農のある暮らし、小豆島ひとやまの春

自分たちの食べるものを、自分たちの手で。

陽射しが強くなり、日中は暑いくらいのここ数日。
田んぼに水が入り、稲の苗が植えられ、夜はカエルの合唱。
ここで暮らしていると季節の移り変わりをはっきりと感じます。
そう、すっかり季節は春となりました。

お友だちと一緒に田んぼでカエル探し。結局泥だらけになって帰りました(笑)。

私たちが小豆島に引っ越してからやろうと思っていたことのひとつに「農業」があります。
自分たちがどんな風に生きていきたいのかを考え、いろいろな本を読んでいた時に、
「半農半Xの種を播く」(塩見直紀著)という本の中で、

Familyという英語はラテン語のFamiliaから派生したもので、
今は「家族」と訳されるこの言葉の語源をさかのぼっていけば、
「一緒に耕す者たち」すなわちFarmerに通じている

という一文がありました。
まさにこれだ! とすごく感動した記憶があります。
自分たちの手で自分たちの食べるものを作りたい、
子どもと一緒に家族で野菜を育てたい、
育てた美味しいものをみんなで食べたい。
そして将来的には農業をベースにした生活を成り立たせたいという思いから、
引越して半年、少しずつ畑で野菜を育てています。

家族でしょうがの植え付け。ちゃんと植え方を教えてもらいながら。

自給率100%のサラダ。この春収穫した野菜たちで朝ごはんのサラダを作ります。

幸い、私たちにはおじいちゃんの残してくれた畑がいくつかありました。
ただそのほとんどが休耕地になっていて、雑草だらけ、木は伸び放題。
プランターでトマトを育てたことくらいしかない私たちにとって、
おじいちゃんの農機具がいくつかあってもそれをどう使っていいのかわからず、
さらに何から手をつけていいのかまったくわからず、そんな状態。
ただ気持ちはあったので、隣の家のおっちゃん、おばちゃん(遠い親戚)や、
島で有機農業を営んでいる有機園のおっちゃん、おばちゃんに
とにかくやりたいことを話していました。

ちょうど一年前の畑。雑草だらけの休耕地。

するととてもありがたいことに引越して1か月もしないうちに、
隣のおっちゃんがトラクターで雑草だらけの畑の土をおこしてくれて、
おばちゃんがレタスやネギの苗を持ってきてくれて植え方を教えてくれました。
そして有機園のおっちゃんが堆肥の作り方やチェンソーの使い方を教えてくれたり、
年明けに麦を植えたり。
2月には私の父がやってきて、畑の伸び放題の木々を伐採。

隣の家のおっちゃんと。トラクターで雑草だらけの畑の土をおこしてくれました。

隣の家のおばちゃんの畑。畑のことから地域のことまで、いつもいろいろ教えてくれる先生です。

私たち(30代)の親やその上の世代は本当にすごいなと改めて感じた。
このおっちゃん、おばちゃんたちの知識やパワーを借りなければ、
私たちだけでは何もできない。
こうやって素直に教えてもらいながら、助けてもらいながら、
少しずつ畑で野菜を収穫できるようになってきました。

ニンジンと麦。少しずつ畑らしくなってきました。

引越して半年後の春、去年の秋に植えた
玉ねぎ、レタス、キャベツ、エンドウ豆、そら豆、イチゴなどを収穫。
そして新たに、ニンジン、ゴボウ、ジャガイモ、トマトなどを植え付け。
庭では、おじいちゃんが残してくれたサクランボの木にたくさんの実がなり、
それを収穫してチェリー酒やジャム作り。
もうすぐ梅を収穫して、梅酒や梅シロップを作ろうかと。

サクランボの収穫。とても綺麗な赤い実。ジャムとチェリー酒を作りました。

農業で生計を立てていくことは、とても難しいことだと思う。
課題はたくさんあり、まだ始まったばかり。
でもそんな日々は楽しくもあり、やりがいもある。
そしてここには、農のある豊かな暮らしがあります。

二本の縦笛を鼻で吹き鳴らす魔術師!兵庫県の元校長・梶谷正治さん

学校で誰もが習う縦笛(リコーダー)。
その縦笛を芸術?の域にまで高めたアーティストがいらっしゃいます。
それが、兵庫県三田市の梶谷正治さん。

この写真でお分かりのとおり、口だけでなく鼻でも
2本の縦笛を操って「聖者が町にやって来る」などを吹きこなしてしまう名人です。
2本同時にハーモニーを付けたり、メロディーに伴奏を付けられるのがスゴイです。

梶谷さんは、大阪音楽大学の音楽学部で学んだ後、
38年間音楽教師として中学・高校で教鞭をふるいました。
兵庫県立有馬高等学校校長で定年を迎えた後、TV出演や地域の施設への訪問など、
演奏家・音楽講師として活躍されています。

鼻で笛を吹くのは見た目以上に難しく、鼻息を短くしなければならないし、
口で演奏するように舌を使うこともできない。

梶谷さんは「音楽は種も仕掛けもない手品」として日々練習をされているそうです。
その超絶技巧は動画共有サイトでも見ることができます。

梶谷正治

森をひらくこと、T.O.D.A.

さまざまな人が訪れる森に。

那須塩原の駅から北西に約10km。
街道から少し入ったところに広がる森の中に
「森をひらくこと、T.O.D.A.」と名づけられた場所がある。
日本各地でよく見られるような、木々や草花が生い茂る森だが、
少し切りひらかれたところに、かわいらしい建物がふたつ建っている。
こんなところに、と一瞬目を疑ってしまうようなちょっと不思議な印象は、
やがて微笑んでしまうような安心感に変わる。
なんというか、心地よい空気が充満しているのだ。

「遠いところ、よくおいでくださいました」
と笑顔で迎えてくれたのは、戸田香代子さん。
この場所は、戸田さんの先祖が明治時代に開拓した土地。
このあたりの地名も戸田というほど広大な土地だ。
かつて戸田農場と呼ばれる農場を開墾しようとしたが、
植林して林業へ方向転換し、やがて林業がすたれると、
人が入らない森になってしまった。
全部で30ヘクタールもの土地だが、その10分の1ほどの3ヘクタールを切りひらき、
もう一度、人が入れるような森にしようとしたのがこの場所。
ふたつの彫刻のような建物は、イベントやワークショップなど
さまざまな目的に使える「OPEN PLACE」と、
森の恵みを味わうことのできるカフェ「KITCHEN PLACE」。
このプロジェクトのディレクターである豊嶋秀樹さんがコンセプトを手がけた。
豊嶋さんは大阪を拠点とするクリエイティブ集団「graf」のメンバーとして活動し、
2009年からは「gm projects」のメンバーとして、
さまざまなプロジェクトを手がけるクリエイティブディレクター。

戸田さんと豊嶋さんの出会いは
「スペクタクル・イン・ザ・ファーム」というイベントがきっかけだった。
那須の牧場や旅館、カフェなどを舞台に、
音楽、ファッション、アート、演劇などさまざまなイベントを展開。
東京でファッションブランド「THEATRE PRODUCTS」を主宰する
金森香さんらが企画し、2009年と2010年に、それぞれ2日間行われた。
戸田さんは2009年に実行委員の手伝いをしていたが、
2010年には本格的にイベントに関わることに。

もともとこのイベントとは別に、戸田さんは那須地域で障害を持ちながら
絵を描いている作家たちの展覧会「つながるひろがるアート展NASU」を、
那須のリゾートホテル「二期倶楽部」や「山水閣」、
人気カフェ「1988 CAFE SHOZO」などを会場にして開催してきた。
この展覧会をスペクタクル・イン・ザ・ファームの関連企画として、
同時期に開催することに。
さらに、切りひらいた戸田の森にあった古い廃屋を、
スペクタクル・イン・ザ・ファームの会場のひとつとして
使わせてほしいという要望があった。
これをきっかけに人が来てくれるならと、戸田さんは快諾。
「つながるひろがるアートの森・TODA」として、
そこでインスタレーションを制作、展示したのが豊嶋さんだった。

スペクタクル・イン・ザ・ファームは、行政主導ではない、
民間の人たちでつくりあげたイベント。当初は懐疑的だった地元の人たちも、
実際にたくさんの人が訪れたことで盛り上がり、2年目はより多くの協力者を得て、
1日で約8000人の観客を呼ぶという大成功をおさめた。
このイベントで、地域の結束力は高まったという。
「それまでは市や観光協会がやってくれるという雰囲気でしたが、
まず自分たちで考えようという意識が強くなりました。
いまでは自分たちが動かして、そこへ行政がついてくるという、
理想的なかたちになってきたと思います」と戸田さん。

「OPEN PLACE」は展示やワークショップなど、さまざまなイベントができる多目的スペース。レンタルも可能。三角屋根の上には噴水がついている。

こちらは「KITCHEN PLACE」。なんと屋根には柿の木がある。OPEN PLACEもKITCHEN PLACEも、壁面はフラットではなく、凹凸があって彫刻のようなテクスチャー。最初の模型は紙粘土でつくり、それをそのまま大きくしたような建物。

豊かな森と、森に住む動物たちを守りたい。

ふたたび話を森に戻そう。戸田さんが森をひらこうと思ったのはなぜか。
「山や森は人が手を入れないと荒れてしまう。この森もだいぶ荒れてしまっていたんです。
いま日本では木を切ってもお金になるばかりか、お金がかかる一方で、
手がつけられない山はたくさんあります。
でも木がやせ細って病気が蔓延し、木がだめになってしまうと、
そこに住む動物たちもいなくなってしまいます。そういうことに胸を痛めていました」
この森にはたくさんの動物たちが住んでいる。
ムササビ、ウサギ、キツネ、なんとツキノワグマもいるという。
ときおり顔を見せる動物たちに、豊かな自然を感じる一方、
山が荒れてしまっているために、動物たちが家畜の餌を狙うなど、問題もある。
動物たちのためにも、森の手入れが必要なのだ。

広大な土地に目をつけられ、これまで多くの開発業者に開発を持ちかけられた。
アウトレットやショッピングモール、ゴルフ場……。
戸田さんが、いまある木を残して、自然の景観をいかした開発ができるのであれば、
と言うと、業者は諦めていき、やがてそんな話はこなくなったそうだ。
現在は、そんな戸田さんの考えに共鳴してくれる人も増え、地元の森林組合とともに、
この森をモデルになるような雑木林に変えようと取り組んでいる。
毎年草刈りをしたり、今後もさらに森を間伐して、少しずつひらいていく予定だ。

もともと戸田さんはこの土地の生まれではない。
鎌倉で生まれ、子ども時代は名古屋、そのあとは東京暮らしが長かった。
30年ほど前に、戸田家の土地に戸田調整池というため池をつくることになり、
その事業のために引っ越してきた。不便に感じることもあるが、
ここに残る自然に毎日触れていると、東京には戻れないと笑う。

山と、山に住む動物を守りたい。
そしてその自然とともにある暮らしというものが、
もともとここにあったはずだと戸田さんは言う。
グリーンツーリズムという言葉はいまでは珍しくないが、
いち早くグリーンツーリズムの考え方に感銘を受けた戸田さんは、
ヨーロッパにも数回渡って勉強した。
「地産地消という言葉は、グリーンツーリズムから入ってきたと思っています。
もともと那須にあるお野菜や川魚を、よそから来た人に食べてもらう。
そういうことによってこの地域の経済圏が成り立つ。
そのためにあるのがグリーンツーリズムです。
もともと地域にあるものを保存して大切にしながら、次の世代につなげていく。
そういうことをやりたいと思っています」

KITCHEN PLACEは、人が集うためのカフェ。地元のお客さんが多い。

KITCHEN PLACEの2階の窓から森を眺める。

「森のボウルミール」(1100円)。たくさんのお野菜を掘っていくと、下にはクスクスが。いろいろなおいしさがつまった一品。このほかチーズや半熟目玉焼きが乗ったクロックマダム「森のマダム」などのメニューがある。

ゆっくり少しずつ、ひらかれていく森。

ディレクターの豊嶋さんは、この「森をひらくこと、T.O.D.A.」というプロジェクトに、
明確なゴールはないと話す。
「まずはいろいろな人にここを訪れてもらって、
森と人との新しい関係をつくっていく……ということを考えることを目的にしたい。
そのこと自体を『森をひらくこと』と呼ぼうと。
いろいろな人に関わってもらうなかで、
だんだんとこの場所ができていくといいなと思っています」

考えることが目的。そのために、まずは人が集える場所と、
みんなで食べたり飲んだりできる場所が必要だということで
「OPEN PLACE」と「KITCHEN PLACE」をつくった。
OPEN PLACEは、使い方を限定しない、多目的スペース。
展覧会もできるし、結婚式の会場として使ってもいい。
「ひとつひとつの建物が器のようになればいいなと思っています。
そのときによって違う料理が乗っているお皿のような存在にしたい」と豊嶋さん。

この場所がオープンした2012年9月には、ゲストを招き、
毎週連続でワークショップやレクチャー、ライブが催された。
森についての話をしてもらうのではなく、
ジャンルを横断して活躍しているような人や、
ちょっと変わった新しい活動をする人たちに、
この森に来てもらうことが大事だったという。
「この森がどんどん横に展開していくようなイメージ。
ここに人がいる状況で、この森がどう移り変わっていくのか。
そういうことを楽しんでくれそうな人に声をかけました。
同じことでも、東京でやるのとこういう環境でやるのは、
また違うできごとになったのではないかと思います」

現在は、OPEN PLACEで佐々木 愛さんの展覧会「Landscape Stories」を開催中。
佐々木さんも、豊嶋さんが当初からここで何かやってほしいと考えていた
アーティストのひとり。
佐々木さんは、これまでさまざまな場所に滞在しながら、
インスタレーションやペインティングの作品を制作してきた。
その土地の風景や、土地にまつわるストーリーからイメージを膨らませて、
制作していくというスタイル。
展示している新作は、制作中の絵画作品を持ち込み、
ここに滞在しながら完成させていった。
またこれまで世界各地で訪れた森を想い、『森をはこぶ』という
すてきなビジュアルブックを制作。その原画も展示されている。

「ここには数回来ていたのですが、制作に来てみたらやはりイメージが違いましたし、
毎日森の中にいて、自分の気持ちも少し変わりました。
だから新作は、全体のトーンをこの場所に合わせて調整したという感じ。
こういう贅沢な展示はなかなかできないですよね」
この場所の空気が絵に入り込む。自然とそうなってしまうと佐々木さん。
「近所に住んでいる人や、そこにあるものに影響されてしまう。
わりと単純に環境に左右されるほうかもしれません。
冬に八甲田に滞在していたら、雪山の絵ばかり描いていました(笑)」

