カツオの仕業ね。カツオ、ちょっと来なさい!

「チンコ大好き♡」枕崎生まれのあのコは言った。

カツオをテーマに文章を書くとき、
一番むずかしいことは何でしょう?

それはなんといっても書き出しです。

<目には青葉 山ほととぎす はつがつを>

毎年この季節、旬のカツオを取り上げるニュースは
このお決まりのキャッチフレーズとともに始まります。

ところが「目には青葉」を話の枕に使ったとたん、
マンネリ、ワンパターン、新味のない、
型にはまった、古くさい、陳腐な、
ああ、よくある月並みなカツオの話ね……
と見向きもされなくなるのです。

劇作家の別役実さんも書いています。

<これまで多くの知識人たちが「目に青葉」の句を
使用せずにかつをの話をすべく、挑戦してきた>

<現在では百人が百人、「目に青葉」なんかよそうと考えながら、
手の届くところに適当なものが見当たらず、
うんざりしながらこれを使っているというわけなのだ>
(『続々真説・動物学大系 魚づくし』平凡社)

ああ、山口素堂のなんという呪縛。
ちょっと実験してみましょう。

 現在、ベースボール界のカツオといえば、
 小さな巨人、スワローズの石川雅規投手ですが、
 往年の野球ファンにとってカツオといえば、
 ファイターズ(フライヤース)とスワローズで
 活躍したスラッガー大杉。両リーグで1000本安打を
 最初に達成したバットマン、大杉勝男選手でしょう。

 カツオの季節になりました。

カツオの話の枕としては明らかに失敗です。

いいからさっさと本題に入れ? 
ごもっとも。

では、突然ですがクイズです。
これはなんでしょう。

正解は「チンコ」です。

チンコをご存じない女子は「なんてお下劣な!」
と眉をひそめているかもしれませんが、
いかんせんチンコはチンコなのだからしょうがありません。

もちろんカツオのハート♡ 心臓でも正解です。

かつお節の一大産地、鹿児島県枕崎ではカツオの心臓を
チンコと呼ぶのです。
新鮮なので刺身でいただきましたが、
塩焼きや炒め物にするのが一般的な食べ方だとか。

さかなをアッパー系とダウナー系に分けるとしたら
カツオはアッパー系の代表だと思いますね。
特に初ガツオは食べると、なぜか気分が高揚します。

気分が高揚するのは、どうしてでしょう?
春の訪れを感じるから?
良質のタンパク質と豊富なビタミン、ミネラルといった
栄養成分の作用?
薬味に使うニンニクの影響?

わかりませんが、なによりカツオが放つ
強烈な黒潮のイメージ。
はるか昔、黒潮にのって日本列島に渡ってきた
遠い祖先から受け継ぐ旅するDNAが
うずくのではないでしょうか。

うっしゃー、今夜もカツオじゃきに。
カツオはまっことうまいのう!

カツオを一番よく食べるのは高知県民です。
全国平均の約3倍ですからダントツ1位です。

振り返ると「キャ~~! 丸出し~っ!」。ちょいグロいのが魅力のカツオ人間は銀座にある高知のアンテナショップ「まるごと高知」のPR大使。

キャラメルとか耳かきとかノートとかパンツとか、キャラクターグッズもそろっています。

カツオが選択した究極の自給自足戦略。

カツオはインドネシアやフィリピン沖で産まれます。
温水プールのように温かい南の海で年中、産卵しているのだとか。

南の海が透明に輝いているのは、海に栄養が少なく、
プランクトンがあまり発生しないからです。
つまり、さかなにとってはエサが少ない。

それではエサの少ない海で、カツオの稚魚たちが何を食べているかというと……。
驚愕の事実が今、明らかに!

かつお節の老舗、日本橋にんべんで売られているぬいぐるみ『解体君』。

実は共食いをしているのです。
ぎゃああ〜〜っ!

多産系のカツオは分類学でいえばサバの仲間。
特徴として小さな卵をたくさん産みます。
しかも、少しずつ時期をずらして産むようです。

稚魚はプランクトンだけでなく、あとから産み落とされた
卵や仔魚、いわば弟妹たちも食べて大きくなります。

少し残酷な気もしますが、それがカツオの生き残り戦略。
大きな卵を少量産むサケ類とは真逆のストラテジーです。

究極の自給自足……とでもいうのかな。
ああ、だめですよ。カツオがワカメやタラちゃんを
食べているところなんか想像しちゃ!(←普通しねーよ!)

カツオの99.999%は卵や稚魚のうちに
他の魚だけでなく仲間にも食べられてしまうそうです。

厳しい生存競争を生き抜き、
大きくなったカツオは豊富なエサを求めて
群れをなして北の海へと旅立ちます。

詳しくいうとカツオは南の海に定住する派と
北へ旅する派に分かれるそうで、
日本沿岸にやってくるのは旅するカツオです。

しかも黒潮にのってやってくるだけじゃなく、
ダイレクトに紀州沖、房総沖、三陸沖へやってくる
ルートもあるんだそうです。

カツオのハラスの塩焼きがトッピングされた薩摩うどん。

カツオは泳いでいないと呼吸ができません。
というわけでカツオは24時間、泳ぎっぱなしです。

寿命といわれる約8〜10年間、ずっと泳ぎ続けるのです。
計算では生きているうちに50万キロ前後
(地球10周以上)泳ぐことになるそうです。

何たるスタミナの持ち主でしょう。
カツオを食べると元気が出るわけです。

キング・オブ・カツオを食べてみた!

それにしても今日のカツオの色艶!
素晴らしいでしょう?

純銀製のオブジェみたいに輝いているじゃありませんか。

このカツオは紀伊半島の先端、つまり本州最南端の港、
串本の「しょらさん鰹」です。

「しょらさん」とは串本の言葉で「愛しい人」を意味します。
いやあロマンティックですね。

カツオといえば、勇ましい一本釣りが有名ですが、
串本の沿岸カツオ漁は、船を走らせながら擬餌針を流して
カツオを釣り上げるケンケン漁が主流です。

ケンケン漁は串本が発祥の地といわれています。

明治の初め、串本から大勢の人が
移民としてハワイへと渡りました。
伝統的な引き縄漁法も一緒に持ち込まれ、
ハワイで改良された技法を移住者が串本へ持ち帰り、
あっという間に日本全国に広まりました。

ケンケンというユニークな名称はハワイの言葉
からきているという説もあるそうです。

歴史的に南紀は漁法の発明や、かつお節の加工技術など
イノベーションに熱心な土地柄ですが、その話はまたいずれ。

さてこの「しょらさん鰹」には3つの条件があります。
(1)ケンケン漁で当日水揚げされたものであること
(2)活き〆をしたうえで丁寧に放血し、氷温保存したもの
(3)サイズは脂がのった2〜4.5kgであること

3つの条件をクリアした中からブランドとして認められる
品質のものだけを仲買人が選別して、
選ばれたカツオだけに認証シールが貼られます。

厳しい審査を経て合格した印!

ケンケン漁はカツオへのダメージが少ない上に、
一本一本、鮮度保持の技術を駆使して、
それこそ愛する人を扱うように繊細に接するので、
その身肉たるや極上です。

しかも大量に漁獲する漁法ではないので
普通のカツオの2倍くらいの値段がする高級品です。

まさにキング・オブ・カツオ。

食べてみると食感はもっちりねっとりで、
脂がのっているのにしつこくない。
そして、いわゆるカツオのクセがまったくなく、
へ? これがカツオ? と驚くこと間違いなし。

こりゃもう革命ですよ!
いや、ほんとですって。僕が嘘をついたことありますか!
(↑おめーなんて、知らねーし!!)
ごもっとも。

どうですこの、ねっとり感!

ああ、「しょらさん鰹」はうまいなあ!
ああ、「しょらさん鰹」は日本一だあ!

カツオ提供:潮崎商店

みなさん、覚えていただけましたか「しょらさん鰹」。
ぜひ一度食べて、ビックリしていただきたい。

さて、普段、サクの状態でしか見かけないカツオですが、
今回の撮影でじっくり丸ごと一本を観察できました。

高速で泳ぐときはヒレを畳んで水の抵抗を減らすことは
知っていたのですが、畳むだけじゃないんですね。
ピタッとカラダの内側に収納できちゃうんですよ。

シャキーン

シャキシャキーン!

ねねね、すごいメカニズムでしょう。

そして、これこれ。知っていました?
尾びれの付け根には水平翼のような
透明な流線型の突起があるんですよ。

進化って不思議だなあ……。

まるで合成樹脂でできたスポイラー、
エアロパーツみたじゃないですか。

エサを追うときなどは
時速100キロくらいで泳ぐといいますからね。

ああ、なんてカツオはかっこいいんだ!

ではまたね〜!

・・・・・・エピローグ・・・・・・・

今回、カツオの撮影に協力していただいたのは、
墨田区にある宅配寿司『京山』の朝山議尊さん。
店には秘密の小部屋があって、寿司、魚介類専用の
撮影スタジオになっています。

撮ってもさばいても絵になる男!

『京山』は全国から、寿司ネタとしては馴染みのない
地魚を取り寄せ、にぎり寿司にして提供している
ことでも有名なお寿司屋さんです。

この日は串本から届いたホウセキキントキ、ニザダイ、
ヒゲハギ、テングダイ、カスミアジなどが
おいしい握り寿司になりました。

ね? こんな寿司、食べたことないでしょ?
あ、もちろん、一般的なネタも扱っていますよ。

information


map

出前専門 黒酢の寿司 『京山』

住所 東京都墨田区立花1-11-2 イチゴガーデン店舗一号室
TEL 03-3614-3100
予約受付時間 9:00~21:00
年中無休
http://www.kyouzan.jp/

information


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『潮崎商店』

住所 和歌山県東牟婁郡串本町串本981
TEL 0735-62-0314
営業時間 6:00~14:00
定休日 年中無休

ホラー的体験

『STAR WARS』のTシャツがもたらしたこと。

しばらく時間が経過してみると、あれは本当に起こったことだろうかと思えてくる、
そんな出来事がここ数年で何回かあった。
それぞれ記憶にあるシーンは、ぼんやりしているどころかむしろ鮮明だ。
でも、どういうわけか、映画のセットのような趣を帯びていて、現実味は薄い。
2010年の春、狐を見た。
児島から玉野市に入ってすぐのところにある渋川海岸の浜辺、
日が暮れて間もない時間帯だった。
野生の狐は海外で何度か目にしている。
膨らんだ長い尾、逃げ際の身のこなし、こちらを振り返ったときのもの言いたげな目。
間違いないのだ。子どもの頃も含めて、
児島やその近郊で狐を目撃したという話は聞いたことがない。
でも、あれはたしかに狐だった。
しかし、狐との遭遇があまりにレアだからリアリティに欠けているというわけでもない。
その狐と目が合った瞬間、
時間の軸がぐわんと歪んだような奇妙な感覚をおぼえた。
次元と次元の隙間に足をとられたというか。
ひとえにそんな不思議な感覚ゆえだと思う。
そして狐はぼくの記憶のなかで、スポットに照らされたかのように、
夜の海岸でほの白い光をまとっている。

つまるところ、ホラーだと思う。「ホラー的体験」とでもしておこうか。
児島のガソリンスタンドであったあの出来事は、
内田百閒の『サラサーテの盤』にも通じる類のホラーがあった
(内田百閒は岡山出身の小説家です)。
あれは今年の1月。夕方に行きつけのガソリンスタンドに寄った。
夕方といっても日はとっぷり暮れて、あたりは夜よりも暗いほどだった。
ぼくはいつものように、店主のおじさんに
「現金で満タン、お願いします」と言って車のキーを手渡し、
誰もいない待ち合いの事務所に入った。
ほどなくして、レシートを手におじさんが入って来て、
いつもの笑顔でまっすぐぼくのところまでやってきた。
と、そこまではこれまで何十回と経験している。
しかし問題はその先、おじさんの読み上げた金額が明らかに少ないのだ。
ぼくの車はほぼ空の状態だったから、
満タンにすれば5000円近く入るはずだった。
でも、そのとき言われた金額は4000円にも満たなかった。
「あれ、おかしいな。もう少し入りませんでした?」
ぼくが言うと、おじさんはいつもの笑顔を崩すことなく、こう言った。
「手もとが暗うて、よう見えんかったから」
手もとが暗うて、よう見えんかったから————。
百閒先生なら「総毛立つ」と表したかもしれない。
ぼくは突っ込んで聞き返すどころじゃなく、
霊界につながる裂け目に突き落とされたような感覚を味わっていた。
さて、その後の行動はというと、
ぼくは言われたままの金額を支払って待ち合いの事務所を出た。
出てすぐのところで目にした光景が記憶に鮮明だ。
青みがかった明かりがまぶしいぐらいにその場を照らして、
お客はいない、作業しているはずのスタッフの姿もない。
いつもは聞こえるラジオの音もなかったように思う。

