牡鹿半島の未来をえがこう OPEN LAB.

自然とともに歩む復興を目指す「グリーン復興プロジェクト」。

2013年5月24日。
東日本大震災により被災した三陸地域の復興に貢献するために
「三陸復興国立公園」が指定されました。

環境省はいま、三陸地域の自然環境を活用した復興を目指し
国立公園の創設を核とした「グリーン復興」を進めています。
再編成を検討する地域は、青森県八戸市の蕪島から
宮城県石巻市・女川町の牡鹿半島までと、その周辺の自然公園。
3県にまたがる太平洋沿岸部の南北の延長は約220km、
津波により、多大な被害を被ったエリアです。

コロカルでも幾度かにわたり
その復旧や復興への取り組みのようすをお伝えしている牡鹿半島も、
国立公園化(三陸復興国立公園への編入・2014年を予定)に向けて動き出しました。

三陸特有のリアス式海岸が続く牡鹿半島の産業のなかで最も大きな割合を占めていたのが漁業・水産養殖業。東日本大震災によって多くの漁港、漁船、養殖設備が大きな打撃を受けた。(→TOHOKU2020 石巻カキ漁師新生プロジェクト、スタート!

復興以前に、海岸の復旧と整備。土のうが積まれた堤防の風景が牡鹿半島のそこかしこに。住民のなかには、「高い堤防だらけになってしまって、景観が損なわれるのも……」との複雑な思いも。

そもそも日本の国立公園は、
〈我ガ国天与ノ大風景ヲ保護開発シ、一般ノ利用ニ供スルニ
 国民ノ保険休養上緊急ナル時務ニシテ且外客誘致ニ資スル所アリト認〉
めて、昭和6年に法として制定されたものですが、
環境省がつくればハイそれで終わりではなく、
その国立公園を舞台に、観光や産業、暮らしが花開いてこそ意味がある……。
制度の創設以来80年の長い時を経て、国立公園のあり方、
国や行政の関わり方も、次第に変化しようとしているようです。
守るから使うへ、周遊型・団体旅行から、体験型・滞在型、エコツーリズムへ。
そういった変化をとらえた思いが官民の枠を超えてひろがり、つながり、
南三陸金華山国定公園の国立公園化に向けて立ち上がったのが、
「牡鹿半島の未来をえがこう OPEN LAB.」です。

野生の鹿の繁殖が急増し、半島の生態系を乱し、交通事故などにより住民の生活にも影響を与えるようになった。会場では、プロの観点からも住民からも、一刻も早い鹿害対策が叫ばれた。(→TOHOKU2020「OCICA」と「ぼっぽら食堂」

鹿に食べられないように、茎を短く、地を這うように花をつけるという独特の進化を果たした牡鹿半島のたんぽぽ。ワークショップのなかで指摘されて驚いた。

未来はいつのまにか誰かが決めているものではなく。

さかのぼること約1か月前の4月29日。
春の気配がまだ残る石巻市立大原小学校の休日の体育館に
たくさんのおとなたちが集まりました。その数、180名。
「みんなで話そう。みんなで参加しよう。みんなで語ろう。」
掲げられたコピーを見ても、ただの住民説明会ではなさそうです。

主催者である環境省東北地方環境事務所から
計画の概要と今後の動きについての説明があったのち、
次々とマイクを握るプレゼンターたちが
あたらしい国立公園を、観光や産業、暮らしにどう生かしていくか、
事例やアイデアを提案していきます。その顔ぶれは、
東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク「アーキエイド」から
貝島桃代さん、小嶋一浩さん、志村真紀さん、大西麻貴さん、
「npoTRネット(鶴見川流域ネットワーキング)」の岸由二さん、
「Think the Earth」の上田壮一さん、プロジェクトデザイナーの古田秘馬さん、
「ishinomaki2.0」の西田司さん。
ファシリテイターに、コミュニティデザイナーの山崎亮さん。
いずれおとらぬ、まちづくりのプロフェッショナル。

ここに、東京や横浜から、建築、まちづくりに関わる大学生たちも加わって、
集まった行政区長さんや住民のみなさんとともに、
「線:金華山道」「点:ビジターセンター」「面:環境」「外:観光」の
4つの視点から、牡鹿半島の未来像を考えます。

イベント会場となった石巻市立大原小学校は、在籍児童数27名。界隈の小学校では人口減少による統廃合が進んでいる。

イベントの後半は、4つのチームにわかれてワークショップ形式で。住民のみなさんのために、なるべく「ワークショップ」や「オープンラボ」などの横文字語を使わない工夫も行われた。

観光を考えるのは、プロジェクトデザイナーの古田秘馬さん、「ishinomaki2.0」の西田司さんチーム。「観光地づくりではなく、関係地づくりへ」と提示されたコンセプトに、多くの参加者が共感した。

年長者の住民のみなさんにもわかるように
横文字を使わずに最先端の取り組みを提案する、
津波以前から進行している過疎化もまた
半島を荒らしている大きな問題ではないかという鋭い指摘、
鹿害の危機、観光化への不安と困惑……。
40分という短いワークショップのなかから
たくさんの気づきが生まれ、課題があらわになり、
それらが「自分ごと」として、参加者の意識に刻まれていきます。

未来はいつのまにか誰かが決めているものではなく、みんなでつくりだしていくもの。
復興に向けたオープンガバメント(開かれた政治)のチャレンジは
いまようやく、はじまったばかりです。

牡鹿半島の未来をえがこうOPEN LAB.
http://oshikaopenlab.com/
http://www.facebook.com/oshikaopenlab

牡鹿半島は、三陸海岸の最南端に位置する。東日本大震災で、地震前に比べて半島が東南東に約5.3m移動し、約1.2m沈下したといわれている(国土地理院調べ)。

イベントにいちばん乗りでやってきた萩の浜の区長は、笑顔がたのもしいおかあちゃん。「若いひとらの集まりやと聞いたけど、参加することに意義がある! と思ってやってきました。鹿害対策が最優先と感じました。次回からはどんどん意見も言ってみたいわ」

人の繋がりを大事にするのが土佐っ子気質!高知県がひとつの大家族になる「高知家」

高知県が本気を出した!

昨日、高知県知事の尾崎正直さんと、女優の広末涼子さんが
出演する「高知家 新スローガン発表記者会見」がYouTubeで公開されました。
「高知県は、ひとつの大家族やき」というスローガンのもと、
75万人の人口を持つ高知県を、「高知家」という大家族に
なぞらえたキャンペーンです。
高知家の“娘”が広末涼子さん、そのお兄ちゃんには高知のゆるキャラ
カツオ人間」が任命されています。
カツオ人間は、高知のものをPRする「高知県地産外商公社」で
特命課長を務めるカツオの頭部が切りっぱなしの斬新なキャラクター。
後頭部がとってもキュートなんです。
「暑苦しいほどに、あったかい」、「飲んだら誰でも仲良くなれる」
とWebサイトに説明がありましたが、
高知では、見知らぬ人もまるで知り合いのように話すのだそうで、
このCMも「本当に高知のよう」と広末さんが語っていたそうです。
高知に行ってみたくなっちゃいました。

名古屋から世界を取る! ご当地アイドル、 チームしゃちほこの 「首都移転計画」

ご当地キャラの次は、ご当地アイドル。

というわけで、名古屋在住のかわいこちゃん6人組による
アイドルグループ「チームしゃちほこ」を皆さんご存知ですか?

メジャーデビュー曲は「首都移転計画」という大胆不敵なタイトル。
「つけてみそみそ、かけてみそみそ、首都変えてみそ」
という軽快に提案し、名古屋のご当地ネタを
ふんだんに入れ込んだご当地ソングになっています。

作詞・作曲は愛知県出身のSEAMO。
スミス監督による、個性的なビデオがかわいらしく面白い。
こんなまちおこしもあるんですね。
かわいいしゃちほこちゃん、今後も注目です。

チームしゃちほこ

チームしゃちほこ(ワーナー)

秋田弁炸裂のTwitterが大人気! 田植えもこなすご当地ヒーロー 「超神ネイガー」

秋田県のご当地ヒーロー「超神ネイガー」

秋田の由利地域を拠点に活動する彼は、
ゆるい秋田弁ツイートとあふれる人間力が魅力。

田植えなどの農作業もこなし、辞書が欲しくなるほどの本格的な秋田弁使いで
かなりイケメンなヒーローです。
きりたんぽ型の剣から繰り出す必殺技「比内地鶏クラッシュ」を武器に、
日夜秋田の平和と正義を守っています。

正体も明瞭

ネイガーの正体は秋田県にかほ市在住の農業を営む男性、アキタ・ケンさん(26歳)。
名前の由来は、秋田のナマハゲの「泣ぐ子(ご)は居ねがぁ!」
という叫び声から。仲間のネイガー・ジオンやネイガー・マイと共に、
悪の組合長セヤミコギ率いるホジナシ怪人たちと
日夜戦いつづけているんだそうです。

実は、もうすぐ活動8周年のベテランヒーローである超神ネイガー。
今年はどんな活躍をしてくれるのか気になる存在です。

超神ネイガーTwitter

超神ネイガーWebサイト

豪華!さくらももこ、細野晴臣、小山田圭吾が作りピエール瀧が歌う「まるちゃんの静岡音頭」

静岡市から、史上最高に豪華なPRソングが登場!

YouTubeの静岡市公式チャンネルで公開された、PRソング「まるちゃんの静岡音頭」。
言わずとしれた、静岡市ゆかりのマンガ「ちびまる子ちゃん」を
モチーフにしたものです。

関わるクリエイターがもう驚くほど豪華。
作詞はさくらももこ、作曲は細野晴臣、編曲は小山田圭吾(Cornelius)。

これを静岡出身のピエール瀧(電気グルーヴ)が歌い、
パパイヤ鈴木が振り付けを担当しています。
まる子、たまちゃん、友蔵が踊るビデオのCG映像制作は
さくらももこのWebサイトも手がけるデザインファームMOGRAPHIXXが担当。

サウナ大使の タナカカツキさん、池田晶紀さんが 北海道上富良野PR大使に就任

みなさん、サウナ好きですか? 私は大好きです!

ちょっとおじさん向けなイメージのあるサウナ。
漫画家のタナカカツキさんが「サ道」(サウナ道)として布教活動をされていて、
それを読んだ私もまんまとサウナ(と水風呂)にハマってしまいました。

現在では、日本サウナ・スパ協会が認定する「サウナ大使」として活躍するタナカカツキさん。
その日々の活動が北海道にも伝わったのか、
このたび、カツキさんと写真家の池田晶紀さんが
北海道上富良野町のPR大使に任命されました!

(写真では池田さんが「北の国から」コスプレをしてるみたい……)

ラベンダーだけでなく、じつはスパサウナシティとしても有名な富良野。
お二人の大使就任を記念して、サウナ協会はテントサウナを設営したそうです。
北海道の大自然の中で入るサウナは気持ちがいいでしょうね〜。

日本サウナ・スパ協会

かみふらの十勝岳観光協会

写真:ただ(ゆかい)

小豆島 Part4 桶を守れば、小豆島がうるおう!?

山崎亮 ローカルデザインスタディ
小豆島編・目次

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瀬戸内海の島々を舞台に、現在開催中の現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2013」。
その出展準備のため小豆島にたびたび通うことになった山崎さんが
「いま、いちばん話を聞いてみたいひと」と名前を挙げたのは、
小豆島に5代続く、お醤油屋さん。醤油づくりとローカルデザインの関係とは?

