社勤めも。
そこで働きながら、東京のこの職場は、
私がいなくても替わりになるひとはいるんだなと感じるようになって。
震災があって、数日家族と連絡が取れなくなったとき、
志津に戻ることを考え始めたんです。
以前から、例えば海外にいるときにも、
月山っていいなと思ったし、
分校の思い出も本当に宝物のようにあった。
自分の中で、ふるさとへの思いが
どんどん強まっていることがわかったんです。
そして、実家の旅館業を、7月から手伝い始めました。
仕事は宿の営業や広報。
山形という土地柄はPRが下手というか、
自分のところをいいと言うことができない県民性。
私は山形はいい! と言うひとがもっと増えてほしい。
自分たちの山形に対するイメージもどこかネガティブな傾向。
例えば雪深さもマイナスにとらえがちですが、
志津も冬には5、6メートル積もりますが、それを、この土地の
かけがえのないものと思うようにしています。
これまで志津は、夏の営業しかしていなかった。
冬の知名度は低いんです。
私は旅館業をうけついでいこうとするなかで、
新しい試みとして、これから雪を観光資源にしようと思っています。
月山の雪というのは、みなさんご存知のようにほかとは違うんですね。
私の祖父は、月山の夏スキーを広めたひと。
豪雪を利用して、夏スキーを売り出した祖父の思い、やろうとしていたこと。
それを父母を通して、うけついでいるんだなと感じています。
西村
志田さんがどうして帰ってきたのかということを
もう少し聞きたいのですが、
先ほど東京には替わりのひとがいるのではと思ったというのは。
志田
私はアウトドアのセレクトショップのスタッフでした。
製品や服の機能を知って、フィールドイベントにも参加する。
こうしたことをできる、したいスタッフは
おそらくほかにもいるのではと思ったんです。
西村
おかあさんは?
志田
東京出身で、父とは大学の同級生でした。
西村
おかあさんからその言葉を、
ずっと聞かされてきたんですか。
志田
ずっとです。母は23歳でお嫁にきた。
その当時の東京から山形というのは、
一日かけてくるぐらい遠かったそうです。
たまたま好きになったひとが旅館業だった。
母の人生は、そこでどう生きるかがテーマになった。
西村
おかあさんは、美穂子さんに聞かせながら、
自分に言い聞かせてきたのかもしれませんね。
志田
そうかもしれません。
大学を卒業してすぐ嫁いだので、ほかで働いたことがない。
西村
最近の世の中は、自己実現という圧力が強い印象が
あるんですが、おかあさんのあり方、生き方は違うよね。
どんなひとと生きていくかを決めた。
それが志津で、旅館で、おじいちゃんもいて、
それを飲み込んでいく生き方を決めた。
美穂子さんは自己実現的な生き方をどう思います?
志田
私は旅館の娘として生まれたわけです。
旅館は、長男がつぐ。娘は出ていくものと思っていました。
でも、働きながら考えるうちに、「つたや」という旅館に
そんな熱い夢があるわけでもないのですが、
そこに身をおいて、関わっていくことが、
一番やりたいことだと思うようになった。
自分自身も、志津や月山を知らなかったことに気づき、
ルーツや、旅館についても興味を持ち始めたんです。
いまの実感としては、もっと関わっていきたいと思うことが
目の前にある感覚。
西村
その上で、喜びや、しんどさ、課題はどうですか?
志田
課題はあります。
西村
それは旅館に? 自分に? 志津に?