OPEN PLACEの扉を開くと、天井が高く明るい空間が広がる。ここで初の展覧会開催となる。

当初は作品を仕上げてから持ってこようと考えていた佐々木さんだが「光が違うだろうなと思って」ここで滞在しながら作品を完成させた。

この展覧会に合わせて制作したビジュアルブック『森をはこぶ』の原画。佐々木さんはこれまで、都会より山や森に近い場所で滞在制作することが多かったそう。

壁画など巨大な作品を、時間をかけて制作することも多い佐々木さん。この場所では、砂糖を使った「ロイヤルアイシング」という技法のワークショップも開催した。

戸田さんや豊嶋さんたちは、今後「NEST PLACE」の建設を企画中。
NEST=巣、つまり滞在できるスペース。
少しずついろいろな場所ができてくることによって、
関係性や新しい要素が見えてくる、と豊嶋さん。
「滞在できる場所が増えたりすると、またいろいろなことがつながったり
起こったりするんじゃないかと思います」
生きている森のように、有機的にいろいろなことが生まれ、広がっていく。
まさにこの森は、多くの人にひらかれた場所なのだ。

ディレクションするにあたって、なんとなく学校のようなイメージがあったという豊嶋さん。その理由は「戸田さんは学校の理事長さんみたい。校長先生というより理事長」。「この数年間は人生がギュッと凝縮されたように充実しています」と戸田さん。

「さつまもの」鹿児島 × 益子〈前編〉

ふたつの地域をつなぐ展示。

山桜の季節も終わり、田には水が張られて田植えも終わったというのに、
花冷えの戻りのような冷たい風の日が続いていた栃木県益子町。
一転して朝から気温が上がり始めた5月9日、夏日に近い陽ざしを連れて、
1500キロ離れた鹿児島から「さつまもの」の作家たちがやって来た。

「さつまもの」は、さまざまな分野でデザイン活動を展開している
「ランドスケーププロダクツ」の代表・中原慎一郎さんが
故郷の鹿児島で出会った魅力的なプロダクトや食のアイテムを
薩摩の「よかもん」として紹介しているプロジェクト。
展示イベントとしては、2009年から、
旭川、神戸、高松、ロサンゼルスなど国内外各地で開催され、
今回の益子開催は、中原さんとスターネット主宰の
馬場浩史さんとの繋がりから企画がスタートした。
5月11日から19日まで、スターネットをメイン会場に、
益子のつくり手たちが共同で運営している「ヒジノワCAFÉ&SPACE」と
仁平古家具店益子店の3会場で開催されることになった。

中原さん(右)と同郷の坂口修一郎さん。ふたりは、益子と笠間(茨城県)の作家や工房が80以上も参加した2011年秋の「KASAMA∞MASHIKO」展(伊勢丹新宿店)も手がけ、益子のつくり手たちとの親交も厚く、「ホームのような土地(坂口)」。

つくったものを携えて知らない土地へ旅をしよう。

「さつまもの」では、作品や商品だけをアウェイの地に送り込むのではなく、
作家も「旅」をする。
作家が現地に行き在廊することは、もちろん他の展覧会でも行われているが、
中原さんは「さつまもの」への参加を誘う時、「旅をしよう」と作家に声をかける。
今回、ヒジノワに出展した「Lanka」の大山愛子さんも、
鹿児島のイベント会場で、中原さんに誘われた時の言葉は
「栃木の益子に行ってみない?」だったそう。

旅をしよう。その言葉の意味を中原さんにうかがった。
「作家活動って基本は個人的なものだけど、集まることも単純だけど大切なこと。
集まることは、知り合うこと。
新しい土地と知り合う、今まで出会えなかった人と知り合う。
それは自分が動いて地元から出て行かないと体験できないものだし、
もともと、僕自身、まず動きながら考えるタイプで、
動くことで得られたものはプラスになっていることばかり。
そんな感覚や体験を若い作家たちにも感じてほしいと思って声をかけています。
旅って、その場ですぐに結果が出なくても、その後、じんわりと何かに繋がっていったり、
新しいことが始まるきっかけになったりします。
みんなも、そう信じてついて来てくれているみたいです。
旅をしていくなかで何かを感じて、そこからはそれぞれが何かに繋げていく。
そして自分のまわりの若い作家にも、動いて知り合うということを伝えてほしい。
そんな展開がどんどん繋がっていったら、もっと面白くなります」

薩摩の作家たちが栃木の益子に旅をして出合ったもの、知り合った人。
これからの自分へ、お土産として持ち帰る、何か。
迎え入れた益子の土地から2回にわたってレポートします。

さつましこ 1
イラストレーター江夏ジュンイチ(さつま)meets
濱田庄司記念益子参考館(ましこ)

江夏さんは、鹿児島を拠点に都内からも仕事を受け活躍するイラストレーター。
今回は、ヒジノワCAFÉ&SPACEで、
アクリル画やペンで描いたイラスト作品を中心に展示を行い、
来場者の「ちょっと似ている似顔絵」を描くワークショップも。
似顔絵は、以前出展していたイベントで、手持ち無沙汰な時に、
何かできないかな? と、さらりと描き始めたとのこと。そんな話を聞くうち、
「陶芸の文様も好きなんですよ。だから益子に来るのを楽しみにしていました」
と江夏さん。
「それでは、益子の陶芸と民藝の聖地、益子参考館に行きましょう!」
益子チームの提案に顔をほころばせる江夏さんに
「濱田庄司のお孫さんで陶芸家の友緒さんがいらっしゃるかもしれません。
せっかくですから似顔絵でもさらりといかがですか?」と続けると、
「ちょっと緊張しますね」
「展示してある写真をたよりに濱田庄司の似顔絵もどうでしょう?」
「人間国宝ですよね。僕の絵のせいで、鹿児島県民が
さんぽうかんに出入り禁止にならないようにしないと……」
緊張が高まったのか、「さんぽうかん」と言い間違えてしまい、
周囲にネタにされてしまう江夏さん。

スターネット recodeで展示をしている陶芸家の竹之内琢さんも一緒に参考館を訪ねると、
鹿児島からのお客さまということで、濱田友緒さんが案内してくださることに。
参考館は、全国から寄せられた寄付をもとに、
この3月に震災で被災した石蔵などの修復工事が終了し、
リニューアルオープンしたばかり。
大正時代に作られた2号館と3号館の石蔵は、震災で大きく亀裂が入り、
古い手掘りの大谷石の中に新しく修復した色味が違う石が混じる。

「鹿児島には、こんなに古く立派なまま残っている建物は少ないです。台風の被害が大きいからですかね」と竹之内さん(左)。「益子に来てから、立派な堂々とした古い建物がたくさん目につきますよね」と江夏さん(右)。中央が濱田友緒さん。

1号館では、濱田庄司の大皿作品や、富本憲吉、バーナード・リーチ、河井寛次郎など、
庄司と親交があった作家たちの作品を見る。
庄司の晩年の作であるという、釉薬を流し掛けした大皿もある。
「庄司は筆も早いし轆轤も早い。釉薬をかけて指でさっと掻き落とすなど、
一瞬で決める即興的な仕事が特徴でもありました」という友緒さんの説明に、
江夏さんは感慨深げに頷いている。
庄司の釉薬の流し掛けは、柄杓ですくって、一瞬でさっと掛ける。
「飛び散る釉薬がもったいない、という声もあったようです」
という友緒さんの話に江夏さんの目が輝く。
「皿から地面に飛び散った釉薬って、下に紙を敷いておいたら
アートとして成立したかもしれませんね。見たかったなあ! 
ものづくりの人が作業しているところや、
作業した痕跡みたいなものにとても興味があります」

長期滞在した沖縄で見た、どこまでも続くさとうきび畑に心を動かされた濱田庄司。濱田作品で代表的な文様になった「唐黍紋」に見入る江夏さん。

「ほんの数秒」を大切にした濱田庄司の気持ち、わかります。

2号館、3号館を見学した後、
庄司が暮らしていた頃から「上ん台」と呼ばれていた4号館へ。
1942年に隣町から移築した庄屋作りの大きな民家で、
国内外に交友関係が広かった庄司のゲストハウスとして使用されていた。
益子の陶芸仲間や後進たちだけでなく、庄司を慕ってくる旅人を迎え、
ともに食卓を囲んでいた空間で、江夏さんは友緒さんと向き合い、
「ちょっと似ている似顔絵」を描くことに。

似顔絵を描く江夏さんを友緒さんがスマホのカメラで撮影する。

友緒さんからは、「実物よりいいですね」と嬉しいひと言。

江夏さんは、「ちょっと」似ていることにこだわり、
ほんの2〜3分、ペンを無心に動かして似顔絵を仕上げる。
時間をかけて人の顔を書くと、雑念が入って「余計なこと」をしてしまうから。
「今日、濱田庄司が釉薬を流し掛けする時の話を聞いて、
おこがましいかもしれないけど、一瞬で決めようとする気持ちは
僕にもわかると思いました」

「15 SECONDS + 60 YEARS」
震災で被災した益子参考館再建のために地元の窯元や陶芸家、販売店などが
チャリティで制作販売したTシャツに描かれたキャッチコピーだ。
15秒プラス60年。
これは、濱田庄司の流し掛けにまつわるエピソード。
15秒ほどで決めてしまう流し掛けに、
「15秒では物足りないのでは?」と訊ねた客に
「プラス60年と考えてはどうでしょう」と庄司は答えている。
一瞬で決める仕事の背景にある長い年月の研鑽の積み重ねは、
多くの出会いの積み重ねでもあった。
庄司は、神奈川に生まれ、京都、沖縄、益子、そしてイギリスなど海外での滞在も長く、
その60年は、旅先で知りあう人々や心惹かれる風景や造形との出会いの繰り返し。
そのすべての上に立ち、雑念を除き無心に釉薬を汲んだ柄杓を動かした。
江夏さんが気持ちを重ねようとした、濱田庄司が作品を生み出した手の軌跡。
益子で江夏さんが出会った、庄司が遺した軌跡や言葉は、
ひとつの旅を終えた江夏さんの表現活動のなかで、
小さな芽吹きを繰り返していくのだろう。

展示写真を手がかりに描いた、ちょっと似ている濱田庄司。

さつましこ 2
サカキマンゴー(鹿児島出身)× 高山源樹(益子在住)

初日11日にはレセプションイベントとして、
アフリカの民族楽器「親指ピアノ」奏者・サカキマンゴーのライブも開催された。
さつまものの作家も益子側のスタッフや作家も、
それに益子のお隣の陶芸のまち笠間(茨城県)の作家も集まり、
さつまものの食と音楽を楽しみながら、またとない交流の場となった。
マンゴーさんは、アフリカツアーから帰国してすぐの益子入り。
長旅の疲れも見せず、軽妙な鹿児島弁も駆使するマンゴーさんの演奏とMCに
会場の観客は湧き、時にじっくりと耳を傾ける。
もっとも盛り上がったのが下の写真のシーン。
ミュージシャンとしてのキャリアも長い、ランドスケーププロダクツの坂口修一郎さんが、
益子の高校生ジャンベ奏者、高山源樹くんに声をかけ、
さつま × ましこのセッションが実現した。
高山くんは、小学校2年生の頃から
自宅にあったジャンベを自己流でたたき始め、かなりの腕前。
小さいころから両親と国内外の旅を重ねていることもあり、感度が高い。
坂口さんもトランペットで参加し、3人で「茶わんむしのうた」を演奏。
この歌は、大正時代に鹿児島の田舎町で小学校の学芸会の劇中歌としてつくられ、
歌い継がれているもので、マンゴーさんがラテンのリズムにアレンジしている。
マンゴーさんと高山くんは、この日が初の出会い。
それにもかかわらず、リハーサルなしで息の合った演奏となったのは、
旅や新しい出会いを求めるお互いの波長が、ぴったりと合ったからなのかもしれない。

サカキマンゴーさん(左)、坂口修一郎さん(中央)、高山源樹(右)さん。スターネット recodeにて。

サブ会場 ヒジノワCAFÉ&SPACEでの展示風景。

ヒジノワのスペースでは、個人作家と工房あわせて7つの展示が行われた。
江夏さんは、アクリル画やイラスト作品などのほかに、
鹿児島の奄美地方の菓子、ピーナッツに黒糖をからめた
「がじゃ豆の作り方」という部数限定の手づくり本も販売している。
失敗した時のための本物のがじゃ豆(黒糖ピーナッツ)付き。
手づくりのがじゃ豆をプレゼントする時に使えるという、
イラスト入り袋も用意してある。
自分自身も楽しみながら、さつまのよかもんを益子で伝えたい。
そんなぬくもりを感じる表現のカタチだ。

江夏さんの「がじゃ豆のつくり方」ブック。

白い壁のスペースでは、江夏さんの他に、やまさき薫(イラストレーター)、ぺーパークラフトの「サルビア工房」上原かなえ、就労支援のNPO法人「Lanka」の天然素材石けんなどのプロダクツを展示。

黒い壁のスペースでは、木工の「AkihiroWoodworks アキギロジン」、秋廣琢、アクセサリーの「YUKO HODATE」の作品を展示。

後編では、木工作家、陶芸家たちの交流をレポートします。

村人がつくり楽しむ農村歌舞伎

皆で一緒に楽しむために。

あっという間に終わってしまったゴールデンウィーク。
今年はお天気にも恵まれ、とても気持ちのいい連休でした。

その連休のまんなか、5月3日に毎年恒例の「肥土山農村歌舞伎」が開催されました。

5月3日に開催された肥土山農村歌舞伎。お天気にも恵まれ桟敷席はお客さんでいっぱい。

肥土山農村歌舞伎は、300年以上続く肥土山地区の伝統芸能。
その昔、肥土山は毎年のように水不足。
困った百姓たちを救おうと、時の庄屋太田伊左衛門典徳さんが
3年の歳月と私財を投じて蛙子池を完成させ、
その水が伝法川を伝って肥土山へ流れてきたのを大変喜んだ村人たちが、
肥土山離宮八幡神社の境内に仮小屋を建てて、芝居をしたのが始まりと言われています。
なんとも昔話に出てきそうなお話。
それがこんなに身近にあるから驚きです。

太田伊左衛門典徳さんが造成した蛙子池。現在もこの池からの水を肥土山の農家さんたちは利用しています。

今年は私たちが初めて住民として参加する農村歌舞伎。
実は見るのも初めて。
そしてさらに歌舞伎の演目と演目の間の舞踏に、
いろは(5歳の娘)が参加することになったので、
初めての農村歌舞伎ながらいきなり深く関わることに。
3月2日の「練固め(ねりがため)」という顔合わせから始まって、
5月4日の「どうやぶち」という打ち上げまでの2か月間、
どっぷり歌舞伎な日々でした。

「練固め」の日の子どもたち。子ども歌舞伎や舞踏を担当します。緊張しながら皆さんに挨拶。

踊りの練習。同じ幼児園のお友だちとふたりで先生に教えてもらいます。

本番までの1か月間は、ほぼ毎日踊りの練習。
幼児園が終わってから、そのままお稽古。
「お願いします」
「ありがとうございました」
踊りはもちろん、始まりと終わりの挨拶など礼儀作法まで、
島に住む踊りの先生がとても丁寧に教えてくださいました。
そして家でもお友だちと自主練。
子どもと一緒にひとつの目的に向かって一生懸命頑張ることはとても楽しい。

先生の顔をしっかり見て「お願いします」の挨拶。当たり前のようでなかなかできない礼儀作法を教えてもらいました。

こんなふうにして、役者から大道具、着付けなど
すべてを肥土山で暮らす人々が担当し、当日に向けてつくりあげていく。
別にお金をもらってるわけでもないのに、皆が責任感をもち、
いいものにしようと自然と頑張れるこの雰囲気は本当にすごいなと感じました。
こんな田舎に、むしろ田舎だからこそなのか、
理想的なプロジェクトの進め方がしっかりと存在してる!