4月に入って最初の日曜日、お昼どきのマチスタでのこと。
その日最初のお客がその男性だった。
彼はぼくとのコミュニケーションを求めているようだった。
そんな場合、ぼくはつとめて言葉を選んだりタイミングをはかったりして、
なんとか会話がうまく運ぶようにするのが常である。
でも、その人との相性うんぬんじゃなく、
たまたまなにを話してもうまく噛み合わないというときもある。
そのお客さんの場合がまったくそれだった。
ぼくはコーヒーを淹れながら、同時に彼とのやりとりに腐心しながら、
少々の焦りさえ感じていた。そのとき、その男性がガラリ話題を変えた。
「そのTシャツ、前に来たときもたしか着ていましたね。
『STAR WARS』が好きなんですか?」
ぼくが着ていたのは、胸のところに『STAR WARS』のロゴをあしらった紫のTシャツ。
いかにも、「ただロゴを配置しました」というゆるいデザインで、
3年ほど前にユニクロのセールで買った。
気に入っているのは映画そのものじゃなく、デザインの素っ気なさだった。
ちなみにぼくは『STAR WARS』シリーズは2本しか見ていないので、
掘り下げて話ができるはずもない。
でも、人間、なにも考えずに黒いものをついつい白と言ってしまうときがあるのだ。
「ええ、結構好きですね」
すると、コーヒーを淹れているぼくの目の前に立っていた彼が、にやりと笑い、
無言で着ていたパーカーのボタンに手をやった。
「…………?」
ボタンを下まで外した後、もう一度胸元に手をやって、
ゆっくりとジッパーを下げ始めた。ぺらん。パーカーの襟元がめくれて、
下に着ていたTシャツの柄の上の方が見えた。
いや、柄ではなく大文字のアルファベット………
イー(E)、ピー(P)、エス(S)、オー(O)。 

E P I S O D E 1(エピソード1)

つまるところ、これもホラーなのだ。
この前の日曜日、マチスタで実際にあったホラー的体験……。
その後ぼくがどう対応したかはものすごく曖昧な記憶しかない。

ホラーな写真なぞ持ち合わせていないので、まったく関係のないところで、春めいてきた通勤路の写真なぞ。この写真はアパートから早島駅までの道。かなりの田んぼ道です。畑にはチューリップが咲き誇っていました。チューリップといえばオランダというイメージですが、この景観にオランダ感は皆無ですね。

岡山駅からマチスタまでの間にある西川緑道公園。西川という細い川に沿って数キロにも及ぶ。岡山駅周辺は案外な都会なので、緑も水も豊富なこの公園は街なかの貴重なアクセントになっています。この公園に沿って、飲食店もたくさんあります。ほとんど行ったことないけど。

児島駅からアジアンビーハイブまでの道は、国道を通るよりも、この堤防沿いの道を、海を眺めながら歩くことが多いです。これからもう少し暖かくなると、陽射しが断然強くなって水面がまぶしくなります。夏の予感のひとつですね。

ぬか釜出張

ぬか釜と魚沼産コシヒカリで行脚!

10月に収穫を終えてから、RICE475もさまざまな活動を行っておりました。
今シーズンから始めた活動に「ぬか釜出張」というのがあります。
ぬか釜とは、お米のもみ殻と杉っ葉を燃料に羽釜で炊飯するという、
昔ながらの炊飯スタイルです。

巷ではとうとうお米の消費額がパンに抜かれてしまうという由々しき事態に。
また、食料自給率を上げるために、米粉をプッシュする声を頻繁に聞きます。
米粉パン、米粉パスタ、米粉スイーツなどなど、
米を粉にして小麦粉の代わりに使ってお米の消費を上げようという
目論見はとっても良くわかりますが……。

それじゃいかんでしょう!!!
ご飯は? ご飯の美味しさは?
日本人のDNAをパンやパスタにすり替えてよいのですか?
とびきり美味しいお米を最高のコンディションで食べてもらい、
目を覚ましていただきたい!

ということで、ぬか釜と魚沼産コシヒカリを持って、行脚することに。
青空の下、最幸級米を最幸な炊き方で味わっていただきました。

マラソンの走り方教室、女子サッカーの試合、
音楽イベント、埼玉県の小学校の家庭科の授業……。

ぬか釜炊きの名人を連れて行ったり、時にはひとりで行ったり。
さまざまな場所でご飯を炊かせていただきました。

ぬか釜炊きの特徴は、火力が強いこと。
なんと釜の中は1000度にも達するそう。
なので、わずか20分ほどで炊きあがるのです。
一度火をつけたらあとは放置。
火力の調節もいらないので、昔の「全自動炊飯器」ですね。
もちろん、みんな大好物の芳ばしいおこげもバッチリできます!

越後湯沢で行われた、パラリンピックのマラソン金メダリスト高橋勇市さんによる、マラソンの走り方教室でも振舞いました!

初めて見るぬか釜炊飯に、子どもたちも興味津々!

見よ! この炊きたてご飯を! 思い出すだけで幸せな気分……!

みんな幸せそうにご飯を食べる姿を見て、やはり、自信が確信に変わりました。
みんな美味しいご飯が大好きなんです!

「普段ウチの子こんなにご飯食べないのよ!」(お母さん談)
「おこげ美味しい! 毎日ちゃんと炊きたくなりました」(お姉さん談)
「なんか、お米が美味しいって、ほっとしますね」(お姉さん談)
「ご飯だけでこんなに食べたの初めて! 塩もいらない」(小学生談)
「明日から朝はご飯にしてねってお母さんに言うね!」(小学生談)
「おかずも豪華だけど、ぬか釜炊きのご飯が一番のご馳走だよ」(おじさん談)

そうでしょう、そうでしょう(ありがちな広告のようですが、違います)。
もちろん米粉も良いと思いますが、まずはご飯を食べる習慣を取り戻しませんか?
大正時代、日本人は平均で一日8膳のご飯を食べていたそうです。現代は2.5膳。
一説によると、それが4.5膳になることで脂肪の過剰摂取がなくなると言われています。
美味しいだけでなく、体にも良いのですね!

なにはともあれ「ぬか釜出張」、
ロケーションも手伝って、みなさんにご飯の美味しさを再確認していただく、
本当に良い機会になったと、勝手に満足しています(笑)。

個人的にはこの仕事、さまざまな場所でさまざまな出会いがあるので、大好きです!
うちのイベントにも来てほしい! という方、ぜひご連絡ください☆

12杯のコーヒー

父も息子も。

何年か前に倉敷の年金事務所の担当者が児島の実家にやってきた。
例の「消えた年金」騒動のさなか、厚生年金の支払いの確認だった。
担当の女性はぼくと父に職歴を書き込んだ書類を手渡してくれた。
ぼくのそれはまったくシンプルで、
20代の頃に3年あまり働いていた会社の社名と在籍期間が記されてあるだけ、
ほぼ白紙の状態だった。一方の父はというと、ひょいとのぞいてたまげた。
父が手にしていた用紙には10以上の会社名がびっしり、
おまけに用紙は1枚で足りず2枚にわたっていた。
若い頃からいろんな仕事をしていたと折に触れて母から聞いていた。
自衛隊員に始まり、土木作業員とか化粧品の訪問販売とか、
それこそ押し売りのような仕事まで。
リストの上から順に会社の名前を目でなぞっていくうち、
そこにあった一行に思わず目を奪われた。
○○広告社————。オヤジ、もしや広告関係の仕事もしていたのか?
「そりゃあれじゃ、プロレスの宣伝カーのドライバーじゃが」
気が短くて無軌道で、やることなすこと無茶苦茶な人だった。
おまけに仕事運もよかったとは言えない。
それでも、家にお金を入れようという父親としての責任感は途切れなかった。
まさに父の人生そのままを現したその職歴とも無関係じゃないと思う。
父はブルーカラーの人たちには、いったいに親切だった。
子どもの頃、家にバキュームカーがやってきたときのことをよく憶えている。
当時住んでいた借家のトイレは汲取式で、年に数回バキュームカーが来ていた。
父はいつもハイライトを数箱用意しておいて、
作業が終わった作業員に「とっといてください」と言って煙草を手渡した。
煙草の代わりに500円札を渡したのも何度か見たことがある。
当時の我が家の暮らしぶりは実につましいものだったけど、
その手のことに父はお金を惜しまなかった。

気がつくと、マチスタの目の前にいかつい作業車がでんと停まっていた。
3月になったとはいえ、まだまだ朝の寒気の厳しい日だった。
大きさは、2トントラックぐらいはあるだろうか。
なんとはなしに店の外を、目をこらすように見ていると、
どこからか作業着姿の男がふたり現れ、まっすぐ店に入ってきた。
「すいません、これから下水の工事をさせてもらいます。
それほど時間はかかりませんので」
それからしばらく、エンジンの音やごそごそとざわついた物音が
店のすぐ外で聞こえていた。
ほどなくして物音が消えたと思ったら、作業が一段落したのだろう、
目の前の歩道で作業服を着た男たちが休憩している。
「おつかれさま」の一言でも言おうとして入り口のドアを開けると、
すぐ目の前にいた若い作業員が
店先に出していたホットドッグの看板をじっと見つめていた。
「作ろうか? 美味しいよ」
ぼくの悪魔のささやきに、彼は無言のまま軽い笑みを返しただけだった。
すると、すぐ後ろにいた先輩らしき作業員が声をかけてきた。
「食べるんならおごっちゃるで」
若い作業員は振り向いて、マジで?
「ええよ、ホットドッグをふたつちょうだい」
この手の気持ちのいいオーダーには、
気持ちのいいサービスで応えるのがぼくのやり方だ。
「じゃあ、コーヒーはサービスしようかな」
「おおおお!」
ふたりが同時に声をあげると、それが呼び水となって、
「なになに?」と作業員が全員集まって来た。
帯同していた警備員のオジさんまで。
「美味そうじゃな」「オレも食べようかな」「オレも食べるわ」
と三々五々に声があがり、最初に店に入って来た作業員がぼくの目の前にやってきた。
「ホットドッグを6つください」
彼らにホットドッグと同数、
6杯のコーヒーをサービスで淹れたのは言うまでもない。
ところが、彼らはその間に再び作業を始めてしまい、
いくら待っても作業を切り上げるようにない。
挙げ句コーヒーもホットドッグも完全に冷めきってしまった。
彼らが作業を終えて店に戻ってきたのは30分以上も経ってからだった。
「そのままでいいから」と言う彼らを振り切るようにして、
ぼくはホットドッグをオーブンで温め直し、
冷めたコーヒーを全部捨てて6杯分を新しく淹れなおした。
しめてコーヒー12杯のサービス。
一日で20杯出れば御の字という店にしたら、
アンビリーバブルな大盤振る舞いである。でも、迷うことはなかった。
コーヒースタンドの経営者である前に、
バキュームカーの作業者にいつも煙草を用意していた父の息子なのだ。
この寒空の下で働いている彼らに冷めたコーヒーなんぞ飲ませられるはずがない。
そんなことをしたと若い時分の父が聞いたら、
茶碗が飛んで来たうえにこっぴどく殴られたろう。それも平手じゃなく、グーで。

最後になったが、ひとつ断っておいたほうがよさそうだ。
ここまで父のことを「だった、だった」と
あたかも故人を表すように過去形で書いてきたが、父はいまも生きている。
平成25年3月の時点では。

玉野市にあるセレクトブックショップ「451ブックス」が制作した岡山のカフェ&アートブックマップを絶賛配布中。マチスタではショップカードやフライヤー、ジーンの類は十分な設置場所がないのですべてお断りさせていただいているんだけど、これだけは配らないわけにはいきません。それほどの手間のかけようです。

大日堂舞楽 後編

かたちなきものを未来へ継ぐために。

「クリスマスも正月もないと知らずに結婚した嫁からは、詐欺っていわれましたよ」
と笑うのは、1300年続く大日堂舞楽のなかでも一番のクライマックスともいえる
権現舞(獅子舞のことを東北の多くの地域では権現舞という)を舞う、阿部 匠さん。
阿部さんは2009年から小豆沢集落で舞を舞う能衆に参加している。
ちなみに大日堂舞楽では権現様、いわば神様が阿部さんに降りてくるため、
行(ぎょう)という舞楽の前に身を清める行為も
舞楽にかかわる能衆の誰よりも長い期間行う。
よって、結婚したばかりの奥様のぼやきもわからないでもない。

昨年末、舞楽に参加する4つの集落の内習(うちならい)を見に行ったが、
大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ、以下大日堂)のお膝元である
小豆沢集落に行くと、神様という舞楽一の重責を担う阿部さんは、
黙して多くを語らず、本番が近づくにつれ
どことなく話しかけにくい緊張感を漂わせていた。

元日、小豆沢集落の能衆は夕方に身固めの舞を行う。神名手舞を舞う阿部 匠さんと最年少の小学二年生、山本弐虎太くん。夜7時には散会した。

舞楽の当日1月2日。大日堂で行われる本舞の前から集落毎に儀式があると聞き、
私たちは小豆沢集落の能衆について回ることにした。
2日は深夜0時30分に賄宿(まかないやど)に集合する。
年毎に変わる賄宿は新築した家が受けることが多いが、
今年は3年前に新築した家で行われた。

賄宿でふるまわれる精進料理のお膳。ナマコの酢の物や、ハタハタの三五八漬など秋田らしい料理が並ぶ。昔は請け負う家で用意していたが一家庭で17名分の料理を準備するのは大変なので、今は仕出しを頼むのが通例。そのほか、日本酒やビール、お漬け物、納豆汁などを賄宿で用意する。

「正月から家に17人の能衆があがりますからね、最初は大変だと思っていたんですが、
昨年請け負った家の人から賄宿をやること自体が感動的だったと聞いたので、
厄落としの意味もこめて引き受けてみました」
と言うのは、賄宿の奥様。
確かに、年明け2日の真夜中から男衆が集まって飲むのだから
親戚家族総出の手伝いが必要だ。

