TOPIC 郡山布引高原風力発電所

大規模風力発電所のメリット・デメリット。

近年、発電出力2,000kWを超える大型の風力発電機が
何本も建てられた大規模な風力発電所(ウィンドファーム)が、
国内各地で次々と建設されています。
その中でも国内最大の風力発電所である、福島県郡山市の郡山布引高原風力発電所は、
33基の風力発電機で合計65,980kWの発電出力を持っています。
今回は、2007年2月に運転を開始し、年間で約1億2,500万kWhを供給する
この大規模風力発電所を紹介します。

郡山布引高原風力発電所は、猪苗代湖の南、会津布引山の山頂に広がる布引高原にあります。
現地は標高1,000mを越える非常に風況のよい場所で、
麓から20分以上かけて車で山道を登り切った先には、
とても山頂とは思えない高原が広がっています。
高原からは猪苗代湖や磐梯山が一望でき、その高原の全域にわたって風車が建っている風景は、
とても日本とは思えないものです。
高原に人家などはありませんが、観光用の設備や道路が整備され、
風車の中を歩いて回ることができます。
ここに建っている風車は羽の先端までが最大で全高100mに及ぶ巨大なもので、
林立する風景は高原の景色としてみると壮観です。
もともとこの高原では、布引大根の産地として農業が営まれており、
ひまわり畑なども広がっています。
高原の農地で人家はなく、車でなければ辿り着けず、公共交通機関も通っていませんが、
こういった地理条件であればこそこれだけの大規模風力発電所を建設でき、
さらに観光地化もできているという特徴が見えてきます。
現地を訪れたのは週末でしたが、家族連れなどがひっきりなしに山を登ってくる光景があり、
高原の観光地として定着しているような雰囲気を感じました。

大規模風力発電所の環境面での課題は、自然環境への影響、生態系への影響、
景観への影響、生活環境への影響などがあります。
郡山布引高原風力発電所の場合も風車の騒音はかなり大きく、
正面200mほどの距離だと高度1,000m程度の飛行機の航路の下にいるくらいの音を感じます。
今後、再生可能エネルギー電力の固定価格買取制度スタートによって
国内で更に大規模風力発電所の開発が進むことが予想されます。
これらの問題と、どのように向き合っていくのか、
また建設地とは縁のない企業が大規模開発に乗り出してきた場合、
地元に対するメリットは何であるのかを示し、考えていくことが必要です。
圧倒されるような大規模風力発電所のある風景には、
そのような問題に向き合う重要性を改めて認識させられます。

道路が整備されて観光地化されている。

2MWの大型風車群。

ひまわり畑の中に建つ風車。

諸富町 Part4 再び、「婚礼」から家具を 見つめたい。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとりでも多くの方に足を運んでもらいたい。

山崎

ショウルームと併設して、いくつかお店が入っていますよね。
これらは、平田さんが経営されているのですか?

平田

いいえ。カフェ以外は、テナントです。
うちは家族経営ですし、家具を買ってくださいと営業に出向くわけでもありません。
だから、店舗の空きスペースにカフェを併設したり、テナントを入れることで、
ひとりでも多くの方に、この場所に足を運んでもらえるよう工夫したんです。

山崎

なるほど。

平田

いまは、陶芸家さんの工房兼ギャラリー「indigo」、
アーユルベーダーサロン「Pithika」、
ハンドメイドのバッグと小物の店「tikitiki」が入居しています。

山崎

この、バッグのお店、商品と場の雰囲気にすごくマッチしていてステキですね。
内装はどなたが手掛けられたんですか?