本番の舞台で位置合わせ。肥土山のおっちゃんたちが舞台の設置や準備をしてくれます。

そして当日15:30から開演。
夕方から夜にかけて、舞台うしろの暮れゆく風景を眺めながらの歌舞伎は
本当に最高だった。
農村歌舞伎は全然難しいものじゃなくて、
同じ地域に住むあの人、あの子が演じているのを見るのはとても楽しかった。
地元ネタなどのアドリブもあって、観覧席からどっと笑いも起こっていました。

お化粧と着付けを完了していよいよ本番。大勢の観客の前で初めて踊ります。

地元ネタのアドリブがところどころに入っていて、とても面白かった。(撮影:MOTOKO)

だんだん日が暮れていき夜になっても歌舞伎は続きます。この暮れゆく風景が本当に美しい。

今年は例年に比べて若い世代の人たちがたくさん見に来ていたそうで、
大盛況だったみたいです。
私の知人も、島外島内からたくさん来てくれました。
家で作ってきた割子弁当を一緒に食べながら、皆昔からの友人のような雰囲気で。

朝から急きょ準備した割子弁当。古くから伝わる郷土料理で農村歌舞伎を見物する際に、家族の弁当を入れて背負っていく木箱。これを20人分作りました。(撮影:MOTOKO)

島内島外の知人たち。この日初対面の人もたくさん。東京から来てくださったカメラマンのMOTOKOさんが撮影してくれました。(撮影:MOTOKO)

肥土山農村歌舞伎というのは、こんなふうにして
親戚や友だちと一緒に楽しむことができるお祭りなんだなとひしひしと感じました。
来年もその次の年もこのお祭りが開催され続けるように、
肥土山で暮らす家族として少しでも貢献できるといいなと思います。
来年も皆でつくり、皆で楽しめるといいな。

アートと自然を楽しむ春の遠足

子どもと過ごす時間を増やし、地域の中で育てていく。

5月になりました。
うちのすぐ横の水路にも水が流れ始め、いよいよ田植えシーズンです。
日に日にまわりの景色の彩度が上がっていくのを感じますが、
これでまた肥土山はグーンと緑になります。
秋に引っ越してきたわたしたちにとって、肥土山の春、夏はまだ未経験。
すごくワクワクする。

そんな初めての春の週末に、幼児園の親子遠足がありました。
いろは(うちのひとり娘、5歳)は、去年から地元の幼保一体の幼児園に通っています。
同じ年の子は5人、全園児24人の小さな幼児園。
山々に囲まれ、すぐ横に田んぼや畑が広がる本当に自然豊かな場所にあります。

幼児園のテラスで遠足出発の準備。この日はとても暖かくまさに遠足日和。

遠足の行き先は、瀬戸内国際芸術祭2013(以下、瀬戸芸)のアート作品「小豆島の光」。
肥土山のお隣の集落「中山」にある、地元産の約5000本の竹で組んだ巨大ドームです。
台湾のワン・ウェンチー(王文志)さん の作品で、
棚田で囲まれた中山地区の谷間にどーんと構えるその様は圧巻。
すごい存在感なのに、不思議と中山の風景の中に溶け込んでいる、そんな作品。
ちなみに幼児園のみんなは「竹のいえ」と呼びます。

中山の風景に溶け込むワンさんの「小豆島の光」。この棚田の風景は本当に美しい。

幼児園から竹のいえまでは、歩いて約2キロ。
40分くらいかけて、親子で手をつないで、
田んぼのあぜ道や森の中の道を歩いて行きます。

実は子どもたちは竹のいえの完成前にも歩いて見に行ったことがあります。
ここの幼児園はとにかくよく歩く。
何もない普通の日でも往復で2時間くらい散歩することがあり、
ある意味ほぼ毎日遠足(笑)。
その歩く道も平坦な道路じゃなくて登り坂、下り坂が多く、
未舗装の道、ちょっと危ない川に落ちそうな道もあったり。
そして何より、そこにはたっぷりの自然があり、
畑があり、お寺があり、おっちゃんおばちゃんがいる。
散歩の途中で、畑に寄ってみかんを収穫したり、お寺に寄ってお茶をもらったり、
そういう風景が普通にあるのはとても素敵だなーと思います。

山々に囲まれた畑の中を歩きます。

幼児園のみんなにとっては見慣れたヤギさんたち。肥土山にはヤギを飼っている農家さんがちらほらいます。

棚田の中を歩いていきます。こんな坂道を毎日登ったり下ったり。

途中でイタチを発見! わぁっとみんなが駆け寄ります。

さらに今年は瀬戸芸の年なので、そこにアート作品が加わる。
幼児園のすぐ近くに、長澤伸穂さんの「うみのうつわ」、
齋藤正人さんの「猪鹿垣の島」があり、そして少し歩けば「小豆島の光」、
秋には武蔵野美術大学わらアートチームによる「わらアート」も登場します。

アートと自然を楽しむことができる遠足、
ここならではのとても素敵な遠足だなと感じました。
子どもたちにとってはアートも自然も同じで、構えることなくただ楽しむ。
歩いてる途中にイタチを発見して「わぁぁぁ!」と走り寄ったり。
竹のいえの中でも、ごろごろしたり、走り回ったり。
竹の匂いを嗅いで「バニラのにおいがするー!」とみんなできゃっきゃしたり。

地元の竹5000本で作られた「小豆島の光」は近くで見るとすごい迫力、中に入ると落ち着きます。

竹の間から差し込む光の中でゴロゴロ。みんなで温泉気分です。

友だちのお父さんにみんなで抱っこしてもらう。

そして帰り道、肥土山離宮八幡神社の横にある農村歌舞伎舞台の桟敷でお弁当。
300年以上続く伝統芸能の舞台を身近で感じながら。

普段から自由に見学できる肥土山農村歌舞伎の桟敷。木陰でお弁当の時間。

こんな風景のある小豆島の里山で子どもを育てる。
わたしたちが引っ越してきた理由のひとつでもあります。
一緒に過ごす時間を増やし、地域の中で育てていく。
リタイア後に田舎で暮らすのも素敵ですが、子育て世代こそ面白いのかもしれません。
もちろん大変なこともたくさんありますが(笑)
これから子どもがどんなふうに成長していくのか楽しみです。

京都・宇治茶の産地に自転車遠足しよう「京都、自転車ランデブー 2013 春」

GWまっさかり。お出かけが本当に気持ちのよい季節ですね。
京都在住の自転車アクティビスト、KaOさん企画の
サイクリング・イベント「京都、自転車ランデブー 2013 春」が
GW期間中開催されています。

このイベント、普通のサイクリングとは一味違います。
自転車で京都の町並みを楽しみつつ、
京絞りなど伝統工芸や茶つみ、さらには温泉まで
体験できるよくばりな内容の催しが
7日間にわたって行われています。

例えば、片道だけ自転車に乗るもよし、電車で来て
体験だけするもよし、自由な参加ができるんです。

GW後半は5/3、4、5、6に開催。
残念ながら他プログラムの応募は既に終了しているのですが、
コロカル読者のために5月4日の茶つみ遠足(参加費3,000円)への
参加枠をご用意させて頂きました。

この日は、宇治茶の産地である和束町にお出かけし、
見渡すかぎり広がる茶畑で、茶農家さんと一緒に
茶つみ体験をします。お昼には古民家で茶づくし弁当も。
電車でも自転車でも参加できます。

お申込みはこちらのフォームからどうぞ!
定員に達し次第、締め切らせて頂きます。
http://bit.ly/16fBvU9

こちらは4/27に行われた「お気に入り京都案内サイクリング」のひとこま。facebookにてこれまでのプログラムの写真が見られますよ〜。

Facebook「京都、自転車ランデブー 2013 春」

小豆島ひとやま 寺カフェ、地域のサロンとして

お寺を人が集まる場所に。

小豆島で暮らしていると、白衣(びゃくえ)を着て
杖をついて歩いているお遍路さんをよく見かけます。
お遍路とは、弘法大師空海が開いたとされる88か所の霊場を巡拝すること。
小豆島には「小豆島八十八ヶ所」があり、
四国のお遍路に比べて行程が短く(約10分の1)、
海や山など美しい自然に囲まれた霊場が多いことから、
多くのお遍路さんが訪れるそう。
お遍路については以前からなんとなく知っていたけど、
小豆島に移住してからお遍路がより身近な存在となり、
いつかまわってみたいなと思うようになりました。

私の暮らしている肥土山にも、小豆島八十八ヶ所のひとつ
「小豆島霊場第四十六番札所 護法山多聞寺」があります。
肥土山の集落を見渡せる高台にあり、この時期、
お遍路さんが鳴らす鐘の音がうちまでよく聞こえてきます。

小豆島霊場第四十六番札所 護法山多聞寺。山門の前に「小豆島ひとやま 寺カフェ」の看板。

境内のお庭からは、肥土山の集落とその向こうの山々を眺められる。

うちは昔から多聞寺さんの檀家(だんか)。
こっちに引っ越してきたとき、まず最初に挨拶に行きました。
考えてみると、名古屋で暮らしているときは地元のお寺に行ったことなんて一度もなし。
お寺というと、綺麗に手入れされたお庭を観光として見に行くとかその程度で、
普段の生活ではほぼ関わることのない場所でした。
それが一転、ここ肥土山では毎日家からお寺が見え、
鐘の音が聞こえ、お遍路さんも見かける。
急に近い存在に。

そして偶然にも、現在の多聞寺のご住職(こちらでは、おじゅっさん! と呼びます)は
私たちと同年代、さらに子ども同士も同年代。
お寺と檀家としての関わり、同年代の子どもを持つ親同士の関わり。
自然と会う機会が増えていき、いろんな話をしていく中で、
今回の「小豆島ひとやま 寺カフェ」の企画が生まれました。

各テーブルに寺カフェのメニューと季節のお花を飾って。

おじゅっさんの奥さまである藤本奈々恵さんは、小豆島で育ち、
東京で学生時代を過ごし、再び小豆島に帰ってきた女性。
自分が嫁いだ「お寺」でできることをやろう! ということで、
お寺でことわざ、俳句教室を開いたり(まさに寺子屋!)、
オリーブの木の念珠ブレスレットづくりのワークショップをしたり、
お寺でヨガをしたり、いろいろな「寺活」をしています。

そんな彼女からの「寺カフェやってみない?」のひとことで始まりました。
もともと自分たちの家を改修してカフェをオープンする予定の私たちにとって、
それはこの肥土山という場所でどんなふうにお店を構えることができるのか、
予行演習ともなり得る貴重な機会。
挑戦してみよう! ということで、企画から1か月、
営業許可申請、食器や什器の準備、メニュー決め、Webサイト、チラシの作成など、
ひとつずつ進めていきました。

コーヒーは一杯一杯ドリップで。オリジナルの小豆島ブレンドコーヒー。

キッズメニュー。子どもたちが楽しんでごはんを食べてくれるように。

小豆島産の無農薬レモンを使ったレモンスカッシュのポップを作成する娘。

もろもろの準備と同時に、肥土山の人々にとって大事なお寺を使わせてもらうため、
こんなことがしたいということをきちんとお話しました。
肥土山の皆さんあっての小豆島ひとやま 寺カフェだから。
そして、4月7日の「肥土山の火まつり」で、お遍路さんや地元の方々に
コーヒーを無料で提供しながら、寺カフェのお知らせ。
その1週間後の4月13日にいよいよオープン。

お寺でカフェを開くことで、
お寺をもっと身近に感じてほしい、気軽に足を運んでほしい、
そしてそういう風景のある小豆島肥土山という集落をいいなと感じてほしい
という思いからオープンした寺カフェ。

瀬戸内国際芸術祭のついでに立ち寄ってくださった島外からの方々、
Facebookを見て来ました! という小豆島在住の女の子たち、
仕事のお昼休みに来てくれた地元のおばちゃんグループ、
畑作業をし終えてそのまま一服しに来てくれた友だち家族、
様子を見に来てくださった瀬戸芸関連のクリエイターさんたち、
いろいろな方々が来てくれています。

小豆島について語ってます(笑)。左からたくちゃん、瀬戸芸で「小豆島カタチラボ」を展開されているgraf代表の服部滋樹さん、多聞寺の藤本奈々恵さん、わたし。カメラマンの桑島薫さんが撮影してくれました。

天井が高く、奥に手入れされたお庭が広がる客殿、
美しい里山の風景を眺められる境内のお庭。
もともと素敵な場所であるお寺に、
カレーのスパイスやコーヒーの美味しい香り、心地良い音楽が加わることで、
ゆっくりと居ることができる場所のできあがりです。

天井が高く、奥に手入れされたお庭が広がる客殿。

外の席で日向ぼっこしながらホットコーヒーを。最高のロケーション。

さてさて、予定している7営業日のうちすでに4営業日が終わりました。
残すは4月29日(月・祝)、5月4日(土)、5月5日(日)の3日間、
いろいろな方々との出会いを楽しみたいと思います。
ちなみに小豆島では、4月21日に春会期を終えた
「瀬戸内国際芸術祭2013」で展示されていたアート作品を、
夏会期までの間も観賞できるよう「小豆島まだ春会期」と題して現在も作品公開中です。
アートとあわせてお寺で美味しいひとときをどうぞ。

東京でも大阪でもなく、小豆島で出会える

小豆島で出会い、「関係」が生まれる。

3月20日から始まった「瀬戸内国際芸術祭2013」(以下、瀬戸芸)。
あっという間に春会期が終わってしまいました。
今回の瀬戸芸は、春、夏、秋の3つのシーズン。
それぞれが1か月から1か月半くらいの期間開催されるのですが、
「始まったねー」と思っていたらあっという間に1か月経ち、
ひとつめのシーズンが終了。
始まった頃はまだ冬の寒さが残っていたのに、
すっかり春になり新緑がまぶしい季節です。

暖かくなり一気に黄緑になっていく山々。木陰で畑仕事の休憩。

小豆島は、ぐるっと海岸線を走ると約120キロくらいの大きさの島で、
人口約3万人、小豆島町(しょうどしまちょう)と土庄町(とのしょうちょう)の
ふたつの行政からなる島。
たぶん多くの人が想像しているよりも大きな島で、こっちに移住してからわかったことは、
ひと言で小豆島といっても場所によって雰囲気がかなり違うということ。
北と南では気温や降水量も異なり、住む人の話し方(方言)や性格も違うらしい。
なんだか日本の縮図のような島。

今回の小豆島での瀬戸芸は、大きく分けて、
土庄港・迷路のまち、肥土山・中山、三都半島、醤の郷・坂手、福田の
5つのエリアで展開。
島の中では比較的都会(?)な「土庄港・迷路のまち」。
「肥土山・中山」は山に囲まれた田舎、「三都半島」は海が近い田舎。
醤油蔵が建ち並ぶ観光地「醤の郷」とその南にある「坂手港」。
島の北側にある漁村「福田港」。とてもざっくり書くと
そんなイメージの5エリア(ざっくりすぎ! と怒られそうな…笑)。
それにしても、これだけ性格の違うエリアが
ひとつの島の中に存在するというのはすごく面白い!

