きょうのイエノミ 旅するイエノミ 本格芋焼酎と、京都の生麸

仕事を終えたご褒美はおいしいお酒とおつまみ。
リラックスしたいなら、きょうはイエノミにしませんか。
神奈川県・横須賀市在住の料理研究家・飛田和緒さんに教わった、
手軽で簡単、しかもちょっとした旅気分が味わえる
日本各地のおいしいものと三浦半島の旬の食材を使った、
和酒に合うおつまみを季節感たっぷりにご紹介していきます。

昼はうらうらと暖かい日差しが心地良いのに
夕方になるとぐっと冷え込んで早くも冬の気配が。
日本各地から届く紅葉便りが気になるいまの時期、
料理研究家の飛田和緒さんは、京都から大好物の生麸を取り寄せます。
これから年末まであわただしい日々が続くので
今年もまた、京都の紅葉は見に行けそうにはないけれど
せめて、かわいらしい紅葉型の生麸で秋のイエノミを楽しみます。
相方は、本格芋焼酎をロックで。
生麸と芋焼酎、これが意外にもイケるんですよ。

幼いころ、飛田さんは三味線の師匠だった祖母に連れられ
お披露目会などの食事のお供をよくさせられたとか。
「いま思えば贅沢だなと思うけど、子どもだったから」
銀座や浅草の料亭で、野菜の炊き合わせばかりを食べていたそう。
そのとき里芋とともにお気に入りだったのが不思議な食感のなにか。
「これ大好きって感じで、ぱくぱくそればかり食べていたのよ」
その「なにか」の正体を知ったのは大人になってから。
そうか、生麸だったのねとわかってすっきり。
だから生麸といえば、あの東京風のしゃんとした味わい、
それが「忘れられない味」だという飛田さんですが
いまではイエノミ用おつまみとしても重宝しているそうです。

●ローカルな逸品「京都市・半兵衛麸の生麸」
京都の柔らかな地下水が生んだ伝統の味。

飛田さんお気に入りの生麸は京都「半兵衛麸」のもの。
「京都に行ったら、五条の本店に寄りたくなるわね」
創業300年以上という老舗だけに、本店の雰囲気もまた格別。
またお取り寄せも、春は桜につつじ、夏は青もみじ、そして秋は紅葉と
季節ごとに移り変わる愛らしい生麸があって
「ちょっとした彩りを食卓に加えられるのがいいの」
特に、飛田さんの家で生麸が活躍するのは秋から冬にかけて。
「すき焼きに入れるとね、これが本当においしいのよ」
残った生麸はラップにくるんで冷凍しておき
さっとオリーブオイルで焼けば、上等なおつまみに。
きょうは、同封されていた田楽味噌に自家製豆板醤を加え
芋焼酎に合いそうな、ピリ辛味噌味にアレンジ。
熱々をいただくと、もちもちと香ばしくてあっという間にお皿が空っぽに。
なるほど、本当に簡単、そしてお酒にもぴったり。
生麸って、実はとても使い勝手の良い食材だったのですね。

そこで京都の本店に電話してみました。
お話してくださったのは、本店店長の苅谷昌宏さん。
飛田さんの「オリーブオイル焼き」がとてもおいしかったとお伝えすると
「そうですか、私も家では日本酒の肴にしますよ」
塩胡椒した生麸をバターでカリッと焼いて、お醤油をたらりとかけるだけ。
うーん、それもいいですね、おいしそう。
「ね、香ばしいバター醤油味でうまいですよ」
生麸を、もっと身近に感じてもらい家庭でも食べてほしい。
それが苅谷さんたちの思い。
HPで公開している生麸レシピも
社員全員で考えて、社内試食会で人気のあったものばかり。
そのメニューは想像以上にバリエーション豊か。
カレー鍋に、炒め物、グラタンにスイーツまで。
生麸って京懐石の上品なイメージだったのに
こんなに自由にアレンジしていいんですね。
「めざせ、お豆腐が合言葉ですから」
その苅谷さんの言葉に思わず笑ってしまいました。

そもそも生麸とは、小麦粉のグルテンを餅米のでんぷんと混ぜて蒸したもの。
グルテンは水に何度もさらし、寝かせることで独特のねばりが出る。
だから生麸の味を左右するのは水ですと、苅谷さん。
「この本店にも地下70mの深井戸がありますよ」
京都の柔らかな地下水でないと、半兵衛麸独特の味は出ないそうです。
水質へのこだわりはもちろん、水温を手で触って確認し
いまでも職人さんが勘を働かせてつくっている生麸。
高タンパク、低カロリーのヘルシー食材なのだから
もっと気軽に自由に、普段の食卓でいただきたいものですね。

『半兵衛麸』(京都市/東山区)の生麸

●お取り寄せデータ

住所:京都府京都市東山区問屋町通五条下ル上人町433

電話:075-525-0008

フリーダイヤル:0120-49-0008

FAX:075-531-0747

営業時間:9:00~17:00 年末年始休

Webサイト:http://www.hanbey.co.jp/

※京都の味噌を使ったオリジナルの田楽味噌もこだわりの味。
本店併設の茶房では「むし養い」(麸と湯葉尽くし)が人気(要予約)

●便利な常備菜「煮豚&煮卵」
誰にでも喜ばれる甘辛味の主役級常備菜。

この9月に著書が「料理レシピ本大賞」を受賞し
ただでさえ忙しい時期なのに、この秋の飛田さんはてんてこまい。
「なんだかわけがわからないうちに、時が経っていく感じ」
表紙が良かっただけじゃないの? 
そう淡々としていながらも、やはり大変そうな飛田さんです。
そんなときの心強い味方が、冷蔵庫に控える煮豚。
「これがあればね、いろいろできるから安心なの」
もちろんそのまま食べても、おつまみに最適。
丼やサラダ、ラーメンなど何かにのっけてもいいし
サンドイッチの具材にもできる。
つくりかたも、時間は少々かかるけど想像以上に簡単。
豚肉の塊もネットがかけてあるものを買えばいいし
「なければ、お店の人にいえばかけてくれると思うわよ」
何本でも同じ手間だから、飛田さんはいつも3~4本はつくるのだとか。
それにゆで卵を最後に加えたら、煮卵もできてしまう!
「これがまたおいしいの」と飛田さん。
甘辛味がしっかり染みた煮豚と煮卵があると思うと
冷蔵庫を開けるのが楽しみになりそうです。

煮豚&煮卵

●つくりかた

ネットをかけた豚肩ロースの塊を用意する。

にんにく1片をつぶし、生姜は皮のままスライスする。

厚手の鍋に油少々と1を入れて、ころがすように肉表面を焼きつける。

3の油をペーパーでぬぐいとる。

酒2分の1カップと2を加え、肉が浸るまで水を4に加える。

5に砂糖、醤油各大さじ3を入れる。

フタをずらして弱めの中火で30分くらい煮る。

本みりん大さじ2を加えて、フタをとり、やや強めの中火で10分煮る。

8にゆで卵を入れ、強火にして煮詰めながら鍋をゆすって煮汁をからませる。

10 粗熱がとれたら冷蔵庫で味をなじませる。

※日持ちは冷蔵庫で約1週間。すぐに食べる場合は半熟卵を入れてもおいしい。

●簡単おつまみ 好物2つを合わせた「さっぱりマリネ」

「今年は豊作だったみたいね」
長野に住む両親からどっさり玉ねぎが飛田さんの元に届きました。
硬くしまった玉ねぎと色鮮やかな紫玉ねぎ。
どちらもさっそくたっぷりスライスして
セロリと一緒にマリネ液に漬ければできあがり。
とても簡単だけど、さっぱりしていて煮豚の付け合わせにもぴったり。
「そうでしょ、でも単に私が玉ねぎとセロリが好きなだけ(笑)」
どうせなら両方を一緒に食べたいとつくった料理だそうです。
それに飛田さんはアジの南蛮漬けが大好物。
「昔から、どちらかというとアジよりも、その周りが好きな子だったのよ」
だから大人になって、その大好物な部分だけをつくるように。
なんだか食いしん坊らしいお話ですよね。
きょうはディルを添えましたが、これ万能ネギの斜め切りでも良さそう。
サラダ感覚で食べられそうなシンプルマリネ
ぱぱっとつくって、ぜひお試しを。

さっぱりマリネ

●つくりかた

玉ねぎとセロリをスライスする。

マリネ液をつくる。酢、砂糖、塩少々を合わせる。

2に1を15分ぐらい漬ける。

※マリネ液は常備しておくと便利(酢、砂糖各1カップと塩小さじ1/2)。あえものや寿司酢としても使えます。

●きょうの和酒 全量芋焼酎「一刻者」<赤>(いっこもん あか)

“一刻者”(いっこもん)とは南九州の話言葉で“頑固者”のこと。
芋と芋麹だけを使った全量芋焼酎「一刻者」シリーズに
去年秋から「一刻者」<赤>が加わりました。
こちらは、南九州産の赤芋を100%使用したもので
ふわっとひろがる甘く豊かな香りと、まろやかな味わいが特徴です。
赤芋とは、金時芋やベニアズマに代表される甘みが強いサツマイモのこと。
その赤芋を芋麹にも使った贅沢な「一刻者」<赤>は
芋焼酎ファンにはもちろん、すっきりとクセがないので初心者でも楽しめるはず。
まずは赤芋本来のうまさを味わえる、ロックでぜひどうぞ。

全量芋焼酎「一刻者」〈赤〉720ml

○問合せ先/宝酒造株式会社

お客様相談室

TEL 075-241-5111(平日9:00~17:00)

http://www.ikkomon.jp/

profile

KAZUWO HIDA
飛田和緒

1964年東京生まれ。8年前からレーシングドライバーの夫、娘の花之子ちゃん、愛猫のクロと南葉山で暮らす。東京時代の便利な生活から一変し、早起きが習慣に。ご主人が仕事で留守がちなため、仕事はもちろん、買い出しやお弁当作りにと忙しい日々を過ごしている。毎日の食卓で楽しめる普段着の料理が得意。高校3年間を長野で暮らした経験もあり。

高齢過疎も引きこもりもなんのその。 おいしいキッシュの持つ力。

秋田県藤里町の社会福祉法人藤里町社会福祉協議会が製造・販売している
「白神まいたけキッシュ」は“まいたけ”という響きからか、
1年中販売しているにもかかわらず
毎年秋には注文が殺到する人気商品だという。

確かに、秋になるとキノコ類とバターや卵の組み合わせは食欲をそそる。
白神山地の麓で育ったまいたけと、比内地鶏の卵、
ヒマラヤの岩塩、北海道十勝の生クリームを贅沢に使ったキッシュと聞けば、
ごくりと喉がなる。
口コミで徐々に広がった白神まいたけキッシュは、
2011年3月に販売を始めてから今年で4年目を迎えた。
実はこのキッシュ、社会が抱える大きな問題に
希望の光を射す、ある挑戦が背景にある。
町に住む「引きこもり」とされていたみなさんがつくっているのだ。

平成18年度に藤里町社会福祉協議会(以下、社協)で行った
町内の引きこもり者・長期不就労者等数把握調査によると、
藤里町民約4000人のうち113人もの人たちが
何らかの事情で就労せず、自宅に引きこもっていることが判明した。
世界遺産白神山地の麓に位置する自然豊かなまち。
それゆえに高齢者の多い過疎である藤里町につきつけられた現実だった。
これは町の将来にかかわること。見過ごすわけにいかない。

白神まいたけキッシュの生みの親、藤里町社会福祉協議会 常務理事兼上席事務局長の菊池まゆみさん。現在は講演会などで全国各地にひっぱりだこだとか。

当時、事務局長を務めていた菊池まゆみさんは
相談員として高齢者の家庭訪問をしていたことから
この町には引きこもりの人たちが多いのではないかと気づいていた。

高齢者の家に、都会から子どもがUターンして帰ってくる。
仕事が見つからないまま、そのうちに介護をすることになって
結婚をしないまま年を重ねてしまっている。
働くことも、他人とコミュニケーションをとることも
難しくなってしまった人たち……。
家にばかりいては体の健康、特に精神衛生上よろしくない。
彼らが重い腰をあげて外に出かけられる場所を、と
お茶会などのイベントなどを考えていたが
そんなときに社協の職員採用試験に顔見知りの引きこもり者が現れた。
「あ、働きたいんだ。そうだよね」
がつんと頭を殴られたような衝撃を覚えたという。

彼らは、問題を抱えた“助けてあげないといけない人たち”ではなく
社会復帰に一歩踏み出すために
“社会支援を必要としている人”たちなのだ。
菊池さんはそのときに自分の考えが根本的に間違っていたことに気づき、
引きこもり者対策事業を見直すことにした。
同時に、秋田県の社協が各市町村の社協と一緒に行う
「地域福祉トータルケア推進事業」が平成17年から始まった。
「福祉でまちづくり」を合い言葉に、
助成金申請などいろんなタイミングがバタバタと符合していき、
福祉の拠点施設として「こみっと」がスタート。
そこで、社協の職員たちによる引きこもり実態調査が行われたのだ。

こみっとは社協のすぐそばにある県の発電事務所の跡地と建物を再利用。土地や建物は町が買い取り、社協に貸与。改修費などは日本財団の助成金制度を利用し、運営費は自立支援法制度に則って捻出している。

「みなさん、家庭の問題は隠したがるでしょう?
小さな町だからこそ、ちゃんと出てきた数だったかもしれませんね」
と菊池さんはいう。
これまで足しげく各家庭を訪問し、その内情を知っていたからこそ
実際のところを把握できたのであり、現実の数字は想像以上のものだった。

社会復帰支援の場所としてのこみっとには、
登録生(引きこもり者等)たちが
その症状によって、給仕したり、調理したりと
働くことができるお食事処をつくった。
町には外食する場所が少ないから、町民が訪れるようになる。
そこには、同じ地域の住人が共存できる居場所があるのではないかと。

そこで、キッシュの登場だ。
「町の特産品を自分たちの手でつくろう。
おやつに食べられるもので、気に入ったら誰かに贈りたくなるような、
おしゃれなお土産にできる何かをつくろう!」
菊池さんはひらめいた。

一見使えなさそうなものに、光を宿す。

「自分でいうのも何ですが、おいしいですよ」
25年前から藤里町マイタケセンターで菌床マイタケを栽培している
藤里町振興協会の土佐吉二郎さんは、
藤里の周辺にあるコナラなどの材木をオガクズにし、
トウモロコシやフスマに水を加えた物を袋詰めして菌床をつくっている。

菌床にマイタケ菌を植菌し、培養するとマイタケが発生する。培養室の温度、湿度、Phなどに配慮し、植菌して70日くらいで市場に出回る。

左からマイタケセンターの山田千幸さん、小山牧子さん、土佐吉二郎さん。

ボリュームのある生き生きとした白神まいたけは
ブランドきのことして関東のホテルやスーパーにも
仕入れられている藤里町の名産品だ。
きれいにブロック状にして出荷されるのだが、
その際に、ぽろぽろと崩れたり、カットしたりしたバラの部分が出てくる。
そこを安く買い上げて利用することにした。

「いきなり、事務局長からキッシュ担当を任されて、
キッシュ? って、ぽかんとしました」
というのは、社協の櫻田康子さん。
菊池さんは、既に町の特産品だった白神まいたけを使ったものを
と考えており、キッシュと中華まん、どちらにするか
相当迷ったらしいのだが、最後は町民みんなが営業マンになって
外に売り出せるものを、ということでおしゃれ度数の高めな
キッシュに決定したという。

「ほら、自分も食べてもいいけど、よそ様に持っていきやすいでしょう?」
と菊池さん。でも、櫻田さんの苦労は相当なものだったようだ。
「マイタケをキッシュの中に入れこむのは大変なんです。
たっぷり入れ込むと黒くて見た目が悪いし、
はてはマイタケに含まれるタンパク質分解酵素のせいで
卵液がうまく固まらなくて、困りました。
こみっと登録生全員がつくりやすいものを目指しましたが
キッシュは手間もかかるし、根気もいります。
パイ生地にしてしまうと、とても扱いが難しいので
スコーン生地に変えて、つくりやすくしました。
それでも、やはりキッシュづくりに参加できる人は限られますね」
食べ物に妥協しないことにおいては、社協内で定評のあった菊池さんいわく、櫻田さんはきっちりと物事を進めていくタイプで
おいしくしたいと最後までこだわる人とわかって、試作を頼んだのだとか。

櫻田さんの編み出した秘策により、きれいに固まるようになったキッシュ。ブロック状のショルダーベーコンや岩塩を使うのも彼女のこだわりのひとつ。

こみっと登録生のこださんは44歳。1996年に東京で就職し、藤里にUターンしてから引きこもるようになったそう。でも、今では大切な戦力。商品PRのために、テレビ出演も果たした。

厨房をのぞいてみると、キッシュが焼けたばかりのタイミングだった。
バターの香ばしいにおいがたちこめた室内は
マイタケから醸し出された秋の香りが充満している。
急速冷凍して固まったキッシュをきれいに切り分ける係、
密封作業をする係など、分業している様子。
みな、丁寧に自分の作業を行っている。

「キッシュづくりは週に2回、毎日3回焼き上げるんだけどね。
ほかの日は高齢者の生活支援ハウスの宿直をやっているから忙しい、忙しい」

と洗いものをしていたこみっと登録生のこださんがいう。
「キッシュとか知らなくて、最初は意味がわからなかったよな。
ここに来て初めて食べておいしいと思った」
こださんは、こみっとに通ってくるうちに生活のリズムが整っていったという。
ちなみに、パッケージのかわいらしい“くまげら”のデザインは
いくつか候補のある中から、登録生らが選んだ。

こみっとカフェでは、こんな風に提供されている。コーヒーと白神まいたけキッシュがセットで200円。誕生のバックストーリーはおいしさのスパイスにはなっているが、あくまでも商品そのもので勝負できるのが白神まいたけキッシュの強み。

藤里町で引きこもりと定義される人たちは、
18歳から55歳で2年以上定職についていない、両親以外と交流のない人たち。
社協は、彼らを外に引っ張りだす意識はないと菊池さんはいう。
「まずは、こみっとのパンフレットをつくり、
家庭訪問をした際に情報提供を続けていきたいので、と
伝えることにしました。
精神科のお医者さんや薬とはまた違うところで
福祉という手法でできることはあるはず、という考え方です。
一歩でも出たいとき、福祉を使ってもらえれば支えることはできます。
地域で少しでも快適に暮らしたいという人たちに向けた
お手伝いができたらという気持ちで取り組んできました」
菊池さんは彼らと協働するために、下記を職員に意識してもらうようにした。
相談支援や指示、助言を行わない。
登録生との個人的な関わりは持たない。
悩み相談など必要があればカウンセラーを呼ぶ。
そこに一般的に“やさしい”とされる感情が入ってしまうと
途端に依存につながり、自立から遠のいてしまう。
ひとつのミスがそれこそ本当の命取りになってしまうかもしれないから
自分たちは治療者でもカウンセラーでもないことを自覚する。
“支援する側もされる側も一緒に働ける環境づくり”
それがこみっとの使命なのだ。

こみっと内にあるお食事処。ランチタイムはたくさんの町民がやってくる。登録生が働くことで町民の引きこもりへの理解も生まれてきた。

菊池さんは、「藤里方式」と呼ばれるようになった
引きこもりとの協働に成功したわけだが、
もともと、福祉をやりたくて社協に入ったわけではなかった。
東京で専業主婦をやっていたのが30代前半に秋田に戻ってきてから
社協に入り、福祉がなんなのかがわからないまま
お金をいただく以上はきっちり仕事をしようという気持ちでやってきたという。
父親は倫理社会の先生で、「自分の心のために完成せよ」といわれ、育ってきた。
そんなこともあり、誰かのためにやってあげているというような
これまでの福祉をとりまく目線には違和感があったという。
「地域のなかで弱者を決めるのは好きではないですし。
弱者を決めるという時点で上から目線ですよね。
世の中は、さまざまな人がいて成り立っています。
ついつい忘れて自分視点になりがちですが、
行き詰まったらいろんな視点に立って取り組めばいいのだと思います」

今後のビジョンは? と聞くと、
この事業を独立化させて彼らの収入源としていくこと、と菊池さんは言い切った。
そのためには、人手の確保も必要になる。
そこに、「いきがい」を求める高齢者たちも巻き込んで
協働していける体制をつくっていくこと。
社協はその存在の性格上、利益をあげられない仕組みになっているが
それではいくら作っても張り合いがないとするのではなく、
ひと手間ふた手間かけないとできないようなキッシュをつくろうと、
現在は取り組んでいる。

そこに、注文が殺到するとどうなるか。
ちょっといじわるかもしれないが、その壁を乗り越える
菊池さんたちをはじめ、社協、登録生たちの姿を見てみたい気がする。
きっとまた新たな「藤里方式」をつくり出し、乗り越えていくのだろう。
しっかりとはまる場所さえあれば、
存在そのものの持つ資質は存分に発揮される。
キッシュを「おいしいね」と食べ続ける側にもまた、
その役割はあるのではないかと思った。

社協のこみっと立ち上げから今までの取り組みは一冊の本になっている。登録生手書きの年表なども入った細やかに書かれたドキュメントだ。  
「ひきこもり 町おこしに発つ」(秋田魁新報社)藤里町社会福祉協議会 秋田魁新報社共同編集 1,080円

Information

藤里町社会福祉協議会 秋田県の名産品を使った
「白神まいたけキッシュ」

「コロカル商店」で、「白神まいたけキッシュ」が発売中。舞茸たっぷりの優しい味わいをご賞味ください。1,400 円(税込)
https://ringbell.colocal.jp/products/detail.php?product_id=6022

秋の夜長にイエノミするでござる! の巻

にんにん! コロカルくんでござる!
朝夕は寒い日が続くでござるね〜
もうすっかり秋の気配でござる!
そんな気候のいい日には家飲みしたいでござる!
ただいまコロカルでは「宝酒造×コロカル きょうのイエノミ 旅するイエノミ」が連載中。
宝酒造の「和酒」に合わせて、
料理研究家・飛田和緒さんのお気に入りのおつまみと、
お取り寄せとレシピを公開中でござる!
そこで、今回は印象に残ったお取り寄せ&レシピを紹介するでござる

其の壱 スパークリング清酒と、天草の車海老

9月に公開された最新のイエノミレシピでござる。
スパークリング清酒「澪」と合わせたでござる。
里芋のねっとり感がクセになる「里芋のポテサラ風」は
コロカルくんも試してみたくなったでござる。
上天草市・丸山水産の車えびも、10月の中旬には今シーズンのお取り寄せ開始でござる。
ぷりぷりの食感に、甘み。そして大きさ!
この機会にぜひご賞味あれでござる!

其の弐 本格芋焼酎と、横須賀の秋しらす

飛田さんちの目の前の海で獲れた横須賀の「秋しらす」。
コロカルくんだったら新米ごはんを何杯でもいけちゃうおいしさでござるが、
ここはしっぽり大人の飲みのアテとして!
ふっくら、しっとり、つるんと柔らかなうえに、絶妙な塩加減。
海の近くだから味わえる逸品でござるね〜
常備菜の「牛肉と根菜のきんぴら」もレシピ公開中。
いつものきんぴらがちょっぴり豪勢になるでござるよ!

其の参 日本酒と、山鹿(やまが)の馬刺し

長野県、特に松本と木曽では馬肉をよく食べるため
信州に縁がある飛田さんも、馬肉×日本酒はお気に入りだそうでござる。
飛田さんは、ていねいに馬刺しを薄切りにし、手造りの特製薬味を添えて食卓へ。
これがもう絶品だったそうでござるよ!
「白身刺身のしょっつる和え」も、秋田の調味料しょっつるがいいアクセントでござる!
お酒を飲んだあとのしめで、お茶漬けにしてもいい感じでござるな!

