金岡くん総集編の巻

毎週「金岡新聞」を発行してくれた金岡くんに、
感謝感謝でござる!

にんにん! コロカルくんでござる!
先日、ついに200号を持って終了した「金岡新聞」。
金岡新聞は和歌山県在住の小学生、金岡 陸くんが編集長として、
毎週発行していた新聞でござる。
地域のこと、学校のこと、社会のことをA4の用紙1枚にまとめ、
ご近所や小学校のお友だちに配布していたのでござるよ。
金岡くんの視点と編集力は、大人もびっくりの立派な新聞だったでござる。
小学校2年生から6年生までの約4年間、おつかれさまとありがとうの想いを込めて、
金岡新聞の軌跡を紹介するでござる!

第1号はわら半紙に鉛筆書き

金岡新聞の歴史はここから始まったでござる。
金岡くん、当時小学2年生だったでござる。
2010年1月20日に発行した第1号は、わら半紙に鉛筆書き。
トップニュースは「ことわざあそび」。
ことわざはその後の金岡新聞にもよく出てきたでござるね〜

コロカル初登場は2012年12月13日号

コロカル創刊当時から話題になっていた金岡新聞。
金岡くんは学校がお休みになると更新をお休みするので、
これが2012年ラストの金岡新聞だったでござるね。
小学校4年生の金岡くんにも会いに行ったでござるよ〜

金岡新聞編集長としての金岡くんと、
小学生の金岡くんの両面が見れたでござる。

東日本大震災を教訓に

毎年3月11日近くになると、
金岡新聞では、防災への喚起を行うのでござる。
2014年では、どんなものを備えておけば良いか、
再確認するきっかけになったでござる。
被災された方へのインタビューも行っていて、
震災を風化させないという意識が感じられる誌面でござるな。

金岡新聞最終号は、10年後の自分へのメッセージ

金岡新聞最終号は、ちょうど200号目。
10年後の自分へのメッセージは、
金岡くんが和歌山を愛する気持ちが伝わってくるでござるね。
金岡くんの興味と好きなものがつまった金岡新聞。
最終号まで、金岡くんらしい誌面だったでござる。

コロカルくん、金岡くんに電話をしてみたでござる。
今は、中学に通うのが楽しくて仕方ないそうでござる!
部活動は、中間テストが終わってから、じっくり考えるそうでござるよ。
中学でも大きく羽ばたいてほしいでござる!
また「コロカル」で会えるのを楽しみにしてるでござるよ、金岡くん。

増田の内蔵 前編 

「家」の意味を伝える「増田の内蔵」

秋田県横手市の中心部から南へ約10km。
横手盆地の東南部に位置する増田町は、
雄物川の支流となる成瀬川と皆瀬川の合流点に広がっている。
美しい田園に抱かれた小さなまちだが、
かつて、この増田は秋田では最も発展した地域のひとつだった。
増田町の発展の歴史は、
南北朝時代に雄勝郡を治めていた小笠原氏が築城したのがはじまりとされている。
14世紀頃の話だ。
それから時代が下ること約300年。
増田町で朝市が開かれる。江戸期寛永20年(1643)より始まったこの朝市が、
増田町の繁栄のきっかけとなった。
肥沃な横手盆地のただなかにあり、成瀬川と皆瀬川の合流点で、
小安街道と手倉街道が交差するという立地条件は、
両流域の物資の集配地、あるいは交通の要衝として最適の場所だった。
とくに、江戸末期の増田の周辺地域は、
葉タバコや養蚕の秋田県最大の産地へと成長を遂げており、
まちは、仲買人をはじめ、これらに特化した商いが賑わいをみせていた。
こうした商いで優れた業績を積み重ねたのが、いわゆる“増田商人”だった。

明治に入り、養蚕や葉タバコに関する商いが隆盛を極めるなかで、
増田の商人たちは、新たな商業活動を展開していく。
それに代表されるのが増田水力発電や増田銀行(現在の北都銀行)の創設で、
その最盛期には、増田で発電された電気が横手や湯沢、
大曲を含む当時の県南54か所のまちに電力を供給するほどだった。
また、大正期になると増田近郊の吉乃鉱山において大規模な鉱床が発見され、
第一次世界大戦の特需を生み出していくこととなった。
この特需はそれほど長くは続かなかったが、
昭和の戦時体制で再び産出量を増大するなど、
18世紀に開鉱された吉乃鉱山は、長期間にわたって増田町の繁栄を支えた。

増田の中七日通りのまち並み。明治期、この通りが秋田県内における経済の中心地のひとつだった。

江戸に始まった朝市をきっかけに成長していった増田町の経済。
その中心となった増田商人たち。
彼らの息吹を今に伝えるのが、
増田町の目抜き通りとなる「中七日町通り」に建つ「内蔵」群だ。
江戸末期から大正にかけて商業規模を拡大していった商人たちは、
町家を改築し、大きな店舗を持つようになった。
と同時に、店舗から続く主屋の奥に蔵を建造するようになる。
「内蔵」と呼ばれたこの蔵は、まさに増田商人の成功の証といっていいだろう。
内蔵と呼ばれるだけあって、
建っている場所は長細い町家構造(増田商家の場合、100m以上にもなる)の奥で、
通りからは店舗があるために見ることはできない。
さらに豪雪から建物を守るために鞘建物と呼ばれる建屋で、
町家全体を覆ってしまうため
その存在を知るのは、家に関係する者だけの場合もあったという。
そのため、主屋の奥に立派な内蔵が控えるというイメージから、
増田商家が並ぶ中七日通りは「蛍町」と呼ばれた時代もあったという。

佐藤又六家の内蔵も板敷、畳敷の座敷蔵となっている。こうした様式は時代の変遷とともに変更される場合もあった。

一般的な蔵の用途といえば、倉庫的な役割だろう。
増田の内蔵の場合も、多くは、その家に伝わる大切な物品などを保管する
「文庫蔵」として使われたが、もう一方では、板敷き、畳敷きに加え、
主屋以上に凝った意匠の内装が施された「座敷蔵」も多く存在した。
こうした座敷蔵は、当主やその家族だけの
プライベートな生活空間という意味合いが強く、
そういった意味では、他人の目にさらされる建物ではないのだが、
増田商人たちは、内蔵の意匠や造作にはこだわり抜いた。
磨き仕上げによる黒漆喰の壁にはじまり、
蔵内の細部に至るまで一切の妥協がない造作や意匠には驚くばかりだ。
これらの造作や意匠は、
現在では不可能と言われる技術に支えられたものも多いという。
増田の内蔵は、当時の大工や左官職人たちの
卓越した技術の見本市のような存在でもあるとともに、
増田商人が自らの生きた証を子孫に伝えようとした情熱の遺産でもある。

現在、増田で現存する内蔵で、最も古いものは弘化4年(1847年)で
新しいものは昭和8年(1933年)となっている。
現在、増田町では、このおよそ85年間の間に建てられた45棟あまりの蔵が
確認されている。このうち、約15棟が公開(一部有料)されており、
増田商人の精神性や暮らしぶりを見ることができる。
増田のまち並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているが、
いわゆる文化財保存を目的としてのみ存在しているのではない。
一般公開されている内蔵にも、今もそこに生きる人の暮らしがある。

表通りの店舗や主屋から内蔵へは、「トオリ」と呼ばれる廊下で結ばれていた。

中七日通りから見た山吉肥料店の店構え。雪の白さが似合う美しい姿。

内蔵とともにある暮らし。それを垣間みたくて最初に伺ったのは、
山吉肥料店の山中英一さんだ。
増田の大きな商家に婿に来た、明治11年生まれのおじいさんから数えて、
昭和13年生まれの英一さんは三代目となる。
山中家の内蔵を建てたのは、一代目の順吉さんで、
昭和8年から数年をかけて建築。増田町に現存するなかで最も新しい内蔵で、
“内蔵の集大成”と呼ばれているという。
江戸末期から始まった増田の内蔵建築技術が
最も成熟した時期に建てられたからだ。
主屋の奥で控える間口4間、奥行き7間を越える威風堂々した山中家の内蔵は、
雲母で艶かしいほどに磨き上げられた黒漆喰をまとい、
見る者を圧倒するほどの存在感だ。
もちろん、細部は緻密なまでにこだわり抜かれ、
壁に回された内鞘の組子細工や1枚1トンにもなるという扉の蝶番など、
どれをとっても卓越した技術を感じさせる仕上がりとなっている。

堂々たる風格をたたえる山中家の内蔵。増田の土蔵文化の集大成とも言われる内蔵だけあって、細部に至るまで卓越した技術が活かされている。

内蔵の壁にまわされた内鞘。組子は、麻の花をモチーフとした模様をなしている。

蔵の角に当たる部分は、「銀杏仕上げ水切り」と呼ばれる美しい左官仕事で仕上げられている。

「婿入りして分家したおじいさんは、塩の卸問屋をはじめ、
生糸、荒物、雑貨、保険にいたるまで、さまざまな事業に精を出した。
いつか自分でも蔵を建てるぞと、それこそ身を粉にして働いたそうです」と、
初代の思い出を語るのは、三代目の英一さんだ。
英一さんは、初代の没後に生まれているため、
直接顔を合わせたことはないのだが、
蔵を建てた初代の生き様は山中家の語り草になっているという。
「おじいさんは、蔵を建てて数年後には亡くなっていますから、
蔵は、まさに人生の集大成だったんでしょうね。
とにかく蔵を大切にしたと聞いています」

山中肥料店三代目の当主となる山中英一さん。おじいさんの教えを守り、内蔵とともに暮らしている。

蔵の入り口に設けられた白蛇の模様は、悪いものが入らぬようにとの思いが込められた意匠。

“蔵を大切にする”山中家の内蔵への思いは、この言葉に尽きる。
山中家の蔵は、内部に畳を敷いた座敷蔵と呼ばれるもので、
蔵を生活空間に使う増田の内蔵特有のものだが、
そこは家族であっても簡単には出入りすることは許されなかった。
内蔵建設を目指した順吉さんは、それが完成したとき、
「みだりに蔵に入るものではない。蔵は神聖な場所。汚してはいけない」と
家族に言い渡したという。
その家訓は次の世代、そして英一さんへも受け継がれている。
そのため、山中家では、内蔵を一般公開しつつも蔵の内部を見せることはない。
あくまで家族だけの神聖な場所。そういう意味だからだ。
とはいえ、家族にとって神聖な場所とは何を意味するのだろう。
英一さんによると、蔵の1階には板間と畳で、
2階には冠婚葬祭に必要な漆器などが保管されているという。
その空間がなぜ、特別な場所なのか。

山吉肥料店の店舗。夫婦ふたりで、肥料販売業を営んでいる。

この問いに対し、英一さんは
「うちの蔵は、家族の生き死にを見守る場所なんです」とポツリとつぶやいた。
おじいさんが蔵を建てた。
そして、そのおじいさんが亡くなったとき、
蔵の座敷にまだ温もりが残る遺体を運び込み、
僧侶を呼んで枕経をあげてもらった。
おばあさんが亡くなる直前、おばあさんを蔵の座敷に運び、床についてもらった。
そのとき、おばあさんは
「ああ、蔵の天井が見える。気持ちがせいせいするな。オラもそろそろだな」
とつぶやいた。家族が逝くときだけではない。
英一さんをはじめ、新しい家族がこの世に誕生する場所としても蔵が選ばれた。
嫁を迎える際の結婚式も蔵の中。
人の生き死にを見守る場所というのはこういう意味だった。

家族が過ごしてきた主屋は店舗スペースの後ろに控えている。

台所仕事をする水屋スペース。水屋のそばにはたいてい井戸が設けられていた。現在もここで家事も行う。

増田の内蔵の特徴のひとつは、その用途だ。
種類としては文庫蔵と座敷蔵に大別されるが、用途は、各家独自のもので、
山中家のように人の生死を見守る場所として使われることもあったのだ。
「だからこそ、簡単に蔵に出入りできないんです。それは今も。
当主となった自分自身もその通りです。
私が今度ゆっくり蔵で過ごすのは、あの世に向かうときかな」
そういって英一さんは笑った。
山中肥料店という看板が掲げられた古い町家の奥でひっそりと、
そして堂々と構える山中家の内蔵。
それは、時とともに移ろう家族の歴史を刻むために建っていた。

山中英一さんの「蔵は神聖なもの。それは今でも変わりません」という言葉が強く印象に残った。

山中家の家族の人生を見守ってきた内蔵。静かに時の中に佇んでいた。

蔵の中で行われた山中さんご夫妻の結婚式の様子。蔵の思い出のひとつだ。

座敷には美しい雛が飾られてきた。蔵とともにある暮らしは、年中行事を大切にすることでもあるという。

原料から育てる五箇山和紙とのコラボレーション 後編

五箇山和紙を使った商品開発ストーリー。

リバース・プロジェクトが富山県南砺市の伝統産業である五箇山和紙の素晴らしさを
若い世代にも広めていくために、3つの工房と組んで商品を生み出した。

ひとつは東中江和紙加工生産組合の組合長、
宮本友信さんの「悠久紙」を使った和紙ハット。

「使うほどに白くなるという話を聞いて、
陽の光をあびる商品をつくれば、特徴を活かせると思いました。
しかも日常的に使うものということでハットを思いつきました」と語るのは、
プロダクトデザインを担当したリバース・プロジェクトのデザイナー、加藤弥生さん。

おそろいのハットできめた宮本友信さんと加藤弥生さん。

使い込むと、白くなり、レザーのような質感にもなってくるから不思議だ。黒とピンクの2色展開。

もうひとつは「五箇山和紙の里」の石本 泉(せん)さんと共作した
エッセンシャルオイル和紙。
これを考えついたきっかけは、南砺市特有の土徳の文化が背景にある。
加藤さんは言う。

「大福寺の太田浩史住職に、
”人間を人間たらしめているのは、祈りの時間があるから。
生活のなかで、自分の心に向き合う時間や空間がないとつかれてしまう”という、
南砺に息づく”土徳”の話を聞きました。
現代でそういう時間や空間は何かな? と考えたときに、
女性なら、お風呂やスパ、エステなどで
同じような効果を得ているのではないかと思ったんです」

こうしたアイデアから生まれたのが、こんなにかわいい製品。
花びらモチーフの五箇山和紙に、
ティーツリーのエッセンシャルオイルを垂らして使う。
クローゼットやバッグの中、枕元などに置いてもいいが、
お風呂に浮かべるのがおすすめの使い方。
水と紙というギャップのある組み合わせがおもしろい。

贈り物にも最適なエッセンシャルオイル和紙。

このカラフルな和紙は、再生和紙からできている。
障子紙をつくる際に切り落とした耳の部分をもう一度煮て、再生和紙にしている。
これには色がつけたあった。

「その色が淡くて、かわいくて。
五箇山の山奥にこんなかわいい紙が並んでいる!(笑)」と、
女性目線を発揮した加藤さん。

加藤さんの感性に共感し、
こんなにも現代的かつポップなプロダクトとして応えられたのは、
石本さんという理解者がいたからかもしれない。
石本さんは美術大学出身で、東京から五箇山へ移住し、和紙づくりに携わっている。
昨年、独自のブランド「FIVE」をデザイナーのminnaと協力して立ち上げた。
カードケース、ブックカバー、メモロール、コースターなど、
発色のいいカラーリングが目を惹くプロダクトだ。
和紙のイメージからかなり飛躍している。
都会的な感性をもって、商品づくりに取り組んでいる。

五箇山の和紙製品を発信する石本泉さん。そのフィールドはすでに世界へと広がっている。

そもそも美術大学時代に和紙に興味を持ち、学生時代に何度か五箇山を訪れ、
勉強していた。大学を卒業後すぐに五箇山に移住し6年が経つ。
ほかにも和紙の産地はいくつかあるが、五箇山が気に入った理由をこう話す。

「五箇山は原料からつくっているんです。そんな畑仕事にも惹かれました。
土いじりは落ち着くし、おもしろい。
木から紙になっていく、その工程すべてに携われる」と石本さんがいうように、
その作業や1年のライフサイクルは、ほとんど農家のようなもの。

原料の楮を春から栽培し始め、草取りなど毎日のように手をかけて育て、
秋に収穫する。現在では通年で紙すきは行われているが、
かつては冬にしか行われないものだった。

“すき舟”ですく作業を見せてくれた「五箇山和紙の里」館長の東 秀幸さん。ここでは紙すきができる伝統工芸士は3人。

五箇山の和紙職人は、みんな原料から育てている。
しかし、楮が無駄に残っている現状もあった。
商品が売れなくては、せっかくつくっても意味がないし、
次代に残っていかない。
石本さんは、プロダクトを使って広く市場に呼びかける役割を積極的に担う。

五箇山和紙の、伝統と革新。
若いクリエイターが積極的に動ける雰囲気づくりをしたり、
リバース・プロジェクトと共同で現代にフィットする商品を生みだせば、
どんどん全国、全世界へと広まっていくはずである。

リバースプロジェクトが手がけたもうひとつの商品がこの「五箇山和紙粘土 デコレーションキャット」。真っ白のものを自由に塗ることができる。(写真は伝統工芸士の前崎真也さんほかクリエイターが絵付けした作品)

information


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五箇山和紙の里

住所 富山県南砺市東中江215
TEL 0763-66-2223
http://gokayama-washinosato.com/

REBIRTH PROJECT Online Shop

「NANTO CITY × REBIRTH PROJECT」
http://shop.rebirth-project.jp/user_data/special/no025/index.php

