世界で一番おなかがすく 映画になったのは、 ペンギン夫婦流コロコロ& パクッの食卓術だから。

「えっ、これは何かのドッキリ?」

辺銀暁峰&愛理夫妻をモデルにした、心がホンワカあたたまる映画
「ペンギン夫婦の作りかた」、みなさま、ご覧になりましたか。
大好評のうちに首都圏での上映はひとくぎり。全国各地を回り始めました。

2013年3月には、DVD&ブルーレイディスクが発売になるだけでなく、
新石垣空港の開港を記念して、台湾での上映も決定しました。
「ペンギン夫婦の作りかた」は、これから世界制覇しちゃうかもしれません。
映画は島でも上映されました。島に唯一あった映画館「シネマ万世館」、
閉館になっていたこの映画館が、この映画のために期間限定でリ・オープン。
島の人々が大勢見に来てくれました。

中には、映画と現実を混同して、「あんたたちをいじめた人は、どこの人ね?
私が一言言ってあげるから」と言ってくれるおばあや、
「あのエロおじいは、どこに住んでるのか」と聞くおじいが現れたりしたそうです。

* * *

さて、この映画の始まりは、1本の電話からでした。
『ペンギン夫婦がつくった石垣島ラー油のはなし』(マガジンハウス刊)を
読んだ関係者から、「映画にしたい」という話があったのです。
愛理さんは、「えっ、これは何かのドッキリ?」
いや、もしかしたら「オレオレ詐欺的なもの?」と思ったとか。
そのくらい驚いたと言います。
見てくれる人、いるのかしら? そんな心配もありました。
何より、自分たちがモデルになるなんて照れくさい、恥ずかしい、面映ゆい。

でも、愛理さんのお父さんは編集者、お母さんは映画学校の講師というお生まれ。
それだけでなく、ご主人の暁峰さんのご両親も演劇関係者。
さらに、暁峰さん自身もチャン・イーモウ監督のスチールカメラマンだった。
映画とは浅からぬ縁のあるお2人。日本映画を応援したいという気持ちもありました。
もちろん、石垣島のためになることだから、という強い想いもあってのこと。

ところが、さあ、映画を撮るぞって時に東日本大震災にみまわれます。
もちろん、製作は頓挫。今年の初めに、やっと再開が決まったのでした。

美崎町「スナックマンタ」

体に良いおつまみをお客様に食べさせたいと、上原吉子ママが始めたベジタリアンおつまみの数々。仮装アイテムは島イチ! 変装して歌えば、誰だかわからんくなって楽しいわけ。でも、どんなに盛り上がってもかっきり12時で閉店。シンデレラのようなママに同性ながらぞっこん。

「ティラアース」

石垣島の珊瑚やミンサー柄をモチーフにオリジナルジュエリーを展開している平良静男&佳保里ご夫妻。一見ガラスのビーズに見えるが実は全て本物の宝石。静男さん曰く「ミンサー模様は密かな心の内側、秘められた想いのマリッジリングです」。ブライダルジュエリーも島内外問わず人気が高い。http://www.tilla-earth.com/

「中村ざっか」

京都のカリスマ雑貨店での経験を生かし、石垣島にあると可愛い生活雑貨をチョイス。地元の作家たちを応援している優しい中村貞吉&尚代夫婦の店。今年で14年。なんと、石垣島ラー油で使う紙は全て中村ざっかから仕入れていますよー。

「フィル」

藤本恵美さんのオリジナルブランド「FIL」と国内外からセレクトしたキラリと光る商品を展開する島のオシャレ女子憧れの店。ご主人はオリジナルジュエリーショップ「ジャランアート」のオーナー和宏さん。ご夫婦が作り出すアクセサリーのファンも多い。

「仲宗根豆腐」

石垣島には何故か仲宗根豆腐が二つあるが、漢字で書く豆腐の方。仲宗根彦次さんと松子さんのお豆腐を移住以来食べさせて頂いている。朝と夕方2回作っては松子おばーが自転車で配達してくれる。熱々の出来たてをほおばると「塩味の大豆ケーキ」って感じ。

「とけい台食堂」

毎年1週間ほど北海道のお世話になってるペンギン家は大の北海道ファン。自分の中の北海道が足りなくなると必ず行く店がここ。銀ダラやジンギスカン、ザンギ定食をはじめ、各種北海道ラーメン、イクラ丼などウキウキメニューがずらり。優しいオーナーファミリーの笑顔に今日も心が『デッカイドー!北海道!』となります。http://tokeidai.ti-da.net/

「花谷農園」

花谷達郎さんと友子さんの農園。息子さんの史郎さんとまゆさんの4名とスタッフでゴーヤーや白ゴーヤー、ナーベラー(ヘチマ)、ズッキーニ、カボチャ、甘長唐辛子、ミニトマトと珍しい十角瓜などを育てている。花谷さんのピカピカのお野菜たちはペンギン食堂でも召し上がって頂けますよー! http://www11.ocn.ne.jp/~hanatani/

福山のコーヒー的習慣

激動の年末年始。

このお正月にあった今年初のコーヒー的体験をひとつ。
場所は福山のカフェ<nanairo(ナナイロ)>。
何を食べても抜群に美味しくて、広島方面に行った際は帰りに必ずここに寄る。
というか、年に何回か訪れる尾道や福山への小旅行は
このカフェでの夕飯ありきで計画されていたりする。
以下はそのカフェで1月3日に目撃した出来事である。
ぼくは入ってすぐのところにあるソファ席で友人の一家と夕飯を食べていた。
と、ふらりと店に入って来た20歳代の男性がふたり。
ともに黒っぽいニットキャップをかぶった彼らは、つかつかとカウンターに近づいて、
エスプレッソをふたつオーダーした。そしてカウンターの一角にある、
椅子のない、立ち飲みのスペースで出てきたエスプレッソをものの2、3分で飲み干すと、
「どうも!」とだけ言って、また来たときのようにふらりと店を出て行ったのだった。
その一連のシークエンスを無言で眺めていたぼくはといえば、若干シビれていた。
そんなカッコいい光景がミラノでもNYでもなく、この日本で、
しかも岡山よりもさらに人口の少ない福山で見られようとは思いもしなかったのだ。
ぼくが目にしたようなコーヒー的習慣が若者の間で根づいているとしたら、
福山、かなりヤバい。

正月に見た光景があまりに鮮烈だったので、
そのたった2日後にまた福山の<nanairo>を訪れた。店に入るなり、
店主のジャリくんにそれとなく彼らのことを聞いた。
「おとといの晩、エスプレッソだけ飲んで帰った若い子たちがいたよね、
彼らはああやってよく飲みに来るの?」
「いえ、彼らはたしか店に来たのは2回目です」
うん……?
「エスプレッソだけ飲みに来るお客さんって結構いるの?」
「ほとんどいないですよ。
だってうち、エスプレッソよりもマンゴージュースの方が出ますもん」
というわけで、あれはお正月の幻みたいなものだったことが判明した。
でも、あの幻はいまもぼくのなかで特別な輝きを放っている。

年が明けて、我が社アジアンビーハイブのデザイン担当ヒトミちゃんが
FA権を行使することなく、残留することが決定した。
彼女が会社を辞めてフリーのイラストレーターになるか、
そのまま会社に残るかは五分五分とふんでいたので、
双方の場合をシミュレーションしてはみたが、
「辞めます」と言われた場合はどうしていいかよくわからなかった。
シミュレーションといっても、途方に暮れて佇むぼくのそばで
サブがクンクン泣いている絵が浮かぶばかりだった。とりあえずはよかった。
「これで会社も安泰」と言えたらいいんだけど、
創業以来、うちの会社が安泰であったためしがない。
今年も例にもれずで、新年早々から結構なクライシスにある。
目下、昨年春に融資を受けたT銀行に二度目の融資のお願いをしているところ。
「最悪、社長が個人で借り受けして、会社に貸すというカタチもありますが」
担当のシマちゃん、そんなことをおっしゃるってことは融資しにくいのかな?
顔もあきらかに「困ったちゃん」風だ。
「個人で借りた場合の利率はどうなってるの?」
案の定、高かった。
銀行って、預けたときの利率と貸したときの利率に
なんでこんな開きがあるかなあ、いまさらだけど。
というわけで、現在は銀行の決定を待っている状態なのだった。
頼むよ、シマちゃん!

さて、残る人もあれば去る人もありというのが世の常。
昨年12月でコイケさんがマチスタを離れた。
で、のーちゃんと相談した結果、ぼくが平日の午前中9時から12時までを担当し、
12時から閉店の午後7時までをのーちゃんが受けもつこととなった。
(今年から月曜日を定休日とし、営業時間を朝と夕それぞれ1時間短縮しました)
なんと、このぼくがマチスタの朝の顔。
東京にいる頃は、フジテレビの『ペット百科』の放映時間に合わせて、
午前11時20分を起床時間としていたこのぼくがである。
そんなわけで、午前は岡山のマチスタ、午後は児島のアジアンビーハイブという生活が
すでにスタートしてすでに数日が経過している。
数日しか経過していないけど、わかったことは少なからずある。
たとえば、朝利用する7時58分早島駅発岡山駅行きの電車が、
本を読むこともままならないほど混んでいるということ。
午後の労働時間があまりに短くて、気を抜くと何もしないままに夕方を迎え、
「あれ、そろそろマルナカに夕飯の買い物に行かなきゃ」
(マルナカは近所にあるスーパーのチェーン、
昨年イオングループ傘下となった)ということになったりする。
いずれにしてもこれまでの瀬戸内海的な温い生活とは大きく違って、
なにかとガチャガチャ慌ただしい。
一方、静けさに満ちているのが午前のマチスタ勤務。
3時間でふたりとか3人とか、
毎日がそんなだからいたって平和、ってこれじゃいけないのだ。
朝の活気をぼくが創りだしていかなきゃいけない。
いまのマチスタにとってそのハードルはそそり立つほどに高い。
でも、高いからといってあきらめたくない。
まずは一歩だ。一歩を踏み出すことから始めようと思っている。

ヒトミちゃんも<nanairo(ナナイロ)>のハンバーグの大ファンで「お母さんの次に美味しい!」と10歳児のように絶賛。本や雑誌のセレクトも実にセンスよし! 
住所 福山市三吉町3-10-7 TEL 084-921-3016

最初の第一歩といえば、ぼくの場合やっぱりビラでしょう。新年早々、毎朝店頭に立ってビラ配りしてます。内容は1月15日から1か月間の割引サービス(午前中に限る)。「忙しゅうてかなわん!」と悲鳴をあげてみたい。

Shop Information


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cafe-nanairo

住所 広島県福山市三吉町3-10-7
TEL 084-921-3016
営業時間 11:30 〜 24:00 火曜定休
http://cafe-nanairo.jimdo.com/

Shop Information


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マチスタ・コーヒー

住所 岡山県岡山市北区中山下1-7-1
TEL なし
営業時間 火〜金 9:00 ~ 19:00 土・日 11:00 〜 18:00 月曜定休

フォトいばらき 2013年新年号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

2013年は、風土記が編さんされてから1300年という節目の年です。茨城県が発行する『フォトいばらき』の冬の最新号では、「常陸国風土記の世界」を特集。郷土史の原点をひもときます。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2013.1

二度目のマチスタ番

散々な一日を振り返る。

クリスマス直前の3連休、初日の土曜日に二度目のマチスタ番が回ってきた。
今回は準備からしてちょっと違った。前日に事務所にあるCDをセレクトし、
トッド・ラングレンやホール&オーツ、ボズ・スキャッグス、ジェッツなどを
用意していた(お題は「アメリカの80’s 」です)。
2週間前の土曜日はまったくそんな余裕はなかったのだけど、
やはり二度目となると少しは心に余裕ができるものらしい。
かくして土曜日の当日—————午前10時、マチスタに到着。
開店準備の手順はだいたい頭に入っている。
まずはガスの元栓を開けて、ポットにかかっているお湯を沸かす。
それからおつりをレジに移し替え、冷蔵庫のなかをチェック。
店内はしんと静かで、お湯が沸くと、途端にコーヒーの予感のようなものも店に漂う。
(ぼくはすでに開店前のこの時間が好きになっている)
さて冷蔵庫のチェックが終わったら次は掃除という順番だけど、
今日はもってきたCDを数枚、試しにかけてみた。
ちなみにマチスタでかけているのは、もっぱらジャズやボサノバ。
そのわりに80年代の商売っけたっぷりの音楽もそんなに違和感がなかった。
なかでも抜群によかったのがホール&オーツだ。
マチスタではきっとソウル系の音楽もアリなんだと思う。

午前11時。看板とホットドッグのポップを表に出し、
かかっていたホール&オーツのCDを1曲目の『Sara Smile』に戻して準備は万端。
ところが、最初のお客さんがやって来たのは11時を30分以上過ぎた頃だった。
「ストロングの豆を100グラムと、持ち帰りでカフェオレのアイス。
豆は曳いてください」
アイスカフェオレは作ったことがない。豆も曳いて売ったことがない。
なにからどう手をつければもっとも効率がいいか、さっぱりわからなかった。
でも、さっぱりわからないでいると悟られてはまずいので、
とりあえずカラダを動かして、豆を曳くところから始めた。計量器で100グラムを計り、
ミルに豆を半分ほど入れてスイッチオン。
マチスタのコーヒーミルは、見栄えはいいんだけど、
どちらかというと家庭用で、100グラムを一気に処理する容量がない。
したがって2回に分けて豆を曳くことになる。これ、結構面倒だ。
さて、曳いた豆を専用の袋に入れた後は、アイスカフェオレ。
早速やってしまった。
あらかじめ容器に氷を入れてから牛乳と抽出したコーヒーを注ぐのが手順なのに、
最後に氷を入れることになってしまった。
おかげで氷を入れる瞬間に、ちゃぽん、ちゃぽんとカフェオレがはねる。
マチスタが恐ろしいのは、作業台がぼくの腰よりもさらに低い位置にあって、
向こう側にいるお客さんに制作過程のすべてが露見してしまうこと。
つまり、この「ちゃぽん、ちゃぽん」も
かなり高い確率で見られてしまった可能性があるのだが、
「それがどうしました?」的なすました態度でいることがぼくの精一杯の頑張りだった。

なんとか送り出した最初のお客さんと入れ違いに、
自転車に乗った主婦のお客さんが店に入って来た。
「ブレンドを200グラム、お願いね」
また、豆だ。
「豆のままでよろしいですか?」
「曳いてちょうだい」
もう買おう、業務用のミル。
とりあえずは、100グラムで2回に分けるわけだから、200グラムなら4回。
約50グラムの豆を1回曳くごとに袋につめていった。
袋に入れる際にじょうごの類を使っていないので、
気を緩めるとすぐにボロボロと粉がこぼれてしまう。
「お待たせしてすいません」とか、そんな軽快な言葉をかける余裕はまったくない。
結構気を遣う作業で、結果、結構な時間がかかった。
ようやく作業を終えた頃、知り合いでもあるお客さんがふたり入って来た。
先のお客さんに豆の入った袋を手渡しお礼を言うと、
これからお買い物だろうか、彼女はいそいそと店を出て行った。
「おひさしぶりです。さあ、なににしましょうか?」
言った瞬間、視界の隅にあるそれに気づいた。
豆売りの計量に使っているカップが作業台の上に。
豆は半分ほど入っていて、重さにして50グラムといったところか。
(なんでこんなところに豆が……?)
頭のなかで火花が散った。次の瞬間、ぼくは店を飛び出し、
通りに立ってさっきのお客さんが自転車で向かった方向を見た。
(たぶん、あれか?)
まさに脱兎。
年齢のことも、もう何年も思いっきり走ったことがないというのも完全に忘れ去って、
ただただ自転車に乗った女性の後ろ姿を追った。
ほぼ2ブロックだった。
信号をひとつ過ぎ、ふたつめのところでようやく追いついた。
「すいません!」
はりあげた声に、その女性が振り向いてくれた。
ところが、息が完全にあがって二の句が継げない。
腰を折って両手を膝にやり、「豆を……豆を……」とうわごとのように繰り返した。
「豆を……曳き忘れて……とりあえずお店へ」
やっとの思いでそう言って、女性を促して店へ戻ってもらった。
店に入ると、事の理由がなにもわからないまま、
唐突に店主に店を出て行かれた知り合いのふたりがまだ待ってくれていた。
彼らにお詫びを言って、作業台にあった残りの豆を曳いた。
「次に来たときにでもよかったのに、ホント悪いわ」
「いやいや……そうはいかないです」
「これ、たいしたものじゃないけど、よかったら食べて」
そう言って、彼女はバッグから小さな紙の袋を取り出した。
なかには小豆の餡の入った菓子が3つ入っていた。
「そんな……悪いです。でも、せっかくだからいただきます」
実はこの頃もぼくはまだ十分に酸欠状態で、
唇が青くなっていやしないか、そればっかり気になっていた。
こうして無事というか、もうギリのセーフ、
お客さんに200グラム分の豆をお渡しすることができたのだった。
しかし、午前中に体力を使い切ったその代償は小さくなかった。

