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連載

増田の内蔵 後編

名建築ノート
vol.006

posted:2014.5.7  from:秋田県横手市増田町  genre:アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  有名でなくても、心に残る、大切にしたい建物がある。
地域にずっと残していきたい名建築を記録していくローカル建築探訪。

text&photograph

Atsushi Okuyama

奥山淳志

おくやま・あつし●写真家 1972年大阪生まれ。 出版社に勤務後、東京より岩手に移住し、写真家として活動を開始。以後、雑誌媒体を中心に東北の風土や文化を発表。 撮影のほか執筆も積極的に手がけ、近年は祭りや年中行事からみる東北に暮らす人の「今」とそこに宿る「思考」の表現を写真と言葉で行っている。
また、写真展の場では、人間の生き方を表現するフォトドキュメンタリーの制作を続けている。 著書=「いわて旅街道」「とうほく旅街道」「手のひらの仕事」(岩手日報社)、「かなしみはちからに」(朝日新聞出版)ほか。
個展=「Country Songs 彼の生活」「明日をつくる人」(Nikonサロン)ほか。
http://atsushi-okuyama.com

credit

取材協力:秋田県、横手市

家を守り、蔵を守る

秋田県横手市増田町の目抜き通りとなる、中七日町通りに建つ内蔵群を訪ねる旅。
次に伺ったのは、増田の内蔵の中で最も特徴的な内蔵を持つとされている佐藤又六家だ。
佐藤家は、この中七日通りで約350年にも渡り、連綿と続く商家で、
当主となる佐藤又六さんは現在で13代目となる。
幕末から明治前期に建てられたとされる蔵はふたつあり、
ひとつは主屋(明治前期)で、店舗と住居を兼ねている。
もうひとつは、文庫蔵(幕末から明治前期)で、
昭和初期頃には、家族の部屋として利用するために座敷間に改造された経緯を持つ。

佐藤又六家の外観。一見すると切妻の木造家屋だが、内部は店舗スペースから土蔵づくりとなっている。

これらふたつの蔵が奥行き120mの敷地に対し60mに渡ってつながり、
それを巨大な鞘建物ですっぽりと覆う様はまさに圧巻の姿だ。
手斧刻みの梁や桁がダイナミックに走る構造体、
華美には走らず明治建築の質実剛健さを伝える意匠。
そのひとつひとつが長い時のなかで一体となり、
内蔵空間にどっしりとした深みをもたらしている。
佐藤家の内蔵の特徴のひとつは、主屋を含む店蔵で、
一般的な増田の内蔵が敷地の奥に位置するのに対し、佐藤家の場合は、
店蔵という役割を持つため通りに面するかたちで建てられている。
そのため、鞘建物の2階正面の開口部からは、土蔵の妻壁が顔をのぞかせる。
建物が入れ子状態になっているようにも見えるこの様式は、
増田地区で唯一のものだという。

2階正面には縁側的なスペースがあり、内蔵の壁が顔をのぞかせる。

店舗と住居部をなす内蔵も黒漆喰で仕上げられていた。

店舗の奥に入ると、そこは座敷のある生活空間。まさに内蔵での生活がそこにある。

13代当主の佐藤又六さんによると、こうしたつくりになったのは、
大火による延焼を食い止める役割があったからだという。
「幕末から明治にかけて、ほかのまちと同様、
増田でも幾度か大火があったようです。
火事が出たときに木造家屋だと簡単に燃え移っていく。
そのため、土蔵で遮るという目的があって、
こうした建築様式がとられたようです」
かつて佐藤又六家は味噌醤油販売を営んでおり、
増田一の販売高を有した時期もあった。
増田銀行開設期はその発足にも関わるなど、
増田町に大きな影響をもたらす商家だった。
大火被害を軽減するための蔵づくりは、
増田における佐藤又六家の存在の大きさを今に伝えるもののひとつなのだ。

