河原町繊維問屋街プロジェクト

シャッター街が、ユースカルチャーの発信地に

JR熊本駅から路面電車で5分ほどのところ、
駅から中心街へと向かう、ちょうど中間地点。
ほかの地方都市と変わらないまちなみの一画に突如あらわれる、河原町繊維問屋街。
昭和に建てられた店舗が問屋街ごとそのままの姿で残っていて、
その建物の古さからか、東南アジアの露店街のような、
まるで日本とは思えない、不思議な空気をまとっている。
基本、1軒の建物の広さは、3坪ほど。
トタン屋根のアーケードのなかに、
2メートル幅の路地が5つ(裏に行けばもうふたつ)あり、
コンクリート造の建物が長屋のように連なる。
繊維問屋街と言っても、それはかつての名で、
近年は、繊維業者が去った建物に
若い人がカフェや古着屋を始めたり、イラストレーター、
建築家やグラフィックデザイナーが入り、アトリエとして活用している。

昼間は明るい問屋街。狭さゆえ対面する店舗とも近いからコミュニケーションもおのずと生まれる。

「この問屋街にクリエイターが集まり始めたのは、10年ほど前からです。
多くの繊維関連の業者が立ち退いて、
この問屋街はずっと、シャッター街となっていたようなんです。
そこで、若いクリエイターを誘致しようという計画が立ち上がりました」
そのときからここで、カフェギャラリー・GALLERY ADOを開き、
いまは、この問屋街の自治組織・河原町文化開発研究所の代表を務める黒田恵子さん。
「わたし自身、熊本市で育ちましたが、ここの存在は全く知りませんでした。
当時、知人づてに聞き、見に来たんですが、この異空間に惹かれてしまって。
ここならクリエイターたちが集まるまちになるなと。
だったら、表現の場にもなるカフェギャラリーを始めようと思ったんです。
今は、ここに、25前後のアトリエや店舗が入っていますよ」

GALLERY ADOのカウンターに立つ黒田さん。店内には地元の作家の作品が飾られている。

市街地から離れているとは言え、周辺には高いマンションも立ち並ぶ河原町。
問屋街も土地開発の例外ではないはずだが、
どうしてここだけ昭和の遺跡のように残ったのか。

この問屋街に事務所を構える、建築家の長野聖二さんはこう話す。
「第2次世界大戦後に焼け野原となった河原町には、
闇市がベースとなった店舗が多く立ち並びました。
しかし、昭和30年代に大火があり、店などがすべて燃えてしまった。
そこで、その翌年、共同出資でこの繊維問屋街が建てられたと聞いています」
共同で建てたから、この問屋街の店舗の大家はすべて異なる。
さらに、路地も何分の1ずつと、利権が細分化されているため、
管理の所有区分がとても複雑で、売却しようにも話がまとまらない。
「だから、この問屋街は、
残ってしまった場所と言ったほうが正しいかもしれませんね。
ちなみに僕の事務所は、真ん中の壁をとっぱらって
2軒分を借りているのですが、大家はそれぞれ異なるんです(笑)」

事務所わきにあるベンチにすわる、長野さん。

安さゆえ、古い建物を自分でカスタマイズ。

クリエイターが集まってくるもうひとつの理由は家賃の安さ。
熊本市内の中心地の約4〜5分の1の賃料で借りられるという。
それゆえ、なかには、雨漏りするほど老朽化している建物もある。
だから、大家さんと交渉しながらそれぞれ自分の好きなように
カスタマイズして、活用していくというわけだ。
「僕の事務所の建物は、以前喫茶店だったようですけど、
入るときは、すでに数年使用されていない廃墟だったんです」
と長野さんは言うが、当時が想像できないほどに、
リノベーションされて、モダンでシンプルな内装だ。
2階は事務所としてスタッフが数名働いており、
真っ白に塗られた1階の空間はギャラリースペースになっている。

左手にあるのが長野さんの事務所。廃墟だったとは思えないかっこいい空間。

黒田さんのカフェギャラリーは、かつては洋品店だった建物。
問屋街の表の通りに面していることもあり、約12坪と広い。
「借りるときは洋品店のなごりで、服をかけるラックが置かれていましたね。
まず、1階は、床にコンクリートを流して整え、カウンターをつくりました。
2階は板貼りの床をそのまま生かした、展示空間になっています」
建物の歴史を物語っているようなあめ色の床は、何とも言えない趣がある。
2年前くらいからは、この空間を気に入ったという劇団の方が増え、
月に1〜3回、小規模の演劇が上演されているのだという。

グラフィックデザイナーの石井克昌さんも、
問屋街の一番奥にある、組合事務所だった部屋を借り、
素色図画工作室IROMURAというワークショップスペースにしている。
奥の壁には自作の黒板があり、まるで小学校の図工室のような空間。
もとは後輩が借りていたスペースだったのだという。
「後輩が借り続けるのが難しくなったと言うので、そのまま引き継いだんです。
この場所に自分が可能性を感じていたので。
ぼろぼろだった天井や壁など、少しずつ時間をかけて自分で修復して、
ふさがれていた天窓も自力であけたんですよ」

今年31歳という石井さんは、熊本で育ち、熊本でデザインを学んだ。
今は、熊本市現代美術館の広報物など、
地元でグラフィックデザイナーとして、活動している。
グラフィックデザイナーを志すなら、都会に出たほうが仕事も多いのでは? と伺うと
「ぼくは、大きな会社のデザインを手がけたいという気持ちよりも、
自分の生活と身近なところにあるデザインの仕事をしたかった。
もちろん、グラフィックの仕事が少ない分、金銭的に苦しいこともありますが(苦笑)。
でも、ここの問屋街には、いろいろなつくり手がいて、
自分の好きなことを本気で頑張っている人が集まっている。
生活がうまくやりくりできるようなかたちで、
いろいろな企画が生まれればいいなと思っています」

石井さんはここで、「おくりもの学校」と称して、いろいろなつくり手さんと一緒に、さまざまなワークショップやイベントを提案している。

河原町繊維問屋街では、毎月第2日曜日、
「河原町アートの日」というイベントを開催している。
参加者はイラストやクラフトなど、自分の作品を出店している。
徐々に参加者や常連客が増え、平均25組が毎回参加しているという。
さらに、ここでは、さまざまなワークショップも開かれる。
熊本市現代美術館主催で行われた、
現代美術家の淺井裕介さんのワークショップもそのひとつ。
いまも、そのときの浅井さんの作品が問屋街に刻まれている。

現代美術家の淺井裕介さんの作品が問屋街の路地に刻まれている。

ほんの数軒から始まったクリエイターのまちは、
少しずつカルチャーの発信地として認知され、進化をとげているようだ。
「何かしたいけど、何がしたいか分からないって若い人たちが結構いて、
そういった子たちが、自分自身に刺激があるような場所は必要。
いろいろな人が出会える場所になったらいいですね」(長野さん)
「自分のやりたいことだけを受け入れてもらう場所になるのではなく、
より広い世界へ向けて、スキルアップにつながるような
出会いが増えていくといいなと思っています。
そのためには、この河原町全体の発信力も強めていきたいですね」(黒田さん)

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河原町繊維問屋街

住所 熊本市中央区河原町2
活動クリエイター数:約12名(店舗数は25〜30店[不定営業店舗も含む])
職種:イラストレーター・アクター・ミュージシャン・美容師・能楽
家賃相場:1.5万円〜6万円/月

information

GALLERY ADO

電話 096-352-1930
営業時間 Cafe15:00~18:00、Gallery11:00~18:00 木曜休
http://galleryado.com

information

長野聖二・人間建築探検處

電話 096-354-1007
http://www.fieldworks.biz

infotmation

素色図画工作室IROMURA

電話 070-5818-1671
motoshiki@gmail.com

立花テキスタイル研究所

一枚の布から始まる、小さくて大きな物語。

広島県尾道市で出会った色とりどりのストール。
ふんわりとやわらかいトーンの色は
尾道市街地から船で渡った向島(むかいしま)に自生する
サクラやモモ、プラム、アメリカセンダングサなどの植物から生まれた色だ。
実は、この色は、向島にある立花テキスタイル研究所が
季節ごとに出る大量の剪定枝や間伐材を集めたものから作っている。
いわば、不要とされているものを有効活用したものだ。

子どもの手による奔放な作品は、未来への希望にあふれている。

その日、向島の立花自然活用村内にある
立花テキスタイル研究所では、子ども向けのアートスクールが開催されていた。
楽しそうに絵を描く子どもたちの微笑ましい姿を眺めていると、
あれ? 普通の絵画教室とは何か様子が違う。
木の端に色付けしたもの、長さの違う紐、はぎれ、
コワレモノを箱に詰める際に使うクッションの中身などが置かれ、
それを子どもたちは触ったり、使ったり……。
「よそではいらないものでも、ここでは楽しい画材に変身します。
その場で不要なもの=ゴミと決めつけているのは大人たちなのよね」
というのは、絵の先生である美術作家の岸田真理子さん。
彼女はここで染色やイラストなどを担当している傍ら
定期的に子ども向けのワークショップを行っている。
「ほら、こうやって色別にまとめておけば、抜けのある色鉛筆セットも
捨てずに活用できるし、色の微妙な違いもわかるじゃない?」
はい、確かに。
固定観念を外すと、用済みのものにも光がさす。
やわらかい色のストールの成り立ちと根本的な思想は同じにみえた。

同じ緑色でも、黄緑やモスグリーン、オリーブグリーンなど、いろんな色がある。

なぜか犬もいる教室内。子どもたちは自由にモノを眺め、アートに触れる。

ぐるり広い所内を見渡してみると、植物採集の展示や、分厚い色見本帳、
インドの糸つむぎ機チャルカ、そして染色したばかりの布が干され、
床には、木の枝、葉などが乾燥用に広げられている。
染料になる前の乾燥した植物は大きな袋にまとめられ、
あちこちの部屋の片隅に無造作に置かれていた。
子ども向けのアートスクールが終わったあとは、
まるで、放課後の学校にいるかのように人気がなく、静かだ。

外にある藍の畑では、代表の新里カオリさんが水撒きをしていた。
傍らには、なぜか山羊。
「可愛いでしょう? 戦前は日本各地で家畜として飼われていたんですよ。
山羊は、綿花や藍の周囲に生えてくる雑草を食べてくれます。
糞は植物への堆肥になるし、乳は飲めるし、すぐれた動物です」
彼らはまるでマスコットのように訪問客にも大人気で、
わざわざ山羊を触りに来る人もいるのだとか。
なんとムダのない働きっぷり。
畑の横でメエメエ鳴いてむしゃむしゃ草を食べているだけにしか見えない
山羊がそんな風に役立っていようとは!

優れた動物、と新里さんが称賛する山羊はレギュラーで5頭いる。

染料となる藍の畑に水を撒く新里さん。となりで綿花も栽培している。

一見、牧歌的な研究所や新里さんの佇まいに
ふわふわとしたものを感じたなら、それは大間違い。
実は、新里さんは立花テキスタイル研究所を
「コミュニティ・ビジネスとして成立させる」という
目標を着々と実現させている。

東京の美術大学で染色を学んだあと、
美術館や学校などで美術教育に関わっていた彼女は
旅で訪れた尾道で、NPO法人工房尾道帆布の木織雅子代表と出会った。
ちょうどその頃、地場産業の帆布は化学繊維に押され、衰退の一途をたどっていた。
魅力のある帆布という素材を、引き続き何かに活かしていくと同時に
天然素材の良さをもっといろんな人に知ってもらいたい、
と考えていた木織さんと意気投合し、
ともに数々のプロジェクトに取り組んでいったという。

新里さんが店舗でお客さんを接客していたある日、こんな出来事があった。
「帆布の素材の綿は、国産なんですか? とお客さんに聞かれたんです。
そこで、調べてみたら国内自給率は0.01%以下。驚きました」
2世代前には日本各地で畑の隅などで綿を栽培していたこと、
しまなみなどの温暖な地域は綿の栽培に適していることなどを知った彼女は
「ここで綿花を育てることができるのでは?」と
2007年からプランターで実験的に綿花の栽培を開始した。

「最初は、帆布を使った商品の開発をするつもりで尾道に来たのですが、
綿花栽培を始めると同時に染色材料を求めるようになり、
毎日のように向島内をフィールドワークしていました。
島の人々に聞き取り調査を行うと、いろんな話が出てきましたね。
みなさんの困っていることや歴史や地域の植生など
島のことが少しずつ見えてきました」
柑橘類の農家の多い向島では、剪定は農家の一大仕事で、
大量の剪定枝は産業廃棄物扱いとなる。
その話を耳にした新里さんは、剪定枝を買い取ることにした。
初めて向島を歩いたときに「染料になる木がたくさんある!」と
喜んだ記憶がここでつながったのだ。

綿花は、地域の人たちと協働して種まきから収穫まで行った。
収穫した棉(わた)で糸を紡ぐワークショップも開催し、
最初から最後までの工程をみるべく、多くの人が集まったという。
徐々に研究所の存在も地域に知られていき、
剪定枝を研究所まで持ってきてくれる人も増えた。

布を通して、人も、資源も、「環」になる。

尾道市向島立花地区にある立花テキスタイル研究所はこんなロケーションの中にある。

向島でフィールドワークした際に染色材料になるものを採集したディスプレイ。

果物の栽培農家の多い向島だけに、染色して面白い素材が集まるという。

立花テキスタイル研究所の製品の材料は、ほとんどが向島から出たものだ。
染料を布に定着させるための媒染剤は、環境への影響を配慮し、
銅や錫は使用せず、造船の鉄くずや牡蠣の殻、木灰など、
尾道ならではの廃棄物を媒染剤用に加工し、有効活用している。
地域で「いらないもの」とされたものを
「必要なもの」に変化させていく魔法に周囲の人もさぞ驚いたことだろう。

「最初は都会から来た女性たちが何かやっているなあという感じだったんですけどね。
今ではいろんな人を巻き込んでやっていますよ」
向島に住む人に聞くと、そんな答えが返ってきた。
しまなみ海道の今治で織ったストールに色を染めて商品化したものは、
路面店での販売を始めるとすぐに感度の高い人たちに知られることとなっていった。

糸の色見本帳は実験の結果。これを見ると向島の豊かな色彩が見えてくる。

ちなみに、2011年と2012年のアンテナショップでの売上を
月別にみると、多い月で前年比1.5倍もの利益を上げている。
立花テキスタイル研究所の在り方は、
環境と共生する地域再生例として広まり、
今や新里さんは国内外の講演にひっぱりだこに。
「まず、私は、社会に参加している経済人だと自覚しています。
身をおく場によっては、“アーティスト”といわれると
社会と分断されたような、特別な存在になってしまう。
それでは、地方では協働はできないんです」
これは、美術教育に関わってきた新里さんだからこそ言える言葉かもしれない。
「多くの人が関わるビジネスモデルとして成り立たせていくためには
いいものを作って満足しているだけではダメなんですよ」と彼女は言う。
色の定着や堅牢度など一定以上の品質を保持できないと持続可能な事業にはならない。
だからこそ、地域の草花を徹底的に調べ、
色を定着させる媒染剤との相性を何種類も試して
あの色とりどりのストールや帆布バックなどを
定番商品として安定的に販売できるようにしたのだ。

関東から向島に生活そのものを移してしまった新里カオリさん。

立花テキスタイル研究所というローカルプロジェクトを立ち上げ、
軌道に乗せた次の目標は和綿の栽培と染料の開発という新里さん。
しまなみ海道の島々をつなぎ、雇用を増やすことが目的だ。
「今ちょうど弓削島の人たちとのワークショップも始まったところです」。
どうやら、またひとつずつ彼女の思い描く理想像が現実になっているようだ。
ふと、彼女が水撒きの手を止めた。
見つめている先には、和綿が棉(わた)となってはじけていた。
「ほら、かわいいでしょう?」
愛情あふれる笑顔でそっと棉をつまむ新里さんを見て、
来年はワークショップに参加をして
自分で摘んだ草花でストールを染めてみるのもいいな、と思った。

和綿のコットンボールは下を向いて開く。種は大切にとって次世代へ。

首にふわりと巻いた向島生まれの自然の色。
それを身にまとうだけで、瀬戸内海に浮かぶ小さな島に
溶けていくような気持ちになるから、不思議だ。
このストールを巻いた日は、立花テキスタイル研究所で
目にしたものをヒントに「環」になるものに思いを馳せることが多い。
そうでなくとも、たまには近所にどんな植物が育っているのか、
そんなふうに周囲を見渡しながら駅に向かうのも、悪くない。

左から岸田真理子さん、新里カオリさん、そして新里さんの元教え子で関東から移住した齋藤知華さん。あと地元尾道出身の廣畑洋介さんがいる。春からは2名新メンバーが入る予定。

Information


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立花テキスタイル研究所

2009年、しまなみの植物を調査・研究し、糸や布を染め、商品開発につなげることを目的に創設。2012年11月まで尾道商店街にアンテナショップを構え、トートバッグやストール、オリジナルの染色キットなどを販売していたが、2013年春に向島にある旧校舎をリノベーションした新店舗をオープンするため、現在は閉店。オリジナルキリムを作る「フレーム織り体験講座」や羊毛から糸をつむぐ「立花ものづくり体験」などのワークショップや子どもたちのための「立テキアートスクール」は定期的に開催中。
http://tachitex.com/index.html