祖父が島に残してくれた、たからもの。

山崎

伝統産業も伝統工芸も生態系と同じで、
さかのぼってつながるすべてのものが健全でないと、うまくいかない。

山本

そこに気づかないと、ある部分がふと抜け落ちてしまうんですよね。
むかしながらのいいものが、どこかで手を抜かざるを得なくなってしまう。
しかもそれが根っこの部分だった場合は、もう致命的です。

山崎

ぼくたちにとって大事なものを未来にきちんと残していくためには、
まわりの環境も整えてホンモノを保たないと、続いていかないということですね。

山本

実はさきほど、箍(たが)を編んでいると言いましたが……。

山崎

組んだ樽を固定している、竹で編んだ縄のような輪っかの部分ですね。

山本

この19石(*1)の大きな樽用の箍を編むには、
13メートル以上の長さのあるマダケが必要なんです。
だけどこれもまたなかなか希少なものでね。
だけど、京都の山から切り出してその場で削り、
さらに小豆島までフェリーで運ぶには、丸めざるを得ない。
そうするとどうしても型がつく。そこで、桶屋がこう言うんです。
「むかし、島に桶屋がおったんやったら、
マダケの薮があるはずやから、探してみろ」と。

山崎

ほぅ……。

山本

言われるがままに探してみたら、近所のひとがこう言うんです。
「箍を編むマダケやったら、将来のことを考えて、
お前のじいさんと一緒にあそこの山に植えたぞ」って……。

山崎

すごい!

山本

でしょう。ぼくもさすがに、涙が出ました。

*1 石(こく):お米を表す単位のひとつ。1石は約180.39リットル。

山本康夫さん

「まさか、うちの祖父が島内にマダケを植えてくれていたなんて、ほんとうに奇跡のようなはなしです」と山本さん。

木樽づくりが島の暮らしの生態系につながる。

山本

うちみたいなちいさな醤油屋は、大手と競ってもしかたがないですから、
とことん丁寧にやるだけです。
小豆島の醤油屋は木樽をつかっているところが多いですから、
それをぼくら自身が修繕できるというのは、ものすごい強みになるはずなんです。

山崎

しっかり足下を見るのがいちばんですね。

山本

島全体で木樽づくりに注力すれば、
きっと醤油のブランド価値があがると思っているんです。
すると、その醤油でつくる佃煮もそうめんもうまい、ということになる。
小豆島は食品産業の従事者がいちばん多いですから、
すなわち島のうるおいにつながるはずなんです。

山崎

お、道具から、ものづくりだけでなく、島の生活まで繋がりましたね。
「風が吹けば桶屋がもうかる」ということわざもありますが、
まさにそんなイメージですね。産業、あるいは暮らしの生態系ですね。

山本

つながる理由があるから、つなげる。

山崎

ローカルデザインとは、つまりそういうこと。
どこかでぶつ切れになっていたら、成り立たない。

山本

ひとりでやろうとしないこと。
ぼくは40歳になって、樽のことをやろうと思った。
あとに続くまわりの20代、30代も、それをみて、
じぶんができることをやろうとしてくれる。
そうやっていけば、いいつながり、いいスパイラルが生まれるはずなんです。

山崎

そうですね。「小豆島のなかで一番」を競い合うのではなく、
「小豆島は醤油の島だ」ということを
みんなで盛り上げていけたらいいんだと思います。

山本

醤油って、ひと樽つくるのに4〜5年かかりますからね。
醤油屋やってると「長い目でものを見る」感覚が養われるのかもしれません(笑)。

山崎

小学生の息子さんたちが6代目になるころのことが、
ぼくもたのしみになってきました。
父親のこれほどの本気を受け継ぐんですから。

山本

娘もいれて、3人もいますから。
長男が醤油屋を継いで、次男が桶屋になってくれたら言うことなしです!(笑)

ヤマロク醤油の軒先でいただける「アイスクリームの鶴醤かけかけ」

ヤマロク醤油の軒先でいただける「アイスクリームの鶴醤かけかけ」300円。バニラの甘さと醤油のほどよい味わいがバランスよく。

木樽の中で二人並んで写真を一枚

ひとつひとつの木樽の大きさを実感。「小豆島全体で、未来に向けて木樽仕込みの醤油を守り継げるといいですね」

information

map

ヤマロク醤油

住所:香川県小豆郡小豆島町安田甲1607

TEL:0879-082-0666

※見学は随時受付、予約不要

Web:http://yama-roku.net/

profile

YASUO YAMAMOTO 
山本康夫

1972年香川県小豆島生まれ。ヤマロク醤油5代目。大学卒業後、小豆島に戻りたくて、島の佃煮メーカーに就職。営業職で大阪に赴任後、東京に転勤。2002年、小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継ぐ。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

鹿児島を悩ませる火山灰の缶詰。 その名も、桜島の 「ハイ!どうぞ!!」

おみやげやさんでよく「高原の空気」のカンヅメなどが売られていますよね。
その火山灰バージョンが鹿児島県の桜島から登場、その名も「ハイ! どうぞ!!」。
張り切って道の駅などで販売されています。

鹿児島ではいまも火山灰が振る日があり、灰が振る日は傘を持って外出したり、
布団を干せなかったり、といろいろ大変な思いをされています。

その地元民を悩ませる灰をカンヅメにして売ることで、
鹿児島もがんばっていこうという思いが込められているそうですよ。
今年は大正3年の桜島大噴火から100年。
シーカヤックツアーなど、いろいろな催しが活発に行われるようです。

桜島大正噴火100周年Webサイト

小豆島 Part3 ぼくが木樽をつくることにした理由。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
小豆島編・目次

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瀬戸内海の島々を舞台に、現在開催中の現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2013」。
その出展準備のため小豆島にたびたび通うことになった山崎さんが
「いま、いちばん話を聞いてみたいひと」と名前を挙げたのは、
小豆島に5代続く、お醤油屋さん。醤油づくりとローカルデザインの関係とは?

戦後初めて、醤油屋として新樽をオーダー。

山崎

こちらが、5代目の建てたあたらしい蔵ですね。

山本

そうです。建て替えるわけにいかないので、蔵を半分だけ直す。
上部で空間がつながっているので、浮遊菌で発酵させているわけです。
これを続けると、孫の代くらいでこちらにもじゅうぶんないい菌がつく。
そのころまた、孫かあるいは次の代があちらを直す。
そういうふうにできているんです。
ぼくはたまたま、そういう代にあたった、と(笑)。

山崎

やっぱりはなしが100年単位なんですね……。
こちらは、ならんでいる樽もあたらしく見えます。

山本

2009年に仕込んだ12本のうち、新樽が9本、あとの3本は、
さきほどおはなししたように削って組み直したリユース樽です。

山崎

なるほど。組み直して、リユース。

山本

醤油屋として桶屋に新樽を発注したのは、うちが戦後初だそうです。

山崎

ええっ!? 戦後初? 知らないことばかりだなあ。

山本

木樽で醤油をつくってるところ自体が少ないですからね。
うちが発注しているのは大阪堺市の桶屋さんなんですが、
2000年に戦後初めて新樽をつくったんだそうです。

山崎

戦後55年もつくらなかったのに、その年になにかきっかけがあったんでしょうか。

山本

長野県小布施町の「枡一市村酒造場」で、
セーラ・マリ・カミングスさんが「なぜ木樽で日本酒をつくらないのか」と、
木樽仕込みの限定醸造をはじめたことがきっかけです。

山崎

セーラさんだったんですね。

山本

それ以降はほかの酒造も木樽仕込みをはじめるところが出てきて、
件の桶屋さんは現在、年2〜3本の新樽をつくり、
20〜30本の組み直しをしているそうです。

山崎亮さん

「戦後55年も新樽がつくられなかったなんて、ほんとうに驚きです。山本さんのおはなしは、知らなかったけれど、知らなければならないことばかりです」(山崎)

子、孫、ひ孫のことを考えると今がタイムリミット。

山崎

いい醤油をつくるためには、桶屋さんも続いてもらわないと困りますもん。

山本

そうなんです。もしも桶屋さんがなくなって技術が途絶えたら、
うちはたとえば50年後、子孫ひ孫の代に困るわけです。

山崎

後継者もなかなか難しいでしょうしね。

山本

それなら、なんとか続けてもらえるようにしごとをお願いしなければと、
2009年に借りられるだけのお金を借りて、うちも新樽を発注したんです。

山崎

なるほど。

山本

でもその桶屋の職人さん兄弟ももう60代なので、
「じぶんでも組み直せるようにしとけよ」と言われて。

山崎

それでじぶんでも?

山本

はい。大工さんと一緒に修行に行きました。
いまは竹で箍(たが)を編む訓練をしていますが、これがなかなか難しくて。

山崎

職人技ですもんね。一筋縄ではいかないはずです。

山本

大工さんたちはともかく、ぼくは人生初カンナがけからの修行ですからね(笑)。
しかもさらにこんどは、竹を割る道具をつくる鍛冶屋さんが86歳で廃業。
さすがに鍛冶屋はできないので、さいごの客として必要な道具、
銑(せん)を譲ってもらったんですが、
いよいよそういう時代になってきたのかという危機感で、
いわば悔しさをバネに樽づくりに挑んでいるという調子です。

(……to be continued!)

山本康夫さん

人生初めてのカンナがけから樽づくりに挑戦している山本さん。「桶職人さんに怒鳴られて、悔しくて、でもそれをバネにしてがんばっています」

木樽の前で対談中

「この樽は、職人さんに教わりながら、ぼくたちが組み立てました。孫の代には、いい樽に育っていてほしい。……というか、まず、漏れないことを祈りたい(笑)」と、ほがらかに笑う山本さん。

information

map

ヤマロク醤油

住所:香川県小豆郡小豆島町安田甲1607

TEL:0879-082-0666

※見学は随時受付、予約不要

Web:http://yama-roku.net/

profile

YASUO YAMAMOTO 
山本康夫

1972年香川県小豆島生まれ。ヤマロク醤油5代目。大学卒業後、小豆島に戻りたくて、島の佃煮メーカーに就職。営業職で大阪に赴任後、東京に転勤。2002年、小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継ぐ。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

九州人300人の名演技がスゴイ!斬新な誘致ビデオ「脊振ILCハイスクール!」

福岡県と佐賀県にまたがる“脊振(せふり)”では、
素粒子実験施設「ILC(国際リニアコライダー)」の招致を目指しています。

普通なら、招致のために
有名タレントを使ったキャンペーンなどをするところですが、
福岡/佐賀県の考えることはちょっと違いました!

ウルトラテクノロジスト集団チームラボ制作のもと、
編集者の古屋蔵人、「仕込みiPhone」で世界的にバズを起こした
アーティスト森翔太が映像を監督。
(ちなみに森さんはコロカルの人気連載「水尻自子の方言アニメ鳥取編を吹き替えしてるんです。その名演技はこちらからどうぞ)

ちょっとむずかしいILCの仕組みを、
擬人化された電子、陽電子が数々の奇跡を起こすミュージカル
「脊振ILCハイスクール!」を、オール九州ロケで作り上げたのです。

徳島の限界集落で充実した人生のご提案。IT企業サイファー・テックの「自然児採用枠」

Uターン就職やIターン就職など、
特に震災以降、地方への移住が見直されていますね。

徳島県の海と山に囲まれた自然いっぱいのまち、海部郡美波町には、
IT企業サイファー・テックのサテライトオフィス
「美波Lab(ラボ)」があります。

このラボで、「自然児採用枠」という人材募集が行われているそうです。

美波町は、海と山に囲まれた限界集落。
このラボは昨年5月に開設され、現在3名が勤務中。
本業の技術開発の傍ら、趣味のサーフィンや釣りを両立させ、
稲作や養蜂にも取り組んでいます。

今回募集するのは、アウトドアを趣味とするエンジニア。
そのため、「自然児採用枠」を設定し、
サーフィンや釣り、スキューバダイビングなどの費用として、
10万円の応援金を支給!

