小豆島 Part2 親に「やめとけ」と言われた 家業を継いだ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
小豆島編・目次

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瀬戸内海の島々を舞台に、現在開催中の現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2013」。
その出展準備のため小豆島にたびたび通うことになった山崎さんが
「いま、いちばん話を聞いてみたいひと」と名前を挙げたのは、
小豆島に5代続く、お醤油屋さん。醤油づくりとローカルデザインの関係とは?

「売らせてくれ」と言われる側になろうと思った。

山崎

ヤマロクを継がれたのはおいくつのときですか?

山本

うちに帰ってきたのは29歳のときです。

山崎

小さいころから、じぶんが継ぐんだって思いながら育ってこられたんでしょうか。

山本

いいえ。だって、子どものころしばらく、
うちが醤油屋とも気づいていませんでしたから。

山崎

ええ? そんなことってありますか?(笑)

山本

樽の中に落ちたら危ないから、蔵に入れてもらえなかったんだと思います。
小学校の中学年になって
「友だちのお父さんは働きに行くけど、そういえばうちはどうなってるんや?」
とようやくぼんやりと気づいたんです(笑)。
その後、ふつうに進学してもとくに何になりたいというのはなく、
大学卒業のときに「継ぐわ」と言ってみたものの、オヤジに
「儲からんし、継がんでエエわ。給料出せんし、外で働いてこい」と言われて、
地元の佃煮メーカーに就職しました。
阪神・淡路大震災(1995年)の直前のことです。

山崎

そのタイミングで一度、お父さんに「継がなくていい」と言われてるんですね。

山本

その会社では営業職に就くんですが、東京で担当になった大手スーパーでは、
ぼくが持っていく無添加の商品がなかなか認められなくて、
バイヤーはボリューム、価格、パッケージデザインのことしか言わない。
売り場にまともな食べ物がなくて、
バイヤーには値段のことばかり言われるということに辟易して、
「ここへ売りに来るのではなく、『売らせてくれ』と言わせる側になろう」
と決意したわけです。

山崎

で、言わせたんですか?

山本

もちろん数年はかかりましたが、
そのバイヤーから「サンプルちょうだい」とオファーがきて
「イヤです!」ときっぱり断ったときには、どれほど胸がすいたことか……!(笑)

ヤマロクの醤油が醸造される蔵

ヤマロクの醤油はすべて天然醸造。太陽の光の当たり方や、菌が多く住む土壁からの距離……樽にもひとつひとつ個性があり、同じ年月を経たからといって、同じものができるというわけではない。マニュアルはない。

「継いでも食べていけん」は、ほんとうだった。

山本

とはいえ、帰ってすぐに決算書を見て
「あ、しまった! オヤジの言う通りや。これではオレ、食べていけん!」
と青ざめるところからのスタートだったわけですが。

山崎

ははは。さっきの小学生のころの家業のはなしといい、
いろいろなことに気づくのが遅いから
がんばれているのかもしれませんね、山本さんは(笑)。

山本

人間、切羽詰まると、がんばらざるを得ないですからね(笑)。

山崎

それが、11年前。

山本

はい。島のタクシー会社が親戚だったこともあり、
父の代から観光客の見学を受け入れていて、
その際、お土産などを発送するのにいただいていた
約100人分の顧客名簿だけが手元にありました。
これをなんとか広げられないかと。
添加物を使っていた銘柄はキッパリと辞めて
「鶴醤」と「菊醤」の2銘柄に絞り、1リットル瓶も辞めて小瓶に賭ける。
そんなふうに、とにかく直販への仕掛けを考えてきました。

山崎

それが成功しているわけですね。

山本

まともにまわるようになったのはここ5年ですね。
11年で売上げは約6倍に伸びました。

山崎

それはすばらしい。そういった康夫さんの取り組みに対して、
お父さんは何かおっしゃってますか?

山本

帰ってきて3年目にオヤジが病気で倒れてしごとできなくなったので、
喧嘩もせずにスパッと代替わりしたんです。
それからはひとことも口を出しませんね。
ただ、周りから聞くと、「なにを考えとるか、ようわからん」と言うてるようです。
「けど、前を向いて進んでるから、まあエエんちゃうか」と……。

山崎

なるほど。しっかり前を向いていること、
実はちゃんと見ていらっしゃるんですね。

(……to be continued!)

ヤマロク醤油ボトルのフォルムやラベルもどんどんスタイリッシュに革新中

先代にはほかにもたくさんあった銘柄を「菊醤」と「鶴醤」のみに絞って販売ボトルも145mlと500mlのみに。1リットル醤油を必要とする大家族より、単身者や核家族にターゲットをすえた。ボトルのフォルムやラベルもどんどんスタイリッシュに革新中。

山本康夫さんと山崎亮さん 

同世代ということもあり、はなしが弾む山崎さんと山本さん。「醤油って日本人には欠かせない基本の調味料だから、こうやってむかしながらにつくられるのが当たり前なんだと思い込んでいたけど、現代ではほとんどがステンレスのタンクで大量生産されたり、味つけだけして出荷されたりしているのだと知って、驚きました」と山崎さん。

information

map

ヤマロク醤油

住所:香川県小豆郡小豆島町安田甲1607

TEL:0879-082-0666

※見学は随時受付、予約不要

Web:http://yama-roku.net/

profile

YASUO YAMAMOTO 
山本康夫

1972年香川県小豆島生まれ。ヤマロク醤油5代目。大学卒業後、小豆島に戻りたくて、島の佃煮メーカーに就職。営業職で大阪に赴任後、東京に転勤。2002年、小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継ぐ。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

小豆島 Part1 島の醤油屋に150年以上続くもの。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
小豆島編・目次

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瀬戸内海の島々を舞台に、現在開催中の現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2013」。
その出展準備のため小豆島にたびたび通うことになった山崎さんが
「いま、いちばん話を聞いてみたいひと」と名前を挙げたのは、
小豆島に5代続く、お醤油屋さん。醤油づくりとローカルデザインの関係とは?

杉樽仕込みの醤油蔵。その魅力とフシギ。

山崎

こんにちは! お邪魔します。

山本

お待ちしておりました。

山崎

何度見ても、迫力がありますね、この杉樽。

山本

そうですよね。
現代の醤油は、タンクで大量生産されるのがほとんどなので、珍しいと思います。
いまでも杉樽仕込み醤油で使われる杉樽の2分の1か3分の1は、
小豆島にあると聞いたことがあります。

山崎

いちばん風格のある古い杉樽が、たしか150年くらい前からの現役だと
おっしゃっていましたが、年数はどこでわかるんですか。

山本

樽屋さんに見てもらったんですけど、どうやら、
100年ちょっと前に電気の製材機が登場しているので、
それより以前のものと明確に区別がつくようです。

山崎

なるほど。

山本

それより前は木を割ってつくったみたいですね。
まずは分厚くつくっておいて、削っていくんです。

山崎

削る?

山本

はい。まず20〜30年は酒蔵で酒を仕込むのに使った後、
いちどバラして内側をカンナで削って、また組み合わせるんです。
そして、次に味噌や醤油、漬け物用へとリユースされるんですよ。

山崎

そうなんですか!

山本

そうやってそもそも長く使うものではあるんですが、
ことにうちのこの樽はもともと醤油のためにつくられたので、
一度も削ってないらしいんです。
だから、木が分厚いまま、まだまだ使い続けられそうです。

山崎

まわりについてる、このカビのようなものがいい酵母を育てるから、
うっかり触ったり掃除したりしちゃダメなんですよね……。

山本

そうなんです。母が嫁いで来た当初、あんまり汚いからと
掃除しかけたことがあって、「コラーッ!」って大声で叱られたそうです(笑)。

ヤマロクの醤油を育てる蔵

こちらが、ヤマロクの醤油を育てる蔵。「隠すものはなにもないから」と、観光客も見学自由に。代々積み重ねられた歴史の長さを感じる空間。

大杉樽の表面

樽職人さんが「150年は前につくられたもの」だという大杉樽の表面には、乳酸菌や酵母菌など、おそらく専門家も解明できないであろう良質な「菌」がたくさん。

100年前と100年先に思いをはせて。

山崎

でも、女性が蔵に入ると酵母が喜ぶんだって、前回聞いたような気がします。

山本

その通りです。いまは時期的に酵母が静かにしていますが、
暖かくなる5月頃には発酵がぐんぐんすすみ、
表面にプツプツと気泡があがってくるんです。
そのシーズンに女性が多く見学にいらっしゃると、そのプツプツがぐっと増えて、
酵母が喜んでいるのが如実にわかるんですよ(笑)。

山崎

いまこうしていると全然わからないけど、ほんと、生きてるんだなあ(笑)。

山本

そうですね。夏になると、
蔵じゅうの生きている菌が発酵する音が、音楽のように聞こえます。

山崎

それはすごいな。樽だけでなく、この蔵全体が呼吸しているということですね。

山本

ヤマロクの創業は江戸時代の終わり頃〜明治のはじめ頃で、
当初はもろみ屋なのですが、その頃から数えると
100年以上前に建てられた蔵ということになります。
もちろん木造、床は土間、壁は土壁ですから、樽に限らず、
蔵全体におそらく何百種という酵母菌や乳酸菌がずっと長いあいだ生き続けていて、
これが「ヤマロクの醤油」をつくってくれるんです。

山崎

なにものにも代え難い財産ですね。

山本

だから、蔵を大きくすることはあっても、建て替えることはできませんね。
わたしの代であちらに増築しましたが、空間としてつながっているので、
おそらく孫の代くらいには、あちらにもいい菌が移り住んでくれることでしょう。

山崎

100年先のことを考えたモノづくりですね。ほんとうに勉強になります。

(……to be continued!)

発酵が進み表面にぷつぷつと泡が浮かび始める

大豆、小麦、塩、水を混ぜ入れ、1年から4年寝かせてから搾る。暖かくなる5月頃からは発酵が進むので、まるで生きているように表面にぷつぷつと泡が浮かび始める。

information

map

ヤマロク醤油

住所:香川県小豆郡小豆島町安田甲1607

TEL:0879-082-0666

※見学は随時受付、予約不要

Web:http://yama-roku.net/

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YASUO YAMAMOTO 
山本康夫

1972年香川県小豆島生まれ。ヤマロク醤油5代目。大学卒業後、小豆島に戻りたくて、島の佃煮メーカーに就職。営業職で大阪に赴任後、東京に転勤。2002年、小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継ぐ。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

弾けつつある岡山!スチャダラパーBOSEの親善大使/LEDマン誕生

岡山県といえばきびだんご。
デニム(ジーンズ)の生産も盛んなんですよね。
などなど、どちらかといえば穏やかなイメージで語られていた
岡山県が、最近弾けつつあるようです。

まず、岡山出身のミュージシャンである、
ご存知スチャダラパーのBoseさんが
ただいま岡山観光大使の修行中。
「もっと燃えろ岡山!〜Bose、岡山観光大使への道〜」
というアツいタイトルで頑張っています。

先日は映像作家・クリエイターの坂本渉太さん
をゲストに迎え、坂本さんが制作した
テンションの高いアートワークとともに、
「日本で1番楽しい場所、岡山県!」を目指すトークショーを行いました。
その活動はFacebookでチェックすることができます。

また、2013年4月には
「ライトアップ県民運動」という
ちょっとかっこいい名前の運動がスタート。
交通安全ヒーロー「ライトアップ戦隊LEDマン」が
本格デビューしました。

なかなかシュールな出で立ちです。

岡山県の交通企画課では、
「LEDライトや夜光反射材を身につけて
LEDマンに変身してみませんか?」と呼びかけています。
日常の着こなしに取り入れるには
ちょっと派手ですが、いつか見習ってみたいかも。

もっと燃えろ岡山!〜Bose、岡山観光大使への道〜

(アートワーク:坂本渉太)

こんなに早い餅つき、見たことない!三重県志摩市の伝統「恵利原早餅つき」

皆さん、餅つきの経験はありますか?
重い杵を振り下ろすのも大変だけど、
息を合わせながらお餅をひっくり返すのにも、
なかなか熟練の技が必要とされるんですよね。

三重県志摩市、磯部町の恵利原地区には、
そんな餅つきをありえないほどの速さで行う
伝統行事「恵利原早餅つき」があるそうです。

江戸時代に始まったというこの行事。
一本の杵を、息を合わせたふたりが取り合い、
囃子唄の「地つき唄」を歌いながら、
すごいスピードで餅をついていきます。
杵を振り下ろすペースは、なんと1分間に140回以上!
さらに今年は1秒間に2.5回という新記録を打ち立てたそうです。

YouTubeに動画がアップされていますので、
驚きの速さを是非その目でお確かめください。
餅をひっくり返すご担当の余裕ぶりがすごい!
(動画はこちら

出来上がったお餅には志摩市特産の
あおさノリとキナコをまぶしていただきます。

現在、この行事は地元の方たちによる
「恵利原早餅つき保存会」によって守られ、継承されています。
お正月やお祭りの時だけでなく、
地域のイベントや、結婚式などの
おめでたい席上にも参加しているんですって。
伝統を守っていこうという心意気がステキですね。
Webサイトでは囃子唄も聞くことができますよ。

恵利原早餅つき保存会

写真:伊勢内宮前 おかげ横丁より

怖いほどのゆるさ!! 愛知県岡崎市のアートなゆるキャラ 「オカザえもん」

近頃のゆるキャラには、
ただユルいだけでなく、ツッコミどころの多さも
求められるようになりました。
ハイテンションな「ふなっしー」がテレビの人気者になるなど、
もはやゆるキャラには芸人としての素養も
求められているのかもしれません。

そんな今、ゆるキャラ界でアツい注目を集めているのが、
愛知県岡崎市のゆるキャラ「オカザえもん」。

岡という漢字を顔に刻んだ特異な出で立ち。
全身を包む、部屋着の如くルーズな純白の衣装。

そのシュールな容貌に、地元の新聞では
「子供が泣く」というゆるキャラらしからぬ称号を頂く。
「砂ん丘」(サンキュー)「レ鰹」「ルバンガ!!」
という謎の口癖もますますあやしい。

山形 Part4 そして、次のステップへ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
山形編・目次

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約80年間の小学校としての役目をまっとうした建物を、
「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」を基本コンセプトに
「山形まなび館・MONO SCHOOL」として新たに生まれ変わらせ、
仲間とともにその運営に携わった萩原尚季さん。
山崎さんと一緒に、その3年間の足跡をたどります。

「孫」の存在が必要なんです。

萩原

昭和初期につくられたこの校舎は、木造校舎のような郷愁はないけれど、
それでもぼくらが大切にして、後世にのこしていくべき価値があると思うんです。

山崎

「エディプスコンプレックス」なんていうと大げさかもしれませんが、
ひとつ上の世代への反抗心というか。これはどの世代も持っている。
たとえば、平成に生きているぼくらは、昭和後期の、
たとえばバブル時代に流行ったもの、つくられたものは恥ずかしくて仕方がない。
建築もプロダクツも、いまあんまり見たくないですよね。

萩原

そうですね。ぼくは山崎さんより3つ下ですけど、
同世代としてその感覚、わかります。

山崎

でも、次の世代のひとたちはきっと、
おそらくバブル時代のなかにあたらしいものを見いだす。
お父さん世代をつねに否定しながらも、おじいちゃんの代はいいと思える、と。
現代だけでなく、ひとは、ずっとそうやって生きてきたんだと思います。
では、ぼくらが次の世代を思って、のこしておくべきものは何なのか。
いま全国でどんどん廃棄されつつある昭和的なものに対して
それを本質的に見極め、「ちょっと待った!」と言えるのが、
ほんとうの目利きなのかもしれませんね。

萩原

山形でも、生活様式の変化や現代化によって、伝統産業、その他の産業で
各世代の職人さんたちが受け継いできた技や価値が、
どんどん衰退しているのが現状です。
かたや、東北芸術工科大学があり、そこではあたらしい人材が育っているのに、
卒業生が山形に根づいていかない。そういったちいさなズレを、
なんとか繋ぎあわせることができないかなって思うんです。

山崎

伝統産業、伝統工芸はとくにそうですよね。封建的な制度が崩壊して、
お父さん世代は安定した稼ぎの得られるサラリーマンになっている。
でも、孫世代には輝きを見いだすことができるんです。
奇しくも、山形発の映画『よみがえりのレシピ』のなかでも、
農や伝統を受け継ごうとする「孫」の存在が描かれています。
そのまちが古くから受け継いだ大切なものが記憶喪失になってしまわないように、
萩原さんのようなひとたちが、ヒントや手法を見つけて
地域の共感を得ていくというのは、いまとても重要なことだと思いますよ。

地下の交流ルーム

古い映画館からゆずり受けた椅子を並べた地下の交流ルーム。「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の会場にもなった。

ものづくり活動用の貸し出しスペース

館内には、ものづくり活動を行うひとが利用可能な貸し出しスペースを設けた。会議室だけではなく、木工・金工作業のできる設備も!

3年経ってわかり始めたことは。

山崎

萩原さんが代表をつとめるデザイン事務所「コロン」が、
そういった思いを胸に、3年間この「山形まなび館」の
事業委託業務を行ってきたわけですが。

萩原

はい。はじめてのことばかりで、
なおかつ本業のデザイン業務も兼業してきたので、
正直、あっというまの3年でした。
2012年度の「グッドデザイン・ベスト100」を受賞し、
運営や活動の一端が少しは認めてもらえたかな、とは思いましたが、
地元の方々にはまだまだ周知できていない現実もあり、
もどかしく感じていました。

山崎

なるほど。

萩原

あたらしいモノをつくり続けなくても、
山形にはすでに魅力的なモノがたくさんあります。
それを編集しなおし、ていねいに伝えることを大切にしたい。
それも、続けていかなくては意味がない。
そう思うと、ぼくらにとって3年という期間は
あまりにも短い時間だったように感じています。

山崎

当初の行政の決まり通りにこの「山形まなび館」という場を
離れることになる萩原さんですが、
今後はどのような活動を予定されていますか?

萩原

現在進行中のAPARTMENT PROJECT
(みかんぐみの竹内昌義さんの提案しているエコハウスの機能をもったアパート)
の一室にゲストルームを設け、
宿泊ができたり、住人を中心にした小さなイベントを行える、
ちょっと変わったアパートメントを設計中で、9月には完成予定です。

山崎

それはたのしみですね。
ぼくも学科開設に向けてこれから山形に来る機会が増えるので、
ぜひ山形で一緒になにかやりましょう。

萩原

はい。そのときはまた成長したぼくらを見てもらえるようにがんばりますので、
どうぞよろしくお願いします。

萩原尚季さん

予定通りの任期である3月31日をもって、萩原さんたちコロンのメンバーは「山形まなび館」を離れるけれど、4月からはあたらしい事業主による運営がはじまる。

山崎亮さん

東北芸術工科大学「コミュニティデザイン学科」開設のために、これまで以上に山形に縁深くなりそうな山崎さん。「ぜひまた一緒にやりましょう!」

information

map

山形まなび館・MONO SCHOOL

県下初の鉄筋コンンクリート学校建築として、昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」が、約80年間の小学校としての役目をまっとうし、平成22年4月に「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」の拠点として生まれ変わった。

住所:山形県山形市本町1-5-19

TEL:023-623-2285(管理事務室)

開館時間:9:00〜18:00(交流ルームは〜21:30)

休館日:月曜(祝の場合は翌日)および12月31日、1月1日

Web:http://www.y-manabikan.com/

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TAKAKI HAGIWARA 
萩原尚季

アートディレクター。1976年茨城県生まれ。2000年東北芸術工科大学を卒業後、同大学の大学院に進学。スウェーデンへの交換留学経験から2001年デザイン事務所「コロン」を立ち上げ、2010年「株式会社コロン」となる。同年、山形市立第一小学校旧校舎活用の委託業者に選定。4月「山形まなび館・MONO SCHOOL」としてリニューアルオープン、その運営方法で2012年度「グッドデザイン・ベスト100」を受賞した。

Web:http://www.colon-graphic.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

コロカルニュース、始まりました!