平田

そのむかし、父が建てたログハウスなんです(笑)。
それを、事務所に使い、その後倉庫になっていた場所。
しばらくはカフェとして営業していたのですが、空き店舗となり、
以前から tikitiki の商品に興味があったぼくから
「お店を出してみない?」と彼女にオファーをかけて、話が決まりました。

山崎

あ、ほんとうだ。奥にキッチンの名残りのようなスペースがありますね。
面白いなあ。商品もユニークだし、ファンが多そうですね。

平田

そう言っていただけるとうれしいです。
テナントを入れ始めたのは3年前のことなんですが、
ひとりでかんばろうとしていた気負いみたいなものが、
おかげでふっと軽くなった気がしています。

「tikitiki」のハンドバッグ

ハンドメイドのバッグや小物を販売する「tikitiki」。オリジナリティあふれるカラフルでハッピーな小物が、ログハウスの雰囲気にぴったり!

カフェの窓。イラストでお出迎え

「いわい家具」店舗の一角をカフェに。気軽に家具に触れられる場、ひとが集う場としてのカフェ。

いわい家具のカフェで提供されるピザ

もう一度、原点回帰できるだろうか。

平田

ひとが集う場として、カフェの存在も大きいと思っているのですが、
当初はやっぱり「家具屋がカフェ?」という目で見られていたし、
そういう意味を多分に含んで同業者から
「ピザ、儲かかってるか?」なんて声をかけられたりもします。

山崎

言われるでしょうね。そして、そのたびに葛藤もあると思います。
「つくらないデザイナー」の道を選んだぼくも同じだからよくわかります。
「でも、やりたい」ことがあるんだから、ふたりとも、仕方がないんです(笑)。

平田

そうですよね(笑)。
だからこそ、周りにうらやましがられるようなことをやりたいんです。

山崎

もうその方法は思い描いているんですか?

平田

はい。「いわい家具」の始まりは、祖父の代の婚礼家具です。
だから、もう一度、原点回帰できるのが美しいと思っているんです。

山崎

いいですね。

平田

問題は、それを現代にどう回帰させるか。

山崎

うん。おじいさんの時代とは婚礼のカタチもずいぶん変わってきていますし……。

平田

そうなんです。たとえば、このカフェで結婚披露宴をする。
新婦のブライダルエステは「Pithika」で。
引き出物や、こどもが授かったときの記念品は、
「indigo」の器や「tikitiki」のハンドメイド小物。
そうして、結婚や生誕の記念日のたびに、ここでお食事をしてもらう……。
そんな提案ができればいいのかな、と。

山崎

なるほど!

平田

となると、次に入居してほしいテナントは、不動産屋さんかな、とか(笑)。

山崎

団塊の世代の子であるぼくたちは、構造の変化に気づき、
かつてのやり方やモノの売り方に対して
「そうではない」と気づき始めた世代なんですよね。
そして、そういった考えがいよいよ実行できる年齢になってきた。
平田さんが、いま考えていらっしゃることは、
きっと、まちを元気にしていくきっかけになるはずです。

ピザ窯の薪に使う端材

「ピザ窯の薪には、家具づくりで出た端材を使っています」(平田) 「うわぁ、こんなぜいたくな木材の薪、見たことないですよ(笑)」(山崎)

対談の様子

ハコをつくるのではなく、ひとをつないでまちを元気にしたい。「地元に生まれ育った平田さんだからできることです」(山崎)

いわい家具の入り口。緑に囲まれている

緑に包まれた「いわい家具」。祖父、父が大切に守りついだ店舗と空間を、平田さんは、技術以外の面からもサポート、
プロデュースしようと考えている。

information

map

いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

石巻絵のパレード

石巻のまちを絵が歩く!
横浜・寿町発「絵のパレード」が、東北へ。

あれから1年半あまり。
東北のために何ができるかと、ずっと考えてきたのは、アーティストだけではない。
おそらく日本中の人が、ひとりひとり、それぞれ自分のサイズで考えてきて、
導き出した答えが、良かったのか悪かったのか、正解だったのか間違いだったのか。
判断を下すことはまだ難しい。