池ヶ谷知宏さん

ハレの日もケの日も変わらない富士山が好きだから。

日本のシンボルとして悠然とそびえ立つ富士山。
富士写真家、富士登山家という分野があるように、
その御姿に魅了されライフワークとする人は多い。
池ヶ谷知宏さんもそのひとりだ。

「goodbymarket(グッバイマーケット)」の代表、池ヶ谷さんは、
富士山の雄姿をユーモアあふれるプロダクトに落とし込む。

代表作は、『Fuji T』。
3776と書かれたTシャツの裾をつまんで外側にめくると、
めくったところを頂点に富士山が顔を出す。
見た目は数字(言うまでもなく、3776とは富士山の標高)が書かれた
変哲もないTシャツだが、裏地に富士山の絵柄が描かれているのだ。
「初めて富士登山するときにはオリジナルのTシャツを着ていきたいと思っていて、
思案中に着ていた真っ白いTシャツの裾をつまんだときにふと考えついたんです。
あれ、ここにも富士山があるじゃないか! って」
自分が初めて富士登山をするときの記念につくったTシャツが、
今では、静岡市美術館のミュージアムショップや、東京のインテリア雑貨店に並ぶ。
ほかにも、ティッシュを富士山の積雪に見立て、
つまみ出すと先の尖った富士山が完成するという
「ポケットティッシュケース『case 3776』」、
封をする部分に富士山の絵柄を施した
「封筒『Mt.envelope』」と「ポチ袋『Mt.envelope pochi』」などを次々と発表。
生活のなかでふとしたものごとの瞬間を、池ヶ谷さんは敏感に察知し、
ものづくりへと昇華させる。

「ポケットティッシュケース『case 3776』」

「封筒『Mt.envelope』」

池ヶ谷さんのつくり出す富士山はどれも鮮やかな青色をしている。「小さい頃から富士山と言えば“青”で“冠雪”だったんです」(池ヶ谷さん)

静岡県民でもこれほど富士山愛が強い人は稀なのではないか。
池ヶ谷さんは生まれも育ちも静岡市(旧・清水市)だが、
幼いころの住まいは富士山が見えるところではなかったそうだ。
「なので、たまに父が車で出掛けた時に海沿いから見せてくれた富士山は特別だったんです」
と話す。
池ヶ谷さんにとって、近くにいるのになかなか会えない恋人のような富士山。
だからこそ人一倍思い入れが強い。
音楽活動、建築の専門学校への進学、インテリアショップへの就職など、
上京し8年間を都内で過ごしながらも、
「いつかは地元・静岡に戻りたいとずっと思っていた」という宣言通り、
Uターンしたのが2008年。念願の富士山が見える部屋に住みながら、
プロダクトのデザインと販売を手がける企業に勤めたのち、
2011年に「goodbymarket」を設立。以降、静岡県内の企業の依頼で
広告やフライヤー、ロゴのグラフィックデザインを手がけつつ、
富士山をモチーフとしたプロダクト「Fuji」シリーズを企画販売している。

「ほかの地域で生まれ育っていたとしても、きっとその地域のアイデンティティを探してものづくりをしていたと思う」(池ヶ谷さん)

中指の第二間接を折り曲げたとんがりが富士山のようだと気づけば、第二間接部分のみ着色をした「軍手『Fuji Love Glove』」を販売。『Fuji T』とともに、富士登山のおともにどうぞ。

コミュニケーションツールとしてのプロダクト。

冒頭の『Fuji T』の話には続きがある。
Fuji Tをつくって実際に初富士登山に行った池ヶ谷さん。
無事頂上でFuji Tとのツーショットを納めることができた。
「そうしたら、“そのTシャツなに?”“どこで売っているの?”って、
他の登山客から次から次へと声をかけられたんです。
物がそこになくても、“富士山に登ったらこんなTシャツを着ていた人がいてね”
と、物のエピソードは語り継がれる。
いかにしてその商品がコミュニケーションを創造できるかということを
大事にしています」
それ以来、プロダクトには、日本一の霊峰・富士山という、
わかりやすくて誰からも愛されるモチーフから生まれる親近感に加えて、
ツッコミたくなるような、誰かに話したくなるような話題性を織り込んだ。

パッケージに書かれた商品コピーにもその姿勢が見て取れる。

「人生はわずかな思い込みから歯車が動き出すこともある」(『Fuji T』)
「突然の山雨、鼻水、大粒の涙…『突然』に備える人のことをオトナといいます」
(ポケットティッシュケース『case 3776』)

「小さいころから、いたずらをしかけてはその人の驚く顔を見るのが好きでした。
誰かの心を揺さぶるということが僕のテーマだとしたら、
この商品コピーはその延長線上にあるのだと思います」と笑う。
商品コピーを考えることで生まれた「言葉」への探求心は、
やがて池ヶ谷さんのデザイナーとしての活動にも影響を与え、
漢字をリデザインして立体作品やポスターなどで表現する
「emoglyph(emotion(感情)+hieroglyph(象形文字)を組み合わせた
池ヶ谷さん考案の造語。日本語にすると「情形文字」)」の個展を
2011年に県内のアートスペースで開催するなど、活動の幅を広げるきっかけとなった。
「漢字って見方を変えると面白いんですよね。
漢字が本来持つ意味とは違うものを感じたり、かたちを疑ったり。
富士山もそうですが、見慣れたものやあたりまえのものに
違う価値を見つけることが面白いんです」と言う。

よみかた:「気持ちで乗り越える」
意味:「あなたの目の前に現れたのは本当に壁だろうか? 本当にそうだろうか?
もう一度よく見て欲しい。壁を形成している辛(つらい)という文字が、幸(しあわせ)に塗り替えられているでしょ?
そう。その壁は気持ち次第で、壁にも踏み台にもなるわけです」

goodbymarket(グッバイマーケット)の名には、
「“マーケット”に“グッバイ”するのではなく、
“グッド”という感情が作品と結びつく場でもある、“マーケット”を見つめなおし、
新たなコミュニケーションプロダクトの創造を試みたい」
という想いを込める。
「だから、いつか一度くらいは富士山頂で
ポップアップショップの展開なんていいかもしれませんね」
と、茶目っ気たっぷりに言う池ヶ谷さん。その志は富士より高い。

「木」に一冊の本を加えたら「本」になる。一冊用の本棚『HONDANA』。

クロード・ガニオンさん

カナダ人から見た日本のローカル、沖縄の文化。

沖縄にひとり旅にきた主人公ピエール。
そこでさまざまなひとたちと出会いながら、自分の人生を見つめ直し、
これから訪れる老いを思う。
そんな映画『カラカラ』の象徴となっているのが、
カラカラという沖縄の泡盛を入れる酒器。
昔は焼いたときに陶器の破片が入り、
器が空になるとカラカラと音が鳴ったことから、カラカラ。
つまりカラカラは、空虚なものの象徴といえる。

「最初からこのタイトルにするつもりではなかったけど、
意味合いが面白いと思っていました。
映画は公開される国によってタイトルが変わることが多いけど、
これなら同じタイトルのままいけるというアイデアが決め手となって」
と語るのは、クロード・ガニオン監督。
沖縄に3年ほど前から住み、
「観光映画ではなく、僕の好きな沖縄を撮りたかった」という意欲作だ。

下が丸みを帯びた形をしているのが特徴。沖縄特有の素朴な味わい。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

東京ではなく地方の沖縄で、何に惹かれたのか。
沖縄のなかでもさらに地方の“何もない”場所を舞台として、
主人公のピエールは旅をする。
「ピエールは、リゾートには行かないひと。
ゴルフもやらないし、大きなホテルには行かない。
このひとだったらどこに行くかなという目線で場所を探しました」
例えば伊是名島。
みんな何もないというが、監督からみると「伊是名島の海は特別」なのだ。
外国人観光客が来ると、みんな那覇ばかり、国際通りばかり。
「信じられない! ほかにも面白い場所がたくさんあるのに。
僕は歩いていたら、毎日ステキなところをみつけられる」という。

南国の夏の着物として軽くてさらりとした芭蕉布。1972年、沖縄の日本返還と同時に県の無形文化財に認定され、2年後には、国の重要無形文化財にも認定された。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

もうひとつ好きなところは「沖縄のおばあ」だという。
おばあを代表として、沖縄は長寿の土地。
いくつになってもずっと仕事をし続けていることもその秘訣としてあげられる。
『カラカラ』にも元気なおばあがたくさん登場する。

「普通は歳を取るのが怖い。でも沖縄に行くとそんな気持ちがなくなります」
その象徴として描かれているのが、
人間国宝でもある芭蕉布づくり職人の平良敏子さんだ。
「敏子さんに出会って、すごくびっくりしました。
最初は映画に出演してもらうつもりではなかったけど、
シナリオを書いているうちに、やはり出演をお願いしてみようと。
沖縄では、高齢になっても仕事をしていることが大切で、
それを表現したかった。
もちろん芭蕉布の美しさも見せたかったけど、
90歳をこえる敏子さん始め、
おばあちゃんたちが社会のなかに居場所があること。
そこに非常に興味がありました。
しかも朝から晩まで立ちっ放しで働いています。
世界中のみんなに、歳を取っても人生をやめない沖縄の“おばあ”たちを見せたい」

このシーンだけ、ドキュメンタリーのように撮られている。
平良敏子さんに出演を快諾してもらっても
「どのようにみせればいいか不安でした」という悩みが監督にあった。
そこでドキュメンタリーの手法。
そもそもガニオン監督は、
プロの俳優と素人をミックスして演出することが多い。
「特別に何も頼みませんでした。毎日の作業をそのまましてもらっただけ。
プロと素人が一緒にやると面白いものが出てくるんですね」
そういう“生”の演出があると、確かに心に引っかかりができる。
偶然を必然に。
そんな監督の演出手法は、スタッフには面倒をかけるけど、
観る側にザラッとした質感を残すことができる。

ピエールが人間国宝の平良敏子さんの芭蕉布工房を訪れるシーン。ドキュメンタリーのような撮影手法で、平良敏子さん本人に登場してもらった。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

おもしろいものをみつける旅の達人。

監督は沖縄のみならず、日本全国、47都道府県を旅している。
そこでも、高速道路ではなく、積極的に脇道にそれていくようだ。
「日本には、ものすごくステキなところがたくさん残っていますね。
特に小さな村が好き。
一見、何もないようだけど、
ちゃんと見たらすごくいいものがたくさんあります。
ぼくは、絶対におもしろいものを見つけられます。
小さなお寺とか神社とか、建物とか、ちょっとした山の上とか。
あとはおじいちゃんとか子ども。いいところは、どこにでもたくさんある」
監督は旅上手なのだ。
すでに見る場所が整っているところに行くのではなく、
視点を変えれば、見どころはそれぞれの人次第。

「この前、2週間ハンガリーに行ったけど、まったくノープラン。
430kmかけて、車を運転したけど、いいシナリオが浮かんだし、
探していたイメージ通りの犬が見つかりました(笑)。
でも、プランニングすると不思議と見つからないもの」
最初から探すつもりなんてない。でも、だからこそ見つかる。
そんな視点で地方を旅してみれば、
日本国内でも、いろいろと楽しいものが見つかりそうだ。

ピエール役のガブリエル・アルカンと、純子役の工藤夕貴。(C)2012 KARAKARA PARTNERS & ZUNO FILMS

ガニオン監督は、毎日、家の近くの通称「三角公園」にいくという。
そこで毎朝、気功をする。
周囲のひとたちはみんな知り合いなので、毎朝挨拶する。
「沖縄にはコミュニティライフが残っている」という。
毎日のように会い、一緒に何かを作業する。
日本人より、日本人の地方の力を知っている
クロード・ガニオン監督が描いた日本、そして地方である沖縄。
そんな視点で観ても面白い作品だ。

表情が豊かなクロード・ガニオン監督。インタビューは通訳なしでOKなくらい日本語が達者だ。

湯町窯/布志名焼

民芸を受け継いだエッグベーカーのある風景。

JR玉造温泉駅をおりて、歩いて1分ほどで現れる古い風情を残した陶芸の工房。
店内には商品が所狭しと、重なり合いながら並べられている。
商品を飾り立てるようなディスプレイというよりも、
実用のための陶器をありのままに陳列している店舗であることがわかる。
ここは布志名焼を製陶している湯町窯。
奥には工房もあり、現在は3代目の福間琇士さんと4代目の福間庸介さんが
器や茶碗づくりにはげんでいる。

雑然と並べられていても、どこか美しさを感じさせる食器たち。

島根県の布志名という宍道湖岸で江戸時代にはじまり、
伝えられてきた布志名焼。来待(きまち)や凝灰岩(ぎょうかいがん)といった釉薬の原料、
そして土台となる土が近くで取れることもあり、
この地で陶芸が興ったのも必然だったのかもしれない。
そのなかで、湯町窯は大正11年11月11日に開窯。
初代の福間善蔵さんは主に火鉢をつくっていた。当時は暖房としてのほかに、
炭火を使ったり、灰皿にしたりと生活必需品だったという。

洋風のカップも湯町窯の特徴。持ちやすいハンドルが付けられたマグカップは人気商品だ。

昭和6年、2代目の福間貴士さんは、島根を訪問した柳宗悦と出会う。
そして彼が起こした民芸運動の哲学に共感し、参加することになった。
昭和9年には、日本の民芸運動にも関わっていた
イギリス人陶芸家バーナード・リーチが湯町窯をたびたび訪れて、
彼に伝授されたつくりかたで、洋食器もつくり始めた。
「黄色は黄釉(おうゆう)、青は海鼠釉(なまこゆう)という釉薬を使っています」
と琇士さんがいうように、洋食器なのにどこか懐かしい雰囲気が漂うのは、
湯町窯独特の色合いがあるからかもしれない。

白い黄釉は、黄色に変化する。

バーナード・リーチはエッグベーカーや、スリップウェアという技術も伝えた。
エッグベーカーは、今でも湯町窯の軸となる商品だ。
目玉焼き専門の陶器で、卵を割り入れ、蓋をして、
わずかに数分火にかけるだけ。あとは余熱で火が通る。
これでつくった目玉焼きはとてもやわらかく、ふんわりしている。
湯町窯でごちそうになった目玉焼きは、
これまでの目玉焼きが何だったのかと思うくらいに、食感が違っていた。
「高級な卵なんてつかっていません。普通のものです」という。
あとで何度か挑戦したが、自分の好みの火加減や時間さえ見つけてしまえば、
何も難しいことはなく、毎朝が贅沢な時間になる。
しかしこれを最初につくったのは、ガスがない時代の昭和9年。
「炭で調理していたので、難しかった」というが、
だからこそ余熱で調理していくという手段が適していたのかもしれない。
エッグベーカーに魅せられたひとりに、棟方志功がいる。
彼は民芸運動を通して湯町窯を訪れて交流を深め、
今でもエッグベーカーの使い方のしおりやショッピングバッグには、
彼の版画が使われている。

卵を贅沢品にする、魔法のエッグベーカー。

エッグベーカーなどに描かれている独特の模様は、
西洋でみられたスリップウェアと呼ばれる技法で描かれ、湯町窯らしさが表現されている。
どろどろの粘土状の土で飾りを描いていく。
スポイトに入れて模様を描けば、自由度も高い。
「かつて日本では筒書きと呼ばれていた技術です。
細かく描くこともできるし、大胆な柄にすることもできます」

釉薬をひとつひとつ手作業でかけていく。どんな色の仕上がりになるか楽しみだ。

海鼠釉というグレーの釉薬は、焼くと渋い青になる。

2代目の貴士さんが民芸運動に傾倒し、
3代目の琇士さんもその方向性を継承する。
「民芸という言葉をあまり意識しすぎないようにしています。
そういう意味では柳先生のおっしゃることを100%実行しているわけではなく、
はずれたものをつくっているかもしれない。
でも現代にあわせた民芸を提案していけば、
新しい実用品が生まれると思っています」
柳宗悦が提唱した民芸運動は、昭和初期のものであり、そのときの実用品。
湯町窯のように、その考え方を脈々と受け継いでいる窯元が、
現代の民芸と呼べる商品を生み出すのかもしれない。

琇士さんの息子の庸介さんが跡を継ぐ。

琇士さんの作陶歴は、18歳からはじめて50数年。
「まだまだ何もできません。努力しなくてはなりません。
一生懸命、真心こめてつくっていますが、楽しむことはできないね」と
琇士さんは笑う。
多いときで11軒ほどあった布志名焼の窯元も、現在では4軒を残すのみだ。
湯町窯では、息子である4代目の庸介さんが跡を継いでいる。
エッグベーカーでできた卵焼きのごとく、
やさしい民芸の心と次世代へ伝承がきちんと息づいていた。

