二足のわらじ生活

近頃のランチ事情。

午前マチスタ(岡山)→午後アジアンビーハイブ(児島)の
「二足のわらじ生活」がスタートして3週間が過ぎた。
岡山から児島への移動はもっぱら電車を利用している。
乗るのはきまって12時42分発の瀬戸大橋線、高松行きのマリンライナー。
所要時間はあらまし20分とさほどのことはない。
でも、次発はきっかり30分後なので、
「この電車を逃すとヤバい」という強迫観念めいたものがすでにある。
マチスタからJR岡山駅までは徒歩で約10分だ。
途中にはカレーのチェーン店やうどん屋、ラーメン屋、定食屋、レストランなどなど、
さすがは岡山のまちなか、飲食店は山とある。
この生活を始める前は、当然毎日岡山でランチを食べて
児島に出勤という生活を思い描いていた。
ところがふたを開けてみたら、ランチを食べるような余裕はこれっぽっちもない。
だいたい、のーちゃんが出勤してきたからすぐに「じゃあ交代ね」とはならない。
お互いに報告することや引き継ぎの連絡事項がわりとあるし、
お客さんがたてこんでいるとのーちゃんのサポートに回って洗い物をしていたりする。
ぼく自身がお客さんと話しこむことも何度となくあった。
そんなわけで、ほぼ毎日だ。「あ、こんな時間だ!」と声に出し、
エプロンをさっとしまって小走りに店を出るという無粋な光景が連日繰り返されている。

さて、この際どうでもいい話になった感もあるが、問題は依然ぼくのランチだ。
この3週間でもっとも多かったのが、
児島の駅前にあるローソンでサンドイッチを買うパターン。
事務所に持ち帰ってパソコンに向かい、野菜生活を飲みながら食す。
こうして文字にしてみるといかにもわびしいが、これまだいいほうの部類。
最悪に悲しいのはあれだ。
これまで2回あった、あまりの空腹感についつい岡山駅のホームのキヨスクで
ジャムパンやクリームパンを買ってしまうということが。
このパターンでは、必ず出発するかしないかの車内で封を開けずにおれず、
隠れるようにしてパンを齧っている。
我ながら品がない、情けない、おまけに美味しくない。
2度目にやったときは、「もうやめよう」と心に誓った。
いまのところその誓いは破られていない。
ついふらふらとキヨスクに行ってしまうことはあったが、踏みとどまって、
読みたくもない新聞を買うという行動でごまかしている。
まあいずれにしても、まともな昼飯には当分ありつけそうにない。

マチスタの仕事には、慣れたような、慣れないような。
そんなことを言っているうちは、きっとまだ慣れてないんだろう。
実際、コーヒー以外の注文、カフェオレとかココアとか、
最たるものはマチスタスペシャル(バナナモカシェーク)なんだけど、
そんなのがいくつか重なって注文が入ったときはヤバい。
「マチ……スペヒャ」
あの子だ、来ると必ずマチスタスペシャルを注文する常連の男の子
(便宜上、仮にモンちゃんと呼ぶ)。
お母さんもコーヒーやらカフェオレやらを注文するので、
この親子が店に入って来た瞬間、ぼくのカラダは自然と戦闘モードに突入する。
その日はこの母子に加えて、お母さんのお母さん、
つまりモンちゃんのおばあさんらしきご婦人も一緒だった。
オーダーは、モンちゃんがマチスタスペシャルとホットドッグ、
おばあちゃんがココア、お母さんがストロングのコーヒー。
この注文、山に例えたら確実に6000メートル級である。
マチスタの厨房は一気に『ディナーラッシュ』の活気を帯びた。
と、その日のモンちゃん、ご機嫌がよろしくない。
いつも座る窓側のカウンター席でなく、
テーブル席に座ろうとしたのがさらに気に入らなかったご様子で、
泣き声はやむことなく、お母さんがなだめてもエスカレートするばかり。
ぼくは一切声をかけることなく、というかかける余裕がないのだが、
傍目にその様子を見ていた。
するとモンちゃん、突然お母さんの腕をかいくぐるようにして店の外へと飛び出した。
それを追いかけるお母さん。店のなかから見守るおばあちゃん。
「ここでいいですかね?」
ぼくはなにも見なかったかのように、
最初につくったマチスタスペシャルをおばあちゃんのいるテーブルの上に置いた。
続いてでき上がったホットドッグも心配そうに外を眺めているおばあちゃんの前に。
「もうすぐココアができますから」
モンちゃんとお母さんは外に出たまま依然戻ってきていなかったが、
こっちはそんなことにかまっていられないのだ。
最後のコーヒーができ上がった頃、
ようやくモンちゃんがお母さんに抱きかかえられるようにして戻ってきた。
モンちゃんは釣り上げられたばかりの鰹のように
カラダを躍らせるようにして泣きじゃくっていた。
「はい、コーヒーです。お待たせしました」
お母さんはぼくにもコーヒーにも目もくれず、
憔悴した様子で椅子の上に置いてあったバッグを肩にかけた。
どうやら帰るつもりらしい。
ぼくはテーブルの上に並んだ飲み物とホットドッグを
すべてテイクアウト用の容器に移しかえ、一式をビニール袋に入れて手渡した。
「いつもありがとうございます、またよろしくお願いします!」
こうしてモンちゃん一家は嵐のように去って行った。
「いやあ、ごめんね。お待たせしちゃって」
店内にはこの一部始終を客として眺めていたぼくの友人がいた。
彼が注文したカフェオレは、まだなんにも手をつけていなかった。
さて、カフェオレ、カフェオレね—————と作業台を見渡して、
ふと視界のすみにある黒っぽい異質なものに気づいた。
青いストローなんかさしてある。
(ん? これ……)
またやった。モンちゃんのマチスタスペシャルを袋に入れ忘れた。
ぼくは前もそうだったようにまたしても店に友人をほったらかして
脱兎のごとく店を飛び出したのだった。

なんだろう、この抜け加減は。
このままでは近所の人から、
「マチスタの人? ああ、いつもエプロンしたまま走ってる人ね」と言われそうだ。

トップの写真をさしかえました。撮影は岡山在住の写真家の池田理寛クン。「店の写真を撮ってくれないかな?」とお願いしたら、デジタルではなく、ペンタックスの中判カメラをもって撮影に来てくれた。やっぱりフィルムは違う、味がいい!

立花テキスタイル研究所

一枚の布から始まる、小さくて大きな物語。

広島県尾道市で出会った色とりどりのストール。
ふんわりとやわらかいトーンの色は
尾道市街地から船で渡った向島(むかいしま)に自生する
サクラやモモ、プラム、アメリカセンダングサなどの植物から生まれた色だ。
実は、この色は、向島にある立花テキスタイル研究所が
季節ごとに出る大量の剪定枝や間伐材を集めたものから作っている。
いわば、不要とされているものを有効活用したものだ。

子どもの手による奔放な作品は、未来への希望にあふれている。

その日、向島の立花自然活用村内にある
立花テキスタイル研究所では、子ども向けのアートスクールが開催されていた。
楽しそうに絵を描く子どもたちの微笑ましい姿を眺めていると、
あれ? 普通の絵画教室とは何か様子が違う。
木の端に色付けしたもの、長さの違う紐、はぎれ、
コワレモノを箱に詰める際に使うクッションの中身などが置かれ、
それを子どもたちは触ったり、使ったり……。
「よそではいらないものでも、ここでは楽しい画材に変身します。
その場で不要なもの=ゴミと決めつけているのは大人たちなのよね」
というのは、絵の先生である美術作家の岸田真理子さん。
彼女はここで染色やイラストなどを担当している傍ら
定期的に子ども向けのワークショップを行っている。
「ほら、こうやって色別にまとめておけば、抜けのある色鉛筆セットも
捨てずに活用できるし、色の微妙な違いもわかるじゃない?」
はい、確かに。
固定観念を外すと、用済みのものにも光がさす。
やわらかい色のストールの成り立ちと根本的な思想は同じにみえた。

同じ緑色でも、黄緑やモスグリーン、オリーブグリーンなど、いろんな色がある。

なぜか犬もいる教室内。子どもたちは自由にモノを眺め、アートに触れる。

ぐるり広い所内を見渡してみると、植物採集の展示や、分厚い色見本帳、
インドの糸つむぎ機チャルカ、そして染色したばかりの布が干され、
床には、木の枝、葉などが乾燥用に広げられている。
染料になる前の乾燥した植物は大きな袋にまとめられ、
あちこちの部屋の片隅に無造作に置かれていた。
子ども向けのアートスクールが終わったあとは、
まるで、放課後の学校にいるかのように人気がなく、静かだ。

外にある藍の畑では、代表の新里カオリさんが水撒きをしていた。
傍らには、なぜか山羊。
「可愛いでしょう? 戦前は日本各地で家畜として飼われていたんですよ。
山羊は、綿花や藍の周囲に生えてくる雑草を食べてくれます。
糞は植物への堆肥になるし、乳は飲めるし、すぐれた動物です」
彼らはまるでマスコットのように訪問客にも大人気で、
わざわざ山羊を触りに来る人もいるのだとか。
なんとムダのない働きっぷり。
畑の横でメエメエ鳴いてむしゃむしゃ草を食べているだけにしか見えない
山羊がそんな風に役立っていようとは!

優れた動物、と新里さんが称賛する山羊はレギュラーで5頭いる。

染料となる藍の畑に水を撒く新里さん。となりで綿花も栽培している。

一見、牧歌的な研究所や新里さんの佇まいに
ふわふわとしたものを感じたなら、それは大間違い。
実は、新里さんは立花テキスタイル研究所を
「コミュニティ・ビジネスとして成立させる」という
目標を着々と実現させている。

東京の美術大学で染色を学んだあと、
美術館や学校などで美術教育に関わっていた彼女は
旅で訪れた尾道で、NPO法人工房尾道帆布の木織雅子代表と出会った。
ちょうどその頃、地場産業の帆布は化学繊維に押され、衰退の一途をたどっていた。
魅力のある帆布という素材を、引き続き何かに活かしていくと同時に
天然素材の良さをもっといろんな人に知ってもらいたい、
と考えていた木織さんと意気投合し、
ともに数々のプロジェクトに取り組んでいったという。

新里さんが店舗でお客さんを接客していたある日、こんな出来事があった。
「帆布の素材の綿は、国産なんですか? とお客さんに聞かれたんです。
そこで、調べてみたら国内自給率は0.01%以下。驚きました」
2世代前には日本各地で畑の隅などで綿を栽培していたこと、
しまなみなどの温暖な地域は綿の栽培に適していることなどを知った彼女は
「ここで綿花を育てることができるのでは?」と
2007年からプランターで実験的に綿花の栽培を開始した。

「最初は、帆布を使った商品の開発をするつもりで尾道に来たのですが、
綿花栽培を始めると同時に染色材料を求めるようになり、
毎日のように向島内をフィールドワークしていました。
島の人々に聞き取り調査を行うと、いろんな話が出てきましたね。
みなさんの困っていることや歴史や地域の植生など
島のことが少しずつ見えてきました」
柑橘類の農家の多い向島では、剪定は農家の一大仕事で、
大量の剪定枝は産業廃棄物扱いとなる。
その話を耳にした新里さんは、剪定枝を買い取ることにした。
初めて向島を歩いたときに「染料になる木がたくさんある!」と
喜んだ記憶がここでつながったのだ。

綿花は、地域の人たちと協働して種まきから収穫まで行った。
収穫した棉(わた)で糸を紡ぐワークショップも開催し、
最初から最後までの工程をみるべく、多くの人が集まったという。
徐々に研究所の存在も地域に知られていき、
剪定枝を研究所まで持ってきてくれる人も増えた。

布を通して、人も、資源も、「環」になる。

尾道市向島立花地区にある立花テキスタイル研究所はこんなロケーションの中にある。

向島でフィールドワークした際に染色材料になるものを採集したディスプレイ。

果物の栽培農家の多い向島だけに、染色して面白い素材が集まるという。

立花テキスタイル研究所の製品の材料は、ほとんどが向島から出たものだ。
染料を布に定着させるための媒染剤は、環境への影響を配慮し、
銅や錫は使用せず、造船の鉄くずや牡蠣の殻、木灰など、
尾道ならではの廃棄物を媒染剤用に加工し、有効活用している。
地域で「いらないもの」とされたものを
「必要なもの」に変化させていく魔法に周囲の人もさぞ驚いたことだろう。

「最初は都会から来た女性たちが何かやっているなあという感じだったんですけどね。
今ではいろんな人を巻き込んでやっていますよ」
向島に住む人に聞くと、そんな答えが返ってきた。
しまなみ海道の今治で織ったストールに色を染めて商品化したものは、
路面店での販売を始めるとすぐに感度の高い人たちに知られることとなっていった。

糸の色見本帳は実験の結果。これを見ると向島の豊かな色彩が見えてくる。

ちなみに、2011年と2012年のアンテナショップでの売上を
月別にみると、多い月で前年比1.5倍もの利益を上げている。
立花テキスタイル研究所の在り方は、
環境と共生する地域再生例として広まり、
今や新里さんは国内外の講演にひっぱりだこに。
「まず、私は、社会に参加している経済人だと自覚しています。
身をおく場によっては、“アーティスト”といわれると
社会と分断されたような、特別な存在になってしまう。
それでは、地方では協働はできないんです」
これは、美術教育に関わってきた新里さんだからこそ言える言葉かもしれない。
「多くの人が関わるビジネスモデルとして成り立たせていくためには
いいものを作って満足しているだけではダメなんですよ」と彼女は言う。
色の定着や堅牢度など一定以上の品質を保持できないと持続可能な事業にはならない。
だからこそ、地域の草花を徹底的に調べ、
色を定着させる媒染剤との相性を何種類も試して
あの色とりどりのストールや帆布バックなどを
定番商品として安定的に販売できるようにしたのだ。

関東から向島に生活そのものを移してしまった新里カオリさん。

立花テキスタイル研究所というローカルプロジェクトを立ち上げ、
軌道に乗せた次の目標は和綿の栽培と染料の開発という新里さん。
しまなみ海道の島々をつなぎ、雇用を増やすことが目的だ。
「今ちょうど弓削島の人たちとのワークショップも始まったところです」。
どうやら、またひとつずつ彼女の思い描く理想像が現実になっているようだ。
ふと、彼女が水撒きの手を止めた。
見つめている先には、和綿が棉(わた)となってはじけていた。
「ほら、かわいいでしょう?」
愛情あふれる笑顔でそっと棉をつまむ新里さんを見て、
来年はワークショップに参加をして
自分で摘んだ草花でストールを染めてみるのもいいな、と思った。

和綿のコットンボールは下を向いて開く。種は大切にとって次世代へ。

首にふわりと巻いた向島生まれの自然の色。
それを身にまとうだけで、瀬戸内海に浮かぶ小さな島に
溶けていくような気持ちになるから、不思議だ。
このストールを巻いた日は、立花テキスタイル研究所で
目にしたものをヒントに「環」になるものに思いを馳せることが多い。
そうでなくとも、たまには近所にどんな植物が育っているのか、
そんなふうに周囲を見渡しながら駅に向かうのも、悪くない。