その日は知り合いや友人がたくさん来てくれたこともあって、
6時の閉店までかなり慌ただしい一日となった。
でも、スタートがスタートだっただけに、
地に足の着いた接客ができていたとは言いがたく、
ミキサーからジュースをこぼしたり、
レジを打ち間違えて修正不能になってのーちゃんに電話したり。
店のBGMに気を配るような余裕もほとんどなくて、
CDは一度変えたらかけっぱなし、何回リピートしたかわからないぐらいの垂れ流し状態。
はっきり言って初回よりもさらに散々な立ち振る舞いだった。
店を閉めた後はもうぐったりだった。
わざわざ三原から来てくれたヒロシとロラちゃんと、
<ステーキのどん>で250グラムのステーキを食べて一時的に回復を見せたものの、
家に帰るとすぐに泥のように眠ったのだった。

けっして調子にのっているわけじゃないが、
来年から定期的にマチスタに立つことになった。
毎週火曜日から金曜日までの午前中、9時から12時までを担当する
(月曜日を定休にしました)。
しかも、隔週で日曜日も立つ予定。
50歳を迎える来年は、結構ハードな年になるやもしれん。

左はマチスタの焼き菓子コーナー。倉敷のパン屋さん「コンパン」のフロランタン、アマレッティ、コーヒームラングが並びます。右にあるのがくだんのコーヒーミル。アメリカのキッチンエイド社製。

作業台が低いマチスタの厨房。ここまで丸見えだと、コーヒーを淹れるのもマチスタではある種、パフォーマンスです。しかし、手際よくテキパキ立ち回れたら、それはそれでいいわけで。

石山文子さん

今回は番外編「街の人気者」

東銀座駅、5番出口を上がった七十七銀行前に、ひとりのおばあさんがいる。
新聞紙の上に色とりどりの野菜を広げ、その傍らにポツンと座っている。
気になって声をかけてみた。

手際よく商品を拡げ、いざ開店。営業時間 7:10〜9:40(日によって異なる)

手際よく商品を拡げ、いざ開店。営業時間 7:10〜9:40(日によって異なる)

石山文子さん

御年 83才

行商歴 60年

通称 おばちゃん

千葉県我孫子に生まれ、20才で茨城県利根町にお嫁に行く。
23才から行商を始め、銀座周辺に通い始めてもう60年になる。

おばちゃんが売っているのは近所の農家から集まった採れたての野菜。
この一畳足らずのお店には常連客もしっかりついている。
毎日欠かさずトマトを買いに来るスーツ姿の男性。
「いんげんの人」とおばちゃんが呼ぶ、いんげん好きのOL。
井戸端会議のお相手、ビル清掃員のおばちゃん。
自転車で乗りつける、割烹の板前さん。
笑顔が素敵な、歌舞伎座の工事現場作業員。
巡回中、汗だくになりながら笑顔で声をかけてくる築地署のお巡りさん。
そんなお客さんとのやりとりが、毎日、60年繰り広げられているのだ。

瑞々しい野菜が所狭しと並ぶ。トマト600円 なす200円 インゲン200円

瑞々しい野菜が所狭しと並ぶ。トマト600円 なす200円 インゲン200円 

肉厚の魚も人気商品。鯵の干物3枚 500円 塩シャケ3切600円

肉厚の魚も人気商品。鯵の干物3枚 500円 塩シャケ3切600円

「計算してっからぼけねえよー」会計も手際よくこなす石山文子さん

「計算してっからぼけねえよー」会計も手際よくこなすおばちゃん。

初めて厨房に立った日

厨房に立ってみないとわからないことがたくさんある。

寒い。とにかく、寒い。岡山駅からほんの10分歩いただけでカラダが芯まで冷えた。
午前10時ちょうど、マチスタに到着。鍵を開けて店内に入る。
すぐにアンプとCDのスイッチをつけると、無音だった空間にジャズが流れ始めた。
そこでようやく斜めがけしたバッグを肩からはずし、
前日にのーちゃんからもらったメモをフリースのポケットから取り出した。
その一枚目には<OPEN準備>として、
「ポットの湯を沸かす」、「おつりをレジに入れる」など、
7つのポイントが書かれてあった。開店の時間まで約1時間。
ぼくは上衣を脱いでハンガーにかけ、
まずは暖房をつけようと、エアコンのリモコンを探した。
が、ない。広い店じゃないのですぐに見つかりそうなものだけど、
それがどこを探してもない。
もちろん、のーちゃんのメモにもリモコンの場所なんか書かれているはずもなかった。
寒っ……。

12月8日土曜日。その日、ぼくは初めてマチスタにひとりで立つことになっていた。
4月のオープン以来、出張イベントではたびたびコーヒーを淹れてきたけど、
母体のマチスタでは一度もない。
厨房の内側に入ることも滅多になく、ジンジャエールの栓さえ開けたことがなかった。
不安はもちろん少なからずあって、
当日までに何度かマチスタに来て練習させてもらおうと思っていたんだけど、
たちの悪い風邪をひいてしまい、結局前日の午前中に一度店に来たきりだった。
でも、そのときにのーちゃんが渡してくれた前述のメモが実に簡潔で要点を得ていて、
おかげでぼくの不安はかなり軽減していた。

リモコンはなんとシンクの目の前、
壁から吊るしているフライパンの横に取りつけられていた。
台ふきんを洗っているときにたまたま見つけて、たまげた。結構トリッキーだ。
スイッチを入れ、ようやく店が暖かくなり始めた矢先、
最初のお客さんがやって来た。
その50代の女性は、まだ看板もなんにも出していないのに、
店に入るなり「寒いわねえ!」と言って窓側のカウンターに腰を下ろした。
時計を見ると、午前10時50分。開店までまだあるが、お湯も沸いていることだし。
それに彼女、すでに上着を脱いで落ち着いている感じだ。
「あの、看板出したりしますので、少しだけお時間いただいていいですか?」
「どうぞごゆっくり。やることをやってからでいいのよ、
それから美味しいコーヒーをちょうだい」
ぼくは看板とホットドッグのポップを表に出してから、手を洗って、
<キッチンエイド>のミルで豆を曳いた。
コーヒーのなんともいえずいい匂いが、一瞬にして店にたちこめる。
彼女のオーダーはストロング(深煎り)だった。
「この店はよくご利用いただいているんですか?」
「それが今日初めてなの」
「てっきり、よく来られてるのかと思いました」
「自転車でよく前を通っていて、いつも気になってたの。
今朝は家でコーヒーを飲みそこねたから、絶対外で美味しいのを飲もうって。
タイミングがよかったのよね」 
その女性は30分ほど、ゆっくりとコーヒーを飲んで、
「美味しかった。またうかがわせてもらうわ」と嬉しい言葉を残して帰って行った。
彼女が帰ってすぐ、ぼくはブレンドコーヒーを淹れ、
ホットドッグも作って早めの昼食(代金650円は自分でレジに入金、売り上げ貢献です)。
コーヒーはいわずもがな、ホットドッグも久々に食べたけど実に美味かった。
これなら合格、自信をもって出してよし! 
と、そこへ大学生風の若い女性がひとりでふらりと入って来た。
彼女はついさっきぼくが食べたと同じセット、
ブレンドとホットドッグを注文してからカウンター席で文庫本を開いた。
悪くないペースだ。慌ただしくなく、かといってヒマをもてあますでもなく。
外は相変わらず風が冷たそうだけど、
店の中は太陽の光も適度に入って、ぽかぽかと暖かい。
気を抜くと眠気をもよおしかねない、そんなのんびりとした時間が流れていた。
しかしまさかそのときは、その後2時間半もの間、
お客さんがただのひとりもこない魔の時間帯がやって来ようとは思いもしなかった。

11時の開店から3時間以上経過して、これまでお客はたったのふたり。
ぼくのランチ650円分を入れても、売り上げは2000円にも届いていない。
しかも土曜日は営業が午後6時までなので、うーん、ヤバい。
売り上げの最低記録を経営者自らが更新してしまうかも。
といって、焦ってもお客が来るわけじゃないので、
「マチスタにあったらいいな什器」のデザイン画を
4色ボールペンで描いたりして時間をつぶした。
1時間ぐらいがあっという間だった。

やっぱりもつべきものは友達かな。
長い長い午後の沈黙を破ったのは、
玉野市で活動しているアーティストの友人たち4人。
ぼくがこの日、初めてマチスタの店番をしているというのを聞いて、
わざわざ寄ってくれたのだという。
しかも彼ら、わかってらっしゃる。
4人がそれぞれ違うメニューをオーダーしてぼくを混乱させることもなく、
みんな同じくブレンドを注文してくれたのだった。
一杯300円のコーヒーが4杯だから、売り上げにして1200円。
でも、この1200円は数字以上にデカい。

彼らが帰った直後、のーちゃんが休日というのに店に寄ってくれた。
「どうですか?」
「うん、なんとかやってる。売り上げはよくないけどね」
久々に母親に会ったような、
嬉しさとか懐かしさのようなものとかいろんな感情がこみあげてきた。
彼女の存在の、まあ頼もしかったこと。
彼女がいる間に、5歳ぐらいの男の子を連れたお母さんがやってきた。
お母さんはコーヒーとホットドッグを注文し、
子どもが小さな声で「マ……スペヒャ」。ぼくの隣でのーちゃんが通訳のようにして言った。
「マチスタスペシャルです。よく来られて、いつも注文するんです」
マチスタスペシャルとはバナナモカシェークのこと。
レシピは頭にあるが、なにせ作るのは初めてで、
できればシンプルにバナナジュースとかにしてほしい。
目の前で子どもがぼくの顔を食い入るように見ていた。
「マチスタスペシャルがいいんだ?」
「……うん」
「マジで?」
子どもが下から見上げるようにして軽くうなずいた。
「じゃあ、私がホットドッグとマチスタスペシャルをつくりますから、
赤星さんはコーヒーをお願いします」
ひとりだったら間違いなく混乱していたであろうこの日初の難局が、
このようにして乗り越えられていった。
のーちゃんが帰った後も閉店の6時まで、お客さんは途切れることなくやってきた。
京都にいるトーマスが息子のレイくんを連れてきてくれた。
奈良で看護師をやっている友人や、
岡山で一緒に『Krash japan』のウェブを作っていたフジワラくんも来てくれた。
おかげで夕方からの店内はバタバタと慌ただしく、
売り上げも8000円を超えるところまで盛りかえすことができたのだった。

厨房に立ってみないとわからないことがたくさんある。
今回、ひとりで店を切り盛りしてそう思った。
というか、マチスタの今後のためにもぼくはもっと店に立つべきだろう。
さしあたって、12月22日の土曜日、再度ぼくが店に立つことになっている。

厨房から店内を見る。大きな窓からは通りを行き交う車やバス、路面電車が見えます。あんまり外を見てるとバカみたいなので、お客さんがいないときもなるべく外を見ないようにしてました。

路地を挟んで向かいにあったビルがまるごとなくなり、店内も明るくなってよし。でも、早々にマンションの建設がスタートするらしい。完成は2014年秋とか。長っ!

当日、何を着て店に立つかは大問題で、迷った挙げ句、涼しげなコットンの白のシャツにしました。でも、マフラーをつけっぱなしだったことにこの写真を見て気づいた次第。痛っ!(撮影:藤原基晃)

Barnshelf

思い出が詰まった雑貨と本の店

Barnshelfの店長である小前 司くんとのつき合いは長くて、僕が本のセレクトを手伝っていた、
書店を併設した梅田の雑貨店「アンジェ・ラヴィサント」に入社してきたのが小前くんだった。

圧倒的に女性が多いこの店において、
男性というだけでも珍しいのに、元書店員、さらに古本好きとくれば仲良くならないわけがない。
梅田への出張の後には必ずといっていいほど大阪のまちに飲みに出かけ、
また出張の日程を調整しては、大阪・四天王寺の古本市にも一緒に出かけ、
お互いの収穫物を自慢し合うようになった。

一方、その雑貨店は京都に本店があって、そこで店長をしていたのが鷺坂えりかさん。
三条河原町という京都でもとびきりの繁華街にあり、
3階建ての大店舗をまとめあげるその力量と
いつでも楽しそうに仕事をしている姿に惚れ惚れとしたものだった。

小前司さんと奥さまのえりかさん。わざわざ向き合ってもらった。

そんなふたりがいつの間にかつき合って結婚して息子が生まれて、
前後して小前くんの実家がある三田市に一緒に住むようになった。
子どもが生まれてから、彼から独立の思いを聞くようになった。
実家のそばにある元牛小屋、この場所を改装して本と雑貨の店にしたい。
最初に聞いた時はびっくりしたけれど、
訪れてみれば、そう考える理由もよくわかる。
駅からは決して近くないが、多くの人は車で移動する土地柄、
立地よりも場所の面白さに人は集まってくる。

通りから店までは小前くんの家の畑とBarnshelfガーデンを通り抜けて行く。

大阪から快速電車で約40分、神戸からも同じくらいの時間で来れる三田市。
10数年前、新三田駅から有馬富士公園へと抜けるバイパス道路が開通し、
小前くんの家の畑を横切るように道路が通った。
その頃には農機具置き場になっていた元牛小屋は、なぜか道路沿いに建つことになった。
この場所に生まれ育った小前くんは、休日になると大阪の都会を楽しみ、
普段は三田でのどかな生活を送るという、
都会と田舎のどちらのいいところも吸収しながら伸び伸びと成長していった。

半年ほどの準備期間を経て、2012年7月にオープンしたふたりの店には
牛小屋(cow barn)と本棚(bookshelf)がくっついて「Barnshelf」という名前になった。

「ようやく落ち着いてきました」という連絡をもらって遊びに行った。
今回紹介するのはそんなお店だから、
どうしても贔屓してしまうのだけれどそれは勘弁してほしい。

登山、アウトドア、軍モノ。並ぶものと木の棚との質感が良く似合う。

コイケさんのひとこと

泥臭い果たし合い。

事務所のすぐ近所に住んでいるおばちゃんがマグカップを手にやってきた。
「お茶しない?」と突然現れたりする人なので、
今回もてっきりお茶を飲みに来たと思った。
手にあるのは、あれはマイカップなのかなと。ところがだ。
「来週から1か月家を空けるから、これ、預かってくれない?」
水をはったマグカップの中、メダカが2匹泳いでいた。
「預かってほしいっていうか、もうもらって。ね?」
ざっくりそんな経緯で、我が社アジアンビーハイブでは10月からメダカを飼っている。
実は以前にも、捨てられていた金魚を拾って家で飼ったことがある。
捨て犬ならぬ「捨て金魚」に出くわすあたりが、
いいんだか悪いんだかよくわからない奇妙なぼくの星まわりだ。