其の四 スパークリング清酒と、厚岸(あっけし)の牡蠣

一番人気のお取り寄せとレシピがこれでござる!
(なんと約3500いいね!をゲット! ありがとうでござる!)
飛田さん大好物の北海道・厚岸(あっけし)の牡蠣。
「日本の牡蠣は、やっぱり日本のお酒に合うと思うの」
と飛田さんも言っていたそうでござるよ!
レンジの上で焼き牡蠣にしていただけば、
半レア状態でぷりぷり、ものすごくジューシー!
濃厚な海の味がするから、もちろん調味料なんて必要なしでござる。
これからの季節、牡蠣がおいしいでござるね。
ぜひお取り寄せしてみたいでござる!
飛田さん流「ひじきの五目煮」と「つけものすし」のレシピも、
試してみたいでござるな!

そして、嬉しいニュースが!
〈料理レシピ本大賞 IN JAPAN 2014〉で、
飛田和緒さんのレシピ本「常備菜」が大賞を受賞したでござるよ!
世の中に数あるレシピ本の中で1位を獲得したでござる!
飛田さん、おめでとうございますでござる!!!
これからも、「宝酒造×コロカル きょうのイエノミ 旅するイエノミ」の更新を
楽しみにしていてほしいでござる!
次回は10月下旬でござるよ〜

きょうのイエノミ 旅するイエノミ スパークリング清酒と、 天草の車海老

仕事を終えたご褒美はおいしいお酒とおつまみ。
リラックスしたいなら、きょうはイエノミにしませんか。
神奈川県・横須賀市在住の料理研究家・飛田和緒さんに教わった、
手軽で簡単、しかもちょっとした旅気分が味わえる
日本各地のおいしいものと三浦半島の旬の食材を使った、
和酒に合うおつまみを季節感たっぷりにご紹介していきます。

涼しくなってきたなと思っていたら今年もあと3か月。
月日がたつのは本当に早いものですね。
ようやく秋めいた食材がおいしくなってくる季節です。
つやつやの秋ナスにコロコロ太った里芋。
どちらも、あまり手をかけなくてもおいしいおつまみになるし
天草の車海老もそろそろシーズンを迎える頃。
ならば、友人たちを呼んでゆっくりイエノミしてみませんか。
スパークリング清酒で乾杯したら、あとはおしゃべり三昧。
たまには、こんな秋の夜長の過ごし方もいい感じかも。

肌寒くなり、衣替えが気になる時期になると
料理研究家の飛田和緒さんは「大人女子会」を計画し始めます。
それは毎年恒例の自家製味噌を仕込む会。
「ま、味噌つくりは名目で、単に飲みたいだけなんだけど」
飛田さんは楽しそうに打ち明けてくれましたが
仲の良い友だちばかりなので、準備といっても大豆を用意するだけ。
麹や塩は放っておいても、誰かが持ってきてくれるし
おつまみも、いつもの常備菜を多めにつくっておけばいい。
「でも、それだけじゃつまんないでしょ」と
みんなに喜んでもらえるサプライズも必ず何かひとつ。
それが天草から生きたまま届く車海老でした。

●ローカルな逸品「上天草市・丸山水産の車えび」
天草の美しい海から届く贈り物。

おしゃべりしながらの味噌つくりが終わったら
次はお待ちかねのイエノミタイム。
そこでじゃじゃーんと、おがくずに入った車海老が登場。
「もういい年なんだけどね、ほら、そこは女子だから」
元気よく跳ねまわる車海老に、わーわー大騒ぎはするものの
「頭と皮をむいて、みんな勝手に食べ始めちゃうの」
どうやって食べる? と飛田さんが聞いても
いいよ、いいよ、気にしないでと
台所になるべく引っ込まなくてもいいように配慮してくれる。
仕事を持つ友人たちで集まるのだから、お互い忙しいのは承知のうえ。
さすが大人の女子会って感じですよね。
だから、生のままやゆでただけでも甘くておいしい活車海老は
サプライズのお取り寄せ品として大活躍。
きょうは背ワタをとったものをさっとゆでていただきましたが
「みんな、あっというまにひとり5本は食べるわよ」
と、思い出し笑いをする飛田さんです。

そんな飛田さんお気に入りの天草の車海老。
どんな人が育てているのか知りたくて電話をしてみると
「僕は4代目の車海老職人なんです」と
丸山水産の丸山恭徳さんが話をしてくださいました。
なんでも、天草、それも丸山さんの住む維和島は
日本の車海老養殖発祥の地で、ひいお祖父さんも草分けのひとりだとか。
「1905年からということは、もう100年以上前ですね」
なんと明治の頃に養殖を始めたとは、さすが海老好き日本人!
車海老は海老類のなかでも旨み成分がきわだって多い。
でも非常に繊細なので養殖は難しいそうです。

なかでも危機を迎えたのが20年ほど前。
ウィルスのせいで海老が5年連続で全滅してしまい
丸山さんの周りでも廃業者が続出。
天草の車海老養殖は存亡の危機を迎えましたが
なんとか、海老の免疫力を高めることで対処できないか。
丸山さんはそう考えて、さまざまな試行錯誤を続けたそうです。
その結果、免疫成分・フコダインの含有率が高い
海藻の「アカモク」を餌にまぜることで
薬品類を使わないで元気な海老を育てることに成功。
「どうせなら、安心して食べてもらいたいですもんね」
同じ天草の海で採れた車海老の卵を孵化させているので
「ウチの車海老は、生まれも育ちも天草」という丸山さんは
きれいな天草の海の環境を守るため
アカモクを使って海水浄化にも取り組んでいるそうです。

その丸山さんがちょっと動揺したのが
飛田さんちでは、生のままワイワイ食べちゃうんです、とお伝えしたとき。
「そうですか、そりゃおいしいとは思いますよ」
ただ、丸山さん自身は、生で食べたことはないんだとか。
「ほら、生きたまま頭をむしらなきゃいけないでしょ」
それが残酷な気がして、という言葉に愛があると思いませんか?
寒くなってきたら、その車海老も大きく育って出荷を待つばかり。
愛情込めて育てられた車海老、おいしくありがたくいただきたいものですね。

『丸山水産』(熊本県/上天草市)の車海老

●お取り寄せデータ

住所:熊本県上天草市大矢野町維和1430

電話:0964-58-0007

FAX:0964-58-0153

営業時間:8:30~18:00 日休

Webサイト:http://e-ebi.jp/

※車海老の出荷は10月中旬から。500g(18~20尾)で5000円前後が目安。

●便利な常備菜「里芋のポテサラ風」
里芋のねっとり感がクセになる。

誰もが大好きな常備菜といえばポテトサラダやマカロニサラダ。
飛田さんもいつも驚くほど大量につくるとか。
「彼がお子ちゃま舌だからマヨネーズ味が好きなのよ」
大量につくったものの、あっという間にいつも容器はからっぽ。
ご主人にそんなに喜んでもらえるって、幸せですよね。
だからバリエーションも自然と増えていくそうです。
里芋を使ったこの「ポテサラ風」もそのひとつ。
ねっとりした舌触りが独特で、またジャガイモとは違うおいしさ。
これから旬を迎えるブロッコリーも柔らかくゆでて混ぜ込んで
見た目も美しい「ポテサラ風」のできあがり。
「これにね、海苔を加えるのがポイントなの」
ポテサラに海苔? と思うけれど、食べてみてびっくり!
ねっとりしっとりのマヨネーズ味に、香ばしい海苔がとっても合う!
いわば味のアクセントって感じなので、ぜひお試しを。
それにしても「おいしい」という言葉は魔法の言葉。
いわれると誰だってやる気とアイデアがどんどん出るのだから
おいしいと思ったら、出し惜しみしちゃ絶対ダメですよ。

里芋のポテサラ風

●つくりかた

里芋は皮をむいてからゆでる。

ブロッコリーはひと口大に切って柔らかめにゆでる。

1と2を軽くつぶして混ぜる。

3に塩とマヨネーズ、オリーブオイルを混ぜて味見する。

食べる直前に、海苔をちぎって4に混ぜ込む。

※海苔は韓国海苔でもおいしい。

●簡単おつまみ「秋ナスと鶏もも肉の蒸しもの」
秋ナスのおいしさをシンプルに。

「これは本当に簡単なの」
そういいながら、飛田さんは電子レンジをセットします。
あれ? 飛田さんが電子レンジを使うのを初めて見たような。
「そんなことないわよ、よく使います」
とくに、大好きなナスを蒸すときには便利だとか。
近所の直売所でつやつやとおいしそうな秋ナスを売っているので
つい大量に買ってしまい、いまの時期はナス三昧だそうです。
「でもね、こうやって下ごしらえしておけば応用が効くのよ」
あとは、手持ちの調味料をアレンジして、好きな味でいただけばいい。
葱ソースでなくても、ポン酢と柚子胡椒など
あれこれ工夫して食べるのも楽しいですよね。
きょうは鶏もも肉も一緒にチンしたので
おかずにも良さそうなボリュームです。
ポイントは鶏もも肉に片栗粉をまぶすこと。
旨みがとじこめられるし、とっても鶏肉がジューシーに。
秋ナスがおいしい時期に、つくってみてくださいね。

秋ナスと鶏もも肉の蒸しもの

●つくりかた

ナスはヘタを残して皮をむき、水に5分ほどつける。

1を半分に切って塩を軽くすりこむ。

鶏もも肉はひと口大に切り塩少々をもみこみ片栗粉を軽くまぶす。

2と3を耐熱皿に載せ、ふんわりとラップをかける。

4を電子レンジに5分ほどかける。

ナスに火が通ったら、葱ソースをかけていただく。

※葱ソースは、白ネギのみじん切りに、酢、砂糖、醤油、胡麻油を混ぜたもの。
ナスのヘタも食べられるので、切り落とさなくても大丈夫。

●きょうの和酒 松竹梅 白壁蔵「澪」(みお)スパークリング清酒
軽やかな泡のお酒は「大人女子会」にもぴったり。

お米と米麹由来のほのかな甘みとさわやかな酸味。
気軽にしゅわしゅわの泡が楽しめるスパークリング清酒「澪」は
冷蔵庫に常備しておくと、とても気持ちが浮き立ちます。
お料理を選ばないので、ふだんのイエノミには最適だし
食後のカクテルがわりにいただいてもいい感じ。
とくにフルーツとの相性は抜群なので
いまの時期ならブドウやナシと合わせてぜひどうぞ。
もちろん「大人女子会」の乾杯にもぴったりです。
美しいブルーのボトルは食卓を華やかに彩り
楽しいおしゃべりもよりいっそうはずむはず。
国境を越え、世界中の人に愛されているスパークリング清酒を
ぜひ、身近な「イエノミの友」として楽しんでみてくださいね。

松竹梅 白壁蔵「澪」(みお)スパークリング清酒 150ml 300ml 750ml

○問合せ先/宝酒造株式会社

お客様相談室

TEL 075-241-5111(平日9:00~17:00)

http://shirakabegura-mio.jp/

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KAZUWO HIDA
飛田和緒

1964年東京生まれ。8年前からレーシングドライバーの夫、娘の花之子ちゃん、愛猫のクロと南葉山で暮らす。東京時代の便利な生活から一変し、早起きが習慣に。ご主人が仕事で留守がちなため、仕事はもちろん、買い出しやお弁当作りにと忙しい日々を過ごしている。毎日の食卓で楽しめる普段着の料理が得意。高校3年間を長野で暮らした経験もあり。

サブの家

いまとなってはこの話をどこから始めればよいのか難しいところではあるのだが、
シンプルに起承転結を考えたら「起」の部分がサブであったことは間違いないと思う。
発端は今年の1月、元浜倉庫の隣にあるアパートの住人から
「サブが夜中に吠えている」という苦情があった。
ひどいときはぶっ続けで3時間ほど吠えまくっているらしい。
アパートでは睡眠不足になっている人もいるとか。
まるで『マルテの手記』に出てくる老侍従である。
村の誰もが敬愛していた侍従が、
その死に際して十週間も夜中に吠え続けて村中を恐怖に陥れるという。
そんなことになったら、この連載の悠長な『昼下がり』のタイトルにも
偽りが生じてしまう。早速、その日からあれやこれやの対策が始まった。
最初は「夜寒いんじゃないか?」というので
ナンバ(近所のホームセンター)で電気アンカを買って毛布に仕込んだところ、
翌朝、蹴飛ばされてコンクリートの床に転がっていた。
ユウコさんが湯たんぽを用意してくれたこともあったが結果は似たりよったり。
「おなかが空いているのでは?」というので
餌やりの回数を変えたり餌の量を変えたりもした。
結局、夜に事務所の蛍光灯をつけっぱなしにし、
さらにラジオをかけたままにしておくことで一応の決着を見た。
そのおかげなのか偶然なのか、サブの夜泣きはおさまったようだった。
この「蛍光灯とラジオのつけっぱなし作戦」は、
効果のほどはよくわからないまま現在も継続中である。
でも、ぼくは夜泣きの原因に関しては、いまでは確信めいたものがある。
つまるところ、サブは寂しいのだ。

サブがこの元浜町に住み着いたのは2010年のこと。
気がつくと、元浜倉庫の隣のアパートに
おまけのように付いているようなトタンの倉庫を寝ぐらにしていた。
サブは正真正銘の野犬だった。
野犬自体、児島ではそれほど珍しいものじゃないのだが、
ほかの野犬と違って徒党を組まず、いつも一匹狼だった。
サブは薄汚れた、よぼよぼの老犬だった。走っている姿を見たことがなかった。
吠えもせず唸るようなこともせず、いつも困ったような顔をしてとぼとぼと歩いていた。
そんなおとなしい犬なものだから、野犬とはいえ誰も追い払おうとはせず、
元浜町界隈ではいわば黙認していた。
アパートの住人とかアパートの向かいのおばちゃんとか、いろんな人が餌をやっていた。
かくいうぼくもそのひとりで、サブが元浜倉庫の前を通ると、
「サブ!」と名前を呼んで、プラスチックのボールに入れた餌を差し出していた。
そんなときのサブはというと、餌を見て走って寄ってくるようなことは絶対にしない。
大抵、困ったような顔でしばらくぼくの顔を見つめてから、
おもむろに「食ってやるか」とでも言いたげな表情で重い足取りをこちらに向ける。
当然、餌を食べ終わったら無言で立ち去る。
野犬の矜持とでもいおうか、媚びることが一切ない。
カラダは触らせないし、頭も撫でさせない。
かわいげというものがまったくないからこっちも触りたいとも思わなかった。
それでも一度だけ、サブがぼくに少しなついていると思えるようなことがあった。
冬の夕暮れ時、ぼくが倉庫の鍵を閉めて、駅まで歩いて帰ろうとしたときのことだ。
倉庫を出てすぐの港で、暗がりのなか、向こうから歩いてくるサブとすれ違った。
「サブ、じゃあな!」と声をかけてそばを通り過ぎた。
しばらくして、ふと振り返るとすぐそこにサブがいた。
いつものとぼとぼしょぼい足取りでついてきていた。
「サブ、来るな! 帰れ!」
少々きつめに言っても、立ち止まるだけで帰ろうとしない。
そんなことを何回かやっているうちに駅のそばまでやって来た。
このままだと片側二車線の広い道路を渡ることになるので、威嚇して追い返そうとした。
サブはただでさえ困ったような顔をなお困り顔にしてまっすぐぼくを見ていた。
ぼくはその間に逃げるようにして道路を渡った。サブはもうついてこなかった。
でも、あの真っ黒な悲しそうな目が焼きついて、こっちまでしばらくずんと悲しかった。

サブを元浜倉庫で飼うようになったのは2011年の5月だった。
その日、近所に住んでいる小学生の女の子が、
サブと鉢合わせしたかなにかで驚いて走って逃げようとした。
そこで彼女は転倒してしまい、歯を折ってしまった。
その話を近所のおばちゃんから聞いて2時間も経たないうちに、
その親御さんが夫婦そろって元浜倉庫にやって来た。
ぼくは餌をやっていたという手前、申し訳ないという気持ちがあった。
それ以上に、ちょうどチコリが生まれたばかりというのもあって、
彼らの気持ちは察するにあまりあるものがあった。
サブがうちの犬だという彼らの言い分には承諾しかねたが、
反論はせず、謝罪した。ぼくに責任の一旦があるのは事実だった。
そして彼らの要求をのんで、その場でぼくがサブを飼うと約束した。
その夜からだ、サブがうちの犬になったのは。

最初の2年はひどいものだった。元浜倉庫にやってくる人には誰彼かまわず吠えたてた。
毎日のようにお昼を食べにやって来る縫子のフジタくんでさえ、
ほぼまるまる2年の間、律儀なまでに毎回吠えたり唸ったりした。
3年目にしてようやくである。何が変わったといって、サブの顔つきだ。
陰な部分が消えて、表情がやわらかくなった。振る舞いも別犬のようである。
いまでは人に触らせるどころか、犬好きの人に対してはいとも簡単におなかを見せる。
これはチコリの貢献度が大きいんだけど、
あれほど嫌いで逃げ回っていた子どもに対しても
自分から寄って行って顔を嘗めようとする。
元浜倉庫焙煎所のお客さんたちにもかわいがられていて、
ちょっとしたマスコット的存在だ。
サブが夜中に吠えるようになったのは、こうしたサブの変貌ぶりとは無縁じゃない。
思うに、「里ごころ」ならぬ「人ごころ」がついてしまった。
そんなサブの人生を思うと少々不憫ではある。
いまはすこぶる元気とはいえ、残された寿命もそう長くもないし……。
「サブのために一軒家を借りるか」
こうして展開はようやく起承転結の「承」に入る。

ここで何度か書いてきたが、ぼくは早島という町でアパート暮らしをしている。
典型的な子育て世代のアパートなのでペットの類は禁止。
しからば、サブを飼える環境を手に入れようということで
「一軒家を借りる」という案にたどり着いた。
しかし、この「承」はほとんど間を置くことなく「転」へと移る。
「いっそのこと買ってみるか、家を」
このあたりの無茶な展開も、ぼくの人生においてはそんなに無茶でもない。
家族の後押しがあったことも大きい。
タカコさんは「家を買う」と言ったその日から、
「買おう、買おう!」と元クラバーらしいノリで積極的に応援してくれている。
しかし、一番大きかったのはうちに出入りしている信用金庫のMクンのバックアップだ。
「あのさ、1000万円ぐらい貸してみてくれないかな?」
ダメもとで聞いてみた。
「なにを買うんですか?」
「うん、ちょっと家をね」
Mクンの反応はまったく予想外のものだった。
「大丈夫だと思いますよ」
「え、マジで? 貯金も担保もなんもないんだよ」
「買おうとする物件を担保に入れて借りるんですよ」
そう言って、Mクンはその日のうちにアジアンビーハイブの決算書をもって帰った。
そして数日後、淡々とした顔で「オッケーです」。
実は「借りる」から「買う」に転じた背景には、ある一戸建ての中古物件の存在があった。
たまたまその家が1000万円で売りに出ていたことを知り、
そこで初めて「買う」という発想が生まれたわけだ。
とはいえ、これまでの人生で家を買うなんてことは考えたこともなかったので、
「家を買う」とは口にしていても感覚的にはまったくリアルではなかった。
でも、Mクンのこのひと言で家の購入がぐっと現実感をともなってきた。
あの家だったら、山に囲まれているからサブなんて離し飼いにしてやれるかもしれない。
チコリとツツにもそれぞれ広い部屋をあてがってやれるし、
ぼくの趣味にできそうな手入れのしがいがある広い庭もある。と、
そんなあれこれを夢見ながら、いよいよ不動産屋との家の内見の日を迎えた。
外からは何度となく見に行っていた。
建築士の友人を連れて行って、基礎の部分を見てもらったりもしていた。
ぼくはもうその日にはすっかり買う気になっていて、
帰りに不動産屋と契約を交わすような勢いだった。
前を行く不動産屋さんの車が件の家の前で停まり、
ぼくはその後ろに車をつけて車から降りた。
タカコさんも子どもたちと一緒にはしゃぎながら車を降りてきた。
さあ、いよいよだ。ぼくたちの高揚感はマックスにあった。
その朝初めて会った年配の不動産屋さんがぼくたちの方に向かって歩いてきた。
手には封筒やら資料やらが束になっている。
当然、流れは「さあ、それじゃあ行きましょうか」と家の玄関に回って、
となるはずだった。ところが……。
「あのね、この物件、実は昨日契約がまとまったんですよ」
「………」
しばし、唖然。言葉もなにも出やしない。
「おすすめの物件がいくつかありますから、そちらに行きましょうか」
自分でも意外なほどの落胆ぶりだった。怒る気力さえないような。
「はあ、今日はもういいです……ぼくら帰ります」
「ああ、そうですか。わかりました。じゃあここで」
ひと言謝るでもなく、不動産屋はそそくさと帰って行った。
あのときまともな精神状態であれば、
「じゃあここで」と言って背中を向けたその背中に飛び蹴りを食らわしたうえに
池に蹴落としてやれたのにといまだに思う。
ともあれ、ぼくの生涯初の、そして最後かもしれないマイホーム購入計画は
こうして幕を閉じた————いや、幕を閉ろしちゃいけないのだ。
サブの問題は依然としてそのまま残っている。
いまのアパートではチコリとツツに子供部屋をあてがってやれないという、
サブの問題から浮上したとは思えない深刻な課題も露呈していた。

この話にはさらに先がある。
現段階、展開は「結」に近づきつつあるような近づいていないような。
その話はまた回をあらためてということで。

10月初旬発行の『風と海とジーンズ。』(児島商工会議所発行)、ファッションページにサブが登場してます。サブの存在によって「ローカルのファッション」を見事に体現できたのではないかと。それにしてもいい顔してるぞ、サブ!(写真/池田理寛)

Information

元浜倉庫焙煎所 岡山のおいしいコーヒー「コロカルオリジナルセット」

著者・赤星 豊さんのパートナー・タカコさんの元浜倉庫焙煎所から「コロカルオリジナルセット」がコロカル商店で発売中!
布製のバッグ付きで、贈り物にも。2,808 円(税込)
https://ringbell.colocal.jp/products/detail.php?product_id=5140

盆の終わりに

お盆休みの最終日にあたる日曜日の朝。
タカコさんは台所で朝食の後片づけを、ぼくは隣の居間で洗濯物を畳んでいた。
娘のチコリとツツはというと、キッチンの奥にある部屋でブロック遊びに興じている。
ふたりの周囲には色鮮やかなブロックが散乱していた。
「またそんなに散らかして! チコリ、片づけなさい!」
洗いものをいったん中断して奥の部屋をのぞいたタカコさんが声を荒げた。
ぼくがいる場所からはタカコさんだけでなく、チコリとツツの後ろ姿も見えた。
チコリは黙々とブロックを積み上げ、
すぐ横でツツが床に座って嬉しそうにチコリがやることをじっと見ている。
ぼくには娘ふたりが仲良く遊んでいるようにしか見えなかった。
しかし、その朝のタカコさんにはそうは映らなかったようだ。
幼い子どものいる家庭で休日が3日も続けば親のストレスもたまってくるというもの。
後から考えたら、ぼくがそれなりのケアをしてやらなければいけなかった。
うちにはまだ乳飲み子のツツがいる。母親の負担は大きいのだ。
だが、そのときのぼくは最後の休日をどう過ごすかということで頭を使っていた。
(昨日は美咲町まで行ったから、今日は近場で勘弁してもらえるかな? 
児島にだってサブがいるから行かなきゃならない……)
そんな地味な思考はタカコさんの声で吹っ飛んだ。
彼女は再度洗いものを中断して部屋の様子を見るやいなや、チコリを叱りとばした。
「片づけなさいって言ってるでしょ! ブロック捨てるよ!」
タカコさんがチコリを叱るとき、ぼくは口を出さないようにしている。
必ず叱る理由があるからだ。しかし、そのときはなんら理由が見当たらない。
それでもぼくは口を出さずにいた。その時点まではぼくも冷静だった。
しかし、まさかその矛先がぼくに向けられるとは思いもしなかった。
「もう、チコリがいるとなんにもはかどらない! お父さん!」
「ん? オレ?」
「チコリとツツを連れてどっか行ってよ!」
「えええっ! なんでオレが……」
「それぐらい気を遣ってよ!」
抑えていたたががするっと外れた。
「自分だけが家事を背負い込んでるみたいな言い方して、オレだってやってるだろ! 
だいたい子どもたちがブロックをやってなんの妨げになるっていうんだよ! 
それにブロックなんて散らかして遊ぶもんなんだよ!」
言いたいことは言ったからそこで止めておけばよかったのだ。
でも、気持ちにも勢いというものがある。最後に吐き捨てるようにぽろりと口から出た。
「ホント小さいヤツだなあ、おまえは」
そのひと言がまったくいけなかった。瞬間、虎の尾を踏んでしまったと悟った。
間違えようがない。うちの虎はしっぽを踏まれても牙をむかず、唸りもせず、
静かにすっと牙を引っ込める。
そしてほのかに浅黒い顔色になって、
まっすぐ自分の服やら下着やらが入っている押し入れに向かうのだ。
これまで同じことが2度あった。引き止めてもまったくの無駄である。
ぼくは床に座って、なにごともなかったかのように無言で洗濯物を畳み始めた。
彼女の支度ができるまで5分とかからなかった。
無駄と知っていても、ぼくは言わずにいられなかった。
「そうゆう子どもじみたこと、もうやめてくれないかな」
ぼくの言葉は部屋にむなしく漂うだけだった。そして彼女はツツを連れて出て行った。