全国津々浦々からニュースをお届けします!

日本列島で、ピッカピカの新年度が始まりましたね。
それとともに、コロカルでも、新コーナー
「コロカルニュース」が始まりました。

コロカルニュースは、「ローカルって楽しい」をキーワードに、
日本全国津々浦々のトピックをお伝えするニュースコーナーです。
ちょっとおかしな事件や、地元民以外には謎のブーム、面白い人などの出来事、
各地で開催されるイベントの告知からコロカル記事の取材エピソードまで、
ほぼ毎日エントリー。

愛情を込めて、コロカル視点のニュースをお伝えしていきます!

どうぞよろしくお願いします。
なにかニュースがありましたら、ぜひ編集部に教えて下さい!

ぬか釜出張

ぬか釜と魚沼産コシヒカリで行脚!

10月に収穫を終えてから、RICE475もさまざまな活動を行っておりました。
今シーズンから始めた活動に「ぬか釜出張」というのがあります。
ぬか釜とは、お米のもみ殻と杉っ葉を燃料に羽釜で炊飯するという、
昔ながらの炊飯スタイルです。

巷ではとうとうお米の消費額がパンに抜かれてしまうという由々しき事態に。
また、食料自給率を上げるために、米粉をプッシュする声を頻繁に聞きます。
米粉パン、米粉パスタ、米粉スイーツなどなど、
米を粉にして小麦粉の代わりに使ってお米の消費を上げようという
目論見はとっても良くわかりますが……。

それじゃいかんでしょう!!!
ご飯は? ご飯の美味しさは?
日本人のDNAをパンやパスタにすり替えてよいのですか?
とびきり美味しいお米を最高のコンディションで食べてもらい、
目を覚ましていただきたい!

ということで、ぬか釜と魚沼産コシヒカリを持って、行脚することに。
青空の下、最幸級米を最幸な炊き方で味わっていただきました。

マラソンの走り方教室、女子サッカーの試合、
音楽イベント、埼玉県の小学校の家庭科の授業……。

ぬか釜炊きの名人を連れて行ったり、時にはひとりで行ったり。
さまざまな場所でご飯を炊かせていただきました。

ぬか釜炊きの特徴は、火力が強いこと。
なんと釜の中は1000度にも達するそう。
なので、わずか20分ほどで炊きあがるのです。
一度火をつけたらあとは放置。
火力の調節もいらないので、昔の「全自動炊飯器」ですね。
もちろん、みんな大好物の芳ばしいおこげもバッチリできます!

越後湯沢で行われた、パラリンピックのマラソン金メダリスト高橋勇市さんによる、マラソンの走り方教室でも振舞いました!

初めて見るぬか釜炊飯に、子どもたちも興味津々!

見よ! この炊きたてご飯を! 思い出すだけで幸せな気分……!

みんな幸せそうにご飯を食べる姿を見て、やはり、自信が確信に変わりました。
みんな美味しいご飯が大好きなんです!

「普段ウチの子こんなにご飯食べないのよ!」(お母さん談)
「おこげ美味しい! 毎日ちゃんと炊きたくなりました」(お姉さん談)
「なんか、お米が美味しいって、ほっとしますね」(お姉さん談)
「ご飯だけでこんなに食べたの初めて! 塩もいらない」(小学生談)
「明日から朝はご飯にしてねってお母さんに言うね!」(小学生談)
「おかずも豪華だけど、ぬか釜炊きのご飯が一番のご馳走だよ」(おじさん談)

そうでしょう、そうでしょう(ありがちな広告のようですが、違います)。
もちろん米粉も良いと思いますが、まずはご飯を食べる習慣を取り戻しませんか?
大正時代、日本人は平均で一日8膳のご飯を食べていたそうです。現代は2.5膳。
一説によると、それが4.5膳になることで脂肪の過剰摂取がなくなると言われています。
美味しいだけでなく、体にも良いのですね!

なにはともあれ「ぬか釜出張」、
ロケーションも手伝って、みなさんにご飯の美味しさを再確認していただく、
本当に良い機会になったと、勝手に満足しています(笑)。

個人的にはこの仕事、さまざまな場所でさまざまな出会いがあるので、大好きです!
うちのイベントにも来てほしい! という方、ぜひご連絡ください☆

「OCICA」と「ぼっぽら食堂」

牡鹿の人と土地を象徴した手仕事ブランド「OCICA」

三陸海岸の南から太平洋に向かい南東にせりだした牡鹿半島。
複雑なリアス式海岸に点在する約30の浜ごとに集落を形成するこの地域は、
漁業関連の仕事に従事していた多くの住民が、津波により家と仕事を失った。
現在、瓦礫の撤去はほぼ終わり、
ワカメや牡蠣などを扱う水産加工業の生産体制も徐々に回復へと向かっている。
しかし、「復旧」から「復興」へ向けた動きのなかで、
集団移転の問題や回復の進まない地域経済など、さまざまな問題が浮かびつつある。

そんな中で、地域住民のつながりを大切にした
「一般社団法人つむぎや」の活動が注目されている。
代表の友廣裕一さんが手掛けるふたつのプロジェクトを追った。

牡鹿半島には美しい漁港がいくつも点在する。

「OCICA」を制作する地元のお母さんたちと、右端が友廣裕一さん。週に2度の制作時間を楽しみにしている人も多い。

2年前——。
被災後間もない牡鹿へ支援のために入った友廣さんは、
瓦礫が山積し、援助が行き届かない苦しい状況のなかで工夫をこらし、
希望を失わず、前に向かって生きようとする牡鹿の人々に出会った。
この人たちのために自分ができることはないか——。
全国70か所にわたる日本の中山間地を旅しながら、地域の人々の生活に触れ、
その中から関係性をつむいできた自分だからできることをしたかった。

「一歩踏み出そうとする人たちと同じ方向を向いて、全力でサポートしていこう」
それが、“つむぎや”のはじまりだ。

牡鹿半島には鹿が多く生息している。
当然、鹿の角も豊富に手に入るが、まったく使われていなかった。
「なにかできないか」と友廣さんは、
素材調達、加工、デザインなどひとつひとつの課題をクリアし、
「OCICA」というアクセサリーブランドを生み出すプロジェクトを立ち上げた。
デザインには、「NOSIGNER」デザイナーの太刀川英輔さんの力を借り、
まず、鹿の角と漁網の補修糸を用いたネックレスができあがった。
2011年9月、プロジェクトは本格的に動き始めることになる。
仕事を失ったまま、仮設住宅に暮らす東浜地区(竹浜と牧浜)の女性に
わずかながらでも定期的な収入をもたらすことと、
ともすれば途絶えがちになる彼女たちの交流をうながし、
コミュニティとしての再生を図ることを目的としてスタート。
火・木曜の午前中、みんなで集まってアクセサリーをつくるという“しごと”。
これは、現在も続いている。

だが、素人が始めたその道のりは決して平たんではなかった。
そこは、知らないことは謙虚に教えを乞う姿勢で。
振り返れば、牧浜の女性たちを紹介してくれた牧浜区長の豊島富美志さん、
鹿の角を仲間から大量にかき集めて提供してくれた猟師の三浦信昭さん、
磨きから加工まで教えてくれた元捕鯨船の乗組員の安部勝四郎さん、
そして、NOSIGNERの太刀川さんなど、
縁ある多くの人々とつながり、協力を仰いだ結果がそこにあった。

おしゃべりしながらでも手は止まらない。楽しい手仕事は午前中いっぱい続く。

鹿の角の加工は難しい。お母さんたちは独自に練習を積み腕を磨く。

このように、OCICAは仮設住宅の集会所で製作されている。
仕事をする女性たちはみんな明るく、笑顔がたえない。
「今日、もらった野菜の中にガーベラが一輪あったの。部屋に飾ったら
パッと明るくなって、うれしくてねぇ」と阿部けい子さん。
「うちはお花はいいから、野菜をもっとちょうだいって言ったさ」
そう返す阿部美子さんの言葉に一同笑いが起こる。
美子さんは、小学生を筆頭に一女三男の子供を持つお母さん。
一番下の男の子は、震災後の4月に生まれた。
秋から本格的に始まる牡蠣の殻むきの仕事を心待ちにする一方、
色々な人と交流できる作業場での時間を生活の張り合いにしている。

チーム最年少の阿部美子さん。みんなに頼りにされている。

「ここがあったから立ち直ることができたんだよ」
そう語るのは、チーム最年長の豊島百合子さん。
孫の結婚式に出るため出かけた横浜で震災に遭遇。
やっとの思いで牡鹿に辿り着き百合子さんが目にしたのは、
津波で壊滅的な被害を受けた故郷牧浜の変わり果てた姿だった。
独り身の百合子さんは震災の深いショックから立ち直れず、
仮設住宅で昼夜ふさぎ込む日々が続いた。
そんな折、百合子さんはOCICAの初回ワークショップに出席する。
「最初は手さ、ぶるぶる震えたけど、やってくうちに気にならなくなって、
いつの間にか笑えるようになったのよ。みんなのおかげだよ」
以来、皆勤賞。収入につながる仕事の達成感もさることながら、
ここに来れば誰かがいるという安心感が大きかったという。

豊島百合子さん。よい商品をつくるために人知れず練習を重ねる努力家。

人々が共に“笑顔で過ごせる場”をつくることの大切さ。

ここでは30〜70代の幅広い年齢の女性が一堂に会してアクセサリーをつくる。
話をしながらも、手元を見つめる目は真剣そのもの。
少しでもよい商品にしようと、日々改善を加えながら作業にあたる。
テキパキと作業をこなして本日の製作分が終了すると、
OCICA恒例の “お茶っこ”の時間だ。
自宅で収穫した白菜の漬物や、茎わかめの煮物、ゆで卵など思い思いの品を持ち寄って、
お茶を飲みながら語らいの時間をもつ。
「この時間とみなさんの笑顔を大切にしたいんです。
いつの間にか作業の反省会に突入すると、どんどん白熱していって、
時の経つのを忘れて話しているときもありますけどね」と、友廣さんがほほ笑む。

OCICAは、海外にも販売店が広がり、順調に売り上げを伸ばしている。
購入する人たちは、ひとつひとつ形の違う商品に手づくりの温もりを感じ、
その背景にある「OCICA」の「人」や「物語」に魅力を感じるという。

だからこそ、短期的なプロジェクトで終わるのではなく、
OCICAを継続させる中でお母さんたちの求めるかたちを
日々追い求めていきたいと友廣さんは話す。

ひとつの夢の実現が、新たな夢へつながっていく。

このOCICAとはまた違う歩みをしてきた、もうひとつのプロジェクトがある。
2011年4月——。
被災で仕事を失った鮎川地区(鮎川浜、新山浜)の
牡鹿漁業協同組合女性部の女性たちと友廣さんは、
早急に、なにか手仕事がつくれないかと模索していた。
夫婦で漁業に携わる人の多くが、漁船や漁具を失っていた。
震災前、女性は夫の手伝いをしながら、
空いた時間には牡蠣むきなどのパートに出て小さな現金収入を得ていたが、
それらの加工施設も沿岸にあったため壊滅してしまった。
それに代わるものとして、何とか元手をかけず、
地域に眠る資源を使った手仕事ができないか——。

みんなで話し合う中で、
安住千枝さんから、漁師町のアイデンティティである
漁網の補修糸を使ったミサンガならつくれるという話が持ち上がった。
2日後には、流出しなかった糸を使ってミサンガをつくり始めたのだが、
それが美しく、メンバー一同これをつくっていきたいということになった。
ミサンガは切れることで願いを叶えるというが、漁網は丈夫で切れない。
メンバーたちは、「切れない絆」に強い願いを込めた。
その日から千枝さんを中心としたミサンガづくりの特訓が始まった。

カラフルな漁網でつくられたオリジナルのミサンガ(photo:Ayumi Ito)。

3か月後、集まったミサンガを香川で行われた野外フェスで
1本1000円で販売。1日で400本近くを売り切った。
ここでも鮎川地区の女性たちの「切れない絆」の「物語」は、
ミサンガ購入へと人々の心を動かしていた。
これらで得た売上については、半分を製作した人の収入に、
もう半分は次の事業を始める資金に使うべく貯蓄に回した。
完売という結果は、当初弱気だった鮎川地区の女性たちを勇気づけ、
ミサンガの編み方を自ら考え出したり、色合いに細やかな気を配るなど、
商品の品質をさらに向上させていった。
ロゴは、震災後ボランティアとして
何度も足を運んでいたデザイン事務所「あちらべ」が手掛けてくれた。

「みんなで集まる場所がほしいよね」
震災後、集まる度に千枝さんがふるまってくれた、
支援物資を使ったアレンジ料理が好評だった。
そば粉がケーキに、レトルトカレーがカレーパンに変わり、
食べたみんなが笑顔になった。
漁業が一部再開するようになってからは、市場には流通しないが、
自宅でおいしく食べられている魚を、ボランティアの人などにごちそうしていた。
「鮎川の人々が集まれる場所をつくりたい、
地元の美味しい食材を使った料理をふるまいたい——」
いつしか千枝さんを中心にした弁当屋を開くのが共通の夢となっていった。
これが「ぼっぽら食堂」が始まるきっかけとなる。
ミサンガをつくっていたメンバーでオープンを目指した。
つむぎやも店舗建設や設備にかかる費用の確保に奔走した。
設計については、「akimichi design」の柴秋路氏、
「DOOGS DESIGN」の中島保久氏が関わってくれた。

2012年7月。
弁当屋・ぼっぽら食堂は、多くの人の力添えによってオープンを果たした。
現在、牡鹿漁業協同組合女性部7名の有志で結成された「マーマメイド」が
運営しており、地元で人気の弁当屋に急成長中だ。
月曜から土曜まで営業し、日によっては100食近くを売り上げる。

午後、すべての業務が終わったあと、メンバーは休憩に入った。
訪れた友廣さんにまかないの山盛りチャーハンをさりげなく差しだす。
「弁当屋の次はやっぱり、海産物の加工品の店を出したいっちゃね」
つかの間の休憩時間、メンバーのおしゃべりに花が咲き、笑顔がこぼれる。
だが、時計の針が3時を指すとみんな一斉に立ちあがった。

「さあ、明日の仕込みをすっぺ!」

「マーマメイド」のリーダーを務める安住千枝さん。陽気で元気な浜のお母さん。

方言である「ぼっぽら」には、急に・準備なしにという意味合いがある。地元食材を使ったメニューでボリュームのある温かい弁当を500円で販売している。

本当の意味で被災地が「復興」を遂げるには、
地方都市の農林水産業の衰退、それを伴う過疎化、高齢化など、
震災で浮き彫りになった、日本が抱える多くの問題を解決していく必要がある。
地方の「人」、人々が集まる「場」、活用しきれていない「土地の素材」。
それらをつなげ、ひとりひとりの役割が果たせる仕事を創出する
つむぎやの地道な活動は、「復興」につながっていくであろう
日本の健全かつ新しい仕事のかたちを予感させる。
キーワードとなるのは、人々の“笑顔”だ——。

Information

一般社団法人つむぎや

http://www.facebook.com/TUMUGIYA

Information

OCICA

石巻市牡鹿半島のお母さんたちによる、手仕事のブランド。
http://www.ocica.jp/

Information


map

ぼっぽら食堂

住所 宮城県石巻市鮎川浜北18-4
電話 080-2816-1389
浜のお母さんたちが作る日替わり弁当がワンコイン(500円)で食べられる。
http://mermamaid.com/

肘折温泉vol.3これからの新しい湯治

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
最終回の第3回は、「これからの新しい湯治」について。

山奥の湯治場のゆったりした時間と、人との出会い。

「昔は、湯治に来たら、多い人だと3まわり(1まわり=1週間)くらい
泊まっていったんじゃないかな。当時はどの旅館にも自炊場があって、
お客さんたちは、自分たちが食べる分のお米を担いできて自炊をしていたんですよ。
食事ができると、私にも食べないかって声をかけてくれましたね」
と、当時を懐かしむように、肘折の湯治文化を話してくれたのは、
今年90歳になるという、若松屋村井六助の会長、村井健造さん。
大蔵村村長を務めた経験を持ち、昭和の肘折温泉を見つめてきたひとりだ。
現代でいえば、ユースホステルのような、この湯治場の仕組み。
その分、宿泊費用も低価格で提供されていたという。
「そうやって自炊するから、みな山菜採りを楽しんでいましたね。
塩蔵して家へ持ち帰る人もいました。
自然いっぱいの肘折周辺の山は、山菜がたくさん採れるんです」
湯治で温泉も、アウトドアも楽しんでいたというわけだ。

肘折温泉の共同浴場「上の湯」。入浴料は大人200円。かわいいのれんは女将たちの手づくり。

昔は、お客さんのほとんどは山形県内で農業などを営む人々。
田植えや稲刈りが終わると湯治場を訪れ、日頃の疲れを癒していったという。
ちなみに、「肘折」という名前の由来は、その昔、肘を折った老僧が
この地のお湯につかったところ、たちまち傷が癒えたから——という説が残っている。
「だからね、各旅館には松葉杖がたくさん置いてあったんです。
みんな、良くなって置いていくんですよ」と建造さんはにこやかに教えてくれた。
本当に?……と半信半疑になっていると、
33年にわたり、肘折温泉組合長を務めた、
つたや肘折ホテルの会長、柿崎繁雄さん(81歳)も同じことを言う。
「うちの玄関のところにもね、昔は松葉杖がたくさんあったんだから」
なるほど、温泉の効能は、肘折の翁たちのお墨付きのようだ。

「お客さんがたから他の地域の食文化や踊りや歌を教えてもらうのも楽しかったですね」と健造さんはさまざまな昔の肘折温泉の景色を教えてくれた。

肘折温泉の集落の風景。

こけしの収集家でもある繁雄さん。この部屋にある歴代の肘折こけしを見せてくれた。

さらに、繁雄さんは湯治のもうひとつの楽しみをこう話す。
「昔は、そうやって、長く滞在しながら自分たちで食事をつくったりするでしょ。
すると、自然と、一緒に居合わせた人とも仲良くなって、
お客さん同士の交流が生まれるんです。
だから、来年も会おうねって、約束したりするんですね」

そんな湯治友達に会えるのが楽しみだったと話してくれたのは、
つたや肘折ホテルに、40年間通い続けている鈴木新藏さんと妻のちえ子さん。
若いときは、養蚕にお米、ホップをつくっていたという鈴木さん夫妻は
「昔は、遊ぶ間がないくらい本当に忙しく働いていた」と口をそろえる。
だから、農閑期だけは、肘折温泉でお湯につかって、山道を散策して、
ゆったり過ごし、心身ともに疲れをほぐしていた。
「ここは山奥だし、来ればいつも気持ちがゆったりするんです。
うちのほうでは見られない山菜の青ミズを採ったりするのも楽しいですね。
いまは、湯治友達がみな来られなくなって、ちょっとさみしいけどね」
と、ちえ子さん。それでも、
毎年変わらずに迎えてくれる肘折温泉が好きだとも教えてくれた。
「ここの青年団がね、毎年、山道のあちこちを整備してくれるから、
歩きやすくなっていくし、すごくきれいになったのよ」
「肘折温泉は、いつ来ても人情味あふれるところ。それにつきるな」
と新藏さんは微笑む。

「毎年決まって、こんな山奥まで来てくれるでしょう。
こちらもお客さんが親戚みたいに思えてくるんですね」(繁雄さん)

いまは、旅行がふたりの楽しみと話す鈴木ご夫妻。「若いうちから旅行を楽しんでって息子夫婦にも言っているんだけど、やっぱり忙しいみたいね」

肘折温泉の旅館は売店を持たないため、買い物は通りの商店へ。「肘折温泉にきたら、筋子を買うのが楽しみなの」とおばあちゃんが教えてくれた。

肘折温泉ならではのユニークな過ごし方。

開湯1200年と言われる肘折温泉。代々受け継がれてきた湯治文化も、
ライフスタイルの変化とともに、湯治客の数が減ってしまった現状もある。
これからの肘折温泉を担う青年団。彼らのミーティングにお邪魔して、
その想いを聞いた(メンバーは、local action #019と同様)。
まずは、湯治文化について聞くと、
いまも変わらない肘折温泉での出会いや楽しみ方があるようだ。

里実子

こないだうちに来たお客さんたちで、去年偶然一緒になったから
“じゃあ来年も同じ日から泊まろう”ということになった方々がいたんです。
でも、ひと組は予定がずれて前倒しの日程になっちゃって。
もうひとつの組は、約束通りの日に来たんです。滞在が1日だけかぶったんだけど、
“なんだ、おめえら、約束したじゃねえか!”ってすごい責められてた(笑)。
電話するとか連絡方法はあったと思うんですけど、それはしなかったみたいですね。
でも、「また来年な」って言ってました。

絵梨

肘折温泉は、お部屋まで配達っていうのが普通なんですけど、
こないだお部屋にお邪魔したら、大きな電車の模型がつくってあったんです!
ふたりは奈良と東京から別々で来て、
ここで待ち合わせして一緒につくっているって言っていましたね。

隆一

それ、すごい!