ひとしきり酒と食事が終わった朝3時、
能衆が上着を脱ぎ始めてふんどし一丁になった。
外は零下7度。若い衆から順に外に出るのだが、
そばで見ていて鳥肌がたっているのがわかる。
これは水垢離(みずごり)という儀式で、賄宿の前を流れる川から水を汲み、
体に12回かけ、身を清めるのだ。
雪の降る中、男たちの背中は、赤く燃え始めた。

水垢離の様子。真冬の水は刺すように冷たく、本当にしばれる。酒で火照った体は衣類を脱ぎ、部屋を出たとたんにたちまち鳥肌がたち、男たちは足踏みしながら歯を鳴らす。

出立装束の下は、昔ながらの股引やスポーツ用のアンダーウエアなど、防寒のためにとにかくたくさん着込む。

一度履いたら、最後まで履きっぱなしになる鞋靴。最後には切れてしまう人もいるとか。大日堂に向かうまでに立ち寄る場所には各所ビニールシートが敷かれていた。

身固めの盃。二部屋にまたがって広がっていた人たちを身固めの盃をする際には鴨居をまたいではいけないしきたりのため、床の間座敷一部屋に入るといった詳細な決まりがある。

麻織物を藍で染めた出立装束に身を包んだ能衆は、
身固めの盃を行ったあとに神子舞、神名手舞、権現舞を舞い、
4時30分に吹雪のなかを出発した。まずは平安神社で舞を奉納し、
ここでは前記の3つの舞以外に田楽舞も奉納された。
きっかり1時間後には笛吹田という先祖代々、舞楽で笛吹きを務めている家で舞い、
その後、酒や食べ物がふるまわれ、次に八坂神社、白山家で舞う。
行列道中では列を乱してはならないため、
トイレも決まった場所で行うことになっている。

正月夜の集落内はいつもに増して静まりかえっている。よろずのものを販売している酒屋の明かりと、降りしきる雪と。

賄宿を出たときは吹雪いていたが、雪も風もやみ、静かな夜が訪れた。誰もいない道路、小豆沢能衆の足音だけがさくさくとあたりに響いていた。

笛吹田の家では、休息時に出す料理は長漬菜と大根おろしのしぼりと決められている。お神酒は一升入りのテッパチ椀で回し飲みする。その後、八坂神社では「田楽豆腐」、白山家では「焼き味噌」がふるまわれ、これらはすべて慣例の接待料理だ。

太陽が昇ったところで西のカクチにて大里集落の能衆と出会い、権現舞を舞う。

7時30分、平安神社裏手にある西のカクチという場所で
小豆沢と隣の大里集落の能衆が出会う。
ここでは各集落がひととおり舞い、年頭のあいさつを交わしてから
大里、小豆沢の順に大日堂へ向かう。
そして、8時に大日堂にて大里、小豆沢、谷内、長嶺の4つの集落が出会い、
挨拶を交わす修祓(しゅばつ)の儀がとりおこなわれる。
ここで、初めて一般のお客さんも舞が見られるようになる。
地域の行事らしく見学のお客さんでにぎわい始めていた。

午前8時、表参道からは長嶺、谷内集落、裏参道からは大里、小豆沢集落の能衆が境内に入り、宮司がお祓いをして年頭の挨拶をかわす儀式が修祓の儀。この後、全員で権現舞を舞う、地蔵舞が行われる。

勢揃いした能衆が大日堂を正面に整列し、
花舞(能衆全員が神子舞、神名手舞、権現舞を舞う一連の動きをいう)を
舞っていると同時に、お客さんでいっぱいになった堂内では
小豆沢青年会による籾押し(もみおし)が始まる。
「ヨンヤラヤーエ!」
「ソリャーノサーエ!」
というかけ声とともに脱穀するさまを青年会の面々が力強く舞う。
その勢いに会場の熱は一気に上がった。
まるで相撲の砂かぶりのように人々が舞台へ吸い寄せられる。
集落の幡が堂内へと走るように運び込まれ、
二階へポーンと投げ込まれる幡上げの迫力たるや、圧巻。
ぼやっと彼らの移動する範囲に入り込んでしまったら
跳ね飛ばされてケガをしてしまうだろう。
さあ、本舞が始まる。

成果なき世界でこころが残っていく。

各集落の幡は欄干より下げられた。
天の神を礼拝する神子舞、地の神を礼拝する神名手舞がすべての集落の能衆によって
代わる代わる、各合計10回が舞台で舞われ、やっと、本舞の時間に。
9時40分に阿部さんたちの権現舞が始まった。
約10分間のなかで獅子頭を頭上に掲げながら舞う動きの時間は、
本舞が一番しんどいという。
なぜならばここにたどりつくまで寒さの中、
出立装束と足は足袋に鞋靴のままで過ごし、
合計8kgもある獅子頭を持って深夜から既に10回も権現舞を舞っているのだから
疲労していないわけはない。
さらには全員が舞う演目の神子舞、神名手舞も必須演目だ。
これはもう、体力的にも選ばれし人しか舞うことができない。
このお役目が阿部さんに継がれるまで、世襲制だったというのもわからないでもない。
小学生の山本弐虎太くんは獅子の尾を持つオッパカラミを務めている間は、
神様になった気分になるのだそうだ。

その後、駒舞、烏遍舞、鳥舞、五大尊舞、工匠舞、田楽舞と続き、
12時にはすべての舞が終わり、幕は閉じられた。
各集落の能衆は列をなして集会所や氏子である神社まで帰っていった。
そして、最後に集落の神様に奉納して大日堂舞楽の一日は、終わる。

駒舞/大里集落の能衆2名による駒舞。馬頭をつけたふたりが足を踏み鳴らして舞う。1300年前の舞なのに、昨年世界中で大ヒットしたあの曲の振り付けを彷彿させる斬新さ。

鳥遍舞(うへんまい)/太刀を持った長嶺集落の能衆が声明を唱えながら舞う。基本的にすべての舞は集落毎に演目が決められている。

鳥舞/大日堂舞楽の由来となっているだんぶり長者が飼育していた鳥が遊ぶ姿を表現しているされる舞。大里集落の小中学生が舞う。

五大尊舞/だんぶり長者の舞。谷内集落の能衆によって舞われ、観客の人気の高い舞。

工匠舞/ゆっくりとした動きが特徴で、大里集落の能衆4名が舞う。

田楽舞/小豆沢集落の能衆が舞う田楽舞で2時間ほどの舞楽を締めくくる。

こんな日々が約1300年もの間、この地域に続いているのだ。
昭和35年から半世紀以上もの間、
能衆を続けている小豆沢集落の齊藤末治さんによると、
1300年の歴史もそろそろ新しい時代に向けて変わっていく必要があるという。
本来ならば世襲制であった権現舞に
未来を担うホープとして阿部さんを誘ったのは、他ならぬ齊藤さんだった。
「権現舞は、本来は、市之丞という屋号の家系が代々舞うことになっているのだけど、
世襲にこだわると後継者が難しい面もあったので、
少年時代に2202回連日参拝を続けたことで表彰された実績のある、
大工の阿部さんに声をかけました。
やっぱり舞楽を続けていくには後継者の育成が大事です。
ユネスコ無形文化遺産に登録されたとはいえ、
実際に自分も舞楽に参加してみようという人が少なくなっています。
それが問題なのです」という。
加えて、昔は行を厳しく行っていたが、
行の捉え方を現代風にしていくことも必要だとも話した。
実際に小豆沢の賄宿で出す食事に関しては舞楽保存会でサポートすることにし、
家庭への負担を軽減したりしている。
「そうはいっても、能衆は神様に奉納する舞を奉納する者なのだから、
行の最中は女性と交わりを絶つ、四つ足を食べない、
出産、葬式のあった年は舞わないといったことは守り続けてほしいと思います」
齊藤さんは一番大切なところは変わることはない、と言った。

いわば、大日堂舞楽の長老的な存在である齊藤さんはかつて後継者が世襲で途絶えた際に権現舞を舞った時期もある。次の世代へつなぐべく、阿部さんや弐虎太くんへの指導に余念がない。

「舞楽にかかわるのは“物を残す”ということではなく、神様に奉納するという“こころを残す”ためにやっているんです」と言う阿部さん。

すべてが終了し、阿部さんと少し話すことができた。
ちょっと安心した様子の阿部さんはまだ顔が紅潮していたが、
クールなまなざしが話している最中にほっとほころんだ。
なんだか、ついさっきまで崇高な存在だった阿部さんが人間界に戻ってきたような気がした。
奇しくも、阿部さんが能衆に加わってからというもの、
小豆沢集落では若い人たちが率先して舞楽に関わるようになり、
同時に青年会活動も活発になってきたという。
さらには、途絶えていた地域の行事「もうす」が復活した。
「もうす」とは「もの申す」が由来となった人と人、
世代と世代をつむいでいく自由なコミュニケーションの場だ。
いずれにせよ、大日堂舞楽の歴史の重みは小豆沢集落だけではなく
4つの集落の後世をつなぐ存在であることは間違いないのだろう。
「まだ1歳にならない息子の未来へとつないでいけるようにしていきたいと思います。
権現舞をずっと続けることになると思いますが、
集落のみなさんもこの場所を守っていくという志が強く、
自分はできることをやるだけだと思ってとりくんでいるんですよ」
1300年をつなぐ、ひとつのかたちがそこにあった。

大日霊貴神社(大日堂)

冨士源刃物製作所

くじらナイフに込められた、土佐打刃物の技術と想い。

子どもが鉛筆を削るのにちょうどいい「くじらナイフ」を製造している
冨士源刃物製作所は、高知県香美市にある。
かわいいフォルムのナイフシリーズで、子どもへのプレゼントはもちろん、
大人が使うナイフとしても人気を博している。
工房を訪れると、かなり男らしく、
高い金属音がキンキンキンッと鳴り響いていた。
くじらナイフのルックスから想像できる“アトリエ”というよりも、
まさに“鍛冶屋”といった雰囲気。
くじらナイフの職人は、高知県から「土佐の匠」にも選ばれている
冨士源刃物製作所の2代目山下哲史さん。

「あるお母さんから、
子ども用に先がとがっていないナイフがほしいという依頼があって、
なんとなくデザイン画を描いていたんです。
頭を丸くして、持ちやすくしてとやっていたら、
くじらに似てきたんです(笑)」と話す山下さんは、
職人さん特有のコワモテ感はなく、物腰がとてもやわらかい。
ラフスケッチからくじらというアイデアが出てきたのも、
まったくの偶然だけではないような気がする。
最初にできたのは、マッコウクジラ。
他にもナガスクジラやミンククジラなどファミリーも増えて、
今では6体の仲間たちになった。

(上から時計回りに)マッコウクジラ、ミンククジラ(雌)、ニタリクジラ、ザトウクジラ(ペーパーナイフ)、ナガスクジラ、ミンククジラ(雄)。

最近では、水族館のおみやげ用に別注文が来たり、
絶滅危惧種に指定されているアカメという魚をモチーフに製作するなど、
幅も広がってきた。
また、木工で鳥を削るためのナイフをつくってほしいというオーダーから、
鳥の形をしたカービングナイフを製作したこともある。

「こうしたもので、少しでも土佐打刃物の技術や文化が残っていけば……。
本当は鎌が売れればいいんですけどね」。
そう、鎌が売れない。

土佐は、土佐打刃物として日本の3大刃物の生産地として栄え、
その発祥は鎌倉時代ともいわれる。
特に山で使う鎌や鉈、のこぎりなどの品質の高さは有名だった。

山下さんがこの道に入ったのは34年前。
当時は、下草刈り鎌、枝打ち鎌など、山で使うありとあらゆる鎌を作っていた。
この土佐山田地区は、目の前に香長平野が広がり、
米を二毛作でつくっていたので、鎌は毎日のように使う必需品。
裏は一面、松の山で、炉で使う炭がすぐに取れる環境。
需要と供給がマッチする場所だった。

そして土佐から全国へと土佐打刃物を下げて出稼ぎに行っていた山師たち。
彼らが持っていた刃物がすごく質がいいと評判になり、
土佐打刃物の市場はどんどん全国へと広がっていった。

しかし林業の機械化、林業自体の衰退とともに、
刃物が売れなくなってしまった。
さらに追い討ちをかけるように、中国産などの安い刃物が輸入され、
刃物は研ぎながら大切に使うものではなく、使い捨て感覚になってしまった。

年季の入った道具と技術で鍛造する、職人ならではの仕事場。

鍛造、焼き入れ、研磨……。手作業で繰り返す職人技。

六寸鎌を鍛造する作業を見せてもらった。
一丁一丁、手で叩いて鍛造して伸ばしていく。
土佐打刃物の特長は、両刃であることだ。
鉄の真ん中に鋼をいれて、両側から包み込むようにするのは
刀のつくり方に近い。
山用の刃物は特に耐久性が必要なので、
こうすることで衝撃に強くなるし、折れても飛ばないようになる。

両側が鉄。真ん中に入っている鋼の部分が刃になる。

今では金型でプレスして抜く方法が簡単だが、
それでは厚さがどこも均等になる。
山下さんは、鎌が曲がっている腰のあたりの一番大事なところに
鉄を厚く置いて、強度を出している。そしてだんだん薄く伸ばしていく。

何をしているのか素人目にはわからないほど、作業は素早い。
鎌を火に入れて、熱されたら叩き、またそれを火に戻すと、
別の鎌を火から出して叩く。
これを何度も何度も繰り返すので、何本も同時につくっているのかと思ったら、2本を繰り返し叩いていたようだ。
「なかなかうまく曲がってくれません。
一度つくり込んでから、また叩いて伸ばします」
柄の部分をやって、腰をやって、と、部所ごとに叩いて伸ばす作業を繰り返すため、
工程はおのずと増えていく。

激しく叩くため、粒子が飛び散る!