志田
すべてです。
例えば、観光キャンペーンのコンセプトだったり、
コピーが5年前と同じ。
それは変えていかなければと思っている。
温泉地だけで打ち出していこうとしても、
ほかとどう違うのかという魅力のアピールに欠ける。
山形に来たひとが、いろいろな魅力に出合い、
その上、たまたま温泉にも
というぐらいがいいのではと思っています。
地域と業種で選別したPRでなく、
異業種も広く繋がる観光PRがこれからは必要と考えています。
西村
では、温泉のプロモートでなく、山形のプロモート。
志田
そうです。
西村
志田さんは、山伏の修行をしているそうで。
志田
まだまだです。
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早坂隆一(はやさか・りゅういち)
1978年山形県大蔵村肘折生まれ。北海道大学大学院情報システム工学科を修了後、東芝に入社。
2年半、東芝ソリューションに勤め、2005年に家業のそば屋を継ぐため肘折へ。
2009年から肘折青年団団長。
早坂
私は肘折の出身で、2005年に帰ってきました。
その当時はぼくらより年上のひとびとが青年団を結成していた。
だいたい6、7人の集団でした。夏祭りに屋台を出すとか、
小中学校の運動会で出店というのが活動のメイン。
年に2、3回の活動でした。
2009年に肘折小中学校が閉校することになり、
先ほどお話しされた渡辺智史さんに
ドキュメンタリー映画を撮ってもらうことになったんです。
そこで、閉校式の最後の校歌を青年団で演奏しようという話に。
地元の若者で、学校に残っている楽器で演奏しようと。
そうして声をかけようとすると、
実は肘折に若いひとはいたんですね。
でも青年団には入っていなかった。
“青年団”という名前が怖いから(笑)。
でも、閉校の時の校歌演奏はやってみたいという。
15、16人が集まりました。
その集まりをなくしてしまうのはもったいないということで、
毎週スポーツや飲み会。それを青年団の活動にして、いまに至る。
青年団の活動を、自分たちだけでなにかをやるというより、
村の集まりに参加して楽しもうということに変えたんです。
地元のイベント参加したり、スポーツ交流でとなり村の若者と
バレーボールの試合をしたり、地域の仕事を請け負う。
それは、墓地や公園の草刈をするとか、
お祭りのぼんぼりを飾るとか、
それで青年団はわずかながらの報酬ももらい、
みんなで飲み会をします。
活動は、そんなふうに、誰かとだったり、地域とだったり、
関わりをもつ活動になったわけです。
ほかと交流を持ちながらだと、
地元のひとや温泉に来たお客さんとどうしても対話をすることになります。
話を聞いて楽しかったり、刺激を受けたり、
知らなかったことを知ったり。
肘折に居ながらにして外を知り、また、
自分の住んでいるところを知る。
青年団はいつまでも青年団ではいられないので、
うけつぎ方というテーマは、私たち自身にもあります。
活動の幅はひろがっていますが、
これがずっとそのままかどうかはわからない。
団長の役割はマネージャーなんですね。
メンバーがこれをやりたいと言い出した時に、
やれる方法を考えて、誰ができるか、いつだったらできるか、
活動できる組織にしていく。
まちを元気にということよりは、
自分たちが楽しめるということをまず大切にする。
そういうひとがいるグループとして残っていけばいいなと思う。
先行世代にも応援してくれるひとがいたように、
私たちも次の世代を応援できるようになっていければと考えています。
西村
ほかの自治体でよくある、青年商工会議所などは、
年齢の上限が40歳と決まっていることもありますが、
肘折の青年団は?
早坂
決まっていないです。自分で決める感じ。
西村
青年団の活動というのが、いま伺っていると、
人手が要るところに供給する、一種の人材バンクなんですね。
早坂
そうです。青年団には自営業のひとも、勤めているひともいて、
休みもばらばら。そのなかから手をあげてもらって、活動する。
西村
そのゆるやかさがいい。
早坂
とにかく楽しくできるように。
西村
活動を継続していく上で、なにが必要だと思っていますか?
早坂
実際は、いろいろ面倒なこともあるんです。
草刈にしろ、暑いし、大変。でも終わったら飲み会しようとか。
都合が悪くて草刈に来れなくても、飲み会には来ていい。
トータルしてみると、みんながなにがしかのことをやっているわけですから。
だから飲み会にくるのはOK。
西村
やったやらないというのは尺度にならないんですね。
早坂
あとは、なにも強要はしないことです。
いつ都合がいいかと聞いて、できるだけ集まれるときにやる。
だから、リーダーでなく、マネージャー。
西村
世の中、例えばPTA活動とか、
意見を言ったひとがやらなければという風潮があって、
意見を言うことそのものを避けるひともいたりします。
早坂
活動は、大きいことでなく、やれることで! それを楽しく!