「なんでお母さんいないの?」
何度となくチコリが訊く。そのたびに、ぼくと喧嘩したこと、
チコリのせいじゃないことを言い聞かせた。
しかし、30分もすると「お母さん!」と言いながら顔を歪ませ、
ぼろぼろ涙を流して泣いた。ぼくじゃいけないらしい。
泣きながらしきりに「お母さんがいい!」と訴える。
「お母さん、いつ帰ってくるの?」
「そんなのオレにもわからないよ。今日帰ってくるかもしれないし、
帰ってこないかもしれない。ホントわかんないんだよ」
正直に言えばいいってもんじゃないのだ。説明にも慰めにもなっていない。
チコリは「いつ帰ってくるの?」と泣きながら同じことを繰り返した。
仕方ない、あれに頼るしかない。
「チコリ、マック行く?」
泣きながら、しかしチコリはぼくを見て首を縦に振った。決まりだ。
ぼくたちは早速車に乗って児島に向かった。
車中、チコリの機嫌はすっかり戻っていた。
さらに「ハッピーセット」(マクドナルドのおもちゃの景品付きセットメニュー。
おもちゃは男の子用と女の子用をセレクトできる)を買ってやると言うと、
機嫌の針は簡単にメーターを振り切った。

マックでのランチを終え、チコリと一緒に日曜日の午後を元浜倉庫で過ごしていた。
ぼくとチコリの姿に、「家に残された父と娘」の悲哀はかけらも見えなかったと思う。
チコリはこの半年近く、元浜倉庫に来るといつもそうしているように
<youtube>で『アナと雪の女王』関連の映像を見たり、
ミュージックビデオを見て大声で歌ったりしている。
ぼくは倉庫でCDを聴いたりサブとじゃれたりして時間をつぶしていた。
と、そこに東岡山に住んでいる友人のイーサンがやってきた。
彼からはマックにいるときにショートメールをもらっていた。
「今日児島に行くから、事務所にいたら寄るよ」と。
イーサンに会うのは半年ぶりだった。
彼が児島に住んでいた5年前まではしょっちゅう一緒に遊んだ仲なのだが、
ここ数年は年に数回しか会っていない。
お互いが住む家と家の間に距離ができたし、なによりふたりとも家族ができた。
彼には5歳になる息子のジョシュがいる。
その日も当然ジョシュが一緒だと思っていた。
ところが現れたのはイーサンひとりだった。

イーサンはぼくの知っている誰よりもアメリカ人的なアメリカ人だ。
フレンドリーでカジュアル。会話にはたっぷり冗談を盛り込んで、
しかもその冗談が俗っぽい。下のネタも当然アリとくる。
つまりは軽くて愉快、それにすごくいいヤツなのだ。
その日も会ってすぐから、倉庫の外にまで笑いがこぼれていたと思う。
家族の話になったとき、一瞬変な間を空けて躊躇してしまったのだが、
この男に隠す必要なんてない、ぼくは今朝のことを素直に話した。
イーサンは目をくりくりさせて「マジで?」と驚いたように言った。
続けざまに「うちもいま別居してるの、言ったっけ?」
「え、知らないよ、いつからだよ?」
「この春から」
「ジョシュはどうしてるの?」
「彼女とボクの間で一週間ずつ交互に一緒に暮らしてる」
人一倍子煩悩で、いつもジョシュと一緒だったイーサン。
そんな彼が日曜日にひとりで児島にやって来た理由がわかった。
今週はジョシュが母親と一緒にいる週なのだ。
「そうか、知らなかった。悪かった」
「いいんだよ。いま、ひとりで古民家に住んでるよ。写真、見る?」
そう言ってイーサンはスマートフォンの膨大なデータのなかにダイビングした。
いつも軽くて愉快なイーサン。
うつむいた彼の笑顔は少しも寂しそうには見えなかった。
でも、人はそうは見えなくても、いろいろを抱えているのだ。

児島にやって来てからというもの、チコリは泣くどころか、
「お母さん」と口にすることさえなかった。
だからといって、母親を思っていなかったと決めつけるのは早計だ。
チコリがどんな気持ちでいたかはチコリのみぞ知るである。
ぼくはというと、イーサンのことを聞いたというのもあって、
子どもたちと会えなくなることを初めてリアルに考えた。
イーサンの境遇と同じように、一週間会えない状態がしばらく続くと思うと、
それだけで気分が悪くなった。
ずっと会えなくなると考えたら、ぼくの人生にはもう意味なんてないと思った。
(そうなったら東京に戻るか。いや、いっそのこと海外でひっそり暮らそうか。
タイとかベトナムとか、お金があればハワイとか。
それはそれでなんとなく楽しそうな気もするけど、
はたして子どもたちなしでぼくはやっていけるのか?)
その場にいないツツが愛しかった。ツツの顔が早く見たかった。

夕方、イーサンと別れた後、チコリと一緒に児島でラーメンを食べて早島に戻った。
夜の9時を少し回った頃だった。玄関のドアの鍵が開く音がした。
チコリはテレビを見ていた。ぼくはなにをしていたのか憶えていないのだが、
タカコさんの顔を見ようとしなかったことは憶えている。
彼女が居間に入ってきて、抱っこひもを解いてツツを床に下ろした。
すぐさまハイハイしようとするツツをぼくは飛びつくようにして抱きかかえた。
ツツはぼくの腕のなかではしゃぐようにして笑った。
たったの半日だ。会えなかったのはたったそれだけなのに、
ツツの柔らかさと重みがカラダのなかに染みわたるようだった。
一方のチコリはというと、反応がぼくとまったく同じだった。
タカコさんが帰っても、玄関に迎えに行くでもなく、ずっとテレビに顔を向けたまま。
ぼくがそうしたように母親の顔を見ようとしなかった。
さて、問題のタカコさんである。彼女は疲れはてた顔をしていた。
ずっと行くところがなかったらしい。「ただしんどいだけだった」と言葉少なに言った。
ぼくたちはお互い、責めることはせず、かといって謝りもせず、
同じ空間で子どもたちと一緒にいられることにただただ安堵していた。

あれから2週間が経ったいまでは笑い話だ。
前の2回もそうだったように、
あと2、3か月もすればケンカの原因も憶えていないだろう。

チコリとツツは本当に仲がいい。彼らが一緒に仲良く遊んでいるのを眺めていると、ほのぼのと幸せを感じる。家族に恵まれたと感じる。その家族にはもちろんタカコさんも含まれている。

太古の地形をお菓子でめぐる「ジオガシ旅行団」

海底火山で生まれた、伊豆半島。

濃い緑が広がり、山と海の香りが入り交じる、伊豆半島。
歴史的な名所である下田をはじめ、山や海を求めて毎年多くの観光客が訪れる。
ところが、この半島が太古の昔に海底火山として生まれ、
珍しい地形をいくつも擁する地層の宝庫であることは、あまり知られていない。
壮大な地形に出会い心を動かされたのが、「ジオガシ旅行団」のふたり。
この風景を他の人にも伝えたい。
そう考えて始めたのが、なんと、この地形そっくりのお菓子をつくることだった。
その精巧さには目を見張るものがある。

伊豆急下田駅から車で15分ほどの爪木崎の海岸で見られる。伊豆半島が海底火山だった時代に固まった溶岩。

「伊豆半島は、約2000万年前に、はるか南の深海で誕生した海底火山群だったんです。
少しずつ北上して、ついに本州に激突し、60万年前に今のかたちの半島となりました。
その後も火山活動が繰り返されて、現在の地形ができていますが、
今も年に4センチは北上し続けているんです」

そう教えてくれたのは、寺島春菜さん。
地形を前にしたら、静かにその地に刻まれた年月に思いを馳せるといい。
見えない時間を想像しようとする者に、大地はしっかりと応えてくれる。

今、日本には33のジオパークがあり、
伊豆半島も、2012年に日本ジオパークとして認定された。
浸食の少ない、比較的もとのかたちをそのまま残す海底火山として、地質学者の評価も高い。

下田市須崎の恵比寿島で見られる、海底に降り積もった火山灰が織りなす地層美。

伊豆市爪木崎。亀甲状にひび割れた溶岩は「柱状節理」と呼ばれる。

3年ほど前、知人に誘われて気軽にジオガイドの認定を受けた春菜さんは、
伊豆半島のもつ地形の魅力に、惹かれた。
春菜さんの友人である鈴木美智子さんも、初めて見た風景に、衝撃を受ける。

「これまで普通に暮らしていた土地なのに、
何千万年という、気の遠くなるような時間がこの地形に凝縮されていることを知って、
周りの風景が違って見えるようになりました。
しかもいろんな種類の地形があって、それぞれに成り立ちが違うんです」(美智子さん)

この面白さを広く伝えたい、とふたりは考えるようになる。
“ジオ”といえば、どうしても地質学の堅いイメージがつきまとう。
もっと身近に感じられて、多くの人に愛されるようなかたちで表現できないか。
そうして生まれたのが、地形をお菓子にした「ジオ菓子」だ。

カフェを運営していた春菜さんがお菓子づくりを担当し、
当時、東京から伊豆へ戻り、デザインの仕事を始めていた美智子さんが
パッケージデザインやPRなどプロデュースを行う。
ふたりでツアーを企画したり、ジオガイドもこなす。
「ジオガシ旅行団」の誕生だった。

左が鈴木美智子さん、右が寺島春菜さん。(Photo: Kosuke Harada)

地形にそっくり。でも、れっきとしたお菓子です。

まずふたりは、ジオ菓子を、実物の地形に似せることに徹底的にこだわった。
美智子さんいわく、目指すは「そこまでするか! と笑ってもらえるほどのリアリティ」

春菜さんのお父さんはプロの陶芸家。
彼女は受け継いだ才能を、余すことなくお菓子づくりに注ぎこんだ。

「ひとつのお菓子を開発する時は、
どうやったら実物に近くなるか、実験のような試行錯誤が続きます。
素材を泡立てたり、焼いたり、揚げてみたり。
見た目だけでなく、味もよくなければいけないので、
普通のお菓子づくりでは考えられないようなところに、
手をかけています」(春菜さん)

(左)伊豆市下白岩の有孔虫化石。有孔虫は、暖かい海にいる原生生物のことで、この化石は1100万年前のものといわれている。
(右)有孔虫化石ヌガー。有孔虫の形をしたレンズ豆や、地元のお米のパフを使用。

(左)伊豆市茅野の鉢窪山。1万7000年前に噴火してスコリアの丘となった。スコリアとは、マグマに含まれるガスが泡立つことでできた岩石。
(右)鉢窪山スコリア焼きチョコ。茅野産の黒米を使っているため泡立てることはできず、揚げてクッキー状に。

(左)南伊豆町弓ケ浜。長さ1200メートルにわたって美しい弧を描く白砂の浜は、海底火山灰層の砂粒でできたもの。(Photo: 伊豆半島ジオパーク推進協議会)
(右)さしクッキー。南伊豆のアロエを使っている。

さらにふたりが大切にしたのが、地形と同じ土地の産物を使うこと。
爪木崎のジオ「桂状節理」を模したココアクッキーには爪木崎産のヒジキ、
弓ケ浜の「さしクッキー」には南伊豆のアロエ、
三島の縄状溶岩クッキーは、三島で有名なメークインを使用。
なぜその地でその産物が育つようになったのか、もとを辿れば
地形の成り立ちと深い関係を持っていることもわかってくる。

「例えば、箱根からきた火山灰によってできた肥沃な土壌があるから
この土地は土がよくて根菜類がよく育つ、など地形を入り口にたどっていくと、
その土地の歴史、文化、産業、宗教観にまでつながります。
地形を楽しみながら保全することが大切だろうと改めて感じます」(美智子さん)

南伊豆町に構える工房にて。お菓子にしたいジオサイトを選び、素材を決める。ふたりで考えたお菓子を春菜さんがかたちにする。

ジオガシ旅行団と行く、“お菓子なツアー”

“旅行団”と称するだけあって、活動はお菓子づくりにとどまらない。
ジオ菓子のパッケージには、必ずモデルとした地形の位置を記した地図が入っていて、
その場所を訪れることができるようになっている。

さらには、ふたりともジオガイドの認定を取得し、
自分たちでガイドを務めるジオツアーも行う。
伊豆半島がかつては海底火山だったこと、
地底で固まった溶岩が美しい幾何学模様をつくっていること、
1100万年前の有孔虫の化石が見られること……などなど、
壮大なジオサイトを訪れ、地形の歴史を話す。

お菓子をもって各ジオサイトをめぐる「ジオガシ旅行団とめぐる南伊豆のお菓子な風景ツアー」には30人ほどが参加した。

バスのなかで、ジオサイトの説明をするふたり。

海底火山だった頃にできた地形に立ち、参加者は興味津々の様子。

下田須崎の恵比寿島。地形を見て面白さを直接感じてもらうのがツアーの目的。

バスで周るほか、自転車やカヤックでのツアーもある。

「海の上からしか見えない地形など、
これまでは、漁師さんしか見たことがない風景だったんですよね。
海沿いに暮らす人たちに聞いても、知らないという方が多い。
この価値にもっと地元の人たちが気付いたらいいなと思います」(美智子さん)

自転車でのツアーの様子。

お菓子をきっかけに。

ふたりのユニークな活動が話題をよび、
最近では月に製作するお菓子の数も、ひと月に1300〜1600個と増えた。
地元の道の駅や、土産物の店などで扱われるようになり、
東京では渋谷ヒカリエの「d47 design travel store」などでも販売されている。

「伊豆は昔から観光業が盛んな土地ですが、
人工的なもので人を呼ぶ従来の観光は、あまり好きになれなかったんです。
でも、ジオの存在が広まることで、
この土地本来の良さを自信をもってアピールできます」(春菜さん)

ふたりとも伊豆の生まれ育ちで、土地への思いは深い。

「伊豆のむせかえるような自然と、南伊豆のゆるやかな時間の流れが好きで。
東京で働いている間も、ずっといつかは伊豆に戻りたいと考えていました。
ここ、南伊豆でも過疎化は進んでいます。
お菓子は小さな糸口にすぎないけれど、
ジオ菓子をきっかけに伊豆に行ってみたいと思ってもらえたら嬉しい」(美智子さん)

ガイドを終えたふたり。伊豆最古の神社、白浜神社を背景に。

実際に東京でお菓子を買って興味をもち、
「ジオサイト全部まわりました!」と連絡をしてくれるお客さんもいるのだそう。

少しずつ広がりを見せている、ジオガシ旅行団のユニークな取り組み。
これからも、伊豆の新しい楽しみを教えてくれるだろう。

きょうのイエノミ 旅するイエノミ 焼酎ハイボールと、 宮崎の鶏炭火焼

仕事を終えたご褒美はおいしいお酒とおつまみ。
リラックスしたいなら、きょうはイエノミにしませんか。
神奈川県・横須賀市在住の料理研究家・飛田和緒さんに教わった、手軽で簡単、
しかもちょっとした旅気分が味わえる日本各地のおいしいものと
三浦半島の旬の食材を使った、和酒に合うおつまみを季節感たっぷりにご紹介していきます。

暑いのにはもう正直うんざり、のはずなのに
過ぎゆく季節を思うとしみじみしてしまうきょうこの頃。
そんな夏の名残りをいとおしむようなおつまみと一緒に
すっきりさわやかな焼酎ハイボールはいかがですか?
相方は南国・宮崎名物の真っ黒な鶏炭火焼に
夏の定番・枝豆をピリ辛エスニック風にアレンジした常備菜。
どちらも焼酎ハイボールとは最高の相性ですよ。
締めは、ひんやりおいしい「簡単冷や汁」をどうぞ。
夏バテで食欲がないときでも、きっとするする食べられるはず。
どれも料理研究家・飛田和緒さんのお気に入りばかりです。

飛田さんの家は海沿いの高台にあります。
クーラーをつけなくても海風で涼しいし、ベランダには超特大プールもある。
家にいながらにして避暑気分が味わえそうですが
「そんな優雅な夏は過ごせないわよ」と飛田さん。
というのも、海目当ての友人たちが次々にやってくるのです。
だから夏休みは、おもてなしに追われる日々。
「この家に住んでから、夏は遠くに遊びにいかなくなったかも」
そんな飛田さんに旅の香りを届けてくれるのがご主人。
出張先でちょっとしたおいしいものを必ず買ってきてくれるから
それをつまみつつ、ふたりでイエノミするのがなによりの楽しみだそうです。
なかでも心待ちにしている「おいしいなにか」
それが、真っ黒で香ばしい宮崎名物の鶏炭火焼です。

●ローカルな逸品「宮崎市・スモーク・エースの鶏炭火焼」
宮崎の鶏炭火焼はうれしいおみやげナンバー1。

「初めて買ってきてくれたのは20年ぐらい前かしら」
その出会いは、いまでも覚えているほどの衝撃だったとか。
まずはその黒さにびっくり、でもこわごわ食べてみると
香ばしくて歯ごたえも良く、なにより焼酎のお供にぴったり!
ちなみに飛田さんのご主人は大の焼酎好き。
「だから、おそらく自分が食べたいだけだと思うけど(笑)」
宮崎みやげといえばいつも鶏炭火焼。
家では絶対真似できない味わいだと思うし
袋を開けてすぐ食べられる手軽さと
賞味期限は短めだけど添加物ゼロなのもお気に入りの理由です。
ご主人は数えきれないほど宮崎に仕事で行っているけれど
「残念ながら私はまだなのよ」と飛田さん。
だから現地で鶏炭火焼を食べたことはありません。
でも「その地方独特のおいしいもの」が
簡単に家でいただけるのは、なんてありがたいんだろう。
そう思いながら、気にいったおみやげのラベルや袋は
必ず引き出しにとっておくのが習慣になっている飛田さんです。

その飛田さん好みの「スモーク・エース」の鶏炭火焼。
いまでこそ「チキン南蛮」と並ぶ宮崎の名物料理として知られていますが
こんなに有名になったのは真空パック入りのおみやげができてから。
それを初めてつくったのが、もともと燻製工房のこちら。
2代目にあたる穴井浩児さんに電話でうかがってみると
「ただ焼いただけの鶏じゃ、さめたら臭みが出ておいしくないんですね」
そこで燻製の技法を応用し、仕上げ用スパイスも厳選。
試行錯誤しながら独自の工夫をこらしたのがこの鶏炭火焼ですが
1987年の発売当初は、真っ黒という見た目で敬遠されることもしばしば。
また添加物を使わないので、要冷蔵なうえ賞味期限も短い。
でも「ずばらせる」(宮崎弁でいぶす)ことで独特のおいしさが生まれるのだから
食べてさえもらえれば、きっとわかってもらえると信じていたそうです。

そもそも、この鶏炭火焼を考案した穴井さんのお父上は
音楽家として若い頃にスペインに住んでいたのだとか。
そのときに感動した「おいしいものが食卓に並ぶ幸せ」を実現するために
オリジナルのスモーカーをつくって燻製工房を立ち上げ
その後、宮崎のローカルフードだった鶏炭火焼の商品化を決意。
大好きな地元の味を、より多くの人に食べてもらいたいという熱意が
「あんな真っ黒なものは絶対売れない」といわれながらも
知られざるローカルフードを、全国区の人気商品へと育てたんですね。

『スモーク・エース』(宮崎県/宮崎市)の鶏炭火焼

●お取り寄せデータ

住所:宮崎県宮崎市本郷北方181-9

電話:0120-56-8875

FAX:0985-56-8865

営業時間:9:30~17:30 土日祝休

(宮崎空港ビル2階に直営店あり。営業時間:6:30~20:15 無休)

Webサイト:http://www.smokeace.jp/

※鶏炭火焼(200g)1000円、みやざき地頭鶏炭火焼(160g)1800円

※賞味期限:冷蔵14日間、冷凍2か月

●便利な常備菜「枝豆のニンニクオイル和え」
ぴり辛風味の枝豆はやみつきになるおいしさ。

夏の間、大好きな枝豆をたっぷり楽しんだ飛田さんですが
「いやまだまだ。直売所に並んでいる限りは食べ尽くすわよ」と
枝付きを買い求めては、キッチンハサミでぷちぷち切るのが日課です。
その枝豆は、ゆでたてに塩をふっただけのおつまみとしてはもちろん
あえたり、まぜたりと普段の料理の食材としても大活躍。
なかでも最近お気に入りなのが、さやごとあえてしまう常備菜。
「食べ切れなかったときに試してみたら、これがけっこうおいしいの」と
「とりあえずのおつまみ」として、おもてなしにも活用しているそうです。
つくりかたは、もちろん驚くほど簡単。
枝豆のさやの両端を切り落とし、しょっぱいぐらいの塩水でさっとゆで
好みで香辛料を加えたニンニクオイル醤油であえるだけ。
すぐに食べてもいいし、冷蔵庫で冷やしたものも味が染みていい感じ。
おやつ替わりに、つい手が伸びてしまうという飛田さん
「口と手がね、ベタベタするのだけ御愛嬌ってことで」
でもそんなことは、きっと誰も気にしないはず。
毎度おなじみの「枝豆」でも、これなら夢中になって食べてしまいそう。
麺つゆやだし醤油ベースのタレに漬けてもおいしいそうなので
いろいろ試して、ぜひ自分好みの「枝豆常備菜」をつくってみてくださいね。

枝豆のニンニクオイル和え

●つくりかた

枝豆は両端をキッチンばさみで少し切り落とす。

1に塩をふりザルでこするように洗う。

たっぷりの熱湯に塩を入れ2をゆでてザルにあげる。

みじん切りのニンニクを胡麻油で香ばしくなるまで炒める。

4の粗熱がとれたら、醤油少々を加える。

輪切り赤唐辛子少々を5に加え3を和える。

※お好みでニンニクと一緒に中国山椒や八角を加えて炒めてもいい。
枝豆はゆで過ぎないように。日持ちは冷蔵庫で2~3日。

●簡単おつまみ「冷や汁」
南国の夏を乗り切る郷土料理を簡略バージョンで。

宮崎に行ったことはない飛田さんですが
宮崎の郷土料理「冷や汁」は、大好きなんだとか。
「正確には、愛媛の旅館で朝ご飯に出てきた“さつま”なんだけど」
ジャスト! すべて私好みだわ、と感動しその場でつくりかたを聞き
以来、凝りに凝って、あれこれいろんな方法を試したそうです。
なるほど、「冷や汁」は、愛媛など瀬戸内沿岸でも食べられていて
「さつま」など呼び方こそ違っていても
魚をほぐし冷たい味噌汁をつくってごはんにかける、夏の料理なのが共通点です。
なので、飛田さんも食欲がなくなる残暑のころには
お気に入りの「冷や汁」で、ほっとなごむそう。
「アジの一夜干しをちゃっちゃと焼いてほぐしたら、すりばちですって」
そこに味噌を塗り、すりばちをコンロの上にひっくり返してあぶる。
「でもね、もっと簡単な方法も考えたのよ」
そこで、きょうはその簡略バージョンを教えてもらいました。
ポイントは、魚の風味をしらす干しで代用してしまうこと。
味噌も「白っぽいほうが合うと思うけど」なんでもOK。
要は、冷やした味噌汁ぶっかけめしのノリ。
気負わずにぱぱっとつくって、さらさらおいしく召し上がれ。

