とくしまマルシェ

マルシェの、効能。

食欲の秋、豊穣の秋が到来!
週末ともなれば、全国津々浦々、産直市や青空マーケットなど
生産者と消費者を直接つなぐ、食のイベントが目白押し。
食いしん坊にはたまらないこのシーズンだが
徳島に、回を重ねるごとに集客が増えているという、話題の産直市がある。

それは、毎月最終日曜日に開催される「とくしまマルシェ」。
徳島経済研究所が、2010年12月からスタートさせた
「徳島の農業ビジネス活性化構想」のプロジェクトの一環だ。
市中心部にある新町川沿いのしんまちボードウォークに
白いパラソルが並び、フランスのマルシェ(市場)さながらの様子。
20回目を迎えた現在、毎回60店舗ほどが出店、
平均して1万人もの人びとが集まる人気イベントに成長した。

徳島市は市の面積の13.6%を川が占めている水の都。まるで、市民の心のオアシスのような場所が会場に選ばれた。

運営するのは、とくしまマルシェ事務局。
出店者の選定からイベント企画、マルシェ当日の監督、清掃、警備
ホームページ更新やネット販売、他社とのコラボレーション企画、
毎月の東京への出店など、常駐3名のスタッフで「なんでもござれ」。
「行政からの補助金に頼らずに事業でやっていく、と決めています。
立ち上げ時は1年だけ助成金はいただきましたけど」と
気骨のある声をあげるのは、事務局長の金森直人さん。
東京の大学を卒業後に徳島に戻り、しんまちボードウォークで
パラソルショップのプロデュースを成功させていた彼に、
マルシェの発起人、田村耕一さん(徳島経済研究所専務理事)が声をかけた。
「首都圏から有名人を呼んで人を集めるのではなく、
地域発信ならではのものにしたいと思いました。
企画の面白さで人に楽しんでもらえるマルシェをつくるのが目標」と力強く語る。

左からとくしまマルシェの東京進出プロデューサー、中西章文さん、発起人の田村耕一さん、事務局長の金森直人さん。中西さんと金森さんは毎月、とくしまマルシェの商品を車に乗せて東京へ運んでいる。撮影:在本彌生

そもそも、徳島県はれんこんやすだち、さつまいも
生しいたけなどの一大産地として知られており、
人口の多い近畿圏への野菜出荷量は、他県の群を抜き、農業は県の一大産業だ。
にもかかわらず、厚生労働省が2012年1月に発表した国民健康・栄養調査結果によると
徳島県の成人男性の1日当たりの野菜摂取量は
47都道府県中、最も少ないという残念な統計が発表されている。
さらには、人口10万人当たりの、糖尿病・肝臓疾患患者の死亡率が全国ナンバー1であり、
野菜摂取量の少なさを指摘する専門家もいるという。

なんという、矛盾。
徳島県人は阿波おどりの激しい練習のおかげで、
みんなスリムでヘルシーなわけではなかった。
奇しくも、お隣の香川県と並び、まちを見渡せば
安くて早い、スタンドうどんがすぐに見つかる。
お好み焼きやラーメン屋も多い「粉物」人気の食文化圏だけに、
金森さんらは県民がわざわざマルシェに足を運んで
スーパーマーケットに並んでいるものよりも高くつくこだわりの産品に、
お金を出す価値を見出してくれるかどうかを心配したという。

そこで、とくしまマルシェの特性を打ち出すために出店者を一般募集しないことにした。
自らが気になる農家へ出向いて話を聞き、
そして出店にふさわしいと納得できるところだけに依頼をした。
もちろん、販売という未知の体験に、出店を断るところもあった。
そこはやはり自分たちで選んだ生産者のこと、
マルシェのことをきちんと理解をしてもらうため、何度か足を運んだという。
そして、どのくらいの価格でどんな商品なら、消費者も値段に納得して買うか。
ノウハウの少ない人たちとともに、販売アイデアを考えた。
「徳島の本物の産品は県内には流通せず、他県に流出する一方。県民は徳島産品の美味しさを知らないことが残念で、徳島の美味しい農産物をみんなに味わってもらいたかったんです。そのために、まず、良質な地産地消の味を、地元に定着させることを目指しました」(金森さん)
安定した現在の来場者数を見ると、すでに答えは出ている。

また、ブランド戦略の一環として、各店舗の商品を並べるためのオリジナル木箱を配布し、
エコバッグやパンフレットなどもあわせて会場全体のデザインを統一。
川沿いの心地良い空間を演出することで、さまざまな年代の人たちが集まるようになった。
公式ホームページのほか、TwitterやfacebookなどのSNSも
積極的に取り入れ、動画サイトのUstreamに会場を中継した模様を
逐次アップして集客促進に励んでいる。

生産者と消費者が直接やりとりできる機会が定期的にもてるのが生産者側から見たマルシェの魅力。お客さんもじっくりと時間をかけて商品を選ぶ。この相互作用がマルシェそのものの質を高めていく。

子どもたちが農作物の植付けから収穫・加工・販売まで行なっているキッズファーマープロジェクトも、他の生産者に負けてはいられません。自分たちのつくったものを、自信を持ってアピール!

とくしまマルシェ、自慢の農産物がズラリ。もし、当日現地に行けなくても開催当日にマルシェから旬の野菜・フルーツを直送する「お届けマルシェ詰め合わせセット」(送料込みで3000円)もある。お申込みはホームページから。

とくしまマルシェに出店している、人気の生産者に話を聞いてみると、
口々に「お客さんとやりとりできる環境ができたのがいい」と言う。

「マルシェでは、他店の華やかな軒先に並べると、卵は見た目の変化に乏しい商品なので、
ちゃんと内容を説明しないと何がどういいのか伝わりません。
だから、毎回、伝え方を工夫しているんですよ」
と言うのは、コレステロール値の低いヘルシーな
白い黄身の卵「地米」がマルシェで話題となっている
「たむらのタマゴ」の二代目、田村桂樹さん。
地米のほか、黄身が黄色の「濃蜜」、オレンジがかった
「たむらのタマゴ」と
三種類の卵を割って展示し、餌によって黄身の色が違うのを説明。
鶏にストレスをかけない土地を選び、風通しのいい鶏舎をつくり、地元の米を使い、
EM菌を混ぜた独自の餌づくりについて説明するほか、
知るとなるほど納得するようなたまご豆知識のメモを毎回用意する。
なぜたむらのタマゴがスーパーで売っている卵に比べて
値が張るのかという理由を理解してもらうことがポイントだ。
「モノの良し悪しをどうわかってもらうかが重要です。
それを伝える努力をしないと、どんなにいいものと思ってつくっても、
人の手に渡らないから……。」と言う桂樹さん。
二代目の熱い思いはマルシェ出店によって少しずつ広がってきた。
「こちらが話せば、ちゃんとお客さんは聞いてくれます。
お陰さまで回を増すごとにリピーターの方が増えてきたのを実感しています」
徳島市まで1時間以上かけて阿南市の鶏舎から
新鮮な卵を持って駆けつける、桂樹さんの努力は実ってきている。

桂樹さんの隣は父である社長の智照さん。
「本物は黙々として語らず、いいものはそのまま伝わると思いながら仕事をしていたんだが、時代は変わっていくね」

鶏が密集する熱を逃がすように自然の風が通りやすいよう設計されている鶏舎。鶏の糞が下へ落ちるように2Fに鶏がいるようになっているので匂いが少ない。鶏へのストレスが少ない鶏舎で生まれる卵は美味しくて当然だ。

それはそうと、農に携わる人は販売に慣れていないはずなのに
マルシェでの商品の見せ方がとても上手。

「最良の農作物をつくる人は、最良のセンスをもってつくるのだから
商品のスタイリングが上手なのは当然」
というのは糖度8から12もの高糖度のトマト
「ももりこ」で知られる樫山農園の樫山博章社長。
これまで、樫山農園のトマトは高級品として首都圏、近畿圏の
高級スーパーやレストランなどに求められてきた。
地元では、安値でないと売れない。
どんなに手をかけて美味しいトマトをつくっても評価がないのでは
農家だってモチベーションが上がらないし、
品質向上のための投資もできない。
樫山農園の事務所を訪れると、試験管がズラリ並んでいた。
10年以上かけて完成させたビール粕をまぜた肥料でつくる
糖度10以上の「珊瑚樹(さんごじゅ)」のほか、
昨年発売となったオリジナルブランド「ももりこ」など
美味しいトマトの研究開発に余念がないのもうなずける。

「都会だけでなく、地元でも自分たちのつくるトマトの価値を
わかってもらいたいと思ったのです。
県主催のマーケティングフェアに出店し、近所のJA直売所では
少し傷のついたものなどを250g、350円で出しました。
すると、隣県からも買いに来る人がいるくらい人気が出てしまって。
2011年2月からはとくしまマルシェにも参加しました。
マルシェで消費者の方と交流し、新しい取引が始まったり、ファンになってもらったり……。
それまで、生産ばかりに注力していましたが
いいきっかけで自分たちの殻が破れた気がしました」と言うのは、専務の直樹さん。
マルシェでは軒先に立って、率先して販売する。
直樹さんは、国内外へ阿波徳島の食材をアピールするグループ
「若士(わかいし)」にも参加している。
ちなみに、「若士」はとくしまマルシェをきっかにつくられた若い農家の会で
「たむらのタマゴ」の桂樹さんもメンバーのひとりだ。

「お客さんを説得するのは女性を口説くのと一緒。マルシェでは、あの手この手で頑張っているんでしょうね」
と、息子である直樹さんを見ながら樫山社長は笑う。

低温でゆっくりと熟成させた樫山さんのトマトは、冬に一番美味しくなる。反対に水分を含む夏場は、樫山さんはトマトで出店はしない。「ここのトマトでないといかんのよ」というお客さんに人気は支えられている。

マルシェの効能は、売上を上げることだけではない。
つくり手のモチベーションアップにつながった。
結果、地元での消費が増えることに成功し、おそらく食生活の質も、一部向上しているはずだ。
さらには、他県から個人やバスツアーで人が訪れてお金を使っていく。
なんと、市内の百貨店はマルシェの開催日には売上がのびるという。
生産者だけではなく、運営側もマルシェに付加価値をつけるために
家族連れが楽しめるイベントを考え、何度も足を運ばせる工夫をする。
マルシェで買った新鮮食材を自宅へ直送できる
お届けマルシェや気に入った生産者から収穫の時期にあわせて
野菜などが購入できるショッピングモールサイトでのフォローもある。
事務局は、ここで利益を上げ、次なる仕掛けを考える。
中心市街地の賑わいを創出、観光振興とあわせて
農業ビジネスの活性化をめざした、発起人の田村氏の狙いは間違っていなかった。
もちろん、それはすべてがプラスに作用したからであって
休みも関係ない多忙な農家がわざわざ出店したくなる
場づくりを行った事務局の功績は大きい。

さあ、地元での認知が高まったところで、全国へ———。
事務局、生産者、そして実際に消費している徳島県人が盛り上げる、地元の産直市。
関わる人、産地、販売する商品とつくられる背景すべてをひっくるめて
あり方そのものが、「とくしまマルシェ」というブランドに成長したことが
マルシェ開催の“一番の効能”なのかもしれない。

石巻2.0

ここ、石巻で継続的な活動をするということ。

2012年7月21日〜8月1日、石巻の中央地区において、
イベント「STAND UP WEEK」(以下SUW)が開催された。
SUWは石巻のまちづくりプロジェクトチーム「石巻2.0」が、
伝統的なお祭りである川開きまでの10日間の期間に企画したイベントで、
今回は昨年に引き続き2回目の開催となる。
野外映画上映会、まちづくりシンポジウムに加え、
まちコンやITビジネスコンテストなどが催された。

私が石巻を訪ねるのは、ちょうど1年ぶり。
ガレキも整理され、落ち着きを取り戻しつつあるまち並みと同様に、
彼らの活動にも少し落ち着きが見えたように思えた。
それは、石巻2.0の活動が継続的なものになりつつある証拠でもある。
インフォメーションセンター「IRORI」、宿泊施設「復興民泊」など、
1年前には存在しなかった施設をみるだけでも、
この1年の活動の充実度をうかがい知ることができる。

そんな、石巻2.0の活動の中でも目立つのが、
震災をきっかけに石巻を訪れることになったメンバーたちの活躍だ。
いわば「よそ者組」とも言える彼らが、どうしてこの地にたどり着き、
継続的な活動を続けているのだろうか。

東京工業大学・真野研究室の渡邊享子さんは、そんな「よそ者組」のひとりだ。
「ここに来たのは大学の研究室の一員としての活動がきっかけで、
それまで石巻とは全く縁がありませんでした。
昨年は修士論文を書きながらの参加だったので、行ったり来たりだったんですけど、
今は博士課程なので時間には余裕があります。
会いたい人に会う感覚で毎週通っているうちに、
今では月のほとんどを石巻で過ごすようになりました」

今年のSUWでは渡邊さん自らが企画した「ゆかたdeまちコン」も開催され、
この1年でプレイヤーとして成長できた自覚がある、と渡邊さんは語る。
「ここにはさまざまな才能を持った人が集まるので、いい刺激にもなっているし、はやく彼らと同じくらい貢献できるようになりたいと思っています」

渡邊さんら学生たち数人をを率いて石巻を訪れ、今回のSUWではまちづくりシンポジウムに登壇した東京工業大学の真野洋介准教授は言う。
「被災地での活動は、阪神淡路大震災の時にも経験があったから、
僕らにとっては当然のことで、特別なことをやっている感覚はなかったです。
ただ、もしこの活動が自分たちの中だけで完結していたら、
こんなに強烈な色を持った活動には発展しなかったと思います。
自らの活動に本気で向き合っている者同士が出会うことで、
予想を超える力を持った活動ができているのだと思います。
逆に言えば、自分の仕事に向き合えなければ、被災地に行っただけ、
見ただけで終わってしまうということでもあるんですが」

石巻2.0発行のフリーペーパー「VOICE」の編集長である飯田昭雄さんも、
震災をきっかけに石巻を訪れた。
「震災直後から、支援物資を持って行くような活動をしているうちに
石巻の人々の熱い想いに触れる機会があり、そこで感電状態になってしまったんです。

東京に住む八戸出身の東北人として、なにか力になりたいと思いました。
この冊子ができたのもさまざまな人との出会いが重なった結果だし、
とにかく奇跡のようなタイミングで新たな出会いが続いて、流れが止まらない。
僕たちはこれを石巻ミラクルと呼んでいます(笑)」

彼らからは、被災地のために身を削って力を貸すというような、
ボランティア精神は感じられない。
むしろ、自らの能力を存分に生かすことができる環境に身を置くことを
楽しんでいるように見える。

渡邊さんは言う。
「私は石巻に住んでいたわけでも、震災で傷負ったわけでもないから、結局はよそ者です。
石巻のために頑張ると言うのはおこがましいと感じるし、
むしろ自分はこの環境に助けてもらった側だと思います。
東京では、早く就職を決めなきゃ、
安定した人と結婚しなきゃというようなことを気にしながらモヤモヤしていたけど、
ここでは自分のやりたいことが必要とされていて、それを躊躇する必要もない。
自分の場合は、そういう環境をたまたま石巻で見つけたというだけで、
被災地に限らず、人それぞれにそういう土地がどこかにあるんだと感じています」

石巻2.0の本拠地「IRORI」は、無線LAN・電源が使い放題。

渡辺さんが取り仕切ったまちコンも人気。

野外上映会には多くの親子がつめかけた。

中崎町 Part1 昭和喫茶と「譲り店」。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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公共的な役割を果たすカフェのための流儀を模索する「common cafe」プロデューサーの
山納洋さんと山崎亮さんの対談を、4回にわたってお届けします。

コミュニティの場としての昭和喫茶。

山崎

こんにちは。今日は「common cafe」じゃないんですね。

山納

ええ。イベントが入っていて使えないので、こちらの店をお借りしました。

山崎

すぐ近くに勤めていた時期があって、「common cafe」ほか
界隈の店にはよく足を運びましたが、ここは知りませんでした。

山納

そうでしょう。入り口の脇にドーンと自動販売機があって、
わかりにくかったんです。
「喫茶・ラウンジ 正」という店名で、29年間営業していたようです。

山崎

(古い写真を見て)そのころと全然変わらないんですね。

山納

変わらないといえば変わらないのですが、「正」時代に2度ほど来たときには、
店内の至るところに雑誌の山やほこりといった、
29年の積層があちこちに見られました。

山崎

このお店のことは、山納さんのあたらしい本にも登場していましたね。

山納

はい。前の店主に「そろそろやめようと思ってるんやけど」
「あんた、ここでなんか(何か)する?」と相談をもちかけられた常連客が、
現店主の片牧尚之さんなんです。

山崎

それで名前も引き継いで「ニューMASA」なんですね。
写真を見ても、いまこうして店内のお客さんのようすを見渡しても、
まちの中で、コミュニティの場としての役割をしっかりと担っていますよね。

山納

向かいのスペインバルも「あじさい」という味のある喫茶店でしたし、
すぐそばにも「静」という12席で1日8回転した人気店もありました。
じつはぼくも狙っていたんですよ。

山崎

昭和喫茶を?

