秋田 Part3 ぼくが秋田に本気でワクワク した理由。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
秋田編・目次

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「Re:S(りす)」代表の編集者・藤本智士さん。
秋田から発行するフリーマガジン『のんびり』が注目を集める藤本さんと
山崎さんの対談を4回にわたりお届けします。

梅原真さんとの初対面が秋田県庁だった。

山崎

秋田にはどういうきっかけで?

藤本

いちばん最初は2008年の『Re:S』の取材ですね。
青森帰りに羽後町の花嫁道中という雪のなかのお祭を見て、
すごく感動したんです。それ以来、冬の秋田にハマって、
しごとでもプライベートでも自家用車で通ってました。

山崎

ん? 駅からレンタカーじゃなく、自宅から車で?

藤本

そうなんですよ。ぼくにとって、旅は道中が大事なんで(笑)。
新車買って1年の点検で5万キロ走ってたみたいで、
さすがにディーラーさんにも驚かれました。

山崎

それは驚く(笑)。

藤本

昨年春に、東京ミッドタウン・デザインハブの企画展
「日本のデザイン2011 Re:SCOVER NIPPON DESSIGN」
というイベントの総合プロデュースを任されたんですが、
それまで名だたるデザイナーさんたちが行ってきたこの企画展を
ぼくがやるからには、自分のフィールドに持ってくるしかないな、と。
それで、デザイナーさんと一緒に「旅をする」ことにしたんです。

山崎

お、それは楽しそうだ。

藤本

そのとき主催者側へ出した条件はたったひとつ。
「このために超一流のデザイナーさんを3人選んでください」ということ。
さっきも話したように「3割の遊び」が成功するためには、
一流ではなく「超一流」でないとダメなんです。

山崎

なるほど。

藤本

それでご一緒したのが森本千絵さんと山中俊治さん、それに梅原真さん。
そのときに梅原さんとのスケジュールが全然合わなくて、
最終的に「秋田でなら」ということになり、初対面の梅原さんと
秋田県庁で待ち合せすることになるんです。

山崎

当時すでに、梅原さんは秋田県のイメージアップ戦略アドバイザーに
就任してますもんね。

藤本

はい。それ以降、少しずつ秋田で講演会に招いていただいたり、
県の職員や地元のクリエイターとお話する機会をいただいたり、
一方的に「こんなんあったらええなあ」っていうことをプレゼンしたりしてました。

神社にお詣りする藤本さん

旅先では、まずそのまちの神社にお詣りするという藤本さん。のんびり編集事務所に到着したら、なにはともあれ向かいのお稲荷さんにごあいさつ。

いよいよ県庁との打ち合わせ

和気あいあいなランチから始まったスタッフミーティングを経て、気分をひきしめいよいよ県庁との打ち合わせへ。

「どうにもならないことに対しての潔さ」に惚れた。

藤本

どこのまちでもだいたい共通するのは、行政や企業のおじさんたちって、
ぼくたちクリエイターとなかなかはなしが通じないってこと。

山崎

(笑)

藤本

でも、秋田では違ったんですよ。
みなさんの目の色がどんどん変わっていって、
「本気で変わらなくちゃ」っていう思いがちゃんと届いてる実感があったんです。
そういうことを経て、秋田をPRするメディアの発行という
動きがスタートしたので、ぼくは地元の若いクリエイターと組んで、
この『のんびり』を提案することになりました。

山崎

その子たちとはどうやって出会うんですか?

藤本

プライベートで通ってるころからの積み重ねですね。
じぶんたちの宝物は足もとにあることをはっきりと認識している彼らのことが、
ぼくは大好きなんです。それに、毎冬直面する大雪のような
「どうにもならないことに対しての潔さ」みたいなところもスゴイなぁって。

山崎

……なるほどね。

藤本

秋田県知事と梅原さんと、県民300人の前で鼎談する機会があったんですが、
そのときに知事が「わたしは秋田を誇りに思っている。
なにしろ秋田には、うまいメシとうまい酒がある!」って言い切って、
それを聞いた会場がドカーンと笑うのを見て、またスゴイなぁって。
なんて幸せなことなんやろうって。

山崎

うーん……深いですね。

藤本

「うちがいちばんおいしい」という絶対価値でなく
「そうか、アンタのまちもおいしいか。よかったな」と言える
相対価値みたいなものがこれからのスタンダードなんだって、
そのときに確信したんです。トップにこういう知事がいるなら、
このまちから日本を変えることができるんじゃないかって、
本気でワクワクした瞬間でした。

山崎

PRメディアの発行は県のしごとだから、
プロポーザルで選ばれたということですよね?

藤本

そうです。大手代理店が有名クリエイターと組んで
パワープレイでやってくるようなプロポーザルです。決まったときも
「これまでに見たことのないやり方を提案してきたあなたたちを選んだのは、
県庁としても大きなチャレンジです」とはっきり言われました。

山崎

いわば「賭け」ですよね。

藤本

県も腹をくくってるのがわかるし、ぼくらもそのことをちゃんと理解して
本気でがんばろうと思っている。リスペクトし合えるいい関係で、
お互いに気持ちよくしごとができているという実感があります。

山崎

これもまた、さっき出てきた「潔さ」なのかもしれませんね。
この「どうにもならないことに対しての潔さ」って、
秋田のみならず、中山間離島地域に共通する観念のようにも思います。
都市郊外育ちのぼくはまったく持たない感覚だったので、
はじめのうちは苦労の連続でした。
たとえば今日は嵐でフェリーが運行しないとか、
まちにタクシーが1台しかないという日常のささいなことさえ、
「しょうがない」と思えるまで2年はかかりましたね。

藤本

うんうん、わかります。

山崎

藤本さんの編集の手法もぼくらコミュニティデザイナーのやり方も、
先に正解のアイデアを持って行くのではないというところが同じですね。
どちらも「そこへ行ってみて」なにが起こりうるかを探るという意味では
とても似ています。
そして、こんな風に始まりが不確かであいまいなやり方を飲んでくれるのは、
東京や大阪といった都市部よりも、圧倒的にローカルなんですよね。
ローカルのほうが、しなりとか順応性とか、そういう豊かさを感じます。

(……to be continued!)

「cocolaboratory」

リノベートビルにギャラリーやショップ、カフェが入居する「cocolaboratory」。秋田県内外で活躍する旬のクリエイターと出会えるスポット。http://cocolab.jugem.jp/

フリーマガジン『のんびり』を手に取る山崎さん

「秋田からニッポンのびじょんを考える」フリーマガジン『のんびり』を手に取る山崎さん。現在配布中のvol.2は、「与次郎きつね」をはじめとする秋田の伝説が特集されている。http://non-biri.net/

藤本智士さん

「県の長である知事が、なにしろ秋田には、うまいメシとうまい酒がある!って言って、それを聞いた300人の県民がドカーンと笑う。これって最高だなって思ったんですよ」(藤本)

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SATOSHI FUJIMOTO 
藤本智士

編集者/有限会社りす代表 1974年、兵庫県西脇市生まれ。

2004年に出版した『すいとう帖』をきっかけに、「マイボトル」という言葉を生み出し、現在のマイボトルブームをつくる。2006年雑誌『Re:S(りす)』を創刊。11号で雑誌休刊するまで、編集長を務める。その後自らの会社名を「Re:S(りす)」と変更。

Re:S=Re:Standard(あたらしい、ふつう)を単なる雑誌名とせず、様々な書籍や展覧会やものづくりをとおして、Re:Sを体現していく編集活動が話題を集める。最近では、デジタル時代にアルバムの大切さを伝えるべく開催した「ALBUM EXPO」(大阪/名古屋にて開催)、3人のデザイナーとの旅の記録を展示化した「日本のデザイン2011 Re:SCOVER NIPPON DESIGN」(六本木ミッドタウン)の企画・プロデュース。国土交通省観光庁をとおして、全国の小、中、高の図書館に寄贈された、ジャニーズ事務所の人気グループ嵐による『ニッポンの嵐』の編集、原稿執筆を手がけるなどで話題に。近著に『ほんとうのニッポンに出会う旅』(リトルモア)。イラストレーターの福田利之氏との共著として『Baby Book』(コクヨS&T)がある。現在、秋田県より全国へ発行されているフリーマガジン『のんびり』の編集長を務める。

Re:S(りす):http://re-s.jp/

『のんびり』:http://non-biri.net/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

秋田 Part2 編集のチカラで 世の中を変えられると知った。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
秋田編・目次

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「Re:S(りす)」代表の編集者・藤本智士さん。
秋田から発行するフリーマガジン『のんびり』が注目を集める藤本さんと
山崎さんの対談を4回にわたりお届けします。

ぼくらしい編集スタイルで「嵐」と向き合った。

山崎

雑誌の枠を超えて社名を「Re:S」としたところに、
藤本さんの強い意志を感じますね。

藤本

同時に、アングラの真逆とも言える
「超ド級のエンターテイメント」を知らなくちゃいけないな、と思ったんです。
フリーペーパーを作っていたときも同じことを思って、
関西ウォーカーで連載を持たせてもらったりしてたんです。
判断基準や価値観って、じぶんのなかに物差しがあるべきだから、
どこかでバランスを取りたくなる性分なんです。

山崎

ほぅ。

藤本

それで、2009年の1月に『Re: S』を休刊したときに、
「今年のうちにディズニーランドとジャニーズのコンサートに行く!」って
決めたんですよ。

山崎

なるほど、それは超ド級のメジャーだ(笑)。

藤本

ところが、ディズニーランドは行けても、
ジャニーズのコンサートってチケットが取れないから、
行きたくても行けないんですよね(笑)。
どうしたものかなあと思いあぐねているところに、やってきたしごとが
「嵐」の本だった、という……。

山崎

すごいなあ。そんなことがあるんですね(笑)。

藤本

それで作らせてもらったのが『ニッポンの嵐』なんです。
そうそう、これで海士町に行ってるんですよ。

山崎

あ、ほんとだ。

藤本

もともと『Re:S』を見てくださっての依頼だったので、
この本でもぼくの編集の手法をとりました。
つまり、2〜3割を彼らに委ねたんです。
決めすぎないゆるさって、ともすれば不安にもなるかもしれないのですが、
さすがに彼らはプロフェッショナルにそこをやりきってくれた。
このことは、ぼくにとっての大きな自信にも繋がっていきました。

山崎

転機に、よい経験になったわけですね。

藤本

しかも、念願のコンサートにもちゃんと行けましたしね(笑)。

学校図書『ニッポンの嵐』

『ニッポンの嵐』は、国土交通省観光庁をとおして、全国の小、中、高の図書館に寄贈された非売品の学校図書。のちに、内容はそのまま完全縮小したポケットサイズも発売され、発行元収益のすべては東日本大震災の復興支援のために寄付された。藤本さんは、編集、原稿執筆を担当。

対談の様子

『ニッポンの嵐』で海士町のナビゲートをしてくれたのは、山崎さんもよく知る地元の面々。「クリエイティブに活動する若いひとたちがみんな、『Re:S』が好きだったと言ってくれて、ああ、ここまで届いてたんやなってしみじみとうれしかった」と藤本さん。

このまちで、編集というしごとを続けていたい。

藤本

こういう機会を経て、偶然性を大切にして作っていく
じぶんの編集スタイルを確立していくんですが、
ここで背中を押してくれたのが、まさに鶴瓶さんなんです。

山崎

ほぅ。

藤本

それまでは、一方的に好きだっただけなんですけどね。
ご縁があってお会いできたときに
「そうや、それでええねん。偶然でええねん」って言ってもらえたんです。

山崎

それはうれしい力になりましたね。

藤本

ほんと、ミラクルですよ(笑)。でも、このまちから、
全国に流通するものを作っていきたいと思っていましたから、ずっと。
こういったプロフェッショナルな方々と触れあいながら、
それを叶えられたことがじぶんの自信になってきました。
そんなときに、秋田に出会うわけです。

山崎

このスタイルって、東京でやるのはむずかしいんですか?

藤本

たぶんいちばんむずかしいですね。なんでも広告代理店が関わってきますから。
ひとの思惑が絡めば絡むほど、やりにくくなります。
ぼくのやり方は、いわば独裁者的ですから(笑)。
でも、それが編集の魅力だし、
だからこそ編集で世の中を変えられると思っています。

山崎

なるほど。

藤本

たとえば、フリーペーパーをやってるころに『すいとう帖』というのを作り、
マイボトルということばを使ったんですが、
それで水筒というものが再びスタンダードの座に返り咲きました。
折しも象印もタイガーも「国内で魔法瓶は売れない」と言っていた時代に、
世の中を少し変えたり、ひとを動かしたりできたことに、
純粋にわくわくしたんです。
だから、なにが正解かじゃなくて、じぶんに正直にまっすぐに、
編集の力を使いたいって思うようになりました。

山崎

どうして、東京ではやらないんでしょう。

藤本

お金の仕組みができあがってしまってるからでしょうね。
企業とのやりとりなど面倒なあれこれを代理店さんがやってくれて、
その代わりにクリエイターが守られる、というような。
でも、モノづくりの現場が潤ってほしいって思うんですよね。
間を取り持つひとがいちばん儲けるんじゃなくて。

山崎

うーん、たしかに。

藤本

雑誌の『Re:S』をやったときに、多くの編集者から
「うらやましい」と言われたけれど、
だからといってそれをじぶんでやろうとするひとはいませんでした。
できないんですよね、やっぱり。
みんなは東京が最先端だというけれど、そういう意味でも
ぼくは東京がいちばん遅れていると実感しています。
逆に、いま通っている秋田は「すごく先を行ってる」って感じますよね。

(……to be continued!)

フリーマガジン『のんびり』

今年度、藤本さんが編集長をつとめることになったのは、「秋田からニッポンのびじょんを考える」フリーマガジン『のんびり』。「秋田が最先端」だというその意味は?

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SATOSHI FUJIMOTO 
藤本智士

編集者/有限会社りす代表 1974年、兵庫県西脇市生まれ。

2004年に出版した『すいとう帖』をきっかけに、「マイボトル」という言葉を生み出し、現在のマイボトルブームをつくる。2006年雑誌『Re:S(りす)』を創刊。11号で雑誌休刊するまで、編集長を務める。その後自らの会社名を「Re:S(りす)」と変更。

Re:S=Re:Standard(あたらしい、ふつう)を単なる雑誌名とせず、様々な書籍や展覧会やものづくりをとおして、Re:Sを体現していく編集活動が話題を集める。最近では、デジタル時代にアルバムの大切さを伝えるべく開催した「ALBUM EXPO」(大阪/名古屋にて開催)、3人のデザイナーとの旅の記録を展示化した「日本のデザイン2011 Re:SCOVER NIPPON DESIGN」(六本木ミッドタウン)の企画・プロデュース。国土交通省観光庁をとおして、全国の小、中、高の図書館に寄贈された、ジャニーズ事務所の人気グループ嵐による『ニッポンの嵐』の編集、原稿執筆を手がけるなどで話題に。近著に『ほんとうのニッポンに出会う旅』(リトルモア)。イラストレーターの福田利之氏との共著として『Baby Book』(コクヨS&T)がある。現在、秋田県より全国へ発行されているフリーマガジン『のんびり』の編集長を務める。

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『のんびり』:http://non-biri.net/

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山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

秋田 Part1 雑誌『Re:S』を捨てて 社名を「Re:S」に。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
秋田編・目次

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「Re:S(りす)」代表の編集者・藤本智士さん。
秋田から発行するフリーマガジン『のんびり』が注目を集める藤本さんと
山崎さんの対談を4回にわたりお届けします。

出会い方のお手本は、笑福亭鶴瓶さん。

藤本

ようこそ! お久しぶりですね。

山崎

神戸に引っ越されたばかりなんですよね。
立地もいいし、気持ちのいい事務所です。
お、落語の本がいっぱいありますね。

藤本

好きでね、最近はiPhoneをジップロックに入れて浴室に持ち込んで、
お風呂のなかでよく聞いてます。山崎さんも、お好きですか?

山崎

半年前くらいから興味があるんですよ。
最近、じぶんがいろんなところで同じ話をする立場になってみて、
落語のように「同じ話を今日のおもしろさ」で話せないものかなあと
考えるようになって。勉強したいなあと思っているところです。
お風呂、いいですね(笑)。

藤本

ぼくのお手本は笑福亭鶴瓶さんです。
落語そのものというよりも、日常のエピソードをネタにしていく
「おもろいはなし」の手法。
高校生のころからTV番組の収録に通っていたくらい好きで、
「このひとは、なぜこんな奇跡的な出会いをするんだろう」ということに
純粋に興味を抱いていました。
「出会う能力」のヒミツを知りたかったんです。

山崎

出会う能力! それはぼくも知りたい。

藤本

でしょう?(笑)これは鶴瓶さんじゃないんですけれど、
その後、ダウンタウンのブレーンのひとりで
放送作家・脚本家の倉本美津留さんという方にお会いしたときに、
お笑いの現場の偶然性のおもしろさについて尋ねてみたことがあるんです。
そうしたら、100点満点のコント台本を書いても80点にしかならない。
でも、あえて台本を70点にして、3割の遊びを残しておくと、
芸人さんのポテンシャル次第で100点どころか
2000点が取れることがあるとおっしゃるんです。

山崎

うーん、なるほどね。

藤本

このはなしを聞いて、ああ、それがプロなんだ、と思ったわけです。
それを編集というフィールドでどれだけ発揮できるかということに挑戦したのが
雑誌の『Re:S(りす)』(*1)でした。

山崎

『Re:S』はそういうチャレンジだったんですね。

藤本

はい。いちおう設計図を描いてはおくけれど、
その通りにならなくてもいいっていうスタイルを叶えたくて、
クライアント=広告のない雑誌を作ろうとかね。

*1 『Re:S(りす)』:2006年に創刊された季刊誌。「Re:Standard あたらしい“ふつう”を提案する」をコンセプトに、編集長・藤本智士と編集部自ら日本全国を巡り、偶然の出会いをとりこみながら誌面を制作するという独自の編集スタイルを構築。富士フイルムやタイガー魔法瓶といった企業とのユニークなコラボレーションの試みも。11号で一時休刊を宣言、Webへと移行した。

2004年出版の『すいとう帖』

「マイボトル」ということばを生み出したのは2004年出版の『すいとう帖』。「それを見た象印の社長さんから直接電話がかかてきて、ぼくは自転車を飛ばしてすぐに会いにいったんです」。代理店の介在を必要としない、藤本さんらしい編集方法の始まりともいえる。

これまでも、捨てることから始まっていた。

山崎

あれは何号まで続いたんでしたっけ?