左から岸田真理子さん、新里カオリさん、そして新里さんの元教え子で関東から移住した齋藤知華さん。あと地元尾道出身の廣畑洋介さんがいる。春からは2名新メンバーが入る予定。

Information


map

立花テキスタイル研究所

2009年、しまなみの植物を調査・研究し、糸や布を染め、商品開発につなげることを目的に創設。2012年11月まで尾道商店街にアンテナショップを構え、トートバッグやストール、オリジナルの染色キットなどを販売していたが、2013年春に向島にある旧校舎をリノベーションした新店舗をオープンするため、現在は閉店。オリジナルキリムを作る「フレーム織り体験講座」や羊毛から糸をつむぐ「立花ものづくり体験」などのワークショップや子どもたちのための「立テキアートスクール」は定期的に開催中。
http://tachitex.com/index.html

大日堂舞楽 前編

1300年続く、神に捧げる舞。

幼い頃、獅子舞など地域の伝統行事に参加したことはないだろうか。
一年の節目に行われる無病息災や五穀豊穣を祈る奉納舞は
氏神への奉納だけが目的ではなく、
古くから住民たちの交流にも大きな役割を果たしてきた。
現在では、核家族や少子化が進み、
伝統文化を継承することが難しい地域は少なくない。

秋田県鹿角市の八幡平地区に伝わる、「大日堂舞楽」は
国内で現存する舞楽の中でも最も古い形で伝承されている
1300年間続く歴史のある舞楽だ。
毎年、年明けの正月2日、大日霊貴(おおひるめむち)神社(通称大日堂)にて
行われ、多くの住民が奉納舞を見るために神社に集まる。

今年の正月も例年と同じく、連綿と続く歴史の1ページがめくられた———。

鹿角市八幡平地区の景色。四方を小高い山に囲まれ、数々の伝説が残る風光明媚な場所。大日堂舞楽が行われるお正月あたりは気温が-7℃になることも。

―大日堂舞楽 本舞準備―

大日堂舞楽には小豆沢(あずきざわ)、大里(おおさと)、
谷内(たにない)、長嶺(ながみね)の4つの集落が参加している。
舞楽にかかわる人は、全員男性だ。
彼らは本番にそなえ、事前に練習や行(ぎょう)を行う。
笛や太鼓、舞人など、舞楽にかかわる能衆(のうしゅう)と呼ばれる男たちが、
早い人で本番の約2週間前から行に入るという。
これを、ある集落では「火をまぜない」と表現していた。
能衆は神により近い存在になるため、
俗世に生きる人たちと同じ火で炊いたものを口にすることが許されない。
ふだんの生活では、お風呂は一番風呂に入り、
家族と鍋を分けて料理を作り、匂いの強いネギやにんにく、肉類はとらない。
もちろん男女の交わりは許されない。
年末年始のイベントづくしの中で行を行い、
奉納舞の終わる2日を過ぎてから日常生活に戻る。
このような習慣が1300年間、この土地に根づいている。

昨年末、八幡平地区の各集落で夕方から行われる
内習(うちならい)といわれる練習に出かけてみると、
各地区、自治会館のような場所に祭壇を設け、練習会場としていた。
内習であろうとも、地域の神に捧げるために舞うみなさんの姿は真剣そのもの。
練習が終了したあとは、能衆だけで同じ鍋の汁をとり、
酒を飲み、お互いの一年のことを語り合う。
こんなことが長いところでは2週間も続くのだから驚く。
食事は、地域で定められた世話係が毎日作っているという。

行に入ると同時に各集落では内習(うちならい)といわれる練習に入る。一日の終りは、能衆のために魚や野菜が入った汁とご飯、酒などが用意され、30日の夜まで毎晩続く。(撮影:朝比奈千鶴)

郷土料理、納豆汁は谷内集落では行の間に食べるおなじみの一品。ゼンマイ、こんにゃく、豆腐、にんじん、ジャガイモ、わらびの他にサメや塩漬けの高菜が入る味噌汁に納豆を溶かしこむ。(撮影:朝比奈千鶴)

大里集落で行が始まった12月27日、
地域の集会所では同時に内習(うちならい)が始まった。
能衆に選ばれている中学生の古家拓朗くんのお父さん、
古家冬樹さんは練習をするわが子を遠くから見守っている。
「地域に同年代の子がおらず、
うちの子に出番が回ってきたときは正直困りましたね。
行をしなくてはいけないのもあって、一度断りました。
最終的には引き受けましたが、5年経った今では
自信がついたみたいで堂々と舞えるようになりましたよ」
生まれた頃からここで暮らしているという冬樹さんは
舞は世襲制で受け継がれてきたものだったこともあり、
自身が幼い頃は舞楽に無関心だったという。

大日堂舞楽は、行や舞楽の内容、しきたりなども含めて
長く大切に受け継がれていることが認められ
ユネスコ無形文化遺産や国重要無形民俗文化財に指定されているというのに、
舞楽に関わる人以外には、その内容が知られていない。
そもそも、舞楽は神様に奉納するものであり、
周囲に広く告知するものではなかったからだ。

現在、鹿角の小学校では大日堂舞楽を学ぶ授業がある。写真は鳥舞を舞う大里集落の小中学生。彼らは極寒の当日に、昔ながらの衣装で過ごすことで自然環境を学ぶと言っていた。

大日堂舞楽が始まったのは、古事記が編纂された1300年前あたり。
鹿角の伝説のひとつ「だんぶり長者」によると
夢で大日神のお告げを受け、だんぶり(とんぼ)の導きによって
霊泉を見つけて長者になった夫婦がこのあたりにいたという。
長者夫婦の娘で第26代継体天皇の后となった吉祥姫は
のちに亡くなった父母のために大日霊貴神社を建てた。
その後、時を経て、718年に老朽化した神社を再興するために
名僧、行基と音楽の博士、楽人が都より遣わされ、
彼らが舞楽を伝えたといわれている。

4つの集落の人々は、それぞれの地域で語り継がれたしきたりがあり、
隣の集落がどのように行っているのかということは、互いに知ることはない。
「同じ奉納舞といえども集落ごとに氏神や舞の内容が違うし、
内習の時期に他の集落の内習を見にいくことはないからね」と、
長年大日堂舞楽に関わってきた大里集落の能衆、浅石昌敏さん。

家族に葬式、出産のあった年は能衆を休む決まりがあるため、お孫さんが生まれたばかりの浅石さんは、大日堂の名を冠した「大日堂そば」を祭りに来た人たちに配っていた。

どの集落を見学に行っても、慣れた地域のメンバーながら
舞が始まると緊張感のある空気に切り替わった。
集落の人たちの神への畏敬の念がそうさせる、と浅石さんはいう。
「舞楽を奉納するのは、何かを祈るため、というよりも
神仏を大切にすることを意識し、毎日何事もなく生きられることに
感謝するといった意味がこめられているのではないでしょうか。
長年、大日堂舞楽に関わってきて、
先祖代々続いてきた大事な風習を自分の代でつぶしたくない、
大日堂舞楽にかかわる人にはこんな思いが根底にあります」
年末は家族の協力のもと、自分自身を大日堂舞楽に捧げ続けたい
という浅石さんは約20年間能衆として舞楽に関わっている。

奉納舞は、能衆やその家族たちの「誇り」にもつながっている。
能衆最年少、今年初めて参加する
小豆沢集落の小学二年生、山本弐虎太くんのお母さん、
山本由実さんは当日に手伝いをするなど舞楽に関わることに積極的だ。
「私は仙台からお嫁に来て8年経つんですが、
集落の若い人たちのコミュニケーションが密で
元気がいい。今の時代、他に比べるときっと珍しいですよね。
夫は青年団活動が楽しくてたまらないみたいだし。
息子が舞楽に関わるのはとてもいい経験だと家族は思っています。
地域の人たちが息子を育ててくれる、それがありがたくて。
ここに住んでよかったなと実感します」

―集落の精神的な支柱。
大日堂舞楽はそんな役割も持っているのかもしれない。

後編は大日堂のお膝元、小豆沢集落能衆の長い一日を本番当日1月2日の真夜中から追いかけた模様をお届けします。元日は最後のおさらいをし、2日はなんと深夜1時集合!

池ヶ谷知宏さん

ハレの日もケの日も変わらない富士山が好きだから。

日本のシンボルとして悠然とそびえ立つ富士山。
富士写真家、富士登山家という分野があるように、
その御姿に魅了されライフワークとする人は多い。
池ヶ谷知宏さんもそのひとりだ。

「goodbymarket(グッバイマーケット)」の代表、池ヶ谷さんは、
富士山の雄姿をユーモアあふれるプロダクトに落とし込む。

代表作は、『Fuji T』。
3776と書かれたTシャツの裾をつまんで外側にめくると、
めくったところを頂点に富士山が顔を出す。
見た目は数字(言うまでもなく、3776とは富士山の標高)が書かれた
変哲もないTシャツだが、裏地に富士山の絵柄が描かれているのだ。
「初めて富士登山するときにはオリジナルのTシャツを着ていきたいと思っていて、
思案中に着ていた真っ白いTシャツの裾をつまんだときにふと考えついたんです。
あれ、ここにも富士山があるじゃないか! って」
自分が初めて富士登山をするときの記念につくったTシャツが、
今では、静岡市美術館のミュージアムショップや、東京のインテリア雑貨店に並ぶ。
ほかにも、ティッシュを富士山の積雪に見立て、
つまみ出すと先の尖った富士山が完成するという
「ポケットティッシュケース『case 3776』」、
封をする部分に富士山の絵柄を施した
「封筒『Mt.envelope』」と「ポチ袋『Mt.envelope pochi』」などを次々と発表。
生活のなかでふとしたものごとの瞬間を、池ヶ谷さんは敏感に察知し、
ものづくりへと昇華させる。

「ポケットティッシュケース『case 3776』」

「封筒『Mt.envelope』」

池ヶ谷さんのつくり出す富士山はどれも鮮やかな青色をしている。「小さい頃から富士山と言えば“青”で“冠雪”だったんです」(池ヶ谷さん)

静岡県民でもこれほど富士山愛が強い人は稀なのではないか。
池ヶ谷さんは生まれも育ちも静岡市(旧・清水市)だが、
幼いころの住まいは富士山が見えるところではなかったそうだ。
「なので、たまに父が車で出掛けた時に海沿いから見せてくれた富士山は特別だったんです」
と話す。
池ヶ谷さんにとって、近くにいるのになかなか会えない恋人のような富士山。
だからこそ人一倍思い入れが強い。
音楽活動、建築の専門学校への進学、インテリアショップへの就職など、
上京し8年間を都内で過ごしながらも、
「いつかは地元・静岡に戻りたいとずっと思っていた」という宣言通り、
Uターンしたのが2008年。念願の富士山が見える部屋に住みながら、
プロダクトのデザインと販売を手がける企業に勤めたのち、
2011年に「goodbymarket」を設立。以降、静岡県内の企業の依頼で
広告やフライヤー、ロゴのグラフィックデザインを手がけつつ、
富士山をモチーフとしたプロダクト「Fuji」シリーズを企画販売している。

「ほかの地域で生まれ育っていたとしても、きっとその地域のアイデンティティを探してものづくりをしていたと思う」(池ヶ谷さん)

中指の第二間接を折り曲げたとんがりが富士山のようだと気づけば、第二間接部分のみ着色をした「軍手『Fuji Love Glove』」を販売。『Fuji T』とともに、富士登山のおともにどうぞ。

コミュニケーションツールとしてのプロダクト。

冒頭の『Fuji T』の話には続きがある。
Fuji Tをつくって実際に初富士登山に行った池ヶ谷さん。
無事頂上でFuji Tとのツーショットを納めることができた。
「そうしたら、“そのTシャツなに?”“どこで売っているの?”って、
他の登山客から次から次へと声をかけられたんです。
物がそこになくても、“富士山に登ったらこんなTシャツを着ていた人がいてね”
と、物のエピソードは語り継がれる。
いかにしてその商品がコミュニケーションを創造できるかということを
大事にしています」
それ以来、プロダクトには、日本一の霊峰・富士山という、
わかりやすくて誰からも愛されるモチーフから生まれる親近感に加えて、
ツッコミたくなるような、誰かに話したくなるような話題性を織り込んだ。

パッケージに書かれた商品コピーにもその姿勢が見て取れる。

「人生はわずかな思い込みから歯車が動き出すこともある」(『Fuji T』)
「突然の山雨、鼻水、大粒の涙…『突然』に備える人のことをオトナといいます」
(ポケットティッシュケース『case 3776』)

「小さいころから、いたずらをしかけてはその人の驚く顔を見るのが好きでした。
誰かの心を揺さぶるということが僕のテーマだとしたら、
この商品コピーはその延長線上にあるのだと思います」と笑う。
商品コピーを考えることで生まれた「言葉」への探求心は、
やがて池ヶ谷さんのデザイナーとしての活動にも影響を与え、
漢字をリデザインして立体作品やポスターなどで表現する
「emoglyph(emotion(感情)+hieroglyph(象形文字)を組み合わせた
池ヶ谷さん考案の造語。日本語にすると「情形文字」)」の個展を
2011年に県内のアートスペースで開催するなど、活動の幅を広げるきっかけとなった。
「漢字って見方を変えると面白いんですよね。
漢字が本来持つ意味とは違うものを感じたり、かたちを疑ったり。
富士山もそうですが、見慣れたものやあたりまえのものに
違う価値を見つけることが面白いんです」と言う。

よみかた:「気持ちで乗り越える」
意味:「あなたの目の前に現れたのは本当に壁だろうか? 本当にそうだろうか?
もう一度よく見て欲しい。壁を形成している辛(つらい)という文字が、幸(しあわせ)に塗り替えられているでしょ?
そう。その壁は気持ち次第で、壁にも踏み台にもなるわけです」

goodbymarket(グッバイマーケット)の名には、
「“マーケット”に“グッバイ”するのではなく、
“グッド”という感情が作品と結びつく場でもある、“マーケット”を見つめなおし、
新たなコミュニケーションプロダクトの創造を試みたい」
という想いを込める。
「だから、いつか一度くらいは富士山頂で
ポップアップショップの展開なんていいかもしれませんね」
と、茶目っ気たっぷりに言う池ヶ谷さん。その志は富士より高い。

「木」に一冊の本を加えたら「本」になる。一冊用の本棚『HONDANA』。

クロード・ガニオンさん

カナダ人から見た日本のローカル、沖縄の文化。

沖縄にひとり旅にきた主人公ピエール。
そこでさまざまなひとたちと出会いながら、自分の人生を見つめ直し、
これから訪れる老いを思う。
そんな映画『カラカラ』の象徴となっているのが、
カラカラという沖縄の泡盛を入れる酒器。
昔は焼いたときに陶器の破片が入り、
器が空になるとカラカラと音が鳴ったことから、カラカラ。
つまりカラカラは、空虚なものの象徴といえる。