原料から育てる五箇山和紙とのコラボレーション 前編

加賀藩に献上していた五箇山和紙の伝統技術。

リバース・プロジェクトと富山県南砺市の取り組みとして、
和紙を生かした、新しいプロダクトを生み出している。

五箇山で和紙の生産がいつから始まったのかは定かではないが、
江戸時代初期に加賀藩に献上されていたという記録が残っている。
伝統的な紙すき技法を守り、現在まで脈々と受け継がれてきたが、やはり後継者不足は深刻。
一時は五箇山に1500軒以上あった紙すき業者も、現在ではたった3軒になってしまった。

「うちの『悠久紙』は文化財の修復に使われています。
少なくとも500年もつ耐久性があることが原則です」と話すのは、
東中江和紙加工生産組合の組合長、宮本友信さん。
桂離宮や名古屋城などの修復に使われているという。

五箇山和紙は楮(こうぞ)という木が原料。
その楮100%の「悠久紙」は、光が当たるほどに白くなる。
家庭の障子に使ったならば何十年も張り替えなくてよいくらいだ。
染料や色を白くする薬品などは一切使用しない。
紙を白くするには”雪さらし”という手法を用いる。雪国ならではの知恵だ。

通常のパルプ入りの紙でも、直した当初は一見わからないが、
時間とともに黄ばんでくるので文化財の修復には使えない。

雪の上に1週間ほどさらすと色素が抜け、自然の漂白効果がある。また、繊維が緊密にもなる。

トロロアオイの根をつぶした粘性のある汁が和紙のつなぎとなる。

手間のかかる作業をあえて行う。

五箇山和紙の特徴としては、原料の楮を自分たちで育てていることだ。
ほかの産地では原料から育てているところは少ない。
「原料をほかから買うのなら、わたしは和紙づくりをしません」と宮本さんはいう。
もちろん手間はかかるのだが、
”よい原料があってこそ、よい紙ができる”という原理原則にこだわることに意味がある。

さらに、楮の皮を煮沸してアク抜きをする際、
苛性ソーダで煮れば、楮の皮からちりを取る作業もラクになるのだが、
繊維が弱くなるので、宮本さんはソーダ灰で煮ている。
だから手作業でちりを取る作業も発生する。

皮の1本1本から、ちりやゴミを手で取り除く”ちり取り”という作業。大ベテランです。

原料から育て、化学的な薬品には一切頼らない。
そんな手間がかかる五箇山和紙だが、
最近では学生のインターンシップを積極的に受け入れ始めた。
長くて数か月、住み込みで和紙づくりを手伝う。
これらの体験を通して伝統技術を次代に引き継いでいければいいが、
そう簡単に、和紙づくりを生業にする若者が出てくるわけでもない。
しかし少しでも五箇山和紙の素晴らしさを伝えていきたいという思い。

宮本さんの家に残っていた、
先代が使っていたという帳簿をいくつか見せてもらった。
楮100%でつくられた手すき和紙を綴じた帳簿は、
”大正”と明記してあるので約100年前のものだ。
紙自体ボロボロになることなく、きっちりと形状を留めているし、文字も薄くなっていない。

デジタルの記憶媒体が100年後にどうなっているかわからないが、
少なくとも五箇山和紙は100年以上もつことが、まさに形として実証されている。

重要なことは紙に残しておきたい気持ちになってくる。
これだけの手間ひまをかけているからこそ、悠久なる和紙となるのだろう。

後編では実際にリバース・プロジェクトとコラボした商品を紹介する。

宮本さんのお父さんが村の収入役だったことで残っていた帳簿類。十分に白さを保っている。

ミラクルな幸運とミラクルな過失

岡山県都窪郡早島町。
日本のへそのような位置にある岡山の、そのまたへそのような小さな町。
この話はその町のどこかにある、コーポ造りというか、
比較的新しめというだけでこれといって特徴のない2階建てアパートの一室から始まる。

その前に今回の出来事の背景にあるいくつかの問題のうち、
ふたつをここで明らかにしておきたい。
まずひとつはレンタルDVDの延滞料だ。
昨今、大手チェーンのTSUTAYAもGEOも、
店舗によって差はあるらしいものの、
新作・準新作以外の「旧作」のレンタル料金は1週間100円でほぼ定着している。
なんともありがたいデフレ価格なわけだけれど、
一方、延滞料金となると競争の原理はまったく働くことなく、
全国相場は一日につき200〜300円。
家の近所にあって、ぼくがもっともよく利用しているGEO茶屋町店では
240円で設定されている。
レンタル料からしてこの延滞料、ちょっと高すぎやしないか。

問題のもうひとつは、この10年ほど続いている
あまりよろしくないぼくの個人的な経済状態である。
家の事情で2004年から東京と郷里の倉敷を行き来する生活を始め、
直後に個人で定期刊行のフリーマガジンなんぞ立ち上げたものだから一気に状況は悪化。
号を重ねるごとに生活は困窮し、ついには物価の安い郷里へ完全Uターン。
雑誌の発行を終えた2010年からは、
Uターン以降本業としている広告制作に打ち込んでゆるやかな回復傾向を示すも、
2012年に岡山市内でコーヒースタンドという新たなビジネスを始めることになり、
ふたたび冬の時代へ(その顛末はこちら、『マチスタ・ラプソディー』でどうぞ)。
そして昨夏に18か月間心血を注いだ店を閉めたことで
状況はいくらか改善するはずだった。
ところが実際はその逆で、わずかの風に揺れる風知草のごとく、
いまやどんな支払い・請求書の類にもざわざわとして胸がざわめく。

東の空もまだまだ濃い闇にある午前5時。
早島町の件のアパートの一室で、ぼくはひとり物音をたてないようにして
必死の探しものをしていた。
といってもお盗(つと)めに励んでいるわけじゃなく、
そこはぼくの住まい、一室は我が家の居間である。
探しものは、3歳になる娘のチコリのために1週間前に借りた
ディズニーの『白雪姫』、そのDVDディスクがまったく見当たらないのだ。
返却用バッグのなかに空のケースを見つけたのは午前2時頃だった。
まあ、すぐに見つかるだろうと、その後余裕で映画を1本見た後、
娘がディスクを置いたり隠したりしそうな場所を探してみた。
が、この『白雪姫』がどこにもない。
かれこれ1時間近く探してみたけど、ありそうな気配もない。
返却期限はその日の午前10時。
GEO茶屋町店の開店前に返却しないと、冒頭で述べた延滞料240円がかかる。
この料金設定に納得しかねる気持ちと、
同じく冒頭で述べた個人的経済事情が絡み合い、
延滞料の支払いはなにがあっても避けねばならぬ。
この10年で染みついたその思いは、悲しいほどに強いのだった。
窓の外がうっすら白みはじめるにつれ、気持ちはげんなりしてきていた。
しかし今から思うと、そこで開き直って気持ちに余裕をもてたことが勝因だったと思う。
「音楽でも聴きながらじっくり探そうか」と、
アンプの横に山積みになった50枚ほどのCDの中から、
何気なくチェット・ベイカーの1枚『Sings』を手にとった。
ぼくは熱心なジャズファンでもないし、
少なくともこの1年ほどまったく聴いていなかったCDなのだけれど、
そのときなんとなく手が止まったのがそれだった。
ディスクを取り出そうと、プラスチックのケースを開けた。
と、目前にあるそのディスクに思わず我が目を疑った。
なんとそこに失踪中の姫がおわしたのである。

同日の正午頃。ところは変わって、
倉敷市の南端にある人口約7万人の地方都市・児島。
瀬戸内海に面した風光明媚なこのまちにぼくの仕事場がある。
所在の住所が元浜町であることから「元浜倉庫」と呼んでいるそこは、
小さな港が目の前にあり、背の高いスレート造りの倉庫然とした建物のなかに、
ぼくの制作会社「アジアンビーハイブ」と、
グラフィックデザインの「after hour(アフターアワー)」の2社がある。
といっても、ぼくのほうはひとりきりで、
後者もリュウくんとユウコさんの夫妻ふたりだけ。
3年前に保護して以降、事務所の番犬と化している
元野犬のサブロー(通称サブ、推定10歳)を加えても、ごくごく小さな所帯だ。
この見た目インダストリアルなわりにゆるげな職場に、
今年の3月からぼくのプライベートのパートナーであるタカコさんが新しく加わった。
彼女のビジネスはコーヒー豆の焙煎と販売、屋号は「元浜倉庫焙煎所」。
結果、ひとつ空間の中でデザインとコーヒーというまったく異なる業種が混在する、
かなりレアな場所が誕生することと相なった。

話を元に戻そう。その日のお昼頃、友人のフジタくんが元浜倉庫に弁当持参で
お昼を食べにやってきた。ぼくは早速彼に早朝の顛末を語り出した。
「どこにもないんだよ、その『白雪姫』が。もうホントまいったね」
フジタくんは10数年前、縫製の技術を勉強しようと
郷里の兵庫・丹波から裸一貫バイクで児島に移住してきた強者で、
いまでは繊維のまちとして知られる児島でも唯一だと思う、
フリーランスの縫子として生計をたてている。
近所に住居兼工房を構えていることもあって、
月に半分ぐらいは元浜倉庫で一緒にお昼を食べている、まさに常連中の常連。
「そりゃあ驚いたよ。まさかチコリがそんなところにDVDを入れているなんて
思いもしないじゃない? だって、チェット・ベイカーだよ!」
浮かれ気味な口調もさもありなん、
あのDVDディスクを見つけた瞬間の感動といったらなかった。
ぼくはクリスチャンでも仏教徒でもないけど、神の存在を身近に感じたぐらいだ。
午前中ずっと「やっぱりオレ、愛されてるなー」みたいな
温かい気持ちで満たされていた。しかし、話はこれで終わらない。
ぼくの場合大抵そうであるように、
この手の幸運の後には地震の揺れ戻しのようなものがやってくる。
今回のそれはまさに電光石火だった。
携帯電話が鳴った。目の前にいるフジタくんはまだお弁当の途中。
「GEO茶屋町店のタブチ(仮名)と申しますが」
その朝返却したDVDに100パーセント間違いはあるはずなかった。
返却期日も作品の中身も本数も、
すべてバッグに入れたままにしておいた伝票で確認してから返却したのだ。
臆することはなんにもない。
「DVDなら今朝時間内にちゃんと返しましたけど、なにか問題が?」
「いや、今朝のじゃなく、先週の木曜日にTSUTAYA児島店さんに返却されたDVDの件で」
この電話の主はGEO茶屋町店。ぼくがもっとも利用するお店で、
今朝返却に立ち寄ったばかり。
そして、この店の次によく利用するのがTSUTAYA児島店である。
コンビニで立ち読みするような感覚で、仕事で通りかかったときにたまに立ち寄る。
しかし、「TSUTAYAに返却したDVD」と言われても、
そのときはまったく思いあたるふしがなかった。
「あの、なんのことですか?」
「先週、TSUTAYA児島店さんに返却されませんでしたか?」
その時点でもさっぱりわからなかった。ぼくは電話に集中しようと、フジタくんを事務所に残して倉庫の外の部分に出た。
「なんのDVDかな? 作品名とかわかります?」
「はい、ええっと『ちいさなプリンセス』……」
瞬間、半分を理解した。
あれだ、10日ほど前、チコリが保育園に行きたくなくて
あまりに泣きわめくものだから連れて行くのをあきらめ、
児島の事務所に連れて行ったあの日。
事務所で退屈するだろうと、途中でチコリとTSUTAYA児島店に行って
DVDを借りたのだ。でも、あれはちゃんと返却したはずだ。
理解できなかった半分は、
そのことでなぜにGEOからこうやって電話がかかってきているか
ということだった。……うん?
「オレ、間違えましたか?」
「ああ、はい」
携帯をもったまましばらく片手で頭を抱えた。
どうしようもない思い違いだ、200パーセントTSUTAYAで借りたと思い込んでいた。
チコリちゃん、あれはGEOだったっけ……。
「TSUTAYAさんで預かっていただいていますので、
ピックアップしていただいて、うちの方にご返却いただけないかと……」
電話の声がはるか遠くに聞こえる。振り返って事務所のなかを見た。
透明のアクリル越しにフジタくんが右手に箸をもったまま、
なにを見ているのか、真剣な顔でスマホの画面に見入っているのが見えた。

その日の夕方、GEO茶屋町店で『ちいさなプリンセス』の
4日分の延滞料金960円を支払った。
ミラクルな幸運で延滞料240円の支払いを免れた同じ日に(延滞が一日だったと仮定)、
ありえないという意味でのこれまたミラクルな過失で960円の損失。
それにしても、こうやって数字だけで表してみると、
なんと小市民的な、些細なできごとか。
あれだけの気持ちの振幅の幅があろうとは、
ましてや神様の名前をもちだしたりするようなことがあろうとは思いもしないだろう。
でも、世の中だいたいそういうもので、
一見、とるにたらない些細なできごとのなかに
大の大人が右往左往するようなドラマがあったり、
そこにまた個人の抱える問題や、その問題の本質が見えたりするのだ。
しかし、今回の場合、問題の本質は
信じられないようなポカを起こすぼくにあるのではなく、
ライバル店であるはずのTSUTAYAとGEOが、
なぜにあのように似た素材、似た色、似た形状の返却バッグを
使用しているのかという点にあると思う。いまさら負け惜しみのようだけど。

昨年の夏から秋まで試験的に営業していた元浜倉庫焙煎所。この春、倉庫の人員すべてを動員して無駄に広かったスペースの一部をショップに改装。随分お店らしい雰囲気に生まれ変わりました。念願のお店がもててタカコさんもここのところご機嫌な様子です。元浜倉庫焙煎所の営業時間は平日の正午から午後4時まで。

ご当地おやつが食べたいでござる! の巻

コロカルが厳選したおやつを紹介するでござる!

にんにん! コロカルくんでござる!
コロカルではほぼ毎日、
「コロカルニュース」で全国の選りすぐりの美味しいおやつを紹介しているでござるが、
今回は、コロカルニュース担当の斎藤あきこ殿が選んだ、
特に印象に残ったおやつや、美味しかったおやつを紹介するでござる。
お取り寄せもいいけど、ぜひ現地で食べたいでござるな!
みんなのおすすめのおやつも知りたいでござる〜!

其の壱 東京・日暮里にあらわれた!
かわいいおばけ「妖怪★いちご大福」

妖怪にはいっているあんは、
こしあんとミルクあんの2種類。
写真で色黒のほうがこしあん、
色白なほうがミルクあん。
どちらも甘すぎず、さっぱりとした味わいです。

東京・日暮里の「江戸うさぎ」のかわいい妖怪さんの大福は、
コロカルくんも気になった商品でござる!
2012年より「妖怪★いちご大福」の販売をはじめて、大ヒット商品となったでござるよ。
大人気のため、購入には予約必須!
チェックしたいでござる〜!
江戸うさぎ

其の弐 新しい広島銘菓になりそう!
因島うまれのフレッシュな「はっさく大福」

瀬戸内海に浮かぶ広島県・因島発祥のフルーツ・はっさくを材料にした
「因島はっさく屋」の贅沢で美味な大福でござる!

大福をあけると、プリプリのはっさくの果実が
ぎっしり詰まっています。
それをあっさりとした白餡でくるみ、
みかんの皮をねりこんだみかん餅で包み込んでいるのです。
フレッシュで爽やかなハーモニーがたまりません。

と、斎藤殿も絶賛のはっさく大福。
季節によっていちごや、みかんまるごとの大福や、
コロカルでも続報として紹介した、ぶどう甘夏大福もあるので、
愛媛や広島に行く予定があればぜひ立ち寄りたいでござるね!
※因島はっさく屋のホームページは改修中でござる!

其の参 ビールのおともにぴったり!
長崎県島原市の香ばしい「うに豆」

甘いものが続いたので、ちょっと塩気のあるお菓子をご紹介するでござる。
長崎県島原市の、創業九十有余年の老舗「藤田チェリー豆総本店」で作られている
「うに豆」でござる。

乾燥させたソラマメに、
長崎県近海でとれたウニをまぶした、
ソラマメのポリポリとした食感と、
ウニのコクがおいしいおやつ。

う〜ん! 豆菓子大好きコロカルくんも納得の逸品!
手がとまらないでござるよ〜!
藤田チェリー豆総本店

其の四 高松の「仏生山温泉」でいただく
絶品のふわふわかき氷

そして、これからの季節恋しくなるのが、かき氷でござる!
地域ごとの特徴が出て面白いでござるね〜
かき氷こそ、その地でしか味わえないスイーツでござるので、
ぜひ足を運んで食べ比べしてほしいでござる!
コロカルでは、香川県高松市の仏生山町にある
「仏生山温泉」のかき氷を紹介したでござる。

時間をかけて薄く薄く削ったふわっふわの氷の上に、
ペースト状にした生のフルーツに加糖したフレッシュシロップが
かかっている絶品のかき氷です。
緑に包まれた温泉に浸かってリラックスした後に頬張ると、
まさにこの世の極楽という気持ちになります。

写真は、斎藤殿が食べたパイナップルのシロップのかき氷でござるが、
他にもキウイや白玉入りの黒蜜、抹茶などがあるらしいでござるよ。
むむむ……! 迷っちゃうでござるな!