藤本

11号です。3年ぐらいやったので。
脳科学者の茂木健一郎さんが「偶優性」と言ったりするけれど、
決められたページ数をおきまりの企画で埋めていくのではなく、
2〜3割のアドリブをかましながら、
自分自身がわくわくしてクリエイティビティを感じる、ということに
ハマりきっていたんです。

山崎

本来は、それこそが編集者の腕の見せどころですよね。

藤本

ところが、そんなスタイルで始めた『Re:S』に
一定の読者がついて赤字にもならず安定したころに、次は
「でもこれって、アングラなことやってるんだよなぁ」と
矛盾を感じるようになったんです。

山崎

アングラ?

藤本

はい。ぼくがテーマにしている
「Re:Standard(あたらしい、ふつう)を提案する」は、
ベースが「ふつう」なんですよ。
なのに、極めて狭いところに『Re:S』を届けていないだろうかって。
マスに届けなければ意味がないんじゃないかと。
それで、一度『Re:S』を捨ててみようと。

山崎

そんな理由で休刊したとは知りませんでした。

藤本

ええ。『Re:S』の前には「パークエディティング」という社名で
フリーペーパーを発刊していたけれど、ブームによって、
Freeの意味が「自由」でなく「無料」になってしまって、フリーペーパーを捨てた。
その後、アートブックを作ったときは、書籍流通の壁にぶち当たって試行錯誤……。
これまでをふりかえってみても、結局、
じぶんが捨ててきたものの中にしか答えがないと気づいたんです。

山崎

なるほど……。

藤本

それで、雑誌の『Re:S』を捨てて、会社名を「Re:S(りす)」に変えたんです。

(……to be continued!)

「りす」の事務所

この秋「りす」の事務所を神戸に移転。「新卒で就職したのが大阪だったので大阪に事務所を構えていましたが、じぶんの帰る場所、帰る港ということを考えた時、それはやっぱり生まれた兵庫県だったんです」と藤本さん。

デザイン・クリエイティブセンター神戸

りすが入居する「KIITO/きいと」こと、デザイン・クリエイティブセンター神戸。神戸生糸検査所を改修した新館、旧館の2棟からなる地上4階建てのスペース。神戸市中央区小野浜町1-4 http://kiito.jp/

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SATOSHI FUJIMOTO 
藤本智士

編集者/有限会社りす代表 1974年、兵庫県西脇市生まれ。

2004年に出版した『すいとう帖』をきっかけに、「マイボトル」という言葉を生み出し、現在のマイボトルブームをつくる。2006年雑誌『Re:S(りす)』を創刊。11号で雑誌休刊するまで、編集長を務める。その後自らの会社名を「Re:S(りす)」と変更。

Re:S=Re:Standard(あたらしい、ふつう)を単なる雑誌名とせず、様々な書籍や展覧会やものづくりをとおして、Re:Sを体現していく編集活動が話題を集める。最近では、デジタル時代にアルバムの大切さを伝えるべく開催した「ALBUM EXPO」(大阪/名古屋にて開催)、3人のデザイナーとの旅の記録を展示化した「日本のデザイン2011 Re:SCOVER NIPPON DESIGN」(六本木ミッドタウン)の企画・プロデュース。国土交通省観光庁をとおして、全国の小、中、高の図書館に寄贈された、ジャニーズ事務所の人気グループ嵐による『ニッポンの嵐』の編集、原稿執筆を手がけるなどで話題に。近著に『ほんとうのニッポンに出会う旅』(リトルモア)。イラストレーターの福田利之氏との共著として『Baby Book』(コクヨS&T)がある。現在、秋田県より全国へ発行されているフリーマガジン『のんびり』の編集長を務める。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

番外編 公開講座 「コミュニティデザイナーという仕事」レポート

コミュニティデザイナーというしごとに実際に触れながら、
ひとのつながりが基盤となる新しい社会のあり方について考えたい。
札幌の北海道大学の大学院が主催し、札幌オオドオリ大学の協力で
山崎さんを招いた講座は、「いま、最も受けたい授業」でした。

コミュニティデザイナーって、どんなしごと?

夏のある日の北海道大学大学院環境科学院D201講義室。
階段式の大教室が、みるみる間に満席になります。
2010年度からすでに14組もの講師を迎えて、環境科学と異分野の連携を考えてきた
北海道大学環境科学院GCOEプログラム主催の公開セミナー「環境と、なにか」。

地域でのあたらしい学びの場づくりを目指すNPO「札幌オオドオリ大学」の協力もあり、
学生だけでなく多くの社会人も参加、参加者を巻き込む対話型の講座に、
コミュニティデザイナーの山崎亮さんが登場です。

コーディネーターは、フリーランスのメディア・ジャーナリストで
東海大学国際文化学部デザイン文化学科客員教授でもある渡辺保史さん。
まずは、文字通り「コミュニティデザイナーって、どんなおしごとなんですか?」
というおはなしから。

山崎さん、あるいは彼が代表をつとめる「studio-L」が、現在、実践として行っている
「コミュニティデザイン」のしごとは、おおまかにこの4つに分けられます。

4つに分類される「コミュニティデザイン」の仕事の図

左の項目ほどデザイン力、右の項目ほどマネジメント力が重視される、
もしくは必要とされる分野ですが、その両方の実力を兼ね備えているのが
山崎さんの強みであり、コミュニティデザイナーという肩書きのもつ意味でもあります。

本に書いた後の海士町のはなしをしよう。

島根県の離島、海士町は、人口およそ2300人。
そのなかに、地元継続居住者(ずっと住んでいる人)、
Uターン者(外から戻ってきたひと)、
Iターン者(約250人の移住者)が混在して暮らしている……。
このまちの総合計画を住民参加型で作っていくプロジェクトは、
山崎さんの代表著書『コミュニティデザイン』(学芸出版社刊)にも、
20ページを割いて紹介されています。

「そもそもまちづくりとは、なんて言いたいわけじゃない」と、山崎さんは言います。
Uターン者、Iターン者のみならず、元ヤンキーも、ブランド好きの主婦も、
一緒にやるから楽しいことがおこるんだ、と。
「現在、町民2300人中、約300人がまちづくりに関わっています。
これってたしかにすごいことかもしれないけれど、逆に、残りの2000人は、
なぜ関われないんだろうということを考える必要があります」

それから、海士町に限らず、限界集落のすべてを「活性化」することはむずかしい、
というリアルなはなし。
つまり、活性化一辺倒ではなく、現状を「維持」することや
「美しく」集落を「閉じる」ことも考えていかなくてはならない場合がある。
誰も苦しい思いをしないで済む方法はあるだろうか。

それはたとえば、集落支援員を育てる、派遣すること? 
たとえば、祭りの記録など、そこに集落があったことの記憶を記録すること……?
そういった方法を美しくデザインしながら考えていくなかで、
今や婚活や恋札の制作まで行うようになった山崎さんたちが、
次第にやってみたくなったこと。

それは「これを読めば、きっとそのひとに会いに行きたくなるガイドブック」。
店や観光地でなく、125名のひと(住民)を通してまちを紹介する、
その名も「コミュニティトラベルガイド」。この思いはカタチになり、
『海士人(あまじん)』というタイトルで今年の5月に出版され、書店に並んでいます。

海士町の住民参加型プロジェクトについて話す山崎さん

海士町の住民参加型プロジェクトについて話す山崎さん。「Uターン者、Iターン者、地元継続居住者も、一緒にやるから楽しいことがおこる」

コーディネイター・渡辺保史さんとの対話

渡辺

山崎さんのように「ひととひとを繋ぐこと」を仕事にするひとは、
今後増えるだろうか。
必要とされるなら、どういう力を養っていけばいいのでしょう。

山崎

ぼくたちはこれまで「デザインはひとの生活を豊かにする」と教えられてきました。
でも世の中はここ30年、「豊かさ」=モノではないと気づいてしまっている。
では、いまぼくたちは、なにをデザインすればいいんだろう、というところから、
ファシリテーションを学んだり、まちづくりのひとたちに学んだりして、
いまのしごとのカタチになってきたように思います。

また、専門家の知恵や技術を橋渡しできるスキルをもつひとというのも
必要とされるようになってきているように感じます。
ただ、つなぐだけのひとでは、なにをやってるのかわからない。
横につなげてさらに深さをもたらすことが求められます。

つまり、「T」の字のイメージ。でも、欲をいえば実は「T」でも足りなくて、
専門知を複数もつ「π」の字型を目指すべきではないだろうか、
それがぼくらに必要なスキルだといまは思っています。

渡辺

北海道についてどう思っていますか?

山崎

人口減少先進地の最先端になれそうですね。
大都市圏を持っているのに自然に人口が減るという
すごいことが起ころうとしているのですが、実はこれは世界にも例がありません。
たとえば北海道、大阪、和歌山と、群を抜いて人口が減りつつあるまちから
何が学べるでしょう。「では、何が起こるのか」を知らないひとが
あまりにも多いので不安にもなりますが、考え方を変えれば、
逆にいまのぼくたちが異常な時期に生きているのかもしれない、とも言えます。

そうであれば、幸福度と人口を過度に結びつけて
悲観することでもないのかもしれませんね。
少ない人口で幸せに生きていくことを考えればいい。
世界に向けて、北海道からその方法を発信していければいいですね。
もちろんこれには、相当高度でクリエイティブな発想が
必要とされるはずですけれど。

参加者との対話 —今日、山崎さんに聞いておきたいこと—

参加者A

過疎化が進むと、国を守れなくなるのでは?

山崎

外から攻められることより、中から崩壊していくことのほうが切実だと思いますね。
過疎というより「適疎(てきそ)」ということばで表現したい。
たとえば東京の満員電車なんて、過密すぎると思いませんか? 
適切にまばらなまち=適疎。
たとえば、ひとり1ヘクタールの家にゆったりと住む暮らし、
悪くないと思いませんか。

参加者B

ひとを巻き込むポイントは何ですか?

山崎

ぼくももともとコミュニケーションが得意ではないほうなので、
気をつけていることがあるとすれば、「YES、and」で
相手がほんとうに思っていることをうまくひき出し、つなげていくこと。
これ、否定形で考えるよりもむずかしいんです。
「YES、and」でつなぐ文脈を、あたまのなかで相当考えているんだな、
とじぶんでも最近気づきました。
ポイントは、相手の本質のことば、大事なことばが出てくるまで
粘り強く、粘り強く、よく聞くことですね。

参加者C

コミュニティデザイナーという人材を増やすために、
なにかやっていることはありますか?

山崎

教科書を作ってほしいという要望はとても多いのですが、
ぼくがやっていることって、マニュアル化できる類いのものではないんですよね。
そのひとの風貌、キャラクター、聞いてくれる相手の層によるので、
実地訓練がいちばん大事。
そこで、かつて流行ったゲームブック形式で現場を疑似体験できる
『コミュニティデザインの仕事』というアドベンチャーブックを作りました。
ファシリテーションや対象法を学ぶツールとして手に取ってみてくださいね。

* * *

途中、「どんなに大変な現場でも、十分な睡眠を取るというのが、
もしかするとコミュニティデザイナーという仕事なのかもしれませんね」
と冗談めかして語った山崎さん。早口で次々と展開していく話題、
聞く者を竜巻のように巻き込むスピード感のなかに、
時折笑いを交えることを忘れず、でもその笑いのなかに
本質が含まれているというのも、山崎さんの講演の魅力です。

公演中の山崎亮さん

相手のことばをよく聞き「YES、and」でつなげていく。参加者にとって刺激的な講義になったはず。

中崎町 Part4 自分軸とカフェ、他人軸と「譲り店」。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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公共的な役割を果たすカフェのための流儀を模索する「common cafe」プロデューサーの
山納洋さんと山崎亮さんの対談を、4回にわたってお届けします。

1999。中崎町のカフェはこうして生まれた。

山納

そろそろこの時間なら「common cafe」に入れそうですよ。
ちょっと覗いてもらいましょうか。

山崎

お。ぼくも久しぶりなので、ぜひ行ってみましょう。

山納

このあたりにお店ができはじめたのは、たしか1999年ぐらいです。
小さくて個性的な洋服屋やカフェが
静かな住宅街のなかに点在するようになりました。

山崎

ぼくが隣のまちで事務所勤めをはじめて2年ぐらい経ったころで、
お昼ごとに中崎のいろいろなお店に行くのが楽しみでした。
「アマント」「カヌトン」「太陽ノ塔」……どれも懐かしいなあ。
みんな「common cafe」で紹介してもらいましたね。

山納

初期のメンバーは、不動産屋でも埒があかないような長屋の空家物件を
なんとか使いたいと、地方まで直接、家主さんを訪ねてまで
借りたいと申し出たり、家賃の交渉をしていました。
自分らしさ、自分の生き方を追究するようなひとたちが、
梅田から徒歩10分のエリアにお店を持つことができた、というのは
あの時代のトピックだったと思います。

山崎

でも、長屋だと、梁を伝って音が伝わるって言いますよね。
深夜になると、キーボードを打つ音まで隣に聞こえるとか……。
ましてやお店を考えると。

山納

そうですね。早く閉めるお店が多いのは、そのせいだと思います。
どうしても週末にしか集客できない。
さらには、家主不在の貸借なので、なにもしなくても、
近隣の方々には不安を与えてしまうこともある。

山崎

うーん。いろいろ難しそうですね。

山納

いろんな意味で丁寧なケアが必要でしょうね。
でも、そんな条件の中でもお店が増えているというのは、
それだけ空家が増えているということ。
うまくいけば、まちの再活性のよいモデルにもなり得るはずです。

山崎

そういえば、「カヌトン」のメニューのイラストが気に入ったので、
イラストレーターさんを紹介してもらい、
お仕事させていただいたこともありました。

山納

いい意味でみんな、利他的なんですよね(笑)。
店の看板でよその店を宣伝してみたり、
うちは休みやから隣の店にどうぞ、というような貼り紙を出したり。

山崎

でもそれって、客としては気持ちがいいんですよね。
逆に、よその店を否定されると、地域全体を否定しているようにも聞こえますから。
フランスでは、よその店をお互いにほめることで人気になった
ワイン村の事例もあるんですよ。

「common cafe」の入り口

もともと喫茶室だった約20坪のスペースを、カフェとして日替わりのマスターで運営しつつ、ライブや演劇公演、展覧会を行う「common cafe」。大阪市北区中崎西1-1-6 吉村ビルB1F 06-6371-1800 http://www.talkin-about.com/cafe/

カフェと雑貨の店「カヌトン」

中崎町の賑わい創成期から、変わらぬ人気を誇るカフェと雑貨の店「カヌトン」。当初の場所から移転しているけれど、それでもいまやこのエリアに欠かせない存在。

カフェと譲り店を通して、自分軸と他人軸を考えてみる。

山納

こういったことをいろいろ考えてみると、譲り店である「ニューMASA」は、
とてもバランスのとれた存在だといえます。

山崎

なるほど。

山納

でも、「common cafe」はそうじゃない。
店主は、相手の球を受けるのではなく、じぶんから球を打ち、
「おもしろいやん」と言わせる場所なんです。
そういう意味では、OMSと同じ、実験劇場なんですよね。
なぜなら、若いひとって「自分軸」から始まると思うんですよ。いろんなことが。

山崎

わかります。ぼくだって、若いころは自分軸のひとでしたから。
ただ、設計者はアーティストではないので、
他人軸も常に意識しながら、じぶんのやりたいことを叶えていく感じです。
だけど、いまぼくがやっていることをカフェに置き換えると、
「コミュニティを維持するためのカフェ」になるわけで、
そうなると自分のちいさな夢はとりあえず横へ置いて、
「みんなが喜んでくれることが、すなわち自己実現」というような
スタイルになります。
ということは……譲り店のオーナーと、コミュニティデザイナーは、
同じスキルが必要ということですね。

山納

もうひとつ、譲り店=喫茶店は、カフェと違って、間口が広いので、
疑似恋愛を求めてカウンターにやってくるお客さんを
うまくあしらえるというような能力も求められます。

山崎

おじさんにママって呼ばれもいちいち怒らないとか?(笑)

山納

こうして考えると、譲り店の店主になることは、
自分軸を他人軸にうまく転換させるということですね。
これって、じぶんを成長させるのに、すごく役に立つんじゃないでしょうか。
サラリーマンやOLも、ワークショップとして
カウンターの中に立つといいのかもしれません。

山崎

そうですね。うちも、コミュニティデザイナーの研修の場として、
譲り店を一軒やってみるといいんじゃないか、と思えてきました。

築何十年もの古い民家を改装したカフェや雑貨店が多い

築何十年もの古い民家を改装したカフェや雑貨店が多い。レトロでどこかノスタルジック。のんびりとした時間が流れているかのよう。

電柱に掲げられたお店への案内看板

細い路地の奥にひっそりとある小さな社とお地蔵様。中崎町の守護神、白龍大神。

profile

map

HIROSHI YAMANOU 
山納 洋

1993年大阪ガス入社。神戸アートビレッッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、財団法人大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス近畿圏部において地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方で、カフェ空間のシェア活動「common cafe」、「六甲山カフェ」、トークサロン企画「御堂筋Talkin’Aabout」などをプロデュースしている。著書に『common cafe ー人と人が出会う場のつくりかたー』『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』がある。

Web:http://www.talkin-about.com/cafe/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

最「幸」級の南魚沼産コシヒカリ収穫!

