坂東幸輔建築事務所 vol.7 補助金なし改修なしで、 港の空きレストランを再生

坂東幸輔建築事務所 vol.7

みなさん、空き家再生してますか、建築家の坂東幸輔です。

今回は丸亀市で行った〈港のカフェPIER39〉プロジェクトの様子を紹介します。
瀬戸内国際芸術祭2016秋会期の開催に合わせて、
丸亀フェリーターミナル2階の空きテナント〈PIER39〉を再生して
5日間だけウィークエンド・カフェを開催しました。

ようこそPIER39へ。

講演会などで徳島県神山町の話をすると、
「神山町に関わるようになったきっかけは何ですか」
という質問をよくいただきます。
神山町のようにドラマティックに変化を遂げたまちに関わることになった
最初のきっかけにみなさん興味があるようです。
海のカフェPIER39の場合は、私が空間に惚れ込んでしまったのです。

港のカフェPIER39は、空き家を使って
まちづくりのきっかけをつくってしまおう、というプロジェクトです。
ただし空き家の改修工事は一切なし、予算をかけず掃除するだけで使い始めました。

カフェとして再生するのは、自分?

PIER39と出会いは2015年9月の「リノベーションまちづくりシンポジウム」の
パネラーのひとりとして参加したときのこと。シンポジウムの後で、
高松の建築家カワニシノリユキさんに
とっておきの空き家があるからと案内してもらったうちのひとつが
丸亀フェリーターミナル2階にある空きテナントPIER39でした。
PIER39は1984年にオープンした喫茶店でした。
フェリーの待ち時間や地域の方のランチにと活用されていたそうなのですが、
利用客の減少により閉店。20年近く空きテナントとなっていました。
もともと市の所有の建物なのですが、借り手がずっと見つからなかったそうです。

リノベーションまちづくりシンポジウムの登壇者。左から、私、ポンさんこと真鍋邦大さん、R不動産の馬場正尊さん、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて。

丸亀フェリーターミナル。瀬戸内国際芸術祭の会場となっている本島のほか、牛島、児島、広島、小手島、手島行きの船が出ています。この建物の2階にPIER39があります。

窓から覗いた印象ではかなり丁寧に内装がデザインされています。
その頃、出羽島のプロジェクトに関わり始めたばかりで(vol.4vol.5参照)、
海の近くや港といった場所に興味のあった私は
PIER39にすぐに惚れ込んでしまいました。

高い窓に手を伸ばしてiPhoneで撮影した写真。内装や家具の雰囲気を見て、使えると思いました。

いい空き家が見られてウキウキしながら、年に行われた瀬戸内国際芸術祭で、
土日のフェリーターミナルに長蛇の列に並んだ経験のある私は
「瀬戸芸の期間にPIER39でかき氷屋さんでもやれば儲かりますね。
誰かやればいいのに」という雑談を一緒にいた人たちとしていたのですが、
はっと気がついてしまいました。

「その誰かは自分なんじゃないか」

この連載の中でも、地域でのまちづくりは
「何をするかではなく、誰がやるか」だ、ということを書きましたが、
PIER39の「誰か」は自分なんじゃないかと運命を感じてしまったのです。

徳島県内では神山町と出羽島でまちづくりの活動をしていましたが、
瀬戸芸や地域の美術館に育てられた
アートカルチャーのある地域で活動してみたいということも動機のひとつになりました。
猪熊弦一郎美術館のある丸亀は文系女子やサブカル女子が闊歩しています。
同じ四国でも徳島にはそういった女子は一切いないので
初めて見た時は衝撃を受けました(笑)。

埃まみれの空間を大掃除

自分でPIER39を再生しようと決心した後、
シンポジウムに私を呼んでくださった地域のキーマンである、
『四国食べる通信』編集長の真鍋邦大さんに相談し、
丸亀市の若手職員の方たちをご紹介いただいたことで、
瀬戸内国際芸術祭2016の期間中のPIER39の使用許可をいただきました。

今回のプロジェクトは私の場所への興味から始まった、ごく個人的なプロジェクトです。
市からは場所の無料提供をしていただきましたが、資金的な援助はもらっていません。
個人的に応募した第一生命財団の研究助成金をもらって、
研究として行っているため、自由に活動することができました。

港のカフェPIER39プロジェクトの本格的なスタートは2016年4月末からでした。
閉店してから約20年間使われていなかったPIER39の掃除を
京都工芸繊維大学の学生の垰田ななみさんや市役所の若手職員の皆さんと行いました。
埃まみれだった空き家が、ゴミを捨て、床をモップがけして、
窓や家具をきれいに拭くと見違えるようになりました。

ファブリックの汚れやカウンターの傷みなど、掃除ではどうしょうもない箇所もありましたが、
気にしなければすぐに使える状態になりました。
さっそく、丸亀市の方たちがゴールデンウィークにまちづくりのイベントを開催してくれました。

丸亀市若手職員の皆さんとPIER39の掃除。

港の景色を見ながら窓ふき。

掃除をしただけでかなりきれいになりました。

今回の港のカフェPIER39プロジェクトのように
ぜひ皆さんにもまちにある空き家も掃除をして使い始めてみてほしいのですが、
その際に注意したいのは、漏電と漏水です。
古くなった配線・配管に電気や水を流すと、事故が起こる可能性があります。
素人が大丈夫だと判断をせず、必ず電気屋さんや水道屋さんに相談するようにしてください。

掃除を終えた後は、毎月丸亀に通い、少しずつプロジェクトを進めていきました。

香川大学の学生を中心に、丸亀の商店街の空きテナントで
カフェを行っている〈るるるカフェ〉のメンバーたちが
PIER39のプロジェクトに協力してくれることになりました。
プロジェクトは私が非常勤講師として教えている、
京都工芸繊維大学や研究室のある京都市立芸術大学の京都の大学生チームと
香川の大学生チームのコラボレーションに発展しました。

香川と京都の学生のミーティングの様子。

PIER39で販売するフードメニュー開発を香川の学生、
内装やユニフォームのデザイン・制作を京都の学生が担当し、
準備を進めていきました。丸亀市役所の若手職人の皆さんの多大な協力もあり、
10月8日の瀬戸内国際芸術祭秋会期の開催に合わせて
〈港のカフェPIER39〉を5日間の限定オープンさせることができました。

開催を5日間の限定にしたのは、
京都から毎週通うことが難しかったこともありますが、私たちがいない間も
カフェをオープンしてくれる人が現れる余白をつくりたかったからです。

PIER39のユニフォームのデザインについての打ち合わせ。

古民家LOOF vol.1 育った山梨の集落で、村おこし。 イベント赤字から抜け出すには?

古民家LOOF vol.1

みなさま、はじめまして、〈古民家宿LOOF〉の保要(ほよう)佳江です。
山梨県笛吹市芦川町で古民一棟貸し宿LOOF澤之家・坂之家という2棟の宿を経営しています。
築100年の兜作りの古民家を生かした内装になっている澤之家と、
大きな囲炉裏が特徴の坂之家。都内の20〜30代の女性、外国人観光客をターゲットに、
1日1組限定の宿として営業しています。

2014年にオープンした澤之家の特徴の“兜造り”とは、屋根の形状からそう呼ばれ芦川地域に見られる古民家の様式。小屋裏に広い空間が取られています(topの写真)。写真は改修後の小屋裏部分。ほかにも若い世代にも古民家を身近に感じてもらいたいと、水回りはきれいに、快適に過ごせるよう改修しています。

2016年にオープンした、2軒目の古民家宿、坂之家。

芦川町に戻り、古民家宿を始めるまで

芦川町は、東京から約1時間半の場所にあるのに、
“山梨のチベット”と呼ばれる秘境です。
そんな、人口400人もいない限界集落は、私の育ったまち。

東京と神奈川出身の両親が子どもは田舎で育てたいと選んだのがこの芦川町でした。
2歳でこのまちに移住し、高校生までの間をこのまちで過ごし、
大学・就職と東京に出て以来10年ぶりに地元に帰って活動を始めました。
当時は何もない、このまちから早く出たいといつも思っていました。

芦川町の風景。

戻ってきたきっかけとなったのは、大学の時の友人からの言葉でした。

「身近なことも変えられないのに世界は変えられない」

幼少期に田舎に住んでいた反動だったのか、
ずっと世界で活動することを目標に生きていた私にとって衝撃的な言葉でした。

ちょうど同じタイミングで偶然見つけた本『限界集落』に
出身地である芦川町が限界集落であることが書いてありました。

「これだ!!!」と直感的に思いました。

写真家・梶井照陰著書『限界集落ーMarginal Village』(FOIL)。写真がメインのこの本は、芦川の風景が掲載されていたりと、とても懐かしい気持ちになりました

それまでは、ずっと海外での仕事に就くことを目標に、大学では留学をしたり、
休学をして勉強をしたり、国際協力の仕事をするために活動をしていましたが、
大学4年生のときに芦川町の「村おこしをしたい!」と
方向性を変えて生きて行くことにしました。

そこで、就職活動などは一切せず、「村おこし」=農業かなと考え、
地元に戻って農業の勉強をしようかと模索していたところ、
友人からおもしろい会社があると聞き、たまたま説明会に行ったのが、前職の農業関連の会社。

入社前の面接で社長に「村おこしがしたい」と話すと、
「うちの会社を踏み台にして、自分のやりたいことに進みなさい」
と言われ、そのまま入社することにしました。
配属された飲食部門でトップまで行って、結果を出してから辞めようと決め、4年間勤務。
並行して周囲に「村おこしがしたい」と言い続けていました。
3年目に、まずはできることから始めてみようということで、飲食関係の友人に手伝ってもらい、
地元の食材を使用して芦川にある古民家でフレンチ料理を提供する、
週末レストラン「囲炉裏フレンチ」というイベントを開催しました。

イベントのときにつくったチラシ。

村おこしって何だろう?

毎回イベントはすべて満席。とても好評で1年間続けましたが、収支はずっと赤字。
これではいけないと悶々としていましたが、
そもそも“村おこし”ってなんなのか? を考えずに、
突っ走っていたため最終的にどうなることが理想の“村おこし”なのかを
イメージできていなかったのです。

そこで、一旦考え直し、「なにかしてあげよう」という考えから
「地域の人が抱えている問題を、自分のやりたいことを通じて解決していこう」と、
自分に軸を置いて活動をしていこうと決めました。

私のやりたいことを考えた時に辿り着いたのは、
「トカイもイナカもある暮らし」の実現。

ありのままの自分を出せる場所=イナカ

背伸びした自分をつくる場所=トカイ

イナカ過多、トカイ過多な人が多いけど、私は両方がほしい。

そして地域の人が抱えている問題を解決したい。
その頃ちょうど芦川の地域全体で行うワークショップが開催されており、
地域の一番の課題が「空き家の問題」という結果に行き着きました。
300軒ほどある建物のうち、3分の1の100軒が空き家という事実。

私のやりたいことと、地域の抱えている課題の2点に加え、
私は必ず入れないといけない視点として考えたことが、ふたつあります。

①まずは「しっかり稼ぐ」ということ。

②地域の課題を「おもしろく解決する」ということ。

少ない収入でも暮らせるのがイナカなのかもしれないけれど、
それが個人の希望とは合わないこともあります。
実際、私の周りの同世代の友人も、地元に戻りたいと思っている人は
たくさんいました。しかし、みんな共通して戻らない理由が
「仕事がない」ということと、「魅力的な仕事がない」ということ。
選択肢の多いトカイから抜け出すのはなかなか勇気のいること。
だから、私は芦川に戻ってくるときに、
「おもしろいこと」しかしないということと、
「トカイ以上に稼ぐ」ということを決めました。

そこで私のミッションは
「地方に持続可能なビジネスモデルをつくり、
集落に残る日本の生活文化を継承する」こと。

そして意識する点として、「おもしろく社会問題を解決する」と考えました。

そこから具体的に芦川町で何をしようか考え始めました。
この地域だからこそできる強みとはなんなのか、
ほかのイナカでなく、この地域だからこそできることってなんなのか。

株式会社建大工房 vol.2 廃墟ビルをリノベーション。 福井のものづくりの 新拠点が生まれるまで

株式会社建大工房 vol.2

「Happiness is only real, when shared.」

幸せが現実となるのは、それを誰かとわかち合った時だ。

前回にも書きましたが、僕はホームレス工務店だったことがあります。
家もなく、借金を抱えながら、何のために生きるか、何を信じるかなど、
いろいろ悩んで哲学書や宗教の本などを読み漁って出会った1本の映画がありました。
『イントゥ・ザ・ワイルド』(into the wild)。冒頭の言葉はその中の一節です。

ストーリーはこうです。
物質社会に嫌気がさした青年がすべてを捨てアメリカを横断。
目的地であるアラスカの奥地で完全自給自足の生活をしながら自分をみつめていく。
1992年に実際に起こった実話に基づいた話です。
主人公がアラスカの地で苦悩の果てに、
最後に残したメモにあったのが、先の言葉でした。
当時、生きることの意味を模索してる僕にとって救われた出来事のひとつでした。
その映画の公開を知ったのが〈IDEE〉創始者の黒崎輝男さんのブログです。
鯖江の講演を聞きにいってすぐのことでした。

さて、今回は、ホームレス工務店となり、
どん底だった当時の僕にとって、大きな財産となった黒崎さんとの出会い、
アメリカの旅、そして2016年にオープンした古ビルの話を書きます。

食や工芸、北陸のものづくりを発信

まずは今年2016年9月にオープンした〈CRAFT BRIDGE〉(クラフトブリッジ)について。
ここ福井にもまたひとつおもしろい場所ができました。

もともとは住居や賃貸住宅として使われていましたが、2階、3階は10年以上放置されていて廃墟同然でした。

1階が日本酒バーとパン屋さん(予定)、2階にシェアオフィス、
そして3階とルーフテラスにクラフトビールのビアバーがある複合施設です。
FLAT(vol.1参照)から派生した仲間に新たなメンバーが加わり、
代表は不動産屋さんで、建築家、漆器屋さんなどの方々も参画して、
みんなでつくりあげています。

ビルのコンセプトは福井はもちろん、北陸の地域に根づく工芸や食、
地酒などのものづくりの文化を、体感できる橋渡しの役目となり、
これからの新しい働き方を生むような、交流の場となる場所。

FLATは福井のクリエイターたちの交流や表現の場所という感じで使われてきましたが、
ここクラフトブリッジはもう少し発信の範囲を広げていくのと、
これからの「仕事」のやり方を提案していくような、
人材を育てていく場所としても活用できるようになっています。

1階の日本酒バー〈rice bar〉は黒崎さんの紹介で福井出身のデザイナー水谷壮市氏の設計。

1階のパン屋さんが入る予定のスペース。これは、オープニングパーティーの様子で、東京から黒崎さんの事務所のスタッフもたくさん駆けつけてくれて盛り上がりました。

3階のクラフトビアバー〈Bridge Brew〉。壁面の廃材のヘリンボーンの壁はここを経営するデザイン事務所〈HUDGE〉のスタッフたちがDIYでつくったもの。テーブルはもともとついていた鉄扉をそのまま使っています。

インテリアのチョイスはHUDGE代表の内田裕規さん。アメリカで買い集めたものばかり。

屋上のビアガーデン。北陸のクラフトビールと地元食材のオーガニックフードが食せる。薪はディスプレイだけではなく、石窯もつくってあり本格的な石窯ピザも焼ける。屋内に薪ストーブも設置予定。

リノベーションスクールの時にDIYワークショップでつくった屋上に設置したオブジェのフラードーム。ホームセンターの1×4材で総材料費は3万円程度。直径3.4メートル。

1番上のルーフテラスのコンセプトはアウトドアリビング。ハンモックに揺られながらまったりと過ごせる。

実はクラフトブリッジをプロデュースしてくれているのが、
冒頭でも書いた黒崎輝男さんです。
東京・青山の国連大学前広場で開催されている〈Farmer's Market〉や
フードカーが集まるコミュニティ空間〈commune 246〉のプロデュース、
米国・ポートランドのガイドブック『TRUE PORTLAND Annual 2014』など、
数々のおもしろい本も出版しています。
仏人デザイナー、フィリップ・スタルクを日本に紹介しオリジナル家具をプロデュース、
ほかにもマーク・ニューソンなど世界に名だたるアーティストの才能を見出してきた
現代の千利休みたいな人だと僕は思っていて、
90年代後半〜2000年代初頭の東京のデザインシーンを語るうえでかかせないひとりです。