それにしても、2000年の暮れに訪れたあの出会いはシュールだった。
親友のTの葬儀から数日して、
彼が住んでいた白金のアパートに友人一同が集まったときのこと。
その場でTの持ち物のほとんどが「形見分け」としてもらわれていった。
そして最後に残ったのが、Tが飼っていた巨大なトカゲだった。
フトアゴヒゲトカゲというオーストラリアに生息する種で、
体長はきっかり50センチあった。名前はアギーという。
Tの生前に何度も見ていたが、触ったことはなかった。触りたいとも思わなかった。
「近くのペットショップにもらってもらおう」というのがその場にいた友人共通の意見だった。
もちろん、ぼくも含めて。しかし、車座の中央にいたTの兄はこう言った。
「いや、弟が大切にしていたペットだ。ここにいる誰かにもらってほしい」
さっきまでざわついていた部屋が、一瞬、水をうったようにしんと静まりかえった。
それからどのようにしてぼくがアギーを引き取ることになったのか、
実ははっきり憶えていないのだが、「ああ、そうゆうことなのね」みたいな
なかば諦観にも似た気持ちから、最後はぼくが自ら手を上げたかもしれない。
それから1時間後、ぼくはアギーを連れて目黒のマンションに戻り、
一緒に暮らしている彼女にどう言い訳したらいいものかと憔悴していた。
重ねて記すが、そのとき目の前にいたのは50センチもあるトカゲなのだ。
唐突にトゲだらけの首のまわりを風船みたいに膨らませる得体の知れない生物なのだ。
しかし彼女は、事情を話すと、「じゃあ、飼ってあげなきゃ」と
尋常ならざる寛容さを見せてくれたのだった。
エサのことやら住環境の設定やらなにやらで、最初の1か月は本当に大変だった。
でも、アギーが可愛く思えるようになるまで、さほどの時間はかからなかった。
その後4年続いたアギーとの生活は言葉に尽くせないほど楽しかった。
いま思うと、東京の生活で一番幸せな時期だったかもしれない。

身のまわりに起こるものごとすべてに意味があると考えるような宿命論者ではない。
でも、人であれ何であれ、縁あって巡り巡ってぼくのところにやってきたものは大切にしたい、
シンプルにそう思う。

この秋のコイケさんとのーちゃんとのご飯会。
コイケさんから「マチスタはできるだけ早く閉めた方がいいです」ときっぱり言われた。
のーちゃんはさすがに驚いたようだった。
でも、ぼくはそう言われるかもしれないと思っていた。
数字を把握していれば冷静に考えるまでもなく、至極まっとうな意見なのだ。
でも、コイケさんとしても飲食のプロとして40年もやってきた自負がある。
最後まで口にしたくはなかったはずだ。
それでもそれを言わせたのは、
ぼくにこれ以上の深い傷を負わせられないという思いからだったろうか。
しかし、ぼくはまだ身を引く気には到底なれなかった。
「やることをすべてやったという気がしないんです」
コイケさんとのーちゃんにはそう説明した。
実際、これからやろうとしてまだ手をつけていないこともあるにはあった。
もちろん、ここで引けるかという意地もある。
でも、幕を下ろすことに抗ったその根底には、もっとほかの、模糊とした、
理屈では説明できないようなものがあったように思う。
それに、刃はまだ骨に届いていないのだ、切らせる肉はもう少し残っている。
「まだ可能性はあります、気持ちをリセットして頑張りましょう!」
つまるところぼくのエゴなのだが、それでも彼らは
その翌日から新しいアイデアをいろいろと実践してくれた。
ぼくもオーダーの傾向を詳しく把握できるように、
オーダーチェックリストをつくるなどした。
そうした成果がすぐに数字に表れるとは思わないけど、
10月の売り上げが前月比で約20パーセントアップした。
黒字にはまだ遠いとはいえ、久々に明るい材料をもらった感じだ。
さらに数字は上昇するのか、20パーセントアップした状態で横ばいになるのか、
はたして下がって夏の赤字レベルに戻るのか、11月の現在の時点ではまだわからない。
マチスタはこれからが本当の勝負だ。

一瞬で決まる、居合い抜きのような勝負は美しい。
でも、ぼくのそれは、だいたい汗にまみれる泥臭い果たし合いだ。今回もそう。
そしてぼくは、まだ息もあがっていない。

冬以外は部屋で放し飼いの状態が多かったアギー。ベッドを足もとからはいのぼって、ぼくの顔を踏み台にして出窓に移動、そこから外を見るのが好きだった。

ペンギン夫婦の食堂は、 おっとりおっとり。 お客はゼロでも、 今日も誰かの笑い声がします。

「何これ? 芋に穴開けたの?」

みなさま、辺銀暁峰&愛理夫婦がモデルとなった
映画「ペンギン夫婦の作りかた」、ご覧になりましたか。
胃袋がキュンとなる、いや、もとい、
じんわりとハートがあったまる、ほんとうにいい映画でした。

おなかがすいた、という現実的な方もいれば、
結婚したくなった、早くおうちに帰りたくなった、なんて方も……。
何を隠そう、「ペンギン夫婦の作りかた」を撮った平林監督は、
この映画がきっかけで、同棲3年目にして、なんとプロポーズ&入籍!
そんなハッピーな報告まであったそうです。

そうなんです。不思議な映画なんです、これ。
映画を作った人も見た人も、話を聞いただけの人だって、
気がつけばハッピーになっている。そんな映画です。
まだの方、映画館に急いでくださいね。

さて、モデルとなった辺銀夫婦の物語はまだまだ続きます。
ちょっと話は戻りまして、「辺銀食堂」が始まった頃のこと。
この前もお話しした通り、移住の先輩でもある西やんと暁峰さんの2人で
何から何まで手作りしたうえ、
クーラーも、元々備えつけてあったのを使おうということになったため、
食堂オープンまでにかかった費用は
家賃と水道&電気工事を含めて、おおよそ100万円だったそう。

何という節約上手でしょう。って思いますよね。
ところが、タダよりこわいものはない。
食堂が始まって初めての夏、クーラーが壊れ、お客様は汗だらだら。
結局、新しいクーラー設置に100万円も支払う羽目になってしまいました。

愛理さん、島の人たちに、珍しい、おいしいものを食べてもらいたいと、
いろんなトライをしたそうです。

まず、レンコン。なんと、石垣島にはレンコンがない!
穫れないんですって。そこで、レンコンのお料理を出してみた。
「何これ? 芋に穴開けたの?」
みんな、びっくり。とっても喜んでもらいました。
それから、銀ダラ。南の島にはない、このおいしい魚をお出ししたいと、
東京の築地から鮮度のよいのを1尾送ってもらい、
銀ダラ三昧定食を作って出したのです。島の人は一切食べたことがない魚です。
「これ、腐ってない? 柔らかくてぬるぬるしてるけど、大丈夫?」
これまた、びっくりされたけれど、
評判は・・・(てんてんてん)だったそうです。

「知花食堂」

移住した当初、米原のキャンプ場に大好きなラーメン屋さんがあった。ラーメンにするか、知花食堂の味噌汁定食にするかいつも悩んだっけ(笑)。季節、季節で採れる青菜を入れてくれる具たくさんのお味噌汁が大好き! 八重山そばで作ってくれるソース焼そばもウンマ。テキパキとお料理をする知花食堂の知花文子(ちばなふみこ)おばちゃんに会いに、さぁ、ゴー! ゴー!(営業時間11:30~15:00売切れ次第終了)

「米原キャンプ場」

はい。一番通ったビーチは間違いなくここでしょうねぇ。なにせ、売店(夏季のみ)とトイレ、シャワーはあるし、レンタルのシュノーケルセットはあるし、アイスやお菓子、カップ麺も買える。また、売店の宏子ネーネーがでーじ優しいわけ。観光客の皆さんは海のキレイさと魚の多さにうっとりさね。

「トミーのぱん」

移住した当初は自転車と50ccバイクしかなかったから、パンを買いに米原まで行けなかった。友人やご近所が「アイリー!トミパン行くけどいる?」と声をかけてくれると「バゲットとミルクパン、ポテトと玉子もよろしくー!」と頼んだもんです。移住の大先輩でもある冨永三津夫さんと道子さんのお店は、海を見渡す気持ち良いヤマバレの橋の脇を入ったところで絶賛営業中!

「カリブカフェ」

早口言葉みたいな国「トリニダード・トバゴ」の公邸料理人経験をもつこーちゃん(柴川紘平)と麻衣子ちゃんのお店。2人とも辻調理師学校の卒業生。浅草の名店「大宮」で修行したこーちゃんのドミグラスは美味しいに決まってます! ダンナ様がシェフで奥様がパティシエ。食いしん坊には魅力的な組合せ。歳上ですが、養子にして頂けないですか? http://carib-cafe.sakura.ne.jp/

「福耳」

大阪出身の道下治子さんが11年前(2001年~)に始めた陶房。石垣島ラー油の茶壺バージョンを依頼しています。この5~6年ノリノリのシリーズ水牛の散歩は、白化粧をかけた後引っ掻いて絵を描く。ほっこり可愛い南の島の田園風景がたまりません。ご本人も「楽しくて、楽しくてたまらない!」とカリカリ描いていらっしゃいます。http://blog.goo.ne.jp/fukumimi985

「川平湾」

ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの3つ星を受賞した石垣イチの観光地。海の透明度は調子が良いと20m以上! 見えすぎてコワイくらいだが、グラスボートで湾内巡るには最高。近くに真珠の養殖場もあり、黒真珠と日本初のゴールドパールもゲットできる。潮の流れが早いので遊泳禁止ですよー!

「川平ファーム」

移住者の先輩でみんなの相談役でもある橋爪雅彦さん、淑子さんご夫婦。どれだけ相談に行き、どれだけ助けて頂いたことか…。どんなに忙しくてもいつも優しく、丁寧にお話しをしてくださるその真摯なお人柄は憧れです。橋爪さんご夫婦の様な心が広くてカッコイイ移住者になれるよう、私たちは猛烈努力中です。http://www.passion-jp.com/

第2回出張マチスタ

ヒトミちゃんとFA権。

第2回の出張マチスタは野外音楽フェスでの出店だった。
ステージの前に広がる円形の芝生広場を囲むようにして、飲食関連のブースが20ほど。
天気は申し分ない上に音楽が沖縄系というのもあって、
終始、ゆるい雰囲気が漂う和気あいあいとしたイベントだった。
それにしても天気がよすぎた。
気温は汗ばむほどで、ホットコーヒーを売るにはあまりに不向き。
それでも60杯を売り、焼き菓子も含めて売り上げは2万円を超えた。
しかし今回の最大の収穫は、
我が社アジアンビーハイブの才媛・ヒトミちゃんの有能なアシスタントぶりだった。
接客や会計だけでなく、人数分の豆をその都度測って渡してくれたり、
ポットに水を足したり机の上を掃除したりと実にマメで、
デザイン部門のみならずカフェ部門においても
ユーティリティプレイヤーたりえることを証明してくれた。
(これなら児島のオフィスで週末マチスタとかできたりするかも?)
そんな新しい展開のアイデアさえ浮かんできたほど。
でも、実はヒトミちゃんが来年以降も弊社のスタッフとして在籍しているかどうかは
いまのところ不明。彼女、年を明けたらFA権を取得することになっているのだ。

友人の画家・廣中薫さんからの誘いで、
半年間だけ一緒に岡山の専門学校でイラストコースのゼミを受け持ったことがある。
2007年のことだ。そのゼミを選択した生徒のひとりがヒトミちゃんだった。
生徒とはプライベートの付き合いも一切なかったので、
彼女ともろくに話をしたことのないままゼミを終了。
ところが、それから半年以上経って、偶然児島のカフェで再開した。
それを機に彼女の就職相談にのるようになった。
作品集づくりのアドバイスをしたり面接の練習をしたり。
知り合いのデザイン事務所を紹介して面接にも行った。
当時のことを実はそれほど詳しく憶えていないのだが、
ヒトミちゃんの話から察するに、
暮れが押し迫っても就職の展開は鳴かず飛ばずで、先にぼくが業を煮やしたカタチだ。
「じゃあ、うちに来るか?」
うちに来るもなにも、人を雇ったこともないし、
雇って給与を支払えるような仕事もしていなかった。
そこでぼくは彼女に正社員契約の条件をつけた。
卒業直後から1年間アルバイトをし、
毎日アルバイトが終わったらうちの事務所でデザインの勉強をすること。
その1年間でぼくは彼女を社員に迎えられるような態勢づくりを進めることができる。
ヒトミちゃんにとっても、他業種の仕事を経験したことは、
その後の人生において無駄じゃないだろう。
アルバイトには「事務職でない仕事を」という傍若無人なリクエストをしたこともあって、
ハードルを超える確率は五分五分と見ていた。
結局、彼女はお弁当のチェーン店でのアルバイトを見つけ、
毎日朝から午後2時まで割烹着姿で働き、3時からうちの事務所に通いつづけた。
「体力的にもたないのでは」との思いは杞憂だった。
少女マンガから抜け出したような容姿とは裏腹に、根性のすわった女子だった。
ぼくは春まで待つまでもないと判断し、翌年の1月から彼女を正社員とした。
しかし、彼女には早い段階からこう言っていた。
「3年間は社員として面倒をみる。でも、3年後には独立を考えなさい」
それぐらいの緊張感をもって仕事に臨んでほしいというのが言葉の真意だった。
しかし、そんなこともまた不要な配慮だった。
彼女はギネスブック級の頑張り屋さんだった。
いったんパソコンの前に座ったら根をはりめぐらしたかのようで、
おかげで会社の習慣として10時と3時には必ずコーヒータイムをとるようになった。
お昼には弁当持参で山や海に行ったり、夏にはかき氷を食べに行ったり、
結構外にも連れ出した。そうこうしながらも彼女は着々と力をつけ、
3年目に入った今年は、面倒を見ていたはずのぼくが面倒を見られる側に逆転した感がある。
実際、いまではヒトミちゃんなくして、
我が社アジアンビーハイブがいろんなところで支障をきたすのは明々白々。
それでも、「独立を考えなさい」なんてエラそうに言った手前、
正式にFAの交渉の場を持たざるをえなかった。

出張マチスタの翌週の平日、場所は児島の焼肉屋さん「ぽんきっき」。
安くて美味しいと地元で評判のお店である。
「転職して技術を磨くというのも手だし、独立しても十分やっていけると思う。
それだけの力はつけてる。
独立して自分でやっていく面白さも味わってもらいたい————あ、それ焦げてるけど」
ヒトミちゃんは肉のまわりに焦げが目立つぐらいによく焼かないと食べない。
美味しい肉はレアで食べなきゃ美味しさがわからないと思っているぼくは、
ヒトミちゃんの前にある肉の焼き加減が気になって仕方ない。
「でも、いまのアジアンビーハイブはマチスタのこともあって
ずっと苦しい状態が続いている。ヒトミちゃんには会社に残って、
一緒にやっていってほしいというのが正直なところなんだ————あ、これも焼けてるって」
こうしてぼくはヒトミちゃんに残留を提案した。
給与もボーナスもいまのままでは大幅なアップは望めないが、
それでもいてもらいたいと。
「なにが自分にいいのかわからないんです」
ヒトミちゃんは箸を置いて真剣な顔でそう言った。
彼女のたれの受け皿には、炭化しかけた肉の残骸のようなものがふた切れ重なっていた。
「自分がなにをしたいのか、フリーになりたいのかどうかもわからないんです」
「……じっくり考えたらいいよ。オレはヒトミちゃんがどう決断しようと、
それを尊重する。つき合い方が変わることもないから」
こうしてなんら決定のないまま、その日のFA交渉は終わった。
11月中にも次回の交渉の場をもつことになるだろう。その詳細はまたの回に! 