「最初からこのタイトルにするつもりではなかったけど、
意味合いが面白いと思っていました。
映画は公開される国によってタイトルが変わることが多いけど、
これなら同じタイトルのままいけるというアイデアが決め手となって」
と語るのは、クロード・ガニオン監督。
沖縄に3年ほど前から住み、
「観光映画ではなく、僕の好きな沖縄を撮りたかった」という意欲作だ。

下が丸みを帯びた形をしているのが特徴。沖縄特有の素朴な味わい。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

東京ではなく地方の沖縄で、何に惹かれたのか。
沖縄のなかでもさらに地方の“何もない”場所を舞台として、
主人公のピエールは旅をする。
「ピエールは、リゾートには行かないひと。
ゴルフもやらないし、大きなホテルには行かない。
このひとだったらどこに行くかなという目線で場所を探しました」
例えば伊是名島。
みんな何もないというが、監督からみると「伊是名島の海は特別」なのだ。
外国人観光客が来ると、みんな那覇ばかり、国際通りばかり。
「信じられない! ほかにも面白い場所がたくさんあるのに。
僕は歩いていたら、毎日ステキなところをみつけられる」という。

南国の夏の着物として軽くてさらりとした芭蕉布。1972年、沖縄の日本返還と同時に県の無形文化財に認定され、2年後には、国の重要無形文化財にも認定された。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

もうひとつ好きなところは「沖縄のおばあ」だという。
おばあを代表として、沖縄は長寿の土地。
いくつになってもずっと仕事をし続けていることもその秘訣としてあげられる。
『カラカラ』にも元気なおばあがたくさん登場する。

「普通は歳を取るのが怖い。でも沖縄に行くとそんな気持ちがなくなります」
その象徴として描かれているのが、
人間国宝でもある芭蕉布づくり職人の平良敏子さんだ。
「敏子さんに出会って、すごくびっくりしました。
最初は映画に出演してもらうつもりではなかったけど、
シナリオを書いているうちに、やはり出演をお願いしてみようと。
沖縄では、高齢になっても仕事をしていることが大切で、
それを表現したかった。
もちろん芭蕉布の美しさも見せたかったけど、
90歳をこえる敏子さん始め、
おばあちゃんたちが社会のなかに居場所があること。
そこに非常に興味がありました。
しかも朝から晩まで立ちっ放しで働いています。
世界中のみんなに、歳を取っても人生をやめない沖縄の“おばあ”たちを見せたい」

このシーンだけ、ドキュメンタリーのように撮られている。
平良敏子さんに出演を快諾してもらっても
「どのようにみせればいいか不安でした」という悩みが監督にあった。
そこでドキュメンタリーの手法。
そもそもガニオン監督は、
プロの俳優と素人をミックスして演出することが多い。
「特別に何も頼みませんでした。毎日の作業をそのまましてもらっただけ。
プロと素人が一緒にやると面白いものが出てくるんですね」
そういう“生”の演出があると、確かに心に引っかかりができる。
偶然を必然に。
そんな監督の演出手法は、スタッフには面倒をかけるけど、
観る側にザラッとした質感を残すことができる。

ピエールが人間国宝の平良敏子さんの芭蕉布工房を訪れるシーン。ドキュメンタリーのような撮影手法で、平良敏子さん本人に登場してもらった。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

おもしろいものをみつける旅の達人。

監督は沖縄のみならず、日本全国、47都道府県を旅している。
そこでも、高速道路ではなく、積極的に脇道にそれていくようだ。
「日本には、ものすごくステキなところがたくさん残っていますね。
特に小さな村が好き。
一見、何もないようだけど、
ちゃんと見たらすごくいいものがたくさんあります。
ぼくは、絶対におもしろいものを見つけられます。
小さなお寺とか神社とか、建物とか、ちょっとした山の上とか。
あとはおじいちゃんとか子ども。いいところは、どこにでもたくさんある」
監督は旅上手なのだ。
すでに見る場所が整っているところに行くのではなく、
視点を変えれば、見どころはそれぞれの人次第。

「この前、2週間ハンガリーに行ったけど、まったくノープラン。
430kmかけて、車を運転したけど、いいシナリオが浮かんだし、
探していたイメージ通りの犬が見つかりました(笑)。
でも、プランニングすると不思議と見つからないもの」
最初から探すつもりなんてない。でも、だからこそ見つかる。
そんな視点で地方を旅してみれば、
日本国内でも、いろいろと楽しいものが見つかりそうだ。

ピエール役のガブリエル・アルカンと、純子役の工藤夕貴。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

ガニオン監督は、毎日、家の近くの通称「三角公園」にいくという。
そこで毎朝、気功をする。
周囲のひとたちはみんな知り合いなので、毎朝挨拶する。
「沖縄にはコミュニティライフが残っている」という。
毎日のように会い、一緒に何かを作業する。
日本人より、日本人の地方の力を知っている
クロード・ガニオン監督が描いた日本、そして地方である沖縄。
そんな視点で観ても面白い作品だ。

表情が豊かなクロード・ガニオン監督。インタビューは通訳なしでOKなくらい日本語が達者だ。

太くて長くて硬いのはお好き?(1)

お前はすでに死んでいる!

ナマコは冬が旬です。お正月にナマコを食べる地域もありますが、
僕は子どもの頃、食べた記憶がありません。
みなさん、初めてナマコを見たときのことを覚えていますか?
僕がナマコと最初に出会ったのは、学生時代の与論島でした。

海の底まで透けて見える青い珊瑚礁、白い砂。
きらきら光るカラフルな小魚を見つけて
はしゃぐ聖子ちゃんカットのビキニギャル。
その足元に横たわっている、ゾウのうんこのような巨大な物体。

なんじゃ、こりゃ?

こわごわ踏んでみると、ブニョ~ッとした感触。
強く踏んでみると、ギュギュ~ッと硬くなって、
それをしつこく、グニュグニュやっていると
なんか白い糸状の物体を放出してドロドロ溶け出すもんで、
怖くなって、ぎゃーっと放り出して逃げる。

同じような経験をした人も少なくないはずです。
シカクナマコさん、すいませんでした。

気持ち悪いという人も多いナマコですが、
ナマコってのは、なかなか魅力的な生き物で、
ナマコにインスパイアされた作品は少なくありません。

人類学者・鶴見良行さんの大作『ナマコの眼』は
ナマコを追いつつ、アジア、太平洋の交易、漁業経済を描くことで、
海からの視点で宗教、言語、文化が交わるナマコロードを浮かび上がらせ、
国家とは何だろう…と考えさせてくれる名著です。

絶対的なスケールとして捉えがちな時間ですが、
実は時間にはいくつも種類があることを面白く描いて
ベストセラーにもなった、歌う生物学者・本川達雄さんの
『ゾウの時間、ネズミの時間』もナマコの研究から生まれました。

おや? 両書とも初版が1990年と1992年ですから、
90年代初頭、ナマコの夜明けがあったのでしょうか。

ナマコは古くは古事記にも登場しますし、
芭蕉もナマコの句を詠んでいます。
正岡子規も夏目漱石、宮沢賢治の作品にもナマコは登場します。

ナマコのなにが人を魅了するのでしょう。

ごろ〜ん

たぶん動物なのにほとんど動かないことではないでしょうか。
手足もなく、どちらが前か後ろかもわからない。
ミミズもそうですが、もっとのたうちまわります。
ナマコはゴロンとただ存在する。
ただただ、そこにある。
生きているのか死んでいるのかすら、よく分からない。

「脳死」をもってヒトの死とするのか、「心停止」をもって死とするのか、
議論は分かれるところでありますが、ナマコの場合はどうなのでしょう。

ナマコには目、鼻、耳といった感覚器がありません。
ですから感覚情報を処理する「脳」がありません。
「脳死」をもって死とするならば、
ナマコは死んでいるということになります。

「だろだろ? 脳死なんてのはよ〜、脳が一番エラいという
脳偏重の考え方なんだよ。
やっぱりカラダが資本よ。心臓が止まってからのあの世だぜ」
ということになるかというと……。

ナマコは血管系がなく、酸素や栄養補給は水管系と呼ばれるシステムと
体腔内の体腔液が担っています。

つまり「心臓」もないのです。

おぬし……、いったい何者なのだ!

お、縮みはじめたぞ!

どうしてナマコはじっとしているのでしょう。
それは筋肉がないからです。
ナマコはほとんどが分厚い皮膚で、あとは体腔の水でできています。

動物がなぜ動くのかといえば、
なによりもまず食べ物を探すためです。

ところが、ナマコが食べているのは
海底の砂についている有機物や藻類の破片。
探さなくてもまわりは餌だらけなので、それほど動く必要がありません。

もうひとつ、動物が動く理由は捕食者から逃げるためです。

でも、素早く逃げようとして筋肉をつけるほど、
捕食者にとっては、ますます魅力的な餌になります。
パラドクスですね。

「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。」

ナマコは逃げませんでした。
で、逃げずに戦ったかというとまったく逆。
筋肉を極力少なくし、栄養のない皮をぶ厚く硬くすることで、
誰にも見向きもされない生き方を選択したのです。

ボールみたいに丸まりました!

普段は柔らかいナマコですが、刺激を受けると硬くなり、
防御姿勢をとります。

それでもまだ、しつこく攻めて来る相手には
皮膚を溶かし、腸などの内臓を肛門から放出してやりすごします。
放出した内臓は、数週間すると再生します。

しかもナマコにはホロスリンという
サポニン系の毒があり、これは魚にとっては毒なので、
ナマコを食べる魚は少ないのです。
(脱線しますが、このホロスリンはクスリにもなり、
天然ナマコから抽出した水虫薬があります)

これがナマコの生き残り戦術です。
頭のいい選択をしているようですが、ナマコに脳はありません。

怪獣モスラの幼虫が敵に向かって吐くのは糸ですが、
ナマコは腸やエピキュニ管と呼ばれる内臓を吐き出します。

実はモスラの幼虫とナマコには共通点があって、
ナマコは大昔、「コ」と呼ばれていました。
もともと「コ」とは「蚕(かいこ)」のことです。
派生して芋虫状の生き物を「コ」と呼ぶようになったとか。

家で飼うから蚕(飼うコ)
生で食べるからナマコ(生のコ)
ナマコを茹でて干したのがイリコ(煎りコ)
ナマコの腸(はらわた)はコノワタ(コの腸)

筋肉や脳がないので、エネルギー消費量が低く、
(人間は総エネルギーの20%を脳につかっている)
摂取するエネルギーが少なくても生きていけます。
栄養価の少ない砂に付着したバクテリアなんかを
食べることでもやっていけるわけです。
砂を体内に取り込んで体が重くなっても平気なのは、
素早く動く必要がないからです。

パッと見ではどちらが前か分かりにくいのですが、
よく見ると結構違うんですよね。口を見てみましょう。

ここから触手を伸ばして砂を飲み込み、栄養分を取り込みます。

口は砂を食べやすいようにやや下向きの位置にあります。
こんな形の口になった理由が『古事記』に書かれているくらい
日本人とナマコは長いつきあいなのです。

口から伸びた触手。イソギンチャクみたいですね。

腹側には管足がびっしり生えています。
先が吸盤のようになっていて、 岩などにピッタリくっつくことができ、
伸ばしたり、縮めたりして 体を移動させます。

ナマコは海底の掃除屋です。砂に付着している
有機物はナマコの栄養となり、砂はきれいになって海に戻ります。
肛門はこちら。ナマコは呼吸を肛門でしています。

なんだかオカリナみたい。

それにしても、このナマコ。まじまじ見ると、キモイというより
織部焼きの陶器のようでなかなか美しいではありませんか。

正岡子規はナマコの句を多く残しましたが、ナマコに少し詳しくなると、
子規の句はいっそう味わい深くなります。

世の中をかしこくくらす海鼠哉
風もなし海鼠日和の薄曇り
引汐に引き残されし海鼠哉
海鼠喰ひ海鼠のやうな人ならし

正岡子規が34歳の若さで病没した3年後、子規の大親友である
夏目漱石は、初の小説『吾輩は猫である』を発表します。

その自序にもナマコは登場します。

《此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な
文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一
向差さし支つかえはない。又実際消えてなくなるかも知れん。》

ナマコを最初に食べた人はすごいとよく言われますが、
ご存知のように『吾輩は猫である』にも

《始めて海鼠を食ひ出せる人は其胆力に於て敬すべく、
始めて河豚を喫せる漢(おとこ)は其勇気に於て重んずべし》

とあります。

この文章は《海鼠を食へるものは親鸞の再来にて、
河豚を喫せるものは日蓮の分身なり》と続きます。

喩えに浄土真宗の祖の親鸞、日蓮宗の日蓮を持ち出すのは少々突飛ですが、
本川達雄さんは、ここに子規と漱石との友情を感じ取っています。

子規は、地味&静的なもの=ナマコと、
派手&動的なもの=フグを対比させた句をいくつか残していますが、
本川さんは次の句に注目します。

[日蓮宗四箇格言]念仏は海鼠真言は鰒(ふぐ)にこそ
(念仏を唱えていたらナマコに生まれ変わるぞ、真言ならフグになるぞ)

これは日蓮の「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」のパロディで
念仏=静的=ナマコ、真言=動的=フグの構図です。

《漱石が、子規の四箇格言の句を思い浮かべながら書いたものだと
私はにらんでいる。そう考えれば、ナマコとフグの取り合わせも、
日蓮と親鸞の件も、理解できるからである》
(『世界平和はナマコとともに』)

親友を亡くし、ぽっかり空いた心を埋めるように執筆した
はじめての小説で、友を思いながらユーモラスな筆致で綴る漱石。
『坂の上の雲』が好きな人にはたまらないのではないでしょうか。

ぬめぬめしてるけど、手はべとつきません。

本川先生はナマコを研究し、尊敬してはいるものの、
好きになったり、可愛いと思ったことはないと断言しつつ、
こう述べています。

《可愛い、おもしろい、役に立つというような、自分が好き、
自分の得になると感じられるものとばかり付き合おうとする風潮が、
今の世の中、非常に強いですよね。嫌いなものとは付き合わないし、
さらには排斥する》
(『生物学的文明論』)
《自分の好きなものだけで世の中ができているわけではない。
好きではなくても付き合っていかねばならぬもの、
嫌いだけど大切なもの・侮ることのできないもの、
そんなものばかりだと言ってもいい。
自然も真理も神様も、そう甘ったるいものではない。》
《好きなものと付き合うのは子どもにだってできる。
嫌いだけれど大切なものと付き合っていけるようになるのが、
大人になるということ。それを出来るようにするのが教育であり
学問なのである。》
(『世界平和はナマコとともに』)

またまた脱線してしまいましたが、新年を迎え、
自戒の念もこめて、引用させていただきました。

ナマコの項つづく

"ナマコのくせに落ち着きのないコだね! ツチノコみたい。あ、ツチノコは土の「コ」かな?"