工房には、大量のお皿や器が。あくまで日用品なので、どんどん数をつくりだす。「性分にあっています」と琇士さん。

綾町の有機農業

安全で、そして何よりおいしい綾町の有機野菜を。

今年の7月、日本では32年ぶり5か所目のユネスコエコパークに、
宮崎県東諸県郡の綾町が登録された。
ひとと自然が共生したまちづくりが行われていることが
認定基準となっているものだ。
綾町は日本最大級の照葉樹林が原生的な姿をとどめるなど
豊かな自然を誇るが、
“ひとと自然の関係性”を物語る根本となっているのが有機農業だろう。

今でこそ、有機農業の野菜はお母さん層を中心に人気が高く、
有機農法の農家も増えている。
しかしさまざまな生産態勢との兼ね合いから、
いつでもどこでもすぐに有機農家を始められるわけではないのが現実だ。
綾町では、70年代から有機農法の推進機関や
家畜のフンや家庭ゴミを有機肥料に処理する施設を設置するなど、
有機農業を行政自体が積極的に進めてきた歴史がある。
特に1988年に制定された「自然生態系農業の推進に関する条例」は
全国的にも先進的な事例で、それ以降“有機農業のまち”として、
今でも就農を目指す研修希望者などがあとを絶たない。

そんな綾町のなかでも長老とでもいうべき伝説のつくり手がいる。田淵民男さんだ。
綾町の畑がたくさんある平地エリアから少し登った、
静かな山の中に田淵さんの自宅と畑はある。
田淵さんの父親が1946年にこの地に入植して開拓。
1952年に、この地で初めて日向夏とはっさくを植えた。
その頃から農薬は使っていなかった。
田淵さんは、親の農業を手伝いながら建築業を営んでいたが、
1979年から本格的に農業を開始。当時は、周りに有機農家などおらず、
綾町が本腰を入れる以前から、有機農業に取り組んでいた。

田淵さんの手はグローブのように厚い。何十年も土をさわり続けていた手だ。

「とにかくおいしいものじゃないと、勝負にならないと思ったんです。
農薬を使うとどうしても野菜も土も固くなる」と
無農薬にこだわり続ける理由を語る。

田淵さんがもっとも力を入れてきたのが土づくり。
家畜を持っていないなかで、
お金をかけず、いい堆肥をつくるために、ある方法を考えついた。
「自然を利用する自然生態系農業を始めました。家の周辺は自然豊か。
夏には雑草を刈り、秋冬は落ち葉を拾い集めて堆肥づくりをしています。
また、深さ70cmくらいまで掘って有機物を埋め込む
スコップ農業にも取り組んでいます」というように、
まだ有機農業が確立されておらず、文献や資料などが少ない頃から、
毎年土をつくり、自らの手でさまざまな農法を実験してきたのだ。
だから、おいしい。
「田淵さんのだいこん」のみを買い求めるために、
わざわざ遠方から車で訪れるひともいるほど、
田淵だいこんファン、にんじんファンは多い。
しかし、この味にいたるまでには、10年かかったという。

「だいこんもなかなかいいものができなかったんですが、毎年肥料を変えてみたり
試行錯誤して、なんとか納得できる味になりました。
それまでに10年くらいかかりますね。
百姓の品物は、1年に1回しかできません。
でもつくり上げたときは、うれしいですよ」
驚くことに、田淵さんは他のだいこんを食べて
「これはこの肥料が足りないな。こうすればもう少しおいしくなるのに」と、
育て方がわかるという。

機械を使わず、軍手すら使わず、素手でその感触を確かめ、
長い間こだわってつくられてきた土。
現在育てている野菜は、だいこん、にんじん、キャベツ、たまねぎなど20種類ほど。
そこで育つ作物は、土から栄養をたっぷり取り込んでいるのだろう。

土づくりが最大のこだわりだという。

有機野菜を全国へと広める母の心。

田淵さんをはじめ、綾町のこだわり農家の有機野菜ばかりを
ネット販売しているのが「オーガニックマミーズストア」だ。
綾町の野菜を広めることで、農家を、まちを元気にしようと試みる。
店長の藤元やす子さんは、ふたりの娘を持つお母さん。
娘が大学進学のため、東京へ出ていったときに感じたことが、
マミーズストアの原点にある。

「東京で食べた野菜が値段のわりにおいしくなかったんです。
娘はずっと綾町の新鮮でおいしい野菜を食べて育ったので、
都会でこれからちゃんと野菜を食べていけるかな? と心配になりました。
だからずっと綾町の野菜を娘に送っていたんです」

いつも明るい笑顔をふるまくオーガニックマミーズストア店長の藤元やす子さん。

こうして定期的に送られてきていた野菜たちは、
娘の友だち周りでもおいしいと評判に。綾町野菜の食事会を開いたり、
友だちにプレゼントするととても喜ばれた。
そうすると娘の友だちにもおいしいものを食べてほしくなる。
そんな思いがきっかけとなり、
もっと多くのひとに綾町の野菜を食べてもらいたいとショップを始めた。
おいしくて、安心安全な野菜を子どもたちに食べてほしいというのが母の心。
それこそ文字通りマミーズストアのコンセプトとなっている。

「基本単位はやはり家族だと思うんです。
家族が食卓を囲んで、おいしいものを食べて、笑顔になることが重要。
その中心にいるのはやはりお母さんだと思うんです」というだけあって、
笑顔が素敵な藤元お母さん。

扱われている野菜は、
藤元さんみずから、直接交渉して契約してきた農家の野菜たち。
「綾町の生産者が真心こめて一生懸命つくっているもの。
自分が食べてみて、
おいしいと納得できる農家の野菜を取り扱うようにしています」
さらに農家のお母さんも携わっているような家族経営の小さな農家から
買いつけることにこだわっている。
野菜をつくるのも、売るのも、お母さんの愛情が真ん中にある。

野菜の集荷は、藤元さんが綾町中を回って、
農家とコミュニケーションを取りながら、直接行っている。
そうすることで、そのときの畑の様子や野菜の生産具合も
ダイレクトにわかるし、農家と近況を話すこともできる。
そんなさりげない思いやりを大切にした仕事を心がけているという。

そこで生まれるのは、小さなコミュニティ。
農家は基本的にそれぞれ個々人の活動なので、
他の農家と交流する機会は少ない。
「せっかくみなさんがまちをあげて有機野菜という
素晴らしい商品を生み出しているので、それをお手伝いしながら、
小さくてもあたたかいコミュニティが自然に生まれたらうれしい」と
藤元さんもその理想を語る。

綾町で採れたて、ナスとオクラ。

綾町が有機農業の発祥のまちだといっても、全国の農業と同じく、高齢化が進み、
後継者不足に悩んでいる。新規就農希望者や研修生も挑戦に多く訪れるが、
農業の大変さに尻込みして、辞めてしまうひとも多いという。
特に有機農業は、農薬を使わない、化学肥料を使わない。
すると当然ながら手間がかかる。だから大量生産はできないし、
収穫量をピッタリ計算することは難しい。
生業として条件が良いとは言い難い。ある種の“ものづくりの精神”なのだ。
だからこそ、オーガニックマミーズストアの藤元さんは言う。
「綾町の農家コミュニティを広げるような活動をしていきたい。
有機農家の野菜づくりへの心意気をもっと知ってもらいたい。
そして何より、安心安全で、
おいしい野菜を全国のみなさんに食べてもらいたい。
そのためのイベントなども計画中です」

新居幸治さん 洋子さん

知らない土地ではじまった、服づくり。

東京から新幹線で1時間弱のところにある静岡県熱海市。
かつては多くの文豪も通いつめた、潮風香る温泉街には、
今もレトロな看板や喫茶店が佇む。そんな昭和の香りが漂うまち並みを抜け、
海岸線を横目に、車で10分ほど行くと、ファッションブランド、
「Eatable of Many Orders(エタブルオブメニーオーダーズ、以下エタブル)」の
アトリエがある。

デザイナーの新居幸治さんは、アントワープ王立芸術アカデミーで学び、
同じくデザイナーの洋子さんは、
著名なデザイナー、ベルンハルト・ウィルヘルム氏に師事していた。
ふたりはベルギーで出会い、帰国後、熱海に移り住み、エタブルを立ち上げた。
天然の染料や革など、自然の素材にこだわり、
少しまるみを帯びた独特なフォルムや
シンプルながらもどこか愛らしいエタブルの洋服。
それらすべて、ひとつひとつ素材と製法にこだわった丁寧なものづくりには、
日本はもちろん、海外にも根強いファンが多い。

エタブルのアトリエの玄関。入り口には、コレクションサンプルが飾ってある。

入り口のショーケースにあるのは、幸治さんがひとつひとつ手掛ける木のキーホルダー。

海外で研鑽を積んだふたりが、どうして熱海に拠点を? と伺うと、
「たまたま、なんです」と話す幸治さんは東京都出身、
洋子さんは愛知県出身と、ふたりにとって熱海は全くゆかりのない土地。
「帰国して幸治さんの父親に物件を紹介してもらって、熱海に越して来たんですが、
右も左も分からなくて。まるで海外生活の延長のようなかんじでした(笑)」
と洋子さん。しかも、当時住んでいたのは別荘地だったため、
地域の人との交流もなく、まるで言葉の通じる異国にいるような暮らしだったという。
服のデザインのほかに、バッグなどを制作するのに木工を手がける幸治さんにとって、
比較的東京にも行きやすく、
材料となる木材などが手に入りやすい自然豊かな熱海は魅力的だった。

月に一度、アトリエを開放する限定ショップでは、アーカイブも含めた中から月ごとのテーマにあわせたラインナップが並ぶ。

革加工をする机。たくさんの道具が並ぶ。

しばらくは、住まいをアトリエと兼用しながら制作に没頭していたふたりだったが、
熱海での暮らしが1年ほどすぎた頃、古くからの住人も多い、
上多賀というエリアで見つけた古民家を改装し、アトリエを構えた。
「それなら、このアトリエで期間限定ショップを開いて
地元の人や東京からのお客さんを招こうってなったんです。
期間限定ショップの名前は『山猫軒』。
それまで、私たちから地元の人たちに何かアプローチすることはなかったから、
近所にお住まいの方も、何をそんなに一生懸命こしらえているのかって
不思議に思っていたんじゃないかな(笑)。
でも、このイベントのおかげで各集落に私たちの洋服の顧客ができたり、
地元に住む家具作家さんやグラフィックデザイナーさん、
画家の人などと知り合えたのはとてもよかったですね」と洋子さん。
幸治さんも「最初は自分たちの制作現場を見せるということに
少し抵抗もあったんです。でも、少しずつ意識が変わってきて、
いまは月に1度アトリエを開放して「山猫軒」をオープンしたり、
熱海でも、ファッションショーを行うようになったんです」と話す。

この「ハンガーバッグ」の誕生がブランドの立ち上げとなった。今もひとつひとつアトリエで手づくりされている。

左が幸治さん、右が洋子さん。アトリエの奥にはこれまで制作したバッグや靴が並ぶ。

熱海花柳界が花開いた舞台で、今季のショーを開催。

アトリエを開放し始めたり、プライベートでは子どもが保育園に通いはじめたりと、
エタブルのふたりにとって、知らない土地だった熱海が、
少しずつ、なじみ深いものに変化してくる。
そんなとき、熱海らしい場所でファッションショーをやらないかという声がかかった。
それが昨年の、大正期に建てられた熱海の文化財建築、「起雲閣」でのショーだった。
「僕はそういったものが面白いって思っちゃうタイプだから、
軽い気持ちではじめてしまったんですね」と幸治さんは昨年を振り返る。
少ないスタッフでやりくりしながらのショーは、とても大変だったというが、
起雲閣でのショーは好評を博した。続いて今年の5月には多賀神社で、
そして、11月23日には、熱海芸妓見番で行うことになっている。
「神社や有名建造物など、面白い場所でファッションショーができるのも、
協力してくれる方がいる熱海ならではの面白さかもしれません」(幸治さん)

毎週土日には一般にも開放される熱海芸妓見番。芸妓さんの踊りが鑑賞できる。

ちなみに、今回ショーが行われる熱海芸妓見番とは、
芸妓が所属する「置屋」の組合で運営している、演舞場だ。
熱海の芸妓衆が稽古をする拠点でもある。
かつては東京の奥座敷と呼ばれるほど熱海の花柳界は栄え、華やかな歴史を持つ。
もっとも栄えた昭和の全盛期には、1000人を超える芸妓がいたという。
今でも200人前後の芸妓がおり、置屋は約80軒ほどある。
観光事情が著しく変化している昨今で、
熱海の芸妓文化をどう後世に伝えられるのかが
今の課題だと、組合長をつとめる西川千鶴子さんは話す。
「これまでは、寄席や着物の展示会などは開いたことがあっても、
ファッションショーを開催するのは、熱海芸妓見番にとって、初めてのこと。
わたしたちにとっても新しい試みなので、みんなとっても楽しみにしているんですよ」

建物は昭和29年にに建てられた。演舞場入り口には、歴代の芸妓さんの写真が飾られている。

組合長の西川千鶴子さん(芸名:松千代さん)。ちょうちんに明かりが灯ると、一気に雰囲気が高まる。

わたしたちが訪れた日、熱海芸妓見番では、
幸治さん、洋子さんとスタッフの方々が、芸妓さんたちのお稽古の合間に、
慌ただしく舞台での動きや照明などの確認をしていた。

プレススタッフの増崎さんと、今回のショーを手伝ってくれているという、熱海の干物店の若旦那・富岡さんを交えて舞台で打ち合わせ中。

宮沢賢治の著書をブランド名に引用しているエタブルは、
2012年の春夏から、宮沢賢治の著書をシーズンテーマにもしている。
完結の三部作目となる、今季のテーマは『ポラーノの広場』。
洋服に織り込められた物語が、朗読や音楽も加わりながらショーで表現されるという。
とは言え、日本舞踊のためにつくられた舞台で、
自分たちの世界観をどこまで表現できるかが要となる。
「見番の舞台では、細かい決まりごとがたくさんあって、
僕たちの表現が制限されることもあるんです。ただ、
自分たちが大切にしたい世界観を表現したいと思う一方で、その土地でやるからには、
ある程度土着性みたいなものとも向き合っていきたいと、いまは思うんですよね。
来てくれた人が熱海のよさを
少しでも汲み取れるようなものになったらいいのかなと思っています」
と幸治さんは今回のショーに向けての思いを話してくれた。
エタブルの洋服そのままのような、
ゆるやかでかわいらしい雰囲気を纏う幸治さんと洋子さん。
偶然に暮らしはじめた熱海という土地で、
自分たちのブランドの道をゆるやかに追求している。

profile

Eatable of Many Orders
エタブルオブメニーオーダーズ

多摩美術大学で建築を学んだ後アントワープ王立美術アカデミーを卒業した新居幸治と、アントワープ・パリでベルンハルト・ウィルヘルムに師事、バルセロナでの革工芸経験ももつ洋子により、鞄・靴を中心として 2007年にスタート。ブランド名の「Eatable=食べられる」は素材の理解、天然素材の使用、染色工程や革 の鞣しなどへのこだわりを表現する言葉で、そのこだわりが1点1点の商品に表れており、その素材感や独特のデザインを楽しむ顧客が多い。現在、熱海に暮らしながらクリエーションを続け、毎シーズン、パリと東京で展示会を行っている。

www.eatableofmanyorders.com 

information


map

エタブルのツキイチショップ「山猫軒」

毎月第1日曜日(※月により変更となる場合がありますのでHPなどでご確認下さい)
住所 静岡県熱海市上多賀277(エタブル熱海アトリエ)
JR伊東線「伊豆多賀駅」より徒歩7分
電話 0557-67-0718

熱海芸妓見番ファッションショー

熱海芸妓見番
2012年11月23日(金・祝)15:00開演(14:30開場)
入場料 1.000円
衣装/エタブルオブメニーオーダーズ、スライド原画/小林敏也、音楽 OVERROCKET、
踊り/熱海芸妓、舞台演出/池内万作、舞台美術/近藤正樹、音響/AO
※お問い合わせはエタブルオブメニーオーダーズまで。

門脇美巳さん、洋之さん、裕二さん

島根発! 親子3人でつくりあげた世界基準のコーヒーをどうぞ。

某外資系コーヒーチェーン店が、
「島根県には出店したくてもできない」と言ったという逸話があるらしい。
島根には個人経営の喫茶店が多く、新規参入が難しいという意味だ。
その代表格ともいえるのが門脇家である。
ことのはじまりは、門脇美巳さんが1967年、
安来市にオープンしたサルビア珈琲。
もともとはパフェや紅茶、ジュースなどを提供するよくある喫茶店だったが、
1980年頃から自家焙煎を始め、本格コーヒーへと舵を切っていく。

「すでに炒ってある豆を買ってきてもあまりおいしくなくて、
自分で生豆をぎんなん焼きで炒ってみたら、すごくおいしかったんです」
と、美巳さん。
それ以来、サルビア珈琲では余計なメニューはそぎ落とし、
ドリップコーヒーへの道を究めていく。