中央でコーヒーを淹れているのが筆者。ガスの炎の大きさがよく見えない、電圧が安定しないなど、野外ならではの苦労を味わいました。コーヒー自体は「美味しい!」と評判は上々でした。

年齢がふたまわり下のヒトミちゃんには、最初の半年ほどはやせるほど気を遣いました。あまりに気を遣いすぎているぼくを見て、写真家の安村崇さんが「孫とおじいちゃん」と評したほど。

マチスタ、秋のコーヒーは「アフリカン・キャンペーン」。深煎りにジンバブエ、浅煎りにカメルーンを用意しています。エチオピアやケニヤ、ルワンダとはまた異なるアフリカの味を是非この機会に! 

ペンギン夫婦は こつこつと食堂を作り、 ある日子ペンギンが ぷかぷかとやってきた。

こつこつ3か月。ついに店が開きます。

今回は、誕生ものがたりです。何が誕生するのでしょうか。

石垣島ラー油誕生が2000年春。
紆余曲折あった中、順調に売れ始めた、その年の12月、
辺銀暁峰&愛理夫婦は、かねてよりの念願だった食堂を開きます。
「いつか、お店を開きたいね」
というのは、結婚した頃からの夢でもありました。

料理を作るのが好きな2人にとって、
石垣島は、まさに食材のパラダイスでした。
知れば知るほど、広がっていく食材の世界にすっかり魅せられ、
東京で描いていた夢が一気に開いていきます。

食堂の場所は、石垣島のゆいロード沿いに決めました。
内装工事は、暁峰さんと、辺銀夫婦の友人が
何から何まで、こつこつ手作り。3か月かかりました。
店名は、まんまですが、「辺銀食堂」。この年は、石垣島ラー油と、
いろんな夢が詰まった、この小さな食堂が産声をあげたのです。

メニューの核は、辺銀夫婦お得意の餃子に決めました。
でも、ただの餃子ではありません。
日本中探しても、どこにもない、
島の食材を駆使した、五色の「島餃子」です。

「白」…小麦粉そのもの 具材…豚肉&島ラッキョウなど

「黒」…イカスミ入り 具材…豚肉&イカなど

「緑」…ホウレン草入り 具材…豚肉&ウイキョウなど

「赤」…赤ピーマン入り 具材…豚肉&葉ニンニクなど

「黄」…ウコン 具材…豚肉&レンコンなど

具材は季節によって、アダンの新芽や島ニラが入ったり、
ゴーヤー、ヨモギ、長命草、苦菜やホービーガンジューが入ったり。
彩りもにぎやかな上、元気な島野菜があれこれ入った、
いわば、命薬(ぬちぐすい)餃子。
これを油で焼かずに、ゆでて提供するのですから、
ヘルシーなこと、この上ありません。

それから、ジャージャンすば。
これは元々は、暁峰さんが北京のおばさんに教わった味。
こちらも、無かん水、無添加の
ペンギン食堂オリジナルすばを使い、島の食材をたっぷりと盛り込んで、
島ならではの味わいを生み出しました。

「普天間三味線店」

宮古島出身 普天間勲さんが営む三味線専門店。ほどよく寝かした黒木(黒檀)の原木から削り出したサンシンの音色は師範クラスの人たちの憧れ! 初心者からのサンシン教室の開催日等は直接お問い合わせを。

「横目三線」

白保で横目博二先生と貞子先生がご夫婦でサンシンと琴教室をしている。小学生は3年生までは無料。白保の豊年祭から東京のライヴまでこなすスーパー師匠ズのブログ「さこだ浜通信」もチェケラ!(撮影/秋野青)

「海のもの山のもの」

私たちが観光客で石垣島に訪れた時に、お土産として海山の商品を買いまくった。中でもローゼルを砂糖で漬けた「これなーに?」が大好き! 栽培から製造までこなす曽我さんご一家の生き方は私たちの憧れ。お孫さんまで楽しそうにお手伝いしてる。

「サイレントクラブ」

友人の須川裕美ちゃんが総支配人を務めるお洒落なプチホテル。白を基調にした洗練されたデザインは、服飾関係のオーナーさんのセンス。街から少し離れた場所だからこそ楽しめる満天の星空やプライベートビーチ&プールでのんびりしたい。ウェディングも人気。

「手打ちめん処 鍵」

うちの息子の誕生と共に開店したきしめん屋さん。鍵山晴雄さんと八智子さん、娘の宮城直美さんが切り盛り。オススメは三色きしめん天ぷら付きと卵とじきしめん。天ぷらにはご主人の畑で採れた野菜やハーブが使われる。ハイビスカスのツボミの天ぷらはここだけ。お昼だけの営業。

「玉取崎手前ヒージャーポイント」

数あるマイ・ヒージャー・スチールポイントのひとつ。毎回、新しい組合せとスタイルを披露してくれる。みんなで岩の、上にいたり、岩影にいたり。どんな写真が撮れるかは運次第。そんなんが、またいいね。

「玉取崎展望台」

「東シナ海と太平洋が一緒に見れるよー!」と言われて観光客時代に初めて見に行った。観光地だけど、全く人がいない時があり、のんびり読書をしたり、度々昼寝したことも懐かしい思い出。

田中啓子さん

阿蘇の山の麓に開いた、小さなレストラン。

阿蘇くまもと空港から車で一時間。車窓からの景色が緑濃くなると、
見えてくるのはカルデラに広がるのどかな田畑風景。
そして、それを取り囲むようにそびえる雄大な阿蘇の山々だ。
点々と別荘やお店が建ち並ぶ森のなかを登っていくと、可愛らしい木の看板と庭が現れた。
レストラン「ボンジュール・プロヴァンス」だ。
400坪の細長い敷地には、たくさんの木々やハーブ、花が植えられていて、
「バラだけで約100種類あるから、それ以上の植物があるはずだけど、もう数えきれないわね」
とチャーミングに話すのは、この店の主、田中啓子さん。
一緒に切り盛りする夫の信也さんと共に出迎えてくれた。
テラスが設けられ、窓も扉も開けっ放しと開放的な店内は、高原のさわやかな風が心地よい。
レストランの奥は田中さん夫妻の住まいになっている。

ボンジュールプロヴァンズの入り口。春になれば、庭は色とりどりの花でいっぱいになる。

田中さん夫妻がこの地に移り住み、レストランをオープンさせたのは1999年のこと。
もともと会社員だった信也さんと子ども3人と
熊本市内でマイホーム暮らしをしていた啓子さんは、
「いつか小さな飲食店を開きたい」と夢を抱いていた。
しかし、子どもが自立するまでは辛抱、と心に決めて、まずはコツコツと資金づくりに勤しんだ。
営業職として毎日忙しく働きながら、友人とのつきあいや遊びも我慢する節約生活。
「そうじゃないと、夢は叶わないと思いましたから」
息子たちが自立し、あとは娘が大学を卒業するのみと思っていた矢先、
娘から「パティシエを目指したいから大学を辞めたい」という相談をもちかけられた。
それを聞いた啓子さんは動揺するでもなく
「それなら、お母さんも仕事を辞める! って。それで、いよいよお店を開くことにしたんです」
かくして、51歳になった啓子さんは、長年あたためていた夢をスタートさせたのだ。

入り口を入るとすぐあるテラス。高原の風が気持ちよい。

チャーミングな笑顔が印象的な、啓子さん。

家族に支えられた、お店づくり。

まずは、阿蘇で土地探し。熊本市内よりも標高の高い阿蘇エリアは、
年平均気温が13℃と夏でも涼しく、自然豊かな環境だ。
「私は福岡の生まれですが、初めて訪れたときからこの阿蘇の自然と気候が大好きだったんです。
だから絶対、阿蘇にしようって決めていて。下調べでちょくちょく通っていました。
そのなかでも、この場所を選んだのは、ある本の写真と同じ景色が見えたからなんです」
と啓子さんは1冊の写真集を見せてくれた。
そこには、園芸や料理など、南フランスにあるプロヴァンス地方の日常風景が綴られている。
なるほど、店名にもしているし、やはり啓子さんはプロヴァンス地方にゆかりが? と伺うと、
「いえ、当時はプロヴァンスに行ったことはなかったんですよ(笑)。
娘が高校生のときにこの写真集をプレゼントしてくれたんですが、すごく素敵だなと思って。
以来ずっと、見たこともないプロヴァンスの暮らしに憧れてしまったんです。
ハーブもこれを見て勉強しました。お店を開くなら、こんな雰囲気にしようって思ったんです」
運命の土地を探し当てた啓子さんだったが、信也さんは反対。
今でこそ別荘やカフェなどが建ち並ぶこのエリアも、当時は何もないただの森だったから。
「最初はこんなところで店を出すなんて絶対うまくいかないと思って、反対したんですけど」
と言う信也さんに、「私はなーんにも不安はなかったんですよ」と啓子さんがさらりと返す。

テラス席から見える、阿蘇のカルデラの美しい田園風景。

プロヴァンス地方の風景が綴られている、啓子さん思い出の写真集と当時啓子さんが描いた図面。

ほどなく土地が決まり、次は住まい兼お店をどうつくるか。
啓子さんは見よう見まねで自ら設計図と庭の植栽図をひいて、
設計士に依頼すると、そのままの間取りで建ててくれることに。そして、1年をかけて完成した。
オープンしてすぐに信也さんも会社を辞めて、啓子さんをサポート。
お店の経営を軌道にのせながら、お金が貯まれば、テラスを増築して、住まいを整備していった。
母屋の隣にあるアトリエは、
陶芸家である娘の旦那さまと信也さんが建てたというから驚きだ。
「もう、同じものはつくれませんね」と信也さんは苦笑する。
家族とともに、長い年月をかけて、少しずつ、少しずつ手を入れてきた夢のかたち。
「だからちっともお金は貯まりませんよ。それでも、今はここでの暮らしがとても楽しいから。
満足しているんです」と啓子さんはにっこり笑う。

母屋の奥にあるアトリエ。ごつごつした壁の漆喰は、陶芸家である娘の旦那さまが仕上げたもの。

ボンジュール・プロヴァンスで使う素材は、ほとんど阿蘇でとれたもの。
なかでも野菜は、自然農法にこだわる宇都宮自然農園の有機野菜を使っているので、
旬の野菜が日替わりのサラダやスープにたっぷり使われる。
また、熊本特産のあか牛のすね肉をワインと塩とハーブだけで煮込んだ、
看板料理「ドーヴ・プロヴァンサル」は、前日から仕込み、毎日3時間かけて作る。
「専門的に習ったわけではないけれど、
素朴なフランスの家庭料理を楽しんでもらいたい」と啓子さん。
オープン以来、宣伝はせず口コミだけで広まっていったが、
ファンは増え続け、14年目の今もここに通うお客さんは絶えない。

かんこ踊り

奇祭・かんこ踊りを守るまちのチカラ。

三重県松阪市猟師町は、車1台通るのがやっとの狭い路地が入り組んでいる。
それだけに都会とは違って、隣近所とのつき合いも深い。
そのようなコミュニティを築き上げるのに、
年1回の盆踊り「かんこ踊り」が一役を買っている。

かんこ踊りとは、三重県に広く伝わる念仏踊り。
雅楽の楽器である羯鼓(かっこ)という太鼓を持って叩きながら踊ることが由来となり、
転訛して“かんこ踊り”と呼ばれている。
盆の時期に行われ、初盆を迎える先祖を供養する。
三重県に伝わるのは、かつてこの羯鼓が伊勢神宮で奏でられていたからと言われている。
県内でも地域ごとに異なったかたちで現存するかんこ踊りは、
古くは1000年以上前から伝わる郷土芸能であるが、
そもそも一子相伝で外にもらしてはいけないという慣習ゆえ、
全国的に広く知られているわけではない。
このような奇祭を、前出の松阪市猟師町、
そして伊勢市の佐八町と円座町で見ることができた。

猟師町の狭い路地を進んでいき、頭上に行灯がチラホラ見え始めると、
祭りの始まる空気が漂ってくる。まち全体がかんこ踊りを待ち望んでいるのだ。
まちの中心にある海念寺の境内に4人の若者が胸に羯鼓を持って並んだ。
周りで数人が音頭を取り始めると、
人々は4人が持つ太鼓に対して列をつくって並び、
その場にいるみんなが順番に叩き始める。
おじいちゃんから小学生まで、叩き方は全員マスターしているようだ。
小さな子どもに、小学校高学年のお姉さんが教えている姿がほほ笑ましい。

踊りの輪に向けて、遺影を掲げている。最後は笑って送りたいという気持ちだ。

しばらく経つと羯鼓を抱えていた青年たちが、顔にかんむり(さらし)を巻き始めた。
どんどん顔を覆っていくことで、個性を無くし、人間ではなくなっていくという。
「顔に巻いていくうちに、どんどん気持ちが入り込んでいきます。
そして精霊の使者になるんです」と教えてくれたのは、
猟師かんこ踊り保存会会長の八田謙介さん。
顔を完全に隠し、頭には桜の花をモチーフにした
「しゃぐま」(しゃごまともいう。形状は地域によって多種多様)
と呼ばれるかぶりもの、足下は素足。
このいでたちで各自胸に抱えた羯鼓を叩きながら、飛び上がって踊る。
躍動感あふれ、汗がほとばしるエネルギッシュな動き。
しかも、初盆の家庭を1軒ずつ訪れて踊るのである。
今年は39軒あったので、3日間にわけて1日13軒。
夕方から始まって、1軒につき所要約40〜50分。
終わるころには日は昇っている。3日間夜通し踊る、ハードな祭りだ。
ある1軒が終わると、次のお宅へみんなでぞろぞろ移動。
踊りの現場に合わせてまちごと移動しているかのようだ。

子どもの頃から当たり前に繰り返されるかんこ踊り。その存在はきっと理屈じゃない。
「子どもの頃から見ていてかっこいいと思っていました。
身近にあって、みんなが踊っているもの。
他所から言われて初めて、特殊なものなんだと気づいた」と語る八田さんだが、
しかし「このままではかんこ踊りが無くなると思った。
無くしたら猟師町が猟師町じゃなくなると感じた」と、
19歳のときに形骸化していた保存会を復活させた。
「みんな三重のなかでも、うちのかんこが一番やと思っていますよ。
誇りがある。だからこんなにひとが集まるし、かっこ悪いこともできない」

顔にさらしを巻いていく。子どものうちはひとに巻いてもらうが、慣れると自分でも巻けるようになる。

猟師町、佐八町、円座町……、まちごとに伝わるかんこ踊り。

現在行われているかんこ踊りでも、その長い歴史において、
一度途絶えてしまったものを復活させたというまちも多い。
そんななか、「終戦の年に1回休んだだけ」という強者のまちもある。
伊勢市佐八(そうち)町のかんこ踊り。
ここでは500年ほど前から伝承されている。
500年間ほぼ休まず、お盆にかんこが踊られてきた。