大自然のなかでゆとりある生活を渇望するエンジニアの方は
ご応募されてみてはいかがでしょうか?
技術があれば働く場所を選ばないIT企業。
地方への取り組み、増えるといいなと思います。

サイファー・テック 採用ページ

写真:明日に紡ぐ夢作りより

ジェーン・バーキンが 宮城に帰ってきた。 2年間の復興支援世界ツアーに幕

世界的に知られる女優であり歌手のJane Birkin(ジェーン・バーキン)。
コロカル読者にもファンの方がたくさんいらっしゃるでしょう。

彼女は東日本大震災の直後、いち早く日本に駆けつけて、
復興支援コンサートを開き、街頭で義援金を募集し、
都内避難所の慰問をしてくれました。

そしてさらに復興支援コンサートで共演した日本のミュージシャン、
中島ノブユキさん、坂口修一郎さん、栗原務さんを引き連れ、
2年に渡る日本支援コンサートツアー「Via Japan」を
世界中で行なってきたのです。

その数は世界27カ国、74公演にも及びます。
世界の人が震災のことを忘れないようにと日本のミュージシャンとともに世界を巡り、
すべての公演地のロビーでは、坂本龍一さんの呼びかけで設立された
『こどもの音楽再生基金:School Music Revival』の募金活動を行いました。

ジェーンが東北に帰ってきた

このツアーが、2013年3月に幕を下ろすにあたり、
「東北の人々がどのように立ち直りつつあるのか、自分の目で確かめたい」
と言うジェーンのために、東北慰問を計画。経費を捻出し、
その一部はクラウドファウンディングcampfire
「ジェーン・バーキンの東北応援プロジェクト」として支援を募集。
東京公演に先立って実現させました。

東北に降り立ったジェーンは、3日間、精力的に被災地を見て回りました。

石巻ニューゼという報道博物館、
松島の松華堂菓子店のカフェスペースでミニコンサートを開き、
さらには松島中学校を訪問して音楽演奏の交換も。

写真は、松島中学校で歓迎の演奏をしてくれたブラスバンド部の皆さんと。

ジェーンはこのあと、
3月28日に東京オペラシティ・コンサートホールで
大団円コンサートを行い、日本をあとにしました。

「音楽ができることはとてもささやかだけど、
連帯の包帯として、人々の傷を包んであげたい」
という彼女の言葉が、深く心に響きました。
彼女がわたしたちに教えてくれたことが、たくさんあります。

写真:梶野彰一

番外編 瀬戸内国際芸術祭2013 「小豆島町コミュニティアート プロジェクト」レポート

ヒアリングを重ねて、地域の課題をみつける。
島でいらないものを尋ね歩いて、素材として集める。
「アーティストじゃない」山崎さん率いるstudio-Lが、
まちづくりと同じ手法でつくりあげたコミュニティアートで
小豆島町のみなさんと一緒に「瀬戸内国際芸術祭2013」に参加しています。
会期直前に行われた最後のワークショップのようすを取材しました。

ぼくたちはアーティストじゃない。

2012年6月、ある夜の居酒屋にて。
現代美術家の椿昇さんとの講演会を終えた山崎さんが、打ち上げの席で
アートやコミュニティアートについての思いを語りはじめました。
ふだんはそういう場で滅多にじぶんのはなしをしない山崎さんにしては、
ほんとうに珍しく。

「そのうちにわくわくしてきて、気がついたら『やりましょう!』と言っていたんです」
それがこのプロジェクトの始まりだったということは、studio-L のメンバーも、
ワークショップに参加したメンバーも、みんな知っています。

「でも、ぼくはアーティストではありませんから」

山崎さんとstudio-L は、「いつもの」じぶんたちのやり方で、
アートに関わることにしました。

「コミュニティデザイナーとして、
地域のみなさんと一緒にアートをつくりたかったんです」

studio-L のメンバーは、いつもあたらしい地域に入るときにそうするように、
まちのみなさんへのヒアリングから活動をスタート。
ヒアリングの結果から浮かび上がった「島でいらないもの」のなかに、
醤油のたれ瓶がありました。お弁当の隅っこに入っているちいさなアレです。

「たとえば、弁当の新商品が出るたびに、たれ瓶の大きさやカタチも少しずつ変わるので、
旧タイプがどんどん在庫になるんだそうです」

果たしてそんな必要があるのかどうかつくづく不明だけれど、
そんな理由でつくるたびに生まれる不要品。
「これを素材として、なにをつくろうか」というところから、
まちのみなさんにもアイデアを求め、ぐんぐんと巻き込んでいきます。

「醤油の壁」

お弁当用の醤油のたれ瓶に、濃度の違う醤油を詰めて、8万個ずらり並べた「醤油の壁」。光のグラデーションが美しい。(写真提供:studio-L)

ふたに記した番号は、醤油の濃度をあらわす

ふたに記した番号は、醤油の濃度をあらわす。数字の順にならべると、見事な醤油のグラデーションができあがる。

「醤油の壁」の美しい光のグラデーション

醤油の一升瓶を運ぶ木箱が、テーブルや椅子に

醤油の一升瓶を運ぶ木箱が、テーブルになったり椅子になったり。町にあるものを、できるだけ使う。

町に生まれた関係性こそが、いちばんのアート。

濃度の異なる醤油を詰めたたれ瓶を8万個、規則正しく並べたインスタレーション。
濃度を変えて光を透かすヒントになったのは、小豆島で醤油づくりに関わるひとたちが、
醤油の瓶を陽にかざして新旧を見極める、そのしぐさ。

「はじめに、これをつくろうと決めたとき『何個いるんや?』と問われて、
ぼくたちが『8万個』と答えたときは、一斉にひかれたけれど(笑)、
こうしてできあがったのは、みなさんのちからの集大成です」

たれ瓶詰めに関わった人数、350名。
老人ホームのおばあちゃんや幼稚園児にも手伝ってもらいました。
醤油を詰める作業も、たれ瓶をアクリル板に並べて貼る作業も、
重くなったアクリル板を立てる作業も……。
若いstudio-L のメンバーが途方にくれたりへこたれたりするたび、
人生経験豊富なまちのみなさんの知恵や知識や効率的な提案が窮地を救ってくれました。

「床に置いて作業を終えたアクリル板を、起こしてまっすぐ立てるのも
ひと苦労だったのですが、実際に作業をしてみると、
古い建物自体がゆがんでいるという事実に直面して、
またそこに別な大変さが待ち受けていたりね(笑)」

会場は、昭和の初期に建てられた旧醤油会館。
さすがに古ぼけてくすんだ壁をじっと見つめていた山崎さんが、
「これ全部、薄いグレーに塗ろうか」とぽつりとつぶやきます。
瀬戸内国際芸術祭開始まであと10日。
作品は完成したけれど、古くてどこか愛おしいこの空間は
まだまだこれからグレードアップしそうです。

夜には、第5回目/最終回となるワークショップが開かれ、
約25名の参加者が展示チーム、屋外チームなどの班にわかれて
「会期開始までにやること」「会期が始まってからやること」を洗い出していきます。
和気あいあいとして、老いも若きも、表情がとても生き生きとしています。
そんなみなさんに、山崎さんから、会期前のラストメッセージです。

「偶然の出会い、あのひとにはあんな能力があるんだ、という発見、結束力。
その関係性がいちばんのアートじゃないでしょうか。
せっかくですから、芸術祭が終わったらハイ解散! ではなく、
瀬戸芸以降も今回生まれた関係性をつなげていってもらうことが
“ずっと息の長い作品”になるんだと思います。
終わったあとに“もっとやりたい”と思ってもらえたら、
最初のきっかけを少しだけお手伝いさせていただいた僕らはとてもうれしいです。
どうか、いまできかけている作品=関係性を、
もっともっとつよく、大事にしていってください」

久しぶりに会場を訪れた山崎亮さん

芸術祭の開催日まであと10日。久しぶりに会場を訪れた山崎さんが、気付いたことを次々とstudio-Lのメンバーに伝えていく。「まだまだこれから!」

内海電工の宮谷さん

困ったことがあるたびに、救世主のようにひょっこりあらわれて課題を解決してくれる、内海電工の宮谷さん。

ワークショップの模様

第5回ワークショップのようす。しごとを終えたまちのひとたちが集う。

模造紙とマジックペンを使って、やることを洗い出して行く

模造紙とマジックペンを使って、やることを洗い出して行く。屋外グループは、紙にひと文字も書かないまま、実務作業に入っていくなど、ミーティング時間の使い方にもグループごとの個性がはっきり。

山崎亮さん

「どうか、いまできかけている作品=関係性を、もっともっとつよく、大事にしていってください」

information

map

旧醤油会館(会場番号 83番)

住所:香川県小豆郡小豆島町馬木36-2

開館時間:9:30〜17:00

瀬戸内国際芸術祭2013

Web:http://setouchi-artfest.jp/

※芸術祭の会期外もオープンしています。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

小豆島 Part2 親に「やめとけ」と言われた 家業を継いだ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
小豆島編・目次

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瀬戸内海の島々を舞台に、現在開催中の現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2013」。
その出展準備のため小豆島にたびたび通うことになった山崎さんが
「いま、いちばん話を聞いてみたいひと」と名前を挙げたのは、
小豆島に5代続く、お醤油屋さん。醤油づくりとローカルデザインの関係とは?

「売らせてくれ」と言われる側になろうと思った。

山崎

ヤマロクを継がれたのはおいくつのときですか?

山本

うちに帰ってきたのは29歳のときです。

山崎

小さいころから、じぶんが継ぐんだって思いながら育ってこられたんでしょうか。

山本

いいえ。だって、子どものころしばらく、
うちが醤油屋とも気づいていませんでしたから。

山崎

ええ? そんなことってありますか?(笑)

山本

樽の中に落ちたら危ないから、蔵に入れてもらえなかったんだと思います。
小学校の中学年になって
「友だちのお父さんは働きに行くけど、そういえばうちはどうなってるんや?」
とようやくぼんやりと気づいたんです(笑)。
その後、ふつうに進学してもとくに何になりたいというのはなく、
大学卒業のときに「継ぐわ」と言ってみたものの、オヤジに
「儲からんし、継がんでエエわ。給料出せんし、外で働いてこい」と言われて、
地元の佃煮メーカーに就職しました。
阪神・淡路大震災(1995年)の直前のことです。

山崎

そのタイミングで一度、お父さんに「継がなくていい」と言われてるんですね。

山本

その会社では営業職に就くんですが、東京で担当になった大手スーパーでは、
ぼくが持っていく無添加の商品がなかなか認められなくて、
バイヤーはボリューム、価格、パッケージデザインのことしか言わない。
売り場にまともな食べ物がなくて、
バイヤーには値段のことばかり言われるということに辟易して、
「ここへ売りに来るのではなく、『売らせてくれ』と言わせる側になろう」
と決意したわけです。

山崎

で、言わせたんですか?

