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のみだけで仕上げる井波彫刻の技術力を活かして 前編

NANTO CITY × REBIRTH PROJECT
vol.004

posted:2014.5.12   from:富山県南砺市  genre:活性化と創生

〈 この連載・企画は… 〉  世界遺産もあり伝統工芸も盛んな富山県南砺市と、
リバース・プロジェクトが組んだプロダクトの共同開発やエコビレッジ構想が始まった。
地域にまたひとつ新しい種がまかれる、その実践をレポート。

editor’s profile

Tomohiro Okusa

大草朋宏

おおくさ・ともひろ●エディター/ライター。東京生まれ、千葉育ち。自転車ですぐ東京都内に入れる立地に育ったため、青春時代の千葉で培われたものといえば、落花生への愛情でもなく、パワーライスクルーからの影響でもなく、都内への強く激しいコンプレックスのみ。いまだにそれがすべての原動力。

200本の“のみ”を使いわけて生み出す伝統的技術。

富山県南砺市の井波は、木彫で有名だ。
その起源は真宗大谷派 井波別院 瑞泉寺にある。
瑞泉寺は一向一揆の中心的存在であった寺院。
過去に1581年、1762年、1879年と3回も火災にあっているが、
そのたびに再建されてきた。
2回目の火災ののち、当時の加賀藩は、
京都の本願寺から本山お抱えであった御用彫刻師の前川三四郎など、
10名の宮大工を呼び寄せて再建にあたった。
そうして彼らの指導のもとに再建を進めていった地元・井波の大工たちが、
井波彫刻の礎といえる。

井波の大工である番匠屋九代 田村七左衛門が、
名作といわれる勅使門の「獅子の子落とし」を生み出すなど、
京都から伝わった伝統的な寺院建築・彫刻の優れた技術を、
井波の大工たちが磨き上げ、
現在にまでつながる井波彫刻となっていったのである。
木材がたくさん採れた土地であるわけでもなく、
技術のみが純粋に高まっていった特殊な例といえる。

井波彫刻の特徴は、のみひとつで仕上げることだ。ペーパーも使わない。
しかし200本ほどののみを使う。
使う場所や用途によって、数々ののみがあり、必要に応じて増えていく。
弟子に入ったばかりのころは数本しか持っていないというが、
ベテランになるほどたくさんののみを所有していくことになる。

独特の形ののみ。それぞれにきちんとした役割がある。

「ちょっとした違いですが、のみの数はどんどん増えていきます。
刃先を長くしたり、角を落とした平のみにしたり」というのは、
井波彫刻協同組合の理事長である高桑良昭さん。

井波彫刻のなかでも最も古い工房のひとつ、
南部白雲木彫刻工房の3代目南部白雲さんの工房にお邪魔すると、
4つも5つもある箪笥の引き出しのなかは、すべてのみだった。
湾曲したものや先が細くなったものなど、見たことのないのみがたくさん並ぶ。
井波彫刻の高い技術は、多種多様なのみを使いこなすことで成り立つのだ。

南部白雲さんの工房。目の前に並んだたくさんののみはもちろんすべて使うもの。

仏閣から端を発したが、時代の流れとともに住宅にも採用されるようになった。
特にその繊細な技術を遺憾なく発揮した欄間はすばらしい。
井波彫刻の欄間は絵柄が立体的で、鶴や龍や花が飛び出している。
職人の頭の中は3Dなのだ。
だからこそ、たった1枚の写真からでも図面を起こして復元することができるという。

しかし近年では日本家屋も減り、欄間の需要も減ってきている。
現在は名古屋城に復元される本丸御殿の唐狭間(からさま)に取りかかっている。
祭りの山車や文化財の修復などでも、井波彫刻は重宝されているのだ。

たとえ技術の優れた職人がいても、
ひとりやふたりでは到底できない作業量になることもある。
そうすると仕上げるのに膨大な時間がかかってしまう。
しかし井波には親方彫刻師だけでも100人、総勢200人の彫刻師がいる。
大きな仕事は井波彫刻協同組合が預かり、みんなで取りかかることもできる。

瑞泉寺の再建をきっかけに井波彫刻が生まれてから約250年経っても、
200人の彫刻師が、井波という地に残っていることは大きな強みだ。
彼らが質の高い仕事をすることで、
欄間や山車の一大産地としての矜持を保っている。

次回は井波彫刻とリバース・プロジェクトがコラボレーションした
商品のストーリーを紹介する。

引き出しのなかはのみがズラリ。

information

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井波彫刻協同組合

TEL 0763-82-5179
http://inamichoukoku.com/

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