中央にたいまつが焚かれ、それを囲うように10数人〜20人程度の列が入場してくる。
通常の盆踊りに近いような陣形だが、姿形はこれまた異形。
馬のしっぽでつくられた「しゃぐま」を頭にかぶり、
垂れ下がった毛で顔を隠す。そして腰蓑を装着。もちろん胸には羯鼓だ。
写真だけみたら、ハワイか何処か南国の民族ダンスと間違えるかもしれないが、
ここは三重県の山のなか。
羯鼓を叩きながらクルクルと回るので、そのたびに腰蓑がスカートのようにフワッと開く。
踊っているのは25歳までの男性。
運営自体も小学校4年生から42歳の厄年までの男性に限られている。
着流しの音頭が数人ごとのユニットとなって歌い、
和太鼓や法螺貝なども鳴り、大変にぎやかだ。

およそ日本とは思えない衣装だが、これもルーツ・オブ・日本。

「佐八では、昔日本にたどりついた韃靼人が故郷を偲んで始めたとも伝えられています。
大火、大病をおさえるためとも言われています。
しかし実際のところは、記録が無いのでわかりません」と、
佐八町・前区長の小坂正通さん。

顔を隠すことの本当の意味はもはや知ることはできないが、
かつては外に広めてはいけないものだったということも関係しているかもしれない。
佐八町でも、踊っていいのは長男のみという一子相伝。
次男などが踊りをマスターしてしまうと、
将来、まちから出ていって踊りが漏れてしまうからだ。
「昔は、盗まれるといけないから、踊りの稽古も山で隠れてやっていましたよ」
というエピソードもあるくらい、厳重そのもの。

「もう、こわくてやめられない」なんて小坂さんは笑うが、
それもあながち冗談ではないだろう。
500年も踊られてきた伝統行事を、何の権利でやめることができようか。
「誰かが率先しているものは、
そのひとがやらなくなったりすると途絶えてしまうと思います。
しかし佐八では誰が中心ということなく、みんながやるという伝統で、
システムができ上がっています。
長男に生まれたからには踊らなければならないし、
次男なども火の番や受付など、さまざまな仕事をしています」
と小坂さんが言うように、何も疑問はなく、自然に行われていることなのだ。
これは松阪の猟師町にも共通して感じることだ。
伝統とは、意気込まず、自然に行われていることの繰り返しなのかもしれない。

4人一組になって歌う音頭。着流しで粋なスタイル。

猟師町、佐八町、円座町のいずれのかんこ踊りも三重県の無形文化財に登録されているが、
“無形”だけに、書面などの記録に残された伝承ではない。
だから起源も曖昧だし、音頭、踊りともに、失われてしまったものも多く、
それを取り戻すことはできない。
だから今重要なのは、現状のものを途絶えさせることなく、伝えていくこと。
その試みに大切なのは、誰かが上から仕組みをつくるのではなく、
地域から生まれる小さな力。
面白いことに、どちらも他の地域のかんこ踊りに詳しくない。
というより、ほとんど興味を持っていない。
「お盆に旅行なんて行ったことない」と猟師町の八田さんが笑う。
お盆は他のまちになんて行かない。我がまちのかんこ踊りに全力なのだ。

猟師町。

猟師町。

猟師町。

猟師町。

佐八町。

佐八町。

円座町。

円座町。

円座町。

猟師町のかんこ踊りが踊られる海念寺。

猟師かんこ踊り保存会会長の八田謙介さん。

大南信也さん

ちゃんと地域に“イン”するということ。

地方部の人口減少が叫ばれるなか、増加に転じたまちがある。
徳島駅から車で40分ほどの山間部にある人口6300人のまち、徳島県神山町。
ここ神山は2011年度、転出者が139人に対し転入者が150人と、
町の制定以来初めて転出者が転入者を上回った。
こうして注目される神山の陰に、NPO法人グリーンバレーの姿がある。
神山への移住を希望する人を支援し、地域としっかりつなぐことが彼らの仕事。
神山に数多くある古い空き家を、グリーンバレーが移住希望者に紹介し、
安値で住居やオフィス、アトリエとして使ってもらう。
そのグリーンバレーを立ち上げたのが、理事長として神山で日々奔走する大南信也さんだ。

神山が注目される理由は、移住希望者と神山のユニークなマッチング方法にもある。
「特定の物件についてですが、将来まちにとって必要な働き手を呼び込むために、
“逆指名権”をグリーンバレーが持ちます。
例えば、“神山でIT企業を起こしませんか?”“パン屋を開業する人はいませんか?”と、
特定の職種を逆指名するんです」と大南さん。
それが「ワーク・イン・レジデンス」という規格。
仕事を神山で探すのではなく、
既にスキルを持った人が仕事ごと神山にやってくるというイメージだ。
田舎暮らしに憧れて、という理由で移住する人ばかりでは、
持続可能な地域を築くことは難しいと考える大南さんたちグリーンバレーが、
ちゃんと若い人たちに定住してもらうには、と思案した上での「逆指名権」だった。
行政では決してできない「逆指名権」をNPOであるグリーンバレーが有することで、
窯焼きのパン屋、IT企業のサテライトオフィスや研修施設、
特産である梅を使った料理が自慢のカフェなどの誘致に成功し、
2008年以降約70人が移り住んだ。
爆発的に増えることはないが緩やかに右肩上がりに伸びていく移住者数。
順調に政策が進んだ理由について大南さんは、
「1999年から始めた“アーティスト・イン・レジデンス”のノウハウがあったことが、
“ワーク・イン・レジデンス”の導入にうまくつながったんです」と言う。

神山で生まれた大南さんは、高校で徳島市内、大学で東京、
大学院ではアメリカへ渡ったことで、「神山を客観的にみる機会が多かった」と話す。
スタンフォード大学大学院を修了後、故郷神山で家業の土木建設業を引き継ぎ、
その仕事の傍ら神山の国際交流事業に携わる。
「戦前にアメリカから神山の小学校に送られた
青い目の人形の『アリス』を送り主に届ける、いわゆる“里帰り”させたのがきっかけで、
神山は世界に目を向けた地域づくりに舵をきり、
神山町国際交流協会が発足します。これがグリーンバレーの前身です」
神山を真の国際文化村に。大南さんはアートを基軸にした神山イノベーションに乗り出す。
1992年のことだった。なぜアートだったのか?
「補助金などの支援策で人をまちに呼び込もうとすると失敗してしまうでしょう。
なぜなら、移住希望者は各自治体で提示される“条件”で選んでしまうから。
条件に惹かれて移住してきたとしても、
それがまちの力になるかといったらそうではない。
“まちの空気が好き”“まちと相性がいい”と言ってもらえるような
まちの雰囲気づくりが大切。アートはその雰囲気づくりの力を持っていると思いました」
もちろん大南さんも町民もアート作品を評価する専門家ではない。
だから必然的にアートそのものではなく、
遠く海を越えてでも神山で活動をしたいという高い志を持つアーティストたちに期待を込める。
「アート作品の金銭的価値を高めるのではなく、
神山で活動するアーティスト自身の価値を高めることを神山ではやっていきたい」
と大南さんは力強く話す。
やってくるアーティストにも、ちゃんと神山に“イン”することを求める。
地域と真剣に向き合い、神山に新しい価値をもたらしてくれる。
そんなアーティストを神山は求めている。

こうしてアーティスト・イン・レジデンスが始まった1999年以降、
毎年8月から3か月間、日本国内や海外から3名のアーティストが神山町に滞在している。
作品を制作し、11月初旬に展覧会を開催。
もちろんプログラムが終わったあとも希望すれば神山に住み続けられる。
応募者の8割が欧米を中心とした海外からなのだという。
こうしてアーティスト・イン・レジデンスを成功させ、
神山に外から人を受け入れるという気風と体制をつくった功績が町から認められ、
グリーンバレーは移住政策も受託することとなった。

プラスの落差が神山の魅力。

どんなに安く家やオフィスが借りられるとは言え、
それだけでは神山に移住したいという理由には直結しづらい。
それでもIT企業などからの熱視線が集まるのにはわけがある。
「ネットインフラは万全の状態で整えています。
神山では、全世帯高速光通信が使用でき、しかも都会みたいに回線が混雑することもない。
“こんな山のなかで光通信が使えるの!?” というプラスの意外性は感動につながるんです」
実は徳島県は2011年のケーブルテレビの普及率が
全国No.1というネットワーク王国の一面がある。
そのプラスの落差が神山の魅力でもあるのだ。

“落差”というところでもうひとつ話題にあがったのが、
神山の地域情報ウェブサイトの「イン神山」。
「イン神山のウェブサイトは、“デザインしすぎない”というのがコンセプトです。
ウェブデザインを依頼したリビングワールドの西村佳哲さんの
“イン神山のデザインモチーフはグリーンバレーの人たちそのもの”
という考え方がベースとなっています」
それでも神山で暮らす人々の健やかさを前面に出して
ウェブ上でそのままの姿を見せることにした。
その理由は、実際に神山に入ってきた人が、
ウェブで見た神山の様子との落差を感じてしまうからだと言う。
「イン神山は、“小窓”。神山に住んでいる人それぞれの生活が、
“小窓”を通してちらりちらりと見えるような感じです。
神山で生活している人の様子がここで見られるから、
実際に神山を見た感じとの落差がなく、見たままの神山を受け入れることができる。
だから、飾り立てする必要がないんです」

この“デザインしすぎない”という難しいウェブサイトの企画制作を手がけたのが、
西村佳哲さんや、トム・ヴィンセントさんだった。
彼らのアイデアやアドバイスを組み込んでできたサイトは、
グリーンバレーのスタッフによって毎日更新され、随所に人のぬくもりを感じる。
県外向けに特別なチラシもつくらない。海外向けの英語のパンフレットもつくらない。
神山の情報をぎゅっと集約させた「イン神山」が、
一番神山を知るのに最適なツールとなったのだ。

「世界の神山・アクセスログ」では、イン神山のサイトへの世界各地からの最新のアクセス状況を公開。国内からのアクセスだけでなく、海外からのアクセスも多いことが一目瞭然。

これから公募を始めるという古民家を見せてもらった。
ひと家族で住まうには充分すぎる広さ。使われ方はまだ構想中なのだと言う。
「過疎化、少子高齢化、経済の活性化という
地域の課題を解決できるような人に来てもらえれば」と大南さん。
これからこの家で、どんなファミリーがどんな将来設計を描き、
どう神山の人に迎えられるかが楽しみだ。

お遍路さんへのお接待文化の息づく神山町。昔から、よそから来た人でも抵抗なく受け入れる気質がある。

東京に本社がある株式会社ソノリテのサテライトオフィス。大きな窓からは陽がさんさんと降り注ぎ、目の前には畑も。

「神山の歌姫」こと宮城 愛さんは神山育ちでご両親が移住組。普段はこの長屋でセレクトショップを構える。

まちの中心地からもほど近い場所にある、現在空き家の蔵つき古民家。新たな移住者を迎える準備は着々と進んでいる。

深夜の行軍

コイケさんとのーちゃんとの食事会。

突然降ってわいたように長い距離を歩きたくなることがある。
20代の終わり、吉祥寺に住んでいた頃に吉祥寺から新宿まで歩いた。
7年前には市ヶ谷から中目黒まで歩いて帰ったこともある。
深夜、遊びに行った黒住光の部屋で一緒にDVDを見ていたら、
黒住が本格的にいびきをかいて寝はじめた。
それほど見たい映画でもなかったので、黒住を起こさず部屋を出たのだった。
この2回の深夜の行軍に共通しているのが、ともに月夜だったということ。

まさか岡山で終電に乗り遅れるなんて思いもしなかった。
午前0時20分。駅を出たところでタクシーはいくらでもいたが、
なんとはなしに歩き始めた。
しばらく歩くと、こころもち汗ばんだカラダに風はひんやりとして心地よかった。
なにより10月の月の明るいこと。
秋の澄んだ夜気と冴えわたるような月が呼び水となって、
ぼくは完全に夜の行軍モードに入っていた。
でも、実はそうやって気持ちよく歩けるのはせいぜい最初の1時間なのだ。
前の2回もそうだった。
とくに市ヶ谷から歩いて帰ったときは、表参道あたりで脚が重くなって、
でも「ここまで歩いたんだから」と無意味な意地をはり、
渋谷あたりからは歯をくいしばって歩いたのをよく憶えている。
さて、今回も意地をはるのか? 
はたまた、体力の衰えを認めてタクシーを拾うのか? 
分水嶺の国道2号線バイパス妹尾西交差点、時刻は午前1時半。
ぼくは、ちょっと遠回りだけどタクシーを拾えるかもしれない県道ではなく、
トラックが時速100キロで行き交う最短ルートのバイパスに足を踏み出した。

マチスタの営業がスタートして半年。
コイケさんとのーちゃんと3人でまともに食事をするのはそれが初めてだった。
のーちゃんがセレクトしたのは西川緑道沿いに新しくできた創作料理の店。
食事会は8時半にスタートした。
とりあえず、「おつかれさま」の乾杯。
その後、会話のネタはその場で出される料理、ほとんどそれのみだった。
細かなジャブも一切なし。潔癖なまでに誰もマチスタのことに触れようとしない。
話すべきことがまったく遡上に上がらないまま、
コイケさんは若干お眠のモードに入っているような。
これじゃいかんと、「最近のマチスタはどうですか?」と
向かうべきところに話の矛先を向けたのは10時も過ぎていた。
しかし、ぼくもコイケさんものーちゃんも、いったん店の話を始めると、
思っていることをわりとストレートに口にした。

断言しよう、バイパスというのは人が歩くようにできていない。
苦行のようだった。街灯の類は一切ないし、
1メートルぐらいのすれすれのところを
時速100キロ以上の猛スピードで車が走って行くし、
何年前に枯れたのかわからないような枯れ草がごっそり歩道にもたれかかっているし、
突然変な方向に歩道が逸れていたりするし。
当然、すれ違う人はいないと思いきや、
一度、さっそうと歩く男性とすれ違って思わず声をあげそうになった。
道は延々とのぼり坂が続いていた。脚はまさに鉛のようで、
一歩前に出すごとにその重みを感じていた。
普段車で走っているときは、ホントあっという間に越えてしまって、
それが山であることも認識できないほどなのに、
その夜はぼくの前に立ちふさがっておわせられた。

お互いの間に結構な溝をつくってしまったようだった。
誰が悪いって、ぼくが悪い。
5月の連休以降、仕事の忙しさや体調の悪さにかまけて、
マチスタにほとんど顔を出していなかったのだから。
それだけじゃなく、コイケさんとのーちゃんの提案をむげに却下したこともある。
そんなことも何度かあり、「どうせ言っても無駄」という雰囲気をつくってしまったらしい。
もちろん、ぼくなりに考えあってのことだったんだけど、
それを理解してもらうように努力しなきゃいけなかった。
しかし、その夜も話題になった営業時間については、
「そのまま後ろに数時間スライドさせた方がいい」という
コイケさんとのーちゃんの意見は受け入れなかった。
枝葉の部分は積極的に変えていいと思っているけど、
幹の部分は動かしたくない。と、そんなこんなのやりとりをしていると
時間が過ぎるのも早い。あっという間に12時近くになった。
ぼくたち3人は店の前で別れ、ぼくはそのまま歩いて駅に向かった。

早島のアパートに到着したのは午前2時50分。
途中、何度も両のふくらはぎがつりそうになった。カラダはもう限界だった。
約2時間半の行軍の間、ぼくはマチスタのことだけを考えていた。
どうやったら彼らとの間にできた溝を埋め、
さらに高いモチベーションで店を運営してもらうことができるか。
普段、そんなふうにひとつ考えに集中することもないので、
カラダは疲れきっていても、脳は変な具合に覚醒していた。
(さて、今晩は眠れんかもしれん。)
そんなことも思ったりしたのだが、布団に入ったが最後、2秒で眠りについたのだった。

10月21日の日曜日、2度目となる出張マチスタやります。場所は岡山サウスヴィレッジ(南区片岡)。午前11時から午後4時までの5時間。ヒトミちゃんとぼくがコーヒーを淹れます。このポスターが目印です。

『BRUTUS』最新号のコーヒー特集で、福岡と岡山のコーヒー事情を書かせてもらっています。紹介したお店に記事を見てお客さんが来てくれたら嬉しい。取材にご協力いただいた福岡・岡山のみなさん、どうもありがとう!