山本

もちろん数年はかかりましたが、
そのバイヤーから「サンプルちょうだい」とオファーがきて
「イヤです!」ときっぱり断ったときには、どれほど胸がすいたことか……!(笑)

ヤマロクの醤油が醸造される蔵

ヤマロクの醤油はすべて天然醸造。太陽の光の当たり方や、菌が多く住む土壁からの距離……樽にもひとつひとつ個性があり、同じ年月を経たからといって、同じものができるというわけではない。マニュアルはない。

「継いでも食べていけん」は、ほんとうだった。

山本

とはいえ、帰ってすぐに決算書を見て
「あ、しまった! オヤジの言う通りや。これではオレ、食べていけん!」
と青ざめるところからのスタートだったわけですが。

山崎

ははは。さっきの小学生のころの家業のはなしといい、
いろいろなことに気づくのが遅いから
がんばれているのかもしれませんね、山本さんは(笑)。

山本

人間、切羽詰まると、がんばらざるを得ないですからね(笑)。

山崎

それが、11年前。

山本

はい。島のタクシー会社が親戚だったこともあり、
父の代から観光客の見学を受け入れていて、
その際、お土産などを発送するのにいただいていた
約100人分の顧客名簿だけが手元にありました。
これをなんとか広げられないかと。
添加物を使っていた銘柄はキッパリと辞めて
「鶴醤」と「菊醤」の2銘柄に絞り、1リットル瓶も辞めて小瓶に賭ける。
そんなふうに、とにかく直販への仕掛けを考えてきました。

山崎

それが成功しているわけですね。

山本

まともにまわるようになったのはここ5年ですね。
11年で売上げは約6倍に伸びました。

山崎

それはすばらしい。そういった康夫さんの取り組みに対して、
お父さんは何かおっしゃってますか?

山本

帰ってきて3年目にオヤジが病気で倒れてしごとできなくなったので、
喧嘩もせずにスパッと代替わりしたんです。
それからはひとことも口を出しませんね。
ただ、周りから聞くと、「なにを考えとるか、ようわからん」と言うてるようです。
「けど、前を向いて進んでるから、まあエエんちゃうか」と……。

山崎

なるほど。しっかり前を向いていること、
実はちゃんと見ていらっしゃるんですね。

(……to be continued!)

ヤマロク醤油ボトルのフォルムやラベルもどんどんスタイリッシュに革新中

先代にはほかにもたくさんあった銘柄を「菊醤」と「鶴醤」のみに絞って販売ボトルも145mlと500mlのみに。1リットル醤油を必要とする大家族より、単身者や核家族にターゲットをすえた。ボトルのフォルムやラベルもどんどんスタイリッシュに革新中。

山本康夫さんと山崎亮さん 

同世代ということもあり、はなしが弾む山崎さんと山本さん。「醤油って日本人には欠かせない基本の調味料だから、こうやってむかしながらにつくられるのが当たり前なんだと思い込んでいたけど、現代ではほとんどがステンレスのタンクで大量生産されたり、味つけだけして出荷されたりしているのだと知って、驚きました」と山崎さん。

information

map

ヤマロク醤油

住所:香川県小豆郡小豆島町安田甲1607

TEL:0879-082-0666

※見学は随時受付、予約不要

Web:http://yama-roku.net/

profile

YASUO YAMAMOTO 
山本康夫

1972年香川県小豆島生まれ。ヤマロク醤油5代目。大学卒業後、小豆島に戻りたくて、島の佃煮メーカーに就職。営業職で大阪に赴任後、東京に転勤。2002年、小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継ぐ。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

小豆島 Part1 島の醤油屋に150年以上続くもの。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
小豆島編・目次

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瀬戸内海の島々を舞台に、現在開催中の現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2013」。
その出展準備のため小豆島にたびたび通うことになった山崎さんが
「いま、いちばん話を聞いてみたいひと」と名前を挙げたのは、
小豆島に5代続く、お醤油屋さん。醤油づくりとローカルデザインの関係とは?

杉樽仕込みの醤油蔵。その魅力とフシギ。

山崎

こんにちは! お邪魔します。

山本

お待ちしておりました。

山崎

何度見ても、迫力がありますね、この杉樽。

山本

そうですよね。
現代の醤油は、タンクで大量生産されるのがほとんどなので、珍しいと思います。
いまでも杉樽仕込み醤油で使われる杉樽の2分の1か3分の1は、
小豆島にあると聞いたことがあります。

山崎

いちばん風格のある古い杉樽が、たしか150年くらい前からの現役だと
おっしゃっていましたが、年数はどこでわかるんですか。

山本

樽屋さんに見てもらったんですけど、どうやら、
100年ちょっと前に電気の製材機が登場しているので、
それより以前のものと明確に区別がつくようです。

山崎

なるほど。

山本

それより前は木を割ってつくったみたいですね。
まずは分厚くつくっておいて、削っていくんです。

山崎

削る?

山本

はい。まず20〜30年は酒蔵で酒を仕込むのに使った後、
いちどバラして内側をカンナで削って、また組み合わせるんです。
そして、次に味噌や醤油、漬け物用へとリユースされるんですよ。

山崎

そうなんですか!

山本

そうやってそもそも長く使うものではあるんですが、
ことにうちのこの樽はもともと醤油のためにつくられたので、
一度も削ってないらしいんです。
だから、木が分厚いまま、まだまだ使い続けられそうです。

山崎

まわりについてる、このカビのようなものがいい酵母を育てるから、
うっかり触ったり掃除したりしちゃダメなんですよね……。

山本

そうなんです。母が嫁いで来た当初、あんまり汚いからと
掃除しかけたことがあって、「コラーッ!」って大声で叱られたそうです(笑)。

ヤマロクの醤油を育てる蔵

こちらが、ヤマロクの醤油を育てる蔵。「隠すものはなにもないから」と、観光客も見学自由に。代々積み重ねられた歴史の長さを感じる空間。

大杉樽の表面

樽職人さんが「150年は前につくられたもの」だという大杉樽の表面には、乳酸菌や酵母菌など、おそらく専門家も解明できないであろう良質な「菌」がたくさん。

100年前と100年先に思いをはせて。

山崎

でも、女性が蔵に入ると酵母が喜ぶんだって、前回聞いたような気がします。

山本

その通りです。いまは時期的に酵母が静かにしていますが、
暖かくなる5月頃には発酵がぐんぐんすすみ、
表面にプツプツと気泡があがってくるんです。
そのシーズンに女性が多く見学にいらっしゃると、そのプツプツがぐっと増えて、
酵母が喜んでいるのが如実にわかるんですよ(笑)。

山崎

いまこうしていると全然わからないけど、ほんと、生きてるんだなあ(笑)。

山本

そうですね。夏になると、
蔵じゅうの生きている菌が発酵する音が、音楽のように聞こえます。

山崎

それはすごいな。樽だけでなく、この蔵全体が呼吸しているということですね。

山本

ヤマロクの創業は江戸時代の終わり頃〜明治のはじめ頃で、
当初はもろみ屋なのですが、その頃から数えると
100年以上前に建てられた蔵ということになります。
もちろん木造、床は土間、壁は土壁ですから、樽に限らず、
蔵全体におそらく何百種という酵母菌や乳酸菌がずっと長いあいだ生き続けていて、
これが「ヤマロクの醤油」をつくってくれるんです。

山崎

なにものにも代え難い財産ですね。

山本

だから、蔵を大きくすることはあっても、建て替えることはできませんね。
わたしの代であちらに増築しましたが、空間としてつながっているので、
おそらく孫の代くらいには、あちらにもいい菌が移り住んでくれることでしょう。

山崎

100年先のことを考えたモノづくりですね。ほんとうに勉強になります。

(……to be continued!)

発酵が進み表面にぷつぷつと泡が浮かび始める

大豆、小麦、塩、水を混ぜ入れ、1年から4年寝かせてから搾る。暖かくなる5月頃からは発酵が進むので、まるで生きているように表面にぷつぷつと泡が浮かび始める。

information

map

ヤマロク醤油

住所:香川県小豆郡小豆島町安田甲1607

TEL:0879-082-0666

※見学は随時受付、予約不要

Web:http://yama-roku.net/

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YASUO YAMAMOTO 
山本康夫

1972年香川県小豆島生まれ。ヤマロク醤油5代目。大学卒業後、小豆島に戻りたくて、島の佃煮メーカーに就職。営業職で大阪に赴任後、東京に転勤。2002年、小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継ぐ。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

弾けつつある岡山!スチャダラパーBOSEの親善大使/LEDマン誕生

岡山県といえばきびだんご。
デニム(ジーンズ)の生産も盛んなんですよね。
などなど、どちらかといえば穏やかなイメージで語られていた
岡山県が、最近弾けつつあるようです。

まず、岡山出身のミュージシャンである、
ご存知スチャダラパーのBoseさんが
ただいま岡山観光大使の修行中。
「もっと燃えろ岡山!〜Bose、岡山観光大使への道〜」
というアツいタイトルで頑張っています。

先日は映像作家・クリエイターの坂本渉太さん
をゲストに迎え、坂本さんが制作した
テンションの高いアートワークとともに、
「日本で1番楽しい場所、岡山県!」を目指すトークショーを行いました。
その活動はFacebookでチェックすることができます。

また、2013年4月には
「ライトアップ県民運動」という
ちょっとかっこいい名前の運動がスタート。
交通安全ヒーロー「ライトアップ戦隊LEDマン」が
本格デビューしました。

なかなかシュールな出で立ちです。

岡山県の交通企画課では、
「LEDライトや夜光反射材を身につけて
LEDマンに変身してみませんか?」と呼びかけています。
日常の着こなしに取り入れるには
ちょっと派手ですが、いつか見習ってみたいかも。

もっと燃えろ岡山!〜Bose、岡山観光大使への道〜

(アートワーク:坂本渉太)

こんなに早い餅つき、見たことない!三重県志摩市の伝統「恵利原早餅つき」

皆さん、餅つきの経験はありますか?
重い杵を振り下ろすのも大変だけど、
息を合わせながらお餅をひっくり返すのにも、
なかなか熟練の技が必要とされるんですよね。

三重県志摩市、磯部町の恵利原地区には、
そんな餅つきをありえないほどの速さで行う
伝統行事「恵利原早餅つき」があるそうです。

江戸時代に始まったというこの行事。
一本の杵を、息を合わせたふたりが取り合い、
囃子唄の「地つき唄」を歌いながら、
すごいスピードで餅をついていきます。
杵を振り下ろすペースは、なんと1分間に140回以上!
さらに今年は1秒間に2.5回という新記録を打ち立てたそうです。

YouTubeに動画がアップされていますので、
驚きの速さを是非その目でお確かめください。
餅をひっくり返すご担当の余裕ぶりがすごい!
(動画はこちら

出来上がったお餅には志摩市特産の
あおさノリとキナコをまぶしていただきます。

現在、この行事は地元の方たちによる
「恵利原早餅つき保存会」によって守られ、継承されています。
お正月やお祭りの時だけでなく、
地域のイベントや、結婚式などの
おめでたい席上にも参加しているんですって。
伝統を守っていこうという心意気がステキですね。
Webサイトでは囃子唄も聞くことができますよ。

恵利原早餅つき保存会

写真:伊勢内宮前 おかげ横丁より

怖いほどのゆるさ!! 愛知県岡崎市のアートなゆるキャラ 「オカザえもん」

近頃のゆるキャラには、
ただユルいだけでなく、ツッコミどころの多さも
求められるようになりました。
ハイテンションな「ふなっしー」がテレビの人気者になるなど、
もはやゆるキャラには芸人としての素養も
求められているのかもしれません。