ゆっくりとコーヒーを落とす門脇美巳さん。サルビア珈琲は昔ながらの喫茶店のたたずまい。

サルビア珈琲は、1階が店舗、2階が住宅。
この家で育った長男・洋之さんと次男・裕二さんは、
毎日、店のなかを通って学校に行き、店のなかを通って家に帰る。
父親の働く背中を見続ける生活が、
彼らをコーヒー道へと突き進ませることになった。

長男の門脇洋之さんは、
現在、父親と同じ島根県安来市でカフェロッソを経営している。
父親の店を見ているうちに、コーヒーを生業にしてみたいと思った。
ただし、店で出すのはエスプレッソ。
洋之さんがその道を考えていた頃、
全国で外資系のコーヒーチェーン店らが流行しはじめていた。
当時の日本にはまだ馴染みの薄かったエスプレッソ文化を持ってきた黒船だ。
「新しいコーヒーが新鮮だったし、若いお客さんで流行っていました。
ライフスタイルが変わる予感がしたんです。
そのルーツを辿るとイタリアだということがわかって、
イタリアにエスプレッソの研究に行きました。
ミラノのあるバールのエスプレッソにたどり着いて、コレだ! と思いましたね」
と目指すものを見つけ、自分の味づくりに邁進する。

ここでひとつの疑問。
父親ゆずりのドリップコーヒーを継承するという道は考えなかったのだろうか。
「昔はいろいろな喫茶店に連れていってもらったんですけど、
結局、父親のコーヒーが一番おいしくて。これは超えられない。
それならば、エスプレッソという未知のものを自分の力で開拓していこう」と、
美巳さんが泣いて喜びそうな、おふくろの味ならぬ“オヤジの味”へのリスペクト。

ミルクを注ぐ瞬間からラテアートは始まる。長男の門脇洋之さんの丁寧な手つき。

現在は通販で豆の販売にウエイトを移している。人気の2銘柄。(カフェロッソ)

次男の門脇裕二さんも、長男洋之さんと同様コーヒー業界へ。
島根県松江市でカフェヴィータを経営している。
息子がふたりともコーヒーの道へと進み、父親も現役。
それも東京などに出ていくわけでもなく、島根県内でしのぎを削っている。
しかも洋之さんはワールドバリスタチャンピオンシップという世界大会で
2003年に7位、2005年に2位に輝いている。
裕二さんも2003年に日本バリスタチャンピオンシップで2位。
このときの優勝は無論、兄の洋之さん。
2008年にはUCCコーヒーマスターズエスプレッソ部門全国優勝という、
コーヒーエリート一家。
こうして門脇ファミリーのコーヒートライアングルは形成され、
3軒ハシゴなんてコーヒー通の観光客も登場するようになる。
愛好家にとっては出雲大社より、“門脇カフェ詣で”なのだ。
“どこがおいしかった”なんて評論しあうのも楽しいだろう。

三者三様のコーヒー飲み比べツアーへ。

同じ血筋であり、同じコーヒーで育ったのに、実は味の嗜好はそれぞれ異なる。
では、それぞれのコーヒーをみていこう。

昔懐かしの雰囲気が漂う喫茶店、サルビア珈琲。
美巳さんはカウンターの向こうで豆を挽く。
それをペーパーに移し、お湯を注ぐ。すべてが手際よい。
カウンターはすこし低く設定され、対面で行われている作業はすべて丸見えだ。

お湯を注いでふくらむコーヒー豆が新鮮な証拠。(サルビア珈琲)

「ネルでもやったんですけど、やはりペーパードリップが一番簡単。
同じようにやってもらえれば、ある程度、味が再現できます」と、
あくまで家庭でおいしく飲んでもらいたいがために、
ドリップの過程を公開しているようなもの。
細かく聞けば、焙煎具合で後味をすっきりさせたり、
お湯の温度、季節ごとの豆の水分の違いなど、こだわりトークはとまらない。
しかし、現在では豆の販売を中心にしているので、
その豆を使ったおいしい淹れ方を普及させようと努めている。
「豆は生鮮食品です」と強く語る美巳さん。一番はやはり豆。
新鮮な豆は、お湯を注いだ瞬間の、ふわっと広がる反応がまったく違うという。
美巳さんの淹れてくれたコーヒーは、やさしくてさわやかだった。

“生鮮商品”であることをハッキリと明示。新鮮さが命だ。(サルビア珈琲)

かわいいラテアート含め、カプチーノが人気なのがカフェロッソ。
洋之さんは、一時はバリスタの大会などに積極的に出場していたが、
あるときから「自分の求めている味を追求すると勝てない」ことが
わかってきた。コーヒー業界のなかにも流行があって、
フレッシュな酸味という今のトレンドは、洋之さんの好みの味ではないという。
それからは、大会よりも自分の好きな味を追求し、
毎日生み出すという活動に変化してきた。
現在、洋之さんがこだわっているのは追熟させた味。
「炒ったコーヒー豆をパックして、
熟成が進むような温度帯を見つけようと研究しています。
エスプレッソは、炒ってすぐだと泡がモコモコになってしまいます。
ある程度時間が経たないとまとまらない」と、
豆をなるべく一番いい状態で保つことが目下の課題のようだ。
いただいたカプチーノには、木の葉のラテアートが描かれていた。
レパートリーは10数種類。きめ細かい泡がとてもやわらかい。

こんなかわいいクマやパンダから、木の葉まで。(カフェロッソ)

裕二さんが経営するカフェヴィータは、
3軒のなかで一番若者のカフェらしい佇まい。
ここでいただいたエスプレッソは、
カップの内側にコーヒーがはねたような跡が残る。
通常は抽出口が二股に分かれているエスプレッソマシンだが、
裕二さんはそれを一か所から抽出する。
そうすると、どうしても内側が汚れてしまうという。
それも裕二さんが求める味を提供するためのことなので、しかたがない。
ひとくち口に含むと、かなり油分を感じ、こってりと濃厚だ。
残りは、裕二さんの勧めで砂糖をたっぷりと1本入れてみる。
するとその味わいはほとんどチョコレート。
裕二さんがつくるパンチ力のあるエスプレッソは、
兄・洋之さんの「赤ワインのように最初のアロマから、
後味の余韻へと変化していく」エスプレッソとは、兄弟でも好みが異なる。

ある意味、見た目通りのワイルドなエスプレッソ。コクがたっぷり。(カフェヴィータ)

三者三様のコーヒー。共通点といえば、島根で展開していること、
そして姉妹店などを出さずに小規模のまま
自分の目が届く範囲で経営していること。
3人とも職人肌で、自分でやらないと気が済まないタイプなのだ。

父親の美巳さんは「ふたりとも、ひとを使うのがへたくそ」と笑う。
それを裏付けるように長男の洋之さんも
「コーヒーをつくるのは自信があるんですけど、
マネジメントとか教育とか苦手なんですよ。あまり器用じゃないので、
いろいろなことをやるとコーヒーから離れていきそうで……」と、
あくまでコーヒーのクオリティを守るための
現状の店舗であり、スタイルなのだ。
「こっちは気楽ですよ。焙煎しても誰からもクレームこないし。
ゆっくりしているから、1杯1杯しっかり出せます。
お客さんが増え過ぎてしまうと、クオリティを保てるかわかりませんから」
と次男の裕二さんも、島根にいるからこその優位性を語る。

島根でなければ飲めないコーヒー3杯。
これを飲むためだけに行く価値がある、親子の物語たっぷりのコーヒーだ。

洋之さんのこだわりが感じられるひとこと。(カフェロッソ)

豆袋には3店舗のネーム入り。同じ業者から豆を購入することも。

Shop Information


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サルビア珈琲

住所 島根県安来市安来町西小路1918
営業時間 9:00〜18:00
定休日 日曜日
TEL 0854-22-2088


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CAFÉ ROSSO beans store+cafe
カフェロッソ ビーンズストアプラスカフェ

住所 島根県安来市門生町4-3
TEL 0854-22-1177
営業時間 10:00〜18:00
定休日 日曜日(祝日は営業)
http://www.caferosso.net/


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CAFFÉ VITA
カフェヴィータ

住所 島根県松江市学園2-5-3
TEL 0852-20-0301
営業時間 10:00〜20:00
定休日 木曜日
http://caffe-vita.com/

大久保秀和さん

米づくりへの自信

茨城県北部、日本三名瀑のひとつに数えられる袋田の滝がある大子町(だいごまち)。
中山間地であるこの地には、清流久慈川が流れ、いくつもの支流が田んぼを潤す
豊かな水の恵みを受けてきた土地であり、古くからおいしいお米の産地として知られている。
この地で、代々農業を営み、米づくりに携わってきた大久保さん一家。
秀和さんと父である憲治さんを中心に、現在は約20ヘクタールの田んぼで米づくりを行っている。

左から大久保憲治さん、三枝子さん、そして秀和さん。

「自分が家を継ぎ農業を続ける」
当然のごとくそう考えていた秀和さんは、茨城県立農業大学校を卒業後
実家において父、憲治さんとともに米づくりに取り組み始める。
「最初の頃はキュウリ栽培も行っていたのですが、この周辺で米づくりをする人が減っていき、
田んぼの管理を頼まれることが多くなり、米づくり中心の農業となっていきました」

大久保家に代々続く米づくりのノウハウを研究しそれを高めることによって
よりおいしいお米を生みだそうと努力を重ねていく。
そして、この努力は確実な結果として表れ、
周囲でも評判のおいしい米づくりができるようになっていった。
「しかし、いくらおいしさに自信のある米をつくっても、それが認知されなければ
単なる自己満足に終わってしまう」
そんな思いの中で2006年に、お米の食味コンテストとして権威ある
「お米日本一コンテストinしずおか」に自慢のコシヒカリを出品することにした。

「正直なところ、ある程度の評価をいただければいいという思いでした。
しかし、結果を聞いてビックリ!」
結果はなんと最優秀賞を受賞。「日本で一番おいしいお米」の称号を受けたのだ。
これは茨城県初の快挙だった。
「昔からの米ぬかをベースとしたオリジナル肥料を使い、丁寧な米づくりを行う。
あとは豊かな土地と気候が育ててくれます」
と、米づくりの秘訣についてあっさりと語る秀和さんだが、
その奥に熱く秘められた情熱は、日本一となったあとも、次なる未来へと向けられている。

「新たに静岡、福島、山形の米づくりを行う仲間たちと
『カミアカリドリーム』という勉強会を通して、
巨大な胚芽をもつ新しい玄米食専用品種『カミアカリ』を育てようと取り組んでいます。
新しい品種は次々と生まれてきていますが、自分たちの手で育て、
後生に残す品種をつくりあげようと、仲間たちと協力しているところです」

丘陵の間に広がる大子町の田んぼ。この豊かな土地で日本一のコシヒカリが生まれた。

地元を思う心が生み出す新しい農業へのチャレンジ

2006年に「お米日本一コンテストinしずおか」で最優秀賞を受賞後、
秀和さんは米づくり以外の新しいチャレンジも始めている。
「地方の一農業者が、企業や行政の大規模な企画や予算の事業ではなく、
小規模だけど自分たちのこだわりの詰まった商品を生みだし消費者に届ける。
という農業のひとつのかたちを示したかった」
と、まずは仲間と日本酒づくりに取り組んだ。

きっかけは、地元を愛する仲間たちとの会話からだった。
それは単に農家が酒米をつくるということではなく、
仲間とともに、酒米づくりに始まり自分たちの考える日本酒への思いを酒蔵さんに伝え
米農家と仲間たちが生み出した、こだわりの日本酒を完成させることだった。
大子町で生産される「米」、それにかかわる「人」にこだわり、
この地の古い呼び名にちなんで名付けられた純米酒「穂内郷(ほないごう)」。
大子町の豊かな土地を感じさせる深い味わいをもつ日本酒はすぐに評判となった。

また、日本各地の中山間地と同様に、
大子町も農業後継者がいないために増え続ける休耕地が問題となっているが
そんな休耕地を利用してのそば栽培にも取り組んでいる。
大子町はもともとそばでも知られた土地。
そこで休耕地を利用してそばを栽培し、
乾麺そば「保内郷(ほないごう)蕎麦」として販売したところ
大子町のお土産として喜ばれている。

日本酒づくり、そばづくり、ともに地元生産の素材を活かし
少しでも地元が活気づき、元気になる力となれば、という思いから始めたものだ。
「地元をアピールすることで特徴も生まれ差別化もできる。
米や野菜、その素材をつくった人の顔が見えるものづくり、これからはそんな時代だと思う」

大久保農園のコシヒカリ「大久保農園の米」「日渡の米」。そして「保内郷蕎麦」と純米酒「穂内郷」。

今年、10月6日から12月9日(水曜定休)まで
秀和さん、そして憲治さんも卒業した旧上岡(うわおか)小学校において
「おいしい さとやま学校」というイベントが行われる。
これは、2001年に廃校となり、保存された趣ある旧上岡小学校の木造校舎において
東京にある有名なイタリアンレストランのシェフが、
地元大子町の素材を活かした料理を提供する期間限定のレストラン&ライブイベント。

地域活性化を目的としたこのイベントへの食材提供はもちろん
運営や準備にと、忙しい農作業の合間をぬって飛び回った秀和さん。
「大子町にはすばらしいものがいっぱいあります。そこに住む我々がそのすばらしさを知り、
守り、アピールしていくことで輝いてくると思います」
生まれ育った大子町への熱い思いが、
農業だけでなく地域を巻き込んだチャレンジへとつながっている。

profile

HIDEKAZU OKUBO
大久保秀和

1971年生まれ。茨城県立農業大学校を卒業後、実家で父とともに農業を営む。06年、「お米日本一コンテストinしずおか」で最優秀賞を受賞。08年、農事組合法人 大久保農園を設立。
http://www.okubo-farm.com/

information


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おいしい さとやま学校

住所 茨城県久慈郡大子町大字上岡957-3 旧上岡小学校
営業期間 2012年10月6日(土)〜12月9日(日)
営業時間 10:00〜19:00(水曜定休)
http://oishii-satoyama.com

安彦年朗さん

落ち着いて関係を築き、制作できる場所を求めて。

益子の隣町、茂木町で作品制作をする木工作家の安彦年朗さん。
もともとはいろいろな素材でランプをつくっていたが、
現在はおもに木でランプや器、カトラリーなどを制作している。
言葉数は少なく、黙々と作業をする安彦さんのつくるものは、
人間味があり、どことなくユーモアすら漂う。

安彦さんは面白い経歴の持ち主だ。出身は東京の町田市で、
両親は焼き物や骨董、工芸品を扱うお店を経営していた。
16歳のとき、自然保護の団体に参加しネパールへ。
その後インドやヨーロッパを放浪し、18歳のときにバルセロナに行き着く。
やがて両親も安彦さんのところへやって来て、工芸品などを扱うお店を始める。
スペインでは照明づくりが盛んだったこともあり、
いつしか安彦さんは、お店で余った和紙を使い、自己流で照明をつくるように。
安彦さんはその後、帰国。両親はバルセロナから引っ越し、
まだスペインの田舎まちに住んでいるそうだ。

結婚して子どもも生まれ、制作活動にいい場所を探していて、
たまたま現在の場所を見つけた。もともと神社の社務所だった建物を住まいにし、
すぐ近くの炭置き場だった小屋を、工房として使っている。
若いクリエイターたちが集まる益子の隣町という土地柄にも惹かれ、
28歳で茂木に移住し、約9年が経つ。
最初は養鶏場などで働きながらものづくりをし、4年ほど前に木工品の制作を始めた。

「特にこのあたりに縁があったわけではないのですが、益子は面白そうだなと思って。
益子のKINTAさんという、家具やオブジェなどをつくる作家さんがいて、
その方に自分のつくったものを見せたら“面白い”と、
スターネットの馬場浩史さんを紹介してくれたんです」
現在は、同世代の仲間も増え、環境はとてもいいという。
2012年の6月には東京のCLASKAで、益子周辺の作家たちの展覧会も行われ、
安彦さんも参加。ほかにも各地のギャラリーによばれ、展覧会に出品することも多々ある。

益子には、伝統の色は濃くなく、新しいものや人を受け入れやすい土壌があると
感じるという。それも、ここに落ち着く決め手となった。
「それまで人との関係も流動的で、地に足のついた生活をしていなかったので、
落ち着いて人間関係を築けたり、仕事のできる場所を探して、ここに来ました。
ずっとこの土地で過ごしているおじいさんと一緒に歩くと、気づかされることがあります。
私だったら何も感じずに通り過ぎてしまうような、
道の辻にあるほこらのようなところや、木の切り株などにも、
彼が生きてきた歴史が詰まっていて、土地に詰まった思いがあるんです。
その密度の濃さが新鮮に感じられました。
小さなまちでも、実はさまざまな出来事が起こっていて、いろいろな世界があります。
結局、海外などあちこちに行っても、同じまちにずっと暮らしていても、
何かを感じたり考えたりするのは、自分の感性次第なのでは、と思います」