タミゼ クロイソ

黒磯の文化を自然体の暮らしで継承する。

かつては、天皇陛下が御用邸へと向かう駅として賑わった黒磯駅。
そこから歩いてほどなく、古いガレージのような色あせた建物が現れる。
外から中をうかがい知ることはできないが、
建物の前にあるグリーンや薪の並べ方に洗練されたセンスを感じる。
ここは東京にも店舗を構える古道具店、タミゼの黒磯店。
そして店主の吉田昌太郎さんの住居も兼ねている。

吉田さんはもともと、このショップから数百メートル離れた場所で
生まれ育った黒磯ローカル。
昭和天皇が黒磯駅に降り立ち、それを歓迎する地元民。
そんな賑わいを子ども心に感じつつ、新幹線の駅が隣の那須塩原駅にできてからの
寂れていく過程も同時に見て育った。そこに一抹の寂しさを感じるのは当然だ。

かつては古い蔵などもたくさんあったのだが、
今、その多くは駐車場などに変わっている。
「駐車場なら儲かるだろうという安易な発想で
歴史のある建物が壊されてしまうのは、古道具屋としてはしのびない」
と言う店主の吉田昌太郎さんは、ひとつひとつにあったはずの歴史を思い、
「こういう建物を残すことも僕の役目のひとつ。ただ物を売るだけではなく、
まちの歴史や文化もともに助けていきたい」と言う。
確かに壊されてしまっては、歴史は語れない。

天井が高く、商品を見るにも気持ちがいい。むき出しの梁に歴史を感じる。

もともとこの建物は昭和初期に建てられ、タクシー会社の車庫と整備工場だった。
子どもの頃からこのタクシー会社の前を通っていたが、
古道具屋の視点でこの建物を意識し始めたのは10年ほど前から。
古いものを愛でる感覚は、お猪口だろうが、建物だろうが同じ。
その感性がたまたまこの建物を捉えた。
タクシー会社が30年以上前の家賃で借りたまま、ほとんど使われていなかったのだ。
「不動産屋さんがおじいちゃんだったため、
僕の活動を説明しても、いまいち理解してもらえなかったんです。
何度か交渉しても、面倒くさがって後回しにされていたんです。
あるときタクシー会社のオーナーが代わり、その新しいオーナーに相談したら、
使っていないので、ということで僕たちが使わせてもらうことになったんです。
3年越しで借りられるようになりました」と、黒磯出身の吉田さんでも、
地域に入っていくのに苦労があった。

店舗に入ると、天井が高く、大きな倉庫のよう。
空間を贅沢に使い、小物やインテリアなど、古道具が鎮座している。
ピクニック用のトートバッグ、別荘用の白ワインを入れるピッチャーや花瓶、
旅帰りに電車のなかで読む本や詩集など。
東京の店舗はもう少しマニアックな品揃えだが、
黒磯店では、立地や店舗自体の大きさを活かしたセレクトを提案している。
もの選びの視点は同じだが、より身近で手頃なものが多い。
「東京ではあり得ない、のびのび楽しいゆとりのある生活のため」と
吉田さんは表現する。

「観光案内所」と呼んでいる黒板には、吉田さんオススメの飲食店情報も。

スペースシャトルにも積み込まれたことのある「パン・アキモト」の缶詰は、オリジナルラベルで発売。

黒磯で楽しく暮らす意義とは?

ときに、吉田さんはこの店の前の木陰でバーベキューしたり、本を読んだり、
朝食を食べたり、コーヒーをフィルターで淹れたりしている。
「地元のひとからは“何してるんだ?”って感じで見られますね。
昔ながらの素敵なことを普通にやっているだけですが、
これは僕なりにまちのひとに刺激を与えているつもりです」
そういう楽しみ方を失ってしまっている。
地方都市は、車でコンビニに行って、アウトレットに行って、
パチンコ屋に行ってという生活になりがちだ。
「都会のひとのほうが趣味や生活を楽しむということに長けていますよね」と
吉田さんは自分の行動を通して、
豊かなライフスタイルや自然の使い方を感じてほしいと願う。

東京の店舗も、黒磯の店舗もどちらも運営しなくてはならない。
はじめは商売的なことよりも、別荘的な感覚だったという。
主な住まいは東京。恵比寿の店舗は火曜から日曜日にオープンしているが、
日曜日はアルバイトに任せ、
朝は蚤の市に仕入れに行き、13時には黒磯に来て店を開ける。
日曜・月曜と黒磯で過ごし、火曜日の午前中に東京に帰るという生活。
吉田さんの休みはナシになるが、黒磯ではある程度奥さんに店番を頼み、
フライフィッシングやジョギングなど、メリハリのある二重生活を送っている。
そして黒磯では自分たちで薪割りや、家のちょっとした大工仕事など、
“家事”が東京より多い。
暑ければ換気を施し、寒ければ熱を閉じこめる工夫をしなければならない。
すごく当たり前のこと。今年の夏も、窓をひとつ開けた。

自宅スペースは、白を基調に、窓も大きいので明るい。

冬は寒い那須、暖炉は必需品。

そんな住居スペースは、店舗と隣り合わせだが、
ガラスで仕切られているだけなので丸見えだ。
生活感を感じさせるコーディネートで、洗練された家具や食器が並ぶ様は、
タミゼの世界観を凝縮したモデルルームと言ってもいいかもしれない。
豊かな生活を提案するという基準で、使って楽しむこと。
「これらのお皿やナイフを使うことで、生活に潤いを与え、
歴史とか文化の楽しさや重さを感じてもらいたい。
そうすれば、料理がさらにおいしくなったりします」

自分の育ったまちの文化を残しながら、
しかも、より豊かなライフスタイルを提案する。
それは今は個人の暮らしぶりかもしれないけれど、
地元・黒磯に影響を与えるくらい愛情がたっぷりなのだ。

TOKYO BAY A GO-GO!!

東京都『TOKYO BAY A GO-GO!!』
発行/108UNITED

「東京湾」をテーマにした海のエンタテイメント・マガジン『TOKYO BAY A GO-GO!!』。創刊号は、東京湾にやってきたジンベエザメを大特集。東京湾の生態系の豊かさにきっと驚くはず。iPhone/iPad版も無料です。

TOKYO BAY A GO-GO!! 
iPhone/iPad版ダウンロード

発行日/2012.5

ジローちゃんのライブ

植木職人だったころ。

兄から手紙なんかもらったのは、後にも先にもあれきりだ。
1986年の秋、大学にはまったく顔も出さず、
世田谷の植木屋で働いていたときのことである。

ユタカくん、植木職人になるそうですね。
お前は昔から少し変わっていたから、なるほどユタカらしい選択だと思いました。
でも、一方的にそれを告げられた父と母の気持ちを考えたことがありますか?
うちが経済的にまったく余裕がないことはよく知っていると思います。
それでも両親はお前を東京の私大にやり、
4年もの間少なからずの額の仕送りもしてきました。
そんな彼らがお前にどれだけ期待をしていたか、考えたことがありますか?
もちろん、ああゆう人たちだから、
今後もお前のことに口を挟むようなことはしないでしょう。
でも、父も母もお前のこのたびの決断におおいに失望しています。
もう一度考え直すことはできませんか?

雰囲気こんな感じの内容だった。
いかにも教員らしい、説教くさい文言が便せん3枚にびっしり書かれていた。
ぼくは無理矢理いびつなカタチに固められたシャービックにでもなったような気がした。
これじゃまるっきり典型的な「出来の悪い弟」じゃないか。
それにしても、こんなに『出来のいい兄』気取りのことがよく書けたなと
ほとほと感心した。親にかけた心配を累積したら、
兄こそメジャー、ヤンキースのクリーンナップクラスなのだ。
それに、「植木職人のどこが悪い?」という反発する思いもあった。
当時、すでに1年近く働いていたぼくは、植木屋の仕事に惚れこんでいたのだ。
とはいうものの、「貧しい」とか「仕送り」とか「親の苦労」といったいくつかのワードが、
いちいちグサリとガラスの破片みたいに心に刺さったのも事実だった。
実際、うちの両親は苦労していた。
それを知っていたから、留年するとわかったときに「仕送りはもういらない」と断った。
そして、生活費を稼ぐために探した仕事がたまたま植木屋だったというわけなんだけど。

「こりゃあれだな、一回どこかに就職したほうがいいんじゃねえか?」
場所は明大前の居酒屋、目の前には当時しょっちゅう一緒に遊んでいた
植木屋の先輩のシンちゃん。そしてその隣に斉藤さん。
ぼくは彼らに兄からもらった手紙のことを話したのだった。
「それでよ、やっぱりダメだってんなら、そんとき戻ってきたらいいんだよ。
植木屋なんて、いつでもなれんだからよ」
シンちゃんがそう言って、斉藤さんが大きくうなずいた。
ふたりの意見をすぐにすんなりと受け入れたわけでもなかったんだけど、
結果、そのように考えるようになっていった。
そして、急遽就職活動を始めたのが11月。
当然、学校にも求人はほとんどなく、
就職課の職員からは「あるわけないでしょ、この時期に」とあきれ顔で言われながら、
それでも「これでも受けてみたら」と素っ気なくわたされたのが、
青山にある編集プロダクションの2次だか3次だかの募集の要項だった————。

もしもあのとき、兄から手紙をもらわなかったら。
もしもあのまま植木職人になっていたらと考える。
ぼくは東京の下町の2DKのアパートに住み、
猫の額ほどの小さなベランダには仕事で身につけている脚絆や足袋が干してある。
3人の子どもはみんなぼくのことが大好きで、
ぼくが仕事から帰るとまとわりついてしばらく離れない。
奥さんも子どもに負けず明るくて、毎朝弁当を作ってぼくを送り出してくれる。
スライディング・ドアを一枚隔てたぼくの生活は、つつましくも幸せそうだ。
いまも高松で植木屋をやっているジローちゃんのレゲエを聴きながら、
ぼくはそんなこっ恥ずかしい想像をめぐらせていたのだった。

マチスタ初のイベント、「コーヒー&レゲエナイト vol.1」。
ジローちゃんのライブはとてもよかった。
鼻にかかった声が素朴な歌い方にマッチしていて、巧くはないんだけど、
適度な情感も感じさせてくれた。
カフェリコの稲本さんに焙煎してもらったジャマイカのコーヒーも格別だった。
それもそのはず、ジャマイカというと最高級コーヒーのブルーマウンテンらしく、
ライブの直前にコイケさんから「原価がうちのコーヒーの3倍ですよ、
喫茶店で出したら1000円以上のコーヒーですよ!」と笑顔で軽くしかられたのだった。
ちなみに当日の入場料はそのブルマンが一杯ついて800円。
赤字は逃れられそうにない。でも、来てくれた人たちがみんな喜んでくれたのでよかった。
子どもたちまでそれなりに楽しんでくれた。
なにより、ぼくの植木屋時代の先輩のジローちゃんが
「またやろうぜ!」と言ってくれたのが嬉しかった。
参加人数は約20人と決して多くなかったが、
秋の夜の、実にマチスタらしいイベントだった。

大丈夫。ぼくのいまの人生も、そんなに悪いもんじゃない。

ホント、いい感じでした。高松からジローちゃんを迎えての「コーヒー&レゲエナイト」。vol.1としたからには、きっとvol.2もあるでしょう。来年の春あたりかな。

コロナを飲みながら切々と歌うジローちゃんの横で、しらふのコイケさんが淡々とコーヒーを淹れる。まさにレゲエとコーヒーの競演! 新しいパフォーマンスを見るようでした。

10月をホットドック強化月間とすることにしました。熱々の肉汁が飛び出してヤバいソーセージに、特別に焼いてもらっている天然酵母のパン。絶対美味しいけん! 今回のポップもデザインはヒトミちゃん。グッジョ!

フォトいばらき 2012年秋季号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

茨城県が発行する『フォトいばらき』の秋の最新号では、茨城の特産「コシヒカリ」を特集。最高品質のコシヒカリをつくる生産者へのインタビューや読者のフォトギャラリーなど、茨城の魅力が満載。美しい実りの秋をたくさんの写真とともにお届けします。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2012.10

ペンギン夫婦 石垣島の命の薬を、 ラー油ボトルに ギュッと詰め込む。

島の食にも強く心をひかれ。

さぁ、いよいよ、今回は、あの石垣島ラー油のお話です。
「あの」という言葉には、いろんな意味が含まれます。
「あの」と言われるようになるまで、
辺銀暁峰、愛理夫妻には、いくつもの物語がありました。

ラー油つくりが、ふたりの趣味だったことはお話しましたよね。
ペンギンに生まれ変わってからも、それは変わりませんでした。
いや、ますます磨きがかかっていました。

石垣島で暮らすようになったふたりにとって、
見るもの、聞くもの、すべてが新鮮で、驚くことばかり。
とくに、島独特の野菜や香辛料には、強く心をひかれました。

お日さまの力と、土の栄養をたっぷりと吸い込み、
海からの風をはらんで、ともかく元気がいい。だから、体が喜ぶ。うれしくなる。
島唐辛子やウコンを入れたら、島ならではの、ご当地ラー油ができるんじゃないの。
そう思ったら、もうすでにつくり始めていました。

今でこそ、ラー油といっても、
いろんなバラエティがあるんだなと、わかりますが、
当時は、小さな瓶に入った、赤い辛い油しかありません。
でも、その頃からふたりは、ご当地ラー油と称して、
ワサビを入れた伊豆ラー油、ピーナツを入れた千葉ラー油、
なんてつくって遊んでいました。

いろんなものを入れて、いくらでも楽しめる。それが、彼ら独自のラー油でした。
ここでつくるなら、当然、「石垣島ラー油」でしょう。
もうすでに、ネーミングはできていたってわけです。

「ペンギン食堂」

1999年に新栄町の自宅で作った「石垣島ラー油」が少しずつ売れ始め、二足のわらじを約1年続けた後、2000年12月に「ペンギン食堂」をオープン。なんと、3か月もトンカン、トンカンDIY三昧。カウンターとイスは西やんこと西田勝紀さんの道具をお借り&習いながら、なんとかつくりました。たったひとつのテーブルとイスは今は移住された「木と鉄」の須田さんの作品。ペンギン旦那ちゃんが生まれて初めてつくったカウンター用のハイチェアーは、バランスが悪く、何人かイスから転げ落ちたっけ! けが人をだしたらデージ、と結局、須田さんにカウンター用のイスも頼みました(笑)。

「石垣島ラー油工房」

第一工房は新栄町の元自宅、第二工房はペンギン食堂のテーブル席、第三工房は現ひびの針灸整骨院、第四工房はペン食の2階。だから、今のビルは第五工房になるさね。その第一から手伝ってくれてるのが工房長のまち子ネーネーと副工房長の立美ネーネー。感謝してもしきれません。

ギャラリー&雑貨カフェ「石垣ペンギン」

ペンギン食堂の2階の工房でラー油を販売していた時、お客様が大川交番まで並ばれることがあり、完全予約制を導入。そこで石ラー販売所として「石ペン」をオープン。観光客の方には沖縄アート雑貨を、島の方にはセレクトした生活雑貨をお届けしたい、と奮闘中。

「南風(パイカジ)」

尊敬してる長浜京子ネーネーのお店。自分で器も焼いてしまう京子ネーネーがつくる「揚げ島豆腐」、「ヒラヤーチー」、「島ラッキョウの味噌炒め」は涙がでるほど美味しい。いつも混んでいるので予約をしたほうがマル。

