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増田の内蔵 前編 

名建築ノート
vol.005

posted:2014.4.17   from:秋田県横手市増田町  genre:アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  有名でなくても、心に残る、大切にしたい建物がある。
地域にずっと残していきたい名建築を記録していくローカル建築探訪。

text&photograph

Atsushi Okuyama

奥山淳志

おくやま・あつし●写真家 1972年大阪生まれ。 出版社に勤務後、東京より岩手に移住し、写真家として活動を開始。以後、雑誌媒体を中心に東北の風土や文化を発表。 撮影のほか執筆も積極的に手がけ、近年は祭りや年中行事からみる東北に暮らす人の「今」とそこに宿る「思考」の表現を写真と言葉で行っている。
また、写真展の場では、人間の生き方を表現するフォトドキュメンタリーの制作を続けている。
著書=「いわて旅街道」「とうほく旅街道」「手のひらの仕事」(岩手日報社)、「かなしみはちからに」(朝日新聞出版)ほか。
個展=「Country Songs 彼の生活」「明日をつくる人」(Nikonサロン)ほか。
http://atsushi-okuyama.com

credit

取材協力:秋田県、横手市

「家」の意味を伝える「増田の内蔵」

秋田県横手市の中心部から南へ約10km。
横手盆地の東南部に位置する増田町は、
雄物川の支流となる成瀬川と皆瀬川の合流点に広がっている。
美しい田園に抱かれた小さなまちだが、
かつて、この増田は秋田では最も発展した地域のひとつだった。
増田町の発展の歴史は、
南北朝時代に雄勝郡を治めていた小笠原氏が築城したのがはじまりとされている。
14世紀頃の話だ。
それから時代が下ること約300年。
増田町で朝市が開かれる。江戸期寛永20年(1643)より始まったこの朝市が、
増田町の繁栄のきっかけとなった。
肥沃な横手盆地のただなかにあり、成瀬川と皆瀬川の合流点で、
小安街道と手倉街道が交差するという立地条件は、
両流域の物資の集配地、あるいは交通の要衝として最適の場所だった。
とくに、江戸末期の増田の周辺地域は、
葉タバコや養蚕の秋田県最大の産地へと成長を遂げており、
まちは、仲買人をはじめ、これらに特化した商いが賑わいをみせていた。
こうした商いで優れた業績を積み重ねたのが、いわゆる“増田商人”だった。

明治に入り、養蚕や葉タバコに関する商いが隆盛を極めるなかで、
増田の商人たちは、新たな商業活動を展開していく。
それに代表されるのが増田水力発電や増田銀行(現在の北都銀行)の創設で、
その最盛期には、増田で発電された電気が横手や湯沢、
大曲を含む当時の県南54か所のまちに電力を供給するほどだった。
また、大正期になると増田近郊の吉乃鉱山において大規模な鉱床が発見され、
第一次世界大戦の特需を生み出していくこととなった。
この特需はそれほど長くは続かなかったが、
昭和の戦時体制で再び産出量を増大するなど、
18世紀に開鉱された吉乃鉱山は、長期間にわたって増田町の繁栄を支えた。

増田の中七日通りのまち並み。明治期、この通りが秋田県内における経済の中心地のひとつだった。

江戸に始まった朝市をきっかけに成長していった増田町の経済。
その中心となった増田商人たち。
彼らの息吹を今に伝えるのが、
増田町の目抜き通りとなる「中七日町通り」に建つ「内蔵」群だ。
江戸末期から大正にかけて商業規模を拡大していった商人たちは、
町家を改築し、大きな店舗を持つようになった。
と同時に、店舗から続く主屋の奥に蔵を建造するようになる。
「内蔵」と呼ばれたこの蔵は、まさに増田商人の成功の証といっていいだろう。
内蔵と呼ばれるだけあって、
建っている場所は長細い町家構造(増田商家の場合、100m以上にもなる)の奥で、
通りからは店舗があるために見ることはできない。
さらに豪雪から建物を守るために鞘建物と呼ばれる建屋で、
町家全体を覆ってしまうため
その存在を知るのは、家に関係する者だけの場合もあったという。
そのため、主屋の奥に立派な内蔵が控えるというイメージから、
増田商家が並ぶ中七日通りは「蛍町」と呼ばれた時代もあったという。