今も常に世界中を飛び回りながら最先端を走っています。
クラフトブリッジでは2階のMIDORI.so FUKUIを運営してもらって、
平均すると月に1度くらいのペースで黒崎さん自ら出向いてもらってイベントをしたり、
福井と東京の若者たちとの交流を促してくれたりします。

2階のギャラリースペース。今は越前漆器や金継ぎの作品、越前和紙などが展示されています。

2階のシェアオフィス〈MIDORI.so FUKUI〉の窓の外には隣にある隈研吾氏設計の料亭〈開花亭sou-an〉が。

伝統工芸などのものづくりが根づく福井にはそれを守りたいという若者がまだまだいる。
黒崎さんは、日本古来の文化や風景をどう残していくかという活動をしていて、
伝統を担う福井の若者がそれぞれ現代的なやり方や見せ方などの葛藤があるところに、
突破口となるヒントをくれながら、応援してくれています。

そんな北陸のものづくりがクラフトブリッジのテーマになったのも
2年前に黒崎さんに連れられて行った旅から始まります。
まさか僕らが黒崎さんとアメリカに行くことになるとは……

ISHINOMAKI2.0 傾いた空き家、 どうやって改修する? 忍者屋敷がアトリエに

ISHINOMAKI2.0 vol.5

第5回目となる今回は、私、勝 邦義の古巣である
横浜の建築設計事務所〈オンデザイン〉が担当します。オンデザインは2011年の5月、
まだガレキが残る石巻のまちなかで1冊のフリーペーパーをつくることからスタートした
〈ISHINOMAKI2.0〉の誕生から、活動を支えてきました。

当時駐在していたスタッフに加えて、私が関わるようになったのが2012年。
そして2013年、私の次に関わるようになった、
オンデザインのスタッフ湯浅友絵さんが今回の執筆者です。徳島県出身の元気娘として、
石巻のまちに飛び込み取り組んだふたつのリノベーションを紹介します。

石巻の現場で大工さんと打ち合せするオンデザイン代表の西田司さん(左)とスタッフの湯浅友絵さん(右)。

こんにちは、オンデザインの湯浅友絵です。
今回は私が石巻で関わっているリノベーション事例をふたつ紹介します。
ひとつは空き家をアーティストインレジデンス&ギャラリーに変えた事例で、
もうひとつは空き地を、中古屋台を使ってコミニュケーションスペースに変えた事例です。

少し自己紹介から。私は横浜の建築設計事務所オンデザインで働きながら、
ISHINOMAKI2.0の取り組みをさまざまなかたちで協働してきました。
私が石巻に初めて行った2013年頃は、
まちはすでに東日本大震災によるガレキの片づけなどは済んでいて、
復旧ではなく自分たちの手で、震災前より魅力あるまちにしようと、
復興フェーズになっていました。

すでにオンデザインの先輩である勝さんは石巻に住みながら、
さまざまな取り組みをしていました。私は入社してすぐに、
「横浜から石巻へ行かないか」と代表の西田から言われ、とんとん拍子に、石巻へ移住。

勝さんから、いろいろと話は聞いていましたが、想像と実際に住むのでは、大違い。

石巻に初めて行った時に撮った写真。

ガレキなどは片づいたとはいえ、当時の石巻のまちには住む場所がなかなか見つかりません。
不動産屋へ行っても、当時ひとり暮らしの空き部屋がない状況でした。

今まで自分が生活してきたまちとはまったく違う環境だったということもありますが、
まちなかは空き地、空き家が目立ち、どこか寂しく感じました。
仮住まいとして寝泊まりをしていた復興民泊も、シャワーブースにトイレ、
二段ベッドという生活するのに、必要最低限のものが用意されているという状況でした。

そんな環境で何よりの励みになったのは、石巻のまちの人のあたたかさです。

家がなくても、「うちに泊まればいいよ!」と、
2か月の間に商店街の呉服店さんの和室や、
電気屋さんの屋根裏部屋、ISHINOMAKI2.0の先輩の家の空き部屋など、
スーツケースひとつでまちのなかを転々としながら、暮らしていました。

あのときの本音を言えば、
「横浜の設計事務所に入ったはずなのに……」と最初は思っていましたが、
石巻のまちで実際生活し、1日に3〜50人の人に出会い、
まちの人に触れ、あたたかく受け入れられる感覚は、都会では味わえない生活でした。
昼になると、まちの呉服店にお腹を空かせた若者が集まり、
そこで昼食を食べてコミュニケーションをとったり、
事務所で仕事をしていると、まちの人がやってきて、石巻の歴史について語ってくれる。
石巻という場所は、横浜に戻ってきた今でも通い続けたくなる魅力溢れるまちです。

新しい総合芸術祭の開催に向けて

では、ここから本題のリノベーション事例を紹介します。

ひとつ目は空き家の改修です。ただ住めるようにするだけでなく、2017年に開催する
〈Reborn-Art Festival 2017〉(リボーンアートフェスティバル)のために、
アートスペースとして利用することが求められていました。

Reborn-Art Festivalとは、東日本大震災から5年、
ここまで歩んできた現地の方々の「生きる力」や「生きる術」に共感した
さまざまなジャンルのアーティストが、東北の自然や豊かな食材、
積み重ねられてきた歴史と文化を舞台に、そこに暮らす人々とともに繰り広げる、
いままでになかった総合祭(Reborn-Art Festival HP抜粋)のこと。2017年夏開催予定。

このプロジェクトが動き出したきっかけは、ISHINOMAKI2.0と、
震災後継続して石巻を支援している、一般社団法人ap bank(以下ap bank)との出会いです。

2011年の震災後、ap bankの代表理事であり、
音楽プロデューサーとしても有名な小林武史さん自らが被災地へ足を運び、
〈NPO法人ETIC.〉が主催する、東北へ地元には少ない能力やスキルを持った人材を派遣する
「右腕プログラム」など、さまざまなかたちで復興支援をしていました。

そんななか、小林さんは石巻にも幾度も来られていました。
ap bankとして、継続できるかたちでも、何か支援ができないかと考えられていたそうです。
ちょうどその時期、新潟の越後妻有地域で行われていた『大地の芸術祭2012』に行き、
さまざまなアーティストやサポーターが
芸術を介して地域の力を底上げしていることに感銘を受け、
「被災して地力が弱まっている石巻で、
自分も地域に軸足をおいて一緒になにかをつくりあげることができないか」と思ったそうです。
(コロカルでも小林さんにインタビューしています

その後、ISHINOMAKI2.0との出会いがありました。
石巻のまちを世界で一番おもしろいまちにしようと活動しているISHINOMAKI2.0は、
Reborn-Art Festivalの考え方に共感し、中心市街地での会場、
まちのキーパーソンからのヒアリングや、
アーティストとまちの人をつなぐ役割を担うこととなりました。それから地域の人々や、
自治体、観光協会、商工会議所、地域市民団体、企業などと対話を重ね、
少しずつ構想をかたちにしていき、2015年7月に地域と共同で
「Reborn-Art Festival実行委員会」を発足し、
音楽やアートや食など総合的な地域芸術祭開催に向け、動き出しました。

2016年夏に石巻港雲雀野地区で実施されたReborn-Art Festival×ap bank Fes 2016の会場での様子。会場のところどころにはアーティストが制作した作品が展示されていました。(photo:中野幸英)

そこでアートキュレーターで参加されている〈ワタリウム美術館〉の和多利浩一さんと
石巻のまちなかで震災前まで電気屋を営んでいたオーナーさんとの出会いがありました。

もともと、石巻のまちをもっと良くしたいという強い想いがあったオーナーさん。
ふたりは意気投合し、石巻の未来について、
アートという側面から、どうまちに場をつくっていくかなど、話が盛り上がったそうです。
そのなかで、オーナーさんが、使い方がわからず、
手もつけられないまま放置している1軒の空き家を所有しているという話になり、
後日、建物を見た和多利さんが、とても気に入り、アーティストが滞在し、
アート制作、居住を目的とする拠点にリノベーションし、
会場として利用させてもらえないか、とオファーしました。

空き家は、JR石巻駅から10分程歩いたことぶき町通りという商店街にあります。

ことぶき町通り。

忍者屋敷を、アーティストインレジデンスへ

ことぶき町通りを歩いていると、家がないのに、玄関扉のような扉がある敷地があります。
一見、この扉は通りに面しているため、誰かの家の玄関かなと思うのですが、
そこを開けると、細い小道が現れます。

その細い小道を歩いていくと、見えてくる1軒の空き家。
築80年以上になるこの建物を、今回改修することになりました。

(photo:鳥村鋼一)

裏から見た、改修前の外観。

この建物、以前から気になってはいましたが、誰も住んでいない空き家ということもあり、
どこか近寄り難い雰囲気があったとまちの人々は言います。
通称「忍者屋敷」と呼ばれていました。

かつては、1階は縫製工場として使われ、2階には働く人が住んでいたそうです。
実際、現地調査をしてみると、1階は天井が高く、天井からコンセントが垂れ、
ここでミシンを踏んでいたのではないかと想像できました。
この1室を取り囲むようにトイレ、階段、土間があり、浴室はありません。
階段を登ると、中2階に和室が1間、さらに階段を登ると、和室が2間ありました。

階段が変わっていて、中2階で登りきり、上がってきた階段の吹き抜けに板をパタンと倒して、
通路にし、そこからしか上階へ上がれないという、
まさに忍者屋敷のような設えとなっていました。

改修前、中2階から見た階段部分。

さらに、建物の中にいると平衡感覚を失うくらい家が傾いているのがわかりました。

詳しく調査してみると、築80年以上のこの建物は、
震災で傾いたのではなく、震災前に傾きがすでにあったようです。
また、昔は平屋であった建物に無理やり中2階、2階部分を増築していたことがわかり、
そのため階段があんな感じに取り付いていたのだと、納得しました。

柱も細く、増築部分は乗っているだけで、
よく東日本大震災を耐え抜いたものだと、感心させられました。
ちなみに余談ですが、東北の建物はほかの地域と比べると、
華奢なものが多く軽いのだそうです。軽いからこそ、逆に、震災にも負けず倒れず、
しなやかに生き永らえたのかもしれないと大工さんが教えてくださいました。

ただ、生き永らえた、とは言え、平衡感覚を失うほど傾いているこの家です。
調査を進めるほど、どう改修を進めていくかの、課題は山積みです。

この建物の傾きを直せる……のか?

坂東幸輔建築事務所vol.6 空き家の活用アイデアは 誰が考えて、誰が始める?

坂東幸輔建築事務所 vol.6

こんにちは、建築家の坂東幸輔です。

これまでの連載では、徳島県の神山町や出羽島での空き家再生まちづくりを紹介してきました。
これからは徳島を飛び出し、北海道浦幌町や香川県丸亀市など
日本全国で行われている現在進行中のプロジェクトを紹介していけたらと思っています。

今回は北海道十勝郡浦幌町での空き家再生まちづくりの様子をお伝えしようと思います。
浦幌町の活動内容に加え、空き家再生まちづくりに関わってきて見えてきた、
方法論にも触れてみたいと思います。

浦幌町の中心市街地、シムシティでつくったようなグリッドのまち。車で移動しやすいようになっている。

リノベーションや空き家再生でまちづくりをしている方は全国にいますが、
私の特徴はと聞かれると、
「人口5000人程度の規模の過疎地域で活動することが多いです」
と返答しています。自分で選んでいるわけではないのですが、
神山町も出羽島のある牟岐町も人口5000人強のまち、
そういった場所での活動が最もやりやすいと感じています。
行政の担当者が個人の裁量でスピード感をもって
いろいろなことが決定できるちょうどいい人口規模なのでしょう。
人口が1万人を超えると、行政の意思決定が見えにくくなり、
相手が何を求めているのかわからずプロジェクトが停滞してしまうケースが多いです。

浦幌町とはどんなまち?

浦幌町も人口5000人規模のまちです。
大学はもちろん高校が町内になく、中学生以上の若者を見かけません。
空き家や遊休施設も目立ちます。この3つの特徴はこれまで関わってきた
徳島のふたつの過疎のまちと非常に似ています。

しかし、北海道ならではの雄大な自然が育む食料の自給率はなんと2900%、
農業・林業・漁業と1次産業がすべて揃っており、GDPはなんと神山町の3倍。
うらほろスタイルという独自の小中学生の教育プログラムも充実しており、
そのおかげか出生率も上がっているという、
私にとっては「本当に過疎地域なの?」と驚きの多い地域でもあります。

とかち帯広空港から浦幌町に向かう道路。山や畑の見える雄大な風景の中のまっすぐな道。

そういう驚異的な浦幌町ですが、
一方で、うらほろスタイルを通して地域への愛着をもった子どもたちが
大学卒業後や就職後に浦幌町に戻ってきたくても働く場所がない、
というのが問題も抱えています。

サテライトオフィス事業の成功によって
過疎地域に若者の働く場を生み出した神山町から学びたいと、
神山で人材育成を行っている祁答院(けどういん)弘智さんが
浦幌町の地方創生アドバイザーに任命され、
私は建築的なサポートを行うために呼んでいただきました。

「活用したい空き家(遊休施設)がある、改修のための予算も用意した、
しかし何に使っていいのかわからないから一緒に考えてほしい」
という、どの過疎地域に行っても
最初に聞く同じ悩みをやはり浦幌町の方たちも抱えていました。

建築家に求められていること

空き家再生では、建築家は設計をする以前の
コンサルティングの段階から関わる必要性を非常に感じます。地方公共団体だけでなく、
「先祖代々伝わる古民家に愛着があって壊すに壊せない」
という個人のクライアントも同じ悩みを抱えています。
人口よりも建物の数が上回ってしまっているのでしょう、
建物を直しても使い途がすぐには出てこないのです。

これからリノベーション・空き家再生に関わる建築家は行政や個人にかかわらず、
そういったクライアントに丁寧に寄り添って、
一緒に建物の使い途を考えていくことが大切な仕事になっていくと感じています。

浦幌町での依頼は10年前に廃校になった旧・常室小学校を
浦幌町の仕事創出の場として改修したいので、その手伝いをしてほしいというものでした。

10年前に廃校となった旧・常室小学校。中心市街地から車で10分ほど離れた場所にある、S造地上1階建の建物。

株式会社建大工房 vol.1 僕が福井でカフェをつくった理由。 借金がすべてのはじまり?