大三郎

めちゃくちゃ楽しそうだね!

雄一

趣味をゆっくり楽しむ合宿みたいなもんかな。

絵梨さん(左)は保育士を辞め、実家の商店を手伝い、里実子さん(右)は、一昨年南米から戻り、実家の旅館を手伝っている。

里実子

うちのお客さんなんかだと、部屋を真っ暗にしているから
“電気つけないんですか?”って聞いたら、いま節電だからって言うんですよ。
旅館のことなのに、節電してくれている。
私は、温泉っていうと、おいしいもの食べて贅沢するイメージだったけど、
肘折温泉のお客さんはなんか違うのかなぁって思いました。

雄一

家と同じように想ってくれていて、リラックスもしているのかな。

隆一

僕、こないだ出前を部屋まで届けたら、
ばあちゃんたちが部屋の電気のスイッチに帯を結んで長くして、
楽に電気を消したりつけたり、くつろいでましたよ(笑)。

絵梨

帯の使い方と言えば、うちの店の前の旅館の2階から、
「ちょっとねえちゃん、そのアイスちょうだい」
て、声が聞こえてきたと思ったら、かごが降りてきたんです!
帯をつなぎ合わせた先に、かごが結んである。
降りてきたかごにアイスを入れたら、するするって上にあがってくんですよ。
そしたら、またかごが降りてきて、お金が入っていました(笑)。

雄一

肘折温泉では、それが普通の文化だもんな(笑)。面白いよなぁ。
お客さんも、肩の力を抜いて、くつろいでくれているんだろうな。

つたや肘折ホテルのバーに集合。手前のバーテン役が柿崎雄一さん。若い人たちのよき理解者。

新しい湯治のスタイルを探して。

隆一

「湯治」っておじいちゃんおばあちゃんのものだと思っていたんですよね。
でも、「ひじおりの灯」(*1)をきっかけに、肘折温泉にやってくる
若い人たちと会って話すようになってから、意識が変わってきましたね。
東北芸工大の学生たちは創作するために滞在しているけど、
温泉につかって元気になって帰っていく。これも肘折温泉の「湯治」かなって。
そしたら、いろいろな湯治のかたちがあるのかもしれないと思いました。

里実子

最近は、若いお客さん、増えているよね。

雄一

肘折の「地面出し競争」も年々、参加者が増えてるよな?

隆一

そうですね。1回目は9チームでしたけど、4回目の今年は、30チームに。
地元のチームだけじゃなく、盛岡とか外から参加する人もいます。
地面出し競争って、地面まで積雪を掘る速さを競うっていう単純なものなんですけど、
もとは、僕たちが小中学校合同やっていた雪上運動会の競技だったんです。
肘折小中学校が閉校しても、地面出しは残したいと思って。

里実子

隆一くんが残そうって言わなかったら、残らなかったもんね。
隆一くんも、一度外に出たから、それが肘折の面白さって思ったんだよね?

隆一

そうだね。僕たちにとっては当たり前だったことが、
視点を変えてみると、人を集めるイベントになっている。
でも、僕たちも楽しんでいますからね、地面出しは。

毎年前夜祭も行われて初参加の人に説明したりするんですが、
実は裏テーマがあって……。強豪チームは酔わせてつぶすっていう(笑)。

隆一

奥が深いんです(笑)。

*1ひじおりの灯:肘折温泉が開湯1200年を記念して始まったオリジナルの灯ろう展示会。東北芸術工科大学の学生や地元の小学生、青年団らが、手漉きの月山和紙にそれぞれの〈肘折絵巻〉を表現、その灯ろうを温泉街の旅館や商店に設置、湯治場の夜を幻想的にライトアップする。

2012年8月に行われたひじおりの灯のイベントのひとつ、「肘折絵語り・夜語り」の様子。学生たちが制作した灯籠が宵闇を照らす。

隆一

地面出しに参加してくれたり、「ひじおりの灯」に来てくれたり、
最近、おやじたちの代の客じゃなくて、
自分たちの常連さんがみえてきたなって思うんです。
僕らに会いに来てくれるというか。

雄一

誰かに会う楽しみっていうのは、肘折温泉の変わらないところかもな。

隆一

自分がそうなんですけど、“どこに行ったら面白いかな”じゃなくて、
“誰に会いに行ったら面白いかな”って考えて、遊ぶ行き先を決めている。
だったら、お客さんにあの人たちに会いに行ってみたいなって思ってもらえたら、
肘折温泉にも来てもらえるようになるのかなって。
お客さんが来ないって言っているんじゃなくて、まずは、
僕らが楽しいと思うことをするのが大切なのかなって、最近すごく思っています。

肘折温泉をテーマに同年代で話す会話はつきない。

里実子

私、ひとつ、提案があるんです! 
大三郎さんの読書会とか、私が週に1回やっている英会話クラスとか、
一般の人も参加できるように開放したらどうかなって思っていて。
他にもいろいろな講座ができたら面白いんじゃないかと思うんです。

隆一

おー! それは、「肘学」だ。

雄一

いいな!

里実子

雄一さんもぜひ、何かやってくださいね。温泉講座とか? あれ面白いですよ。

大三郎

僕もそれは、ぜひ聞きたいですね。僕も読書会の他に、音楽がやりたくて。
例えば、つたや肘折ホテルにある屋内のゲートボール場でライブとか……。

雄一

よしわかった!

里実子

外の人にも、こんな講座があるからってお知らせできたら、
それに合わせて温泉にも来てくれるたりするかなって思うんです。

隆一

ちゃんと「肘学」のかたちをつくりたいですね。
地元の人にちゃんと浸透できるくらいの企画にしていきたい。

雄一

よし、考えよう。早速、どんなテーマがあるか、出し合おう! 肘学開講だな。

と、偶然にもミーティング中、新しい試みが動き出したこの日。
新しい湯治のスタイルとして、みながいくつもの可能性も感じ始めた。

1200年前から人が往来してきた肘折温泉には、
長い歴史のなかで、埋もれてしまっていた修験や山の文化があった。
いま、それを掘り起こし、価値を見いだそうとしている次の世代の担い手がいる。
それは慣例としてなぞるだけではなく、一方で守り、一方で更新していく。
その根幹にあるのは、「自分たちも一緒に楽しむ」ということ。
そこには、これまでと変わらない肘折のぬくもりある出会いが待っているだろう。

そんなにぎやかな肘折温泉の雪解けは、まだまだ先だけど、
その後、彼らが始めた肘学がどうなっているのか——、ぜひ訪れ確かめてみたいものだ。

今はもう閉校してしまったが、肘折小中学校の校舎にも「肘学」。毎年、地面出し競争が行われるのもここ。みんなの思い出の場所。

information


map

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

山形 Part3 「コミュニティデザインって なんだろう。」

山崎亮 ローカルデザインスタディ
山形編・目次

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今回は、2月5日に「山形まなび館・MONO SCHOOL」で行われた、
山崎亮さんのトークイベント「コミュニティデザインってなんだろう。」
の様子をお届けします。

まずは萩原さんから、いくつかの質問。

萩原

山崎さんがなぜこんなにも全国から呼ばれるようになったのか。
いくつかの代表的な事例を紹介してもらいましょう。

山崎

ではまず、有馬富士公園の事例から。
ここでは、山のなかに公園をつくったものの、
どうしたらひとが来てくれるだろう、という課題を解決しました。
それを知って、竹内昌義さん(みかんぐみ)とナガオカケンメイさんから
お誘いを受けたのがマルヤガーデンズ(*1)です。

そこで、イメージとして「有馬富士公園を垂直に積んでみたらどうか」
ということを提案しました。
施設のなかでコミュニティの活動をするついでに、
買い物をするひと、お茶をしていくひとがいればいいな、という発想です。
いまは、鹿児島市内を中心にさまざまな団体が関わって、
いろんなことをやっています。

じつはこのプロジェクトをやっているときに、ぼくとは別に、
壁面緑化や屋上などを手がけたランドスケープデザイナーさんがいらっしゃって、
しかも名字が「山崎さん」だったんです。
一方、ぼくはここではランドスケープデザイナーとしてのしごとを
していませんから、ややこしい(笑)。そこでとっさに、
「コミュニティデザイナー」という肩書きを名乗ったのがはじまりなんです。

だから、世界で唯一とか日本初とかいわれるのもあたりまえなのですが、
ことば自体はむかしからありました。
でも従来は「コミュニティとともにデザインしていく」のが
コミュニティデザインでしたから、そういう意味では、
ハードを作らない「コミュニティデザイン」は、ぼくらだけかもしれないですね。

萩原

来春、東北芸術工科大学に国内初の
「コミュニティデザイン学科」が開設され(現在申請中)、
その学科長に就任される、ということですが。

山崎

東日本大震災が起こったとき、studio-L は
「すぐに東北に乗り込みません」と宣言しました。
阪神淡路大震災の経験を経て、震災直後はもちろんのこと、
じつは3年くらい後になってじわじわと
大変なことが起こるということを学んでいたからです。

だからこれまでなにもしなかったのかというともちろんそうではなくて、
この3年のあいだずっと、
「これから」ぼくたちになにができるかを考えていました。
このタイミングこそ、「よそ者」「ばか者」「若者」が必要となってくる。
そういったことを実践する組織を、芸工大のなかにつくらせてもらうことは、
とても意味のあることだと思っています。
今後、可能であれば studio-L の山形事務所を作り、スタッフが講師をつとめ、
実践的に一緒に地域の課題を解決していきたいと考えています。

萩原

「よそ者」ができることってなんでしょう。

山崎

地域の方がなんでもないと思っていることでも、よそ者がみたら
「すごくいいね!」ということがあります。
たとえば、山形空港に無料で駐車できるとかね。
そういうと、みんな苦笑いするんだけど、都市部ではあり得ないから、
ぼくらにはほんとうに豊かなんだなあと思えるんです。
ひととひとが一緒に暮らしていくための、あるべきおおらかさ、
本来のゆたかな生活を感じる。
離島のひとが山間部を、農業のひとが漁業をみても同じだと思いますね。
そういう発見を、地域のみなさんの気持ちにいかに寄り添わせて
すべりこませるかということが大事です。
よそ者の作法というものがありますね。

いきなり「○○を教えます!」と言ったり、あるいはこちらから
「やりたいこと」を掲げて入って行くと、煙たがられるに決まってます。
まずは地域の方々のはなしを「聞く」ことが第一。
「ほぅ!」「なるほど!」「すごいですね!」この3つのことばで
何時間でも「聞く」。そのなかから、人脈を知り、課題をみつけていくんです。
そうすると、ただずっと聞いてるだけで
「あいつはいいやつだ」「なかなかできる」という評価を受けたりするんですね。

だから今回も、「わたしが東北を変えます」なんて言わないし、
「救世主来たる!」なんてメディアに書かれたくない(笑)。
まずは、山形でも1年ぐらいじっくり時間をかけて
ヒアリングをすることになると思います。

*1 マルヤガーデンズ:鹿児島市の老舗百貨店跡をリノベートして2010年にあらたに開業した商業施設。テナントの間にNPOをはじめ地域住民が気軽に使用できるコミュニティスペース「ガーデン」が設けられているのが特徴。

トークイベント「コミュニティデザインってなんだろう。」のチラシ

2月5日に「山形まなび館・MONO SCHOOL」で行われた、山崎亮さんのトークイベント「コミュニティデザインってなんだろう。」。

トークイベントの会場

山崎さんと、司会進行をつとめる萩原さん。「これから山形にお越しいただく機会が増えるとのことなので、これを0回目として、今後も山崎さんとこういった場を設けたいです」

そして、参加者が山崎さんに聞いてみたいこと。

参加者A

これまでに、失敗した経験があれば教えてください。

山崎

失敗は、しないんです。成功するまでやり続ける、というほうが正確でしょうか。
1発勝負だったら失敗もするかもしれないけれど、
ぼくたちは3〜5年いますからね。徐々にものごとを進めるので、
途中でヤバいなと思っても、軌道修正する余地があるんです。
だから、事務所を立ち上げてから、いちども失敗はありません。

もちろん、いくつか難しかったなと思うことはあります。
たとえば、企画案を出したあとになって、予算がないという理由で、
「ただ、5回分のワークショップを進行する」だけの
しごと内容になってしまったとき。
告知もちらしのデザインも先方にゆだねたら、
なんと参加者がゼロ人だったんですね……。
まずしっかりヒアリングを重ね、「来てください」とお誘いすることこそが、
ぼくらのしごとだったんだ、ということを学びました。

参加者B

コミュニティデザイナーって、儲かりますか?

山崎

「儲かる」という定義自体を変えたいですよね。
studio-Lの梅田事務所と、伊賀事務所では、所員の可処分所得が異なります。
端的にいえば、梅田だと家賃6万のところが、伊賀だと1万円で済む、
というのがからくりですよね。
それに、地方から季節の農産物が送られてくる、ひとに感謝される、
ともだちが増える……これだって、ぼくたちにとっては「儲け」だと思っています。
そういう意味では、「ぼろ儲け」ですね(笑)。

参加者C

対立した意見が出たときはどうしますか?

山崎

基本的には、どうもしません。
所員のなかには「両案を乗り越えるC案」が出せる
スマートな人間もいますが、まずは一旦そのまま放っておいて、
「どちらか、先にできるほうからやってみましょう」といってみます。
すぐできること、3年後にできること、10年後にできるかもしれないこと、
と分析するんです。やっているうちに未来は変わっていくものですから、
行動前の机上の意見を無理に統合しなくてもいいと思いますよ。

参加者D

どうやってひとを集めるんですか?
ひとつのワークショップやプロジェクトは何人ぐらいでやるんですか?

山崎

集めるのではなく、誘いにいきます。まずはプロジェクトの担当者に
「このまちでおもしろいことやってそうなひとを3人紹介してください」という。
その3人にまた同じことをお願いする。これをくり返して、100人くらい会う。
その経緯のなかで、たくさんのひとから「アイツはすごい」といわれる、
いわばキーマンがやって来てくれたら、いろんなことがうまくいきます。
公募をかけるのは、そのあとですね。

そうすると、公募から集まった「まちづくり大好きな100人」と、
ヒアリングを経てぼくたちが来てほしいと思った
「もともとまちづくりに興味がなかったひと100人」の組み合わせを
つくることができます。公募で集まった200人と初めましてで対面するより、
なかにすでに声をかけたひとがいて「ヤァ、ヤァ」なんていうと、
ぼくたちのよそ者感が薄れて、和やかないい雰囲気がつくれるという
効能もあるので、まずはこういった事前の準備を丁寧にやります。

参加者E

古着屋を経営しています。高い駐車場代を払いたくないという理由で、
若者がぼくらのまちに来てくれなくなり、郊外に流れています。
なんとかそういう課題を解決したいのに、
力を合わせるべき3つの商店街が友好的になってくれません。
どうしたらこころが伝わりますか。

山崎

やはり、その方たちの話を聞きにいく。教えてもらう。
彼らに認められることを実行する。それに尽きると思います。
「これをやるとうまくいく」とは言えません。
おそらく全国のどこの商店街も同じ状況で、
逆にそういう喧嘩もできなくなったら、いよいよヤバい。

だから、まだ潜在的な力がある元気な商店街なんだ、と
発想を転換してみてはどうでしょう。これまでのぼくたちの事例でいうと、
初回WSはそのコミュニティの年長者何名かに
「若手をひとりづつ連れてきてください」とお願いし、
そこでは年長者のみなさんにしゃべってもらう。

そのあと「お忙しいでしょうから、2回目以降は
みなさんから推薦していただいた若者に実働してもらいますね」と
さりげなくバトンをつなぎ、その代わりに
大御所のみなさんにも毎回きちんと議事録報告をする。
そんな仕組みにしたことがありますね。これはなかなかうまくいきましたよ!

(……to be continued!)

休憩を挟んで第2部へ

休憩を挟んで第2部。「せっかくだから、隣り合わせたひとと、まずはにっこり笑顔で挨拶してみましょうか」と山崎さん。少しのあいだ、自己紹介タイム。さまざまな思いでこの場に足を運んだひとたちが、この一声を呼び水に、たった数分の間にどんどんつながっていく。

隣の部屋のトークをカフェのスクリーンでも見れるようにセッティングされた第2会場

当日参加者も多く、急遽、隣の部屋のトークをカフェのスクリーンでも見れるようにセッティングされた第2会場。こちらでも、質問や意見が活発に飛び交う。

まちの真ん中で古着屋を営む若き経営者

最後の質問は、まちの真ん中で古着屋を営む若き経営者から。まさに、全国でおなじ悩みを抱える店主が多いのではないだろうか。「答えはないけれど」と前置きした上での山崎さんのおはなしには、たくさんのヒントがあった。

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山形まなび館・MONO SCHOOL

県下初の鉄筋コンンクリート学校建築として、昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」が、約80年間の小学校としての役目をまっとうし、平成22年4月に「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」の拠点として生まれ変わった。

住所:山形県山形市本町1-5-19

TEL:023-623-2285(管理事務室)

開館時間:9:00〜18:00(交流ルームは〜21:30)

休館日:月曜(祝の場合は翌日)および12月31日、1月1日

Web:http://www.y-manabikan.com/

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TAKAKI HAGIWARA 
萩原尚季

アートディレクター。1976年茨城県生まれ。2000年東北芸術工科大学を卒業後、同大学の大学院に進学。スウェーデンへの交換留学経験から2001年デザイン事務所「コロン」を立ち上げ、2010年「株式会社コロン」となる。同年、山形市立第一小学校旧校舎活用の委託業者に選定。4月「山形まなび館・MONO SCHOOL」としてリニューアルオープン、その運営方法で2012年度「グッドデザイン・ベスト100」を受賞した。

Web:http://www.colon-graphic.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

山形 Part2 山形まなび館のなりたちについて。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
山形編・目次

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約80年間の小学校としての役目をまっとうした建物を、
「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」を基本コンセプトに
「山形まなび館・MONO SCHOOL」として新たに生まれ変わらせ、
仲間とともにその運営に携わった萩原尚季さん。
山崎さんと一緒に、その3年間の足跡をたどります。

現代に見合った学び舎の仕組みづくり。

山崎

窓の向こう側に見えてるのが新校舎ですか?

萩原

そうです。いまも約200人の小学生が学んでいます。
ぼくらが管理しているのは、コの字の旧校舎の中央棟のみです。
東棟は市が管理する資料館、西棟は市民が自由に使える交流ルームになっています。

山崎

2010年4月に萩原さんたちが事業を委託したときは、建物はもうこの状態で?

萩原

そうですね。きれいに改装された状態で、
ソフトの部分をまかされたということです。
「まなび館」という名称だけは先に決まっていて、
中心市街地の活性化、ものづくり支援、学び舎、の
3つの機能を兼ね備えた事業者ということで選定されました。

山崎

芸工大(*1)の卒業生が始めたというこの「穀雨カフェ」のあり方も、
とてもいいと思いました。まさに、あたらしいはたらき、生き方ですよね。

萩原

ありがとうございます。
カタチが不ぞろいで市場に流通しない野菜をリヤカーで売り歩いていた彼女たちを
支援できる場があればと生まれたカフェです。
夏季は野菜をカレーにして提供したり、決まった曜日に直売したりしています。
ここ、もとは職員室だったんですよ。

山崎

椅子や机も、以前の小学校のものですか?