佐藤又六家の内蔵も板敷、畳敷の座敷蔵となっている。こうした様式は時代の変遷とともに変更される場合もあった。

一般的な蔵の用途といえば、倉庫的な役割だろう。
増田の内蔵の場合も、多くは、その家に伝わる大切な物品などを保管する
「文庫蔵」として使われたが、もう一方では、板敷き、畳敷きに加え、
主屋以上に凝った意匠の内装が施された「座敷蔵」も多く存在した。
こうした座敷蔵は、当主やその家族だけの
プライベートな生活空間という意味合いが強く、
そういった意味では、他人の目にさらされる建物ではないのだが、
増田商人たちは、内蔵の意匠や造作にはこだわり抜いた。
磨き仕上げによる黒漆喰の壁にはじまり、
蔵内の細部に至るまで一切の妥協がない造作や意匠には驚くばかりだ。
これらの造作や意匠は、
現在では不可能と言われる技術に支えられたものも多いという。
増田の内蔵は、当時の大工や左官職人たちの
卓越した技術の見本市のような存在でもあるとともに、
増田商人が自らの生きた証を子孫に伝えようとした情熱の遺産でもある。

現在、増田で現存する内蔵で、最も古いものは弘化4年(1847年)で
新しいものは昭和8年(1933年)となっている。
現在、増田町では、このおよそ85年間の間に建てられた45棟あまりの蔵が
確認されている。このうち、約15棟が公開(一部有料)されており、
増田商人の精神性や暮らしぶりを見ることができる。
増田のまち並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているが、
いわゆる文化財保存を目的としてのみ存在しているのではない。
一般公開されている内蔵にも、今もそこに生きる人の暮らしがある。

表通りの店舗や主屋から内蔵へは、「トオリ」と呼ばれる廊下で結ばれていた。

中七日通りから見た山吉肥料店の店構え。雪の白さが似合う美しい姿。

内蔵とともにある暮らし。それを垣間みたくて最初に伺ったのは、
山吉肥料店の山中英一さんだ。
増田の大きな商家に婿に来た、明治11年生まれのおじいさんから数えて、
昭和13年生まれの英一さんは三代目となる。
山中家の内蔵を建てたのは、一代目の順吉さんで、
昭和8年から数年をかけて建築。増田町に現存するなかで最も新しい内蔵で、
“内蔵の集大成”と呼ばれているという。
江戸末期から始まった増田の内蔵建築技術が
最も成熟した時期に建てられたからだ。
主屋の奥で控える間口4間、奥行き7間を越える威風堂々した山中家の内蔵は、
雲母で艶かしいほどに磨き上げられた黒漆喰をまとい、
見る者を圧倒するほどの存在感だ。
もちろん、細部は緻密なまでにこだわり抜かれ、
壁に回された内鞘の組子細工や1枚1トンにもなるという扉の蝶番など、
どれをとっても卓越した技術を感じさせる仕上がりとなっている。

堂々たる風格をたたえる山中家の内蔵。増田の土蔵文化の集大成とも言われる内蔵だけあって、細部に至るまで卓越した技術が活かされている。

内蔵の壁にまわされた内鞘。組子は、麻の花をモチーフとした模様をなしている。

蔵の角に当たる部分は、「銀杏仕上げ水切り」と呼ばれる美しい左官仕事で仕上げられている。

「婿入りして分家したおじいさんは、塩の卸問屋をはじめ、
生糸、荒物、雑貨、保険にいたるまで、さまざまな事業に精を出した。
いつか自分でも蔵を建てるぞと、それこそ身を粉にして働いたそうです」と、
初代の思い出を語るのは、三代目の英一さんだ。
英一さんは、初代の没後に生まれているため、
直接顔を合わせたことはないのだが、
蔵を建てた初代の生き様は山中家の語り草になっているという。
「おじいさんは、蔵を建てて数年後には亡くなっていますから、
蔵は、まさに人生の集大成だったんでしょうね。
とにかく蔵を大切にしたと聞いています」

