連載
posted:2014.3.31 from:富山県南砺市 genre:活性化と創生
〈 この連載・企画は… 〉
世界遺産もあり伝統工芸も盛んな富山県南砺市と、
リバース・プロジェクトが組んだプロダクトの共同開発やエコビレッジ構想が始まった。
地域にまたひとつ新しい種がまかれる、その実践をレポート。
text&photograph
Tomohiro Okusa
大草朋宏
おおくさ・ともひろ●エディター/ライター。東京生まれ、千葉育ち。自転車ですぐ東京都内に入れる立地に育ったため、青春時代の千葉で培われたものといえば、落花生への愛情でもなく、パワーライスクルーからの影響でもなく、都内への強く激しいコンプレックスのみ。いまだにそれがすべての原動力。
リバース・プロジェクトと富山県南砺市が新しい取り組みに乗り出している。
まずは、次回以降に紹介する共同プロジェクトの背景にある、
南砺市のすばらしい風土を紹介する。
富山県南砺市を歩いていると、さまざまな場所で柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎、
バーナード・リーチという民藝運動をリードした作家の名前が聞こえてくる。
そして、実際それらの作品にも出合う。
なぜなら彼らと親交のあった版画家(本人は”板画”という)、
棟方志功がかつて南砺に長く滞在し、みんな彼のもとを訪ねていたからだ。
南砺市の福光にある躅飛山(ちょくひざん) 光徳寺の第18代住職、故・高坂貫昭さんは、
1910年に創刊された雑誌『白樺』に寄稿された柳宗悦の文章を読み、
とても感動したという。そうして民藝の精神に傾倒していった。
やがて民藝運動の作家を通じて棟方志功とも交流を深めるようになり、
棟方志功は福光の地に何度も足を運ぶようになった。
その後、戦時中の疎開地として、棟方一家は福光を選ぶことになる。
「福光は棟方先生の第二のふるさとと呼ばれ、
この時代の作品がもっともいきいきとしているといわれています。
ここで生命観や芸術観が養われていったようです」と教えてくれたのは、
高坂貫昭住職のお孫さんにあたる現住職、第20代の高坂道人さん。
この頃の棟方の作品の変化に驚いたのが、民藝運動をリードしていた柳宗悦。
柳にとって、それまでは荒々しくも我執の強い作風だった棟方の絵から、
我による濁りが消えたと感じた。
作風の変化に強い影響を及ぼしたのは、
福光に何百年も受け継がれている風土や空気であると考え、
柳宗悦はそれを”土徳”と呼んだ。
柳の造語であるが、浄土真宗の”他力本願”という思想とも深く共鳴する。
「他力とは、自分で切り開くのではなく、なにもかもが阿弥陀様にいただいたもの。
あらゆるものに感謝して生きていくという教えです。
福光は当時から真宗王国です。お念仏に生きた集団がいて、
そのような風土と触れあい、感動されたようです。
”用の美”を唱える民藝は、
そのような浄土真宗の教えと合致するところがありました」と高坂道人さんは言う。
南砺にはこうした信仰風土・精神風土が、歴史的に根付いていた。
その根底には、浄土真宗への篤い信仰心によって育まれた土地柄があった。
何十世代にもわたって積み重ねられた念仏の暮らしが
目に見えぬ土地の風土や力となる。
そうした棟方志功の心を開いたものを、柳宗悦は土徳と名付けたのだ。
棟方志功は福光に住むことによって、その教えを身をもって体験していった。
棟方は、以下のように語っている。
「いままではただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、
その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、
このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。
(中略)身をもって阿弥陀仏に南無する道こそ、
板画にも、すべてにも通じる道だったのだ、ということを知らされ始めました。
(中略)仏さまのなすがままに、自分は道具になって働いているだけ。
自分の仕事ではなく、いただいた仕事なのだ」(棟方志功『板極道』[中公文庫])
棟方志功は、福光では毎日のようにお寺の法話に出かけていき、
そこで地域のひとと交流していたようだ。
不思議とこのあたりは、文化的なものに対する素養が高かった。
棟方志功と交流のあった日の出屋製菓の川合昭至さんの息子であり、
現南砺市観光協会会長である川合声一さんはいう。
「このあたりは加賀藩。
加賀百万石というように、経済的に余裕があった地域だったんだろうと思います。
ですからパトロンというほどではありませんが、
芸術や文化面を支えることは町人・商人のたしなみだったようです」
アーティストのような”変わり者”をいぶかることなく、
むしろ知りたい、学びたい、交わりたいという気持ちが自然だった。
そしてまちに民藝作品がゴロゴロしている文化レベルの高いまちとなっていった。
日本が戦争に負けてどうなるかわからない時代。
東京にいては、描きたくても描けない。
こんなときになにしているんだという芸術に対する反発もある。
そもそも物資も少ないから手当たり次第に描くわけにはいかない。
そんな時代に棟方の代表作ともなった『華厳松』には、こんな逸話が残っている。
「ふすまに絵を描いてほしいと、先々代の貫昭は頼んでいたようです。
しかし寺にとっては大事なふすまだし、おいそれと描くわけにはいかない。
ある日、棟方先生は散歩をしていると突然ひらめかれたようで、
帰ってきてすぐに描くことになりました。
当時は墨汁もないので、近所のひとたちに手伝ってもらって
バケツ3杯ほどの墨を擦り、太い筆もないので細い筆を何本も束ねたようです。
そして6枚のふすまに、とにかく一気に描き上げた。
最後には、バケツに残っていた墨をぶちまけたといいます。
これが棟方先生が初めて描いた松であり、
しぶきを飛ばしながら荒々しく描く
”躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)”
という手法の始まりです」(高坂道人さん)
現在も残されている棟方志功の住居跡「鯉雨画斎」(りゅうがさい)。
トイレ、風呂場、天井、柱と、いたるところに仏様などの絵が描かれている。
描く喜びにあふれている家だ。
福光時代は、とにかく描きたいという気持ちが強くあった。
そうさせたのも、南砺の土地が持っていた土徳であったのだろう。
柳宗悦もまた土徳に惹かれ、
南砺にある城端(じょうはな)別院 善徳寺で代表作『美の法門』を執筆した。
善徳寺は第1回民藝協会の大会が開かれた場所でもある。
南砺市にある大福寺の太田浩史住職はいう。
「他力の信心とは、物の美の方面でいえば、
究極の美がそのまま雑器のうえに、恵み施されていることです。
その原理を証明しているのが民藝。
柳宗悦が初めて物の美の具体的な事実を通して、
阿弥陀の本願力の法則を証明しました。
阿弥陀といっても現代人には難しいですが、
民藝美という事実が阿弥陀の実在と考えられます。
柳宗悦はこの内的発見を『美の法門』という一文にまとめあげました」
土徳に惹かれて、富山・南砺は民藝の一大聖地となっていった。
棟方志功、柳宗悦、そして民藝運動の方向性には
南砺の土徳が大きな影響を与えていたのだ。
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