醤の郷、「小豆島町コミュニティアートプロジェクト」醤油のたれ瓶で作ったグラデーションが美しい壁。

肥土山、齋藤正人さんの「猪鹿垣の島」幼稚園の帰りに寄れるのは住民の特権(笑)。

それぞれの場所で、クリエイターさんたちが
そこにある建物やまち並みを生かしたその場所らしいアートを展開しています。
作品だけじゃなくて、ガイドマップやWebサイトも制作されています。
エリアによって特色があってこれまた面白い!
そして、いろいろな活動も行われています。

各エリアごとのガイドマップ。それぞれ特色があって面白い。

たとえば醤の郷・坂手エリアでは、「観光から関係へ」とコンセプトをかかげ、
「醤の郷+坂手港プロジェクト」を展開。
原田祐馬さん率いる「UMA/design farm」と
多田智美さんが代表を務める「MUESUM」が運営する
クリエイター・イン・レジデンス「ei」では、
10組のさまざまなクリエイターさんが各10日間滞在し作品を制作していきます。
その制作過程を毎日公開し、公開インタビューもあったり。
島の食材を使ったごはんを食べられるカフェ、
まちの中を歩くこと自体を作品としたプロジェクトなど盛りだくさん。

2組目のクリエイター(吉行良平さん、大植亜希子さん、戸田祐希利さん)の公開インタビュー。

eiカフェで島産そうめんを使ったエイヌードルを食べる高校男児たち。うしろに「ようこそ小豆島へ」の看板。

そこではつくっている人たちがとても近くにいて、
直に話をすることもでき、本当にワクワクする。
まさに人と人とが出会うことで生まれる「関係」がそこには存在する。
島に住んでいる人にとっても、島外から瀬戸芸を見に来る人にとっても、
これは瀬戸芸のひとつの醍醐味なんじゃないかな。
移住する前は雑誌やインターネットなどのメディアでしか見たことがなかった人たちが、
いまの小豆島ではそこにいる。
東京でも大阪でもなく、面白いものをつくっている人たちに、小豆島で出会える。
瀬戸内海のひとつの島でこんなことが起こっているというのは、
けっこうすごいことだなと改めて思います。

クリエイターさんたちと地元の高校生がコラボしてひとつの作品をつくる。

そんなこんなで新しい出会いにワクワクしつつ、春会期は終わってしまった。
島に住んでいてもなかなか全部のアートをまわりきれない。
それくらい小豆島は広く、たくさんのアートやイベントが展開されています。
小豆島では会期外でも見られる作品がたくさんあるので、
作品鑑賞パスポートのスタンプを集めるべく、
ぼちぼちと作品を見に、人に会いに行こうと思います。

山形・想耕庵 その2

朝ごはん、だけのつもりが。

迎えた翌朝。
窓の外を見ると、あたり一面すっぽりと雪に覆われている。
これぞ雪国! という景色。
足下が悪いので、山形駅からタクシーで向かうことにした。
山形の朝食、いざ行かん。

山形駅からタクシーで20分ほど。道中、期待と不安が入り交じる。

「どんな朝ごはんが食べられるのかな、ワクワク」

「昨日はOKしてくれたけれど、今日になって面倒に思っているのではないかな……」

「勢いでお願いしてしまったけれど、厚かましいよな〜」

ぶつぶつ……。
20分ほどで到着。
タクシーから降りると、ご主人が玄関先で出迎えてくれた。

--- 7:40 ---

「おはようございます!」

「あ、どおも~」

丁寧なお辞儀と、微笑を少し。
終止柔らかい口調のご主人、どうやら歓迎ムード、よかった。

「こちらにどうぞ」

居間に通していただいた。

正面にどんと据えられたテレビからは、NHKニュースが流れている。
やかんからの湯気と、雪に反射した柔らかい日差しとが相まって、
部屋の中はなんだかとっても心地よい。
そしてちゃぶ台の上には、すでにおかずが何品か並んでいる、美味しそ~。

そこへ女将さんが登場。

「おはようございます! ほんとうに来ちゃいました、すみません」

「あは~、たいしたもんじゃないよ~、ほんと」

台所と居間を行ったり来たり、てきぱきと朝食の支度を整える女将さん。
それをお手伝いするご主人。

--- 8:00 ---

「♫~♫〜」

テレビから朝ドラの主題歌が流れる。

「おかあさん! おかあさん!」ご主人が叫ぶ。

どうやら「集合!」ということらしい。
ご夫婦とも着席、ジャスト8時。

揃ったところで、おふたりの写真を撮らせていただこう。

「いやーーー、わたしは、ほんっとにいいよー、写真は、ほんとに」

と、女将さんが手で顔を覆い、照れまくる。
それでも何枚か撮影させていただき、さて、では、いただきます!

照れまくる女将さんをなんとか誘い、パチリ!「あっ、ドア開いてたね、丸見えだね〜、あははは」と女将さん。

今朝のメニュー
☆もってのほか(菊の花びらと大根おろしを和えたもの)
☆大根の皮のきんぴら
☆赤大根の酢漬け
☆白菜の蒸し煮
☆五月菜の煮浸し(山形では菜の花を「五月菜」とか「くきだち」と呼ぶ)
☆かぼちゃの煮物
☆アジの干物
☆ごはん
☆昨日のお鍋の残りみそ汁
☆ヨーグルト

品数も量もずっしり。
ごはんも、山盛り!
うむ、食べきれるかしら……。

小豆島の里山から

生き方を変えるために。

2012年10月31日、私たち家族は小豆島に移住してきました。
たくちゃん(夫36歳)、いろは(娘5歳)とわたし(33歳)の3人家族。
それにペコ(犬)、こまめ(ハムスター)も連れて、
夜中の1時神戸発のジャンボフェリーに乗っていざ小豆島へ。
そこから小豆島暮らしが始まりました。

ここ数年、「移住」「自給自足」「地方がおもしろい」
そんな言葉をよく目にする気がします。
すごく楽しそうで魅力的な言葉で、移住する前は、
そういう見出しの雑誌を見つけては読んでいました。
小豆島に来る前は、名古屋でIT企業勤め。
核家族、共働きだったため、子どもを毎日保育園に預けて通勤という
都会にはよくあるスタイル。
お金に困ることもなく、お店や遊ぶ場所もすぐ近くにたくさんある快適な生活。
でも、せわしない毎日、消費する毎日になんとなく違和感を感じ、
豊かに生きるってなんだろうとしばしば考えたり。
だから、生き方を変えるとか移住とかそういう言葉がよく目についたのかも。

そんな中で、日本を襲った大きな震災、わたし自身の体調不良など、
いろいろなことが重なった2011年。
よし、生き方を変えよう! と決心。
消費するために働いてお金を稼ぐ、そういう生き方じゃなくて、
生きること自体を働くことにしよう。
暮らしに必要なものを自分たちの手でつくる時間、
ごはんを家族そろって食べる時間を持とう。
そして運良くたくちゃんも同じように考えていて、家族の気持ちが固まれば、
アクションを起こすことは思ったよりも簡単で、物事は一気に進んでいき、
1年後には8年間勤めていた仕事を辞め、生まれ育った愛知県を出ることとなりました。

いま暮らしているのは、小豆島の肥土山(ひとやま)という、
山々に囲まれた盆地にある集落。
その盆地の斜面に建つ、義父が若い頃に住んでいた築120年の農村民家で、
わたしたち家族は生活しています。

知人のオリーブ畑でオリーブの実を収穫、自宅の庭で自家製オリーブオイルづくり。

移住して早々、祖父が残してくれた畑で収穫したレモンとイチジク。

島だけど、海というより山という場所。
段々畑や田んぼが広がるのどかな里山。
現在の世帯数は200程度で、人口600人くらいの規模。
多くの田舎と同様に超少子高齢化の集落で、
小学校は8年前に廃校となり、同学年の子どもは2、3人。

盆地に広がる肥土山の集落。

それだけ書くとよくある少し寂しい田舎のようですが、
肥土山の人のつながりは異様に強く、行事もとても多い。
映画『八日目の蝉』にも出てきた、田んぼの畦道を松明を持って練り歩く「虫送り」や、
300年以上も続く「肥土山農村歌舞伎」、
つい先日もお寺で「肥土山の火まつり」がありました。
そんな昔からの行事や風景が残り続けている場所です。

多聞寺で行われた「肥土山の火まつり」。

その肥土山でも、3月20日から「瀬戸内国際芸術祭2013」が始まりました。
瀬戸内国際芸術祭、略して「瀬戸芸」。

「瀬戸内国際芸術祭2013」の青い大きなフラッグと背後に広がる肥土山の集落。

ところどころに展開されるアート作品や、瀬戸芸の青と白の旗、
島外から来ている人たちを目にして、ここに暮らす人たちも
なんとなくいつもと違う空気を感じてワクワクしています。
実際に作品づくりの手伝いをしたり、その制作過程を身近で見ることができたり、
またなかなか会えないであろう海外からのアーティストと直接お話をしたり、
ワクワクすることが多い毎日です。

ニューヨークを拠点に活躍する長澤伸穂さんのアートトークがあり、その後ご本人が作品紹介。

まだ小豆島で暮らし始めて半年。
少しずつ島の人とのつながりも増え、移住後に始めた畑でも
野菜を収穫できるようになってきました。
そしてこれから築120年の自宅の改修工事に入る予定です。
そんな小豆島肥土山での暮らしや、瀬戸芸の様子、島の面白い人たちのことなど、
いま小豆島でどんなことが起こっているのか、
実際にここで暮らす小豆島人として毎週レポートしていきます。

ホラー的体験

『STAR WARS』のTシャツがもたらしたこと。

しばらく時間が経過してみると、あれは本当に起こったことだろうかと思えてくる、
そんな出来事がここ数年で何回かあった。
それぞれ記憶にあるシーンは、ぼんやりしているどころかむしろ鮮明だ。
でも、どういうわけか、映画のセットのような趣を帯びていて、現実味は薄い。
2010年の春、狐を見た。
児島から玉野市に入ってすぐのところにある渋川海岸の浜辺、
日が暮れて間もない時間帯だった。
野生の狐は海外で何度か目にしている。
膨らんだ長い尾、逃げ際の身のこなし、こちらを振り返ったときのもの言いたげな目。
間違いないのだ。子どもの頃も含めて、
児島やその近郊で狐を目撃したという話は聞いたことがない。
でも、あれはたしかに狐だった。
しかし、狐との遭遇があまりにレアだからリアリティに欠けているというわけでもない。
その狐と目が合った瞬間、
時間の軸がぐわんと歪んだような奇妙な感覚をおぼえた。
次元と次元の隙間に足をとられたというか。
ひとえにそんな不思議な感覚ゆえだと思う。
そして狐はぼくの記憶のなかで、スポットに照らされたかのように、
夜の海岸でほの白い光をまとっている。

つまるところ、ホラーだと思う。「ホラー的体験」とでもしておこうか。
児島のガソリンスタンドであったあの出来事は、
内田百閒の『サラサーテの盤』にも通じる類のホラーがあった
(内田百閒は岡山出身の小説家です)。
あれは今年の1月。夕方に行きつけのガソリンスタンドに寄った。
夕方といっても日はとっぷり暮れて、あたりは夜よりも暗いほどだった。
ぼくはいつものように、店主のおじさんに
「現金で満タン、お願いします」と言って車のキーを手渡し、
誰もいない待ち合いの事務所に入った。
ほどなくして、レシートを手におじさんが入って来て、
いつもの笑顔でまっすぐぼくのところまでやってきた。
と、そこまではこれまで何十回と経験している。
しかし問題はその先、おじさんの読み上げた金額が明らかに少ないのだ。
ぼくの車はほぼ空の状態だったから、
満タンにすれば5000円近く入るはずだった。
でも、そのとき言われた金額は4000円にも満たなかった。
「あれ、おかしいな。もう少し入りませんでした?」
ぼくが言うと、おじさんはいつもの笑顔を崩すことなく、こう言った。
「手もとが暗うて、よう見えんかったから」
手もとが暗うて、よう見えんかったから————。
百閒先生なら「総毛立つ」と表したかもしれない。
ぼくは突っ込んで聞き返すどころじゃなく、
霊界につながる裂け目に突き落とされたような感覚を味わっていた。
さて、その後の行動はというと、
ぼくは言われたままの金額を支払って待ち合いの事務所を出た。
出てすぐのところで目にした光景が記憶に鮮明だ。
青みがかった明かりがまぶしいぐらいにその場を照らして、
お客はいない、作業しているはずのスタッフの姿もない。
いつもは聞こえるラジオの音もなかったように思う。