山納

はい。common cafeのプロジェクトとしてうまく引き継げたらいいなあと。
でも、はなしがうまくいかなくて、結局、ガールズバーになってしまいました。
すごくもったいないことをしたなって思っています。

改装前の「正」時代の写真、改装後のイベントの様子などがまとめられたアルバム

改装前の「正」時代の写真、改装後のイベントのようすなどがまとめられたアルバムに見入る山崎さん。「古い常連さんには独り身の方も多いので、クリスマス会なんかもやったんですよ」と店主の片牧さん。

中崎昭和喫茶「ニューMASA」店内

中崎昭和喫茶「ニューMASA」店内。大阪府大阪市北区中崎西1-1-16 06-6373-3445 http://newmasa-nakazaki.com/

『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』書影

今夏に発売されたばかりの山納さんの2冊目の著書『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』(学芸出版社刊)

コミュニティごと引き継ぐ「譲り店」の提案。

山納

1970年代に喫茶店ブームがあったんですよね。
そのときに30代ぐらいでお店をはじめたひとが、
今、60代、70代になってそろそろやめようとしている。
つぶして若い人好みのあたらしいカフェを始めるのも悪くはないけれど、
これまでその店を愛した地域のひと(=常連さん)を含めて、
店を引き継ぐというスタイルもいいんじゃないかと。

山崎

あ、そういう事例を集めて、本を作ってもいいかもしれませんね。
写真入りのフルカラーで。すごく公共性をもっているし、
うまく語ることができるなら、高い価値のある一冊になりそうです。
そういう店を……なんて名づければいいんでしょう。

山納

わたしは著書のなかで「譲り店」と書いています。

山崎

ゆずりみせ……いいですね!

山納

譲り店の事例は、喫茶店だけでもないんですよね。
たとえば、安治川近くにある「入船食堂」は、その名の通り
そのむかし港町だったエリアに何軒もあって賑わった食堂の一軒なのですが、
80歳近くの現店主になる昭和40年より以前から、
100年以上も同じ「入船食堂」という看板で店をやっていたというんです。
全国的にそういう事例を見てみたいと思う気持ちはありますね。

山崎

ぼくもぜひ見てみたいですね。行政がサポートしてもいいくらいの
「取り戻せない公共性」をはらんでいると思います。
そこを「民」のチカラでなんとかしようというのが「譲り店」ですね。
これまでのファンの止まり木的な場でありつつ、
同時に「次の30年」をプロデュースする。
これって、難しいけれど、とても大切なことで、もう、全国の都市部で
実際に方法を模索してやり始めているひとたちがいるんじゃないかと思います。

山納

そういうふるまいができずに、レトロなまま閉店していくお店は
ほんとうに残念ですし。

山崎

まったく。

山納

そこでしっかりと考えなくてはいけないのは、
近年増えている「コミュニティカフェ」(*1)と呼ばれる、
公共性を志向するタイプのカフェですね。
個人的にものすごく違和感があるんです。

山崎

たとえば、行政からの助成金で運営しているような?

山納

そうですね。
助成金が欲しいからコミュニティといっているような気がしてならない。
すぐ近くの商店街にちゃんと愛されている喫茶店があるのに、
わざわざ別に場を作り、だけど賑わってもいない。
そして、助成金が切れたら終わってしまう。
これって、非常にだらしがないですよね。
基本的にカフェというのはビジネスですから、
行政や企業のお金で支えられてビジネスが成り立っていないところは、
どこも脇が甘いと思うんです。

山崎

脇も甘いし、空間づくりもコンセプトも甘い。

山納

それよりも、行政の支援など関係なく、何十年も商売を続けてきた古い喫茶店が、
コミュニティの場になっていることをもっと評価するべきですよね。
ただ、長く続いている店のなかには、味の落ちたコーヒーを出すとか、
掃除が行き届いていないなどの不具合もあり、こうなると若い世代は入りにくい。
「譲り店」は、その辺をクリアする機能になり得るような気がするんですよ。

(……to be continued!)

*1 コミュニティカフェ:「コミュニティカフェとは、地域住民やNPOが高齢者・障害者・子育てへの支援、世代間・国際交流、生涯学習、まちづくりといった公共的なテーマのもとに、カフェを開いたり、定期的に人々が集まれる場を作ったりという動きのことをいいます」(山納洋『カフェという場のつくり方 自分らしい企業のススメ)より)

営業中の看板には「ほっこりやってますねん」の文字

中崎昭和喫茶「ニューMASA」外観

昭和57年から続く喫茶店が、店主を替えて継続。店をわかりにくくしていた自動販売機などがなくなり、外観もスッキリと。一見さんも入りやすくなった。

譲り店について語る、山崎さんと山納さん

譲り店について語る、山崎さんと山納さん。山崎さんも、ホヅプロとして伊賀・島ヶ原の製材所を譲り受けたばかりとあって、はなしが弾む。

profile

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HIROSHI YAMANOU 
山納 洋

1993年大阪ガス入社。神戸アートビレッッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、財団法人大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス近畿圏部において地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方で、カフェ空間のシェア活動「common cafe」、「六甲山カフェ」、トークサロン企画「御堂筋Talkin’Aabout」などをプロデュースしている。著書に『common cafe ー人と人が出会う場のつくりかたー』『カフェという場のつくり方 自分らしい起業のススメ』がある。

Web:http://www.talkin-about.com/cafe/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

今年の新米は如何に!?

4か月間の振り返りを……。

コロカルをご愛読のみなさまお久しぶりです。
気がつけば前の投稿から4か月……(汗)。
未熟さゆえに仕事の雪崩に埋もれ、遭難しておりました。
コロカル編集部の温かさに救われ、何とか無事生還を果たしましたので、久々の更新を!

前回の記事は田植えイベントで終わっていますが、
現在魚沼では、バリバリ稲刈りが行われております☆
追いつかねば!

ということで、この4か月間を振り返ってみることに。

東京田植え体験。

前回の記事で募集をさせていただいた東京田植え体験ですが、
不安定な天候により田植えが中止となり、
懇親会BBQのみ開催という素敵なかたちに着地しました!

イベント協賛 COLEMAN様

当日、何とか雨は回避。
都会のど真ん中渋谷のとあるビルの屋上で、
魚沼からお持ちした、もち豚・アスパラ・八色しいたけ・エリンギなどのBBQと共に
みなさんと美味しく楽しいひと時を過ごさせていただきました。
田植えをできずに残念でしたが、その分ゆ~っくりとお話しさせていただくことができました。
たくさんの方々に応援していただいていることを実感し、
ポジティブなパワーをたくさんいただき、僕らにとっては本当に有意義な時間となりました!
「災い転じて福と成す」とはこれまさに。

6代目覚醒計画。

山本家6代目ゆうと君(7歳)の将来の夢は自衛隊。
立派な夢ではありますが、RICE475を進行する我々としては、
何とか6代目にも農家になってもらわねば! という、超おせっかい企画を開始。
ゆうと君、おじいちゃんとパパと一緒に小さな田んぼを始めました。

田植え。意外と真面目にやってます。

草取り。もちろん除草剤は撒きません。当たり前か。

スクスク成長中。

こんなところに稲が? 6代目、新農法の開発研究か!?

やはり農家のDNAを受け継いでいるだけあり、ちゃんとお世話をしていましたよ。
果たして、味はいかに? 親父を超えることが出来るのでしょうか?
そして、収穫を迎えたとき、6代目の将来の夢はどこへ向いているのでしょうか?

続く

除草体験ツアー。

無農薬栽培で大きな難儀は「雑草」との戦いです。
今回はそれをみなさんに体験していただこう! ということで除草ツアーを開催!
実は昨年も除草を募集していたのですが、参加者3名という、
RICE475史上最少参加人数を記録したほろ苦い思い出が。
ですが、なんと! 今年は一晩で定員を大きく超える申し込みの数!
予想以上の大盛況でした。

総勢50名近い参加者が田んぼに入り、草を取る。
なんて素晴らしい光景でしょう!
どんどん積み上がる雑草の山。農家山本も大喜び!

みなさん一生懸命、一心不乱に草を取っていただいて、
それだけでも本当にありがたいのに、みなさん「全然取りきれなくてすいません。」と。
え~!? なんて良い人たちなんだ~! と、山本と感謝の涙を流しておりました。
しかも、翌日みなさんからお礼のメッセージがたくさん。
魚沼に草取りに来てもらって、お礼を言われるなんて、
もう「ありがたい」を通り越して「かたじけない」ですよ。

みんなで育てているって感じ、素敵ですよね!
たくさんの想いが詰まった美味しいお米になるはずです。
絶対。

さまざまな場所でRICE475に会えます。

現在RICE475は、
SLOW HOUSE by ACTUS
FADNESS INLET FARM(弊社の衣食複合セレクトショップ)
廣新米穀WEBサイト
で購入していただくことができますが、
意外に少ないのです。そもそも商品の数が卸をするほどありません。

常時販売しているのは上記の店舗のみですが、
今年もいろんな場所でRICE475を販売させていただいております。
地元のイベントのほかに、県外のお祭りで販売させていただいたり、

なんとレザーブランドCOACHさんの70周年イベントでも!
ノベルティとしても採用していただきました。

カッコいいお米でしょう! 自慢の息子です☆

10月以降も東京、愛知などなど行きますよ~!
そしてさらに今年はみなさんに常時購入していただける窓口が増える予定です。
なんともありがたいこと!
確定次第、こちらでもお知らせできればと思います。

そんなイベントを挟みつつ、山本は日々作業を続けます。

日々の作業は、
RICE475のTwitter(@rice475)やホームページのRICE475カテゴリーで発信しています。

初年度は青虫の異常発生、
昨年は猛暑からの豪雨洪水。収穫間近の田んぼがいくつも土砂で埋まっていました。
今年は猛暑で渇水。
フジロックでも雨が降らなかったという、記録的な少雨。
毎年、天候や気温が変わっていく中で、クオリティーを保ち続けるというのは
とても難しいことだと、3年目にして実感しました。

それでも山本は美味しいお米をつくり続けます。
さぁ、今年の新米は如何に!!!
乞うご期待です☆

なんか、夏休みの宿題の日記を一気にまとめて書いた感じ。笑
ではでは。

STUDY 木質ペレット

国内ペレット生産規模の増加の背景。

木質バイオマスの熱利用としては、
製紙工場や製材工場等に併設される大型のバイオマスボイラーや
施設に設置される木質チップやペレットによるボイラー、
そして家庭などに設置される薪や木質ペレットによるストーブの熱利用など、
さまざまな種類があります。
この中で化石燃料を代替する固形のバイオ燃料として注目されている木質ペレットは、
日本国内でも1980年代に石油ショックの影響で一時生産が増加した時期がありましたが、
1990年代に入ると石油価格が下がり木質ペレットの生産量も大きく減少しました。
その後2000年代になって、環境問題や地域資源の見直しなどで
再びペレット生産が増加してきており、
2008年度には年間生産量が6万トンにまで増加しています。
ただし、欧州のペレット工場と比べて1か所あたりの規模が小さく、
全国のペレット工場の平均的な規模は年間生産量が1000トン程度となっています。
木質ペレットの生産を効率化し、普及につながる価格に下げるには、
木質ペレットの原料の調達方法や生産方法などに多くの課題があります。
例えば、原料の調達面では、間伐材の破砕や乾燥から行う必要があり、
製材工場などにペレット製造工場を併設することによる改善が期待されます。
一方、欧州では2000年代の初頭から木質ペレットの本格的な生産が始まり、
オーストリアでは年間50万トン以上生産され、国内での利用のみならず輸出も行われています。
また、スウェーデンでは年間200万トン以上の需要があり、
国内で大規模工場での生産が行われると共に、国外から輸入しています。
いずれの国でも大型の施設でのペレットボイラーの利用だけではなく、
地域での熱供給や家庭でのペレットボイラーの設置まで行われており、
木質ペレットの生産・流通・供給体制がしっかりと構築されています。
この際、木質ペレット運搬には、バルク供給方式が採用され、
タンクローリーのような輸送車が使われています。
また林業の盛んな地域では木材産業まで一貫した木質バイオマス利用が進んでおり、
木材生産時の端材やおがくずなどが地域内で流通し、
各ペレット工業が比較的容易に使いやすい原料の調達が可能となっています。
一方、近年の原油価格高騰により木質ペレット価格が灯油と競争できる価格になってきたことが、
国内ペレット生産規模の拡大の背景となっていると考えられます。
木質ペレットは暖房用ストーブと温水用ボイラーに利用されています。
ストーブは家庭向けが中心ですが、
ボイラーは温泉・プール・農園芸施設・公共施設・官庁などでの利用が普及し始めています。
国内全体としてのバイオマス熱利用の統計データはまだまとまったものがなく、
自然エネルギーの統計データとして今後の課題となっています。

木質ペレットの外見(スウェーデンにて筆者撮影)

TOPIC 郡山布引高原風力発電所

大規模風力発電所のメリット・デメリット。

近年、発電出力2,000kWを超える大型の風力発電機が
何本も建てられた大規模な風力発電所(ウィンドファーム)が、
国内各地で次々と建設されています。
その中でも国内最大の風力発電所である、福島県郡山市の郡山布引高原風力発電所は、
33基の風力発電機で合計65,980kWの発電出力を持っています。
今回は、2007年2月に運転を開始し、年間で約1億2,500万kWhを供給する
この大規模風力発電所を紹介します。

郡山布引高原風力発電所は、猪苗代湖の南、会津布引山の山頂に広がる布引高原にあります。
現地は標高1,000mを越える非常に風況のよい場所で、
麓から20分以上かけて車で山道を登り切った先には、
とても山頂とは思えない高原が広がっています。
高原からは猪苗代湖や磐梯山が一望でき、その高原の全域にわたって風車が建っている風景は、
とても日本とは思えないものです。
高原に人家などはありませんが、観光用の設備や道路が整備され、
風車の中を歩いて回ることができます。
ここに建っている風車は羽の先端までが最大で全高100mに及ぶ巨大なもので、
林立する風景は高原の景色としてみると壮観です。
もともとこの高原では、布引大根の産地として農業が営まれており、
ひまわり畑なども広がっています。
高原の農地で人家はなく、車でなければ辿り着けず、公共交通機関も通っていませんが、
こういった地理条件であればこそこれだけの大規模風力発電所を建設でき、
さらに観光地化もできているという特徴が見えてきます。
現地を訪れたのは週末でしたが、家族連れなどがひっきりなしに山を登ってくる光景があり、
高原の観光地として定着しているような雰囲気を感じました。

大規模風力発電所の環境面での課題は、自然環境への影響、生態系への影響、
景観への影響、生活環境への影響などがあります。
郡山布引高原風力発電所の場合も風車の騒音はかなり大きく、
正面200mほどの距離だと高度1,000m程度の飛行機の航路の下にいるくらいの音を感じます。
今後、再生可能エネルギー電力の固定価格買取制度スタートによって
国内で更に大規模風力発電所の開発が進むことが予想されます。
これらの問題と、どのように向き合っていくのか、
また建設地とは縁のない企業が大規模開発に乗り出してきた場合、
地元に対するメリットは何であるのかを示し、考えていくことが必要です。
圧倒されるような大規模風力発電所のある風景には、
そのような問題に向き合う重要性を改めて認識させられます。

道路が整備されて観光地化されている。

2MWの大型風車群。

ひまわり畑の中に建つ風車。

諸富町 Part4 再び、「婚礼」から家具を 見つめたい。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとりでも多くの方に足を運んでもらいたい。

山崎

ショウルームと併設して、いくつかお店が入っていますよね。
これらは、平田さんが経営されているのですか?

平田

いいえ。カフェ以外は、テナントです。
うちは家族経営ですし、家具を買ってくださいと営業に出向くわけでもありません。
だから、店舗の空きスペースにカフェを併設したり、テナントを入れることで、
ひとりでも多くの方に、この場所に足を運んでもらえるよう工夫したんです。

山崎

なるほど。

平田

いまは、陶芸家さんの工房兼ギャラリー「indigo」、
アーユルベーダーサロン「Pithika」、
ハンドメイドのバッグと小物の店「tikitiki」が入居しています。

山崎

この、バッグのお店、商品と場の雰囲気にすごくマッチしていてステキですね。
内装はどなたが手掛けられたんですか?