なんだかおなかが減ってきたでござる!
今日のおやつは何でござるかな〜♪ 
それではまた来月でござる!

横手の梵天 後編

いよいよ旭岡山神社へ

吐く息も荒々しくまちを抜けてきた梵天一行は、横手川に架かる橋を越えて、
いよいよ旭岡山神社が鎮座する山へとたどり着く。
ここで各町内が行うことは、「押し合い態勢」の準備だ。
仁王門と本殿で、町内対抗で激しい「押し合い態勢」が行われるため、
壊れやすい頭飾りを外して、身軽な梵天とするのだ。
男衆の怒声を聞きつけ、仁王門へと向かうとさっそく、
押し合いが始まっている。
梵天を入れようとする町内は仁王門手前で、梵天を槍のごとく横に構え、
入れまいとする町内は門内に陣取り、
互いに「ジョヤサー」の掛け声で自らを鼓舞している。
そして、怒号とともに揉み合う両者。
降りしきる雪をすべて溶かしてしまわんばかりの熱気で
仁王門の周囲は包まれる。
こうして、押し合いから抜け出した梵天がひとつ、またひとつと
頂上を目指していく。
頂上までの参道は、すべて雪に覆われており、
滑りやすいことのこの上ないのだが、
梵天を担ぐ者たちの足並みの速さは驚くほどだ。
まるで頂きの本殿に吸い寄せられるかのように、雪の参道を上り詰めていく。

横手川を渡って、いよいよ旭岡山神社への参道へと進んで行く。川の向こうはまさに彼岸。別世界へと入っていくようにも思える。

横手の街区を抜けると現れる横手川の橋。ここからが梵天行事のクライマックスだ。

仁王門の中で、ほかの町内の梵天を入れさせないために立ちはだかる男衆。

梵天を手に仁王門の中へと突っ込み、揉み合いが始まる。一気に盛り上がる瞬間だ。

これから始まる揉み合いが楽しみだと語る。男たちは一日限定の大暴れを楽しむのだ。

仁王門での揉み合いを終えた町内は、山頂に鎮座する本殿を目指し、参道を登って行く。

奉納の時を迎えて

杉の古木が立ち並ぶ参道は約650m。
その先に本殿が構える。
しかし、そう簡単に奉納できないのが横手の梵天。
本殿直下から本殿へは急勾配の長い石段が難所となって待ち構える。
この先、本殿では仁王門で行ったよりも激しい押し合いが行われるのだが、
この胸を突くほどの石段への挑戦も奉納行事のクライマックスのひとつだ。
梵天の重さは頭飾りを外したといっても約30kg。
これを両手で高く掲げながら、すべる石段をどう登るか。
腕自慢を中心にスクラムを組むようにして登って行く町内もあれば、
我こそはと言わんばかりにひとりで担ぎ上げる強者もいる。
町内の結束と梵天担ぎの腕力が試されるだけあって、
無事、梵天を担ぎ上げた先の石段の上では歓喜の声があがる。
皆で力を合わせ、ひとつのことに挑戦する。
そんな単純で当たり前のことにこそ、
本当に大切なものがあると思わせる場面だ。

そして、押し合い。神社本殿で迎え撃とうとする他の町内にめがけ、
槍のごとく構えた梵天とともに仲間たちと突っ込んで行く。
怒号と歓声、男たちの熱が高まり、ふっと途切れた瞬間、
梵天は本殿へと吸い込まれていく。
それは仲間たちとつくり、ここまで担ぎ上げてきた梵天が
無事、奉納できた瞬間でもある。

山の頂にある旭岡山神社の本殿。ここに梵天を奉納するためにはもう一度、激しい揉み合いをクリアする必要がある。

本殿で始まった揉み合い。迎え撃つ者、一気に押し込む者。両者ががっぷり四つに組み、はげしく揉み合いをする。

胸を突くほどの急勾配。本殿に向かって、最後の石段をかけあがる。ここが梵天担ぎの腕の見せ所でもある。

梵天の終わり

こうして、すべての梵天の奉納が終わると、
男たちは梵天とともに山道を下って行く。
登って行く際には血気盛んな形相を見せていた男たちだが、
下りでは口数も少なく足取りも重い。
山の頂きに情熱のすべてを置いてきてしまったような雰囲気ですらある。
誰かが、「横手人ってこんなもの。普段は無口で恥ずかしがり。
梵天の時が特別なのさ」とつぶやく。
そうは言っても、一年に一度の大切な行事をやり遂げた男衆の表情は、
やはり普段とは違う凛々しさを宿しているようにも見える。
山を降りると、町内の女性たちが温かいものをつくって待っていた。
下降祝と呼ばれるものでお酒とささやかなごちそうで
無事に奉納できたことを祝うのだという。
また、ここで梵天をばらし、鉢巻やさがりを神官宅に奉納し、籠は火で燃やす。
まるで、この日を存在しなかったことにするように、
梵天のすべてを消し去ってしまう行為には潔さ以上に寂しさを覚えるが、
これも長い歴史の中での習わしだそうだ。

奉納した梵天とともに山を降りて行く。祭りの余韻が山の静けさに溶け込んでいく。

山の下まで来ると、梵天はすぐに解体される。祭りの中心的存在だっただけに少し寂しい瞬間でもあった。

鉢巻や幕、制札などを神官宅に奉納する。

下降祝いで用意されていたうどんをすする。心まで温まる味わいに笑みがこぼれる。

梵天が行われる意味について

「梵天の日は荒れる」と、横手の人が言う通り、
今年の梵天奉納も始まりから終わりまで、始終雪が降り続け、
ときには吹雪模様となる梵天らしい一日となった。
個人的な話になるが、15年前に岩手に移住してから、
ここ7、8年は、ずっと北東北の祭りや年中行事をテーマに撮影を続けてきた。
東北の風土に興味があり、その延長として始まった祭りへの旅だが、
撮影を続けていくなかで、ずっと頭にあるのは、
今、この時代にこうした行為が「存在すること」の意味だ。
僕たちの先祖の時代、祭りはある意味必然から生まれたはずだった。
少し乱暴な言い方になるが人間は今よりもはるかに弱く、
自然はもっと強大だった。そのなかで人が生きていくために、
人はさまざまな工夫を凝らしてきた。
祭りや信仰は、いわば、こうした工夫が簡単には及ばない領域に関わるもので、
生きることへの切実なる祈りそのものだった。

例えば、各地で行われている「虫送り」を例にあげようか。
今のような科学の力がない時代、田畑を荒らす病害虫を防ぐために
人は祈りというかたちで回避しようとした。
その祈りのかたちが、「虫送り」となった。
今、虫送りをすることで
病害虫から田畑を守れるかもしれないと信じることができる人は
果たしてどれだけいるだろう。
梵天にしてもそうだ。梵天を神社に奉納することで、
家内安全、商売繁盛が成就するということを
心底信じられる人がどれほどいるだろうか。

今という時代はきっとそういう時代で、
そこに悲観や回帰行動を持ち込むものではないというのが、僕個人の意見だ。
なぜなら、祭りは必要とされることで初めて「在る」ことができるもので、
必要とされなくなるということは、
役割を終えたと考えるのが妥当だと思っているからだ。
つまり、今、この時代に祭りが在るということは、
遠い時代に生きた人たちの必然を共有しているのかもしれないし、
また一方では、今の時代を生きるための必然、
言い換えれば新たな価値のようなものを見出した結果ではないかと感じてきた。
そして、僕が心の底から見たい、感じたいと思っているのは、
自分と同じ今を生きる人たちが新たに見出した価値だ。
東北の田舎はある意味問題だらけだ。
人口、医療、農業、経済、教育。
おそらく日本という国が抱えるすべての問題をかなりの深刻さで抱えている。
正直なところ、にっちもさっちも行かないという土地もある。
それでも、人は、そこに暮らしている以上、
生きることへの工夫をやめるわけにはいかない。
そんななかで祭りに新たな価値を与え、
土地とそこに暮らす己や仲間に清々しい息を吹き込んでいく。
まるで現代の夢にも例えられるできごとなのかもしれないが、
東北のあちこちで祭りを見ていくなかで、
そういった力を生み出そうとしている祭りにも出会うことがあった。

では、横手の梵天とはどのようなものだろうか。
この一日があることで、そこに暮らす人に何をもたらし、何を生み出すのだろうか。
梵天を担ぎ、4km先にある旭岡山神社に奉納するためには、
最低でも7人程度の男衆が必要だと聞いた。
多くの町内は、20〜30名の男衆で組まれていたが、
なかには最小人数でヘトヘトになりながらも、必死で雪の参道を上り詰め、
皆で梵天を掲げようしにて石段を一歩一歩登り、本殿へと駆け込んだ町内もあった。
もしかしたら、そういった町内のなかには、
人出を確保するのが困難となり、
梵天を続けることが難しくなっている地域もあるかもしれない。
それでも、皆で力を合わせ、今年も梵天をあげる。
そこにはそれぞれが梵天を担ぎ上げるその意味を胸に刻み、
かつ、そこへの価値観の共有があるに違いない。
遠い時代、祭りとは、人間が大いなる物語に身を委ねる時間だった。
そこでは個の存在は消え、
神や仏といった大きな世界のなかに身を投じることができた。
そこではきっと、なぜ、祭りをやるかという理由は
まったく必要ではなかったはずだ。
ところが今の時代、大いなる物語は遥かに遠のいてしまった。
そうしたとき、祭りを続けるために必要なものとは
実はごくごく当たり前でパーソナルな思いではないだろうか。
たとえば、明日もこのまちや家族と一緒に暮らしていきたいと願うような。

梵天を担ぐ横手の男衆や彼らを支える人たちは何を思い、
旭岡山神社を目指すのだろうか。
いつか、ひとりひとりの胸の内を尋ねてみたい思いがした。
横手では、梵天を終えると高く積み上がった雪がゆるみ、
冬の曇り空に春の明るさが宿るそうだ。

横手川を渡る梵天。横手の自然の中での祭りの営みは、どこまでも美しい。

梵天を担ぐこと。そこには簡単に言葉では言えないものが隠されているのかもしれない。

横手では梵天が終わると、季節が長い冬から春へと歩み始めると言われている。

南砺市のこと

真宗王国・南砺で育まれてきた土徳(どとく)、そして民藝。

リバース・プロジェクトと富山県南砺市が新しい取り組みに乗り出している。
まずは、次回以降に紹介する共同プロジェクトの背景にある、
南砺市のすばらしい風土を紹介する。

富山県南砺市を歩いていると、さまざまな場所で柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎、
バーナード・リーチという民藝運動をリードした作家の名前が聞こえてくる。
そして、実際それらの作品にも出合う。
なぜなら彼らと親交のあった版画家(本人は”板画”という)、
棟方志功がかつて南砺に長く滞在し、みんな彼のもとを訪ねていたからだ。

南砺市の福光にある躅飛山(ちょくひざん) 光徳寺の第18代住職、故・高坂貫昭さんは、
1910年に創刊された雑誌『白樺』に寄稿された柳宗悦の文章を読み、
とても感動したという。そうして民藝の精神に傾倒していった。
やがて民藝運動の作家を通じて棟方志功とも交流を深めるようになり、
棟方志功は福光の地に何度も足を運ぶようになった。
その後、戦時中の疎開地として、棟方一家は福光を選ぶことになる。

「福光は棟方先生の第二のふるさとと呼ばれ、
この時代の作品がもっともいきいきとしているといわれています。
ここで生命観や芸術観が養われていったようです」と教えてくれたのは、
高坂貫昭住職のお孫さんにあたる現住職、第20代の高坂道人さん。

高台にある光徳寺は、民藝の作品をはじめ、世界各国の工芸品がコレクションされている。

この頃の棟方の作品の変化に驚いたのが、民藝運動をリードしていた柳宗悦。
柳にとって、それまでは荒々しくも我執の強い作風だった棟方の絵から、
我による濁りが消えたと感じた。

作風の変化に強い影響を及ぼしたのは、
福光に何百年も受け継がれている風土や空気であると考え、
柳宗悦はそれを”土徳”と呼んだ。
柳の造語であるが、浄土真宗の”他力本願”という思想とも深く共鳴する。

「他力とは、自分で切り開くのではなく、なにもかもが阿弥陀様にいただいたもの。
あらゆるものに感謝して生きていくという教えです。
福光は当時から真宗王国です。お念仏に生きた集団がいて、
そのような風土と触れあい、感動されたようです。
”用の美”を唱える民藝は、
そのような浄土真宗の教えと合致するところがありました」と高坂道人さんは言う。

南砺にはこうした信仰風土・精神風土が、歴史的に根付いていた。
その根底には、浄土真宗への篤い信仰心によって育まれた土地柄があった。
何十世代にもわたって積み重ねられた念仏の暮らしが
目に見えぬ土地の風土や力となる。
そうした棟方志功の心を開いたものを、柳宗悦は土徳と名付けたのだ。

板画家・棟方志功が絵を描いた彫刻刀。(光徳寺)

直筆の手紙なども多数残っている。(光徳寺)

南砺の「土徳」に惹かれていった棟方志功。

棟方志功は福光に住むことによって、その教えを身をもって体験していった。
棟方は、以下のように語っている。
「いままではただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、
その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、
このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。
(中略)身をもって阿弥陀仏に南無する道こそ、
板画にも、すべてにも通じる道だったのだ、ということを知らされ始めました。
(中略)仏さまのなすがままに、自分は道具になって働いているだけ。
自分の仕事ではなく、いただいた仕事なのだ」(棟方志功『板極道』[中公文庫])

棟方志功は、福光では毎日のようにお寺の法話に出かけていき、
そこで地域のひとと交流していたようだ。
不思議とこのあたりは、文化的なものに対する素養が高かった。

棟方志功がお寺の鐘に直接絵を描き、彫金師が彫った作品。(光徳寺)

棟方志功と交流のあった日の出屋製菓の川合昭至さんの息子であり、
現南砺市観光協会会長である川合声一さんはいう。
「このあたりは加賀藩。
加賀百万石というように、経済的に余裕があった地域だったんだろうと思います。
ですからパトロンというほどではありませんが、
芸術や文化面を支えることは町人・商人のたしなみだったようです」

アーティストのような”変わり者”をいぶかることなく、
むしろ知りたい、学びたい、交わりたいという気持ちが自然だった。
そしてまちに民藝作品がゴロゴロしている文化レベルの高いまちとなっていった。

日の出屋製菓の包み紙には、いまも棟方志功が書いた文字が使われている。

日の出屋製菓の川合3世代。左から声一さん、昭至さん、洋平さん。店内には、棟方志功の作品などが展示されている。

日本が戦争に負けてどうなるかわからない時代。
東京にいては、描きたくても描けない。
こんなときになにしているんだという芸術に対する反発もある。
そもそも物資も少ないから手当たり次第に描くわけにはいかない。
そんな時代に棟方の代表作ともなった『華厳松』には、こんな逸話が残っている。

「ふすまに絵を描いてほしいと、先々代の貫昭は頼んでいたようです。
しかし寺にとっては大事なふすまだし、おいそれと描くわけにはいかない。
ある日、棟方先生は散歩をしていると突然ひらめかれたようで、
帰ってきてすぐに描くことになりました。
当時は墨汁もないので、近所のひとたちに手伝ってもらって
バケツ3杯ほどの墨を擦り、太い筆もないので細い筆を何本も束ねたようです。
そして6枚のふすまに、とにかく一気に描き上げた。
最後には、バケツに残っていた墨をぶちまけたといいます。
これが棟方先生が初めて描いた松であり、
しぶきを飛ばしながら荒々しく描く
”躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)”
という手法の始まりです」(高坂道人さん)

”躅飛飛沫隈暈描法”によって描かれたダイナミックなふすま。(光徳寺)

現在も残されている棟方志功の住居跡「鯉雨画斎」(りゅうがさい)。
トイレ、風呂場、天井、柱と、いたるところに仏様などの絵が描かれている。
描く喜びにあふれている家だ。
福光時代は、とにかく描きたいという気持ちが強くあった。
そうさせたのも、南砺の土地が持っていた土徳であったのだろう。

柳宗悦もまた土徳に惹かれ、
南砺にある城端(じょうはな)別院 善徳寺で代表作『美の法門』を執筆した。
善徳寺は第1回民藝協会の大会が開かれた場所でもある。

南砺市にある大福寺の太田浩史住職はいう。
「他力の信心とは、物の美の方面でいえば、
究極の美がそのまま雑器のうえに、恵み施されていることです。
その原理を証明しているのが民藝。
柳宗悦が初めて物の美の具体的な事実を通して、
阿弥陀の本願力の法則を証明しました。
阿弥陀といっても現代人には難しいですが、
民藝美という事実が阿弥陀の実在と考えられます。
柳宗悦はこの内的発見を『美の法門』という一文にまとめあげました」

土徳に惹かれて、富山・南砺は民藝の一大聖地となっていった。
棟方志功、柳宗悦、そして民藝運動の方向性には
南砺の土徳が大きな影響を与えていたのだ。

板画家である棟方志功は、それまで書は書かなかったが、初めて徳寺で書いた。(光徳寺)

ジンベエザメ、喰ったど〜〜っ!!(2)

この肝 なんの肝 気になる肝

いやあ、すいません。
前回はジンベエザメを食べる話じゃなくて、
サメに食べられる話になってしまいました。

では、クイズです。
写真のレバ刺はなんのレバーでしょう。①から⑤の中から選びなさい。

①牛 ②豚 ③鶏 ④ジンベエザメ ⑤その他

ふふふ。塩とゴマ油をつけて食べたのですが、
レバ刺し好きにはたまらないでしょう。
2012年7月に生食用牛レバーの販売・提供が禁止され、
食べる機会は激減しましたからね。

肉の食い方にまで国が介入する社会って、
どこか違和感を覚えるのですが、
やはり国が規制しないとダメなんでしょうかねぇ。

生肉を食べるのは、それなりのリスクがあるのはご存知の通りです。

厚労省の食中毒の統計を見ると、戦後間もない1950年代は
毎年約300人、多い年では500人が亡くなっています。

家庭での冷蔵庫の普及、冷凍技術や運送システムの発達とともに
食中毒の死者数は減り、90年代に入るとひと桁になります。

そして死者の数が減ったことに伴い「新鮮であれば大丈夫」と
考えるようになってしまったのでしょうか、
生肉の危険性に対し、鈍感になったようです。

食中毒を起こした焼肉業者のずさんな管理体制や
中国産冷凍食品の危険性を報じている雑誌が、
ジビエ料理で味わうシカの生肉を
「トロけるようにうまい」と載せていました。

さすがに、これはリスキーでしょう。

生肉を食べるといえば、エスキモー。
先日、極北圏のエスキモーの村に20数年通っては、
伝統捕鯨の見習いをしている知人に聞いてみました。

「エスキモーは生肉を食べるからビタミン不足にならないと
よく聞くけれど、本当に生で食べているの?」

答えは「全部の村でどうかはわからないが、
クジラでもアザラシでもセイウチでも、
一度凍らせるか、茹でるなど火を通している。
血の滴る生のままでは食べない」とのこと。

その点、鳥獣の肉に比べると
多くの魚は生で食べても安心です。

クイズの答えですが、正解は⑤。
ホシエイというエイの肝です。

なんだよ、ジンベエザメの回なのに、ホシエイかよ!