4月に入って最初の日曜日、お昼どきのマチスタでのこと。
その日最初のお客がその男性だった。
彼はぼくとのコミュニケーションを求めているようだった。
そんな場合、ぼくはつとめて言葉を選んだりタイミングをはかったりして、
なんとか会話がうまく運ぶようにするのが常である。
でも、その人との相性うんぬんじゃなく、
たまたまなにを話してもうまく噛み合わないというときもある。
そのお客さんの場合がまったくそれだった。
ぼくはコーヒーを淹れながら、同時に彼とのやりとりに腐心しながら、
少々の焦りさえ感じていた。そのとき、その男性がガラリ話題を変えた。
「そのTシャツ、前に来たときもたしか着ていましたね。
『STAR WARS』が好きなんですか?」
ぼくが着ていたのは、胸のところに『STAR WARS』のロゴをあしらった紫のTシャツ。
いかにも、「ただロゴを配置しました」というゆるいデザインで、
3年ほど前にユニクロのセールで買った。
気に入っているのは映画そのものじゃなく、デザインの素っ気なさだった。
ちなみにぼくは『STAR WARS』シリーズは2本しか見ていないので、
掘り下げて話ができるはずもない。
でも、人間、なにも考えずに黒いものをついつい白と言ってしまうときがあるのだ。
「ええ、結構好きですね」
すると、コーヒーを淹れているぼくの目の前に立っていた彼が、にやりと笑い、
無言で着ていたパーカーのボタンに手をやった。
「…………?」
ボタンを下まで外した後、もう一度胸元に手をやって、
ゆっくりとジッパーを下げ始めた。ぺらん。パーカーの襟元がめくれて、
下に着ていたTシャツの柄の上の方が見えた。
いや、柄ではなく大文字のアルファベット………
イー(E)、ピー(P)、エス(S)、オー(O)。 

E P I S O D E 1(エピソード1)

つまるところ、これもホラーなのだ。
この前の日曜日、マチスタで実際にあったホラー的体験……。
その後ぼくがどう対応したかはものすごく曖昧な記憶しかない。

ホラーな写真なぞ持ち合わせていないので、まったく関係のないところで、春めいてきた通勤路の写真なぞ。この写真はアパートから早島駅までの道。かなりの田んぼ道です。畑にはチューリップが咲き誇っていました。チューリップといえばオランダというイメージですが、この景観にオランダ感は皆無ですね。

岡山駅からマチスタまでの間にある西川緑道公園。西川という細い川に沿って数キロにも及ぶ。岡山駅周辺は案外な都会なので、緑も水も豊富なこの公園は街なかの貴重なアクセントになっています。この公園に沿って、飲食店もたくさんあります。ほとんど行ったことないけど。

児島駅からアジアンビーハイブまでの道は、国道を通るよりも、この堤防沿いの道を、海を眺めながら歩くことが多いです。これからもう少し暖かくなると、陽射しが断然強くなって水面がまぶしくなります。夏の予感のひとつですね。

フォトいばらき 2013年春季号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

侵食された岩肌と、太平洋の海原が織りなす風光明媚な北茨城市五浦海岸。日本美術界の指導者、美術運動家として近代日本美術の発展に尽くした岡倉天心は、この五浦の地をこよなく愛し、晩年思索と静養の場として長く過ごしたそうです。そんな天心の愛した五浦の情景をたっぷりの写真とともにお届けします。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2013.3

山形・想耕庵 その1

美しい雪景色と、人のいいご主人の打つ蕎麦を堪能。

2月上旬、コロカル「山崎亮 ローカルデザイン・スタディ」の撮影で山形へ。
ならば、ついでに旨いものを、とリサーチ。
昼は山形蕎麦、夜は地元の居酒屋で決まり、残るは翌日の朝ごはん。
ホテルで済ませてしまうのでは何だかもったいない。
タクシーの運転手に地元オススメを聞き込みをするも、有力な情報は得られず。
「外で食べねえからな~」とひと言。
ごもっとも。

そうこうしているうちに、時刻はお昼時。
ひとまずお蕎麦を食べに向かおう。
山形出身の友人からのススメで「想耕庵」という店へ。
いざ行かん。

蔵王温泉のお膝元、かみのやま温泉駅。斎藤茂吉の生まれ育った里。

かみのやま温泉駅から車で8分、雪景色の中を進む。
住所の場所に辿り着くと「龍王温泉」の看板が目に入る。
あれ? と思いつつ奥へ進むと、「想耕庵」なる看板を発見。
誰かのお宅のような佇まい。

雪にすっぽり囲まれた想耕庵。

12杯のコーヒー

父も息子も。

何年か前に倉敷の年金事務所の担当者が児島の実家にやってきた。
例の「消えた年金」騒動のさなか、厚生年金の支払いの確認だった。
担当の女性はぼくと父に職歴を書き込んだ書類を手渡してくれた。
ぼくのそれはまったくシンプルで、
20代の頃に3年あまり働いていた会社の社名と在籍期間が記されてあるだけ、
ほぼ白紙の状態だった。一方の父はというと、ひょいとのぞいてたまげた。
父が手にしていた用紙には10以上の会社名がびっしり、
おまけに用紙は1枚で足りず2枚にわたっていた。
若い頃からいろんな仕事をしていたと折に触れて母から聞いていた。
自衛隊員に始まり、土木作業員とか化粧品の訪問販売とか、
それこそ押し売りのような仕事まで。
リストの上から順に会社の名前を目でなぞっていくうち、
そこにあった一行に思わず目を奪われた。
○○広告社————。オヤジ、もしや広告関係の仕事もしていたのか?
「そりゃあれじゃ、プロレスの宣伝カーのドライバーじゃが」
気が短くて無軌道で、やることなすこと無茶苦茶な人だった。
おまけに仕事運もよかったとは言えない。
それでも、家にお金を入れようという父親としての責任感は途切れなかった。
まさに父の人生そのままを現したその職歴とも無関係じゃないと思う。
父はブルーカラーの人たちには、いったいに親切だった。
子どもの頃、家にバキュームカーがやってきたときのことをよく憶えている。
当時住んでいた借家のトイレは汲取式で、年に数回バキュームカーが来ていた。
父はいつもハイライトを数箱用意しておいて、
作業が終わった作業員に「とっといてください」と言って煙草を手渡した。
煙草の代わりに500円札を渡したのも何度か見たことがある。
当時の我が家の暮らしぶりは実につましいものだったけど、
その手のことに父はお金を惜しまなかった。

気がつくと、マチスタの目の前にいかつい作業車がでんと停まっていた。
3月になったとはいえ、まだまだ朝の寒気の厳しい日だった。
大きさは、2トントラックぐらいはあるだろうか。
なんとはなしに店の外を、目をこらすように見ていると、
どこからか作業着姿の男がふたり現れ、まっすぐ店に入ってきた。
「すいません、これから下水の工事をさせてもらいます。
それほど時間はかかりませんので」
それからしばらく、エンジンの音やごそごそとざわついた物音が
店のすぐ外で聞こえていた。
ほどなくして物音が消えたと思ったら、作業が一段落したのだろう、
目の前の歩道で作業服を着た男たちが休憩している。
「おつかれさま」の一言でも言おうとして入り口のドアを開けると、
すぐ目の前にいた若い作業員が
店先に出していたホットドッグの看板をじっと見つめていた。
「作ろうか? 美味しいよ」
ぼくの悪魔のささやきに、彼は無言のまま軽い笑みを返しただけだった。
すると、すぐ後ろにいた先輩らしき作業員が声をかけてきた。
「食べるんならおごっちゃるで」
若い作業員は振り向いて、マジで?
「ええよ、ホットドッグをふたつちょうだい」
この手の気持ちのいいオーダーには、
気持ちのいいサービスで応えるのがぼくのやり方だ。
「じゃあ、コーヒーはサービスしようかな」
「おおおお!」
ふたりが同時に声をあげると、それが呼び水となって、
「なになに?」と作業員が全員集まって来た。
帯同していた警備員のオジさんまで。
「美味そうじゃな」「オレも食べようかな」「オレも食べるわ」
と三々五々に声があがり、最初に店に入って来た作業員がぼくの目の前にやってきた。
「ホットドッグを6つください」
彼らにホットドッグと同数、
6杯のコーヒーをサービスで淹れたのは言うまでもない。
ところが、彼らはその間に再び作業を始めてしまい、
いくら待っても作業を切り上げるようにない。
挙げ句コーヒーもホットドッグも完全に冷めきってしまった。
彼らが作業を終えて店に戻ってきたのは30分以上も経ってからだった。
「そのままでいいから」と言う彼らを振り切るようにして、
ぼくはホットドッグをオーブンで温め直し、
冷めたコーヒーを全部捨てて6杯分を新しく淹れなおした。
しめてコーヒー12杯のサービス。
一日で20杯出れば御の字という店にしたら、
アンビリーバブルな大盤振る舞いである。でも、迷うことはなかった。
コーヒースタンドの経営者である前に、
バキュームカーの作業者にいつも煙草を用意していた父の息子なのだ。
この寒空の下で働いている彼らに冷めたコーヒーなんぞ飲ませられるはずがない。
そんなことをしたと若い時分の父が聞いたら、
茶碗が飛んで来たうえにこっぴどく殴られたろう。それも平手じゃなく、グーで。

最後になったが、ひとつ断っておいたほうがよさそうだ。
ここまで父のことを「だった、だった」と
あたかも故人を表すように過去形で書いてきたが、父はいまも生きている。
平成25年3月の時点では。

玉野市にあるセレクトブックショップ「451ブックス」が制作した岡山のカフェ&アートブックマップを絶賛配布中。マチスタではショップカードやフライヤー、ジーンの類は十分な設置場所がないのですべてお断りさせていただいているんだけど、これだけは配らないわけにはいきません。それほどの手間のかけようです。

大日堂舞楽 後編

かたちなきものを未来へ継ぐために。

「クリスマスも正月もないと知らずに結婚した嫁からは、詐欺っていわれましたよ」
と笑うのは、1300年続く大日堂舞楽のなかでも一番のクライマックスともいえる
権現舞(獅子舞のことを東北の多くの地域では権現舞という)を舞う、阿部 匠さん。
阿部さんは2009年から小豆沢集落で舞を舞う能衆に参加している。
ちなみに大日堂舞楽では権現様、いわば神様が阿部さんに降りてくるため、
行(ぎょう)という舞楽の前に身を清める行為も
舞楽にかかわる能衆の誰よりも長い期間行う。
よって、結婚したばかりの奥様のぼやきもわからないでもない。

昨年末、舞楽に参加する4つの集落の内習(うちならい)を見に行ったが、
大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ、以下大日堂)のお膝元である
小豆沢集落に行くと、神様という舞楽一の重責を担う阿部さんは、
黙して多くを語らず、本番が近づくにつれ
どことなく話しかけにくい緊張感を漂わせていた。

元日、小豆沢集落の能衆は夕方に身固めの舞を行う。神名手舞を舞う阿部 匠さんと最年少の小学二年生、山本弐虎太くん。夜7時には散会した。

舞楽の当日1月2日。大日堂で行われる本舞の前から集落毎に儀式があると聞き、
私たちは小豆沢集落の能衆について回ることにした。
2日は深夜0時30分に賄宿(まかないやど)に集合する。
年毎に変わる賄宿は新築した家が受けることが多いが、
今年は3年前に新築した家で行われた。

賄宿でふるまわれる精進料理のお膳。ナマコの酢の物や、ハタハタの三五八漬など秋田らしい料理が並ぶ。昔は請け負う家で用意していたが一家庭で17名分の料理を準備するのは大変なので、今は仕出しを頼むのが通例。そのほか、日本酒やビール、お漬け物、納豆汁などを賄宿で用意する。

「正月から家に17人の能衆があがりますからね、最初は大変だと思っていたんですが、
昨年請け負った家の人から賄宿をやること自体が感動的だったと聞いたので、
厄落としの意味もこめて引き受けてみました」
と言うのは、賄宿の奥様。
確かに、年明け2日の真夜中から男衆が集まって飲むのだから
親戚家族総出の手伝いが必要だ。

ひとしきり酒と食事が終わった朝3時、
能衆が上着を脱ぎ始めてふんどし一丁になった。
外は零下7度。若い衆から順に外に出るのだが、
そばで見ていて鳥肌がたっているのがわかる。
これは水垢離(みずごり)という儀式で、賄宿の前を流れる川から水を汲み、
体に12回かけ、身を清めるのだ。
雪の降る中、男たちの背中は、赤く燃え始めた。

水垢離の様子。真冬の水は刺すように冷たく、本当にしばれる。酒で火照った体は衣類を脱ぎ、部屋を出たとたんにたちまち鳥肌がたち、男たちは足踏みしながら歯を鳴らす。

出立装束の下は、昔ながらの股引やスポーツ用のアンダーウエアなど、防寒のためにとにかくたくさん着込む。

一度履いたら、最後まで履きっぱなしになる鞋靴。最後には切れてしまう人もいるとか。大日堂に向かうまでに立ち寄る場所には各所ビニールシートが敷かれていた。

身固めの盃。二部屋にまたがって広がっていた人たちを身固めの盃をする際には鴨居をまたいではいけないしきたりのため、床の間座敷一部屋に入るといった詳細な決まりがある。

麻織物を藍で染めた出立装束に身を包んだ能衆は、
身固めの盃を行ったあとに神子舞、神名手舞、権現舞を舞い、
4時30分に吹雪のなかを出発した。まずは平安神社で舞を奉納し、
ここでは前記の3つの舞以外に田楽舞も奉納された。
きっかり1時間後には笛吹田という先祖代々、舞楽で笛吹きを務めている家で舞い、
その後、酒や食べ物がふるまわれ、次に八坂神社、白山家で舞う。
行列道中では列を乱してはならないため、
トイレも決まった場所で行うことになっている。

正月夜の集落内はいつもに増して静まりかえっている。よろずのものを販売している酒屋の明かりと、降りしきる雪と。

賄宿を出たときは吹雪いていたが、雪も風もやみ、静かな夜が訪れた。誰もいない道路、小豆沢能衆の足音だけがさくさくとあたりに響いていた。

笛吹田の家では、休息時に出す料理は長漬菜と大根おろしのしぼりと決められている。お神酒は一升入りのテッパチ椀で回し飲みする。その後、八坂神社では「田楽豆腐」、白山家では「焼き味噌」がふるまわれ、これらはすべて慣例の接待料理だ。

太陽が昇ったところで西のカクチにて大里集落の能衆と出会い、権現舞を舞う。

7時30分、平安神社裏手にある西のカクチという場所で
小豆沢と隣の大里集落の能衆が出会う。
ここでは各集落がひととおり舞い、年頭のあいさつを交わしてから
大里、小豆沢の順に大日堂へ向かう。
そして、8時に大日堂にて大里、小豆沢、谷内、長嶺の4つの集落が出会い、
挨拶を交わす修祓(しゅばつ)の儀がとりおこなわれる。
ここで、初めて一般のお客さんも舞が見られるようになる。
地域の行事らしく見学のお客さんでにぎわい始めていた。

午前8時、表参道からは長嶺、谷内集落、裏参道からは大里、小豆沢集落の能衆が境内に入り、宮司がお祓いをして年頭の挨拶をかわす儀式が修祓の儀。この後、全員で権現舞を舞う、地蔵舞が行われる。