福山のコーヒー的習慣

激動の年末年始。

このお正月にあった今年初のコーヒー的体験をひとつ。
場所は福山のカフェ<nanairo(ナナイロ)>。
何を食べても抜群に美味しくて、広島方面に行った際は帰りに必ずここに寄る。
というか、年に何回か訪れる尾道や福山への小旅行は
このカフェでの夕飯ありきで計画されていたりする。
以下はそのカフェで1月3日に目撃した出来事である。
ぼくは入ってすぐのところにあるソファ席で友人の一家と夕飯を食べていた。
と、ふらりと店に入って来た20歳代の男性がふたり。
ともに黒っぽいニットキャップをかぶった彼らは、つかつかとカウンターに近づいて、
エスプレッソをふたつオーダーした。そしてカウンターの一角にある、
椅子のない、立ち飲みのスペースで出てきたエスプレッソをものの2、3分で飲み干すと、
「どうも!」とだけ言って、また来たときのようにふらりと店を出て行ったのだった。
その一連のシークエンスを無言で眺めていたぼくはといえば、若干シビれていた。
そんなカッコいい光景がミラノでもNYでもなく、この日本で、
しかも岡山よりもさらに人口の少ない福山で見られようとは思いもしなかったのだ。
ぼくが目にしたようなコーヒー的習慣が若者の間で根づいているとしたら、
福山、かなりヤバい。

正月に見た光景があまりに鮮烈だったので、
そのたった2日後にまた福山の<nanairo>を訪れた。店に入るなり、
店主のジャリくんにそれとなく彼らのことを聞いた。
「おとといの晩、エスプレッソだけ飲んで帰った若い子たちがいたよね、
彼らはああやってよく飲みに来るの?」
「いえ、彼らはたしか店に来たのは2回目です」
うん……?
「エスプレッソだけ飲みに来るお客さんって結構いるの?」
「ほとんどいないですよ。
だってうち、エスプレッソよりもマンゴージュースの方が出ますもん」
というわけで、あれはお正月の幻みたいなものだったことが判明した。
でも、あの幻はいまもぼくのなかで特別な輝きを放っている。

年が明けて、我が社アジアンビーハイブのデザイン担当ヒトミちゃんが
FA権を行使することなく、残留することが決定した。
彼女が会社を辞めてフリーのイラストレーターになるか、
そのまま会社に残るかは五分五分とふんでいたので、
双方の場合をシミュレーションしてはみたが、
「辞めます」と言われた場合はどうしていいかよくわからなかった。
シミュレーションといっても、途方に暮れて佇むぼくのそばで
サブがクンクン泣いている絵が浮かぶばかりだった。とりあえずはよかった。
「これで会社も安泰」と言えたらいいんだけど、
創業以来、うちの会社が安泰であったためしがない。
今年も例にもれずで、新年早々から結構なクライシスにある。
目下、昨年春に融資を受けたT銀行に二度目の融資のお願いをしているところ。
「最悪、社長が個人で借り受けして、会社に貸すというカタチもありますが」
担当のシマちゃん、そんなことをおっしゃるってことは融資しにくいのかな?
顔もあきらかに「困ったちゃん」風だ。
「個人で借りた場合の利率はどうなってるの?」
案の定、高かった。
銀行って、預けたときの利率と貸したときの利率に
なんでこんな開きがあるかなあ、いまさらだけど。
というわけで、現在は銀行の決定を待っている状態なのだった。
頼むよ、シマちゃん!

さて、残る人もあれば去る人もありというのが世の常。
昨年12月でコイケさんがマチスタを離れた。
で、のーちゃんと相談した結果、ぼくが平日の午前中9時から12時までを担当し、
12時から閉店の午後7時までをのーちゃんが受けもつこととなった。
(今年から月曜日を定休日とし、営業時間を朝と夕それぞれ1時間短縮しました)
なんと、このぼくがマチスタの朝の顔。
東京にいる頃は、フジテレビの『ペット百科』の放映時間に合わせて、
午前11時20分を起床時間としていたこのぼくがである。
そんなわけで、午前は岡山のマチスタ、午後は児島のアジアンビーハイブという生活が
すでにスタートしてすでに数日が経過している。
数日しか経過していないけど、わかったことは少なからずある。
たとえば、朝利用する7時58分早島駅発岡山駅行きの電車が、
本を読むこともままならないほど混んでいるということ。
午後の労働時間があまりに短くて、気を抜くと何もしないままに夕方を迎え、
「あれ、そろそろマルナカに夕飯の買い物に行かなきゃ」
(マルナカは近所にあるスーパーのチェーン、
昨年イオングループ傘下となった)ということになったりする。
いずれにしてもこれまでの瀬戸内海的な温い生活とは大きく違って、
なにかとガチャガチャ慌ただしい。
一方、静けさに満ちているのが午前のマチスタ勤務。
3時間でふたりとか3人とか、
毎日がそんなだからいたって平和、ってこれじゃいけないのだ。
朝の活気をぼくが創りだしていかなきゃいけない。
いまのマチスタにとってそのハードルはそそり立つほどに高い。
でも、高いからといってあきらめたくない。
まずは一歩だ。一歩を踏み出すことから始めようと思っている。

ヒトミちゃんも<nanairo(ナナイロ)>のハンバーグの大ファンで「お母さんの次に美味しい!」と10歳児のように絶賛。本や雑誌のセレクトも実にセンスよし! 
住所 福山市三吉町3-10-7 TEL 084-921-3016

最初の第一歩といえば、ぼくの場合やっぱりビラでしょう。新年早々、毎朝店頭に立ってビラ配りしてます。内容は1月15日から1か月間の割引サービス(午前中に限る)。「忙しゅうてかなわん!」と悲鳴をあげてみたい。

Shop Information


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cafe-nanairo

住所 広島県福山市三吉町3-10-7
TEL 084-921-3016
営業時間 11:30 〜 24:00 火曜定休
http://cafe-nanairo.jimdo.com/

Shop Information


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マチスタ・コーヒー

住所 岡山県岡山市北区中山下1-7-1
TEL なし
営業時間 火〜金 9:00 ~ 19:00 土・日 11:00 〜 18:00 月曜定休

二度目のマチスタ番

散々な一日を振り返る。

クリスマス直前の3連休、初日の土曜日に二度目のマチスタ番が回ってきた。
今回は準備からしてちょっと違った。前日に事務所にあるCDをセレクトし、
トッド・ラングレンやホール&オーツ、ボズ・スキャッグス、ジェッツなどを
用意していた(お題は「アメリカの80’s 」です)。
2週間前の土曜日はまったくそんな余裕はなかったのだけど、
やはり二度目となると少しは心に余裕ができるものらしい。
かくして土曜日の当日—————午前10時、マチスタに到着。
開店準備の手順はだいたい頭に入っている。
まずはガスの元栓を開けて、ポットにかかっているお湯を沸かす。
それからおつりをレジに移し替え、冷蔵庫のなかをチェック。
店内はしんと静かで、お湯が沸くと、途端にコーヒーの予感のようなものも店に漂う。
(ぼくはすでに開店前のこの時間が好きになっている)
さて冷蔵庫のチェックが終わったら次は掃除という順番だけど、
今日はもってきたCDを数枚、試しにかけてみた。
ちなみにマチスタでかけているのは、もっぱらジャズやボサノバ。
そのわりに80年代の商売っけたっぷりの音楽もそんなに違和感がなかった。
なかでも抜群によかったのがホール&オーツだ。
マチスタではきっとソウル系の音楽もアリなんだと思う。

午前11時。看板とホットドッグのポップを表に出し、
かかっていたホール&オーツのCDを1曲目の『Sara Smile』に戻して準備は万端。
ところが、最初のお客さんがやって来たのは11時を30分以上過ぎた頃だった。
「ストロングの豆を100グラムと、持ち帰りでカフェオレのアイス。
豆は曳いてください」
アイスカフェオレは作ったことがない。豆も曳いて売ったことがない。
なにからどう手をつければもっとも効率がいいか、さっぱりわからなかった。
でも、さっぱりわからないでいると悟られてはまずいので、
とりあえずカラダを動かして、豆を曳くところから始めた。計量器で100グラムを計り、
ミルに豆を半分ほど入れてスイッチオン。
マチスタのコーヒーミルは、見栄えはいいんだけど、
どちらかというと家庭用で、100グラムを一気に処理する容量がない。
したがって2回に分けて豆を曳くことになる。これ、結構面倒だ。
さて、曳いた豆を専用の袋に入れた後は、アイスカフェオレ。
早速やってしまった。
あらかじめ容器に氷を入れてから牛乳と抽出したコーヒーを注ぐのが手順なのに、
最後に氷を入れることになってしまった。
おかげで氷を入れる瞬間に、ちゃぽん、ちゃぽんとカフェオレがはねる。
マチスタが恐ろしいのは、作業台がぼくの腰よりもさらに低い位置にあって、
向こう側にいるお客さんに制作過程のすべてが露見してしまうこと。
つまり、この「ちゃぽん、ちゃぽん」も
かなり高い確率で見られてしまった可能性があるのだが、
「それがどうしました?」的なすました態度でいることがぼくの精一杯の頑張りだった。

なんとか送り出した最初のお客さんと入れ違いに、
自転車に乗った主婦のお客さんが店に入って来た。
「ブレンドを200グラム、お願いね」
また、豆だ。
「豆のままでよろしいですか?」
「曳いてちょうだい」
もう買おう、業務用のミル。
とりあえずは、100グラムで2回に分けるわけだから、200グラムなら4回。
約50グラムの豆を1回曳くごとに袋につめていった。
袋に入れる際にじょうごの類を使っていないので、
気を緩めるとすぐにボロボロと粉がこぼれてしまう。
「お待たせしてすいません」とか、そんな軽快な言葉をかける余裕はまったくない。
結構気を遣う作業で、結果、結構な時間がかかった。
ようやく作業を終えた頃、知り合いでもあるお客さんがふたり入って来た。
先のお客さんに豆の入った袋を手渡しお礼を言うと、
これからお買い物だろうか、彼女はいそいそと店を出て行った。
「おひさしぶりです。さあ、なににしましょうか?」
言った瞬間、視界の隅にあるそれに気づいた。
豆売りの計量に使っているカップが作業台の上に。
豆は半分ほど入っていて、重さにして50グラムといったところか。
(なんでこんなところに豆が……?)
頭のなかで火花が散った。次の瞬間、ぼくは店を飛び出し、
通りに立ってさっきのお客さんが自転車で向かった方向を見た。
(たぶん、あれか?)
まさに脱兎。
年齢のことも、もう何年も思いっきり走ったことがないというのも完全に忘れ去って、
ただただ自転車に乗った女性の後ろ姿を追った。
ほぼ2ブロックだった。
信号をひとつ過ぎ、ふたつめのところでようやく追いついた。
「すいません!」
はりあげた声に、その女性が振り向いてくれた。
ところが、息が完全にあがって二の句が継げない。
腰を折って両手を膝にやり、「豆を……豆を……」とうわごとのように繰り返した。
「豆を……曳き忘れて……とりあえずお店へ」
やっとの思いでそう言って、女性を促して店へ戻ってもらった。
店に入ると、事の理由がなにもわからないまま、
唐突に店主に店を出て行かれた知り合いのふたりがまだ待ってくれていた。
彼らにお詫びを言って、作業台にあった残りの豆を曳いた。
「次に来たときにでもよかったのに、ホント悪いわ」
「いやいや……そうはいかないです」
「これ、たいしたものじゃないけど、よかったら食べて」
そう言って、彼女はバッグから小さな紙の袋を取り出した。
なかには小豆の餡の入った菓子が3つ入っていた。
「そんな……悪いです。でも、せっかくだからいただきます」
実はこの頃もぼくはまだ十分に酸欠状態で、
唇が青くなっていやしないか、そればっかり気になっていた。
こうして無事というか、もうギリのセーフ、
お客さんに200グラム分の豆をお渡しすることができたのだった。
しかし、午前中に体力を使い切ったその代償は小さくなかった。

その日は知り合いや友人がたくさん来てくれたこともあって、
6時の閉店までかなり慌ただしい一日となった。
でも、スタートがスタートだっただけに、
地に足の着いた接客ができていたとは言いがたく、
ミキサーからジュースをこぼしたり、
レジを打ち間違えて修正不能になってのーちゃんに電話したり。
店のBGMに気を配るような余裕もほとんどなくて、
CDは一度変えたらかけっぱなし、何回リピートしたかわからないぐらいの垂れ流し状態。
はっきり言って初回よりもさらに散々な立ち振る舞いだった。
店を閉めた後はもうぐったりだった。
わざわざ三原から来てくれたヒロシとロラちゃんと、
<ステーキのどん>で250グラムのステーキを食べて一時的に回復を見せたものの、
家に帰るとすぐに泥のように眠ったのだった。

けっして調子にのっているわけじゃないが、
来年から定期的にマチスタに立つことになった。
毎週火曜日から金曜日までの午前中、9時から12時までを担当する
(月曜日を定休にしました)。
しかも、隔週で日曜日も立つ予定。
50歳を迎える来年は、結構ハードな年になるやもしれん。

左はマチスタの焼き菓子コーナー。倉敷のパン屋さん「コンパン」のフロランタン、アマレッティ、コーヒームラングが並びます。右にあるのがくだんのコーヒーミル。アメリカのキッチンエイド社製。

作業台が低いマチスタの厨房。ここまで丸見えだと、コーヒーを淹れるのもマチスタではある種、パフォーマンスです。しかし、手際よくテキパキ立ち回れたら、それはそれでいいわけで。

ズワイガニのセックスを笑うな

今年もときめきの出会いがなかった貴女へ

カニのシーズン真っ盛りですね。
みなさんはもうカニを食べましたか?

あ、最初にお断りしておきますが、申し訳ない。
今回も嫌がらせのように長いので、時間のあるときに読んでください。
しかも女子の皆さん、すいません。
内容は仰天セックス(僕にとっては)の話なので、ちょっとだけお下品です。

いいですね、断りましたよ。
では、はじめます。

国内のカニ類の漁獲量を調べてみたところ、
ズワイガニとその仲間のベニズワイガニが漁獲量全体の78%を占めていますから、
ズワイガニこそ日本を代表するカニなのです。

でも国産のオスのズワイガニのいいものは、一匹3~4万円くらいは当たり前。

このコーナーで取り上げたいけれど、こりゃ、予算オーバーだとあきらめていたら、
たまたま応募した「カニのキャラクターに名前をつけてねキャンペーン」に見事当選。

景品としてズワイガニが当たったので、ここに登場することになりました。

いやあ、50歳過ぎて「かにぴょん」と書いて応募して、本当によかった~!