いやあ、その通りなのですけれど、
ホシエイのレバーが、あまりにも美味だったので
紹介したかったのです。
エイもサメと同じ軟骨魚類。いわばファミリー。

レバーのコクと白子のまろやかさが合わさったような
独特の味わいで、個人的には鳥獣の肝よりも上だと思いました。
いやあ、うまかったなあ。
こいつがあれば、牛や豚のレバ刺しがなくてもいいかもなあ。

さて、サメやエイを食べるというと東北地方、
それから広島の山間部が有名です。

現在、東京でサメ・エイは一般的な食材とはいえませんが、
関東おでんのネタでお馴染みの「はんぺん」「スジ」。
今ではスケトウダラが主に使われていますが、
もともとはサメ(ホシザメ、アオザメほか)の
肉のすり身から作られたものです。

東京湾にはアカエイも多く生息していて、
昭和30年代くらいまでは食べられていたそうですが、
今ではほとんど流通していないようです。

一部でしか食べていなかった鳥獣の生肉を食べるようになり、
わりと食べていたサメやエイを食べなくなったというわけです。

嗜好の変化って面白いですね。

サメはアンモニア臭いとよく耳にするのですが、
市場で臭いサメ肉に出会うほうが稀じゃないですかね。
肉はふわふわで、煮付けや唐揚げにしても非常に美味です。
しかも小骨がないので食べやすい。

気仙沼産のモウカ(ネズミザメ)のソテー。

青森産のアブラツノザメの蒲焼き。ネットでも入手できます。

本題に戻りましょう。
あれ? 本題ってなんだっけ。
ああ、ジンベエザメだ。

欧米では水産資源としてジンベエザメを利用することはありません。
むしろ保護の対象になっていますが、台湾やフィリピン、
インドネシアの一部地域では食用にもなっているようです。
(前回を読んでくださった読者から、台湾で食べました
との声をいただきました。ありがとうございます)

台湾の水産図鑑に載っているジンベエザメの肉です。

迫力のある肉塊です。
どんな味をイメージします?

インドネシアのレンバダ島に19年通いながら、
銛一本で鯨を捕る伝統捕鯨を追ったノンフィクションに
ジンベエザメの味の感想が載っていました。

《その日、民宿の夕食のテーブルには先日獲れたジンベエザメのスープが登場した。その肉は強烈な臭みがあり、常識的な日本人の感覚では、とても食えたものではない。しかし、食事と言っても残る献立はご飯しかない。やむを得ずかき込んだ。ところが宿の主人をはじめ、村人はご馳走だと喜んで食べていた。慢性の食料不足に悩むラマレラ。ここでは食に対する考え方が根本から違うのかもしれない。食べられるもの、消化できるものはすべて海からの大切な恵みなのだ。》
(『鯨人』石川梵/集英社新書)

ジンベエザメを食べる機会なんてないだろうと
思っていたのですが、去年の夏の終わり、
青森県深浦の定置網にジンベエザメが迷い込み、
発見されたときはすでに死んでしまっていたため、
解体され、この肉が全国の魚食マニアに流れたのです。

僕もとある店で、潮汁のようにシンプルに豆腐と炊き上げた
ジンベエザメをコチジャンでいただきました。

もちろん嫌な臭いはまったくありません。
口にするとふわりとした食感です。

しかし、肉なのに旨みが感じられず、
存在感、自己主張がまったくないのです。
強いていえば豆腐に近い感じ。

もちろん、あれだけ大きいと、
部位によって味は異なるのかもしれませんが、
台湾では「豆腐鮫」と呼ばれているようです。

食べる前は、ものすごく興奮していたのですが、
あまりのあっさり加減に少々拍子抜けでした。
というか、少々複雑な気分。

ヒトは命をいただいて生きることを
痛切に感じた、とかいうのではないのです。

畏敬の念すら抱いていた憧れの存在である
ジンベエザメを食べてしまった罪悪感。
いや、罪悪感ではないな。
むしろ、喪失感に近いかもしれません。

世界最大の魚を食べていながら、
なんかションボリしてしまったのでした。

横手の梵天 前編

雪の朝 梵天奉納のはじまり

横手市役所前に集まった梵天に雪が降りしきる。
大人の梵天のほか、子供梵天も集合する。
「ジョヤサー、ジョヤサー」
ほとんど視界がきかないほどの吹雪のなか、
祭り衣装に身を包んだ男たちが大声で叫ぶと、
横手市役所前にずらりと並んだ30本を超す梵天が
全体に大きくゆらりと揺れた。
と、同時に、先頭で隊列を組んでいた町内が、
梵天を高々と抱え、なだれ込むようにして走り出した。
観衆の喝采を浴びて、そのほかの町内もすぐさま後に続く。
目の前を色とりどりの梵天と白い息を吐く半纏(はんてん)姿の男衆が勢いよく通過していく。
梵天の隊列が目指すのは、ここから4km先、
山上峯の山頂に鎮座する旭岡山神社。
五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、それぞれが祈りを抱え、
梵天とともに凍てつく雪の山を目指すのだ。
2014年2月17日。毎年恒例の梵天奉納の始まりは、厳寒期の横手らしく、
人もまちも、そして梵天も雪で真っ白に染まっていた。

狼煙を合図に、旭岡山神社を目指して出発する。男衆の熱気が一気に膨らむ瞬間だ。

勇壮で華やかな横手の梵天

梵天は秋田を代表する祭り習俗のひとつだ。
大曲(大仙市)の「川を渡る梵天」や太平山(秋田市)の「三吉梵天祭」など、
県外にも広く知られる梵天行事も多い。
横手の梵天も行事の意味合いとしては他のものと同じだ。
町内会や仕事仲間で作った梵天を
五穀豊穣や家内安全などの祈りを込めて奉納するもので、
小正月行事のひとつとして約300年の伝統を持つ。
そもそも「梵天」という言葉は仏教語に由来し、
淫欲を離れた清浄な天を意味することから、
掲げた梵天で邪気が払われ、浄化されると信じられてきた。
また、神が降りる祭場を標示するため、
高く茂った樹木や竿に御幣をつけたことが、
梵天の形状の原型になったとも言われている。

しかし、横手の梵天については、
弘化2年(1845年)横手城主である戸村十太夫が行った
全町あげての巻き狩りがその始まりだという。
約300年前の2月16日夜から始まった巻き狩りは、
全町あげての催しだったため、
町民はもちろん、町の防火、火消し組も参加した。
巻き狩り終了を告げられた17日の夜明けに、この町の火消し、
火防組が、「まとい」を高々と掲げ、装いも勇ましく旭岡山神社へ参り、
無火災祈願する姿が、梵天奉納の原型となったというのだ。
当時の人々の目に映った火消し、防火組の勇ましさと「まとい」の美しさ。
それが今に見る横手梵天の優美さと勇ましさに受け継がれているのである。

優雅さと優美さで知られる横手の梵天。頭飾りは干支や時局ものが多い。また最近は、仕掛けものも見られる。

色とりどりの梵天。町内ごとに伝統があり、それを踏襲しながら新しい飾り付けがなされる。飾りによって、重さが大きく変わってくる。

原始宗教に見る梵天

こうした横手の梵天について、詳しく説明してくれたのが、
横手市観光協会・梵天委員長の若松明さんだ。
75歳を迎えた若松さんは現在、運営側にたって、梵天を指揮しているが、
かつては22年間にわたって“梵天をあげてきた”大ベテランだ
(横手では、梵天奉納のことを「梵天をあげる」という)。
若松さんによると、横手の梵天は他地域の梵天同様、
いわゆる幣束(神祭用具)のひとつなのだが、
優美さや豪快さで抜きん出た存在だという。
まず、特徴となるのは、竿の長さで、全長は4.3mもの杉の木を使う。
この竿先に円筒形の竹籠に頭飾り、鉢巻、紙垂、さがりなど、
町内ごとに意匠をこらした色とりどり、美しい飾りが付くことになる。
これによって、全体の長さは5mを軽く超え、
総重量も重いものになると40kgを超すという。
「これを両手でバランスを取りながら担ぎ持ち、山を駆け登るんだから、
並大抵の腕力じゃできませんよ」と若松さんが語るのももっともである。

また、梵天は幣束であると同時に男性器の暗喩でもあるため、
寝かしたり、倒したりしては縁起が悪いとされてきた。
秋田の梵天は、仏教や修験道に由来すると言われる一方、
原始宗教にその源流を見いだすこともできるという。
男性器をモチーフとするという説は、まさにそういったところだろうか。
縄文へと続く東北の風土の奥行きを感じさせるエピソードのひとつだろう。
なお、梵天は旭岡山神社に奉納するため、基本的には毎年新たに作り替える。

作業は正月明けから始まり、
町内ごとに受け継がれる伝統のスタイルを踏襲しつつ、
頭飾りや細部を作り込んでいく。
祭りのぎりぎりまで、夜な夜な作業場に集まり、
美しい梵天を作り上げるのだ。
こうして各町内が趣向をこらした梵天の細部や美しさは、
本梵天(奉納行事)でも眺めることはできるが、
梵天そのものを見たいのであれば、
本梵天の前日に行われる「ぼんでんコンクール」もおすすめだ。
会場となる横手市庁前に勢揃いした各町内の自慢の梵天の美しさを
じっくりと楽しむことができる。

18歳のときより、22年間にわたって梵天奉納を行ったという梵天委員長の若松明さん。「梵天をやらないことには一年が始まらない」と笑う。

ほら貝を吹くなど梵天には修験道の影響を感じさせるシーンもある。

荒々しく町中を駆け抜ける

神社を目指して駆け出した梵天と男衆は
まず四日町、鍛冶町、旭川町、本郷町などを抜けて、町外れを目指す。
この道のり、梵天を担ぐ男衆はもちろん、応援にかけつけた者も楽ではない。
古いまち並みの狭い道の両脇には雪が高く積まれ、
ますます道幅は狭くなっている。
ここに梵天を抱え、殺気だった男衆が雪崩のごとく駆け込んでくるのだ。
梵天の美しい飾りを暢気と楽しんでいようものなら、
いつ男衆に吹っ飛ばされてもおかしくない状況が続く。
事実、運悪く衝突事故が各所で発生しているのも見受けられる。
とはいえ、怪我がないのも梵天の特徴。
ケンカ山車など、荒っぽい祭りにはある程度の怪我がつきものだが、
「梵天は不思議と怪我はない。神様が守ってくれるんでしょうな」
と若松さんの教え通り、転んでも笑顔で立ち上がって、
梵天を追いかけていく観衆の姿が印象的だった。

道幅の狭い旧市街へとなだれ込んでくる梵天。皆、小走りで駆け抜けて行く。

重い梵天を両手で掲げ、腰を落として運んで行く。腕力はもちろんのこと、バランス感覚が不可欠だ。

旭岡山神社を目指し、進んで行く梵天一行。半纏姿の男たちで長蛇の列となる。

舞台は旭岡山神社へ。
そして圧巻のクライマックス。後編へ続く。

きょうのイエノミ 旅するイエノミ 日本酒と、三陸ワカメ

仕事を終えたご褒美はおいしいお酒とおつまみ。
リラックスしたいなら、きょうはイエノミにしませんか。
神奈川県・横須賀市在住の料理研究家・飛田和緒さんに教わった、手軽で簡単、
しかもちょっとした旅気分が味わえる日本各地のおいしいものと
三浦半島の旬の食材を使った、和酒に合うおつまみを季節感たっぷりにご紹介していきます。

ようやく本格的な春がやってきました。
料理研究家・飛田和緒さんが住む三浦半島では
いちはやく菜の花が満開になり、続いて浜辺が一気に活気づきます。
春を告げるワカメ漁やハバ海苔(岩海苔の1種)づくりが終わったと思ったら
お次は釜揚げヒジキ、待望のシラス漁解禁ときて
裏山のタケノコがにょきにょきと伸び始めたら春本番。
ひと雨ごとに暖かくなる気配を感じながら
海と山からのうれしい到来物をせっせと料理する飛田さんです。
きょうのイエノミのおつまみは、そんな身近な旬の素材ばかり。
おいしい日本酒と一緒に、春の恵みを思う存分味わってみませんか?

2月頃から、飛田さんちの食卓は「ワカメ尽くし」になることもしばしば。
ワカメと卵の炒めもの、ポタージュ、フリット、オムレツ。
仲良しの漁師さんが生の新ワカメをどっさり届けてくれるので
自然と料理のバリエーションも増えていったのだとか。
なかでも飛田さんがワクワクするのが、生のワカメをゆでるとき。
「熱湯にくぐらせた瞬間、パッと鮮やかな緑になるのね」
こんな楽しみ方を知ったのも、海辺のまちに住んでから。
東京にいた頃は、ワカメの旬を意識することもなかったそうです。
いまでは、ゆでて冷凍するだけじゃなく、カラカラに干して保存するワザも取得。
生ワカメをいただくと「明日晴れるといいな」と思うほど。
なのに、わざわざ取り寄せてまで食べたい
そんなワカメが飛田さんにはあります。

●ローカルな逸品「気仙沼市・マルニシの三陸ワカメ」
たかがワカメといえなくなる三陸の海の恵み。

そのワカメと出合ったのは3年前。
友だちにもらったのがきっかけでした。
ふだん食べ慣れている相模湾のものはしゃきしゃきした歯触りだけど
そのワカメは肉厚なうえになめらかで、明らかに食感が違う。
きょうも、煎りたての胡麻をぱらりと振るだけ。
そのままで食べるのがいちばんおいしいそうです。
自家製味噌のポン酢だれや、柚子胡椒を合わせた醤油を用意し
大事にいとおしむように日本酒と一緒にいただきます。
それは宮城県気仙沼市にある「マルニシ」のもの。
飛田さんが3年前にいただいた岩手県野田村産ワカメは
津波の被害を奇跡的に免れた貴重なものだったのです。

複雑なリアス式海岸が広がる三陸沿岸は
日本一のワカメ産地としても知られていますが
マルニシの新妻さんに電話でうかがってみると
地震が起きた3月11日はワカメ漁のまさに最盛期。
三陸ワカメだけを扱う専門問屋・マルニシは
市内3か所にある工場は全壊と大規模半壊、
ワカメを保管していた冷蔵施設も3か所が全壊しました。
ただ、被災しながらも唯一残った冷蔵施設の3階部分だけは
津波に耐えたのか停電にもかかわらず-11度をきっちりキープ。
その限られた在庫をもとに4か月後に営業を再開したそうです。

とはいえ、三陸のワカメ産地はどこも甚大な被害を受け
生産量は3年たったいまも、震災前の約7割。
「でも、今年は特に出来がいい感じですね」
2014年こそ三陸ワカメ復興の年にしたい、いやそうなるはず。
そんな願いが込められた新ワカメが、いま収穫期を迎えています。
「同じ三陸といっても、浜によってワカメの個性が違うんですよ」
それは食べ比べてみればわかるはず、と新妻さん。
鮮やかな緑が美しく香りがよい宮城産。
深い緑色でもちもちと肉厚な岩手産。
美しい原生林と、その森から流れる川に含まれる栄養分と
「本気の漁師さん」たちが大切に育んできたのが三陸ワカメなのです。
北は岩手県久慈市から、南は宮城県石巻市まで。
「南から行くと、十三浜、志津川、歌津、階上(はしかみ)……」
すらすらと歌うように浜の名前を数え上げる新妻さん。
そのすべての浜のワカメを食べ比べできる日が、早く来ますように。