赤々と熱せられた鎌の柄になる部分。

こうして、むねが厚く、刃が薄い、美しい鎌の原型となった。
この後、荒研磨をして、焼き入れを行う。

焼き入れは、ふいごと松の炭を使う。
いまでは、炭ではなく、鉛や油を使うひとがほとんどだ。
炭で焼き入れを行うと、「鋼も炭素なので、切れ味が違ってくる」という。
「工業試験場ではそんなことはないというんですが、
実際に私は研磨のときに完璧に違いがわかります。
砥石へのあたりが違うんです」というのは、まさに職人の手の感触。
ふいごにいたっては、「私しかいないんじゃないか」というくらいアナログ。
手前に付いている取っ手を押したり引いたりすることで、風が送り込まれる。

ふいごから右下に見える松炭へと風が送られ火を起こす。

焼き入れが終わると、油戻しという作業。
170度くらいの油に40〜50分入れると、鋼に粘りが出てくる。
あとは砥石で仕上げていく。
これら工程をすべてひとりでこなしている。

「いまだにうまくいかないときがありますよ。今日は鎌にならんなぁ」
と笑うが、この繊細かつ力技の難しい技術を、受け継ぐひとが少ない。
職人の世界は、技術が肝。しかしこの技術もまた、失われつつある。
それは売れないので産業として成り立たないからであり、
つまり需要がないからだ。

質のいい鎌を求める客は少なくなったが、それでも冨士源の鎌の切れ味を求めるこだわりの顧客も、数少ないがいる。

だからくじらナイフのような商品をつくり、
土佐打刃物を広げることが少しはできた。
焼き入れや研磨などには山下さんの技術が詰まっており、切れ味はバツグン。
しかしくじらナイフのようなフォルムを叩いてつくり出すことは不可能なので、
型はプレスで抜いている。
山下さんの技術すべてを生かせている商品ではないのは
残念なことだと認識しておきたい。

みなさんは、ナイフで鉛筆を削ったことがあるだろうか?
そんなの簡単と思うかもしれないが、実はちょっとしたコツがいる。
鎌や鉈を使おうとまではいわないが、
せめてナイフを使う感触を手に覚えさせてみる。
それが土佐打刃物、そして職人の技術を守ることへの第一歩だ。
まずは、くじらナイフで鉛筆を削ってみよう。

ポイントは、鉛筆を持っているほうの親指でナイフの背を押すことだ。鉛筆をナイフで削ったことのないひとは、このコツを知らないという。

山下哲史さんは、30歳のときに脱サラし、家業であったこの道に進んだ。

マチスタ・マジック

マミちゃんとのコーヒー教室。

毎朝そうするように、店を出てすぐの歩道に看板を出そうとして、ふと気づいた。
いつも看板を置くところ、敷き詰めた歩道のブロックのわずかな隙間から
青いものが出ていた。同じ場所のはずなのに、昨日はまったく気づかなかった。
ぎざぎざ尖った葉はどうやらタンポポのそれのようである。
ここ二、三日、めっきり陽が暖かくなったと思ったら、こんなところにも春があった。

3月に入って最初の週末。のーちゃんが東京の友人の結婚式で上京するというので、
土曜日と日曜日の2日間をひとりで店番した。
年が明けて以来、日曜日は隔週で店番しているものの
土曜日との連チャンは経験がない。
ぼくにとっては初めてのフルマラソンみたいなものだった。
案の定、前半のハーフで結構なスタミナをもっていかれ、
後半のハーフで完全に燃え尽きた。
おかげで日曜日の閉店後のレジ閉めでは計算がまったく合わなかった。
それならそれでそこにある現金を計算し、
ひょいひょいと算数すればいいことなんだけど、
搾りカスのようになった脳みそにはそれさえ荷が重すぎた。
自分がなにをどう計算しているのかさっぱりわからなくなった。
挙げ句、「今日はもう無理!」とあきらめて、
帳簿にはなにも書き込まないまま店を出たのだった
(翌朝の暗いうちに店に行って帳簿をつけました、そのあたり経営者ですから)。

そんなこんなで、今年に入ってからのいろんな無理がたたったのだと思う。
しばらくおさまっていた、
首から右肩にかけての痛みと右腕のしびれがいっぺんに再発した。
実はこれ、昨年の梅雨に出た症状で、
以来年末にかけて週に1〜2回、児島の鍼灸院に通い続けていた。
でも年が明けてからは、平日の慌ただしさにかまけて一度も院には行っていなかった。
「久しぶり!」
火曜日の夕方、2か月ぶりになじみの鍼灸院を訪れた。
カウンターの向こうにいたのは先生の姪っ子のマミちゃん。
いつもは午前中に院を手伝っていて、
午後からは柔道整復師の資格をとるべく岡山市内の専門学校に通っている。
「あれ? 今日、学校は?」
「春休みなんです」
「髪型が変わったな、パーマあてとるが!」
「はい、春休みですから」
彼女は相変わらず滑舌がよくて、笑顔は明るく可愛いらしい。
マミちゃんとは、顔を合わすとあらましこんなジャブ程度のやりとりがあるが、
お互いおしゃべりなタイプじゃないので、会話らしい会話はしたことがない。
しかし、その日は珍しく、電気を通す施術を受けている間に彼女から話しかけてきた。
「赤星さんのお店では、コーヒー豆を売ってますか?」
「もちろん売ってるよ」
「じゃあ、今度お店に行きます」
「持って帰ってきてあげるよ。マミちゃん、コーヒーが好きなんだ」
「いえ、わたしは飲めないんです。母がコーヒー大好きなので、
誕生日にコーヒー豆をプレゼントしようと思って」
あまりにいい話なので、また例によって調子のいいことをついつい口走ってしまう。
「それだったら、お母さんの目の前でコーヒーを淹れてあげたらいいよ。
美味しいコーヒーの淹れ方、いつでも教えてあげるから」
この時点での、このコーヒー教室の実現の可能性は1、2割といったところだろうか。
大抵は「じゃあ、いつかお願いします!」的な会話のノリだけで終わり、
結局なにもなかったみたいな、それがむしろ普通。
ところが今回の話は意外な展開を見せる。
「え、本当ですか? いつ教えてもらえますか?」
「うん? ああ、いつでもいいよ。平日の午後はだいたい事務所にいるから」
「じゃあ、水曜日はどうですか?」
「水曜日って……ええっと、明日のことかな?」
「はい、明日です。明日の午後に行っていいですか?」
かくして早速の翌日にコーヒー教室が決定。
その流れは谷川浩司永世名人の光速の寄せ、
最短・最速の手筋で鮮やかに詰まされた将棋を見るようだった。

はたしてマミちゃんは自転車に乗ってやってきた。
若者に流行のショート丈のダッフルコートに編み上げの革のブーツといういでたちで。
1時間ほど、ぼくたちは入れかわり立ちかわりでコーヒーを淹れた。
使用する豆はその朝マチスタから買ってきたマチスタブレンドである。
そして、早速マチスタのマジックが炸裂した! 
「コーヒーは飲めない」と言っていた彼女が、
なんと砂糖とミルクなしのブラックの状態でも「おいしい!」と
口にするまでになったのだった(タイアップ広告の記事っぽいな)。
個人教授がひととおり終わって、
事務所の半オープンエア部分に置いたテーブルで、
マミちゃんとヒトミちゃんと、
それにふらりとやってきた某企業の総務部長も加わっての
コーヒーブレイクとあいなった。
妙な光景だった。10代の女の子にスーツを着たオジさんという、
我が社ではあまり見ない類の組み合わせ。
しかも総務部長の足もと、靴に触れんばかりのところでサブが昼寝している。
それにしても気持ちのいい午後だった。
風はなく、静かで、ぼんやりと白んだ陽射しに暖かみがある。
マミちゃんとコーヒーのおかげで、思いがけずおとずれた春の休息タイム————。
ちなみにマミちゃんとのコーヒー教室は来週の水曜日に第2回の開催が決定している。

マチスタにも春の陽が降り注ぐ。あんまり気持ちいいので、近いうち、日曜日の午後あたりにテーブルまで出してのオープン席をもうけようと企画している。まさにパリのカフェみたいに。もしもポリスが来たら、「店内を掃除してました」という言い訳は通用するでしょうか?

大川コンセルヴ

木と食を結ぶ、家具のまちの挑戦。

筑後川と有明海に面し、肥沃で広大な筑紫平野を有する福岡県大川市。
水のめぐみ、大地のめぐみを受け、
ブランドいちご「あまおう」やイチジクをはじめとする農産物や、
有明海苔の生産が盛んに行われているが、
産業の柱としてまちを支えてきたのは、木工家具の製造だった。
470余年の歴史と伝統を誇り、その生産高は日本一。
「大川の婚礼家具」は全国的に知られている。
しかし、大川の木工産業は、外国産の安価な家具の影響や、
はたまた現代の住宅事情から婚礼家具文化の衰退を受け、徐々に下降傾向に。
昭和の全盛期には600軒以上あった工房も、現在では300軒ほどまで減少している。
こうしてはいられない、と立ち上がったのが大川商工会議所。
妥協なくものづくりをするさまざまの分野の「職人」たちを
一軒一軒まわって声をかけ、「大川コンセルヴ」という団体を立ち上げた。

コンセルヴとはフランス語で「保存食」の意味。
木が年輪を重ねるように、大川にストックされていた技術と知恵を「保存」して
次世代を担う子どもたちに継承していく、という使命を帯びる。
大川コンセルヴが掲げたコンセプトは、「食卓」。
「卓」には古くから木が用いられ、木工のまちとして大川は日本の食卓を支えてきた。
そんな木と食が集う大川だからこそ、木と食の技をきっかけに、
日本の食卓を見直していきたいのだという。
「“楽しく、明るく、そしておいしく”にこだわっています。
『食』と『木』のコラボレーションは、木育と食育が出合う場。
ひとつの食卓が語らいやしつけの場となって、
子どもたちに豊かな人間性を育んでほしいという願いを込めています」
と語るのは立野泰誉さん。
現在、10社(団体・個人含む)ほどが加盟する大川コンセルヴをまとめ、
自身も立野木材工芸の代表として日々ものづくりの現場に立つ。
現在、結成から4年目を迎えた大川コンセルヴだったが、
最初の1年は暗中模索していた。
「結成当初を振り返ると、その頃大川コンセルヴという団体は漠然としたもので、
何からはじめればよいのだろう? という戸惑いすらありました」
同業の知人もいれば初対面の人もいる。
ましては、異業種である「食」の分野の人とは
それまでなかなか出会う機会もなかった。
さて、どうやって大川コンセルヴを運営していく?
どうやって「食」と「木」でコラボレーションしていく?

この漠然としたプロジェクトに“色づけ”をしていったのが、
デザイナーの先崎哲進さんだった。
パッケージデザインからプロダクトのブランディングまで、
大川コンセルヴのアートディレクションを幅広く手がけ、
大川コンセルヴのメッセージ性を掘り起こした。
立野さんが、「先崎さんが“こうしていこう”とみなに働きかけたことで、
大川コンセルヴが目指すべき道への理解と意思の統一ができたと思います」と言えば、
先崎さんも、「アイデアだけで留まらず、ちゃんとプロダクトまでできたのは、
職人が多く暮らす大川だからなのだと思います」と話す。
そんな立野さんと先崎さんとともに、
大川コンセルヴに加盟するふたりの職人のもとを訪ねた。

初めての食事に、大川のスプーンを。

木製のおもちゃを生産・販売する「飛鳥工房」の廣松利彦さんがつくったのは
「幸せをはこぶファーストスプーン」。
ファーストスプーンとはヨーロッパの習慣で、
産まれた子どもにスプーンを贈ると食べ物に困らず幸せになれるといわれている。
それに倣い、飛鳥工房と柳川リハビリテーション学院言語聴覚学科との共同開発で、
乳児の発達に応じた離乳食用の木製スプーンをつくった。
赤ちゃんの小さな口に当たるくぼみの部分は2mmとごく薄い。
それを実現する確かな職人技と、しっとりと滑らかな木の感触が評判になった。
スプーンは2通りの大きさがあり、
小さいスプーンは離乳初期(生後5〜6か月)の赤ちゃん、
大きいスプーンは離乳中期(生後7〜8か月)の赤ちゃんに。
お食い初め以降も赤ちゃんの食生活をサポートする。

これから数十年間「食」と寄りそって生きていく赤ちゃんの
口に入る最初のものが、地元・大川で大切につくられたファーストスプーンとは、
なんとも粋なこと。
初めての食事だけでなく愛情も運ぶ記念のスプーンとして、
大川市は今年度200名の新生児にこの「幸せをすくうファーストスプーン」を配った。
“ひとつのものを大切に使うこと”という
食育ならぬ「木育」の姿勢を新生児から養っていくのも目的だ。