そんな今、ゆるキャラ界でアツい注目を集めているのが、
愛知県岡崎市のゆるキャラ「オカザえもん」。

岡という漢字を顔に刻んだ特異な出で立ち。
全身を包む、部屋着の如くルーズな純白の衣装。

そのシュールな容貌に、地元の新聞では
「子供が泣く」というゆるキャラらしからぬ称号を頂く。
「砂ん丘」(サンキュー)「レ鰹」「ルバンガ!!」
という謎の口癖もますますあやしい。

山形 Part4 そして、次のステップへ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
山形編・目次

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約80年間の小学校としての役目をまっとうした建物を、
「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」を基本コンセプトに
「山形まなび館・MONO SCHOOL」として新たに生まれ変わらせ、
仲間とともにその運営に携わった萩原尚季さん。
山崎さんと一緒に、その3年間の足跡をたどります。

「孫」の存在が必要なんです。

萩原

昭和初期につくられたこの校舎は、木造校舎のような郷愁はないけれど、
それでもぼくらが大切にして、後世にのこしていくべき価値があると思うんです。

山崎

「エディプスコンプレックス」なんていうと大げさかもしれませんが、
ひとつ上の世代への反抗心というか。これはどの世代も持っている。
たとえば、平成に生きているぼくらは、昭和後期の、
たとえばバブル時代に流行ったもの、つくられたものは恥ずかしくて仕方がない。
建築もプロダクツも、いまあんまり見たくないですよね。

萩原

そうですね。ぼくは山崎さんより3つ下ですけど、
同世代としてその感覚、わかります。

山崎

でも、次の世代のひとたちはきっと、
おそらくバブル時代のなかにあたらしいものを見いだす。
お父さん世代をつねに否定しながらも、おじいちゃんの代はいいと思える、と。
現代だけでなく、ひとは、ずっとそうやって生きてきたんだと思います。
では、ぼくらが次の世代を思って、のこしておくべきものは何なのか。
いま全国でどんどん廃棄されつつある昭和的なものに対して
それを本質的に見極め、「ちょっと待った!」と言えるのが、
ほんとうの目利きなのかもしれませんね。

萩原

山形でも、生活様式の変化や現代化によって、伝統産業、その他の産業で
各世代の職人さんたちが受け継いできた技や価値が、
どんどん衰退しているのが現状です。
かたや、東北芸術工科大学があり、そこではあたらしい人材が育っているのに、
卒業生が山形に根づいていかない。そういったちいさなズレを、
なんとか繋ぎあわせることができないかなって思うんです。

山崎

伝統産業、伝統工芸はとくにそうですよね。封建的な制度が崩壊して、
お父さん世代は安定した稼ぎの得られるサラリーマンになっている。
でも、孫世代には輝きを見いだすことができるんです。
奇しくも、山形発の映画『よみがえりのレシピ』のなかでも、
農や伝統を受け継ごうとする「孫」の存在が描かれています。
そのまちが古くから受け継いだ大切なものが記憶喪失になってしまわないように、
萩原さんのようなひとたちが、ヒントや手法を見つけて
地域の共感を得ていくというのは、いまとても重要なことだと思いますよ。

地下の交流ルーム

古い映画館からゆずり受けた椅子を並べた地下の交流ルーム。「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の会場にもなった。

ものづくり活動用の貸し出しスペース

館内には、ものづくり活動を行うひとが利用可能な貸し出しスペースを設けた。会議室だけではなく、木工・金工作業のできる設備も!

3年経ってわかり始めたことは。

山崎

萩原さんが代表をつとめるデザイン事務所「コロン」が、
そういった思いを胸に、3年間この「山形まなび館」の
事業委託業務を行ってきたわけですが。

萩原

はい。はじめてのことばかりで、
なおかつ本業のデザイン業務も兼業してきたので、
正直、あっというまの3年でした。
2012年度の「グッドデザイン・ベスト100」を受賞し、
運営や活動の一端が少しは認めてもらえたかな、とは思いましたが、
地元の方々にはまだまだ周知できていない現実もあり、
もどかしく感じていました。

山崎

なるほど。

萩原

あたらしいモノをつくり続けなくても、
山形にはすでに魅力的なモノがたくさんあります。
それを編集しなおし、ていねいに伝えることを大切にしたい。
それも、続けていかなくては意味がない。
そう思うと、ぼくらにとって3年という期間は
あまりにも短い時間だったように感じています。

山崎

当初の行政の決まり通りにこの「山形まなび館」という場を
離れることになる萩原さんですが、
今後はどのような活動を予定されていますか?

萩原

現在進行中のAPARTMENT PROJECT
(みかんぐみの竹内昌義さんの提案しているエコハウスの機能をもったアパート)
の一室にゲストルームを設け、
宿泊ができたり、住人を中心にした小さなイベントを行える、
ちょっと変わったアパートメントを設計中で、9月には完成予定です。

山崎

それはたのしみですね。
ぼくも学科開設に向けてこれから山形に来る機会が増えるので、
ぜひ山形で一緒になにかやりましょう。

萩原

はい。そのときはまた成長したぼくらを見てもらえるようにがんばりますので、
どうぞよろしくお願いします。

萩原尚季さん

予定通りの任期である3月31日をもって、萩原さんたちコロンのメンバーは「山形まなび館」を離れるけれど、4月からはあたらしい事業主による運営がはじまる。

山崎亮さん

東北芸術工科大学「コミュニティデザイン学科」開設のために、これまで以上に山形に縁深くなりそうな山崎さん。「ぜひまた一緒にやりましょう!」

information

map

山形まなび館・MONO SCHOOL

県下初の鉄筋コンンクリート学校建築として、昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」が、約80年間の小学校としての役目をまっとうし、平成22年4月に「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」の拠点として生まれ変わった。

住所:山形県山形市本町1-5-19

TEL:023-623-2285(管理事務室)

開館時間:9:00〜18:00(交流ルームは〜21:30)

休館日:月曜(祝の場合は翌日)および12月31日、1月1日

Web:http://www.y-manabikan.com/

profile

TAKAKI HAGIWARA 
萩原尚季

アートディレクター。1976年茨城県生まれ。2000年東北芸術工科大学を卒業後、同大学の大学院に進学。スウェーデンへの交換留学経験から2001年デザイン事務所「コロン」を立ち上げ、2010年「株式会社コロン」となる。同年、山形市立第一小学校旧校舎活用の委託業者に選定。4月「山形まなび館・MONO SCHOOL」としてリニューアルオープン、その運営方法で2012年度「グッドデザイン・ベスト100」を受賞した。

Web:http://www.colon-graphic.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

コロカルニュース、始まりました!

全国津々浦々からニュースをお届けします!

日本列島で、ピッカピカの新年度が始まりましたね。
それとともに、コロカルでも、新コーナー
「コロカルニュース」が始まりました。

コロカルニュースは、「ローカルって楽しい」をキーワードに、
日本全国津々浦々のトピックをお伝えするニュースコーナーです。
ちょっとおかしな事件や、地元民以外には謎のブーム、面白い人などの出来事、
各地で開催されるイベントの告知からコロカル記事の取材エピソードまで、
ほぼ毎日エントリー。

愛情を込めて、コロカル視点のニュースをお伝えしていきます!

どうぞよろしくお願いします。
なにかニュースがありましたら、ぜひ編集部に教えて下さい!

ぬか釜出張

ぬか釜と魚沼産コシヒカリで行脚!

10月に収穫を終えてから、RICE475もさまざまな活動を行っておりました。
今シーズンから始めた活動に「ぬか釜出張」というのがあります。
ぬか釜とは、お米のもみ殻と杉っ葉を燃料に羽釜で炊飯するという、
昔ながらの炊飯スタイルです。

巷ではとうとうお米の消費額がパンに抜かれてしまうという由々しき事態に。
また、食料自給率を上げるために、米粉をプッシュする声を頻繁に聞きます。
米粉パン、米粉パスタ、米粉スイーツなどなど、
米を粉にして小麦粉の代わりに使ってお米の消費を上げようという
目論見はとっても良くわかりますが……。

それじゃいかんでしょう!!!
ご飯は? ご飯の美味しさは?
日本人のDNAをパンやパスタにすり替えてよいのですか?
とびきり美味しいお米を最高のコンディションで食べてもらい、
目を覚ましていただきたい!

ということで、ぬか釜と魚沼産コシヒカリを持って、行脚することに。
青空の下、最幸級米を最幸な炊き方で味わっていただきました。

マラソンの走り方教室、女子サッカーの試合、
音楽イベント、埼玉県の小学校の家庭科の授業……。

ぬか釜炊きの名人を連れて行ったり、時にはひとりで行ったり。
さまざまな場所でご飯を炊かせていただきました。

ぬか釜炊きの特徴は、火力が強いこと。
なんと釜の中は1000度にも達するそう。
なので、わずか20分ほどで炊きあがるのです。
一度火をつけたらあとは放置。
火力の調節もいらないので、昔の「全自動炊飯器」ですね。
もちろん、みんな大好物の芳ばしいおこげもバッチリできます!

越後湯沢で行われた、パラリンピックのマラソン金メダリスト高橋勇市さんによる、マラソンの走り方教室でも振舞いました!

初めて見るぬか釜炊飯に、子どもたちも興味津々!

見よ! この炊きたてご飯を! 思い出すだけで幸せな気分……!

みんな幸せそうにご飯を食べる姿を見て、やはり、自信が確信に変わりました。
みんな美味しいご飯が大好きなんです!

「普段ウチの子こんなにご飯食べないのよ!」(お母さん談)
「おこげ美味しい! 毎日ちゃんと炊きたくなりました」(お姉さん談)
「なんか、お米が美味しいって、ほっとしますね」(お姉さん談)
「ご飯だけでこんなに食べたの初めて! 塩もいらない」(小学生談)
「明日から朝はご飯にしてねってお母さんに言うね!」(小学生談)
「おかずも豪華だけど、ぬか釜炊きのご飯が一番のご馳走だよ」(おじさん談)

そうでしょう、そうでしょう(ありがちな広告のようですが、違います)。
もちろん米粉も良いと思いますが、まずはご飯を食べる習慣を取り戻しませんか?
大正時代、日本人は平均で一日8膳のご飯を食べていたそうです。現代は2.5膳。
一説によると、それが4.5膳になることで脂肪の過剰摂取がなくなると言われています。
美味しいだけでなく、体にも良いのですね!