萩原

それが、もともとここにあったものは改装の際に処分されてしまったので、
ぼくらが改めてコツコツとよその学校や公民館、旅館などから
集めてきたリサイクル品を使用しています。

山崎

今日のトークの会場になる部屋は、普段はどのように活用されているんですか?

萩原

あちらは観光案内室です。でも、もとが図書室なので、
山形市立図書館で廃棄される雑誌のバックナンバーなどを定期的にもらいうけて、
誰にでも読んでいただけるように架設しています。
普段は地元メーカーの家具を置かせてもらい、
ゆったりと時間を過ごしてもらえるよう工夫をしています。

山崎

大きな書店が少ないまちで、デザイン系の本や雑誌が
いろいろ読める場所があるのってうれしいですよね。

*1 東北芸術工科大学:2014年4月に国内初の「コミュニティデザイン学科」を新設すると発表(現在申請中)。山崎さんは、その学科長に就任の予定。

カフェ「穀雨」

カフェ「穀雨」。ゆったりとした時間が過ごせる。はじめはリヤカーで「まがりものの野菜」を売り歩いていた大学の後輩たちを支援する場として始まったのだそう。彼女たちも3月でここを卒業する。

カフェ「穀雨」の机と椅子

机や椅子は、小学校で使われていたものではなく、コロンのメンバーがこの場所のために足で集めてきたリサイクル品。「そういえば、小学校の椅子や机より背が高いもんね」と山崎さん。

ひとが集い、実のなる木のような存在に。

山崎

大学から山形ということは、ご出身は?

萩原

茨城県ですが、ちいさいころから親が転勤族で、
海外も含め、いろんなまちで育ってきました。

山崎

うちも転勤族だったからよくわかるな。
じぶんで「住むまち」を決められるのって大学生からですもんね。

萩原

そうですね。ようやく友だちもできて、
人生で初めて、愛着を感じたまちかもしれません。
そのクラスメートで「コロン」というデザイン事務所を立ち上げたんです。

山崎

そうだったんだ。

萩原

そばも温泉も日本酒も暮らしの環境も、すべてがカルチャーショックでしたね。
もちろん、いい意味で(笑)。
そんなよそ者ということで、ある方から
「萩原さんは風土にたとえると、『土のひと』ではなく『木のひと』だ」
と言われたことがあります。

山崎

うん。とまり木、でもありますね。

萩原

山崎さんやナガオカケンメイさんのようなひとが、
鳥や風のように外からおいしそうな種を運んでくれるのを受け入れて実らせて、
山形という土地に根づかせることができたらと。
市内の人材を活性させるということも大切でしょうが、
一方で外からの刺激や市内外、もっといえば県内外のひとが集まる場も必要で、
それがぼくらの役割なんじゃないかなあと、いまは考えています。

(……to be continued!)

廊下で販売される地元の果物

廊下では、農家さんが持ってきてくださる市場に出ない野菜や果物、近隣の方の手づくりジャムやパンなどが販売されている。

閲覧可能な数々の雑誌

山形市立図書館で定期的に廃棄される雑誌や書籍を、コロン的な視点でセレクトしてもらい受けてきた。「これだけそろってると、若いひとたちにとっては、めちゃくちゃありがたいですよね」と山崎さん。

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山形まなび館・MONO SCHOOL

県下初の鉄筋コンンクリート学校建築として、昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」が、約80年間の小学校としての役目をまっとうし、平成22年4月に「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」の拠点として生まれ変わった。

住所:山形県山形市本町1-5-19

TEL:023-623-2285(管理事務室)

開館時間:9:00〜18:00(交流ルームは〜21:30)

休館日:月曜(祝の場合は翌日)および12月31日、1月1日

Web:http://www.y-manabikan.com/

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TAKAKI HAGIWARA 
萩原尚季

アートディレクター。1976年茨城県生まれ。2000年東北芸術工科大学を卒業後、同大学の大学院に進学。スウェーデンへの交換留学経験から2001年デザイン事務所「コロン」を立ち上げ、2010年「株式会社コロン」となる。同年、山形市立第一小学校旧校舎活用の委託業者に選定。4月「山形まなび館・MONO SCHOOL」としてリニューアルオープン、その運営方法で2012年度「グッドデザイン・ベスト100」を受賞した。

Web:http://www.colon-graphic.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

奈奈子祭

土地に伝わる舞や踊りが、人と人をつないでいく。

「わたしが小さいころからね、神楽さんに宿くださいって言われたら、
何もなくても泊まってもらうもんだっておじいさんに言われたもんだよ」
釜石市で、ワカメの養殖や漁業を営んできた佐々木英治さんとコトさん宅は、
10年ほど前から「鵜鳥神楽(うのとりかぐら)」の神楽宿を担ってきた。
コトさんは、神楽の思い出を、そう話す。

神楽宿とは、巡行してくる神楽衆を迎える家のこと。
畳の大広間に神楽のお披露目の舞台がつくられ、
地域の住民が神楽を観にやってくる。
鵜鳥神楽は、岩手県の北部・普代村にある、鵜鳥神社に奉納される神楽。
同時に、三陸沿岸各地を巡行する「廻り神楽」として知られる。
信仰と芸能の両面で、古くから地元の人々に親しまれてきた。

そんな神楽衆に、今年、釜石市から入った青年がいる。
英治さんとコトさんのお孫さん、笹山英幸くん、18歳だ。
英幸くんは、幼い頃から、
母・奈奈子さんの生家である佐々木家にやってくる鵜鳥神楽が大好きだった。
鵜鳥神楽が、門打ち(集落の各家をまわり、祈祷すること)を行えば、
朝から夕方まで、妹の未来さんと一緒に神楽の後をついてまわっていたそう。
「神楽衆が帰ってしまうと、英幸は泣いてたんだよ。寂しいってね(笑)」
と英治さんは目を細める。
実は、英幸くん、今春高校を卒業したら、
4月から、鵜鳥神楽の拠点となっている、普代村の役場へ就職が決まっている。
偶然だが、大好きな神楽の練習に打ち込める環境が整ったのだ。
「それも、神様に導かれたのかもしれないよね」とコトさんは、微笑む。

佐々木英治さん(右)とコトさん(左)。

「英幸の就職が決まったお祝いに、
鵜鳥神楽を呼んでお祝い会ができないかなって考えていたんですよ」
と、話すのは両親の政幸さんと奈奈子さん夫妻。
毎日、扇子を手にとり神楽の練習を重ねている英幸くん。舞台で舞う姿を、
ひいおばちゃんのヨシさんが元気なうちに観てもらいたい。
そんな思いから夫妻はかねてから親交のあった、追手門学院大学の橋本裕之先生に相談。
すると、橋本先生から、花巻市・早池峰神社に奉納される岳神楽にも、
声をかけてみようという提案があった。橋本先生は大学時代から岳神楽と親交をもつ。
ユネスコ無形文化遺産に登録され、日本を代表する郷土芸能でもある岳神楽。
他地域の民家で披露されるとなれば、とても貴重な機会になる。

NHKの番組『復興サポート』の収録があったのは、そんな矢先だった。
この番組では、橋本先生をナビゲーターに、
郷土芸能の復興に向け、奮闘している釜石市の人々が、
郷土芸能の継承と新しいまちづくりについて考えようというもの。
東日本大震災により、衣装や道具や練習場が失われ、
住民が離れ離れになってしまっている今、
郷土芸能の多くが存続の危機にさらされている。
「このまま何もしなければ大切な文化が失われてしまう。何かできることがあれば——」
と橋本先生は語る。

津波で大きな被害を受けた鵜住居地区の現状。瓦礫が撤去されても、住宅の基礎だけが残る更地となってしまっている。

収録中、いつか、実現したいことのひとつとして参加者から語られたのは、
釜石市内の各地域に伝承されてきた多彩な郷土芸能を一堂に集めた、
お祭りができないだろうかということだった。

「だったら、今度うちに神楽のみなさんを呼ぶから、一緒にやろうよ」
収録中に発せられた、そんな奈奈子さんの一言。
これをきっかけに、1か月半後、
岩手県の郷土芸能祭とも言うべき「奈奈子祭」が開催されることになった。
もとは、家族のためにと考えられたお披露目会だったが、
観る人も、踊る人も、みんなが元気になるようなイベントとなるんじゃないか。
そんな笹山夫妻と橋本先生の思いが込められ、急ピッチで準備が進められた。
実行委員長を務めた政幸さんは、自身も、生まれたときから
釜石市に古くからある「南部藩壽松院年行司支配太神楽」を担ってきたひとり。
今回の奈奈子祭開催に向けてこう話す。
「第1回目として、今回は発声者の奈奈子の地元で開催することになりましたが、
このような祭が、近い将来、さまざまな地域で行えるようになりたい。
被災してしまった釜石の郷土芸能は、助成金を申請しながら、
やっと、少しずつ道具や環境が整いはじめてきたところ。
数年後ではなく、すぐに実現したいと思いました」

橋本先生は、震災後、東北の郷土芸能の保存に駆け回り、さまざまな人と人をつなげる。今回の奈奈子祭の立役者だ。

笹山さん家族。左から、娘の未来さん、政幸さん、奈奈子さん。ちなみに、「奈奈子祭」という名前も、発声者の奈奈子さんの名前にちなんでつけられた。

地元の民家から始まった、新しいかたちの郷土芸能祭。

岩手県は、郷土芸能の宝庫とも言われ、その数は1000を超えるという。
釜石市内だけでも、虎舞や鹿踊、神楽、和太鼓など50近い郷土芸能があるが、
それらを一堂に観覧できる機会は、これまで無かった。
今回、奈奈子祭には、縁あって集まった5つの芸能団体が参加。
佐々木家には、朝から地元の人を中心にたくさんのお客さんがかけつけた。
粉雪が舞うなか、最初に登場したのは、「桜舞太鼓」。
佐々木家の庭に10数個の和太鼓が並び、力強い音が華麗に鳴り響く。

唐丹(とうに)半島の本郷に伝わる桜まつりの手踊り太鼓として始まる。地域の伝統に根ざしながらも、常に新たな脱皮をめざす実力派太鼓集団。

続いて、登場したのは、「鵜住居虎舞(うのすまいとらまい)」。
釜石を含め、陸中沿岸部では、多くの虎舞が存在するが、
なかでも鵜住居虎舞は、「雌虎」として優美に舞うのが特長だ。
鵜住居地区は、震災によって大きな被害を受けた。
今は多くの人が仮設住宅に住み、離れ離れに暮らしながらも虎舞の練習を重ねている。

演舞中、ひときわ、歓声があがったのは、ちびっこの虎舞が登場したとき。
6歳になる佐々木日向くんは、小さい体をめいっぱい使い、力強く、舞う。
その姿に、観客全員が大きな拍手をおくった。
鵜住居地区でずっと受け継がれてきた伝統芸能。
ここには、確かに次の世代の担い手がいる。

虎舞が大好きだという日向くん。「歩き始めた1歳くらいの時から、ずっと踊っていますね」とお父さんは話す。将来が頼もしい担い手のひとりだ。

お昼時には、奈奈子さんやコトさんをはじめ、
近所のお母さんたちが前日から用意してくれたお手製の料理が振る舞われた。
踊りを観覧しながらも、ときおり方言まじりの冗談と笑い声が聞こえてきて、
とてもあたたかい雰囲気が会場内には流れる。

箱崎白浜で採れた、早採りのわかめのおひたしと、まぜごはんのおにぎり。そして、郷土料理・細々汁(こまごまじる)で、心も体もあたたまった。

体があたたまったところで、次は、岳神楽。
岳神楽の時間ともなると、大広間は、さらにたくさんの人で埋め尽くされた。
岩手を代表する神楽だけれども、箱崎白浜地区でも、ほとんどの方が初めての観覧。
数ある神楽の演目のなかで、
今回は、「鶏舞」「山の神舞」「五穀の舞」「諷誦の舞」「権現舞」の5つが披露された。
民家ゆえの、舞台と観客との距離。おのずと神楽衆にも熱がはいる。
ほどよい緊張感のなか、笛や太鼓の美しい音が大広間に流れ、
力強くも、しなやかに舞う姿に、観客みなが魅了されていた。
「こんなに間近で見るのは初めて」という地元のおばあちゃんは、
「神々しかったね」と感想を教えてくれた。

演目「山の神舞」のときには、餅が振る舞われた。これは、佐々木家の粋な計らいだ。

佐々木家のご家族が、身固めを受ける。権現様に頭をかんでいただき無病息災を祈る。

岳神楽が終わると、また、縁側の戸が開けられ、
庭には田郷の鹿踊の踊り手たちが待っていた。
箱崎白浜地区にある、白浜神社の例大祭で神輿が下がるときには、
来てもらっていたという田郷の鹿踊。
久しぶりに見る、懐かしい踊りに、地元の人は楽しんでいた様子だった。

陸中沿岸の虎舞と並ぶ芸能の華である鹿踊りは、鎮魂・供養の舞として知られている。

そして、トリをつとめるのが、鵜鳥神楽だ。
隔年で、佐々木家にやってくる馴染み深い神楽衆を観に、たくさんの人が集まり、
「清祓」「山の神」「恵比須舞」「綾遊」の4つが披露された。
恵比須舞のときには、観覧席にいた男の子を舞台に巻き込んで、
鯛を釣り上げるシーンもあり、和やかな空気が会場を包む。
「演者と観客がひとつになって、濃密な場がつくられます。
あるときは切実な祈りと願いが満ち溢れ、またあるときは爆笑がうずまく。
こんな豊かな場はめったにないと思います」
橋本先生は、鵜鳥神楽の魅力をそう話す。

男の子と一緒に、恵比須さまが鯛を釣り上げるのだが、なかなか釣れないユーモラスな場面。

英幸くんが、登場したのは、最後の「綾遊」。
若いふたりの踊り手が、笛や太鼓に合わせてリズミカルに、そして華麗に舞う。
会場に集まった多くの地元の人は、幼いころから英幸くんを知っている。
舞台で踊る英幸くんを、みながあたたかく見守る。
彼らが踊り終えたときの拍手喝采は、この日一番の盛り上がりだった。
「これからは、尊敬できる先輩のもとで、練習を積んで、
来年の巡行までにはもっと上達したいと思っています」と英幸くんが挨拶。
ここにいるみなが、彼の鵜鳥神楽の上達ぶりをこれからも見守っていくだろう。

真ん中で、厳重に毛布にくるまっていたのが、ヨシさんは今年で93歳。「いがった(よかった)ね」と、近所のみなと楽しそうに観覧していた。

「4月からは、神楽が思いっきりできるからうれしい」と英幸くん。巡行ごとに上達していく姿が今から楽しみだ。

一日を終え、「楽しかった!」と奈奈子さんは笑顔で話してくれた。
「地元のおじいちゃん、おばあちゃんがすごく喜んでくれたから、
本当にうれしかったですね。
たくさんの人に支えてもらいながら、無事終えることができました。
今回は一般の家だから、無制限に人が入れるわけではないけれど、
この奈奈子祭は、地元の人はもちろん、外の観光客の方など、
これからもたくさんの人に見てもらいたいと思っています」

「この岩手県沿岸部は、残っている郷土芸能の数から見ても、
踊りや舞がみんなの生活の一部なんだと思うんです。
それくらい、生まれたときからみんな踊りを練習してきましたから。
震災後は若い人を中心に結束して郷土芸能を盛り上げようとしています。
でも、ほとんどのお祭りが開催できていない状況もある。
発表する場があって、いろんな人が見にきてくれれば、
彼らの活力となるんじゃないかと思っています。
次はあたたかい時期の開催に向けて、動き始めたいと思っています」
と政幸さんは次への展望を語ってくれた。

ここ、釜石市で続いてきた伝統が、新しいかたちの郷土芸能祭として再生しつつある。
奈奈子祭を終えて、
“次も参加したい”“次回は呼んでくれ”といった声もあがっているという。
次はどんな郷土芸能が観られるのか、今後が楽しみだ。

山形 Part1 だからこそ「熱いひと」が 必要なんだ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
山形編・目次

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約80年間の小学校としての役目をまっとうした建物を、
「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」を基本コンセプトに
「山形まなび館・MONO SCHOOL」として新たに生まれ変わらせ、
仲間とともにその運営に携わった萩原尚季さん。
山崎さんと一緒に、その3年間の足跡をたどります。

まだ、こころの整理がつきません。

山崎

先日山形にうかがったときは、次年度の運営業者選定にもエントリーする、
というタイミングだったのですが……。

萩原

その後、2月21日に市役所から、次年度委託事業者に
選定されなかった旨の通達を受けました。山形市内のみならず、
全国からたくさんの方々に継続運営の応援をしていただいていたので、
とても残念な思いでいっぱいです。

山崎

こういうことって往々にして、
調査しやすい「来場者数」が評価の基準になったりしますが、
このとき安易に「数字」だけをみるのはよくないと思っています。
ほんとうに大事なのは「何人」ではなく、「どんなひとが来たか」ということ。
トイレだけ借りにきたひとと、この場に来たことで意識が変わって
その後じぶんでイベントをおこしたひとは、
果たして同じ「ひとり」として数えられるだろうか……。
そんな評価軸の設定と手法が、本来はきちんとつくられていくべきですね。

萩原

ぼくが代表をつとめる「コロン」というデザイン事務所で
運営を請け負ったのですが、なにしろ初めての公共のしごとで、
最初の2年はほんとうにあがいてばかり。
やっとこの1年で、こんなにすばらしいチャンスをいただけたことに感謝しつつ、
じぶんたちが「なにをすべきか」が見えてきたばかりだったので。
まだ全然、こころの整理がつきません。

山崎

行政との上手なつきあい方なんてわからなくて、
でも全身全霊でここの運営を継続したいと願った若者がいる。
これからの時代、なにが大切かを見いだして動こうとしている
熱き37歳が山形にいる。
これって、このまちにとってとても大事なことだとぼくは思いますよ。

「山形市立第一小学校」に関する資料

県下初の鉄筋コンクリート学校建築として昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」。その旧校舎を使った山形まなび館では、戦中戦後を経た小学校の長い歴史も垣間みることができる。

紅花文庫と山形市文化財展示室

山形市が管理する東棟には、第一小学校が所有する山形市の教育資料を展示する紅花文庫と山形市文化財展示室がある。

萩原尚季さんと山崎亮さん

講演前のわずかな時間ながら、密な対談をしてくださった山崎さんと萩原さん。奥に見えているのが、現在の「山形市立第一小学校」校舎。

なぜ、ぼくらがここを受託したか。

萩原

できれば、任期3年でハイ終わり! ではなく、
もう少しぼくらも周りも「育つ」時間、継続のチャンスをいただいて、
ぼくらが思い描いたもののたのしさを証明したかったなあと。

山崎

そもそも、萩原さんたちは、なぜここの運営を受託しようと思ったんですか?

萩原

ぼくは大学進学で山形に来たんですが、暮らすうちに
「なんて贅沢な土地なんだろう!」って感銘を受けたんです。
でも、東北のなかでもとくに、山形はメディアで取り上げられる機会が少なくて。
それなら、山崎さんがひととひとをつなげるように、
ぼくらが山形のモノや価値を外とつなげて伝えるということを
しごとにしたいなあと思ったんです。

山崎

なるほど。

萩原

この場所に惹かれたのには3つの理由があります。
ひとつは、たとえば山形鋳物の鉄瓶のようなすばらしい伝統産業を、
色やカタチを変えるという方法ではなく、使い方やその良さを伝えることで
流通の仕組みを支えたいという思い。
2つめは、D&DEPARTMENTのナガオカケンメイさんとの出会い。
3つめは、スウェーデンの大学に留学したときの経験です。
卒業生が無料で使えて弁護士や税理士のサポートを受けながら
起業準備ができる部屋があり、おのずとひとが育つシステムが整っているんですよ。
そうすると、10年、15年経つと彼らが先生として戻ってくるんです。
東北唯一の芸大を持つ山形で、さらにぼくらがまちとモノ、ひとをつなげることで、
この「まなび館」がそんな場所になればいいなって、そんな夢を描いたんです。

山崎

ひとが集まり、さらに若いひとのはたらきを生む場にもなるわけだ。
行政にとっても一石何鳥にもなる、いいアイデアのように思えますけどね。

(……to be continued!)