「幸せをすくうファーストスプーン」は、材質違いの3種類を展開。その下の木の器は「お食い初めセット」の器。

mokumogu –木のフォーク− は、木の幹から発想を得た三つ又のフォーク。
ケータリングや親子でのお菓子づくり、楽しい食卓のシーンをイメージして生まれた。

飛鳥工房の「飛鳥」は、廣松さんの娘さんの名前から。「子ども(飛鳥さん)が安心安全に遊べる木のおもちゃをつくろうと思って」飛鳥工房を設立。その飛鳥さんも今では立派な成人に。

2013年2月にドイツで開催された、ニュルンベルク国際玩具見本市に、飛鳥工房も出展。出展したファーストスプーンは佐賀県産の杉材を使用。写真提供:飛鳥工房

酒造がつくる、大川ならではのフレーバーティー。

老舗酒造「若波酒造」でつくられた「あまおうティー」は、甘くない。
イチゴのリキュール「あまおう」をつくる上で大量に出る
ベースのお酒に漬け込んだイチゴの再活用を考え開発されたフレーバーティーだ。
お酒に浸かったイチゴは食用にあまり適さず、
アレンジするのは難しいとされていたが、
「日本酒は粕でさえ重宝され、捨てるところがない」という
日本酒づくりのアイデンティティを、リキュールでも踏襲した。
「紅茶とのコラボレーションにはもともと興味があって機会をうかがっていました。
そうしているうちに大川コンセルヴが立ち上がり、お誘いを受けました。
コンセルヴのコンセプトを聞いたときに“あぁ時が来たな”って思って」と語るのは
若き杜氏・今村友香さん。
一年のうち収穫時期が決まっているイチゴだが、
アルコールに漬けることで保存がきく。
紅茶専門店 紅葉(くれは)で、乾燥させたイチゴを紅茶とハイビスカスを調合。
若波酒造の従来の顧客層である男性客も意識し、
酸味際立つ、甘過ぎない紅茶ができた。
イチゴを乾燥させる工程でアルコール分はほぼ残留なしというから、
子どもでも安心して飲める。
「パッケージも、老若男女に愛されるようにシンプルにしました」(先崎さん)

「あまおうは福岡でしかつくられない品種なので、福岡・大川らしい紅茶ができたと思います」(立野さん)。鮮やかな赤い色と甘いイチゴの香りは贈り物にも喜ばれそう。

「大川は家具で有名な地域ですが、うちは酒蔵ですから、
今まで家具職人さんなどとの深いつながりはありませんでした。
それが、一緒の団体として話し合いや情報交換を通じて
知り合っていくなんて面白いですよね」と今村さんが話せば、
「今後は『木』の部会とのコラボレーションで商品開発を」と
立野さん、先崎さんも期待を寄せる。

「九州と言えば焼酎が有名ですが、大川が位置する筑後地方は、
日本酒の蔵元の軒数が全国第3位なんです」と今村さん。
「筑後って面白い土地なんです。海も川も山もあり、農業も工業も盛ん。
もっと自慢できるところを見つけたいと思いました。
うちは酒蔵ではなく『地酒蔵』になりたいんです」

大正11年創業。今村さんはきょうだいで若波酒造の杜氏を務める。

「同業者以外と組むとオリジナルになる」(今村さん)。リキュールをつくるには免許が必要とあればいち早く取得する行動派。

行政の手を離れた、大川コンセルヴのこれから。

大川コンセルヴの視線は、東京、そして海外へ。
福岡県内はもとより、東京都内の大型ファッションビルや、
小売店などでも商品を展開している。
大川コンセルヴの構想をつくり、主導してきた商工会議所も、
事業仕分けの影響による助成金削減を受けて
2年前に大川コンセルヴから手を引くことになってしまった。
立野さんたち大川コンセルヴのメンバーもこの状況には頭を抱えることとなったが、
「大川コンセルヴ」というブランドの成長が収益の支えとなると信じ、
積極的に露出を増やしている最中だ。
いわば、ここからが大川コンセルヴの試金石となろう。
「そのためにももっと大川の他の生産者や技術者をまきこみたいですね。
どんな人? そうですね、個性的で、仕事に一生懸命で、
いろいろとまわりを見ている人ですね」(先崎さん)

information


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飛鳥工房(ショールーム)

住所 佐賀県佐賀市諸富町徳富112-4
TEL 0952−47−5697
営業時間 10:00〜18:00
定休日 不定休


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若波酒造

住所 福岡県大川市鐘ヶ江752
TEL 0944−88−1225
営業時間 10:00~17:00
定休日 不定休

梅原 真さん

現場で答えを出していれば、デザインにNGはない。

日本の地域にある物産や観光をテーマにしたデザインワークを手がけ、
数多くのデザイン実績はもちろん、テレビや講演、インタビューなどに登場し、
“その道”の先導者として支持を得ている高知県在住の梅原真さん。

彼はグラフィック&プロダクトデザインによって、
日本の豊かな地域文化や風景を保全するという、
デザインの新しい力を内外に示した人物。
彼がデザインへ向かう姿勢は「風景を残すための仕事」だ。
この“ローカル・デザイン”の第一人者が生まれるきっかけは、“かつお”だった。

かつて一本釣りのかつお漁船は、効率の点で、巻き網漁船に押されていた。
全体の漁獲高も減少しているなかで、巻き網で獲れたかつおの
3倍の値段をつけないと成り立たないような状況だった。
そこでデザインの力でなんとかしよう思った。

「一本釣りの風景がなくなるのはイヤだったんです。
高知の意味がなくなってしまいますよね」と、梅原さんは関わりを持ち始める。

生まれた商品名は「土佐一本釣り・藁焼きたたき」。
キャッチフレーズは“漁師が釣って、漁師が焼いた”。
「“土佐のたたきはおいしいよ”ではデザインではないんです。
だからといって、変に洒落た言葉も漁師のイメージとかけ離れてしまう。
“漁師が釣って、漁師が焼いた”はそのまんま。
デザイン過多だと、さかながおいしくならないんです」

梅原さんの代表作となったパッケージ。派手なルックスが遠くからでも映える。写真提供:梅原デザイン事務所

これが8年間で20億円を売り上げる地場産業に成長した。
こうして梅原さんは「デザインで風景を保つことができる」という体験をした。

梅原さんは仕事を受けるときに、
まずは相手の「根性とやる気と本気度」を見る。
「人間っておもろいもんで、顔見て、話を聞けば、1分でわかる」らしい。
そしていざ仕事を受けたら、まず現地に赴く。
行ってみて、ひとと会わないとわからない。
そこをショートカットすることはできない。

梅原さんの目には、
このあたりを安直に考えてしまうデザイナーが増えてきたように映る。
「“農作物にちゃちゃっとデザインしたらいいでしょ”
みたいなものがたくさんあります。
第一次産業に簡単にデザインつけてね」
たしかにこの“地場デザイン業界”を先導してきたのは梅原さんだろう
(本人がどう思うかは別にして)。
「だからこそ、何でもかんでも真似したらいけない」と
警鐘を鳴らすのも梅原さんの役目。

地酒や地鶏ではなく、地栗。この商品は栗の危機を救い、いまでは栗の木を植える活動まで発展した。

梅原さんのクライアントである漁師や農家から、
デザインに対してダメ出しされることはほとんどないという。
それは何度も現場に行って、コミュニケーションを重ねているから。
「ココをこうしたほうがいいと、現場でディスカッションしているうちに、
デザインができてしまう」のは、梅原さんにとって当たり前。
答えはその現場で出すべきのだ。
その作業を怠り、
東京の事務所のパソコンで「ちゃちゃっとデザインしよう」としても、
いいものは生まれない。

そして、ローカルに住んでいることも重要だと語る。
「ぼくは1日3回、家でごはんを食べる。
川沿いの、景色がいい場所に住んでいて、自分の畑で野菜を育てている。
こういう自分の環境と普段の生活が、マーケットの素。
体内マーケティングと呼んでいます」

だから、お決まりのマーケティングは必要ない。
これは「六本木や渋谷のデザイナーにはできない」芸当だ。
普段の生活が、マーケティングの素であり、それはデザインの素。
もし東京から地元に帰ってきて、
ローカルで仕事をしたいと思っているデザイナーがいたら、
「その感覚を得るのに少し苦労するかもしれない。
でも早く“まっとうな生活”に戻れば大丈夫」ともいう。

トイレットペーパーのようなルックスの「土佐まき和紙」は、長く伸して巻物のような使いかたもできる。

考え方をデザインしていく。

すでに梅原さんの頭の中は次へシフトしている。
問題を解決することがデザイナーの仕事ではないか、
というモチベーションが新たなる地平へと進ませている。

そのひとつとして現在動き始めているのが「東北新聞バッグプロジェクト」。
もともと四万十ドラマという会社が古新聞を利用して制作していた新聞バッグ。
これは仮設住宅に住んでいるひとたちがつくるのに適している。
それを売ってお金にすることで「つくる仕事をつくる」ことができる。
その仕組みづくりも、デザイナーである自分の仕事ではないか。

まずは高知銀行に話をして、貯金をしたひとなどへのノベルティ用として、
大量に買ってもらうことにした。これは東北と銀行をつないでいくコミュニケーション。
この仕組みを利用すれば、高知銀行だけではなく、
その名前が他の大手企業に代わっても構わない。
高知銀行に依頼されて始めた仕事ではなく、システムをつくり、
高知銀行に提案したというプロジェクトなのだ。

震災からちょうど2年後となる、今年の3月11日からスタートするプロジェクト。写真提供:梅原デザイン事務所

パッケージや表面的なところではなく、
「考え方をデザインしていく」というフェーズに役割が移ってきた。
対象物をデザインするのではなく、ゼロからデザインを生み出していく。
矛盾しているようだが、梅原さんのデザインの役割は飛躍していく。

最初に戻る。
梅原さんがやりたいことは、風景を残すことだ。
彼は風景を、「豊かさの度合いを計るメジャー」だという。
「一体どんな暮らしをしていて、お金をどのように考えて、
何がどのくらい大事かということを風景が物語っている」

もちろん豊かな風景を残していきたい。
「僕はよくフランスに行きますけど、
長距離電車に乗っていて、いやな風景はないですね。
でも東京から京都に新幹線で移動する外国のツーリストは、
いかにいやな風景を見せられることか。
美しい富士山の手前には、無機質なパネル住宅や工場。
とても違和感を感じます」
例えばフランスは石の家と煙突、教会にステキな木、そして羊という農村風景。
これらは法律で定められていることだから、変なものは建てられない。
すると農業政策と観光政策が横にリンクしていく。
日本では、観光面では美しい里山の風景を残そうとする一方、
効率化を目指した農業を推進する。
「これでは何の意味もない」と梅原さんがあきれるのも理解できる。

かつてはすべて東京がやっていた。
地方のまちづくりすら東京がやっていた。だから青森と高知が変わらない。
こうなったのも「ローカルが自分たちの考えを持たず東京に委ねてきた」からだ。
地域のものを、個性ではなく、コンプレックスだと思ってしまっていた。
「こちらに考えがないとどうにもならないということを、
やっと気がついてきたと思います」。

例えば砂浜美術館。
梅原さんが25年前に手がけた、砂浜に大量のTシャツを展示し、
美しい砂浜そのものを美術館にしてしまうプロジェクトだ。
当時、大方町(現・黒潮町)の職員は、この砂浜に対して、
「これがある!」ではなく「これしかない」というネガティブシンキングだった。

“リゾート開発したほうがいい”などの意見に押しつぶされそうになったが、
今となっては「砂浜美術館のような考え方を持つまちが誇らしい」という
意見が出始めた。時間はかかった。

梅原さんの肩書きは、正直、もうよくわからない。
デザイナーではあるだろうが、
本人は「問題解決するひと」がデザイナーだという。
ローカルから始めて、ローカルの問題を解決していくべきなのだろう。
そんなデザインが梅原さんの作品には込められている。

長野県小布施町にある小布施堂がはじめた実験カフェ「えんとつ」の「栗ビスコッティ」。

空白の時間帯

マチスタに来るのはお客さんだけではない。

朝、お客さんがやってくる気配さえもない空白の時間帯がある。
そんなときでも、外から丸見えの、ガラスを多用したつくりであるからして、
まったく油断ならないのがマチスタである。
実際、信号待ちのバスの乗客や通りを歩く人から
じっと見られているということがよくあるので、
ミルを掃除したり作業台を磨いてみたり、
あるいは什器の配置を変えるなどして、
時間をもてあましていると見られないように気を遣っている。
でも、ふりをするのにもやるべきことはやり尽くして、
ふと気づいたら、入り口のドアのところに立ってぼんやり外を眺めていた、
ということが何度かあった。
そして、実はここが肝心のところなんだけど、
ぼくがドアのところで外を眺めていると、
きまって、電車通りを挟んでちょうど向かいにある理髪店の主人が、
その入り口のところでぼうと立って通りを、
つまりこっちの方を眺めているのだ。まるでぼくを鏡で映しているかのごとく。
その姿はいつ見ても「暇をもてあましています」という感じで、
ぼくは我が身を顧みていそいそと厨房に戻る。
「お互い、暇だね」みたいな、お客のなさを共通のネタに
変な仲間意識をもたれるのもイヤだし。
ちなみに、その理髪店の主人の立っている様は、
身につけている白衣や古びた木枠のドア、
それに色落ちした水色のストライプの装飾テントの雰囲気も手伝って、
かなりホラーな感じでもある。