炭置き小屋だったという建物を工房に。大きな機材や木材が、外にも並んでいた。

仕上げのオイルを塗る安彦さん。塗りの作業は自宅でやることも。漆も扱うこともある。

実用品と美術品のあいだ。

安彦さんは、特に誰かに師事したわけでも、学校で技術を習得したわけでもない。
だからこそ、独創的なかたちが生まれるのかもしれない。
「最初ここでも、何をしようというのははっきり決めていなかったのですが、
あまり仕事もないので、だったら自分で仕事をつくろうと思いました。
以前はいろいろな素材を使っていましたが、いまは木工が多いのも、
木材が手に入りやすいから。このあたりでとれるエンジュという木をよく使っています」
エンジュは外側が白くて中が黒く、割れにくいのだそう。
製材所から持ってきた木材を、荒削りして少し乾燥させておき、
だんだんかたちをつくっていく。
木の塊から掘ったり、くり抜いたりしてつくることが多い。精密なものは苦手だという。

「ちょっとひびが入ってもいい、というくらいのものをつくりたいんです。
きれいにつくりすぎると、ちょっとひびが入っただけで気になってしまいますが、
時間が経ってひびが入ったとしても、それすらも内包するようなものがいいと思って。
不要なものと実用的なものの中間、
面白いけど美術品でもないようなものをつくりたいと思っています。
以前アフリカに行ったとき、
まるで宇宙にいるような、星に満たされた夜空や、自然を体感し、
ああいった環境が、縄文人やアフリカ人の創造力に影響しているように感じました。
何か巨大なものをはらんでいるような佇まいの像など、外との交流もないなかで、
あれだけの発想とセンスでつくられたアフリカのものに、とても刺激を受けます。
私は新しいものをつくるのが楽しいし、やったことのないことをやりたいです。
木の仕事は時間がかかりますし、子どもがいると思うように早くは
作業を進められないのですが、長いスパンで一生をかけてやっていきたいです」

2012年9月に益子で行われた「土祭」の「夕焼けバー」の屋台には、
太陽光発電による蓄電を利用した提灯が灯されたが、
そのドロップ型の提灯のデザインは、安彦さんによるもの。
長いあいだひとりで制作活動をしていた安彦さんにとって、
このような活動も新たな創作の刺激になっているはずだ。

これがエンジュ。割れにくいが粘り強いので、気に入ってよく使っている。

作業場にあったスツール。ちょっとした遊び心が楽しい。

作品としてつくっている小さな人形。

『New function of Artistic Store for U』

点と点のものづくりが結束する美しいかたち。

那須は、かつて温泉や別荘・ペンションブームで賑わった時代もあり、
観光のまちというイメージが強い。
しかし最近では移住者も多く、特に静かな環境で
じっくりと活動をしたいという若い世代が移り住んでいる。
那須は、外から入ってくるひとが多く、“よそ者”を受け入れる土壌があるのだ。

そんななかで、自分たちのものづくりに没頭し、
それを生業としている5人がいる。
スノーボード用のビーニーをオーダーメイドで製作している
「レイドクロージング」の会田喜文さん、
ヨーロッパから買いつけてきた古着などを
リメイクして販売している「ターボ」の伊藤貴之さん、
手づくりで革靴をつくっている「山十」の大森克明さん、
染め物や織物を手がける「ブリランテ」の遠藤聖香さん、
苔盆栽などを製作・販売している「苔屋」の荒井正樹さん。
この地に移住してきてからつながりを持った同世代の5人だ。
扱っているジャンルは違えど、
どこも自宅兼アトリエ(工房)兼ショップというコンパクトな店構え。

「ものをつくるにはとてもいい環境。
雑念がないから余計な影響を受けにくい」と伊藤さん。
「住んでいるひとは、割と個人主義というか、群れないひとが多い。
ひとに変に合わせることなく、それぞれが独立した考えで動いています」
と遠藤さんもものづくりにおいての環境の良さを語る。

彼らはそれぞれ独立して活動しているが、
時に“個”が結束を持つことがある。
レイドクロージングの会田さんとターボの伊藤さんは、
5年ほど前、同時期に那須にショップをオープンさせた。
ショップのプロモーションをしたかったが、
地方紙などに広告を載せてもイメージと合わないし、
通常の観光客をメインのターゲットにしていたわけでもないので、
その効果は微妙。お互いに同じようなことを考えていた両者は、
「それなら自分たちでつくってしまおう」と、
フリーペーパー『New function of Artistic Store for U』の製作を思い立ち、
前出の3組を誘った。

フリーペーパーと言っても、それぞれの店舗の写真が象徴的に掲載され、
あまり説明的ではない。表紙も大胆なピンク。
それでも、置いてもらえる場所も多いし、すぐに捌けてしまうという。
次号は掲載してほしいという申し出も多数。
那須には彼ら以外にも、個人や夫婦で営んでいるような小さなお店が多く、
しかも扱っているものやつくっているもののクオリティも高い。
このフリーペーパーの“若い感覚”を理解してくれるひとが
地元にも多いようだ。

「那須には二面性があると思うんですよ。
街道沿いに大きな看板を出す、という観光的な表のイメージ。
ほとんどのひとはそれが那須だと思っています。でも観光だけではなく、
もっと生活に根ざした裏の那須もあるんです」(会田さん)

そんな奥深い那須のカルチャーへの突破口となる
この『New function of Artistic Store for U』。
これを片手にぐるっと“ウラナス”巡りしてみるのもいい。
例えばレイドにビーニーをつくりに来るひとたちは、
あまり表の大きな観光スポットには行かないだろう。
だからといって、
レイドのためだけに遠くから那須を訪れるのではもったいないし、
迎える側としても、もっと那須の新しい魅力に気がついてほしい。
そんなとき、このピンクの冊子。
山十やターボ、ブリランテ、苔屋などに行って、
“那須、面白いじゃん”と思ってもらえばしめたもの、という算段だ。

みんなで集まっては冊子を綴じ、酒を飲み、また綴じ、また飲み……。

実はまだゼロ号の『New function of Artistic Store for U』。
果たして次号は? 「もうちょっと掲載店舗数を増やしたいですね」と、
会田さんのやる気のある返答。
しかし「この感じはキープしたいので、無理しない範囲で」と
ガツガツしない独自のスタンスを貫く。
伊藤さんも「かっこいいというのは、
ひとそれぞれ基準や捉え方が違います。
だから自分たちなりの見せ方を少しずつでもやっていきたい」と、
あくまで周囲に迎合せず、個の立ち位置を忘れない。

このスタイルが那須で受け入れられれば、那須へ来る客層の幅も広がるし、
那須で活動しているひとにとっても
これまでになかった刺激になるだろう。
それが那須の活性化につながるかもしれない。
外から押し付けられるのではなく、
ボトムアップでそれが起これば、すごく強度がありそうだ。

「個人の“点々”が特色あるまちだと思います。
アートイベントとかも多いし、面白いことが起こりそうなポテンシャルはあるはずです」
と遠藤さんは言う。
それは、今は閑散としているペンションが握っているのかもしれない。
会田さんも言う。
「これまでのやり方は、箱ものをドンですよね。
でもこのフリーペーパーが発展するようなかたちで、
個人商店がたくさん集まったほうが絶対に盛り上がると思います」
東京都内、特に東東京では、
古い空きビルや廃校などをアーティスト・イン・レジデンスにしたり、
クリエイターの集まる物件にしている場所が増えた。
「那須のペンションも、もう空き物件だらけなんです。
そこにショップやものづくりのひとたちに入ってもらえるようにしたい」
という伊藤さん始め
『New function of Artistic Store for U』クルーは意欲的だ。
今日も誰かの家で、
ぽちぽちホッチキス留めしながら酒宴していることだろう。

山十の靴。牛革と天然ゴムとコルクなど、天然素材を使いオーダーメイドで仕上げる。手縫いのため、少しよれた風合いも味のひとつ。

ひとつずつオーダーメイドされているレイドクロージングのビーニー。あごにストラップが付いていて、バックカントリーなどに行くスノーボーダーに重宝されている。ショップにはランプもあるので、スケーターもぜひ。

古着のTシャツにステンシルや染めなどでカスタムしているターボのアイテム。他にも古着をリメイクしたり、コサージュも手染めで製作している。

ブリランテのバッグとストール。アルミニウムを、那須から得たインスピレーションで柔らかくアレンジ。草木染めなど、森のなかのアトリエで四季を意識した染め物や織物を製作。

Shop Information


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Brillante
染織アトリエショップ ブリランテ

住所 栃木県那須郡那須町高久乙593-245
TEL 0287-74-5158
営業時間 11:00〜17:00
定休日 月・火曜日
http://www.kiyokaendo.com/


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LADE clothing
レイドクロージング

住所 栃木県那須郡那須町大字高久甲5728-7
TEL 0287-74-5102
営業時間 土曜10:00〜20:00 日曜10:00〜18:00
定休日 平日
http://ladestore.com/


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TURBO
ターボ

住所 栃木県那須郡那須町湯本206
TEL 0287-76-3152
営業時間 12:00〜19:00
定休日 水曜
http://turbo15.com/


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山十

住所 栃木県那須郡那須町高久丙899
http://yamajyu.org/


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苔屋

住所 栃木県那須郡那須町高久丙1148-559
http://www.kokeya.jp/

迫田 司さん

地元のデザインは地元でやるのがいい。

深い山々と雄大な四万十川の流れを擁する高知県の北西部。
支流沿いの小さな集落、西土佐地区に住むデザイナーの迫田司さんは、
地元の農産物や加工品のパッケージや、鮎市場のチラシづくりなど、
四万十川中流域でつくられるモノのデザインを数多く手がけてきた。
迫田さんのデザインは都会的でお洒落というより、
どこか土着的で土地の香りのするものが多い。

一見何もないように見える田舎にこそ、かけがえのない豊かさがある。
その良さをいかに引き出して伝えるか。
それが迫田さんのデザインの根っこにある。

「デザインというと、まず色やレイアウトなどテクニカルな面に目が向きますが、
大切なのは、生産者がどんな思いでものづくりをして、
どう世の中に届けたいと思っているか。
デザイナーはそれを引き出して、整理して、表現する人。
だから自分たちの地域のことは、遠方にいるデザイナーに頼むのではなく、
同じ目線で見られる、地元のデザイナーがやるのがいちばんいいと思うんです」

大手印刷会社の中国支局でデザインの仕事をしていた迫田さんが
この地へ移り住んだのは20年前。
趣味が高じて始めたカヌーのインストラクターを2年間ほどやっていたが、
少しずつデザインの仕事を再開する。

いまのデザインをカタチづくるきっかけとなったのは、
ある役場の女性から米のパッケージデザインを頼まれたこと。

「西土佐でつくられる米は、水がきれいで寒暖の差も激しいので
東北に負けないくらい旨い。でも手がかかるせいで、生産者が減っています。
依頼主のユミさんは、地元の米を廃れさせたくないという強い思いを持っていました。
そこでまずはふたりで、生産者がどんな米づくりをしているのかを知るところから
始めたんです。スーパーに米袋を見に行ったり、生産現場に通って、
1年かけていまのパッケージができました」

商品につけた名前は「山間米」。
このパッケージデザインは、グッドデザイン賞をはじめ、いくつもの賞を受賞する。
つくり手に寄り添うデザインの方法は、迫田さんの指針となる。

山間米のパッケージは、枡をモデルにデザインされた。2合、3合の食べきりサイズも。

「最初は下手でもいいやん、地元でやろうよ」

そんな迫田さんが、いま力を入れているのが
「地(ジ)デザイナー」をネットワーク化する活動だ。
「地デザイナー」とは、地元に住みデザインをする人のこと。

「いま、青森の下北半島や能登半島など全国20人ほどの地デザイナーとつながっていて、
各地でデザインについて話す機会をつくっています。それぞれ頑張っていますが、
周囲にその価値を認めてもらえずに、くすぶっている人も多い」

たしかに、田舎でデザインの仕事一本で生活していくのは難しい。
デザインとは何か、がまだ浸透していなくて、相応のデザイン料を得にくいためだ。
迫田さんもはじめのうちは、デザイン料のほとんどが米や卵などの現物支給だったという。

「地元に面白いデザイナーがいても、
行政などは東京の有名デザイナーに依頼していることも多い。
それが果たして地域にとって幸せなことかな、と思うんです。
何百万円もの予算があるなら、地元のデザイナー10人に
10万円ずつ渡してコンペするほうが、よほど地元のためになる。
だから、最初は下手でもいいやん、地元でやろうよって言うんです」

南伊豆で行われた迫田さんの「地デザイン講座」には、地元のデザイナーをはじめ、
米農家、加工品製造者、和菓子屋など、製造業に関わる人々が集まった。

南伊豆役場で行われた「地デザイン講座」。製造者とデザイナーの交流の場にも。

迫田さんが手がけたパッケージの数々。

パッケージデザインや販売戦略などさまざまな悩みを訴える彼らに、
迫田さんはこうアドバイスする。

「タイトルや色など細かいデザインも大事ですが、まず考えたほうがいいのは、
皆さんがこの商品を世に送りだして、社会をどうしたいかということ。
誰をどんな風に喜ばせたいのか。
商品そのものより、その周囲を考えることにヒントがある。
それを一緒にかたちにしてくれるのがデザイナーです」

南伊豆の地デザイナー鈴木美智子さんはこう話す。
「地元でデザインの仕事をしていると、都会とは違って
なかなか価値をわかってもらえなかったり、薄謝でへこむことも多い。
そのたびに道を見失いそうになりますが、迫田さんの話を聞くと、
自分の進んでいる方向が間違ってないって再確認できるんです」

地元の製造業に関わる人々にとって、パッケージデザインは大切な要素のひとつ。

全国津々浦々で行われる「地デザイン講座」は、昨年11月に始まり今回が9回目。

商店街にひとりデザイン屋がいれば、地域はもっと豊かになる。

さらに、迫田さんが手がけた仕事のうち、代表的なものが
高知県佐川町の吉本牛乳「地乳(ぢちち)」だろう。

吉本乳業は、大正時代から佐川町で牛乳をつくってきた地元の牛乳屋。
毎日近隣の酪農農家で絞られた生乳を集めて加工し地元で販売している。
学校給食にも使われていて、このまちの人たちは
皆この牛乳で育ったと言っても過言ではない。

「吉本牛乳の話を役場の人から聞いた時、それってぢちちやん! と思ったんです。
地元のための地元の牛乳。地酒ならぬ、ぢちちです。
パッケージには、佐川の地乳と入れて、
飲食業界ではあまり使われていなかった白と黒を使いました」

はじめは関係者全員がこのネーミングとパッケージで大丈夫かと不安を覚えたという。
そんな心配をよそに、売上は予想をはるかに超えて2倍に。
メディアでも取り上げられ、地乳を使った「地乳パン」や「地乳アイス」などもできて、
まちの地産ブランドとして着実に広がっている。

高知県高岡郡佐川町でつくられた吉本牛乳「さかわの地乳」。

地乳をつかった「地乳パン」。「地乳アイス」も人気。

「デザインの仕事が地域社会で認められるのはまだまだこれから。
商店街にひとりデザイナーがいて、土地のいいものを引き出して発信したら
地域はもっと豊かになる。デザイナーが横文字のかっこいい職業と思われているうちは、
田舎の社会の中では市民権を得ていないに等しいです。
魚屋やパン屋とデザイン屋が並んで初めて、地域のなかでもやっていけるようになる」

全国に地デザイナーを増やすべく
「地デジ構想」(地・デザイン・ジャパン構想の略)を掲げて、日々奔走中だ。

河合 誠さん

山の中から発信されるバッグづくりとコミュニティ。

岡山の市街地から車で約30分。山道をくねくね上っていくと、napが現れる。
napはシュペリオール・レイバーというバッグブランドを中心に、
メンズ・レディスも扱うアパレルメーカーだ。
ここは本社であり工場。すべての機能が集約されている。
もともと本社は岡山市内にあった。
岡山はアパレル産業で有名だが、それでもやはりファッションの中心地は東京。
岡山市内でも不便はあっただろうが、もっと不便ともいえる山の中に、今年3月に引っ越した。

「海外のブランドってよく環境の良さそうな雰囲気のいい
アトリエを持ってるじゃないですか。
海外を相手にするときに、日本の田舎の雰囲気を大切にしながらものづくりをしないと、
同じ土俵に立てない気がしたんですよね。
それなら日本には里山文化というものがあるので、
懐かしい風景を織り交ぜて、それらを生かしてみようと。
ゆくゆくは、小さな会社であっても、
世界的な位置づけを持つ会社を目指していきたいと思い決断しました」
と語るのは、社長の河合誠さん。

懐かしさを残しながら、洋風にリノベーションされた校舎。校舎の前には校庭もある

この場所はまちから購入した小学校の廃校跡で、校舎を改築している。
それ以外にも、敷地内に2棟建てて、社長夫妻の自宅もつくった。

「初めてこの場所を見せてもらったときに、
“開拓魂”と書かれた紙が黒板にバンッと貼ってあったんです」

このあたりは戦後の開拓村で、
開拓者の子どもたちが通う小学校として昭和22年に開校。
一番最初に1軒だけ入植したのが、現在の住民会長の父親だ。
そのような背景にも共感し、自分たちもフロンティアスピリッツを
持ち続けていこうという心意気でこの場所を購入することにした。