平田

そのむかし、父が建てたログハウスなんです(笑)。
それを、事務所に使い、その後倉庫になっていた場所。
しばらくはカフェとして営業していたのですが、空き店舗となり、
以前から tikitiki の商品に興味があったぼくから
「お店を出してみない?」と彼女にオファーをかけて、話が決まりました。

山崎

あ、ほんとうだ。奥にキッチンの名残りのようなスペースがありますね。
面白いなあ。商品もユニークだし、ファンが多そうですね。

平田

そう言っていただけるとうれしいです。
テナントを入れ始めたのは3年前のことなんですが、
ひとりでかんばろうとしていた気負いみたいなものが、
おかげでふっと軽くなった気がしています。

「tikitiki」のハンドバッグ

ハンドメイドのバッグや小物を販売する「tikitiki」。オリジナリティあふれるカラフルでハッピーな小物が、ログハウスの雰囲気にぴったり!

カフェの窓。イラストでお出迎え

「いわい家具」店舗の一角をカフェに。気軽に家具に触れられる場、ひとが集う場としてのカフェ。

いわい家具のカフェで提供されるピザ

もう一度、原点回帰できるだろうか。

平田

ひとが集う場として、カフェの存在も大きいと思っているのですが、
当初はやっぱり「家具屋がカフェ?」という目で見られていたし、
そういう意味を多分に含んで同業者から
「ピザ、儲かかってるか?」なんて声をかけられたりもします。

山崎

言われるでしょうね。そして、そのたびに葛藤もあると思います。
「つくらないデザイナー」の道を選んだぼくも同じだからよくわかります。
「でも、やりたい」ことがあるんだから、ふたりとも、仕方がないんです(笑)。

平田

そうですよね(笑)。
だからこそ、周りにうらやましがられるようなことをやりたいんです。

山崎

もうその方法は思い描いているんですか?

平田

はい。「いわい家具」の始まりは、祖父の代の婚礼家具です。
だから、もう一度、原点回帰できるのが美しいと思っているんです。

山崎

いいですね。

平田

問題は、それを現代にどう回帰させるか。

山崎

うん。おじいさんの時代とは婚礼のカタチもずいぶん変わってきていますし……。

平田

そうなんです。たとえば、このカフェで結婚披露宴をする。
新婦のブライダルエステは「Pithika」で。
引き出物や、こどもが授かったときの記念品は、
「indigo」の器や「tikitiki」のハンドメイド小物。
そうして、結婚や生誕の記念日のたびに、ここでお食事をしてもらう……。
そんな提案ができればいいのかな、と。

山崎

なるほど!

平田

となると、次に入居してほしいテナントは、不動産屋さんかな、とか(笑)。

山崎

団塊の世代の子であるぼくたちは、構造の変化に気づき、
かつてのやり方やモノの売り方に対して
「そうではない」と気づき始めた世代なんですよね。
そして、そういった考えがいよいよ実行できる年齢になってきた。
平田さんが、いま考えていらっしゃることは、
きっと、まちを元気にしていくきっかけになるはずです。

ピザ窯の薪に使う端材

「ピザ窯の薪には、家具づくりで出た端材を使っています」(平田) 「うわぁ、こんなぜいたくな木材の薪、見たことないですよ(笑)」(山崎)

対談の様子

ハコをつくるのではなく、ひとをつないでまちを元気にしたい。「地元に生まれ育った平田さんだからできることです」(山崎)

いわい家具の入り口。緑に囲まれている

緑に包まれた「いわい家具」。祖父、父が大切に守りついだ店舗と空間を、平田さんは、技術以外の面からもサポート、
プロデュースしようと考えている。

information

map

いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

石巻絵のパレード

石巻のまちを絵が歩く!
横浜・寿町発「絵のパレード」が、東北へ。

あれから1年半あまり。
東北のために何ができるかと、ずっと考えてきたのは、アーティストだけではない。
おそらく日本中の人が、ひとりひとり、それぞれ自分のサイズで考えてきて、
導き出した答えが、良かったのか悪かったのか、正解だったのか間違いだったのか。
判断を下すことはまだ難しい。

震災以降、石巻で活動を始めたアーティストたちを応援してくれている商店街の花屋さん。突然の歩く絵たちの来訪に顔をほころばせて喜んでくれた。

ただひとつ、言えることは、
この日、石巻に集まったアーティストたちには、実感があったということだ。
自分が描いた絵を、見てほしい人が石巻にいる。だから、見せに行く。
その人の家の前まで、その人のお店の前まで、キャンバスを持って。
「こんにちはー! お久しぶりです!」
「絵のパレードを、やっています!!」
突然の訪問に、驚いて出てきたその人の顔は、すぐに笑顔でくしゃくしゃになった。
楽器隊の子どもたちや近所のおばさんたちも引き連れて、意気揚々と行進は続く。
(ああ、みんな喜んでくれている。良かったー)と、アーティストたちはうれしくなる。
たしかな実感だ。これだけは、間違いない。

甚大な津波の被害に見舞われ、まるで防波堤のようにがれきがうず高く積まれた石巻の海岸沿いのエリア。「未来へ号」に乗ってやってきたアーティストたちがひまわりの種を植えていた。

2012年8月10日の青空の下。
人も家も消え去った灰色の大地は、月日を経て、生い茂る緑の野原になっていた。
そこにポツンと停まっている黄色いバス。
アーティストと絵を載せて東京からやってきた「未来へ号」だ。

「絵のパレード」の発案者・幸田千依。プールの水面と人とをテーマに絵を描き続けている。寿町でのパレードの後、台湾での滞在制作に臨み、現地でもパレードを行って手ごたえをつかんだ。

「絵のパレード」の発案者は、絵描き・幸田千依。
今年の正月に横浜のドヤ街・寿町で初めてパレードをして以来、
彼女にはたしかな実感があった。(Area Magazine #3
「ギャラリーや美術館へわざわざ足を運んで観に来てもらうのだけがアート表現じゃない。
アーティストが自分の手で絵を運んでまちを歩けば、思いもよらないことが起こる。
もっともっと、すごい出会いが待っている。いろんな場所で、絵のパレードをやりたい!!」

その思いに賛同したのが、東京・恵比寿で7月に開催された
『一枚の絵の力』展(アートセンター「island JAPAN」主催)の出品アーティストたち。
そして、「未来へ号」で全国をめぐる未来美術家・遠藤一郎だった。

どんな時代でも、どんな状況でも、
一枚の絵の力には伝える力があり、人の心を動かす力がある――。
『一枚の絵の力』展に込められた思いは、彼らの信じる道でもある。

石巻のまちとかかわるアーティストたちのあゆみとこれから。

今回のパレードには7枚の絵が出品された。地元の子どもたちも音楽隊として参加。住宅街や商店街をにぎやかに練り歩いた。

昨年の4月中旬、ひとりの女の子が石巻のまちとかかわり始めた。
彼女の名は“さっこ”といって、まちでは今やよく知られた存在である。
アーティストたちの間では、「つるの湯祭りのさっこ」としても有名だ。

当初、彼女がひとりで石巻へ来て始めたのは、
個人宅や商店街の泥除けや掃除、支援物資の整理配布、避難所や仮設住宅での手伝いなど。
あのころ、このまちで必要とされていたことに、何でも次々に取り組むことだった。

あのころ、多くのアーティストが「自分にできることは何か」と思い悩んで、
そのうち幾人かがさっこに導かれて石巻へやってきて、同じように取り組んだ。
幸田千依も、そのひとりである。
たくさんの出会いと、たくさんの体験が重なり、たくさんの思いが連なって、
さっこを中心とするアーティストたちは、
まちの人々といろいろなことを共有できるようになっていった。

といって、アーティストたちはまちの住人になったわけではなく、
思い思いに来ては出て行き、戻って来てもまた出て行くものなのだけど、
「またね!」と言い合って別れるとき、
その気持ちにウソはないとお互いに思い合える関係ができていったということだ。

震災の影響で休業を余儀なくされたが、今年の正月に多くの人々の後押しを得て再開した「つるの湯」。壁の大きな富士山の絵は、明るい前途を祈るアーティストたちによって描かれた。

たとえば、昨年末に開催された「つるの湯祭り」は、
まちの人々と、外からやってきたアーティストたちが、
それぞれさまざまな思いを交わしながらつくりあげたひとつの大きな出来事だった。
津波の被害に遭った銭湯「つるの湯」を再開させようと奮闘する人たち、
その晴れの日を盛大に祝おうと集まってくる人たち、
そして、期待と願望に満ちたみんなのパワーを受け止める一方で、
実は、少なからず不安も抱えていたおかみさんとご主人。
それでも、2012年元旦に初風呂は実現し、今ではまちで唯一の銭湯として、
訪れる人すべての心と体を温めている。

今回の絵のパレードの行進ルートの中でも、「つるの湯」はハイライトのひとつだった。
「久しぶりに会ったおかみさんは、笑顔だった。それがとてもうれしい。
〈つるの湯祭り〉やって良かった、がんばって再開まで応援できて、
ホントに良かったってみんなで話しました」と幸田千依。

——アーティストが来たら、楽しいことが起こる。
――石巻へ行けば、あの人たちにまた会える。
この関係が、まち全体に広がればもっといい。
今の石巻の日常は、昔の日常には絶対に戻らないけれど、
楽しいことを少しずつ増やしていくための力が、一枚の絵にはある。
そう実感する人たちが、もっともっと増えていけばいい。

パレードの後、
絵たちは石巻駅前商店街にある「日和アートセンター」のギャラリーの壁を飾った。
その後もアーティストたちがさまざまな展示やイベント活動を催し続けている。

老舗のフランス料理店のご夫婦にも絵を披露。パレードは住宅街を回り、細い路地を抜け、商店街を闊歩し、石巻の中心街をくまなく歩いて2時間以上も続いた。

「桜の森 夜の森」 プロジェクト移動写真展

ふるさとを想う若者が4t トラックに咲かせた、満開の桜。

福島県双葉郡富岡町にある夜の森地区は、福島県内でも随一の桜の名所として知られる。
明治時代、当時荒野だった土地を開拓・入植した記念に、
300 本のソメイヨシノを植えたのが始まりだという。
以来、地元住民によって植樹は続けられ、いまでは1500本以上が植えられている。
春になれば、まちじゅうで桜が咲き乱れ、
その風景は100 年以上にわたり、ずっと大切に受け継がれてきた。
現在、富岡町は原発事故の影響で避難区域内となっている。
原発事故が起きた後も変わらずに桜は咲いていても、誰もその姿を見ることはできない。

「夜の森の桜がまた見たいね」
「桜の森 夜の森」プロジェクトがスタートしたのは、
このプロジェクトの発起人である、宮本英実さん家族の何気ないひとことがきっかけだった。
宮本さんの母は富岡町で生まれ、結婚を機にいわき市小名浜に移り住んだ。
宮本さんはいわき市で育つが、休みとなれば富岡町の祖母の家に遊びに行っていたという。
伯母をはじめ、親戚の多くは、富岡町に住んでいたから。
宮本さん自身は、幼いころに数回見た記憶しかない夜の森の桜だったが、
母や伯母の話を聞いているうちに
「夜の森の桜を見せてあげたい」という思いが募っていった。

「よし、夜の森の桜を撮りに行こう」
そう決めた宮本さんは、同じく、小名浜出身で写真家の白井亮さんに声をかけた。
「もともと、ふるさとの写真は撮りためていたんです。いつか何かのかたちにしたいなと。
そして、震災が起きた。それでも変わらずにある普遍的で美しい景色を撮っていましたが、
何かそれを通してふるさとのためにできないかとも考えていました。
それで宮本さんに写真を見てもらったのがきっかけで、
今回お話をいただいたんです」(白井さん)
宮本さんと白井さんは桜の満開の時期を予測しながら、
4月下旬に特別な許可を得て桜を撮影。幸いにも満開の桜を撮ることができた。

Photographed by Ryo Shirai

左から、発起人の宮本英実さんと伯母の舛倉和子さん、母の宮本邦子さん。

しかし撮影するも、まだその写真の発表方法については何も決まっていなかった。
いろいろな方に相談していくうちにFMラジオ局J-WAVEが協力してくれることになり、
急ピッチで「桜の森 夜の森」プロジェクトが進められた。
一方向的に見てもらうのではなく、
ダイレクトに対話できるような発表のかたちを模索していた白井さんと宮本さん。
一番の思いは「避難している富岡町住民の方々に見てもらいたい」ということ。
そこであがったのが、4トラック内での展示だった。
ほどよい広さが確保でき、そのまま移動もできるので、
届けたい人のところへ桜の写真を運べる。
運送会社の株式会社ウインローダーの協力を得て、
8月に福島県内の4会場で「桜の森 夜の森」移動写真展が開催されることになった。

想像を超える、地元の方のあたたかい反応。

編集部が訪れたのは、8月25日に行われた、いわき市の会場。
いわき市は富岡町と同じ浜通りと呼ばれる海沿いのエリアに含まれ、
富岡町の人々が避難している仮設住宅がある。
それが、午前中の会場となった泉玉露応急仮設住宅だ。
駐車場に停められたトラックの荷台が大きく開かれ、
真っ白に塗られた空間には、満開の桜の写真が展示されていた。
少しでも素敵な空間に仕上げたいとトラック内を補修したり、
ペンキを塗る作業はすべてスタッフで行ったのだという。
10時のオープンから、仮設住宅に住む方々や周辺の住民が駆けつけた。

「感激しましたよ」と話してくれたのは、
生まれも育ちも夜の森という猪狩(いがり)ミユキさん(89 歳)。
「いまの桜並木だってわたしは植樹を手伝ったのよ。
小さいころはね、遠足って言えば、夜の森公園の桜。
最近はさくらまつりのよさこい(踊り)をみんなで見に行ったり。
もう何十年って付き合ってきた桜だから、本当にうれしかった」と涙をうかべた。
一緒に見に来たという川口正子さん、細山美智子さんも口々に
「また夜の森の桜が見れてうれしかったです」と話していた。

右から猪狩さん、川口さん、細山さん。仮設住宅では毎日イベントがあるから楽しみにしているのだという。

「桜の森 夜の森」プロジェクトのポストカード。3枚セットで530円で販売している。

クローズの時間が近づいても移動写真展には、
またひとり、またひとりと展示を見に来るお客さんは絶えない。
何かを確認するように、静かに写真を見つめ、
口から「きれいだね」というひと言がこぼれ落ちる。
お金を持ってこなかったからというおばあちゃんは、
自宅に帰ってからまた戻ってきて、大切そうにポストカードを購入していた。

今回開催した4か所のなかでも、やはり、
もともと富岡に住んでいた人が多く住むこの泉玉露応急仮設住宅では、
来場者からの強い思いが伝わってきたという。
「来ていただいた方は、難しいことを言うわけではないんです。
ただ、“キレイだね”とか“もう見れないのかな”とか。
でも、それだけで、その言葉の裏にどんな思いがあるのか伝わってきました。
みなさん、涙を浮かべながら見ていて、
それはもう自分たちが想像していた以上の反応でした……
こんなにも、富岡町の人にとって夜の森の桜が誇りだったんだなと」
もちろん、この桜の写真を見ることで、
うかぶ思いは決してうれしい気持ちだけではない。それでも、
「“展示してくれてありがとうね”とみなさんに言われると、
やった意味はあったのかなと思っています」と宮本さんは言葉を続けた。

「最初は桜の写真を撮影すること自体に迷いもあったんです。
警戒区域に行くことも、写真を撮ることも。
でも写真をみんなで選び、仕上がったプリントを見ていく過程や、
来ていただいた方の反応を見るとやってよかったなと思えました。
みなさんキレイな写真だって褒めてくれるんです(苦笑)。
“自分が知っている桜よりキレイ“だと。
“一時帰宅したときに見たまち並みよりもきれいに写っているから、
以前の夜の森に帰れたみたい”とも言われました。
希望なんて大袈裟なことは言えませんが、少しでも元気づけられたのかなと思っています」
白井さんはそう静かに話し、iPadに入っている、展示しきれなかった写真を見せてくれた。