物産紹介室

物産紹介室。萩原さんが代表をつとめるデザイン事務所コロンがセレクトする、山形を中心とした東北の物産、そして山形の伝統工芸をあらたに解釈し直したオリジナルデザイングッズが並ぶ。

「kibiso」のストール

「kibiso」のストール。「きびそ」とは、蚕が最初に吐き出す最初の糸のこと。太くてかたいためこれまでは繊維として利用されず廃棄されていたが、鶴岡織物工業組合が「kibiso」としてブランド化。「市の施設なので、市外産の商品を扱うのは、なかなかハードルが高くて大変でした」と萩原さん。

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山形まなび館・MONO SCHOOL

県下初の鉄筋コンンクリート学校建築として、昭和2年に建てられた「山形市立第一小学校」が、約80年間の小学校としての役目をまっとうし、平成22年4月に「ものづくり支援」「観光交流」「学び舎」の拠点として生まれ変わった。

住所:山形県山形市本町1-5-19

TEL:023-623-2285(管理事務室)

開館時間:9:00〜18:00(交流ルームは〜21:30)

休館日:月曜(祝の場合は翌日)および12月31日、1月1日

Web:http://www.y-manabikan.com/

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TAKAKI HAGIWARA 
萩原尚季

アートディレクター。1976年茨城県生まれ。2000年東北芸術工科大学を卒業後、同大学の大学院に進学。スウェーデンへの交換留学経験から2001年デザイン事務所「コロン」を立ち上げ、2010年「株式会社コロン」となる。同年、山形市立第一小学校旧校舎活用の委託業者に選定。4月「山形まなび館・MONO SCHOOL」としてリニューアルオープン、その運営方法で2012年度「グッドデザイン・ベスト100」を受賞した。

Web:http://www.colon-graphic.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

『2年目の3.11 南三陸町からの手紙』

それぞれの2年目を綴った、南三陸町発の書籍が刊行。

三陸リアス式海岸の南端に位置する、宮城県本吉郡南三陸町。
空と海が溶け合うかのような美しい景観と、新鮮な海の幸——
人々の暮らしは、美しく豊かな海を中心に営まれてきた。
その南三陸町を、千年に一度といわれる大津波が襲った東日本大震災。
住宅の7割近くが流されるなど壊滅的な被害を受けたまちは、
2年経った今、瓦礫の多くが処理場に運ばれ、建物の基礎だけが残る更地が目立つ。

出版プロジェクト「南三陸町からの手紙」がスタートしたのは、
発起人である南三陸町の漁師である高橋芳喜さん・高橋直哉さんの
「今の気持ちをなんとか、かたちに残さなければ」という震災直後の思いがきっかけだった。
「震災発生直後、幼なじみと再会したときに『嫁さんがいない』と聞きました。
必死に探したのですが、見つからず、泣き崩れている友人が漏らした言葉が
『この感情を忘れるのが辛い』ということだったんです」(芳喜さん)
その言葉を聞き、今の気持ちをかたちに残したいと、出版を思いたったという。

しかし、出版に向けて具体的にどのように取り組めばよいのか——。
途方に暮れるふたりの力となったのが、
「東北復興サポートセンターHamanasu」を主宰する加藤秀視さんだった。
加藤さんは、震災2日後からボランティアとして被災地に入り、
南三陸町を支援の中心地と決め、サポートセンターを立ち上げて活動していた。
人材育成家・社会起業家として著作のある加藤さんに出版への思いを伝えたところ、
加藤さんのブログで版元を募ってくれることになったのだ。

左から発起人の高橋直哉さん、高橋芳喜さん、Hamanasuのスタッフの加藤有美さん。

このブログに対する反響は大きく、多くの出版社が出版を申し出たという。
その中から版元に決まったのは、東京の製本会社・栄久堂だった。
「東日本大震災が起き、我が社としてできることはないかと探していました。
そんなときに加藤さんのブログを読んで、出版の経験はないけれども、
ぜひ携わりたいと思い、メールで連絡したんです」(佐藤さん)
「大手出版社からもオファーをいただきましたが、
栄久堂の佐藤さんのメールがとにかく熱かった。
会社の大小ではなく、被災者の声を真摯に受け止め、届けてくれる人を
求めていたので、栄久堂さんにお願いすることにしました」(加藤さん)

こうして、出版プロジェクトに賛同する写真家・デザイナー・編集者が集まり、
南三陸町に暮らす人々22人が自ら綴った文章は、本というかたちになっていった。
集まった文章は、震災時の極限状態の体験、大切な人を失った悲しみ、
全世界からの支援への感謝など、震災を体験した人の思いが率直に綴られたもの。
こうした生の声をそのまま伝えるために、編集やデザインの過程では、
文章にできる限り手を加えず、本としても作為のないものにすることが心がけられた。
『南三陸町からの手紙』が出版されたのは、震災から1年後の2012年3月。

発起人の高橋芳喜さんは、本が届いた日に幼なじみの奥さんの墓前に本を供えた。
「自分たちの思いを残したいと思ってスタートしたことがかたちになって、
まずはそれを一番報告するべき人のところに行ったんです」(高橋芳喜さん)

『2年目の3.11』の誌面。言葉が丁寧に綴られている。このページの写真はブルース・オズボーンさんが撮影。

2年経った今、浮き彫りになっている困難、悩み、そして感謝。

本が出版されると、予想以上の反響があった。
芳喜さんは、南三陸町を訪れるボランティアの人々から、
「この本がきっかけで南三陸町に来ました」と声をかけられたという。
監修を務めた加藤さんのもとにも、
「頑張って下さい!」「私もできることを続けていきます」
といった応援メッセージや感想が届いた。
特に、被災地の現状を知らなかった人たちからの声が多かったそうだ。

そして、出版から半年が過ぎた頃、版元である栄久堂から、
「このプロジェクトを1年で終わりにしたくない。2冊目も作りましょう」
という申し出があった。
1冊目はメディアなどにも取り上げられ、多くの人が読んでくれた。
けれども、これで終わってしまっていいのか、常に考えていたという。
震災から時が経つにつれて、被災地についての報道は少なくなっている。
南三陸町の人たちは、復興についてどう考えているのだろうか?
そう考えた制作スタッフは、南三陸町のHamanasuを再び訪ねた。
そこで、いまだ復興とはほど遠い光景を見て、改めて2冊目への思いを強くしたという。

高橋芳喜さんは「1冊目はとにかく残したいという一心でしたが、
徐々に変化していく南三陸町を伝えていけるのは嬉しいと思いました」と言い、
さらに「復興に向けての具体的な動きなど、
1冊目には書くことができなかった内容も書けると思いました」と続けた。
また、加藤さんは、継続的に支援を続けていくことが困難になりつつある今だからこそ、
メッセージを発信する意味があると感じたという。

東北復興サポートセンターHamanasuスタッフと支援者の皆さん。前列右から3人目が加藤秀視さん(写真:野寺治孝)。

こうして、2012年秋、2冊目に向けての制作がスタートした。
発起人の高橋芳喜さん・高橋直哉さんは、震災から1年以上が経ち、
再び漁師として海に出られるようになってきていた。
ワカメやホタテの収穫のかたわら、まちの人たちに原稿を依頼する。
2冊目の『南三陸町からの手紙』に原稿を書いてくれたのは、
南三陸町に暮らす人を中心に、南三陸町を離れた人、
そしてボランティアで訪れる人など22人。
住宅の高台への移転について、計画されている防波堤建設について、
そしてボランティアのあり方について――。
震災から2年が経った今、浮き彫りになっている困難、悩み、そして感謝が、
それぞれの率直な言葉によって綴られている。
「1年目とはまた違った、被災地のリアルな声に、
やはりメッセージを伝えていく必要があることを再認識しました」(加藤さん)

復興に向けての歩みを残していくために。

震災当初は南三陸町にあり余る程存在したというボランティア団体も、
2冊目が完成した今は数える程に減り、その活動の頻度も月に数回程度になった。
芳喜さんは、ボランティアに来てくれる人からは
「もっと復興がすすんでいると思いました」と声をかけられることが多いそうだ。
「どうやら、周囲からは復興が進んでいると思われているようなんです。
そういった状況を考えると、やっぱり現状を知ってほしいなと思います。
だからと言って、もっと援助してくださいという意味ではないんですけれど。
とにかく知ってほしいという気持ちですね」

こうした現地の人々の思いを受け、この被災地発の出版プロジェクトは、
今後も毎年1冊ずつ本を出し続けていくことが予定されている。
1冊目と2冊目の監修者である加藤さんは、
「今後、被災地からメッセージを発信したいという想いがある限り、続けていきたい。
その声をひとりでも多くの人に届け、支援の輪を広げていきたい」と話す。

1冊目には震災で失われたものの大きさが、
2冊目にはふるさとの復興に向けてそれぞれが思い描く未来が、
南三陸町の人々の言葉で綴られた。
3冊目、そして4冊目には、どんな内容が綴られるのだろう。
そして、その頃、被災地はどうなっているのだろう。
『2年目の3.11 南三陸町からの手紙』には、こんな一節がある。
「震災前のきれいだったこの町を見せたい」
「震災後、皆さんの支援のおかげで立ち直ったこの町を見せたい」
美しく豊かな海のもと、輝きを取り戻した南三陸町の姿が見られることを、
まちの人も、プロジェクトのメンバーも、そして読者も、みんなが願っている。

発起人のひとり・高橋芳喜さんがホタテの収穫を終えて港に戻って来たところ。今では毎日漁に出られるようになった。

長野 Part4 企業でも組織でも個人でもない、 はたらきの場。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
長野編・目次

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はじまりは、2009年。長野市の善光寺門前町に位置する古い建築物のリノベーション。
建築家、編集者、デザイナーの7人でまちづくりを考える、「ボンクラ」という、
ちょっとふしぎな名前の異業種ユニットを訪ねました。

グループだけど、一枚岩じゃない。

山崎

この「KANEMATSU」を5年間とんでもなく安い賃料で借りて
運営することになったボンクラのメンバー7名は、
どうやって決まったんですか?
太田さんと広瀬さんとのあいだには、
親子ほどの歳の差があるということですけど……。

太田

飲み会に居合わせたメンバーです(笑)。
ぼくはその日、新潟にいたんですが、
宮本さんから「今晩飲むけど」という電話を受けて、
なんだかすぐ帰らなきゃいけない気がして飛んで戻ってきたという(笑)。

宮本

そうそう、小布施ミニマラソンの打ち上げでビアガーデンに行ったときだ。
厳密にはそれ以前にも何度かミーティングのようなことはやっていたんですけどね。

山崎

伝説の飲み会になってしまったわけだ(笑)。
で、そのビアガーデンに居合わせた7人が、
ボンクラというLLP(有限責任事業組合)を結成するんですね。

広瀬

そうです。ただの仲良しグループではなく、
きっちり継続していこうよという約束のような
ケジメのような意味合いでハンコを捺しました。
ボクが喜寿(77歳)になるまで、と契約書に記しています。

宮本

その延長として、いつかは
「楽しいことやって儲かるようになったらうれしいね」と。

山崎

なるほど。賃貸契約もまずは5年という制限があるわけですから、
LLPというのはいい選択でしたね。

宮本

それぞれが自立していながら、ときどきお互いに手伝いながらはたらける、
いい関係がつくれていると思います。
企業でも組織でも個人でもない、その中間のような「はたらきの場」。

広瀬

つまり、グループだけど、一枚岩じゃないんです。
しごとも、地域との関わりも、全員一丸ではなく、
プロジェクトごとに、できるひと、やりたいひとが
個別にフレキシブルに機能するようなイメージですね。

山崎

あるプロジェクトではリーダーを務めるひとが、ほかのプロジェクトでは
当日会場の椅子を並べるだけのこともある、ということですね。
でも、ボンクラ全体としては「関わってる」。

広瀬

これからはそういう時代だと思っています。

薪窯のピッツェリア「TIKU - 」

「KANEMATSU」のすぐご近所。仙台で修業後、長野にUターンした店主が、2012年の3月11日に開業した薪窯のピッツェリア「TIKU - 」。

なんでもない古民家を改装した店内。席数は決して多くないので、お昼どきには行列もできる。仲介は、もちろん「MYROOM」の倉石智典さん。

「しふぉん菓恋」。2011年11月の開業

「TIKU - 」のお隣に、仲良く並ぶのは「しふぉん菓恋」。2011年11月の開業。ふんわりやさしい味わいで、門前のケーキ屋さんとして親しまれている。

この「場」のポテンシャルをもっと生かして。

山崎

たとえば、田中陽明さんが春蒔プロジェクト(*1)を始めた当初も
そんなふうに始まったと記憶していて、同時代性を感じます。

宮本

そうなんです。ボンクラを始めようというタイミングで、
足を運んだBankARTのイベントで同じテーブルを囲んだのが、
春蒔プロジェクトの田中陽明さん、東京R不動産の馬場正尊さん、
紺屋2023プロジェクトの野田恒雄さんというスゴいメンバーだったんです。
とはいえ、当時のぼくらは、彼らのことを全然知らなかったんですけれど(笑)、
それをご縁にいろいろ相談にのってもらいました。

山崎

まさに、春蒔プロジェクトとR不動産を
足して2で割ったようなイメージですもんね。

太田

みなさんとはなしたことは、すべてが目からウロコでしたね。
それまでモヤモヤと考えていたことが確信に変わり、
「1秒でも早く長野に帰って、ぼくらも始めなくちゃ!」
という気持ちになりました。

山崎

地の利を考えれば、いまでは馬場さんのほうがうらやましがるかもしれませんね。
長野のこのまちを拠点に、東京とは違う仕組みがつくっていけたら、さらにいい。

太田

そうですね。ぼくらももう4年目ですから、
そろそろ次のステップを考えなくては、というタイミングです。

広瀬

5年後のことを考えないとね。
ここまでやってきて、実際にまちが動いたという手応えがあるので、
続けていきたいなあとは思っています。

宮本

「KANEMATSU」のポテンシャルは、こんなもんじゃないぞ、
と思っていますから(笑)。

太田

うん、ことしはさらにがんばりますよ!

山崎

たのしみです!

*1 春蒔プロジェクト:「co-lab」というクリエイターのシェアードコラボレーションスタジオを企画運営しながら、この集合体をクリエイションシンクタンクとし、企業や商品の主にデザインによるブランディング業務を請け、クリエイティブディレクションするプロジェクト。主宰・田中陽明。http://co-lab.jp/

セルフリノベーション中の物件

セルフリノベーション中の物件。落書きにひかれて声をかけてみたら、「上階に住んでます」という大学生の男の子が生活している部屋まで見せてくれた。

「KANEMATSU」の天井を支える太い梁

「KANEMATSU」の天井を支える太い梁。100年という長い年月の重みをずっしりと感じる。

山崎亮さんと広瀬毅さん

広瀬さんは、山崎さんが講師をつとめる「東京芸術学舎」のプログラム「ふるさとという最前線」の生徒さん。「喜寿を迎えるまで、このままたのしいことを続けていられるようにがんばりますよ」

information

map

KANEMATSU

長野県善光寺門前に位置する建物。倉庫として使われていた3つの蔵を、鉄骨や木造の平屋でつなぎ、現在は、ここをプロデュースするクリエイティブユニット「ボンクラ」のシェアオフィスのほか、カフェ、古本屋、不動産屋などが入居する。

住所:長野県長野市東町207-1

Web:http://bonnecura.naganoblog.jp/

profile

TAKESHI HIROSE 
広瀬 毅

1961年石川県金沢市生まれ。横浜国立大学工学部建築学科を卒業。長野で設計事務所に勤務の後1998年に広瀬毅|建築設計室を設立。長野県建築士会まちづくり委員長。2009年に「LLP.ボンクラ」を7人の仲間で立ち上げ、事務所を長野市善光寺門前の工場として使われた古い倉庫「KANEMATSU」に移転。ストックを生かす建築のあり方を模索している。また中山間地のコミュニティのこれからを考えるうちコミュニティ・デザインに出会う。東京芸術学舎の山崎亮氏の講座を受講し、さまざまな地域の人々と交流を深めている。代表作に『霊仙寺の家』(長野県建築文化賞最優秀賞/飯綱町)、『仙仁温泉岩の湯』(須坂市)。リノベーションでは『リプロ表参道』(長野市)、『日和カフェ・まちなみカントリープレスオフィス』(長野市)などがある。

Web:http://hirose-aa.com/

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NOBUYUKI OTA 
太田伸幸

1981年長野県上田市(旧丸子町)生まれ。美容室、建築関係、デザインプロダクション勤務の後、 2008年マンズデザイン主宰。広告のデザイン・アートディレクションの他、長野市内中学校への 美術授業ボランティア、地元の芸術家とともに地域と関わるアート活動企画・主催。2009年~シェアオフィス「KANEMATSU」協同運営。

Web:http://www.manz.jp/

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KEI MIYAMOTO 
宮本 圭

1970年長野県生まれ。工学院大学工学研究科建築学修了後、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、シーンデザイン一級建築士事務所を設立。建築とその周辺にあるものを面白く結びつけていくためのプロジェクトに多数携わる。ツリーハウスプロジェクト、絵馬プロジェクトなど。2009年に有限責任事業組合ボンクラを立ち上げ、善光寺門前にある素敵な古い建物で、建築家・編集者・デザイナーが集まり、単なる建築の再生だけでなく、地域やコミュニティの再生も視野に入れたプロジェクトカネマツを実践中。

Web:http://scenedesign.jp/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

TOmagazine No.01

東京都『TOmagazine』
発行/アラヤジャパン

毎号、東京23区のどこかひとつの区をピックアップし特集していく、全23号完結型のタウンマガジン。創刊号は足立区を特集。区内の隅々までを歩き、日常の目線からまちの新鮮な表情を切り取った巻頭特集、区内で活動する日本屈指の家電蒐集家や日本最古参の女子プロ団体にインタビューした第2特集、足立区にまつわるさまざまなトピックをあらゆる角度から徹底検証した雑学ページなど、これまでにない足立区総特集の1冊となっています。

TOmagazine
http://www.facebook.com/TOmagazine.tokyo

全92ページ

本体1000円+税

発行日/2013.2

“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト” Amo estas Bluaトートバッグ

気仙沼の港町を心の片隅に感じて。

いまだ瓦礫の残る気仙沼の港町から車で10分ほど走ると、
帆布バッグ工房「MAST帆布 KESEN-NUMA」に辿り着いた。
ガラス戸の向こうでは職人さんたちがミシンを操るのが見える。
「遠いところをわざわざ来てくれて。風が強くて寒かったでしょう」
笑顔で出迎えてくれたのは、店主の宍戸正利さん。
陽だまりが暖かな店内には色とりどりの帆布バッグや小物が並び、
時おりひょっこりとお客さまが訪ねてくるなど、和やかなムードが漂う。

トートバッグの試作品第1号を手にその特徴を話す宍戸さん(2012年7月)。

この工房でつくられているのが、『Amo estas Blua トートバッグ』。
上質な帆布の白生地に青のボーダー刺繍が鮮やかに映える、
一泊二日の小旅行にも対応できるお洒落なトートバッグだ。
デザインは作家でアーティストの小林エリカさん、
グラフィックデザイナーの田部井美奈さん、写真家の野川かさねさん、
イラストレーターの前田ひさえさんの4人による
東京のクリエイティブユニット「kvina(クビーナ)」が手がけた。