だから、15人一斉に集まるというのはほとんどないんです。
西村
早坂さん個人の経歴を伺ってもいいですか?
早坂
私は、大学と、大学院を経て、
東京でIT系の会社に就職しました。
給与や人事のシステム系の仕事で2年間働いて、
7年前に戻ってきました。
実家がそば屋で家を継ぐというのは決めていたのですが、
店を改装する時期も考えて、
帰ってくるなら早めがいいかということで。
もともと、盆と正月とGWは実家で手伝いをしなければならなかった。
中学を出て、ほかのまちの高校に行き、大学にも行き、
肘折のことを話すと、なかには田舎だとバカにするひともいましたが、
私はそれがアイデンティティだと思っています。
それで面白がってくれればいいよと。
例えば、冬には小学校で、地面出し競争というのがあるんです。
雪がすごく積もるので、それを掘っていき、
土を誰がいちばん早く見せることができるかという競争。
そんな話も面白がってくれるというのは、いいことだと思うようになりました。
その地面出し競争はいまもやっているんですね。
肘折は面白い場所だと、外に行くことで気づいたこともありました。
西村
早坂さんがうけついだもの、うけつぎたいものはどんなものですか。
早坂
肘折というのは温泉のまちなので、
外から来てくれるひとがたくさんいるわけです。
そういうひとたちが肘折を好きだったり、いい場所だと言ってくれたりすると、
うけつげるな、うけつごう、と思う。
西村
自分たちがうけついでいることが、外の目線ではっきりするのですかね。
早坂
そうですね。自分からということでなく、
外からという目で輪郭がはっきりしてきている感覚はあります。
西村
具体的なことで言えば?
早坂
今日も行われていますが、『ひじおりの灯』。
これによっても、見えていなかったものが見えてきますよね。
例えば、自然があるというのはあたりまえのことなのですが、
それをかたちで見せてもらえるのは新鮮。
こういう活動、交流ができる活動を残していきたい。
外のひとたちの体験がここを残してくれる。
坂本大三郎(さかもと・だいざぶろう)
1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。
出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、
古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、
自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。
坂本
羽黒で、山伏をしている坂本です。
まずはじめに、山伏ってなにかということを説明します。
ぼくが拠点とするのは、羽黒山ですが、
ほかにも紀伊半島や、四国、九州など、日本各地で
山伏たちは活動しています。
歴史をたどれば、数万年前、
古代のひとびとは岩や川や木などに精霊が宿ると信じ、
自然を崇拝する信仰を持っていました。
その時代に、太陽や星の運行を予測する「ヒジリ(日知り)」、
火を使って鋳物的に道具をつくる「ヒジリ(火知り)」。
これが山伏のルーツと言われています。
暦だったり、技術の伝道師的な役割を持っていたようです。
いまの山伏は、白装束で、ちゃんとしていますが、
昔の絵を見ると、汚れた装束に鹿の角をつけていたり、ネイティブな印象。
ぼくはどちらかというと、現代の山伏のあり方に関心はなく、
こうした「ヒジリ」的なあり方に関心を持っています。
この肘折という地名も、
由来は肘を折った老僧がここで治したことが由来と聞いていますが、
月山へのひとつの入り口として、
「ヒジリ」=山伏と「ひじおり」になにか連関があるのではという
興味を持っています。
ぼくは、もともと絵を描いたり、ものづくりをする人間です。
以前は、渋谷の現代アートのギャラリーで働いていました。
30歳になり、友人が羽黒で山伏の修行をしていると聞き、
ぼくも好奇心で修行を体験しました。非常に面白かった。
山伏は山の修行の内容は口外してはいけないという掟があるので、
中身まではご説明できませんが、
自然と向かい合って修行するなかで、
一種のトランス状態が訪れる。
太古には、こうしたときの山伏の言葉から歌というものが生まれ、
こうしたときの行動から、舞いというものが生まれ、
各地の自然との交渉から始まる芸能のルーツになったと聞きます。
アーティストとして生きることと、山伏として生きることが、
ぼくの中で結びつくわけです。
いまは、修行の期間は山に入り、それ以外の期間は、
絵を描いたり、文章を書いたり、
東北地方の文化や風俗の研究をしたりしています。
山伏は山だけでなく、
日本各地を放浪するということももともとありますので、そんなことも。
今日持ってきたぼくの法螺貝を吹いてみます。
法螺貝は8万円もする高価なものなので、ぼくのは手作り。
貝をインターネットで2万円ぐらいで買って、
吹き口も自分でつけました(笑)。
西村
今日のテーマは、「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」ですが、
坂本さんは山形との関わり方というのは?