『マルニシ』(宮城県/気仙沼市)の三陸ワカメ

●お取り寄せデータ

住所:宮城県気仙沼市西八幡町23

電話:0226-22-1235(直売所直通)

FAX:0226-24-4160

営業時間:9:00~17:00 (直売所) 日祝休

Webサイト:http://marunishi.jp/

※飛田さんが取り寄せたのは岩手県野田村産と大船渡市末崎地区産の塩蔵品、宮古市田老町産天然わかめ。お試しなら「三陸わかめ」(宮城県南三陸町産)150g 280円を。

※三陸のワカメはすべて自主検査済み。安全安心という確認がとれている。

●便利な常備菜「タケノコのおかか煮」
ご近所からいただくタケノコはまずシンプルに。

春はなにかとあわただしい季節ですが
飛田さんの場合、タケノコをどっさりもらうのもその一因。
ご近所の知り合いがみんな裏山のタケノコを持ってくるので
なるべく早くゆでて、できれば友人にもおすそ分けせねば、とキッチンで大奮闘。
ようやくゆでおわり、冷蔵庫に収めたと思ったら
次のタケノコが到来なんてこともしばしば。
「だから炊き出しにも使えそうな巨大な寸胴鍋を買ったのよ」
うーん、その気持ちはよくわかる。
わかるけど、それじゃこんどは冷蔵庫がパンクしそうな気が……
そんな飛田さんがいちばん好きなタケノコ料理がこちら。
下ゆでしたタケノコにじっくり味を含ませ
ぱぱっとおかかをふっただけのシンプルな春のご馳走です。
おかかのかわりに実山椒のつくだ煮を加えてもおいしいんだとか。
ちなみに飛田さんは、タケノコを水煮と味付けの2通りで保存します。
その味付けバージョンのベースにもなるこのレシピ。
タケノコフライやステーキなど、簡単にアレンジできるからなるほど便利かも。
これなら冷蔵庫内の回転もよさそうですね。

タケノコのおかか煮

●つくりかた

ゆでたタケノコを大ぶりに切る。

1を鍋に入れダシをひたひたに注ぐ。

2に薄口醤油とみりんを同量入れる。

3が煮立ったら落とし蓋をして弱めの中火で20分ほど煮る。

熱々のうちにおかかをかけてさます。

※日持ちは約3日。市販の水煮タケノコを使ってもいい。

●簡単おつまみ「アサリの春野菜蒸し」
色鮮やかな緑の野菜で春色を楽しんで。

見た目がパッと鮮やかで食卓が華やぐのがこちら。
「おもてなしのとき、よく最初に大鉢でドンとおいちゃうの」
作り方が本当に簡単で、しかもすぐに出来るので
とりあえず、のおつまみにも最適なのです。
きょうは春になっておいしくなるアサリに
スナップエンドウと菜の花をどっさり載せて蒸しあげましたが
この野菜だってなんでもいい。
キャベツやインゲン、絹さやにセリ、三つ葉。
お好きな野菜で、アレンジしてみてくださいね。
また、アサリと野菜から出たスープがなんともおいしくて
飛田さんはいつもアサリの殻ですくって飲んでしまうほど。
日本酒を適当にひとまわしするだけで、
調味料を特に加えなくてもおいしいのだから、アサリってエライ。
そうそう、菜の花は筋をむくと口当たりがよくなるので
ゆでて使うときもぜひ試してみてください。
多めにつくって余ったら、少し水を足してアサリ雑炊にしても
とてもおいしくいただけるそうですよ。

アサリの春野菜蒸し

●つくりかた

砂抜きしたアサリをよくこすり洗いする。

菜の花は筋をとり食べやすい大きさに切る。

スナップエンドウは筋をむく。

鍋にアサリとオリーブオイルを入れ2と3をざっくりのせる。

4に日本酒をひと回ししてから蓋をして中火で蒸し煮する。

アサリの口が開いたらできあがり。

※味見して塩気が欲しければ塩少々を加える。

●きょうの和酒 松竹梅「白壁蔵」< 生酛純米>
ワイン文化が根付いたヨーロッパでも大好評です。

昨年末、ユネスコ無形文化遺産に
「和食:日本人の伝統的な食文化」が登録されたことは
神戸・灘の「白壁蔵」で働く人々にとっても大きな喜びとなりました。
日本酒の伝統的な仕込み方「生酛造り」にこだわり
本当の意味で食事に合うおいしいお酒を造ろう。
その方向性が間違いではなかったと勇気づけられたからです。
もともと、松竹梅「白壁蔵」< 生酛純米>は
食卓で映えるボトルデザインやコルクキャップなど
海外でも喜んでもらえる「和酒」として誕生しました。
厳選された酒造好適米と米麹、灘の宮水を使い
お米の旨さを酵母や乳酸菌による発酵で最大限に引き出した
柔らかでふくよかな味わいは、どんな食事シーンにもぴったり。
ぜひ料理との相性の良さを確かめてみてください。

松竹梅「白壁蔵」〈生酛純米〉640ml

○問合せ先/宝酒造株式会社

お客様相談室

TEL 075-241-5111(平日9:00~17:00)

http://shirakabegura.jp/

だらすこ工房  仮設住宅にお住まいの大工さんたちが、 太陽光発電所を建てたら地元で大評判。

三陸海岸の北の端、
久慈駅から三陸鉄道北リアス線に乗って二駅め、
陸中野田駅を過ぎると間もなく、左手に三陸の広い海が現れる。
「ここは東日本大震災で三陸鉄道が最も大きな被害を受けた海岸です」
そんな車内アナウンスが流れた。

見ると、未だに破壊されたままの堤防の周りで復旧工事が続いている。
右手には、まるで荒野のような雪原が広がっている。
しかし、ここにはかつて10メートルの津波にも耐える防潮堤があり、
さらには鉄道を覆い隠すように、黒松の防潮林があった。
右手の雪原には村の中心部があり、500世帯近い民家や商店街があった。

かつてここには黒松の防潮林があり、この位置からは海はもちろん、三陸鉄道の線路も見えなかった。

ここは岩手県九戸郡野田村。
東西11.3km、南北13.8km。
人口は4000人をわずかに越える小さな村で、
村の北と西は久慈市に隣接し、
連続テレビ小説『あまちゃん』で有名になった久慈市の小袖漁港は、
岬をひとつ隔てた隣の海にある。
そして、今回の話の主役である5人の男たちも、
かつては村の中心部で暮らしていた大工さんや漁師さん。
全員が、あの大津波で家を失った。

「それはもう、すごい揺れだったよ。
でも子どものころ、揺れたら30分以内に逃げろって、
年寄りから何度も聞かされてたから無事だったんだ」
と、メンバーで最年長の広内幸作さん。
「オラは浜にいたよ。岸壁でタコを探してたら地震が来てよ、
その場でしゃがみ込んだら、山の上の岩が崩れるのが見えたんだ。
あれを見て、これは危ない、逃げろって」
と、若い頃から関東地方に出稼ぎに出ていた石花 栄さん。
「津波が来ることは地震が教えてくれるんだ。
でも、あれほど大きな津波が来るとは思わなかったな」
と、仮設住宅で自治会長を務める畑村 茂さん。
「幸い野田の場合は山が近いし、山に向かう道がいいから、
助かった人が多かったんだろうな。
もしも海沿いの道ばかり整備されていたら、
被害はもっと大きかったはずだよ」

村の中心部からクルマで5分も走ると深い森の中。そこに雪に埋もれた工房があった。

工房に隣接する談話室。室内は薪ストーブで暖かい。

この日は、郷土料理の「とうふ田楽」で使う串が作られていた。

「だらすこ」とは、この地方の方言で「ふくろう」の意味。
主宰する大澤継彌さんは親戚からこの場所を借り、
25年くらい前から個人で工房暮らしを楽しんでいた。
「村で家の引っ越しや建て替えの話があるたびに、
何か捨てるものがあれば、ここに持ってきてくれって声かけて、
こうしてひとりで建て増しするわけさ」
言わば大人の隠れ家、秘密基地のようなものだった。
それが震災を機に、大きな役割を担うことになる。

仮設住宅では、いつも、
何か作りたくてうずうずしていたんだ。

野田村には、長年の出稼ぎ生活で技術を身につけた、
ご高齢の大工さんや土木技術者、職人さんが多い。
しかし震災で住む家も道具も仕事も失い、すっかり元気をなくしていた。
「仮設住宅には、男の居場所がないんですよ。
部屋でテレビを見たり、あてもなく散歩したり。
もちろん集会所はあるけれど、あそこは女性たちの天下です(笑)。
何か作りたくてうずうずしている男たちにとって、
お茶を飲みながら談笑しているだけでは我慢できないからね」

そこで大澤さんは、仮設住宅の自治会長を務める畑村さんに声をかけた。
「うちの工房を男の集会所にしませんか。道具だったら揃ってますよ」
そこから先の話は速かった。
すぐに現在のメンバーが集まり、
お茶を飲む間もなく、全員が木工の道具を触り始めた。

まず初めに、津波で跡形もなく倒された、防潮林の黒松を持ち込んだ。
瓦礫となっていた村のシンボルが、
次々に落ち葉や、魚や、ふくろうに姿を変えていく。
素朴な温もりのある箸置きやアクセサリーは、
地元の道の駅や商店での販売が始まり、今でも作られ販売されている。
併せて小学校を訪問して木工教室を開くなど、対外活動にも忙しくなった。
工房を訪ねてくる子どもたちも増えた。

「これが工房で作った最初の作品」と畑村さん。津波で倒された防潮林の木材を使って、葉っぱの形の箸置きを作った。ところでこの村では、たびたびこの網カゴを見かける。縦に繋げて吊すこともできる。これはホタテの養殖に使われるものらしいけれど、何にでも使えて便利そうなのだ。

赤坂正一さんも長年の出稼ぎで技術を磨いたひとり。「お互いに文句を言い合うこともあるけど、ここでものを作ることは何より楽しいよ」

「ちょうどそんな時に、知り合いの紹介で、
太陽光発電所を作らないか、という話が舞いこんできたんです」
小規模の太陽光発電の普及活動を行うNGO、「PV-Net」からの相談で、
このあたりに用地を探しているという。
「だったら工房の向かいの土地は日当たりもいいし、
ご自由にお使いください。とお伝えしたところ、
いや違う、発電所の建設も運営も、すべて我々で行うということなんですよ」

全員がプロだもの、
発電所を建てるなんて簡単だよ。

「だらすこ工房」が発電所を建てて運営する?
最初は途方もないことのように思われた。
しかし太陽光発電所の構造は、
単管パイプを組み合わせて、上にパネルを載せるだけ。
高さはパネルの台になる部分さえ揃っていればいいので、
用地には多少の凹凸があっても何も問題はない。
「建設現場でおなじみの、足場を組むのに使うパイプです。
発電所の場合は、もう少し肉厚のパイプを使いますが、
あれを組むことはみんな得意ですからね」
ただしパネルは太陽に向けて傾斜させて並べるので、
後ろのほうほど長いパイプが必要になる。
基礎を打ち込むには重機も登場し、それなりの技術も必要になる。
しかしこのメンバーには、すべての工程において専門家がいる。
最初に技術指導を受けた後、あっと言う間に完成させてしまったのだ。

大澤さんと薪ストーブを囲む、メンバー最年長の広内さん(写真左)。このストーブは、小型ながら本当に暖かい。100%自然エネルギー。簡単な煮炊きもできるし、復興には欠かせない道具のひとつだ。

ひまを見つけては雪かきをしている石花さん。70歳とは思えない足腰。「毎日こういうことやってれば、丈夫にもなるさ」

総工費は約1800万円。総発電量は約50kW。
およそ30世帯の電力をまかなう発電量だという。
費用は市民ファンドを通じて、ひと口10万円で一般からの投資を募った。
売り上げの1%は、配当金として投資家に還元される。
発電された電気は100%電力会社への売電で、
毎月の売り上げは、およそ15万円から20万円ほど。
売り上げは毎月、ブログを通じて報告されている。
太陽光発電に関する専門的な知識や、
発電所の運営、さらにメンテナンスの方法などは、
前述のNGO、「PV-Net」からのサポートが受けられる。

「太陽光は発電できる容量が決まっているから、
この数字を増やそうと思えば新たに建てなくてはなりません。
もちろんこれで終わろうとは思っていないけど、
我々はメガソーラーを目指しているわけではないし、
おカネのために始めたわけじゃないからね。
お互いに顔のわかる地元の仲間や投資家の皆さんと一緒に、
こういうものを作ることが大切なんです」

静かな森の工房に、
若い見学者が集まり始めた。

発電所開設は2013年の6月。
以来、毎日のように訪問客が来るようになった。
「村の子どもたちはもちろん、
大学生がツアーを組んで来たこともあったし」
「関東からも見学ツアーが来るようになったね」
「おかげで標準語も覚えたな」
「村に下りると、知り合いから声かけられるのさ。
『オマエのとこの電気、売れてんのか』って。だから言ってやるよ。
『なぁに言ってんだ。あんたの家の電気も、
オラんとこで作ってるかもしれないんだぞ』って」

「せっかく若い人も訪ねてきてくれるようになったから、三陸の昔話を聞いてもらう機会も増やしたいなぁ」と大澤さん。

写真からもわかる通り、このメンバーはとにかくお元気だ。
いったん話が盛り上がると、全員が一斉に話し始める。
だから誰の話を聞いていいのかわからなくなる。
「こんなに楽しいことやってると、病気しているヒマないもんな」

復興で新たに生まれるまちには、
自立するためのテーマが必要なんだ。

震災直後、野田村では電気の来ない期間は1週間、
断水は2週間も続いたという。
被災地の中でも特に首都圏から遠く、交通も断たれていたため、
取材に入るメディアが少なく、
村のようすが報道されることはほとんど無かった。
「あの1週間はなぁ、何も情報が無いんだもの。
どうしていいのかさえわからなかった」
それでもここは顔見知りばかりの小さい村。
お互いに声をかけあって、役場が配るチラシや防災無線を頼りに、
震災後の混乱をどうにか切り抜けたのだという。

膝から腰の深さまで積もった雪をスコップでかき分けながら、自慢の発電所に向かう。

パネルを覆う雪は思いのほか深かった。しかしこの作業を怠ると、パネルは発電してくれない。

小さい村だからこそ話がまとまるのも早いのか、
野田村では県内でもいち早く被災住宅の高台移転が決まり、
すでに造成工事が始まっている。
「野田ばかりではなく、これからは東北地方の各地で、
このような新たなまちや団地が作られていくだろうね。
だったらせっかくの機会だから、計画を立てる前に、
どんなまちを作りたいのか、テーマが欲しいよなぁ」
と大澤さんは語る。
「私だったら災害に強い団地作りをテーマにするね。
そのためには、団地がエネルギーから自立する必要がある。
これから建てられる住宅の屋根に5kWのパネルを乗せるだけで、
1週間も情報が断たれるなんてことは、なくなるかもしれないからね」

裏から見るとこの通り。建設現場の足場に使う単管パイプよりも肉厚なパイプなのだという。後ろに行くほど長くなり、工事も難しくなるらしい。

たとえば50棟新設される住宅の屋根に5kWのパネルを乗せたら合計250kW。
すでにこの発電所の発電量を上回る。
野田村の一般家庭の消費電力の場合、
5kWのパネルであれば半分近くは余り、売ることもできるという。
そのためには計画段階から全戸南向きに作るなど、
太陽光発電に合わせた団地の設計が行われなくてはならない。
だからこそ、最初にテーマが必要になるというわけだ。
「もちろん、村全体をまかなえるほどの発電量には遠く及ばないけど、
計画が、そういう方向を向いていることが大切なんです。
復興の速さや内容は被災地によってさまざまだろうけど、
我々の技術や経験が必要になるのであれば、できる限り出向きますよ」

「だらすこ工房」のメンバー。左から、広内幸作(ひろない・こうさく)さん、80歳。畑村 茂(はたむら・しげる)さん、65歳。石花 栄(いしはな・さかえ)さん、70歳。大澤継彌(おおさわ・つぐや)さん、68歳。赤坂正一(あかさか・しょういち)さん、64歳。

取材の前日、この地方では珍しいほどの大雪が降った。
インタビューを終えると、メンバー全員で発電所の雪下ろしに向かう。
言うまでもなく、パネルが雪で覆われたら発電できないためだ。
腰まで積もった雪をスコップでかき分けながら、
苦もなく進む、平均年齢70歳に近いメンバーたち。
「これで孫たちにも自慢できるでしょう。
お爺ちゃんだって、やればこんなもの作れるんだぞ、って。
少子化なんだから、年寄りだって頑張らなきゃ。
これで若い人たちが続いてくれたら、もう言うことはないな。
そして何より、ここで元気な姿を見てもらうことが、
震災で支援してくれる全国の人たちへの、最高の恩返しなんだよ」

information


map

だらすこ工房

岩手県九戸郡野田村大字野田7-116
TEL&FAX. 0195-75-3923 
http://www.darasuko.com/

春のおでかけに 「おでかけコロカル」を活用する でござる!の巻

春のおでかけ、楽しみでござる〜♪

にんにん! コロカルくんでござる!
春はもうすぐそこ。おでかけの季節でござるね〜。
おでかけ情報と言えば、コロカルいちおしなのが「おでかけコロカル」。
地域のフリーペーパーやZINE、シティガイドをつくっている人たちと協力して、
地元民おすすめのスポットを中心に紹介しているでござる。
この春の旅行にぜひ役立ててほしいでござる〜!
今回はこの「おでかけコロカル」から、特選3地域を、
最新情報を交えてご紹介するでござる!