「校舎は壊しても構わなかったけど、壊すと二度と古いものはつくれないし、
1991年まで使われていた学校ということは、今の30代以上のひとたちは通っていたんですよね。
それなら残しておくほうがいい」と、
校舎は雰囲気を残しながらリノベーションして利用することにした。

この地区に住んでいるのは現在、河合さん世帯を含め19世帯。
半径1kmにはひとが住んでいない。
「昨日も、朝、大声出してみたけど……(笑)」 もちろん反応ナシ。
そんな刺激が少ないと思われるような場所でクリエイティビティはどのように生まれるのか。

「例えば、何かものをつくるのに、
道具と材料があってやり方を教われば誰でもできると思うけど、
それでは工夫は生まれません。ここにくると、大工仕事とか電気工事とか、
ちょこちょこは業者には頼めないので、自分たちでやるようになります。
階段、石垣……、いろいろなものをつくりました。
僕個人的には、石にはまっていますね。ひとつひとつかたちが異なるものを組んで、
どうやったらきれいになるか、丈夫になるか工夫します。
こういう道具があればいいなと思えば、自分でつくってみる。
そのような創意工夫を、どのようにものづくりに落とし込めるか。
そういう姿勢を持って、都会暮らしのものづくりからは変わっていかなくてはなりません」

刺激は、ひとから与えられるだけではないということ。自ら生み出せる。

「アパレルの常識でものをつくっていたら、なんとなく違うだけで、
大きくは変わらない。違う仕事のいいところを、
どんどん自分の仕事に落とし込まないといけません」

これから色を塗るバッグにマスキング中。大胆な色使いがシュペリオール・レイバーの特徴でもある。

小さな財布に金具の取り付け作業。手仕事へのこだわりが強い。

旧校舎の内部は、バッグの組立を行っている工房。15人程度のスタッフが働いている。

各地の地域性を打ち出したnap village構想。

napは、nap villageという村構想を描いている。
アパレルメーカーとしてだけでなく、
飲食店やセレクトショップがあり、きれいな小川やガーデンがあり、あひる小屋も建設中。

「今はスタッフの平均が20代ですが、
これから数年後、会社としてアパレル以外の受け皿を考えておかなければなりません。
そういうときに、この場所はすごく可能性を感じる場所です。
行政と近いし、住民にももっと貢献できるような仕事があるんじゃないかと模索中です」

小学校にレザークラフトを教えにいったり、
吉備中央町からの要望でイノシシの革を使った商品開発をしたり。
まちとの関係はより密接になる。
そういったなかで生まれる新しいアイデアは、どんどん採用していきたい。

「よく、儲からないからダメ、といわれがちですが、
みんなで考えればできる方法はきっとあるはず。
いきなりNOとはいわずに、真剣に考える会社にしたいです」

この場所だからこそできるものづくりがある。
東京でなくても、まだまだ地域にはポテンシャルがあるはずだ。

「地方である程度成功すると、東京にショップを出したくなりますよね。
でも僕たちみたいなレベルだと、
恵比寿とか中目黒のはずれあたりにせいぜい15坪くらい。
そこで直接売っても大きな意味があるかどうかは疑問です。
それよりも、うちは何をすべきか考えた結果、工場をつくったんです。
岡山では業界が縮小して工場がドンドン倒産している時期だったので、
いろいろなひとに反対されました。
でも、新規参入するひとがいないので、逆にミシン屋さんは大喜びだし、
糸屋さん、生地屋さんも大歓迎でしたよ」

工場をつくったということは、ものづくりの方向に向いたということ。
シュペリオール・レイバーが今ファッション誌を賑わしている理由は、
デザイン性もさることながら、その姿勢によるところも大きいはずだ。

「世界観という言葉がありますね。でもそれはあくまで“観”にすぎない。
それよりも僕がここでつくりたかったのは“世界”。
たとえ片づけができてなくてゴチャゴチャしていても、
それが実際の僕たちの世界であって、ここに来てもらえばすべてがわかる」
世界観ではなくてリアルな世界。そこには強さがある。

このnap villageは地域性を強く打ち出している。
その象徴ともいえるのがショップ『& thingsハチガハナ』。
このショップはレストラン&セレクトショップで、自社の商品は置かない。
これを各地に展開する構想を抱いている。
そこで忘れたくないのがもちろん地域色。

地元の食材をつかった料理を提供。フランスの田舎料理風にジビエ料理なども。

「ハチガハナというのは、ここのピンポイントの地名なんです。
今後、このショップ形態で他の地域に出店して、その土地のいいもの、
おいしい食材を探して、それを打ち出すようなショップを展開したいです。
もちろんその場所の地名を店名に付けて」

単純にフランチャイズするのではなく、コンセプトのみを展開する。
そうすれば地域の特色を持った「& things ○○○」が増えていくだろう。
ファッション業界にも、東京発信ではない、
地域発信の小さなコミュニティが湧き上がる時代がくるかもしれない。

細部にも、ちょっとした気の利いたデザインがアパレルらしい。

information


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& thingsハチガハナ(nap village内)

住所 岡山県加賀郡吉備中央町上田東字ハチガハナ2395-5
電話 0867-34-1133
営業時間 10:00 〜 18:00 土日祝のみ営業
http://www.nap-dog.com/
http://www.andthings-hachigahana.com/

profile

MAKOTO KAWAI
河合 誠

1966年にM.leatherを創業。古着の買い付けで世界を回り、レザー商品なども扱う。1999年、ペット用品店をオープン。オリジナルのレザーグッズなどを展開する。2006年に有限会社nap設立、2007 S/Sシーズンよりバッグを中心にしたブランド「THE SUPERIOR LABOR」をスタート。2010 S/Sよりレディスブランド「La rosa de la fabrica」を手がける。

Coquette

フェミニンなデザインに込められた、丁寧な日本のものづくり。

東京都台東区、JR御徒町駅からほど近いところに
ショップを構える、革バッグのブランド・Coquette(コケット)。
古い小さなビルが建ち並ぶなか、
この店も昭和に建てられたというビルの1階をリノベーションしていて、
使い込まれたレトロな床がかわいい。
鳥かごやりぼんをモチーフにしたバッグ、ピンクや黄色のカラフルなお財布など、
フェミニンだけれど、どこかチャーミングなデザインの革小物が並ぶ。
「Coquetteのバッグは、女性が心躍るようなデザインでありたいんです」
と話すのはオーナーであり、デザイナーの林きょうこさん。
30代になってから会社員を辞め、
バッグデザイナーを志した林さんが目指したものは女性らしいバッグをつくるということ。
「使ううちに、出てくる風合いや色の深みを楽しめるのは革のいいところ。
でも、その風合いを生かしたブランドは数多くありました。
私がつくりたいと思ったのは、そうしたスタイルではなく、
端正な縫製や加工が施されながらも、女性らしい華やかな色やデザインの革バッグでした」

しかし、そのような、カラフルな革はいったいどこがつくってくれるのか。
ツテを頼りに、革屋さんや革問屋さんを探し歩くも、
なかなか思い描いている革と出合えずに切羽詰まっていた。
「“うちはロットがあるからお断り”って言われたこともありますね。
そんな1個や2個じゃつくれないよって。
革問屋さんに行き着いても、見たことのある加工の革しかない。
こんな色の革をつくってほしいと言っても、
最小販売ロットの価格が高額で私には手が出せなかったり。
もうブランドは立ち上げられないかもという不安の渦中にいたところ、
『墨田キール』に出会ってオリジナル加工の革をつくってもらえた。
墨田キールがなければ、Coquetteは生まれなかったですね。本当に感謝しているんです」

Coquetteの商品は、すべて台東区や墨田区近郊に住む職人たちによってつくられている。
革の染色や型押し、そして裁断や縫製まで、それぞれ専門の職人がいて、
ひとつひとつ丁寧に仕上げられたものだ。
墨田キールもそんな職人工場のひとつ。
林さんの救世主とも言える、墨田キールとはどんな工場なのだろう。
林さんの案内で現場に向かった。

出迎えてくれた、林きょうこさん。クラッシックなCoquetteの外観はパリのお菓子屋さんのような雰囲気。

昔ながらの職人文化がいまも残る、革加工のスペシャリスト。

Coquetteから車で20分ほどのところにある墨田キールは、
革の染色から、型押しなどの仕上げまでを行う工場だ。
本来、革の「染色」と「仕上げ」を行う工場は別々のことが多い。
両方を一括で行う墨田キールは、自ずと加工できる幅も広がる。
ここで使われる型版は200種類以上あり、
日本製のほか、ドイツ製やイタリア製など。高額なもので1点120万円以上するという。
毎年イタリアで行われている見本市に足を運び、仕入れるのだと、
社長の長谷川憲司さんが教えてくれた。
箔のカラーバリエーションは140種類以上あり、フィルムも数十種類、
型版や染色、箔などの組み合わせ次第で加工のバリエーションは無限大にある。
社長に案内され、Coquetteの型のひとつを見せてもらった。
まず、仕入れた牛革を染め、「ユーロフラワー」という花柄の型押しをほどこす。
その後、型押しした模様の凹凸の凸のところだけ箔を貼った状態になるよう、加工する。
他にも同様の染色と型押しで全面に箔を貼ってから、
凸の部分だけ、箔をはがすパターンもある。

型版がしまわれているスチールの棚。代々使われてきた歴史を感じる。

4階建ての作業場の1階には、型版やプレス機などが置かれている。右端が社長の長谷川憲司さん。

色を染めたり、のりを施したりと、難しい調色や特殊加工を担当するのは、
この道50年のベテラン職人、三木裕二さん。
三木さんはいくつかの染料をまぜて調色しながら、まずは何度か革の切れ端で試し染め。
色が決まれば、革全体に染料を吹きつけていく。その作業の早いこと早いこと。
三木さんはあっという間に作業を終わらせてしまう。
その精度の高さは言うまでもない。
「初めて墨田キールを訪れたときも三木さんのこの作業場に連れてきてもらったんです。
こんなパール感と色にしたいって口頭で伝えたら、
三木さんがその場で調色して革の切れ端を染めてくれて。
その色が一発でイメージ通りだったんで、もう感動でした」と、林さんは振り返る。
実は、林さんの前職は、資生堂でメーキャップブランドの化粧品の開発を担当していた。
パールの調色の難しさは誰よりも熟知している。
「三木さんのすごいところは、言葉だけで、私が思い描く色の着地点を理解してくれて、
それを瞬時に再現できる高い感度」だと言う林さん。
「かなり私もしつこいんだと思うんですけど」と苦笑するも、
早速三木さんに別の加工の相談を始めていた。

型を押した革に、箔を貼るための糊をのせる三木さん。一見簡単そうに見えるこの作業。型押しの凸の部分にだけぬるため、高い技術が必要なのだという。

キレイに整理整頓されている三木さんの作業場。細やかに道具を扱っているのがうかがえる。

「普段は口数も少ないし、こんな風に三木さんのところにまで来れる人は、
なかなかいないんだけど。林さんは熱心だからね」と社長が耳打ちする。
「入ったばっかりのころはさ、俺もなかなか頼みを聞いてもらえないこともあったよ。
でも自分じゃうまくできなかったからね。だから、自分でもひと通りできるように勉強したよ。
そういう世界だから、職人さんて。みんな口悪くても、気持ちのある人たちだから、
こっちが一生懸命やれば、一生懸命やってくれるんだよね」
よりよいものをつくりたい。そのまっすぐな林さんの思いが職人を突き動かし、
また新たなデザインが生まれていくのかしれない。

普段は、個人のデザイナーと会うことは少ないと言う社長だが、
林さんは知人の紹介だったからと話す。
そんなふたりを引き合わせたのは、「台東区デザイナーズビレッジ」の、
インキュベーションマネージャー(村長)を務める、鈴木淳さんだ。

林さんは「ここに来ていろいろなサンプルを見て、三木さんや社長と話すことが、一番のアイデアソースになる」と言う。

ユーロフラワーの型でつくられたCoquetteの商品。ちなみに、Coquetteのバッグにはどこかに必ずてんとう虫のモチーフが隠れているのだそう。

デザイナーを育て、職人技術を生かす、台東区のものづくり。

台東区デザイナーズビレッジとは、廃校になった小学校の跡地を活用して、
起業5年以内のデザイナーを支援する施設。
もともと、台東区は、古くから革小物やジュエリーなどの問屋が軒を連ね、
職人が出入りするものづくりのまち。
生産拠点が安価なアジアへと移行していくなかで、
日本のものづくりは高付加価値なデザインが求められ、
その開発を担うデザイナーを誘致する目的で、台東区デザイナーズビレッジはつくられた。
鈴木さんは、この施設の創立から村長を務め、
入居者の相談にのったり、さまざまな組合に顔を出したりと
このエリアのものづくりを支援している。
本来、クリエイターと付き合いをほとんどしない工場でも、
鈴木さんが入居者を連れて工場見学に行くなどして、
そこから付き合いが始まることもあるのだという。
だから、卒業後も台東区を拠点にものづくりを続けていく人は多い。
林さんも、そんな卒業生のひとりだ。

台東区デザイナーズビレッジの外観。小学校の正面玄関の面影がそのまま残る。

前職を辞めた林さんは、デザイナーズビレッジに一期生として入居。
1室をアトリエとして拠点にしながら、およそ3年間、自分のブランドの足場を固めた。
「サンプルをつくるにもかなり費用がかかるから、
当時はいつも通帳の残高とにらめっこ。
続けられたのは単純に辞める勇気がなかっただけなんです」と林さんは笑う。
墨田キールと巡り合い、展示会に出展し続けた結果、
次第に受注がくるようになり、いまは女性誌にも紹介される人気のブランドとなった。
最近では台湾で展示会を行うなど、
林さんの感性をかたちにした職人たちの丁寧な仕事は着実にファンを増やしている。
「金具を揃えたり、職人に相談したり。
ものづくりするのにいろんなことが自転車で回れちゃうんです、このまち。
よそ者を受け入れてくれる下町の懐の深さもある。
私は職人さんにつくってもらっているって意識が強い一方で、
その技術を後世へ残すために、デザイナーとして
彼らに仕事を出し続けていくことも使命かなと、いまは思っています。
これからもずっと、女性が輝けるようなバッグをつくっていきたいですね」

現在入居している、洋服のデザイナー・中島トキコさんのアトリエ。きっとまたステキなものづくりの出合いが待っているのだろう。

Coquetteを支える職人たちをモチーフに制作されたアニメーション。

小林智行さん

何よりも、使う人のことを考えたものづくり。

栃木県茂木町でオーダーメイドの靴をつくっている小林智行さん。
小林さんのつくる靴は、とても履き心地がいい。
足に圧迫感を与えず、靴底の曲線はやさしく足になじむ。
サンプルを履かせてもらっただけでそう感じるのだから、自分だけの、
自分にぴったりの靴をつくってもらえたら、さらに驚きの履き心地がするだろう。
「どんなにいい靴でも、足やからだに合わなかったり、生活に合わなかったら
結局履かないですよね。僕は暮らしに合った、最適なかたちの靴をつくっています」
強い信念をもって靴づくりをする小林さんは、デザインの勉強をしたことはない。
大学では経済学部に属していたが、趣味で靴づくりの学校に通ううち、
ものをつくる仕事に就きたいと考えるようになった。

やがて師匠となる人に出会い、その人にあこがれて大阪の義肢装具制作会社に就職。
それまで、何をするにも“教科書通り”だった小林さんにとって、
道具からつくってしまうその師匠の発想と創造力は感銘以外のなにものでもなく、
頼み込んでその会社に入ったそうだ。
そこでは義足だけでなく、骨折した人のリハビリに必要なものなど、
不自由な生活を少しでも快適にするための、あらゆるニーズに応える
オーダーメイド製品をつくっていた。
「自由な発想じゃないとだめ。用途もそれぞれ違うので、素材から何から、
毎回その人に合ったものを考えに考えてつくるという作業をしていました。
僕の師匠は、ただ利益を追求するとか努力せずに結果を出そうとかいうことを、
まったく考えない人。純粋につくる楽しさを教えてくれました。
楽しく仕事をしていたい。僕にとってのものづくりの原点はそこです」

4年ほどして、より使う人の目線に立ったものづくりをしようと、
靴に絞った制作活動を決意し「てのひらワークス」を鎌倉で立ち上げる。
「いつのまにか、加工しやすい素材を使うとか、つくる側の目線でつくっていたんです。
使う人にしてみたらこんな薬品の匂いが強い素材は嫌だよなと思ったら、続けられなくて。
お客さんに対してどれだけ真摯に考えて、柔軟につくっていけるか。
コンセプトはそれくらいでスタートしました」
まず、自分が履きたいと思う靴をつくった。それから知り合いの美容師さんに、
髪の毛が靴の中に入らないような靴をつくってほしいと言われてつくった。
小林さんのつくった靴を見て、こんな靴がほしいという人に、またつくった。
そうやって、いまもオーダーメイドの靴をつくり続けている。