簡単冷や汁

●つくりかた

多めの出汁を冷蔵庫で冷やしておく。

キュウリの薄切りは塩でもんで水気をしっかりとしぼる。

豆腐は適当な大きさに切る。

薬味を用意する。大葉、生姜、ミョウガなど。

1に好みの味噌をとき、2、3と薬味をのせたごはんにかける。

5にしらす干しと煎りゴマ、お好みでとろろをかける。

※ごはんは炊きたてでも冷やごはんでも。飛田さんは炊きたて派。

●きょうの和酒 宝焼酎「ゴールデン」
イエノミも酒場気分で楽しく盛り上がりましょ。

しゅわっとさわやかでごくごく飲める焼酎ハイボールは
明るく活気ある大衆酒場でいちばんの人気者。
おウチでも、その楽しさや爽快感を味わいませんか?
この4月に発売された宝焼酎「ゴールデン」は
そんなときにお薦めしたい琥珀色に輝く焼酎です。
お料理のおいしさを引き立てる甘い香りと絶妙なコクは
宮崎の「黒壁蔵」独自の蒸留・ブレンド技術で実現したもの。
ゴールデン1を炭酸水3で割ったゴールデンハイボールは
楽しくイエノミしたいときにぴったりの相棒です。

※「黒壁蔵」取材記事はこちら

宝焼酎「ゴールデン」25°600ml

○問合せ先/宝酒造株式会社

お客様相談室

TEL 075-241-5111(平日9:00~17:00)

http://www.takarashuzo.co.jp

きょうのイエノミ 旅するイエノミ 「和酒」に込められた意味とは。 〜黒壁蔵編〜

「黒壁蔵」(宮崎県/高鍋町)に行ってきました。

おいしい「和酒」をつくることで日本の食文化に貢献したい。
昨年夏にお邪魔した「白壁蔵」は、そんな「思い」をかたちにした
高品質の純米酒や吟醸酒中心の「技を伝承する」清酒蔵でした。
では「和酒」のもう一方の雄である焼酎は?
「実はいい蔵があるんです」と宝酒造さん。
それが宮崎県高鍋町にある「黒壁蔵」で
甲類と乙類どちらもつくる日本でも珍しい焼酎専門蔵だとか。
それも宝酒造の焼酎つくりの技術やこだわりが
すべて集約されたような蔵だというのです。
ぜひ行ってみたいとラブコールを送り続けて約1年。
ようやく「黒壁蔵」を訪れることができました。

独自の蒸留技術がありました。

宮崎空港から日向灘沿いに車で北上して約1時間。
カーブをまがると突然現れた真っ黒な建物が「黒壁蔵」です。
「いまは静かですが、8月のお盆過ぎになると賑やかになりますよ」
と出迎えてくれたのは、工場長の大槻達也さん。
南九州産のさつまいもの収穫時期は8月下旬から12月頃まで。
1日あたり数十トンと運び込まれる採れたての生芋を
高鍋のおじちゃんおばちゃんたちが手切りしながら選別し
本格芋焼酎の仕込みで蔵が活気づくそうです。

今回タンクのなかでぶくぶくと発酵していたのは大麦のもろみ。
このもろみは大麦を磨き、水に浸して蒸したものに麹菌や酵母菌をつけたもの。
この光景は、米と麦の違いこそあるけれど
昨年お邪魔した清酒蔵「白壁蔵」とよく似ています。
「醸造酒との違いが出てくるのはこのあと。それが蒸留ですね」
そこで、大槻さんに焼酎のことを教えてもらいました。

単式蒸留機

焼酎とは、穀類を発酵させ蒸留しアルコールを抽出した蒸留酒。
その際、連続式蒸留機で蒸留し雑味を取り除いたものが甲類
単式蒸留機で蒸留し原料由来の風味も多少残したものが乙類と区分されています。
だから、甲類はピュアな味わいでカクテルベースにも最適だし
乙類、つまり本格焼酎は米・麦・芋などの個性が楽しめる。
「でも、そう単純じゃないんです」と大槻さん。
たとえば、単式蒸留も常圧か減圧か、蒸留機のかたちやカーブの違いで
雑味、つまり風味の残り方が全然違ってくる。
また連続式蒸留も、単にピュアなアルコールにするだけじゃない。
何層何本も連なる蒸留機から最適なタイミングで取り出せば
香りや味のいい成分だけが残り、味わい深い焼酎原酒となる。
特に連続式蒸留のこのテクニックは「黒壁蔵」独自のものだとか。
「ウチの甲類焼酎はぜひ味わって飲んでほしいですね」
といいつつ、とっておきの場所に案内してくれたのです。

樽と原酒を見守る人がいました。

そこは樽がずらりと並ぶ巨大な貯蔵庫。
蒸留された焼酎原酒は貯蔵・熟成され、樽の中で刻々と変化していきます。
その原酒を管理する酒類係のひとりが入社36年目という神田 誠さん。
すべてのロットを定期的に試飲して熟成加減を確認するのはもちろん
「樽そのものをちゃーんと見てやらんといい酒にはならんのです」と
膨大な数の樽の状態や環境に細心の注意を払います。

樽用のスポイトでグラスに入れた原酒は
美しい黄金色に輝き、見るからにおいしそう!
「そりゃうまいですよ。でもこれはまだちょっと硬いかな」
いまでは見ただけで原酒の状態がわかる
そんな神田さんのお気に入りは宝焼酎「レジェンド」のお湯割り。
理由は明快、我が子のように常に見守っている
「樽貯蔵熟成酒」がいちばん多くブレンドされた銘柄だから。
すっきりしていながら樽の香りも心地良く
「ああ、ほんとにいい仕事に就けたな」と思えるんだそうです。

実はこの「樽貯蔵熟成酒」の絶妙なブレンド技術こそ
「黒壁蔵」の甲類焼酎をおいしくする秘密。
そんな手間も時間もかかる技術があるとは知らずに
「甲類は没個性」だと思いこんでいた自分を反省。
しかも大槻さんにうかがってみると
これは、戦後、高度経済成長期の「焼酎不遇の時代」に
焼酎復権をめざしての試行錯誤から生まれた技術だとか。
その成果でもある宝焼酎「純」は爆発的な大ヒット商品となり
「純」の黄金比率「樽貯蔵熟成酒13%11種類」は
30年以上のロングセラーとなったいまもきっちり守られているそうです。
あとで試飲させてもらいましたが
熟成加減が異なる原酒はまさにグラデーション状態。
硬質でピュアな味わいから、まろやかで香りもふくよかな印象に
どんどん変わっていくのがわかりました。
このホワイトオークの樽に寝かされた熟成酒が
「黒壁蔵」には約2万樽、約85種類もあるのだから
さまざまなタイプの原酒を組み合わせれば
「味わいの可能性は無限に広がる」という大槻さんの言葉にも納得。
現在発売中の極上<宝焼酎>や宝焼酎「ゴールデン」も「黒壁蔵」から誕生しました。
この貯蔵庫にはまさに「お宝」が眠っているのですね。

和酒の心を受け継ぐ若手がいました。

最後に訪れたのは、大学の実験室のような生産課。
こちらは「黒壁蔵」の、いわば「味と品質の見張り番」で
生産途上の各過程で何度も成分分析と官能検査を行っています。
さまざまな部署のスタッフが次々にやってきて
真剣な表情で香りを嗅ぎ、味を確認する。
きょうは出荷前恒例の官能検査だということですが
毎回、それもみんなで品質を確認すると聞いてびっくり。
科学的に成分を分析し味わいをデータ化していても
「やはり最後に頼れるのは人、人の五感なんです」
生産課長の郷司浩平さんが説明してくれたのが印象的でした。

その官能検査に緊張しながら立ち会っていたのが森田真梨子さん。
大学で分子生物学を学び、この春京都本社から異動してきたばかり。
前の仕事が商品開発だったので「黒壁蔵」が初めての製造現場。
「ここにきてからは毎日ドキドキしています」
いろんな麹に蒸留技術、貯蔵熟成による酒質の変化。
さまざまな要素があるから焼酎つくりはおもしろい。
ただ、そのすべてが味を左右する。
「ごまかしは絶対できない怖さがありますね」
そう森田さんは率直な気持ちを教えてくれましたが
それは「樽貯蔵熟成酒」や独自の技術を受け継ぐ
「黒壁蔵」の若手共通の思いかもしれません。
「開発の視点で技術を語れる人になってくれれば」と
上司の郷司さんが期待するのも、新たな課題があるから。

いま「黒壁蔵」が取り組んでいるのは日本の食事に合う焼酎つくり。
でも海外、特に欧米では蒸留酒を食中酒として楽しむ習慣が少ないとか。
これからは海外でも和食と一緒に「和酒」焼酎を楽しんでほしい。
そのために、焼酎の持つ味わいの可能性をひろげていくのが
「黒壁蔵」ならではの「和酒」のあり方なんだと思いました。

コロカル商店 8月の新商品を紹介するでござる! の巻

にんにん! コロカルくんでござる。
コロカルが全国から品物を厳選した通販「コロカル商店」
おかげさまで好評でござる! 感謝感謝でござる〜!
8月には新商品が登場したでござるよ〜
九谷焼や、アウトドアにピッタリなダッチオーブン、人気連載で出てきたコーヒー豆など、
ちょっと変わったコロカルセレクションをご覧あれ!

其の壱 上出長右衛門窯 石川県の工芸品、九谷焼「汲出碗」

石川県の工芸品である九谷焼の碗でござる。
60年にわたって描かれ続けてきた、
上出長右衛門窯のトレードマークといえる「笛吹」が描かれてるでござるよ。
その他にも、男性が縦笛を吹いているこのモチーフをアレンジして、
和楽器ではなくドラムやトランペット、ピアノなどさまざまな洋楽器を持たせた、
遊び心たっぷりの器も用意しているでござる。
湯呑みよりも口の広い汲出碗は、お茶の香りが立ちやすく、
目や鼻でもお茶を楽しむのに適しており、おもてなしにぴったりでござるよ!

其の弐 石川県いか釣生産直販協同組合 能登の名産品、いかの旨みが凝縮された「能登・いかとんび串と地獄漬

石川から、もうひとつ。能登の名産品をお届けでござる!
いかとんびは、一杯のいかからひとつしかとれない口の部分で、
希少なため珍味といわれているでござる。
「いかとんび串」は大ぶりのいかとんびを、ひとつずつ硬い殻を取って串に刺し、
能登海洋深層水で下ゆでした一品。
弾力のある独特の食感は、まさに珍味と呼ぶにふさわしいおいしさでござるよ!
地獄漬け」は、新鮮ないかを内蔵の入ったまま、
一杯丸ごと醤油樽の中で漬け込んだ、贅沢この上ない漁師料理。
凍った状態でスライスして、トロリと溶け出すワタをルイベのように味わうのもよし、
丸ごと焼くのもよし、輪切りにして野菜と一緒に“ワタ炒め”にするのもよし。
唐辛子がピリッときいていて、お酒がどんどん進んじゃうでござる〜。
お気に入りの日本酒と一緒に、おもてなしに出してみてはいかがでござるか?

其の参 元浜倉庫焙煎所 岡山のおいしいコーヒー「コロカルオリジナルセット」

コロカルで絶大な人気を誇った連載『マチスタ・ラプソディー』
そして現在も連載中の『児島元浜町昼下がり』でおなじみの、
岡山県倉敷市にある「元浜倉庫焙煎所」。
こちらで自家焙煎したコーヒーのコロカルオリジナルセットが登場でござる!
連載ファンはもちろん、コーヒー・フリークも納得の味わい深いおいしさで、
連載の執筆者・赤星豊さんが力説しているように、
岡山のコーヒーのレベルの高さを実感できるでござるよ。
布製のバッグに入ったおしゃれなパッケージにも注目でござる!

其の四  (READYMADE)PRODUCTS ダッチオーブン

福岡県八女郡広川町の吉田木型製作所が主宰するプロダクトブランド
『(READYMADE)PRODUCTS』のダッチオーブンシリーズWEEKENDERでござる〜
ご家庭のキッチンや庭先での気軽なBBQなど、
普段使いで活躍してくれるコンパクトなダッチオーブンです。
鋳鉄製のダッチオーブンは、全体を均一の温度で保ち、
蒸気を逃がしにくいのが特徴。
全面からじっくり加熱し、食材本来の旨みを閉じ込めながら調理してくれるでござるよ。
シチューやスープなどの煮込み料理はもちろん、
野菜の甘みが味わえる焼き野菜などグリルにもオススメでござる!

洗練されたデザインのパッケージは、お祝いやお礼のギフトなどにも喜ばれそうでござるな。
スクエア(長方形)とラウンド(丸)の2タイプの展開でござるよ。
どちらも普段使いも、アウトドアでも大活躍間違いなし!
どっちがお好みでござるか?

其の伍 京屋染物店 染めの技術を生かした、岩手県の工芸品 雑貨 「手ぬぐいkujira」

大正8年創業の京屋染物店のオリジナル手ぬぐいでござる。
コロカルくん、実は手ぬぐい大好きでコレクションしちゃってるでござる。
「手ぬぐいkujira」も、木綿の手触りや染めの風合いなど、
日本の染物文化を伝えていく自社製品として開発されたでござる。
デザインに合わせ、1色ごとに型をつくる「手捺染(てなっせん)」と、
細かい柄や多色使いに適した「注染」の2方法で染め分け、
老舗の職人技術が息づいてるでござる。
吸水性に優れながら、乾きが早く雑菌がたまりにくい手ぬぐいは、とても機能的。
そこで、釣りやキャンプなどアウトドアにも多用できるよう
四尺(152センチ)というロングサイズを工場長自ら企画デザイン。
タオル代わりにも使えちゃうのでござる。
一枚持ってるととっても便利でござるよ〜
この機会にぜひ! でござる!

いかがだったでござるか?
これからもコロカル商店は、ご当地グルメや人気スイーツ、
インテリアからキッチン用品、生活雑貨&工芸品まで、
全国からおすすめの逸品をお届けするでござるよ〜
次回の新商品もお楽しみに! でござる!
それではまた22(ニンニン)の日にお目にかかるでござる!

白神そだちのアワビは、 環境と縁のたまもの

秋田県と青森県の県境に位置し、世界自然遺産の白神山地を背に
日本海のパノラマが広がる自然豊かな秋田県八峰町。
背後に白神山地中央部となる核心地域が迫っており、
八峰町の青秋林道からが核心地域への最短ルートとして知られている。

白神山地のブナの森は、“天然のダム”ともいわれる自然界の栄養源だ。
落ち葉が堆積して肥えた土は栄養をたっぷりと含み、
冬の間に積もった雪は地面に染み込んで濾過され、
何十年も後に湧き出て渓流となり里山、海へと流れていく。
岩場と砂地が混在する地形も相まって、
このあたりはハタハタが集まることで知られ、海の生態系はとても豊かだ。
移動をしない貝類には、絶好の棲み家であり、
天然の牡蠣やアワビが昔から多く獲れたという。

白神の山々に抱かれた八峰町。豊饒の恵みをうけて、海の生態系も豊か。ここでは天然アワビが獲れる。

そんな八峰町で、現在、アワビの養殖プロジェクトが行われている。
廃校になった小学校を養殖所として再利用しているというので訪れてみると、教室や体育館にずらりと水槽が並んでいた。
気持良さそうに籠に貼り付いたアワビはここで大きくなり
短くて20日、最大で6か月ほどで出荷されていく。
教室の窓には全面に断熱材がはられている。
エアコンで効率的に室内の温度管理をすることで
水を直接冷やすよりも節電しながら、養殖ができるそうだ。

アワビの養殖にとって、重要なファクターは水だ。
ここは、冬は荒天が多く、地形も険しいことから海で養殖をするのは難しい。
アワビの成長に従って排泄物による大腸菌やアンモニアなどが
気になるところだが、この養殖所は、海からすぐの場所にあり、
海水を直接敷地内にひくことができたので、
2日に一度、水槽の水をすべて入れ替えをしているという。
常にクリーンな環境を保つために、
天候に左右されない施設づくりをここでは行っているのだ。

水槽は全部で57基ある。アワビ養殖を開始する際、地方新聞に記事でとりあげられたことで、その記事を読んだ北海道の会社から提供されたという。あわびのエサは男鹿をはじめとした国産昆布と贅沢だ。

「山下商店」山下賢太さん

島の風景を取り戻すために。

ぴ〜ぷ〜と豆腐屋さんのラッパが鳴ると、
ザルやボウルを抱えたおばあちゃんたちがぞくぞくと集まってくる。
昔はよく見られた光景だが、この甑島(こしきじま)でもずっと続いていたわけではない。
2年ほど前に山下賢太さんが復活させたものだ。

山下さんは、豆腐屋であり、農業、商品開発、営業など
ひとりで何役もこなす「山下商店」の代表、自称「百姓」でもある。
さまざまな仕事をこなしながらも、ずっと一貫して追い続けているのは、
子どもの頃に見た“島の風景”を取り戻すこと。
かつてにぎやかだった島はどんどん寂しくなり、田畑は草で荒れている。
目に見えないものは忘れられやすい。
でもどれだけ時代が進んでも、人が幸せを感じる風景は変わらないのではないか。
そう信じる彼の視線の先に見えているのは、いったいどんな島の未来なのだろう。

島の風景。

鹿児島県薩摩川内市上甑島。
串木野新港から船で1時間20分ほどでたどり着くこの小さな島に、
山下さんがUターンで戻ったのは4年前の21歳の時。
島へ戻る決意をしたのには、こんなエピソードがある。
子どもの頃から大好きだった場所があった。
港に近い、ハトンダン(波止ん段)と呼ばれる場所で、大きなアコウの木の下に、
大人も子どもも集い、おしゃべりして、ゆっくりくつろいだ憩いの場。

「夕暮れどきになるとみんなが自然と集まってきて、
昨日はどこどこの船が大漁だったとか、今日は満月だとか。
近頃、誰かの顔が見えないから帰りに寄ってみようということになったり。
島の日常の交流の場が、そこにはありました。
高校で島を離れて久しぶりに帰省した時、そのハトンダンが港の改修工事で壊されていたんです。
さらにショックだったのは、その工事をしていたのが自分の父親だったことでした」

なぜ、と問う山下さんに、父親はひとこと「お前を育てるためだ」と答えたのだそう。
想いだけでは、島を守ることができないのだと思い知ったのがこのときだった。

初めての稲刈り。(Photo by KOSERIE)

自分にできることはないかと考えたあげく、
島へ戻り、まずは田んぼや畑を耕すことから始めた。
農業をやるのも初めてなら、野菜や米を売るのも初めて。
祖父にイチから教わりながらのスタートだった。

「初めての収入は、無人販売所の空き缶に入っていた800円のみ。
これが僕の原点です」

周囲の協力を得てやっとの思いで収穫した米。
販売する際には工夫をし、東北の米に比べれば、あまり美味しいイメージのなかった島の米を、
新米の時期のみに絞って「島米Shimagome」というブランドで売った。
つけあげ(さつま揚げ)や干物といった島の特産品と合わせて送るなど、
「あくまで自分の米は、ほかの島の美味しいものの引き立て役」だという。

さらに、古くから地域に伝わるさつまいもの郷土菓子、“こっぱもち”を
オリジナルでつくって販売。
オンラインをはじめ、東京や鹿児島市にも頻繁に足を運び、
それまで島にはなかった流通路を広げていった。
そして2012年5月、築100年を超える古民家を改修して豆腐屋を開業する。

里港からすぐの里集落にある「山下商店」。

店内は、開放的で明るい雰囲気。

島の日常風景の一部になりたい。

なぜ豆腐屋だったのだろう。そう尋ねると、こんな答えがかえってきた。

「幼い頃に僕が住んでいた家の両隣は、2軒とも豆腐屋さんというほど、身近なものでした。
朝できたての豆腐を買いに行くということは、僕にとって日常だったんです。
そして今、限界集落と呼ばれるようなところまで行商に行くのも、
島の人たちの暮らしを支えたいと考えているからです」

子どもの頃、朝起きると、湯気の立ちこめるなかで働いている大人が居た。
自分はその背中を見て育ったのだと、今改めて思う。
最近では、働く大人の姿を間近に見られる機会が減っているような気がする。
そうした島の日常のひとコマも、大切にしたい風景のひとつだ。

豆腐屋の朝は早い。深夜3時から工房に立つ。(Photo by KOSERIE)

冷たい水に手を浸し、できたての豆腐に包丁を入れる。(Photo by KOSERIE)

山下商店は、里港からすぐの、碁盤目のように民家が並ぶ里集落にある。
工房を併設した店は、周りの民家と違って、懐かしくて新しい独特の雰囲気。

窓が大きく開放的で、木のあしらいにデザインが効いている。(Photo by KOSERIE)

豆腐以外にもお土産品を置いている。窓の向こうには、島特有の石垣が見える。(Photo by KOSERIE)

「食べてみてください」とすっと出していただいたのが、お手製の豆腐。
ふわっと大豆の香りがする、しっかりとした味の豆腐で、瞬く間に平らげてしまった。
その後、午前中の行商に同行させてもらうことに。

ふわっと大豆の香る手製豆腐。オリーブオイルをかけていただくのもおいしい。

「山下商店」とロゴの入ったワゴン車にぎっしりと豆腐や厚揚げを積んで、島の各集落へと運ぶ。

車で15分ほど、山をひとつ超えた集落の一角に車を停める。
山下さんがおもむろに取り出したのは、昔ながらの豆腐屋さんのラッパ。
ぴ〜ぷ〜という音が「ト〜フ〜」に聞こえるといわれるアレだ。
誰もいないのではと不安に思うほど静まりかえっていた集落にラッパの音が鳴ると、
ひとり、またひとりと財布とボウルを抱えたおばあちゃんたちが姿を見せ始める。
ほぼ毎日同じ順路で周るので、大まかに同じ時間に同じ場所を訪れることになるのだろう。
みんな、山下さんの豆腐を毎日心待ちにしているのだ。

昔なつかしい豆腐屋さんのラッパの音。

ひとつひとつ、手渡す。

お客さん同士もお馴染みさんなので、
いつもの顔が見えないと「裏の畑いっとるんやね。呼んでこよか」と誘い合って来てくれる。
手づくり豆腐に加えて、厚揚げも人気。豆腐一丁が180〜350円と、
スーパーで買うのに比べて、決して安いとは言えないが、
その人気の秘密をひとりのおばあさんが教えてくれた。

「昔は自分の家でみんな豆腐は手づくりしとったでしょう。
だから私たちにしたら懐かしいんよね。
この豆腐は、昔ばあちゃんがつくってくれた味がするのよ。
今、手づくりの豆腐を食べたくてもスーパーにはないもんね」

「ばあちゃんの味がするって言われた」と嬉しそうに笑う山下さん。
おばあちゃんたちは、買い物のあとしばらくそばの石段に腰かけておしゃべりに興じる。
「ちょっと寄っていかんね」とお茶に呼ばれて、玄関でひとしきり話す間に、
天ぷらやらお茶菓子やらいろんなものがふるまわれた。
「ばあちゃんたちの顔見てたら、疲れが吹き飛ぶんですよね」と山下さん。

無邪気に笑う顔が少女のようで、思わずそう口にすると、「あんたいい娘やねぇ」としみじみ褒められた。

豆腐を買いに出たついでのおしゃべりも、楽しいひととき。

ふつうの島を、楽しんでほしい。

行商の帰りに山下さんが連れて行ってくれたのが、
どこまでも海岸の続く浜が見渡せる「長目の浜」の展望台。島で一番の名所だ。
「こういうガイドブックに載っているような観光スポットもいいのですが、
ふつうの集落で島の暮らしを垣間見ることができるツアーもやりたいと思っているんです」
すでに今の仕事の合間に、島ガイドも引き受けている。
2年ほど前には、鹿児島市内のマルヤガーデンズで、
島の日常を紹介する「島の食卓展」を行った。
食卓の先には、誰かの日常がある。
そんなコンセプトで山下さんらが企画からコーディネートまでを行い、
しっかりと島の人たちと向き合った。
地域のみんなと開発した「ごちそうサンド」はお客様の評判もよく、
できることならその後も販売していきたかったが、
求められる数を継続的につくることができない島の生産体制などがネックに。