午後は、市内のアクアマリンパークという市民の憩いの場にトラックが移動し、
ここでも多くの来場者が足を止めていた。

来場者の多くが自分の思い出を確かめるように、一枚一枚じっくりと桜を見ていた。

いわき市内に住む、白井さんのはとこの陽悠(ひゆう)くんがお母さんと一緒にやってきた

「こうやって咲いてるんだから、自然てすごいね。来年は……見にいけるのかな」とうれしそうだけど、どこかさみしそうもに話すのは泉玉露応急仮設住宅に住む半谷光子さん。

わたしたちの地元のことだから。

今回の「桜の森 夜の森」移動写真展の母体となっているのが、
宮本さんが代表をつとめる福島県内の地域活性プロジェクトを発信する「MUSUBU」だ。
メンバーは宮本さんと末永早夏さん。ふたりは、震災直後のボランティア活動をきっかけに
「MUSUBU」を立ち上げ、これまで音楽イベントやワークショップなど、
いわき市を中心に開催してきた。
「私、よく『いわき』とか『福島』ってネットで検索するんですけど
全然いいニュースが出てこないんですよ。それが事実だとしても、
地元の人間としてはやっぱり悲しいんですよね。
悪く考えればきりがないと思うから、私は少しでも楽しみを見つけたり、
楽しめる機会をつくっていけたらと思っているんです」と宮本さんは朗らかに話す。
「桜の森 夜の森」プロジェクトはMUSUBUの活動のひとつとして、
これからも続けていくという。

「次は今回のプロジェクトで撮影したもので写真集をつくったり、
国外での展示方法を考えたりと、どういうかたちが
一番よいかを模索しているところなんです」と白井さん。
宮本さんも、「まだ夜の森のことを知らない人たちにもこの美しい桜を届けたい。
海外の人とか。単純にこの美しさを知ってほしいですね。
それをきっかけに福島のことを何かまた想ってもらえたりしたらいいな」と、
次のステージへのビジョンを語ってくれた。

とは言え、宮本さんも末永さんも白井さんも、本業の仕事のかたわらに、
MUSUBUや「桜の森 夜の森」プロジェクトの活動をしている。
続けるのは大変では? と伺うと、
「誰に言われているわけじゃないから、辞めようと思えばすぐ辞められるんですが、
自分たちが楽しいから続けていられるんです。
自分たちの地元だから、楽しくしていきたいですよね」と末永さんは笑顔で答える。
白井さんも「いわき市出身として福島県で起こったことに対して
何かしたいという思いがやっぱりあるんです」と力強く語る。
「こうやって東京から来た人にも
“大変そうだね”って思われるんじゃなくて、“楽しそうだね”って思われたい。
いわき市は、本当はいいところいっぱいあるんですよ」
とにっこり笑い、宮本さんが言葉を添えた。
「桜の森 夜の森」プロジェクトは今後も少しずついろいろな場所で巡回してく予定だ。

(株)ウインローダーのトラック。裏側に書かれたイラストは、ウインローダーが7月に開催したワークショップで福島の子どもたちが描いたもの。偶然にも「富岡は、負けん」という文字が描かれていた。

左から白井さん、末永さん、宮本さん。3人は偶然にも同じ小名浜出身だったという。

訪れた日は、夏休みまっただ中の日曜日。午後の会場となったアクアマリンパーク内にある「いわきら・ら・ミュウ」では音楽イベントが行われていて、それを楽しみに多くの人が訪れていた。

information

「桜の森 夜の森」プロジェクト移動写真展

主催:福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU 、J-WAVE 81.3FM
撮影:白井亮
ビジュアルデザイン:渡辺俊太郎(BLUE BIRD d.)
協力:株式会社ウインローダー、
富岡町生活復興支援センター「おたがいさまセンター」原田大輔、富岡インサイド
※MUSUBU Online Shopで「桜の森 夜の森」ポストカード販売中
http://musubu.me/

profile

HIDEMI MIYAMOTO
宮本英実

福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU代表。1984年福島県いわき市小名浜生まれ、東京在住。高校卒業後に上京、音楽プロダクションでマネージメント業務を経験後、レコード会社に勤務し宣伝業務を経験。現在はフリーランスでPR・広報などを行う。MUSUBUの活動の為、東京と福島を往復する日々を送る。

profile

SAYAKA SUENAGA
末永早夏

1981年福島県いわき市小名浜生まれ。福島高専3年修了後、単身渡英。イースト・アングリア大学で発展途上国の開発について学ぶ。帰国後、地元企業へ就職するも、途上国への想いをさらに強めることになり、2009年(株)ethicafeを設立。フェアトレードを通して世界の貧困問題と奮闘中。http://www.ethicafe.co.jp/

profile

RYO SHIRAI
白井 亮

写真家。1979年福島県いわき市生まれ。2003年大阪芸術大学写真学科卒業後、電通スタジオ勤務を経て、2007年より上田義彦氏に師事。2011年に独立しフリーランスとして活動を始める。雑誌、広告などの撮影を手がけながら作品を撮り続けている。mail@ryoshirai.com

諸富町 Part3 ソフトから始まるまちづくり。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとをつなげば、まちも動く。

平田

ぼくも先ほどじぶんのことを組合の異端児だ、と言いましたけれど。

山崎

ええ。

平田

おやじもずいぶん変わり者だと思います。
いまでさえ「手づくり」があたりまえの時代ですが、
昭和好景気に生きてきたおやじの世代では珍しかったはずなんですよね。
「これ売っとけばいいだろう」というようなことを過信せず、
じぶんのやり方を貫いてきたんだと思います。

山崎

ぼくも先日、おとうさんとずいぶんおはなしさせていただいたので、
わかるような気がします。

平田

なんだかんだ言って、アタマが柔らかいし、
ぼくのやることも黙って見て見ぬふりをしてくれている。
そういうところは感謝しているし、ほんとうに恵まれていると思っています。

山崎

ありがたいですね。そういえば、入り口横の大きな木を使ったツリーハウスも、
おとうさんが作られたものだとお聞きました。すごくロマンがある。

平田

そうなんです。木を扱う家具、インテリアのまちに並木がないのは
おかしいだろうって、店の周りにたくさん木を植えたのもおやじです。

山崎

うーん、いいはなしだなあ。

平田

すぐ近くにある平田椅子製作所さん、飛鳥工房さんも、
それぞれにがんばっている。うちだけでなく、このムーブメントを
うまくつなぐことでまちづくりができればと考えています。

山崎

あ、せっかくだから飛鳥工房さんにもちょっとうかがってみましょうか。

木のおもちゃ飛鳥工房

木のおもちゃ飛鳥工房。廣松利彦さん、美紀さん夫妻が娘の飛鳥ちゃんのために作った木馬からはじまった、安心・安全な木のおもちゃのメーカー。http://www.asukakoubou.com/

次の世代のためのタネを蒔くこと。

山崎

こんにちは。急にすみません。

廣松

いえいえ。大歓迎ですよ。

平田

こちらは、娘さんの誕生を機に、
木で作るこども用の玩具の制作をされているんです。

山崎

すてきですね。

廣松

その娘も、もう19歳になりますが(笑)。

山崎

もうそんなになるんですか!

廣松

はい。それで、ちょうど、このショップの改装や拡充を
考えているところなんです。たとえば、このすぐ隣の空き地に
地域のこどもが安心して遊べるログハウスを作ろうか、とかね。
こども向けのものづくりワークショップもやりたいですし。
たとえば、むかしの駄菓子屋さんのように、
地域のこどもが学校帰りになんとなく立ち寄ったりしたくなる、
おとなもいて安心して遊べるような場所が理想なんですよね。

山崎

いいですね。次の10年のための構想。

廣松

たとえば、こども向けの木のオモチャづくりのワークショップをするでしょう。
そうすると、普段オモチャを大切にしない子も、
じぶんが作ったものは、笑っちゃうくらい大事にするんです。

山崎

ぼくらがやっているまちづくりも一緒ですね(笑)。
いかに関わって、大事だと思えるものを作るか。
加えて、たくさんのものを作る時代じゃないからこそ、
従来あるものにも、いかにあたらしい関係性を作るか……。

廣松

ええ。
もともと父の代から受け継いだ「廣松加飾」は家具のパーツを製作する会社で、
当初はわたしたちだけ生きていければと思っていました。
でも、次に修理をするひとがいてくれないと成り立たないんだな、と。
そう思うと、ちゃんと次の世代を育てていかないといけないんですよね。

山崎

そうですね。
まちをつくるときに、まずハコものを作りたがるケースも多いのですが、
ここではひとの顔がちゃんと見えているから、ひとをつないでまちをつくれる
というのはとても大きなメリットのように感じますね。

(……to be continued!)

飛鳥工房のショップ

「廣松加飾」の一角に、かわいい木のおもちゃがならぶ飛鳥工房のショップを併設。

かわいい木馬

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんと談笑

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんとともに。「学校でも家庭でもない、こどもたちが集う場所を作りたいですね」と夢を語る廣松さん。

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

気仙沼・男山本店 つながりの地酒。

1912年創業の老舗酒蔵を襲った震災。

宮城県気仙沼市の内湾。
ここは、フェリー乗り場の桟橋が一部を残して海に沈んでいるほかは
瓦礫もきれいに整理された地区だ。
しかし、そんな内湾の海沿いに、ひときわ目を引く建物が倒壊したまま残っている。

この建物は、1912年創業の老舗酒蔵「男山本店」の社屋兼店舗。
国から有形文化財の指定も受けている、歴史ある建造物だ。
もとは木筋コンクリート3階建てだったが、
今は1、2階が潰れて無くなってしまっている。

「震災当時、我々のような直接酒造りに関わるメンバーは店舗近くの酒蔵にいました。
ザーッという波の音と悲鳴を聞いてすぐに、高台に避難したんですが、
山の上から見えるはずの店舗の屋根が、その時にはもう見えませんでした。
あそこまで波が来たのかなと思ってよく見ると桟橋とか、
動くはずのないものが動いている。
驚きとか悲しみとかよりも、夢じゃないのかという気持ちでした」

そう語ってくれたのは男山の副杜氏、柏大輔さん。
気仙沼に生まれ、大学卒業後の就職先で酒類の販売に関係したことがきっかけで、
お酒の造り手となった。男山では、ブログの更新も担当している。

「震災当日は、すぐに帰れると思っていました。
明日は子どもの誕生日プレゼントを買いに行かなきゃなと思っていたくらいだったので、
本当に呑気なものでしたね。
ただ、夜になって火が回った時に、すごいことになっていると気づきました。
はじめて怖いと思ったのも、その時です」

車の中で一夜を明かした翌日。
酒蔵に戻ると、主力銘柄である「蒼天伝」が発酵途中の醪(もろみ)の状態で
無事に残っていた。
生き物とも言えるお酒が搾りの作業を経て完成に至るには、
この状況下でも目を離すことが許されない。
酒蔵には2人の社員を残し、決死の対応で発酵を見守った。
そして、約10日後に新酒の上槽日を迎える。

しかし、電気、ガス、水道はまだ復旧しておらず、
従業員の中にも親や兄弟を亡くした者が少なくない。
この時、前年から仕込みを続けたお酒の完成をあきらめる覚悟もしたという。

「まわりの人がまだ水も電気もない生活を続けている中で、
我々は洗い物をするための水を手に入れようとしているわけですから、
準備が出来てもすぐに気持ちを切り替えられないだろうと思っていました。
こんな状況の中で仕事、ましてや酒なんて造れない」

その時、周辺の人々から応援の声が挙がった。
「地元の生産者として、気仙沼を盛り上げてくれ」
「電気も水も提供するから、是非とも続けてくれ」
従業員達は、この声に背中を押されるかたちで、搾りの作業を実行。
約1600本分の「蒼天伝」が完成した。

男山の社屋兼店舗。目の前に気仙沼湾が広がる。

高台にあった酒蔵も築100年を越える建物。震災の被害は免れた。

震災当時は、タンクに氷を巻き付けて温度調節を行ったそう。

全国から寄せられた応援に応えたい。

「そこから先は怒濤の忙しさで、休みもなく毎日ふらふらな状態。
しかし、ほかの製造業はほとんど動けない状況になっていたので、
私達がやるしかないという使命感で乗り切りました。
あとはなにより、全国の皆様からメールや電話で寄せられた、応援に、
応えたいという気持ちが強かった。
うちは小さい会社なので、市内での流通がほとんどだったのですが、
地元酒販店さんのほとんどが被災し、すぐに商売を再開できる状態ではなかった。
それでも商売を続けることができているのは、
震災をきっかけにできた多くのご縁のおかげです」

それから1年数か月がたち、激務からは解放されつつあるが、
全国から届く励ましと、営業を再開した地元酒販店のために、現在も懸命に出荷を続けている。

「気仙沼を全国に発信するとは言っても、私たちの本業はお酒を造ること。
気仙沼の地酒をできるだけ多くの人に届けたいし、楽しんでもらいたい。
それが、結果的にでもこのまちのためになれば本望です」

震災後に入社した伊藤さんは、元漁師だ。

蒼天伝をはじめとした男山のお酒は、ホームページでも購入可能。

諸富町 Part2 継ぎたくなかったのはなぜか。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

あわよくば、家から逃げ続けたかった20代。

山崎

いま、おいくつでしたっけ。

平田

37歳です。

山崎

学校を卒業してすぐ家業に就かれたんですか?

平田

いいえ。地元の高校を卒業して、カナダへ行きました。
いわゆる遊学というやつです。とにかく、家を出たい一心という感じで。

山崎

そうだったんですね。

平田

日本に戻ってきてからも、同級生たちはみんな外に出ていなくなっているし、
そんな佐賀に戻るのはつまらないと思い込んでいました。
だから、帰国後もしばらく沖縄や東京を転々としてましたね。

山崎

しごとは?

平田

バイト暮らしです。長男なのに。

山崎

長男なのに(笑)。

平田

弟が2人いるので、ぼくがフラフラしてる間に、あわよくばどちらかが
継ぐと言い出してくれないかなぁなんて、都合のいいことを思ったりして。
でも、弟のほうが先に外できっちり就職を決めてきてしまって(笑)。

山崎

もう逃げられない、と。

平田

そんな気持ちのまま戻ってきたんで、はじめのうちはだから、
全然やる気のないぐうたら社員。いま思い返せば、ほんと、よく雇ってくれたなと。
ぼくだったら、絶対雇いたくない(笑)。

山崎

でも、お客さんに育てられて、結婚も考え出すようになって、変わったんですね。

平田

はい。3年ぐらいかかりましたけどね。
大きなきっかけになったのは、ちょうどそのころ、
隣の大川市で行われていたインテリア塾に通い始めたことでした。

山崎

なるほど。はじめは、橋の向こうの大川のひとたちと繋がったんですね!

平田喜利さん

父の平田喜利さんはこの道45年の63歳。受注家具を中心に、「幸せになる家具」を作り続ける。

家具の設計図

設計図にたくさんの道具、年月をかけて集められたこだわりの木材……店の裏に併設するこの工場から、家具が生まれる。

継ぐこと=作ることではないと気づいて、楽になれた。

平田

そこに集まるひとたちの熱意に触れたころが、すごくたのしくて。
それぞれの職場の枠組みを離れて集うための場所を作りたくて、
生まれたのがこの2階のフリースペースなんです。

山崎

いいですね。まさに、おとなのための空間。

平田

彼らとここで関わっていくうちに、技術も知識も熱意も、
すべてが到底かなわないと気づくんです。
父が家具職人ですから、継ぐ=作ることだと、あたり前に思っていたけれど、
父にも仲間たちにも、かなわないなって。

山崎

うん。

平田

そんなときに、テレビかなにかで、北野武さんが
「周りのひとが作ってくれる。ぼくにはイメージがあるだけだ」
というようなことを言ってたんです。これか、と。
ひとりで抱え込まなくていいんだ、と。

山崎

自分の役割のようなこと?

平田

そうですね。ショウルームにある家具は、ほとんど父の仕事。
ぼくが職人として手掛けるのはオーダーメイドの一部だけで、
おもに全体のプロデュースにまわっています。

山崎

そこも、ぼくと一緒だな。ひとの作ったもので、なにができるかを考えよう、と。

平田

山崎さんにそう言われると、いちいち鳥肌が立ちますよ(笑)。

山崎

だからよくわかるんですけど、葛藤や敗北感がないわけではないんですよね。
「でも、やりたい」ことが出てきてしまったから振り切るしかない(笑)。

平田

その通りです! 当然ながら、職人は「いかに作るか」ということを追究し、
こだわって考えるひとたちばかりですから、組合でもぼくは明らかに異端児です。
ことばでは、なかなか説明できないのももどかしくて……。

山崎

そこはもう、やってみせるしかないでしょう。

平田

ええ。最近、そうだと気づきました。

山崎

それで、喜んでるひとの顔を見せるのがいちばんいいんだと思います。

(……to be continued!)

仲間と集うために作ったフリースペース

平田さんが仲間と集うために作ったフリースペース。壁には友人がここでライブペインティングした絵画、階段上には基地のようなスペースがふたつも!