震災以降、石巻で活動を始めたアーティストたちを応援してくれている商店街の花屋さん。突然の歩く絵たちの来訪に顔をほころばせて喜んでくれた。

ただひとつ、言えることは、
この日、石巻に集まったアーティストたちには、実感があったということだ。
自分が描いた絵を、見てほしい人が石巻にいる。だから、見せに行く。
その人の家の前まで、その人のお店の前まで、キャンバスを持って。
「こんにちはー! お久しぶりです!」
「絵のパレードを、やっています!!」
突然の訪問に、驚いて出てきたその人の顔は、すぐに笑顔でくしゃくしゃになった。
楽器隊の子どもたちや近所のおばさんたちも引き連れて、意気揚々と行進は続く。
(ああ、みんな喜んでくれている。良かったー)と、アーティストたちはうれしくなる。
たしかな実感だ。これだけは、間違いない。

甚大な津波の被害に見舞われ、まるで防波堤のようにがれきがうず高く積まれた石巻の海岸沿いのエリア。「未来へ号」に乗ってやってきたアーティストたちがひまわりの種を植えていた。

2012年8月10日の青空の下。
人も家も消え去った灰色の大地は、月日を経て、生い茂る緑の野原になっていた。
そこにポツンと停まっている黄色いバス。
アーティストと絵を載せて東京からやってきた「未来へ号」だ。

「絵のパレード」の発案者・幸田千依。プールの水面と人とをテーマに絵を描き続けている。寿町でのパレードの後、台湾での滞在制作に臨み、現地でもパレードを行って手ごたえをつかんだ。

「絵のパレード」の発案者は、絵描き・幸田千依。
今年の正月に横浜のドヤ街・寿町で初めてパレードをして以来、
彼女にはたしかな実感があった。(Area Magazine #3
「ギャラリーや美術館へわざわざ足を運んで観に来てもらうのだけがアート表現じゃない。
アーティストが自分の手で絵を運んでまちを歩けば、思いもよらないことが起こる。
もっともっと、すごい出会いが待っている。いろんな場所で、絵のパレードをやりたい!!」

その思いに賛同したのが、東京・恵比寿で7月に開催された
『一枚の絵の力』展(アートセンター「island JAPAN」主催)の出品アーティストたち。
そして、「未来へ号」で全国をめぐる未来美術家・遠藤一郎だった。

どんな時代でも、どんな状況でも、
一枚の絵の力には伝える力があり、人の心を動かす力がある――。
『一枚の絵の力』展に込められた思いは、彼らの信じる道でもある。

石巻のまちとかかわるアーティストたちのあゆみとこれから。

今回のパレードには7枚の絵が出品された。地元の子どもたちも音楽隊として参加。住宅街や商店街をにぎやかに練り歩いた。

昨年の4月中旬、ひとりの女の子が石巻のまちとかかわり始めた。
彼女の名は“さっこ”といって、まちでは今やよく知られた存在である。
アーティストたちの間では、「つるの湯祭りのさっこ」としても有名だ。

当初、彼女がひとりで石巻へ来て始めたのは、
個人宅や商店街の泥除けや掃除、支援物資の整理配布、避難所や仮設住宅での手伝いなど。
あのころ、このまちで必要とされていたことに、何でも次々に取り組むことだった。

あのころ、多くのアーティストが「自分にできることは何か」と思い悩んで、
そのうち幾人かがさっこに導かれて石巻へやってきて、同じように取り組んだ。
幸田千依も、そのひとりである。
たくさんの出会いと、たくさんの体験が重なり、たくさんの思いが連なって、
さっこを中心とするアーティストたちは、
まちの人々といろいろなことを共有できるようになっていった。

といって、アーティストたちはまちの住人になったわけではなく、
思い思いに来ては出て行き、戻って来てもまた出て行くものなのだけど、
「またね!」と言い合って別れるとき、
その気持ちにウソはないとお互いに思い合える関係ができていったということだ。

震災の影響で休業を余儀なくされたが、今年の正月に多くの人々の後押しを得て再開した「つるの湯」。壁の大きな富士山の絵は、明るい前途を祈るアーティストたちによって描かれた。