島の人たちと。(Photo by KOSERIE)

島の従来の商売の仕方、考え方は尊重しなければならない。
でも一方で、根本の見方を少しずつ変えていかなければ、
これから先、島の暮らしは続けられない。
農家は日々田畑で汗水たらして生産することが当たり前だが、
この時代、それだけでは生き残れないと山下さんは感じている。
自分たちのしあわせの定義や地域らしさを見直した上で、情報発信することも大事。
島外での活動が続くと「ケンタは農業やると言って、ちっとも島におらん」という声も
ちらほら聞こえてくるようになった。

何をするにも、ひとりでは無理なのだと気付く。
今は正社員3人、パート6名を雇い入れ、新しい体制で運営を始めている。
前述のツアーの企画も本格的に実現しようとしているし、
ここへきて、加工品にも陽が当たり始めた。
昨年(2013年)新しく開発した「とうふ屋さんの大豆バター」が好評で、
大手メディアに取り上げられるなど順調に売上を伸ばしている。

山下商店の忘年会の様子。

人気の「とうふ屋さんの大豆バター」。(撮影:island company)

豆腐屋の朝は早い。冬は身体の芯まで冷える仕事だ。
行商の後は農作業や加工品の製造、週2日の休日も休みはなく、
彼はここ数年ずっと走り続けている。
それもこれも、“未来にある甑島のふつうの風景”を、思い描き続けているからだ。

人の運命を決めるのは何ものか。本人の意思、というのもあるだろう。
でももっと何か大きな力に導かれて、彼はこの仕事を引き受けているのではないか。
山下さんを見ていると、そんなことを感じる。

行商に同行した日の夜、翌朝も早いというのに、
島で星が一番きれいに見えるという丘へ連れていってくれた。
都市で見る夜空に比べれば、ずっとたくさんの輝きが広がっていたのだけれど、
雲がかかっていていつもはこんなものじゃない、と悔しがる山下さん。
この人は本当に、島のことが好きなのだ。

仕事について

隣のアパートに、見た目絵に描いたようなヤンママがいる。
上の男の子がチコリの保育園のクラスメートとあって、
彼女の母親ぶりを目にする機会は少なくないのだが、
これが実によくできたお母さんで、日頃から感心して眺めることしきりなのである。
もちろん、顔を合わせればあいさつもするし話もする。
でも話題はまず子どものことで、
付き合って1年以上になってもプライベートな話は一切したことがなかった。
つい先日のことだ。夕方、アパートの前でチコリを遊ばせていたら、
そこに保育園から帰って来たばかりの例のヤンママと兄妹が加わった。
自然、ぼくと彼女は一緒に遊ぶ子どもたちを見守りながらの立ち話となった。
夏の夕暮れどき、昼と夜がじゃれ合うようなそんな時間帯のせいもあったと思う。
お互いにいつもよりもくつろいだような親しい感じがあって、
その質問も唐突なタイミングで降ってきた。
「チコリちゃんパパはヤキンですか?」
わけがわからなかった。唐突だし、チコリちゃんパパなんて呼ばれたのは初めてだったし、
それにヤキンがなんのことやらわからない。……冶金?
「……ヤキンって?」
「いや、いつもチコリちゃんの保育園の送り迎えをしてるじゃないですか。
それに普通に仕事してるようにないし」
野禽とも思ったが、ここは夜勤が本筋だろう。
ぼくが住んでいる早島は水島工業地帯の通勤圏なので、
夜勤や三交代で働く人は少なからずいる。
「広告を作ってるんです、児島で。労働時間はちょっと短めかな」
「そうだったんですか。いつも『なにやってる人だろう?』って思ってたんですよ。
これで謎が解けた!」
本当に「謎が解けました」という顔で彼女は気持ちよさそうに笑った。
ぼくの仕事の話はそれでおしまい。
でも、「広告を作っている」という説明だけで彼女がぼくをどう理解したのか、
いまいちよくわからないでいる。

元浜倉庫が開業して5年、元浜町界隈でもこれまでずっと謎の存在だったと思う。
小さな看板を掲げてはいるけど、社名を記してあるだけなので
なにをやっているのかさっぱりわからない。
生業を示すヒントがなく、
結果、なにやらうさん臭いと思われ続けていたのがこれまでの元浜倉庫だった。
今年の春に焙煎所がスタートしてからは、少しは風通しがよくなった。
少なくとも、コーヒーを買ってくれる近所のお客さんには、タカコさんが一言、
「奥の事務所では広告を作っているんです」と説明してくれている。
これで少しは怪しさも薄まってくれることを望んでいるんだけど、
人口7万人のこの小さな町では
「広告制作」という素性がさらにうさん臭さを増している可能性も否定できない。

なぜに広告制作なのかという話である。もともと広告は本業じゃない。
東京では15年以上フリーランスのライター・編集者として雑誌に携わってきた。
倉敷というローカルをテーマにした『Krash japan』というマガジンも
そのキャリアの延長線上にある。
この雑誌の発行を重ねるごとに地元の企業から広告制作のオファーが舞い込むようになり、
また縁あって新卒の女子を社員雇用し
デザイナーとして育てるというミッションを背負い込んだものだから、
広告制作を本業とするデザイン事務所に舵を定めざるをえなくなった、
というのがざっくりこれまでの仕事の経緯だ。
こうして5年ほど広告を専業でやってきたわけだけど、
広告が自分に合っているのかどうかはよくわからないでいる。
そもそもライターが合っていたのかどうかもわからない。
どちらもなりたくてなった職というわけじゃないのだ。
岡山市内で始めたコーヒースタンドもまさにそれで、
思えばどれもこれも巡り合わせや流れでそうなった。
これと自分が決めた職に就いて生涯を生きる覚悟をもっている人、
たしかにいる。同業者のなかにもたくさんいるし、
人間そうあるべきなのかもしれない。でも、現実、ぼくのような人間もいる。

つい先日のこと。会社の印鑑証明書をもらうために倉敷の法務局へと車を走らせていた。
前の週末に梅雨が明け、陽射しはトップギアに入った夏のそれだった。
敷き詰めた絨毯のような田圃の緑がまぶしい。気温は35℃くらいあったと思う。
それでも20年以上もエアコンの効かない車に乗っていたくせで、
ぼくは窓を全開にしてビュンビュン車を飛ばしていた。
そのときプリンスの曲がかかっていたのを憶えている。
ぼくは法務局の近くにあるケーキ屋さんのことを考えていた。
タカコさんが朝から熱を出して家で寝ているのでケーキでも買って帰ってあげようと。
そしてぼくのあてのない思考は、
タカコさんが6月のぼくの誕生日に買ってきたケーキにたどり着く。
それはホールサイズのバースデイケーキでベースはモンブランだった。
なぜにモンブランだったんだろう? 
彼女は知らなかったのか、ぼくはもともとモンブランが好きじゃないのだ。
そこで、ぼくはなぜモンブランが好きじゃないのかを人生で初めて考えてみた。
栗はまずまずの好物なのにモンブランが苦手。
……食感だ。食感がなくなると、途端に信用度が失墜するような感じ。
同じような例に思い当たった。つぶ餡は好きなんだけど、こし餡になるとまったくダメ。
赤福はあんの部分をへらで削ぐようにきれいに落としてから
おもちだけ食べる、といった具合だ。
そういえば、昔からかまぼこも好きじゃない……。
車中の気温は30℃台後半、聞こえるのは暑苦しいプリンスの曲。
つつと頬を伝い落ちる汗を首にかけたタオルで拭いながらその瞬間を迎えた。

(もしや、オレは加工ものが好きじゃないのか。
それも原型をまったく留めず、均一にならしたものが……)

車のなかというのは思考を巡らせるのにもってこいの空間である。
ぼくもこれまで車中いろいろな類の晴天の霹靂を迎えたが、
この「加工ものが好きじゃない」くらい見事なヤツは記憶にない。
人間、半世紀も生きていればなんでもわかっているような気になっている。
でも、案外わかってないものなのだ。とくに自分自身のことというのは。

去年の夏に先述の女の子の社員が辞め、またひとりになった。
仕事を見直すよい機会だった。もうデザイン事務所に固執することはないのだ。
そして、これまで長く断ってきていた執筆の仕事を受けることに決めた。
しかし、そう決めましたと公言する場所もなく、営業活動もまったくしないものだから、
ライター業を再開したことはいまもってほとんど誰にも知られていない。
しかし不思議なもので、今年に入って昔の友人から
「もしかしたら書いてくれたりする?」という控えめなオファーがあり、
東京の不動産系の会報誌のなかでほぼ定期的に旅ものの記事を書いている。
振り返ってこの手の仕事運にはこれまでも相当恵まれている部分があって、
ついこの間もまったく縁のなかった女性誌からオファーがあり、
近々取材に入ることになっている。

最後になったが、途中はさみこんだ青天の霹靂エピソードが
この回の話にどう関係しているのかよくわからないと言われるかもしれない。
おっしゃる通り。筆者としては、そこは深く考えないでいただけたらなと。
ぼくの仕事の話なんか人に聞かせるような話題でもないし、
だいたいこの回自体、豆腐がこんにゃくで書いたようなよくわからない話なので。

元浜倉庫の一角、コンクリートとブロック塀との間にあるわずか数センチの土の部分が天然のボタニカル園に。桐は年々デカくなり、テッポウユリは今年も大きな花をつけた。大家さんによると、住んでいる人の「気」が良くないとこうした植物は育たないのだとか。

近々の広告の仕事から、倉敷にある自動車教習所の2連ポスター。北欧チックなデザインと70年代ソウル風の両方のアプローチでビジュアルを制作し、結局前者で落ち着いた。アートディレクションとデザイン、コピーをぼくが担当。写真は岡山で活躍する池田理寛クン。なんだかんだいって、広告づくりは結構好きだな。

つるつるプチン!  “食べるエメラルド”でまちおこし

“蓴菜”と漢字で書いて、よみがなをふるのに躊躇しない人のほうが珍しい気がする。
この難しいよみがなの食材は、日本を始め、アジア各地で採れるもの。
秋田県三種町では、今が収穫の最盛期だ。
ヒントは、黄緑色。周りが透明なゼリーに覆われていてヌルヌルの触感。
口にいれるとつるんとした食感で、噛むとプチン!
どちらかといえば喉越しが涼感を誘う食材だ。
筆者は、一般家庭の食卓で、これが出てきたのを見たことがまずない。
日本料理のお膳で小鉢に酢の物として入っていたり、お吸い物に少しだけ入っていたり……
稀少な高級食材というイメージだ。

蓴菜と書いて、じゅんさいと読む。今が旬の食材は、生産地ではこんな風に売られている。見よ! このギュウギュウな詰まり具合!

ある日、三種町の直売所「じゅんさいの館」で、
はちきれんばかりにじゅんさいが詰まったビニール袋を
いくつも買い物かごに入れていくオバサマを発見。
「こんなに買ってどうするんですか?」と聞くと
「今の時期は毎年関東さいる親戚に送ってやるべ。
食べるなら、やっぱり“生”じゃねえと」とのこと。
……生!?
小瓶に入った加工食品のじゅんさいは見たことがあるけど
ビニールいっぱいに入った大粒の生じゅんさいは初めて。
ぷっくりと食べごたえのありそうなイキのいい様子は、
5〜8月だけのお楽しみなのだとか。
この時期は、酢のものや汁物などに調理され、
現地では朝から晩まで毎食の食卓にのぼることもあるという。
「今時期の朝ごはんはじゅんさい汁、昼はじゅんさい丼、
夜はじゅんさいの酢の物だねえ」と、おばちゃんは嬉しそう。

じゅんさいは、スイレン科の多年生水草。淡水池に群生しているハスのような水草でゼリー状のぬめりに包まれた若芽が食用である、と聞くと、なんとなく納得できるような。

北海道から九州まで全国各地にじゅんさい沼はあり、
それこそ昔はどこででもじゅんさいは採れたのだが、
高度成長期の波や環境の悪化により、じゅんさい沼自体が減少した。
今ではここ、三種町が国産じゅんさいのなかで
90%のシェアを占めているという。
なので、生産量は文字通り日本一である。
なぜ、ここがじゅんさい栽培が盛んなのかというと、
昭和44年の減反政策が実施された際に
当時の山本町(現在は合併して三種町)の町長が
転作農産物としてじゅんさい栽培を提案したことから、
田んぼがじゅんさい沼として使われるようになったという。
何よりも、三種町は水資源が豊富で、
世界遺産で有名な白神山地の水を貯水した素波里ダム湖の水をひいていたり、
地下水の湧き出る沼があったりと、じゅんさい沼を作るのによい条件の土地だったのだ。

じゅんさい沼は、農薬や化学肥料が混ざった水が入ってくるとその時点でアウトだ。
清廉な水と里山の生態系がちゃんとある良い環境でしか育つことない繊細な植物である。
というわけで、じゅんさいは恵まれた土地の姿を表す
貴重な食材であることがわかるだろう。

慣れた摘み手が1時間、じゅんさいを摘み続けて、その成果は、2〜3kgほど。

実は、三種町はじゅんさい沼存続の危機を数年前から課題としている。
じゅんさいはじゅんさい沼に箱船を出し、ひとりひとりが腰をかがんで頭を下げ、
水の中に手を入れて若芽を選んで摘んでいく。
大変細やかな作業で、慣れた人と慣れない人の収穫量は歴然だ。
田んぼを積極的にじゅんさい沼に変えてきた世代は
6〜70代の高齢者になってしまい、摘み手が高齢化。
今、摘み手がどんどんいなくなってきているのだ。
摘み手は1年にこの時期だけしか働く需要がなく、
季節労働なので、定期的な雇用の確保は難しい。
そうは言っても、手入れをしていないじゅんさい沼は
あっという間に生態系が崩れてダメになってしまう。
そんな重大な問題をいつまでも放っておくことはできない。
このままでは、じゅんさいどころかじゅんさいのできる環境すら
失ってしまうことになってしまうかもしれないのだ。

研修を受けて季節で働くふたりは主婦。家事労働の傍ら、この時期はじゅんさい摘みを行う。「なかなかはまりますよ〜」とひとりの方は意欲的。もうひとりの方は「う〜ん、今後摘み手を続けるかはわからない」という答え。

じゅんさいをサステイナブルなまちのビジネスに。

「国産日本一」は国内に流通しているじゅんさいの
3割のうちの90%でしかないことも忘れてはいけない。
中国や韓国などの外国産との価格競争もある。
現実を見ると、今後若い世代にじゅんさいを残していくことは難しいかもしれない、と
三種町でドライブイン、「ぴっといん丼・丼」を営む
戸嶋 諭(さとし)さんは危惧している。

男鹿半島出身の戸嶋さん、「三種からまちおこししていかないと、故郷の男鹿もさびれていってしまうよ」と心配する。

戸嶋さんはこれまで、特産の白神あわび茸を使ったまちおこしグルメ、
「みたね巻」に挑戦したり、地元の食材で作る「ライスピザ」を開発したりする傍ら、
三種じゅんさい料理推進協議会の副会長を務めている。
一昨年は、地域の飲食店とともにじゅんさいをたっぷりとご飯の上に乗せた
「三種じゅんさい丼」をお店で提供して、三種町にじゅんさいあり、と盛り上げた。

「ご当地グルメで丼選手権に出たりしたこともあるんだけどね、
もっとじゅんさいを消費できるもの、まちの経済活性化につながるものを
つくらなくてはいけない、と思ったんだよ。
そこで考えたのが、生うどん。
生じゅんさいを生地に練り込んで製麺してみたら周囲にも美味しいと好評で。
特産品の梅も一緒に練り込んでみたら相性もよぐてね」

戸嶋さんが開発した、ほのかにじゅんさいの緑色が入った「みたねうどん」。北海道産小麦100%に三種町のじゅんさいと梅林で有名な琴丘地区の梅が入った自家製麺で添加物なし。現地で食べるとさらにたっぷりとじゅんさいがついてくる!

こちらはカルボナーラならぬ、プルルナーラ。もちもちでしこしことした触感はパスタのように調理してもあう。生じゅんさいもクリームパスタにあうなんて、意外! 三種町ではじゅんさいうどんをアレンジしたものを町内の加盟レストランで食べることができる。

喉越しがよく、コシもある。
梅が入っているので少しだけ酸味もある。
三種じゅんさい丼を考えるときにじゅんさいと梅は相性がいい、と気づいたのを
そのままうどんにも応用してみたら、正解だった。

今まではじゅんさいであれば茎も葉も粉末にして練り込んだうどんはあったが、
それでは加工業者だけが儲かるシステムだから、と
戸嶋さんは摘み手が大切に採った生じゅんさいの若芽の部分のみを使っている。
厳選した素材を生うどんにして商品化し、
地元からいろんな場所へと売れていけば、地域に利益を還元できる。
摘み手などの永続的な雇用に結びつくのではないかと考えてのことだった。
確かに、この方法ならば生じゅんさいを冷蔵で
ストックしておくと、必要に応じていつでも使うことができるし
時期的な販売のムラは解消できるかもしれない。
戸嶋さんの打つうどんに、まちの未来が託されている。

一方、若い世代も負けて入られない。
じゅんさい情報センターの畠 譲(はたゆずる)さんは、30代後半。
中堅世代として、地域の若い人たちがじゅんさいのことを
自分たちのものとしてとらえていき、
また、どのように関わっていけるのかを模索している。
そのために、世代が上の戸嶋さんや他の飲食店の人たちとも
侃々諤々(かんかんがくがく)としたやりとりをすることが多いという。

東北地方の各地のガイドなどを作っていた経験のある畠 譲さんは、各地の地域おこしの例などを取材し、またその情報の出し方なども学んで地元に戻ってきた。

畠さんの着用している「NO JUNSAI, NO LIFE」は
じゅんさいやきりたんぽを販売をする安藤食品の若者ふたりがつくっている。
そのほか、「I LOVE♡蓴菜」ヴァージョンや缶バッジなどもあり、
有名なコピーをもじったもので、親しみやすさを醸し出している。
彼らは、SNSでも積極的にじゅんさいやきりたんぽなどの魅力を発信しており、
畠さんもマスコミ応対のときは制服のように着用し、
じゅんさいの宣伝活動には大活躍だ。

「フレッシュな感覚をもってすれば
こんな風にじゅんさいに内包されているメッセージを伝えていくこともできます。
正直なところをいうと、60代など上の世代はとても元気なので
地域活動は、彼らが中心になってきたところはありました。
若い世代は仕事が忙しかったり、また引っ込み思案で発言できなかったりと
世代間のミゾがあるのは確かです。
若者が自分たちで手をあげていけるような雰囲気になるように、
つなぎ役として機能できたらと思いながらこの仕事をやっています」
という畠さん。

畠さんは、じゅんさい情報センターの仕事だけではなく、
Ustream番組「はたフリちゃんねる〜HataFree?〜」の
パーソナリティーとしてじゅんさい以外の地域情報の発信もしている。
ちなみに、木曜の生放送を見てみたのだが、
やっぱり畠さんはじゅんさいTシャツを着ていた。

じゅんさい摘み採り体験でじゅんさいに親しむ。

畠さんに勧められ、せっかくなのでじゅんさい摘み採り体験をやってみた。
「食べるエメラルド」と称されたじゅんさいの摘み採りは
エメラルドだらけの沼に木の小船で漕ぎだし、
自ら宝を探しに行くようなものだ。
葉影に隠れてなかなか探し出せないじゅんさいを
最初は畠さんに「ここにありますよ」と教えてもらって摘み採る。
発見も難しければ、摘み採りもなかなかうまくいかない。
葉のついている茎とじゅんさいのついている茎の
根元を親指で切り、沼の根っこからまずはじゅんさいを切り離す。
手がぬるぬるして爪が役立たない。
その後、葉のついている茎とじゅんさいを切り落とすのだが
それも慣れている摘み手は“鋼の爪”を親指にはめて片手でぷちぷち切っていく。
「あ〜私も、鋼の爪が欲しいです」
と嘆いたら、畠さんは「鋼の爪を使いこなせるまでが難しいんです」と一言。
摘み手になるには訓練が必要でありました。

じゅんさい摘み採り体験は8月いっぱいまで可能。事前にじゅんさい情報センター(0185-88-8855)に問い合わせを。大人ひとり1800円で採った分は持ち帰りができるようビニールで包んでくれる。黙々と採っていると無の境地に達し、まるで瞑想をしているかのような状態に。ゼリー効果なのか、手がつるつるになるおまけつき!

さて、摘みたてのじゅんさいを持って宿泊する農家民宿へ。
あらかじめ、「じゅんさいを持っていくので鍋にしたい」と
頼んであったのもあり、かなりの量が必要だった。
実は、素人が1時間で採れる量など、ざるの下にたまるくらいしかない。
これでは夕食にじゅんさい鍋を作ってもらうのに足りない、ということで
「じゅんさいの館」で冒頭に出会ったおばちゃんと同じように
ぎゅうぎゅうに生じゅんさいが詰まった袋を購入した。

夕方になるとあんなにあったじゅんさいも売り切れ間近。みんなで採った体験をもとに美味しそうなじゅんさいを目利きしてみようとするも、どれもぷっくり美味しそうでわからない。「小さくて葉が開いていないのがいいんだや〜」と、また、通りがかりのおばちゃんに教えてもらう。

夏に鍋? というと驚く人もいるかもしれないが、
じゅんさい鍋は生じゅんさいの出る時期のお楽しみで、
暑い時期にふーふーいいながら
コラーゲンたっぷりの比内地鶏のスープで
じゅんさい鍋を食べるのが地元ではおなじみなんだそう。
ついでに冷やの生酒も一緒にいただけば、
これはもう、もち肌麗しい秋田美人が生まれる環境はばっちりというわけだ。

食物繊維がたっぷりのゼリーに包まれたじゅんさいの若芽。低カロリーでヘルシーな食材でもある。もちろん、締めはじゅんさいうどんで!

じゅんさいは、つくられる環境が保たれていることで
初めて食卓にのぼる食材だ。
摘み手の顔が想像できるスローフード、と
パンフレットに書いてあったが、まさにその通り。
白神山地と水、里山、摘み手、流通、食べる人という
循環のリズムで、ゆっくりと土地が育まれていく。

宝石のエメラルドの石言葉を調べてみると、
「希望」や「新たな始まり」「喜び」など未来に向かっている意味のものが多い。
食べるエメラルド、三種町のじゅんさいも
まちの未来につながる宝物であり続けますように。

鳥取の魅力再発見でござる! の巻

鳥取の温泉で極楽極楽〜♪でござる!

にんにん! コロカルくんでござる。
コロカルから、旅行の情報・予約サイトの「コロカルトラベル」が公開されたでござる!
第1回は、「鳥取」を大フィーチャーでござる!
今回はコロカルくんが、鳥取県内の3か所の温泉地を紹介するでござる。
温泉で一息ついて、美味しいものを食べて、大自然を満喫して……
最高の休日を鳥取で過ごしてほしいでござる!