10月10日新米解禁!

とうとうこの季節がやって参りました!
日本人のみなさま、
私たちのDNAに深く刻まれているお米への愛情を思いっきり開放してください!

今年も無事に新米が収穫され、めでたく発売となりました!
毎年のことですが、この感動は何度味わっても格別です!

今年のお米の出来は、
昨年よりも収穫量は減りましたが、(とはいうものの昨年が豊作だったため、例年並みです)
食味は上がりました!
なんと無農薬栽培米は食味値89。
ちなみに昨年は86。
食味値とはアミロース、たんぱく質、水分、脂肪酸化度の成分量のバランスで、評価されます。
ひとつの基準値なので、
高いからといって100人中100人が美味しいと感じるわけではありませんが、
平均60~65という中で89は良い数値なのでテンションが上がりました!
しかし、農家山本は浮かれる僕を横目に
「あくまでも参考的な数値だからあんまり気にならないよ」とクールな様子。流石です。
でも、89は魚沼で見てもいい数値なんですよ!

実際に試食した感想としましては、
減農薬米のレベルが上がってました!
昨年までのものよりも甘みが強くなり、香りも良い。
ツヤツヤのモチモチ感は無農薬栽培米には勝りませんが、
風味は無農薬栽培米に近づいているように感じました。
硬めが好きな自分にはちょうど良いバランスです。
今年は減農薬栽培の水の管理や堆肥の使い方にひと手間掛けたようです。
山本いわく「それが当たったのかな」とのこと。

無農薬栽培米は、相変わらずみずみずしく、ツヤツヤモチモチで甘みと香りが強く、
MAXハイテンション!
ともに試食をした山本の次男坊も白米だけで2膳を完食。
4歳児がおかずなしでモリモリ食べちゃうくらいの美味しさですからね、
間違いないです!

もちろん今年も放射能測定を致しました。
今年は自主的に昨年よりも測定下限値が厳しい検査機関へ。
結果は、下限値未満で検出なし!
安心しました。
詳しくはコチラをご覧ください。
廣新米穀ホームページ「24年産 放射能測定結果報告書」
http://www.wanderingvillage.com/2012/2149.html

何はともあれ、無事に収穫できて何より。
今年も山本がいい仕事をしてくれました。お疲れさま!!!

さぁ、ここからが僕の仕事!

みなさん、一番美味しい新米の時期に、
最「幸」級の南魚沼産コシヒカリをぜひ召し上がってみてください☆

大南信也さん

ちゃんと地域に“イン”するということ。

地方部の人口減少が叫ばれるなか、増加に転じたまちがある。
徳島駅から車で40分ほどの山間部にある人口6300人のまち、徳島県神山町。
ここ神山は2011年度、転出者が139人に対し転入者が150人と、
町の制定以来初めて転出者が転入者を上回った。
こうして注目される神山の陰に、NPO法人グリーンバレーの姿がある。
神山への移住を希望する人を支援し、地域としっかりつなぐことが彼らの仕事。
神山に数多くある古い空き家を、グリーンバレーが移住希望者に紹介し、
安値で住居やオフィス、アトリエとして使ってもらう。
そのグリーンバレーを立ち上げたのが、理事長として神山で日々奔走する大南信也さんだ。

神山が注目される理由は、移住希望者と神山のユニークなマッチング方法にもある。
「特定の物件についてですが、将来まちにとって必要な働き手を呼び込むために、
“逆指名権”をグリーンバレーが持ちます。
例えば、“神山でIT企業を起こしませんか?”“パン屋を開業する人はいませんか?”と、
特定の職種を逆指名するんです」と大南さん。
それが「ワーク・イン・レジデンス」という規格。
仕事を神山で探すのではなく、
既にスキルを持った人が仕事ごと神山にやってくるというイメージだ。
田舎暮らしに憧れて、という理由で移住する人ばかりでは、
持続可能な地域を築くことは難しいと考える大南さんたちグリーンバレーが、
ちゃんと若い人たちに定住してもらうには、と思案した上での「逆指名権」だった。
行政では決してできない「逆指名権」をNPOであるグリーンバレーが有することで、
窯焼きのパン屋、IT企業のサテライトオフィスや研修施設、
特産である梅を使った料理が自慢のカフェなどの誘致に成功し、
2008年以降約70人が移り住んだ。
爆発的に増えることはないが緩やかに右肩上がりに伸びていく移住者数。
順調に政策が進んだ理由について大南さんは、
「1999年から始めた“アーティスト・イン・レジデンス”のノウハウがあったことが、
“ワーク・イン・レジデンス”の導入にうまくつながったんです」と言う。

神山で生まれた大南さんは、高校で徳島市内、大学で東京、
大学院ではアメリカへ渡ったことで、「神山を客観的にみる機会が多かった」と話す。
スタンフォード大学大学院を修了後、故郷神山で家業の土木建設業を引き継ぎ、
その仕事の傍ら神山の国際交流事業に携わる。
「戦前にアメリカから神山の小学校に送られた
青い目の人形の『アリス』を送り主に届ける、いわゆる“里帰り”させたのがきっかけで、
神山は世界に目を向けた地域づくりに舵をきり、
神山町国際交流協会が発足します。これがグリーンバレーの前身です」
神山を真の国際文化村に。大南さんはアートを基軸にした神山イノベーションに乗り出す。
1992年のことだった。なぜアートだったのか?
「補助金などの支援策で人をまちに呼び込もうとすると失敗してしまうでしょう。
なぜなら、移住希望者は各自治体で提示される“条件”で選んでしまうから。
条件に惹かれて移住してきたとしても、
それがまちの力になるかといったらそうではない。
“まちの空気が好き”“まちと相性がいい”と言ってもらえるような
まちの雰囲気づくりが大切。アートはその雰囲気づくりの力を持っていると思いました」
もちろん大南さんも町民もアート作品を評価する専門家ではない。
だから必然的にアートそのものではなく、
遠く海を越えてでも神山で活動をしたいという高い志を持つアーティストたちに期待を込める。
「アート作品の金銭的価値を高めるのではなく、
神山で活動するアーティスト自身の価値を高めることを神山ではやっていきたい」
と大南さんは力強く話す。
やってくるアーティストにも、ちゃんと神山に“イン”することを求める。
地域と真剣に向き合い、神山に新しい価値をもたらしてくれる。
そんなアーティストを神山は求めている。

こうしてアーティスト・イン・レジデンスが始まった1999年以降、
毎年8月から3か月間、日本国内や海外から3名のアーティストが神山町に滞在している。
作品を制作し、11月初旬に展覧会を開催。
もちろんプログラムが終わったあとも希望すれば神山に住み続けられる。
応募者の8割が欧米を中心とした海外からなのだという。
こうしてアーティスト・イン・レジデンスを成功させ、
神山に外から人を受け入れるという気風と体制をつくった功績が町から認められ、
グリーンバレーは移住政策も受託することとなった。

プラスの落差が神山の魅力。

どんなに安く家やオフィスが借りられるとは言え、
それだけでは神山に移住したいという理由には直結しづらい。
それでもIT企業などからの熱視線が集まるのにはわけがある。
「ネットインフラは万全の状態で整えています。
神山では、全世帯高速光通信が使用でき、しかも都会みたいに回線が混雑することもない。
“こんな山のなかで光通信が使えるの!?” というプラスの意外性は感動につながるんです」
実は徳島県は2011年のケーブルテレビの普及率が
全国No.1というネットワーク王国の一面がある。
そのプラスの落差が神山の魅力でもあるのだ。

“落差”というところでもうひとつ話題にあがったのが、
神山の地域情報ウェブサイトの「イン神山」。
「イン神山のウェブサイトは、“デザインしすぎない”というのがコンセプトです。
ウェブデザインを依頼したリビングワールドの西村佳哲さんの
“イン神山のデザインモチーフはグリーンバレーの人たちそのもの”
という考え方がベースとなっています」
それでも神山で暮らす人々の健やかさを前面に出して
ウェブ上でそのままの姿を見せることにした。
その理由は、実際に神山に入ってきた人が、
ウェブで見た神山の様子との落差を感じてしまうからだと言う。
「イン神山は、“小窓”。神山に住んでいる人それぞれの生活が、
“小窓”を通してちらりちらりと見えるような感じです。
神山で生活している人の様子がここで見られるから、
実際に神山を見た感じとの落差がなく、見たままの神山を受け入れることができる。
だから、飾り立てする必要がないんです」

この“デザインしすぎない”という難しいウェブサイトの企画制作を手がけたのが、
西村佳哲さんや、トム・ヴィンセントさんだった。
彼らのアイデアやアドバイスを組み込んでできたサイトは、
グリーンバレーのスタッフによって毎日更新され、随所に人のぬくもりを感じる。
県外向けに特別なチラシもつくらない。海外向けの英語のパンフレットもつくらない。
神山の情報をぎゅっと集約させた「イン神山」が、
一番神山を知るのに最適なツールとなったのだ。

「世界の神山・アクセスログ」では、イン神山のサイトへの世界各地からの最新のアクセス状況を公開。国内からのアクセスだけでなく、海外からのアクセスも多いことが一目瞭然。

これから公募を始めるという古民家を見せてもらった。
ひと家族で住まうには充分すぎる広さ。使われ方はまだ構想中なのだと言う。
「過疎化、少子高齢化、経済の活性化という
地域の課題を解決できるような人に来てもらえれば」と大南さん。
これからこの家で、どんなファミリーがどんな将来設計を描き、
どう神山の人に迎えられるかが楽しみだ。

お遍路さんへのお接待文化の息づく神山町。昔から、よそから来た人でも抵抗なく受け入れる気質がある。

東京に本社がある株式会社ソノリテのサテライトオフィス。大きな窓からは陽がさんさんと降り注ぎ、目の前には畑も。

「神山の歌姫」こと宮城 愛さんは神山育ちでご両親が移住組。普段はこの長屋でセレクトショップを構える。

まちの中心地からもほど近い場所にある、現在空き家の蔵つき古民家。新たな移住者を迎える準備は着々と進んでいる。

三陸映画祭 in 気仙沼

気仙沼で映画祭が行われる“希望”を、園子温が語る。

10月5〜7日にかけて、三陸映画祭が宮城県気仙沼市で行われた。
気仙沼のカフェやバー、コミュニティスペースなど、
津波に堪え、残っている建物12か所が会場だ。
一番大きい市民会館こそ1000人規模の会場だが、
他はすべて30〜40人程度の小さな会場ばかり。
座布団の上でお茶を飲みながら“寅さん”を観たりと、
のんびりとした雰囲気が漂う会場もあった。

東北が舞台となっている『男はつらいよ』を上映。寅さんのイメージキャラクターもサマになっています。

「映画はもちろん楽しく観て欲しいですけど、気仙沼を始め、
とにかく被災地は情報を発信し続けなくてはならない。
そうすることで、何かにつながる。
気仙沼という名前が出ることに意義があります」と話すのは、
実行委員のひとり、伊藤雄一郎さん。
メディアに出る機会が減っていくなかで、私たちを忘れるなという願い。
また、どうしても仮設住宅などに引きこもりがちになってしまうという市民に、
何かの目的を持ってまちへ出てきやすい仕掛けもつくり続けないといけない。
映画祭と銘打ってアピールし、県外などからもたくさんひとが訪れたが、
地元のひとの交流にも一役買うことになるのだ。

市民会館に飾ってあったのは流されてしまった大漁旗を洗ったもの。小さな布にメッセージを書き込んで、思いを縫いつける。

三陸映画祭では何人もの有名な映画監督が訪れ映画を公開したが、
なかでもひとつの話題作がジャパンプレミアとして初公開された。
『希望の国』。園子温監督が気仙沼をロケ地のひとつとした原発を巡る物語だ。

舞台挨拶直前、「だんだん緊張してきた」という園監督。

園監督は、釜山国際映画祭からその足で舞台挨拶のために気仙沼を訪れた。
映画の内容としても、
気仙沼という地で舞台挨拶の直前に受けるインタビューという意味でも、
緊張感のある、神妙な面持ちであった。

「すぐに映画を撮らないといけないと思って、
昨年の夏には取材を始めていました。
風化する前に、急いで公開しないといけない。
日本映画がだまっててはイカンと思って」と語る園監督。

気仙沼など、本当の被災地がロケ地として使われたことで、当然批判もあった。
「今日、ここに来るまでの間も、もうあの頃の風景ではありません。
撮影しているときも、日々、変わっていくまちを目の当たりにしていました。
だからこそ、記録に残そう、歴史に刻もうと自分を奮い立たせて
撮影に臨んでいました」と、撮影時にはかなり葛藤があったようだ。

(C) 2012 The Land of Hope Film Partners

『希望の国』をどのような気持ちで見ればいいのか、
複雑な感情が生まれてくる。
ただわかることは、被災者とそうでないひとを分ける映画ではないということ。
「東京から気仙沼に来ると、自分は被災者ではないような気がする。
でも東京でも放射線が検出されることもある。
だから被災者なのか、そうではないのか、というのは
角度によっていくらでも変わるものなんです。
これは取材をしていたときの僕の素直な気持ち。
両方の気分が行ったり来たりします。日本は小さな国なんだし、
そういうことはもうそろそろ言わなくてもいいんじゃないかな」

気仙沼がロケ地となったカット。(C) 2012 The Land of Hope Film Partners

すべての日本国民にそんな思いを喚起させたい。だから映画を撮る。
「すでにここで取材を受けている時点で映画を制作した意味があります。
何か一歩踏み出せば、それなりに反響が起きる。そして何かを変えていく。
それを信じられなかったら、映画をやっている意味がありません。
この映画を撮ったことで、自分が映画監督であることを誇りに感じています。
でもなんで僕なんでしょうね。
あの監督やこの監督が撮っても良さそうなのに(笑)」

マルト齊藤茶舗は、明治30年創業のお茶屋さん。全壊状態だったが、ボランティアと店主の手で修復された。こんなところも会場に。

このインタビューの直後には、舞台挨拶に立つことになる。
被災地で映画を観終えた観客が待っている。これはかなりの緊張感だろう。
「正直、気分は良くないですよ(苦笑)。
“みなさん、今日は楽しんでもらえましたか?”
なんて言える作品じゃないですからね。でも観てもらわないといけない。
すごく覚悟を決めて舞台に立たなければなりません。
ただ、こんな覚悟を決めなければならない映画を撮れて良かったとも思います。
自分にとっても一歩前進しました」

撮影時にフィルムコミッションのスタッフからもらったという、気仙沼のゆるキャラ「ホヤぼーや」ジャケットを着て登壇。

最後に『希望の国』というタイトルの話。
皮肉のようにも取れるし、ストレートな気持ちのようにも思える。
「最初は皮肉のつもりだったんですけど、
でもだんだんそんなこともないかなと。
今年の初日の出を福島県の南相馬町で見たんです。
かつて凶暴だった海が静かに広がっていて、
徐々に上ってくる初日の出が海を赤く染めていく。
その太陽があまりにも輝いていて、
今までの人生でもっとも美しい初日の出でした。
それを見た瞬間に、何の理屈もなく直感的に、
この国は希望の国であると確信しました」

園監督は、3.11をテーマした映画をこれからも撮り続ける。
「やめられなくなってしまった」という。
今作のラストシーンは、衝撃をもたらすものだったが、
時間とともに変化していく園監督の心情を
これから公開されるであろう映画で追っていきたい。

みなみまちcadoccoは、ドラえもんやポケモンなど、子どもたち向けのコンテンツで賑わっていた。

このように大物監督から子ども向けのアニメ映画まで、
幅広い映画を放映した三陸映画祭。
でもなぜ「気仙沼映画祭」ではないのか? 実行委員の伊藤さんはこう話す。
「三陸全体で盛り上げていきたいんです。
だから来年は可能なら、石巻、南三陸、陸前高田とか、
ほかの場所で三陸映画祭をやりたい」
さて、来年はどちらのまちで映画を観ましょうか。

鹿折地区の復幸マルシェでは、プレゼント争奪じゃんけん大会が開催。ストライダーやゲームソフトが景品だ。

中崎町 Part3 潰すわけにはいかない茶屋なんです。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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公共的な役割を果たすカフェのための流儀を模索する「common cafe」プロデューサーの
山納洋さんと山崎亮さんの対談を、4回にわたってお届けします。