株式会社建大工房 vol.1

みなさまはじめまして。ごく普通にただものづくりが好きで福井で設計施工の工務店を営む、
出水建大が筆を執らせていただきます。
日本が絶好調に浮かれ出す目前の1973年生まれです。
今回は、伝統工芸から食までとことんこだわる、
ものづくりのまち“福井”から執筆させていただきます。ホームページもなければ営業もしない、
そして大した学もないこんな僕ですが仕事を独立して来年で早10年が経とうとしています。

「リノベのススメ」の記事ということですが、
ここでは“リノベーション”という言葉についてもっと広義に、
かつ超個人的な意味で「建築=場をつくる」「“手”でつくる」と捉えて
僕なりの解釈で書き綴りたいと思います。

カフェの廃業、そしてホームレス工務店に

少しだけ自分のことを。
前述の通り1973年生まれの僕は思春期に幸か不幸かブルーハーツや尾崎豊、
湘南爆走族やビーバップハイスクールなんてものが流行ってしまい、
中学もろくに卒業しないまま大工や塗装工などの現場仕事に就きました。
それらを転々としながらバイクに乗ったり、
スノーボードやサーフィンを楽しむために海外に行ったりしながら
典型的な自由人(←精一杯の表現)の生活を送っていました。

当時、親も地元福井で小さいながらも設計施工の工務店を経営していました。
今でこそ設計も行う工務店は増えましたが父が開業した40数年前は、
設計もする工務店は福井ではめずらしい形態で、
つくる建物もほかと比べると個性的であったのも手伝って
仕事はそこそこ順調そうでした。

僕は25歳になりそろそろ落ち着こうと考え、
親の会社でとりあえず建築士の免許を取ってみようと本格的に設計の勉強を始めました。
もともと小さい頃から家に転がっている端材で工作をするのが得意だったのと、
中学校卒業後に転々としながらも職人として入る現場が大好きだったのですんなり免許取得。

しかし例に漏れず父と不仲な関係もあり、父の会社は住宅メインでしたが
僕はより個性の出せる店舗建築が好きでそういう仕事を積極的にしていました。
そのうちに自分でも店舗を持ちたくなり30歳になると同時に、
建築業のかたわらで小さな雑貨屋兼カフェ〈GARDEN〉(ガルデン)を始めました。
建築との二足の草鞋で昼間はバイトの子に任せ、夜は僕が店に立つというかたちで。

閉店時間は一応21時でしたが、隣が居酒屋ということもあり、
店を開けている限り夜中の0時を過ぎてもお客さんが入ってきて、入れ替わり立ち替わり、
数百円の雑貨を購入するかコーヒーだけで夜中の2時~3時までみんなが話し込む毎日。
そんな経営で商売が成り立つわけもないのですが、
僕自身は楽し過ぎて約2年間も営業していたのです。
しかし、そんな自転車操業を続けた結果、2005年に大きな借金だけが残り泣く泣く閉店。

また建築の仕事をこなしてお金貯めてカフェ再開するぞ~と意気込んだ矢先に、
親の工務店が倒産。

それから、自分の店の売れ残りの家具や雑貨が山ほど家にあったので
持っていかれてたまるかと、親戚の倉庫に毎晩配達(俗に言う夜逃げ)。
東京と九州出身の両親はなんとか遠方の親戚の家に住まわせてもらえたのですが、
僕はそんな状況でも建築の仕事の依頼が多少あったのと、
何となくこの境遇がおもしろかったので半年くらいネットカフェと倉庫と現場を
往復しながら「ホームレス工務店」を楽しんでいました。
ちょっとでもお金になることなら建築以外でもできることは昼夜問わず全部しました。

当時は結婚もしていませんでしたし、何よりも、
周囲の人たちに助けられたことが楽しめた理由です。
現場にまで来た借金取りを追い返してくれる施主だったり、
昼間現場仕事をしながら毎日朝まで家具の移動を手伝ってくれる
仲間の職人たちがいなかったら考えられない現実でした。

当然のように社会から切り離されたかのように見えるなかで、
強制的にふるいにかけられて残ってくれた周りの人たち。
それが後につながる最強のコミュニティだったと今になって思います。
そして不幸にも見えたこのカフェの廃業からでした。大きく変わり出したのは。

ISHINOMAKI2.0 vol.4 空き家活用の交渉からスタート。 商店街に生まれたシェアハウス

ISHINOMAKI2.0 vol.4

第4回目となる今回は、石巻でデザインと建築の専門家からなる
まちづくりベンチャー〈合同会社巻組〉の渡邊享子さんにバトンタッチして、
石巻に移住したいと考える人々の暮らしの受け皿となる拠点づくりを紹介します。

石巻には震災以降、全国から私のように暮らしの拠点を移す人たちが
たくさんいます。その数は私が知るかぎりで数えても100名以上。
そうした地域外からの移住者や、
石巻に可能性を感じて戻ってきたUターン者の受け入れ先として、
中心市街地にたくさん存在する面積の大きな空き物件が活用されています。
石巻で活躍する出る杭のような人材をつくる巻組の活動。大注目です。

渡邊さん。(photo:和田剛)

まちに、住まいが足りない!?

こんにちは。私は、〈合同会社巻組〉の渡邊享子といいます。
宮城県石巻市を中心とした、東北の「田舎」で空き家を活用し、
20〜30歳代の移住者にむけた住まいとして提供しています。

そんな仕事をしている人は全国にいくらでもいると思いますが、
私たちが、そうした仕事を始めた理由は、2011年東日本大震災でした。
石巻市は水辺の平地の約30パーセントが浸水し、東北最大規模の被害を出しました。
こうしたなかで、都市部からのアクセスのよさや
受け入れ態勢が比較的充実していたという理由から、
2011年3月から1年間でのべ28万人ものボランティアが訪れました。

今回の震災の特徴は、こうしたボランティアの活動が非常に長期化し、
なかには震災復興の文脈を超えて、この地に定着する人々が現れた点です。

ひとつの民家に集まる、ボランティアとして石巻にきた若者たち。

2012年初頭に、被災した地域において住むための家がないという声が聞こえてきました。

人口減少が進む被災地域で、こうしたボランティアが定着し、
地域に関われる拠点をつくりたい。
それが、私たち巻組の活動のきっかけでした。
当時、石巻では大きくふたつの理由で住宅が不足していました。

ひとつは、震災で多くの住宅が被害を受け、地域の方々の住まいが不足していたこと。
当時、避難所が解散されたのが2011年秋頃、
5年たった現在でも仮設住宅を出られない方々がおられます。

もうひとつは、被災地に限らない問題でした。
いわゆる地方都市の中心市街地や、漁村・農村部は、
ほとんどの住宅が持ち家であり、単身者向けの賃貸住宅がそれほど多くありません。

2015年に石巻市により実施された空き家調査において、空き家と判断された住宅は、
中心市街地に108戸、2006年に合併した旧6町に189戸、計297戸ですが
それらの平均面積は約127平方メートル。
都心で単身の若者の住宅の標準面積が約36平方メートルなので、
都市部の単身世帯と比較して約3倍の広さの持ち家住戸が空き家となっている現状があり、
なかなか有効活用ができません。

「先日までおばあちゃんが住んでいたが、
ご高齢のため住まなくなって空いている広すぎる家」が、
日本の「田舎」には多く眠っているのにもかかわらず、なかなかヨソモノは入れない。
そんなことが課題になっていました。

2012年春。そんなふたつの不動産的な壁に打ち当たって途方にくれている……。
住むところがないという理由で石巻を去るボランティアの仲間たちもいました。

そんな時に、なんとかまちの中でモデルをつくりたいという気持ちで
まちを歩き回りなんとか見つけた平屋の空き家を
住まい手の方と一緒に直したのがきっかけで、
市外から石巻市にきて活動するよそ者に家を紹介する活動が始まりました。

初めて改修した空き家。住まい手自らの手でおしゃれな空間に。(photo:楠瀬友将)

「空き家」を探して歩き回るうちに、ひとつの重大な事実に気づきました。

誰にも一切使われていない純粋な「空き家」はほとんどない。

という事実です。

そこで、使われていたとしてもあまり有効活用されていない空きスペースも視野に入れて
活用する必要がありました。そのなかで、私たちの活動のシンボルになったのが
商店街に建ち並ぶお茶屋の2階を利用した〈SHARED HOUSE 八十八夜〉です。

このシェアハウスは80歳代の店主が運営するお茶屋の2階にあります。
もともとこの場所は30年前までは店主が家族で住んでいたのですが、
郊外に広い住宅を建てると、住まなくなり、2階は倉庫として使われていました。

とはいえ、この建物は「空き家」ではありません。
店主さんが営業を続ける建物を活用することなどできるのか。
店主の高橋仁次さんとも何度も意見がすれ違いそうになりました。

学生や島民みんなで空き家再生! 島ならではのワークショップとは。 坂東幸輔建築事務所 vol.5

坂東幸輔建築事務所 vol.5

こんにちは、建築家の坂東幸輔です。

前回は徳島県牟岐町にある人口70人の過疎の島、
出羽島(てばじま)の空き家再生まちづくりについて書きました。
今回はそのつづき、学生たちがデザインした〈旧・元木邸〉の設計提案は
いったいどのように実現したのでしょうか。

不便さが地域ならではの建築文化を守る

牟岐町は平成29年度を目標に
出羽島の「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」指定を目指しています。
重伝建に指定されると古民家の外観を、
建物が建った元の状態に復元する工事に補助金が出るようになります。
指定を受けられれば出羽島では毎年数棟ずつ
建物を改修する予算を確保できることになりますが、
その次に問題となるのは伝統的な民家を改修できる大工がいないということでした。

〈旧・元木邸〉の改修工事には
伝統的な大工技術を学ぶ徳島の若手大工グループが参加してくれました。
若手の大工にとって、これから古民家の改修が継続して行われる出羽島は
貴重な練習場になるに違いありません。ぜひ、出羽島で大工技術を学んだ
“出羽島大工”のような人たちが育つ場所になってくれたらと思います。

2階の床を支える梁が腐っていたため、1階を残して解体された旧・元木邸。大工さんたちは機械ではなく手刻みで木材を加工。

私が出羽島に魅かれる理由のひとつが、島が小さく車が1台もない島であるという特殊性です。
牟岐港から連絡船で15分という近い距離にありながら、
建築を考えるうえでのさまざまな条件が日本の一般的な場所と大きく異なります。

車が走る道路があれば、流通している建材や工場で製作した建築の一部分を運搬し、
重機を使って組み立てるということが日本中どこでも可能です。
それは車が通るところなら日本中どこでも
同じ建物を建てることができてしまうということになり、
地域性とは関係なく同じような風景ができてしまいます。

しかし出羽島では、重機が使えないため建物を建てたり壊したりすることが大変です。
空き家再生をするうえでは大きな制約ですが、
地域の持つ強い個性であるとも言えます。材料の調達・運搬方法や、施工のしやすさなど
出羽島での合理性を追求したうえで
でき上がる建物はどの地域の建物とも違う建物になるでしょう。

その土地の材料を使い、その土地の職人の技術で、気候風土に合わせて建物をつくるという、
かつて日本の各地でどこでも行われていた建物のつくり方を
出羽島では再現できるかもしれない。
そんな“現代の民家”をつくるということを目標にしています。
建築家が建物だけをデザイン、設計するのではなく、地域の材料や交通、仕事といった、
地域全体を再生していくことに、私は興味があるのだと思います。

多様なワークショップを通して島を知る

〈旧・元木邸〉を巡るワークショップは、基本設計ができてからも、
牟岐町教育委員会の川邊洋二さんの
「建物にできる限りいろいろな人に関わってもらいたい」という思いから、
「焼き魚ワークショップ」「土壁塗りワークショップ」
「家具づくりワークショップ」などさまざまな種類のワークショップが行われました。

川邊さんが求めるワークショップは
建物を完成させるうえでは回り道をしているように見えます。
学生と実施設計を行う地域の建築士さんとの間に立って
デザインの調整を行う私にとっては、コントロールの難しい要素がどんどん増えていくので
ワークショップを求められるごとに不安を感じることもありました。

しかし、川邊さんが求めているものが出羽島に単におしゃれな建物をつくることではなく、
島の人や学生、移住者たちが愛着をもって一緒に活動できる場と状況をつくり出すことだと
ワークショップを重ねるごとに理解できるようになりました。

「焼き魚ワークショップ」は地域の産業である漁業に関わる魚の調理、
漁船を使ったクルージングや草刈りなどの島の困りごとを解決する取り組みを試すことで、
〈旧・元木邸〉が完成した後のソフトを開発するワークショップでした。

島の主要な産業である漁業について学ぶ、焼き魚ワークショップを行った。漁師さんから鱗の取り方など調理方法を教えてもらった。

左の丸いのがキダイ(レンコダイ)、右がイトヨリ。

「土壁塗りワークショップ」では
職人さんに教えてもらいながら竹小舞から荒塗りまでをやらせてもらいました。
建物が完成した後も自分の塗った土壁の場所は特別な思いがします。
ワークショップの参加者も〈旧・元木邸〉についての愛着を育んでくれたのではと思います。

〈旧・元木邸〉の土壁塗りをワークショップで行った。最初に職人さんから土壁の下地の竹小舞の編み方を教わった。

自分たちで編んだ竹小舞の上に土壁を塗った。ワークショップの参加者は学生だけでなく、自分の家を自分で改修したいという周辺地域への移住者の参加も多かった。

「家具づくりワークショップ」では、〈旧・元木邸〉の完成後に使用する家具を制作しました。
家具は徳島の伝統工芸である藍染めの塗料に加工したものを使い、仕上げました。

ワークショップで家具のアイデア出しを行った。椅子は出羽島の手押し車・ネコをモチーフにデザインした。

制作したテーブルに藍染め塗料を塗る。出羽島は温暖で沖縄でしか栽培できない琉球藍が栽培できる。移住者たちが中心となって、出羽島の耕作放棄地を活用して琉球藍を生産する取り組みが始まっている。藍という産業を通して、出羽島の風景が変わりつつある。

藍染め塗装をして完成した椅子。

6つを組み合わせると出羽島のかたちになるローテーブル。

自分でも島の空き家を購入?!

余談ですが、ワークショップで出羽島に何度も通う間に、
なんと私も出羽島に空き家を購入してしまいました。
神山や出羽島で空き家を改修して2拠点居住やサテライトオフィスを楽しんでいる人たちを見て
いつの間にか自分も古民家を手に入れたくなっていたのです。

空き家の持ち主と交渉し、土地・建物合わせて格安の値段で譲っていただくことができました。
雨漏りしている屋根を直したり、畳を新調したり、
水廻りを直したりという簡単な工事を行って、現在は出羽島での活動をサポートする
サテライトオフィス〈HARBOR出羽島〉として活用しています。

〈HARBOR出羽島〉外観。出羽島の折りたたみ式の雨戸をもった伝統的なミセ造りも残っています。

〈HARBOR出羽島〉内観。雨漏りで壁や畳のカビがひどかったのですが、きれいに改修できました。

話がそれてしまいましたが、本題に戻りましょう。
これまでのワークショップを通して島の方と仲良くなった学生が、
出羽島の家々には遠洋漁業で集めてきた宝物が
たくさんあるという話を聞いてきました。家の中に眠っている宝物を探して、
改修後の〈旧・元木邸〉で展示をしたいという学生たちの意見から
「島の宝物探しワークショップ」を開催しました。

十勝のクリエイターとつくりあげた 世界でここだけのホテル空間。 HOTEL NUPKA vol.3

HOTEL NUPKA vol.3

〈HOTEL NUPKA〉(ホテルヌプカ)の坂口琴美です。
連載も第3回目となりました。

2016年8月末に北海道・東北地方を直撃した台風10号は、
十勝全土にこれまでに経験したことがない大きな爪痕を残しました。
自然の保水量を超えた豪雨で川が溢れ、交通インフラが破壊され、
基幹産業の農業は多大な被害が生じ、そして貴重な命が失われました。
いまだ完全な復旧に向けた道筋が見えない状況です。
被害に遭われた多くの方にお見舞いを申し上げます。
HOTEL NUPKAのスタッフ一同も、
地元再興に向け今できることを取り組んでいきたいと思っています。

これから十勝の秋は深まり、やがて冬の季節を迎えます。
雪の広がる十勝平野、澄んだ空は青く、夜は星空が広がります。
農作物の恵みとおいしい食べものを楽しみに、たくさんの方が訪れますように。
NUPKAで、十勝の旅のお話をお聞かせください。

十勝のクリエイターたちとの出会い

ホテルは泊まって眠るだけの場所ではない。
旅行者と地元で暮らす人が交流する「まちをつくるホテル」でありたい。
そんな私たちの思いを受けとめ、東京の〈UDS株式会社〉の皆さんが提案してくれたのは
「Urban Lodge」というコンセプトでした。(vol.2参照

「十勝・帯広の市街地の真ん中にあるホテルが
“まち・ひと・もの・こと・場所”をつなぎ、コミュニティが生まれ発信される拠点」
=「Urban Lodge」

世界中から旅人に訪れてほしいと自信をもって思える普遍的なコンセプトだと思いました。
一方で、これからつくりだすホテルとしての場所や空間は、
世界でここだけにしかない十勝を感じるものにしたいと私たちは考えました。

今回は、そのような私たちの願いを受けて止めて、
「十勝を感じる」場所づくり・空間づくりに
力を貸してくれた地元十勝の魅力的なクリエイターの皆さんをご紹介しようと思います。