山中肥料店三代目の当主となる山中英一さん。おじいさんの教えを守り、内蔵とともに暮らしている。

蔵の入り口に設けられた白蛇の模様は、悪いものが入らぬようにとの思いが込められた意匠。

“蔵を大切にする”山中家の内蔵への思いは、この言葉に尽きる。
山中家の蔵は、内部に畳を敷いた座敷蔵と呼ばれるもので、
蔵を生活空間に使う増田の内蔵特有のものだが、
そこは家族であっても簡単には出入りすることは許されなかった。
内蔵建設を目指した順吉さんは、それが完成したとき、
「みだりに蔵に入るものではない。蔵は神聖な場所。汚してはいけない」と
家族に言い渡したという。
その家訓は次の世代、そして英一さんへも受け継がれている。
そのため、山中家では、内蔵を一般公開しつつも蔵の内部を見せることはない。
あくまで家族だけの神聖な場所。そういう意味だからだ。
とはいえ、家族にとって神聖な場所とは何を意味するのだろう。
英一さんによると、蔵の1階には板間と畳で、
2階には冠婚葬祭に必要な漆器などが保管されているという。
その空間がなぜ、特別な場所なのか。

山吉肥料店の店舗。夫婦ふたりで、肥料販売業を営んでいる。

この問いに対し、英一さんは
「うちの蔵は、家族の生き死にを見守る場所なんです」とポツリとつぶやいた。
おじいさんが蔵を建てた。
そして、そのおじいさんが亡くなったとき、
蔵の座敷にまだ温もりが残る遺体を運び込み、
僧侶を呼んで枕経をあげてもらった。
おばあさんが亡くなる直前、おばあさんを蔵の座敷に運び、床についてもらった。
そのとき、おばあさんは
「ああ、蔵の天井が見える。気持ちがせいせいするな。オラもそろそろだな」
とつぶやいた。家族が逝くときだけではない。
英一さんをはじめ、新しい家族がこの世に誕生する場所としても蔵が選ばれた。
嫁を迎える際の結婚式も蔵の中。
人の生き死にを見守る場所というのはこういう意味だった。

家族が過ごしてきた主屋は店舗スペースの後ろに控えている。

台所仕事をする水屋スペース。水屋のそばにはたいてい井戸が設けられていた。現在もここで家事も行う。

増田の内蔵の特徴のひとつは、その用途だ。
種類としては文庫蔵と座敷蔵に大別されるが、用途は、各家独自のもので、
山中家のように人の生死を見守る場所として使われることもあったのだ。
「だからこそ、簡単に蔵に出入りできないんです。それは今も。
当主となった自分自身もその通りです。
私が今度ゆっくり蔵で過ごすのは、あの世に向かうときかな」
そういって英一さんは笑った。
山中肥料店という看板が掲げられた古い町家の奥でひっそりと、
そして堂々と構える山中家の内蔵。
それは、時とともに移ろう家族の歴史を刻むために建っていた。

山中英一さんの「蔵は神聖なもの。それは今でも変わりません」という言葉が強く印象に残った。

山中家の家族の人生を見守ってきた内蔵。静かに時の中に佇んでいた。

蔵の中で行われた山中さんご夫妻の結婚式の様子。蔵の思い出のひとつだ。

座敷には美しい雛が飾られてきた。蔵とともにある暮らしは、年中行事を大切にすることでもあるという。

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