カフェを山に持ち込んだらどうだろう。

山崎

山納さんの取り組みのひとつである「六甲山カフェ」というプロジェクトも
なかなか興味深く、注目しています。

山納

始まりは、アウトドア情報センター所長の下城民夫さんと交わした
飲み屋のたわごとだったんですが、本気で取り組むことになってしまいました(笑)。

山崎

当時はまだ「山ガール」なんて存在しませんもんねえ。

山納

六甲山は、近代登山発祥の地とされる山で、
ぼくが子どものころから親しんだ場所でもあります。
山に登るのは中高年の愛好家かボーイスカウトの子どもたちか、
という時代に「山にカフェを持ち込んでみたらどうだろう」と。
2004年の9月に「六甲山カフェ」について話し合う場を設けました。
そこには、山崎さんもお越しいただいたのですが……。

山崎

そうでしたね。

山納

下城さん、山崎さんをはじめ、山と渓谷社の方々もいらっしゃったりして、
話がトントンと進み、11月には六甲山でイベントを開催することになるんです。
というか、やらざるを得なくなっていた(笑)。

山崎

はじめは単発のイベントだったわけですね。

山納

ええ。でも、六甲山でおいしいコーヒーが飲みたいね、
という思いを共有する仲間とともに、2005年の秋に3か月だけ
日曜カフェを開くようになります。
その後、メンバーのひとりが週末営業を続けていたんですが、
こんどは、軒先を借りていた茶屋の店主から
「おでんも手伝ってくれへんか」という打診があり、こちらからも
「ぼくらのやりたいコーヒーやケーキやワインも出していいですか?」
という提案を出して、2008年より本格的に
茶屋での「六甲山カフェ」がスタートしました。

山崎

なるほど。

山納

日本の近代登山やロッククライミングはここから始まったとも言われる場所で、
この大谷茶屋は昭和9年創業で、
茶屋の機能としてはおそらくそれよりずっと前からあるんです。
高齢化や継承者不足という理由で、簡単に潰すわけにはいかないんです。

「扇町Talkin’About」というイベントの様子

「扇町Talkin’About」というイベントで「六甲山カフェ」について話し合った時の写真。中央奥に、山崎さんの姿も。(写真提供:山納洋)

大谷茶屋の軒先で営業していた時代の「六甲山カフェ」

大谷茶屋の軒先で営業していた時代の「六甲山カフェ」(2006-2007)。当時は4月から11月まで、毎週末に営業していた。この写真が撮られたのは11月末頃で、気温は2℃!(写真提供:山納洋)

洞穴のようなスペースにある六甲山カフェ

大谷茶屋には、茶屋の建物とは別に、洞穴のようなスペースがある。六甲山カフェはここで毎週末に営業している。2008年撮影。(写真提供:山納洋)

真ん中が大谷茶屋の大谷政子さん。六甲山カフェの船津智美さん、古家慶子さんと一緒に。

2008年4月に、大谷茶屋での「六甲山カフェ」がスタートした。真ん中が大谷茶屋の大谷政子さん。六甲山カフェの船津智美さん、古家慶子さんと一緒に。(写真提供:山納洋)

「譲り店」ならではのムズカシさに直面。

山納

ただ、昔ながらの登山客のお客さんと、
カフェを目当てにやってくる新しいお客さんが入り交じる空間になるわけです。

山崎

ええ。

山納

そうすると「自分のやりたいカフェ」を強く主張するひと、
思いが強すぎるひとが店主を務めるのは、とても難しいんです。

山崎

そうですね。店主が「この音楽を聴いてくれ」というタイプのカフェだと困る。
「それよりこっちの山の話を聞いてくれ」と、
お客さんは思っているわけですからね。

山納

「譲り店」でうまくコミュニティを形成するには、
ものすごく高いスキルが求められるんだなあということを
ひしひしと実感しています。基本的に、コミュニティカフェには、
よりどころを求めるひとが集うわけですから、
山崎さんのことばを借りれば「傾聴する」という姿勢をもった店主でないと
成立しにくいんだな、と。

山崎

ぼくらのしごとと一緒ですね。
じぶんが組織づくりやプランニングの専門家だからといって
正解の手法をローカルに持ち込んでも受け入れられない。
そのまちならではのしきたりや流儀をしっかり聞いて知ったうえで、
まちのひとがやりたいことを引き出さなければ成り立ちません。
「譲り店」は、店舗というハードだけではなく、
その場でずっと醸成されてきた、えも言われぬ雰囲気だとか、ひとの関係だとか、
暗黙のルールだとか、そういうものを引き継ぐことですから、難しいと思います。
だからこそ、全国でそういう店を探して、しっかり伝えたいですね。

山納

タイミングとしてはまさに「今」ですね。
先に話題に挙げた「入船食堂」も、80歳近い店主が
どうにかこうにか続けている状況です。でも、まちや店が持っている物語を、
ソーシャルキャピタルとしてきっちり次の時代に遺したい。
もちろん、経営的に成り立たないものもあるので、本職を辞めない、
助成金を得るなどの手段をとれることも大事かもしれません。

山崎

本職を辞めないでこれだけのことをやっている山納さんのはたらき方が、
その最たるモデルですね。生活のための本業を持ちながら、
余暇活動に近いカタチで社会貢献的にじぶんが楽しいと感じることをやっていたら、
こういう状態になっていた。これって、すごくおもしろい生き方だと思います。

(……to be continued!)

「六甲山カフェ」の店内風景

「六甲山カフェ」の店内風景。2012年1月撮影。この日の店主は「どいぱん」土井明子さん。カウンターでは、山についての話で盛り上がることが多い。(写真提供:山納洋)

山納洋さん

「譲り店の店主には、傾聴するという姿勢が求められるということがわかってきました」(山納)。

山崎亮さん

「長年かけて醸成された人間関係や雰囲気ごと受け継ぐ。これは、決して簡単なことではないですよね」(山崎)。

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HIROSHI YAMANOU 
山納 洋

1993年大阪ガス入社。神戸アートビレッッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、財団法人大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス近畿圏部において地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方で、カフェ空間のシェア活動「common cafe」、「六甲山カフェ」、トークサロン企画「御堂筋Talkin’Aabout」などをプロデュースしている。著書に『common cafe ー人と人が出会う場のつくりかたー』『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』がある。

Web:http://www.talkin-about.com/cafe/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

STUDY グリーン熱証書

自然エネルギーの熱利用の経済的なインセンティブを与える仕組み。

日本国内の自然エネルギーによる発電の普及のための民間レベルの仕組みとして
10年ほど前から発展を遂げてきたグリーン電力証書を以前ご紹介しました。
同様に、自然エネルギーによる熱利用の普及のため、
数年前から新たに始まった制度が「グリーン熱証書」です。
太陽熱やバイオマス、雪氷熱などの自然エネルギー由来の熱の持つ環境価値を
証書化するグリーン熱証書制度は世界的にみても実施例は少なく、
日本でも制度化の検討が開始されたのは5年ほど前です。
グリーン電力証書の認証を行っているグリーンエネルギー認証センターは、
当初からグリーン熱証書の制度化を視野にいれて検討を行ってきていました。
2009年度からは、太陽熱を対象としたグリーン熱の認証基準が整備され、
設備認定が始まりました。
東京都は住宅用の太陽熱利用機器の普及への補助制度として、
グリーン熱証書の活用を前提とした制度をこのときスタートしています。
2010年にはマンションに設置された太陽熱利用システムの設備認定が行われ、
日本初のグリーン熱証書が発行されました。
木質バイオマスや雪氷熱など国内で普及が期待されるほかのグリーン熱については、
2011年に木質バイオマスと雪氷熱が制度化されています。
木質バイオマスについては、木質バイオマスによる温水利用、
そしてコジェネレーション(熱電併給)の場合の木質バイオマスの蒸気利用に対して
グリーン熱の認証が行われました。
雪氷熱に対しては、冬に積雪した雪を貯蔵して、
夏の冷房にその冷熱を冷水として利用する方式の認証が行われています。
技術的な課題として熱量測定があり、計量法に基づく厳密な熱量計測が求められる中、
熱量計測のコスト低減が求められています。
自然エネルギーによる発電については2012年7月からスタートした固定価格買取制度により、
経済的なインセンティブや事業性が確保され、今後の導入の加速が期待されています。
一方、自然エネルギーの熱利用については、化石燃料の高騰に伴い、
太陽熱や木質バイオマスなど少しずつ注目されていますが、
本格的な普及には程遠い状況が続いています。
グリーン熱証書は、そのような状況の中で、
自然エネルギーの熱利用の経済的なインセンティブを与える仕組みとなっており、
民間レベルの自然エネルギー熱利用の普及制度として期待されています。

グリーン熱証書の仕組み(出典:エナジーグリーン株式会社資料)

TOPIC 東総台地風力発電所群

一大風力発電所群の影響と課題。

前回は、標高1,000mの高原にある大規模風力発電所を紹介しました。
今回は、海に近い台地に建設された、風力発電所群を紹介します。

千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、
東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。
関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、
1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、
旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、
過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。
車で成田空港方面から国道296号線を東進し、
さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、
まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。
そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、
丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、
海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基)と
銚子屏風ヶ浦風力発電所(1,500kW×1基)も見えてきます。
そして126号線を外れて東総広域農道へ入ると、右も左も風車だらけの風景になります。
この広域農道を東進した終点付近に、域内最大の風力発電所である
銚子風力発電所(1,500kW×9基)が道路を囲むように建っています。
さらにこの風力発電所群の北にも、椎柴風力発電所(1,990kW×5基)や
銚子ウィンドファーム(1,500kW×7基)があり、一大風力発電所群となっているのです。
 

前回紹介した郡山布引高原風力発電所は人里離れた山奥にありましたが、
こちらは台地の畑の中とはいえ、国道が走り、
車も人も行き交う農道や生活道路が何本も走る中に建っています。
国道を走っていると突如として現れる風車の群れという景色は、
初めて訪れる人を驚かせるものでしょう。
風車の近くに行ってみると、本当に畑の一部の区画が切り取られてフェンスで囲われ、
風車と付帯設備がこぢんまりと建てられています。
風力発電機はこんなに小さなスペースで建てられるのかという驚きと、
こんな場所に建てることができてしまうのだという二つの驚きが得られます。 
畑の中に風力発電機が立ち並ぶ景色というのは、ヨーロッパを思い起こさせる風景ではあります。
一方で、人口密度の高い日本において
このような建て方はありなのだろうかという疑問も抱かれます。
特に、銚子市内の風車はどれも1,000kW以上の大型風車で、
それが林立する様は景観にも大きな変化をもたらしたことでしょう。
また、さまざまな事業者が建設したため、
全体の配置などに統一感がなく、雑多な印象も受けます。
風力発電所が地域に与えるさまざまな影響を考えるにあたって、
この東総台地風力発電所群は重要な示唆を与える事例といえるでしょう。

田園風景の中に建つ風車。

道路のすぐそばにも風車が。

域内最大の銚子風力発電所。

女川サンマ漁・水産加工業が歩む、復“幸”への道

サンマを中心とした水産加工でまちづくり。

ほとんどの建物を失った女川のまちのなかで、早朝の魚市場は活気が渦巻いている。
サンマのシーズンということもあり、3隻の大型漁船からサンマが水揚げされている。
それぞれ100トン程度、合計300トン以上のサンマが女川から全国に旅立つ。
しかし震災前は最大で1000トンものサンマが女川で水揚げされており、
やっと3分の1程度まで持ち直してきたところだ。

「本当はまだ200トンがくらいが限界なんですけど、
正直、他の東北の港もパンク寸前なんです。
だから女川でももう少し受け入れないと。
今日だけで、北海道から女川までの漁港で約7000トンもの水揚げがありますから」
と話してくれたのは、女川で廻船問屋「青木や」を営む青木久幸さん。
港自体の復興が間に合っていないので、
物理的にもたくさんの漁船を受け入れることはできない。
さらに、港の周囲で壊滅的なダメージを受けた水産加工業者は、
ほとんど手付かず状態。
「今までは水揚げしたさんまを各地に発送する以外にも、
いろいろな方法で処理していました。
冷凍保存、二次加工、他の魚の餌、圧縮して肥料など。
しかし今、地場でのこのような処理は、まだかつての10分の1程度しかできていません」
と青木さんは言う。

漁船は、どの港に水揚げしてもいいので、たとえ水揚げ量が増えたしても、
港周辺の水産業全般が盛り上がらないと
本質的な意味での復興への道とは言い難いのだ。
やはり復興予算などは一次産業に優先的に使われていく。
それは仕方がないのだが、それでは受け入れ側の態勢が整っていかない。

大きな被害を受けた女川魚市場周辺の水産加工業のなかで、
「マルキチ阿部商店」の工場も流されてしまった。
現在は少し離れた場所に仮工場を借りて経営している。
現在の主力商品はオリジナル商品の「リアスの詩(うた)」というさんまの昆布巻き。
このあたりに伝わる郷土料理のようなものだ。
今の仮工場では、これしかつくれないという。

廻船問屋「青木や」の青木久幸さん(左)と「マルキチ阿部商店」の阿部淳さん(右)。

女川魚市場周辺にあった水産加工業者の多くは、辞めてしまったり、
石巻や仙台など他の地域に移転してしまい、女川に残っているひとは数少ない。
「せっかくの技術力がもったいない。
サンマの切り身ひとつにしても、それぞれのノウハウを持っているはず。
こんなときこそ、みなさんの持てる力を結集して、
まちの財産としていきたいんです」と、
阿部さんは水産のまちとして、その技術を用いたまちおこしをイメージしている。

そこで阿部さんや青木さんをはじめ、町内のさまざまな職種の若手たちが、
「復幸まちづくり女川」という合同会社を立ち上げ、
女川水産業のブランディングに乗り出した。
前出の「リアスの詩」のように、
女川の新鮮な魚とすぐれた技術力を駆使してつくられている水産加工品はたくさんある。
そのなかから20品目ほどを取り扱い、月3000円程度の定期購買などを予定している。

「なるべく一般のひとの意見を取り入れて、巻き込んでいきたい。
本当は、土地の造成などが終わったあとに場所をつくって、と、
しっかりやりたいんですけど、それでは何年かかるかわからないので、
とにかく事業を立ち上げようと思いました」
という青木さん。このままの女川ではマズイという危機感から、
スピードと熱のこもったものになった。
食べておいしいと思ってもらうこと、これが最大の宣伝効果だ。
そのためにまずは女川の水産加工品を広める活動をしていく

そんな女川PR業務の一環として、
おながわ秋刀魚収穫祭」のホームページをプロデュースした。
これは慶応義塾大学の学生たちと共同で立ち上げられた。
たんなる収穫祭の情報だけでなく、
メディアとして継続するようなコンテンツが読みごたえアリ。
「女川なう。」や「女川絶景」など、
水産以外にも女川のことを知ることができるサイトだ。

さんまを食べることが、最大の復興のお手伝い。

「女川には高校がなくなってしまったので、
しばらくは必然的に外に出ていってしまうと思うんです。
そういうひとたちが、大人になって戻ってこられるようなまちにしたい」
と話す青木さん。
「ただでさえ人口流出が問題だった土地なのに、震災の被害も甚大だし、
戻って来ないつもりのひとも多いと思います。
自分も、別のまちでも同じ仕事はできるので出ていけばいいと言われるけど、
そこは意地ですよね」と阿部さんも決意を新たにする。
こうした復興には「企業によるスピード感のある復興」の必要性を語る阿部さん。
企業が成長して、雇用を生み、水産加工品がもっと全国へと流通するようになる。
「復幸まちづくり女川」がそれを目指す。
もともと右肩上がりの産業ではないだけに、
元通り以上の復興を目指していかないと、女川の未来は震災前と変わらないのだ。

そして女川が活性化するにはサンマを食べてくれるのが一番だと、
女川魚市場で働くひとは口を揃える。

ということで、ここまで読んできて、
どうしてもおいしいサンマが食べたくなってしまったひとに朗報。
10月20日に、「おながわ秋刀魚収穫祭」が東京の日比谷公園で行われる。
女川では毎年行われている収穫祭の出張バージョンだ。
10トンのサンマを無料配布してくれる。数にすると、なんと約6万匹!