大分(別府編)より

まずは、大分から耳寄りな情報。
大分県の国東半島で、今年秋に「国東半島芸術祭」が開催され
そのプレイベントとして3月1日~23日に
「国東半島アートプロジェクト」が開催されるでござる。
舞台芸術家の勅使河原三郎がダムの周囲で作品を展開したりするようでござるよ。
http://kunisaki.asia/

そんな芸術のまちの国東と合わせて、
温泉と美食のまち別府に立ち寄ってみてはいかがでござるか?
コロカルくんが注目したおでかけスポットは、
温泉の高温の蒸気で食材を蒸す、鉄輪(かんなわ)ならではの調理法
「地獄蒸し」を気軽に楽しめる「地獄蒸し工房鉄輪」でござる!
塩気のある温泉の蒸気で蒸された食材は、ほんのり塩味が染み、
素材の味が凝縮されているそうでござる。じゅるり〜。
食材は持ち込みも可能。
地元の八百屋さんや魚屋さんをめぐり、
食材を探すのもおすすめだそうでござる!

しまなみ編より

1年中気候がおだやかなしまなみの最新情報でござる!
今日は、3月3日「ひなまつり」でござるが、
鞆の浦では「第12回鞆 町並みひな祭り」が開催されているでござる。
3月16日までの期間中、店舗や町家 約100か所でお雛様が飾られ、
おもむきある鞆のまちに彩りを添えているでござるよ!
http://www.dlsetouchi.com/news/2014/02/post-8.html

そんなしまなみ海道で、春にやりたいアクティビティと言えば、サイクリング!
世界で唯一、自転車で横断できる海峡、“瀬戸内しまなみ海道”は、
世界中からサイクリストが集まる名所でござる。
サイクリストたちの無料休憩所「よりみちや」で特産の柑橘類のジュースが飲めたり、
初心者でも無理なく楽しめるでござるよ!
JR尾道駅前でレンタサイクルも可能でござるので、手ぶらでOK!
春風に吹かれて、サイクリングなんていかがでござるか?

伊豆大島編より

伊豆大島からもチェックチェック! な春のイベントの情報でござる〜
おでかけコロカル伊豆大島編を編集してくれた、
「to-on」のメンバーが運営するkichiにて、3月15日(土)より一週間、
画家/イラストレーターの朝倉弘平さんの個展を開催予定でござる。
初日の15日(土)にオープニングパーティを同じくkichiで開催するでござるよ〜。

朝倉弘平さんのホームページ
http://www.asakurakouhei.com/

いま、伊豆大島では椿が見頃を迎えているでござるが、
やっぱりおみやげに買って帰りたいのは、椿油!
おでかけコロカルでは、「高田製油所」さんを紹介させていただいたでござる。
良質な椿の実からつくられる椿油は黄金色に輝いているでござる!
ヘア&スキンケア用と食用と両方製造しているでござるよ〜
椿を目で愛でて、肌でも感じてほしいでござる〜。

いかがでござるか?
まだまだ知らないニッポンだらけ! でござるね〜。
これからもコロカルは、全国の知られざるおでかけスポットを発掘していくでござる!
乞うご期待でござる〜!

きょうのイエノミ 旅するイエノミ スパークリング清酒と、 厚岸(あっけし)の牡蠣

仕事を終えたご褒美はおいしいお酒とおつまみ。
リラックスしたいなら、きょうはイエノミにしませんか。
神奈川県・横須賀市在住の料理研究家・飛田和緒さんに教わった、手軽で簡単、
しかもちょっとした旅気分が味わえる日本各地のおいしいものと
三浦半島の旬の食材を使った、和酒に合うおつまみを季節感たっぷりにご紹介していきます。

2月も立春を過ぎれば、もうそろそろ春の気配。
料理研究家・飛田和緒さんも次第にそわそわし始めます。
家から見える海が柔らかな色合いになってきたら
気になるのがお雛さまを飾るタイミング。
そういえば、昨年末「和食:日本人の伝統的な食文化」が
ユネスコ無形文化遺産に登録されましたが
飛田さんも日本の伝統的な行事食はきっちりと作ります。
なかでも、どんなに忙しくても毎年楽しみにしているのが
「桃の節句」にいただく「おひなごはん」だとか。

この時期には女ともだちと料理を持ち寄り
「大人女子会」を開くことも多いという飛田さんですが
そんなときに大活躍するのが、北海道の牡蠣と京都のおつけもの。
どちらも早春には欠かせない「これさえあれば」のお取り寄せ定番です。
きょうは「おひなごはん」風にちょっとアレンジしましたが
イエノミならそのまま出すだけでも充分過ぎるほどおいしい。
特に北海道・厚岸(あっけし)の牡蠣は、飛田さんの大好物。
「あればあるだけ、あっというまに食べちゃうから」
あえて小さめのサイズをたくさん取り寄せるという本気モード。
そしてこの牡蠣が、スパークリング清酒とは抜群の相性なんですね。
「日本の牡蠣は、やっぱり日本のお酒に合うと思うの」
それがフランスでも牡蠣を食べまくった飛田さんの感想でした。

●ローカルな逸品「厚岸町・厚岸漁業協同組合の牡蠣」
厚岸の自然が育んだ牡蠣はシンプル・イズ・ベスト。

飛田さんが厚岸の牡蠣を知ったのは20年ほど前。
焼き牡蠣を連載記事で紹介したいと思ったのに
ちょうど時期外れで牡蠣が手に入らない。
でも北海道・厚岸のものなら日本で唯一、一年中食べられると聞き、
あまり期待せずに取り寄せたそうです。
それが実際食べてみてびっくり。
「ものすごくおいしかったうえに、お値段も手頃だったのね」
じゃ、食べたいときに食べられる、バンザーイという感じで
それからずっと、厚岸の牡蠣LOVE状態が続いているそうです。
きょうはまだ寒かったので、レンジの上で焼き牡蠣にしていただきましたが
半レア状態でぷりぷり、ものすごくジューシー!
濃厚な海の味がするから、もちろん調味料なんて必要なし。
「そうでしょ、だから絶対焼き過ぎないでね。中のおつゆもこぼさずに」
だから、殻のふくらんだ方を下側にして焼くのが鉄則。
牡蠣の口がちょっと開いたら、もう食べ頃ですよ。

でもどうして厚岸だけは、一年中牡蠣が食べられるのか?
不思議に思ったので、厚岸漁業協同組合に聞いてみました。
「それはですね、海水温が夏でも低いからですよー」
そう教えてくださったのが、漁協直売店店長の安藤さん。
海水温が低いから、牡蠣の成長は遅いけれども
その分、じっくり育つのでうまみが濃くなるそうです。
「冬は氷の下で育つしね、いわば鍛えられた牡蠣だから」
ちなみに電話をしたときに気温を聞くと
「今朝は15度でしたよ。いまは6度くらいかな」
え? 暖かいですねと驚いたら、なんとマイナス抜きの気温でした。
さすが北海道太平洋岸! 雪は少なめでも寒さは半端じゃないんですね。

でも厚岸の牡蠣のおいしさの秘密はそれだけじゃない。
地形そのものが、牡蠣の養殖にはぴったりなんだそうです。
なかでもびっくりしたのが、その育て方。
厚岸は厚岸湾と、塩分が外海の約3分の1という汽水湖・厚岸湖に囲まれており
ある程度、湾内で成長した牡蠣は湖に移し「味を調えてから」出荷するのだとか。
しかも周辺は見渡す限りの原野と湿原という太古以来の豊かな自然環境。
「孫や子のためにも、この自然を守らないとね」と安藤さん。
厚岸という地名も、アイヌ語の「アッケケシ」
「牡蠣の多いところ」という言葉からきています。
なるほど、大自然の恵みを人が大切に育んだのが厚岸の牡蠣なんですね。
いまでは「カキえもん」というブランド名でも知られていますが、
なんでも直売店の店内には電子レンジやお皿、ラップも用意され
買った牡蠣をその場で手軽に食べることができるのだけれど
特に真夏のお盆の頃(!)は、ものすごい大行列ができるんだとか。
うーん、日本も広い、さすが北海道だと思いませんか?

『厚岸漁業協同組合』(北海道/厚岸町)の牡蠣

●お取り寄せデータ

住所:北海道厚岸郡厚岸町港町5-3(直売店)

電話:0153-52-0117

FAX:0153-53-3200

営業時間:9:00~17:00 無休

Webサイト:http://www.a-uroko.or.jp

※カキえもんは1個180円から。生食がお薦め。
マルえもんは1個120円から。焼き、蒸しがお薦め。

●便利な常備菜「ひじきの五目煮」
春を告げる三浦ひじきは華やかな五目煮で。

思わずおおーっと歓声があがったのがこちら。
黒っぽくて地味な存在だと思っていた「ひじき」だけど
春らしい緑の豆が加わると、ものすごく華やいで見える。
きょうは旬のグリーンピースをさっと塩ゆでして使いましたが
ひじきの煮物って実は何を入れてもいいんですね。
しかも多めに作っておけば「ものすごく便利よ」と飛田さん。
ごはんに混ぜこんでとろとろ卵をのっけたひじきオムライス。
オリーブオイル、ニンニク少々と一緒に炒めてひじきスパゲティ。
それならたっぷり作っても大丈夫、冷蔵庫にあると思えば心強いかも。
飛田さんの「ひじきの煮物」は砂糖を入れたり炒めたりしない。
鶏出汁ベースだからコクはあるけどあっさりしたお味なので
他の料理にもアレンジしやすいのかもしれません。
また、ここ三浦半島では春になると釜揚げひじきが手に入る。
柔らかだし風味が良いのでサラダや酢のものにしてもおいしい。
「早く新玉ねぎと合わせた甘酢サラダが食べたいな」と
海辺が釜揚げの湯気で活気づく季節を待ち望む飛田さんです。

ひじきの五目煮(常備菜)

●つくりかた

乾燥ひじきはさっと洗い、たっぷりの水で戻す。

下ゆでしたコンニャク、皮をむいたニンジンを8mm角に切る。

鍋に水気をきった1と2、水煮缶詰の大豆を入れる。

3に鶏出汁をひたひたに入れて中火にかける。

煮立ったら醤油を加えて落としぶたをし、弱めの中火で煮る。

さやから出して下ゆでしたグリーンピースを5に加える。

そのまま冷まして味をなじませる。

※日持ちは冷蔵保存で約3日間。ときどき火を入れ直すと持ちがよくなる。
鶏出汁を簡単に作るなら鶏ガラスープの素を使って。

●簡単おつまみ「つけものすし」
京つけもの×酢飯で雅なおつまみに。

「桃の節句」に絶対欠かせないのがちらし寿司。
80歳になっても作り続けようと思っている飛田さんですが
「早い話、酢飯自体が好きなのよね」と
普段から気軽に酢飯を作っていただくことも多いとか。
たとえば小さなひとくちサイズに握って
お気に入りの京つけものを載せると、可愛らしいおつまみに大変身。
さっぱりめの酢飯と、つけものの自然発酵由来の優しい酸味が実によく合うんです。
きょうは「千枚漬フリーク」飛田さんお気に入りの
京都『たかしん』から取り寄せたつけものを使いましたが
「家にあるものならなんでもいいわよ」とのこと。
白菜漬、沢庵、野沢菜、味噌漬、しば漬、糠漬など
冷蔵庫であまっているものを、いろいろと試してみてくださいね。
ただ、おもてなしならおつまみとして最初に出しちゃって。
「じゃないと、ずっと握り続けて、お酒が飲めなくなるの」
って、飛田さん、やっぱり相当イケるクチですよね。
そもそもスパークリング清酒や日本酒も米を発酵させたものだから
酢飯や発酵食・つけものと相性がいいのは当たり前かも。
発酵×発酵の和食ならではのマリアージュをぜひ楽しんでください。

つけものすし(簡単おつまみ)

●つくりかた

昆布を入れて米を炊く。

つけものを適度な大きさに切り、固まりなら薄切りにする。

1が炊けたらご飯を飯台に移す。

3にすし酢を回しかけ、しゃもじで切るように混ぜる。

4をひとくち大の俵型に握る。

5に2のつけものを載せて軽く握る。

※飯台がなければ大きめのボウルで代用するか、すし酢で炊きこんでもいい。
すし酢の割合は酢と砂糖同量に塩少々。市販のものを使えば簡単。

●飛田さんのお気に入りつけもの店。

京つけもの たかしん(京都市/左京区)

住所:京都市左京区聖護院川原町13

電話:0120-77-5930

FAX:075-771-2600

営業時間:8:00~19:00 無休

Webサイト:http://www.cyu-ou.com/takasin/

※千枚漬は3月末まで。

●きょうの和酒 松竹梅 白壁蔵 「澪」(みお)スパークリング清酒
乾杯はお米から生まれたスパークリング清酒で。

米と米麹でちゃんと造られた日本酒をより飲みやすく気軽に楽しんで。
そんな思いから「白壁蔵」で開発されたスパークリング清酒「澪」は
昨年9月に販売ルートが拡大されて以来、多くの人々に親しまれてきました。
アルコール分は5%と控えめながら、お米本来のほのかな甘みとほどよい酸味、
きれいな泡、軽やかな飲み心地と美しいブルーのボトルで
ちょっと華やかに演出したいイエノミやパーティにぴったりです。
この「澪」は、いま日本以外の世界の街でも大評判。
「ユネスコ無形文化遺産」に登録された「WASHOKU」の広がりとともに
飲みやすい日本のお酒として、認知度も高まってきています。
ならば私たちも、伝統的な行事やお祝いの席ではもちろん
日々の暮らしのさまざまな「うれしい瞬間」を
お米から生まれた和酒・スパークリング清酒「澪」で乾杯しませんか。
お気に入りのグラスで、泡の心地良さを存分に楽しんでくださいね。

松竹梅白壁蔵「澪」(みお)スパークリング清酒 150ml 300ml 750ml

○問合せ先/宝酒造株式会社

お客様相談室

TEL 075-241-5111(平日9:00~17:00)

http://shirakabegura-mio.jp/

ジンベエザメ、喰ったど〜〜っ!!(1)

ジンベエザメは好きですか?