たとえば、昨年末に開催された「つるの湯祭り」は、
まちの人々と、外からやってきたアーティストたちが、
それぞれさまざまな思いを交わしながらつくりあげたひとつの大きな出来事だった。
津波の被害に遭った銭湯「つるの湯」を再開させようと奮闘する人たち、
その晴れの日を盛大に祝おうと集まってくる人たち、
そして、期待と願望に満ちたみんなのパワーを受け止める一方で、
実は、少なからず不安も抱えていたおかみさんとご主人。
それでも、2012年元旦に初風呂は実現し、今ではまちで唯一の銭湯として、
訪れる人すべての心と体を温めている。

今回の絵のパレードの行進ルートの中でも、「つるの湯」はハイライトのひとつだった。
「久しぶりに会ったおかみさんは、笑顔だった。それがとてもうれしい。
〈つるの湯祭り〉やって良かった、がんばって再開まで応援できて、
ホントに良かったってみんなで話しました」と幸田千依。

——アーティストが来たら、楽しいことが起こる。
――石巻へ行けば、あの人たちにまた会える。
この関係が、まち全体に広がればもっといい。
今の石巻の日常は、昔の日常には絶対に戻らないけれど、
楽しいことを少しずつ増やしていくための力が、一枚の絵にはある。
そう実感する人たちが、もっともっと増えていけばいい。

パレードの後、
絵たちは石巻駅前商店街にある「日和アートセンター」のギャラリーの壁を飾った。
その後もアーティストたちがさまざまな展示やイベント活動を催し続けている。

老舗のフランス料理店のご夫婦にも絵を披露。パレードは住宅街を回り、細い路地を抜け、商店街を闊歩し、石巻の中心街をくまなく歩いて2時間以上も続いた。

「桜の森 夜の森」 プロジェクト移動写真展

ふるさとを想う若者が4t トラックに咲かせた、満開の桜。

福島県双葉郡富岡町にある夜の森地区は、福島県内でも随一の桜の名所として知られる。
明治時代、当時荒野だった土地を開拓・入植した記念に、
300 本のソメイヨシノを植えたのが始まりだという。
以来、地元住民によって植樹は続けられ、いまでは1500本以上が植えられている。
春になれば、まちじゅうで桜が咲き乱れ、
その風景は100 年以上にわたり、ずっと大切に受け継がれてきた。
現在、富岡町は原発事故の影響で避難区域内となっている。
原発事故が起きた後も変わらずに桜は咲いていても、誰もその姿を見ることはできない。

「夜の森の桜がまた見たいね」
「桜の森 夜の森」プロジェクトがスタートしたのは、
このプロジェクトの発起人である、宮本英実さん家族の何気ないひとことがきっかけだった。
宮本さんの母は富岡町で生まれ、結婚を機にいわき市小名浜に移り住んだ。
宮本さんはいわき市で育つが、休みとなれば富岡町の祖母の家に遊びに行っていたという。
伯母をはじめ、親戚の多くは、富岡町に住んでいたから。
宮本さん自身は、幼いころに数回見た記憶しかない夜の森の桜だったが、
母や伯母の話を聞いているうちに
「夜の森の桜を見せてあげたい」という思いが募っていった。

「よし、夜の森の桜を撮りに行こう」
そう決めた宮本さんは、同じく、小名浜出身で写真家の白井亮さんに声をかけた。
「もともと、ふるさとの写真は撮りためていたんです。いつか何かのかたちにしたいなと。
そして、震災が起きた。それでも変わらずにある普遍的で美しい景色を撮っていましたが、
何かそれを通してふるさとのためにできないかとも考えていました。
それで宮本さんに写真を見てもらったのがきっかけで、
今回お話をいただいたんです」(白井さん)
宮本さんと白井さんは桜の満開の時期を予測しながら、
4月下旬に特別な許可を得て桜を撮影。幸いにも満開の桜を撮ることができた。