「今回の秋刀魚収穫祭に関しては、女川をアピールするつもりではありません。
全国に先駆けて10万トンのがれきを受け入れてくれた東京都に対して
本当に感謝しています。そのお礼なんです」と話してくれたのは、
主催者である女川魚市場買受人協同組合の高橋孝信理事長。
復興に関しても「ボランティアにもたくさん来てもらったし、
義援金もいただきました。それはとても感謝していますが、
本当の復興を支えてくれるには、サンマをはじめ、
たくさん魚を食べてもらうことです。それが一番うれしい」と、高橋理事長。

日比谷公園では、焼きサンマ、生サンマ、女川汁(すり身汁)などが
無料で配布される。もう、この秋、サンマを食べてしまったというひとも、
「おながわ秋刀魚収穫祭in日比谷公園」でもう一匹、いや二匹! サンマをどうぞ。

Information


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おながわ秋刀魚収穫祭

日程 2012年10月20日(土)
時間 10:00〜
場所 日比谷公園
http://onagawa-town.com/sanma/

Shop Information


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マルキチ阿部商店

住所 宮城県牡鹿郡女川町旭ケ丘1-14-8(仮住所)
TEL 0225-53-5432
http://www.kobumaki.jp/

中崎町 Part2 「会社勤め」は「自分ごと」に弱いか。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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公共的な役割を果たすカフェのための流儀を模索する「common cafe」プロデューサーの
山納洋さんと山崎亮さんの対談を、4回にわたってお届けします。

会社勤めをしながら、どこまでできるだろう。

山崎

山納さんにお会いしたころはまだ設計事務所に勤めていて、
その後、ぼくが生活スタジオに力を注ぐようになる経緯は、
山納さんのはたらき方に少なからず影響を受けています。

山納

初対面はちょうど10年前ですね。このすぐ近くのクラブ
「Dawn(現・NOON)」で行われていたプレゼンイベントで、
山崎さんが、堺市の「環濠(かんごう)生活」(*1)のプレゼンをされたんです。
それを聞いて、クラブでまちづくりのはなしをするとは、
なんてユニークなひとなんだ!と(笑)。

山崎

2002年……懐かしいですね(笑)。

山納

ちょうど「メビック扇町」(*2)がスタートする1年前で、
あたらしく始まる場に必要なクリエイターを探していたんです。
「まちづくりの民営化」というセミナーをはじめ、
山崎さんには何度も講座やカンファレンスをお願いしました。

山崎

いま聞くと、ちょっとヤバいタイトルですね(笑)。
そのころは人前ではなす機会なんてまだ4、5回しか経験していなくて、
毎回念入りに準備をしながら、それでも
「誰も来てくれなかったらどうしよう」とめちゃくちゃ不安でした。

山納

いやぁ、全然、そんな風には見えませんでしたけど(笑)。

山崎

そういう機会を与えてもらいつつ、
会社勤めをしながらここまで自分の活動ができるんだ、ということを
山納さんに見せてもらったと思っています。

山納

ぼくとしては、大マジメにしごとをしているだけなんですけどね(笑)。
少し遡って説明すると、企業人として自ら望んだ
扇町ミュージアムスクエア(OMS)(*3)でのミッションは、
おもしろい劇団を発掘してきて売り出し、彼らの活動を応援すること。
でも、閉館することになって、急に気持ちが切り替えられない……
と思っていたところに、メビックがオープンするんです。
アーティストやクリエイターに詳しいということでそちらに移るわけですが、
こちらでのミッションは、クリエイターのインキュベーション(起業支援)。
けれど、起業したことのないぼくが果たして彼らになにを言えるというのでしょう。
だって、野球をやったことのないひとが野球を教えるなんて、
あり得ないですからね。インキュベーションのことをマジメに考えて、
会社から与えられたミッションを拡大解釈したら、
自ら起業せざるを得なかったんですよね。
これは、じぶんも飛んでみなくちゃ、わからないぞと。

*1 環濠生活:「都市のオープンスペースを提案するには、都市生活のスタイルもセットにして考えるべき」というコンセプトに基づき行われた、大阪府堺市「旧環濠地区」のフィールドワークと、オープンスペースに対する提案。

*2 メビック扇町:大阪で活動するクリエイターが互いに知り合い、顔の見える関係を築くためのあたらしいコミュニティづくり、大阪に集積するクリエイティブ関連企業の活性化に取り組む支援施設。http://www.mebic.com/

*3 扇町ミュージックスクエア(OMS):倉庫を改造した小劇場「フォーラム」を中心に、名画を上映するミニシアター、雑貨店、カフェレストラン、ギャラリーを備えた複合施設。若者文化発信基地として愛されたが、2003年3月に18年の歴史を閉じた。

中崎昭和喫茶「ニューMASA」のコーヒー

中崎昭和喫茶「ニューMASA」のコーヒーをいただきながら、懐かしいはなしが次々と飛び出す。

奇妙だけれど中崎町らしい風景

喫茶店を出て、まちを歩く。戦災を免れたむかしながらの長屋と細い路地と新築のマンションとちいさなお店が混在する、奇妙だけれど中崎町らしい風景。

「自分ごと」としてはなしができることの強みとは。

山崎

起業については、会社にも事前に申請したんですか?

山納

いえ。じぶんの思いだけでやっていましたね。
最初に開業したバーは、開店前に大々的に新聞に載ってしまったんですが(笑)、
それでも会社からは「就業規則に反することはしてないよね」と
確認されただけでした。

山崎

給与のあるなしに関わらず、個人が社会貢献にたずさわったり、
NPOなどの別の法人に所属することは、いまやもう、
雇用主である企業が咎めたり制限するべきことではないのかもしれませんね。

山納

そうかもしれません。
正しく言うと、ぼくの場合は、文化支援を目的としたカフェの経営、ですが。

山崎

先ほどの「起業しなければインキュベーションできない」というはなしは、
実は非営利株式会社という形態をとっている
「studio-L」の仕組みにもつながります。代表のぼくを含め、
スタッフは全員、「studio-L」という看板をもつ個人事業主なんですよ。

山納

なるほど。

山崎

これには理由があって、たとえば、コミュニティデザイナーとして集落に入ると、
農家や漁師、商店主の方々から「給料もらってるヤツになにがわかる?」と
詰め寄られることが少なからずあります。
そのときに「いえ、わたしも個人事業主なんです」と
キッパリ言えるようでなければ、やっぱりダメ。
よく行政の方が窮するのはこういうところだったりするわけです。
不安で眠れない夜があることも、確定申告のことも税金のことも、
ぜんぶ「自分ごと」として相手とはなしができてこそ、
はじめて対等に、一緒に、まちづくりを考えていけるんです。

山納

アーティストもよく、会社勤めの人間に対して
「あっち側のひとか、こっち側のひとか」というような表現をします。
だから、起業すると「こいつ、命がけで遊んでるな」ということで、評価が変わる。
「こっち側」への仲間入りというか。
そこから先の信用度合いが、全然違いましたね。

山崎

山納さんが命がけで遊ぶ=起業に至る理由はきっといろいろあったのでしょうが、
インキュベーションのしごとをするためにじぶんも飛んだ、
というのはとてもわかりやすいですね。

山納

メビックにいるときに気づいたのは、コンサルタントという肩書きのひとは、
どうやら往々にして経営を単純な一次方程式で考え、指導するんだな、ということ。
でも、実際の現場は三次方程式、四次方程式に向き合い、
毎日傷ついたり蝕まれたりしているわけですから、悩みの次元が違う。
予算や坪単価のはなしをされても「そのアドバイス、遠いなあ」と(笑)。
「ここでつまずくから気をつけたほうがいい」というのは、
やっぱり起業したひとにしかわからない、もしくは、
起業しているひとに真摯にはなしを聞かなければわからないことなんです。

(……to be continued!)

静かで和やかな気配の路地

大阪駅・梅田駅から歩いて10分とは思えないほど静かで和やかな気配の路地では、生活空間と雑貨や洋服を扱うちいさなお店がまさに隣り合わせに。

カフェバー「巣バコ」

カフェバー「巣バコ」は、古い木造アパートを改装してつくった、月極のレンタルスペース。中崎界隈は、まち全体が複合施設のようでもある。

「Salon de AManTo 天人(アマント)」前にて一服

「Salon de AManTo 天人(アマント)」前にて一服。「懐かしいなあ。設計事務所勤務時代に、よく来たお店です」と顔がほころぶ山崎さん。築130年の古民家をセルフビルドで改装した「公園のようなカフェ」。

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HIROSHI YAMANOU 
山納 洋

1993年大阪ガス入社。神戸アートビレッッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、財団法人大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス近畿圏部において地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方で、カフェ空間のシェア活動「common cafe」、「六甲山カフェ」、トークサロン企画「御堂筋Talkin’Aabout」などをプロデュースしている。著書に『common cafe ー人と人が出会う場のつくりかたー』『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』がある。

Web:http://www.talkin-about.com/cafe/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

とくしまマルシェ

マルシェの、効能。

食欲の秋、豊穣の秋が到来!
週末ともなれば、全国津々浦々、産直市や青空マーケットなど
生産者と消費者を直接つなぐ、食のイベントが目白押し。
食いしん坊にはたまらないこのシーズンだが
徳島に、回を重ねるごとに集客が増えているという、話題の産直市がある。

それは、毎月最終日曜日に開催される「とくしまマルシェ」。
徳島経済研究所が、2010年12月からスタートさせた
「徳島の農業ビジネス活性化構想」のプロジェクトの一環だ。
市中心部にある新町川沿いのしんまちボードウォークに
白いパラソルが並び、フランスのマルシェ(市場)さながらの様子。
20回目を迎えた現在、毎回60店舗ほどが出店、
平均して1万人もの人びとが集まる人気イベントに成長した。

徳島市は市の面積の13.6%を川が占めている水の都。まるで、市民の心のオアシスのような場所が会場に選ばれた。

運営するのは、とくしまマルシェ事務局。
出店者の選定からイベント企画、マルシェ当日の監督、清掃、警備
ホームページ更新やネット販売、他社とのコラボレーション企画、
毎月の東京への出店など、常駐3名のスタッフで「なんでもござれ」。
「行政からの補助金に頼らずに事業でやっていく、と決めています。
立ち上げ時は1年だけ助成金はいただきましたけど」と
気骨のある声をあげるのは、事務局長の金森直人さん。
東京の大学を卒業後に徳島に戻り、しんまちボードウォークで
パラソルショップのプロデュースを成功させていた彼に、
マルシェの発起人、田村耕一さん(徳島経済研究所専務理事)が声をかけた。
「首都圏から有名人を呼んで人を集めるのではなく、
地域発信ならではのものにしたいと思いました。
企画の面白さで人に楽しんでもらえるマルシェをつくるのが目標」と力強く語る。

左からとくしまマルシェの東京進出プロデューサー、中西章文さん、発起人の田村耕一さん、事務局長の金森直人さん。中西さんと金森さんは毎月、とくしまマルシェの商品を車に乗せて東京へ運んでいる。撮影:在本彌生

そもそも、徳島県はれんこんやすだち、さつまいも
生しいたけなどの一大産地として知られており、
人口の多い近畿圏への野菜出荷量は、他県の群を抜き、農業は県の一大産業だ。
にもかかわらず、厚生労働省が2012年1月に発表した国民健康・栄養調査結果によると
徳島県の成人男性の1日当たりの野菜摂取量は
47都道府県中、最も少ないという残念な統計が発表されている。
さらには、人口10万人当たりの、糖尿病・肝臓疾患患者の死亡率が全国ナンバー1であり、
野菜摂取量の少なさを指摘する専門家もいるという。

なんという、矛盾。
徳島県人は阿波おどりの激しい練習のおかげで、
みんなスリムでヘルシーなわけではなかった。
奇しくも、お隣の香川県と並び、まちを見渡せば
安くて早い、スタンドうどんがすぐに見つかる。
お好み焼きやラーメン屋も多い「粉物」人気の食文化圏だけに、
金森さんらは県民がわざわざマルシェに足を運んで
スーパーマーケットに並んでいるものよりも高くつくこだわりの産品に、
お金を出す価値を見出してくれるかどうかを心配したという。

そこで、とくしまマルシェの特性を打ち出すために出店者を一般募集しないことにした。
自らが気になる農家へ出向いて話を聞き、
そして出店にふさわしいと納得できるところだけに依頼をした。
もちろん、販売という未知の体験に、出店を断るところもあった。
そこはやはり自分たちで選んだ生産者のこと、
マルシェのことをきちんと理解をしてもらうため、何度か足を運んだという。
そして、どのくらいの価格でどんな商品なら、消費者も値段に納得して買うか。
ノウハウの少ない人たちとともに、販売アイデアを考えた。
「徳島の本物の産品は県内には流通せず、他県に流出する一方。県民は徳島産品の美味しさを知らないことが残念で、徳島の美味しい農産物をみんなに味わってもらいたかったんです。そのために、まず、良質な地産地消の味を、地元に定着させることを目指しました」(金森さん)
安定した現在の来場者数を見ると、すでに答えは出ている。

また、ブランド戦略の一環として、各店舗の商品を並べるためのオリジナル木箱を配布し、
エコバッグやパンフレットなどもあわせて会場全体のデザインを統一。
川沿いの心地良い空間を演出することで、さまざまな年代の人たちが集まるようになった。
公式ホームページのほか、TwitterやfacebookなどのSNSも
積極的に取り入れ、動画サイトのUstreamに会場を中継した模様を
逐次アップして集客促進に励んでいる。

生産者と消費者が直接やりとりできる機会が定期的にもてるのが生産者側から見たマルシェの魅力。お客さんもじっくりと時間をかけて商品を選ぶ。この相互作用がマルシェそのものの質を高めていく。

子どもたちが農作物の植付けから収穫・加工・販売まで行なっているキッズファーマープロジェクトも、他の生産者に負けてはいられません。自分たちのつくったものを、自信を持ってアピール!

とくしまマルシェ、自慢の農産物がズラリ。もし、当日現地に行けなくても開催当日にマルシェから旬の野菜・フルーツを直送する「お届けマルシェ詰め合わせセット」(送料込みで3000円)もある。お申込みはホームページから。

とくしまマルシェに出店している、人気の生産者に話を聞いてみると、
口々に「お客さんとやりとりできる環境ができたのがいい」と言う。

「マルシェでは、他店の華やかな軒先に並べると、卵は見た目の変化に乏しい商品なので、
ちゃんと内容を説明しないと何がどういいのか伝わりません。
だから、毎回、伝え方を工夫しているんですよ」
と言うのは、コレステロール値の低いヘルシーな
白い黄身の卵「地米」がマルシェで話題となっている
「たむらのタマゴ」の二代目、田村桂樹さん。
地米のほか、黄身が黄色の「濃蜜」、オレンジがかった
「たむらのタマゴ」と
三種類の卵を割って展示し、餌によって黄身の色が違うのを説明。
鶏にストレスをかけない土地を選び、風通しのいい鶏舎をつくり、地元の米を使い、
EM菌を混ぜた独自の餌づくりについて説明するほか、
知るとなるほど納得するようなたまご豆知識のメモを毎回用意する。
なぜたむらのタマゴがスーパーで売っている卵に比べて
値が張るのかという理由を理解してもらうことがポイントだ。
「モノの良し悪しをどうわかってもらうかが重要です。
それを伝える努力をしないと、どんなにいいものと思ってつくっても、
人の手に渡らないから……。」と言う桂樹さん。
二代目の熱い思いはマルシェ出店によって少しずつ広がってきた。
「こちらが話せば、ちゃんとお客さんは聞いてくれます。
お陰さまで回を増すごとにリピーターの方が増えてきたのを実感しています」
徳島市まで1時間以上かけて阿南市の鶏舎から
新鮮な卵を持って駆けつける、桂樹さんの努力は実ってきている。

桂樹さんの隣は父である社長の智照さん。
「本物は黙々として語らず、いいものはそのまま伝わると思いながら仕事をしていたんだが、時代は変わっていくね」

鶏が密集する熱を逃がすように自然の風が通りやすいよう設計されている鶏舎。鶏の糞が下へ落ちるように2Fに鶏がいるようになっているので匂いが少ない。鶏へのストレスが少ない鶏舎で生まれる卵は美味しくて当然だ。

それはそうと、農に携わる人は販売に慣れていないはずなのに
マルシェでの商品の見せ方がとても上手。

「最良の農作物をつくる人は、最良のセンスをもってつくるのだから
商品のスタイリングが上手なのは当然」
というのは糖度8から12もの高糖度のトマト
「ももりこ」で知られる樫山農園の樫山博章社長。
これまで、樫山農園のトマトは高級品として首都圏、近畿圏の
高級スーパーやレストランなどに求められてきた。
地元では、安値でないと売れない。
どんなに手をかけて美味しいトマトをつくっても評価がないのでは
農家だってモチベーションが上がらないし、
品質向上のための投資もできない。
樫山農園の事務所を訪れると、試験管がズラリ並んでいた。
10年以上かけて完成させたビール粕をまぜた肥料でつくる
糖度10以上の「珊瑚樹(さんごじゅ)」のほか、
昨年発売となったオリジナルブランド「ももりこ」など
美味しいトマトの研究開発に余念がないのもうなずける。

「都会だけでなく、地元でも自分たちのつくるトマトの価値を
わかってもらいたいと思ったのです。
県主催のマーケティングフェアに出店し、近所のJA直売所では
少し傷のついたものなどを250g、350円で出しました。
すると、隣県からも買いに来る人がいるくらい人気が出てしまって。
2011年2月からはとくしまマルシェにも参加しました。
マルシェで消費者の方と交流し、新しい取引が始まったり、ファンになってもらったり……。
それまで、生産ばかりに注力していましたが
いいきっかけで自分たちの殻が破れた気がしました」と言うのは、専務の直樹さん。
マルシェでは軒先に立って、率先して販売する。
直樹さんは、国内外へ阿波徳島の食材をアピールするグループ
「若士(わかいし)」にも参加している。
ちなみに、「若士」はとくしまマルシェをきっかにつくられた若い農家の会で
「たむらのタマゴ」の桂樹さんもメンバーのひとりだ。

「お客さんを説得するのは女性を口説くのと一緒。マルシェでは、あの手この手で頑張っているんでしょうね」
と、息子である直樹さんを見ながら樫山社長は笑う。

低温でゆっくりと熟成させた樫山さんのトマトは、冬に一番美味しくなる。反対に水分を含む夏場は、樫山さんはトマトで出店はしない。「ここのトマトでないといかんのよ」というお客さんに人気は支えられている。