「Amo estas Blua(アーモ エスタス ブルーア)」は、
宮沢賢治も愛したエスペラント語で「恋は水色」を意味する。
気仙沼では、朝6時になると港町一帯に防災スピーカーから
「恋は水色」のメロディが響き渡る。
それは、気仙沼の人々にとって忘れがたい原風景でもある。

気仙沼港近くの市街地。更地につくられた慰霊のための広場「風の広場 グラウンドゼロ」。

『Amo estas Blua トートバッグ』は、
“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト”から生まれた。
仙台の編集プロダクション「シュープレス」が震災後から続けている活動だ。
当初は、被災地の情報発信や義援金・復興支援金の募金活動などを中心に行っていたが、
数々の活動を通して行き着いたのは、被害の少なかった東北の中心都市から
被災地を経済的に盛り上げていく仕組みの必要性だった。
そこで、世の中にない新たな商品を生み出して東北の魅力を発信することで、
「東北を旅して、東北のものを買ってもらう」仕組みをつくり、
被災地の経済を活性化する一助になればと思い至った。

シュープレスとクビーナが出合ったのは、2011年4月のこと。
“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト”の主旨に共鳴した、
シュープレスのスタッフの友人であった東京の編集者・高橋亜弥子さんが、
シュープレスと、クビーナとを結んだ。 
世の中にない商品を東北から生み出すことは、小さな「希望」を生み出すこと。
大好きな東北を応援し続けたい。
その思いはクビーナの感性によってより洗練され、
エスペラント語で「東北が好き」を意味する、
“Mi amas TOHOKU(ミアーマストーホク)”のグッズ販売へとつながっていった。
活動に賛同した全国の雑貨店にてグッズの販売を始めると好評を博し、
徐々に雑誌などでも取り上げられるように。売上げの一部は、
義援金として日本赤十字社や被災3県などに送る活動を続けた。

仙台から東京へ、支援の輪は着実に広がりをみせ始めていた。

“Mi amas TOHOKU”(ボーダーこけし、ステッカー、エコバッグ)のグッズ。売上げの一部を被災地への義援金・復興支援金として寄付している。

2012年5月、“Mi amas TOHOKU”第2弾となる、
「海辺の町へ」と題された新たなプロジェクトが始動した。
震災で甚大な被害を受け、1年経っても未だ復興の進まぬ東北沿岸部。
取材で幾度となく足を運び多くの人にお世話になったこの地域の人々とつながって、
長く支援していく方法はないか——。

「あの日のことを忘れず、沿岸部のまちとつながって、心に『海辺のまち』を感じていたい」
こうした思いから『Amo estas Blua トートバッグ』のコンセプトが生まれた。
しかし、かたちにするのは容易ではなかった。まず、バッグをつくる店が見つからない。
そんな時、シュープレスの板元義和さんは、ふらりと立ち寄った、
「気仙沼鹿折 復興マルシェ」で「MAST帆布 KESEN-NUMA」の帆布バッグと偶然出会った。
丁寧な仕事ぶりに一条の光を見た思いで後日、企画書とデザイン画を持って工房を訪れた。

自宅を工房に改装して制作している「MAST帆布 KESEN-NUMA」。

海辺のまちへ。いくつもの出会いが復興へとつながっていく。

当時のことを宍戸さんは振り返る。
「こういう依頼は初めてだったので、最初は戸惑いました。
けどね、デザインもカッコよかったし、コンセプトも面白かった。
なにより新しい試みにワクワクしたんです。だから、やってみようと思いました。
相手がかばんのことを知らなくても私は知ってますから。そういう意味で不安はなかった」
おおらかに笑う宍戸さんだが、震災の折に店を流失。
1年かけて自宅隣の倉庫を改造し、2011年3月に新たな工房で再スタートを切ったばかりだった。

震災前「MAST帆布 KESEN-NUMA」があったエースポート周辺(2013年2月)。

宍戸さんは、父が創業した船のカバーなどを扱う「菅原シート店」に長く従事。
小さいころからミシンと生地に囲まれた環境で育ち、ものづくりが好きだった。
ほどなく独立した宍戸さんは、
2009年6月、港に近い場所にミシン1台と生地台ひとつを持ち込み、
「MAST帆布」を開業。ひとりでコツコツと帆布バッグをつくり始めた。
やがて帆布バッグの店は評判を呼び、テレビの取材なども訪れてくるように。
だが、確かな手ごたえを感じ始めていた矢先、津波が店を襲った。

「その日はテレビの取材が入ってました。
タレントさんのオリジナルキーケースをつくっていて、
1時間ほどで取りに来るという話でしたから、
地震が起きた後も待ってないといけないかなと思い、しばらく残っていたんです。
まちは消防車のサイレンと、道路の亀裂から溢れる水の音しかしない。
それ以外はシンと静まり返っていたことを今でもよく覚えています」

気仙沼の鹿折地区は特に被害の大きかった地域。この通りを抜け宍戸さんは店から自宅へ戻った。

30分近く店にいただろうか。しだいに不安になってきた宍戸さんは避難を開始。
まず、両親の店を訪れ、ふたりが避難したことを確認したあと自宅へ戻った。
余震が続くなか、何も情報を持たぬまま店へ片付けに行こうとした宍戸さんが目にしたものは、
鹿折小学校まで流失してきた瓦礫で塞がれた道路と炎で真っ赤に染まる鹿折のまちだった。

ああ、店はもうないんだ。宍戸さんは来た道を引き返した。

被災後、1か月ほどで宍戸さんは倉庫を片づけはじめた。
とにかく、仕事がしたかったのだ。
だが、結局実際に仕事を再開できるまでには準備期間を含め、1年もの歳月を要した。
ようやく仕事を再開した宍戸さんに舞い込んできたのが、
『Amo estas Blua トートバッグ』づくりだった。
それは、ひとりでバッグをつくり続けていた宍戸さんにとって、
誰かと何かを始める、初めての試みだった。

東京の編集者・高橋亜弥子さん、シュープレスの本間さんと念入りにトートバックの打ち合わせをする宍戸さん(2012年7月)。

『Amo estas Blua トートバッグ』は、8月に京都で行われた東北復興応援のイベント、
「Mi amas TOHOKU 東北が好き—kvina×SHOE PRESsの東北案内」
でのお披露目が決まっていた。
「いいものをつくりたい」という目的はひとつだったが、
互いの意見を尊重しこだわるほどに時間は過ぎていく。
生地選びから難航し、本体を製作し始めたのがすでに7月。
8月のイベント開催が近づくなか、クリアしなければならないことがあった。
デザイン画では青のボーダー部分は、当初「染め」ることになっていた。
だが、「Amo estas Blua」の文字部分は青い刺繍を施すことが決定しており、
「染め」では刺繍糸と同じ風合いは出ず、全体のバランスがどうしても悪くなる。

ひとつひとつ手作業で丁寧に制作するのが、MAST帆布の基本。

皆が考えあぐねていたとき、宍戸さんが提案した。
同じ色の刺繍糸でボーダー部分のみを別の布に刺繍し、バッグ本体に取り付ければいい。
果たして、刺繍を入れたバッグとそうでないものの仕上がりは一目瞭然だった。
寸分違わぬ青い横縞は美しい光沢を見せ、「Amo estas Blua」の文字を引き立てている。
誰もが職人の施したプロフェッショナルな仕事ぶりに感服した。
こうして出発日ギリギリに完成した『Amo estas Blua トートバッグ』第一号は、
宍戸さん自身の手で梱包され、シュープレスとクビーナ、MAST帆布、
それに関わるすべての人々の希望を乗せて、
京都行きの最終電車でイベントの会場へと旅立っていった。

Amo estas Blua トートバッグは、シュープレスのホームページで購入可能。

「やっぱりうれしかったですよ。誰かと何かをつくるって楽しいですからね。
そりゃ、大変なこともあるでしょう。
でも、ひとつひとつクリアしていけば、必ずできますから」

“ひとつひとつクリアしていけば、必ずできる”。
宍戸さんの言葉は深く、東北沿岸部の復興への兆しを感じる力強さを感じた。
仙台—東京—気仙沼、そして京都へ——。
“Mi amas TOHOKU=東北が好き”という素直な気持ちをまっすぐに謳った、
“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト”は、
新たな出会いをつなげ、全国へと広がっていく。

「MAST帆布 KESEN-NUMA」のスタッフのみなさん。

information


map

MAST帆布 KESEN-NUMA

住所 宮城県気仙沼市西中才275
電話 0226-29-5566
http://masthanp-kesennuma.com/
※「Amo estas Blua トートバッグ」
2012年夏より販売をスタートシュープレスのHPにて購入可能。
http://www.shoepress.com/archives/2355

profile

kvina
クビーナ

作家、デザイナー、写真家、イラストレーターの女性4人が集まったクリエイティブユニット。
http://librodekvina.com/

梅原 真さん

現場で答えを出していれば、デザインにNGはない。

日本の地域にある物産や観光をテーマにしたデザインワークを手がけ、
数多くのデザイン実績はもちろん、テレビや講演、インタビューなどに登場し、
“その道”の先導者として支持を得ている高知県在住の梅原真さん。

彼はグラフィック&プロダクトデザインによって、
日本の豊かな地域文化や風景を保全するという、
デザインの新しい力を内外に示した人物。
彼がデザインへ向かう姿勢は「風景を残すための仕事」だ。
この“ローカル・デザイン”の第一人者が生まれるきっかけは、“かつお”だった。

かつて一本釣りのかつお漁船は、効率の点で、巻き網漁船に押されていた。
全体の漁獲高も減少しているなかで、巻き網で獲れたかつおの
3倍の値段をつけないと成り立たないような状況だった。
そこでデザインの力でなんとかしよう思った。

「一本釣りの風景がなくなるのはイヤだったんです。
高知の意味がなくなってしまいますよね」と、梅原さんは関わりを持ち始める。

生まれた商品名は「土佐一本釣り・藁焼きたたき」。
キャッチフレーズは“漁師が釣って、漁師が焼いた”。
「“土佐のたたきはおいしいよ”ではデザインではないんです。
だからといって、変に洒落た言葉も漁師のイメージとかけ離れてしまう。
“漁師が釣って、漁師が焼いた”はそのまんま。
デザイン過多だと、さかながおいしくならないんです」

梅原さんの代表作となったパッケージ。派手なルックスが遠くからでも映える。写真提供:梅原デザイン事務所

これが8年間で20億円を売り上げる地場産業に成長した。
こうして梅原さんは「デザインで風景を保つことができる」という体験をした。

梅原さんは仕事を受けるときに、
まずは相手の「根性とやる気と本気度」を見る。
「人間っておもろいもんで、顔見て、話を聞けば、1分でわかる」らしい。
そしていざ仕事を受けたら、まず現地に赴く。
行ってみて、ひとと会わないとわからない。
そこをショートカットすることはできない。

梅原さんの目には、
このあたりを安直に考えてしまうデザイナーが増えてきたように映る。
「“農作物にちゃちゃっとデザインしたらいいでしょ”
みたいなものがたくさんあります。
第一次産業に簡単にデザインつけてね」
たしかにこの“地場デザイン業界”を先導してきたのは梅原さんだろう
(本人がどう思うかは別にして)。
「だからこそ、何でもかんでも真似したらいけない」と
警鐘を鳴らすのも梅原さんの役目。

地酒や地鶏ではなく、地栗。この商品は栗の危機を救い、いまでは栗の木を植える活動まで発展した。

梅原さんのクライアントである漁師や農家から、
デザインに対してダメ出しされることはほとんどないという。
それは何度も現場に行って、コミュニケーションを重ねているから。
「ココをこうしたほうがいいと、現場でディスカッションしているうちに、
デザインができてしまう」のは、梅原さんにとって当たり前。
答えはその現場で出すべきのだ。
その作業を怠り、
東京の事務所のパソコンで「ちゃちゃっとデザインしよう」としても、
いいものは生まれない。

そして、ローカルに住んでいることも重要だと語る。
「ぼくは1日3回、家でごはんを食べる。
川沿いの、景色がいい場所に住んでいて、自分の畑で野菜を育てている。
こういう自分の環境と普段の生活が、マーケットの素。
体内マーケティングと呼んでいます」

だから、お決まりのマーケティングは必要ない。
これは「六本木や渋谷のデザイナーにはできない」芸当だ。
普段の生活が、マーケティングの素であり、それはデザインの素。
もし東京から地元に帰ってきて、
ローカルで仕事をしたいと思っているデザイナーがいたら、
「その感覚を得るのに少し苦労するかもしれない。
でも早く“まっとうな生活”に戻れば大丈夫」ともいう。

トイレットペーパーのようなルックスの「土佐まき和紙」は、長く伸して巻物のような使いかたもできる。

考え方をデザインしていく。

すでに梅原さんの頭の中は次へシフトしている。
問題を解決することがデザイナーの仕事ではないか、
というモチベーションが新たなる地平へと進ませている。

そのひとつとして現在動き始めているのが「東北新聞バッグプロジェクト」。
もともと四万十ドラマという会社が古新聞を利用して制作していた新聞バッグ。
これは仮設住宅に住んでいるひとたちがつくるのに適している。
それを売ってお金にすることで「つくる仕事をつくる」ことができる。
その仕組みづくりも、デザイナーである自分の仕事ではないか。

まずは高知銀行に話をして、貯金をしたひとなどへのノベルティ用として、
大量に買ってもらうことにした。これは東北と銀行をつないでいくコミュニケーション。
この仕組みを利用すれば、高知銀行だけではなく、
その名前が他の大手企業に代わっても構わない。
高知銀行に依頼されて始めた仕事ではなく、システムをつくり、
高知銀行に提案したというプロジェクトなのだ。

震災からちょうど2年後となる、今年の3月11日からスタートするプロジェクト。写真提供:梅原デザイン事務所

パッケージや表面的なところではなく、
「考え方をデザインしていく」というフェーズに役割が移ってきた。
対象物をデザインするのではなく、ゼロからデザインを生み出していく。
矛盾しているようだが、梅原さんのデザインの役割は飛躍していく。

最初に戻る。
梅原さんがやりたいことは、風景を残すことだ。
彼は風景を、「豊かさの度合いを計るメジャー」だという。
「一体どんな暮らしをしていて、お金をどのように考えて、
何がどのくらい大事かということを風景が物語っている」

もちろん豊かな風景を残していきたい。
「僕はよくフランスに行きますけど、
長距離電車に乗っていて、いやな風景はないですね。
でも東京から京都に新幹線で移動する外国のツーリストは、
いかにいやな風景を見せられることか。
美しい富士山の手前には、無機質なパネル住宅や工場。
とても違和感を感じます」
例えばフランスは石の家と煙突、教会にステキな木、そして羊という農村風景。
これらは法律で定められていることだから、変なものは建てられない。
すると農業政策と観光政策が横にリンクしていく。
日本では、観光面では美しい里山の風景を残そうとする一方、
効率化を目指した農業を推進する。
「これでは何の意味もない」と梅原さんがあきれるのも理解できる。

かつてはすべて東京がやっていた。
地方のまちづくりすら東京がやっていた。だから青森と高知が変わらない。
こうなったのも「ローカルが自分たちの考えを持たず東京に委ねてきた」からだ。
地域のものを、個性ではなく、コンプレックスだと思ってしまっていた。
「こちらに考えがないとどうにもならないということを、
やっと気がついてきたと思います」。

例えば砂浜美術館。
梅原さんが25年前に手がけた、砂浜に大量のTシャツを展示し、
美しい砂浜そのものを美術館にしてしまうプロジェクトだ。
当時、大方町(現・黒潮町)の職員は、この砂浜に対して、
「これがある!」ではなく「これしかない」というネガティブシンキングだった。

“リゾート開発したほうがいい”などの意見に押しつぶされそうになったが、
今となっては「砂浜美術館のような考え方を持つまちが誇らしい」という
意見が出始めた。時間はかかった。

梅原さんの肩書きは、正直、もうよくわからない。
デザイナーではあるだろうが、
本人は「問題解決するひと」がデザイナーだという。
ローカルから始めて、ローカルの問題を解決していくべきなのだろう。
そんなデザインが梅原さんの作品には込められている。

長野県小布施町にある小布施堂がはじめた実験カフェ「えんとつ」の「栗ビスコッティ」。

肘折温泉vol.2 肘折の新しい観光ルート探し

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
第2回は、「肘折の新しい観光ルート探し」について。

知らなかった肘折の土地に眠る歴史。

「最初に肘折温泉に来たとき、偶然カモシカに会ったんです。
都会で生活していると、カモシカと目が合うなんて機会ないじゃないですか。
豊かな自然がそのままの姿で残っているんだとすごく感動したのを覚えています」
出羽三山を拠点に山伏の修行を積む坂本大三郎さんは、
肘折温泉を訪ねては、周辺の山を歩いていた。
昨夏、肘折温泉で開かれたイベントに参加(Local Action #007)して以来、
地元の人々との交流が始まった。

「ぼくは、とても古い時代の山伏の文化にひかれています。
人々が自然を慈しみ、崇拝していたなかで、
自然の知識を豊富に持ち、そのはたらきを理解して
自然と人間社会との間の伝道師的な役割を担っていた人々がいた。
彼らが、山伏の祖先と言われています。
ぼくは彼らと同じように山のなかに入り、自分の身体を通して、自然と向き合ってみる。
そうすることで、現代の僕たちが学びとれるものがあるんじゃないかと考えています」

「最初に肘折に来たのは、いい温泉があると聞いたからなんです。ぼくは温泉が好きなので」とはにかむ大三郎さん。

そば処寿屋四代目の早坂隆一さんも、大三郎さん同様、昨夏のイベントで
ゲストパネラー(Local Action #007)として参加したひとり。
東京でIT関係の仕事に就いていたが、家業のそば屋を継ぐため肘折へ戻ってきた。
現在は、肘折青年団団長を務め、地元で暮らす若者たちと新しい活動を展開している。
「山伏って聞いても、正直、伝説みたいな話だと思っていましたね。
『肘折さんげさんげ』のときに白装束の姿を見たりするくらいで、
月山への修験道のことだって、僕たちにとって身近ではなかったな」

「肘折さんげさんげ」の様子。

「さんげさんげ」とは、羽黒山を含む出羽三山に古くから伝わる越年行事で、
肘折温泉では、毎年1月7日に白装束を着た地元の住民らが
法螺貝を吹いて肘折温泉街を練り歩き、無病息災・五穀豊穣を祈願する。
また、開湯1200年と言われる肘折温泉が
宿屋としての許可をもらったのは、室町時代の明徳元年(1390年)のことで、
月山登拝道としての「肘折口」が開かれた翌年と記録がある(『大蔵村史』より)。
かつては月山信仰の修験者も多く集まったという肘折温泉。
いまも登拝口はあるが、地元の人が登ることは少ない。

「ただ、大三郎さんから『ヒジリ』と『ひじおり』の関係(Local Action #007)を
聞くと、なんだか山伏が急に身近なものになってきて、
古い文化が残っていることが面白いなと思い始めました。
『肘折さんげさんげ』のような、地域で受け継いできた行事も、
単なるイベントとしてではなく、
文化として続いてきたことなんだという、意識が生まれてきました」

大三郎さんの話は、自分たちの知らない肘折を教えてくれる。
それが、とても楽しいという。

「大三郎さんの話を聞いて月山に登ると、昔の人もこの山道を通っていたのかと遠い昔に思いをはせてしまいますね」と隆一さん。

その後も、大三郎さんが肘折にくる度に読書会を開いたり、
大三郎さんと一緒に肘折の有志で月山に登ったりしたという。
「肘折の人たちと一緒に山を登ると、
いろんなことを教えてもらえるんで僕もすごく楽しいんです。
この土地で暮らすみなさんから、言い伝えだとかを聞くうちに、
それまでは知識として知っていた山のことが鮮明になっていく。
山の姿が、また違うものに見えてくるんです」(大三郎さん)

肘折温泉を流れる銅山川。中央に見えるオレンジの建物は隆一さんのお店「蕎麦処 寿屋」。手打ちの蕎麦は絶品だ。

ぼくたちの新しい山とのつき合い方。

春になったら、またみんなで登ってみようという話が出ている。
青年団のミーティングを覗いてみた。
みんなそれぞれの仕事を終えて、肘折ホテルのバーカウンターに集まってくる。
ここが青年団のいつものミーティングスペース。
お風呂セット持参のメンバーもいる。
温泉に入ったり、カウンターで一杯やりながらが青年団のミーティングスタイル。
メンバーは、隆一さん(前述)、カネヤマ商店の看板娘・須藤絵梨さん(30歳)、
若松屋村井六助(旅館)の娘・村井里実子さん(33歳)、
隣の集落から肘折の青年部に参加している、早坂 新さん(28歳)、それに大三郎さんが加わり、
つたや肘折ホテル柿崎雄一さん(Local Action #017)がフォローする。

左から大三郎さん、隆一さん、絵梨さん、里実子さん、雄一さん、新さん。ちなみに、肘折温泉では同じ姓の方が多いので、みんな名前で呼び合う。

大三郎

今日、地図持って来たんです。この地図は古いみたいで、
今はもう埋めてしまっていて、無くなっている「しびたり沼」が載っているんです。
肘折の民話に出てくる大蛇がいるっていう沼です。

絵梨

初めて聞いた。そうなんだ、知らないことばっかりですね。

隆一

あ、ここが御池だ。御池には行ってみたいな。
あと、越後さん家の裏あたりに沢があるんだよね。
(地図を指して)ここを登っていったところ。

ああ、ありますね。

里実子

私も、そこらへんすごく気になってた。行ってみたいね。

あと、鉱山の奥のほうに行っても沢ありますよ。小さい頃はよく行ってました。

大三郎

ありますね。道が少し狭くなっていった先に。

そうです、そうです。

大三郎

あと、三角山もぜひ、みんなで登ってみたいんです。

絵梨

三角山、登ってみたい! 頂上まで登ったんですか?