さて、テントで思い出した話をひとつ。1週間ほど前のことだ。
30代と20代とおぼしき、作業着を着た男ふたり組が店に入って来た。
いや、「入って来た」というのは正確性に欠く。
ドアを開けたその場所で、30代の男の方が目だけで
「わたしたち、お客じゃありません、ちょっといいですか?」
と器用に訴えかけて来た。
そんな手でくるならと、ぼくも目だけで「さて、なんでしょう?」と返し、
彼らの方に近づいていった。
ふたりは委託を受けているとして、国の行政機関を口にした。
「この入り口のところにあるテントですが、使用されてますか?」
マチスタのエントランスには開閉式のテントがある。
色は鮮やかなグリーンで、収納していても結構目立つ。
「雨が降った日だけね、あんまり出すと店のなかが暗くなっちゃうから」
「ああ、そうですか」
細かく首を縦に振る男のそのしぐさに、若干の不安がよぎる。
そして若干の不安は、次の瞬間、夏の雨雲のように厚さを増した。
男が差し出したファイルに料金表のようなものを見たのだった。
つまりはこういうことだった。
テントが歩道にせり出した部分の料金を払いなさい、と。
これ、法律で決められているんですよ、と。
————吐き気がするぐらいげんなりだった。
ぼくは少々ふてくされた態度で「じゃあ、いくら払えばいいんですか?」と聞いた。
「一平方メートルで6000円ですから、おたくの場合は2万1000円になります。
これ、年間使用料ですからね」
怒りやら悲しさやら情けなさやら、
もういろんな感情がないまぜになって言葉をほとばしらせた。
「無理だって! お金全然ないんだから、この店ずっと赤字なんだから! 
もう雨が降ってもテント出さない! だいたいこのテント、壊れてるし、
結構前から壊れてたし!」
壊れているのはぼくの頭だと思われたかもしれない。
さらには、彼らは身の危険を感じたのだと思う。
粘る姿勢を見せながらも及び腰で、
結局、「不動産を解約する際に撤去する」と約束することで身を引いてくれた。
ぼくは目前の危機を回避した喜びから、
帰ろうとするふたりを引き止めるようにして言った。
「コーヒー飲んでいってよ。オレ、おごるからさ」
「いや、いいです、いいです。そういうの賄賂になりますから」
言いながら彼らは通りにフェイドアウトして行った。
今回、完全にぼくが撃退したカタチになったわけだが、
彼らはおおむね善い人だった。もしもここに書いたことで、
上司に怒られるとか、始末書を書かされるとか、
彼らの身になんらかの不幸が起こったとしても、ぼくの本意ではない。

まあ、この手のお客じゃない人も来るし、お客だとしてもいろんな人がやってくる。
この間なんか、高校生がひとりでやってきた。不良だなんてとんでもない。
ごくごく真面目そうな、普通の男の子である。
彼はもじもじとした調子でブレンドとホットドッグを注文した。
そして恥ずかしそうな、少年らしい笑みを浮かべてぼそり、ぼくに言った。
「『マチスタ・ラプソディー』、読んでます」
「マ、マジでええっ!?」
「ハイ」
「面白い?」
「ハイ、面白いです」
ぼくはうまそうにホットドッグにかじりつく彼の背に、
聞こうかどうしようかと迷っていた質問を唐突にぶつけた。
「あのさ、オレみたいな大人、どう思う?」
彼はこちらを向いて、またあの恥ずかしそうな笑みを浮かべて言った。
「いいと思います」
高校生に肯定された。それが自分でも意外なほど、嬉しかった。

作業台の上をちょっとずつ片づけていたら、いまやごらんのようにスッキリ。ずいぶん磨きやすくなりました。といっても、まだまだモノはあります、作業台ですから。

オフィスの倉庫のなかにさらに倉庫を作ってみた。入り口の暖簾は、マチスタの新しい朝の常連客、草木染め作家の浅山クンが制作。代金はマチスタのコーヒーチケットで支払った。和風な感じに意外性があってよし。倉庫の施工は、これもマチスタの新しい朝の常連、田中さんによるもの。

宮川朝市

高山の食文化を知りたいなら宮川朝市へ!

高山市の早朝、少し高い鍛冶橋から川の下流方向を眺めると、
白い布の屋根がずらっと並ぶ。
川沿いに生える緑と水の清涼感、
さらに天気も良ければ空の青さと相まって、
見事に統一されたその白が美しい。

この高山の宮川朝市は、日本三大朝市に数えられる。
飛騨高山の観光人気が高まるなかで、
訪れる観光客がふえ、常に活気溢れる人気スポットだ。

もともと文政2年(1820年)頃、
高山別院を中心に桑市として栄えてきたが、
養蚕業の衰退により、花や野菜が売られるようになっていった。
その後、場所を転々とし、戦後、現在の鍛冶橋下流に移転。
これが現在の宮川朝市の始まりである。
宮川市場協同組合が発足した昭和37年から数えても、
すでに50年以上の歴史を誇る。

土つきの飛騨ねぎは、朝採れの証拠。

朝市の通りに足をふみいれると、
思いのほか農産物を販売している店舗が多いことに気がつく。
野菜、果物、花などから、餅、漬物などの加工食品まで。
観光客が多いからといって、お土産物ばかりが並んでいるわけではない。

この朝市に参加しているのは、ほとんどが高山に住んでいる農家なのだ。
「基本的には、自分たちの手でつくったものを売ってもらっています」
と教えてくれたのは、「宮川朝市協同組合」理事長の玉田忠夫さん。

「宮川朝市協同組合」理事長の玉田忠夫さん(左)と、朝市の一番手前で、手づくりのチャンチャンコや甚平を販売している「島尻」さん(右)

農家が自分たちで育てたものや、
それをもとに加工したものを、直接販売している。
ここにくればその季節に食べられるもの、
つまり高山の旬を感じることができるのだ。
朝採れたばかりの野菜はみずみずしく、土がついてたっておいしそう。
雪国である高山の冬場は野菜の数は減ってしまうが、
その分、加工食品や保存野菜が豊富にラインナップ。
雪国特有の冬の食文化もかいま見ることができる。
どれも手づくりのあたたかみがある簡素なパッケージばかりで
食材の良さが際立っている。

農家が自分たちで育てたものや、
それをもとに加工したものを、直接販売している。
ここにくればその季節に食べられるもの、
つまり高山の旬を感じることができるのだ。
朝採れたばかりの野菜はみずみずしく、土がついてたっておいしそう。
雪国である高山の冬場は野菜の数は減ってしまうが、
その分、加工食品や保存野菜が豊富にラインナップ。
雪国特有の冬の食文化もかいま見ることができる。
どれも手づくりのあたたかみがある簡素なパッケージばかりで
食材の良さが際立っている。

はちみつももちろん高山産。

飛騨高山の伝統野菜が復活。

以前は仲買人などの仕入れにも使われていたし、
高山市民が毎日の食材を揃える台所でもあった。
それこそ、朝ごはんのみそ汁の具を買うようなご近所感覚。
そんな宮川朝市もだんだんと観光化が進んでいった。
するといくつかの問題も発生するようになる。
駐車違反の問題や、近隣の施設との客の取り合いなど、
「朝市廃止」の議論が持ち上がることもしばしばあった。

漬物の名産地である高山だけあって、たくさんの種類の漬物が売られている。

50年間この朝市に出店し続けているというひとも20人ほどいるし、
2代目3代目と代替わりして続けているひともたくさんいる。
それでも30年前には120以上あった店舗が、
現在では半分の60店舗程度に減ってしまった。

しかしそれでも50年以上も続けてこられたのは、
地元住民が今でも利用し、
かつてと同じスタンスを保ち続けているからではないだろうか。
組合を中心に、まちをきれにすることを心がけ、
白いテントに統一して景観を保つなどの努力は怠らない。
出店者自体が“地元の朝市”であることを大切にしているように思う。
「組合のひとががんばってくれている」と出店者は声を揃える。

りんごの皮を剥き、試食してもらいながらコミュニケーションをとる諏訪忠義さん。

こうした歴史を伝えてきた宮川朝市にも、
以前には売られていたのに、最近は姿を消してしまった食材がある。
これらを復活させようという試みが最近始まった。
17品目を指定し、飛騨高山伝統食材の計画栽培を行った。
春はあさつき、折菜、のびる、あずき菜。
夏は縞ささげ、なし瓜、小茄子、国府茄子、ほう葉。
秋は赤かぶ、長人参、一斗芋、なつめ。
冬は飛騨ねぎ、あぶらえ(えごま)、はところし(青豆)、白菜霧漬け。
高山の食文化を守っていく役割も、朝市は担っているのだ。

いくら観光客が増えようとも、
宮川朝市に出店しているのは、あくまで地元、高山のひとたちだ。
朝市に出かけると、その土地の風土や人柄などがわかってくるような気がする。
朝7時ごろから12時ごろまで開いているが、
まだ観光客が少ない早めの時間帯に、
散歩がてら行ってみることをおすすめしたい。
引き締まった空気のなかで、
おじいちゃんおばあちゃんの散歩道となっている宮川朝市から、
高山の生活の光景を見ることができるだろう。

花とうもろこしと有機ニンニク。

太くて長くて硬いのはお好き?(2)

ナマコノミクスというかナマコマネーについて

ナマコの話のつづきです。
前回は不思議な生態の話題が中心でしたが、
今回はナマコと経済の話をしたいと思います。

え? ナマコとカネって、いったいなんのこと?

では、はじめます。

ヨットで日本一周をしていたときに、
ナマコを一番見かけたのは北海道でした。

北海道の増毛港を5時45分に出航して北上し、
焼尻島の港に到着したのが12時30分。

焼尻島。人口297人(平成22年4月現在)。島の名はアイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)に由来するといわれている。

港湾内にあるサフォーク種のラムを食べさせる店で、
天気図と海図を眺めながら酒を飲み始めました。
嫌な前線が近づいてきているので海は荒れそうです。

軽い肴になりそうなのありませんか? とたずねると、
店のおばちゃんがナマコならあるよ、とのこと。
なんでも旦那さんがナマコ漁師なのだとか。

さっと茹でたナマコが丼にど~んと、
それに醤油、酢、砂糖の壷もど~んと渡されました。
自分で好みの味つけをして食べるようです。

ナマコは生しか食べたことがなかったのですが、
さっと火を通すと身肉が柔らかくなるんですね。
生よりこっちが好みかもなー。

ん? 待てよ。今は7月だぞ。
ナマコは冬の食べ物ではないのか?
しかも、さっき獲ってきたばかりだって。

土地が変われば、旬の時期も変わるというけれど、
それにしても冬と夏って違いすぎるぞ。

そのときは、ぼんやり思っただけだったのですが……。

実は本州のマナマコは産卵を終え夏になると、
岩の間に潜って夏眠をします。
青森県でも5月1日~10月1日は県全域で禁漁期です。

ところが北海道のナマコは水温が低いせいか
夏眠をしないので、この辺りでは7、8月が漁期なのです。

ナマコ漁に使う「ハッシャク」。底を曳きながらチェーンでナマコをかき集め、傷つけないようにナイロンの糸の房がついている。ナマコ漁は基本一人で操業。1回網をおろすと30~45分くらい底を曳く。100g以下の小さなナマコは放流するきまり。

石がたくさん網に入ってしまうと、石の重みで引揚げるときに船が転覆する事故が起きる。

近年アワビやウニが採れなくなったこともありますが、
このナマコ、実に儲かるのです。

ヨットでの旅は、漁港の片隅に停泊させてもらうのですが、
長引く魚価の低迷、不漁、燃料の高騰、漁師の超高齢化で
疲弊している漁港が多く、厳しいものが伝わってきます。

そんななか、活気が溢れていたのがナマコ漁をしている漁港。

水揚げしたナマコ仕分け作業。北海道のナマコはイボが大きくしっかりしているのが特徴。

中国の改革開放政策とそれにともなう急成長で、
ナマコの相場は跳ね上がりました。

2000年以降、とくに2008年の北京五輪前あたりは、
ナマコバブルと呼ばれるくらいの加熱ぶりで、
「日本産ナマコ、中国で空前のブーム、価格5年で5倍」という
新聞記事が2007年7月に載っています。

ナマコはツバメの巣、フカヒレ、アワビとともに
「四大海味」のひとつで、中華料理に欠かせない乾燥海産物です。

生では食べず、乾燥させた干しナマコを水で時間をかけて戻して
食べるのが一般的で、ナマコは朝鮮人参に匹敵するくらい
滋養強壮効果があると信じられています。

ナマコは世界に約1500種いて、食用にされているのは30種類ほどと
ウィキペディアには書かれていますが、水産物輸入業者の話では
今までは食べていなかった種類も加工されるようになったので、
おそらく60種以上は食べているのではないか、とのこと。

これはイカリナマコ(@八景島シーパラダイス)。

世界のナマコ貿易の中心地は香港です。

《香港には南北行と呼ばれる世界を股にかけて活躍する乾物商が集結する一角があり、世界の乾燥ナマコの評価や価格、そして信用がここで決められるといっても過言ではない。》
(『水産振興』533号「国際商材ナマコ製品の市場と流通事情」廣田将仁)

中国は50か国以上からナマコを輸入していて、取引量が多いのは
パプア・ニューギニア、インドネシア、フィリピン、そして日本です。

世界各地からナマコが集結しますが、日本産の乾燥ナマコは
他国に比べると圧倒的に価格が高いのです。

こんな調査結果があります。

◇香港における産地別市況(05年)
北海道産  82,500~85,000円/kg
豪州産    7,500~10,000円/kg
アフリカ産 15,000~30,000円/kg
中南米産   5,000~12,500円/kg(『ナマコ学』より)

どうですダントツ高値で取引されているでしょ?
末端価格はいくらになるのでしょう。

日本国内で販売されている乾燥ナマコの値段を
ネットで調べてみると、北海道産の100g=2万1000円とあります。
高級和牛の代表格、松坂牛のA5ランクが100g=4000円くらいですから、
なんとその5倍!