「南嶋民芸」

移住した当時から大好きなお店。崎原毅さんの凧の話、民具の話はかなり面白い。ソテツの葉で作る虫かごのつくり方を習ったのもここ。豊永盛人の琉球はりこ作品も多い。

ヤマイエヒト

半分、この土地で働き、暮らしてみる。

「大地の芸術祭」のメイン開催地でもある新潟県十日町市松代。
「農舞台」のあるまつだい駅のほど近く、ほくほく通りに
「山ノ家」という名のカフェ&ドミトリーがオープンした。
古民家のような外観だが、入ってみると外観のイメージとはまた違った
洗練された内装で、居心地のいい空間が広がる。
1階がイベントなども開催できる多目的スペースとしてのカフェ、
2階はアーティストが制作のために滞在できるレジデンスと、
旅人のための簡易宿泊施設になっている。
無線LAN完備で、カフェではノートパソコンを開く人がちらほら。

山ノ家プロジェクトの母体となっているのは、
このプロジェクトのために立ち上げられた社団法人「ヤマイエヒト」。
立ち上げメンバーの河村和紀さん(写真右)、後藤寿和さん(写真中央)、
池田史子さん(写真左)は、もともと東京の恵比寿で活動する、
地域在住在勤のクリエイターたちがゆるやかに連係し、協力し合うコミュニティ
「START EBISU」の仲間たち。河村さんの本業は映像制作、
後藤さんは空間デザイン、池田さんはアートやデザインプロジェクトの企画制作だ。

この場所との縁は、河村さんの知人で、
学生時代から地域活性コンサルティングをしていた佐野哲史さんが発端。
十日町市内の別のエリアで古民家再生プロジェクトを推進していた佐野さんは、
この松代のプロジェクトを引き受けた直後に起きた東日本大震災の復興のために
急遽東北に赴くことになり、松代の空き家プロジェクトを引き継いでもらえないかと
河村さんに相談。河村さんは場とコンテンツのクリエーションサポーターとして、
旧知の後藤さんと池田さんに声をかけた。
まずは現地を見てみようとこの空き家を訪れた3人は、
この場所に直観的に大きな可能性を感じたという。
「僕は映像の仕事をしていて、これまでもいろいろな地域に行ったことがあるのですが、
ここは単なるいなかまちじゃないな、と最初から強い確信を持ちました」(河村さん)
「これまでにも芸術祭を見にこの地に来たことはあり、
ローカルと現代アートが共存している状況をとてもリスペクトしていましたが、
その膨大なアート作品を抜きにしても、とにかく自然や大地そのものの磁場が
すごく強いところだとあらためて感じました」(池田さん)

もともと大地の芸術祭のオフィシャルプロジェクトでも、
空き家そのものをアートワークとしてリ・クリエイトしたり、
土壁を塗り直すことで新たに建築としての再生を促すプロジェクトなどが
先行して取り組まれていた。この山ノ家が面するほくほく通りでは、
長年この地に居住し活動しているドイツ人建築家のカール・ベンクスさんが、
通り沿いの民家を昔ながらの建築様式に外装改修するプロジェクトを、
市と共にちょうどスタートさせたところで、
この空き家はその改修プロジェクトの助成対象家屋だった。
単なる1軒の空き家のリノベーションではなく、
地域内の複数の場所にコミットしていく過程で、そこに人が集ったり、
その場所が活性化していくしくみがつくれるのではないか、というのだ。

そもそも、前出の佐野さんにその空き家プロジェクトを紹介したのは、
大地の芸術祭の現場運営の母体であるNPO「越後妻有里山協働機構」の理事長であり、
地元の地域活性の旗ふり役として活躍している若井明夫さん。
若井さんと出会い、話し合いを重ねていくなかで、この地で何かを生み出していく
原動力になることが求められているのだということを体感した3人は、
”良きヨソモノ”として、元来の活動本拠地である首都圏とこのエリアとを
往還するライフスタイルを実験をしてみようということになった。
従来型の、ローカルへのややエスケープ的、もしくは自己犠牲的な完全移住ではなく、
都市とローカルの価値を同等に享受し、都市⇔里山を行き来する
「移民」と自分たちを定義し、方向性が固まった。
こうして、プロジェクトの発端をつくった佐野さんと、
地元の強力なサポーター若井さんを顧問に、
河村さん、後藤さん、池田さんで、社団法人ヤマイエヒトを設立し、
拠点となる山ノ家の企画運営母体となる組織「MPM」も、
同じメンバーで同時に立ち上げることとなった。

外観は助成のルールに沿った設計だが、内装のディレクションはふだん空間デザインの仕事をしている後藤さんが手がけた。地元の工務店や大工さんたちの手を借りながら、これまでも東京での地域展覧会構成を協働した仲間たちや有志の“インターン”が集結し、のべ30名を超える若者たちと共にセルフビルドして、2012年8月に完成。

複数の拠点を持つ、ということ。

場所はある。ではこの場所で、何をやるべきかと考えた。
「いろいろとやることを想定しつつ調べてみたら、やはりすでに大地の芸術祭で、
たいていのことはやってしまっているんですよね。
じゃあ僕らがやれることって何だろうと、もう一度考え直したんです。
そのなかで出てきたアイデアが、背伸びしない、僕たちの日常。
東京の日常の延長のような場所として、いかに特別じゃないかということを
やろうと思いました」(後藤さん)
十日町の風景に触れ、ここの空気を吸うだけで、自然と非日常にスイッチは切り替わる。
けれど山ノ家に入れば、無線LANは自由に使えるし、おいしいコーヒーも飲める。
東京では当たり前になっていることも、この土地ではまだ貴重だ。
「実は、移民たちのカフェというのが裏テーマ。
ここで出す料理は地元でとれた素材を使っていますが、郷土料理ではなくて、
私たちが日常的に食べているもの。
妻有ポークを使って、中近東風のハンバーグをつくっちゃおうとか。
地元の食材に自分たちの感覚をかけ合わせたらどうなるか。
けっこうみなさん、おいしいと言って食べに来てくれますよ」(池田さん)

東京と十日町を行ったり来たり、となるとネックは移動の問題だが、
実は十日町市が、農業体験をする人や十日町で働く人のために、
東京と十日町をつなぐ無料の往復バスを週末だけ運行させている。
山ノ家で働いているスタッフも、東京方面からそのバスを利用して来ているそう。
おもにアートや建築を学ぶ学生さんたちに、いわばインターンとして来てもらう。
彼ら、彼女らにしてみれば滞在費はほとんどかからないし、おいしいごはんが食べられて、
いろいろな人に出会え、オフの日は芸術祭を見て回ることもできる。
お互いハッピーというわけ。
「土地の持つパワーがあり、芸術祭があることで
カルチャーインフラがすでに存在していたこと、そして移動のシステム。
この3つがあるから、この場所が成立しえたと思います」(池田さん)

十日町の面積は、東京23区と同じくらいだが、
人口密度は1キロ平方メートルあたり十日町が100人弱なのに対し、
東京は6000人と、ものすごい差だ。
「ある時代の流れのなかで、人にしろ情報にしろ、
高密度であることが善になっていったのだと思いますが、
3.11以降は特に、それだけでいいのだろうかという考えが強くなってきたと思います。
僕らも根底にそういう思いがなかったら、ここに来ていなかったかもしれない」(後藤さん)

でも、3人は東京を捨てたわけではない。あくまで、拠点が増えたということ。
「帰れる場所が複数あったほうがいいんじゃないかと思うんです。
いまも週に一度くらいは東京に戻っていて、東京の利便さも手放していないけど、
こちらの生活も満喫しています。
ホームグラウンドが倍になって、ダブルローカルという感じ。
次はトリプルローカルにできればと思っています」(池田さん)
震災後に移住した人は少なくないが、移住に踏み切れないでいる人はもっと多いはず。
“東京かローカルか”ではなく、こういうライフスタイルも、
選択肢のひとつとして考えてもいいはずだ。
「人口密度の高いところと低いところを行き来するのが重要なのではと思っています。
移動にはコストも時間もかかりますが、みんながどれだけ快適に移動できるかという
しかけづくりもしていきたいと考えています」(河村さん)

キッチンでは朝からスタッフがせわしなく動き回っていた。アートや建築を学ぶ学生のインターンも多い。

山ノ家でいただく朝ごはん。万願寺唐辛子と鶏肉のハーブ焼き、塩豆腐、まいたけご飯、みそ汁。このあたりでとれた素材で自分たちが食べたいものを。

「茶もっこ」文化があったから。

山ノ家を立ち上げるにあたってキーパーソンとなったのが、先述の若井明夫さん。
池田さんいわく「シンクグローバル、アクトローカルの権化のような人」で、
完全無農薬農法で農業をしたり、どぶろく特区制度の認定を全国で最初に取得したりと、
バイタリティあふれる人。
山ノ家で出すみそ汁は、若井さんの畑でとれた大豆でつくった自家製のみそを使っている。
その若井さんのアイデアからできた「ほくほく茶もっこウォーク」という
ストリートマップが置いてあった。
ほくほく通りは江戸時代から街道筋として栄え、旅人が来ては休んでいくエリアだった。
このあたりには、旅人たちにあたたかく声をかけ、お茶でも飲みながら話をする
「茶もっこ」とよばれる文化が古くからあり、それを復活させて
外から来た人に体験してもらおうと、茶もっこができる場所をマップにしたのだ。
「僕らが初めてこの場所を見に来たときに、向かいの方がひょこっと出てきて、
“何しに来たの?”と聞かれたんです。ここで何かやろうと思って、と話すと、
ふた言目には“まあコーヒーでも飲んで行け”と(笑)。
それが最初の体験としてすごく印象的でした」(後藤さん)
「もともとここには茶もっこの文化があったから、
外から来る人に対してオープンハートなんです。
このマップはほくほく通りの有志でつくったんですが、
こういうことがやりたいけど最初はみなさんどうしたらいいのかわからない。
じゃあ私たちがお手伝いできることがあるので、やりましょうと。
私たちは逆に、畑のことや雪の下ろし方を教えてもらったり。
お互い助け合っています」(池田さん)

まずは、新しい拠点ができた。
第2フェーズとしては、芸術祭が終わったあと、秋から冬にかけて
自分たちオリジナルのイベントやプロジェクトを発信していこうと、3人は考えている。
「実は、オフシーズンの妻有も楽しいんですよ。
芸術祭の会期中でなくても見られる作品もあるので、
オフシーズンの妻有アートツアーみたいなものができないかとか。
あと私たちはもともと映像やメディアアートのネットワークがあるので、
冬は雪原にプロジェクションマッピングをしたり、雪の中でのサウンドとビジュアルの
アート祭りをやりたいなとか、いろいろ考えています」(池田さん)

イベントだけではなく、ジャムのプロジェクトも進行中。
それも若井さんのアイデアで、休耕地に木の実がなる木を植えて、
その野生に近い木の実でジャムをつくるというもの。
畑は人手が足りなくなるとどうしても休耕地が増えてしまうが、
ほとんど手を入れなくても木の実は実る。
実際に若井さんがつくった木イチゴで試作品のジャムをつくっているところだ。
「私たちは、いい意味で異分子だと思いますが、若井さんも期待してくれています。
いろいろなことで化学反応を起こしてほしいと思っているみたい。
実際に少しずつ、起こしつつあると思います」(池田さん)

東京のフードクリエイターが山ノ家に来たときに、野生の木イチゴでつくったジャムの試作品。

棚は、もともと履物屋だったこの家に置いてあったものを磨き直して使用。近くの下条地区の蔵からたくさん出てきて捨てられそうだった漆の器も譲り受けた。

information


map

YAMANOIE Café & Dormitory
山ノ家 カフェ&ドミトリー

住所 新潟県十日町市松代3467-5
電話 025-595-6770
http://yama-no-ie.jp
https://www.facebook.com/pages/Yamanoie-CafeDormitory/386488544752048

profile

YAMAIEHITO
社団法人ヤマイエヒト

東京・恵比寿を拠点に活動するクリエイティブユニット「gift_」のスペース+サウンドデザイナーの後藤寿和とクリエイティブディレクターの池田史子、それに映像ディレクターの河村和紀で立ち上げ、佐野哲史、若井明夫が顧問として参加。複数拠点のワーク&ライフスタイル実験の場としてカフェ&ドミトリー「山ノ家」を2012年8月にオープン。

コミュニケーション能力

広告プレゼンの思い出。

10年近く前のこと。取材で会った脳科学者の茂木健一郎さんに
「本当に頭がいい人ってどんな人ですか?」と聞いたことがある。
「コミュニケーション能力の高い人でしょうね」
即座にそんな答えが返ってきた。
たとえば、満員電車の中でつり革につかまった老人が隣にいたとする。
そして目の前にはシートに座った若者が。
そんなとき、若者の気を損ねることなく席を譲らせる、
そんな言葉をかけられる人間こそ本当に頭がいいのだと茂木さんは言うのだった。
なるほど。そこでぼくならと想像すると、気を損ねるどころでなく、
流血沙汰の展開しか見えてこない。

2010年に岡山県内で圧倒的な購読率を誇る『山陽新聞』の
130周年記念号を制作させてもらった。
その年の2月あたりだったか、同社系列の広告代理店で第一回の企画のプレゼンを行った。
その場にいた20名ほどのスーツを着た営業マン、
とくに社長を含む上層部の人たちはぼくの企画が理解できないという反応だった。
「そんな企画で広告が売れるわけがないだろう? 
どうやってクライアントに説明すればいいんだ?」
社長の言葉には明らかに怒気が含まれていた。
「そんなこと言われても、なあ?」
ぼくはそう言って、隣にいた唯一の味方、デザイナーのリュウくんと顔を見合わせた。
我ながら最低の受け答えである。
「この写真集を見ると」
そう質問を切り出したのは、同社でデザインを担当しているS女史。
「安村さんは人をまったく撮っていませんが、大丈夫なんですか?」
鋭い質問だった。ぼくの企画は写真家の安村崇に県内在住の一般の人を撮ってもらい、
1ページにつきひとりの写真を掲載して8ページを構成するというものだった。
異様に思われたのは、8ページに入れる文字要素が人名と肩書きだけで、
説明的な文章を一切入れないという点だった。
そんな大胆な企画をたてているわりに、
「こんな写真家です」と渡した写真集には、
こたつの上のミカンだの、お風呂のふただのホッチキスだの、
一般家庭にある普通のモノの写真しかなかったのだった。
実際、安村さんが撮影しているのはモノか風景がほとんどで、
ぼくも彼が人を撮った写真は見たことがなかった。
それでもぼくは自信たっぷりに答えた。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい、絶対いいものができます」
 そう言うと、さらに鋭い返しをくらった。
「その根拠は?」
 根拠、とな? 根拠は……
「……勘です」
その場がさらにざわめいた。
もうこれ以上いても無駄だと思い、ぼくとリュウくんは早々にその場を後にした。
結局、その企画は同社の担当Iさんの熱意に会社がほだされるかたちで実現に至ったのだが、
いま思い返してもひどいプレゼンだった。
たぶん、ぼくはやっちゃいけないのだ、こうしたプレゼンの類は。

児島で縫い子(縫製業者)をやっているフジタくんとは
昼どきから延々とエッチな話に花を咲かせることはできても、
言葉で人に何かを説明するのは苦手だ。
ましてや説得するとか、意見を戦わせるなんていうのは論外な話。
つまりマチスタの経営者はコミュニケーション能力が異常に低い。
茂木さんの論理で言えば、あまり頭がよろしくない人なのであった。

実は本人はかなり以前からそのことには気づいており(当たり前だな)、
致命的な弱点のひとつと認識している。
マチスタでもそんなぼくの性質がマイナスに働いてきたのは疑いない。
開店前まではコイケさんと店の方向性などについて話すこともよくあったのだが、
開店後はほとんど話すことはなくなった。
それでいいと思い込もうとしていたフシがある。
ぼくが口をはさむより、現場に立っているコイケさんとのーちゃんに
すべて任せた方がいいだろうと。
「コイケさんは飲食のプロ、対してぼくはズブの素人」という遠慮があったのも事実だ。
それにしてもコミュニケーションがなさすぎた。
どんどん赤字が膨らんでいくような状況であれば、
なおさらコミュニケーションが必要だった。
そう考えるようになって、
ぼくのコミュニケーション能力の低さの原因が少しわかったような気がした。
ぼくはたんに臆病で、ぶつかるのを恐れていたのだ。

そろそろだ。そろそろマチスタのこれからについて
コイケさんとじっくり話さなきゃなと思っている。

これが例の130周年記念号の表紙。翌年の全広連(全日本広告連盟)の最高賞を受賞している。ぼくの勘は間違っていなかったわけだが、そのわりに以降、同社とは仕事の付き合いがまったくなし。プレゼンの印象が悪すぎたか。

植木屋時代の先輩ジローちゃんのライブイベント「コーヒー&レゲエナイトvol.1」の開催が迫ってきた。日時は9月29日(土)午後6時から。チケットはコーヒー付きで800円。当日はジャマイカのコーヒーを用意して待ってます!