三朝温泉(みささおんせん)

開湯850年と歴史ある三朝温泉。
朝を三度迎えると元気になるという言い伝えのあるのでござるよ。
それにはれっきとした理由があって、
三朝温泉の湯は、世界有数のラドン含有量を誇るラジウム温泉で、
そのホルミシス効果によって新陳代謝が活発になり、
免疫力や自然治癒力の向上が期待できるというわけでござる。
驚くことに、三朝町民のがん罹患率は全国平均の約半分なのだとか!
これは鳥取に行ったらぜひ行きたいでござるな〜!
三朝温泉近くの倉吉や三徳山三佛寺にも立ち寄って、
一緒に鳥取の伝統と歴史も体験したいでござる〜

ノスタルジックな風情漂う三朝温泉を一望できる、三朝温泉・万翆楼。

はわい温泉

東郷湖西岸に位置する、水郷の温泉地「はわい温泉」。
湖底から湧き出る温泉のほか、
特産の二十世紀梨をはじめとした果物の産地として知られているのでござる。
周辺には美しい景色が多いので、
無料のレンタサイクルを借りて東郷湖を周遊してみるのも良いでござるな。
夏は、少し北の「ハワイ海水浴場」まで足を伸ばすのもおすすめでござる!
温泉宿「望湖楼」は、湖上にたてられた露天風呂が自慢。
湯殿からの180度パノラマビューは絶景でござる〜
もちろん、加水や加温一切なしの源泉100%掛流しでござるよ。

人気マンガ「名探偵コナン」のワンシーンに登場したこともある、はわい温泉・望湖楼。

皆生温泉(かいけおんせん)

米子市に位置する皆生温泉は、日本海に面した海辺の温泉郷。
「皆、生きる」と書いて“皆生”と読む、なんとも縁起の良い皆生温泉は、
その名の通り、長寿の湯としても有名でござる。
さらに、美肌効果に優れていることがわかり、
女性にとってもうれしい温泉として注目されているのでござるよ。
まさに「ホカホカ、ツルツルの健康と美肌をつくる」温泉でござる!
発見されたのは1900年と比較的新しい温泉地でござるが、
今では30軒の旅館やホテルが立ち並び、山陰最大の規模を誇るのでござる。
おとなり、島根県とも近いので、出雲大社などと併せて行くもよし、
大山の麓でおもいっきり遊ぶもよし。
旅の計画が幅広く楽しくなりそうでござるな♪

洋室と大部屋を除いて、全ての客室がオーシャンビューの、皆生温泉・華水亭。

今年の夏は鳥取へという人は、
ぜひ「コロカルトラベル」で、おすすめスポットをチェックしてほしいでござる!
これからもコロカルは、鳥取の魅力を掘り下げて行くでござるよ〜
それではまた来月〜でござる!

子育てⅡ(ツツ編)

チコリとふたりでいるときのぼくの姿がまわりの目にどう映っているかは微妙なところだ。
年齢のいったお父さんに見えるのか、それとも若めのおジイさんに見えるのか。
つい先日、早島町のアパートの近所をチコリとふたりで歩いていたときのこと。
あいさつをした初老の男性がのっけにこう切り出した。
「わたしにも孫がひとりいましてね」
もしかしたらオジさんにはそんなつもりはなかったかもしれない。
でも、その顔に浮かんだ笑みに、孫の可愛さを知っている
“同士”のような親しみが見え隠れしているように思えて仕方なかった。
その後、その孫の話を少し聞いただけで別れたので、
彼がぼくをどうとらえていたかはいまも謎だ。

こんな書き出しで始めておきながら、
本人、まわりからどう見られているかはさほど気にしていない。
それよりなにより、気になるのはこれからもっと先のこと。
チコリが二十歳のときにぼくは七十が近い。
その年齢で大学や専門学校の学費を払ったり、
仕送りをしたりできるだけの経済力があるのか。
そんな余裕のある自分というのものが、悲しいかなまったく想像できないのだ。
さらに気になるのはチコリが三十のときだ。
ぼくは平均寿命を迎え、生存の確率が五分。
ぼくだけでなくタカコさんもそのとき亡くなっていたら、
そしてチコリがそのとき未婚で家族もいないとしたら
(その可能性がどうも高いような気がしてならない)、
チコリは三十にして天涯孤独の身となってしまう————。
去年のお正月あたりから、
そんな心配が夏の雨雲のようにむくむくとカタチをはっきりさせてきたのだった。
しかし、二十年後の不安はそのままでも、三十年後のそれはいまや完全に払拭された。
去年の11月、次女のツツが誕生したのである。

乳児期のチコリの子育ては九分九厘が早島町のアパートだった。
田園に囲まれたまこと静かな環境で、大切に、大切に育てられたのが長女のチコリだ。
一方、ツツはというと早島町は五割といったところ。
残りの五割は児島元浜町、元浜倉庫が子育ての場となっている。
ぼくのデスクの横に簡易のベビーベッドが設置されたのは今年の3月だった。
元浜倉庫焙煎所のスタートと同時、ツツが生後4か月のときから
彼女の平日の昼の居場所はそこになった。
ツツは実に手のかからない赤ちゃんだった。
あまりにおとなしくて、いるのを忘れることもよくあった。
たまにぐずっても、抱き上げてちょっとあやすと機嫌はなおって、
なんともいえない笑顔を浮かべる。
仕事の邪魔になることはほとんどなかった。
しかし、そんな孝行はスーパーのオープン記念売り出しみたいなもので2か月と続かず、
5月の連休前後から急速に存在感を増すようになった。
静かにひとりでベッドのなかで遊ぶなんてことはまずない。
手足をバタつかせながら奇声をあげているのが普通だ。
抱き上げて膝の上に乗せるといっとき静かになるが、
パソコンに向かって作業しようものなら、
手にしているマウスをとろうとして暴れつづける。
まったく仕事にならないから、立ってあやしながら
事務所の外で焙煎作業にいそしむタカコさんにヘルプの目を向ける。
すぐに目と目が合って「あ、じゃあ代わろうか」という展開は十回に一回もない。
目と目が合っているのに、完全にスルーされることもままある。
正直、そんなときの心情が晴れた日の瀬戸内海のようにピースフルであるわけがない。
でも、我が子を邪魔なんて絶対思いたくないという気持ちも頑としてあるから、
ネガティブな思いをツツに対する愛で駆逐しようという、
そんな悪魔と天使のバトルみたいなことが胸の内で日に何度も展開しているわけだけれど、
結局どっちが勝つということはないし、仕事が進まないことにはまったく変わりがない。

いつになく仕事が進んだと思うと、
次の瞬間にはツツがおとなしくしてくれたおかげだと気づく。
同時に「あまりにおとなしすぎやしないか?」と思って隣のベッドに目をやる。
いない、ツツがそこにいない……。
(ツツ! どこだ、ツツ!)
2秒で発見。ツツは同じ事務所内でパソコンに向かっているユウコさんの膝の上にいる。
眠ってはいないが、ぼくの膝の上にいるときよりも数倍おだやかな表情で。
と、こんなことが元浜倉庫では日に二、三度繰り返されている。
昼間、タカコさんとぼくとの間でパスを回すようにツツを世話しているわけではなく、
実はそこにユウコさんというスーパーボランチがいて、
立派なトライアングル態勢が形成されているのだ。
彼女にはどれだけ助けられているかわからない。
あやしている時間もぼくよりも長いくらい。
しかも、だ。彼女だってあやしている間はデザインの仕事がほとんど進んでいないはずなのに、
誰にヘルプの目を向けるでもなく、
慈愛たっぷりのおだやかな笑顔でツツをあやしてくれるのである。
そんなユウコさんをツツが愛さないわけがなく、
「ツツはオレよりユウコさんの方が好きなんだよね」
というぼくの冗談はまったく冗談に聞こえない。
ここ最近何度かあったのが、
<あ、ツツがいない> → <ベッドにいない>
→ <あれ、ユウコさんのところにもいない>
→ <リュウくんが膝に乗せてパソコンに向かっている!>
というパターンだ。
子どもが3人もいるわりに生活感が希薄で、
子どもをあやしたりしているイメージのないクールなリュウくん。
じっと動かず真顔でパソコンに向かう彼の膝の上で
ツツがぐずぐず暴れているという光景はおなじみになりつつある。
こうして元浜倉庫ではツツを巡る態勢はトライアングルからスクエアへ。
さらにはお昼にほとんど毎日やって来る縫い子のフジタくんも面倒をみてくれるし、
元浜倉庫焙煎所のお客さんまでがコーヒーを飲みながらツツを抱いてあやしていたりする。
この一丸態勢のおかげだと思う。
ツツにはいまのところ人見知りの傾向が見られないでいるし、
これからも人見知りするようになるとは思えない。

昼間母親とマンツーマンで静かに日々を暮らしていたチコリとはあまりに違いすぎる環境に、
ツツに対しては常に申し訳ないという気持ちがある。
眠りたいときに眠れるだけ眠らせてやりたい、
はいはいしたければ疲れて動けなくなるまではいはいさせてやりたい。
それが親の心情だし、チコリにはそれができていたのだ。
だから、ツツには満足な子育てができていないと痛いぐらいに感じていて、
実際ツツに対して「ごめんな」と口に出して毎日何回も謝っていた。
しかし、数年ぶりに会った写真家の友人とチコリの話をしたことをきっかけに、
ぼくの考え方は少し変わってきた。
2週間ほど前のことだ。丸亀にやって来た彼女に家族を連れて会いに行った。
その帰り際、彼女にチコリの日々のわがままや振る舞いのひどさを話し、
「こんな子になるような育て方はしてこなかったんだけどね」とこぼしたときだ。
「そんなの、この子がもって生まれたものに決まってるじゃん」
竹に鉈を入れたような切れ味で彼女はそう言った。
そして、目の前でなにかのエクササイズかのように
両手を大きく振りながら歩くチコリを見ながら、
「手、振って歩きたいもんなあ。元気だよね、チコリは」
と笑いながら言ったのだった。
これだけのやりとりだとなにがなんだかわからないかもしれない。
でも、実際ほぼこれだけのやりとりで、ぼくは目から鱗が落ちるような思いがして、
さらには肩にのしかかっていた20kgぐらいの負荷がすっと消えたのだった。

そのときのやりとりを後に何度も反芻して感じたことを
いまはこんな言葉で表現することができる。

子どもは育てるのではなく育つということ。

親も子どももイーブンで受け入れるということ。

最後に子どもたちの名前について。チコリとかツツとか、
名前に意味がないと思われるかもしれない。
チコリについてはその通りで、響きのもつ愛らしさだけでつけた名前だ。
しかしツツには、父親の切なる願いが託されている。
我が家では母親のタカコさんは「ターちゃん」、チコリは「チーちゃん」。
ツツの名前は「ツーちゃん」の愛称ありきで考えられたというわけだ。
つまりその願いとは、「ター・チー・ツー」の女子3人が長く仲良くいてほしいな、と。
いまのところ3人の関係はすこぶる良好だ。
彼女たち女子3人がキャーキャーはしゃいで、というのは
日に何度もあって我が家ではありきたりな光景になっている。
まさに願ったり叶ったりの絵図が目の前にあるわけだが、
ぼくはというと、その光景を微妙な心的距離をもって眺めている。
女系家族のなかでの父親を絵に描いたような、
嬉しいんだけど一抹の淋しさもないではない、みたいな。
しかし、この一角の溝も「トーちゃん」だから仕方ないか。

ツツに対して「申し訳ない」という気持ちはちょっと薄らいだ。でも、焙煎しているタカコさんの背中でおんぶされているツツを目にすると、やっぱり申し訳なく思ってしまう。そして心のなかでつぶやく。「ツツ、すまん! でも、その分おまえは逞しくなるぞ!」

事務所の簡易ベッドのなかで。ぼくも人並みに親だ、暴れようが大声をあげようがツツがもうかわいくって仕方ない。ちなみに表面でキラキラしているのは畑の野菜用防護ネット。蚊帳代わりにベッドにかけてます。

子育て Ⅰ(チコリ編)

朝に家を出るなり、「(保育園まで)歩いて行きたい」とチコリが言った。
車なら3分、徒歩ならたっぷり15分はかかる。
しかも、車ならそのまま児島の事務所に向かえるが、
徒歩だと一度歩いて家に戻らなければならない。
それでもぼくは「いいよ」と言って、
チコリとふたり、とぼとぼ歩いて保育園に向かった。
周囲の田んぼは田植えを直前に控え、たっぷり水がはられていた。
瀬戸大橋線の線路に沿って走る農道に人の姿はなく、チコリはずっと穏やかだった。
歩調はゆっくりのんびりで、蝶だったり用水のなかの魚だったり、
なにか目についたものがあればすぐに立ち止まる。
ぼくも遅刻を気にしないことにしたら気が楽になって、
一緒に歌を歌ったり、綿毛のついた野草の種子を見つけて飛ばしたり。
なかなかよい時間だった。チコリにとってもぼくにとっても。
毎日とはいかないだろうけど、
ときどきこうしてチコリと歩いて保育園に行くのもいいかなと思った。

最近、どうやって子どもと向き合うかを真剣に考えさせられるできごとがあった。
2週間ほど前のことだ。その夜の食卓でのチコリはまさに悪鬼のようだった。
椅子の上でふんぞりかえって、
片膝を立てたまま何度もフォークを食器にたたきつけたり、
突然ご飯をがつがつとかきこんだかと思うと今度は素手で食べようとしたり。
タカコさんがキツい調子でたしなめても、下からねめあげるようにして、
3歳児とはとても思えない反抗的な目を向ける。
そうかと思うと、突然つぶれたような声で笑いだして、
ぼくとタカコさんに交互に三白眼の目を向ける。
部屋の空気はすさみきって夕飯どころじゃなかった。
普段の振る舞いが決していいわけじゃない。というか、実は結構ひどい。
親の言うことはまず聞かない。やんちゃは度を大きく超えて、
やることなすことハチャメチャである。
でも、そんな振る舞いの根っこのところには
いつも底抜けの明るさやひょうきんさがあって、
だからぼくも始終尻拭いに追われながらも
「ホント、バカだなあ」と言いながら笑っていられる、そんな女の子なのだ。
ところが、どういうわけかその夜は本来の明るさがまったくなかった。

普段、滅多に叱ったりしないというのもあって、
ぼくが「さあ叱りますよ」的なモードに入ると部屋の空気がぴりっとした。
「チコリ、こっちに来なさい!」
毎度のことなのだが、ぼくが少々声を荒げたぐらいでは
そよとも揺らがないのがうちの娘である。
そのときもチコリはこっちを見ようともしなかった。
でも、彼女が座った椅子を力まかせに膝もとに引き寄せると、
いつもとは違うというのを悟ったらしい、まっすぐ視線をぼくに向けた。
しばし無言のにらみ合い。
次の瞬間、タカコさんはぼくの平手が飛ぶと思ったかもしれない。
まだ手らしい手をあげたことがないとはいえ、そうなってもなんら不思議はなかった。
まさにそんな場の空気だった。
しかしぼくがやったのは、その瞬間までぼく自身まったく思ってもいなかったことだった。
目の前のチコリをはしと抱きしめて、「ごめん」と謝ったのだった。

同日夕方のこと。いつもは元浜倉庫を午後5時に出て
早島町にある保育園にお迎えに行くのだが、
その日はタカコさんの焙煎所に遅い来客があり、
倉庫を出たときは5時を大きく回っていた。
雨が降っていたこともあって、あずかってもらえる定時の6時に間に合いそうになかった。
そこでアパートの階下に住んでいる隣人に電話して、
初めてチコリのお迎えをお願いした。
彼女の下の娘さんも同じ保育園に通っていて、
「ついでだから、忙しいときはお迎えに行きますよ」と何度か言われていたのだ。
タカコさんと一緒にまっすぐアパートに戻ると、
チコリたちもちょうど戻って来たばかりらしく、一階の玄関の前で鉢合わせした。
顔を見るなり、ぼくとタカコさんはチコリに「ごめん!」と謝った。
チコリはまったく普段通りで、動揺した様子もなく、
謝られているのがなんのことだかわからないという風だった。
もともと階下の子とは姉妹のように仲がいいし、
お母さんとも昔からの顔なじみだ。
初めてのことではあったけど、さほど気にすることはなかったようだった。
少なくとも、ぼくもタカコさんもそのときはそう思った。

チコリはしばらくぼくの腕のなかで身動きひとつしなかった。
彼女を抱きしめたままぼくはお迎えに行けなかったことをあらためて謝り、
「明日からはなるべく早く迎えに行くから」と約束した。
チコリは回した腕を離した後も、しばらくぼくの膝の上で甘えていた。
そこに悪鬼はもういなかった。チコリに本来の明るさが戻ったのがわかった。

世の中難しいことは山とあって、
ぼくも人並みにいろんな類の難しさを経験しているけれど、
そんないろいろのなかにあって子育てというのは最高に難しいものだとつくづく思う。
その夜はたまたま正解に近いゾーンにたどりつけたかもしれないが、
間違った対応をしていることの方が圧倒的に多いのだ。
普段ゆとりをもって対応できていないというのは理由のひとつだ。
朝は保育園へ連れて行く時間的なリミットがある。
夜は夜で「早く寝させないといけない」という強迫観念のような思いがあるから、
とにかく時間的な余裕がない。精神的にも余裕があるとは言えない。
目の前でやらかしていること、そのあまりのひどさに心の余裕を奪われるのである。
でも、時間と心に余裕がもてたとしても、
子どもの捉え方を間違うとなんにも意味がない。
最近よく感じるのは、子どもとして扱うべきでないときがままあるということ。
ついつい「子どもだから理解できない」という前提で対応していて、
言葉にしてちゃんと説明するとか、理解させようという努力を怠ってしまうのだ。
その夜のチコリの悪鬼のような振る舞いも、
もとは「子どもだから気にならなかった」と、
間違った捉え方をしてしまったがために起こったことだった。
子どもの理解力をなめちゃいけないのだ。
3歳とはいえ、チコリにはすでにぼくと同じか、
あるいはもっと複雑なレイヤーの構造があったりする。
そこのところは刺青を入れるかのごとく、頭の芯の部分に彫り込んでおきたい。

親として自分はどうなのかを考えて自己嫌悪に陥ることがある。
そこそこ自分はできるのではなんて思っていたんだけど、なんか全然ダメなのだ。
チコリのわがままや振る舞いのひどさを見るにつけ、自己採点は厳しくなる。
いまやぼくの点数は0点に限りなく近い。救いはチコリの明るさだ。
彼女が明るさを保てている間は、まあ10点ぐらいはやってもいいかなと。
でも、この10点は死守すべき点数であって、
チコリのあの火を消さないようにしてあげることがぼくの絶対の務めなのだ。
その務めの一環といっていい、
ひとを笑わせるのが大好きなチコリのためにふたりで漫才の練習を始めた。
舞台の袖から出て来るように、小さく手をたたきながら「どうもォ!」。
つづけざまに舞台の中央に立ったつもりで自己紹介。
と、まだここまでの入りの部分しかできていないのだが、
タカコさんのウケは存外にいい。

チコリがモデルデビューを飾った岡山・倉敷シルバー人材センターの募集広告ポスター。2013年秋からハローワーク等の公共施設にお目見えした。チコリは、まあこんな感じの子です。「奈良美智の絵に出てくる女の子にそっくり!」と言われ続けて3年になります。

のみだけで仕上げる井波彫刻の技術力を活かして 後編

伝統彫刻の先を見据え、現代的プロダクトに融合する。

富山県南砺市の井波彫刻は、寺院の修復や、住宅の欄間などを中心に栄えてきた。
しかし伝統彫刻ばかりでは、今後の先細りが予想される。

「技術を残していくためには、伝統的なデザインばかりにこだわっていてはダメです。
しかし私たちだけで新しいデザインを考えるのも難しい。
そこでリバースプロジェクトに力をお借りました」と、
南砺とリバースプロジェクトのコラボ彫刻のきっかけを教えてくれたのは
南砺市産業経済部長の原田 司さん。

「新商品開発と販路拡大がポイント。
売れることが彫刻師を守ることになります」というように、
井波彫刻のすばらしい技術を売れる製品に落とし込むことが至上命題だ。

デザインを担当したリバースプロジェクトのデザイナー、
平社(ひらこそ)直樹さんはいう。
「現代の生活様式に合ったプロダクトに落とし込むべきだと考えました。
ものが廃れずに存在するには、
生活に即した機能を持っているべきだと思うからです」

こうして考え出されたのが照明とお皿だ。
どちらも技術の高さを直接的に目で見て感じることができる。

波打つ細工の上にアクリル板を配して、プレートに仕立てた。食事しながら、同時に彫刻の美しさを堪能できる。

一方では、井波彫刻の伝統に敬意を払い、
現代装飾であるモビールを、古典的な題材を用いてつくる試みにも挑戦した。
それが風神・雷神のモビール。
そもそも風神・雷神ならば、井波彫刻の職人にとってはお手のもの。
しかしモビールに用いるという発想は生まれない。

伝統彫刻の風神雷神はさすがの出来栄え。宙に浮かぶモビールとして、生まれ変わった。

「彫刻師も次のステップに進まないといけません。
ここから先はこちらの話」と原田さんはいう。
リバースプロジェクトとのコラボから得た刺激を、
彫刻師がどう活かし、南砺市がどうバックアップしていくか。

「井波彫刻の職人さんたちは、通常、デザインから下絵、仕上げまで、
すべての工程をひとりで行います。
そんな職人魂に火をつけられるようなアイデアを提案しようと心がけました。
驚きや戸惑いのあるデザインを起こすことで、
慣習から離れ、新しいスタイルが生み出されればという希望をこめたつもりです」
井波彫刻の行く末は、こう語る平社さんの思いともリンクする。

初めて井波彫刻を見たときに「すごい技術だと思った。同時にすごく手間がかかっているので、高くなるのも仕方ないと感じた」という平社さん。

「ものの価値はつくり手が一方的に決めるのではなく、
また市場が一方的に決めるものでもありません。
人々が潜在的に求めているものを探り続ける作業のなかから、
意味のある良いものが生まれます。
今回のプロジェクトでその螺旋階段を一段でも上ることができたのなら
ものづくりに関わる人間として幸せです」

お互いに刺激を与え合うコラボレーションによって、
それぞれのものづくりにフィードバックされていく。
そして井波彫刻もまた、新しいものづくりの地平に進むのだろう。

「風神・雷神の背中を見たことがありますか?」というのが原田さんの売り文句!

コロカルの新連載を紹介でござる! の巻

コロカル春の新連載が目白押しでござる!

にんにん! コロカルくんでござる!
コロカルはこの春、新連載が続々と登場したでござるよ!
もうチェックしてくれたでござるか?
今回は、コロカルくんが注目の新連載を紹介するでござる!
新連載の今後の展開に注目してほしいでござる〜

其の壱 児島元浜町昼下がり

コロカル伝説の連載にして、昨年の秋に惜しまれつつ連載を終了した、
「マチスタ・ラプソディー」の赤星 豊殿が、新連載を始めたでござる!
その名も、「児島元浜町昼下がり」。
ジーンズの名産地・児島に事務所を構えている赤星殿の、
日常を描いたエッセイでござる。
サブや愛娘チコリちゃん、パートナーのタカコ殿の焙煎所の今後も気になるでござるね〜

其の弐 貝印 × colocal これからの「つくる」

「貝印 × コロカル」のシリーズも今年で3シーズン目。
今年度のテーマは「つくる」でござる。
これからの時代の「つくる」を実践する人々や現場を訪ねるのでござる!
毎月第4火曜日の21:00〜22:00は、InterFM(76.1)で、
KAI presents Earth Radio」が放送中でござる!
コロカルで紹介した「つくり手」の方々をお招きして、
リバース・プロジェクトの伊勢谷友介殿と、
ラジオパーソナリティーの谷崎テトラ殿トークするのでござる。
お聞き逃しなくでござる〜!
以上、コロカルくんからの宣伝でござる。

其の参 たびのみ散歩

イラストレーターとして活躍する平尾 香殿のもうひとつの顔、それは「酒好き」。
旅に散歩に、女子がひとりでふらりと立ち寄れる、
各地の粋な飲み屋をご紹介するでござる!
読んでいるとお腹がすいてくる連載でござる〜
コロカルくん、白米持ってお店に通いたくなっちゃうでござる……
その地域におでかけの時にはチェックしてほしい情報でござるね。
月に1度の更新を楽しみにしてほしいでござる!

其の四 セコリプレス

土地の職人とデザイナーをつなげる、セコリ荘が考えるこれからの日本の服づくり。
ファッションキュレーターの宮浦晋哉殿が綴る、
コロカル初のファッション系連載でござる。
まだ連載2回目ながらも、コロカルの人気コンテンツ入りでござる。
セコリ荘は、東京・月島でござる。
イベントも定期的に行っていて、コロカルニュースで紹介しているので、
ぜひ足を運んでほしいでござる!