グラム210円ですよ!!

最近値上がりしている金が1グラム約5000円ですから、
ざっくりいえば乾燥ナマコ25g=金1gになります。

日本でこの値段ですから、最高級のナマコは
中国ではいったいいくらになるのでしょう。

そして、これだけ高額なものが海の中にゴロゴロしていると、
どういうことがおきるか。

ナマコ密漁 暴力団関与か
ナマコの漁場として知られる桧山沿岸では5日、江差署が函館市の男3人による116kgもの大量密漁事件を摘発。沿岸地域では高価格に目をつけた暴力団の関与もささやかれており、同署などが警戒を強めている。桧山管内では、ナマコは1キロ当たり2500円前後。中国向けの干しナマコは2003年は1キロ約9000円だったが、05年には3万4000円程度に高騰しているという。(2006.8.7 函館新聞)
ナマコ密漁摘発 56トン、1億8000万円被害か
青森県警と青森海上保安部は27日、ナマコの密漁グループ4人を摘発したと発表した。被害は昨年暮れから約56トン(約1億8000万円相当)に上るとみられ、県警はほか数人の逮捕状を取り、行方を追っている。(中略) 青森や北海道では密漁事件が多発しており、県警は密売ルートの全容解明を目指す。(2006.12.28 読売新聞)
「ウニで8千万円、ナマコで5千万円」大規模密漁の摘発
平成18年は大規模な潜水器密漁事案を相次ぎ摘発しました。6月6日には室蘭海上保安部(北海道)で潜水器を使用したナマコの密漁者7名を摘発しました。捜査の結果、犯人グループは摘発までにナマコ約33トン(4900万円相当)の密漁を行っていたことが明らかになっています。(海上保安庁レポート2007年)
ナマコ密猟容疑で逮捕 岡山の3人、姫路海保、370キロ追跡
姫路市の姫路港内でナマコを密漁したとして、姫路海上保安部はU容疑者ら3人を漁業法違反(無許可潜水器漁業)などの疑いで逮捕し、姫路区検に送検したと発表した。(中略)。U容疑者らは、潜水器漁業が禁止されている姫路港内で、潜水器を使ってナマコ約340kgを採った疑いが持たれている。(2010.2.16 朝日新聞)
大阪湾でナマコ1トンを密漁容疑 親子4人逮捕
大阪海上保安監部と府警大阪水上署は、大阪湾でナマコ約1トンを密漁したとして、漁業法違反(無許可潜水器漁業)と水産資源保護法違反の疑いで、(中略)H容疑者(59)と長男、次男、三男の3人を逮捕した。大阪海上保安監部によると、H容疑者らは「夜中に潜水してナマコやサザエなどを捕り、年間1億円分くらい水揚げした」と供述している。(2010.5.31 共同通信)
ナマコ密漁か 海岸に3トン 寿都町漁港「許せぬ」
19日早朝、後志管内岩内町敷島内(しきしまない)の海岸で、密漁されたとみられるナマコ約3トンが見つかった。岩内署などが漁業法違反(漁業権侵害)などの疑いで調べている。 漁業関係者によると、ナマコはプラスチックケース55箱に入った状態で発見された。1箱数十キロで、計約3トンの市場価格は1千万円以上という。(2012.6.21 北海道新聞)
ナマコ事業で詐欺容疑、社長ら17人逮捕 警視庁
乾燥ナマコの生産・輸出事業への出資名目で資金をだまし取ったなどとして、警視庁捜査2課は21日までに、サイパンの水産会社「南洋」の社長、N容疑者(中略)ら17人を詐欺容疑などで逮捕した。同課は、N容疑者らが全国の約300人から南洋への出資名目で計約7億6千万円を集めたとみて、資金の流れを調べている。(2012.2.21 日本経済新聞)

ちょっと検索するだけでナマコがらみの犯罪がわんさかヒットします。

組織的な大規模密漁だけでなく、
詐欺事件までナマコは引き起こしているのです。

ナマコの輸出事情を教えてもらおうと水産物の貿易を営む友人を訪ねると、
「えっ!? ナマコですか!? 気をつけてくださいよ」と顔を曇らせました。

なんでもナマコは食材にしては投機的要素が強く、
怪しげな業者も紛れ込んでおり、
密輸ルートでの収益が暴力団の資金源にもなっているといわれ、
素人が手を出してはいけない世界なのだそうです。

「輸出の相談を受けたが、知らない会社なので検索してみたらヒットしないので、社長の名前で検索すると逮捕された記事が載っていたとか、香港で取引のときに拳銃を突きつけられたとかいう話も聞きます」(貿易業者)

ジャパニーズ・マフィアとチャイニーズ・マフィアが
ナマコを巡って血なまこ、いや血まなこに!?

深夜のワンチャイのはずれのビルの地下駐車場。
無言でアタッシェケースを置くジャパニーズ・マフィア。
そのアタッシェケースを開くチャイニーズ・マフィア。
「上物ですぜ」
中にはぎっしり詰まった白い粉の袋。
いや、ちがう、黒いイボイボの物体。これは。

乾燥ナマコ!

香港ノワールの鬼才ジョニー・トー監督が撮っても
間抜けなアンダーグラウンド取り引きの絵に
なってしまいそうです。

しかし、あながちフィクションともいえません。

中国の路線バスの運転手がロシアから乾燥ナマコを
密輸しようとして逮捕されてますし、
国後沖でロシアに拿捕された日本のプレジャーボートは
積み荷の乾燥ナマコを海上に投棄して逃走しています。

ううむ、となるとロシアン・マフィアも絡んで
三つ巴の違法ナマコの争奪戦になりそうです。

大連の百貨店では一流ブランドが入っているフロアに
高級乾燥ナマコショップが並んでいるといいますから、
もう食材というより貴金属に近い感覚ですね。

乾燥ナマコがコカインや金の延べ棒みたいに扱われているのでしょうか?

ナマコのブラックマーケットの存在を匂わせながら、
実体験をもとにスリリングに書かれた小説が、
名前の中にナマコを抱く作家、
椎名誠(しいナマコと)さんの『ナマコ』(講談社)です。

ナマコストラップで金運アップ!

ナマコはほぼ全国の沿岸で採れますが、
主な生産地は北海道、青森、山口、兵庫、石川です。

同じ日本産でも価格に差があるようで、
08年調査でこんなデータがありました。

◇香港における日本産乾燥ナマコの価格
北海道・青森産 78,000円/kg~
東日本     54,500円/kg~
西日本      43,000円/kg~ (『ナマコ学』より)

北京料理と広東料理ではナマコの好みが違うようで、
北海道青森産のマナマコやバイカナマコなど
イボがしっかりしたのを好むのは北京料理系。

広東料理ではどちらかというとイボの少ない
ハネジナマコやチブサナマコが好まれるようです。

『臺灣自然観察圖鑑(24) 臺灣的水産』のマナマコ、トラフナマコ、フジナマコ。たぶん乾燥ナマコを水で戻した後の写真なのでは。この図鑑は図版が切り身だったり、調理済みだったりして面白いです。

2010年の香港向け農林水産物の輸出額の統計をみると
乾燥ナマコがトップでなんと127億円も稼いでいます。

しかも、このデータには現在、輸出製品の多くを占める
塩蔵ナマコは含まれていないそうなので、
おそらくもっと稼いでいるのでしょう。

新井白石はナマコの父である

輸出品としてのナマコは、なにも最近に限ったことではありません。
江戸時代からナマコは重要な中国向けの輸出物でした。

清朝中国にとって日本との交易の最大の目的は、
銅銭鋳造に必要な原料の銅でした。

1716年、清朝政府に納められた銅のうち、
日本産の銅が62.5%、雲南産の銅が37.5%といいますから、
いかに日本の銅に頼っていたかが分かります。

かつて日本は金や銀の大産出国でしたが、
典型的な片貿易で、大量の金銀が国外に流出してしまいました。

一方、中国から輸入していたのは絹製品、生糸、砂糖などです。

中国から買う品物は、再生可能な生物資源商品なのに、
こちらは掘りつくしてしまえばおしまいの鉱物資源。
銅の生産量の減少も目に見えています。

このままではいか~ん!

鬼とよばれた新井白石(1657-1725)の政治改革が始まります。
守旧派と対立しながら進めた改革のひとつが海舶互市新令。
ざっくりいえば輸入規制ですが、国内産業の育成政策でもありました。

絹の着物とか、砂糖菓子とか、贅沢はやめよう!
輸入に頼らないで、生糸や砂糖は自分たちでつくれるようになろう!
中国では日本の乾燥海産物が人気だから、
この生産性を向上させて対中国輸出品の目玉にしよう!

こうして幕府の肝いりで「俵物」(たわらもの)とよばれる
干しナマコ(イリコ)、干しアワビ、フカヒレが
全国的な規模で大量生産されるようになったのです。

なかでもナマコは、全国ほぼどこでも採れるので
増産がしやすかったのでしょう。
松前、津軽、安芸、周防、能登、備前、大村、平戸……。

イリコは銅に替わる重要な輸出品として
中国商人からも高い評価を受けるようになっていきます。

こんなパネルを横浜で見つけました。

京浜東北線「新杉田駅」聖天橋交差点近くです。気にする人はいないだろーなー。

江戸名所図絵に書かれているナマコ加工場の様子。

埋立で今ではもう昔の面影はありませんが、
江戸時代、横浜の杉田は梅とナマコが有名だったんですね。

《採集・加工には幕府から目標が示され、それを超えると褒美金が出される一方、集荷は幕府により厳重に管理されました。
しかし、納品した後は自由に販売できたので、梅見の客などのお土産として大変喜ばれたことでしょう》
(「杉田村の煎海鼠と江戸名所図絵」より)

かつて幕府の財源だったナマコが、今や暴力団の資金源。
ナマコのまわりには、いつの時代もグローバルマネーが
うごめいているというのが面白いですね。

一時の勢いが衰えたとはいえ、発展し続ける中国経済。
沿岸域だけでなく全土でナマコの消費が増加してるそうです。

両親へのプレゼント、宴会でのもてなし、贈答品といった
高級ナマコの需要が広がる一方で、レトルト製品など
低価格ナマコを使ったファストフード化、大衆食化もすすんでいます。

しかも健康志向も相まって、ナマコクリーム、ナマコサプリ
ナマコ石鹸にナマコ牛乳、ナマコ酒……。
ナマコ関連の新開発商品も増え、消費拡大に拍車をかけています。

日本でもナマコは滋養強壮、美容に重用されています。

実は中国ではかなりの数のナマコを養殖しています。
日本のナマコの総漁獲量が約1万トンなのに
中国の養殖生産量は5万トン以上といいますから
その規模の大きさは桁違いです。

ところが、養殖ナマコは身肉が薄く、それをごまかすために
膨張剤や砂糖などで重量を増やす細工をほどこしたり、
安易に薬品を使っている実態が問題になりました。

さらにワシントン条約の絶滅危惧種に指定される動きもあります。

実際、トンガの漁師にとってナマコは貴重な収入源なのですが、
トンガ政府は資源の枯渇を防ぐため
1999年から10年間ナマコを禁漁にしました。

2010年にナマコ漁を再開したものの、わずか2年でナマコは激減。
再び3年間の禁漁に踏み切りましたが、密漁が絶えないそうです。

というわけで、将来的に良質なナマコの供給不足が
懸念されればされるほど、ますますナマコの買いつけ、
買い占めがヒートアップするというわけです。

日本でもナマコの養殖、資源増殖の研究はされています。
研究の歴史は長いのですが、ナマコの国内需要が低下し、
尻つぼみの状況だったみたいです。

中国市場の需要が急増したため、あらためて
各県の水産試験場で研究がすすめられているようですが、
一般的な海産物とは違い、投機的な性格をもっているので、
国家的な対中国ナマコ戦略の必要性を感じます。
なんてね。てへぺろっ!

さて、最後になりましたが大事なことを書き忘れていました。

岩場にいるのがアカナマコ。
砂地にいるのがアオナマコとクロナマコ。
でも同じマナマコというのが通説で、
僕もそう思い込んでいました。

ところが、最近の研究ではアカとアオ(&クロ)は
別種であるという学説が有力だそうです。

アカとアオ(クロ)は交配しないし、
アカを砂地に移動させてもアオにはならない。

ありゃ~、そうだったのか!!