Photographed by Ryo Shirai

左から、発起人の宮本英実さんと伯母の舛倉和子さん、母の宮本邦子さん。

しかし撮影するも、まだその写真の発表方法については何も決まっていなかった。
いろいろな方に相談していくうちにFMラジオ局J-WAVEが協力してくれることになり、
急ピッチで「桜の森 夜の森」プロジェクトが進められた。
一方向的に見てもらうのではなく、
ダイレクトに対話できるような発表のかたちを模索していた白井さんと宮本さん。
一番の思いは「避難している富岡町住民の方々に見てもらいたい」ということ。
そこであがったのが、4トラック内での展示だった。
ほどよい広さが確保でき、そのまま移動もできるので、
届けたい人のところへ桜の写真を運べる。
運送会社の株式会社ウインローダーの協力を得て、
8月に福島県内の4会場で「桜の森 夜の森」移動写真展が開催されることになった。

想像を超える、地元の方のあたたかい反応。

編集部が訪れたのは、8月25日に行われた、いわき市の会場。
いわき市は富岡町と同じ浜通りと呼ばれる海沿いのエリアに含まれ、
富岡町の人々が避難している仮設住宅がある。
それが、午前中の会場となった泉玉露応急仮設住宅だ。
駐車場に停められたトラックの荷台が大きく開かれ、
真っ白に塗られた空間には、満開の桜の写真が展示されていた。
少しでも素敵な空間に仕上げたいとトラック内を補修したり、
ペンキを塗る作業はすべてスタッフで行ったのだという。
10時のオープンから、仮設住宅に住む方々や周辺の住民が駆けつけた。

「感激しましたよ」と話してくれたのは、
生まれも育ちも夜の森という猪狩(いがり)ミユキさん(89 歳)。
「いまの桜並木だってわたしは植樹を手伝ったのよ。
小さいころはね、遠足って言えば、夜の森公園の桜。
最近はさくらまつりのよさこい(踊り)をみんなで見に行ったり。
もう何十年って付き合ってきた桜だから、本当にうれしかった」と涙をうかべた。
一緒に見に来たという川口正子さん、細山美智子さんも口々に
「また夜の森の桜が見れてうれしかったです」と話していた。

右から猪狩さん、川口さん、細山さん。仮設住宅では毎日イベントがあるから楽しみにしているのだという。

「桜の森 夜の森」プロジェクトのポストカード。3枚セットで530円で販売している。

クローズの時間が近づいても移動写真展には、
またひとり、またひとりと展示を見に来るお客さんは絶えない。
何かを確認するように、静かに写真を見つめ、
口から「きれいだね」というひと言がこぼれ落ちる。
お金を持ってこなかったからというおばあちゃんは、
自宅に帰ってからまた戻ってきて、大切そうにポストカードを購入していた。

今回開催した4か所のなかでも、やはり、
もともと富岡に住んでいた人が多く住むこの泉玉露応急仮設住宅では、
来場者からの強い思いが伝わってきたという。
「来ていただいた方は、難しいことを言うわけではないんです。
ただ、“キレイだね”とか“もう見れないのかな”とか。
でも、それだけで、その言葉の裏にどんな思いがあるのか伝わってきました。
みなさん、涙を浮かべながら見ていて、
それはもう自分たちが想像していた以上の反応でした……
こんなにも、富岡町の人にとって夜の森の桜が誇りだったんだなと」
もちろん、この桜の写真を見ることで、
うかぶ思いは決してうれしい気持ちだけではない。それでも、
「“展示してくれてありがとうね”とみなさんに言われると、
やった意味はあったのかなと思っています」と宮本さんは言葉を続けた。