なにはともあれ「ぬか釜出張」、
ロケーションも手伝って、みなさんにご飯の美味しさを再確認していただく、
本当に良い機会になったと、勝手に満足しています(笑)。

個人的にはこの仕事、さまざまな場所でさまざまな出会いがあるので、大好きです!
うちのイベントにも来てほしい! という方、ぜひご連絡ください☆

「OCICA」と「ぼっぽら食堂」

牡鹿の人と土地を象徴した手仕事ブランド「OCICA」

三陸海岸の南から太平洋に向かい南東にせりだした牡鹿半島。
複雑なリアス式海岸に点在する約30の浜ごとに集落を形成するこの地域は、
漁業関連の仕事に従事していた多くの住民が、津波により家と仕事を失った。
現在、瓦礫の撤去はほぼ終わり、
ワカメや牡蠣などを扱う水産加工業の生産体制も徐々に回復へと向かっている。
しかし、「復旧」から「復興」へ向けた動きのなかで、
集団移転の問題や回復の進まない地域経済など、さまざまな問題が浮かびつつある。

そんな中で、地域住民のつながりを大切にした
「一般社団法人つむぎや」の活動が注目されている。
代表の友廣裕一さんが手掛けるふたつのプロジェクトを追った。

牡鹿半島には美しい漁港がいくつも点在する。

「OCICA」を制作する地元のお母さんたちと、右端が友廣裕一さん。週に2度の制作時間を楽しみにしている人も多い。

2年前——。
被災後間もない牡鹿へ支援のために入った友廣さんは、
瓦礫が山積し、援助が行き届かない苦しい状況のなかで工夫をこらし、
希望を失わず、前に向かって生きようとする牡鹿の人々に出会った。
この人たちのために自分ができることはないか——。
全国70か所にわたる日本の中山間地を旅しながら、地域の人々の生活に触れ、
その中から関係性をつむいできた自分だからできることをしたかった。

「一歩踏み出そうとする人たちと同じ方向を向いて、全力でサポートしていこう」
それが、“つむぎや”のはじまりだ。

牡鹿半島には鹿が多く生息している。
当然、鹿の角も豊富に手に入るが、まったく使われていなかった。
「なにかできないか」と友廣さんは、
素材調達、加工、デザインなどひとつひとつの課題をクリアし、
「OCICA」というアクセサリーブランドを生み出すプロジェクトを立ち上げた。
デザインには、「NOSIGNER」デザイナーの太刀川英輔さんの力を借り、
まず、鹿の角と漁網の補修糸を用いたネックレスができあがった。
2011年9月、プロジェクトは本格的に動き始めることになる。
仕事を失ったまま、仮設住宅に暮らす東浜地区(竹浜と牧浜)の女性に
わずかながらでも定期的な収入をもたらすことと、
ともすれば途絶えがちになる彼女たちの交流をうながし、
コミュニティとしての再生を図ることを目的としてスタート。
火・木曜の午前中、みんなで集まってアクセサリーをつくるという“しごと”。
これは、現在も続いている。

だが、素人が始めたその道のりは決して平たんではなかった。
そこは、知らないことは謙虚に教えを乞う姿勢で。
振り返れば、牧浜の女性たちを紹介してくれた牧浜区長の豊島富美志さん、
鹿の角を仲間から大量にかき集めて提供してくれた猟師の三浦信昭さん、
磨きから加工まで教えてくれた元捕鯨船の乗組員の安部勝四郎さん、
そして、NOSIGNERの太刀川さんなど、
縁ある多くの人々とつながり、協力を仰いだ結果がそこにあった。

おしゃべりしながらでも手は止まらない。楽しい手仕事は午前中いっぱい続く。

鹿の角の加工は難しい。お母さんたちは独自に練習を積み腕を磨く。

このように、OCICAは仮設住宅の集会所で製作されている。
仕事をする女性たちはみんな明るく、笑顔がたえない。
「今日、もらった野菜の中にガーベラが一輪あったの。部屋に飾ったら
パッと明るくなって、うれしくてねぇ」と阿部けい子さん。
「うちはお花はいいから、野菜をもっとちょうだいって言ったさ」
そう返す阿部美子さんの言葉に一同笑いが起こる。
美子さんは、小学生を筆頭に一女三男の子供を持つお母さん。
一番下の男の子は、震災後の4月に生まれた。
秋から本格的に始まる牡蠣の殻むきの仕事を心待ちにする一方、
色々な人と交流できる作業場での時間を生活の張り合いにしている。

チーム最年少の阿部美子さん。みんなに頼りにされている。

「ここがあったから立ち直ることができたんだよ」
そう語るのは、チーム最年長の豊島百合子さん。
孫の結婚式に出るため出かけた横浜で震災に遭遇。
やっとの思いで牡鹿に辿り着き百合子さんが目にしたのは、
津波で壊滅的な被害を受けた故郷牧浜の変わり果てた姿だった。
独り身の百合子さんは震災の深いショックから立ち直れず、
仮設住宅で昼夜ふさぎ込む日々が続いた。
そんな折、百合子さんはOCICAの初回ワークショップに出席する。
「最初は手さ、ぶるぶる震えたけど、やってくうちに気にならなくなって、
いつの間にか笑えるようになったのよ。みんなのおかげだよ」
以来、皆勤賞。収入につながる仕事の達成感もさることながら、
ここに来れば誰かがいるという安心感が大きかったという。

豊島百合子さん。よい商品をつくるために人知れず練習を重ねる努力家。

人々が共に“笑顔で過ごせる場”をつくることの大切さ。

ここでは30〜70代の幅広い年齢の女性が一堂に会してアクセサリーをつくる。
話をしながらも、手元を見つめる目は真剣そのもの。
少しでもよい商品にしようと、日々改善を加えながら作業にあたる。
テキパキと作業をこなして本日の製作分が終了すると、
OCICA恒例の “お茶っこ”の時間だ。
自宅で収穫した白菜の漬物や、茎わかめの煮物、ゆで卵など思い思いの品を持ち寄って、
お茶を飲みながら語らいの時間をもつ。
「この時間とみなさんの笑顔を大切にしたいんです。
いつの間にか作業の反省会に突入すると、どんどん白熱していって、
時の経つのを忘れて話しているときもありますけどね」と、友廣さんがほほ笑む。

OCICAは、海外にも販売店が広がり、順調に売り上げを伸ばしている。
購入する人たちは、ひとつひとつ形の違う商品に手づくりの温もりを感じ、
その背景にある「OCICA」の「人」や「物語」に魅力を感じるという。

だからこそ、短期的なプロジェクトで終わるのではなく、
OCICAを継続させる中でお母さんたちの求めるかたちを
日々追い求めていきたいと友廣さんは話す。

ひとつの夢の実現が、新たな夢へつながっていく。

このOCICAとはまた違う歩みをしてきた、もうひとつのプロジェクトがある。
2011年4月——。
被災で仕事を失った鮎川地区(鮎川浜、新山浜)の
牡鹿漁業協同組合女性部の女性たちと友廣さんは、
早急に、なにか手仕事がつくれないかと模索していた。
夫婦で漁業に携わる人の多くが、漁船や漁具を失っていた。
震災前、女性は夫の手伝いをしながら、
空いた時間には牡蠣むきなどのパートに出て小さな現金収入を得ていたが、
それらの加工施設も沿岸にあったため壊滅してしまった。
それに代わるものとして、何とか元手をかけず、
地域に眠る資源を使った手仕事ができないか——。

みんなで話し合う中で、
安住千枝さんから、漁師町のアイデンティティである
漁網の補修糸を使ったミサンガならつくれるという話が持ち上がった。
2日後には、流出しなかった糸を使ってミサンガをつくり始めたのだが、
それが美しく、メンバー一同これをつくっていきたいということになった。
ミサンガは切れることで願いを叶えるというが、漁網は丈夫で切れない。
メンバーたちは、「切れない絆」に強い願いを込めた。
その日から千枝さんを中心としたミサンガづくりの特訓が始まった。

カラフルな漁網でつくられたオリジナルのミサンガ(photo:Ayumi Ito)。

3か月後、集まったミサンガを香川で行われた野外フェスで
1本1000円で販売。1日で400本近くを売り切った。
ここでも鮎川地区の女性たちの「切れない絆」の「物語」は、
ミサンガ購入へと人々の心を動かしていた。
これらで得た売上については、半分を製作した人の収入に、
もう半分は次の事業を始める資金に使うべく貯蓄に回した。
完売という結果は、当初弱気だった鮎川地区の女性たちを勇気づけ、
ミサンガの編み方を自ら考え出したり、色合いに細やかな気を配るなど、
商品の品質をさらに向上させていった。
ロゴは、震災後ボランティアとして
何度も足を運んでいたデザイン事務所「あちらべ」が手掛けてくれた。

「みんなで集まる場所がほしいよね」
震災後、集まる度に千枝さんがふるまってくれた、
支援物資を使ったアレンジ料理が好評だった。
そば粉がケーキに、レトルトカレーがカレーパンに変わり、
食べたみんなが笑顔になった。
漁業が一部再開するようになってからは、市場には流通しないが、
自宅でおいしく食べられている魚を、ボランティアの人などにごちそうしていた。
「鮎川の人々が集まれる場所をつくりたい、
地元の美味しい食材を使った料理をふるまいたい——」
いつしか千枝さんを中心にした弁当屋を開くのが共通の夢となっていった。
これが「ぼっぽら食堂」が始まるきっかけとなる。
ミサンガをつくっていたメンバーでオープンを目指した。
つむぎやも店舗建設や設備にかかる費用の確保に奔走した。
設計については、「akimichi design」の柴秋路氏、
「DOOGS DESIGN」の中島保久氏が関わってくれた。

2012年7月。
弁当屋・ぼっぽら食堂は、多くの人の力添えによってオープンを果たした。
現在、牡鹿漁業協同組合女性部7名の有志で結成された「マーマメイド」が
運営しており、地元で人気の弁当屋に急成長中だ。
月曜から土曜まで営業し、日によっては100食近くを売り上げる。

午後、すべての業務が終わったあと、メンバーは休憩に入った。
訪れた友廣さんにまかないの山盛りチャーハンをさりげなく差しだす。
「弁当屋の次はやっぱり、海産物の加工品の店を出したいっちゃね」
つかの間の休憩時間、メンバーのおしゃべりに花が咲き、笑顔がこぼれる。
だが、時計の針が3時を指すとみんな一斉に立ちあがった。

「さあ、明日の仕込みをすっぺ!」

「マーマメイド」のリーダーを務める安住千枝さん。陽気で元気な浜のお母さん。

方言である「ぼっぽら」には、急に・準備なしにという意味合いがある。地元食材を使ったメニューでボリュームのある温かい弁当を500円で販売している。

本当の意味で被災地が「復興」を遂げるには、
地方都市の農林水産業の衰退、それを伴う過疎化、高齢化など、
震災で浮き彫りになった、日本が抱える多くの問題を解決していく必要がある。
地方の「人」、人々が集まる「場」、活用しきれていない「土地の素材」。
それらをつなげ、ひとりひとりの役割が果たせる仕事を創出する
つむぎやの地道な活動は、「復興」につながっていくであろう
日本の健全かつ新しい仕事のかたちを予感させる。
キーワードとなるのは、人々の“笑顔”だ——。

Information

一般社団法人つむぎや

http://www.facebook.com/TUMUGIYA

Information

OCICA

石巻市牡鹿半島のお母さんたちによる、手仕事のブランド。
http://www.ocica.jp/

Information


map

ぼっぽら食堂

住所 宮城県石巻市鮎川浜北18-4
電話 080-2816-1389
浜のお母さんたちが作る日替わり弁当がワンコイン(500円)で食べられる。
http://mermamaid.com/

肘折温泉vol.3これからの新しい湯治

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
最終回の第3回は、「これからの新しい湯治」について。

山奥の湯治場のゆったりした時間と、人との出会い。

「昔は、湯治に来たら、多い人だと3まわり(1まわり=1週間)くらい
泊まっていったんじゃないかな。当時はどの旅館にも自炊場があって、
お客さんたちは、自分たちが食べる分のお米を担いできて自炊をしていたんですよ。
食事ができると、私にも食べないかって声をかけてくれましたね」
と、当時を懐かしむように、肘折の湯治文化を話してくれたのは、
今年90歳になるという、若松屋村井六助の会長、村井健造さん。
大蔵村村長を務めた経験を持ち、昭和の肘折温泉を見つめてきたひとりだ。
現代でいえば、ユースホステルのような、この湯治場の仕組み。
その分、宿泊費用も低価格で提供されていたという。
「そうやって自炊するから、みな山菜採りを楽しんでいましたね。
塩蔵して家へ持ち帰る人もいました。
自然いっぱいの肘折周辺の山は、山菜がたくさん採れるんです」
湯治で温泉も、アウトドアも楽しんでいたというわけだ。