大きな生き物というのは、それだけで人を畏怖させる何かがあります。
ダイバーにとって憧れの魚といえば、
やはり、マンタ(オニイトマキエイ)とジンベエザメでしょう。

マンタとはいろんな海で遭遇したのですが、
ジンベエザメはなかなかお目にかかれませんでした。

水族館以外でジンベエザメを見たのは、意外にも東京湾でした。
房総半島の先端近くにある波左間海中公園では、
定置網にジンベエザメが迷い込むと、
巨大な生け簀に飼って、見学させてくれるのです。

一度見たら忘れられない、特徴的な平たい頭と大きな口。
ゆったりとカラダをくねらせ泳ぐ神々しい孤高の姿。
世間に左右されることなく、生きる喜びからも怯えからも超越した、
悟りを開いたようなそのたたずまい。

子どものころ、好きな絵を描きなさいといわれれば、
ジンベエザメを描いていた僕にとって、
一緒に水の中にいるのは、このうえなく幸せな時間でした。

芥川賞作家の大岡玲さんは、ちょっと不気味な短編小説で
ジンベエザメをこう表現しています。

《ジンベイザメは、まるで無頓着に見える。コバンザメはおろか、人が口のところに手をかけて背の側に密着しても、我関せずといった風情で泳ぎ続ける。彼をわずらわすものなど存在しないかのようだ。殺されても、別に平気なんじゃないか、とさえ思えたりもする》

《私の頭の中でジンベイザメは周囲の状況とは関わりなく、かといって拒絶的でもなく、
ただゆっくりと、幸福でも不幸でもない様子で相変わらず泳いでいるのだった》
(『ジンベイザメになりたかった』大岡玲/文藝春秋)

えーっと、突然ですが番組宣伝です。
実は半年前から「中央FM」という東京都中央区のミニFMで、
大岡玲さんらと「京橋漁協」という、海と魚をテーマにしたラジオ番組
(毎週土曜よる7時30分から)をやっているので、
よかったら聞いてください。僕のコーナーは月1回ですけど。
https://www.facebook.com/Kyobashi.fc.radio
以上、番宣でした。

さて、ジンベエザメは南の温暖な海域に生息していますが、
黒潮にのって回遊していたものが、黒潮の蛇行の関係で関東沿岸にやってきて、
地引き網や定置網に迷い込んでしまうことがあります。

横浜八景島シーパラダイスで飼育されているジンベエザメも
波左間の定置網で捕獲されたものです。

ご存知のようにジンベエザメは世界最大の魚です。
現在、発見された最大の体長は約14m。
でも20mを超えるものもいるのではないか、といわれています。

巨大生物といえば、絶滅したけれど、やはり恐竜でしょう。
恐竜の中で最も凶暴といわれるティラノサウルスの体長が、
約11~13mだそうですから、やはりジンベエザメはでかいですね。

海に棲息していたプレシオサウルスの体長は約2~3mだそうです。
あれれ? これは想像よりもかなり小さなサイズだぞ。

ジンベエザメは大きな口で海水を飲み込み、
エサとなるプランクトンを濾し取って食べます。
小魚も食べるからでしょうか、爪楊枝の先くらいの小さな歯が
約5000本上下にあるのですが、噛む機能はないようです。

八景島シーパラダイスにいるジンベエザメは5mくらいですが、
ひと口で飲み込む水の量は約60リットルだそうです。

ジンベエザメは大人しく、危険なサメではありません。
しかし、冒険野郎としても知られるイギリスの実業家、
バージングループの創設者にして会長のリチャード・ブランソンさんは
ジンベエザメに飲み込まれたことがあるんですって。

すぐに吐き出されたからよかったですけれど、
飲み込まれちゃったらピノキオですね。

ジンベエザメの生態はよく分かっていません。
卵胎生であることが判明したのも、わりと最近のことです。

八景島シーパラダイスの飼育員さんにお聞きしたところ、
個体差はあるだろうけれど、と前置きをした上で、教えていただきました。

「臆病だといわれていますが、意外と好奇心は強く、
イルカがショーをしにジンベエザメのプールへやってくると、イルカに近づこうとするので、
エサを与えて離すようにしています。
視力は弱いという説もありますが、むしろいいのではないかと思います。
嗅覚も優れていると思いますよ」とのこと。

図体は大きいのですが、脳は落花生くらいの大きさだそうです。

種ごとで脳の大きさ(体重に占める脳の割合)と知能の高さは
関係するそうですし、知能が高いほうが優れているような気もしますが、
だから幸せかというと、それはもちろん別問題。

脳が小さいのは、あれこれつまらないことを考えずに
生きていける、というような気もします。

逆に言えば、巨大な脳を持つヒトは、知能が発達したぶん、
どうでもいいことにも悩み、年がら年中、心配をしてないと
生きていけない生き物なのかもしれません。

それにしても「脳」と「悩」って漢字、似ていますよね。

ジンベエザメは基本的に群れをなさず、繁殖期以外は単独で回遊しています。
サメ類は一般に免疫力が強く、あまり病気にならないともいわれています。

大きく育ってしまえば、ジンベエザメに敵らしい敵はいません。
運悪く航行中の船のスクリューに巻き込まれたり、
シャチやホオジロザメに襲われたりしないかぎり、
病気にならないので、かなり長生きをすると考えられていて、
150年くらい生きても不思議ではないそうです。

水族館では1年に50cmくらい大きくなるそうです。
成熟年齢になるのは8mくらいといわれていますから、
シーパラダイスではあと6年後に恋の季節がやって来るのかもしれません。
2020年。おお、東京五輪の年じゃないですか。

世界で初めてジンベエザメを飼育した沖縄美ら海水族館では、
現在、飼育下繁殖に向けた取り組みが始まっています。

飼育するときに、一番気を使うのはストレスだそうで、
複数のジンベエザメを飼う場合、互いの相性が悪いと
強いものが弱いものにプレッシャーをかけ、衰弱させる例があるそうです。

シーパラダイスの場合、相性がいいというか、お互い意識はしているものの、
干渉しない態度を取っているので良好な関係なのだとか。

さて、サメというと恐ろしい生き物の代表ですが、
世間に思われているほど凶暴ではありません。

1年間に世界でサメに襲われて亡くなる人の数はどのくらいだと思いますか?

マスメディアが扇情的に取り上げることにより、
とんでもない数の事件が起こっているてと人々に思い込ませる例として
「Summer of the shark」という言葉を聞いたことがある人もいるでしょう。

2001年6月、8歳の女の子がホオジロザメに襲われたのをきっかけに、
全米中のテレビ、新聞、雑誌はサメの襲撃報道で溢れかえりました。
9月初旬、10歳の少年がサメに襲われ亡くなった事件は、
3大ネットワークがトップニュースで大々的に取り上げました。

しかし、2001年を通じて、世界中で起きたサメの襲撃はというと68件。
そのうち死者が出たのは4件です。

若手経済学者のノーベル賞といわれる「ジョン・ベーツ・クラーク・メダル」を
受賞したスティーヴン・D・レヴェット(シカゴ大学教授)も
こんなふうに書いています。

《1995年から2005年を見ると世界中で起きたサメの襲撃は平均で1年に60.3件であり、一番多かった年が79件、一番少なかった年が46件である。死者は年平均で5.9人であり、一番多かった年が11件、一番少なかった年が3件だ。言い換えると、2001年の夏、マスコミに踊る見出しはこんなふうでもよかった。「サメの襲撃、今年は平年並み」。でもたぶん、そんな見出しじゃ雑誌はあんまり売れない》

《一方、ゾウは毎年少なくとも200人の命を奪っている。それじゃなんで、ぼくたちはゾウを見てもぞうっとしないんだろう?》 
(『超ヤバい経済学』スティーヴン・D・レヴェット、スティーヴン・J・ダブナー/東洋経済新報社)

ゾウはダンボやババールになったように、人なつこいキャラで
子どもに大人気の動物ですが、野生のゾウはかなり恐ろしい動物です。
カバもひょうきんでお人好しなイメージですが、アフリカではカバに襲われて、
毎年2900人も死者が出ているのだとか。
海で極悪な役を演じさせたら、独壇場のサメですが、年間の死者は4人。

それがヒトの肥大した脳で作り上げたサメのイメージです。

突然、過熱していたシャークアタック報道は、全く消えてしまいます。
11 September Attacksで約3000人が一瞬にして亡くなったからです。

(ジンベエザメの項、つづく)

コロカル商店 売れ筋商品ランキング! の巻

コロカル商店、売れ筋はどれでござるか?

にんにん! コロカルくんでござる。
今日はコロカル商店の売れ筋を、<雑貨部門> <食品部門>に分けて
お届けするでござる!
みなさんのお気に入りも見つかると嬉しいでござる〜!

<雑貨部門>
第壱位
hiracle さくら小皿 紅白セット

堂々の第1位は、醤油やオイルをたらすと桜が開花する、
忍術のような小皿セットでござる!
お祝いごとが増えるこれからの時期や、お花見の季節に大活躍間違いなし。
季節感が簡単に出せるでござるよ!
モダンなデザインでござるが、
石川県を代表する伝統工芸としてつくられ続けている九谷焼の小皿でござる!
手仕事のぬくもりも感じてほしいでござる〜!

第弐位
224 porcelain カフェハット

佐賀県嬉野市の肥前吉田焼に新登場の磁器ブランド、
224 porcelainの注目株、カフェハットでござる!
その名の通り、帽子のようなかたちをしたコーヒーフィルターは、
ペーパー不要のセラミック製。
遠赤外線効果とミクロの穴が、水のカルキ臭を取り除いて、
まろやか〜で飲みやすいコーヒーが味わえるでござる!
コースターの色は白・赤・ネイビーの3種類。
どの色を選ぶか迷ってしまうでござる!

第参位
syouryu すずがみ

お皿なのに自由自在に折れまがる!?
そんな不思議なお皿がコロカル商店で人気でござる!
鋳物のまち、富山県高岡市の工房で製作されるすずがみは、
熟練の職人が金槌で錫の板をリズミカルに叩き、
何度も圧延を繰り返すことによって生まれるそうでござる。
縁を立ち上げて小皿にしたり、懐紙のように和菓子を盛りつけたり……
みなさんならどう使いたいでござるか!?

<食品部門>
第壱位
フロム蔵王 濃厚チーズケーキ 2個入り

蔵王チーズとフランス産クリームチーズをブレンドして焼き上げられた
「フロム蔵王濃厚チーズケーキ」が第1位でござる!
クリームチーズを50%使用した上に
ホイップクリームも加えたニューヨークタイプのチーズケーキは、
その名の通り実に濃厚な風味で人気でござる。
口のなかでふんわりととろけるが雪のごとし……
う〜ん、今すぐ食べたいでござる〜!!

第弐位
カナール 国産鴨鍋らーめんセット

やっぱり冬は鍋でござるな。
いつもの鍋をランクアップすべく、島根県の老舗料亭から端を発した鴨専門店から、
冬にぴったりの鴨鍋らーめんセットをお届けでござる!
玄米発酵の旨みを効かせた特製のスープで、
合鴨ロースのしゃぶしゃぶや鴨つみれ、好みの野菜をいただいて、
締めには肉や野菜の出汁が溶け出したスープで、
絶品らーめんが味わえるでござる。
とろけるようなおいしさをみなさんにも体験してほしいでござる〜!

第参位
キュルノンチュエ ソーセージセット

堂々の第3位は、フランスの伝統製法を守り通す、
岐阜県飛騨の燻製工房から届いたこだわりのソーセージたちでござる!
しっかり乾燥させているので、噛むと出る出る、じわ〜っと旨味。
コロカル編集部の試食会でも絶賛のソーセージと豚バラ肉の燻製は、
手みやげに持っていくと自慢できる逸品でござるよ。
お酒のつまみとしてはもちろん、サンドウィッチの中身にもおすすめでござる!

実はコロカル商店、ギフト包装もオリジナルで用意しているのでござる。
白地にシルバーの柄がかわゆいでござる〜。
シンプルでどんなシチュエーションでもばっちりでござる。
ただ、このギフト包装。可能な商品は限られているゆえ、
商品ページのギフト対応欄をチェックして、ぜひ活用してほしいでござる!

コロカル商店はこちら

トータス

海部(あまべ)藍に“あい”を感じて。

藍染めの本場といえば、阿波、徳島。
一見黒色ではと見紛うほど濃く染めあげた
暗い紫みがかかった青の「褐色(かちいろ)」は
鎌倉時代の武将たちに、縁起のよい「勝ち色」として大変好まれたのだとか。
この独特の自然が醸す色が出せるのも、「すくも」で建てた藍ならでは。
徳島の吉野川流域で育つタデ科の植物、藍草を乾燥させ100日以上かけて
発酵させた手仕事の「すくも」。それがすなわち「阿波藍」なのである。
現在は徳島県内のわずか5軒の藍師が伝統の技法で阿波藍をつくっている。

一方で、同じ藍草を使った草木染めながら
「すくも」をつくらずに染める製法の藍染めが
現在、予防医学の見地から健康志向の人たちに注目されている。
藍というハーブの薬草効果に着目したハーブ染め、「海部(あまべ)藍」だ。
海部藍は藍住町の藍師から譲り受けたタデ藍の種の藍を育て、つくられている。

室戸阿南海岸国定公園の中央に位置し、オオウナギやゲンジボタルなどの希少動物が生息する清廉な環境を誇る海陽町は、マリンスポーツのメッカだ。

徳島県南部の高知県との県境にある海陽町にある肌着メーカー、
株式会社トータスの亀田悦子専務は、今から10余年前、
肌着の未来を考えてユニバーサルデザインの勉強していたときに
美波町の障がい者地域生活自立支援センターで
子どもたちに藍染めを教えている地元の染織家と出会った。
そこで、自社の肌着を提供することを始め、
藍に関わるようになったという。
徳島の会社ということで、藍染めの注文もあったのだが
すくもで藍を建てるのはコストもかかるうえに難しく、
必ずしも毎回同じように建てられるものではないことを実感した。
また、染織家が芸術として“色”を追求している藍と
同じ瓶のものを肌着に使うのは違うのではないだろうか、と
亀田さんは頭を悩ませていた。

「毎日の肌着を藍で染めるにはいったいどうしたらいいのだろう?」

藍は、古くは中国や日本で解毒、解熱、消炎などの
漢方薬に使われてきた歴史がある。
また何度も何度も藍瓶に漬け染め上げた着物は、
温度変化に強く、冬に身につけると温かく、夏
は涼しいとされており、虫除けの効果もあるといわれてきた。
紫外線の遮断や抗菌消臭、水虫、アトピーなどに対する効果も
財団法人日本紡績協会や徳島大学薬学部で
研究・試験され、効果のほどが確認されている。

亀田さんは藍染めに関わったことで
藍という植物のもつ多様な機能を知り、
アレルギーやアトピーに悩んでいる人、
赤ちゃんに安心して身につけてもらえるような
藍染めの商品を開発したいと考え始めた。

さまざまな人に「藍のハーブ染めの研究を」と触れ回った結果、
なんと、2009年の12月から
経産省の事業となり、産官学一体となって
藍のハーブ染めの研究をするチームが結成された。
当然ながら、言い出しっぺの亀田さんがチームリーダーだ。
「そうそうたる学者の皆さんに混じってこんなおばあちゃんが
いるのは申し訳ない気持でいっぱいでした。
でも、ハーブ染めの可能性を追求するために
色を求めるよりも、藍の薬効のある成分が
繊維にちゃんと入っていくことを実証できるかが重要でした。
そのためには藍の薬効の検証や染めに関して
専門家たちによる研究が必要だったんです」(亀田さん)

研究するからには、まずは原料が必要だ。
同じ海陽町で、農業を営む山田孝治さんに声をかけた。
山田さんは慣行農法ではない方法で
安心安全をモットーに美味しい米を作る農家として
国内の品評会で高い評価を得ており、
研究熱心だと地元でも知られていた。
きっと、農薬不使用の藍畑づくりにも興味を示してくれるはず、という
亀田さんの予想を裏切らず、山田さんは彼女が求めている
取り組みについてすぐに理解し、実行に移した。

8年以上農薬を使っていない田んぼを藍畑に。究極の清流といわれる海部川の伏流水をひくことができる、谷間で農薬が飛来することもない最高の土地での藍栽培が始まった。

「いい藍が育つように畑の土をよくするために10年は必要。辛抱強く土を育てていけばどんどんよくなる」という山田さん。

「最初は藍をやれば儲かるよ、と
亀田さんを紹介してくれた人にいわれたのですが、
化学染料で手軽に染められる今、そんなわけはないと思いました。
ですが、藍でアトピーや困っている人たちを
助けたいという亀田さんの思いや、
ひとりで立ち向かう姿を見て
ボランティアでいいから手伝おうと」

藍栽培の経験がなかった山田さんは、
最初の1年はハウスで藍の育て方を勉強し、翌年から畑に種を蒔いた。
試行錯誤しながら藍は2年目から育つようになり、
3年目からは有用微生物群EMを散布し、土を育てている。
亀田さんと山田さんは生きている藍に関して詳細な統計をとり続け、
現在も研究は続いている。
研究会では、すでに藍のハーブ染めの薬効が認められている。

海部の地に初めて藍を植えた日、亀田さんは藍染めの装束に身を包み、祈りをささげた。

世代を超えて、さまざまな思いが結ばれていく。

海陽町は、世界的に知られる
サーフスポットのKAIFU(海部川河口)があることから、
プロサーファーや彼らの家族が多く暮らしている。
海とともに生きることを選んだ
サーファーたちのライフスタイルをのぞいてみると
やはり、自然を意識した生活を送っている人が多い。
そんなオーガニックなムードのある海陽町出身の
永原レキさんは関東で過ごした学生時代に
サーフィンの全国大会で優勝。
数々の大会で活躍したのち海外を放浪し、
世界の多様な価値観に触れて2009年に帰国した。
さて、この先どんなふうに生きていこうと、都内でブラブラしていたときに、
東京ビックサイトで開催された
自然派プロダクツを集めたイベントに出店していた
亀田さんに出会った。
全身藍染めに身を包んだ白髪のかっこいいおばちゃん。
興味本位に近寄ったら、商品のタグに
自分の故郷、「海陽町」と記されている。

「それはもう、驚きましたよ。まさか自分の故郷から550㎞も離れた場所で、
ピンポイントで海陽町から来た人に出会うなんて。
あれは運命の出会いでしたね」(永原さん)

「Think globally, act locally」世界を、そしてさまざまな業界を渡り歩き、やっと自分の居場所に帰ってきた永原さんの行動指針は、まさにこれ。

ちょうど、海外でも地元を大切にする人たちを見てきた永原さんは
放浪する前とは価値観が変わってしまっていた。
「よし、地元に帰ろう」
海陽町に戻ることに決め、他の仕事をしながら
亀田さんらと親交を深めていった永原さん。
そんな彼の周囲には一緒に地元のイベントを企画し
豊かな自然と共生する地域活性化に励む仲間も増えてきた。

大阪から宍喰(海陽町の旧町名)に移住して、ここで結婚し、サーフィンと農業を両立させているプロサーファー田中宗豊さん(左)は永原さん(右)のよき地元仲間。海外や遠方からくる客人を受け入れたり、一緒にイベントを企画したり、子どもたちに美しい海陽町の環境をつないでいこうと活動をしている。