「最初は桜の写真を撮影すること自体に迷いもあったんです。
警戒区域に行くことも、写真を撮ることも。
でも写真をみんなで選び、仕上がったプリントを見ていく過程や、
来ていただいた方の反応を見るとやってよかったなと思えました。
みなさんキレイな写真だって褒めてくれるんです(苦笑)。
“自分が知っている桜よりキレイ“だと。
“一時帰宅したときに見たまち並みよりもきれいに写っているから、
以前の夜の森に帰れたみたい”とも言われました。
希望なんて大袈裟なことは言えませんが、少しでも元気づけられたのかなと思っています」
白井さんはそう静かに話し、iPadに入っている、展示しきれなかった写真を見せてくれた。

午後は、市内のアクアマリンパークという市民の憩いの場にトラックが移動し、
ここでも多くの来場者が足を止めていた。

来場者の多くが自分の思い出を確かめるように、一枚一枚じっくりと桜を見ていた。

いわき市内に住む、白井さんのはとこの陽悠(ひゆう)くんがお母さんと一緒にやってきた

「こうやって咲いてるんだから、自然てすごいね。来年は……見にいけるのかな」とうれしそうだけど、どこかさみしそうもに話すのは泉玉露応急仮設住宅に住む半谷光子さん。

わたしたちの地元のことだから。

今回の「桜の森 夜の森」移動写真展の母体となっているのが、
宮本さんが代表をつとめる福島県内の地域活性プロジェクトを発信する「MUSUBU」だ。
メンバーは宮本さんと末永早夏さん。ふたりは、震災直後のボランティア活動をきっかけに
「MUSUBU」を立ち上げ、これまで音楽イベントやワークショップなど、
いわき市を中心に開催してきた。
「私、よく『いわき』とか『福島』ってネットで検索するんですけど
全然いいニュースが出てこないんですよ。それが事実だとしても、
地元の人間としてはやっぱり悲しいんですよね。
悪く考えればきりがないと思うから、私は少しでも楽しみを見つけたり、
楽しめる機会をつくっていけたらと思っているんです」と宮本さんは朗らかに話す。
「桜の森 夜の森」プロジェクトはMUSUBUの活動のひとつとして、
これからも続けていくという。

「次は今回のプロジェクトで撮影したもので写真集をつくったり、
国外での展示方法を考えたりと、どういうかたちが
一番よいかを模索しているところなんです」と白井さん。
宮本さんも、「まだ夜の森のことを知らない人たちにもこの美しい桜を届けたい。
海外の人とか。単純にこの美しさを知ってほしいですね。
それをきっかけに福島のことを何かまた想ってもらえたりしたらいいな」と、
次のステージへのビジョンを語ってくれた。

とは言え、宮本さんも末永さんも白井さんも、本業の仕事のかたわらに、
MUSUBUや「桜の森 夜の森」プロジェクトの活動をしている。
続けるのは大変では? と伺うと、
「誰に言われているわけじゃないから、辞めようと思えばすぐ辞められるんですが、
自分たちが楽しいから続けていられるんです。
自分たちの地元だから、楽しくしていきたいですよね」と末永さんは笑顔で答える。
白井さんも「いわき市出身として福島県で起こったことに対して
何かしたいという思いがやっぱりあるんです」と力強く語る。
「こうやって東京から来た人にも
“大変そうだね”って思われるんじゃなくて、“楽しそうだね”って思われたい。
いわき市は、本当はいいところいっぱいあるんですよ」
とにっこり笑い、宮本さんが言葉を添えた。
「桜の森 夜の森」プロジェクトは今後も少しずついろいろな場所で巡回してく予定だ。

(株)ウインローダーのトラック。裏側に書かれたイラストは、ウインローダーが7月に開催したワークショップで福島の子どもたちが描いたもの。偶然にも「富岡は、負けん」という文字が描かれていた。