大三郎

こないだは、近くまでいったんですけど、新しい熊の足跡があったから……
急に怖くなって、戻りました。

里実子

大三郎さん、よく、迷いませんよね。

大三郎

勘です(笑)。でも歩いていると、頂上が見えるからそこを目指していきます。
道らしい道はないけれども、わかりづらい場所じゃないですよ。

隆一

三角山は、小学校の窓から見えたもんね。

大三郎

頂上からは肘折温泉もよく見えますよ。

絵梨

えー! すごい。誰かが手ふったらわかるかな。

大三郎

それはぁ……。

隆一

視力次第だね(笑)。

昨年登山デビューしたという絵梨さん。「登山道って登るだけだと思ったら、下りもあるんですね……」というエピソードに一同失笑。終始なごやかな雰囲気。

雄一

今年登るとしたら、雪があるうちに登ったほうがいいな。
4月中旬くらいになって雪が安定すると、
その時期が一番山を歩けるから、どこに行くのも行きやすい。
でも、みんな三角山にはスノートレッキングに行ったよな?

隆一

そうですね。僕らみんなスキー部ですからね。

絵梨

だって、卓球部とスキー部しかなかったから……。

隆一

どっちかに入るしかなかったからね(笑)。
大三郎さんから話を聞くと、自分たちが知っているこのへんの山も
登れるんだなと思いますね。
月山や葉山もいいけど、まずは、そっちが面白そうだなって思いました。

絵梨

そうそう、大三郎さんからこういう話を聞くと、登ってみたくなるよね。

大三郎

日本の登山道って山伏がつくったと言われているんです。
昔は木地師の道とか職業によって道があったといいます。
残っている場所を訪ねるのもいいと思うんですけど、みんなと山に登ることで、
今のぼくたちと山のつき合い方が見つかるんじゃないかと思っています。
聖地と言われる場所は、時代時代でつくられているもの。
みんなと新しい肘折の聖地と言われる場所を探せるんじゃないかなと思っています。

左/肘折温泉から見える秋の三角山。紅葉が美しい。右/ブナの原生林に囲まれている御池。古くはここに龍神がすむと信じられていたという。(撮影:坂本大三郎)。

肘折口から月山登山の途中にある小岳から月山を望む(撮影:坂本大三郎)。

春になったら、みんなはまず最初にどこに登るのだろう。
こんな風に始まっている、肘折の若者たちによる新しい観光ルート探し。
山の話の続きは、いずれまた。
第3回目は、肘折温泉に残る湯治文化と、新しい湯治文化について。

information


map

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

長野 Part3 ツリーハウスが教えてくれたこと。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
長野編・目次

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はじまりは、2009年。長野市の善光寺門前町に位置する古い建築物のリノベーション。
建築家、編集者、デザイナーの7人でまちづくりを考える、「ボンクラ」という、
ちょっとふしぎな名前の異業種ユニットを訪ねました。

シャッターを開けるひとたち。

山崎

テナントの仲間に、不動産屋さんも入ってるんですね。

宮本

そうなんです。これが、ずいぶんニッチな不動産屋さん(*1)で。
普通は貸したいひとがいてしごとが発生しそうなものですが、彼の場合は、
まずはまちを自転車でまわって、空き物件をじぶんで見つけてくるんですよ。
そのあとしっかり調べて所有者を見つけたら、まずはお手紙を出し、
東京だとか横浜だとかにいる大家さんのところに出向いて
「貸していただけませんか」と言いに行くんですよね。
もちろん、いちどだけでなく、なんども。

太田

ぼくらも一時期、R不動産のまねごとというか、
ボンクラ不動産みたいなことをやろうとしたことがあるんですけど、
本職の片手間ではとうてい無理だな、と。

宮本

彼が現れてくれたことで、このまちの動き方やスピードが
まるで変わったな、と感じています。

広瀬

ふつうの不動産屋さんが絶対仲介したがらない物件ですからね。
家賃3万ぐらいの賃貸ですからね、
仲介したって、利ざやなんて出ないのに、ですよ。

宮本

それでも、今後こういうことが必要になってくると
彼は確信をもってやっているので、
ぼくらもどうしたらサポートができるかなって考えているところです。

広瀬

そう考えると、改装費ではなく、むしろ不動産屋さんに
行政の補助金なんかが出るといいのに、と思いますよね。

山崎

そうですね。不動産ではありませんが、たとえば林業組合では、
長い年月を経て曖昧になったり分散したりしている山の所有者に
コツコツとハガキを出し、訪ねてはなしをし、
ある程度一括して組合が管理ができるようにという手続きを
公共の資金で行っている地域があります。
いまのはなしも、理論としてはこれと同じ。
閉じてしまったまちのシャッターを、開けさせるための
基礎合意を得ていくという手続きですものね。

*1 株式会社MYROOM:「KANEMATSU」に入居する不動産屋(代表・倉石智典)。門前町のリノベーション物件賃貸仲介を得意とする。http://myroom.naganoblog.jp/

「Book&Cafe ひふみよ」

北国街道から一筋入った静かな住宅街にある、元酒屋をリノベーションした「Book&Cafe ひふみよ」。2階は和室にこたつというほっこりカフェ。開店までの道のりが、お店のブログにていねいに書かれています。おでかけコロカル・長野編『眺めの良い2階での読書がおすすめ!「Book&Cafe ひふみよ 」』

出版社「まちなみカントリープレス」本社

こちらは、信州のタウン情報誌「KURA」で知られる出版社「まちなみカントリープレス」本社。元は倉庫だった廃屋を広瀬さんがリノベーション。「ここを手がけたことも、ボンクラを始めたきっかけのひとつです」(広瀬さん)。

フリーペーパー「日和」と連動した「hiyori CAFE」

「まちなみカントリープレス」の1階は、フリーペーパー「日和」と連動した「hiyori CAFE」。

女性のためのシェアハウス「アン・ハウス」のリーフレット

MYROOMが物件を探し、広瀬さんがリノベートを手がけた最新の物件は、女性のためのシェアハウス「アン・ハウス」。

自由で、みんなが素人になれるツリーハウス。

宮本

わかりやすい歴史価値のある建物の保存だけでなく、なんでもないこの場所に
お金やひとや価値が集まる仕組みをつくりたいなって思うんです。

山崎

そこに、デザインが必要なんです。
行政だって、すぐれた事例には助成金を出したいはずなんですから。

宮本

そういえば、ぼくがデザインのチカラを思い知ったのは、
太田さんと初めて出会ってたずさわったツリーハウスづくりでしたね。

山崎

太田さんがツリーハウスの……デザインを?

宮本

いや、勝手にキャラクターをつくったり、ちらしをつくったり、です(笑)。

広瀬

ボンクラのときと一緒だよね(笑)。

宮本

でも、そのことでみんなのモチベーションがみるみるあがるんです。
実際に向かうべきイメージがはっきり共有できて、
関わるひとたちがどんどん増えていくというか。
デザインのチカラってそうだったんだ! って。

太田

ぼくは写真が好きでイラストレーターがちょっと使えるから、
じぶんができることをやっただけなんですけどね。

宮本

正直言うと、はじめに「ツリーハウス」をつくろうとしたとき、
建築家なのにつくり方がまったくイメージできないじぶんに愕然としたんですよ。
鬼太郎やハックルベリーさえつくれるのに!(笑)

太田

その後、ツリーハウスプロジェクトを名乗って、
ただつくりたくて、たのしみたくて、これまでに4棟つくりました。
ぼくらにとってツリーハウスは、ひととの関わりのためのツールという感覚ですね。

宮本

おもしろいのは、「ツリーハウス」と言ったとたんに、
建築関係者だけでなく、アーティストやデザイナーや、
いままで一緒になにかをやったことがなかったひとたちが集まってくるということ。
なにより、「建築ってそういうもんだ」という思いこみから完全に自由になれるし。
これまで味わったことのない感覚でしたね。
そんなときに出会ったのが、この古い物件。
だから、この広い建物群を異業種多人数でシェアするという考えが
自然に生まれたんです。

(……to be continued!)

飯綱のキャンプ場のなかに宮本さんたちがはじめてつくったツリーハウス

善光寺界隈から車で30分ほどにある、飯綱のキャンプ場のなかに宮本さんたちがはじめてつくったツリーハウス。「つくってるあいだにも、木が成長しますからね。こんなにおもしろいことはない」(宮本さん)。(写真提供:太田伸幸)

ツリーハウスプロジェクトのリーフレット

ボンクラのはじまりに、ツリーハウスプロジェクトあり。「しかも廃材を利用してつくってるんですね!」と山崎さんも興味津々。

information

map

KANEMATSU

長野県善光寺門前に位置する建物。倉庫として使われていた3つの蔵を、鉄骨や木造の平屋でつなぎ、現在は、ここをプロデュースするクリエイティブユニット「ボンクラ」のシェアオフィスのほか、カフェ、古本屋、不動産屋などが入居する。

住所:長野県長野市東町207-1

Web:http://bonnecura.naganoblog.jp/

profile

TAKESHI HIROSE 
広瀬 毅

1961年石川県金沢市生まれ。横浜国立大学工学部建築学科を卒業。長野で設計事務所に勤務の後1998年に広瀬毅|建築設計室を設立。長野県建築士会まちづくり委員長。2009年に「LLP.ボンクラ」を7人の仲間で立ち上げ、事務所を長野市善光寺門前の工場として使われた古い倉庫「KANEMATSU」に移転。ストックを生かす建築のあり方を模索している。また中山間地のコミュニティのこれからを考えるうちコミュニティ・デザインに出会う。東京芸術学舎の山崎亮氏の講座を受講し、さまざまな地域の人々と交流を深めている。代表作に『霊仙寺の家』(長野県建築文化賞最優秀賞/飯綱町)、『仙仁温泉岩の湯』(須坂市)。リノベーションでは『リプロ表参道』(長野市)、『日和カフェ・まちなみカントリープレスオフィス』(長野市)などがある。

Web:http://hirose-aa.com/

profile

NOBUYUKI OTA 
太田伸幸

1981年長野県上田市(旧丸子町)生まれ。美容室、建築関係、デザインプロダクション勤務の後、 2008年マンズデザイン主宰。広告のデザイン・アートディレクションの他、長野市内中学校への 美術授業ボランティア、地元の芸術家とともに地域と関わるアート活動企画・主催。2009年~シェアオフィス「KANEMATSU」協同運営。

Web:http://www.manz.jp/

profile

KEI MIYAMOTO 
宮本 圭

1970年長野県生まれ。工学院大学工学研究科建築学修了後、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、シーンデザイン一級建築士事務所を設立。建築とその周辺にあるものを面白く結びつけていくためのプロジェクトに多数携わる。ツリーハウスプロジェクト、絵馬プロジェクトなど。2009年に有限責任事業組合ボンクラを立ち上げ、善光寺門前にある素敵な古い建物で、建築家・編集者・デザイナーが集まり、単なる建築の再生だけでなく、地域やコミュニティの再生も視野に入れたプロジェクトカネマツを実践中。

Web:http://scenedesign.jp/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

福島を応援する奥田政行シェフが見据えたもの。

「アル・ケッチァーノ」が「フク・ケッチァーノ」?
福島生まれの若き料理人と奥田シェフが始めたこと。

「東北の食を元気にしよう!」
東日本大震災以来、奔走&奮闘し続ける「アル・ケッチァーノ」奥田政行シェフ。
2011年は、三陸沿岸部の被災地へ何度も通い続け、炊き出しの料理でみんなを励まし、
2012年は、スイス・ダボス会議や、
スペイン「マドリード国際グルメ博」に参加して、日本と東北の食をPR。
そして2013年は「福島を応援する年」。
1月19日、郡山市の料理専門学校で、
料理人のタマゴたちと福島産の食材満載の「エッセンシャル・キッチン」を開いた。
福島生まれの“未来のシェフ”たちは、徹底した奥田イズムを学び、
5年後には「故郷にフク・ケッチァーノを開く」ことを夢見て、目下のところ修業中。

披露の場は「エッセンシャル・キッチン」

「学校法人永和学園 日本調理技術専門学校(Nitcho)」。
ここは、福島県郡山市にある福島県唯一の調理専門学校。
校内には、高級レストランさながらのキッチンとスタジオがあり、
時おり市民を招いて、生徒たちが日頃の修練の成果をお披露目するレストランが開かれる。
1月19日、特別講師に山形県鶴岡市「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフを招き、
恒例の「エッセンシャル・キッチン」が、開催された。

測定器で放射能を徹底的に検査。

この日のゲストは、光産業創成大学院大学の瀧口義浩先生。
放射線を長年研究してきた専門家で、
奥田シェフとは被災地支援活動の中で出会ったそうだ。
先生は、小さなお弁当箱ほどの大きさの、小型「Radiation Tracker」を開発。
これを携帯すると、立ちどころに放射線量がわかるという。
試しに郡山市内を歩くと、室内は0.2μSv前後で安定していたが、
外に出ると線量が3〜4倍に上がる場所が少なくないことも判明。
郡山では、見えない放射線がもはや身近な存在なのだ。
「その被曝線量を算出することが、健康を守ることに繋がる」と瀧口先生。
奥田シェフは、瀧口先生を介して、放射線測定器を店舗に導入し、
「食材を徹底的に検査して、安全が確認できれば、使う」というポリシーを貫いている。

料理人の創作意欲に火をつける郡山の野菜名人。

詳細は末尾ですべてご覧いただけるが、この日提供された料理は全部で9品。
メヒカリの素揚に甘味とシャキシャキの食感を添えた白菜や、
トラフグのリゾットに使われた冬寒菜(キャベツ)、
そしてネギは、郡山市内の野菜農家、鈴木光一さんが育てたもの。
生産者であり、種苗店も営む鈴木さんは、郡山の若手農家のリーダー的存在。
伝統野菜や新品種の開発にも熱心で、
生でも食べられる「佐助ナス」や、糖度の高い「隠田かぼちゃ」など、
稀少でしかも高品質の野菜を栽培し、郡山の農業を復権しようと日々奮闘している。
実はこの鈴木さん、「Nitcho」でフランス料理を担当する鹿野正道先生が、
「何を作っても美味い」と太鼓判を押すカリスマ農家。
冬の寒さを耐え抜いて、甘味を蓄えた野菜たちが、シェフの創作意欲もかき立てるようだ。

いわき市に西洋野菜栽培の名人あり。

「カブのヴルーテ」は、
いわき市にある坂本農園の聖護院カブを裏ごしし、
滑らかなスープに仕立てた前菜。
会場から「これ、牛乳でないの? ポタージュ? いや違う、カブだ!」
などと驚きの声が続出した料理でもある。
さらに一同を驚かせたのは、
いわき市の坂本和徳さんが育てた「西洋ゴボウ(サルシフィ)」。
日本のゴボウとは異なる姿形で、白と黒の2色ある珍しい品種。
奥田シェフも図鑑でしか見たことがなく、築地市場でもめったにお目にかかれぬ貴重品とか。
「こんなに立派なサルシフィが、いわきにあるとは知らなかった」
「牛蒡って、牛の房=尻尾って意味がある。だから牛とよく合うんです」
福島牛のタンと、いわき生まれの西洋牛蒡。「はじっことはじっこ」のステキな共演。
いわきのみなさんがたたえていた笑顔が、印象に残る。

修行中の17人の目標は、5年後の福島での独立。

「料理人には消費者と産地を守る責任がある」。それが奥田シェフのポリシー。
料理を支える生産者の元気を取り戻すことが、東北全体の復興につながる。
そして今、そうしなければ、東北だけでなく、日本全体の農業が失速してしまう。
そんな危機感を背負いながら、奥田シェフはキッチンに立っている。
「福島は、東北で一番豊かな場所。助けたいんです」
そんなシェフの意志を実現させるべく、学校の講師陣、職員、生徒など、
合わせて27人が68人のお客様のために、全力でサポート。
震災以降、除染作業や風評に悩む生産者が決して少なくない福島県だが、
しかし、基準値を超えるセシウムが検出されるケースは、徐々に減っており、
最近は特に野菜からはほとんど検出されていないとも聞く。
※参照『ふくしま新発売。』

故郷に「フク・ケッチァーノ」を!

そんな福島の産物を確実に理解して、ちゃんと料理することで、
食べる人たちみんなをシアワセにする。
そんな奥田イズムを徹底的に学び、福島の食を応援すべく日々奮闘している若者たち、
それがNitchoの卒業生たちだ。
奥田シェフが開いた鶴岡と東京の店で今、17人が働きながら修業中。
彼らの目標は、奥田シェフからがっちりと地産地消の哲学を学び、
故郷に「フク・ケッチァーノ」を創ること。
通常は10年修業を積むところ、なんとか5年で実現させたい。
そんな願いを胸に、日々修業に励んでいます。
「みんなの頑張りしだいでは、3年、いや2年後には実現するかもしれません」
故郷で、地元の素材を使うことで生産者を応援。
そして食べる人をみんなシアワセに……そんなフク・ケッチァーノを夢見て、
東京で、鶴岡で、若者たちの挑戦が続いている。

「ESSENTIAL KITCHIN」で供された皿の数々をずらり。

メヒカリの素揚げと鈴木農園の白菜の一夜漬けのサラダ

塩でもみ乳酸醗酵させた鈴木農園の白菜に、生の野菜を加えたサラダの上に鎮座するのは、素揚げしたメヒカリ。メヒカリはいわき市名産の魚だけれど、現在は操業停止のため宮崎から取り寄せて使用。酸味と甘味が楽しめる。

坂本農園のカブの冷たいヴルーテと、川俣シャモと福島牛コンソメジュレ&フォアグラ

小麦粉とバターで作ったルーをフォン(だし)でのばしたヴルーテに、裏ごしした聖護院カブを加えた一品。福島を代表するブランド鶏「川俣シャモ」と福島牛のうま味を凝縮させたコンソメジュレで味わう。

ブロッコリーとアンチョビとホタテのソテー

ホタテのうま味を帯びた茹でたブロッコリーが美味。アンチョビの塩味も良いアクセントに。白地に紫のドラマチックな「カステロ・フランコ」はレタスの一種で、いわきの坂本農園の産。

鈴木農園の冬寒菜とトラフグのリゾット

寒さの中でその内側に甘味を濃縮した冬寒菜(キャベツ)と、福島県オリジナルの大粒品種米「天のつぶ」が、ふぐのだしを目いっぱいに吸い込んで、リゾットへと出世。

川俣シャモと青大豆のフレーグラ

セモリナ、薄力粉、塩、オリーブオイルを混ぜ、手捏ねで作る「フレーグラ」とは、サルディニア島の古代のパスタで、クスクスの原型とも。福島が誇るブランド鶏「川俣シャモ」のうま味がパスタによく馴染む。

鈴木農園のねぎのマリネ シェリーヴィネガーとクミンで

驚くほどの甘味をたたえる鈴木農園産のネギを丸ごと姿煮に。冷める段階でヴィネガーとノワゼットオイルを吸収させたもの。甘味と酸味を、最後に3粒散らしたクミンが見事に調和させてくれる。

坂本農園のごぼうのフォンデュータをかけた福島牛の牛タン

やわらかな福島牛のタンと、希少な西洋牛蒡(サルシフィー)が、一枚の皿の上で共演。その相性は絶妙で、味わう人たちを唸らせていた。

小沢農園のイチゴで作ったイチゴのシャーベット

郡山市の「小沢農園」のイチゴと、砂糖のみで作られたシャーベット。前日にイチゴの重量の8%の砂糖を加え、中から溢れ出した果汁とともに凍結。「甘い」というより「旨い」!