十勝のアウトドアの魅力を、空間リノベーションに結びつける

最初にご紹介するのは、十勝で造園業を営む川井延浩さん。
旧〈ホテルみのや〉の土地と建物を、
NUPKAのしかけ人である柏尾哲哉さんが取得した2014年3月、
川井さんが経営する〈かわい造園〉のブログのなかで、
事務所の敷地内で「冬キャンプ」を楽しむ様子が紹介されているのを柏尾さんは見かけました。

かわい造園のWEBで紹介されていた冬キャンプの様子。一番下の写真は氷でできたキャンドルライト。

「十勝の極寒の冬にキャンプで一夜を過ごすなんてありえない」と思いながら、
清々しい冬の十勝の空気のなかで、焚き火や食事を楽しむ写真には、
これまで見たことのない楽しい様子が表れていてとても気になりました。
その当時、川井さんと柏尾さんはまだ1、2度会ったことがある程度の面識でしたが、
柏尾さんは川井さんに連絡し、ブログに写っていた「キャンプ場」の見学を依頼しました。

見学の当日、その「キャンプ場」は、十勝川を見下ろす高台の森の中にありました。
山から切り出した木でつくった即製のコーヒースタンドで、
川井さんは温かいコーヒーを入れて迎えてくれました。お湯は焚き火で沸かされたもの。
静寂に包まれる森の中で、ポータブルスピーカーから心地よいBGMが流れ、
冬の澄んだ青空の下、雪の白さが際立ちます。屋外なのに、家の中にいるような居心地のよさ。
十勝の豊かな自然を生かしたインテリア空間を川井さんはつくっているのだと感じました。
今では流行りとなった「グランピング」という言葉も当時は知らないまま、
川井さんは本能的に十勝の自然を解釈し、表現していたのです。

川井さんのキャンプ場を見学したときの様子。川井さんは、その後〈moreu〉(モレウ)という私設キャンプ場をオープンしました。

川井さんがつくり出した十勝サロンアネックスの室内空間

HOTEL NUPKAがオープンする1年半前の2014年9月。
実験的に、旧〈ホテルみのや〉の1階部分を改装し、
イベントスペース「十勝サロンアネックス」をオープンしました。
私と柏尾さんは、その改装工事のディレクションを川井さんにお願いしました。
造園業を本業とする川井さんにとって室内空間のプロデュースは初めて。
「僕でいいのですか?」と聞かれましたが、
私たちは、川井さんこそが中心市街地で十勝らしさを表現してくれると信じていました。

川井さんは、設計図面を作成して工事を進める方法をとりませんでした。
毎日現場に入り、空間の構造や質感を確かめます。
でき上がりのイメージが固まるまで待った後、
十勝の自然素材を使って、内装から家具まで一気に新しい空間をつくっていきました。

十勝サロンアネックスの改修工事の様子。

川井さんいわく「最後の3日間は“ランナーズハイ“の感覚だった」とのこと。
「現場に行くのも、そのことを考えるのも楽しくてしょうがない。
そして、アイデアも浮かんでくる」と川井さんは自身のブログで振り返っています。

『My little guidebook -ICE-』 映像の力で十勝と台湾をつなぐ。 待望の冬編公開間近!

昨年北海道十勝地方と台湾台北市を舞台とする短編映画が、
YouTubeで動画配信され大きな反響を呼びました。
タイトルは『My little guidebook(マイ・リトル・ガイドブック)』。
台湾の女優を主演に起用し、台湾人のヒロインが新たな夏の北海道の観光スポットを探しに、
海を越えて十勝をひとりで訪れるというストーリー。海外からの視点を織り交ぜながら、
十勝に暮らす人々と美しい風景を鮮やかに描き出した映画です。

今秋2016年10月23日、
その続編『My little guidebook -ICE-』が公開されることになりました。
続編の舞台は、冬の十勝。

実はこの映画、制作会社も配給会社もない、十勝出身の有志による自主制作映画。
映画館での上映ではなく、世界に向けてYouTubeで無料動画配信されています。
そこには、映像の力で、地元十勝の魅力を
世界中に情報発信をしたいというプロジェクト参加者の強い想いがありました。

この少し変わった映画ができるまでのストーリーを紹介する前に、
まずは真冬の十勝で行われた、映画の撮影風景を紹介します。
氷点下20度にもなるという、極寒の中でこその美しさあふれるシーン。
それはどのように撮影されているのでしょうか?

氷点下20度、真冬の十勝でのロケ

自然がつくり出した十勝の美しい冬の風景。

今年2016年1月末〜2月にかけて行われた『My little guidebook -ICE-』の撮影。
取材に訪れた日は、凍った湖の上でのシーンが撮影されていました。
舞台は、北海道大雪山国立公園にある、然別湖(しかりべつこ)。
14名の撮影チームに加え、エキストラ出演に協力してくれた
地元ボランティア約30名が湖上で撮影を行っていました。

毎年冬になると、全面凍結した湖上に〈しかりべつ湖コタン〉と呼ばれる氷の村が現れます。
地元や有志の人たちのボランティアにより、
"イグルー"と呼ばれるかまくら型の氷の家が手づくりされる、
今年で36年目を迎える鹿追町観光スポットです。

氷の上で楽しめる露天風呂やアイスバー、アイスチャペルなどもあり、そうした建物はすべて、雪を固めた手づくりのアイスブロックを手作業で積み上げてつくられるというから驚きです。

イグルーの中。

日中にもかかわらず、気温は氷点下10度以下。
取材のメモを取るペンも凍ってしまうほどの寒さです。
過酷な寒さのなかで、撮影クルーは、帽子、手袋、ダウンジャケット、
スノーブーツと完全防寒して撮影に臨みます。
それでも長時間の撮影では次第に寒さがこたえます。

映画の主演は、台湾で活躍する女優・吳心緹(ウー・シンティ)。
facebookで80万人以上のファンを持つほどの人気があり、
台湾の旅番組やドラマにもレギュラー出演。1作目に続き、続編でも主演を務めます。
極寒の過酷な撮影のなかでも、明るい笑顔で撮影に臨むシンティ。
「台湾では基本的に雪はほとんど降らないので、冬の十勝での撮影は初めてのことばかり。
山も湖もいろんなところが雪で包まれてるのがとてもきれいで楽しいです」

「雪の景色を見ると寝っ転がりたくなります!」と笑顔で話す、主演の吳心緹(ウー・シンティ)。

監督・脚本は、十勝・幕別町出身、東京在住の逢坂芳郎さん。
地元十勝の高校卒業後、ニューヨーク市立大学で映画制作学を学び、
帰国後、東京を拠点に映像作家として活動しています。
本プロジェクトの1作目『My little guidebook』は、映画初監督となった作品です。

「今回の撮影で、朝日を浴びた霧氷が見たことのないほど神秘的で、思わずウワー!と声を上げてしまうほどでした」。監督自身も十勝の冬のすばらしさを再発見しています。

カメラは、マイナス30度まで耐えられるものを使用。雪による照り返しを防ぐため、
モニターチェックは遮光カバーをつけた状態で行っています。
撮影に使うドローンは、低温だとバッテリーが起動しなくなってしまうため、
カイロを入れた袋にバッテリーを保管し、使う前にはお腹に入れて
人肌で10分温めてから飛ばします。氷上のため、重い機材は運ぶ込むことは避け、
小さなソリにカメラをのせて撮影する方法も行われていました。
そんな撮影手法も十勝の冬ならでは。

撮影が行われているのは、凍った湖の上。重い機材は運び込めないので、小さなソリを使っての撮影も。

この日を含めて、撮影は約1か月間、冬の十勝を舞台に行われました。
この撮影で、ロケハンも含めて逢坂さんが車で走った距離は、8000キロ以上。
十勝の広さを再認識するとともに、
久々に過ごす十勝の雄大な自然のなかでの生活を体験することで、
都会では忘れていた感覚が戻ってきたといいます。

厳しい寒さのなかの撮影。「鼻毛がくっつくのを感じるとマイナス13度以下。このくっつき方だとマイナス16度くらい、と地元の人から教えてもらいました。以来、僕らも鼻をクンクンしながら撮影しています」

「十勝に来ると、おなかがすくし、ごはんがおいしい、夜になると眠くなる。
十勝で生活していると、東京では感じられない、
そういう当たり前の感覚がよみがえってくるんです。
時間や場所によって少しずつ変わる景色にも自然の恵みや偉大さを感じることができます」

昨年公開された1作目の夏編、そして今回撮影が行われた2作目の冬編。
発案から製作資金の調達、撮影、公開まで、
すべてが地元出身の有志の手によって進められています。

人気女優のキャスティングや、製作資金の調達はどのように行われたのでしょうか?
次ページでは、この映画づくりが始まるまでのストーリーを紹介します。

思い立って食堂をオープン? シャッター通りに 生まれた変化とは。 ISHINOMAKI2.0 vol.3

ISHINOMAKI2.0 vol.3

第3回目となる今回は、石巻の中心市街地にある路地、富貴丁通りで
地元食材を使ったレストラン〈日和キッチン〉を営む建築家の天野美紀さんが担当します。

富貴丁通りはかつてセレクトショップが建ち並ぶ石巻で一番のファッションストリートでした。
いつしか閉店するお店も増え寂しい通りになっていましたが、
震災を契機に東京から石巻に通うようになった天野さんが
築100年ほどの木造の店舗を改修したころから、まわりにも店舗が増え始め、
少しずつ活気が戻ってきています。
小さな変化を重ねながら路地が活気づき始めている富貴丁通りの魅力を伝えてもらいます。

日和キッチンに立つ天野さん。

震災を機に通い始めた石巻で出会ったのは

2013年4月、宮城県石巻の駅前に 築100年の長屋をリノベーションした
石巻のおウチごはんとジビエ料理のレストラン〈日和キッチン〉をオープンしました。
東日本大震災が起こった年、2011年の5月、
自分の職能を生かして建築分野で何か役に立てればと、
知人の建築家の誘いをきっかけに初めて石巻に入りました。
多い時には月2回のペースで夜行バスで通い、
まちづくり活動やイベント開催のお手伝いを続けていましたが、
そのなかで石巻の人の温かさ、食の豊かさに触れ、どこをどう転がったものか、
自分でもまったく想像していなかった飲食店を営むことになったのです。

日和キッチン立上げスタッフである山崎百香さんが描いた富貴丁通りのスケッチ。

石巻に通い始めた2011年5月当初、
北上川沿いの元旅館で、現在、仕出し割烹料理屋〈松竹〉の座敷に
寝泊まりをさせていただきました。
まだ物資が少ないなか、おかみさんが朝ごはんを用意してくださり、
涙がでるほどありがたかった記憶があります。

元旅館で、現在は仕出し割烹料理屋〈松竹〉のおかみさんの朝ごはん。

しかし川沿いで津波の被害も大きかったことから、旅館だった建物を半分解体することとなり、
その後しばらくはホテルを転々としながら、夜行バスで石巻へ通うことになりました。

当時、手頃な夜行バスを使って石巻と東京を行き来する人は多かったけれど、
私の悩みは、石巻駅に着いてから。

東京を深夜23時ごろに出発すると、石巻へは早朝6:30頃には着いてしまいます。
しかしその時間、駅近くで開いているお店はコンビニのみ。
季節がよければ、コンビニで朝ごはんを買って、散歩がてらまちを歩いて、
目的地やお店が開くまでなんとか時間をつぶすことができますが、
冬時期は身を寄せるところがなく、
寒いなか大きい荷物を抱えて本当に途方にくれるような状況でした。

「駅前に、荷物を下して、朝ごはんを食べて、
体を休めることができる場所があったらいいのになあ。
誰かやってくれないかなあ」と他力本願で願っていました。

石巻に通い始めた2011年当時のまちの風景。

そうこうするうちに、知り合った石巻市内の〈かめ七呉服店〉のご夫妻が
「うちに泊りなさい」と声をかけてくれたのです。
すばらしく面倒見がいいご夫妻で、私がお世話になったときは、
すでに3人の女性に寝床を提供していました。
ですので、私は四女いうことに。ちなみに今は五女までいます(笑)。

かめ七呉服店この米倉ご夫妻と、中央は友人のルポライター加藤さん。

かめ七で朝ごはんをごちそうになると、石巻のおウチごはんのおいしさに驚きました。
漁港があるので魚はもちろんのこと、旬の生ワカメや海苔、野菜や山菜、
そしてお米もお肉もお味噌汁もお酒もすべておいしい。

石巻の人が当たり前すぎて意識していない「石巻の食の豊かさ」に気がつき、
そのことを石巻内外の人に知ってほしいと思うようになりました。

お世話になったかめ七呉服店。1階の天井際まで津波で浸水しました。

おいしい地元産の鹿肉との出合い

そして私が通い始めて1年が経った2012年春頃、
東京で親しくしているカフェのメンバーが石巻を訪ねて来てくれました。
彼らに石巻のまちを案内したところ、「自分たちも何か応援をしたい」と申し出てくれました。
ではシェフの腕を生かして、石巻の夏のお祭り〈川開き祭り〉で屋台を出そうということに。

しかし普通の屋台を出しても意味がない。ならば、石巻で知られていない地元食材を発掘し、
石巻にはない食べ方で提供してみようということになりました。

思い返せばこれが〈日和キッチン〉の起源。
その時に出会ったのが猟友会の三浦信昭さんと「牡鹿半島の鹿肉」という素材です。

キッチンカーで川開き祭りに出店。

さて近年日本全国で、鹿や猪が農地を荒らす獣害が社会問題になっていますが、
石巻もご多聞にもれず同じ問題を抱えています。
特に鹿といえば牡鹿半島や金華山が思い浮かぶ方も多いかと思いますが、
最近では内陸部に被害が拡大しており、行政から依頼を受けた猟友会の方々の手で
年間1500頭が計画的に駆除されています。
人間の都合でただ駆除をする。なんだかとっても申し訳ないと思いませんか?
しかも猟友会も高齢化が進み、若い担い手が不足。
近い将来には駆除する人手が不足することが容易に想像できます。

石巻猟友会の三浦さん。

ではこの悪循環を変えるにはどうしたらよいでしょう?
鹿肉は鉄分が多くヘルシーな赤身のおいしいお肉。
現代人に不足しがちな天然のミネラル分も豊富に含まれています。
ジビエ料理をみんなでおいしく食べて、石巻の名物・財産にできたら、
それ自体きちんと利益を生む産業になるかもしれない。

石巻人の健康にも寄与できちゃったら一石二鳥三鳥ではないか!
という結論に辿り着きました。

■深夜バス利用者に向けて駅前に朝ごはんが食べられるお店が必要
■石巻の家庭料理のすばらしさを内外に伝えたい
■牡鹿半島のおいしい鹿肉を資源として活用したい

この3つの課題に気がついてしまったら、
もう「誰か」ではなく「自分」がやるしかないな。そう思った半年後に、
石巻のおウチごはんとジビエ料理のレストラン〈日和キッチン〉を
オープンしてしまったのだから、我ながら猪突猛進ですね(笑)。

日和キッチンのロゴ。デザインは山崎百香さん。黄色の稲穂は石巻の大地の恵み、青い鹿角は石巻の海と鹿の恵みを表しています。

山崎百香さんが日和キッチンHP用に描きおろしたもの。

明治の民家が残る島は、消滅寸前? 学生と取り組む空き家再生。 坂東幸輔建築事務所 vol.4

坂東幸輔建築事務所 vol.4

こんにちは、建築家の坂東幸輔です。
これまでの連載では徳島県神山町での空き家再生まちづくりについて書いてきました。
今回からは舞台を移し、徳島県南部の海のまち・牟岐町の
出羽(てば)島で行っている活動について紹介したいと思います。

出羽島の航空写真。

連絡船から見た出羽島。

出羽島は牟岐港から連絡船で15分の沖合にある、
周囲約4キロの小さな島です。車が1台も走っていない出羽島では、
建物を建てたり壊したりということが大変で、
明治から昭和のはじめ頃の民家がそのまま残っています。島に降り立つと、
まるで昭和にタイムスリップしてしまったのではと思うような
レトロな建物が並ぶ風景が広がっています。