坂本
ぼくは千葉で生活をしていて、
山形には住んだことないんです。
羽黒山の修行で、通ってくるようになりました。
西村
先ほど、肘折とヒジリの関係について話してましたね。
坂本
なんとなく、肘折とヒジリがあまりに近いので、
おそらくここはヒジリの集落だったのでは。
ヒジリ=日知りは鉱山のところにいたものですし。
西村
千葉出身の坂本さんは、東北のことをどう思っている?
坂本
特に東北がということではないですが、
この場所は、自然と自分を迎え合わせる場所。
都市部での暮らしでわかりづらくなっていたことを発見できる場所でした。
この土地の文化が自分と響き合ったんです。
ほかの地域でもできたことかもしれませんが、
ぼくはたまたま羽黒でそれが実現した気がしています。
今年で6年目。山伏の中ではペーペーですけど。
西村
うけつぐこと、という言葉についてはどう思います?
坂本
例えば、山伏の文化でいうと、自分は外れものです。
「あいつはなんだ」という存在でもある。
仏教的、神道的なひとたちがメインカルチャーだとしたら、
ぼくは、神仏のご加護をいただくということでなく、
いにしえのひとたちのものづくりなどに関心がある。
古い日本人とは、山伏とは、なにものなんだろうといった、
ネイティブな部分に。
西村
それは、日本人というものはなんだろうということや、
そもそも、ものづくりとはなんだろうということへの希求?
坂本
山伏の修行で、羽黒は籠もり行といって、
山をひたすら歩くのでなく、籠るわけです。
日本の各地の祭りでも本来のあり方は籠ることにあって。
日本列島に根づく籠もりの文化。それに興味が沸きますね。
東北にも「はやま籠もり」という風習も残っている。
西村
“籠もり”ということと、イラストやものづくりはなにかつながる?
坂本
ぼくは絵を描きながら、その本当の意味がわからなかった。
結果的にいまもわからないのですが、
自然など自分の外にあるものを社会につなげる時に
芸術が生まれたと思うんですが、
自分の中でも、まだ意味のわからないことだけれど、
アートをカラダを通してやってみたかった。
西村
籠ることでどんな意味を見出したんですか。
坂本
7日から9日、外から遮断されて、暗いお堂の中で、
ひとに語ってはいけない修行をやらされる。
変な気持ちになる。社会に戻るとものすごい違和感。段差ができる。
そういう状況は逆に新鮮なことだったですね。
西村
ものづくりの起点をさがしているのかな?
坂本
これからやっていくときの、判断材料のひとつにしたかった。
自分のアートや自分たちの文化がどれだけの過去に立脚できるのか。
それをさぐることで見通しがつくのかなという期待はあります。
西村
日本の現代美術は、そのひとが死んだら終わると言われ、
過去との接続感がうすいということが指摘されますが、
坂本さんは別の世界に探しに行かれているのかもしれませんね。
坂本
どうやって生きていくかというとき、
過去はとてもいろいろなことを教えてくれると思うんですね。
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西村
宮本さんとしてはどうでしたか?
