連載
posted:2013.3.14 from:秋田県鹿角市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
ひとつのまちの、ささやかな動きかもしれないけれど、創造性や楽しさに富んだ、
注目したい試みがあります。コロカルが見つけた、新しいローカルアクションのかたち。
writer's profile
Chizuru Asahina
朝比奈千鶴
あさひな・ちづる●トラベルライター/編集者。富山県出身。エココミュニティや宗教施設、過疎地域などで国籍・文化を超えて人びとが集まって暮らすことに興味を持ち、人の住む標高で営まれる暮らしや心の在り方などに着目した旅行記事を書くことが多い。いにしえより日本人が培ってきた循環感覚を実生活で学んでいるこの頃、昭和の残り香のする海辺のまちに住み、日常でも仕事でも“ココロのリゾート”を味わう旅を続けています。
credit
撮影:tsukao
「クリスマスも正月もないと知らずに結婚した嫁からは、詐欺っていわれましたよ」
と笑うのは、1300年続く大日堂舞楽のなかでも一番のクライマックスともいえる
権現舞(獅子舞のことを東北の多くの地域では権現舞という)を舞う、阿部 匠さん。
阿部さんは2009年から小豆沢集落で舞を舞う能衆に参加している。
ちなみに大日堂舞楽では権現様、いわば神様が阿部さんに降りてくるため、
行(ぎょう)という舞楽の前に身を清める行為も
舞楽にかかわる能衆の誰よりも長い期間行う。
よって、結婚したばかりの奥様のぼやきもわからないでもない。
昨年末、舞楽に参加する4つの集落の内習(うちならい)を見に行ったが、
大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ、以下大日堂)のお膝元である
小豆沢集落に行くと、神様という舞楽一の重責を担う阿部さんは、
黙して多くを語らず、本番が近づくにつれ
どことなく話しかけにくい緊張感を漂わせていた。
舞楽の当日1月2日。大日堂で行われる本舞の前から集落毎に儀式があると聞き、
私たちは小豆沢集落の能衆について回ることにした。
2日は深夜0時30分に賄宿(まかないやど)に集合する。
年毎に変わる賄宿は新築した家が受けることが多いが、
今年は3年前に新築した家で行われた。
「正月から家に17人の能衆があがりますからね、最初は大変だと思っていたんですが、
昨年請け負った家の人から賄宿をやること自体が感動的だったと聞いたので、
厄落としの意味もこめて引き受けてみました」
と言うのは、賄宿の奥様。
確かに、年明け2日の真夜中から男衆が集まって飲むのだから
親戚家族総出の手伝いが必要だ。
ひとしきり酒と食事が終わった朝3時、
能衆が上着を脱ぎ始めてふんどし一丁になった。
外は零下7度。若い衆から順に外に出るのだが、
そばで見ていて鳥肌がたっているのがわかる。
これは水垢離(みずごり)という儀式で、賄宿の前を流れる川から水を汲み、
体に12回かけ、身を清めるのだ。
雪の降る中、男たちの背中は、赤く燃え始めた。
麻織物を藍で染めた出立装束に身を包んだ能衆は、
身固めの盃を行ったあとに神子舞、神名手舞、権現舞を舞い、
4時30分に吹雪のなかを出発した。まずは平安神社で舞を奉納し、
ここでは前記の3つの舞以外に田楽舞も奉納された。
きっかり1時間後には笛吹田という先祖代々、舞楽で笛吹きを務めている家で舞い、
その後、酒や食べ物がふるまわれ、次に八坂神社、白山家で舞う。
行列道中では列を乱してはならないため、
トイレも決まった場所で行うことになっている。
7時30分、平安神社裏手にある西のカクチという場所で
小豆沢と隣の大里集落の能衆が出会う。
ここでは各集落がひととおり舞い、年頭のあいさつを交わしてから
大里、小豆沢の順に大日堂へ向かう。
そして、8時に大日堂にて大里、小豆沢、谷内、長嶺の4つの集落が出会い、
挨拶を交わす修祓(しゅばつ)の儀がとりおこなわれる。
ここで、初めて一般のお客さんも舞が見られるようになる。
地域の行事らしく見学のお客さんでにぎわい始めていた。
勢揃いした能衆が大日堂を正面に整列し、
花舞(能衆全員が神子舞、神名手舞、権現舞を舞う一連の動きをいう)を
舞っていると同時に、お客さんでいっぱいになった堂内では
小豆沢青年会による籾押し(もみおし)が始まる。
「ヨンヤラヤーエ!」