マルシェの効能は、売上を上げることだけではない。
つくり手のモチベーションアップにつながった。
結果、地元での消費が増えることに成功し、おそらく食生活の質も、一部向上しているはずだ。
さらには、他県から個人やバスツアーで人が訪れてお金を使っていく。
なんと、市内の百貨店はマルシェの開催日には売上がのびるという。
生産者だけではなく、運営側もマルシェに付加価値をつけるために
家族連れが楽しめるイベントを考え、何度も足を運ばせる工夫をする。
マルシェで買った新鮮食材を自宅へ直送できる
お届けマルシェや気に入った生産者から収穫の時期にあわせて
野菜などが購入できるショッピングモールサイトでのフォローもある。
事務局は、ここで利益を上げ、次なる仕掛けを考える。
中心市街地の賑わいを創出、観光振興とあわせて
農業ビジネスの活性化をめざした、発起人の田村氏の狙いは間違っていなかった。
もちろん、それはすべてがプラスに作用したからであって
休みも関係ない多忙な農家がわざわざ出店したくなる
場づくりを行った事務局の功績は大きい。

さあ、地元での認知が高まったところで、全国へ———。
事務局、生産者、そして実際に消費している徳島県人が盛り上げる、地元の産直市。
関わる人、産地、販売する商品とつくられる背景すべてをひっくるめて
あり方そのものが、「とくしまマルシェ」というブランドに成長したことが
マルシェ開催の“一番の効能”なのかもしれない。

石巻2.0

ここ、石巻で継続的な活動をするということ。

2012年7月21日〜8月1日、石巻の中央地区において、
イベント「STAND UP WEEK」(以下SUW)が開催された。
SUWは石巻のまちづくりプロジェクトチーム「石巻2.0」が、
伝統的なお祭りである川開きまでの10日間の期間に企画したイベントで、
今回は昨年に引き続き2回目の開催となる。
野外映画上映会、まちづくりシンポジウムに加え、
まちコンやITビジネスコンテストなどが催された。

私が石巻を訪ねるのは、ちょうど1年ぶり。
ガレキも整理され、落ち着きを取り戻しつつあるまち並みと同様に、
彼らの活動にも少し落ち着きが見えたように思えた。
それは、石巻2.0の活動が継続的なものになりつつある証拠でもある。
インフォメーションセンター「IRORI」、宿泊施設「復興民泊」など、
1年前には存在しなかった施設をみるだけでも、
この1年の活動の充実度をうかがい知ることができる。

そんな、石巻2.0の活動の中でも目立つのが、
震災をきっかけに石巻を訪れることになったメンバーたちの活躍だ。
いわば「よそ者組」とも言える彼らが、どうしてこの地にたどり着き、
継続的な活動を続けているのだろうか。

東京工業大学・真野研究室の渡邊享子さんは、そんな「よそ者組」のひとりだ。
「ここに来たのは大学の研究室の一員としての活動がきっかけで、
それまで石巻とは全く縁がありませんでした。
昨年は修士論文を書きながらの参加だったので、行ったり来たりだったんですけど、
今は博士課程なので時間には余裕があります。
会いたい人に会う感覚で毎週通っているうちに、
今では月のほとんどを石巻で過ごすようになりました」

今年のSUWでは渡邊さん自らが企画した「ゆかたdeまちコン」も開催され、
この1年でプレイヤーとして成長できた自覚がある、と渡邊さんは語る。
「ここにはさまざまな才能を持った人が集まるので、いい刺激にもなっているし、はやく彼らと同じくらい貢献できるようになりたいと思っています」

渡邊さんら学生たち数人をを率いて石巻を訪れ、今回のSUWではまちづくりシンポジウムに登壇した東京工業大学の真野洋介准教授は言う。
「被災地での活動は、阪神淡路大震災の時にも経験があったから、
僕らにとっては当然のことで、特別なことをやっている感覚はなかったです。
ただ、もしこの活動が自分たちの中だけで完結していたら、
こんなに強烈な色を持った活動には発展しなかったと思います。
自らの活動に本気で向き合っている者同士が出会うことで、
予想を超える力を持った活動ができているのだと思います。
逆に言えば、自分の仕事に向き合えなければ、被災地に行っただけ、
見ただけで終わってしまうということでもあるんですが」

石巻2.0発行のフリーペーパー「VOICE」の編集長である飯田昭雄さんも、
震災をきっかけに石巻を訪れた。
「震災直後から、支援物資を持って行くような活動をしているうちに
石巻の人々の熱い想いに触れる機会があり、そこで感電状態になってしまったんです。

東京に住む八戸出身の東北人として、なにか力になりたいと思いました。
この冊子ができたのもさまざまな人との出会いが重なった結果だし、
とにかく奇跡のようなタイミングで新たな出会いが続いて、流れが止まらない。
僕たちはこれを石巻ミラクルと呼んでいます(笑)」

彼らからは、被災地のために身を削って力を貸すというような、
ボランティア精神は感じられない。
むしろ、自らの能力を存分に生かすことができる環境に身を置くことを
楽しんでいるように見える。

渡邊さんは言う。
「私は石巻に住んでいたわけでも、震災で傷負ったわけでもないから、結局はよそ者です。
石巻のために頑張ると言うのはおこがましいと感じるし、
むしろ自分はこの環境に助けてもらった側だと思います。
東京では、早く就職を決めなきゃ、
安定した人と結婚しなきゃというようなことを気にしながらモヤモヤしていたけど、
ここでは自分のやりたいことが必要とされていて、それを躊躇する必要もない。
自分の場合は、そういう環境をたまたま石巻で見つけたというだけで、
被災地に限らず、人それぞれにそういう土地がどこかにあるんだと感じています」

石巻2.0の本拠地「IRORI」は、無線LAN・電源が使い放題。

渡辺さんが取り仕切ったまちコンも人気。

野外上映会には多くの親子がつめかけた。

中崎町 Part1 昭和喫茶と「譲り店」。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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公共的な役割を果たすカフェのための流儀を模索する「common cafe」プロデューサーの
山納洋さんと山崎亮さんの対談を、4回にわたってお届けします。

コミュニティの場としての昭和喫茶。

山崎

こんにちは。今日は「common cafe」じゃないんですね。

山納

ええ。イベントが入っていて使えないので、こちらの店をお借りしました。

山崎

すぐ近くに勤めていた時期があって、「common cafe」ほか
界隈の店にはよく足を運びましたが、ここは知りませんでした。

山納

そうでしょう。入り口の脇にドーンと自動販売機があって、
わかりにくかったんです。
「喫茶・ラウンジ 正」という店名で、29年間営業していたようです。

山崎

(古い写真を見て)そのころと全然変わらないんですね。

山納

変わらないといえば変わらないのですが、「正」時代に2度ほど来たときには、
店内の至るところに雑誌の山やほこりといった、
29年の積層があちこちに見られました。

山崎

このお店のことは、山納さんのあたらしい本にも登場していましたね。

山納

はい。前の店主に「そろそろやめようと思ってるんやけど」
「あんた、ここでなんか(何か)する?」と相談をもちかけられた常連客が、
現店主の片牧尚之さんなんです。

山崎

それで名前も引き継いで「ニューMASA」なんですね。
写真を見ても、いまこうして店内のお客さんのようすを見渡しても、
まちの中で、コミュニティの場としての役割をしっかりと担っていますよね。

山納

向かいのスペインバルも「あじさい」という味のある喫茶店でしたし、
すぐそばにも「静」という12席で1日8回転した人気店もありました。
じつはぼくも狙っていたんですよ。

山崎

昭和喫茶を?

山納

はい。common cafeのプロジェクトとしてうまく引き継げたらいいなあと。
でも、はなしがうまくいかなくて、結局、ガールズバーになってしまいました。
すごくもったいないことをしたなって思っています。

改装前の「正」時代の写真、改装後のイベントの様子などがまとめられたアルバム

改装前の「正」時代の写真、改装後のイベントのようすなどがまとめられたアルバムに見入る山崎さん。「古い常連さんには独り身の方も多いので、クリスマス会なんかもやったんですよ」と店主の片牧さん。

中崎昭和喫茶「ニューMASA」店内

中崎昭和喫茶「ニューMASA」店内。大阪府大阪市北区中崎西1-1-16 06-6373-3445 http://newmasa-nakazaki.com/

『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』書影

今夏に発売されたばかりの山納さんの2冊目の著書『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』(学芸出版社刊)

コミュニティごと引き継ぐ「譲り店」の提案。

山納

1970年代に喫茶店ブームがあったんですよね。
そのときに30代ぐらいでお店をはじめたひとが、
今、60代、70代になってそろそろやめようとしている。
つぶして若い人好みのあたらしいカフェを始めるのも悪くはないけれど、
これまでその店を愛した地域のひと(=常連さん)を含めて、
店を引き継ぐというスタイルもいいんじゃないかと。

山崎

あ、そういう事例を集めて、本を作ってもいいかもしれませんね。
写真入りのフルカラーで。すごく公共性をもっているし、
うまく語ることができるなら、高い価値のある一冊になりそうです。
そういう店を……なんて名づければいいんでしょう。

山納

わたしは著書のなかで「譲り店」と書いています。

山崎

ゆずりみせ……いいですね!

山納

譲り店の事例は、喫茶店だけでもないんですよね。
たとえば、安治川近くにある「入船食堂」は、その名の通り
そのむかし港町だったエリアに何軒もあって賑わった食堂の一軒なのですが、
80歳近くの現店主になる昭和40年より以前から、
100年以上も同じ「入船食堂」という看板で店をやっていたというんです。
全国的にそういう事例を見てみたいと思う気持ちはありますね。

山崎

ぼくもぜひ見てみたいですね。行政がサポートしてもいいくらいの
「取り戻せない公共性」をはらんでいると思います。
そこを「民」のチカラでなんとかしようというのが「譲り店」ですね。
これまでのファンの止まり木的な場でありつつ、
同時に「次の30年」をプロデュースする。
これって、難しいけれど、とても大切なことで、もう、全国の都市部で
実際に方法を模索してやり始めているひとたちがいるんじゃないかと思います。

山納

そういうふるまいができずに、レトロなまま閉店していくお店は
ほんとうに残念ですし。

山崎

まったく。

山納

そこでしっかりと考えなくてはいけないのは、
近年増えている「コミュニティカフェ」(*1)と呼ばれる、
公共性を志向するタイプのカフェですね。
個人的にものすごく違和感があるんです。

山崎

たとえば、行政からの助成金で運営しているような?

山納

そうですね。
助成金が欲しいからコミュニティといっているような気がしてならない。
すぐ近くの商店街にちゃんと愛されている喫茶店があるのに、
わざわざ別に場を作り、だけど賑わってもいない。
そして、助成金が切れたら終わってしまう。
これって、非常にだらしがないですよね。
基本的にカフェというのはビジネスですから、
行政や企業のお金で支えられてビジネスが成り立っていないところは、
どこも脇が甘いと思うんです。

山崎

脇も甘いし、空間づくりもコンセプトも甘い。

山納

それよりも、行政の支援など関係なく、何十年も商売を続けてきた古い喫茶店が、
コミュニティの場になっていることをもっと評価するべきですよね。
ただ、長く続いている店のなかには、味の落ちたコーヒーを出すとか、
掃除が行き届いていないなどの不具合もあり、こうなると若い世代は入りにくい。
「譲り店」は、その辺をクリアする機能になり得るような気がするんですよ。

(……to be continued!)

*1 コミュニティカフェ:「コミュニティカフェとは、地域住民やNPOが高齢者・障害者・子育てへの支援、世代間・国際交流、生涯学習、まちづくりといった公共的なテーマのもとに、カフェを開いたり、定期的に人々が集まれる場を作ったりという動きのことをいいます」(山納洋『カフェという場のつくり方 自分らしい企業のススメ)より)

営業中の看板には「ほっこりやってますねん」の文字

中崎昭和喫茶「ニューMASA」外観

昭和57年から続く喫茶店が、店主を替えて継続。店をわかりにくくしていた自動販売機などがなくなり、外観もスッキリと。一見さんも入りやすくなった。

譲り店について語る、山崎さんと山納さん

譲り店について語る、山崎さんと山納さん。山崎さんも、ホヅプロとして伊賀・島ヶ原の製材所を譲り受けたばかりとあって、はなしが弾む。

profile

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HIROSHI YAMANOU 
山納 洋

1993年大阪ガス入社。神戸アートビレッッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、財団法人大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス近畿圏部において地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方で、カフェ空間のシェア活動「common cafe」、「六甲山カフェ」、トークサロン企画「御堂筋Talkin’Aabout」などをプロデュースしている。著書に『common cafe ー人と人が出会う場のつくりかたー』『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』がある。

Web:http://www.talkin-about.com/cafe/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

今年の新米は如何に!?

4か月間の振り返りを……。

コロカルをご愛読のみなさまお久しぶりです。
気がつけば前の投稿から4か月……(汗)。
未熟さゆえに仕事の雪崩に埋もれ、遭難しておりました。
コロカル編集部の温かさに救われ、何とか無事生還を果たしましたので、久々の更新を!

前回の記事は田植えイベントで終わっていますが、
現在魚沼では、バリバリ稲刈りが行われております☆
追いつかねば!

ということで、この4か月間を振り返ってみることに。

東京田植え体験。

前回の記事で募集をさせていただいた東京田植え体験ですが、
不安定な天候により田植えが中止となり、
懇親会BBQのみ開催という素敵なかたちに着地しました!

イベント協賛 COLEMAN様

当日、何とか雨は回避。
都会のど真ん中渋谷のとあるビルの屋上で、
魚沼からお持ちした、もち豚・アスパラ・八色しいたけ・エリンギなどのBBQと共に
みなさんと美味しく楽しいひと時を過ごさせていただきました。
田植えをできずに残念でしたが、その分ゆ~っくりとお話しさせていただくことができました。
たくさんの方々に応援していただいていることを実感し、
ポジティブなパワーをたくさんいただき、僕らにとっては本当に有意義な時間となりました!
「災い転じて福と成す」とはこれまさに。

6代目覚醒計画。

山本家6代目ゆうと君(7歳)の将来の夢は自衛隊。
立派な夢ではありますが、RICE475を進行する我々としては、
何とか6代目にも農家になってもらわねば! という、超おせっかい企画を開始。
ゆうと君、おじいちゃんとパパと一緒に小さな田んぼを始めました。

田植え。意外と真面目にやってます。

草取り。もちろん除草剤は撒きません。当たり前か。

スクスク成長中。

こんなところに稲が? 6代目、新農法の開発研究か!?

やはり農家のDNAを受け継いでいるだけあり、ちゃんとお世話をしていましたよ。
果たして、味はいかに? 親父を超えることが出来るのでしょうか?
そして、収穫を迎えたとき、6代目の将来の夢はどこへ向いているのでしょうか?

続く

除草体験ツアー。

無農薬栽培で大きな難儀は「雑草」との戦いです。
今回はそれをみなさんに体験していただこう! ということで除草ツアーを開催!
実は昨年も除草を募集していたのですが、参加者3名という、
RICE475史上最少参加人数を記録したほろ苦い思い出が。
ですが、なんと! 今年は一晩で定員を大きく超える申し込みの数!
予想以上の大盛況でした。

総勢50名近い参加者が田んぼに入り、草を取る。
なんて素晴らしい光景でしょう!
どんどん積み上がる雑草の山。農家山本も大喜び!