勢揃いした能衆が大日堂を正面に整列し、
花舞(能衆全員が神子舞、神名手舞、権現舞を舞う一連の動きをいう)を
舞っていると同時に、お客さんでいっぱいになった堂内では
小豆沢青年会による籾押し(もみおし)が始まる。
「ヨンヤラヤーエ!」
「ソリャーノサーエ!」
というかけ声とともに脱穀するさまを青年会の面々が力強く舞う。
その勢いに会場の熱は一気に上がった。
まるで相撲の砂かぶりのように人々が舞台へ吸い寄せられる。
集落の幡が堂内へと走るように運び込まれ、
二階へポーンと投げ込まれる幡上げの迫力たるや、圧巻。
ぼやっと彼らの移動する範囲に入り込んでしまったら
跳ね飛ばされてケガをしてしまうだろう。
さあ、本舞が始まる。

成果なき世界でこころが残っていく。

各集落の幡は欄干より下げられた。
天の神を礼拝する神子舞、地の神を礼拝する神名手舞がすべての集落の能衆によって
代わる代わる、各合計10回が舞台で舞われ、やっと、本舞の時間に。
9時40分に阿部さんたちの権現舞が始まった。
約10分間のなかで獅子頭を頭上に掲げながら舞う動きの時間は、
本舞が一番しんどいという。
なぜならばここにたどりつくまで寒さの中、
出立装束と足は足袋に鞋靴のままで過ごし、
合計8kgもある獅子頭を持って深夜から既に10回も権現舞を舞っているのだから
疲労していないわけはない。
さらには全員が舞う演目の神子舞、神名手舞も必須演目だ。
これはもう、体力的にも選ばれし人しか舞うことができない。
このお役目が阿部さんに継がれるまで、世襲制だったというのもわからないでもない。
小学生の山本弐虎太くんは獅子の尾を持つオッパカラミを務めている間は、
神様になった気分になるのだそうだ。

その後、駒舞、烏遍舞、鳥舞、五大尊舞、工匠舞、田楽舞と続き、
12時にはすべての舞が終わり、幕は閉じられた。
各集落の能衆は列をなして集会所や氏子である神社まで帰っていった。
そして、最後に集落の神様に奉納して大日堂舞楽の一日は、終わる。

駒舞/大里集落の能衆2名による駒舞。馬頭をつけたふたりが足を踏み鳴らして舞う。1300年前の舞なのに、昨年世界中で大ヒットしたあの曲の振り付けを彷彿させる斬新さ。

鳥遍舞(うへんまい)/太刀を持った長嶺集落の能衆が声明を唱えながら舞う。基本的にすべての舞は集落毎に演目が決められている。

鳥舞/大日堂舞楽の由来となっているだんぶり長者が飼育していた鳥が遊ぶ姿を表現しているされる舞。大里集落の小中学生が舞う。

五大尊舞/だんぶり長者の舞。谷内集落の能衆によって舞われ、観客の人気の高い舞。

工匠舞/ゆっくりとした動きが特徴で、大里集落の能衆4名が舞う。

田楽舞/小豆沢集落の能衆が舞う田楽舞で2時間ほどの舞楽を締めくくる。

こんな日々が約1300年もの間、この地域に続いているのだ。
昭和35年から半世紀以上もの間、
能衆を続けている小豆沢集落の齊藤末治さんによると、
1300年の歴史もそろそろ新しい時代に向けて変わっていく必要があるという。
本来ならば世襲制であった権現舞に
未来を担うホープとして阿部さんを誘ったのは、他ならぬ齊藤さんだった。
「権現舞は、本来は、市之丞という屋号の家系が代々舞うことになっているのだけど、
世襲にこだわると後継者が難しい面もあったので、
少年時代に2202回連日参拝を続けたことで表彰された実績のある、
大工の阿部さんに声をかけました。
やっぱり舞楽を続けていくには後継者の育成が大事です。
ユネスコ無形文化遺産に登録されたとはいえ、
実際に自分も舞楽に参加してみようという人が少なくなっています。
それが問題なのです」という。
加えて、昔は行を厳しく行っていたが、
行の捉え方を現代風にしていくことも必要だとも話した。
実際に小豆沢の賄宿で出す食事に関しては舞楽保存会でサポートすることにし、
家庭への負担を軽減したりしている。
「そうはいっても、能衆は神様に奉納する舞を奉納する者なのだから、
行の最中は女性と交わりを絶つ、四つ足を食べない、
出産、葬式のあった年は舞わないといったことは守り続けてほしいと思います」
齊藤さんは一番大切なところは変わることはない、と言った。

いわば、大日堂舞楽の長老的な存在である齊藤さんはかつて後継者が世襲で途絶えた際に権現舞を舞った時期もある。次の世代へつなぐべく、阿部さんや弐虎太くんへの指導に余念がない。

「舞楽にかかわるのは“物を残す”ということではなく、神様に奉納するという“こころを残す”ためにやっているんです」と言う阿部さん。

すべてが終了し、阿部さんと少し話すことができた。
ちょっと安心した様子の阿部さんはまだ顔が紅潮していたが、
クールなまなざしが話している最中にほっとほころんだ。
なんだか、ついさっきまで崇高な存在だった阿部さんが人間界に戻ってきたような気がした。
奇しくも、阿部さんが能衆に加わってからというもの、
小豆沢集落では若い人たちが率先して舞楽に関わるようになり、
同時に青年会活動も活発になってきたという。
さらには、途絶えていた地域の行事「もうす」が復活した。
「もうす」とは「もの申す」が由来となった人と人、
世代と世代をつむいでいく自由なコミュニケーションの場だ。
いずれにせよ、大日堂舞楽の歴史の重みは小豆沢集落だけではなく
4つの集落の後世をつなぐ存在であることは間違いないのだろう。
「まだ1歳にならない息子の未来へとつないでいけるようにしていきたいと思います。
権現舞をずっと続けることになると思いますが、
集落のみなさんもこの場所を守っていくという志が強く、
自分はできることをやるだけだと思ってとりくんでいるんですよ」
1300年をつなぐ、ひとつのかたちがそこにあった。

大日霊貴神社(大日堂)

映画『ペンギン夫婦の作りかた』 台湾での題名は 『企鵝夫婦』になりました。

暁峰さん、実は料理マスターズの一員です。

辺銀暁峰&愛理夫婦がモデルとなった映画『ペンギン夫婦の作りかた』、
新石垣空港の開港を記念して、
暁峰さん役を演じたワン・チュアンイーさんの母国、台湾で公開中です!
題名はずばり中国語でペンギン夫婦を意味する『企鵝夫婦』。

台湾でも日本と同じように「観終わったら、おなかがすいた!」と
ハートだけでなく、胃袋を刺激される観客がたくさん。
映画館で見逃した方は、DVD&ブルーレイディスクをぜひともご家庭で。
家でならば、おなかがすいても、困りませんから。

さて、暁峰さんについて、大事なことを紹介するのを忘れていました。
3年前、農林水産省はシェフや料理人を対象にした
顕彰制度「料理マスターズ」を創設しました。
これは料理人としての技術・技能はもちろん、日本の食、食材、食文化の
素晴らしさに誇りを持ち、生産者や企業と一緒に、
その発展へ貢献している料理人を表彰するというものです。

暁峰さんは、愛理さんと一緒に
島唐辛子をはじめ石垣島産の食材を使った「石垣島ラー油」を開発したこと、
島内ではごく普通の食材を使った料理をペンギン食堂で提供し、話題となり、
島外からの注目を集めて、石垣島の食材の価値向上に貢献したことから
山形県鶴岡の「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフなど6名と一緒に
平成22年に「第1回料理マスターズ ブロンズ賞」の受賞者となりました。

そんな凄腕料理人である暁峰さんに、
台湾での映画『ペンギン夫婦の作りかた』公開を記念して
「石垣島ラー油」を楽しめる一皿、おいしいレシピを教えてもらおうという特別編です。

楽しく賑やかにということで、友人の和知 徹シェフにお相手をお願いしました。
東京銀座のフレンチレストラン「マルディグラ」は豪快な肉料理でおなじみの店です。
和知シェフ、3年前にはペンギン夫婦を訪ね、“石垣島で食いしん坊”の旅へ。
暁峰さんと愛理さんに案内されさまざまな島の食材を味わったのですが、
その中で強く印象に残ったのが、この連載の第4回
愛理さんが紹介していた川満養豚の「もろみ豚」でした。

滞在中に特別に許可を得て養豚場やハム、ソーセージの加工場を訪ね、
泡盛のもろみと川満さんの愛情をたっぷり受けて育っている様子や
肉質をその目で確認していた和知シェフ、
「それなら石垣島ラー油ともろみ豚で、スペアリブ作りますよ」と即決です。

ところで和知シェフ、映画『ペンギン夫婦の作りかた』いかがでしたか?

「主役のふたりがたくさん食べる場面が、何度も出てくるけれど、
確かに愛理さんと暁峰さんはあれぐらい食べるなあと思って観てました。
それと野菜を炒める場面が多いのも面白かった。

本州の家庭料理では、野菜を炒めることって案外少ないんです。
でも沖縄の人はゴーヤ、オオタニワタリ、パパイヤとか野菜をよく炒めるし、
暁峰さんの故郷中国も同じように炒めものが得意だから、
島で初めて見る野菜にも、料理方法の“勘”があったんじゃないかな。

食べ物に貪欲な興味があったからこそ、はじめは何もわからなくても
島のお年寄りや友人に教えてもらい、もちろん自分たちでも手探りして
いろんな島の食材を自分たちで使いこなせるようになった。
その努力の結果で、香り豊かな石垣島ラー油が誕生したことも納得しました。

ピパーチ(島胡椒)をすりおろす場面で、粉の刺激がすごいじゃないですか。
ピパーチにはすごく興味があります。生でなっているのを見てみたい。
今度は自分でピパーチを作りに、石垣島に行きたいですね」

映画『ペンギン夫婦の作りかた』は、もりもりと食べる場面の連続! 湯気の立つ料理を作ったのはもちろん、愛理さん、暁峰さん、ペンギン食堂のスタッフ。そのおいしさに監督から「カット!」の声がかかっても、主役のふたりは箸を置くことがなっかたとか。© 2012『ペンギン夫婦の作りかた』製作委員会

マチスタ・マジック

マミちゃんとのコーヒー教室。

毎朝そうするように、店を出てすぐの歩道に看板を出そうとして、ふと気づいた。
いつも看板を置くところ、敷き詰めた歩道のブロックのわずかな隙間から
青いものが出ていた。同じ場所のはずなのに、昨日はまったく気づかなかった。
ぎざぎざ尖った葉はどうやらタンポポのそれのようである。
ここ二、三日、めっきり陽が暖かくなったと思ったら、こんなところにも春があった。

3月に入って最初の週末。のーちゃんが東京の友人の結婚式で上京するというので、
土曜日と日曜日の2日間をひとりで店番した。
年が明けて以来、日曜日は隔週で店番しているものの
土曜日との連チャンは経験がない。
ぼくにとっては初めてのフルマラソンみたいなものだった。
案の定、前半のハーフで結構なスタミナをもっていかれ、
後半のハーフで完全に燃え尽きた。
おかげで日曜日の閉店後のレジ閉めでは計算がまったく合わなかった。
それならそれでそこにある現金を計算し、
ひょいひょいと算数すればいいことなんだけど、
搾りカスのようになった脳みそにはそれさえ荷が重すぎた。
自分がなにをどう計算しているのかさっぱりわからなくなった。
挙げ句、「今日はもう無理!」とあきらめて、
帳簿にはなにも書き込まないまま店を出たのだった
(翌朝の暗いうちに店に行って帳簿をつけました、そのあたり経営者ですから)。

そんなこんなで、今年に入ってからのいろんな無理がたたったのだと思う。
しばらくおさまっていた、
首から右肩にかけての痛みと右腕のしびれがいっぺんに再発した。
実はこれ、昨年の梅雨に出た症状で、
以来年末にかけて週に1〜2回、児島の鍼灸院に通い続けていた。
でも年が明けてからは、平日の慌ただしさにかまけて一度も院には行っていなかった。
「久しぶり!」
火曜日の夕方、2か月ぶりになじみの鍼灸院を訪れた。
カウンターの向こうにいたのは先生の姪っ子のマミちゃん。
いつもは午前中に院を手伝っていて、
午後からは柔道整復師の資格をとるべく岡山市内の専門学校に通っている。
「あれ? 今日、学校は?」
「春休みなんです」
「髪型が変わったな、パーマあてとるが!」
「はい、春休みですから」
彼女は相変わらず滑舌がよくて、笑顔は明るく可愛いらしい。
マミちゃんとは、顔を合わすとあらましこんなジャブ程度のやりとりがあるが、
お互いおしゃべりなタイプじゃないので、会話らしい会話はしたことがない。
しかし、その日は珍しく、電気を通す施術を受けている間に彼女から話しかけてきた。
「赤星さんのお店では、コーヒー豆を売ってますか?」
「もちろん売ってるよ」
「じゃあ、今度お店に行きます」
「持って帰ってきてあげるよ。マミちゃん、コーヒーが好きなんだ」
「いえ、わたしは飲めないんです。母がコーヒー大好きなので、
誕生日にコーヒー豆をプレゼントしようと思って」
あまりにいい話なので、また例によって調子のいいことをついつい口走ってしまう。
「それだったら、お母さんの目の前でコーヒーを淹れてあげたらいいよ。
美味しいコーヒーの淹れ方、いつでも教えてあげるから」
この時点での、このコーヒー教室の実現の可能性は1、2割といったところだろうか。
大抵は「じゃあ、いつかお願いします!」的な会話のノリだけで終わり、
結局なにもなかったみたいな、それがむしろ普通。
ところが今回の話は意外な展開を見せる。
「え、本当ですか? いつ教えてもらえますか?」
「うん? ああ、いつでもいいよ。平日の午後はだいたい事務所にいるから」
「じゃあ、水曜日はどうですか?」
「水曜日って……ええっと、明日のことかな?」
「はい、明日です。明日の午後に行っていいですか?」
かくして早速の翌日にコーヒー教室が決定。
その流れは谷川浩司永世名人の光速の寄せ、
最短・最速の手筋で鮮やかに詰まされた将棋を見るようだった。

はたしてマミちゃんは自転車に乗ってやってきた。
若者に流行のショート丈のダッフルコートに編み上げの革のブーツといういでたちで。
1時間ほど、ぼくたちは入れかわり立ちかわりでコーヒーを淹れた。
使用する豆はその朝マチスタから買ってきたマチスタブレンドである。
そして、早速マチスタのマジックが炸裂した! 
「コーヒーは飲めない」と言っていた彼女が、
なんと砂糖とミルクなしのブラックの状態でも「おいしい!」と
口にするまでになったのだった(タイアップ広告の記事っぽいな)。
個人教授がひととおり終わって、
事務所の半オープンエア部分に置いたテーブルで、
マミちゃんとヒトミちゃんと、
それにふらりとやってきた某企業の総務部長も加わっての
コーヒーブレイクとあいなった。
妙な光景だった。10代の女の子にスーツを着たオジさんという、
我が社ではあまり見ない類の組み合わせ。
しかも総務部長の足もと、靴に触れんばかりのところでサブが昼寝している。
それにしても気持ちのいい午後だった。
風はなく、静かで、ぼんやりと白んだ陽射しに暖かみがある。
マミちゃんとコーヒーのおかげで、思いがけずおとずれた春の休息タイム————。
ちなみにマミちゃんとのコーヒー教室は来週の水曜日に第2回の開催が決定している。

マチスタにも春の陽が降り注ぐ。あんまり気持ちいいので、近いうち、日曜日の午後あたりにテーブルまで出してのオープン席をもうけようと企画している。まさにパリのカフェみたいに。もしもポリスが来たら、「店内を掃除してました」という言い訳は通用するでしょうか?