フリースペース2階のテーブル

対談の様子

「もとは作り手だった、というところが一緒。なんだか共感することが多いですね」(山崎)

平田一成さん

「家具を作るだけでなく、周りをとりまく環境をプロデュースする役目を担いたい」(平田)

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・後編

3.11以降の生き方、うけつぎ方を問いかけてみる。

2012年8月11日。肘折温泉の外れにある「いでゆ館」ゆきんこホール。
東北芸術工科大学の准教授で、「ひじおりの灯」アートプロジェクトの
担当教員でもある宮本武典さんが提起したイベントが
「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」。
働き方研究家・西村佳哲さんがファシリテーターになり、
山形の5人のカルチャーリーダーたちと語り合う、約4時間のミーティング。
会場には、約100人の、学生たちを中心とする若者が集まった。

なぜ、このミーティングを行おうと思ったのか、
まず、宮本さんと西村さんが対話する。

働き方研究家の西村佳哲さん(左)と東北芸術工科大学准教授の宮本武典さん。

Talk1 宮本武典(東北芸術工科大学准教授)×西村佳哲
<どうしてこの企画を?>

西村

今日のテーマは、3.11東日本大震災後の東北、山形を
どううけつぎ、生かしていくか?
宮本さんは震災で変わったのだと思っている。
そして今日のゲストは山形県の文化的リーダー。
宮本さんは、このひとたちが変わったように見えるのですね。
家業や、立ち上げた仕事へ意欲を持つひとたちの居所が
変わらざるを得なかったといったことも含めて。

宮本

1年半前の東日本大震災。また肘折では、
外からの往来をつなぐ幹線道路の地滑りによる交通の遮断もありました。
肘折という場所は、地域と大学とが一緒になって、
地域を考えていくひとつの入り口。
これまで100人以上の学生が参加、通い、学んできたのですが、
3.11以降起こったことは、地域とアートでは括りきれない出来事。
学生たちにとっては、これからなにを作ったらいいのか?
が今日のテーマでもあります。
ただし、おそらくアートやデザインを学ぶ学生たちだけでなく、
自分も含めて、この出来事によって、
私たちは、生活全般を作り直さなければならない、
という状況にあるのではないかなという思いがあります。

西村佳哲さんにファシリテーターとして来ていただいたのは、
西村さんの本『いま地方で生きるということ
がきっかけです。
震災後の山形をどううけつぎ、生かしていくのか?
それぞれの生活や仕事でうけついだもの、うけつぎたいものを、
うかがってみたかった。
復興支援の活動を学生たちとやっているのですが、
あるまちで象徴的な光景を目にしたんですね。
そこは震災によって集落は消え、高台の神社だけが残っていた。
神様だけがそのまま。
アートは、次になにをつくるかという、
新しいものへ向かうことが多いものですが、
ここになにか新しいものをというのではなく、
過去を呼び出す、うけつぐことのほうが重要なのでは
という思いが生まれたんです。
今日のゲストは、前の世代をうけついだひとたち。
でも、ストレートに“うけつぐ”ということが
難しくなっているとも思うんです。
“うけつぐ”と“呼び出す”はニュアンスが違いますが、
土地やひとの歴史にもっと深く感度を上げて、
以前からあるものをカスタマイズしながら、
いまの時代にあったかたちで、うけつぎ、呼び出していく行為。
その“うけつぐ”現場、“呼び出す”現場が
どうなっているのかを知りたいんです。

西村

宮本さんから見て、今日参加してくれている5人の方々は、
理想を実現している印象なんですか?

宮本

んー。いろいろ直面していると思うんです。
でもけっして、「しかたないよ」ではなく、
自分で仮説を立てて、受け身でなく対応している。
それによって、なにかに直面していると思うんです。
まさに、そのことは、アート、農業、観光などに携わる
ひとびとが、業種を超えて共有しなければならないものです。

西村

どう生きていくか、働いていくか。
その実践を語ろうというのは、成功例でこのようになりましょう
ということではけっしてなくて、どう考え、喜び、しんどいか。
おそらく今日は、それを報告してほしいということなんでしょうね。

宮本

問題を発見する能力だと思います。
アートでもほかでも、それがないとピントがあっていかない。

西村

うまくいっている部分というより、期待しているのは、
課題をどう捉えているか知りたい
ということなのかもしれませんね。
今日、みなさんが集まった意味は。

Talk2 渡辺智史(ドキュメンタリー映画作家)×西村佳哲
<山形でドキュメンタリーを撮り続けることは可能か?>

渡辺智史(わたなべ・さとし)
1981年山形県鶴岡市生まれ。鶴岡南高等学校卒業。
東北芸術工科大学デザイン工学部環境デザイン学科卒業後に上京し、
映画制作会社に勤務後フリーとして活動開始。
2011年に映画『よみがえりのレシピ』を完成させる。

西村

最初のゲスト。渡辺智史さんです。
まず、今日のテーマを受けての自己紹介を。

渡辺

私は東北芸術工科大学に1999年に入学しました。
建築に憧れ、環境建築を専攻。
2000年に大学で東北文化センターが立ち上がり、
その活動の一環で、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に参加。
世界中から制作者が集まり、話を聞くというまたとない機会で、
自分の中にひとつ、ドキュメンタリー映画の可能性
という気持ちが芽生えたんですね。
2001年、大学3年生のときです。
9.11のNYテロが起き、その映像を見た瞬間、
言葉では表せない恐怖感を覚えた。
大学の授業は、体系だったものを教えるもの。
では、目の前で起きたことに大学の学問はどう答えられるか?
という自分の中の課題もそこで生まれました。
その後も、世界中からさまざまなドキュメンタリー映像が集まり、
その濃さに驚いた。市民がビデオを持って作品をつくれてしまう、
作家と市民の境目がなくなった、と思った。

そうして、ぼくは映像の世界に入っていくのですが、
山形のどういうものを掘り下げるか。
自分が探っていたいものは農村だったんですね。
そして、初めて監督した作品が
湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』。
(2009年廃校になる大蔵村立肘折小中学校の
廃校を迎えるまでのドキュメンタリー)
青年団や地元のひとたちと、映画を撮れた。
映画制作が、撮って終わりでなく、上映にも関わる。
それを体感できたのは貴重な体験でした。
つくるだけでなく、届けること。
ただ、一方で、経済的には成り立たない面もあることに
直面するわけです。
今度新作を撮りました。
よみがえりのレシピ』という作品で、
テーマは“在来作物”。
その土地特有の野菜は、貴重な地域資源でもあり、
生物多様性の豊かさでもある。
その種を守り、つくる、その在来野菜に光を当てて
メニューを提供する山形イタリアン「アルケッチァーノ」の
シェフ奥田政行氏も登場します。
この製作は、市民有志で製作委員会を構成する
“市民プロデューサーシステム”というかたちで実現しました。
一口1万円の資金を提供する。
上映されることでどうか関わっていけるかなど
トークショーなどもしながら、つくってきました。

西村

この映画は、みんなが見たいと思ったらどうすれば?

渡辺

10月20日からユーロスペースで公開されますが、
肘折でも、東北芸術工科大学でも上映します。

西村

渡辺さんの関わり方は、作品をつくるだけでなく、
届けることもする。そこに活路を見出している。

渡辺

売れる映画というのは製作面でも上映でも
だれかに面倒を見てもらえますが、
ドキュメンタリー映画というのは、
どこか在来作物のようなところがあって、
小規模で、手を差し伸べてもらえることがなかった。
なんとか自分たちで再生産できるように、
経済活動のなかでも生き残れるようにしていきたいと思うと、
こうした手法になります。

西村

日本の戦後の映画興行システムとは違い、
多くのひとは食べさせられなくても、
少人数は生業を立てていけるようなイメージ?

渡辺

東京はフリーのチームの自在なつくり方ができる。
山形でも山形らしいそうしたかたちがつくれたらいいのでは
と思ってます。

西村

私は出身が武蔵野美術大学の工業工芸デザイン。
作品のつくり方は教わったが、つくり方以上のことは
教わらなかった。例えば、ポストカードをつくったとして、
どう届け、広め、稼ぐかを、大学では全く教えてくれなかった。
それは渡辺さんが専攻した建築でも?

渡辺

みかんぐみの竹内昌義先生のような、
現場をもちながら、教えてくれるひとはいますよ。
それは勉強になった。

西村

目の前で生み出されることを知るのはいいよね。
ロサンジェルスに建築を学び行っていた若い友人に
どんな授業を受けているのか訊いたら、
ちょうどその頃は、300人くらいの大きな設計事務所のひと、
10名ほどのアトリエのひと、ひとりでやっているひとなど、
いろんな建築家が週替わりで教室に来て、
仕事の進め方や成り立たせ方を教えてくれているって。
すごくいいなと思った。
渡辺さんは、東北を離れようという考えはなかったのですか?

渡辺

6年ぐらいは東京にいました。
映像制作の事務所にいたことがあるのですが、
そこでは、まず企画書を書いて、ゼロから始める。
そこで鍛えられました。
山形でやろうと思って、縁あって
『湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』を
つくることができたのですが、
その時、後ろめたさも感じたんです。フォーカスする場所について。
なので、『よみがえりのレシピ』というのは、鶴岡を舞台に、
自分の生まれた場所で映画をつくろうと思った。
それは、自分が距離を置いていた故郷と
関わり直すことでもあった。
ドキュメンタリーというのは、撮る側も、見る側も
学びのツールだなとつくづく感じます。
真剣勝負で関わることで、とても勉強になる。

西村

東京では離合集散ベースで作品制作はできるが、
山形でそれをやるのは難しいのかな?
ひとが少ないから?

渡辺

フリーランスで活動しているひとが少ないですね。
映画だけで食べていくのは難しい現実がある。
だけども地道に上映活動をすることで、
地域の観客としっかりした関係が生まれ、
継続して映画制作を応援してくれる土壌ができあがる。
そのためにも『よみがえりのレシピ』の上映活動を
地道に行っていこうと思っています。

西村

震災の前後で世界や認識は変わりましたか?

渡辺

ひとの動きが変わったと思います。
FacebookなどのSNSをやるひとが山形県内でも増えた。
故郷に帰るデザイナーもいる。そんなひとたちと、
ゆるやかな連帯の中から、
ビジネスの芽を見つけようとしています。
インターネットのことなどは、
地元にいるスペシャリストから知恵をいただいて、
進めていたり、ということが起こっています。

西村

それが聞けてよかった。

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・前編

山形県のちいさな温泉街でおきていること。

山形県大蔵村は、全国に44ある「日本で最も美しい村」のひとつ。
山形県のほぼ中央に位置し、JR新庄駅からならクルマで約30分の小さな村。
その村の中心部から、さらに山を越えたところ、
肘折火山の噴火が作ったカルデラに佇むのが肘折温泉。
月山、葉山などの山々を水脈とする銅山川の水は豊富で、
川沿いに寄り添うように並ぶ20余りの旅館や小さな温泉街の通りには、
水も源泉も惜しみなく流れ続けている。

開湯1200年と伝えられる肘折温泉は、
東北地方を中心としたひとびとの湯治場として愛されてきた。
風情のある旅館は縁側も開放され、
ひとびとはそこでのんびりと無駄話を楽しむ光景が見うけられる。
商店には、みやげものだけでなく、地場の山菜、日用品、食材が並び、
そして、毎朝5時には地元農家のばあちゃんが開く朝市も起ち、
自炊も含めた湯治文化が残っていることを感じさせる。
旅館のごはんも、滋味溢れる地元の食材を、
米どころ山形のうまい飯でいただく。美味しさをしみじみ堪能できる。

大蔵村四ヶ村地区にある棚田は、日本の棚田百選にえらばれ、夏にはほたる火まつりが行なわれる。

カルデラ温泉館に湧き出る炭酸泉。飲泉として利用すれば、胃腸や肝臓などの働きを良くしてくれる。

これが肘折温泉のメインストリート。旅館と商店が並ぶ、小規模な温泉街。

商店にはおみやげとしても自炊湯治にも使える地元の名産が並び、朝市も立つ。

ものの5分もあれば、端から端へと行き着いてしまう温泉街。
普通なら、高齢の浴衣姿の客がそぞろ歩く静かな湯治場であるはずが、
ここはちょっと違って、若者たちのグループや、若い家族連れやカップルの姿も多い。
その呼び手となっているのが、山形市にある東北芸術工科大学の活動。

肘折もかつてに比べると、訪れる客も減り、後継者の問題も根深くある。
そんな温泉街に2007年から東北芸術工科大学がアートプロジェクトを立ち上げ、
学生たちが訪れ始める。
アーティストが滞在して作品を制作するアーティストインレジデンスや、
『ひじおりの灯』と名づけられたプロジェクト。
これは今年で6回目を迎える。
肘折は夏や、秋の収穫を終えた農閑期には湯治客で賑わうが、
冬は3メートルほども積もる雪のなかで、ひっそりと、
本当に地元のひとびとだけがひっそりと家の中で暮らす土地になるという。
その雪が消え始める春先、
東北芸術工科大学の学生たち(あるいはいまでは卒業生も)が、温泉街にやってくる。
旅館に滞在しながら、旅館や店の歴史や物語を聞き、
それを月山和紙に灯ろう絵として起こしていくのだ。
その灯ろうは、毎年、7月終わりから9月にかけて、それぞれの家に吊るされ、
毎夜、灯が灯されて、観光客たちの目を愉しませている。

おそらく、アートには、つくられた作品によってひとを招く力だけでなく、
制作する過程の中で、土地の記憶を呼び覚ます力、ひとをつなげる力、
土地の伝統文化や資源を保全する力、その土地の価値を高める力があると思う。
そうした、アートの可能性を、学生たちと地元のひとびとが模索し、
協力し、実践する、大きな実証の場にこの肘折温泉はなっている。

温泉街の真ん中に、旧肘折郵便局舎の建物がある。
この昭和12年に建てられた洋館は、肘折温泉のひとつのランドマークで、
これまでの灯ろう絵のギャラリーを学生たちが運営しながら、
毎朝、はたきを持って、灯ろうの手入れをし、夜は灯ろうに灯をともす。

旧肘折郵便局の建物から始まる、毎年恒例の「ひじおりの灯」のイベント「肘折絵語り・夜語り」。

肘折には、いま学校がない。かつて、大蔵村立肘折小中学校があったが、
村の中心部の学校に統合され、2009年廃校となった。
それ以前ももちろん、中学を卒業すると村の子どもたちは、
さらに外の高校へ行き、その後の進学や就職によって
肘折をいったんは離れていくというケースも多いと聞く。
そして、ある時期に、家業を継ぐために帰村するかどうか選択する時がくる。

肘折でそば屋さんを営む、肘折青年団の団長の早坂隆一さんは、
大学院を出た後、東京のIT系の会社に勤め、2005年に肘折に帰り、家業のそば屋を継いだ。
東北芸術工科大学のアートプロジェクトや、
そのOBのドキュメンタリー映画監督渡辺智史さんの肘折での映画制作に関わる中で、
青年団の活動の輪を広げていった人物。
彼が語った言葉。
「ひじおりの灯というのは、この場所の、
地元の自分たちが見えていなかったものを見せてくれる活動。
例えば、この村に自然があるのはあたりまえのことなんですが、
それをひとつの作品というかたちで見せてもらえるのが新鮮だった。
外のひとたちの視線や体験が残したいものを照らしてくれる。
そして、そのこと自体も、残したい財産のひとつになっている気がします」

ある大学とある温泉集落。ここで営まれることの価値は、
次第に内外のひとびとを巻き込み、あるかたちを見せてきている。
これは、確かなこと。

諸富町 Part1 佐賀・諸富で 家具をつくるということ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

「日本一の家具産地」の、隣町。

山崎

はじめまして! ようやく会えましたね。

平田

先日は、せっかくお越しいただいたのに留守にしていてすみませんでした。

山崎

いえいえ。こちらが突然押しかけたんですよ。
前回は、お父さんに案内していただいたので、
今日は一成さんのお話をたのしみにやってきました。

平田

よろしくお願いします。

山崎

佐賀駅からタクシーに乗ってしまったので、地理がよくわかっていないのですが、
ここはもう福岡県との県境なんですね。

平田

そうなんです。ここは筑後川の中州にあたるんですが、
次の橋を渡れば、福岡の大川市というまちに入ります。

山崎

大川も、たしか家具で有名なまちですよね?

平田

ええ。むかしから、日本一の家具の産地といわれたまちです。

山崎

とすると、諸富に家具屋さんが多いのも、隣町の大川と関係が?