横須賀東部市場漁協。今でも東京湾でナマコは採れます。底引きであがったナマコの仕分け作業。

築地市場で値段が高いのはアカナマコです。
ただ、アカとアオの好みには地域差があるようです。

青森市で鮮魚店を営む塩谷孝さんの話です。

「青森ではアカナマコは日本海側で獲れるものの数は少なく、圧倒的に食されているのはアオナマコです。大きいものは中国へ輸出されるので、小ぶりのものを切ってナマコ酢などで食します。
アカの価格はアオよりも低く、県外へ出荷しています。お隣の岩手ではアカの方が好まれていますね。
陸奥湾ではフジナマコ、地元でフジコと呼ばれる黄色く幅広いナマコがいて、こちらは加熱しないと固くて食べられませんが、中華風にして食べます。
最近は魚が少なくなり価格も安値で、漁業組合も資金繰りが大変です。ナマコは手っ取り早く高値で取引されるので、組合事業でダイバーを雇って採らせる組合も増えました」

とのこと。

山口県の周防大島町沖家室島で民宿を営む松本昭司さんは

「方言でタワラゴといい、昔からナマコを食べると頭が良くなるといわれています。売れるのも食べるのもアカとアオで、クロはまったく食べません。
沖家室では主生産ではなくて賄いだったようです。宮本常一先生の記録では、周防大島の他の地区ではナマコが主生産で、煮干しにして中国に輸出していました。
地元ではイリコと呼んでいましたが、イワシの煮干しと紛らわしいのでキンコとして輸出していました」

食べ方はナマコ酢、みぞれ和えが一般的ですが、
「飲食店や割烹屋では茶ぶりナマコ」
「表面をバーナーで炙った握り寿司」
「豆乳でシャブシャブ」(以上、塩谷さん)
「醤油で煮しめ」(松本さん)

という食べ方もあるそうです。
茶ぶりナマコは能登で食べたことあるな。

沖家室島にはこんな言い伝えがあるそうです。

「うちのほうじゃナマコは女に切らせろと言うんですよ。男が切ると硬いが、女が切ると柔らかくなる。ある人には言わせれば、女性ホルモンのせいといい、ある人は女の汗がいいとか、勝手なことを言っています。ホントのことは、わしゃ知りません」(松本さん)

なるほど、ナマコは海男子という別名もあるくらいで、
包丁入れるのをためらうことありますからねー。

今回もこの写真でお別れです。ばはは~い←昭和すぎ

父母とヒロシとぼく

脱ぐに脱げない三足目のわらじ。

「ヒロシ、背が高うなったなあ」
母から最近よくそう言われる。
これ、誰が耳にしても意味不明に違いなく、
言葉は奇怪ですらあるので簡単に解説を加えたい。要点はふたつだ。

(1)「ヒロシ」は誰ぞや?
ヒロシは3歳違いのぼくの兄だ。
ここ数年、母からこの兄の名前で呼ばれることがめっきり多くなった。
ぼく自身はそのことに関して母になんらネガティブな感情は抱いていない。
つまり、どうってことない。仕方ないのだ、ぼくも長く家にいなかったし。
でも、父は毎夕台所に立つぼくのことを慮って、
3回に1回ぐらいの割合で「ヒロシじゃねえが、ユタカじゃが」とさとすように母に言う。
するときまって母は「そうじゃ、ユタカじゃ、ユタカ。(ヒロシに)よう似とるなあ」。
兄の名前で呼ばれることはなんとも思わないけど、
吉本新喜劇のギャグのように
毎回同じ台詞が繰り返されるこの父と母のやりとりには少々げんなりしている。
ちなみについこの間、母が兄をぼくの名前で呼ぶこともあるのかと父に聞いたら、
「それはない」と矢のような答えが返ってきた。

(2)ぼくの背は高くなっているのか?
むろん高くなっていない。
むしろ半世紀に及ぶ骨への負担で数ミリ縮んでいる可能性の方が高い。
しかし、母がそう言うのにもわけがある。
この1年で父の腰が随分曲がってきたのだ。
写真で対象物のサイズを示すのによく使われるタバコのパッケージ、
あれがもしもどんどん小さくなっていったら、
その対象は大きくなったように見えるはず。
それと同じで、父と一緒にいるぼくが母には背が伸びたように見えるわけだ。
実際、父の身長は5センチほど小さくなったように思う。
以前はぼくよりも2センチ高かったのだが、いまでは明らかにぼくよりも低い。
スラリとして、お洒落にも人一倍気を遣っていた父を思うと少々不憫だ。

友人や知人からは最近、「大変ですね」とよく言われる。
言うまでもなく、マチスタとアジアンビーハイブの
二足のわらじ生活の労をねぎらっての言葉だが、
本人はさほどの苦労を感じていない。かえって毎日の生活は新鮮ですらある。
大変といえば、実家の面倒の方だ。父母ともに偏食が年々キツくなっていて、
昨日まで食べていたものを今日はもう食べないと言う。
ついこの間なんか、直接ぼくに言いづらいものだから、
タカコさんを通じて「もう作っても食べない料理」として、
筑前煮やけんちん汁などいくつかを伝えられた。
もともとふたりともあまり魚が好きでなく、
3年ほど前ついに母の「魚は一切食べません宣言」があった。
なるべく魚や野菜を多く摂れるようにと献立を考えてきたんだけど、
もう完全に破綻してしまった。
マルナカで頭が真っ白になり、
からのカゴを手にしたまま途方にくれるということも最近は増えた。
そのときの心情たるや、なんだろう、ホント泣けてくる感じ。
マチスタや広告制作の仕事で気持ちがこうも折れることはない。
でも、この実家の料理番という三足めのわらじは脱ぐに脱げない。
これがぼくという人間のいまの本筋だ。
もしも、仕事が実家の介護の手伝いを圧迫するようなことがあれば本末転倒、
なんのために岡山に帰ってきたのかわからなくなる。

マチスタの仕事明けに岡山駅の周辺でランチというのはとうにあきらめている。
あきらめてはいるんだけど、
どんなお店がどんなメニューを出しているのかはついついチェックしてしまう。
そうやって、急ぎ足ながらきょろきょろしていたからだと思う。
つい先日、きちんとした身なりに
きちんとヘルメットをかぶって自転車に乗っている外国人ふたり組に声をかけられた。
「チョットイイデスカ?」
120パーセントの宗教の勧誘、しかもあの宗派だ。
東京でも吉祥寺に住んでいた頃によく見かけていた。
声をかけられたのは実に30年ぶり。あれは受験で初めてやってきた東京だった。
渋谷の駅前で勧誘にあい、そのまま彼らのコミュニティのような場所に連れていかれて
聖書をもらったのを憶えている。
「ごめん、よくない。急いでます」
「ワタシタチハ、キリストキョウノオシエヲ……」
ぼくの言っていることは完全に無視である。
実は彼らの話を少しでも聞いてあげたいという気持ちはある。
ビラ配りを始めて以来、なおさらこの手の人たち(かなり幅広し!)を
冷たくあしらいたくないのだ。でも、さすがに電車に遅れてはマズい。
「申し訳ないけど、私は神道の関係者です。つまり同業者ね」
「オオ、スゴイネ!」
なにがスゴいのかよくわからないまま、
彼らの「ニチヨウビ、キョウカイニキテクダサイ」と言って手渡された、
小さくて安っぽいリーフレットを受け取った。
ぼくは彼らに別れを言って駅までの道を急いだ。
ギリで間に合った電車に乗ってしばらくして、
ふとパーカーのポケットに手を入れた際に、
あのふたりの宣教師からもらったリーフレットが手に触れた。
取り出すと、裏表紙に彼らの教会の地図があった。そしてその地図の上にこんなコピーが。

家族は小さな天国なのです。

前日の夕飯のメインは海老フライとメンチカツ。
ともに冷凍を買って揚げただけのものだった。
(もうちょっとマシなもん作らんといけんな)
電車の窓から早島あたり、枯れた色の田んぼが広がる光景を眺めながらそう思った。

日々カラダを仕事に慣れさせながら、並行して新しい試みも。これは今週から導入した焼き菓子の新メニュー、ダブルチョコパウンドケーキ(200円/1ピース)。オーダーが入ってからナイフを入れて出す新しいスタイルです。チョコがこれでもかというぐらい入ってますね。

ダブルチョコパウンドは倉敷のパン屋さん「KONPAN(コンパン)」に作ってもらってます。50円プラスでホイップクリーム付き。ぼくが作ったホイップはごらんの通り、だらっと流れてカタチにならず。でもご心配は無用。のーちゃんが完璧なヤツを作ってくれてます。

鍛冶橋食堂

飛騨高山の食事を支えてきた、毎日の食堂。

京都や富士山、知床などとならび、
ミシュランガイドから三ツ星観光地を獲得している飛騨高山。
いまでは世界中から観光客が訪れるこのまちが、
そうなるずっと前から、訪れるひとのお腹を満たしてきた食堂がある。

鍛冶橋食堂は、高山駅から徒歩10分弱、宮川沿いに店を構えている。
創業は昭和31年。
「ここはもともと卓球場だったの。
おとうさんが海とか川とか好きだったからこの場所を選んだのよ。
周りには何にもなかった」と語るのは、
いまも現役で店頭に立っている90歳の清水口たづさん。
もともとは近くで農業をやっていたが、高山へ出てきて食堂を始めたという。
いまでは、お嫁にきた笑子(えみこ)さんと一緒に店を切り盛りしている。

店を切り盛りする清水口たづさん(奥)と笑子さん(手前)の名コンビ。

外のカウンターではソフトクリームを販売したり、
看板にも「飛騨牛丼」や「飛騨牛朴葉味噌定食」などの派手なネーミング。
飛騨牛ブームの高山の、賑わう一角に店舗を構えるだけあって、
観光客目線の商品が表に並んでいる。

でもこれらは最近増えたメニューなだけで、
一歩店内に進んでみると、昔懐かしい定食屋さんの雰囲気だ。
メニューも、とうふ、野菜の煮物、焼き魚、煮魚と、
なんだかホッとする品揃え。
「昔からほとんど変わってません」と、
日本人なら毎日食べても飽きないような、うれしい食堂なのだ。

こもどうふ、野菜、イカなど、一品ものがすべて定食になる。

かつてのお客さんは、土木工事の作業員が多かった。
周辺でダムや河川敷の建設などが盛んに行われていた時期。
鍛冶橋食堂は、その作業員たちの、「毎日のメシどころ」となっていた。
それはこんなエピソードにも表れている。
「まちの外から来ていたひとたちが、
昼ごはん用にお弁当をつめてくれということもよくありました。
朝持って行って、夕方またお弁当箱を置いて帰るんです」と、
たづさんの味は、彼らのおふくろの味となっていた。

出汁は炭火でじっくりと。

「おかあさんは、炭火でにぼしの出汁をとるんです。
ガスの強い火でパッととるのではなくゆっくりじっくり」と
鍛冶橋食堂の味を守るのは、お嫁にきた笑子さん。
このダシで煮た野菜や魚は、特に年配のお客さんに喜ばれるそうだ。
しょうゆやみそも、昔からずっと同じものを使っている。
いつ“帰ってきても”いつもの味が待っているのだ。
変わらずに同じ味をつくり続ける。
変化がないことは決してマイナスではなく、
守り続けるという意義もあるし、それを求めるニーズもある。

七輪を使って炭で出汁をとる。ふたを開けてくれた瞬間に、にぼしの香りがひろがった。

観光客は、夕食で飛騨牛を食べることが多いので、
日中、鍛冶橋食堂に来る観光客には、こもどうふや野菜の煮物、魚の煮物が人気だ。
特に野菜の煮物は絶品で、
ひとくち噛めば、じっくりと時間をかけてとられた出汁の味が、
野菜の旨味とともに染み出す。
どの定食にもこの野菜の煮物が小鉢としてつく。
主菜以外に副菜まで充実している定食は、得した気分になってしまう。

ほかに、飛騨高山の伝統料理「こもどうふ」も鍛冶橋食堂の定番。
豆腐をこも(すのこ)で巻いてゆでる。
正月やお祭りのときに食べられていたものだ。
これもじっくりと煮ていて、中まで出汁がしみ込んでいる。
飛騨牛に飽きたなら、もうひとつの飛騨名物を堪能してみてはいかがだろうか。

鍛冶橋食堂の目の前では、宮川朝市が行われている。
朝市に出店しているひとたちは、大体がひとりで出店している。
そこで鍛冶橋食堂では、昔から出店者に朝ごはんを配達してきた。
観光客がまだ少ない7時頃までに注文を取り、9時頃までに配達する。
もちろん地元のひとたちへの毎日の食事なので、特別なものではない。
野菜の煮物とみそ汁とごはん。こんな定食が20〜30人に配られる。
笑子さんが、1軒ずつコミュニケーションをとりながら朝ごはんを配る。
朝市は、こんな昔ながらの“近所付き合い”で支えられていた。

この朝市も現在では観光化がすすんでいるが、
かつては、地元のひとたちが買い物する場所だったし、
遠くから汽車に乗って八百屋さんや魚屋さんが仕入れに来ていた。
そういったひとたちが朝食を食べたのもまた、鍛冶橋食堂だった。

今はたまたま観光地になってしまっただけで、
たづさんいわく「ええものはない(笑)」。
しかし、飛騨牛もおいしいけど、
鍛冶橋食堂の煮物は、思わずおかわりしてしまう、とても「ええもの」だ。

飛騨牛朴葉味噌焼きは、飛騨高山各地で食べられるが、鍛冶橋食堂は味噌がポイント。