TOmagazine No.01

東京都『TOmagazine』
発行/アラヤジャパン

毎号、東京23区のどこかひとつの区をピックアップし特集していく、全23号完結型のタウンマガジン。創刊号は足立区を特集。区内の隅々までを歩き、日常の目線からまちの新鮮な表情を切り取った巻頭特集、区内で活動する日本屈指の家電蒐集家や日本最古参の女子プロ団体にインタビューした第2特集、足立区にまつわるさまざまなトピックをあらゆる角度から徹底検証した雑学ページなど、これまでにない足立区総特集の1冊となっています。

TOmagazine
http://www.facebook.com/TOmagazine.tokyo

全92ページ

本体1000円+税

発行日/2013.2

空白の時間帯

マチスタに来るのはお客さんだけではない。

朝、お客さんがやってくる気配さえもない空白の時間帯がある。
そんなときでも、外から丸見えの、ガラスを多用したつくりであるからして、
まったく油断ならないのがマチスタである。
実際、信号待ちのバスの乗客や通りを歩く人から
じっと見られているということがよくあるので、
ミルを掃除したり作業台を磨いてみたり、
あるいは什器の配置を変えるなどして、
時間をもてあましていると見られないように気を遣っている。
でも、ふりをするのにもやるべきことはやり尽くして、
ふと気づいたら、入り口のドアのところに立ってぼんやり外を眺めていた、
ということが何度かあった。
そして、実はここが肝心のところなんだけど、
ぼくがドアのところで外を眺めていると、
きまって、電車通りを挟んでちょうど向かいにある理髪店の主人が、
その入り口のところでぼうと立って通りを、
つまりこっちの方を眺めているのだ。まるでぼくを鏡で映しているかのごとく。
その姿はいつ見ても「暇をもてあましています」という感じで、
ぼくは我が身を顧みていそいそと厨房に戻る。
「お互い、暇だね」みたいな、お客のなさを共通のネタに
変な仲間意識をもたれるのもイヤだし。
ちなみに、その理髪店の主人の立っている様は、
身につけている白衣や古びた木枠のドア、
それに色落ちした水色のストライプの装飾テントの雰囲気も手伝って、
かなりホラーな感じでもある。

さて、テントで思い出した話をひとつ。1週間ほど前のことだ。
30代と20代とおぼしき、作業着を着た男ふたり組が店に入って来た。
いや、「入って来た」というのは正確性に欠く。
ドアを開けたその場所で、30代の男の方が目だけで
「わたしたち、お客じゃありません、ちょっといいですか?」
と器用に訴えかけて来た。
そんな手でくるならと、ぼくも目だけで「さて、なんでしょう?」と返し、
彼らの方に近づいていった。
ふたりは委託を受けているとして、国の行政機関を口にした。
「この入り口のところにあるテントですが、使用されてますか?」
マチスタのエントランスには開閉式のテントがある。
色は鮮やかなグリーンで、収納していても結構目立つ。
「雨が降った日だけね、あんまり出すと店のなかが暗くなっちゃうから」
「ああ、そうですか」
細かく首を縦に振る男のそのしぐさに、若干の不安がよぎる。
そして若干の不安は、次の瞬間、夏の雨雲のように厚さを増した。
男が差し出したファイルに料金表のようなものを見たのだった。
つまりはこういうことだった。
テントが歩道にせり出した部分の料金を払いなさい、と。
これ、法律で決められているんですよ、と。
————吐き気がするぐらいげんなりだった。
ぼくは少々ふてくされた態度で「じゃあ、いくら払えばいいんですか?」と聞いた。
「一平方メートルで6000円ですから、おたくの場合は2万1000円になります。
これ、年間使用料ですからね」
怒りやら悲しさやら情けなさやら、
もういろんな感情がないまぜになって言葉をほとばしらせた。
「無理だって! お金全然ないんだから、この店ずっと赤字なんだから! 
もう雨が降ってもテント出さない! だいたいこのテント、壊れてるし、
結構前から壊れてたし!」
壊れているのはぼくの頭だと思われたかもしれない。
さらには、彼らは身の危険を感じたのだと思う。
粘る姿勢を見せながらも及び腰で、
結局、「不動産を解約する際に撤去する」と約束することで身を引いてくれた。
ぼくは目前の危機を回避した喜びから、
帰ろうとするふたりを引き止めるようにして言った。
「コーヒー飲んでいってよ。オレ、おごるからさ」
「いや、いいです、いいです。そういうの賄賂になりますから」
言いながら彼らは通りにフェイドアウトして行った。
今回、完全にぼくが撃退したカタチになったわけだが、
彼らはおおむね善い人だった。もしもここに書いたことで、
上司に怒られるとか、始末書を書かされるとか、
彼らの身になんらかの不幸が起こったとしても、ぼくの本意ではない。

まあ、この手のお客じゃない人も来るし、お客だとしてもいろんな人がやってくる。
この間なんか、高校生がひとりでやってきた。不良だなんてとんでもない。
ごくごく真面目そうな、普通の男の子である。
彼はもじもじとした調子でブレンドとホットドッグを注文した。
そして恥ずかしそうな、少年らしい笑みを浮かべてぼそり、ぼくに言った。
「『マチスタ・ラプソディー』、読んでます」
「マ、マジでええっ!?」
「ハイ」
「面白い?」
「ハイ、面白いです」
ぼくはうまそうにホットドッグにかじりつく彼の背に、
聞こうかどうしようかと迷っていた質問を唐突にぶつけた。
「あのさ、オレみたいな大人、どう思う?」
彼はこちらを向いて、またあの恥ずかしそうな笑みを浮かべて言った。
「いいと思います」
高校生に肯定された。それが自分でも意外なほど、嬉しかった。

作業台の上をちょっとずつ片づけていたら、いまやごらんのようにスッキリ。ずいぶん磨きやすくなりました。といっても、まだまだモノはあります、作業台ですから。

オフィスの倉庫のなかにさらに倉庫を作ってみた。入り口の暖簾は、マチスタの新しい朝の常連客、草木染め作家の浅山クンが制作。代金はマチスタのコーヒーチケットで支払った。和風な感じに意外性があってよし。倉庫の施工は、これもマチスタの新しい朝の常連、田中さんによるもの。

父母とヒロシとぼく

脱ぐに脱げない三足目のわらじ。

「ヒロシ、背が高うなったなあ」
母から最近よくそう言われる。
これ、誰が耳にしても意味不明に違いなく、
言葉は奇怪ですらあるので簡単に解説を加えたい。要点はふたつだ。

(1)「ヒロシ」は誰ぞや?
ヒロシは3歳違いのぼくの兄だ。
ここ数年、母からこの兄の名前で呼ばれることがめっきり多くなった。
ぼく自身はそのことに関して母になんらネガティブな感情は抱いていない。
つまり、どうってことない。仕方ないのだ、ぼくも長く家にいなかったし。
でも、父は毎夕台所に立つぼくのことを慮って、
3回に1回ぐらいの割合で「ヒロシじゃねえが、ユタカじゃが」とさとすように母に言う。
するときまって母は「そうじゃ、ユタカじゃ、ユタカ。(ヒロシに)よう似とるなあ」。
兄の名前で呼ばれることはなんとも思わないけど、
吉本新喜劇のギャグのように
毎回同じ台詞が繰り返されるこの父と母のやりとりには少々げんなりしている。
ちなみについこの間、母が兄をぼくの名前で呼ぶこともあるのかと父に聞いたら、
「それはない」と矢のような答えが返ってきた。

(2)ぼくの背は高くなっているのか?
むろん高くなっていない。
むしろ半世紀に及ぶ骨への負担で数ミリ縮んでいる可能性の方が高い。
しかし、母がそう言うのにもわけがある。
この1年で父の腰が随分曲がってきたのだ。
写真で対象物のサイズを示すのによく使われるタバコのパッケージ、
あれがもしもどんどん小さくなっていったら、
その対象は大きくなったように見えるはず。
それと同じで、父と一緒にいるぼくが母には背が伸びたように見えるわけだ。
実際、父の身長は5センチほど小さくなったように思う。
以前はぼくよりも2センチ高かったのだが、いまでは明らかにぼくよりも低い。
スラリとして、お洒落にも人一倍気を遣っていた父を思うと少々不憫だ。

友人や知人からは最近、「大変ですね」とよく言われる。
言うまでもなく、マチスタとアジアンビーハイブの
二足のわらじ生活の労をねぎらっての言葉だが、
本人はさほどの苦労を感じていない。かえって毎日の生活は新鮮ですらある。
大変といえば、実家の面倒の方だ。父母ともに偏食が年々キツくなっていて、
昨日まで食べていたものを今日はもう食べないと言う。
ついこの間なんか、直接ぼくに言いづらいものだから、
タカコさんを通じて「もう作っても食べない料理」として、
筑前煮やけんちん汁などいくつかを伝えられた。
もともとふたりともあまり魚が好きでなく、
3年ほど前ついに母の「魚は一切食べません宣言」があった。
なるべく魚や野菜を多く摂れるようにと献立を考えてきたんだけど、
もう完全に破綻してしまった。
マルナカで頭が真っ白になり、
からのカゴを手にしたまま途方にくれるということも最近は増えた。
そのときの心情たるや、なんだろう、ホント泣けてくる感じ。
マチスタや広告制作の仕事で気持ちがこうも折れることはない。
でも、この実家の料理番という三足めのわらじは脱ぐに脱げない。
これがぼくという人間のいまの本筋だ。
もしも、仕事が実家の介護の手伝いを圧迫するようなことがあれば本末転倒、
なんのために岡山に帰ってきたのかわからなくなる。

マチスタの仕事明けに岡山駅の周辺でランチというのはとうにあきらめている。
あきらめてはいるんだけど、
どんなお店がどんなメニューを出しているのかはついついチェックしてしまう。
そうやって、急ぎ足ながらきょろきょろしていたからだと思う。
つい先日、きちんとした身なりに
きちんとヘルメットをかぶって自転車に乗っている外国人ふたり組に声をかけられた。
「チョットイイデスカ?」
120パーセントの宗教の勧誘、しかもあの宗派だ。
東京でも吉祥寺に住んでいた頃によく見かけていた。
声をかけられたのは実に30年ぶり。あれは受験で初めてやってきた東京だった。
渋谷の駅前で勧誘にあい、そのまま彼らのコミュニティのような場所に連れていかれて
聖書をもらったのを憶えている。
「ごめん、よくない。急いでます」
「ワタシタチハ、キリストキョウノオシエヲ……」
ぼくの言っていることは完全に無視である。
実は彼らの話を少しでも聞いてあげたいという気持ちはある。
ビラ配りを始めて以来、なおさらこの手の人たち(かなり幅広し!)を
冷たくあしらいたくないのだ。でも、さすがに電車に遅れてはマズい。
「申し訳ないけど、私は神道の関係者です。つまり同業者ね」
「オオ、スゴイネ!」
なにがスゴいのかよくわからないまま、
彼らの「ニチヨウビ、キョウカイニキテクダサイ」と言って手渡された、
小さくて安っぽいリーフレットを受け取った。
ぼくは彼らに別れを言って駅までの道を急いだ。
ギリで間に合った電車に乗ってしばらくして、
ふとパーカーのポケットに手を入れた際に、
あのふたりの宣教師からもらったリーフレットが手に触れた。
取り出すと、裏表紙に彼らの教会の地図があった。そしてその地図の上にこんなコピーが。

家族は小さな天国なのです。

前日の夕飯のメインは海老フライとメンチカツ。
ともに冷凍を買って揚げただけのものだった。
(もうちょっとマシなもん作らんといけんな)
電車の窓から早島あたり、枯れた色の田んぼが広がる光景を眺めながらそう思った。

日々カラダを仕事に慣れさせながら、並行して新しい試みも。これは今週から導入した焼き菓子の新メニュー、ダブルチョコパウンドケーキ(200円/1ピース)。オーダーが入ってからナイフを入れて出す新しいスタイルです。チョコがこれでもかというぐらい入ってますね。

ダブルチョコパウンドは倉敷のパン屋さん「KONPAN(コンパン)」に作ってもらってます。50円プラスでホイップクリーム付き。ぼくが作ったホイップはごらんの通り、だらっと流れてカタチにならず。でもご心配は無用。のーちゃんが完璧なヤツを作ってくれてます。

橙書店

橙に暮れていく本屋でひとり

親しい友人が住んでいることもあって、昨年は何度か熊本を訪れた。
豊かな自然、おいしい食べもの、過ごしやすい気候、
日本一ファッショナブルともいわれる若者たち、そして友人の温かなおもてなし。
行くたびにいつか住んでみたいなんて思いながら帰ってくるのだけど、
そういえば本屋さんには行ったことがなかった。

「熊本で本屋に行こうと思って……」と人に相談すると
必ず名前が挙がるのが橙(だいだい)書店。
ちょっと変わった名前のこの店は、 新市街というアーケード街から一本脇へ入った通りにある。
この通りがとにかく狭くて、両手を伸ばせば両サイドの建物に手が届きそうだ。

大通りへ抜ける手前に、「橙書店」があり、
隣には、橙書店と同じ店主田尻久子さんが営む雑貨&カフェ「orange」がある。

橙書店1階の奥から入口を振り返る。全部見てやろうという気にさせるサイズ感だ。

終戦直後に建てられた建物が今も並ぶこの通りが気に入って空き物件を探したという。
orangeをオープンしたのが 2001年、
その後2008年に隣の物件を橙書店としてオープンさせた。
だからふたつの店は元々違う店だったということもあって、
つくりも違うし、雰囲気も異なる。そんなふたつの店をつなぐのが、
壁に空けられた、かろうじて人が通れるくらいの小さな四角い穴だ。