永原さんは、現在はトータスで染めや企画、
営業などの業務を行っている。
彼の手先は、今や真っ青。
亀田さん同様に、藍色のネイルを施しているかのようだ。
「これはね、インディカンという藍の成分で、
むしろ、肌をきれいに保つんですよ」
と永原さんが誇らしげに手を広げた。
「亀田さんに会わなかったら、
ここには戻ってこなかったかもしれないな。
あそこで、地元に帰ってきたからこそ
人生のうえで大切なことに気づけたことがあったと思う」
藍畑を耕し、藍を通して地元の環境のことも学んでいく。
混ざり物がない天然染料なので、廃液は畑の栄養になり
余った藍の種や葉は藍茶として飲む事ができる。
昔から藍師たちに飲用されてきた健康茶だ。
まさに藍という植物のサステイナブルなあり方は
海が暮らしの一部になっている永原さんにすんなりとなじんだ。
ちなみに海部藍という名前の意味は、
6世紀に阿波の国から衣食住の文化を広めた吉野川流域の忌部族と、
海を渡る技術で彼らを支えた海部(あまべ)族から由来している。
また、海陽町は徳島県海部(かいふ)郡にあるため、
ここから世界に向けて薬草としての
藍の文化発信を、という意味もこめられている。

永原さんと亀田悦子専務、亀田洋三社長。まるで親子のような三人組。社長は後ろで微笑みながら、ふたりの活動を見守る役目だ。

藍は使ったら1回染めて終わりではない。数多く染めると次に藍の染める力が復活するまでに休ませないといけない。海部藍はすくもに比べると寿命は短いのだが、誰にでも扱いやすいというメリットがある。

ロングセラーの腹巻は筆者も愛用。自社栽培の海部藍で染められた腹巻はシャツの下から見えても恥ずかしくないカジュアルな色。

室戸岬が近く、空海が見た景色そのままの風景が地元にあることから、永原さんは空と海のグラデーションの手ぬぐいを企画。藍の産地は県北に集中しているため、県南らしいものをつくろうとふるさとの景色と徳島の文化である藍染めを融合させた。

商品化はできたものの、コスト面を考えると
まだまだ研究しなくてはいけない、と亀田さんはいう。
実際に染めてみて、すくもで建てた藍との色の違いや
その役割もしっかりとわかってきた。
自然と人が手をとりあって、循環していく
海部藍を誰もが暮らしに取り入れられるようにしていきたいという
亀田さんの願いは最初から変わらない。

海部藍の周縁にあるさまざまな“あい”のかたち。
土地に若い人が根付くよう産業、
農業を持続可能にしたいと思う山田さん、
地に足をつけ、自然豊かな故郷の良さを
いろんな人に知ってもらいたいと願う永原さん、
それぞれの想いが海部藍に託されている。
徳島県北の阿波藍の本場、吉野川流域の
藍住町から運ばれた藍の種は県南で発芽し、
植物の持つ叡智は、新しいかたちでどんどん広がっていく。

コロカル商店が オープンでござる!の巻

コロカルで紹介した“あの”商品が買えちゃうでござる!

にんにん! コロカルくんでござる。
ついに、コロカルから「コロカル商店」が公開されたでござるね。
もうみんな見てくれたでござるか?
今回は、コロカルで取材に行ったご縁で、
コロカル商店で販売されるようになった商品をご紹介するでござる!
記事を見て気になったあの商品もあるかもしれないでござるよ

其の壱 15.0% アイスクリームスプーン

富山県の高田製作所と、建築家・デザイナーの寺田尚樹が
コラボレートして誕生した「<15.0%>アイスクリームスプーン」は、
アルミニウムの熱伝導率の高さを生かし、
手の体温でアイスを溶かしながらすくい出すことを可能にしたスプーンでござる。
手の平になじむふっくらとした形のスプーンを包み込むように持てば、
冷凍庫から取り出したばかりのアイスも理想的ななめらかさになるそうでござる!

これからの季節、こたつでアイスがたまらないでござるね!
そんな至福の時間にぜひ試してほしいでござる〜!

コロカルの記事はこちらでござる。
https://colocal.jp/topics/art-design-architecture/monozukuri/20130930_24184.html
15.0% アイスクリームスプーンはこちらから購入できるでござる〜
https://ringbell.colocal.jp/products/detail.php?product_id=25

其の弐 STUDIO ORIBE Lポケットパンツ

鎌倉・由比ヶ浜に本店を構える、JAMES & COのブランド、
「STUDIO ORIBE(スタジオ オリベ)」の商品をつくっているのは、
埼玉県草加市の住宅地に静かに佇む、縫製工場「第一被服」でござる。
80年以上、スラックスを専門に手がけてきたそうでござるよ。
職人たちは、この道50年のベテランばかり。
丁寧な仕事っぷりに感嘆するでござる〜。

職人ワザを詰め込んだLポケットパンツは丈夫さも折り紙つき。
少しゆるめのサイズでチノパンとしてオフで履いても、
細身でオフィス着に合わせても◎。
どんなシーンにも定番アイテムとして重宝しそうな1本でござるよ!

コロカルの記事はこちらでござる。
https://colocal.jp/topics/art-design-architecture/monozukuri/20120607_7695.html
STUDIO ORIBE Lポケットパンツはこちらで購入できるでござる〜
https://ringbell.colocal.jp/products/detail.php?product_id=1027

其の参 good by market ティッシュケース

静岡県の「good by market(グッバイマーケット)」は、
富士山をモチーフとしたユーモア溢れるプロダクトを企画販売しているでござる。
今回紹介するのは、富士山の7合目付近までしか描かれていない、ティッシュケース。
しかし、中央の切り込みからティッシュをつまみ出せば、
ティッシュが富士山の積雪に見立てられるという、とてもユニークなデザインでござる!
小物入れとしても使えるのが嬉しいでござるね!
身だしなみセットとして、
ティッシュと一緒に常に持ち歩きたいものを入れておくのがおすすめでござる!

コロカルの記事はこちらでござる。
https://colocal.jp/topics/lifestyle/people/20130117_14293.html
good by market ティッシュケースはこちらで購入できるでござる〜
https://ringbell.colocal.jp/products/detail.php?product_id=135

其の四 chanto マルチトレイ M

このおしゃれなトレイをつくったのは、なんと仏壇屋さん!
滋賀県彦根市の老舗仏壇店「井上仏壇店」のつくる
仏具の装飾では決してお目にかかれない
カラフルな漆使いがとても印象的でござるね。
そのつややかに美しく塗られた漆には、顔料の配分や乾かし方にもこだわる
彦根仏壇の漆塗師の熟練の技がいきているのでござる。

このトレイ、何と言ってもギフトにオススメでござる!
井上仏壇店のエピソードも、人にあげるときに伝えてあげれば、
いっそう愛着を持って使ってもらえるでござるよ!
ギフトでの注文は、コロカルの特製包装紙でお届けするでござる!

コロカルの記事はこちらでござる。
https://colocal.jp/topics/art-design-architecture/monozukuri/20120427_6671.html
chanto マルチトレイ Mはこちらから購入できるでござる〜
https://ringbell.colocal.jp/products/detail.php?product_id=1019

ちなみにちなみに……
コロカル商店でお買い物してくれた先着150名に、
コロカルくんのマスキングテープをプレゼントしちゃうでござる!
コロコロ15mも転がっちゃうでござるよ!
この機会にゲットするでござる!

それでは、みなさん良いお年を〜でござる!

そのたくましさたるや、不死身! ホンビノス貝をご存知? 定番は酒蒸し、フライもいける!

【学名】Mercenaria mercenaria
【標準和名】ホンビノスガイ
【英名】Hard clam, chowder clam

資生堂初代社長の愛した藻塩蒸し

ホンビノス貝ってご存知ですか?
ホンビノスガイは1998年に千葉県の幕張で発見されました。
それまでは日本にはいなかった外来生物で、
北米から貨物船のバラスト水に混じってやってきたそうです。

アメリカではクラムチャウダーやワイン蒸しにして
よく食べられている貝ですが、それが
はるばる太平洋を渡ってきたわけです。
今では、どこにでもいる、ありふれた貝になり、
お台場の人工海岸を掘っても見つかります。

クラムチャウダー、うまいですよね。
特に寒い季節に屋外で食べるのは最高です。
マンハッタン風(トマトスープ仕立て)よりも
クリームスープ仕立てのボストン風が僕は好きですね。

現在、ホンビノスガイは千葉県の船橋や行徳で水産物として漁獲されています。

どんな風に採っているのでしょう。
千葉県市川市行徳で採貝漁を営む三代目漁師、
澤田洋一さんに同行させてもらいました。

夜明け前に待ち合わせて、夜明けとともに出港。
今日の漁場は東京湾奥に残された貴重な干潟、三番瀬です。
船溜まりから船を走らせること約15分。

朝日に輝く海から陸を眺めると、ディズニーランドにスカイツリー、
あちらには巨大工場群、こちらには高層マンション。その向こうには富士山。

こんなメトロポリタンな海で漁をするなんて、
かなり不思議な感覚です。

澤田さんは船尾から錨(アンカー)をうつと、
アンカーロープを伸ばしながら70mほど船をゆっくりと前進させました。
そこで大巻(おおまき)籠をおろすと、ウインチのスイッチを入れ、
アンカーロープを巻き取りながら船をゆっくりバックさせます。
このバックする力を利用して、海底の表面を掘り進むのです。

籠の歯が鋭いので、浅く掘ると貝を傷つけますし、
深いと砂ばかりが籠に入ってしまい、重くなってしまいます。
そのへんのさじ加減が難しいらしい。

錨の位置まで戻ったら籠をあげて、採れた貝を船の上にざざーっと開けます。

再び船を前進させて、同じことを繰り返すのですが、
錨を支点に前進する方角を扇状に少しずつ変えて、
さっき掘ったところと重ならないように底をさらっていきます。

でも、素人が見ても、微妙に角度を変えていることは、なかなかわからず、
適当にやっているようにしか見えません(失礼!)。

一回にドサリと採れることもあれば、スカに近いこともある。

デッキに水揚げされた貝を見てみましょう。
中にはハマグリやアサリ、シオフキ、トリガイ、サルボウガイなども
まじっています。

立派なハマグリ!

貝殻の表面が毛羽立ったようになっているトリガイ。

アカガイの仲間は貝殻の表面にトタン屋根の波状の溝(放射肋)があり、その数によって判別は簡単と書かれていますが、意外と難しいものです。アカガイ(42本前後)サルボウガイ(32本)サトウガイ(38本)。

潮干狩りをしたことのある人のなら、シオフキはご存知でしょう。
砂をなかなか吐き出さないので敬遠されていますが、
アサリに劣らず美味しい貝です(写真右上の橙色っぽい丸い貝)。

サルボウガイは馴染みがないかもしれませんが、アカガイの仲間です。
アカガイが高級品になってしまったので、
アカガイの缶詰の原料にも代用品として使われています。

今日採れたものは都内のタイ料理さんに届けられ、
ホーイ・クレーン・ルワック(貝を半生にゆでた料理)になるそうです。

〈アタラタ〉
プレオープンイベント

未来へつながる六次産業化モデルファーム。

仙台空港から近い宮城県名取市は東日本大震災で、大きな被害が出た地域。
そこにオープンするアタラタのプレオープンイベントに、
たくさんの幼稚園児とそのお父さんお母さんが集まった。

アタラタは、パンの〈ル・タン・リッシュ〉、そばの〈焔蔵〉、
ビュッフェレストランの〈アタラタ・マルシェ〉という飲食店が3軒と、
キッチンスタジオを備えた施設。
イタリア語で“絆をつなぐ”という意味の
“アタッチェ・ラタッチェ”をもじってネーミングされた。

「命は助かったけれど、ひとの役に立てない。
仕事の大切さがわかった、という声がありました」と震災後の話をしてくれたのは、
炊き出しや物資の輸送などを行っていた
「東北6プロジェクト」代表理事の渡部哲也さん。
今後必要になるであろう雇用の確保を目指して、アタラタを立ち上げた。

そのころ、いち早く被災地に赴き、
渡部さんたちと復興のお手伝いをしていたリバースプロジェクトは、
この話を聞き、共同でプロジェクトを進めていくことになる。

「災害が起こったときに、地域に食糧を提供できるような施設をつくりたいと思い
賛同しました」と語るのはリバースプロジェクトの村松一さん。
主にグランドデザインと建築デザインを担当した。

ただ単に“新しい施設で元気になろう”だけではなく、
防災意識を継承していくためのシンボリックな建物となる。
そばを打つ機械やパンを焼く窯は、
災害に強いというコンセプトから出てきたもの。
電気や水道が止まっても、備蓄の水と粉があれば薪でパンが焼ける。

とはいえ、当面の目的は新しいコミュニティづくりともいえる。
そのなかでコアに展開していくのが、
農業生産者を守りながら消費者とつながっていく六次産業化である。

「生産者が生活できるだけの収益を、消費者から見えるかたちで上げること。
契約農家とグループになって生産・販売していきたいです。
消費者と生産者をつなげる架け橋が
アタラタとしての表現になると思います」と渡部さん。
村松さんも「小さな循環型社会の実現を、
地方再生やローカリズムという文脈で考えたときに、
六次産業はとても効果的です」と話す。

リバースプロジェクトの村松一さん(写真左)と、東北6プロジェクト代表理事の渡部哲也さん(写真右)

立派な窯の前でパン屋のお姉さんとパチリ。

リバースプロジェクトの伊勢谷友介さんも駆けつけた。

実は復興助成金を一切使っていない。というより、使えない。
東北6プロジェクトの活動は“未来をつくる”ことであり、
“復興”と捉えられなかったからだ。
しかしそこであきらめるのではなく、自分たちでお金を工面した。
だから、しっかり収益を上げて、返済をしていかなくてはならない。
それを可能にする業態でなくてはならないし、
一過性でなく継続的なものになるような仕組みにしなくてはならない。
ビュッフェ、パン、そばというのは、東北6プロジェクトの役員たちの本業だ。

「何かあっても役員自身が尻拭いできる本業であることで、
真剣さが伝わってきました」と村松さんは当時を振り返る。

また、リバースプロジェクトが一般社団法人を設立し、
アタラタのグランドデザインという実務で支援すると聞いた刃物メーカーの貝印も、
リバースプロジェクトが活動するための基金の組成に参画した。
単なる寄付ではなく、
アタラタの発展を当事者として見つめるために積極的に協力している。
さまざまな側面からの思いが、実現へと大きく舵を切ったのだ。

90年後のタイムカプセルに思うこと。

アタラタのもうひとつのテーマとして“90年後の君へ”が掲げられている。
プレオープンイベントでは、20年後と90年後の未来へ向けた手紙を書き、
施設内に設置された灯台型のタイムカプセルに投函した。
東日本大震災で同じく被害を受けた栃木県益子町では、
多くの益子焼作品が割れてしまい、
この灯台型タイムカプセルはそれら益子焼の破片からできている。
陶芸作家の藤原彩人さんが破片を集め、
素晴らしいモニュメントをつくりあげた。
これはクラウドファンディング〈元気玉プロジェクト〉を活用して
実現したものだ。

被災した益子焼の破片集めに協力した陶芸家の藤原彩人さん。

灯台の周りには、角だけとった破片が敷き詰められている。なかには「これお茶碗だ」とわかるものも。

20年くらいのタイムカプセルはよくあるが、
90年後の未来を想像したことがあるだろうか。
今回集まった親世代は、
20年後は子どもたちは成人し、自分たちも特に何もなければ生きているだろう。
だから親子でタイムカプセルを開けることができる。
しかし90年後、自分たちはおろか、
子どもたちですら生きている可能性は低いし、孫も50〜60代。
ひ孫が現役世代で、場合によっては、玄孫が生まれているかもしれない。
果たして誰に宛てた手紙になるのだろうか。
想像力を最大限に働かせて筆を進める。

「本日参加してくれたみなさんも、子どもの世代までは想像できたようですが、
そのもうひとつ下の世代までは考えたこともなかったようです。
しかしそれも、子どもたちの世代と同じ尺度で考えてほしい」
と村松さんは意図を教えてくれた。

書かれた手紙の内容をチラッと見るだけでも、
目頭が熱くなるような内容ばかり。
自分の子どもを目の前にして20年後への手紙を書くと、
すごくエモーショナルになるだろう。
同じ親近感で90年後の未来を想像できたのであれば、大きな意味がある。

書き終わった手紙を親子でポストに投函。

ふたつの封筒を入れた。20年後と90年後、どんな気持ちで開けるのだろう。

90年という数字には3世代という意味がこめられている。
「建築でも、90年後まではあまり考えたことがありません。
今回は引き渡し時が完成ではなく、
そこから地域やお客さんによる、伸びしろのある建築をつくったつもりです。
木を1本植えました。まだ小さな木ですが、
生長したらツリーハウスをつくりたい」と地域との関わりを期待する村松さん。

「ハードが経年劣化していくのは仕方がありませんが、
ソフトはコミュニティとともに“経年成長”してほしい」と
渡部さんも地域に根ざすアタラタを望む。

果たして90年後、手紙を開けたひとたちは、手紙を書いたひとたちに対して
どのような気持ちになるのか。
“あなたたちのおかげでいい社会になった”という感謝の気持ちか、
“こんな地球にしてしまって”という悲しみの気持ちか。
答えは90年後にわかる。
どちらにしても、手紙という証拠で、
自分たちを追い込むモチベーションをつくってしまったようなもの。
90年後に良い答えが出るかどうかは、
自分たちがこれからどのように生きていくかに懸かっている。