みなさん一生懸命、一心不乱に草を取っていただいて、
それだけでも本当にありがたいのに、みなさん「全然取りきれなくてすいません。」と。
え~!? なんて良い人たちなんだ~! と、山本と感謝の涙を流しておりました。
しかも、翌日みなさんからお礼のメッセージがたくさん。
魚沼に草取りに来てもらって、お礼を言われるなんて、
もう「ありがたい」を通り越して「かたじけない」ですよ。

みんなで育てているって感じ、素敵ですよね!
たくさんの想いが詰まった美味しいお米になるはずです。
絶対。

さまざまな場所でRICE475に会えます。

現在RICE475は、
SLOW HOUSE by ACTUS
FADNESS INLET FARM(弊社の衣食複合セレクトショップ)
廣新米穀WEBサイト
で購入していただくことができますが、
意外に少ないのです。そもそも商品の数が卸をするほどありません。

常時販売しているのは上記の店舗のみですが、
今年もいろんな場所でRICE475を販売させていただいております。
地元のイベントのほかに、県外のお祭りで販売させていただいたり、

なんとレザーブランドCOACHさんの70周年イベントでも!
ノベルティとしても採用していただきました。

カッコいいお米でしょう! 自慢の息子です☆

10月以降も東京、愛知などなど行きますよ~!
そしてさらに今年はみなさんに常時購入していただける窓口が増える予定です。
なんともありがたいこと!
確定次第、こちらでもお知らせできればと思います。

そんなイベントを挟みつつ、山本は日々作業を続けます。

日々の作業は、
RICE475のTwitter(@rice475)やホームページのRICE475カテゴリーで発信しています。

初年度は青虫の異常発生、
昨年は猛暑からの豪雨洪水。収穫間近の田んぼがいくつも土砂で埋まっていました。
今年は猛暑で渇水。
フジロックでも雨が降らなかったという、記録的な少雨。
毎年、天候や気温が変わっていく中で、クオリティーを保ち続けるというのは
とても難しいことだと、3年目にして実感しました。

それでも山本は美味しいお米をつくり続けます。
さぁ、今年の新米は如何に!!!
乞うご期待です☆

なんか、夏休みの宿題の日記を一気にまとめて書いた感じ。笑
ではでは。

STUDY 木質ペレット

国内ペレット生産規模の増加の背景。

木質バイオマスの熱利用としては、
製紙工場や製材工場等に併設される大型のバイオマスボイラーや
施設に設置される木質チップやペレットによるボイラー、
そして家庭などに設置される薪や木質ペレットによるストーブの熱利用など、
さまざまな種類があります。
この中で化石燃料を代替する固形のバイオ燃料として注目されている木質ペレットは、
日本国内でも1980年代に石油ショックの影響で一時生産が増加した時期がありましたが、
1990年代に入ると石油価格が下がり木質ペレットの生産量も大きく減少しました。
その後2000年代になって、環境問題や地域資源の見直しなどで
再びペレット生産が増加してきており、
2008年度には年間生産量が6万トンにまで増加しています。
ただし、欧州のペレット工場と比べて1か所あたりの規模が小さく、
全国のペレット工場の平均的な規模は年間生産量が1000トン程度となっています。
木質ペレットの生産を効率化し、普及につながる価格に下げるには、
木質ペレットの原料の調達方法や生産方法などに多くの課題があります。
例えば、原料の調達面では、間伐材の破砕や乾燥から行う必要があり、
製材工場などにペレット製造工場を併設することによる改善が期待されます。
一方、欧州では2000年代の初頭から木質ペレットの本格的な生産が始まり、
オーストリアでは年間50万トン以上生産され、国内での利用のみならず輸出も行われています。
また、スウェーデンでは年間200万トン以上の需要があり、
国内で大規模工場での生産が行われると共に、国外から輸入しています。
いずれの国でも大型の施設でのペレットボイラーの利用だけではなく、
地域での熱供給や家庭でのペレットボイラーの設置まで行われており、
木質ペレットの生産・流通・供給体制がしっかりと構築されています。
この際、木質ペレット運搬には、バルク供給方式が採用され、
タンクローリーのような輸送車が使われています。
また林業の盛んな地域では木材産業まで一貫した木質バイオマス利用が進んでおり、
木材生産時の端材やおがくずなどが地域内で流通し、
各ペレット工業が比較的容易に使いやすい原料の調達が可能となっています。
一方、近年の原油価格高騰により木質ペレット価格が灯油と競争できる価格になってきたことが、
国内ペレット生産規模の拡大の背景となっていると考えられます。
木質ペレットは暖房用ストーブと温水用ボイラーに利用されています。
ストーブは家庭向けが中心ですが、
ボイラーは温泉・プール・農園芸施設・公共施設・官庁などでの利用が普及し始めています。
国内全体としてのバイオマス熱利用の統計データはまだまとまったものがなく、
自然エネルギーの統計データとして今後の課題となっています。

木質ペレットの外見(スウェーデンにて筆者撮影)

TOPIC 郡山布引高原風力発電所

大規模風力発電所のメリット・デメリット。

近年、発電出力2,000kWを超える大型の風力発電機が
何本も建てられた大規模な風力発電所(ウィンドファーム)が、
国内各地で次々と建設されています。
その中でも国内最大の風力発電所である、福島県郡山市の郡山布引高原風力発電所は、
33基の風力発電機で合計65,980kWの発電出力を持っています。
今回は、2007年2月に運転を開始し、年間で約1億2,500万kWhを供給する
この大規模風力発電所を紹介します。

郡山布引高原風力発電所は、猪苗代湖の南、会津布引山の山頂に広がる布引高原にあります。
現地は標高1,000mを越える非常に風況のよい場所で、
麓から20分以上かけて車で山道を登り切った先には、
とても山頂とは思えない高原が広がっています。
高原からは猪苗代湖や磐梯山が一望でき、その高原の全域にわたって風車が建っている風景は、
とても日本とは思えないものです。
高原に人家などはありませんが、観光用の設備や道路が整備され、
風車の中を歩いて回ることができます。
ここに建っている風車は羽の先端までが最大で全高100mに及ぶ巨大なもので、
林立する風景は高原の景色としてみると壮観です。
もともとこの高原では、布引大根の産地として農業が営まれており、
ひまわり畑なども広がっています。
高原の農地で人家はなく、車でなければ辿り着けず、公共交通機関も通っていませんが、
こういった地理条件であればこそこれだけの大規模風力発電所を建設でき、
さらに観光地化もできているという特徴が見えてきます。
現地を訪れたのは週末でしたが、家族連れなどがひっきりなしに山を登ってくる光景があり、
高原の観光地として定着しているような雰囲気を感じました。

大規模風力発電所の環境面での課題は、自然環境への影響、生態系への影響、
景観への影響、生活環境への影響などがあります。
郡山布引高原風力発電所の場合も風車の騒音はかなり大きく、
正面200mほどの距離だと高度1,000m程度の飛行機の航路の下にいるくらいの音を感じます。
今後、再生可能エネルギー電力の固定価格買取制度スタートによって
国内で更に大規模風力発電所の開発が進むことが予想されます。
これらの問題と、どのように向き合っていくのか、
また建設地とは縁のない企業が大規模開発に乗り出してきた場合、
地元に対するメリットは何であるのかを示し、考えていくことが必要です。
圧倒されるような大規模風力発電所のある風景には、
そのような問題に向き合う重要性を改めて認識させられます。

道路が整備されて観光地化されている。

2MWの大型風車群。

ひまわり畑の中に建つ風車。

諸富町 Part4 再び、「婚礼」から家具を 見つめたい。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとりでも多くの方に足を運んでもらいたい。

山崎

ショウルームと併設して、いくつかお店が入っていますよね。
これらは、平田さんが経営されているのですか?

平田

いいえ。カフェ以外は、テナントです。
うちは家族経営ですし、家具を買ってくださいと営業に出向くわけでもありません。
だから、店舗の空きスペースにカフェを併設したり、テナントを入れることで、
ひとりでも多くの方に、この場所に足を運んでもらえるよう工夫したんです。

山崎

なるほど。

平田

いまは、陶芸家さんの工房兼ギャラリー「indigo」、
アーユルベーダーサロン「Pithika」、
ハンドメイドのバッグと小物の店「tikitiki」が入居しています。

山崎

この、バッグのお店、商品と場の雰囲気にすごくマッチしていてステキですね。
内装はどなたが手掛けられたんですか?

平田

そのむかし、父が建てたログハウスなんです(笑)。
それを、事務所に使い、その後倉庫になっていた場所。
しばらくはカフェとして営業していたのですが、空き店舗となり、
以前から tikitiki の商品に興味があったぼくから
「お店を出してみない?」と彼女にオファーをかけて、話が決まりました。

山崎

あ、ほんとうだ。奥にキッチンの名残りのようなスペースがありますね。
面白いなあ。商品もユニークだし、ファンが多そうですね。

平田

そう言っていただけるとうれしいです。
テナントを入れ始めたのは3年前のことなんですが、
ひとりでかんばろうとしていた気負いみたいなものが、
おかげでふっと軽くなった気がしています。

「tikitiki」のハンドバッグ

ハンドメイドのバッグや小物を販売する「tikitiki」。オリジナリティあふれるカラフルでハッピーな小物が、ログハウスの雰囲気にぴったり!

カフェの窓。イラストでお出迎え

「いわい家具」店舗の一角をカフェに。気軽に家具に触れられる場、ひとが集う場としてのカフェ。

いわい家具のカフェで提供されるピザ

もう一度、原点回帰できるだろうか。

平田

ひとが集う場として、カフェの存在も大きいと思っているのですが、
当初はやっぱり「家具屋がカフェ?」という目で見られていたし、
そういう意味を多分に含んで同業者から
「ピザ、儲かかってるか?」なんて声をかけられたりもします。

山崎

言われるでしょうね。そして、そのたびに葛藤もあると思います。
「つくらないデザイナー」の道を選んだぼくも同じだからよくわかります。
「でも、やりたい」ことがあるんだから、ふたりとも、仕方がないんです(笑)。

平田

そうですよね(笑)。
だからこそ、周りにうらやましがられるようなことをやりたいんです。

山崎

もうその方法は思い描いているんですか?

平田

はい。「いわい家具」の始まりは、祖父の代の婚礼家具です。
だから、もう一度、原点回帰できるのが美しいと思っているんです。

山崎

いいですね。

平田

問題は、それを現代にどう回帰させるか。

山崎

うん。おじいさんの時代とは婚礼のカタチもずいぶん変わってきていますし……。

平田

そうなんです。たとえば、このカフェで結婚披露宴をする。
新婦のブライダルエステは「Pithika」で。
引き出物や、こどもが授かったときの記念品は、
「indigo」の器や「tikitiki」のハンドメイド小物。
そうして、結婚や生誕の記念日のたびに、ここでお食事をしてもらう……。
そんな提案ができればいいのかな、と。

山崎

なるほど!

平田

となると、次に入居してほしいテナントは、不動産屋さんかな、とか(笑)。

山崎

団塊の世代の子であるぼくたちは、構造の変化に気づき、
かつてのやり方やモノの売り方に対して
「そうではない」と気づき始めた世代なんですよね。
そして、そういった考えがいよいよ実行できる年齢になってきた。
平田さんが、いま考えていらっしゃることは、
きっと、まちを元気にしていくきっかけになるはずです。

ピザ窯の薪に使う端材

「ピザ窯の薪には、家具づくりで出た端材を使っています」(平田) 「うわぁ、こんなぜいたくな木材の薪、見たことないですよ(笑)」(山崎)

対談の様子

ハコをつくるのではなく、ひとをつないでまちを元気にしたい。「地元に生まれ育った平田さんだからできることです」(山崎)

いわい家具の入り口。緑に囲まれている

緑に包まれた「いわい家具」。祖父、父が大切に守りついだ店舗と空間を、平田さんは、技術以外の面からもサポート、
プロデュースしようと考えている。

information

map

いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

石巻絵のパレード

石巻のまちを絵が歩く!
横浜・寿町発「絵のパレード」が、東北へ。

あれから1年半あまり。
東北のために何ができるかと、ずっと考えてきたのは、アーティストだけではない。
おそらく日本中の人が、ひとりひとり、それぞれ自分のサイズで考えてきて、
導き出した答えが、良かったのか悪かったのか、正解だったのか間違いだったのか。
判断を下すことはまだ難しい。

震災以降、石巻で活動を始めたアーティストたちを応援してくれている商店街の花屋さん。突然の歩く絵たちの来訪に顔をほころばせて喜んでくれた。

ただひとつ、言えることは、
この日、石巻に集まったアーティストたちには、実感があったということだ。
自分が描いた絵を、見てほしい人が石巻にいる。だから、見せに行く。
その人の家の前まで、その人のお店の前まで、キャンバスを持って。
「こんにちはー! お久しぶりです!」
「絵のパレードを、やっています!!」
突然の訪問に、驚いて出てきたその人の顔は、すぐに笑顔でくしゃくしゃになった。
楽器隊の子どもたちや近所のおばさんたちも引き連れて、意気揚々と行進は続く。
(ああ、みんな喜んでくれている。良かったー)と、アーティストたちはうれしくなる。
たしかな実感だ。これだけは、間違いない。

甚大な津波の被害に見舞われ、まるで防波堤のようにがれきがうず高く積まれた石巻の海岸沿いのエリア。「未来へ号」に乗ってやってきたアーティストたちがひまわりの種を植えていた。

2012年8月10日の青空の下。
人も家も消え去った灰色の大地は、月日を経て、生い茂る緑の野原になっていた。
そこにポツンと停まっている黄色いバス。
アーティストと絵を載せて東京からやってきた「未来へ号」だ。

「絵のパレード」の発案者・幸田千依。プールの水面と人とをテーマに絵を描き続けている。寿町でのパレードの後、台湾での滞在制作に臨み、現地でもパレードを行って手ごたえをつかんだ。

「絵のパレード」の発案者は、絵描き・幸田千依。
今年の正月に横浜のドヤ街・寿町で初めてパレードをして以来、
彼女にはたしかな実感があった。(Area Magazine #3
「ギャラリーや美術館へわざわざ足を運んで観に来てもらうのだけがアート表現じゃない。
アーティストが自分の手で絵を運んでまちを歩けば、思いもよらないことが起こる。
もっともっと、すごい出会いが待っている。いろんな場所で、絵のパレードをやりたい!!」

その思いに賛同したのが、東京・恵比寿で7月に開催された
『一枚の絵の力』展(アートセンター「island JAPAN」主催)の出品アーティストたち。
そして、「未来へ号」で全国をめぐる未来美術家・遠藤一郎だった。

どんな時代でも、どんな状況でも、
一枚の絵の力には伝える力があり、人の心を動かす力がある――。
『一枚の絵の力』展に込められた思いは、彼らの信じる道でもある。

石巻のまちとかかわるアーティストたちのあゆみとこれから。

今回のパレードには7枚の絵が出品された。地元の子どもたちも音楽隊として参加。住宅街や商店街をにぎやかに練り歩いた。

昨年の4月中旬、ひとりの女の子が石巻のまちとかかわり始めた。
彼女の名は“さっこ”といって、まちでは今やよく知られた存在である。
アーティストたちの間では、「つるの湯祭りのさっこ」としても有名だ。

当初、彼女がひとりで石巻へ来て始めたのは、
個人宅や商店街の泥除けや掃除、支援物資の整理配布、避難所や仮設住宅での手伝いなど。
あのころ、このまちで必要とされていたことに、何でも次々に取り組むことだった。

あのころ、多くのアーティストが「自分にできることは何か」と思い悩んで、
そのうち幾人かがさっこに導かれて石巻へやってきて、同じように取り組んだ。
幸田千依も、そのひとりである。
たくさんの出会いと、たくさんの体験が重なり、たくさんの思いが連なって、
さっこを中心とするアーティストたちは、
まちの人々といろいろなことを共有できるようになっていった。

といって、アーティストたちはまちの住人になったわけではなく、
思い思いに来ては出て行き、戻って来てもまた出て行くものなのだけど、
「またね!」と言い合って別れるとき、
その気持ちにウソはないとお互いに思い合える関係ができていったということだ。

震災の影響で休業を余儀なくされたが、今年の正月に多くの人々の後押しを得て再開した「つるの湯」。壁の大きな富士山の絵は、明るい前途を祈るアーティストたちによって描かれた。

たとえば、昨年末に開催された「つるの湯祭り」は、
まちの人々と、外からやってきたアーティストたちが、
それぞれさまざまな思いを交わしながらつくりあげたひとつの大きな出来事だった。
津波の被害に遭った銭湯「つるの湯」を再開させようと奮闘する人たち、
その晴れの日を盛大に祝おうと集まってくる人たち、
そして、期待と願望に満ちたみんなのパワーを受け止める一方で、
実は、少なからず不安も抱えていたおかみさんとご主人。
それでも、2012年元旦に初風呂は実現し、今ではまちで唯一の銭湯として、
訪れる人すべての心と体を温めている。

今回の絵のパレードの行進ルートの中でも、「つるの湯」はハイライトのひとつだった。
「久しぶりに会ったおかみさんは、笑顔だった。それがとてもうれしい。
〈つるの湯祭り〉やって良かった、がんばって再開まで応援できて、
ホントに良かったってみんなで話しました」と幸田千依。

——アーティストが来たら、楽しいことが起こる。
――石巻へ行けば、あの人たちにまた会える。
この関係が、まち全体に広がればもっといい。
今の石巻の日常は、昔の日常には絶対に戻らないけれど、
楽しいことを少しずつ増やしていくための力が、一枚の絵にはある。
そう実感する人たちが、もっともっと増えていけばいい。

パレードの後、
絵たちは石巻駅前商店街にある「日和アートセンター」のギャラリーの壁を飾った。
その後もアーティストたちがさまざまな展示やイベント活動を催し続けている。

老舗のフランス料理店のご夫婦にも絵を披露。パレードは住宅街を回り、細い路地を抜け、商店街を闊歩し、石巻の中心街をくまなく歩いて2時間以上も続いた。

「桜の森 夜の森」 プロジェクト移動写真展

ふるさとを想う若者が4t トラックに咲かせた、満開の桜。

福島県双葉郡富岡町にある夜の森地区は、福島県内でも随一の桜の名所として知られる。
明治時代、当時荒野だった土地を開拓・入植した記念に、
300 本のソメイヨシノを植えたのが始まりだという。
以来、地元住民によって植樹は続けられ、いまでは1500本以上が植えられている。
春になれば、まちじゅうで桜が咲き乱れ、
その風景は100 年以上にわたり、ずっと大切に受け継がれてきた。
現在、富岡町は原発事故の影響で避難区域内となっている。
原発事故が起きた後も変わらずに桜は咲いていても、誰もその姿を見ることはできない。

「夜の森の桜がまた見たいね」
「桜の森 夜の森」プロジェクトがスタートしたのは、
このプロジェクトの発起人である、宮本英実さん家族の何気ないひとことがきっかけだった。
宮本さんの母は富岡町で生まれ、結婚を機にいわき市小名浜に移り住んだ。
宮本さんはいわき市で育つが、休みとなれば富岡町の祖母の家に遊びに行っていたという。
伯母をはじめ、親戚の多くは、富岡町に住んでいたから。
宮本さん自身は、幼いころに数回見た記憶しかない夜の森の桜だったが、
母や伯母の話を聞いているうちに
「夜の森の桜を見せてあげたい」という思いが募っていった。

「よし、夜の森の桜を撮りに行こう」
そう決めた宮本さんは、同じく、小名浜出身で写真家の白井亮さんに声をかけた。
「もともと、ふるさとの写真は撮りためていたんです。いつか何かのかたちにしたいなと。
そして、震災が起きた。それでも変わらずにある普遍的で美しい景色を撮っていましたが、
何かそれを通してふるさとのためにできないかとも考えていました。
それで宮本さんに写真を見てもらったのがきっかけで、
今回お話をいただいたんです」(白井さん)
宮本さんと白井さんは桜の満開の時期を予測しながら、
4月下旬に特別な許可を得て桜を撮影。幸いにも満開の桜を撮ることができた。