肘折温泉の共同浴場「上の湯」。入浴料は大人200円。かわいいのれんは女将たちの手づくり。

昔は、お客さんのほとんどは山形県内で農業などを営む人々。
田植えや稲刈りが終わると湯治場を訪れ、日頃の疲れを癒していったという。
ちなみに、「肘折」という名前の由来は、その昔、肘を折った老僧が
この地のお湯につかったところ、たちまち傷が癒えたから——という説が残っている。
「だからね、各旅館には松葉杖がたくさん置いてあったんです。
みんな、良くなって置いていくんですよ」と建造さんはにこやかに教えてくれた。
本当に?……と半信半疑になっていると、
33年にわたり、肘折温泉組合長を務めた、
つたや肘折ホテルの会長、柿崎繁雄さん(81歳)も同じことを言う。
「うちの玄関のところにもね、昔は松葉杖がたくさんあったんだから」
なるほど、温泉の効能は、肘折の翁たちのお墨付きのようだ。

「お客さんがたから他の地域の食文化や踊りや歌を教えてもらうのも楽しかったですね」と健造さんはさまざまな昔の肘折温泉の景色を教えてくれた。

肘折温泉の集落の風景。

こけしの収集家でもある繁雄さん。この部屋にある歴代の肘折こけしを見せてくれた。

さらに、繁雄さんは湯治のもうひとつの楽しみをこう話す。
「昔は、そうやって、長く滞在しながら自分たちで食事をつくったりするでしょ。
すると、自然と、一緒に居合わせた人とも仲良くなって、
お客さん同士の交流が生まれるんです。
だから、来年も会おうねって、約束したりするんですね」

そんな湯治友達に会えるのが楽しみだったと話してくれたのは、
つたや肘折ホテルに、40年間通い続けている鈴木新藏さんと妻のちえ子さん。
若いときは、養蚕にお米、ホップをつくっていたという鈴木さん夫妻は
「昔は、遊ぶ間がないくらい本当に忙しく働いていた」と口をそろえる。
だから、農閑期だけは、肘折温泉でお湯につかって、山道を散策して、
ゆったり過ごし、心身ともに疲れをほぐしていた。
「ここは山奥だし、来ればいつも気持ちがゆったりするんです。
うちのほうでは見られない山菜の青ミズを採ったりするのも楽しいですね。
いまは、湯治友達がみな来られなくなって、ちょっとさみしいけどね」
と、ちえ子さん。それでも、
毎年変わらずに迎えてくれる肘折温泉が好きだとも教えてくれた。
「ここの青年団がね、毎年、山道のあちこちを整備してくれるから、
歩きやすくなっていくし、すごくきれいになったのよ」
「肘折温泉は、いつ来ても人情味あふれるところ。それにつきるな」
と新藏さんは微笑む。

「毎年決まって、こんな山奥まで来てくれるでしょう。
こちらもお客さんが親戚みたいに思えてくるんですね」(繁雄さん)

いまは、旅行がふたりの楽しみと話す鈴木ご夫妻。「若いうちから旅行を楽しんでって息子夫婦にも言っているんだけど、やっぱり忙しいみたいね」

肘折温泉の旅館は売店を持たないため、買い物は通りの商店へ。「肘折温泉にきたら、筋子を買うのが楽しみなの」とおばあちゃんが教えてくれた。

肘折温泉ならではのユニークな過ごし方。

開湯1200年と言われる肘折温泉。代々受け継がれてきた湯治文化も、
ライフスタイルの変化とともに、湯治客の数が減ってしまった現状もある。
これからの肘折温泉を担う青年団。彼らのミーティングにお邪魔して、
その想いを聞いた(メンバーは、local action #019と同様)。
まずは、湯治文化について聞くと、
いまも変わらない肘折温泉での出会いや楽しみ方があるようだ。

里実子

こないだうちに来たお客さんたちで、去年偶然一緒になったから
“じゃあ来年も同じ日から泊まろう”ということになった方々がいたんです。
でも、ひと組は予定がずれて前倒しの日程になっちゃって。
もうひとつの組は、約束通りの日に来たんです。滞在が1日だけかぶったんだけど、
“なんだ、おめえら、約束したじゃねえか!”ってすごい責められてた(笑)。
電話するとか連絡方法はあったと思うんですけど、それはしなかったみたいですね。
でも、「また来年な」って言ってました。

絵梨

肘折温泉は、お部屋まで配達っていうのが普通なんですけど、
こないだお部屋にお邪魔したら、大きな電車の模型がつくってあったんです!
ふたりは奈良と東京から別々で来て、
ここで待ち合わせして一緒につくっているって言っていましたね。

隆一

それ、すごい!

大三郎

めちゃくちゃ楽しそうだね!

雄一

趣味をゆっくり楽しむ合宿みたいなもんかな。

絵梨さん(左)は保育士を辞め、実家の商店を手伝い、里実子さん(右)は、一昨年南米から戻り、実家の旅館を手伝っている。

里実子

うちのお客さんなんかだと、部屋を真っ暗にしているから
“電気つけないんですか?”って聞いたら、いま節電だからって言うんですよ。
旅館のことなのに、節電してくれている。
私は、温泉っていうと、おいしいもの食べて贅沢するイメージだったけど、
肘折温泉のお客さんはなんか違うのかなぁって思いました。

雄一

家と同じように想ってくれていて、リラックスもしているのかな。

隆一

僕、こないだ出前を部屋まで届けたら、
ばあちゃんたちが部屋の電気のスイッチに帯を結んで長くして、
楽に電気を消したりつけたり、くつろいでましたよ(笑)。

絵梨

帯の使い方と言えば、うちの店の前の旅館の2階から、
「ちょっとねえちゃん、そのアイスちょうだい」
て、声が聞こえてきたと思ったら、かごが降りてきたんです!
帯をつなぎ合わせた先に、かごが結んである。
降りてきたかごにアイスを入れたら、するするって上にあがってくんですよ。
そしたら、またかごが降りてきて、お金が入っていました(笑)。

雄一

肘折温泉では、それが普通の文化だもんな(笑)。面白いよなぁ。
お客さんも、肩の力を抜いて、くつろいでくれているんだろうな。

つたや肘折ホテルのバーに集合。手前のバーテン役が柿崎雄一さん。若い人たちのよき理解者。

新しい湯治のスタイルを探して。

隆一

「湯治」っておじいちゃんおばあちゃんのものだと思っていたんですよね。
でも、「ひじおりの灯」(*1)をきっかけに、肘折温泉にやってくる
若い人たちと会って話すようになってから、意識が変わってきましたね。
東北芸工大の学生たちは創作するために滞在しているけど、
温泉につかって元気になって帰っていく。これも肘折温泉の「湯治」かなって。
そしたら、いろいろな湯治のかたちがあるのかもしれないと思いました。

里実子

最近は、若いお客さん、増えているよね。

雄一

肘折の「地面出し競争」も年々、参加者が増えてるよな?

隆一

そうですね。1回目は9チームでしたけど、4回目の今年は、30チームに。
地元のチームだけじゃなく、盛岡とか外から参加する人もいます。
地面出し競争って、地面まで積雪を掘る速さを競うっていう単純なものなんですけど、
もとは、僕たちが小中学校合同やっていた雪上運動会の競技だったんです。
肘折小中学校が閉校しても、地面出しは残したいと思って。

里実子

隆一くんが残そうって言わなかったら、残らなかったもんね。
隆一くんも、一度外に出たから、それが肘折の面白さって思ったんだよね?

隆一

そうだね。僕たちにとっては当たり前だったことが、
視点を変えてみると、人を集めるイベントになっている。
でも、僕たちも楽しんでいますからね、地面出しは。

毎年前夜祭も行われて初参加の人に説明したりするんですが、
実は裏テーマがあって……。強豪チームは酔わせてつぶすっていう(笑)。

隆一

奥が深いんです(笑)。

*1ひじおりの灯:肘折温泉が開湯1200年を記念して始まったオリジナルの灯ろう展示会。東北芸術工科大学の学生や地元の小学生、青年団らが、手漉きの月山和紙にそれぞれの〈肘折絵巻〉を表現、その灯ろうを温泉街の旅館や商店に設置、湯治場の夜を幻想的にライトアップする。

2012年8月に行われたひじおりの灯のイベントのひとつ、「肘折絵語り・夜語り」の様子。学生たちが制作した灯籠が宵闇を照らす。

隆一

地面出しに参加してくれたり、「ひじおりの灯」に来てくれたり、
最近、おやじたちの代の客じゃなくて、
自分たちの常連さんがみえてきたなって思うんです。
僕らに会いに来てくれるというか。

雄一

誰かに会う楽しみっていうのは、肘折温泉の変わらないところかもな。

隆一

自分がそうなんですけど、“どこに行ったら面白いかな”じゃなくて、
“誰に会いに行ったら面白いかな”って考えて、遊ぶ行き先を決めている。
だったら、お客さんにあの人たちに会いに行ってみたいなって思ってもらえたら、
肘折温泉にも来てもらえるようになるのかなって。
お客さんが来ないって言っているんじゃなくて、まずは、
僕らが楽しいと思うことをするのが大切なのかなって、最近すごく思っています。

肘折温泉をテーマに同年代で話す会話はつきない。

里実子

私、ひとつ、提案があるんです! 
大三郎さんの読書会とか、私が週に1回やっている英会話クラスとか、
一般の人も参加できるように開放したらどうかなって思っていて。
他にもいろいろな講座ができたら面白いんじゃないかと思うんです。

隆一

おー! それは、「肘学」だ。

雄一

いいな!

里実子

雄一さんもぜひ、何かやってくださいね。温泉講座とか? あれ面白いですよ。

大三郎

僕もそれは、ぜひ聞きたいですね。僕も読書会の他に、音楽がやりたくて。
例えば、つたや肘折ホテルにある屋内のゲートボール場でライブとか……。

雄一

よしわかった!