平田

ありありですね。少し前までは、この辺りまで、
エリアとして大川と認識されていました。
佐賀のひとにさえ「諸富の家具」という知られ方はしてこなかったと思います。

山崎

なるほど。

平田

うちも、本家は大川で婚礼家具をつくっていて、
父の代からそのショールーム的機能として、ここを設立したんです。

山崎

お。婚礼家具だから「お祝い」の「いわい家具」なんですね!

豊かな樹木に囲まれた「いわい家具」

国道208号線沿い。小さな森のように豊かな樹木に囲まれた建物が「いわい家具」。すぐ先の大川橋を渡れば、福岡県。

「いわい家具」の看板

店名は「祝い」に由来。一成さんの父である喜利さんは、無垢の木を使ったオーダー家具、創作家具の制作を得意とする。

「諸富家具」として、胸を張っていく。

山崎

筑後川にふたつの橋が架かり諸富にも企業が進出し、
お父さんがここに「いわい家具」を構えられたのが、
ちょうど右肩上がりの高度経済成長期だったというわけですね。

平田

そうですね。

山崎

だとすると、そろそろ代替わりの時期でしょうか。

平田

うちはまだ父が粘っていますけど(笑)、
諸富家具振興協同組合は現理事長が40代なので、全体的に若返りつつありますね。

山崎

後継ぎさんたちは、だいたい一成さんと同世代ですか?

平田

40代が多くて、ぼくはその世代のいちばん下ぐらいですね。

山崎

組合の規模はどのくらい?

平田

家具メーカーだけでなく、資材卸業者や木工機械メーカーなども含めて約30社です。

山崎

代替わりで、ずいぶん面白くなりそうですね。

平田

ぼく自身も、やっとやる気になったんで(笑)。

山崎

え、やる気なかったんですか(笑)。

平田

そうなんです。
25歳でやっと家業に戻ったんですが、入社しばらくは、我ながらぐうたら社員で。
今から思えば、よく雇ってくれたな、と。

山崎

それで、気持ちが変わったのはいつ?

平田

隙あらばサボっていた自分でも、納品先で「ありがとう」と喜んでもらえると、
やっぱりうれしいんです。
でも、そのことに気づくまでに、数年かかりましたよね。
お客さんに育てていただいたんだと、今はつくづくありがたく思っています。

山崎

いい話だなあ。ぼくも一緒だな。

平田

……え?

山崎

ぼくだって、そうだったはずなのに、人前ではついつい
「はじめからできてました!」みたいに語ってしまうから……。
正直にさらけ出さなくちゃ、と(笑)。

平田

あはは。山崎さんも一緒だなんて、なんだかうれしいですよ(笑)。
正直、結婚前ですね。ぼくがやっとちゃんと働こうと、こころを決めたのは。

(……to be continued!)

平田一成さん

「大川ブランドから脱却して、諸富家具としてのアピールを」(平田)

山崎亮さん

「世代交代で、まちが面白くなりそうな予感がしますね」(山崎)

「いわい家具」内観

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

滝川 Part4 第5回太郎吉蔵デザイン会議 を終えて。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

少しずつ、間接的に。でも確実にまちへ沁み出していく。

山崎

大きな蔵のなかに何人かのデザイナーが集まって
「あーでもない、こーでもない」と本音でしゃべる。
聴衆を意識したり、喜ばせたりしようと努力する必要がなく、
ただそこに集まったパネリストとの対話を楽しむだけでいい。
これは気が楽でいい。のびのびと、対話を楽しませてもらいました。
でも、蔵の外からは、なかで何が行われているのかわからないし、
この会議はそもそも滝川のまちに影響を与えようと意図されたものでもありません。
では、まちにまったく何の影響もないのかというと、そうでもないと思うのです。

会議には毎回、地元のデザイナーや起業家、活動家が呼ばれます。
そして、まず彼らの基調講演を受けて、
全国から集まったデザイナーたちが語り始めます。
彼ら地元の基調講演者、加えて地元の聴衆者が、
この場の対話の内容をそれぞれの日常へ持ち帰ることで、間接的とはいえ、
蔵の中で話し合われたことが少しずつまちへと沁み出していくことになるでしょう。

そして、毎年全国からデザイナーが集まって
蔵のなかで話をしているという事実は、
回を重ねるほど地元の人たちにもその存在が認知されるようになるはずですね。
「なぜ自費で?」「なぜ滝川で?」「なぜ蔵のなかで?」
こうした疑問は、じぶんたちのまちの価値や
今後のあり方を改めて考えるよいきっかけになると思います。

「地域の未来を考える会」「地元の元気を取り戻すために」と銘打った
シンポジウムや講演会も一定の価値を持つことは確かです。
でも、それをくり返せばくり返すほど、住民が受け身の姿勢になってしまい
「地元がお客さんになる」危険性も内在しています。
ところが、太郎吉蔵デザイン会議はそうじゃない。
住民が自ら動き出さなければ、情報が手に入らない。
それはほんの一部の人かもしれないけれど、
主体的で力強い行動が生まれる可能性を内在しているといえます。
こんな会議、どこにでもあるわけじゃないですからね。

第5回を数えた太郎吉デザイン蔵会議の会場

第5回を数えた太郎吉デザイン蔵会議。パネリストがじぶんたちで会場の椅子をセッティングするのもユニーク(写真左端は原研哉さん)。

会議中の山崎亮さん

参加申し込みはインターネットの告知のみで、2週間で定員に達したという。「のびのびと好きなようにしゃべれて、たのしかった」(山崎)

小さな田舎の小さな会議。その大きな希望と可能性。

五十嵐

今回も、議論には素晴らしいものがありました。
特に、山崎さんによる「つくることとつくらないこと」の真実、
この視点が議論に持ち込まれたことが
今年の議論の広がりと深さをつくりあげたと思います。
人と人がつながったときの力、激変する世界のスピードに対する態度、
さらにアジアの近未来についても、
情報と知恵と思考の大きな広がりと可能性に思いをはせることができました。
たくさんのおみやげが、心のなかに積み重なった濃密な2日間でした。

山崎さんのおっしゃる通り、
会議は地域の活性化を目指すために開催しているわけではありません。
「NPOアートチャレンジ滝川」としてはそういう活動をしていますが、
その一部である太郎吉蔵デザイン会議は、日本や世界が抱える問題、
本質的な問題についてデザインで解決できる方法、理念について、
滝川のような田舎で話し合われることの健康さを目指しているといえます。
とはいえ、昨年の基調講演者の金道泰幸さんが今年は事務局を手伝い、
新十津川町のお母さんたちが昼食を用意、
滝川の野口翔吾さんが野菜とお米の販売を始めるなど、
運営サイドも生き生きと成長し拡大しています。このような人たちを通じても、
私たちの思いがじわじわと地域につたわることも期待しています。

一方で、新滝川市長、教育長も昨年に続いてのご参加、
地元企業や滝川市と新十津川町の教育委員会の支援もいただき、
ある意味、会議は小さいながらもピークに達した感があります。
今後は、新しい魅力的な仕組みを考えるタイミングにあると考えています。
もちろん、パネリスト自身のための会議だという基本は変わりませんが、
小さな田舎の小さな会議であるから可能な仕組みと議論の高い質を維持しながら、
本音で話ができる環境をひき続き実現したいと話し合っているところです。

帰り際に原研哉さんが、この会議はかなり重要な会議になるかもしれないと
希望の言葉を残してくれました。
この希有な小さな会議を新陳代謝しながら、みなさんと共に、
さらなる高みを目指したいと思っています。

五十嵐威暢さん

真剣な表情で、デザイナーたちの意見交換に聴き入る五十嵐さん(写真奥)。

五十嵐威暢さん、山崎亮さん

パネリストと参加者が平等に交流しながら全員でつくる会議。「こんな会議はほかにはありませんね!」(山崎)(撮影:山口徹花)

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map

TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

滝川 Part3 アートが、まちの未来に どう関われるか。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

そして、太郎吉蔵の修復が始まった。

山崎

日本に戻ってこられたきっかけは?

五十嵐

終の住処だと思ってロスに家も建てたのに、44年ぶりに北海道から声がかかってね。
故郷が呼んでくれているのだからと、先生と同級生に会いに来ました。

山崎

滝川へ? いつごろのことですか?

五十嵐

2000年です。

山崎

まちの印象は、ずいぶん変わってたはずですね。

五十嵐

ええ。大嫌いなまちになっていました。ゆたかな、自然の美しい場所だけれど、
2代前に開拓された地ですから、やはり文化がない。
でも、同級生との再会が運命を変えたんですね。

山崎

では、太郎吉蔵の修復も、仲間のみなさんからの提案だったんですか?

五十嵐

そうです。ぼくたち兄弟が祖父から相続していた古い蔵は、
次の冬にも崩れるぞという状態だったんですが、
修復してコンサートをやりたいねえ、と。

山崎

改修設計は中村好文さんですね。

五十嵐

改修の費用は見積もりで3400万円。
NPOを立ち上げて助成金を申請しても、行政から出るのは2分の1。
滝川ではほとんどお手上げだったのですが、道内外から、
半年のうちに寄付などで残りの1700万円が集まって。

山崎

それはすごい。

五十嵐

というわけで、アメリカの家をひき払うことになるんです。

修復されてよみがえった太郎吉蔵

修復されてよみがえった太郎吉蔵(1926年竣工)。重厚な木の扉は、五十嵐さんの作品。

アートとデザインと、まちの関わり方。

山崎

なるほど。そういういきさつがあって、
「アートチャレンジ滝川」が生まれるんですね。

五十嵐

駅前のシャッター街は、このまま放っておいても空き地になる。
それならいっそ、札幌の大通公園に負けない公園にしたらどうか。
風景、ランドスケープを観光資源にしよう! というのが当初のコンセプトでした。
でも、のちに山崎さんの本を読んで、おおいに反省することになるんです。

山崎

反省?

五十嵐

全国のメンバーと共有したはずのこの夢に、サークル活動のような
地元の種や芽や根をうまく乗っけることができてなかったんです。
反省すべき大半の原因はここにあると、いまでは思っています。

山崎

なるほど……。

五十嵐

「紙袋ランターンフェスティバル」など、
うまくいったプロジェクトもあるんですよ。
冬のまちが生き返るようになるイベントで、これは実行委員会が発足して、
すでにぼくたちの手を離れるまでに成長しました。

山崎

資料によると10年も続いていますね。なぜ、これはうまくいったんでしょう。

五十嵐

始まりが市民ワークショップだったんです。雪に閉じ込められる長い冬に
たっぷりの時間をかけて、ひとがひとにその手法を教えていく。とくに、
子どもたちの作品は、とてもすばらしい。まさに、まちのひとが生んだアートです。

山崎

では、太郎吉蔵デザイン会議はどこからアイデアが?

五十嵐

「アートチャレンジ滝川」の主たる事業として、五十嵐アート塾があります。
はじめは200人集まったこのアート塾も、
回を重ねるごとにやはり参加者は減っていく。
そこで、ひとが集まる魅力は何だろう、そのための仕組みはどうすればいいだろう、
と考え抜いて生まれたのがデザイン会議。
スピーカーが主役だから、自腹でもやってくる。いわば、聴衆はおまけ。
このあたりの発想は、リチャード・ソール・ワーマンが創設した
当初の「TED(*1)」に影響を受けています。

山崎

なるほど、TEDですか!

五十嵐

足を運んでくださる聴衆を、おまけなんて言ったら失礼だけど。

山崎

いえいえ。ぼくも初めは聴衆として参加したわけですが、
ここで原研哉さんにも会うことができたし、とてもよい刺激をいただきましたよ。

(……to be continued!)

*1 TED:T=テクノロジー、E=エンターテインメント、D=デザインの意。全世界500名の招待者限定のカンファレンスとして、1984年、情報建築家のリチャード・ソウル・ワーマンによってモントレーで開催されたのが始まり。五十嵐さんは、1990年に行われた「TED2」にスピーカーとして登壇しているほか、ワーマンからの依頼でTED10までのタイトルの数字をデザイン。その数字を含むタイトル映像が、毎回の会議のオープニングを飾った。

五十嵐威暢さん

「最近やっと、地元の若いひとの参加が増えてきたし、あたらしく、母校の改修のはなしもある。やめなくてよかった」(五十嵐)

山崎亮さん

「やめなくてよかったですね。でも、ロサンゼルスの自宅から通われていたころはさぞかし大変だったと思います」(山崎)

「第5回太郎吉蔵デザイン会議」で展示された、紙袋ランターン

「第5回太郎吉蔵デザイン会議」で展示された、紙袋ランターン。中に、ろうそくを灯す。(撮影:酒井広司)

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TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

STUDY 導入ポテンシャル

自然エネルギーの宝庫、日本。

日本で自然エネルギーがどれだけ導入できる可能性があるのかを考えたとき、
可能性のある自然エネルギーには以下の様にさまざまな種類があります。
これらの自然エネルギーの可能性を考えると
日本はまさに自然エネルギー資源が豊富な国であることに気がつきます。

・太陽光発電
・太陽熱による熱利用および発電
・風力発電
・バイオマスの熱利用、発電および輸送燃料(バイオ燃料)
・水力発電(大規模なダム式の水力発電、小水力発電)
・地熱の熱利用および地熱発電
・波力などの海洋エネルギー

実際に、日本を地域別にみた自然エネルギーの導入ポテンシャル
(将来、導入が可能な発電設備の容量)は非常に大きいことが分かっています。
例えば、日本国内でも導入が進んでいる住宅用の太陽光発電では、
全世帯の7割程度の屋根に設置した場合、日本全体の発電量の10%程度に相当します。
さらに環境省による自然エネルギーの導入ポテンシャル調査では、
住宅用以外の太陽光発電、小水力発電、そして風力発電について
国内全域の導入ポテンシャルを推計しています。
太陽光発電については、工場やビルなどの屋根の上に太陽光パネルを取り付けるほか、
遊休地などさまざまな未利用の土地が日本全国で活用できることが示されています。
小水力については、水資源の豊富な全国の山間地域において導入が可能であり、
その導入可能量は1400万kWと推計されています。
風力発電については、従来から導入が進められてきた陸上について、
特に東北地域や北海道において導入ポテンシャルが大きく、
その導入可能量は、2億7300万kWと推計されています。
さらに現在、技術開発が世界中で進んでいる洋上風力については
北海道を中心とした地域で導入ポテンシャルが大きく、導入可能量は1億4100万kWと推計され、
陸上とあわせた導入可能量は4億kWを超えています。
これは、日本国内に現在ある発電設備の全設備容量を遥かに上回る量です。

この地域別の導入ポテンシャルを風力発電について見てみると、
北海道や東北そして九州に多くのポテンシャルがあることが、
さまざまな調査でもわかっています。
特に北海道では現在導入されている全ての発電設備(火力や原子力を含む)に対して、
30倍もの導入ポテンシャルがあるという調査結果となっていますが、
その豊富な自然エネルギーによる電力を、
エネルギー需要の大きい他の地域へ送る為の
インフラ(送電系統など)の整備が課題となっています。
その中で、陸上での導入に加えて洋上での風力発電の導入も期待されており、
日本国内でも技術開発や実証試験が始まっています。
さらに日本国内には、世界第三位の地熱資源による地熱発電や
地熱利用の大きな可能性があります。
産業技術総合研究所が2008年度に行った地熱資源量の評価結果では、
大規模な蒸気を利用した地熱発電の導入可能量が約2300万kWあります。
これは現在の設備容量の40倍以上に達します。
さらに日本には高温のため利用されていない温泉のエネルギーがあり、
それを発電に活用する温泉熱発電(バイナリー発電)の導入可能量は
約700万kWあると推計されています。

市町村別陸上風力ポテンシャル量と洋上風力ポテンシャルマップ(出典:一般社団法人 日本風力発電協会)

TOPIC GREENY岐阜

市街地民家における再生可能エネルギープロジェクト。

前回は、古民家における再生可能エネルギープロジェクトを紹介しましたが、
今回は、市街地の民家での再生可能エネルギープロジェクトを紹介します。
ともに、岐阜県が、環境省の委託費を得て行っている新エネルギーパークの事例となります。