店蔵の奥に進むと、又六さんが「外蔵」と呼ぶ文庫蔵が現れる。

文庫蔵の内部。昭和期に生活空間として使用するために改修された。

明治期に蔵の前で撮られた写真。家族の記憶のひとつ。

現在、佐藤又六さんは、カメラ店を営んでいる。
先代は雑貨店を営んでいたが、写真好きが高じて、
代替わりのタイミングに商いを変えた。
その際、どうしても蔵をカメラ店として改修しなければならず、
又六さんは、先代にその内容を申し出た。
「当然、反対されました。蔵に手を入れるものじゃないって。
蔵は守るものだって。だから願いでたんです。
いつか絶対元通りにするから、手を入れさせて欲しいと」
又六さんは先代にこの約束を取り付け、どうにか店舗の改修を始めた。
どうにかというのは、改修着工日になって突然、先代が怒り出し、
改修を止めろと大騒ぎする一幕もあったからだ。
「いよいよとなると、急に不安になったのかもしれません。
父は、本当に蔵を大切にしていましたからね」

店蔵の座敷の差鴨居には、先祖の肖像が並ぶ。店蔵を建てたのは8代目又六だった。

佐藤家13代目の当主となる佐藤又六さん。「蔵を守るのは当然のこと」と語る。

改修工事も無事に終了した後に念願だったカメラ店を開き、
今日まで営業を続けてきた又六さんが先代との約束を果たしたのは、
数年前のこと。
「私も年老いて、カメラ店の忙しさも一段落した。
そうしたら、父親との約束を守らなきゃと思い立って、
元に戻す計画を立てたんです。父はすでに亡くなっていましたが、
こうして元と同じ蔵構えに戻せてよかったって、心底思っているんですよ」と笑った。
こんな話を伺っていると、
若い女性が就職活動用の証明写真を撮って欲しいと、お店にやってきた。
又六さんは慣れた手つきでカメラをセットし、丁寧にシャッターを押していく。
現像、仕上げまでの間、又六さんは、女性にひと言、
「奥に古い蔵があるんですよ。
写真が出来上がるまで、ご覧になったらどうですか」と見学を勧めた。
又六さんのこの言葉によって、女性は立ち上がり、光が差す店内から、
ひんやりと澄んだ闇が占める蔵のほうへと消えて行った。
「今はもう、こんな風にのんびりね、蔵と一緒に暮らしているんですよ」
と笑う又六さんの柔和な表情が印象的だった。

明治の頃とほとんど変わりないという横座。主人が座る場所だった。

蔵の2階は客間として利用したほか、結納など家族の大切な場所として使用されてきた。

又六さんにとって、この内蔵とはどういう意味があるのだろうか。
山中家で、蔵が家族の生き死にを見守る場所だということを知った僕は
率直に問いを投げかけた。
又六さんから返ってきたのは、
「そうですね、家を守る象徴でしょうか」というひと言だった。

又六さんの日常は、カメラ店を営む店舗スペース。ここでゆったりとした時間を過ごす。

「家を守る」。普通に日常のなかで聞く言葉だが、
僕にとってはその真意をつかみかねるものである。
祖父母のいない核家族で、しかも両親のルーツとはまるで関係のない
新興住宅地で育ったことに起因しているかもしれないが、
「家」はどこか遠いものだ。
田を埋め立てて造成したどこにでもある住宅地の
どこにでもあるような我が家には、仏壇もないし、
周囲には深い闇を宿すような寺や神社もなかった。
寄せ集めの人間たちが新たにつくり出す祭りもどこか空々しく、
子どもの目から見ても、下手な芝居のようだった。
そんな人間にとって、多くの人が語る
「家を守る」、「家を継ぐ」という言葉は、わからないものだった。
家や土地に関するもので守り続けたいものなど、どこにもないからだ。
その証拠に、最近、関西にある実家が引っ越しすることになり、
自分が育った実家は人の手に移ったのだが、
正直なところ、何の感傷もわかなかった。
15年前に岩手の片田舎に移住して、
土地に残る伝統や文化を大切にする暮らしをたくさん経験した。
どれも素晴らしいことだと感じてきた。
けれど、「家を守る」ことの「わからなさ」は
自分の中にはっきりと在り続けていると感じている。
だから、「奥山さんは、家を守るってことがわかりますか」という
又六さんの問いには窮するしかなかった。
また、今では恥ずかしいことだと思っているが、
両親の実家が遠方にあったこともあり、
僕は一度も両親の実家の墓と呼べるものを訪れたことがなかった。
簡単な話、自分のルーツと呼べるものに触れずに生きてきた。
でも、だからこそと言えるのだが、
おそらくルーツとしての「家」や「先祖」を持たない人間しか持つことができない
自由さも感じている。
自分は、どこにでも住めるし、
生きていける自由さのなかにいることを感じることができる。
「家」なんてものはかたちでしかない。
かたちあるものはすべて壊れ、消える運命にあるもので、
そこに今を生きる人間が自らの存在を投入するのは、
少しばかりおかしなことではないか。
良いとか悪いとは別にして、そんな風に僕は感じて生きてきた。