左から白井さん、末永さん、宮本さん。3人は偶然にも同じ小名浜出身だったという。

訪れた日は、夏休みまっただ中の日曜日。午後の会場となったアクアマリンパーク内にある「いわきら・ら・ミュウ」では音楽イベントが行われていて、それを楽しみに多くの人が訪れていた。

information

「桜の森 夜の森」プロジェクト移動写真展

主催:福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU 、J-WAVE 81.3FM
撮影:白井亮
ビジュアルデザイン:渡辺俊太郎(BLUE BIRD d.)
協力:株式会社ウインローダー、
富岡町生活復興支援センター「おたがいさまセンター」原田大輔、富岡インサイド
※MUSUBU Online Shopで「桜の森 夜の森」ポストカード販売中
http://musubu.me/

profile

HIDEMI MIYAMOTO
宮本英実

福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU代表。1984年福島県いわき市小名浜生まれ、東京在住。高校卒業後に上京、音楽プロダクションでマネージメント業務を経験後、レコード会社に勤務し宣伝業務を経験。現在はフリーランスでPR・広報などを行う。MUSUBUの活動の為、東京と福島を往復する日々を送る。

profile

SAYAKA SUENAGA
末永早夏

1981年福島県いわき市小名浜生まれ。福島高専3年修了後、単身渡英。イースト・アングリア大学で発展途上国の開発について学ぶ。帰国後、地元企業へ就職するも、途上国への想いをさらに強めることになり、2009年(株)ethicafeを設立。フェアトレードを通して世界の貧困問題と奮闘中。http://www.ethicafe.co.jp/

profile

RYO SHIRAI
白井 亮

写真家。1979年福島県いわき市生まれ。2003年大阪芸術大学写真学科卒業後、電通スタジオ勤務を経て、2007年より上田義彦氏に師事。2011年に独立しフリーランスとして活動を始める。雑誌、広告などの撮影を手がけながら作品を撮り続けている。mail@ryoshirai.com

諸富町 Part3 ソフトから始まるまちづくり。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとをつなげば、まちも動く。

平田

ぼくも先ほどじぶんのことを組合の異端児だ、と言いましたけれど。

山崎

ええ。

平田

おやじもずいぶん変わり者だと思います。
いまでさえ「手づくり」があたりまえの時代ですが、
昭和好景気に生きてきたおやじの世代では珍しかったはずなんですよね。
「これ売っとけばいいだろう」というようなことを過信せず、
じぶんのやり方を貫いてきたんだと思います。

山崎

ぼくも先日、おとうさんとずいぶんおはなしさせていただいたので、
わかるような気がします。

平田

なんだかんだ言って、アタマが柔らかいし、
ぼくのやることも黙って見て見ぬふりをしてくれている。
そういうところは感謝しているし、ほんとうに恵まれていると思っています。

山崎

ありがたいですね。そういえば、入り口横の大きな木を使ったツリーハウスも、
おとうさんが作られたものだとお聞きました。すごくロマンがある。

平田

そうなんです。木を扱う家具、インテリアのまちに並木がないのは
おかしいだろうって、店の周りにたくさん木を植えたのもおやじです。

山崎

うーん、いいはなしだなあ。

平田

すぐ近くにある平田椅子製作所さん、飛鳥工房さんも、
それぞれにがんばっている。うちだけでなく、このムーブメントを
うまくつなぐことでまちづくりができればと考えています。

山崎

あ、せっかくだから飛鳥工房さんにもちょっとうかがってみましょうか。

木のおもちゃ飛鳥工房

木のおもちゃ飛鳥工房。廣松利彦さん、美紀さん夫妻が娘の飛鳥ちゃんのために作った木馬からはじまった、安心・安全な木のおもちゃのメーカー。http://www.asukakoubou.com/

次の世代のためのタネを蒔くこと。

山崎

こんにちは。急にすみません。

廣松

いえいえ。大歓迎ですよ。

平田

こちらは、娘さんの誕生を機に、
木で作るこども用の玩具の制作をされているんです。

山崎

すてきですね。

廣松

その娘も、もう19歳になりますが(笑)。

山崎

もうそんなになるんですか!