GREENY岐阜と名付けられた実験施設は、岐阜駅から遠くない市街地の中にあります。
前回紹介した「電池三兄弟」、つまり、太陽電池、燃料電池、蓄電池の3つに加えて、
このサイトでは、小型風力発電を組み合わせていました。
管理を委託されているイビケン株式会社の服部哲幸さんにいろいろと説明いただきました。
まず、太陽電池は、2009年11月のコストで、
kWあたり60万円でSANYO三洋製のパネルを6.3kW購入したということです。
GREENY岐阜では、午後に電柱が常に太陽光パネルにかかっていて、
期待値の8割しか発電量が得られていないということです。
モジュールが直列になっているため、
一部に影がかかる場合でも全体の発電量が減少するということでした。
これから太陽光を設置する場合には、十分注意しなければならない点だと思います。
なお、最近は、モジュールを並列に組んでいる太陽光パネルも市場に出ているようです。
燃料電池のエネファームは、年間2000kWhで、
補助金85万円分を除いて100万円で購入ということでした。
ただ、燃料電池は蓄電池には直接つないでいません。
蓄電池は、太陽光パネルと小型風車の電力のみということになります。
太陽光パネルを付けている家庭では、燃料電池の使用によって電気代が減った分、
電力会社に売電できるので、
結果的に、間接的なインセンティブを与えることができるということになります。
リチウム蓄電池はSANYO製で、9.7kWh、500万円ということでした。
現在の価格水準は、4.15kWhで120万円くらいということです。
最大出力まで溜めて、使い切るという使用法だと耐用年数が短くなるため、
7割充電して止めて、使うという方法なら10年以上は持つようです。
つまり、耐用年数を考えると、7割までしか使えないということです。
この容量で、この建物で生活するためにぎりぎりのところということでした。
GREENY岐阜では、体験宿泊を受け入れているのですが、
最初の客に電力を使い切る可能性があることを伝えなかったところ、
蓄電池容量をすべて使ってしまったので、
その後のお客さんにはその可能性を伝えています。
そうすると、蓄電池容量を使い切るお客さんはいなくなったということです。
つまり、意識すればこの容量で生活できるということです。
ちなみに、照明はすべてLED照明で約3kWh。その他、テレビ、冷蔵庫、
パソコン、ゴパン(お米からパンをつくる装置)などが置かれています。
小型風力は、ゼファーのエアドルフィン4kWで160万円です。
しかし、年間27kWhしか発電していません。
年間500kWhくらい発電してくれると期待していたが、
屋根からの突き出し方が足りなかったということです。
また、小型風力を建物本体に付けてしまったので、
建物と共鳴して騒音が発生してしまったということです。
わたしが訪問したときも、
ほとんど発電していなかったのにもかかわらず、うるさく感じました。
太陽熱給湯器は置かれていませんでしたが、
太陽光パネルにたまった熱をファンで室内に持ってくる設備を設けています。
これは日中だけ使えることになりますが、
ファンで使う電力の10倍分くらい熱エネルギーが回収できるということでした。
全体をコントロールするHEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)は、約500万円です。
服部さんは、直流のままバッテリーから家電に流すことができれば、
もっと効率が良くなり、LEDも直流で点くため
DC家電(直流で動く家電)の整備が必要と指摘しています。
GREENY岐阜によって、約10kWhの容量の蓄電池があれば、
太陽光による昼間の充電で、一家族が一晩暮らすことができるということがわかりました。
蓄電池は高価ですが、現在、販売されているプラグインハイブリッド車に積まれた蓄電池は
かなり大きな容量が大きく、三菱アイミーブで16kWh、日産リーフで24kWhとなっています。
すでに車から家庭へ電力を供給するプラグも販売されています。
太陽電池とプラグインハイブリッド車の組み合わせで、
家庭のエネルギー自給を図ることが現実的になってきています。
岐阜県の事例では、太陽電池、燃料電池、蓄電池の「電池三兄弟」に注目した取り組みでしたが、
太陽熱給湯器、地中熱ヒートポンプ、薪・チップ・ペレットによる熱供給など、
熱にも注目して、建物単位・コミュニティ単位のエネルギー自給を進めていくことが
重要だと思います。

GREENY岐阜全景(左の電柱のおかげで太陽光発電量が2割減となっている)

GREENY岐阜の内部(窓際におかれている黒い装置が蓄電池)

河合 誠さん

山の中から発信されるバッグづくりとコミュニティ。

岡山の市街地から車で約30分。山道をくねくね上っていくと、napが現れる。
napはシュペリオール・レイバーというバッグブランドを中心に、
メンズ・レディスも扱うアパレルメーカーだ。
ここは本社であり工場。すべての機能が集約されている。
もともと本社は岡山市内にあった。
岡山はアパレル産業で有名だが、それでもやはりファッションの中心地は東京。
岡山市内でも不便はあっただろうが、もっと不便ともいえる山の中に、今年3月に引っ越した。

「海外のブランドってよく環境の良さそうな雰囲気のいい
アトリエを持ってるじゃないですか。
海外を相手にするときに、日本の田舎の雰囲気を大切にしながらものづくりをしないと、
同じ土俵に立てない気がしたんですよね。
それなら日本には里山文化というものがあるので、
懐かしい風景を織り交ぜて、それらを生かしてみようと。
ゆくゆくは、小さな会社であっても、
世界的な位置づけを持つ会社を目指していきたいと思い決断しました」
と語るのは、社長の河合誠さん。

懐かしさを残しながら、洋風にリノベーションされた校舎。校舎の前には校庭もある

この場所はまちから購入した小学校の廃校跡で、校舎を改築している。
それ以外にも、敷地内に2棟建てて、社長夫妻の自宅もつくった。

「初めてこの場所を見せてもらったときに、
“開拓魂”と書かれた紙が黒板にバンッと貼ってあったんです」

このあたりは戦後の開拓村で、
開拓者の子どもたちが通う小学校として昭和22年に開校。
一番最初に1軒だけ入植したのが、現在の住民会長の父親だ。
そのような背景にも共感し、自分たちもフロンティアスピリッツを
持ち続けていこうという心意気でこの場所を購入することにした。

「校舎は壊しても構わなかったけど、壊すと二度と古いものはつくれないし、
1991年まで使われていた学校ということは、今の30代以上のひとたちは通っていたんですよね。
それなら残しておくほうがいい」と、
校舎は雰囲気を残しながらリノベーションして利用することにした。

この地区に住んでいるのは現在、河合さん世帯を含め19世帯。
半径1kmにはひとが住んでいない。
「昨日も、朝、大声出してみたけど……(笑)」 もちろん反応ナシ。
そんな刺激が少ないと思われるような場所でクリエイティビティはどのように生まれるのか。

「例えば、何かものをつくるのに、
道具と材料があってやり方を教われば誰でもできると思うけど、
それでは工夫は生まれません。ここにくると、大工仕事とか電気工事とか、
ちょこちょこは業者には頼めないので、自分たちでやるようになります。
階段、石垣……、いろいろなものをつくりました。
僕個人的には、石にはまっていますね。ひとつひとつかたちが異なるものを組んで、
どうやったらきれいになるか、丈夫になるか工夫します。
こういう道具があればいいなと思えば、自分でつくってみる。
そのような創意工夫を、どのようにものづくりに落とし込めるか。
そういう姿勢を持って、都会暮らしのものづくりからは変わっていかなくてはなりません」

刺激は、ひとから与えられるだけではないということ。自ら生み出せる。

「アパレルの常識でものをつくっていたら、なんとなく違うだけで、
大きくは変わらない。違う仕事のいいところを、
どんどん自分の仕事に落とし込まないといけません」

これから色を塗るバッグにマスキング中。大胆な色使いがシュペリオール・レイバーの特徴でもある。

小さな財布に金具の取り付け作業。手仕事へのこだわりが強い。

旧校舎の内部は、バッグの組立を行っている工房。15人程度のスタッフが働いている。

各地の地域性を打ち出したnap village構想。

napは、nap villageという村構想を描いている。
アパレルメーカーとしてだけでなく、
飲食店やセレクトショップがあり、きれいな小川やガーデンがあり、あひる小屋も建設中。

「今はスタッフの平均が20代ですが、
これから数年後、会社としてアパレル以外の受け皿を考えておかなければなりません。
そういうときに、この場所はすごく可能性を感じる場所です。
行政と近いし、住民にももっと貢献できるような仕事があるんじゃないかと模索中です」

小学校にレザークラフトを教えにいったり、
吉備中央町からの要望でイノシシの革を使った商品開発をしたり。
まちとの関係はより密接になる。
そういったなかで生まれる新しいアイデアは、どんどん採用していきたい。

「よく、儲からないからダメ、といわれがちですが、
みんなで考えればできる方法はきっとあるはず。
いきなりNOとはいわずに、真剣に考える会社にしたいです」

この場所だからこそできるものづくりがある。
東京でなくても、まだまだ地域にはポテンシャルがあるはずだ。

「地方である程度成功すると、東京にショップを出したくなりますよね。
でも僕たちみたいなレベルだと、
恵比寿とか中目黒のはずれあたりにせいぜい15坪くらい。
そこで直接売っても大きな意味があるかどうかは疑問です。
それよりも、うちは何をすべきか考えた結果、工場をつくったんです。
岡山では業界が縮小して工場がドンドン倒産している時期だったので、
いろいろなひとに反対されました。
でも、新規参入するひとがいないので、逆にミシン屋さんは大喜びだし、
糸屋さん、生地屋さんも大歓迎でしたよ」

工場をつくったということは、ものづくりの方向に向いたということ。
シュペリオール・レイバーが今ファッション誌を賑わしている理由は、
デザイン性もさることながら、その姿勢によるところも大きいはずだ。

「世界観という言葉がありますね。でもそれはあくまで“観”にすぎない。
それよりも僕がここでつくりたかったのは“世界”。
たとえ片づけができてなくてゴチャゴチャしていても、
それが実際の僕たちの世界であって、ここに来てもらえばすべてがわかる」
世界観ではなくてリアルな世界。そこには強さがある。

このnap villageは地域性を強く打ち出している。
その象徴ともいえるのがショップ『& thingsハチガハナ』。
このショップはレストラン&セレクトショップで、自社の商品は置かない。
これを各地に展開する構想を抱いている。
そこで忘れたくないのがもちろん地域色。

地元の食材をつかった料理を提供。フランスの田舎料理風にジビエ料理なども。

「ハチガハナというのは、ここのピンポイントの地名なんです。
今後、このショップ形態で他の地域に出店して、その土地のいいもの、
おいしい食材を探して、それを打ち出すようなショップを展開したいです。
もちろんその場所の地名を店名に付けて」

単純にフランチャイズするのではなく、コンセプトのみを展開する。
そうすれば地域の特色を持った「& things ○○○」が増えていくだろう。
ファッション業界にも、東京発信ではない、
地域発信の小さなコミュニティが湧き上がる時代がくるかもしれない。

細部にも、ちょっとした気の利いたデザインがアパレルらしい。

information


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& thingsハチガハナ(nap village内)

住所 岡山県加賀郡吉備中央町上田東字ハチガハナ2395-5
電話 0867-34-1133
営業時間 10:00 〜 18:00 土日祝のみ営業
http://www.nap-dog.com/
http://www.andthings-hachigahana.com/

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MAKOTO KAWAI
河合 誠

1966年にM.leatherを創業。古着の買い付けで世界を回り、レザー商品なども扱う。1999年、ペット用品店をオープン。オリジナルのレザーグッズなどを展開する。2006年に有限会社nap設立、2007 S/Sシーズンよりバッグを中心にしたブランド「THE SUPERIOR LABOR」をスタート。2010 S/Sよりレディスブランド「La rosa de la fabrica」を手がける。

滝川 Part2 仕組みを利用して、 遊びながら学んできた。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

太郎吉蔵会議のルーツは、小学生の作戦会議。

山崎

2009年の太郎吉蔵デザイン会議で初めてお会いして、
その後のメールや手紙のやりとりを通じて、
「なんておもしろい人生を歩んでる方なんだろう!」と、
五十嵐さんに魅了されたんです。ランドスケープという共通点もあって、
すぐにまたお会いしたくなり、アトリエまでお邪魔することに……。

五十嵐

うん。三浦半島まではるばるね。

山崎

そのとき制作されていたのも、このモチーフだったような記憶があるのですが?

五十嵐

そうだね。まったく同じものではないんですが、
日本に帰ってきてアトリエを構えてからつくり始めたシリーズなんです。
この夏から「かぜのび」のために、巨大なのを作る予定です。

山崎

「かぜのび」……たしか、小学校跡ですよね。

五十嵐

ええ。石狩川を渡って、滝川市の隣町、新十津川町にある、旧吉野小学校です。
3年前の春に廃校になり、いまはぼくのアトリエとギャラリーを中心とした
彫刻体験交流施設として運営されています。

山崎

小学生のころの五十嵐さんは、どんな子どもだったんですか?

五十嵐

この小さな田舎まちに生まれて、オモチャもろくにない時代なので、
「どういう遊びをするか」を仲間と相談するところから、遊びが始まったんです。
その作戦会議をした場所のひとつが、太郎吉蔵だった。

山崎

そうだったんですか! なるほど。

五十嵐

当時は、造り酒屋から食料品問屋になっていて、
塩やなにかが積んである倉庫だったんですが、両親はじめ、
まわりのおとなたちも、ぼくたちが自由に遊ぶのを許してくれたんですね。

山崎

それは素晴らしい。太郎吉蔵会議のルーツともいえる作戦会議ですね。

五十嵐

そういうことです(笑)。

館内には、五十嵐さんの作品がゆったりと展示されている

103年の歴史に幕を下ろした小学校をリノベート。館内には、五十嵐さんの作品がゆったりと展示されている。

カフェスペース

教室も、ゆったりとした時間を過ごせるカフェスペースに。窓から見える田園風景や山並みが、ゆったり、のびのびすることを教えてくれる。

巨大な作品制作がいよいよ始まる体育館

巨大な作品制作がいよいよ始まる体育館。おふたりは、たまたま取材と同じ時間に「かぜのび」にいらした、吉野小学校の卒業生だというご兄弟。奈良の十津川村からこのまちに入植したというご両親のはなしは、おそらく明治時代のこと。「ほら、裏山のあの木は、わたしが植えたんですよ」と懐かしそうに指差す姿があまりにほほえましくて、写真を撮らせていただいた。

いくたびも、リセットを重ねてきた人生について。

五十嵐

作戦を練って、道具をつくって、遊ぶ。
人形芝居なんかは、ストーリーを考えて、人形だけでなく芝居小屋までつくって、
ちらしやポスターもつくって配る。こうなるともう、総合芸術ですよ(笑)。

山崎

スゴイ小学生ですね!(笑)

五十嵐

おとなを巻き込むと、さらに面白くてね。
たとえば防火週間にポスターをつくったりすると、
おとなが喜んで新聞社に電話してくれて、翌日の朝刊にぼくらの写真が載るわけ。
得意満面、してやったり(笑)。だから、いまも、デザイナー時代も、
やってることは小学校時代の延長で、ぼくにとっては「普通のこと」なんです。

山崎

仕組みを利用して、遊びながら学んでいたわけですね。

五十嵐

でも、家庭の事情で中学からは東京に引っ越して、カルチャーショックを受ける。
都会の田舎者として、すっかりおとなしく暮らすようになってしまうんです。

山崎

子どもの世界とはいえ、全然違いますものね。

五十嵐

中学では、母の期待に応えようと人生でいちばん勉強して、だから高校は
進学校に入れてしまうんだけど、入学してみたら、まわりは天才ばかり。
そこで、じぶんが勉強より美術に長けていることに気づいて、
別の高校にまた入り直して、同時に夜間のデザイン学校にも通い始めるわけ。

山崎

そうやって、多摩美へ?

五十嵐

そうです。

山崎

その後の70年代半ば〜80年代のデザイナーとしての五十嵐さんの活躍は、
ここで改めて言うまでもなく、世界的によく知られています。

五十嵐

日本の経済成長に、デザインがぴったりと寄り添った時代でしたからね。
仕事がありすぎて、「50歳になったらもうやめよう」って思ってましたよね。

山崎

そういうところが五十嵐さんらしいんですよね。
個人的には、途中何度か人生をリセットされているところがとても興味深いです。

五十嵐

なんだかね(笑)。
それで実際、50歳になったときには、プロダクトか、彫刻か……と。

山崎

アーティストはクライアントがいないし、デザイナーと違って、
じぶんがつくりたいものを素直につくれるというのが魅力的ですよね。

五十嵐

デザインの世界って、非常に論理的でしょう。
つまり、キャリアが長くなると、自然といろんなことが予測できてしまう。
じぶんのカテゴリーのなかに収まってしまうようになるから、
そうなると、面白くない。

山崎

うーん、いまのぼくが、ちょうどそんな状況かもしれませんね。
とてもよくわかります。

五十嵐

そうでしょう。意外性欠如といおうか(笑)。
出会いもしごとも、想像もしない展開をするから、面白いんだよ。

(……to be continued!)