さて、11月6日はズワイガニ漁の解禁日でした。漁期は3月20日までの5か月。

冬の冷たく荒れ狂う日本海を舞台に、5か月で年収の約6割を稼ぐといいますから、
漁師さんやカニ加工業者さんたちの11月6日にかける熱い思いは半端ではありません。

カニ底曳き網漁の漁船。カニがいるのは深海。長いロープが必要になるので後部のリールがでかい。

西高東低の冬型の気圧配置で海は荒れやすく、月に操業できる日はわずかだ。操業できても水も空気も痺れるように冷たい。

ずらり並んだ、活きているズワイガニ。

なんでも初日にはご祝儀相場で一匹20万円ついたカニもいたとか。

さて、標準和名であるズワイガニと呼ぶと、どうも美味しさ、貴重さが伝わってきません。
松葉ガニ、越前ガニの方が断然うまそうです。

ご存知のように、ズワイガニのオスは若狭~山陰地方では松葉ガニ、
福井県では越前ガニと呼ばれます。

間人(たいざ)かに、大善かに、津居山かに、柴山かに……
呼び名は違えど、どれもズワイガニです。

水揚げされる各港でブランド化が図られており、
港がひと目で分かるようにタグ付けされています。
(福井県=黄色、京都府=緑色、間人ガニ=緑色、津居山ガニ=青色……など)

ご覧ください。ズワイガニのオスとメスは、大きさがずいぶん違います。

大きいのがオスです。

ズワイガニのメスは地域によって、セコ(北陸)、セイコ(北陸、京都)、
コッペ(京都)コウバコ(石川)、と呼ばれています。

京都にいるときゃ~ コッペと呼ばれたの~ 福井じゃ セイコと名乗ったわ~

失礼しました。
裏返しちゃいましょうか。

きゃ~っ いや~ん!

大きさだけじゃなく、腹のいわゆる「ふんどし」の部分がオスは三角形で、メスは丸型です。

アップで見てみましょう。

卵を数えてみようかと思ったけど、やめました。

卵をたくさん抱いていますね。これが外子(そとこ)と呼ばれる受精卵です。

見た感じはキャビアのようですが、魚卵のようなコクはなく、
むしろさっぱりした味わいとシャキシャキした食感を楽しみます。

では、甲羅をオープンしてみましょう。

うひゃあ、たまりません! 

中央の鮮やかなオレンジ色の部分が、内子(うちこ)と呼ばれる卵巣です。
蟹味噌(緑色をした部分)以上にねっとりした風味とコクがあり、
これが食べたくて、毎年11月6日の解禁日が待ち遠しいという人も少なくありません。

作家の開高健さんの大好物がこれでした。

「雄のカニは足を食べるが、雌のほうは甲羅の中身を食べる。それはさながら海の宝石箱である」
(開高健全集第15巻「越前ガニ」より)

グルメリポーターの彦摩呂さんが、なかなかの読書家であることが分かります。

開高さんが常宿にしていた福井県越前町の「こばせ旅館」で
「う~ん」と言いながらほおばっていたのが、
二合の飯の上に七杯ぶんのセイコガニをほぐして乗せたカニ丼。
彼の死後、この丼は開高丼と名づけられました。

茅ヶ崎市にある開高健記念館

ズワイガニは水温が0~5℃くらいの冷たい深海に棲息しています。
オスとメスは棲んでいる水深が違っていて、
メスは水深250m近辺、オスはやや深い水深300~400mくらいで暮しています。
繁殖期になると大人のオスとメスが集まります。
カニだけに出会いのカーニバルなんちゃって。わははは、日本海の深海より寒いぞ。

ズワイガニの産卵は初産卵と経産卵とでは異なるのですが、
ややこしくなるので、ここではざっくり説明します。

知らない人はちょっとビックリしますよ。

交尾(意外や正常位)したメスは、すぐに産卵し、お腹に卵を抱いて、なんと1年過ごします。
抱えている卵の数は7~10万個。1年後、お腹の卵から子どもが孵化し、放仔したあと、
すぐに受精して、産卵。ふたたびお腹に卵を抱えます。

つまり、卵をお腹から放してから、1週間ほどですぐにまた卵を抱えるので、
卵を抱えていない成熟したメスにお目にかかることは、ほとんどないのだとか。

大人になったらお腹に卵を抱えたままで生涯を過ごすって、すごくないですか?

でも、もっと驚くのはここからです。

いうまでもなく、海は広いな大きいなです。おまけに水深が深いのでまわりはまっ暗。
当然、オスと巡り会えない淋しい年もあります。

そんなロンリー・イヤーはどうするかというと……。

体内にストックしておいた昨年の精子の残りを使って受精するのです! 
なんとメスの体内には精子バンクがあるのです。

そして、次の年もオスと出会えなかったら、
ストックしてある一昨年の精子を使ってまた受精するのです。

こうして、一夜(?)をともにした相手の子どもを、
3~5年間くらいは産み続けることが可能なんですって。

一夜の契りの相手の子を一生産み続ける悲しい女。

雪は降る降る未練はつのる、
馬鹿なやつだといわれても、
宿命ですもの女の命、
ああ、私は今年も産むわ。

ドロドロの演歌の世界を妄想してしまいますねー。
寒風吹きすさぶ冬の日本海が舞台ですからねー。

でも、これはズワイガニに限ったことではなくって、
たいていの甲殻類は、精子をいったん貯精のうと呼ばれる器官に蓄えてから受精するのだとか。

えー、そうだったのか、エビ、カニ!

じゃあ、新しい出会いなんて必要ないじゃん。

京都府立海洋センターの話では、まだよくわかっていないのですが、と前置きした上で、

「貯精のうにストックした精子の場合、受精率が年々下がることはわかっているので、
やはり毎年、交尾して新鮮な精子を仕入れるのが基本的な繁殖戦略ではないでしょうか」
ということです。

しかもですよ。擬人化して書きますが、
処女は童貞、おっさんの区別なくセックスして妊娠しますが、
一度子どもを産んだ熟女は、若い男はお断り。強い大人の男としかセックスしません。

おお、擬人化するとなんてわかりやすいんだ。

つまり、昔の男の子種をキープしつつも、強い男に抱かれる女の性(さが)ですな。
いやはや全然、一途ではありません。カニの世界も女子はクールですな。

むしろオスは自分の子孫を残そうと、他のオスと浮気しないように、
メスに必死にしがみついているそうです。カニの世界も男子は必死です。

俺だって必死なんだよ!

いろんな資源保護対策で
やっと水揚げ量の減少に歯止めが。

ズワイガニの寿命は約20年。
大人になるまで9年くらいかかります(オス9cm、メス7cmが大人の目安)。
成長が非常にゆっくりした生物なのです。

日本海では1970年代には16000t以上の水揚げがありましたが、
1990年代には1500tにまで落ち込んでしまいました。

明らかに獲り過ぎてしまった反省から、漁期を短くしたり、
ひと航海の漁獲可能量や捕獲してよいサイズの制限を設けるだけだなく、
物理的に底曳網漁ができないように、
巨大なコンクリートブロックを沈めてカニの保護区をつくったり、
さまざまな資源保護に努めた結果、現在は5000t前後まで回復しました。

メスガニの漁も資源確保のため、オスよりも早く1月10日で終了になります。
つまり2か月しか味わえない貴重品なのです。

それでもメスを食べるのは日本だけで、
資源保護の観点から、いかがなものかと外国から批判されているそうです
(北米では蟹味噌食べませんしね)。

メスを保護するのに越したことはないでしょうが、メスを保護すれば増えるかというと、
メスの捕獲を禁止しているカナダでも漁獲量が減っているといいますから、
そう単純な問題ではないようです(ちなみにズワイガニの世界一の生産地はカナダです)。

禁漁期に漁師はカレイ漁なども操業していますが、
漁場の環境を守ろうと海底清掃をしているそうです。
操業中に失った漁網や漁具などの回収ですね。
これらにカニが絡まって死んでしまうのを防ぐためです。

兵庫県で会ったカニ底曳網船の船主の話では、燃料代・人件費の補助金が出るので、
その範囲で清掃活動をしているそうです。

ちょっと前までお隣の韓国は無関心でしたが、最近は意識が変わって、
海底清掃を始めたそうです。回収した量によって報奨金が出る制度らしく、
ものすごい勢いで海底をさらっているのだとか。

海底清掃で引き上げられた漁網類

そんなズワイガニの資源保護の努力話を聞いたあと、
日本海をヨットで北上して6月に新潟県の能生(のう)漁港に入港したところ、
禁漁期のはずなのに、堂々とカニが売られているではありませんか!

マリンドリーム能生 かにや横町

あれー、おかしいなー? どうなってんの?

かなり混乱したのですが、調べてみると並んでいたのはズワイガニではなく、
茹でなくても真っ赤な色をしているベニズワイガニでした。

これは水深500~2500mとより深いところに棲むカニで、
カニかご縄漁という漁法で捕まえます。

ベニズワイガニは棒状やフレークとして9割以上が加工用材料として使われ、
姿売りを見られるのは産地で若干見られる程度なのだとか。

でも、漁獲量はズワイガニ5,996tに対し21,456t(08年)と
国内の漁獲量は圧倒的にベニズワイガニが多いのです。
ベニズワイガニの漁期は9月1日~6月30日。もちろん密漁ではありません。

メスのベニズワイガニは捕獲が禁止されています

一般的に味、身の詰まり具合ともにズワイガニに比べて落ちることから、
こちらは価格もお手頃です。

でも、試食させてもらったら、これはこれで美味しいんですけどね。
つまりズワイガニはもっとおいしい。

ベニズワイガニはズワイガニの仲間ですが、缶詰でときどき見かけるマルズワイガニは
主に西南アフリカで獲れるオオエンコウガニで、これはズワイガニの仲間ではありません。
でも、これもこれでおいしい。

美味しいズワイガニは
どうして高額なのか?

ちょっと脱線し過ぎましたね。
話をズワイガニに戻しましょう。

一般的なスーパーで売られているのは、メスガニか輸入物の冷凍ズワイガニ(オス)。
で、国産のオスを見かけることは非常に希です。

これは国産のオスは北陸や山陰の観光地で多く消費されているからです。
ズワイガニは客を呼べるキラーコンテンツなのです。

温泉&カニ食べにいこう!ですね。

見事なまでの地産地消。
やはり現地で食べるのがベストでしょうが、なかなかそうもいかないのが現実。

ネットやトラックの移動販売で格安のズワイガニを買ってみたものの、
そんなに美味しくなかった経験、ありませんか? 僕はあります。

そこで、京都丹後で、長年、老舗の料亭や旅館にカニを卸している「魚政」の谷次賢也さんに
味の違いを聞いてみました。

谷次賢也さん。業界では名の知れた目利きの鬼!

「タグは産地表示で、品質保証ではないからね。タグがついていりゃ美味しいわけではないんだ。

水揚げ港は違っても、同じ丹後沖の日本海で操業しているのだからね。

タグは着いてて当たり前。むしろ大事なのは、カニそのものの鮮度と身の詰まり具合と
漁船での取り扱われかた。一匹一匹、個体差があるからね。

身詰まりのいいカニは、蟹味噌も濃厚でたくさん詰まってる。
たんに大きければいいってもんじゃない。

本当に美味しいカニの選別は、
目利きを二、三年やったくらいじゃ話にならないくらい難しいんだよ」

—— そういえば、泥臭かったことが……。

「深海の砂泥地に棲んでいるからね、水揚げ直後は体内に泥を含んでいるんだ。

だから、まず水槽に入れて泥吐き処理をする。
これを丁寧にしないと泥臭いカニになるね。

次にきれいな水槽に移して鮮度のいい状態を保つんだけれど、
単に活かしているだけだと痩せて肉質が悪くなってしまうんだ。

ストレスを与えるのも味をダメにするね。
頻繁に水を換えたり、毎日の掃除は大変だけど、
味を良くするためだからね、手は抜かないよ」

水槽から、活け松葉かにを取りだし、健康状態を一匹一匹点検し、水槽の汚物を取り除く

—— おいしく茹でるコツは?

「スチームで大量に蒸しているところもある。
でも、それだと火加減や塩加減にムラができるんだ。
うちはステンレス鍋で大量のカニを炊き上げる。

茹でに使う塩は、地元の海水から炊き上げたミネラルたっぷりの天然塩。

身質、時期、気温、大きさや量に応じて蟹茹で職人がつきっきりで炊き上げるんだ。
1分の差で味が大きく違うからね。

で、炊きあがったら一匹ずつ流水で丁寧に洗って灰汁をとり、身を引き締める。
この作業を怠ると嫌な臭いが出やすい。

——「魚政」さんとこのセコガニは外子がうまいです。

「セコガニは流水で洗ったあと、もう一度、魔法の水につけて、味を調整しているからね。
これをしないと、外子が水っぽくなってしまう。

最後に冷蔵庫で半日から一晩寝かせて、蟹味噌を固めて落ち着かせ、
身肉の旨味成分を増やしてるんだ」

はちきれんばかりに詰まっています!

—— 美味しい食べ方は?

「三杯酢もいいけど、まずは何もつけずに、そのままを味わって欲しいね。
絶対に家で二度茹でしたり、焼いたりしたらダメだよ」

—— 松葉かに。高級品ですよね。

「でも、脚が1本ないとか、傷があるものは安いよ。
体裁は少々悪くても、家族で食べるなら、味は変わらないからお買い得。

予算に応じて、予算以上の満足を提供するのがうちのモットー。
堪能してもらえたらうれしいね」

……とまあ、高いのには理由があって、より美味しく食べられるように、
実に手間がかかっているのです。逆に、安いのは手間をかけていないから、ともいえます。

カニを食べるのは冬の一大イベント。ケチってへんなカニを食べるよりも、
きちんとした値段で、信頼できるプロの目利きに選んで茹でてもらったカニを手に入れるほうが、
賢い選択だと思いますけどね。

湯町窯/布志名焼

民芸を受け継いだエッグベーカーのある風景。

JR玉造温泉駅をおりて、歩いて1分ほどで現れる古い風情を残した陶芸の工房。
店内には商品が所狭しと、重なり合いながら並べられている。
商品を飾り立てるようなディスプレイというよりも、
実用のための陶器をありのままに陳列している店舗であることがわかる。
ここは布志名焼を製陶している湯町窯。
奥には工房もあり、現在は3代目の福間琇士さんと4代目の福間庸介さんが
器や茶碗づくりにはげんでいる。

雑然と並べられていても、どこか美しさを感じさせる食器たち。

島根県の布志名という宍道湖岸で江戸時代にはじまり、
伝えられてきた布志名焼。来待(きまち)や凝灰岩(ぎょうかいがん)といった釉薬の原料、
そして土台となる土が近くで取れることもあり、
この地で陶芸が興ったのも必然だったのかもしれない。
そのなかで、湯町窯は大正11年11月11日に開窯。
初代の福間善蔵さんは主に火鉢をつくっていた。当時は暖房としてのほかに、
炭火を使ったり、灰皿にしたりと生活必需品だったという。

洋風のカップも湯町窯の特徴。持ちやすいハンドルが付けられたマグカップは人気商品だ。

昭和6年、2代目の福間貴士さんは、島根を訪問した柳宗悦と出会う。
そして彼が起こした民芸運動の哲学に共感し、参加することになった。
昭和9年には、日本の民芸運動にも関わっていた
イギリス人陶芸家バーナード・リーチが湯町窯をたびたび訪れて、
彼に伝授されたつくりかたで、洋食器もつくり始めた。
「黄色は黄釉(おうゆう)、青は海鼠釉(なまこゆう)という釉薬を使っています」
と琇士さんがいうように、洋食器なのにどこか懐かしい雰囲気が漂うのは、
湯町窯独特の色合いがあるからかもしれない。