「ソリャーノサーエ!」
というかけ声とともに脱穀するさまを青年会の面々が力強く舞う。
その勢いに会場の熱は一気に上がった。
まるで相撲の砂かぶりのように人々が舞台へ吸い寄せられる。
集落の幡が堂内へと走るように運び込まれ、
二階へポーンと投げ込まれる幡上げの迫力たるや、圧巻。
ぼやっと彼らの移動する範囲に入り込んでしまったら
跳ね飛ばされてケガをしてしまうだろう。
さあ、本舞が始まる。
各集落の幡は欄干より下げられた。
天の神を礼拝する神子舞、地の神を礼拝する神名手舞がすべての集落の能衆によって
代わる代わる、各合計10回が舞台で舞われ、やっと、本舞の時間に。
9時40分に阿部さんたちの権現舞が始まった。
約10分間のなかで獅子頭を頭上に掲げながら舞う動きの時間は、
本舞が一番しんどいという。
なぜならばここにたどりつくまで寒さの中、
出立装束と足は足袋に鞋靴のままで過ごし、
合計8kgもある獅子頭を持って深夜から既に10回も権現舞を舞っているのだから
疲労していないわけはない。
さらには全員が舞う演目の神子舞、神名手舞も必須演目だ。
これはもう、体力的にも選ばれし人しか舞うことができない。
このお役目が阿部さんに継がれるまで、世襲制だったというのもわからないでもない。
小学生の山本弐虎太くんは獅子の尾を持つオッパカラミを務めている間は、
神様になった気分になるのだそうだ。
その後、駒舞、烏遍舞、鳥舞、五大尊舞、工匠舞、田楽舞と続き、
12時にはすべての舞が終わり、幕は閉じられた。
各集落の能衆は列をなして集会所や氏子である神社まで帰っていった。
そして、最後に集落の神様に奉納して大日堂舞楽の一日は、終わる。
こんな日々が約1300年もの間、この地域に続いているのだ。
昭和35年から半世紀以上もの間、
能衆を続けている小豆沢集落の齊藤末治さんによると、
1300年の歴史もそろそろ新しい時代に向けて変わっていく必要があるという。
本来ならば世襲制であった権現舞に
未来を担うホープとして阿部さんを誘ったのは、他ならぬ齊藤さんだった。
「権現舞は、本来は、市之丞という屋号の家系が代々舞うことになっているのだけど、
世襲にこだわると後継者が難しい面もあったので、
少年時代に2202回連日参拝を続けたことで表彰された実績のある、
大工の阿部さんに声をかけました。
やっぱり舞楽を続けていくには後継者の育成が大事です。
ユネスコ無形文化遺産に登録されたとはいえ、
実際に自分も舞楽に参加してみようという人が少なくなっています。
それが問題なのです」という。
加えて、昔は行を厳しく行っていたが、
行の捉え方を現代風にしていくことも必要だとも話した。
実際に小豆沢の賄宿で出す食事に関しては舞楽保存会でサポートすることにし、
家庭への負担を軽減したりしている。
「そうはいっても、能衆は神様に奉納する舞を奉納する者なのだから、
行の最中は女性と交わりを絶つ、四つ足を食べない、
出産、葬式のあった年は舞わないといったことは守り続けてほしいと思います」
齊藤さんは一番大切なところは変わることはない、と言った。
すべてが終了し、阿部さんと少し話すことができた。
ちょっと安心した様子の阿部さんはまだ顔が紅潮していたが、
クールなまなざしが話している最中にほっとほころんだ。
なんだか、ついさっきまで崇高な存在だった阿部さんが人間界に戻ってきたような気がした。
奇しくも、阿部さんが能衆に加わってからというもの、
小豆沢集落では若い人たちが率先して舞楽に関わるようになり、
同時に青年会活動も活発になってきたという。
さらには、途絶えていた地域の行事「もうす」が復活した。
「もうす」とは「もの申す」が由来となった人と人、
世代と世代をつむいでいく自由なコミュニケーションの場だ。
いずれにせよ、大日堂舞楽の歴史の重みは小豆沢集落だけではなく
4つの集落の後世をつなぐ存在であることは間違いないのだろう。
「まだ1歳にならない息子の未来へとつないでいけるようにしていきたいと思います。
権現舞をずっと続けることになると思いますが、
集落のみなさんもこの場所を守っていくという志が強く、
自分はできることをやるだけだと思ってとりくんでいるんですよ」
1300年をつなぐ、ひとつのかたちがそこにあった。
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