2011年にできた「かぜのび」

北海道に点在する五十嵐さんの作品を紹介するヴァーチャルな美術館「風の美術館」の拠点となるのが、2011年にできた「かぜのび」。

対談の様子

第5回太郎吉蔵デザイン会議当日の朝。対談は「hotel miura kaen」内の「レストラン イル・チエロ」にて。インテリアとして、五十嵐さんの作品『こもれび』が印象的に使われている。

information

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かぜのび

住所:北海道樺都郡新十津川町字吉野100-4

開館時間:10:00 ~ 17:00(5月~10月のみ開館。月曜休館、祝日の場合は翌日)

Web:http://www.kazenobi.org/

information

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TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

古田秘馬さん

生産者と会える“食のライブハウス”。

東京・六本木のビルに囲まれた農園付きのレストラン
「農業実験レストラン 六本木農園」をプロデュースした古田秘馬さん。
ニューヨークでコンサルティングの会社を経営していた古田さんが、
東京に戻ってきたのが2002年。
仕事や友人の紹介などを通して、全国各地に足を運ぶうちに、
地域の豊かな食事情に古田さんの心が揺さぶられたことが、
「六本木農園」オープンのきっかけとなった。
「食に興味があったのは昔からなんですけど、
それに加えて食べ物の“物”としてのストーリーに惹かれたり、
食べる雰囲気、食べる仲間含めて、
食っていろいろなものとくっつきやすい“細胞”なんだなぁと気づきました」
その“細胞”を生かすレストランの構想は、この頃に立ち上がる。
「生産者の方々と話しているときに、
“生産者が生産までのこだわりやストーリーを語る場や、
生産者同士や生産者と消費者がくっつきやすい場所ってないよね”という話に。
じゃあ生産者に出会える“ライブハウス”をつくるのはどうだろうと考え、
六本木農園をオープンしました」
ライブハウスは本来新しい才能や、自分好みのミュージシャンに出会う場。
その食の生産者版があってもいいんじゃないかと古田さんは思ったのだと言う。
現在「六本木農園」では、
レストランで出している料理の生産者に来て語ってもらう「農家ライブ」を
週に2回ほどのペースで行っている。
「最近の農家さんは、iPadなどでプレゼンをしたり、
席をまわりながらプレゼンをしたりとアイデアの限りを尽くしてくれるし、
プレゼンがとても上手。
やっぱりこだわりを持ってつくる農家さんは、そのこだわりを話したいと思うし、
食べる方もどうせ食べるなら、なんでこれがおいしいのか、
どうやってつくられているのか知って食べたほうがより話が広がって、
おいしさも違うと思うんですよね」
話を聞いて味わって。
生産者の方を目の前にしてそのひとを想って食べるという機会は
普段なかなかないことに参加者は気づかされるそうだ。

「生産者と消費者、生産者と生産者が出会う、今まで農業業界がやって来なかったことを実験する場所」という意味で、「農業実験レストラン」と名付けた。

「六本木農園」は予約必須。週に2回ほど行われている「農家ライブ」やイベントの予定などは、ホームページをチェック。

トマトを農園内で栽培中。残念ながら料理にこのトマトが出ることはないそうだが、六本木のまちなかでトマトやハーブが栽培されていることに驚く。

「生産者と消費者をつなげましょうと言うのは簡単ですが、
実際は各地域にいる生産者と都心に集中する消費者という構図ができてしまっています。
その構図を変えてみせたい」と語る古田さん。
「食のライブハウス」は六本木だけではなく、全国各地で展開している。
「地産地消から地産継承へ」というキャッチコピーを掲げた
「にっぽんトラベルレストラン」は、
生産者たちに直接会いに行って、話を聞いて、料理人が調理して食す、
一日限りの出張レストランだ。
「集落で代々伝わっている製法などを地域で受け継ぐひとがおらず、
次の代に伝わっていない、ということが増えてきました。
地域で大切にされているものを“継承”していかないと、
“地消”もされなくなってしまいますよね」
参加者は、“継承”すべき生産者の現場を見、料理人が調理する様子を見、
そして舌で味わい語り合う。何とも贅沢なレストラン。
富山では、ホタルイカで有名な漁港に行き、漁師さんとともにホタルイカ漁に同行。
穫ったホタルイカをその場で炭火で焼いて食べた。
さらに、冬の新潟では、雪のテーブルをつくってそこで食べたのだという。
生産者も、料理人も、お客さんもイマジネーションが広がる体験となった。

丸の内で学ぶ。地域で実践する。

東京・丸の内で開講している、丸の内朝大学の「地域プロデューサーコース」は、
数多くある講座のなかでも人気の講座で、40名が朝7時15分からの講義に参加する。
丸の内朝大学の企画を構想し、
実際に「地域プロデューサーコース」の講師として自らも教鞭をとる古田さん。
そもそもこの「地域プロデューサー」の定義について
古田さんはどう考えているのか?
「ガバメントソリューションという行政の理論と、
マーケットソリューションという企業の理論、
そして、それだけでは成り立たないと気づいた3.11以降起きた、
ボランティアやNPOなどのコミュニティソリューション。
それぞれのレイヤーってそれぞれでつながっているだけで、
横軸を縦につなぐひとがいない。
行政でもない、企業人でもない、ボランティアのみをやっているひとでもない、
全てを縦につなげられるひとが“地域プロデューサー”です。
結果的に行政出身のひともいれば、民間企業に属するひともいるけど、
活動的にいろいろなものをつなげているひと、というのが特徴です」
この丸の内朝大学の「地域プロデューサーコース」に集まる“学生”は、
20代半ばから50代までで、職業もバックグラウンドもさまざま。
いずれは、自分の地域に戻って地域振興のための活動をしたいと思っているけれど
きっかけがなかったり、地域に戻ってなにができるのかというイメージができない
という悩みを抱えた学生たちが、ヒントときっかけを求め古田さんのもとに集う。
「地域プロデューサコース」の一番の醍醐味は、
古田さんと学生全員で参加するフィールドワーク。
地域にまず一緒に入ること、地域の風土を感じることを古田さんは学生に求める。
例えば、ある産業が廃れているのだけど、どうしたらマーケットに受け入れられるのか?
という地域の悩みを解決すべく、学生の中でチームをつくり、現地に行く。
行政や企業の担当者も一緒になって考え、古田さんはヒントを与える。
「コンテンツではなく、コンセプトを打ち出しましょう。
例えば、出雲大社になぜひとが集まるのかを考えてみて。
縁結びの神さまというコンセプトがあるわけで、
合コンなどのコンテンツがあるわけではない(笑)。
コンテンツ化の例だと、農業体験などが最近多いけれど、
単なる農業体験だったら、別にその地域でなくてもできること。
それでは、ひとは呼び込めません。
コンテンツ化するのではなく、地域をコンセプト化する。
そしてそのコンセプトに共鳴してもらわなくてはならないですよね」
こうしてカリキュラムを終えた学生は、
地域に戻るひともいれば、東京と地域をつなぐような役目に徹しているひともいる。
古田さんのもとで学んだ卒業生が活躍する姿を見られるのも
そう遠い日の話ではなさそうだ。

東京生まれ東京育ちの古田さんにとって「故郷」は憧れのようなものだと言う。
「地域に足を運ぶときって、観光客か地元民というステータスしかないですよね。
観光客か観光客じゃないかという言い方や、
行く側と迎える側という言い方では言葉に縛られすぎる気がします。
違うステータスをつくりたいですね」

富山の陶芸家のもとで土づくりの話を聞く古田さん。(写真提供:丸の内朝大学)

新潟のフィールドワークに参加する、丸の内朝大学「地域プロデューサーコース」受講者のみなさんと。(写真提供:丸の内朝大学)

profile

HIMA FURUTA
古田秘馬

プロジェクト・デザイナー。東京都生まれ。慶應義塾大学中退。山梨県・八ヶ岳南麓「日本一の朝プロジェクト」、東京・丸の内「丸の内朝大学」、日本中の素敵なソーシャルプロジェクトを紹介する「いいね!JAPANソーシャルアワード」などの数多くの地域プロデュース・企業ブランディングなどを手がける。2009年、農業実験レストラン「六本木農園」を開店。2011年、生産者とお客様をつなぐ現代版三河屋「つまめる食材屋七里ヶ浜商店」を開業。日本中の美味しいものを探して1年の半分は旅をしている。株式会社umari代表。
http://asadaigaku.jp/
http://www.roppongi-nouen.jp/

information


map

六本木農園

住所 東京都港区六本木6-6-15 TEL 03-3405-0684
営業時間
月 18:00 ~ 23:30(LO 22:30)
火~金 12:00 ~15:00 / 18:00 ~ 23:30(LO 22:30)
土~日 12:00 ~ 15:00 / 18:00 ~ 23:00(LO 22:00)
http://roppongi-nouen.jp/

東新町一丁目商店街

踊り手の熱気で満たされる商店街。

午後7時半。あたりの商店が店じまいをする頃、
甲高い鉦(かね)の音と、力強い太鼓の音とともに、
「やっとさー」「やっと やっと」と男女の声がアーケードに響く。
その音に誘われるように近所の人が集まり、帰宅途中の人は足を止め、
夜静まりかえるはずの商店街は、昼間以上の熱気を帯びてきた。
8月12日から始まる「徳島市阿波おどり」に向けて、
阿波踊り振興協会所属の阿呆連(あほうれん)が公開練習を行っているのは、
徳島市の中心街として古くから徳島市民の生活を支えてきた東新町一丁目商店街。
この場所で、踊り手とお囃子が1時間半ほどの練習で汗を流す。

透明屋根のアーケードは平成11年に完成。昼間はさんさんと太陽が降り注ぎ、商店街全体に明るい雰囲気を醸し出す。

阿呆連は、昭和23年に結成され、
数ある「連」(阿波踊りのチーム)の中でも2番目に結成が古い有名連。
その踊りは阿波踊りの「3大主流」のひとつと呼ばれ、
豪快で、躍動感あふれる挙動と、
江戸庶民の遊び、凧揚げの様子を模した「やっこ踊り」はオリジナル性が高く、
県内外のファンも多い。
その阿呆連が東新町商店街で練習を始めるようになったのは、およそ6年前。
商店街の活性化を願う東新町一丁目商店街と、
照明完備、雨が降ってもアーケードのおかげで練習ができる阿呆連のメリットが重なり、
本番間近の6月から週に一度、商店街で練習を行うようになった。
月曜日から木曜日までの普段の練習は、河原や公園などで行われるが、
その環境は抜群とは言い難い。
週に一度金曜日の商店街での練習は、
道幅が広くて長さもある商店街の利点を生かして通し練習ができる貴重な時間なのだ。

「商店街を通るお客さんがこうやって立ち止まって見てくれるんですよ。
お客さんとの距離も近いし、本番さながらのいい緊張感で練習ができます」
そう語るのは、高校3年で阿呆連に入連し、今年で21年目の宮村憲志さん。
お子さん2人もこの日の練習を見に来ていた。
「この商店街は庭みたいなものですね。
だからここで踊るのは桟敷で踊るより思い入れがあるかも」と目を細める。

高校時代には、野球部の練習が終わってからその足で阿波踊りの練習に参加するほどの入れこみ。いつか2人のお子さんと同じ衣装に身を包むことを夢見る。

この日、女踊りの指導にあたっていた宇津宮亜由美さんは、高校2年で入連し、今年で10年目。
徳島市内在住で、高校生の頃にはよくこの東新町一丁目商店街に遊びに来ていたのだと言う。
「商店街で練習していると、商店街のお店のひとと顔なじみになれたり、
つながりが持てるところがいいですね。
高校生の頃とはずいぶんお店も変わってしまったけど、
やっぱり思い出が詰まっているこの商店街で踊れるのは嬉しい」

厳しい経営状態や集客は東新町一丁目商店街も例外ではないが、
こうして、東新町一丁目商店街という場に愛着を持つ若い世代を増やすことが、
商店街の発展と存続に希望を持たせる。
本番に向けて練習もいよいよ大詰め。
力のこもった指導と練習で阿波の夜はいっそう熱さを増しそうだ。

自家用車で移動する人が多い徳島。商店街近くにはコインパーキングが多いため、通いやすいのだという。この日は踊り手とお囃子合わせて70名ほどが練習に参加した。

「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損」。未来の女踊りのセンターポジションの有望株。小さい子にも踊り手のDNAは刻まれている。

滝川 Part1 小さな北のまちに、 デザイナーたちが集まる日。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

「太郎吉蔵デザイン会議」という特別な1日。

山崎

今日はお招きいただき、ありがとうございます。

五十嵐

最近はどうですか?

山崎

本をいくつか出版しました。書きながら、五十嵐さんのことばのアレコレを
思い出す機会が多かったので、今日は久しぶりにお会いできて光栄です。

五十嵐

午後のデザイン会議には取材に入ってもらえなくて、申し訳ないですが。

山崎

いえいえ。マスコミは、初回から一貫してシャットアウトなんですよね。

五十嵐

そうなんですよ。山崎さんもはじめはたしか、
聞き手としていらしてくださったんですよね。

山崎

はい。第3回の2009年「太郎吉蔵デザイン会議(*1)」に、
聴衆として参加させていただきました。

五十嵐

なにがきっかけで?

山崎

その直前に、エレファントデザイン株式会社代表の西山浩平さんと
初めてお会いする機会があり、意気投合したんです。
そうしたら、1か月後に北海道で彼がしゃべる場があるという。
聞けば、その10人のパネリストたるや、原研哉さん、梅原真さん、
それに五十嵐さんと、そうそうたるもので、さらにユニークなのは、
聴衆だけでなく、彼らパネリストもみな手弁当。
しかも、会議後の質疑はナシ! それはなんとしても行ってみたいぞ、と(笑)。
それが、「太郎吉蔵デザイン会議」との出会いです。

五十嵐

そう。聴衆のためでなく、10人のパネリストが自分のために話をする場なんです。

山崎

日本では、なかなかないですよね。

五十嵐

ええ。本音で話す場にしたいから、取材もご遠慮いただいていると。
そういう次第です。

*1 太郎吉蔵デザイン会議:1926年に建設された歴史ある石蔵「太郎吉蔵」で行われる、パネリストによるパネリストのための円卓会議。パネリスト以外の90名の参加者は、議論の場に立ちあう聴衆となる。2007年に「アートフェスタタキカワ」のメインイベントとしてスタート。以降、今年で5回目を数えるデザイン会議。http://www.designconference.jp/

日本で3番目に長い石狩川

新千歳空港から直通電車で約90分。滝川市は、北海道の中空知地域の中心都市。市西部には、日本で3番目に長い石狩川が悠々と流れる。

本音でしゃべり、じぶんのことばを見つける。

五十嵐

ぼくも、お会いする前に、ローカルデザイン研究会の鈴木輝隆さんから
山崎さんのことを聞いていてね。ぜひ会わせたいと言われていたんだけれど、
ご覧の通り老人なものだから(笑)、なかなか行動力がなくて。
そんなときに会いに来てくださるというので、どうぞどうぞ、とお受けしたんです。

山崎

そうでしたか。ありがとうございます。

五十嵐

それでもそのときのぼくは、山崎さんのやっていることを
ほんとうには理解できていなくて。
その後ですね、すばらしいことをされているんだな、と。
だから、今日はぼくのほうが質問したいくらいなんですが(笑)。

山崎

いえいえ、とんでもない。

五十嵐

あのときも面白かったですよね。

山崎

ええ。めちゃくちゃ面白かったです。

五十嵐

デザイナーがビジュアルにたよらずに、
じぶんのことばでほんとうのことを上手にしゃべる。
その「練習の場」としてこのデザイン会議を立ち上げたんです。

山崎

そうだったんですか?

五十嵐

うん。日本人はそういうことに慣れていないでしょう?
やさしいから、相手に気を遣って本音が言えなかったり、自慢話に終始したり。
でも、そこからはなにも生まれませんから。そうではなく、
ここで感じたこと、経験したことを日常にもって帰ってもらいたいなと。

山崎

なるほど。

五十嵐

だから、3回で辞めようと思っていたんです。
みなさん、すばらしいリーダーたちなんだから。

山崎

練習の場だとすれば。

五十嵐

それが5回も続いて、どうしたものかと(笑)。

山崎

でも、3回目で終わっていたら、ぼくは今日ここに呼んでもらえていないので(笑)。

五十嵐

ああ、そうですね。楽しみだ。

(……to be continued!)

designshop takikawaの入り口ロゴ

五十嵐さんプロデュースによる「designshop takikawa」。小さな空間に、世界のグッドデザインプロダクトがそろう。滝川市内の「hotel miura kaen」内に併設。

五十嵐さんの作品「eki clock」

五十嵐さんの作品「eki clock」。「designshop takikawa」オープンとともに、壁掛時計と腕時計が発表された。

information

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TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。