其の伍 醤油ソムリエール黒島慶子の日本醤油紀行

日本にはたくさんの醤油蔵があるでござる。
土地が変われば醤油も変わるというくらい、
醤油は地域色が色濃く出るでござるね〜
黒島慶子殿は、小豆島の「醤(ひしお)の郷」と呼ばれる地域に生まれ、
蔵人を愛する醤油ソムリエール。
そんな醤油ソムリエールのお眼鏡に適った、
真心こもった醤油造りをする全国の蔵人を訪ねる旅でござる!
もろみの呼吸が聞こえてきそうでござる〜♪

いかがだったでござるか?
なが〜〜く愛される連載にするために、
みなさんのご愛読をよろしくお願い申し上げるでござる〜
それでは、また来月でござる!

元浜倉庫

元浜倉庫のそもそものはじまりは2008年の初夏にさかのぼる。
当時ぼくは児島の同じ元浜町にあった「Womb(ウーム)」という
雑貨屋とカフェが一緒になったお店の2階をひとりで間借りしていた。
文句のつけようのない環境だった。
部屋は東側の壁一面がすべて窓、そこからほぼ180度瀬戸内海が見渡せた。
事務所の什器は店主のマコトくんがすべて売りものから無償で揃えてくれるし、
毎日のように彼の奥さんのマキちゃんがお茶とお菓子を2階にもってきてくれるしで、
いま思い返しても夢のような環境だった。
そんな贅沢を絵に描いたようなぼくのオフィスに、
その夏ひとりの年配の女性がやって来た。
聞くと、一度だけ階下のカフェで言葉を交わしたことがあるという。
いずれにしても初対面同様で、
にも拘らずほとんど前置きすることなくずばり用件を切り出した。
「うちの倉庫を借りてほしいの」
これまで誰にも倉庫を借りたいなんてことは口にしたことがない。
モノに執着のない性格ゆえ、だいたい倉庫が必要であったためしがない。
同年代の日本人男性の平均よりもずっと身軽で生きてきた自負さえある。
その後に継がれた彼女の説明を要約するとこういうことだった。
その倉庫はもともとご主人が営んでいた鉄工所で、
ご主人が亡くなった後つい最近までは水産加工会社が魚の加工工場として使用していた。
現在、その倉庫が空いている状態なのだが、これからは倉庫とか工場ではなく、
地場の若い人たちが集まるような場にならないかと。
「で、なぜにぼくのところに?」
「だって赤星さんのところにはいっぱい人が集まってくるでしょ?」
「そりゃ誤解です、若い人が集まって来るのは下のカフェですよ」
「とにかく一度見てほしいのよ、すぐ近くだから」
後に大家さんとなるこのAさん、
とにかく豪腕で根こそぎさらっていくようなところがある。
そのときもはっきり断っているんだけど、気づくと一緒にその倉庫に向かっていた。
歩いてものの2分、
はたしてぼくが子どものころしょっちゅう遊んでいた港のすぐそばにあった。
外観はかなり年期の入ったスレート造り。
元鉄工所とあって、ゆうに3階建てマンションほどの上背がある。
なかに入るとさらに「ザ・倉庫」で、
ソフトボールの内野がすっぽりおさまりそうなほどのだだっ広い空間があるだけ。
ぼくはその場で再度はっきりお断りした。
「じゃあ鍵だけ預かっておいて」
「はあ?」
「まわりで興味がありそうな人がいたら見せてあげて」
「いや、こんな倉庫を借りたいなんて人はそうそういないですよ」
「いたらでいいのよ」
「いないと思うけどなあ」
「いいの、もってて」
そんなわけでそれから数か月もの間、
その鍵は一度も誰の手に触れられることなく、
オフィスの机の一番上の抽き出しでこんこんと眠りつづけた。

その年の秋、事態は一変する。
唐突にマコト&マキから店の移転を告げられたのである。
そこであの倉庫のことを思い出して————という展開はもう少し先の話。
Wombの移転→事務所の立ち退きはたしかに寝耳に水ではあった。
しかし、実は「もしも事務所を移るなら」と密かに見当をつけていた物件があり、
日頃からよく前を通ることもあって、
ここ2年ほどずっと空き家の状態であることを知っていたのだ。
夫妻から移転を告げられたその夜、早速ぼくはその物件の場所に行き、
窓に貼り出された不動産屋にその場で電話をかけた。
「マクドナルドがある港のすぐ目の前のヤツです、2階の角の部屋。
あれ、明日にもなかを見せてほしいんですけど」
「うわあーっ!」
「……うわ?」
「いやあ、あそこね、ずっと空きだったんですよ」
「空きだった……」
「ホント今日の今日ですよ。話があって、明日にも契約なんです」
その日、2度目の予想だにしない展開。
しかし最初のそれはこの物件がすぐにも借りられる算用があったから、
さも申し訳なさそうに話を切り出したマコトにも
「気にするなよ、それよりいままでありがとうな」
なんて懐の大きさを見せる余裕もあった。
むしろこの2度目の方がショックは大きかった。
真っ暗な港で、ぼくはひとりマックのネオンを眺めながら途方に暮れた。

『スライディング・ドア』という映画がある。
主人公の女性が地下鉄にギリギリ間に合って乗車できた場合とできなかった場合、
そのふた通りのその後の人生を描いている。
とてもユニークな映画なのだが、
まったく異なる人生が待っているというのは容易に察しがつく。
でも、タイミングの違いでその後が大きく変わるというのはままあることだと思う。
夜の港でマックのネオンを見ながら途方に暮れたことを思い出すたび、
この映画のことが頭をよぎる。
マコトが数日早く店の移転を伝えていたら、たぶんいまの元浜倉庫はなかった。
しかしそれよりなにより、
Aさんがあそこまで強引に倉庫に引き合わせるようなことをしなかったら……。
いずれにしても、いくつもの偶然を経て、
元浜倉庫は向こうからぼくのもとに転がり込んできたのである。

そして今年で6年目を迎えた元浜倉庫。
ぼくのパートナーのタカコさんが切り盛りする元浜倉庫焙煎所が春から加わったことにより、
昨年までと倉庫の様子は大きく変わった。
豆売りのショップを構えただけじゃない。
コーヒーの試飲スペースとして倉庫の前にベタなウッドデッキまで作った。
一般の人がちらちら出入りするというのも
これまでにはなかったことだし(カフェと間違えての来店も多い)、
たぶん遊びに来やすいのだ、友人や知り合いが訪ねて来る機会もめっぽう増えた。
「人が集まる場にしてほしい」という大家さんの念願が少しはかなったかもしれない。
それにしても宣伝の類は一切していないのに、この元浜倉庫焙煎所の調子がいい。
当然、店主のタカコさんは気をよくしていて、やる気にも拍車がかかっている。
そんなある日のこと、3歳になる娘のチコリが夜中に熱を出した。
翌朝には幾分か熱は下がったものの、保育園に連れて行けるような状態ではない。
「じゃあ、今日はチコリをよろしくね」
慌ただしい朝の、不用意なぼくのその一言でタカコさんの顔色が変わった。
いや、正確に記述すると変わったのは顔色じゃない。目もとの様相だ。
彼女についてわかってきたことのひとつ。
気に障ることがあると普段は愛らしいたれ目が、瞬間、
クリント・イーストウッドのそれになる。いったんそうなると後悔先にたたず、
地雷を踏んでサヨウナラだ。
「私の仕事って、そんな程度なわけ?」
いやあなたの仕事を軽んじているわけではもちろんなく
今日はたまたま仕事がつまっているからお願いしているのであって
ぼくが空いていればぼくがチコリの面倒をみるし
そのあたり臨機応変に対応していこうよ————。
一気の取り繕いでなんとかことなきをえたが、危険危険、
そこには新しい地雷があるのだ。今後も常にその位置を認識していなければならぬ。

かくして今日もコーヒーの香ばしいにおいが漂い、サブの欠伸を誘うような、
ゆるい時間が流れる元浜倉庫。
しかし、そこにあって当然のように見えるものも、偶然の重なりと、
ひとへの気遣いや思いやりによってもたらされているというお話でした。

Wombとぼくのオフィスがあった元浜町の名物的な建築物。5年ほど空きの状態だったが、この春から新モノ旧モノを扱うお洒落なセレクトショップ「The easy shop」として再生した。オノちゃんという好青年がひとりで切り盛りするナイスなお店です。 倉敷市児島元浜町790-2 電話086-486-1962 12:00〜20:00(金・土は22時まで) 木曜日定休

奥田政行シェフの復興レストラン 「福ケッチァーノ」が、郡山でいよいよ発進。

2011年のあの日、奥田シェフが心に誓ったこと。

以前から卒業生を採用してきた関係で、
「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフは、福島県郡山市にある
「学校法人永和学院 日本調理技術専門学校(日調)」との縁が深い。

2011年3月11日。
東日本大震災の日も、まず最初に救援に向かおうとしたのが福島県だった。
東北の一大事に、同じ東北人としていてもたってもいられない気持ちが
奥田シェフを突き動かす。
ところがあの原発事故のせいで、現地は大混乱。
情報は遮断され、行き着けるのかどうかもわからないまま
今から行くというシェフに対して、
現地の人たちは断らざるをえない状況であったという。
行き先を変え、翌日にはスタッフの家族がいる雄勝町へ。
7日後にはすでに南三陸町での炊き出しを始めていたものの、
福島のことは常に気がかりであり、何とか力になりたかったとシェフは言う。

福島で生まれ育った「日調」の生徒たちは、
地元のレストランに入って修業し、いずれは地元で独立することを夢見ていた。
それが原発事故のせいで、未来がまったく見えない暗闇に
放り投げ出されてしまったのだ。
行き場を失った料理人の卵たちが料理の道をあきらめないで済むように、
奥田シェフは今までは数人だった「日調」の卒業生採用枠を10人ほどに拡大。
「アル・ケッチァーノ」に迎え入れたのだ。
「その時、彼らに約束したんです。
お前らをいつか絶対に福島に帰す。だから頑張れって」

福島の優れた食材の魅力を伝える料理人を育てる。

奥田シェフが「日調」の卒業生をたくさん採用したのは、
雇用の問題を解決するためだけではない。
地元出身の料理人の手で、地元の食材の魅力を伝えるレストランを福島に作る。
そうすることで、生産者も元気になり地域も活性化する。
でもそのためには、食材がどんな自然状況の中で、誰によって
どのように作られているのかを料理人がしっかりと理解することが必要だ。
理解して初めて、その食材の持ち味を最大限に引き出すことができ、
人を感動させるひと皿が生まれる。
それこそが、奥田シェフ自身が今日まで実践し証明してきたこと。
そのことをみんなが「アル・ケッチァーノ」できちんと学び福島に戻れば、
きっと福島の復興にも貢献するに違いない。
そう考えた奥田シェフの頭の中で、構想は着々と進んでいった。

郡山のカリスマ生産者として有名な鈴木光一さんはじめ、
風評被害と戦う真摯な生産者との出会いにより、
次第に明確になっていくコンセプト。
「鈴木さんの作る野菜は、ひとつひとつの細胞が水を抱き込んでいる
すごい野菜。みずみずしさと喉越しの良さが別格です。
この野菜を使えば、郡山にしかないひと皿ができる。
地元の食材を使うことで生産者を応援し、そのことで地域が活性化するという
庄内で『アル・ケッチァーノ』がやったようなことが、
郡山でもできると確信したんです」

「福ケッチァーノ」と名付けられた復興レストラン。

確信はしたものの、実は奥田シェフでさえ
「日調」出身の料理人たちとの約束を果たすのに
最低5年はかかるだろうと思っていたのだという。
それくらい、福島の置かれた状況は厳しかったのだ。
ところが、たくさんの人の多大な努力で、
その約束は意外と早く実現することになる。

2014年3月、「福ケッチァーノ」と名付けられたレストランが始動。
オープンして初めて明らかにされた異例ずくめのその内容は
驚きに満ちたものだった。
まずは、店舗がトレーラーハウスであること。
オープンキッチンにカウンター席のみのトレーラー1台と、
テーブル席のトレーラー1台を、郡山の老舗和菓子店「開成柏谷」の
駐車場スペースに設置。
トレーラーハウスとはいえ、厨房はもちろんプロ仕様。
ナチュラルテイストのインテリアも洒落ていて、中に入ってしまえば
トレーラーハウスであることすら忘れてしまうのではあるが。
それにしても、何故トレーラーハウスにしたのだろう。
その疑問に対する奥田シェフの答えは明解。
「郡山が落ち着いてきたら、もっと必要とされているところに
移動できるように」なのだそうだ。

「福ケッチァーノ」のロゴ。丸いマークの中をよく見ると、「フクケ」の文字がデザインされているのがわかる。

地産地消フレンチで勝負する「福ケッチァーノ」。

そして何よりの驚きは、誰もがイタリアンだと信じて疑わなかった
「福ケッチァーノ」が、蓋を開けてみたらフレンチだったこと。
この理由について奥田シェフは、
「郡山はイタリアン・レストランが多いまちです。福ケッチァーノは
復興レストランなのだから、私がここでイタリアンをやることで
他の店を圧迫してしまったら意味がない。だからイタリアンという
選択肢は、実ははじめからなかったんです」と言う。

フレンチにしたもうひとつの大きな理由は、郡山の食材にある。
「庄内の野菜は個性的で味も濃く、自己主張が激しいんです。
だからソースを絡めてどうにかするよりも、
素材のままをオリーブオイルと塩だけで味わったほうがおいしいんですね。
『アル・ケッチァーノ』の料理にソースがほとんど登場しないのはそれが理由です。
ところが、郡山の鈴木さんが作る野菜はキメが細かく瑞々しくて、
味は濃いけれど変なクセはまったくない。だから、
ソースで野菜の味に表情をつけるという使い方のほうが合っているんです。
それもあって、『福ケッチァーノ』はフレンチ・レストランにしました」

カリスマ農家の鈴木光一さんが、自ら採れたての野菜を持って登場。鈴木さんは、「福島ブランド野菜」と名付けられた、郡山でしか作れない高品質で希少な野菜を開発・生産するグループのリーダーでもある。

鈴木農園の鈴木清美さんから届いたジャンボなめこ。まだ菌床に植わったままの超新鮮なジャンボなめこを前に、奥田シェフはどう料理するか思案中。

厨房で指示を出す奥田シェフ(左)。弟子たちのまなざしはいつも真剣。

シェフはじめスタッフは全員、福島出身の若者たち。

そこで奥田シェフが、料理長に選んだのが中田智之さん。
「日調」を卒業後、都内のフレンチ・レストランで修業を重ね、
いずれは地元の郡山での独立を考えていたというタイミングでの抜擢だ。
30歳という若さながら、奥田シェフの目にかなった実力は確か。
「福ケッチァーノ」では、すました高級フレンチではなく、
気取らずカジュアルに楽しめる家庭料理的なフレンチをやっていきたいと言う。
「郡山でフレンチっていうと、みんなスーツを着て来ちゃうけれど
まずそこから変えたいですね。普段着でわいわい楽しめる店にしたいです。
福島の食材には素晴らしいものがたくさんあっておいしいんだということを、
福島の人自身があまり知らないんです。だから、まずは郡山の人たちに
食べてもらって、地元の食材に自信をもってもらいたいんです」

ファン急増中のイケメンシェフ、中田智之さん。

中田シェフを支えるキッチンスタッフは他に4人。
もちろん日調出身で、中田シェフを含む全員が
「アル・ケッチァーノ」でみっちりと修業をつんできた若き料理人たちだ。
奥田シェフに地産地消の哲学をしっかりと叩き込まれ、
生産者との関わり方を学んできた。

中田シェフ(右)も後輩の指導に忙しい。

店長は22歳の横田真澄さん。彼は、「アル・ケッチァーノ」に入って以来、
奥田シェフが新しいプロジェクトを手がけるたびに、
そこのスタッフや責任者として赴任し、全国で経験を重ねてきた強者だ。

オープンキッチンとカウンター13席のトレーラー。もうひとつのトレーラーはテーブル18席。

店長の横田真澄さん。笑顔が魅力的な22歳。福島に帰って来られて本当に嬉しいと言う。

20歳の横田麻紀さんなど、サービス担当もみんな郡山出身で日調の卒業生。
スタッフは全員若い。そして、これからの福島を
自分たちの手で再建していくという目的を胸に秘めている。

サービス担当の横田麻紀さん。ここで店の運営を覚え、将来は自分の店を持つという夢がある。

「福ケッチァーノ」お披露目ディナーで供された料理の数々。

白菜の乳酸菌サラダとメヒカリのフリット

鈴木農場の白菜を塩揉みししばらく置いて乳酸菌発酵させたものと、生の白菜を合わせることで酸味、塩味と、異なる食感が口の中で楽しめる。フリットしたメヒカリの皮の部分には白菜系の香りがあるため、相性も抜群。いわき市名産のメヒカリは、今回は高知から。

福島牛のソテー、鈴木農園のジャンボなめこのソース

鈴木農園のなめこは濃厚な味わい。よく茹でて炒めとろみをしっかりと出したもの、さっと茹でたもの、生のものと、3通りの調理法をほどこしたなめこを合わせている。そうすることでなめこにより一層コクが出て、牛肉を引き立てるソースの役割を果たす。

白貝と豆麩のヘルシーカツレツと春菊

福島の伝統食材である豆麩を揚げてカツレツ風に。相馬でよく採れていた白貝を北海道から取り寄せ、鈴木農場の春菊と合わせて。

サーモンマリネ 会津の山塩 鈴木農場のほうれん草 アボカドオイル

たんぱく質が固まるか固まらないかの温度43℃で火入れしたサーモンは、しっとりねっとりと艶っぽい味わい。みずみずしく甘みが強い鈴木農場のほうれん草を合わせて。真空にして135℃で圧力をかけて柔らかくしたサーモンの骨がアクセントに。

曲がりねぎのシェリーヴィネガーマリネ

驚くほど甘みがある鈴木農園の曲がりねぎは火を通すとさらに甘みが増す。茹でて温かいうちにシェリーヴィネガーでマリネ。冷めていくに従い、ねぎの甘みとヴィネガーの酸味が調和していく。

通常ディナーはボリュームたっぷりでリーズナブル。

平目のカルパッチョ、塩昆布とトマト

震災前は相馬でたくさん獲れた平目と、福島が東北一の生産量を誇るトマト。グルタミン産が豊富な食材の組み合わせは間違いなし。プリフィクスコースの前菜のひとつ。

ふるや農園の放牧豚のコンフィと鈴木農場のカラフル人参

里山を走り回りストレス知らずで育った、ふるや農園の放牧豚をコンフィに。噛むほどに肉の旨味が滲み出る。甘みたっぷりの人参も美味。プリフィクスコースのメインのひとつ。

柏屋さんの薄皮饅頭のパイ包み、わさびのソルベ添え

郡山の老舗和菓子店を代表するお菓子をアレンジ。あんことわさびが不思議にマッチしている。プリフィクスコースのデザートのひとつ。

「福ケッチァーノ」と私たちができること。

ただし、まだまだ解決していない厳しい現実はある。
「おいしいとか、復興も大事だけれど、一番大事なのは安心安全な食材を
提供すること。料理人にはその責任があります。食材は徹底的に検査をして、
安全が確認できれば使うし、そうでなければ使わない」という奥田シェフ。
ことごとく放射能物質が不検出である鈴木さんの野菜や
安全性が確認された肉はいいけれど、
魚介類や、生産地によってはまだまだ不安を覚える人がいるのも事実。
だから、今のところミネラルウォーターは全部庄内から運び、
魚はメヒカリのように昔から福島で食べられていた、
“福島のソウルフード”的な魚種を全国から調達して提供する。
そうすることで、安心安全を提供しつつ、
福島の食文化が途絶えないような工夫もし続けているのだ。

そんな中で若いスタッフたちは、
真剣に福島のことを考え、復興へ向けて動きだしている。
大勢の人が「福ケッチァーノ」に足を運び、
たとえば鈴木さんをはじめとする生産者たちの作る野菜のおいしさを知り、
それを買ったり人に勧めたりすることが、
福島が元気を取り戻す力を微力でもサポートすることにつながる。

左から、中田智之シェフ、奥田政行シェフ、横田真澄さん。

前列左から、「福ケッチァーノ」オープン最大の貢献者である、日調の理事でフランス料理主任教員でもある鹿野正道先生、鈴木農園の鈴木清美さん、奥田政行シェフ、鈴木農場の鈴木光一さん。後列は「福ケッチァーノ」のスタッフたち。

Information


map

福ケッチァーノ

住所 福島県郡山市朝日1-14-1
TEL 024-983-3129
営業時間 ランチ 11:30~14:00 LO、ディナー 18:00~22:00(コース 20:30 LO)
水曜休
ランチ 1500円(日替わり)、2929円(コース)
ディナー 3800円~(プリフィックスコース)、7500円~(おまかせコース)
http://fukuchecciano.jp/

鈴木農場

住所 福島県郡山市大槻町字北寺18
TEL 024-951-1814
http://suzukiitou.main.jp

鈴木農園

住所 福島県郡山市田村町大供字向173
TEL 024-955-4457
http://www.jumbo-nameko.co.jp

学校法人永和学院 日本調理技術専門学校

住所 福島県郡山市安積4-229
TEL 024-946-8600
http://www.nitcho.com/

のみだけで仕上げる井波彫刻の技術力を活かして 前編

200本の“のみ”を使いわけて生み出す伝統的技術。

富山県南砺市の井波は、木彫で有名だ。
その起源は真宗大谷派 井波別院 瑞泉寺にある。
瑞泉寺は一向一揆の中心的存在であった寺院。
過去に1581年、1762年、1879年と3回も火災にあっているが、
そのたびに再建されてきた。
2回目の火災ののち、当時の加賀藩は、
京都の本願寺から本山お抱えであった御用彫刻師の前川三四郎など、
10名の宮大工を呼び寄せて再建にあたった。
そうして彼らの指導のもとに再建を進めていった地元・井波の大工たちが、
井波彫刻の礎といえる。

井波の大工である番匠屋九代 田村七左衛門が、
名作といわれる勅使門の「獅子の子落とし」を生み出すなど、
京都から伝わった伝統的な寺院建築・彫刻の優れた技術を、
井波の大工たちが磨き上げ、
現在にまでつながる井波彫刻となっていったのである。
木材がたくさん採れた土地であるわけでもなく、
技術のみが純粋に高まっていった特殊な例といえる。

井波彫刻の特徴は、のみひとつで仕上げることだ。ペーパーも使わない。
しかし200本ほどののみを使う。
使う場所や用途によって、数々ののみがあり、必要に応じて増えていく。
弟子に入ったばかりのころは数本しか持っていないというが、
ベテランになるほどたくさんののみを所有していくことになる。

独特の形ののみ。それぞれにきちんとした役割がある。

「ちょっとした違いですが、のみの数はどんどん増えていきます。
刃先を長くしたり、角を落とした平のみにしたり」というのは、
井波彫刻協同組合の理事長である高桑良昭さん。

井波彫刻のなかでも最も古い工房のひとつ、
南部白雲木彫刻工房の3代目南部白雲さんの工房にお邪魔すると、
4つも5つもある箪笥の引き出しのなかは、すべてのみだった。
湾曲したものや先が細くなったものなど、見たことのないのみがたくさん並ぶ。
井波彫刻の高い技術は、多種多様なのみを使いこなすことで成り立つのだ。

南部白雲さんの工房。目の前に並んだたくさんののみはもちろんすべて使うもの。

仏閣から端を発したが、時代の流れとともに住宅にも採用されるようになった。
特にその繊細な技術を遺憾なく発揮した欄間はすばらしい。
井波彫刻の欄間は絵柄が立体的で、鶴や龍や花が飛び出している。
職人の頭の中は3Dなのだ。
だからこそ、たった1枚の写真からでも図面を起こして復元することができるという。

しかし近年では日本家屋も減り、欄間の需要も減ってきている。
現在は名古屋城に復元される本丸御殿の唐狭間(からさま)に取りかかっている。
祭りの山車や文化財の修復などでも、井波彫刻は重宝されているのだ。