白い黄釉は、黄色に変化する。

バーナード・リーチはエッグベーカーや、スリップウェアという技術も伝えた。
エッグベーカーは、今でも湯町窯の軸となる商品だ。
目玉焼き専門の陶器で、卵を割り入れ、蓋をして、
わずかに数分火にかけるだけ。あとは余熱で火が通る。
これでつくった目玉焼きはとてもやわらかく、ふんわりしている。
湯町窯でごちそうになった目玉焼きは、
これまでの目玉焼きが何だったのかと思うくらいに、食感が違っていた。
「高級な卵なんてつかっていません。普通のものです」という。
あとで何度か挑戦したが、自分の好みの火加減や時間さえ見つけてしまえば、
何も難しいことはなく、毎朝が贅沢な時間になる。
しかしこれを最初につくったのは、ガスがない時代の昭和9年。
「炭で調理していたので、難しかった」というが、
だからこそ余熱で調理していくという手段が適していたのかもしれない。
エッグベーカーに魅せられたひとりに、棟方志功がいる。
彼は民芸運動を通して湯町窯を訪れて交流を深め、
今でもエッグベーカーの使い方のしおりやショッピングバッグには、
彼の版画が使われている。

卵を贅沢品にする、魔法のエッグベーカー。

エッグベーカーなどに描かれている独特の模様は、
西洋でみられたスリップウェアと呼ばれる技法で描かれ、湯町窯らしさが表現されている。
どろどろの粘土状の土で飾りを描いていく。
スポイトに入れて模様を描けば、自由度も高い。
「かつて日本では筒書きと呼ばれていた技術です。
細かく描くこともできるし、大胆な柄にすることもできます」

釉薬をひとつひとつ手作業でかけていく。どんな色の仕上がりになるか楽しみだ。

海鼠釉というグレーの釉薬は、焼くと渋い青になる。

2代目の貴士さんが民芸運動に傾倒し、
3代目の琇士さんもその方向性を継承する。
「民芸という言葉をあまり意識しすぎないようにしています。
そういう意味では柳先生のおっしゃることを100%実行しているわけではなく、
はずれたものをつくっているかもしれない。
でも現代にあわせた民芸を提案していけば、
新しい実用品が生まれると思っています」
柳宗悦が提唱した民芸運動は、昭和初期のものであり、そのときの実用品。
湯町窯のように、その考え方を脈々と受け継いでいる窯元が、
現代の民芸と呼べる商品を生み出すのかもしれない。

琇士さんの息子の庸介さんが跡を継ぐ。

琇士さんの作陶歴は、18歳からはじめて50数年。
「まだまだ何もできません。努力しなくてはなりません。
一生懸命、真心こめてつくっていますが、楽しむことはできないね」と
琇士さんは笑う。
多いときで11軒ほどあった布志名焼の窯元も、現在では4軒を残すのみだ。
湯町窯では、息子である4代目の庸介さんが跡を継いでいる。
エッグベーカーでできた卵焼きのごとく、
やさしい民芸の心と次世代へ伝承がきちんと息づいていた。

工房には、大量のお皿や器が。あくまで日用品なので、どんどん数をつくりだす。「性分にあっています」と琇士さん。

石山文子さん

今回は番外編「街の人気者」

東銀座駅、5番出口を上がった七十七銀行前に、ひとりのおばあさんがいる。
新聞紙の上に色とりどりの野菜を広げ、その傍らにポツンと座っている。
気になって声をかけてみた。

手際よく商品を拡げ、いざ開店。営業時間 7:10〜9:40(日によって異なる)

手際よく商品を拡げ、いざ開店。営業時間 7:10〜9:40(日によって異なる)

石山文子さん

御年 83才

行商歴 60年

通称 おばちゃん

千葉県我孫子に生まれ、20才で茨城県利根町にお嫁に行く。
23才から行商を始め、銀座周辺に通い始めてもう60年になる。

おばちゃんが売っているのは近所の農家から集まった採れたての野菜。
この一畳足らずのお店には常連客もしっかりついている。
毎日欠かさずトマトを買いに来るスーツ姿の男性。
「いんげんの人」とおばちゃんが呼ぶ、いんげん好きのOL。
井戸端会議のお相手、ビル清掃員のおばちゃん。
自転車で乗りつける、割烹の板前さん。
笑顔が素敵な、歌舞伎座の工事現場作業員。
巡回中、汗だくになりながら笑顔で声をかけてくる築地署のお巡りさん。
そんなお客さんとのやりとりが、毎日、60年繰り広げられているのだ。

瑞々しい野菜が所狭しと並ぶ。トマト600円 なす200円 インゲン200円

瑞々しい野菜が所狭しと並ぶ。トマト600円 なす200円 インゲン200円 

肉厚の魚も人気商品。鯵の干物3枚 500円 塩シャケ3切600円

肉厚の魚も人気商品。鯵の干物3枚 500円 塩シャケ3切600円

「計算してっからぼけねえよー」会計も手際よくこなす石山文子さん

「計算してっからぼけねえよー」会計も手際よくこなすおばちゃん。

初めて厨房に立った日

厨房に立ってみないとわからないことがたくさんある。

寒い。とにかく、寒い。岡山駅からほんの10分歩いただけでカラダが芯まで冷えた。
午前10時ちょうど、マチスタに到着。鍵を開けて店内に入る。
すぐにアンプとCDのスイッチをつけると、無音だった空間にジャズが流れ始めた。
そこでようやく斜めがけしたバッグを肩からはずし、
前日にのーちゃんからもらったメモをフリースのポケットから取り出した。
その一枚目には<OPEN準備>として、
「ポットの湯を沸かす」、「おつりをレジに入れる」など、
7つのポイントが書かれてあった。開店の時間まで約1時間。
ぼくは上衣を脱いでハンガーにかけ、
まずは暖房をつけようと、エアコンのリモコンを探した。
が、ない。広い店じゃないのですぐに見つかりそうなものだけど、
それがどこを探してもない。
もちろん、のーちゃんのメモにもリモコンの場所なんか書かれているはずもなかった。
寒っ……。

12月8日土曜日。その日、ぼくは初めてマチスタにひとりで立つことになっていた。
4月のオープン以来、出張イベントではたびたびコーヒーを淹れてきたけど、
母体のマチスタでは一度もない。
厨房の内側に入ることも滅多になく、ジンジャエールの栓さえ開けたことがなかった。
不安はもちろん少なからずあって、
当日までに何度かマチスタに来て練習させてもらおうと思っていたんだけど、
たちの悪い風邪をひいてしまい、結局前日の午前中に一度店に来たきりだった。
でも、そのときにのーちゃんが渡してくれた前述のメモが実に簡潔で要点を得ていて、
おかげでぼくの不安はかなり軽減していた。

リモコンはなんとシンクの目の前、
壁から吊るしているフライパンの横に取りつけられていた。
台ふきんを洗っているときにたまたま見つけて、たまげた。結構トリッキーだ。
スイッチを入れ、ようやく店が暖かくなり始めた矢先、
最初のお客さんがやって来た。
その50代の女性は、まだ看板もなんにも出していないのに、
店に入るなり「寒いわねえ!」と言って窓側のカウンターに腰を下ろした。
時計を見ると、午前10時50分。開店までまだあるが、お湯も沸いていることだし。
それに彼女、すでに上着を脱いで落ち着いている感じだ。
「あの、看板出したりしますので、少しだけお時間いただいていいですか?」
「どうぞごゆっくり。やることをやってからでいいのよ、
それから美味しいコーヒーをちょうだい」
ぼくは看板とホットドッグのポップを表に出してから、手を洗って、
<キッチンエイド>のミルで豆を曳いた。
コーヒーのなんともいえずいい匂いが、一瞬にして店にたちこめる。
彼女のオーダーはストロング(深煎り)だった。
「この店はよくご利用いただいているんですか?」
「それが今日初めてなの」
「てっきり、よく来られてるのかと思いました」
「自転車でよく前を通っていて、いつも気になってたの。
今朝は家でコーヒーを飲みそこねたから、絶対外で美味しいのを飲もうって。
タイミングがよかったのよね」 
その女性は30分ほど、ゆっくりとコーヒーを飲んで、
「美味しかった。またうかがわせてもらうわ」と嬉しい言葉を残して帰って行った。
彼女が帰ってすぐ、ぼくはブレンドコーヒーを淹れ、
ホットドッグも作って早めの昼食(代金650円は自分でレジに入金、売り上げ貢献です)。
コーヒーはいわずもがな、ホットドッグも久々に食べたけど実に美味かった。
これなら合格、自信をもって出してよし! 
と、そこへ大学生風の若い女性がひとりでふらりと入って来た。
彼女はついさっきぼくが食べたと同じセット、
ブレンドとホットドッグを注文してからカウンター席で文庫本を開いた。
悪くないペースだ。慌ただしくなく、かといってヒマをもてあますでもなく。
外は相変わらず風が冷たそうだけど、
店の中は太陽の光も適度に入って、ぽかぽかと暖かい。
気を抜くと眠気をもよおしかねない、そんなのんびりとした時間が流れていた。
しかしまさかそのときは、その後2時間半もの間、
お客さんがただのひとりもこない魔の時間帯がやって来ようとは思いもしなかった。

11時の開店から3時間以上経過して、これまでお客はたったのふたり。
ぼくのランチ650円分を入れても、売り上げは2000円にも届いていない。
しかも土曜日は営業が午後6時までなので、うーん、ヤバい。
売り上げの最低記録を経営者自らが更新してしまうかも。
といって、焦ってもお客が来るわけじゃないので、
「マチスタにあったらいいな什器」のデザイン画を
4色ボールペンで描いたりして時間をつぶした。
1時間ぐらいがあっという間だった。

やっぱりもつべきものは友達かな。
長い長い午後の沈黙を破ったのは、
玉野市で活動しているアーティストの友人たち4人。
ぼくがこの日、初めてマチスタの店番をしているというのを聞いて、
わざわざ寄ってくれたのだという。
しかも彼ら、わかってらっしゃる。
4人がそれぞれ違うメニューをオーダーしてぼくを混乱させることもなく、
みんな同じくブレンドを注文してくれたのだった。
一杯300円のコーヒーが4杯だから、売り上げにして1200円。
でも、この1200円は数字以上にデカい。

彼らが帰った直後、のーちゃんが休日というのに店に寄ってくれた。
「どうですか?」
「うん、なんとかやってる。売り上げはよくないけどね」
久々に母親に会ったような、
嬉しさとか懐かしさのようなものとかいろんな感情がこみあげてきた。
彼女の存在の、まあ頼もしかったこと。
彼女がいる間に、5歳ぐらいの男の子を連れたお母さんがやってきた。
お母さんはコーヒーとホットドッグを注文し、
子どもが小さな声で「マ……スペヒャ」。ぼくの隣でのーちゃんが通訳のようにして言った。
「マチスタスペシャルです。よく来られて、いつも注文するんです」
マチスタスペシャルとはバナナモカシェークのこと。
レシピは頭にあるが、なにせ作るのは初めてで、
できればシンプルにバナナジュースとかにしてほしい。
目の前で子どもがぼくの顔を食い入るように見ていた。
「マチスタスペシャルがいいんだ?」
「……うん」
「マジで?」
子どもが下から見上げるようにして軽くうなずいた。
「じゃあ、私がホットドッグとマチスタスペシャルをつくりますから、
赤星さんはコーヒーをお願いします」
ひとりだったら間違いなく混乱していたであろうこの日初の難局が、
このようにして乗り越えられていった。
のーちゃんが帰った後も閉店の6時まで、お客さんは途切れることなくやってきた。
京都にいるトーマスが息子のレイくんを連れてきてくれた。
奈良で看護師をやっている友人や、
岡山で一緒に『Krash japan』のウェブを作っていたフジワラくんも来てくれた。
おかげで夕方からの店内はバタバタと慌ただしく、
売り上げも8000円を超えるところまで盛りかえすことができたのだった。

厨房に立ってみないとわからないことがたくさんある。
今回、ひとりで店を切り盛りしてそう思った。
というか、マチスタの今後のためにもぼくはもっと店に立つべきだろう。
さしあたって、12月22日の土曜日、再度ぼくが店に立つことになっている。

厨房から店内を見る。大きな窓からは通りを行き交う車やバス、路面電車が見えます。あんまり外を見てるとバカみたいなので、お客さんがいないときもなるべく外を見ないようにしてました。

路地を挟んで向かいにあったビルがまるごとなくなり、店内も明るくなってよし。でも、早々にマンションの建設がスタートするらしい。完成は2014年秋とか。長っ!

当日、何を着て店に立つかは大問題で、迷った挙げ句、涼しげなコットンの白のシャツにしました。でも、マフラーをつけっぱなしだったことにこの写真を見て気づいた次第。痛っ!(撮影:藤原基晃)

綾町の有機農業

安全で、そして何よりおいしい綾町の有機野菜を。

今年の7月、日本では32年ぶり5か所目のユネスコエコパークに、
宮崎県東諸県郡の綾町が登録された。
ひとと自然が共生したまちづくりが行われていることが
認定基準となっているものだ。
綾町は日本最大級の照葉樹林が原生的な姿をとどめるなど
豊かな自然を誇るが、
“ひとと自然の関係性”を物語る根本となっているのが有機農業だろう。

今でこそ、有機農業の野菜はお母さん層を中心に人気が高く、
有機農法の農家も増えている。
しかしさまざまな生産態勢との兼ね合いから、
いつでもどこでもすぐに有機農家を始められるわけではないのが現実だ。
綾町では、70年代から有機農法の推進機関や
家畜のフンや家庭ゴミを有機肥料に処理する施設を設置するなど、
有機農業を行政自体が積極的に進めてきた歴史がある。
特に1988年に制定された「自然生態系農業の推進に関する条例」は
全国的にも先進的な事例で、それ以降“有機農業のまち”として、
今でも就農を目指す研修希望者などがあとを絶たない。

そんな綾町のなかでも長老とでもいうべき伝説のつくり手がいる。田淵民男さんだ。
綾町の畑がたくさんある平地エリアから少し登った、
静かな山の中に田淵さんの自宅と畑はある。
田淵さんの父親が1946年にこの地に入植して開拓。
1952年に、この地で初めて日向夏とはっさくを植えた。
その頃から農薬は使っていなかった。
田淵さんは、親の農業を手伝いながら建築業を営んでいたが、
1979年から本格的に農業を開始。当時は、周りに有機農家などおらず、
綾町が本腰を入れる以前から、有機農業に取り組んでいた。