出羽島の港。島民のほとんどが漁師を生業にしている。

最盛期には700人いた人口も現在は70人、高齢者率も高く、
島内の3分の2の建物が空き家という、
放っておいたら10年後には無人の島になりかねない、消滅の可能性の高い島でもあります。

牟岐町の人たちも黙って見ているわけではありません。伝統的なまち並みを再生するために、
平成29年度より出羽島の集落が「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」
の指定を受ける予定で、国から補助を受けて伝統的な価値をもつ民家を改修していく予定です。

伝統的な民家の建ち並ぶ出羽島の集落の風景。島には車が1台もないので、自転車が主な交通手段。

私と出羽島の出会いは『出羽島アート展』がきっかけです。
2014年3月、出羽島という場所でアート展が開催されていることを新聞で知り、
休日に遊びに行きました。初めて島を訪れた私は、ひと目で出羽島に惚れ込んでしまいました。
「ミセ造り」と呼ばれる折りたたみ式の雨戸をもった
伝統的な民家のまち並みのなかで、都会に住む現代人がすでに失ってしまった、
仕事と生活が地続きで人の営みを感じさせる島の風景に出会い、クラクラしました。
古民家好きの私にとって、出羽島はまさに宝の島だったのです。

ミセ造りと呼ばれる折りたたみ式の雨戸。開くと蔀戸(しみど)と縁台になる。

「出羽島に住みながら、民家の再生をライフワークにして生きられたらなんてすてきなんだろう」
と、島を訪れた後で目をハートにしながら会う人みんなに出羽島の魅力を語っていました。
前回、神山町で夢を語っていたら
えんがわオフィスの設計を頼んでもらえたエピソードを紹介しましたが、
出羽島でも自分の夢をいろいろな人に話していくうちに、
本当に仕事を頼んでいただくことになりました。
熱烈な島へのラブコールが通じたのです。

2014年の終わり頃、牟岐町の教育委員会の方から
出羽島の空き家〈旧・元木邸〉の改修工事の基本設計をしてほしいと依頼されました。
重伝建に指定される前に民家改修のお手本をつくりたいと、牟岐町が購入した空き家です。
外観は歴史的調査を行ってオリジナルの状態に復元をするけれど、
内部を島の人や移住者・交流者が集まれる建物にしたいという要望でした。

改修前の旧・元木邸の外観。増築されてミセ造りなどは取り除かれ、オリジナルな外観は失われている。

しかし、いくつか条件もありました。

なぜ彼らは山へ向かうのか? 作家たちが捉える聖なる山とは。 『ホーリー・マウンテンズ』展

何かに突き動かされるように山に登る人々

札幌にあるモエレ沼公園で開催されている
『ホーリー・マウンテンズ』展の取材から2週間が経とうとしているが、
この展覧会の核心にはいったい何があるのか、そんな問いが頭に浮かび、
霧の晴れないなかを歩いているような感覚をいまだに持ち続けている。

『ホーリー・マウンテンズ』展で中心となったのは3本のスライド形式の映像作品だ。
イラストレーターであり東北を拠点に山伏として活動する坂本大三郎さんの
『モノガタリを探す旅』。
屋久島やモンゴルで撮影を続ける写真家の山内悠さんによる『巨人』。
そして、とてつもない記録に挑んだ東浦奈良男さんの足跡を追った、
『一万日連続登山に挑んだ男』という吉田智彦さんのドキュメンタリーである。
いずれも山が舞台となっており、作家たちが何に関心を持っているのかが、
10分ほどでまとめられコンパクトに内容がわかるものだった。

ただし、「わかる」と書いたのは山でどんなことが行われているのかという事実だけである。
映像を見終わったとき、ある疑問がふつふつと湧いてきた。
それは、彼らはなぜ山へと向かうのか、核心部分にはなにがあるのか、だ。

「山に登ることは大半の人にとってはレクリエーションになっています。
あるいは林業やマタギなどの狩猟に携わるなど、仕事にしている人もいます。
しかしこうした目的ではなく、山に登っている人とは誰だろうと考えたときに、
彼らの顔が浮かんできたんですね」

7月24日に行われたトークイベントで、
この展覧会の企画者であり、美術の分野をフィールドに多彩な活動を行う
豊嶋秀樹さんは、そんな風に作家たちを紹介した。

豊嶋さんの言うように、彼らの山との関わり方はいずれも独特なものだった。
まずは、今回制作されたスライド作品の内容とトークイベントで
彼らが語った言葉を拾いながら、それぞれの山との関わりについて追ってみたい。

札幌市東区にあるモエレ沼公園は約188.8ヘクタールという広大な敷地の公園。「全体をひとつの彫刻作品とする」というコンセプトのもと彫刻家イサム・ノグチが基本設計を手がけた。展覧会が開催されたのは公園の中心的な存在であるガラスのピラミッドの展示スペース。

展覧会場の中央にはスライド作品を上映するシアターが設けられ、そのまわりを囲むように、吉田さんが撮影した東浦さんの写真や坂本さんの彫刻、山内さんの作品『夜明け』が展示された。

キュレーターは豊嶋秀樹さん。1998年にgraf設立に携わり、作品制作、展覧会企画、空間構成、ワークショップなど幅広いアプローチで活動している。10年ほど前から登山に目覚めたことが今回の展覧会開催につながった。アートも登山も、ものの見方を変える、そんな共通点があると考えている。

山に登ること、自然に分け入ることは祭りである

坂本大三郎さんは、東北を拠点にし、春には山菜を採り、夏には山に籠り、秋には各地の祭りを訪ね、冬は雪に埋もれて暮らしているという。山伏として白装束で山へと分け入る。(撮影:小牧寿里)

坂本大三郎さんは30歳のときに山伏の修行を始めた。最初は単なる好奇心だったというが、
山伏が古くは芸術や芸能を司る役割を担う存在だったことを知るようになり、
さらに興味がわいたという。
また、山での修行によって坂本さんは新しい感覚を呼び起こされ、以来、
山伏としての活動を始めることとなった。

坂本さんが今回制作した『モノガタリを探す旅』は、北海道が舞台となっている。
縄文遺跡である垣ノ島遺跡や山伏の文化に触れられる、
せたな町にある太田権現(太田山神社)などを訪ねた記録がつづられている。
各地を訪ねながら坂本さんは神話や民話などを拾い集め、
時代によって書き換えられたその経緯を丁寧に読み解きながら、
原始の姿とは何かを浮かび上がらせようと試みている。

『モノガタリを探す旅』で紹介された太田山神社。太田山は道南五大霊場のひとつ。急勾配の階段を上り、ロープにつかまりながら険しい山道を抜けると、断崖絶壁に本殿がある。(撮影:小牧寿里)

映像につけられたナレーションで、坂本さんはこう語っていた。
「僕にとって山に登ること、自然に分け入ることは祭りである」

古代の祭りは芸術や芸能が生まれる場所だった。
祭りの場で最も大切にされたのは、
洗練された美しい芸術や芸能を行うことではなく、
神仏や精霊といかに結びつきを持つか、
つまり自然といかに向き合うのかであると坂本さんは考えているという。

「かつての山伏の姿を知り、山伏を体験するなかで、僕のなかには、
誰かの評価に左右される気持ちよりも深い部分に、
『自然』が据えられるようになりました。
かつての山伏、かつての芸能者が自然とともに生きてきた姿を
心の片隅において、いつも忘れないようにしたいと思っています」

これは坂本さんの著書『山伏と僕』の一節だ。
山伏になる以前から絵を描いていた坂本さんにとって、
山伏を実践することは自然と向き合うことにつながり、
これを通して「原始の日本の文化」に触れたいと探求を続けている。

『モノガタリを探す旅』より。坂本さんは千葉県出身。縄文遺跡が多く、子どものころ一番好きな遊びは土器探し。土器を見つけると縄文人から手紙が届いたような感覚がしたそうで、自分がいま表現を行うとき、その返事を書いているような気持ちになることがあると語る。(撮影:坂本大三郎)

展示会場には坂本さんが流木で制作した作品も展示された。人間の世界、目に見えない世界、動植物の世界を表した『モノたち』。

オープニングイベントとして、坂本さんの脚本による新作ダンス公演『三つの世界』が行われた。大久保裕子さん、島地保武さんがダンスを行い、蓮沼執太さんが音楽を担当。古来から続く芸能と祭の歴史を現代の世界へと開いていこうとする試みとなった。(撮影:山本マオ)

坂本大三郎さんは山伏として活動しつつ、執筆や作品制作も行っている。著書に『山伏と僕』(リトルモア、2012)、『山伏ノート』(技術評論社、2013)がある。2016年は〈みちのおく芸術祭 山形ビエンナーレ2016〉、〈瀬戸内国際芸術祭2016〈秋期〉〉に参加を予定。

命が密集している場所に行ってみたい

屋久島に数か月籠もり撮影した写真。(撮影:山内悠)

山内悠さんが制作したスライド作品には、
たったひとりで屋久島に籠もり撮影した木々の写真がまとめられていた。
トークイベントでは、なぜ山内さんが屋久島で写真を撮るようになったのか、
その経緯が語られた。

木造倉庫が、演劇の舞台になる? 歴史と現代の感性が行き交う空間。 ASTER vol.7

ASTER vol.7

みなさんこんにちは。ASTERの中川です。
いよいよ最終回になりました。

最後にご紹介するのは、築140年の元酒蔵で、現在さまざまなイベントが開催され、
大勢の人々が訪れる場所となっている現代の熊本の文化発信基地。
〈早川倉庫〉をご紹介したいと思います。

早川倉庫と古町エリア

早川倉庫は熊本市の中心市街地から車で10分、
熊本駅から市電で5分ほどの古町エリアにあります。
古町エリアは加藤清正が熊本城築城の際につくった町人のまち。
400年以上の歴史があります。
早川倉庫がある万町のほか、紺屋町、魚屋町、中唐人町など
碁盤の目のような町割りが特徴で正方形の区画ごとにお寺が必ずひとつあり、
その廻りを町屋が囲んでいます。

古町エリアの地図。

明治から大正時代には、多くの商店やデパート、娯楽施設などが建ち並ぶ
熊本の商業、経済の中心地として栄えたそうです。
その名残りで現在もまだ多くの古い町屋が残っています。最近ではこの魅力ある町屋を
改装したカフェやレストランなどもあり人気のエリアになっています。

早川倉庫は明治10年に建てられた今年で築140年の大型木造建築。

通りに面している早川倉庫の外観。奥にも倉が連なっています。

もとは〈岡崎酒類醸造場〉として、にごり酒の醸造所だったそうです。
1877年の西南戦争で一度焼失し、同年に再建された建物が今残っている建物になります。
聞いた話では、当時の明治政府が西南戦争後に焼け残った熊本城を解体し、
町人に払い下げを行った時期なので、
早川倉庫には熊本城の廃材が再利用されている可能性が極めて高いとのコト。
たしかにほかでは見たことのない、ものすごい梁などが使用してあります。

早川倉庫の建物の2階は、ダイナミックな梁がむき出しになって重厚感ある空間です。

のちに履物問屋へ変わり、昭和29年に現在の貸し倉庫業、早川倉庫となります。
貸し倉庫業のかたわら、5年ほど前からマルシェ、演劇、展示会、ライブなど、
この空間の魅力に魅了された人々がさまざまなイベントを開催するようになりました。

この代々守り継いできた早川倉庫を今、新しく利活用しているのが、
写真の早川祐三さん。早川倉庫の倉庫番であり、ミュージシャンでもあります。

こちらが、祐三さん。

今の形態になる以前、
祐三さんはまず、当時まだ使われていなかった2階スペースの掃除から始めました。
ひとりで数週間、毎日床の雑巾がけをしたそうです。
それから建物の老朽化しているところを直したり、壁の補強をしたり、
ひとつひとつ、少しずつ時間をかけて全部自分で直していきました。
フルDIYです。こんな大型の木造建築をひとりで手を加えていくなんて
想像もできないですが、祐三さんはひとりでできるところから
コツコツとやっていきました。
いつかこの倉庫で何かしたいと漠然と思っていたそうです。

そんなとき、東日本大震災が起きます。
祐三さんは何かできないかと熊本でのチャリティーイベントを企画し、
早川倉庫のそれまで使われていなかったスペースで音楽イベントを開催。
それをきっかけに徐々にイベントスペースとして使われ始めます。

依頼が増え始めたのは、2011年12月に開催された、
岡田利規さん主宰の演劇カンパニー〈チェルフィッチュ〉の公演があってからだそうです。
世界的に活躍する劇団の公演を見た人たちが口コミやSNSで拡散しはじめ、
今ではクラムボンなど有名ミュージシャンのライブや
大規模な展示会なども行われるようになりました。

倉庫が舞台に変貌した、チェルフィッチュの公演の様子。

マスキングテープmtの『mt ex熊本展』。

残響がいいと、ライブの会場として使われることも多いようです。

熊本県内の酒蔵が集まり、毎年開催されている〈酒蔵まつり〉。

早川倉庫は建物が持つ圧倒的な存在感と空気感に祐三さんの感性が混ざり合い、
多くの人たちを惹きつける魅力となっているのだと思います。

早川倉庫では年間を通しさまざまなイベントが開催されていますが、
リノベーションのイベントも年に一度行われています。
〈リノベーションEXPO JAPAN〉です。

3日で完成したDIYバー? まちに生まれた新たな交流拠点。 ISHINOMAKI2.0 vol.2

ISHINOMAKI2.0 vol.2

こんにちは。
石巻2.0の勝です。
石巻からお届けするリノベのススメ、
第2回は石巻の中心市街地の夜の交流拠点である〈復興バー〉
そして本を通じた交流拠点〈石巻まちの本棚〉を紹介します。

わずか5坪の空間に生まれた、復興バー

港町気質が残る石巻は夜の飲食業も非常に活発です。
日用品を販売する商店街の路地を挟んで、
飲食店やスナックが建ち並ぶ繁華街が位置し、
人口当たりのスナック数が日本一なのではないかと言われるくらい、
小さな飲み屋さんが集積しています。
とはいえ最盛期ほど繁華街の元気もなく、
その範囲も年々小さくなっているのですが、
そんな繁華街の一番外側のエリアに位置するのが復興バーです。

4階建てビルの1階にある復興バー。

もともとこの場所にはダイニングバーがありました。
被災してしまったその空間を、〈石巻工房〉の協力のもと改装して、
ボランティアで外から集う人も地元の人も、
まだまだ大変ななか、集い情報交換ができるような場所をつくろうと、
スタートしたプロジェクトでした。

石巻工房の代表でもあり建築家の芦沢啓治さんが、
東京から石巻への道中の電車で仕上げたスケッチをもとに地元の有志や
遠方から集うデザイナーたちが自らインパクトドライバーやペンキを用いて仕上げました。

建築家・芦沢啓治さんの手書きの現場指示図。

外観を塗装しているところ。

そして当時、使えるものはすべて使うという姿勢のもと、
流れついた道路標識のビスさえも使うという徹底ぶり。工期はわずか3日ほど。
2011年7月から、復興バーとしてスタートしました。

そんなこんなで見切り発車でスタートした復興バーの初代マスターは
石巻2.0の代表でもある松村豪太。
もともとバーテンの経験もある豪太さんは震災時は市内のNPO職員でしたが、
その後、石巻2.0の活動の主要な役割を担うようになります。

復興バーのわずか5坪ほどの店内は10名も入ると満席になります。
狭い店内では自然とコミュニケーションも密になり、
誰もが垣根なくフラットに会話が弾むのが不思議です。

復興バーの店内。

たくさんの人が集い、語り合う場へ

まだまだ夜には明かりが灯ることも少なかった石巻のまちなかで、
ぽつんと独り明かりを灯してスタートした復興バーは、
復興事業で訪れる多くの人やボランティア、
地元のおもしろい人など多種多様な人が出会い、語り合う場所になり、
店内は、いつも熱気に包まれていました。