服をあつらえるように、その人に最適の靴をあつらえる「あつらえ靴」。ロゴマークは奥さんがデザイン。

まず最初に、どんな靴がほしいのか、話を聞く。それから医療用の石膏で足型をとる。

からだを整え、気づかせる靴。

小林さんに靴をオーダーする人は、だいたい困っていることがあったり、
悩みを抱えているという。
「まず会って、どんな悩みなのか、どういうときに履きたい靴なのか、
その人がどういう仕事をしているのか、そんな話をします。
そしてサンプルを見せながら、靴のかたちを決め、足型をとります。
それから試作をつくってフィッティングを確認してから、仕上げていきます」
こうして1足の靴をつくるのに、だいたい1~2か月かかる。
できあがった靴も、原則として配送はしておらず、取りに来てもらう。
履き方のアドバイスをして、直接渡すところまでが、最後の仕上げなのだ。
傷の補修などの修理や、1~2年での定期的なメンテナンスもしており、
型をとってあるので2足目からは少し安くつくることもできる。
靴の学校で出会った奥様と二人三脚で仕事をしているが、
人を増やそうとは思っていない。
けれど、小林さんのワークショップに参加して、
靴づくりを本格的にやりたいという人も出てきているという。
「将来的には、のれん分けみたいに、
僕と同じ考えでつながった人たちがあちこちで靴づくりをして、
あそこでもつくれるよ、というふうになっていったらいいですね」

足が変形してしまっている人や、歩くのに困難を抱える人の靴もつくるが、
小林さんの靴は、歩き方や姿勢を矯正するような靴ではない。
「靴を見れば歩き方のクセもわかりますが、
こういうクセがありますよということは伝えながら、
それを無理に変えようとする靴ではないです。
無理な力を加えようとするとからだが歪んでしまいますし、からだを治そうというのは、
食べものなど生活態度からすべて変えていかないと、靴だけでは無理。
ただ、失われているからだの調整機能を取り戻すような靴ではあると思っています。
からだについて、いろいろなことに気づかせる靴ではあるんじゃないかと」

足型から、石膏の靴型をつくる。それをもとに樹脂で複製をつくり、革で補整する。2足目からはこの樹脂型でつくることができる。

1枚の革を伸ばしながらかたちをつくっていく。工房にはさまざまな種類の革が用意されていた。

インソールにはコルクと麻を使っているので通気性がいい。自然素材を使っているからか、かかとの角質の荒れが改善されたというお客さんも。

新しい靴を、新しい拠点から発信。

2012年4月に、小林さんは拠点を鎌倉から茂木に移した。
茂木に決めたのは、隣町の益子に「スターネット」があることが大きい。
2年ほど前、自分の靴づくりに共感してくれるところから発信したいと、
スターネットを主宰する馬場浩史さんに相談したところ、
馬場さんもちょうど、自分のほしい理想の靴を考えていたところだったという。
「ちょっとつくってみて」と言われたのがきっかけで、
馬場さんの靴をつくるようになった。
「馬場さんは靴の感想を聞くうえでは最適の人ですね。
とても身体感覚に長けた方なので、たとえば1ミリ底が高くなるだけで
からだが変わるということを、馬場さんは実感できるんです。
これまで馬場さんに何足かつくったんですが、そのたびに、
“かかとをもう2ミリくらい上げて”とか、“土踏まずをもうちょっと手前にずらして”
というように、それくらいの差なんですが、同じオーダーがきませんでした。
“今日はこれを履こう”と、その日のからだの調子に合わせて靴を選んで履く。
それは新しい靴の選び方ですよね」

この約2年間で、馬場さんに5~6足の靴をつくった小林さんは、
スターネットで展示会やワークショップも開催してきた。
そしてついに、馬場さんと一緒にスターネットで靴をつくることに。
自然素材を使った手仕事のプロジェクト「organic handloom」の靴を、
馬場さんのディレクションのもと、つくることになったのだ。
「スターネットから発信していくことで、
世界観や靴に対する取り組みをちゃんと伝えていけると思ったので。
自然素材を使って、オーダーした人にとって本当にいいものをつくっていきたい」
足は第二の心臓とよばれるくらい、健康と深く関わる部分。
馬場さんは、足からからだの健康をつくり、それが心の健康につながり、
それが暮らし方や社会について考えることにもつながっていく、という考えの持ち主。
小林さんがスターネットで靴づくりをするのは、必然だったのかもしれない。
「僕がやっているのは、ただ足りないものを補うとか物欲に応えるものづくりではなくて、
その人も気づいていないようなところでその人を支えるようなものづくり。
自分にうそをつかず、からだで考えて、気持ちよく仕事をしたい。
それで周りにいい影響を与えたり、同志が増えていけば、
いい社会ができていくのかなと思います。
それを教えてくれたのが、スターネットのやり方でした」
organic handloomの靴がスタートすることになり、
馬場さんはそれに合わせてメンズの洋服をつくる予定だという。
このクリエイティブな連鎖が、まさにスターネットらしい。

小林さんは東京出身だが、東京でものづくりをする気にはなれなかったという。
「馬場さんも東京に行くと具合が悪くなるとおっしゃっていましたが、
僕も東京にいられなくて(笑)」
開放的な空間の工房とすぐ隣の自宅は緑に囲まれ、裏山にも自然が広がっている。
以前から場所を探していた小林さんは、ここが見つかって移住を決めたそうだ。
いいものをつくるために、まず自分が健康であって、健康な社会の一部でありたいという。
「いい仕事をしたなと思うのは、相手が元気になったとき。
僕の靴でないと歩けないのではなくて、僕のつくった靴がいい誘導をして、
いままで履けなかった靴も履けるようになって、それで元気になってくれたら最高ですね」

ガレージのような建物を工房として改装。「organic handloom」の靴のオーダーサロンはスターネットに開くが、通常はこの工房で作業。

明るく開放的な空間。作業場からの眺めはとても気持ちがいい。

数々の道具が並ぶ。師匠にならって自分で工夫してつくった専用の道具や機械もある。

工房の裏手にはすぐ野山が。子どもと散歩をしたり、家族で過ごす時間も大切にしている。

佐藤 敬さん

人との出会いが、益子での作家生活を決めた。

益子で活動する陶芸作家、佐藤敬さん。
高校時代に陶芸に出合い、20歳頃から本格的に取り組むように。
最初は九州で唐津焼の窯元に弟子入りしたが長く続かず、
茨城の実家に小さな窯をつくり、ほぼ自己流で作家活動をスタート。
個展やグループ展もやったりしたが、少し行き詰まりを感じていたときに、
益子の作家、成井恒雄さんに出会う。
「このままだと自分のつくるものが、
機械的につくるものと変わらないんじゃないかと思い始めたときに
成井さんの器を見て、これは違うろくろだ、と思いました」
その頃、佐藤さんが使っていたのは電動ろくろ。
成井さんは、片足でろくろの台を蹴って回しながら挽く
「蹴ろくろ(けろくろ)」を使っていた。
蹴ろくろでつくった焼き物には、電動では出せない味や、あたたかみがあるという。

成井さんにお願いして弟子入りし、益子にやって来たのが25歳のとき。
弟子といっても、給料ももらわないし、月謝も払わない。
工房にはほかにも4~5人同じような人がいて、
成井さんが直接技術を教えてくれることもあるが、基本的には先輩たちが教えてくれた。
成井さんはそんなふうに自分のところに集まってくる人たちを
「仲間」と言っていたそうだ。
「あるとき成井さんが、
“君は蹴ろくろがやりたいからとか言ってるけど、本当はそうじゃなくて、
ほかでうまくいかなかったからここに来たんだろう?”とかおっしゃるんです(笑)。
そういう人が多かったんですね。
焼き物をやめていく人をたくさん見てきた成井さんは、楽しんで仕事をしていくこと、
焼き物をずっと続けていけるようにすることが大事だと、教えてくれました」
益子に来て11年。成井さんとの出会いがあり、そこでできた仲間がいるから、
いまも益子で焼き物を続けることができると感じている。

もうひとつ、大きな出会いがあった。
益子でギャラリーやカフェを展開し、クリエイティブなものづくりの拠点となっている
「スターネット」の主宰、馬場浩史さんだ。
「妻がスターネットが好きで、あこがれのお店でした。
僕のつくるものはおしゃれなところには合わないだろうと思っていたので、
まさか僕の茶碗がスターネットに並ぶとは、想像もつきませんでした」
成井さんとも親しかった馬場さんは、佐藤さんの器を気に入り、
3~4年前からスターネットでも扱うように。
いまは馬場さんがデザインしたスターネットオリジナルの商品もつくっている。

佐藤さんの作品には素朴な味わいがある。トップの写真は佐藤さんがつくるスターネットオリジナル。

いつか、本当にいい茶碗がつくれるように。

実際に、ろくろを回しながら作業するところを見せてもらった。
足でろくろを回しながら、繊細な手つきでなめらかに土を滑らせ、
かたちをつくっていく。
途中までは同じだが、上部の口の部分を広げればお皿に、狭めれば徳利に、
というように、あっという間にかたちができあがっていく。
多いときは、午前中だけで100個分のろくろを回すことも。
だいたい1週間くらいで窯焼き1回分の個数をつくり、
乾かしてから素焼きし、釉薬をかけて本焼きに入る。
土は益子のものを使っているが、益子の伝統的な釉薬を使っているわけではない。
益子焼きにこだわるのではなく、あくまで蹴ろくろの面白さを追求するのが
佐藤さんの焼き物だ。
また、工房の外には仲間たちとつくった登り窯がある。
登り窯だと、かたちが焼きでさらによくなったり、予想がつかない面白さがあるという。

仕事はすべての行程をひとりで行ってきたが、
この1年ほどは成井さんのもとで出会った“仲間”ふたりに
ろくろ以外の仕事を手伝ってもらっている。
そのほか賃挽きといって、たとえば同じ型のものを50個なり100個なり、
ろくろで挽くところまでの作業を、ほかの窯元から受注したりもする。
ろくろの習熟のためには賃挽きはもってこいだが、
蹴ろくろという古典的な手法で賃挽きを請け負う陶工は少ないそう。
「賃挽きはもうやめてもいいかなとも思うのですが、
昨年、一昨年つくったものと、今年つくったものとでは、
変わらないようで、少しずつよくなっているような気がするんです。
たくさんろくろを挽いて、もっといい茶碗がつくれるようになりたい。
自分が60歳、70歳になったときに、本当にいい茶碗が挽ければいいなと思っています」

何度か蹴っては回し、スピードが落ちる前に、また蹴る。手と足を巧みに使いながらろくろを回す。

かたちも厚みもすべて感覚で決まる。熟練の技だ。

バリエーションの異なるものが次々とできていく。

楽しみながら、益子で焼き物を続けていく。

師匠が教えてくれた、楽しんで仕事をすること、長く続けていくこと。
それには何が大切なのだろう。
「面白いと思える技術に出合うことだと思います。
続けていけるような態勢や環境を整えることも大事です。
それと僕は、使えるものをつくることを心がけています。
実際に使いやすくて値段もそれほど高くないもの。
5000円のごはん茶碗だと割っちゃったらどうしようって思いますよね。
そうではなくて、1000円くらいで、気楽に、
日常的に使ってもらえるようなものをつくりたいですね」
さすが、民芸の聖地、益子。
実際、佐藤さんのつくる器は気どらず、素朴で味わいがある。
そしてびっくりするほどリーズナブルなのだ。

益子は昔から、全国から人が入ってきたという土地柄のせいか、
地元の人も外の人を受け入れてくれる雰囲気があり、佐藤さんも地域になじめたという。
早朝から作業を始め、三食の食事は家族と一緒にとり、
子どもが保育園から帰ってくる夕方には作業は終える。
工房は自宅の隣にあり、働く環境は抜群だ。

佐藤さんにとって、いい茶碗とは? と聞くと、少し考えてから
「機械でつくったものは面白くないですね。
自分でろくろを挽いたときに面白いと思えるかどうか。
成井さんもよくおっしゃっていましたが、“面白い”というのは最高のほめ言葉ですよね」
その成井さんは、この取材の数か月前に他界してしまった。
「型ろくろで量をつくればコストも下がりますし、いい面もありますが、
蹴ろくろがなくなってしまってはいけない。
成井さんが亡くなったいま、技術を受け継いでいかなければと思っています」

友人たちと3か月ほどかけてつくった登り窯。震災で壊れてしまったが、近々直してまた使えるようにする予定。通常は登り窯を使うのは年に一度くらいで、このほかガス窯もある。

いろいろな釉薬や土を試して自分も楽しみながら、気楽に使ってもらえるようなものをつくりたいと話す佐藤さん。

第一被服

人気のデイリーウエアブランドを支えるのは、家族総出の熟練職人たち。

埼玉県草加市の住宅地に静かに佇む、縫製工場「第一被服」は、
80年以上、スラックスを専門に手がけてきた。
今は、鎌倉・由比ヶ浜に本店を構える、JAMES & COのブランド、
「STUDIO ORIBE(スタジオ オリベ)」の商品を作っている。

2階にある裁断部屋。裁断の際に出る布ぼこりを払うため至る所に扇風機が吊されている。

100平米ほどある2階建ての工場内には、
カタカタカタ、と、小気味いいミシンの音が鳴り響く。
検反、裁断、地縫い、カン縫い、千鳥、カンヌキなどの、
パンツ作りに必要な60ほどある行程を
特殊なミシンを使いながらすべてここでこなす。
職人たちは、この道50年のベテランばかり。
裁断を担当するのは、三男の鈴木国夫さん(75歳)。
縫い場を担当するのは、次男・庸夫さん(77歳)と、
奥さまの勝子さん、息子の弘久さん、従姉妹の見木恵子さん。
夕方にはアルバイトとしてお孫さんもやって来る。
家族が営む、小さな小さな工場なのだ。

ミシンをかける庸夫さん。1着、1着、糸の調子を見ながら作業をすすめていく。

「もともと親父が始めて、戦後に兄弟みんなでやろうってなったんだ。
でも、最初は、全然ダメ。問屋から返品されてばかりだよ(笑)。
だから、どこが悪かったのか、どうしたらいいものが作れるかって、
兄弟で話し合ってさ。そのうち、俺たちが作ったものが、
三越やなんかのデパートでも扱われるようになっていったんだよ」
と、国夫さんがニヤリと笑う。
ときには、朝3時から工場を動かすこともあったという。
地道に、真面目に、より良いものを。
いつしか良質なスラックスを生み出せるようになっていた。

50年以上使い続けている年代もののボタンホール用のミシン。アメリカのリース社のもの。

その後、取引していた問屋さんが倒産するなど、
設備と技術があっても仕事が先細りする一方だった90年代後半。
庸夫さんの息子・輝永さんがアパレルブランドを立ち上げるから、
手伝ってほしいという話が持ち上がった。
それが、STUDIO ORIBEだ。

STUDIO ORIBEは、塩谷雅芳さん、鈴木輝永さんが
1999年に立ち上げたデイリーウエアブランド。
立ち上げ当初からデザイン性と履き心地に定評のある、
「L-ポケットパンツ」は、「SHIPS」をはじめ、
全国70店舗以上で扱われおり、着実にファンが増えている。

もともと、メーカーで生産管理の仕事をしていた輝永さん。
「たくさんの縫製工場を見て、おやじの仕事の丁寧さが改めてわかりましたね。
昔から俺の着ている服の縫製にずっと文句言ってたくらいですから。
ステッチひとつをとっても、途中で切れたら、全部ほどいて縫い直す。
そんな当たり前のことをしてくれる工場は少ないんです」

「私は器用ではないんですけどね」と微笑む奥さまの勝子さん。さすが庸夫さんとの息はぴったり。

1着につき、1行程分のミシンをかけるのは、ものの1〜2分。
見ていると単純なようだが、正確さと速さが求められる。
「幅は3センチ。定規を当てて、ピシっとまっすぐね。
ぴったり縫わないと」と、冗談を言いながらも、
庸夫さんは、みるみるうちに作業をこなしていく。
そして、「これは少し強すぎだな」と言って、
糸の具合やミシンの器具を調整。
細かい部分の布を裏返すのはピンセットを使う。
採算を考えれば、作業時間を減らすほうがいいけれど、
品質には、絶対に手を抜かないのが、第一被服の仕事。
「だって、キレイにできないとシャクだからさ」
と国夫さんも裁断室で作業を進めていた。
「ひと手間を惜しまない。
だから、上がってくるものはもちろんきれい。
職人として、信頼できるんですよね」と輝永さんは話す。

生地を裏返すのもピンセットで。「こうしないと直角にできないからね」と庸夫さん。

特に、STUDIO ORIBEは日常着を提案するブランド。
丁寧で確実な縫製が、服の寿命を延ばす。
「ちょっとスタイリッシュなデザインで、
毎日着たいようなパンツってありそうでないんですよ。
見つけても、次のシーズンはカタチが変わっているとか。
だからSTUDIO ORIBEは、
定番としてずっと作り続けていきたいと思っています。
適正な価格と、確かなクオリティーで。
そのためには、やはりいい職人さんが必要ですね」
と企画を担当している塩谷さんは語る。