田淵さんの手はグローブのように厚い。何十年も土をさわり続けていた手だ。

「とにかくおいしいものじゃないと、勝負にならないと思ったんです。
農薬を使うとどうしても野菜も土も固くなる」と
無農薬にこだわり続ける理由を語る。

田淵さんがもっとも力を入れてきたのが土づくり。
家畜を持っていないなかで、
お金をかけず、いい堆肥をつくるために、ある方法を考えついた。
「自然を利用する自然生態系農業を始めました。家の周辺は自然豊か。
夏には雑草を刈り、秋冬は落ち葉を拾い集めて堆肥づくりをしています。
また、深さ70cmくらいまで掘って有機物を埋め込む
スコップ農業にも取り組んでいます」というように、
まだ有機農業が確立されておらず、文献や資料などが少ない頃から、
毎年土をつくり、自らの手でさまざまな農法を実験してきたのだ。
だから、おいしい。
「田淵さんのだいこん」のみを買い求めるために、
わざわざ遠方から車で訪れるひともいるほど、
田淵だいこんファン、にんじんファンは多い。
しかし、この味にいたるまでには、10年かかったという。

「だいこんもなかなかいいものができなかったんですが、毎年肥料を変えてみたり
試行錯誤して、なんとか納得できる味になりました。
それまでに10年くらいかかりますね。
百姓の品物は、1年に1回しかできません。
でもつくり上げたときは、うれしいですよ」
驚くことに、田淵さんは他のだいこんを食べて
「これはこの肥料が足りないな。こうすればもう少しおいしくなるのに」と、
育て方がわかるという。

機械を使わず、軍手すら使わず、素手でその感触を確かめ、
長い間こだわってつくられてきた土。
現在育てている野菜は、だいこん、にんじん、キャベツ、たまねぎなど20種類ほど。
そこで育つ作物は、土から栄養をたっぷり取り込んでいるのだろう。

土づくりが最大のこだわりだという。

有機野菜を全国へと広める母の心。

田淵さんをはじめ、綾町のこだわり農家の有機野菜ばかりを
ネット販売しているのが「オーガニックマミーズストア」だ。
綾町の野菜を広めることで、農家を、まちを元気にしようと試みる。
店長の藤元やす子さんは、ふたりの娘を持つお母さん。
娘が大学進学のため、東京へ出ていったときに感じたことが、
マミーズストアの原点にある。

「東京で食べた野菜が値段のわりにおいしくなかったんです。
娘はずっと綾町の新鮮でおいしい野菜を食べて育ったので、
都会でこれからちゃんと野菜を食べていけるかな? と心配になりました。
だからずっと綾町の野菜を娘に送っていたんです」

いつも明るい笑顔をふるまくオーガニックマミーズストア店長の藤元やす子さん。

こうして定期的に送られてきていた野菜たちは、
娘の友だち周りでもおいしいと評判に。綾町野菜の食事会を開いたり、
友だちにプレゼントするととても喜ばれた。
そうすると娘の友だちにもおいしいものを食べてほしくなる。
そんな思いがきっかけとなり、
もっと多くのひとに綾町の野菜を食べてもらいたいとショップを始めた。
おいしくて、安心安全な野菜を子どもたちに食べてほしいというのが母の心。
それこそ文字通りマミーズストアのコンセプトとなっている。

「基本単位はやはり家族だと思うんです。
家族が食卓を囲んで、おいしいものを食べて、笑顔になることが重要。
その中心にいるのはやはりお母さんだと思うんです」というだけあって、
笑顔が素敵な藤元お母さん。

扱われている野菜は、
藤元さんみずから、直接交渉して契約してきた農家の野菜たち。
「綾町の生産者が真心こめて一生懸命つくっているもの。
自分が食べてみて、
おいしいと納得できる農家の野菜を取り扱うようにしています」
さらに農家のお母さんも携わっているような家族経営の小さな農家から
買いつけることにこだわっている。
野菜をつくるのも、売るのも、お母さんの愛情が真ん中にある。

野菜の集荷は、藤元さんが綾町中を回って、
農家とコミュニケーションを取りながら、直接行っている。
そうすることで、そのときの畑の様子や野菜の生産具合も
ダイレクトにわかるし、農家と近況を話すこともできる。
そんなさりげない思いやりを大切にした仕事を心がけているという。

そこで生まれるのは、小さなコミュニティ。
農家は基本的にそれぞれ個々人の活動なので、
他の農家と交流する機会は少ない。
「せっかくみなさんがまちをあげて有機野菜という
素晴らしい商品を生み出しているので、それをお手伝いしながら、
小さくてもあたたかいコミュニティが自然に生まれたらうれしい」と
藤元さんもその理想を語る。

綾町で採れたて、ナスとオクラ。

綾町が有機農業の発祥のまちだといっても、全国の農業と同じく、高齢化が進み、
後継者不足に悩んでいる。新規就農希望者や研修生も挑戦に多く訪れるが、
農業の大変さに尻込みして、辞めてしまうひとも多いという。
特に有機農業は、農薬を使わない、化学肥料を使わない。
すると当然ながら手間がかかる。だから大量生産はできないし、
収穫量をピッタリ計算することは難しい。
生業として条件が良いとは言い難い。ある種の“ものづくりの精神”なのだ。
だからこそ、オーガニックマミーズストアの藤元さんは言う。
「綾町の農家コミュニティを広げるような活動をしていきたい。
有機農家の野菜づくりへの心意気をもっと知ってもらいたい。
そして何より、安心安全で、
おいしい野菜を全国のみなさんに食べてもらいたい。
そのためのイベントなども計画中です」

コイケさんのひとこと

泥臭い果たし合い。

事務所のすぐ近所に住んでいるおばちゃんがマグカップを手にやってきた。
「お茶しない?」と突然現れたりする人なので、
今回もてっきりお茶を飲みに来たと思った。
手にあるのは、あれはマイカップなのかなと。ところがだ。
「来週から1か月家を空けるから、これ、預かってくれない?」
水をはったマグカップの中、メダカが2匹泳いでいた。
「預かってほしいっていうか、もうもらって。ね?」
ざっくりそんな経緯で、我が社アジアンビーハイブでは10月からメダカを飼っている。
実は以前にも、捨てられていた金魚を拾って家で飼ったことがある。
捨て犬ならぬ「捨て金魚」に出くわすあたりが、
いいんだか悪いんだかよくわからない奇妙なぼくの星まわりだ。

それにしても、2000年の暮れに訪れたあの出会いはシュールだった。
親友のTの葬儀から数日して、
彼が住んでいた白金のアパートに友人一同が集まったときのこと。
その場でTの持ち物のほとんどが「形見分け」としてもらわれていった。
そして最後に残ったのが、Tが飼っていた巨大なトカゲだった。
フトアゴヒゲトカゲというオーストラリアに生息する種で、
体長はきっかり50センチあった。名前はアギーという。
Tの生前に何度も見ていたが、触ったことはなかった。触りたいとも思わなかった。
「近くのペットショップにもらってもらおう」というのがその場にいた友人共通の意見だった。
もちろん、ぼくも含めて。しかし、車座の中央にいたTの兄はこう言った。
「いや、弟が大切にしていたペットだ。ここにいる誰かにもらってほしい」
さっきまでざわついていた部屋が、一瞬、水をうったようにしんと静まりかえった。
それからどのようにしてぼくがアギーを引き取ることになったのか、
実ははっきり憶えていないのだが、「ああ、そうゆうことなのね」みたいな
なかば諦観にも似た気持ちから、最後はぼくが自ら手を上げたかもしれない。
それから1時間後、ぼくはアギーを連れて目黒のマンションに戻り、
一緒に暮らしている彼女にどう言い訳したらいいものかと憔悴していた。
重ねて記すが、そのとき目の前にいたのは50センチもあるトカゲなのだ。
唐突にトゲだらけの首のまわりを風船みたいに膨らませる得体の知れない生物なのだ。
しかし彼女は、事情を話すと、「じゃあ、飼ってあげなきゃ」と
尋常ならざる寛容さを見せてくれたのだった。
エサのことやら住環境の設定やらなにやらで、最初の1か月は本当に大変だった。
でも、アギーが可愛く思えるようになるまで、さほどの時間はかからなかった。
その後4年続いたアギーとの生活は言葉に尽くせないほど楽しかった。
いま思うと、東京の生活で一番幸せな時期だったかもしれない。

身のまわりに起こるものごとすべてに意味があると考えるような宿命論者ではない。
でも、人であれ何であれ、縁あって巡り巡ってぼくのところにやってきたものは大切にしたい、
シンプルにそう思う。

この秋のコイケさんとのーちゃんとのご飯会。
コイケさんから「マチスタはできるだけ早く閉めた方がいいです」ときっぱり言われた。
のーちゃんはさすがに驚いたようだった。
でも、ぼくはそう言われるかもしれないと思っていた。
数字を把握していれば冷静に考えるまでもなく、至極まっとうな意見なのだ。
でも、コイケさんとしても飲食のプロとして40年もやってきた自負がある。
最後まで口にしたくはなかったはずだ。
それでもそれを言わせたのは、
ぼくにこれ以上の深い傷を負わせられないという思いからだったろうか。
しかし、ぼくはまだ身を引く気には到底なれなかった。
「やることをすべてやったという気がしないんです」
コイケさんとのーちゃんにはそう説明した。
実際、これからやろうとしてまだ手をつけていないこともあるにはあった。
もちろん、ここで引けるかという意地もある。
でも、幕を下ろすことに抗ったその根底には、もっとほかの、模糊とした、
理屈では説明できないようなものがあったように思う。
それに、刃はまだ骨に届いていないのだ、切らせる肉はもう少し残っている。
「まだ可能性はあります、気持ちをリセットして頑張りましょう!」
つまるところぼくのエゴなのだが、それでも彼らは
その翌日から新しいアイデアをいろいろと実践してくれた。
ぼくもオーダーの傾向を詳しく把握できるように、
オーダーチェックリストをつくるなどした。
そうした成果がすぐに数字に表れるとは思わないけど、
10月の売り上げが前月比で約20パーセントアップした。
黒字にはまだ遠いとはいえ、久々に明るい材料をもらった感じだ。
さらに数字は上昇するのか、20パーセントアップした状態で横ばいになるのか、
はたして下がって夏の赤字レベルに戻るのか、11月の現在の時点ではまだわからない。
マチスタはこれからが本当の勝負だ。

一瞬で決まる、居合い抜きのような勝負は美しい。
でも、ぼくのそれは、だいたい汗にまみれる泥臭い果たし合いだ。今回もそう。
そしてぼくは、まだ息もあがっていない。

冬以外は部屋で放し飼いの状態が多かったアギー。ベッドを足もとからはいのぼって、ぼくの顔を踏み台にして出窓に移動、そこから外を見るのが好きだった。

あなたと食べたい鮭茶漬け

カモ〜ン! サーモ〜ン!

三陸の川にサケが遡上したというニュースが流れはじめました。
この映像は何度見ても、生命の力強さとはかなさが感じられて、
いつ見ても感動的です。

サケは日本人が一番たくさん食べている魚です。

日本の河川(主に北海道、東北、北陸)に最も多く遡上するサケは、
シロザケという種類で、通常サケといえば、このシロザケのことです。
獲れる地域や時期によって、
アキサケ、アキアジ、ギンケ、ブナ、メジカ、
トキシラズ、トキザケ、オオメマス、ケイジ……
などと呼ばれることもありますが、どれもシロザケのことです。

トキシラズ(トキザケ)は春から夏に獲れた未成熟のシロザケです。
産卵がまだ先なのに沿岸を回遊中していて捕獲されたもので、
栄養が筋子や白子にまわっていないので、身肉に脂がのっていて、
獲れる数も少ないことから人気の高い高級品です。

同じシロザケなのに成熟前(トキシラズ)は、こんな顔をしています。
全然顔つきが違いますね。

サケ類は産卵前のカラフルな婚姻色が表れるまでは、みんな似た感じなので識別が難しいそうです。

川で産まれたシロザケは、海へ下ると北上し、オホーツク海、ベーリング海、
アラスカ湾など、北太平洋全域を大回遊しながら数回冬を過ごします。

サケの仲間でも、日本産まれのシロザケはトップクラスの長距離スイマーです。
そして産卵の2〜3か月前になると、産まれた川を目指します。
シロザケの場合2年〜8年で戻ってくるのですが、多いのは4年だそうです。

サケって、産まれた川にきっちりと戻るイメージが強いのですが、
意外や、間違って他の川に迷い込むのも少なくないのだとか。

ご隠居〜、オイラまた川を間違えちまいましたよ〜。てへへ。

ちょっぴりマヌケな感じもしますが、
4年後に産まれた川に戻っては来たものの、
環境が激変していて遡上できない!→産卵できない!→全滅っ!!
なんてことを避けるための賢い生き残り戦略なのかもしれません。

シロザケが産卵のために回帰するのは9月〜翌年の2月。
河川を遡る前に沿岸の定置網を使って漁獲します。
たとえば北海道でのサケ定置網の漁期は9月〜11月。

少し脱線しますが、北海道の知床半島〜根室半島をヨットで航行すると、
やはり国境というか、ロシアの主張領海線が気になります。
ヨットが拿捕された例がないとはいえ、海上保安庁からは
くれぐれも越境しないように厳しく指導されました。

知床半島の羅臼港で渡されたのが、こんな地図。

渡された航行参考図。びっちりサケの定置網が張り巡らされています。

網に引っかかると大損害を与えてしまうので、
ヨットは定置網が設置されていない、沖を航行しなくてはいけません。
というわけで、境界線ギリギリを走ることになるのです。

GPS航海軌跡。納沙布岬沖がすごく狭い。

おまけ。たぶんミンククジラ。クジラは国の境界なんぞ気にしちゃいません。

司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公、
高田屋嘉兵衛もこの海域にまで来ていましたね。
瀬戸内から塩を積んできて、帰りに塩鮭を本州に運んでいたそうです。

戦後も遠洋漁業が盛んだったころは、
ギンザケ、ベニザケ、キングサーモン(マスノスケ)、カラフトマスなど、
たくさんのサケ類を獲ることができました。

しかし、各国の排他的経済水域が広がり、資源管理型漁業の導入も進んだことから
遠洋漁業は衰退。サケ類の漁獲高の減少、価格高騰が懸念されはじめました。

こうした情勢のなか、資源確保、食料の安定供給ために、
1970年代からシロザケの孵化放流の取り組みが盛んになります。
(孵化放流実験は、明治時代からおこなわれていました)

9割のサケは海で捕獲されますが、生まれ故郷はすべて川です。
北海道、東北、北陸地方の川沿いには驚くほど多くの「孵化場」があります。

岩手県漁業協同組合連合会ホームページを見てみましょう。
もうびっちりですね。

多くの施設が3.11で大打撃を受けました。ちなみに岩手県で人工孵化しているのはシロザケとサクラマスです。

こうして日本沿岸のシロザケの漁獲量は1970年頃の2万トン前後から、
1996年には25万トンにまで増加します。

孵化放流事業は大成功だったのですが、想定外のことが起きました。
日本人の嗜好が変化して、こってり脂ののった魚を好むようになったのです。

秋に沿岸で獲れるシロザケ(秋鮭)は産卵準備のため、身肉の脂が控えめです。

で、人気が集まったのが脂ののるギンザケ。
ギンザケは北米がメインで、日本近海にはまれにしかいないサケです。

ギンザケ養殖の実用化が始まったのも、やはり70年代。
ギンザケは孵化放流ではなく、海上の生け簀で養殖されます。
サケ類のなかでも成長が早いので養殖にぴったりで、
宮城県の女川と南三陸の養殖場は有名です。

では、これら国内で獲れるサケを、私たちは食べているのでしょうか?