宮本
刺激的でした。
ひとつはうけつぐ=跡取りというテーマは
個人がうけつぐことで、
オープンな場所で話すこと、それを掘り下げて聞き、
共有することはなかったわけです。
でも、個人の問題でありながら、
私たちが共有する意味が感じられました。
地域や農のあり方は、
例えば、山形ガールズ農場の菜穂子さんだけでなく、
われわれ、あるいは地域全体で受け止めていくことも
必要なのだと感じました。
肘折青年団の早坂さん、山伏の坂本さんのお話を聞いていると、
いろんなひとが混じり合う中でうけつがれていくこともある。
早坂さんが語られた
「外のひとたちの体験によってうけつがれていく」こと。
坂本さんの「ヒジリ」という存在が文化を呼び起こすということ。
「肘折」と「ヒジリ」の話は、
これまでまったく思っていなかったことで、
どこか運命的なものを感じました。
西村
芸事を含む文化的活動は、
人間が人間であることをわすれないためにあるものだと思う。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最中、
包囲されて爆撃のつづく都市で
毎週クラシックのコンサートが開かれていたらしい。
それは人間が畜生に堕ちてしまわない
一線を守る行為だったんじゃないか。
日本の社会も厳しさは増してゆくので、
芸術のための芸術でなく
生きるためのそれが求められてゆくんだろう。
で、そうした文化や表現は、
一いえば十わかる間柄では決してない者同士、
ときにはヒジリと村人たちのようなひとたちが、
互いの経験を伝え合うなかで生まれてきたんじゃないか。
宮本
福島県の相馬の子どもたちを招き、
3日で即興の演劇をつくるワークショップをやったんです。
そうしたプロセスをつくっていくことも重要。
演劇のようなかたちがないもの。
壊れてしまわないものということも、
3.11以降の新しいテーマのような気がしています。
西村
地域の文化的リーダーと言われるひとびとが、
しんどそうと言われていますが、
今日のお話を聞くとそうでもないという気がします。
ありがとうございました。
このミーティングの後、肘折の温泉街では、
『肘折絵語り・夜語り』が行われた。
制作に携わった学生たちが、滞在制作を行った灯ろう絵について、
それぞれの制作のことを語っていくツアー。
多くの学生と温泉を訪れていた観光客がまちをそぞろ歩く。
旅館や店のひとびととの対話から選ばれたテーマを学生たちが語り、
浴衣姿の観光客がその話に耳を傾けていく。
温泉街のなかに、共同浴場「上の湯」がある。
観光客にも地元のひとにも愛される浴場の2階は、
「センター」と呼ばれる集会所。
この日の一連のイベントを終えたひとびとが打ち上げに集まってくる。
地元のひとびと、学生たち、先生たち、今日のパネリストのひとびと。
その輪は150人を超える大宴会。テーブルを見渡すと、
旅館や商店の若い青年たちと学生たちが、旧知の間柄のように仲良く語っている。
これは、「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」で語られたことの、
具体的なかたちであり、この日のミーティングを受けた次の対話の始まり。
東北のひっそりとした温泉の、質素な集会所で、
おそらく深夜まで続く夜のミーティング。
すぐそばに宿も温泉もあるから、誰もがくつろいで、
がやがやと語り合う光景も、
もはやひとつの肘折温泉名物なのかもしれない。
profile
TAKENORI MIYAMOTO
宮本武典
東北芸術工科大学准教授・美術館大学センター主任学芸員、東北芸術工科大学大学院 大学院長補佐、東北復興支援機構TRSO プログラムディレクター。
美術館大学センター : http://www.tuad.ac.jp/museum/
東北復興支援機構 TRSO : http://gs.tuad.ac.jp/trso/
福興会議 : http://www.tuad.ac.jp/fukukou/
南相馬こどものつばさ : http://kodomonotsubasa.com/
開催中プログラム『石川直樹_異人 the stranger』 水と土の芸術祭2012(新潟市) :
http://blog.tuad.ac.jp/stranger/
『ひじおりの灯 2012』山形県最上郡大蔵村肘折温泉 : http://gs.tuad.ac.jp/hijiori/
profile
YOSHIAKI NISHIMURA
西村佳哲
1964年東京生まれ。リビングワールド代表、プランニング・ディレクター、働き方研究家。武蔵野美術大学卒。つくる・書く・教える、三種類の仕事。建築分野を経て、ウェブサイトやミュージアム展示物、公共空間のメディアづくりなど、各種デザインプロジェクトの企画・制作ディレクションを重ねる。多摩美術大学、京都工芸繊維大学 非常勤講師。
著書に『自分の仕事をつくる』(晶文社/ちくま文庫)
『いま、地方で生きるということ』(ミシマ社)
『わたしのはたらき』(弘文堂)
『なんのための仕事?』(河出書房新社)など。
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