由比ヶ浜からほど近いJAMES & COの店舗。道に面して大きく開かれた入り口からは心地よい浜風が吹いてくる。

次から次へと新しい服が溢れていく世の中で、
定番を作り続けていく。
その潔い信念を実現させるのは、誠実な仕事を続けてきた職人たち。
決して特殊な技術を使っているわけではなく、
丁寧に、そしてキレイに仕上げること。
そんなものづくりの原点が一枚のパンツに宿っている。

L-ポケットパンツの型紙と完成品。タグには、STUDIO ORIBEからのメッセージが刻まれている。

(左下から時計まわりに)庸夫さん、国夫さん、弘久さん、見木恵子さん、勝子さん。

井上仏壇店

仏壇の漆塗りをカフェグッズに生かす。

300年以上の歴史を持つ彦根仏壇は、経済産業大臣が指定する
「伝統的工芸品」として認定されている。
幅が120cmもあるような大型仏壇が特徴だ。
通常、仏壇を製作するには、
木地(木工)、宮殿、彫刻、錺金具(かざりかなぐ)、漆塗り、蒔絵、金箔押しと、
7つの工程が必要となる。すべてに専門の職人が存在し、
ひとつでも欠けると仏壇をつくることはできない。
しかし他の多くの伝統工芸と同じく、
彦根仏壇もまた、後継者不足や売り上げ低下など、先細りの状況に悩んでいる。
特に職人の数が少なくなり、
このままでは伝統技術の伝承ができなくなってしまう。
そこで、1901年創業の井上仏壇店の井上昌一さんは、
「彦根仏壇の伝統技術を使ってほかの商品をつくる」ことを考えた。

1000万円を超えるような仏壇がたくさん展示されている井上仏壇店。この周辺は仏壇ストリートとなっている。

「仏壇は今では非日常的だし、高いし、一生に一度の買い物。
しかも海外では売れません。
だから、伝統技術をもっと身近に感じてもらえる商品を
つくらなければならないと思ったんです。
でも私たちの発想は凝り固まってしまって、新しいものは生まれにくい。
そこでなるべく仏壇と正反対のイメージの商品が考えられるように、
クルツインクの島村卓実さんという
外部のプロダクトデザイナーにお願いすることになりました」

それが「chanto」。
chantoはコーヒーミルやトレイ、ドリッパーなどのカフェグッズで、
ウッドと鮮やかなカラーリングの組み合わせがポップな印象。
まさか仏壇屋さんが生み出したとは思えない。
しかし色が塗ってある部分は、すべて彦根仏壇の漆塗りなのだ。

内側が塗られる前の状態。これが抹茶やカフェオレ用の大型カップ「MATCHA」となる。

「通常、漆は黒と赤しかないんですよ。
でも、私がお付き合いのあった中嶋誠作さんという漆の塗師の方が、
10年ほど前からさまざまな漆の色の研究をしていたんです。
その色サンプルをデザイナーの島村さんと一緒に見て、
“こんな漆の色は今まで見たことがない”という話になり、
chantoの商品開発につながりました」

漆の塗師の中嶋さんは、陶芸もこなし、さらに文化財の修復や骨董品の修理など、多岐に渡って伝統技術を伝える活動に尽力している。

塗師の中嶋誠作さんは、彦根仏壇の塗師だった父親のもとで修業を始め、
30年以上活動している。
漆の可能性を広げるべく、色の研究は欠かさなかったという。
中嶋さんの漆の色があったからこそ、
このchantoが生まれたといっても過言ではない。
数十種類もある色サンプルのなかから10色を選び、
chantoの商品に採用している。漆の特性と難しさを中嶋さんは語る。

板に塗られた数々のカラーサンプル。ここだけ見ていると、漆や伝統技術という言葉は出てこないポップさ。

「漆と顔料を混ぜて色を調合しています。
なるべく漆の分量を多くしたいですが、色によってその割合は違ってきますね。
また、漆は本来アメ色をしているので、
アメ色のフィルター越しに顔料の色を見ることになります。
だから、白や薄いグレーなど、薄くて淡い色になるほど難しい。
厳密に言うと真っ白はできません。
配分や乾かし方にもかなり気を使います。
あまり早く乾かすと、今度は黒っぽくなってしまうのです。
ゆっくりと乾いていくように、湿度と温度を調整する必要があります。
漆は、硬化剤など一切入れずに空気中の水分から
酸素を取り込み自然と硬化する天然樹脂です。
漆にはそんな不思議な力があります」

漆と顔料は、かなり厳密に重量を量って配合している。少しでもズレると色が変わってしまうデリケートな世界。

ムラなくきれいに塗られたばかりの漆塗りを見ると、
ツヤツヤして光沢が美しい。

「きれいに塗ると鏡のようにきれい。
でも、全体をくまなく塗ったサンプル商品を見たときに、
プラスチックのように見えてしまいました。
赤や黒だと我々日本人は見慣れているので、
漆器だとすぐに理解できるのですが、カラフルなものだと漆とは思われない。
それで木目の一定部分を塗らないで残しながら、部分的に塗るようにしました」
と井上さんは当初を振り返る。
確かにそのほうがバランスがよく、きれいだし、今の時代に合っているようだ。

「ESPRESSO」カップの塗り工程。真空ろくろを使ってカップを固定し、内側を塗っていく。

塗った商品は、ほこりをつけないために素早く室(むろ)のなかへ。ストーブや除湿機などで、室のなかの温度と湿度は常に管理されている。

古くから日本の風土に伝えられてきた漆塗り。
伝統工芸である彦根仏壇の塗師が未来のために研究し、
それを生かした商品ができた。これが広がっていけば、
他の職人の活動をもっと活発にできるかもしれない。

「ただし、前述した通り、仏壇製作には7工程あり、
それぞれに職人がいるのですが、
今回のchantoでお願いできたのは、漆塗りの職人だけです。
他の職人にも、何らかのかたち、彼らの伝統技術を生かしてもらえるような
商品をこれからも考えていきたいと思っています。
それが私の彦根仏壇業界への恩返しです」
と井上さんは意欲的だ。

chantoは、「しゃんと」と読み、彦根の言葉で“背筋を伸ばし、
集中したり、ものごとをきちんとする行為”を表すという。
彦根仏壇の精巧で緻密な伝統技術は、きわめて“しゃんと”している。
廃れさせてはいけない技術のために、
まずはコーヒーとともに、漆の美しさとあたたかみも味わおう。

chantoの商品は、現在7種類。木と漆という天然素材からできた、ひとにやさしいデザイン×伝統の技。

山村富貴子さん

備前の良さを経験的に知っている強み。

「私は、他の作家のように備前がやりたくてここに来たわけじゃないんです。
なんとなく、流されるように辿りついたというか(笑)」
大阪出身の山村富貴子さんは、
高校生の時にはインテリアデザインを学び、
卒業後は神戸の「釉薬を使う」陶芸の学校に通っていた。
備前に移り住んでからも
「最初は、全然良さがわからなかった。渋すぎるなぁ」と思っていた。
けれど、さまざまな備前焼に触れ、
自分の眼で確かめていくうちにその世界に引き込まれていくようになる。
「私がつくりたいのは、思わず触りたくなるようなモノなんです。
コップでも器でも、備前焼は使ってこそ真価を発揮するし、
使えば使うほどツヤも増すんです。使う人に育ててもらう。
備前焼のそういう部分が私には合っているんじゃないかなと」
取材時にいただいた、山村さんのカップで飲んだ抹茶は、実にまろやか。
人里離れた、穏やかなアトリエの環境と相まって、
ついつい長居をしてしまった。
「女性ならでは」というと語弊があるかもしれないが、
ものづくりへの視線には確かに「女性らしい」堅実さとこまやかさがある。
「もしかしたら、食器にしろ花器にしろ、
日常使いという視点が強いのかもしれませんね。
細工物に関しても、そうかも。
飾ってカワイイ動物をつくりたくなっちゃうから(笑)」
猫をモチーフとした器や、象の置物が整然と並ぶアトリエ。
「自分が欲しくなるようなもの」を経験的に知っている山村さんのつくる備前焼は、
使ってこそ、価値がわかるはず。

備前の歴史の中には、「細工物」と呼ばれるジャンルがある。象をそのままかたちにした、山村さんならではの細工物。

藤田 祥さん

自由に大胆に、備前の「本当」を追う。

藤田祥さんは、研究熱心だ。
土を探し、練り、成型し、焼く。
すべての過程を自分でこなさなければならない若手作家にとって、
プロセスを楽しむことができなければ、その作業は苦行でしかない。
もちろん修業時代は、「いかだで遭難したときのように」ただひたすら
手を動かして菊練りを繰り返し、「土を見るだけで気持ち悪くなるほど」だった。
だが、教えられるよりも「体で覚えながら、自分で考える」ことで、
備前焼の奥深さにのめり込んでいった。
「備前焼の歴史を調べていくと、
いかに昔の人が自由勝手につくっていたかが分かるんです(笑)。
“こうでなくちゃいけない”っていうルールは、
実は結構最近の人がつくり出したものにすぎない。
備前地方の土を使い、釉薬を使わずに、備前の窯で焼く。
備前焼のルールは、本当はそれだけだと思うんです」
その言葉通り、藤田さんの作品は、地層をそのまま再現したかのように、
ゆるやかにグラデーションしている壷や黒く美しく光る花器など、
一般的にイメージされる“茶色”の備前焼とは違う。
だが、そこには脈々と流れる備前の1200年の歴史を受け継いだものがある。
「研究することがたくさんあるんです。
黒備前は、土中の鉄分を5%まで上げて、
1200℃で焼く必要があるんですが、それも試行錯誤の結果分かってきたこと。
知れば知るほど、世界は広がっていく感覚が面白い」
一生かけて研究する題材が僕にとっては備前焼なんです、と藤田さんは言う。
若手作家には、その進化を見守る楽しみもある。

地層をそのまま再現したような壷(左)と、黒備前の花器(右)。日常使いにこそ「カッコいいものを」が、テーマのひとつである。

「できるだけ周りに他の作家がいない環境」を求めて、山奥にアトリエを構えている。すぐ脇には小川の流れる、閑静な環境。

木村英昭さん

窯元18代目が、世界へ発信する備前。

「歴史をつなぐためには、新しいことをしていかなければいけない」
と、備前市伊部に窯を構えて18代目となる、木村英昭さんは言う。
文献が残り、確実に遡ることができるのは桃山時代だそう。
窯が家庭の中心に据えられ、代々続いていく「備前焼」の歴史。
木村さんにとっては、家に窯があるのも、18代目になり、
備前の歴史をつないでいくことも「当たり前のこと」だと言う。
その「当たり前」を続けるために木村さんは、大学卒業後、バルセロナに留学。
「技術的には備前で修業するのが一番だとは思います。
でも、新しいデザインや色彩感覚を得るためには、
一度離れる必要があったんです。
スペインには土の文化もありますしね」
アパートからサグラダファミリアが見える生活を経て、
木村さんのオリジナルなものがつくりたい、という想いは強くなっていく。
そして、新しい世界観をつくっていかなければ、
備前の歴史をつなげていくことはできないと確信するに至る。
「桃山時代に日常雑器として使われていた備前が、
千利休の『茶の湯』の世界観で高まった。
もう一度、備前の価値を高めることが、
次の世代につなげていくために必要だと思うんです」
だからこそ木村さんは、片足を商品としての器づくりに、
もう片足を現代美術としてのオブジェ制作に置いている。
「ウエ坊」と名付けた小さな壷のような生物のような陶器を無数に並べ、
インスタレーションで備前焼の世界観を表現している。
木村さんが使う土は、祖父が掘り出したもの。
2代寝かすと「いい感じ」にこなれるらしい。
代々続く歴史に、18代目の痕跡を刻む木村さんの挑戦は続く。

先代、木村さん、お弟子さんの3人で使っているアトリエ。穏やかな光の中、黙々と轆轤を回し、お店で販売するための器も製作している。

細川敬弘さん

伝統ある備前焼を次世代へとつなげる若手作家の想い。

細川敬弘さんがなぜ人気があるのか、作品を見ればすぐにわかる。
「渋い」と形容されることの多い備前焼を、
やさしい色で焼き、使いやすいかたちにひしゃげる。
今までの備前とは違うことが、器からひしひしと伝わってくる。
備前焼作家であった祖父に弟子入りし、
「10年は一緒に仕事をして、教えてもらえる」と思っていたが、
祖父は1年ほどで体を壊して窯を去ってしまう。
細川さんは、他の作家の窯焚きを手伝いながらつくり方を覚えていく。
でも、どの作家も「同じことを言わない」。
となれば、自分なりに磨くしかない。
「同世代の友達に見せると、“なにこれ”ってズバズバ言われます(笑)。
備前焼を知らない友達のほうが直感的に言ってくれる。
そこから使いやすいものって意識が生まれていったのかも」
花器をつくるために、華道を習い、食器を焼くために、料理店に取材に行く。
徹底して、「用の美」にこだわることが、細川さんの個性であり、強みなのだ。
「まず眼に留めてもらわなきゃいけない。
だから色にはすごくこだわります。
手に取ってもらえたときのために、質感も大切にしなければいけない。
買ってもらうって、すごいことだから」
窯焚きを終え、冷まして取り出すまでの数日間。
自分の仕事が試される瞬間を前に、細川さんは情緒不安定になってしまう。
ようやく窯を開けてもすぐ、「次の窯焚きではこうしよう」と考えてしまうから、
作陶をやめることはできないと、細川さんは笑う。
エンドレスな試行錯誤。
その覚悟が、細川さんの備前焼にかける思いなのだ。

2つのカップを重ねて焼いた異色の作品。自由な発想も細川さんならでは。お店に訪れて気に入ったものをオーダーすることも可能。

関美工堂

新しい会津塗のブランド「BITOWA」を担う漆の老舗

400年以上の歴史を誇る会津塗。
その伝統を継承しながら、洗練されたデザインで新しい会津塗を打ち出し、
2006年に誕生したブランドが「BITOWA」だ。
職人が生み出す繊細な美しさをたたえながら、
現代のライフスタイルにもなじみやすい製品を発表し続け、国内外で高く評価されている。
漆器組合の青年部から誕生したBITOWAは、
現在は漆器を扱う4社によって組織されている。
各社の代表たちは、かつては東京で音楽業界や、宇宙開発事業、金融業など、
漆器産業とは関係ない世界で成功していたUターン組。
そんな彼らのアイデアや戦略、そして何より情熱がこのブランドを育ててきたのだろう。

BITOWAのメンバーである関美工堂の関昌邦さんは
「会津漆器はピーク時の4分の1になってしまっています。
現代では漆器の代わりになるものはいくらでもあるし、
漆器でないといけない必然性もなくなってきている。
でも先祖たちが残してきたものを守りながら、いまの生活で使ってもらうためには、
どういうアイデアで誰に向けた商品を作っていくのかという、
販売戦略に基づいたものづくりが必要になってきます」と話す。

関美工堂は、もともとは表彰記念品のノベルティなどを製造販売する会社だが、
デザインや素材にこだわったさまざまなアイテムを扱うセレクトショップ
「b Prese(ビープレゼ)」も経営する。
そこではBITOWAだけでなく、
会津の職人の手作業で作られたマグカップ「ノダテマグ」や、
陣羽織の柄をデザインモチーフにし、漆塗りに金やプラチナの蒔絵を施した
iPhoneカバー「cavre」など、関さんがプロデュースした商品も扱っている。

会津塗の職人は、木地をつくる木地師、漆を塗る塗り師、絵をつける蒔絵師というように
分業制になっており、それぞれの適性やコスト、スケジュールを見極めて、
職人たちに仕事を振っていくのも関さんの大事な仕事。
現場をよく理解し、多くの職人たちとつながりを持っているからこそできることだ。
実際の作業現場を見学させてもらうため、
塗り師の大森弘さんの工房に案内してもらった。
ここでは関美工堂で扱っている記念品などの箱やiPhoneカバーなど、
おもに板物を塗る。
塗るときに埃が舞うと、塗ったばかりの漆についた埃をとらなくてはならないので、
塗り師は息をひそめて手際よく塗り、部屋は静寂に包まれる。
下塗りをして乾かし、また上塗りをするという作業を繰り返していく。
現代的な発想やデザインから生まれた製品でも、それをしっかり支えているのは伝統の技。
関さんは「伝統を踏まえたうえで、新しい商品づくりをしていきたい。
続けてきたことで結果は出てきています」と目を輝かせていた。

秀吉の陣羽織がデザインされたiPhoneカバー。金とプラチナの蒔絵で加飾。

大森さんの息子の康弘さんも塗り師。刷毛には女性の髪の毛が使われている。

漆は65~85%の湿度の乾燥室で乾かしたあと磨かれる。朱は信長バージョン。

Profile

MASAKUNI SEKI
関 昌邦

せき・まさくに●1967年、福島県会津若松市生まれ。宇宙開発事業団を経て2003年に株式会社関美工堂に入社、2007年より代表取締役社長。会津塗ブランド「BITOWA」の立ち上げに携わり、現在もさまざまな商品のプロデュースを手がける。