実は国内のサケの漁獲量は年間20万トン以上あるのに、
同じくらいの量のサケ類を海外から輸入しています。
どこから輸入しているかというと、半分以上がチリからです。
(次いでロシア、アメリカ、ノルウェーがほぼ同量)

もともとサケ類は北半球だけにしか棲息しない魚だってご存知でしたか?
つまり、南米のチリには本来、サケは一匹もいなかったのです。

チリでギンザケの海面養殖が始まったのが、70年代の終わり頃。
これは途上国支援事業として、日本企業が三陸の海で培った
養殖技術をチリに移入し産業化したのが始まりです。
やがてアメリカなどの企業も参入し、生産量を急速に増やしました。

チリは地形を活かした大規模な経営に加え、飼料、人件費も安いので、
低価格で安定的にギンザケの大量生産ができます。

というわけで、この20年間、スーパーの鮮魚コーナーで、
年間通して幅を利かせているのが、このチリ産ギンザケ、いわゆるチリギンです。

そのあおりを食ったのが、三陸のギンザケ。
養殖の技術を確立した原点の土地だけに、なんとも複雑ですが、
最近では「伊達銀鮭」(「とろ銀鮭」)などブランド化に取り組んでいるようです。

今度、サケの切り身の生産地の表示を見てみてください。
外国産でよく目にするのは……

◎チリ産/ギンザケ、アトランティックサーモン、トラウトサーモン
◎ノルウェー産/アトランティックサーモン、トラウトサーモン、キングサーモン
◎ロシア産/ベニザケ
◎アラスカ(アメリカ)産/ベニザケ、キングサーモン
◎カナダ産/ベニザケ、キングサーモン
といったところでしょうか。

チリではギンザケのヒットをきっかけに、アトランティックサーモンや
トラウトサーモンの養殖事業も盛んになりました。

年を追うごとに世界のサケ類の生産量は右肩上がりで増加しています。
天然サケの漁獲量はずっと90万トン前後で変わりませんが、
養殖サケは増加を続け、1996年頃に天然モノと養殖モノの生産量が逆転しました。
上記のサケもロシア産、アラスカ産以外は、ほとんど養殖モノです。
(アラスカ州では魚の養殖は一切禁止されている)

世界で一番多く生産されているのがアトランティックサーモン(42%)
続いてトラウトサーモン(22%)、カラフトマス(11%)。
ベニザケ・ギンザケ・シロザケは各約5%といった配分です。

シロザケ(秋鮭)(生)/北海道   シロザケ(時鮭)(塩)/北海道   ギンザケ(塩)/チリ産
ベニザケ(塩)/北海道   キングサーモン(生)/NZ   トラウトサーモン(生)/チリ

脂ののったアトランティックサーモン、トラウトサーモン、ギンザケですが、
3種の中で値段が一番高いのはアトランティックサーモンです。

アトランティックサーモンは、かつて塩鮭用に試されましたが、
色が淡いのに加え、脂が多すぎて塩が利かず、
塩鮭に向いていない、使えないと却下されたそうです。

ところが、最近はお寿司屋さんで「サーモン」として大人気。
生食用が主で、チルド、つまり冷凍せずに空輸するので値段はやや高めです。
書き忘れましたが、養殖モノは寄生虫がいないので、生で食べることができます。
天然モノのサケは、加熱するか、生なら凍らせてルイベにして食べるものでした。
オーロラサーモンはノルウェー産のアトランティックサーモンです。

生食用、加工用を兼ねているのがトラウトサーモン。
ほとんどが冷凍なので、値段が安定して安く、
やはり「サーモン」として回転寿司に使われるなど大活躍。
ギンザケよりも成長が早く、扱いやすいので生産量も伸びているとか。

ギンザケは冷凍輸入され、主に加工用として、塩鮭のほか、
フレークになってコンビニおにぎりなどに利用されています。

さて、日本では人気が今ひとつになってしまったシロザケ(秋鮭)ですが、
人工孵化はしているものの、川を下り、海を回遊し、川へ帰るという
極めてナチュラルな成長をしています。

すると「ジャパンのサケってアーシーですごくね?」
「やっぱ養殖モノよりワイルドフィッシュの方がよくなくね?」 
と、オーガニックや生態系に関心の高いヨーロッパから注目を集め、
日本のシロザケが見直されているのだとか。

巨大マーケットである中国へ向けて、シロザケを食べてもらおう
という試みにも力が入れられているようです。

ただし、シロザケでもケイジ(鮭児)は別物です。
ケイジは本籍がアムール川出身の若いシロザケで、
全身に上質の脂がのった、滅多に捕獲されない幻のサケとして有名ですが、
値段もハンパありません。

たとえば、サケ類の中で高値のつくキングサーモン。
なかでも商業ベースでは捕獲していないユーコン川のキングサーモン(天然)が
別格でキロあたり2500円〜3000円だそうです。
ところがケイジは、なんと2〜3万円するというのです。
ギンザケが400〜500円ですから、まさに幻の高級魚です。
もちろん、僕は食べたことありません。

最後に紹介したいのが、アラスカ極北圏に棲むイヌピアック族の魚の図鑑です。

『Fish That We Eat』。シロザケの肝臓のオイル煮とブルーベリーを合えたものとか、サケの頭と筋子のスープとか、日本人にはびっくりの調理法も掲載されています。

太古の昔から、極北の地でもシロザケは貴重な食料でした。
約650万年前にアフリカで生まれたヒトが地球上に拡散していくなかで、
穀物の育たない極北圏を超えて、人類がアメリカ大陸へ渡ることができたのは、
毎年、豊富に、しかも浅い川で容易に獲れるサケがいたからではないでしょうか。

アイヌはこのシロザケをカムイチュブ(神の魚)と呼びます。
その名にふさわしい魚ですね。

門脇美巳さん、洋之さん、裕二さん

島根発! 親子3人でつくりあげた世界基準のコーヒーをどうぞ。

某外資系コーヒーチェーン店が、
「島根県には出店したくてもできない」と言ったという逸話があるらしい。
島根には個人経営の喫茶店が多く、新規参入が難しいという意味だ。
その代表格ともいえるのが門脇家である。
ことのはじまりは、門脇美巳さんが1967年、
安来市にオープンしたサルビア珈琲。
もともとはパフェや紅茶、ジュースなどを提供するよくある喫茶店だったが、
1980年頃から自家焙煎を始め、本格コーヒーへと舵を切っていく。

「すでに炒ってある豆を買ってきてもあまりおいしくなくて、
自分で生豆をぎんなん焼きで炒ってみたら、すごくおいしかったんです」
と、美巳さん。
それ以来、サルビア珈琲では余計なメニューはそぎ落とし、
ドリップコーヒーへの道を究めていく。

ゆっくりとコーヒーを落とす門脇美巳さん。サルビア珈琲は昔ながらの喫茶店のたたずまい。

サルビア珈琲は、1階が店舗、2階が住宅。
この家で育った長男・洋之さんと次男・裕二さんは、
毎日、店のなかを通って学校に行き、店のなかを通って家に帰る。
父親の働く背中を見続ける生活が、
彼らをコーヒー道へと突き進ませることになった。

長男の門脇洋之さんは、
現在、父親と同じ島根県安来市でカフェロッソを経営している。
父親の店を見ているうちに、コーヒーを生業にしてみたいと思った。
ただし、店で出すのはエスプレッソ。
洋之さんがその道を考えていた頃、
全国で外資系のコーヒーチェーン店らが流行しはじめていた。
当時の日本にはまだ馴染みの薄かったエスプレッソ文化を持ってきた黒船だ。
「新しいコーヒーが新鮮だったし、若いお客さんで流行っていました。
ライフスタイルが変わる予感がしたんです。
そのルーツを辿るとイタリアだということがわかって、
イタリアにエスプレッソの研究に行きました。
ミラノのあるバールのエスプレッソにたどり着いて、コレだ! と思いましたね」
と目指すものを見つけ、自分の味づくりに邁進する。

ここでひとつの疑問。
父親ゆずりのドリップコーヒーを継承するという道は考えなかったのだろうか。
「昔はいろいろな喫茶店に連れていってもらったんですけど、
結局、父親のコーヒーが一番おいしくて。これは超えられない。
それならば、エスプレッソという未知のものを自分の力で開拓していこう」と、
美巳さんが泣いて喜びそうな、おふくろの味ならぬ“オヤジの味”へのリスペクト。

ミルクを注ぐ瞬間からラテアートは始まる。長男の門脇洋之さんの丁寧な手つき。

現在は通販で豆の販売にウエイトを移している。人気の2銘柄。(カフェロッソ)

次男の門脇裕二さんも、長男洋之さんと同様コーヒー業界へ。
島根県松江市でカフェヴィータを経営している。
息子がふたりともコーヒーの道へと進み、父親も現役。
それも東京などに出ていくわけでもなく、島根県内でしのぎを削っている。
しかも洋之さんはワールドバリスタチャンピオンシップという世界大会で
2003年に7位、2005年に2位に輝いている。
裕二さんも2003年に日本バリスタチャンピオンシップで2位。
このときの優勝は無論、兄の洋之さん。
2008年にはUCCコーヒーマスターズエスプレッソ部門全国優勝という、
コーヒーエリート一家。
こうして門脇ファミリーのコーヒートライアングルは形成され、
3軒ハシゴなんてコーヒー通の観光客も登場するようになる。
愛好家にとっては出雲大社より、“門脇カフェ詣で”なのだ。
“どこがおいしかった”なんて評論しあうのも楽しいだろう。

三者三様のコーヒー飲み比べツアーへ。

同じ血筋であり、同じコーヒーで育ったのに、実は味の嗜好はそれぞれ異なる。
では、それぞれのコーヒーをみていこう。

昔懐かしの雰囲気が漂う喫茶店、サルビア珈琲。
美巳さんはカウンターの向こうで豆を挽く。
それをペーパーに移し、お湯を注ぐ。すべてが手際よい。
カウンターはすこし低く設定され、対面で行われている作業はすべて丸見えだ。

お湯を注いでふくらむコーヒー豆が新鮮な証拠。(サルビア珈琲)

「ネルでもやったんですけど、やはりペーパードリップが一番簡単。
同じようにやってもらえれば、ある程度、味が再現できます」と、
あくまで家庭でおいしく飲んでもらいたいがために、
ドリップの過程を公開しているようなもの。
細かく聞けば、焙煎具合で後味をすっきりさせたり、
お湯の温度、季節ごとの豆の水分の違いなど、こだわりトークはとまらない。
しかし、現在では豆の販売を中心にしているので、
その豆を使ったおいしい淹れ方を普及させようと努めている。
「豆は生鮮食品です」と強く語る美巳さん。一番はやはり豆。
新鮮な豆は、お湯を注いだ瞬間の、ふわっと広がる反応がまったく違うという。
美巳さんの淹れてくれたコーヒーは、やさしくてさわやかだった。

“生鮮商品”であることをハッキリと明示。新鮮さが命だ。(サルビア珈琲)

かわいいラテアート含め、カプチーノが人気なのがカフェロッソ。
洋之さんは、一時はバリスタの大会などに積極的に出場していたが、
あるときから「自分の求めている味を追求すると勝てない」ことが
わかってきた。コーヒー業界のなかにも流行があって、
フレッシュな酸味という今のトレンドは、洋之さんの好みの味ではないという。
それからは、大会よりも自分の好きな味を追求し、
毎日生み出すという活動に変化してきた。
現在、洋之さんがこだわっているのは追熟させた味。
「炒ったコーヒー豆をパックして、
熟成が進むような温度帯を見つけようと研究しています。
エスプレッソは、炒ってすぐだと泡がモコモコになってしまいます。
ある程度時間が経たないとまとまらない」と、
豆をなるべく一番いい状態で保つことが目下の課題のようだ。
いただいたカプチーノには、木の葉のラテアートが描かれていた。
レパートリーは10数種類。きめ細かい泡がとてもやわらかい。

こんなかわいいクマやパンダから、木の葉まで。(カフェロッソ)

裕二さんが経営するカフェヴィータは、
3軒のなかで一番若者のカフェらしい佇まい。
ここでいただいたエスプレッソは、
カップの内側にコーヒーがはねたような跡が残る。
通常は抽出口が二股に分かれているエスプレッソマシンだが、
裕二さんはそれを一か所から抽出する。
そうすると、どうしても内側が汚れてしまうという。
それも裕二さんが求める味を提供するためのことなので、しかたがない。
ひとくち口に含むと、かなり油分を感じ、こってりと濃厚だ。
残りは、裕二さんの勧めで砂糖をたっぷりと1本入れてみる。
するとその味わいはほとんどチョコレート。
裕二さんがつくるパンチ力のあるエスプレッソは、
兄・洋之さんの「赤ワインのように最初のアロマから、
後味の余韻へと変化していく」エスプレッソとは、兄弟でも好みが異なる。

ある意味、見た目通りのワイルドなエスプレッソ。コクがたっぷり。(カフェヴィータ)

三者三様のコーヒー。共通点といえば、島根で展開していること、
そして姉妹店などを出さずに小規模のまま
自分の目が届く範囲で経営していること。
3人とも職人肌で、自分でやらないと気が済まないタイプなのだ。

父親の美巳さんは「ふたりとも、ひとを使うのがへたくそ」と笑う。
それを裏付けるように長男の洋之さんも
「コーヒーをつくるのは自信があるんですけど、
マネジメントとか教育とか苦手なんですよ。あまり器用じゃないので、
いろいろなことをやるとコーヒーから離れていきそうで……」と、
あくまでコーヒーのクオリティを守るための
現状の店舗であり、スタイルなのだ。
「こっちは気楽ですよ。焙煎しても誰からもクレームこないし。
ゆっくりしているから、1杯1杯しっかり出せます。
お客さんが増え過ぎてしまうと、クオリティを保てるかわかりませんから」
と次男の裕二さんも、島根にいるからこその優位性を語る。

島根でなければ飲めないコーヒー3杯。
これを飲むためだけに行く価値がある、親子の物語たっぷりのコーヒーだ。

洋之さんのこだわりが感じられるひとこと。(カフェロッソ)

豆袋には3店舗のネーム入り。同じ業者から豆を購入することも。

Shop Information


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サルビア珈琲

住所 島根県安来市安来町西小路1918
営業時間 9:00〜18:00
定休日 日曜日
TEL 0854-22-2088


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CAFÉ ROSSO beans store+cafe
カフェロッソ ビーンズストアプラスカフェ

住所 島根県安来市門生町4-3
TEL 0854-22-1177
営業時間 10:00〜18:00
定休日 日曜日(祝日は営業)
http://www.caferosso.net/


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CAFFÉ VITA
カフェヴィータ

住所 島根県松江市学園2-5-3
TEL 0852-20-0301
営業時間 10:00〜20:00
定休日 木曜日
http://caffe-vita.com/