里実子

外の人にも、こんな講座があるからってお知らせできたら、
それに合わせて温泉にも来てくれるたりするかなって思うんです。

隆一

ちゃんと「肘学」のかたちをつくりたいですね。
地元の人にちゃんと浸透できるくらいの企画にしていきたい。

雄一

よし、考えよう。早速、どんなテーマがあるか、出し合おう! 肘学開講だな。

と、偶然にもミーティング中、新しい試みが動き出したこの日。
新しい湯治のスタイルとして、みながいくつもの可能性も感じ始めた。

1200年前から人が往来してきた肘折温泉には、
長い歴史のなかで、埋もれてしまっていた修験や山の文化があった。
いま、それを掘り起こし、価値を見いだそうとしている次の世代の担い手がいる。
それは慣例としてなぞるだけではなく、一方で守り、一方で更新していく。
その根幹にあるのは、「自分たちも一緒に楽しむ」ということ。
そこには、これまでと変わらない肘折のぬくもりある出会いが待っているだろう。

そんなにぎやかな肘折温泉の雪解けは、まだまだ先だけど、
その後、彼らが始めた肘学がどうなっているのか——、ぜひ訪れ確かめてみたいものだ。

今はもう閉校してしまったが、肘折小中学校の校舎にも「肘学」。毎年、地面出し競争が行われるのもここ。みんなの思い出の場所。

information


map

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

山形 Part3 「コミュニティデザインって なんだろう。」

山崎亮 ローカルデザインスタディ
山形編・目次

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今回は、2月5日に「山形まなび館・MONO SCHOOL」で行われた、
山崎亮さんのトークイベント「コミュニティデザインってなんだろう。」
の様子をお届けします。

まずは萩原さんから、いくつかの質問。

萩原

山崎さんがなぜこんなにも全国から呼ばれるようになったのか。
いくつかの代表的な事例を紹介してもらいましょう。

山崎

ではまず、有馬富士公園の事例から。
ここでは、山のなかに公園をつくったものの、
どうしたらひとが来てくれるだろう、という課題を解決しました。
それを知って、竹内昌義さん(みかんぐみ)とナガオカケンメイさんから
お誘いを受けたのがマルヤガーデンズ(*1)です。

そこで、イメージとして「有馬富士公園を垂直に積んでみたらどうか」
ということを提案しました。
施設のなかでコミュニティの活動をするついでに、
買い物をするひと、お茶をしていくひとがいればいいな、という発想です。
いまは、鹿児島市内を中心にさまざまな団体が関わって、
いろんなことをやっています。

じつはこのプロジェクトをやっているときに、ぼくとは別に、
壁面緑化や屋上などを手がけたランドスケープデザイナーさんがいらっしゃって、
しかも名字が「山崎さん」だったんです。
一方、ぼくはここではランドスケープデザイナーとしてのしごとを
していませんから、ややこしい(笑)。そこでとっさに、
「コミュニティデザイナー」という肩書きを名乗ったのがはじまりなんです。

だから、世界で唯一とか日本初とかいわれるのもあたりまえなのですが、
ことば自体はむかしからありました。
でも従来は「コミュニティとともにデザインしていく」のが
コミュニティデザインでしたから、そういう意味では、
ハードを作らない「コミュニティデザイン」は、ぼくらだけかもしれないですね。

萩原

来春、東北芸術工科大学に国内初の
「コミュニティデザイン学科」が開設され(現在申請中)、
その学科長に就任される、ということですが。

山崎

東日本大震災が起こったとき、studio-L は
「すぐに東北に乗り込みません」と宣言しました。
阪神淡路大震災の経験を経て、震災直後はもちろんのこと、
じつは3年くらい後になってじわじわと
大変なことが起こるということを学んでいたからです。

だからこれまでなにもしなかったのかというともちろんそうではなくて、
この3年のあいだずっと、
「これから」ぼくたちになにができるかを考えていました。
このタイミングこそ、「よそ者」「ばか者」「若者」が必要となってくる。
そういったことを実践する組織を、芸工大のなかにつくらせてもらうことは、
とても意味のあることだと思っています。
今後、可能であれば studio-L の山形事務所を作り、スタッフが講師をつとめ、
実践的に一緒に地域の課題を解決していきたいと考えています。

萩原

「よそ者」ができることってなんでしょう。

山崎

地域の方がなんでもないと思っていることでも、よそ者がみたら
「すごくいいね!」ということがあります。
たとえば、山形空港に無料で駐車できるとかね。
そういうと、みんな苦笑いするんだけど、都市部ではあり得ないから、
ぼくらにはほんとうに豊かなんだなあと思えるんです。
ひととひとが一緒に暮らしていくための、あるべきおおらかさ、
本来のゆたかな生活を感じる。
離島のひとが山間部を、農業のひとが漁業をみても同じだと思いますね。
そういう発見を、地域のみなさんの気持ちにいかに寄り添わせて
すべりこませるかということが大事です。
よそ者の作法というものがありますね。

いきなり「○○を教えます!」と言ったり、あるいはこちらから
「やりたいこと」を掲げて入って行くと、煙たがられるに決まってます。
まずは地域の方々のはなしを「聞く」ことが第一。
「ほぅ!」「なるほど!」「すごいですね!」この3つのことばで
何時間でも「聞く」。そのなかから、人脈を知り、課題をみつけていくんです。
そうすると、ただずっと聞いてるだけで
「あいつはいいやつだ」「なかなかできる」という評価を受けたりするんですね。

だから今回も、「わたしが東北を変えます」なんて言わないし、
「救世主来たる!」なんてメディアに書かれたくない(笑)。
まずは、山形でも1年ぐらいじっくり時間をかけて
ヒアリングをすることになると思います。

*1 マルヤガーデンズ:鹿児島市の老舗百貨店跡をリノベートして2010年にあらたに開業した商業施設。テナントの間にNPOをはじめ地域住民が気軽に使用できるコミュニティスペース「ガーデン」が設けられているのが特徴。

トークイベント「コミュニティデザインってなんだろう。」のチラシ

2月5日に「山形まなび館・MONO SCHOOL」で行われた、山崎亮さんのトークイベント「コミュニティデザインってなんだろう。」。

トークイベントの会場

山崎さんと、司会進行をつとめる萩原さん。「これから山形にお越しいただく機会が増えるとのことなので、これを0回目として、今後も山崎さんとこういった場を設けたいです」

そして、参加者が山崎さんに聞いてみたいこと。

参加者A

これまでに、失敗した経験があれば教えてください。

山崎

失敗は、しないんです。成功するまでやり続ける、というほうが正確でしょうか。
1発勝負だったら失敗もするかもしれないけれど、
ぼくたちは3〜5年いますからね。徐々にものごとを進めるので、
途中でヤバいなと思っても、軌道修正する余地があるんです。
だから、事務所を立ち上げてから、いちども失敗はありません。

もちろん、いくつか難しかったなと思うことはあります。
たとえば、企画案を出したあとになって、予算がないという理由で、
「ただ、5回分のワークショップを進行する」だけの
しごと内容になってしまったとき。
告知もちらしのデザインも先方にゆだねたら、
なんと参加者がゼロ人だったんですね……。
まずしっかりヒアリングを重ね、「来てください」とお誘いすることこそが、
ぼくらのしごとだったんだ、ということを学びました。

参加者B

コミュニティデザイナーって、儲かりますか?

山崎

「儲かる」という定義自体を変えたいですよね。
studio-Lの梅田事務所と、伊賀事務所では、所員の可処分所得が異なります。
端的にいえば、梅田だと家賃6万のところが、伊賀だと1万円で済む、
というのがからくりですよね。
それに、地方から季節の農産物が送られてくる、ひとに感謝される、
ともだちが増える……これだって、ぼくたちにとっては「儲け」だと思っています。
そういう意味では、「ぼろ儲け」ですね(笑)。

参加者C

対立した意見が出たときはどうしますか?

山崎

基本的には、どうもしません。
所員のなかには「両案を乗り越えるC案」が出せる
スマートな人間もいますが、まずは一旦そのまま放っておいて、
「どちらか、先にできるほうからやってみましょう」といってみます。
すぐできること、3年後にできること、10年後にできるかもしれないこと、
と分析するんです。やっているうちに未来は変わっていくものですから、
行動前の机上の意見を無理に統合しなくてもいいと思いますよ。

参加者D

どうやってひとを集めるんですか?
ひとつのワークショップやプロジェクトは何人ぐらいでやるんですか?

山崎

集めるのではなく、誘いにいきます。まずはプロジェクトの担当者に
「このまちでおもしろいことやってそうなひとを3人紹介してください」という。
その3人にまた同じことをお願いする。これをくり返して、100人くらい会う。
その経緯のなかで、たくさんのひとから「アイツはすごい」といわれる、
いわばキーマンがやって来てくれたら、いろんなことがうまくいきます。
公募をかけるのは、そのあとですね。

そうすると、公募から集まった「まちづくり大好きな100人」と、
ヒアリングを経てぼくたちが来てほしいと思った
「もともとまちづくりに興味がなかったひと100人」の組み合わせを
つくることができます。公募で集まった200人と初めましてで対面するより、
なかにすでに声をかけたひとがいて「ヤァ、ヤァ」なんていうと、
ぼくたちのよそ者感が薄れて、和やかないい雰囲気がつくれるという
効能もあるので、まずはこういった事前の準備を丁寧にやります。

参加者E

古着屋を経営しています。高い駐車場代を払いたくないという理由で、
若者がぼくらのまちに来てくれなくなり、郊外に流れています。
なんとかそういう課題を解決したいのに、
力を合わせるべき3つの商店街が友好的になってくれません。
どうしたらこころが伝わりますか。

山崎

やはり、その方たちの話を聞きにいく。教えてもらう。
彼らに認められることを実行する。それに尽きると思います。
「これをやるとうまくいく」とは言えません。
おそらく全国のどこの商店街も同じ状況で、
逆にそういう喧嘩もできなくなったら、いよいよヤバい。

だから、まだ潜在的な力がある元気な商店街なんだ、と
発想を転換してみてはどうでしょう。これまでのぼくたちの事例でいうと、
初回WSはそのコミュニティの年長者何名かに
「若手をひとりづつ連れてきてください」とお願いし、
そこでは年長者のみなさんにしゃべってもらう。

そのあと「お忙しいでしょうから、2回目以降は
みなさんから推薦していただいた若者に実働してもらいますね」と
さりげなくバトンをつなぎ、その代わりに
大御所のみなさんにも毎回きちんと議事録報告をする。
そんな仕組みにしたことがありますね。これはなかなかうまくいきましたよ!

(……to be continued!)

休憩を挟んで第2部へ

休憩を挟んで第2部。「せっかくだから、隣り合わせたひとと、まずはにっこり笑顔で挨拶してみましょうか」と山崎さん。少しのあいだ、自己紹介タイム。さまざまな思いでこの場に足を運んだひとたちが、この一声を呼び水に、たった数分の間にどんどんつながっていく。

隣の部屋のトークをカフェのスクリーンでも見れるようにセッティングされた第2会場

当日参加者も多く、急遽、隣の部屋のトークをカフェのスクリーンでも見れるようにセッティングされた第2会場。こちらでも、質問や意見が活発に飛び交う。

まちの真ん中で古着屋を営む若き経営者

最後の質問は、まちの真ん中で古着屋を営む若き経営者から。まさに、全国でおなじ悩みを抱える店主が多いのではないだろうか。「答えはないけれど」と前置きした上での山崎さんのおはなしには、たくさんのヒントがあった。

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山形まなび館・MONO SCHOOL

県下初の鉄筋コンンクリート学校建築として、昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」が、約80年間の小学校としての役目をまっとうし、平成22年4月に「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」の拠点として生まれ変わった。

住所:山形県山形市本町1-5-19

TEL:023-623-2285(管理事務室)

開館時間:9:00〜18:00(交流ルームは〜21:30)

休館日:月曜(祝の場合は翌日)および12月31日、1月1日

Web:http://www.y-manabikan.com/

profile

TAKAKI HAGIWARA 
萩原尚季

アートディレクター。1976年茨城県生まれ。2000年東北芸術工科大学を卒業後、同大学の大学院に進学。スウェーデンへの交換留学経験から2001年デザイン事務所「コロン」を立ち上げ、2010年「株式会社コロン」となる。同年、山形市立第一小学校旧校舎活用の委託業者に選定。4月「山形まなび館・MONO SCHOOL」としてリニューアルオープン、その運営方法で2012年度「グッドデザイン・ベスト100」を受賞した。

Web:http://www.colon-graphic.com/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。