ペンギン夫婦  ヨチヨチと石垣島を歩き始める。

辺銀と書いてペンギンと読む、夫婦のはじまり。

これから始まるのは、
遙か南の石垣島に住む、辺銀暁峰&愛理夫妻のお話。
辺銀と書いてペンギンと読む。何とコレ、立派な戸籍名なんです。

中国で出会ったふたりが遠距離恋愛の末、結ばれたのは1993年。
東京でスタートした新婚生活は、毎日、どちらが料理を作るかでもめるような、
何とも珍しい、幸せな形。お料理作りたがりやさん同士の結婚でした。

実はこのふたり、今をときめく、予約8か月待ちの「石垣島ラー油」の生みの親。
新婚当初から、ラー油はふたりの生活に欠かせないものでした。
夫の暁峰さんは中国・西安生まれ。なにしろ西安は、レストランではもちろん、
それぞれのおうちでラー油を手作りするような、中国屈指のラー油どころです。

当然、暁峰さんもラー油作りはお手のもの。
東京でもマイ( our ? )ラー油作りは続いていたのですが、
ある時、編集者だった愛理さんが、取材で訪ねた香港の特級調理師から、
ぽんと膝を打つ大ヒントをもらいます。
以来、試行錯誤を重ねる中、ふたりのラー油作りは革新的に成長し、
「ついに極めたぞ!」レベルまで到達するのです。

まだまだ、石垣島にたどりつきませんね。

1999年3月吉日。那覇夜8時発の琉球海運の船で石垣島に早朝6時に到着。だから初めて見た石垣島の建物はこの「石垣港ターミナル」。朝焼けの中、スーツケースを引っ張って歩き出した。

「きよふく」は1999年3月に初めて石垣島に来た時泊まった民宿。その3か月後、移住する時、借りた部屋が住めるようになるまでの間、2週間くらい滞在した。繁華街にあり、市役所の近く、大好きな中村雑貨の並び、美崎町にも離島桟橋にも近いと良いことづくめ。女将さんが優しかったなー。

民宿「石垣島」。島のお母さんの美味しい手料理が食べたい、と最初に泊まったのが今はなき「民宿石垣島」(現在は宿泊のみ「楽天屋」が管理)。夕方、お客さん全員集められて夕食をいただく。聞いたことがない食材名と料理名、感想を必死でノートに書いた。

私が最初に働いた「舟蔵の里」。当時、従業員の募集がないのに東京から長い手紙を書いてアタック!「舟蔵で働けないなら移住を諦めよう」くらいの気持ちが通じて見事採用(笑)!

ダンナちゃんが働いた郷土料理「ひるぎ」。ホテルミヤヒラ系列。当時店長だった砂川さん(現「あだん亭」オーナーシェフ)から島の食材や料理方を習った。白保から働きに来ていたオバーからもいろんなこと教えてもらったな~!

石垣市公設市場「里子売店」は観光客だった頃、里子ネーネーに「石垣島に住んでみたいな~!」と言ったら「住んだらいいさ~!あなた達なら住めるはずよー!」と優しく言ってくれた恩人のひとり。石垣島ラー油を仕入れてくれた第一号小売店さんでもある。

新栄町「知念スーパー」。新栄町の自宅の裏の「プリマート(現「マックスバリュー」)」とここ「知念スーパー」はほぼ毎日行った我が家の冷凍冷蔵庫だった。特に、貝や島野菜など島の食材が欲しい時は今も買いに行く。食べ方もずいぶん教えてもらったもんです。お気に入りは「ジューシーおにぎり」「中味汁」「白玉入りぜんざい」。おいしーですよー!

最初に住んだ新栄町の元我が家からの眺め。今は取り壊され立派なマンションになった。マルハ鮮魚の大濱長弘ニーニーの漁具倉庫の二階だった。5LDKで1か月7万円。一番小さな部屋が10畳、Lが20畳、オーシャンビューのだだっ広いベランダがサイコーだった。

「木田商会」で新栄町の自宅のリフォーム材料を買いまくりました。ゴッキー対策でコーキング材、二重網戸、よしず、ペンキ、さび止め用ペンキ、土、アウトドアグッズ、テーブル、棚、等々。当時は自転車と50ccバイクだけで往復。楽しかったな~!

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・後編

3.11以降の生き方、うけつぎ方を問いかけてみる。

2012年8月11日。肘折温泉の外れにある「いでゆ館」ゆきんこホール。
東北芸術工科大学の准教授で、「ひじおりの灯」アートプロジェクトの
担当教員でもある宮本武典さんが提起したイベントが
「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」。
働き方研究家・西村佳哲さんがファシリテーターになり、
山形の5人のカルチャーリーダーたちと語り合う、約4時間のミーティング。
会場には、約100人の、学生たちを中心とする若者が集まった。

なぜ、このミーティングを行おうと思ったのか、
まず、宮本さんと西村さんが対話する。

働き方研究家の西村佳哲さん(左)と東北芸術工科大学准教授の宮本武典さん。

Talk1 宮本武典(東北芸術工科大学准教授)×西村佳哲
<どうしてこの企画を?>

西村

今日のテーマは、3.11東日本大震災後の東北、山形を
どううけつぎ、生かしていくか?
宮本さんは震災で変わったのだと思っている。
そして今日のゲストは山形県の文化的リーダー。
宮本さんは、このひとたちが変わったように見えるのですね。
家業や、立ち上げた仕事へ意欲を持つひとたちの居所が
変わらざるを得なかったといったことも含めて。

宮本

1年半前の東日本大震災。また肘折では、
外からの往来をつなぐ幹線道路の地滑りによる交通の遮断もありました。
肘折という場所は、地域と大学とが一緒になって、
地域を考えていくひとつの入り口。
これまで100人以上の学生が参加、通い、学んできたのですが、
3.11以降起こったことは、地域とアートでは括りきれない出来事。
学生たちにとっては、これからなにを作ったらいいのか?
が今日のテーマでもあります。
ただし、おそらくアートやデザインを学ぶ学生たちだけでなく、
自分も含めて、この出来事によって、
私たちは、生活全般を作り直さなければならない、
という状況にあるのではないかなという思いがあります。

西村佳哲さんにファシリテーターとして来ていただいたのは、
西村さんの本『いま地方で生きるということ
がきっかけです。
震災後の山形をどううけつぎ、生かしていくのか?
それぞれの生活や仕事でうけついだもの、うけつぎたいものを、
うかがってみたかった。
復興支援の活動を学生たちとやっているのですが、
あるまちで象徴的な光景を目にしたんですね。
そこは震災によって集落は消え、高台の神社だけが残っていた。
神様だけがそのまま。
アートは、次になにをつくるかという、
新しいものへ向かうことが多いものですが、
ここになにか新しいものをというのではなく、
過去を呼び出す、うけつぐことのほうが重要なのでは
という思いが生まれたんです。
今日のゲストは、前の世代をうけついだひとたち。
でも、ストレートに“うけつぐ”ということが
難しくなっているとも思うんです。
“うけつぐ”と“呼び出す”はニュアンスが違いますが、
土地やひとの歴史にもっと深く感度を上げて、
以前からあるものをカスタマイズしながら、
いまの時代にあったかたちで、うけつぎ、呼び出していく行為。
その“うけつぐ”現場、“呼び出す”現場が
どうなっているのかを知りたいんです。

西村

宮本さんから見て、今日参加してくれている5人の方々は、
理想を実現している印象なんですか?

宮本

んー。いろいろ直面していると思うんです。
でもけっして、「しかたないよ」ではなく、
自分で仮説を立てて、受け身でなく対応している。
それによって、なにかに直面していると思うんです。
まさに、そのことは、アート、農業、観光などに携わる
ひとびとが、業種を超えて共有しなければならないものです。

西村

どう生きていくか、働いていくか。
その実践を語ろうというのは、成功例でこのようになりましょう
ということではけっしてなくて、どう考え、喜び、しんどいか。
おそらく今日は、それを報告してほしいということなんでしょうね。

宮本

問題を発見する能力だと思います。
アートでもほかでも、それがないとピントがあっていかない。

西村

うまくいっている部分というより、期待しているのは、
課題をどう捉えているか知りたい
ということなのかもしれませんね。
今日、みなさんが集まった意味は。

Talk2 渡辺智史(ドキュメンタリー映画作家)×西村佳哲
<山形でドキュメンタリーを撮り続けることは可能か?>

渡辺智史(わたなべ・さとし)
1981年山形県鶴岡市生まれ。鶴岡南高等学校卒業。
東北芸術工科大学デザイン工学部環境デザイン学科卒業後に上京し、
映画制作会社に勤務後フリーとして活動開始。
2011年に映画『よみがえりのレシピ』を完成させる。

西村

最初のゲスト。渡辺智史さんです。
まず、今日のテーマを受けての自己紹介を。

渡辺

私は東北芸術工科大学に1999年に入学しました。
建築に憧れ、環境建築を専攻。
2000年に大学で東北文化センターが立ち上がり、
その活動の一環で、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に参加。
世界中から制作者が集まり、話を聞くというまたとない機会で、
自分の中にひとつ、ドキュメンタリー映画の可能性
という気持ちが芽生えたんですね。
2001年、大学3年生のときです。
9.11のNYテロが起き、その映像を見た瞬間、
言葉では表せない恐怖感を覚えた。
大学の授業は、体系だったものを教えるもの。
では、目の前で起きたことに大学の学問はどう答えられるか?
という自分の中の課題もそこで生まれました。
その後も、世界中からさまざまなドキュメンタリー映像が集まり、
その濃さに驚いた。市民がビデオを持って作品をつくれてしまう、
作家と市民の境目がなくなった、と思った。

そうして、ぼくは映像の世界に入っていくのですが、
山形のどういうものを掘り下げるか。
自分が探っていたいものは農村だったんですね。
そして、初めて監督した作品が
湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』。
(2009年廃校になる大蔵村立肘折小中学校の
廃校を迎えるまでのドキュメンタリー)
青年団や地元のひとたちと、映画を撮れた。
映画制作が、撮って終わりでなく、上映にも関わる。
それを体感できたのは貴重な体験でした。
つくるだけでなく、届けること。
ただ、一方で、経済的には成り立たない面もあることに
直面するわけです。
今度新作を撮りました。
よみがえりのレシピ』という作品で、
テーマは“在来作物”。
その土地特有の野菜は、貴重な地域資源でもあり、
生物多様性の豊かさでもある。
その種を守り、つくる、その在来野菜に光を当てて
メニューを提供する山形イタリアン「アルケッチァーノ」の
シェフ奥田政行氏も登場します。
この製作は、市民有志で製作委員会を構成する
“市民プロデューサーシステム”というかたちで実現しました。
一口1万円の資金を提供する。
上映されることでどうか関わっていけるかなど
トークショーなどもしながら、つくってきました。

西村

この映画は、みんなが見たいと思ったらどうすれば?

渡辺

10月20日からユーロスペースで公開されますが、
肘折でも、東北芸術工科大学でも上映します。

西村

渡辺さんの関わり方は、作品をつくるだけでなく、
届けることもする。そこに活路を見出している。

渡辺

売れる映画というのは製作面でも上映でも
だれかに面倒を見てもらえますが、
ドキュメンタリー映画というのは、
どこか在来作物のようなところがあって、
小規模で、手を差し伸べてもらえることがなかった。
なんとか自分たちで再生産できるように、
経済活動のなかでも生き残れるようにしていきたいと思うと、
こうした手法になります。

西村

日本の戦後の映画興行システムとは違い、
多くのひとは食べさせられなくても、
少人数は生業を立てていけるようなイメージ?

渡辺

東京はフリーのチームの自在なつくり方ができる。
山形でも山形らしいそうしたかたちがつくれたらいいのでは
と思ってます。

西村

私は出身が武蔵野美術大学の工業工芸デザイン。
作品のつくり方は教わったが、つくり方以上のことは
教わらなかった。例えば、ポストカードをつくったとして、
どう届け、広め、稼ぐかを、大学では全く教えてくれなかった。
それは渡辺さんが専攻した建築でも?

渡辺

みかんぐみの竹内昌義先生のような、
現場をもちながら、教えてくれるひとはいますよ。
それは勉強になった。

西村

目の前で生み出されることを知るのはいいよね。
ロサンジェルスに建築を学び行っていた若い友人に
どんな授業を受けているのか訊いたら、
ちょうどその頃は、300人くらいの大きな設計事務所のひと、
10名ほどのアトリエのひと、ひとりでやっているひとなど、
いろんな建築家が週替わりで教室に来て、
仕事の進め方や成り立たせ方を教えてくれているって。
すごくいいなと思った。
渡辺さんは、東北を離れようという考えはなかったのですか?

渡辺

6年ぐらいは東京にいました。
映像制作の事務所にいたことがあるのですが、
そこでは、まず企画書を書いて、ゼロから始める。
そこで鍛えられました。
山形でやろうと思って、縁あって
『湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』を
つくることができたのですが、
その時、後ろめたさも感じたんです。フォーカスする場所について。
なので、『よみがえりのレシピ』というのは、鶴岡を舞台に、
自分の生まれた場所で映画をつくろうと思った。
それは、自分が距離を置いていた故郷と
関わり直すことでもあった。
ドキュメンタリーというのは、撮る側も、見る側も
学びのツールだなとつくづく感じます。
真剣勝負で関わることで、とても勉強になる。

西村

東京では離合集散ベースで作品制作はできるが、
山形でそれをやるのは難しいのかな?
ひとが少ないから?

渡辺

フリーランスで活動しているひとが少ないですね。
映画だけで食べていくのは難しい現実がある。
だけども地道に上映活動をすることで、
地域の観客としっかりした関係が生まれ、
継続して映画制作を応援してくれる土壌ができあがる。
そのためにも『よみがえりのレシピ』の上映活動を
地道に行っていこうと思っています。

西村

震災の前後で世界や認識は変わりましたか?

渡辺

ひとの動きが変わったと思います。
FacebookなどのSNSをやるひとが山形県内でも増えた。
故郷に帰るデザイナーもいる。そんなひとたちと、
ゆるやかな連帯の中から、
ビジネスの芽を見つけようとしています。
インターネットのことなどは、
地元にいるスペシャリストから知恵をいただいて、
進めていたり、ということが起こっています。

西村

それが聞けてよかった。