たとえ技術の優れた職人がいても、
ひとりやふたりでは到底できない作業量になることもある。
そうすると仕上げるのに膨大な時間がかかってしまう。
しかし井波には親方彫刻師だけでも100人、総勢200人の彫刻師がいる。
大きな仕事は井波彫刻協同組合が預かり、みんなで取りかかることもできる。

瑞泉寺の再建をきっかけに井波彫刻が生まれてから約250年経っても、
200人の彫刻師が、井波という地に残っていることは大きな強みだ。
彼らが質の高い仕事をすることで、
欄間や山車の一大産地としての矜持を保っている。

次回は井波彫刻とリバース・プロジェクトがコラボレーションした
商品のストーリーを紹介する。

引き出しのなかはのみがズラリ。

増田の内蔵 後編

家を守り、蔵を守る

秋田県横手市増田町の目抜き通りとなる、中七日町通りに建つ内蔵群を訪ねる旅。
次に伺ったのは、増田の内蔵の中で最も特徴的な内蔵を持つとされている佐藤又六家だ。
佐藤家は、この中七日通りで約350年にも渡り、連綿と続く商家で、
当主となる佐藤又六さんは現在で13代目となる。
幕末から明治前期に建てられたとされる蔵はふたつあり、
ひとつは主屋(明治前期)で、店舗と住居を兼ねている。
もうひとつは、文庫蔵(幕末から明治前期)で、
昭和初期頃には、家族の部屋として利用するために座敷間に改造された経緯を持つ。

佐藤又六家の外観。一見すると切妻の木造家屋だが、内部は店舗スペースから土蔵づくりとなっている。

これらふたつの蔵が奥行き120mの敷地に対し60mに渡ってつながり、
それを巨大な鞘建物ですっぽりと覆う様はまさに圧巻の姿だ。
手斧刻みの梁や桁がダイナミックに走る構造体、
華美には走らず明治建築の質実剛健さを伝える意匠。
そのひとつひとつが長い時のなかで一体となり、
内蔵空間にどっしりとした深みをもたらしている。
佐藤家の内蔵の特徴のひとつは、主屋を含む店蔵で、
一般的な増田の内蔵が敷地の奥に位置するのに対し、佐藤家の場合は、
店蔵という役割を持つため通りに面するかたちで建てられている。
そのため、鞘建物の2階正面の開口部からは、土蔵の妻壁が顔をのぞかせる。
建物が入れ子状態になっているようにも見えるこの様式は、
増田地区で唯一のものだという。

2階正面には縁側的なスペースがあり、内蔵の壁が顔をのぞかせる。

店舗と住居部をなす内蔵も黒漆喰で仕上げられていた。

店舗の奥に入ると、そこは座敷のある生活空間。まさに内蔵での生活がそこにある。

13代当主の佐藤又六さんによると、こうしたつくりになったのは、
大火による延焼を食い止める役割があったからだという。
「幕末から明治にかけて、ほかのまちと同様、
増田でも幾度か大火があったようです。
火事が出たときに木造家屋だと簡単に燃え移っていく。
そのため、土蔵で遮るという目的があって、
こうした建築様式がとられたようです」
かつて佐藤又六家は味噌醤油販売を営んでおり、
増田一の販売高を有した時期もあった。
増田銀行開設期はその発足にも関わるなど、
増田町に大きな影響をもたらす商家だった。
大火被害を軽減するための蔵づくりは、
増田における佐藤又六家の存在の大きさを今に伝えるもののひとつなのだ。

店蔵の奥に進むと、又六さんが「外蔵」と呼ぶ文庫蔵が現れる。

文庫蔵の内部。昭和期に生活空間として使用するために改修された。

明治期に蔵の前で撮られた写真。家族の記憶のひとつ。

現在、佐藤又六さんは、カメラ店を営んでいる。
先代は雑貨店を営んでいたが、写真好きが高じて、
代替わりのタイミングに商いを変えた。
その際、どうしても蔵をカメラ店として改修しなければならず、
又六さんは、先代にその内容を申し出た。
「当然、反対されました。蔵に手を入れるものじゃないって。
蔵は守るものだって。だから願いでたんです。
いつか絶対元通りにするから、手を入れさせて欲しいと」
又六さんは先代にこの約束を取り付け、どうにか店舗の改修を始めた。
どうにかというのは、改修着工日になって突然、先代が怒り出し、
改修を止めろと大騒ぎする一幕もあったからだ。
「いよいよとなると、急に不安になったのかもしれません。
父は、本当に蔵を大切にしていましたからね」

店蔵の座敷の差鴨居には、先祖の肖像が並ぶ。店蔵を建てたのは8代目又六だった。

佐藤家13代目の当主となる佐藤又六さん。「蔵を守るのは当然のこと」と語る。

改修工事も無事に終了した後に念願だったカメラ店を開き、
今日まで営業を続けてきた又六さんが先代との約束を果たしたのは、
数年前のこと。
「私も年老いて、カメラ店の忙しさも一段落した。
そうしたら、父親との約束を守らなきゃと思い立って、
元に戻す計画を立てたんです。父はすでに亡くなっていましたが、
こうして元と同じ蔵構えに戻せてよかったって、心底思っているんですよ」と笑った。
こんな話を伺っていると、
若い女性が就職活動用の証明写真を撮って欲しいと、お店にやってきた。
又六さんは慣れた手つきでカメラをセットし、丁寧にシャッターを押していく。
現像、仕上げまでの間、又六さんは、女性にひと言、
「奥に古い蔵があるんですよ。
写真が出来上がるまで、ご覧になったらどうですか」と見学を勧めた。
又六さんのこの言葉によって、女性は立ち上がり、光が差す店内から、
ひんやりと澄んだ闇が占める蔵のほうへと消えて行った。
「今はもう、こんな風にのんびりね、蔵と一緒に暮らしているんですよ」
と笑う又六さんの柔和な表情が印象的だった。

明治の頃とほとんど変わりないという横座。主人が座る場所だった。

蔵の2階は客間として利用したほか、結納など家族の大切な場所として使用されてきた。

又六さんにとって、この内蔵とはどういう意味があるのだろうか。
山中家で、蔵が家族の生き死にを見守る場所だということを知った僕は
率直に問いを投げかけた。
又六さんから返ってきたのは、
「そうですね、家を守る象徴でしょうか」というひと言だった。

又六さんの日常は、カメラ店を営む店舗スペース。ここでゆったりとした時間を過ごす。

「家を守る」。普通に日常のなかで聞く言葉だが、
僕にとってはその真意をつかみかねるものである。
祖父母のいない核家族で、しかも両親のルーツとはまるで関係のない
新興住宅地で育ったことに起因しているかもしれないが、
「家」はどこか遠いものだ。
田を埋め立てて造成したどこにでもある住宅地の
どこにでもあるような我が家には、仏壇もないし、
周囲には深い闇を宿すような寺や神社もなかった。
寄せ集めの人間たちが新たにつくり出す祭りもどこか空々しく、
子どもの目から見ても、下手な芝居のようだった。
そんな人間にとって、多くの人が語る
「家を守る」、「家を継ぐ」という言葉は、わからないものだった。
家や土地に関するもので守り続けたいものなど、どこにもないからだ。
その証拠に、最近、関西にある実家が引っ越しすることになり、
自分が育った実家は人の手に移ったのだが、
正直なところ、何の感傷もわかなかった。
15年前に岩手の片田舎に移住して、
土地に残る伝統や文化を大切にする暮らしをたくさん経験した。
どれも素晴らしいことだと感じてきた。
けれど、「家を守る」ことの「わからなさ」は
自分の中にはっきりと在り続けていると感じている。
だから、「奥山さんは、家を守るってことがわかりますか」という
又六さんの問いには窮するしかなかった。
また、今では恥ずかしいことだと思っているが、
両親の実家が遠方にあったこともあり、
僕は一度も両親の実家の墓と呼べるものを訪れたことがなかった。
簡単な話、自分のルーツと呼べるものに触れずに生きてきた。
でも、だからこそと言えるのだが、
おそらくルーツとしての「家」や「先祖」を持たない人間しか持つことができない
自由さも感じている。
自分は、どこにでも住めるし、
生きていける自由さのなかにいることを感じることができる。
「家」なんてものはかたちでしかない。
かたちあるものはすべて壊れ、消える運命にあるもので、
そこに今を生きる人間が自らの存在を投入するのは、
少しばかりおかしなことではないか。
良いとか悪いとは別にして、そんな風に僕は感じて生きてきた。

佐藤家の内蔵には、ここにしかない時間が流れる。

又六さんは続けた。
「家を守るって言っても、修繕したりね、
親父との約束を守って、元通りにしたり、そういう役割もありますが、
それは目に見えることにすぎません。
じゃあ、何が大切かというと、簡単に言うと、先祖を供養する、
ずっと続いている家族の歴史を大切にするってことなんですよ」
そういって、佐藤さんは、仏壇に置かれた過去帳を見せてくれた。
「ここには、先祖の名前が50人、記されているんです。
そのひとりひとりを知るわけではありませんが、
私もここに続くわけで、そういう流れの中にあるってことを、
子どもらはもちろん、孫たち皆で大切にしていきたいと思っているんです」
その言葉通り、佐藤さんは、ご先祖の法要を営む際には、
親類縁者に広く呼びかけ、
子どもから大人まで年齢を問わずにみんなで役割分担しながら法要を営むという。
「そうしているうちにね、孫のひとりが、自分が次にこの蔵を守っていく、
なんて元気いっぱいに言い出して。
先のことはわかりませんが、まあ、私の家を守るという役割としては、
こういうことなのかなって最近感じているんですよ」
と言って又六さんは、親類縁者が蔵にある仏壇の前で手を合わせる姿を捉えた
法要時の写真も見せてくれた。
それは、間違いなく、見えない何かに結ばれた人のつながりで、
僕や僕の両親がつくってこなかった世界だった。

佐藤家に残る過去帳。先祖代々の名がここに記されている。

ふと、こうしたつながりを持つことで
人は自分自身という存在を認めていけるのではないかと感じた。
自分は自分以外誰ものではない。
そんなことは当然で、誰もが自分は自分だと思って日々を生きている。
でも、そんな自分なんてものは、
ときに手に負えないモンスターのようなものでもあり、
その存在を心底認められるかとなると少しばかり難しいと思う。
その結果、自分の存在、自分が存在する意味を見出せなくなってしまう。
その深みに落ち込んだ際の生きづらさ。
僕自身も若い時に人並みに経験したことだった。
でも、もしそのとき、自分へとつながる多くの人のこと、
その人たちが何を思って生き、そして死んでいったか、
少しでもリアリティーを持って想像できたとしたらどうだっただろうか。
顔のディティールまでは想像できないにせよ、祖父母たちや両親から、
さらにその祖父母や両親たちの生きたエピソードを聞けたらどうだっただろうか。
自分が存在すること、存在していってよいということを、
そんなことを自然と後押しされるのではないだろうか。
自分を認め、人間のつながりに不思議な安心感を得られたのではないだろうか。
その安心感は、もしかしたら「家」を知らぬ者が持つ自由さとはまた違った
生きることの自由さを生み出しはしないだろうか。

神棚と仏壇が見える座敷。法要や親類の集まりはこの場所で行う。

増田の内蔵を訪ね、感じたこと。
それは、山中家にしろ、佐藤家にしろ、「家」という存在の大きさと意味だった。
今僕にとっては、「家」はどこか抽象的で不思議なものだった。
個人的に「家」というものに希薄な意識で育ったということが影響しているだろうが、
たぶん、わからなさの本当の源は、「家」というもののなかで
当たり前のものになっている、人と人のつながりに不思議さや不安さを
感じてきたのかもしれない。
でも、考えてみると結局のところは、人と人のつながりとは、
どこを切り取っても不思議な縁に彩られていて、
同時に、か細い糸のようなものでもある。
増田の内蔵とは、人と人がつながっていく縁の不思議さや弱さに、
少しばかりの確かさと強さを与えてくれるような存在に思えた。

内蔵の存在は、僕たちに家族について、家について、静かに語ってくれるようだ。

先人たちが何を思い生きていたか。内蔵への旅は、そんなことを考える時間でもある。

増田のまちなみ。内蔵とそれぞれの家族の歴史がこのまちの佇まいをつくりだしている。

港にて

児島の桜が満開を迎えたその翌週の、とある日の昼下がり。
サブの餌を買いに行ったホームセンターからの帰りみちに、
そのおばあちゃんの姿を見た。港に沿った側道に入ったところ、
すぐ横の歩道を歩いていた。
歳の頃は八十代半ばか後半あたりか、
腰は曲がりきって歩くのもつらそうだった。
目と目が合った。こっちは車の運転中なわけだから
次の瞬間にも視線が離れようものだけれど、
このおばあちゃんの視線がやけに絡みついてくる。
おまけにぼくの車が横を通り過ぎると足を止め、
振り返るようにして粘っこくこっちを見つめている。————おばあちゃんの圧勝。
敗者のぼくはすぐ脇の港に車を停めた。ため息のひとつもついたと思う。
元浜倉庫は目と鼻の先だった。

おばあちゃんは立ち止まってぼくを待っていた。
細かな柄の入った薄いグレイのブラウスに無地のグレイのパンツといういでたち。
やわらかそうな白い布のバッグを手にして、
足もとは白のソックスに黒の革靴をはいていた。
「おばあちゃん、送っていきましょうか」
「すいませんな、お願いします」
聞くと、実家に帰る途中だと言う。
耳をかすめたことのある児島の地名を口にした。
現在の住所表記では使われていない古い呼び名だというのはわかる。
でも、こっちのブランクの長いぼくにはどのあたりなのか見当がつかなかった。
「琴浦の方ですかね?」
「いや、そこまで行かん。もっとこっちじゃ」
「どこだろう? 実家の近くにお店とか目印になるようなものがありますか?」
「酒屋のキシダがあるわ」
「キシダ……ほかになんかないですか?」
「キシダんとこの路地を入ったらすぐなんじゃけどな」
もう少し話してみたがらちがあかなかった。
携帯電話で検索してというわけにもいかない。
ぼくの携帯はネットにはつながっていないのだ。
と、そのときひらめくように頭に浮かんだのが、
児島にある大手学生服製造会社の総務部長Kさん。
とにかく物知りで、しかも児島の地の人である。
この際クライアントだろうが四の五の言ってられない。
迷うことなく携帯を鳴らした。Kさん、つかぬことをうかがいますが。
「そりゃあのへんじゃがな、
酒屋はあそこんとこの角のがそうじゃ……かどかどかどかど……そうそうそうそう!」
一切理由を聞くことなく、短い挨拶だけしてKさんは電話を切った。
こうして無理そうに思えた絶壁を記録的なタイムで踏破した後、
おばあちゃんとつかの間のドライブ。
その間の会話から、おばあちゃんがいま向かっている先のあたりで生まれ育ち、
ずいぶん昔に、児島の漁師町のひとつで、
元浜町からもほど近い漁師町の大畠(おばたけ)に嫁いで行ったことなどがわかった。
「実家にはいま誰が住んでるんですか?」
「おじいさんやばあさんがな」
「長生きの家系ですね。ところでおばあちゃんはおいくつなんですか?」
「ううん、なんぼじゃったかな。まだ三十にはならん思うけどな」
「結構若いな、ははは………」
そのとき初めてだった。
ぼくの頭のなかに「痴ほう」とか「徘徊」という熟語が漂いはじめたのは。
でも、隣にいるこのおばあちゃんがボケているようには到底見えなかった。
耳は普通に聞こえているし、身なりも清潔でちゃんとしている。
少々ピントがズレてはいるけど、なにより会話のキャッチボールが成立している。
ぼくの母よりも年齢はほんの少し上だと思う。
でも、母との間ではこんなやりとりはもう何年も前からできなくなっていた。

母が脳梗塞で病院に運ばれたのは2004年の9月末だった。
後遺症は右半身の麻痺と言語障害。
それだけだったら回復もいくらか望めたろうし、
気持ちもどれだけ楽だったかしれない。
決定的な痛打となったのは2か月後に発症したうつ病だった。
それからの苦労はなかなか言葉で表せるものじゃない
(その苦労のほとんどは父が背負った)。
あれから10年になる。施設の類には絶対に入れないという父の意志で、
これまで母を自宅で介護してきた。
でも、この一年ほどで主たる介護者である父の老いが急速に進んだ。
激しく腰が曲がり、体重も10キロほど落ちた。さすがに限界だった。
今年の正月を明けてすぐ、月曜から金曜までの平日の間、
母を介護施設へ預けることにした。
ところがその後の週末だけの家の滞在も父には負担が大きかった。
4月になってすぐ、父は力のない声でぼくにこう言った。
「お母さんの、土日も通しで預かってもらうことにしたけん」
こうして週を明けての月曜朝、
母はいつものように送迎の車に乗せられ施設へと行った。
この元浜の家に戻ることはないかもしれないと理解できないまま。

酒屋の駐車場に車を停めた。
駐車場のすぐ横に、入り口をつい見落としてしまいそうな細い路地がある。
実際、見落とした。
その次の路地に入って狭い道をさんざんぐるぐるした挙げ句、
ここに引き返してきたのだった。
「おばあちゃん、この路地でいいのかな?」
「ああ、うーん、どうかな。そうじゃろうかな」
いまひとつはっきりとしない。
ぼくはおばあちゃんに車で待つように言い残して、
ひとりで歩いて路地に入った。路地はほどなくして右に折れ、
すぐの右手に平屋の一軒家があった。
さらに進むと急なこう配になっており、のぼり口の左手に木造の古い廃屋があった。
その右手には未舗装の駐車場があって、奥に白いモルタルの一軒家がある。
視界にある家はそれだけで、
路地のこの先に家がどれだけあるかはこう配を上ってみないとわからなかった。
そのとき、買い物袋を手に下げた女性が路地をこちらに向かってきた。
ぼくはすぐに声をかけ、おばあちゃんから聞いていた旧姓を彼女に伝えた。
このあたりの集落に思い当たる家はないようだった。
理由を聞かれたので簡単に経緯を説明したところ、
彼女はさも申し訳なさそうな顔で「警察に行かれた方がいいですよ」と言った。
ぼくはお礼を言って、まっすぐ酒屋の駐車場に戻った。
車のドアを開ける瞬間まで、彼女に言われた通りそのまま警察に行くつもりでいた。
ここで切り上げても、「もうやることはやった」と自分で納得できる。
ところが、おばあちゃんのしわだらけの顔を見て、どういうわけか気が変わった。
「ちょっと降りて歩いてみましょうか?」
しばらくおばあちゃんと手をつないで路地を歩いた。
ぼんやりしたおばあちゃんの反応からは、この路地が正しいのかどうかはわからない。
歩いていても、のどの奥の方からかすれたような乾いた音が漏れるだけだった。
急なこう配にさしかかったあたりで、おばあちゃんが口を開いた。
「そこんとこがな、昔はうちの工場じゃったんじゃ」
そう言って左手にある廃屋を指した。
そしてぼくの先に立ち、これまでの足どりが嘘のようにすたすたと歩いた。
向かう先は右手に見える白いモルタルの二階建ての家。
家のなかでゴールデンレトリバーが窓のガラス越しにこっちを向いて吠えつづけている。
おばあちゃんはおかまいなしでまっすぐ玄関に向かって歩いた。
赤の他人であればすでに完全な住居侵入だ。
ぼくはやきもきしながら金魚の糞の体でおばあちゃんの後ろを歩いた。
てっきりその家に入るのかと思いきや、おばあちゃんは玄関先をかすめ、
迷いのない足どりでさらに敷地のその奥へと足を進めた。
そこにこつ然と、屋根の低いプレハブ小屋が姿を現した。
ドアの上に木の表札があった。
そこに人名はなく、筆で書いた文字で「河童ビリヤード」。
おばあちゃんは迷わずドアの把手に手を伸ばした。
……ビリヤード場? かっぱ……? わけがわからなかった。頭がクラクラした。
しびれたような頭のなかで、いろんなものが音をたてて回っていた。

ドアまわりの長く打ち捨てられたような雰囲気のせいで、
鍵がかかって開くわけがないと思ったドアは存外にするりと開いた。
おばあちゃんはその奥へと入っていった。
背中越しに室内をのぞいてみる。カビの匂いがつんと鼻をついた。
目に飛び込んできたのは、ブルーシートに覆われた大きなテーブルのような台。
サイズといい高さといい、ビリヤード台であるのは間違いない。
左手に1台、建物の奥に向かって3台が縦に並んでいた。
その板壁には炭のように黒々としたキューが何本もたてかけられている。
長く稼働していないというだけで、紛うことなくビリヤード場だった。
紛うことのないビリヤード場ではあるんだけど、
ぼくにはこの世界のどこでもない場所に足を踏み入れたような感覚があった。
 おばあちゃんが向かっているすぐ先で、突然黒っぽい塊が動いた。おばあちゃんの向こうでおばあちゃんが振り向いた。
齢九十超えはかたい大おばあちゃんがいた。
ふたりは一瞬顔を見合わせた後、大おばあちゃんが
「あんた、どうやって来たん?」
「うん? 乗してきてもろうたんじゃ」
小おばあちゃんがそう言ってぼくの方を振り向く。
ああ、どうもとぼくは挨拶したが、大おばあちゃんはぼくの方をまったく見なかった。
「おじいさんはどうしたん? どこにおるん?」
「はあ? なにゆうとん? おじいさん、おらんよ」
「おらんの? 死んだん?」
「死んだ。二十三年(おそらく平成23年のこと)」
「そうかな……そうかな」
言いながら、小おばあちゃんはそこにあったソファに腰を下ろした。
「あんた、ここにおってもろうても困るよ。
わたしゃこれから降りるんじゃから。乗して帰ってもらい」
「ああ、そうな……」

結局、ものの5分といなかった。
そこがおばあちゃんの実家だったとすれば、なんとも滞在時間の短い里帰りだった。
ぼくたちはその魅惑的なビリヤード場を出て、駐車場で大おばあちゃんに別れを告げた。
小おばあちゃんは終始素っ気ない感じで、振り向きもせず路地をすたすたと降りて行く。
大おばあちゃんはぼくに「申し訳ないね、すまないね」と最後まで繰り返していた。

さて、帰りもすんなりとはいくはずもない。
まず大畠というエリアはわかっているが詳しい住所がわからない。
近隣の知り合いに電話したりしてのすったもんだは省略して、結果からいうと、
すべてはおばあちゃんの手に下げた白い袋のなかにあった。
住所だけでなく電話番号まで記した名札のようなものが入っていたのである。
そしてその住所は大畠ではなく、なんと元浜町、元浜倉庫があるエリアである。
電話にはおじいちゃんが出た。すぐに迎えに行くと言う。
ぼくも元浜町に帰る旨を伝え、
元浜エリア最強のランドマーク「大たこ」の前で落ち合う約束をした。

 

はたして、夕陽に染まった大たこの前におじいちゃん本人がいた。
息子の嫁とか娘とかでなく。おじいちゃんも齢は80代半ばあたり。
白髪あたまはぼさぼさ、しかし浅黒い顔に
よれた感じの薄いブルーのブルゾンがやけにしっくりとしていた。
おじいちゃんは大たこの向かいある低い堤防の上に腰を下ろしていた。
杖代わりに使っているのだろう、
隣には布地の部分がひどく色褪せした古いカートが置いてある。
おじいちゃんの表情は終始穏やかで、
おばあちゃんには叱るような言葉を一切口にしなかった。
「ばあさんには、出て行ったらいけんと日頃から言うとんですけどなあ」
むしろやさしげな笑顔さえ浮かべてぼくにそう言った。
おばあちゃんはというと、おじいちゃんに謝るでもなく、
目も合わようともせず、
それでもおじいちゃんの隣にちょこっと腰を下ろしてじっと海の方を見ていた。

そしてぼくはというと、このふたりの姿に、
10年前に母が病気をしなかったら現在こうであったかもしれない、
父と母の姿を見ていた。

もともとはたこ焼き屋さんだったが、現在は高齢者向けの最大の娯楽スポット。昼間からカラオケの音が近所に響きまくっている。タクシーで乗りつける常連のお客さんの姿も。

*当連載に登場する人名・店名等はプライバシー保護のため
一部仮名を使用させていただいています。