キャラメルムース、エスプレッソのエスプーマ添え

郡山市にも支店を持つ「アサヒ飲料」の缶コーヒー「ワンダ」を使って仕上げられた〆の甘味。「うちの商品が、こんなに素敵なデザートになるなんて!」と、担当者も感激の様子。

奥田シェフが現在手掛けているお店情報

Al-che-cciano
アル・ケッチァーノ

住所 山形県鶴岡市下山添一里塚83 TEL 0235-78-7230
営業時間 11:30 〜 14:00(L.O.) 18:00 〜 21:00(L.O.) 月曜・火曜(月1回)休
※「イル・ケッチァーノ」も併設

YAMAGATA San-Dan-Delo
ヤマガタ サンダンデロ

住所 東京都中央区銀座1-5-10 TEL 03-5250-1755
営業時間 11:30 〜 14:00(L.O.) 18:00 〜 22:00(L.O.)※最終入店は20:30 月曜・年末年始休

Yudero 191 from Al-che-cciano
ユデーロ191 フロム アル・ケッチァーノ

住所 JR東京駅改札内グランスタ 1F TEL 03-3214-4055 営業時間 7:00 ~ 22:00(L.O.) 無休

LA SORA SEED FOOD RELATION RESTAURANT
ラ・ソラシド フードリレーションレストラン

住所 東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン・ソラマチ 31F TEL 03-5809-7284
営業時間 11:00 〜 14:00(L.O.) 11:00 ~ 23:00 ※ラストオーダーは20:00 無休

farm il aid FOOD RELATION CAFÉ
ファミレード フードリレーションカフェ

住所 東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン・ソラマチ 1F TEL 03-5809-7268
営業時間 10:00 ~ 21:30(L.O.) 無休

肘折温泉vol.1 今も残る美しい手仕事

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
第1回は、「今も残る美しい手仕事」について。

雪国で生まれた細やかな手仕事。

東京駅から山形新幹線で、3時間半。
終着の新庄駅からさらに車を走らせること50分。
同じ山形県のなかでも特に雪深い肘折温泉やその周辺地域は、
多いときで4メートル以上も雪が積もる。
雪の季節ともなれば外での仕事は封じられ、
昔のひとびとは家の中で手仕事をしながら過ごした。
藁で、藁沓(わらぐつ)や蓑(みの)などを編み、
また、木地師と呼ばれる職人たちは木で、茶筒や器などをつくった。
それらは、「かつての生活道具」とは言い切れない、細やかな手仕事の美しさを放つ。
柳宗悦は著書『手仕事の日本』のなかで、東北地方について、こう綴っている。
「日本でのみ見られるものが豊かに残っているのであります。
従ってそこを手仕事の国と呼んでもよいでありましょう」
肘折温泉を含む、雪深い最上地方では
そのような雪国の暮らしから生まれた素朴な文化に、今も触れることができる。

大蔵村の南に位置する通称・四ヶ村には、美しい棚田の風景が今も残る。
須藤福寿さんは、この地で生まれ、農業を営む傍ら、村議会議員などを務めた。
引退してからは、依頼されると蓑(みの)や藁(わら)細工をつくっていたという。
「蓑はじいさんの時代からずっと、つくっていたな。昔は雨合羽なんか無かったから。
そうだな、昭和30年代くらいまではどの家でも男がつくっていたもんだよ。
つくり方は親の見よう見まね。その家その家で、ずっと継承されてきたんだ」

大人用につくられた蓑。首回りの綿糸でほどこされた赤や紺の刺繍がとてもきれい。

蓑の材料となるのは、「みご」と呼ばれる、藁の丈夫な茎の部分と、
ウリハダカエデという木の皮を使う。
木の皮は田植えの時期に採り、乾かしておくなど、
つくるには、冬が来る前に準備をしておかなければならない。
「今はもう車の免許を返しちゃったから、材料をとってくるのが難しくってな。
それに、あまり使う人もいなくなったから、つくる機会も減ったかな」
いま、四ヶ村で蓑をつくることができる人も少なくなっているという。
暮らしに必要だから、丈夫になるよう丁寧に編む。
その細やかな美しさは、小さな藁沓にも込められている。

「ひとつの蓑をつくるのに、4〜5日かかるよ」と話す須藤さん。

須藤さんは話ながら、足の指を使い、手早く小さなかんじきに凧糸を通す。

須藤さんがおみやげ用につくったというかわいらしい「かんじき」と「藁沓」。

こけしは、東北の温泉場を中心に
子ども向けのみやげものとしてつくられてきた木の人形だ。
宮城県の鳴子地方や、遠刈田地方が産地としては有名だが、
肘折温泉も、明治の頃より「肘折こけし」と呼ばれる系統のこけしがつくられてきた。
「もともとは、わたしらみたいのを木地師と言って、
器や茶筒なんかをつくっていたっていうね。
その合間に、こけしなんかの玩具をつくり始めたんじゃないかな。
昔、木地師は、いろんな温泉場を渡り歩いた人だったんだ。
もとを辿れば肘折の工人たちも、鳴子や遠刈田へ修行に行ったんだよ」
そう話すのは、今はただひとり残る、肘折こけしの工人・鈴木征一さんだ。
肘折の工人さんのもとで修行して、その後独立。
当時から40年以上も使っているという工房には、伐り出された木材が積まれ、
お客さんを待つ、かわいらしいこけしが並んでいる。

「こけしはやっぱり顔を描く段階が一番むずかしい」と鈴木征一さん。肘折こけしは、昔と同じく、墨のほかは赤、青、黄の三原色で表現。

鈴木さんの工房。木取りをした角材は乾燥したあとに、挽く。材料はおもに「イタヤカエデ」を使う。

産地によって顔・かたちが異なるのがこけしの面白いところ。鈴木さんは青森や山形など他系統のこけしも販売している。

「もとは冬場もできる仕事だからって始めたんだ。
こけしは山から木を伐ってくれば、すぐできるってわけじゃないからね。
乾燥させたり、挽いたり、筆で顔を入れたり。手間がかかります。
最初は、こけしの面白さなんかわからなかったけど、
購入しにわざわざ訪ねてくれるお客さんと話すようになって、
こけしの奥深さを教えてもらった気がするね」
以前は年配の方が多かったというお客さんも、最近は若い人も増えてきたという。
「でもね、こけしは量産はできるものじゃないから。
おれの代で肘折こけしは終わりかなと思ってるよ」

明治時代、肘折こけしを始めたと言われている柿崎伝藏が生まれた柿崎家(現在は「旅館 伝蔵」)には、肘折こけしの工人の系譜があり、奥深い歴史を感じる。

こけしの底には、工人の名前が書かれている。写真は鈴木さんのもの。

山伏の原初の文化に触れたい。

このような肘折の手仕事に対して、若き山伏の坂本大三郎さんは、
「古い時代の山伏の文化と呼応している気がするんです」と別の視点から興味を示す。
普段は関東でイラストレーターや文筆家として活動をする坂本大三郎さんは、
6年前にふらりと体験した山伏修行をきっかけに、
その奥深さにひかれ、以来、出羽三山を拠点に修行を積んでいる。

羽黒山は、月山、湯殿山と合わせて「出羽三山」と呼ばれ、
「西の伊勢参り」に対して、
出羽三山へのお参りを「東の奥参り」と言われるほど、
一帯の山々は古くから山岳信仰、修験の霊場として知られる。

法螺貝を持つ、大三郎さん。法螺貝は材料をとりよせ、手づくりしたのだという。

絵を描くなど表現者として仕事をしてきた大三郎さんは、
特に芸術や芸能を担っていたという山伏の一面にひかれる。
「山伏の祖先と言われる人々は、神や精霊と人々をつなげながら、
山から山へ漂泊する民でした。日本という言葉もない古い時代のことです。
彼らが呪術を行うとき、言葉からは歌が、動きからは舞が生まれ、
芸術や芸能が生まれていきました。山伏のルーツというのは、漂泊をしながら、
手仕事をしたり芸能をしたりする人だったとも言われているんです。
木地師も、木を求めながら漂泊していた人々。
かつては、彼らは同じ人だったんじゃないかと思い始めたんです」

年に1回ある羽黒山での修行の度に、肘折温泉に立ち寄った。
本を読み、山を歩く。
次第に、肘折に残る文化が古い時代の山伏の文化と呼応すると感じる。
肘折への興味が募っていった大三郎さんは、
昨夏、「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」というイベントに
ゲストパネラーとして参加(Local Action #007)することになった。
これをきっかけに、地元のひとたちと知り合い、
外からしか見えていなかった肘折のことが、ぐっと近づく。

大三郎さんが普段、修行のときなどに着ているという白装束。

「大三郎くんが勉強してきたことを聞くのは、とても面白い」と、
つたや肘折ホテルの柿崎雄一さんは大三郎さんを快く迎える。
「大三郎くんが肘折に通ってきてくれるのは、とてもうれしいんですよ。
僕たちが知らない自分たちの土地のことを教えてくれる。
肘折青年団の若いみんなもいい影響をうけているみたいだから」と微笑む。
雄一さんは、大三郎さんが肘折に来れば、滞在などをあたたかくサポートする。

大三郎さんは、肘折を訪れて、寂しいと思うことがひとつあった。
それは、この周辺の手仕事が継承されずに、消えていこうとしていること。
しかし、雄一さんや肘折のみんなと話すうちに、
自分が、教えてもらうことはできないかと思い始めたという。
「すごく大事な文化だと思うんです。だから、僕は教えてもらいたい。
無くなってしまう前に、僕にできることはやりたいと思ったんです」
実は、大三郎さんは、雄一さんの協力もあり、
春になったら肘折温泉に住むことを考えているという。
この地にある手仕事を学ぶためだ。
「震災以降って、山とまちの距離が縮まったんじゃないかと感じています。
みんなが地方と都心を行き来するライフスタイルが増えている。
僕自身も千葉に実家、神奈川に暮らしている家があって、肘折に来ている。
こうやって行き来しながら生きていくことができるんじゃないかと思っているんです」

次回は、大三郎さんと肘折青年団の有志が取り組む、
肘折温泉周辺の新しい観光資源を探す活動についてレポートします。

information


map

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

information


map

鈴木肘折こけし工房

住所 山形県最上郡大蔵村南山2126-291
電話 0233-76-2217
営業時間 8:00~18:00 不定休

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

present

肘折温泉のおみやげをプレゼント!

四ヶ村の須藤さんから、おみやげをいただきました。かんじきと藁沓、蓑のミニチュアの1セットです。「せっかく来たんだから」と取材チーム全員に持たせてくれた、須藤さん。ミニチュアながら、しっかり刺繍された蓑もとてもかわいいです。ご応募はコロカルのfacebookからお願いします。
※プレゼント企画は終了いたしました。

長野 Part2 新参者として、謙虚にまちに 貢献すること。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
長野編・目次

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はじまりは、2009年。長野市の善光寺門前町に位置する古い建築物のリノベーション。
建築家、編集者、デザイナーの7人でまちづくりを考える、「ボンクラ」という、
ちょっとふしぎな名前の異業種ユニットを訪ねました。

大家さんの想い、ぼくらの想い。

山崎

ここは善光寺のほんとすぐそばですが、
このエリアってもともとどういう場所なんですか。

広瀬

この辺は、いわば問屋街ですね。
ただ、昭和40年代に郊外に問屋団地をつくって
一斉にそっちへ移転してしまったそうです。
残念ながら、ほとんどは駐車場になっていて、当時の面影はないですが。

山崎

でも、ここは残っていたわけですね。

広瀬

そうですね。その後も工場として細々と稼働していらしたんですが、
結局それも撤退せざるを得なくなって。
じぶんたちは出て行ってしまうけれど、それでもなにかのカタチで
まちに貢献できないかという大家さんの想いを受けて、
「KANEMATSU」という会社の名前を残しました。

山崎

2009年当初、メンバーが最初にイメージしたのはもうこのカタチだったんですか。

宮本

550平米もあるから、正直、広瀬さんと一緒で、
はじめはじぶんひとりではできないと思ってましたね。

山崎

そりゃあそうだ(笑)。

太田

でも結局、ぼくと宮本さんが惚れた勢いで暴走気味に
東京のシェアオフィスだとか横浜のBankART1929(*1)だとかに行って、
気になるひとに会って、めちゃくちゃ勉強して、
大家さんに会って口説いて……(笑)。

宮本

大家さんは、じぶんたちがシャッターを下ろしたまま、
まちに対してしっかり貢献できなかった、というのを悔やんでらしたんです。
そんな想いをうかがって、じゃあ、
「金松/KANEMATSU」という屋号を残しながら、
ここを拠点とするぼくらがお祭りに参加する、
地域の掃除に参加するということを約束します! ということを
契約に盛り込んだんです。
だから代わりに、5年間だけ家賃を安くしてもらえませんか、と。

山崎

なるほど。

広瀬

ぼくらのようなあたらしい人間が突然まちに入ってくるだけでも、
まちのひとたちにはいろいろな感情があるわけですから、
よそ者としてそれなりに謙虚でいなければ、と最初からはなし合ってきました。
ひっこしのときはしっかりご近所にあいさつまわりもしましたし。

宮本

いまでも毎年お正月には、全員でキモノを着て、善光寺に初詣したあと、
ごあいさつまわりに行くのが恒例です。

*1 BankART1929:横浜市が推進する歴史的建造物を活用した文化芸術創造の実験プログラム。BankART(バンカート)は元銀行であったふたつの建物を芸術文化に利用するという意味を込めた造語。http://www.bankart1929.com/

広瀬毅さん

「太田さんと宮本さんがどんどん走り出しちゃったんだよね。でも、ブログやフライヤーをつくってくれたことがほんとうにありがたくて、あらためて“伝える”ことの大切さを痛感しました」(広瀬)

宮本圭さん

「本棚も、キッチンも、ぼくたちがつくりたくて先につくってしまってたんです」と、宮本さん。じぶんがたのしみながら、しっかりしごとをつくっていくひと。

場をきっかけに、ゆるやかに、ひろがるつながり。

広瀬

これだけ大きなハコですから、7人が事務所として借りるだけではなく、
まちに賑わいをつくるイベント的なことができればということも
当初から考えていました。
それで、まずは近所の神社のお祭の日に合わせてイベントをやろう、と。

山崎

それに間に合わせなくちゃいけないわけですね?

太田

9月に契約して、お祭が11月。もう、片づけるのが精一杯でしたね(笑)。

広瀬

片づけている最中から、信濃新聞の記者さんが追いかけてくれていて、
そんな効果もあり、約400人の方々に来ていただきました。

山崎

それが、2009年のことですね。

広瀬

片づけただけのがらんどうでもできることってなんだろう、というところから、
はじめの1年は隔月ペースでフリーマーケットをやったりしていました。

山崎

「ボンクラ」のスタートメンバー以外、つまり、このカフェみたいに
テナントで入っているひとたちはどういうふうに集まってきたんですか?

宮本

クチコミやひととの出会いのなかで、
「やりたい」というひとがあらわれてきた、という感じです。
たとえば、この「壁一面の本棚」はぼくがつくりたくてつくったんですけれど、
「こんな店をやりたいなあ」という本屋さんがあらわれて。
「やっぱ、事務所にはカフェが欲しいよねー」って、キッチンをつくったら、
ここでカフェをやりたいというひとがあらわれて(笑)。

山崎

あはは、相変わらず先走るんだなあ(笑)。

広瀬

というようないきさつで、ちょっと変わった不動産屋さん、
壁一面が書棚に囲まれた古本屋さん、それにこのカフェなど、
いまはぼくたち5社を含め、12社14名でこの「KANEMATSU」を共有しています。

(……to be continued!)

太田伸幸さん

「大家さんに会う前に全国の興味深いひとたちにとにかく会いにいって、事例をめちゃくちゃ勉強しました」(太田)

山崎亮さん

「地域の行事に参加することを契約書に盛り込んで、その代わりに5年間家賃を下げてもらう、というのはいいアイデアですね」(山崎)

古本屋「遊歴書房」のロゴ

テナントの1件は、天井まである本棚に囲まれた古本屋「遊歴書房」。http://www.yureki-shobo.com/

information

map

KANEMATSU

長野県善光寺門前に位置する建物。倉庫として使われていた3つの蔵を、鉄骨や木造の平屋でつなぎ、現在は、ここをプロデュースするクリエイティブユニット「ボンクラ」のシェアオフィスのほか、カフェ、古本屋、不動産屋などが入居する。

住所:長野県長野市東町207-1

Web:http://bonnecura.naganoblog.jp/

profile

TAKESHI HIROSE 
広瀬 毅

1961年石川県金沢市生まれ。横浜国立大学工学部建築学科を卒業。長野で設計事務所に勤務の後1998年に広瀬毅|建築設計室を設立。長野県建築士会まちづくり委員長。2009年に「LLP.ボンクラ」を7人の仲間で立ち上げ、事務所を長野市善光寺門前の工場として使われた古い倉庫「KANEMATSU」に移転。ストックを生かす建築のあり方を模索している。また中山間地のコミュニティのこれからを考えるうちコミュニティ・デザインに出会う。東京芸術学舎の山崎亮氏の講座を受講し、さまざまな地域の人々と交流を深めている。代表作に『霊仙寺の家』(長野県建築文化賞最優秀賞/飯綱町)、『仙仁温泉岩の湯』(須坂市)。リノベーションでは『リプロ表参道』(長野市)、『日和カフェ・まちなみカントリープレスオフィス』(長野市)などがある。

Web:http://hirose-aa.com/

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NOBUYUKI OTA 
太田伸幸

1981年長野県上田市(旧丸子町)生まれ。美容室、建築関係、デザインプロダクション勤務の後、 2008年マンズデザイン主宰。広告のデザイン・アートディレクションの他、長野市内中学校への 美術授業ボランティア、地元の芸術家とともに地域と関わるアート活動企画・主催。2009年~シェアオフィス「KANEMATSU」協同運営。

Web:http://www.manz.jp/

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KEI MIYAMOTO 
宮本 圭

1970年長野県生まれ。工学院大学工学研究科建築学修了後、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、シーンデザイン一級建築士事務所を設立。建築とその周辺にあるものを面白く結びつけていくためのプロジェクトに多数携わる。ツリーハウスプロジェクト、絵馬プロジェクトなど。2009年に有限責任事業組合ボンクラを立ち上げ、善光寺門前にある素敵な古い建物で、建築家・編集者・デザイナーが集まり、単なる建築の再生だけでなく、地域やコミュニティの再生も視野に入れたプロジェクトカネマツを実践中。

Web:http://scenedesign.jp/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。