復興事業に対するタテマエもホンネも、
地元の人と外から移り住んで来た人たちとの思い込みのような隔たりも、
お酒のグラスを一緒に傾けると包み隠さず会話がすすみ、
また明日から頑張ろうという、前向きな気持ちへ向かっていくことが実感できます。

復興バーが軌道にのると同時に、まちづくりプラットフォームである石巻2.0の活動も
多岐にわたるものになっていきました。
前述の豪太さんも、昼間はいろいろな打ち合わせ、
毎夜には遅くまで飲み食いする人をカウンター越しに迎えること1年、
さすがに毎日の営業の継続が難しくなり、導入したのが日替わりマスター制度です。

日替わりマスター。

まちで活躍する人がバーカウンターに立ち、1日限りのマスターを務めます。
これまで地元の水産会社の社長や地元の料理人、音楽家、
スポーツ同好会や医療系の仕事に従事する人など、多様な人たちがカウンターに立ちました。
それぞれが特別なドリンクやフードメニューでもてなすことが特徴です。

例えば、水産会社の社長にとっては、自社の製品を実際のお客さんに提供し、
消費者の声をダイレクトに受けられることが何よりの魅力でしょう。
そしてその復興バーのシステムを東京に輸出して、
毎年夏は「復興バー銀座店」を期間限定で開店しています。

銀座復興バーの様子。

日本の中心といえば銀座なのではないかという、復興バー初代マスターであり、
石巻2.0の代表でもある松村豪太さんによるわかりやすい直感と、
熱心に銀座での交渉を続けてくれた協力者の方々の尽力のうえに実現したのが
〈銀座復興バー〉です。改装前の居抜きの空き物件を期限付きで活用することで、
日本で一番賃料が高い銀座での出店を実現させました。
銀座復興バーはそのコンセプトどおり、
東北との縁が深い個人やチームが日替わりでマスターを務め、
1か月ほどの期間中は連日満席になるほどの人気企画です。
石巻だけではなく青森県から岩手県、宮城県、福島県に至るまで
三陸の沿岸で活動する人たちが集まり、日本の真ん中銀座で出会い、
石巻そして東北の未来のことを語り合います。2016年の開催も現在準備を進めていて、
また銀座復興バーの看板を掲げることを目指しています。

垣根なく、誰もがつながる復興バーは、一時はお休みも多かったですが、
現在ではお手伝いスタッフも増え、
週の半分ほどはオープンし、石巻の夜をにぎやかにしています。

どうして? 神山町に 古民家オフィスが根づいた理由。 坂東幸輔建築設計事務所 vol.3

坂東幸輔建築設計事務所 vol.3

皆さんいよいよ夏ですね、空き家再生の季節です。
建築家の坂東幸輔です。

vol.1では私と徳島県神山町の出会いについて、
https://colocal.jp/topics/lifestyle/renovation/20160514_72499.html

vol.2は神山町にサテライトオフィスを誕生させるきっかけとなった
空き家改修プロジェクト〈ブルーベアオフィス神山〉と
そこで生まれた人のつながりについて、さらにBUSが出展している
第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展について書きました。
https://colocal.jp/topics/lifestyle/renovation/20160611_74937.html

今回は〈ブルーベアオフィス神山〉以降に
私が関わった神山町でのプロジェクトを一挙に紹介したいと思っています。

まちとつながる、神山町の古民家オフィス

透明度の高い川や美しい山々に囲まれたすばらしい自然環境、
過疎のまちに敷設された高速インターネット網、
そしてアーティストやクリエイターといったおもしろい人が集まる神山町という場所は
ITベンチャーの経営者たちの琴線を刺激しました。
〈ブルーベアオフィス神山〉を改修後、
いろいろなメディアに取り上げられる神山町の噂を聞きつけて、
東京や大阪のITベンチャー企業が
相次いで神山町にサテライトオフィスを構えるようになりました。

建築家ユニットBUSとして6年間で
神山町で改修6軒、新築2軒の計8軒の設計を行いました。
小さなまちでこれだけたくさんの設計をできたことは奇跡のようです。

プロジェクトの分布図。BUSで神山町内にこれまで6つの改修、ふたつの新築を設計しました。

前回紹介した〈ブルーベアオフィス神山〉に加え、
〈神山バレーサテライトオフィスコンプレックス〉も
NPO法人グリーンバレーと一緒に行ったプロジェクトです。

2013年1月に誕生したのが
元縫製工場を改修したコワーキングスペース
〈神山バレーサテライトオフィスコンプレックス〉です。
プログラマーや3Dモデラー、ウェブデザイナーといった
個人でクリエイティブな仕事をしている人たちが
集まって仕事ができるオフィスというものを設計しました。

改修前の写真。縫製工場時代に使われていた大空間、蛍光灯がたくさんぶら下がっている。

ほとんどいじっていない縫製工場の頃のままの外観。

コワーキングスペース。プログラマーや3Dモデラー、ウェブデザイナーらが常駐している。

オフィス内の家具は神山町で不要になった古いタンスなどを集めてきて
デスクや椅子に再生するワークショップを行い制作しました。
会議室の大きなテーブルは、縫製工場時代に生地を置くために使われていた
大きな棚を解体し制作しました。
アルミ製の大きな引戸は、もともと設置していたものをそのまま利用しました。

〈神山バレーサテライトオフィスコンプレックス〉では
積極的にもともとあるものをリユースすることで
地域の人にとっても利用する人にとっても愛着が持てる、
長く使い続けられるデザインにしました。

家具づくりワークショップの様子。古いタンスからテーブルやキャビネットをつくっている。

〈神山バレーサテライトオフィスコンプレックス〉は
延床面積の約620平方メートルすべてを改修できるほど予算が潤沢ではなかったため、
一部のみを改修し、残りを「成長するオフィス」として手をつけないでおきました。
今ではレーザーカッターや3Dプリンタを設置した
デジタルファブリケーション施設〈神山メイカーズスペース〉(KMS)が
地域の住民の手によって生まれたり、
消費者庁の徳島県移転を検討するための業務試験が行われたりと、
設計者も驚く成長ぶりを見せてくれています。

2016年3月の消費者庁業務試験の際にオフィスとして使われた部屋。会議室やフリースペースとして活用されている。中央の大きなテーブルは、縫製工場時代に生地を置くために使われていた大きな棚を再生して制作した。(写真:樋泉聡子)

〈神山バレーサテライトオフィスコンプレックス〉内に新たに生まれた神山メイカーズスペース(KMS)。レーザーカッターや3Dプリンタが設置されている。

残したものと、変えたもの。 地域の魅力を伝える ホテルリノベーション。 HOTEL NUPKA vol.2

HOTEL NUPKA vol.2

〈HOTEL NUPKA〉(ホテルヌプカ)の坂口琴美です。連載第2回目、よろしくお願いします。
古いホテルの建物のフルリノベーションがいよいよ始まります。2015年春のことです。
私たちは、この一大プロジェクトを始めるにあたり、
東京の〈UDS株式会社〉のみなさんに
パートナーとして取り組んでいただけるようお願いしました。

UDSは、東京・目黒の〈CLASKA〉、京都の〈ホテルアンテルーム京都〉、
神奈川・川崎の〈ON THE MARKS KAWASAKI〉など、
その時々のフラッグシップとなるリノベーションホテルの実績があります。
またホテルの自社運営も行っているので、
企画・設計・運営支援まで一貫して相談できる最適なパートナーとして
今回のプロジェクトを依頼しました。

今回は、帯広での〈HOTEL NUPKA〉プロジェクトを担当した、
UDSの高橋佑策さんにお話をしていただきます。

こんにちは、UDS高橋佑策です。
今回は僕らが担当させて頂いた企画・設計についてお話したいと思います。

着工前の〈旧みのや旅館〉の外観。

僕らが最初に十勝にうかがったのは2014年の年の瀬でした。
現地で物件を初めて見たとき、ほどよくコンパクトな建物のスケール感と、
時代性を感じる淡いグリーンのタイル張りの外観がとても印象的だったことを覚えています。

ホテルヌプカの中心人物である柏尾さん、坂口さん(vol.1参照)と
東京で2014年の秋に初めてお会いした際に、
おふたりの地元である十勝・帯広への想い、まちづくりへの想い、ホテルへの想いを聞き、
強く共感しました。
僕らも、ホテルという場所が地域や人とのつながりをつくるきっかけになり、
そのまちの魅力を発信できる、まちづくりの拠点のひとつになることを、
国内外で手がけた数多くのホテルの企画・設計・運営を通じて実感していました。

HOTEL CLASKA。

HOTEL ANTEROOM KYOTO。

ON THE MARKS KAWASAKI。

僕らのこれまでの経験を少しでも役立てられればと思い、
2015年春からプロジェクトに参加させていただくことになりました。

地域の魅力を伝える新たな視点を

柏尾さん、坂口さんとのディスカッションを通じて、
僕らが最初に考えたのは「ホテルをまちづくりに役立てる」というテーマでした。
旅行者が、ホテル滞在を通じて訪れたまちの魅力を発見するだけでなく、
地元に暮らす人たちにとっても、ホテルでの時間を楽しみ、
地元の価値や魅力を再認識できる場とできればと、考えました。
そして、旅行者と地元で暮らす人が交流できることになれば、さらによいのではないかと。

何度か現地まで足を運び、地元の皆さんに十勝・帯広の話を聞き、
さまざまな場所をご案内いただき、まちを体験する機会がありました。
ヌプカの最寄り駅である帯広駅周辺には、
すでに全国展開をする大手のホテルチェーンを含めて、たくさんのホテルがあります。
まずは、今あるホテルと競合するのではなく、
新しい視点でまちを体験してもらえるホテルとして、
そこに訪れる人の流れそのものを拡大させる方向を目指しました。

そして、ホテルでの滞在が、「自然」や「食」という、
帯広だけにとどまらず十勝エリア全体の魅力あるコンテンツへの「気づき」の機会となり、
その「気づき」がきっかけとなって、
ホテルの外に出かけ十勝の自然とまちを旅してもらう拠点となることの重要性を
強く感じるようになりました。

プランを固める前に、僕ら自身でまちでの過ごし方を考えてみました。
例えば、ヌプカのすぐ近くには〈北の屋台〉という全国的に有名な屋台村があります。

だから、ヌプカにそこと競合する飲食店をつくるのではなく、
これから屋台を楽しむゲストの待ち合わせに使ってもらうカフェとなり、
食事を楽しんだゲストが地元の方とコミュニケーションをとれるような
バーとしても楽しめる場所があれば、
もっと共存し合いながらお互いにまちの魅力の発信につなげられる……。

例えば、ホテルを拠点として、地元の農家さんのところへ
ファームトリップするアグリツーリズムプログラムを一緒につくることができれば、
ホテルとしての機能だけでなく、ヌプカ以外のホテルに泊まったゲストにも、
十勝の魅力を体験できるアクティビティのハブになれる……。

例えば、地元で活動する若手の作家やアーティストにホテルを
ギャラリーや媒体として活用してもらうことができれば、
もっとたくさんの人が作品に触れる機会をつくることができる……。

何度もディスカッションを重ね、そうしたアイデアを積み重ねていくことで、
宿泊を提供するだけではない、
地方都市のなかで暮らす人やそこにある観光・産業の資源や魅力を生かしながら、
もっとまちづくりの拠点になれるホテルのあり方を提案できると考えていきました。

そこで、僕らがたどりついたコンセプトが「Urban Lodge」でした。
十勝・帯広の市街地の真ん中にあるホテルが「まち・ひと・もの・こと・場所」をつなぎ、
コミュニティが生まれ発信される拠点になれる場づくり=Urban Lodgeを目指しました。
そのコンセプトをどうカタチにできるか、具体的な設計・デザイン段階に入っていきました。

熊本地震直後、みんなが集まった まちのコインランドリー。 ASTER vol.6

ASTER vol.6

みなさんお久しぶりです。ASTERの中川です。
少し間が空いてしまいましたが、
僕の連載もいよいよvol.6となりました。
みなさんご存知の通り、熊本は震災が起きました。
このたびの熊本地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
現在、震災から約2か月半が経ちました。
リノベのススメのなかでどうかとも考えましたが、
今、熊本に住む僕がこの震災で経験したコト、感じたコト、想ったコト、
そしてこれからのコトをお伝えしたいと思います。

突然のできごと

2016年4月14日。
その日、仕事を終えた僕は外出していた娘たちと妻を待つため、
6歳になる息子と母親と実家にいました。
隣のキッチンでは父親がテレビを観ていました。
時間は夜9時半ごろ。
何の前触れもなく、突然「ドン!」という激しい音とともに、
壁にかけてあった祖母の習字や賞状の額がバタバタと床に落ち始めました。
「キャッ! 地震!!」
母親が叫びながらとっさに息子に覆い被さりました。
聞いたこともない地鳴りのような音と、建物がきしむものすごい揺れ。
「ワッ! ワッ! ヤバい!」
僕も母親と息子の上に覆い被さり頭を押えました。

気がつくと家の中は一瞬でメチャクチャに。
1度目の前震と言われる震度7の地震でした。

我に返り、すぐ妻と娘たちに電話するにもつながらず。
割れた食器や倒れた家具で部屋は一瞬で足の踏み場もない状態に。

僕が現状を確かめようと外に出ようとすると、
息子が「パパ行かんで! ここにおって!」と、
怯えた表情で僕の手をつかんできました。
僕は息子を抱きしばらくその場に座り込んでいました。
外出中で無事だった妻と娘と合流し、
その日は近くの駐車場に車を停め夜が明けるのを待ちました。
SNSで友人や会社のスタッフみんなの安否を確認し、
翌日のテレビやインターネットでコトの重大さを知りました。

ASTERの事務所や運営するお店〈9GS〉も無惨な光景に。

最初の地震後、粉々に落ちていたASTERの事務所のファサードのガラス。

9GSの店内。

僕は何をどうしていいかもわからず、取り急ぎお客さんの家やお店の確認に動き回りました。
工事中だった現場の状況を確認するため、震源地の益城町へも行きました。
メディアでも報道されていましたが、実際に見る益城町は想像を絶する光景でした。
建物は倒壊し、道路は地割れ、電信柱も折れて信号も止まっている。
空は無数のヘリが爆音を響かせ飛び回っている。

ただただ初めて目にする光景に困惑しました。

訪れたときの益城町。

そんななか、奇しくも4月15日は妻の誕生日でした。
ケーキもプレゼントも、食器すらないなか、
紙皿に残った食材を盛り、家族でささやかに祝いました。

2度目の本震

4月16日。前震から緊張と疲れでほとんど寝ていない状態でしたが、
滅茶苦茶になった自宅マンションへ戻り、片付けもほどほどに、
その日はグッタリとベッドに横になっていました。
とんでもない経験をしたと過去のコトとして振り返りながら。

そして深夜1時半頃。
突然、まさかの携帯の地震速報。
同時に、「ドンッ!」と身体を突き上げる突然の衝撃。
そしてものすごい横揺れ、停電。
「おい、おい! 大丈夫か!」
徐々に激しさを増す揺れのなか、真っ暗な廊下の左右の壁に叩きつけられながら、
「大丈夫! 大丈夫だけんね!」と叫びながら
子どもたちに覆い被さるのが精一杯。
実際はどれくらいの時間かわからないけどとても長く感じた恐怖。
一昨日の地震よりもはるかに大きな地震に、
初めて死が頭を過ぎりました。

すぐに同じマンションに住む友だち家族が
「逃げるよ!」と叫びながら玄関ドアを叩き呼びにきました。
警報が鳴り響くなか、非常階段を降り駐車場に避難した僕らは、
ただ空を見上げ呆然とその場に立ち尽くすだけ。
本震と呼ばれる2度目の地震でした。

宿題も、映画も、結婚式もここで。 ガレージをリノベーションした、 まちの憩いの場所とは。 ISHINOMAKI2.0 vol.1

ISHINOMAKI2.0 vol.1

みなさま。はじめまして。
ISHINOMAKI2.0(以下石巻2.0)の勝です。
今月から宮城県石巻市で行われている
さまざまなリノベーションプロジェクトを紹介していきます。