ドアとも窓とも書いてみたけどどうも違うので「穴」としか表現のしようがない。
田尻さんはカフェのカウンターでお客さんと話をしながらコーヒーを入れていると思えば、
「この本ください」と声がかかれば、穴から橙書店にやってきてお会計をしてくれる。

orangeを外から眺める。カフェのテーブルや壁に作り付けの棚など本がそこかしこに置かれている。

店主の田尻久子さん。左奥に見えるのが橙書店へと続く穴だ。

orangeの店内は白が基調のラフな雰囲気。
元々あったアーチ状の天井が好きで、
天井が低い分カフェのカウンターも低くした。
そのせいでカウンターの中まで丸見えだけど、
それがorangeのフレンドリーな雰囲気と合っている。

一転、橙書店のほうは夕方から夜のイメージ。
元の物件にほとんど手を入れず、床を貼って本棚を付けただけと田尻さんは謙遜するが、
濃い茶色の棚に、濃いグリーンの椅子がとてもシックだ。
入ってすぐの平台には重厚な海外もの、
例えば『獄中からの手紙 ゾフィー・リープクネヒトへ』(ローザ・ルクセンブルク)、
『私はホロコーストを見た』(ヤン・カルスキ)など手強そうな本が並んでいて
一瞬ひるむけれど、隣に並ぶ新潮クレスト・ブックスの背表紙のカラフルさに救われる。

天高がある分、スペースの割に広く感じられる。

二足のわらじ生活

近頃のランチ事情。

午前マチスタ(岡山)→午後アジアンビーハイブ(児島)の
「二足のわらじ生活」がスタートして3週間が過ぎた。
岡山から児島への移動はもっぱら電車を利用している。
乗るのはきまって12時42分発の瀬戸大橋線、高松行きのマリンライナー。
所要時間はあらまし20分とさほどのことはない。
でも、次発はきっかり30分後なので、
「この電車を逃すとヤバい」という強迫観念めいたものがすでにある。
マチスタからJR岡山駅までは徒歩で約10分だ。
途中にはカレーのチェーン店やうどん屋、ラーメン屋、定食屋、レストランなどなど、
さすがは岡山のまちなか、飲食店は山とある。
この生活を始める前は、当然毎日岡山でランチを食べて
児島に出勤という生活を思い描いていた。
ところがふたを開けてみたら、ランチを食べるような余裕はこれっぽっちもない。
だいたい、のーちゃんが出勤してきたからすぐに「じゃあ交代ね」とはならない。
お互いに報告することや引き継ぎの連絡事項がわりとあるし、
お客さんがたてこんでいるとのーちゃんのサポートに回って洗い物をしていたりする。
ぼく自身がお客さんと話しこむことも何度となくあった。
そんなわけで、ほぼ毎日だ。「あ、こんな時間だ!」と声に出し、
エプロンをさっとしまって小走りに店を出るという無粋な光景が連日繰り返されている。

さて、この際どうでもいい話になった感もあるが、問題は依然ぼくのランチだ。
この3週間でもっとも多かったのが、
児島の駅前にあるローソンでサンドイッチを買うパターン。
事務所に持ち帰ってパソコンに向かい、野菜生活を飲みながら食す。
こうして文字にしてみるといかにもわびしいが、これまだいいほうの部類。
最悪に悲しいのはあれだ。
これまで2回あった、あまりの空腹感についつい岡山駅のホームのキヨスクで
ジャムパンやクリームパンを買ってしまうということが。
このパターンでは、必ず出発するかしないかの車内で封を開けずにおれず、
隠れるようにしてパンを齧っている。
我ながら品がない、情けない、おまけに美味しくない。
2度目にやったときは、「もうやめよう」と心に誓った。
いまのところその誓いは破られていない。
ついふらふらとキヨスクに行ってしまうことはあったが、踏みとどまって、
読みたくもない新聞を買うという行動でごまかしている。
まあいずれにしても、まともな昼飯には当分ありつけそうにない。

マチスタの仕事には、慣れたような、慣れないような。
そんなことを言っているうちは、きっとまだ慣れてないんだろう。
実際、コーヒー以外の注文、カフェオレとかココアとか、
最たるものはマチスタスペシャル(バナナモカシェーク)なんだけど、
そんなのがいくつか重なって注文が入ったときはヤバい。
「マチ……スペヒャ」
あの子だ、来ると必ずマチスタスペシャルを注文する常連の男の子
(便宜上、仮にモンちゃんと呼ぶ)。
お母さんもコーヒーやらカフェオレやらを注文するので、
この親子が店に入って来た瞬間、ぼくのカラダは自然と戦闘モードに突入する。
その日はこの母子に加えて、お母さんのお母さん、
つまりモンちゃんのおばあさんらしきご婦人も一緒だった。
オーダーは、モンちゃんがマチスタスペシャルとホットドッグ、
おばあちゃんがココア、お母さんがストロングのコーヒー。
この注文、山に例えたら確実に6000メートル級である。
マチスタの厨房は一気に『ディナーラッシュ』の活気を帯びた。
と、その日のモンちゃん、ご機嫌がよろしくない。
いつも座る窓側のカウンター席でなく、
テーブル席に座ろうとしたのがさらに気に入らなかったご様子で、
泣き声はやむことなく、お母さんがなだめてもエスカレートするばかり。
ぼくは一切声をかけることなく、というかかける余裕がないのだが、
傍目にその様子を見ていた。
するとモンちゃん、突然お母さんの腕をかいくぐるようにして店の外へと飛び出した。
それを追いかけるお母さん。店のなかから見守るおばあちゃん。
「ここでいいですかね?」
ぼくはなにも見なかったかのように、
最初につくったマチスタスペシャルをおばあちゃんのいるテーブルの上に置いた。
続いてでき上がったホットドッグも心配そうに外を眺めているおばあちゃんの前に。
「もうすぐココアができますから」
モンちゃんとお母さんは外に出たまま依然戻ってきていなかったが、
こっちはそんなことにかまっていられないのだ。
最後のコーヒーができ上がった頃、
ようやくモンちゃんがお母さんに抱きかかえられるようにして戻ってきた。
モンちゃんは釣り上げられたばかりの鰹のように
カラダを躍らせるようにして泣きじゃくっていた。
「はい、コーヒーです。お待たせしました」
お母さんはぼくにもコーヒーにも目もくれず、
憔悴した様子で椅子の上に置いてあったバッグを肩にかけた。
どうやら帰るつもりらしい。
ぼくはテーブルの上に並んだ飲み物とホットドッグを
すべてテイクアウト用の容器に移しかえ、一式をビニール袋に入れて手渡した。
「いつもありがとうございます、またよろしくお願いします!」
こうしてモンちゃん一家は嵐のように去って行った。
「いやあ、ごめんね。お待たせしちゃって」
店内にはこの一部始終を客として眺めていたぼくの友人がいた。
彼が注文したカフェオレは、まだなんにも手をつけていなかった。
さて、カフェオレ、カフェオレね—————と作業台を見渡して、
ふと視界のすみにある黒っぽい異質なものに気づいた。
青いストローなんかさしてある。
(ん? これ……)
またやった。モンちゃんのマチスタスペシャルを袋に入れ忘れた。
ぼくは前もそうだったようにまたしても店に友人をほったらかして
脱兎のごとく店を飛び出したのだった。

なんだろう、この抜け加減は。
このままでは近所の人から、
「マチスタの人? ああ、いつもエプロンしたまま走ってる人ね」と言われそうだ。

トップの写真をさしかえました。撮影は岡山在住の写真家の池田理寛クン。「店の写真を撮ってくれないかな?」とお願いしたら、デジタルではなく、ペンタックスの中判カメラをもって撮影に来てくれた。やっぱりフィルムは違う、味がいい!

大日堂舞楽 前編

1300年続く、神に捧げる舞。

幼い頃、獅子舞など地域の伝統行事に参加したことはないだろうか。
一年の節目に行われる無病息災や五穀豊穣を祈る奉納舞は
氏神への奉納だけが目的ではなく、
古くから住民たちの交流にも大きな役割を果たしてきた。
現在では、核家族や少子化が進み、
伝統文化を継承することが難しい地域は少なくない。

秋田県鹿角市の八幡平地区に伝わる、「大日堂舞楽」は
国内で現存する舞楽の中でも最も古い形で伝承されている
1300年間続く歴史のある舞楽だ。
毎年、年明けの正月2日、大日霊貴(おおひるめむち)神社(通称大日堂)にて
行われ、多くの住民が奉納舞を見るために神社に集まる。

今年の正月も例年と同じく、連綿と続く歴史の1ページがめくられた———。

鹿角市八幡平地区の景色。四方を小高い山に囲まれ、数々の伝説が残る風光明媚な場所。大日堂舞楽が行われるお正月あたりは気温が-7℃になることも。

―大日堂舞楽 本舞準備―

大日堂舞楽には小豆沢(あずきざわ)、大里(おおさと)、
谷内(たにない)、長嶺(ながみね)の4つの集落が参加している。
舞楽にかかわる人は、全員男性だ。
彼らは本番にそなえ、事前に練習や行(ぎょう)を行う。
笛や太鼓、舞人など、舞楽にかかわる能衆(のうしゅう)と呼ばれる男たちが、
早い人で本番の約2週間前から行に入るという。
これを、ある集落では「火をまぜない」と表現していた。
能衆は神により近い存在になるため、
俗世に生きる人たちと同じ火で炊いたものを口にすることが許されない。
ふだんの生活では、お風呂は一番風呂に入り、
家族と鍋を分けて料理を作り、匂いの強いネギやにんにく、肉類はとらない。
もちろん男女の交わりは許されない。
年末年始のイベントづくしの中で行を行い、
奉納舞の終わる2日を過ぎてから日常生活に戻る。
このような習慣が1300年間、この土地に根づいている。

昨年末、八幡平地区の各集落で夕方から行われる
内習(うちならい)といわれる練習に出かけてみると、
各地区、自治会館のような場所に祭壇を設け、練習会場としていた。
内習であろうとも、地域の神に捧げるために舞うみなさんの姿は真剣そのもの。
練習が終了したあとは、能衆だけで同じ鍋の汁をとり、
酒を飲み、お互いの一年のことを語り合う。
こんなことが長いところでは2週間も続くのだから驚く。
食事は、地域で定められた世話係が毎日作っているという。

行に入ると同時に各集落では内習(うちならい)といわれる練習に入る。一日の終りは、能衆のために魚や野菜が入った汁とご飯、酒などが用意され、30日の夜まで毎晩続く。(撮影:朝比奈千鶴)

郷土料理、納豆汁は谷内集落では行の間に食べるおなじみの一品。ゼンマイ、こんにゃく、豆腐、にんじん、ジャガイモ、わらびの他にサメや塩漬けの高菜が入る味噌汁に納豆を溶かしこむ。(撮影:朝比奈千鶴)

大里集落で行が始まった12月27日、
地域の集会所では同時に内習(うちならい)が始まった。
能衆に選ばれている中学生の古家拓朗くんのお父さん、
古家冬樹さんは練習をするわが子を遠くから見守っている。
「地域に同年代の子がおらず、
うちの子に出番が回ってきたときは正直困りましたね。
行をしなくてはいけないのもあって、一度断りました。
最終的には引き受けましたが、5年経った今では
自信がついたみたいで堂々と舞えるようになりましたよ」
生まれた頃からここで暮らしているという冬樹さんは
舞は世襲制で受け継がれてきたものだったこともあり、
自身が幼い頃は舞楽に無関心だったという。

大日堂舞楽は、行や舞楽の内容、しきたりなども含めて
長く大切に受け継がれていることが認められ
ユネスコ無形文化遺産や国重要無形民俗文化財に指定されているというのに、
舞楽に関わる人以外には、その内容が知られていない。
そもそも、舞楽は神様に奉納するものであり、
周囲に広く告知するものではなかったからだ。

現在、鹿角の小学校では大日堂舞楽を学ぶ授業がある。写真は鳥舞を舞う大里集落の小中学生。彼らは極寒の当日に、昔ながらの衣装で過ごすことで自然環境を学ぶと言っていた。

大日堂舞楽が始まったのは、古事記が編纂された1300年前あたり。
鹿角の伝説のひとつ「だんぶり長者」によると
夢で大日神のお告げを受け、だんぶり(とんぼ)の導きによって
霊泉を見つけて長者になった夫婦がこのあたりにいたという。
長者夫婦の娘で第26代継体天皇の后となった吉祥姫は
のちに亡くなった父母のために大日霊貴神社を建てた。
その後、時を経て、718年に老朽化した神社を再興するために
名僧、行基と音楽の博士、楽人が都より遣わされ、
彼らが舞楽を伝えたといわれている。

4つの集落の人々は、それぞれの地域で語り継がれたしきたりがあり、
隣の集落がどのように行っているのかということは、互いに知ることはない。
「同じ奉納舞といえども集落ごとに氏神や舞の内容が違うし、
内習の時期に他の集落の内習を見にいくことはないからね」と、
長年大日堂舞楽に関わってきた大里集落の能衆、浅石昌敏さん。

家族に葬式、出産のあった年は能衆を休む決まりがあるため、お孫さんが生まれたばかりの浅石さんは、大日堂の名を冠した「大日堂そば」を祭りに来た人たちに配っていた。

どの集落を見学に行っても、慣れた地域のメンバーながら
舞が始まると緊張感のある空気に切り替わった。
集落の人たちの神への畏敬の念がそうさせる、と浅石さんはいう。
「舞楽を奉納するのは、何かを祈るため、というよりも
神仏を大切にすることを意識し、毎日何事もなく生きられることに
感謝するといった意味がこめられているのではないでしょうか。
長年、大日堂舞楽に関わってきて、
先祖代々続いてきた大事な風習を自分の代でつぶしたくない、
大日堂舞楽にかかわる人にはこんな思いが根底にあります」
年末は家族の協力のもと、自分自身を大日堂舞楽に捧げ続けたい
という浅石さんは約20年間能衆として舞楽に関わっている。

奉納舞は、能衆やその家族たちの「誇り」にもつながっている。
能衆最年少、今年初めて参加する
小豆沢集落の小学二年生、山本弐虎太くんのお母さん、
山本由実さんは当日に手伝いをするなど舞楽に関わることに積極的だ。
「私は仙台からお嫁に来て8年経つんですが、
集落の若い人たちのコミュニケーションが密で
元気がいい。今の時代、他に比べるときっと珍しいですよね。
夫は青年団活動が楽しくてたまらないみたいだし。
息子が舞楽に関わるのはとてもいい経験だと家族は思っています。
地域の人たちが息子を育ててくれる、それがありがたくて。
ここに住んでよかったなと実感します」

―集落の精神的な支柱。
大日堂舞楽はそんな役割も持っているのかもしれない。

後編は大日堂のお膝元、小豆沢集落能衆の長い一日を本番当日1月2日の真夜中から追いかけた模様をお届けします。元日は最後のおさらいをし、2日はなんと深夜1時集合!