Photographed by Ryo Shirai

左から、発起人の宮本英実さんと伯母の舛倉和子さん、母の宮本邦子さん。

しかし撮影するも、まだその写真の発表方法については何も決まっていなかった。
いろいろな方に相談していくうちにFMラジオ局J-WAVEが協力してくれることになり、
急ピッチで「桜の森 夜の森」プロジェクトが進められた。
一方向的に見てもらうのではなく、
ダイレクトに対話できるような発表のかたちを模索していた白井さんと宮本さん。
一番の思いは「避難している富岡町住民の方々に見てもらいたい」ということ。
そこであがったのが、4トラック内での展示だった。
ほどよい広さが確保でき、そのまま移動もできるので、
届けたい人のところへ桜の写真を運べる。
運送会社の株式会社ウインローダーの協力を得て、
8月に福島県内の4会場で「桜の森 夜の森」移動写真展が開催されることになった。

想像を超える、地元の方のあたたかい反応。

編集部が訪れたのは、8月25日に行われた、いわき市の会場。
いわき市は富岡町と同じ浜通りと呼ばれる海沿いのエリアに含まれ、
富岡町の人々が避難している仮設住宅がある。
それが、午前中の会場となった泉玉露応急仮設住宅だ。
駐車場に停められたトラックの荷台が大きく開かれ、
真っ白に塗られた空間には、満開の桜の写真が展示されていた。
少しでも素敵な空間に仕上げたいとトラック内を補修したり、
ペンキを塗る作業はすべてスタッフで行ったのだという。
10時のオープンから、仮設住宅に住む方々や周辺の住民が駆けつけた。

「感激しましたよ」と話してくれたのは、
生まれも育ちも夜の森という猪狩(いがり)ミユキさん(89 歳)。
「いまの桜並木だってわたしは植樹を手伝ったのよ。
小さいころはね、遠足って言えば、夜の森公園の桜。
最近はさくらまつりのよさこい(踊り)をみんなで見に行ったり。
もう何十年って付き合ってきた桜だから、本当にうれしかった」と涙をうかべた。
一緒に見に来たという川口正子さん、細山美智子さんも口々に
「また夜の森の桜が見れてうれしかったです」と話していた。

右から猪狩さん、川口さん、細山さん。仮設住宅では毎日イベントがあるから楽しみにしているのだという。

「桜の森 夜の森」プロジェクトのポストカード。3枚セットで530円で販売している。

クローズの時間が近づいても移動写真展には、
またひとり、またひとりと展示を見に来るお客さんは絶えない。
何かを確認するように、静かに写真を見つめ、
口から「きれいだね」というひと言がこぼれ落ちる。
お金を持ってこなかったからというおばあちゃんは、
自宅に帰ってからまた戻ってきて、大切そうにポストカードを購入していた。

今回開催した4か所のなかでも、やはり、
もともと富岡に住んでいた人が多く住むこの泉玉露応急仮設住宅では、
来場者からの強い思いが伝わってきたという。
「来ていただいた方は、難しいことを言うわけではないんです。
ただ、“キレイだね”とか“もう見れないのかな”とか。
でも、それだけで、その言葉の裏にどんな思いがあるのか伝わってきました。
みなさん、涙を浮かべながら見ていて、
それはもう自分たちが想像していた以上の反応でした……
こんなにも、富岡町の人にとって夜の森の桜が誇りだったんだなと」
もちろん、この桜の写真を見ることで、
うかぶ思いは決してうれしい気持ちだけではない。それでも、
「“展示してくれてありがとうね”とみなさんに言われると、
やった意味はあったのかなと思っています」と宮本さんは言葉を続けた。

「最初は桜の写真を撮影すること自体に迷いもあったんです。
警戒区域に行くことも、写真を撮ることも。
でも写真をみんなで選び、仕上がったプリントを見ていく過程や、
来ていただいた方の反応を見るとやってよかったなと思えました。
みなさんキレイな写真だって褒めてくれるんです(苦笑)。
“自分が知っている桜よりキレイ“だと。
“一時帰宅したときに見たまち並みよりもきれいに写っているから、
以前の夜の森に帰れたみたい”とも言われました。
希望なんて大袈裟なことは言えませんが、少しでも元気づけられたのかなと思っています」
白井さんはそう静かに話し、iPadに入っている、展示しきれなかった写真を見せてくれた。

午後は、市内のアクアマリンパークという市民の憩いの場にトラックが移動し、
ここでも多くの来場者が足を止めていた。

来場者の多くが自分の思い出を確かめるように、一枚一枚じっくりと桜を見ていた。

いわき市内に住む、白井さんのはとこの陽悠(ひゆう)くんがお母さんと一緒にやってきた

「こうやって咲いてるんだから、自然てすごいね。来年は……見にいけるのかな」とうれしそうだけど、どこかさみしそうもに話すのは泉玉露応急仮設住宅に住む半谷光子さん。

わたしたちの地元のことだから。

今回の「桜の森 夜の森」移動写真展の母体となっているのが、
宮本さんが代表をつとめる福島県内の地域活性プロジェクトを発信する「MUSUBU」だ。
メンバーは宮本さんと末永早夏さん。ふたりは、震災直後のボランティア活動をきっかけに
「MUSUBU」を立ち上げ、これまで音楽イベントやワークショップなど、
いわき市を中心に開催してきた。
「私、よく『いわき』とか『福島』ってネットで検索するんですけど
全然いいニュースが出てこないんですよ。それが事実だとしても、
地元の人間としてはやっぱり悲しいんですよね。
悪く考えればきりがないと思うから、私は少しでも楽しみを見つけたり、
楽しめる機会をつくっていけたらと思っているんです」と宮本さんは朗らかに話す。
「桜の森 夜の森」プロジェクトはMUSUBUの活動のひとつとして、
これからも続けていくという。

「次は今回のプロジェクトで撮影したもので写真集をつくったり、
国外での展示方法を考えたりと、どういうかたちが
一番よいかを模索しているところなんです」と白井さん。
宮本さんも、「まだ夜の森のことを知らない人たちにもこの美しい桜を届けたい。
海外の人とか。単純にこの美しさを知ってほしいですね。
それをきっかけに福島のことを何かまた想ってもらえたりしたらいいな」と、
次のステージへのビジョンを語ってくれた。

とは言え、宮本さんも末永さんも白井さんも、本業の仕事のかたわらに、
MUSUBUや「桜の森 夜の森」プロジェクトの活動をしている。
続けるのは大変では? と伺うと、
「誰に言われているわけじゃないから、辞めようと思えばすぐ辞められるんですが、
自分たちが楽しいから続けていられるんです。
自分たちの地元だから、楽しくしていきたいですよね」と末永さんは笑顔で答える。
白井さんも「いわき市出身として福島県で起こったことに対して
何かしたいという思いがやっぱりあるんです」と力強く語る。
「こうやって東京から来た人にも
“大変そうだね”って思われるんじゃなくて、“楽しそうだね”って思われたい。
いわき市は、本当はいいところいっぱいあるんですよ」
とにっこり笑い、宮本さんが言葉を添えた。
「桜の森 夜の森」プロジェクトは今後も少しずついろいろな場所で巡回してく予定だ。

(株)ウインローダーのトラック。裏側に書かれたイラストは、ウインローダーが7月に開催したワークショップで福島の子どもたちが描いたもの。偶然にも「富岡は、負けん」という文字が描かれていた。

左から白井さん、末永さん、宮本さん。3人は偶然にも同じ小名浜出身だったという。

訪れた日は、夏休みまっただ中の日曜日。午後の会場となったアクアマリンパーク内にある「いわきら・ら・ミュウ」では音楽イベントが行われていて、それを楽しみに多くの人が訪れていた。

information

「桜の森 夜の森」プロジェクト移動写真展

主催:福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU 、J-WAVE 81.3FM
撮影:白井亮
ビジュアルデザイン:渡辺俊太郎(BLUE BIRD d.)
協力:株式会社ウインローダー、
富岡町生活復興支援センター「おたがいさまセンター」原田大輔、富岡インサイド
※MUSUBU Online Shopで「桜の森 夜の森」ポストカード販売中
http://musubu.me/

profile

HIDEMI MIYAMOTO
宮本英実

福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU代表。1984年福島県いわき市小名浜生まれ、東京在住。高校卒業後に上京、音楽プロダクションでマネージメント業務を経験後、レコード会社に勤務し宣伝業務を経験。現在はフリーランスでPR・広報などを行う。MUSUBUの活動の為、東京と福島を往復する日々を送る。

profile

SAYAKA SUENAGA
末永早夏

1981年福島県いわき市小名浜生まれ。福島高専3年修了後、単身渡英。イースト・アングリア大学で発展途上国の開発について学ぶ。帰国後、地元企業へ就職するも、途上国への想いをさらに強めることになり、2009年(株)ethicafeを設立。フェアトレードを通して世界の貧困問題と奮闘中。http://www.ethicafe.co.jp/

profile

RYO SHIRAI
白井 亮

写真家。1979年福島県いわき市生まれ。2003年大阪芸術大学写真学科卒業後、電通スタジオ勤務を経て、2007年より上田義彦氏に師事。2011年に独立しフリーランスとして活動を始める。雑誌、広告などの撮影を手がけながら作品を撮り続けている。mail@ryoshirai.com

諸富町 Part3 ソフトから始まるまちづくり。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとをつなげば、まちも動く。

平田

ぼくも先ほどじぶんのことを組合の異端児だ、と言いましたけれど。

山崎

ええ。

平田

おやじもずいぶん変わり者だと思います。
いまでさえ「手づくり」があたりまえの時代ですが、
昭和好景気に生きてきたおやじの世代では珍しかったはずなんですよね。
「これ売っとけばいいだろう」というようなことを過信せず、
じぶんのやり方を貫いてきたんだと思います。

山崎

ぼくも先日、おとうさんとずいぶんおはなしさせていただいたので、
わかるような気がします。

平田

なんだかんだ言って、アタマが柔らかいし、
ぼくのやることも黙って見て見ぬふりをしてくれている。
そういうところは感謝しているし、ほんとうに恵まれていると思っています。

山崎

ありがたいですね。そういえば、入り口横の大きな木を使ったツリーハウスも、
おとうさんが作られたものだとお聞きました。すごくロマンがある。

平田

そうなんです。木を扱う家具、インテリアのまちに並木がないのは
おかしいだろうって、店の周りにたくさん木を植えたのもおやじです。

山崎

うーん、いいはなしだなあ。

平田

すぐ近くにある平田椅子製作所さん、飛鳥工房さんも、
それぞれにがんばっている。うちだけでなく、このムーブメントを
うまくつなぐことでまちづくりができればと考えています。

山崎

あ、せっかくだから飛鳥工房さんにもちょっとうかがってみましょうか。

木のおもちゃ飛鳥工房

木のおもちゃ飛鳥工房。廣松利彦さん、美紀さん夫妻が娘の飛鳥ちゃんのために作った木馬からはじまった、安心・安全な木のおもちゃのメーカー。http://www.asukakoubou.com/

次の世代のためのタネを蒔くこと。

山崎

こんにちは。急にすみません。

廣松

いえいえ。大歓迎ですよ。

平田

こちらは、娘さんの誕生を機に、
木で作るこども用の玩具の制作をされているんです。

山崎

すてきですね。

廣松

その娘も、もう19歳になりますが(笑)。

山崎

もうそんなになるんですか!

廣松

はい。それで、ちょうど、このショップの改装や拡充を
考えているところなんです。たとえば、このすぐ隣の空き地に
地域のこどもが安心して遊べるログハウスを作ろうか、とかね。
こども向けのものづくりワークショップもやりたいですし。
たとえば、むかしの駄菓子屋さんのように、
地域のこどもが学校帰りになんとなく立ち寄ったりしたくなる、
おとなもいて安心して遊べるような場所が理想なんですよね。

山崎

いいですね。次の10年のための構想。

廣松

たとえば、こども向けの木のオモチャづくりのワークショップをするでしょう。
そうすると、普段オモチャを大切にしない子も、
じぶんが作ったものは、笑っちゃうくらい大事にするんです。

山崎

ぼくらがやっているまちづくりも一緒ですね(笑)。
いかに関わって、大事だと思えるものを作るか。
加えて、たくさんのものを作る時代じゃないからこそ、
従来あるものにも、いかにあたらしい関係性を作るか……。

廣松

ええ。
もともと父の代から受け継いだ「廣松加飾」は家具のパーツを製作する会社で、
当初はわたしたちだけ生きていければと思っていました。
でも、次に修理をするひとがいてくれないと成り立たないんだな、と。
そう思うと、ちゃんと次の世代を育てていかないといけないんですよね。

山崎

そうですね。
まちをつくるときに、まずハコものを作りたがるケースも多いのですが、
ここではひとの顔がちゃんと見えているから、ひとをつないでまちをつくれる
というのはとても大きなメリットのように感じますね。

(……to be continued!)

飛鳥工房のショップ

「廣松加飾」の一角に、かわいい木のおもちゃがならぶ飛鳥工房のショップを併設。

かわいい木馬

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんと談笑

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんとともに。「学校でも家庭でもない、こどもたちが集う場所を作りたいですね」と夢を語る廣松さん。

information

map

いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

気仙沼・男山本店 つながりの地酒。

1912年創業の老舗酒蔵を襲った震災。

宮城県気仙沼市の内湾。
ここは、フェリー乗り場の桟橋が一部を残して海に沈んでいるほかは
瓦礫もきれいに整理された地区だ。
しかし、そんな内湾の海沿いに、ひときわ目を引く建物が倒壊したまま残っている。

この建物は、1912年創業の老舗酒蔵「男山本店」の社屋兼店舗。
国から有形文化財の指定も受けている、歴史ある建造物だ。
もとは木筋コンクリート3階建てだったが、
今は1、2階が潰れて無くなってしまっている。

「震災当時、我々のような直接酒造りに関わるメンバーは店舗近くの酒蔵にいました。
ザーッという波の音と悲鳴を聞いてすぐに、高台に避難したんですが、
山の上から見えるはずの店舗の屋根が、その時にはもう見えませんでした。
あそこまで波が来たのかなと思ってよく見ると桟橋とか、
動くはずのないものが動いている。
驚きとか悲しみとかよりも、夢じゃないのかという気持ちでした」

そう語ってくれたのは男山の副杜氏、柏大輔さん。
気仙沼に生まれ、大学卒業後の就職先で酒類の販売に関係したことがきっかけで、
お酒の造り手となった。男山では、ブログの更新も担当している。

「震災当日は、すぐに帰れると思っていました。
明日は子どもの誕生日プレゼントを買いに行かなきゃなと思っていたくらいだったので、
本当に呑気なものでしたね。
ただ、夜になって火が回った時に、すごいことになっていると気づきました。
はじめて怖いと思ったのも、その時です」

車の中で一夜を明かした翌日。
酒蔵に戻ると、主力銘柄である「蒼天伝」が発酵途中の醪(もろみ)の状態で
無事に残っていた。
生き物とも言えるお酒が搾りの作業を経て完成に至るには、
この状況下でも目を離すことが許されない。
酒蔵には2人の社員を残し、決死の対応で発酵を見守った。
そして、約10日後に新酒の上槽日を迎える。

しかし、電気、ガス、水道はまだ復旧しておらず、
従業員の中にも親や兄弟を亡くした者が少なくない。
この時、前年から仕込みを続けたお酒の完成をあきらめる覚悟もしたという。

「まわりの人がまだ水も電気もない生活を続けている中で、
我々は洗い物をするための水を手に入れようとしているわけですから、
準備が出来てもすぐに気持ちを切り替えられないだろうと思っていました。
こんな状況の中で仕事、ましてや酒なんて造れない」

その時、周辺の人々から応援の声が挙がった。
「地元の生産者として、気仙沼を盛り上げてくれ」
「電気も水も提供するから、是非とも続けてくれ」
従業員達は、この声に背中を押されるかたちで、搾りの作業を実行。
約1600本分の「蒼天伝」が完成した。

男山の社屋兼店舗。目の前に気仙沼湾が広がる。

高台にあった酒蔵も築100年を越える建物。震災の被害は免れた。

震災当時は、タンクに氷を巻き付けて温度調節を行ったそう。

全国から寄せられた応援に応えたい。

「そこから先は怒濤の忙しさで、休みもなく毎日ふらふらな状態。
しかし、ほかの製造業はほとんど動けない状況になっていたので、
私達がやるしかないという使命感で乗り切りました。
あとはなにより、全国の皆様からメールや電話で寄せられた、応援に、
応えたいという気持ちが強かった。
うちは小さい会社なので、市内での流通がほとんどだったのですが、
地元酒販店さんのほとんどが被災し、すぐに商売を再開できる状態ではなかった。
それでも商売を続けることができているのは、
震災をきっかけにできた多くのご縁のおかげです」

それから1年数か月がたち、激務からは解放されつつあるが、
全国から届く励ましと、営業を再開した地元酒販店のために、現在も懸命に出荷を続けている。

「気仙沼を全国に発信するとは言っても、私たちの本業はお酒を造ること。
気仙沼の地酒をできるだけ多くの人に届けたいし、楽しんでもらいたい。
それが、結果的にでもこのまちのためになれば本望です」

震災後に入社した伊藤さんは、元漁師だ。

蒼天伝をはじめとした男山のお酒は、ホームページでも購入可能。