石巻は宮城県のなかでも仙台に次ぐ人口を有する県下第二の都市。
平成の大合併でその市域を拡大した石巻は、
山も海も広大な田園風景も有する豊かなまちです。
東日本大震災によりその市域は広域的に被災し、
多大なダメージを負ったまちでもあります。

私も活動に加わる石巻2.0はそんななかから生まれた活動です。
震災後のまちを元に戻すのではなくもっとよいまちにしていきたい。
そして、ここから疲弊した全国のまちづくりのロールモデルをつくりだそうと
さまざまなプロフェッショナルや地元商店主が集まったオープンエンドな活動です。

石巻2.0の立ち上げから関わる、
横浜の建築設計事務所〈オンデザイン〉のスタッフだった私は、
2012年から活動に加わりました。
そこから横浜と石巻の2拠点で生活を始めて5年目を迎えました。
横浜と石巻を往復するなかで見えてきたものがあります。
それは建築とまちとの距離の近さ、そして退屈だと思っていたまちも自分が動けば、
かなりおもしろい人がたくさんいるということ。

建築の専門家として実際に場をつくるところからその後の運営まで、
建築の上流からその先に広がっていくまちへの影響まで、
実感して関われる石巻はとても貴重なフィールドだと思いました。

そんな石巻に可能性を感じた5年間を過ごし、
そして2016年に石巻を拠点のひとつにして、自身の建築事務所を開設。
これから全6回の連載でそんな石巻のおもしろさを皆さんに伝えていきます。

初回の今回は石巻2.0の活動の原点でもあり私自身も設計と
その運営に関わるオープンシェアオフィス〈IRORI石巻〉を紹介したいと思います。

石巻の様子。

かつてはにぎわいの中心だった石巻のまちなかの商店街は、
2000年に入ったころからからシャッター商店街と揶揄されるように、
高齢化や担い手不足で寂しい状態でした。
そこに追い打ちをかけるように震災が大きなダメージを与えました。
街路に面した商店は閉じ、閑散とした風景が広がっていましたが、
実は一見使われていないように見えても、建物のオーナーたちは上階に住んでいる場合も多く、
シャッターが閉まったお店も交渉次第では貴重なまちなかの資源になります。

2011年の暮れ、まちづくりのためあらゆる人が集う拠点を探していた石巻2.0は、
震災による津波で被災しガレージになっていた場所を、
駐車場2台分の手頃な賃料で借りることになりました。

被災した直後の泥かきの様子。かつてはコンビニだったこともある場所でした。

とはいえ津波が突き抜けたこの場所は壁も扉も窓も何もない状態。
そして復興事業で大忙しの地元工務店には修復を依頼できるわけもなく、
手づくりで場所をつくることから始めました。
今や世界にも進出する家具工房である〈石巻工房〉と、
世界的な家具メーカー〈ハーマンミラー社〉のボランティアとともに
わずか2週間でつくり上げたのが初代IRORIの始まりです。

古民家活用でわかったこと。 リノベの未来、この国の未来。 一般社団法人ノオト vol.12

一般社団法人ノオト vol.12

皆さん、こんにちは。ノオト代表の金野(きんの)です。

ついにこの連載も第12回、最終回となりましたので、
古民家リノベの意義と日本社会に果たす役割について整理しておきたいと思います。
いま、なぜ、リノベのススメなのか?

失われゆく歴史的建築物

まず、文化財建造物とその活用について。
文化財建造物には、文化財保護法で指定された国宝や重要文化財、
都道府県や市町村の条例で指定された指定文化財などがあります。
文化財建造物には神社仏閣が多いのですが、
ここでは民家や庄屋など市井の建築物の話をします。
「◎◎家住宅」とか呼ばれるものです。

〈古民家の宿 大屋大杉〉のメイン棟となっている正垣家。養蚕農家として建てられた築約130年の古民家(→http://ooyaoosugi.jp)。

文化財建造物は国民の財産ですから、その改修には、基本的に公費が投入されます。

そして、「文化財を活用」するというとき、
それは「復元保存した文化財建造物を活用」することを想定していて、
一般に、施設の「公開」や「イベント利用」などに限定されています。
※これを「保存⇒活用」と表現しておきましょう。

文化財指定の考え方。

文化財建造物は「類型の典型を指定する」ことになっています。

ある地域の、ある時代の、例えば農家という「類型」を設定すると、
該当する建物が多数あって、そのなかから、
類型を代表する「典型」的な建物が文化財として指定されるのです。
その物件を民族学的な標本として保存します。

現在の日本社会の価値観は、
・古き良きものを代表する物件を「標本」として「保存⇒活用」する。
・代表になれなかったその他の物件は捨ててもよろしい。

というものです。
この国の制度(文化財保護法や建築基準法)がそのようになっています。

これに対して、
私たちは、歴史的建築物(文化財指定の有無を問わない広義の文化財建造物)を、
宿泊施設やレストラン、カフェ、工房、オフィス、住宅などとして
「活用することで保存する」活動を行っています。
※こちらは「活用・保存」と表現しておきます。

地域再生のために古民家を活用するプレイヤーの立場から言えば、
文化財建造物もその他の歴史的建築物も区別はありません。
これらを一体的に捉えており、どちらも同じように大切です。
文化財建造物が「活用・保存」されることがあってもよいし、
グレード(文化財的価値)が低い歴史的建築物であっても、
それに見合った「活用・保存」の方法が見つかるものです。
地域やまち並みに分布するその多様な建築物群の総体が重要です。

これからの歴史的建築物の考え方。

ちなみに、この「保存⇒活用」と「活用・保存」の境界をわかりにくくしているのが、
「伝統的建造物群保存地区」の特定物件と「登録有形文化財」の存在です。

どちらも文化財建造物でありながら、
内部改装は自由にできるので「活用・保存」タイプとすることが可能なのです。
古民家リノベを志す人は、このあたりの事情を理解しておくとよいでしょう。

古民家リノベの意義

何れにしても、一個の有機体である地域やまち並みから
文化財建造物だけを取り出して取り扱うことの限界というものがあります。
当たり前のことですが、
文化財はその周辺の環境や社会とともに成立しているのですから。

これはたとえ話ではなく、地方の現実の姿なのですが、
一部の社寺や住宅を文化財として立派に保存しながら、
そのまちや村が衰退して生活の息吹が失われるのであれば、
文化財の維持も適わなくなるし、そもそも文化財指定の意味がないでしょう。

私たちは、地域再生やまち並み再生には、
文化財指定されていない歴史的建築物の活用が大切だと考えています。

「保存⇒活用」ではなく「活用・保存」とすることで、
地域に移住者や事業者を呼び込み、新しい生業や雇用を生み出すことができます。
しかも「類型の典型」として指定される文化財建造物の背後には、
その数百倍の歴史的建築物があって、その多くが空き家となっているのです。
改修費も文化財建造物の保存工事に比べると驚くほど安価です。

私たちには失くしたくないものがある。

建て直したほうが安い?

実際に古民家再生の費用は新築工事より相当に安価です。
しかし、修復の技術を持ち合わせていない設計士や工務店は、
施主に「建て直したほうが安い」と言って、解体工事、新築工事に誘導します。
そのほうが工期も読みやすいし、実際には「建て直したほうが高い」ので稼げます。

結局、施主は諦めて、古い家を壊し、新しい家を建てることになります。

「建て直したほうが安い」という言説が意味するもっと重要な点は、
職人たちによって伝統工法で建てられ、長い時間を湛えてきた空間と、
大量生産の工業製品を、「お金で比較できる」としている考え方、価値観にあります。

この時空は、壊してしまえば二度と取り戻せない、
と、設計士も工務店も、そして施主も考えないのです。

何もかもをお金で測るようになって、
現代を生きる私たちは、すっかり視程が浅くなってしまいました。

誰もが、今日の生活のことを、今月の売り上げのことを考えて生きています。
人生設計くらいはあるでしょうが、自分の人生の時間スケールを超えることはありません。
自分が住む家は自分の世代が住むのであって、その先の世代を考えることはありません。
自分の子どもや孫のために裏山に木を植えようと考える人はもういません。
子どもたちには別の人生があり、家を住み継ぐという考えはありません。
私たちは現世的な生を生きていると言ってよいでしょう。

豊かさとは何か

いわゆる「限界集落」は、いっそ廃村にして、
残った住民をまちなかに移住させたほうが経済合理的であるとの主張があります。
このことは学問の世界ではずいぶん前から論じられてきましたし、
現在は国の政策となりつつあります。
脳(都市)にばかり血液を送っていたら、指先(僻地)が壊死を始めたので、
どの指から切り落とせばいいだろうと考えているわけです。
私には、それが健康な国土だとは思えません。

野生生物について、絶滅危惧種や貴重種を守り育てることの必要性と重要性は、
この国の社会にも認知されているように思います。
このことは経済原理を超えていて、
現世的になることも、お金で価値判断することもありません。

それでは、その土地の気候風土に適った建築様式はどうでしょう。
そして、その土地の人々の暮らし、工芸や祭。
長い年月をかけて創意工夫を重ねた建築様式や暮らしの技術を、
安易に捨て去ってよいものでしょうか。

今も続く伝統的なムラのまつり(篠山市福住)。

神山町の空き家再生建築が、 ヴェネチア・ビエンナーレへ。 快挙の建築が生まれるまで。 坂東幸輔建築事務所 vol.2

坂東幸輔建築事務所 vol.2

ボンジョルノ〜! 建築家の坂東幸輔です。

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が5月28日から始まりました。
ビエンナーレの日本館の展示に私が主宰する建築ユニット〈BUS〉が出展しています。
〈BUS〉は現在、私と須磨一清、伊藤暁(2011年加入)の、
3人で構成されている建築ユニットです。
東京にそれぞれの設計事務所を持っていますが、神山町ではBUSの名義で活動しています。

先月、準備やレセプション出席のため、ヴェネチアを訪れていました。

今年のビエンナーレ全体のテーマは
「REPORTING FROM THE FRONT(前線からの報告)」、
日本館は「en[縁]:アート・オブ・ネクサス」というテーマで展示をしています。

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館の展示風景。12組の若手建築家が出展。

新しい世代の12組の日本人建築家の作品を展示することで、
現代の日本の社会問題を建築の力で解決した事例を紹介しています。
日本館の展示は大成功、
国別参加部門で約60か国の中で第2席となる審査員特別表彰を受けました。

前回の第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の総合ディレクターであり、世界的に有名なオランダ人建築家レム・コールハース氏(右から3番目)とBUSのメンバー。BUSの展示の前で。

シンガポール大統領に神山町プロジェクトについて説明しました。過疎地域に高速ブロードバンド網のインフラが整備されていることに驚き、えんがわオフィスを気に入って下さいました。

私たちのBUSは神山町プロジェクトの代表作、
〈えんがわオフィス〉〈KOYA〉〈WEEK神山〉の映像作品を展示しています。
3つのプロジェクターを使って、3面の壁に
神山の豊かな自然の中にあるそれぞれの建物の映像を投影することで、
まるで神山町にいるかのような臨場感を体験できる展示になっています。
映像制作は菱川勢一さん率いる〈DRAWING AND MANUAL〉が担当、
彼らも神山町にサテライトオフィスを構えており、
神山町のご縁が生んだチームでの展示になりました。

展示は11月27日まで行われていますので、
ぜひこの機会にヴェネチア・ビエンナーレを訪れてみてください。

BUSの展示。

神山町の空き家再生の始まりは

さて、展示されている神山町のプロジェクトはどのように始まったのか。
vol.1ではハーバード大学からリーマンショックを経て、
無職になった私と神山町との出会いについて書きました。
今回は小さな空き家の改修から始まった神山町プロジェクトが、
どうしてヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に出展するまでに成長したのか、
そのきっかけについて紹介したいと思います。
キーワードは「人の縁」です。

2008年10月に無職の私が神山町と出会ってから約1年半後、
2010年4月に東京藝術大学の教育研究助手に着任したことを
〈NPO法人グリーンバレー〉の大南信也さんに報告したことから
神山町での空き家改修のプロジェクトが始まります。
最初のプロジェクトは、クリエイターが神山に滞在して
作品制作するための拠点〈ブルーベアオフィス神山〉です。

「学生たちを神山に連れてきて、空き家を再生してくれませんか」

そう、大南さんからメールをもらい、
さっそく空き家改修のプロジェクトチームを結成しました。
東京藝大の学生たちを集めると同時に、
ニューヨーク時代に出会った建築家の須磨一清さんに声をかけました。
BUS(元・バスアーキテクツ)結成の瞬間です。

〈ブルーベアオフィス神山〉について大南さんにプレゼンしている様子。写真左が須磨一清さん。

リノベーションホテルがオープン! 廃業ホテルを譲り受けた理由とは。 HOTEL NUPKA vol.1

HOTEL NUPKA vol.1

みなさん、はじめまして。〈HOTEL NUPKA〉(ホテルヌプカ)の坂口琴美です。
十勝の中心都市、帯広市に私たちはこの春、
〈ホテルヌプカ〉というリノベーションホテルをオープンしました。

私たちが生まれ育った北海道十勝地方。
広大な北海道は、14の振興局に分けられているので、
十勝地方はそのなかで、十勝振興局と呼ばれ、
食料自給率が1000%を超えるほど、農業や畜産がさかんなエリア。
大学から東京に出てしまった私にとって
帯広空港に降りる飛行機の窓側席から見える
雄大な日高山脈に囲まれたモザイク調の美しい模様を織り成す畑は、
帰るたびにため息の出るほど美しい風景でした。

山々の恩恵を受けて、私たちは大地の恵みをたくさんいただき、
日高山脈と果てしなく広がる美しい畑に包まれて日々を過ごしています。
そして、十勝は北海道の中でも「おいしい」にたくさん出会える場所。

生きることは食べること。

食べもののある安心感。
十勝で出会う人たちが自由な考え方のできる人たちが多いと感じるのは、
そんな素朴でおいしい食べものに囲まれる安心に由来するのかな、と私は思います。

この魅力ある土地を舞台とした
小さなリノベーションホテルの取り組みと
私たちの大きな夢についてお話しますね。

十勝と世界をつなげる

ホテルヌプカは、2016年3月、北海道十勝地方の中心都市・帯広市で開業しました。
昭和48年から平成24年まで営業していた、
〈ホテルみのや〉の風合いある5階建ての建物をフルリノベーション。
2〜5階には客室やランドリールームが、
1階にはカフェ&バーがあり、ここは、
ホテルのゲストだけでなく、地元の人も気軽に入ることできます。

また、宿泊できるだけでなく、イベントなども随時開催予定。
全国、全世界から十勝を訪れるゲストと地元の人との交流が生まれることで、
十勝と世界をつなげる役割を果たしたいと願っています。

ホテルヌプカのスタッフ。

NUPKAの外観。

ホテルオープンのきっかけは映画づくり?