佐藤家の内蔵には、ここにしかない時間が流れる。

又六さんは続けた。
「家を守るって言っても、修繕したりね、
親父との約束を守って、元通りにしたり、そういう役割もありますが、
それは目に見えることにすぎません。
じゃあ、何が大切かというと、簡単に言うと、先祖を供養する、
ずっと続いている家族の歴史を大切にするってことなんですよ」
そういって、佐藤さんは、仏壇に置かれた過去帳を見せてくれた。
「ここには、先祖の名前が50人、記されているんです。
そのひとりひとりを知るわけではありませんが、
私もここに続くわけで、そういう流れの中にあるってことを、
子どもらはもちろん、孫たち皆で大切にしていきたいと思っているんです」
その言葉通り、佐藤さんは、ご先祖の法要を営む際には、
親類縁者に広く呼びかけ、
子どもから大人まで年齢を問わずにみんなで役割分担しながら法要を営むという。
「そうしているうちにね、孫のひとりが、自分が次にこの蔵を守っていく、
なんて元気いっぱいに言い出して。
先のことはわかりませんが、まあ、私の家を守るという役割としては、
こういうことなのかなって最近感じているんですよ」
と言って又六さんは、親類縁者が蔵にある仏壇の前で手を合わせる姿を捉えた
法要時の写真も見せてくれた。
それは、間違いなく、見えない何かに結ばれた人のつながりで、
僕や僕の両親がつくってこなかった世界だった。

佐藤家に残る過去帳。先祖代々の名がここに記されている。

ふと、こうしたつながりを持つことで
人は自分自身という存在を認めていけるのではないかと感じた。
自分は自分以外誰ものではない。
そんなことは当然で、誰もが自分は自分だと思って日々を生きている。
でも、そんな自分なんてものは、
ときに手に負えないモンスターのようなものでもあり、
その存在を心底認められるかとなると少しばかり難しいと思う。
その結果、自分の存在、自分が存在する意味を見出せなくなってしまう。
その深みに落ち込んだ際の生きづらさ。
僕自身も若い時に人並みに経験したことだった。
でも、もしそのとき、自分へとつながる多くの人のこと、
その人たちが何を思って生き、そして死んでいったか、
少しでもリアリティーを持って想像できたとしたらどうだっただろうか。
顔のディティールまでは想像できないにせよ、祖父母たちや両親から、
さらにその祖父母や両親たちの生きたエピソードを聞けたらどうだっただろうか。
自分が存在すること、存在していってよいということを、
そんなことを自然と後押しされるのではないだろうか。
自分を認め、人間のつながりに不思議な安心感を得られたのではないだろうか。
その安心感は、もしかしたら「家」を知らぬ者が持つ自由さとはまた違った
生きることの自由さを生み出しはしないだろうか。

神棚と仏壇が見える座敷。法要や親類の集まりはこの場所で行う。

増田の内蔵を訪ね、感じたこと。
それは、山中家にしろ、佐藤家にしろ、「家」という存在の大きさと意味だった。
今僕にとっては、「家」はどこか抽象的で不思議なものだった。
個人的に「家」というものに希薄な意識で育ったということが影響しているだろうが、
たぶん、わからなさの本当の源は、「家」というもののなかで
当たり前のものになっている、人と人のつながりに不思議さや不安さを
感じてきたのかもしれない。
でも、考えてみると結局のところは、人と人のつながりとは、
どこを切り取っても不思議な縁に彩られていて、
同時に、か細い糸のようなものでもある。
増田の内蔵とは、人と人がつながっていく縁の不思議さや弱さに、
少しばかりの確かさと強さを与えてくれるような存在に思えた。

内蔵の存在は、僕たちに家族について、家について、静かに語ってくれるようだ。

先人たちが何を思い生きていたか。内蔵への旅は、そんなことを考える時間でもある。

増田のまちなみ。内蔵とそれぞれの家族の歴史がこのまちの佇まいをつくりだしている。

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