私がこの新しいホテルづくりに関わるきっかけとなったのは、
東京で暮らす十勝出身者が中心となった短編映画づくりのプロジェクトでした。

大学入学と同時に上京し、歳を増すごとに都会の良さや
日本のさまざまな地域の知識が増える一方、
地元のすばらしさに気づかされるようになっていきました。
都会では味わえない、また日本とは思えない
広い空と大地を感じてほしいと思うようになっていきました。
何よりも野菜の味がまったく違うんです。

月に一度、十勝の素材を使うレストランで夜な夜な集まっていた私たち。
いつも話題にのぼったのは故郷十勝の魅力をもっと発信できないかということ。
そこで、国内だけでなく世界にも向けた発信を考えたときに、
思いついたのが、十勝を舞台にしたストーリーと映像を発信するということでした。
「十勝」を「TOKACHI」として、グローバルなブランドとして育っていくよう、
なにか役立ちたいという思いから始まった取り組みです。

映画のタイトルは『マイ・リトル・ガイドブック』。
台湾の旅行会社で働く女性主人公が、
まだ広く知られていない北海道の観光資源を見つけるために十勝に派遣され、
地元の人との出会いの中でドラマが生まれるお話です。

監督を引き受けてくれたのは、十勝出身の後輩、逢坂芳郎さん。主演は台湾の人気タレントの吳心緹(ウー・シンティ)さん。クラウドファンディングで多くの方から制作資金の支援を受けることができました。映画は、2015年4月に完成し、Youtubeで無料配信されています。

この映画づくりを取り組んだ仲間のひとりが、十勝出身の柏尾哲哉さん。
柏尾さんは、東京で弁護士として働く一方で、
生まれ育った帯広の中心市街地の空洞化が進んで、
人通りが減り、かつてのにぎわいを失ったまちなかに、
映画を通じて十勝を訪れる新しい人の流れをつくり出したいと考えていました。

そんなとき、帯広駅から徒歩3分の飲食街の一画で
昭和48年から営業を続けていた〈ホテルみのや〉が
平成24年で営業を終了していることを柏尾さんは知りました。

旧ホテルみのや(昭和48年築)。

新市庁舎が、森のなかにオープン? 未来の先まで続く仕掛けとは。 Green Creative Inabe vol.3

三重県いなべ市では、「選ばれるまち」を目指して
市民参加型の地域活性化プロジェクト
〈Green Creative Inabe〉(グリーンクリエイティブいなべ)」が進行している。
市民と行政が連動してつくっていくまちの未来とは?
vol.1では、自然豊かな土地に惹かれて移住してきた若者たち、
vol.2では山間部でのこれまでの実践者たちを紹介してきた。
未来に向けて、どのような動きが始まっているのか。

三重県北部に位置するいなべ市は、
名古屋を中心に半径 30~40キロ圏内を結ぶ東海環状自動車道の建設が続いている。
全面開通後は、東は豊田市、北は岐阜市、西は四日市市までが連結され、
東名阪、中央などの高速道路ともスムーズにアクセスできるようになる予定だ。
平成31年春に、森の中にオープンする新市庁舎の建設を控え、
いなべがどんな場所になっていくべきかと市民が考えながら参加していくプロジェクト
〈Green Creative Inabe〉(グリーンクリエイティブいなべ)が始まった。

Green Creative Inabe ってなんだろう?

Green Creative Inabe では、
いなべの資源を「グリーン」と定義し、
それを都会的に磨き上げられたセンス、感性で
ローカルを再評価することを「ローカルセンス」と呼ぶ。
そのふたつをかけあわせることで、
都会の人たちにここにしかないものに
魅力を感じてもらいたい、ということだそうだ。
キャンパーたちから高い評価を得ている
いなべ市内の〈青川峡キャンピングパーク〉で一夜を過ごしてみると
その意味がさらに、わかった気がした。
何しろ、清潔で、ムードが、いい。
若いスタッフが、和やかに働いている。
手ぶらでやってきたとしても“山にきた!”と感じられる場づくり。
何か新しいモノゴトに興味を抱くにはその門戸は広く開かれているほど、入りやすい。

青川峡キャンピングパークのログキャビンに宿泊してみた。ここでは、食材以外のすべてが完備されているキャビンから、レンタルテント、そして自分で持ち込むテントまで、訪れる人のアウトドアのスキルによって滞在方法が選べる。取材班は野菜の直売所で山菜や野菜、塩や胡椒などシンプルな調味料を買い、キッチンでパエリアやサラダ、マリネなどをつくっていなべの食材を味わった。

vol.1で登場してもらった八風農園・寺園風さんの野菜を
何度か取り寄せてみたが、荷物が届くたびにうれしかった。
なぜなら、箱を開けると出てくる少量多品種の野菜セットが
みずみずしい、緑の花束のようだったから。
茹でると甘くなるビーツや苦味を感じさせるトレビスなどの
西洋野菜も少しずつ入り、味はもちろんのこと、色も鮮やか。
冷蔵庫から出すときはいなべの風を思い出して気分がよくなった。
自分の心地よいことに従って生きている人のセンスは受け手に伝わるものなのだなと思った。
この、しつらえのあり方そのものが Green Creative Inabe でいう
「ローカルセンス」というものなのかもしれない。

にぎわいの森に集う人たちをイメージして

Green Creative Inabe では、
新市庁舎建設に合わせてオープンする〈にぎわいの森〉に
大阪、名古屋市でファンの多いお店を招聘した。
現在、出店が決まっている
瑞穂区にあるベーカリー〈peu frequente〉(プーフレカンテ)、
天白区のフレンチビストロ〈FUCHITEI à vous〉(フチテイ ア ヴ)は
どちらも中京圏のグルメに大人気のお店だ。
プーフレカンテは12種類もあるという食パンを求めて行列ができるほどで、
メディアでもしょっちゅう紹介されている。

フチテイは住宅地で10年、地元住民に愛されるビストロを続けており、
連日ランチは予約でいっぱいになる。
なぜ、そんな話題のお店がいなべ新市庁舎の敷地内に出店するのか。
それは、今後活躍する世代にも、いなべの素材力を暮らしのなかで体感してもらうため、
より大きな新しい魅力に再編集してもらおうということだ。

プーフレカンテの狩野義浩さんは、プロデューサーの石黒靖敏さんの関わるイベントに狩野さんが出店するなど年月をかけて関係を築いてきた。その関係性により、いなべに出店を決めたという。3年後の出店に向けて狩野さんがいなべの魅力を知るのはこれから。

愛知県を中心に活動する店づくり・まちづくりプロデューサーの石黒靖敏さんは、
これまで数々のプロジェクトに参画し、成功させてきた。
特に、1997年から関わった名古屋の覚王山商店街の事例が有名だ。
それまで寂れたシャッター商店街だったのが
現在では出店待機者が絶えないくらいのにぎわいになっている。
今や、覚王山が名古屋を代表するまちであることは
中京圏の人には、すでに知られたことだろう。
そんな彼に声をかけたのは、いなべ市の日沖靖市長だった。

市内の阿下喜(あげき)商店街にぎわい創出に関わり、
まちの議論を活性化させた実績のある彼に
Green Creative Inabe のコンセプトづくりから骨子づくりを任せたのだ。

江戸時代には岐阜県から運ばれてくる木材の荷上げを行っていたことから“あげき”といわれ、桑名に運ぶための交通の要所だった阿下喜のまち。昭和の始めはにぎわいも最盛期だったが、近頃は閉めている店も多かった。

「市の未来を決める大切な事業を外の人に任せるなんて」
「よその人気店が出店しても、そこが儲かるだけじゃないか」
Green Creative Inabe の内容に反対の声も聞かれるなか、
なぜ、今、プロジェクトを始めるのかと日沖市長に質問をしてみたら、
こんな答えが返ってきた。

「いなべ市民は、現状の生活にそこそこ満足しています。
だから、その先をイメージできる人がいない。
そこそこ満足して何もしなければ物事は衰退する一方なんです。
未来に向かって一石を投じるために、
外から客観的に市を眺めてくれる存在が必要と思い、
Green Creative Inabe 全体のデザインを彼に依頼しました」

「人が何を期待していなべに来てくれるかと考えると、自然に魅力を感じてくれる人しかこない。だから、出店者には森の中にお店を出すことに魅力を感じてもらいたいし、外からくる人にはいなべに住みたいと思ってほしい」と言う日沖市長。

デンソーやトヨタ車体、太平洋セメントなど大きな企業があり、
企業誘致も成功しているいなべ市の財政は、現在とても健全だ。
ところが、普通交付税が減額されていく平成31年度には
20 億円の財源が減ってしまう見込みとなっている。
2003 年に4つのまちが合併し、10年以上経ったが、いまだに庁舎はバラバラなまま。
そういった意味では、ひとつの市庁舎となることも必要だった。

「市役所は、本来ならば職員のオフィスビルの
機能だけがあればよいのだけど、どうせなら、おもしろくしてやろうじゃないか、
とプラスアルファの部分をつくることにしたのです」

大きなモールの中に多種多様なお店が存在するようなイメージを
新しい市庁舎に思い描いていた市長は、
市庁舎の敷地内にテナントを入れることを考えていたという。
石黒さんがデザインしたのは、大阪、名古屋で大人気のお店のほか、
地元の生産者や生業としてがんばっている人々も参加し、
訪れた人すべてが楽しめる〈にぎわいの森〉をつくること。
「グリーン」を生かしたまちのイメージを長きにわたり
根づかせるために、農学校もつくることになった。
そこに入るのは、「自産自消」ができる社会を実践する京都の〈マイファーム〉だ。

未来のその先までもがつながるような仕掛けは続く。
遠方から出店するお店は、いなべの食材を使い、
広い空間でアトリエを持ったつもりで仕事ができる。
人気のある店はローカルセンスを発揮し、訪問者にいなべを体験してもらえる玄関となる。

フチテイがいなべで出店する際にお店で出すものは、本格フレンチではなく、みんながふだんから食べやすいもの。いなべの豚肉を使って発色剤や保存剤などを使用しないソーセージを出す予定。プーフレカンテとのコラボレーションも企画中とか。

市長は、石黒さんに初めて会ったときエネルギッシュな人柄に
ひょっとすると何かできるかもしれない、という希望が見えたという。
「放っておくと、結局は何も生まれないんですよ。
だから、阿下喜のまちの活性化を
地元の方と根気よく続けた石黒さんの存在が必要だったんですね」

よそもの、ばかもの、わかものはまちを変えていくのか

石黒さんは、このプロジェクトをどのように進めるのだろうか。
「いなべの環境を考えると、それを生かしたまちづくりが大前提となる。
農と食に特化したほうがいいと考えました」
さまざまな商店街を活性化させてきた石黒さんだが、農村地帯は初めて。しかも行政単位だ。

「土地の“材”を“財”へ変化させることを意識し、共鳴する人を集め、コアメンバーをつくり、
プロジェクトが自立していくように進めます」と語る。
描いた理想系を自分たちのものとしてカスタマイズし、走っていく地域の人たちが必要だ。

キャプション:Green Creative Inabe のイメージを描くプロデューサーの石黒靖敏さん。決していなべ市サイドの目線にはならず、第三者を貫く。距離をおいて見つめ、必要と思う場所にはさまざまな企画や人を投入し、まちに刺激を与える。

さて、新市庁舎で働くことになる市役所職員たちの反応はどうだろう?

伝統技術が実現させた、 日本ならではのアートがここに。 『REVALUE NIPPON PROJECT展 中田英寿が出会った日本工芸』

元サッカー日本代表の中田英寿さんが、
現役引退後、「ReVALUE NIPPON」というプロジェクトを
展開しているのをご存じでしょうか。
これは中田さんが日本各地を旅して、
伝統的な工芸、文化、技術の価値や可能性を再発見し、
その魅力をより多くの人に知ってもらうきっかけをつくることで、
日本の伝統文化の継承・発展を促すことを目的としています。

このプロジェクトで生まれてきた作品が結集する展覧会
『REVALUE NIPPON PROJECT展 中田英寿が出会った日本工芸』が、
パナソニック 汐留ミュージアムで実現しました。
2010年から「陶磁器」「和紙」「竹」「型紙」「漆」と、
毎年ひとつの素材をテーマにして作品を制作・発表してきたのですが、
ユニークな作品の生まれる大きな要因となっているのが、その進め方。

作家とデザイナーのコラボレーションは今でこそ珍しくありませんが、
ここでは「アドバイザリーボード」「工芸家」「コラボレーター」の3者がチームを結成。
さまざまな分野の専門家である「アドバイザリーボード」が
直接的なつくり手となる「工芸家」と、
アーティストやデザイナーなどの「コラボレーター」を選び、
自由な発想とスタイルで制作していきます。

「存在感のある土鍋を」というコンセプトのもと、中田英寿さん(アドバイザリーボード)、現代美術家の奈良美智さん(コラボレーター)、陶芸家の植葉香澄さん(工芸家)のチームで制作された《UFO鍋》(手前)。どっしりしているのに、そのままくるくると宙に浮いてしまいそうなたたずまいは、まさにインパクト大!

照明を落とした展覧会場に足を踏み入れると、浮かび上がる作品の数々。
素材別に展示されているものの、ひと目でその素材とはわからない作品も多く、
伝統工芸技術の奥深さを感じさせます。
どこか遠い存在だった工芸が、大胆かつポップに装いを変えることで、
ぐんと親しみやすくなるのも不思議です。

染色道具である型紙そのものを型枠に貼りつけた、照明器具《silver balloon》。伊勢型紙で知られる、三重県鈴鹿市で活躍する兼子吉生さん(工芸家)は、扇や花の形につくられた彫刻刀を用いて型紙を彫る彫刻師。東京都現代美術館チーフキュレーターである長谷川祐子さん(アドバイザリーボード)と建築家の妹島和世さん(コラボレーター)が兼子さんの型紙を選び、妹島さんが直径100センチの照明器具を設計。型紙からこぼれる淡い光が幻想的。

クリエイティブディレクターの服部滋樹さん(アドバイザリーボード)が「空間の境界線」をつくる表現者という共通点を見出し、選出した彫刻家の名和晃平さん(コラボレーター)と、竹工芸家の森上仁さん(工芸家)による《Trans-Ren》。黒い物体が彫刻、編み目のあるものが竹なのだが、彫刻と竹が融合して、不思議な一体感を醸している。

展覧会を開催するにあたり、3人の工芸家にお話をお聞きすることができたので、
それぞれの作品とともに、貴重な制作エピソードをお届けします。

一子相伝の工芸技術から生まれた、繊細で美しい竹の文字

《Takefino》 谷村丹後(工芸家)×田川欣哉(コラボレーター)×佐藤可士和(アドバイザリーボード)(写真:たかはしじゅんいち)

「Love」、「Peace」、そして中央の文章。これらはすべて竹でできています。
中央の文章は竹という言葉を使わずに竹を表現した詩になっています。
クリエイティブディレクターの佐藤可士和さん(アドバイザリーボード)、
デザインエンジニアの田川欣哉さん(コラボレーター)、
谷村丹後さん(工芸家)のチームで制作された《TakeFino》。

谷村さんの家系は奈良県生駒市高山町で500年にわたって、
お茶をたてるときに使う茶筅(ちゃせん)をつくってきました。

《Takefino》を制作した茶筅師の谷村丹後さん。一家代々継いできたこの名前は、現在で20代目!

谷村さんが制作した茶筅。先端部分は、薄く削ることによって物理的に曲げている。茶筅黒竹色糸(ピンク)5400円。(パナソニック 汐留ミュージアムのミュージアムショップにて限定販売)

「竹で文字を表すというコンセプトだったのですが、
切った竹を曲げて表現しようとしたら折れてしまったりなど、
この形に行き着くまで紆余曲折がありました。
本業の忙しい年末年始に制作期間が重なってしまったため、
当事者のひとりでありながら無理じゃないかと正直思いかけていたのですが、
縦方向に竹を差したら行けるんちゃうかと気づいたのです」

作品の詩の部分は、鏡面板に田川さんのデザインしたフォントで溝をつくり、
そこに茶筅の穂先の部分を差し込んでつくっています。
使用した竹は、茶筅で計算すると300本分くらい。
谷村さんはとにかく竹を削り続けて東京へ送り、
田川さんたちが差し込むという遠隔の流れ作業が行われました。

(写真:西部 裕介)

一方、LoveとPeaceで使われているのは、茶筅の穂先を削るときに生まれる削り屑。
「普段はどんどん捨てている部分なのですが、上から見るとふわふわしていて驚きました」

谷村さんが上京して、できあがった作品を初めて目にしたときは、
「きれいということより先に、細かい竹を差し込んだ苦労がしのばれました(笑)」
とのこと。

茶筅は伝統工芸でありながら、茶道には必需品かつ消耗品なので、
少々特殊な位置づけだと谷村さんは言います。
日本で伝統的に茶筅をつくっているのも、谷村さんが生まれ育った集落のみで、
その技は一子相伝とされてきました。

「僕自身は普段やっていることをやっただけともいえるのですが、
こういったかたちで自分のつくったものに
違う価値を持たせてもらったことがうれしかったですし、
何よりモチベーションが上がりました。
最近もSNSを見た外国の方が、わざわざ田舎道を歩いて訪ねてきてくれたりして、
昔だったら考えられないような動きが生まれています。
これからもこういう機会があったらぜひやりたいですが、
その前にたまっている注文を仕上げないと(笑)」