廣松

はい。それで、ちょうど、このショップの改装や拡充を
考えているところなんです。たとえば、このすぐ隣の空き地に
地域のこどもが安心して遊べるログハウスを作ろうか、とかね。
こども向けのものづくりワークショップもやりたいですし。
たとえば、むかしの駄菓子屋さんのように、
地域のこどもが学校帰りになんとなく立ち寄ったりしたくなる、
おとなもいて安心して遊べるような場所が理想なんですよね。

山崎

いいですね。次の10年のための構想。

廣松

たとえば、こども向けの木のオモチャづくりのワークショップをするでしょう。
そうすると、普段オモチャを大切にしない子も、
じぶんが作ったものは、笑っちゃうくらい大事にするんです。

山崎

ぼくらがやっているまちづくりも一緒ですね(笑)。
いかに関わって、大事だと思えるものを作るか。
加えて、たくさんのものを作る時代じゃないからこそ、
従来あるものにも、いかにあたらしい関係性を作るか……。

廣松

ええ。
もともと父の代から受け継いだ「廣松加飾」は家具のパーツを製作する会社で、
当初はわたしたちだけ生きていければと思っていました。
でも、次に修理をするひとがいてくれないと成り立たないんだな、と。
そう思うと、ちゃんと次の世代を育てていかないといけないんですよね。

山崎

そうですね。
まちをつくるときに、まずハコものを作りたがるケースも多いのですが、
ここではひとの顔がちゃんと見えているから、ひとをつないでまちをつくれる
というのはとても大きなメリットのように感じますね。

(……to be continued!)

飛鳥工房のショップ

「廣松加飾」の一角に、かわいい木のおもちゃがならぶ飛鳥工房のショップを併設。

かわいい木馬

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんと談笑

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんとともに。「学校でも家庭でもない、こどもたちが集う場所を作りたいですね」と夢を語る廣松さん。

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

気仙沼・男山本店 つながりの地酒。

1912年創業の老舗酒蔵を襲った震災。

宮城県気仙沼市の内湾。
ここは、フェリー乗り場の桟橋が一部を残して海に沈んでいるほかは
瓦礫もきれいに整理された地区だ。
しかし、そんな内湾の海沿いに、ひときわ目を引く建物が倒壊したまま残っている。

この建物は、1912年創業の老舗酒蔵「男山本店」の社屋兼店舗。
国から有形文化財の指定も受けている、歴史ある建造物だ。
もとは木筋コンクリート3階建てだったが、
今は1、2階が潰れて無くなってしまっている。

「震災当時、我々のような直接酒造りに関わるメンバーは店舗近くの酒蔵にいました。
ザーッという波の音と悲鳴を聞いてすぐに、高台に避難したんですが、
山の上から見えるはずの店舗の屋根が、その時にはもう見えませんでした。
あそこまで波が来たのかなと思ってよく見ると桟橋とか、
動くはずのないものが動いている。
驚きとか悲しみとかよりも、夢じゃないのかという気持ちでした」

そう語ってくれたのは男山の副杜氏、柏大輔さん。
気仙沼に生まれ、大学卒業後の就職先で酒類の販売に関係したことがきっかけで、
お酒の造り手となった。男山では、ブログの更新も担当している。

「震災当日は、すぐに帰れると思っていました。
明日は子どもの誕生日プレゼントを買いに行かなきゃなと思っていたくらいだったので、
本当に呑気なものでしたね。
ただ、夜になって火が回った時に、すごいことになっていると気づきました。
はじめて怖いと思ったのも、その時です」

車の中で一夜を明かした翌日。
酒蔵に戻ると、主力銘柄である「蒼天伝」が発酵途中の醪(もろみ)の状態で
無事に残っていた。
生き物とも言えるお酒が搾りの作業を経て完成に至るには、
この状況下でも目を離すことが許されない。
酒蔵には2人の社員を残し、決死の対応で発酵を見守った。
そして、約10日後に新酒の上槽日を迎える。

しかし、電気、ガス、水道はまだ復旧しておらず、
従業員の中にも親や兄弟を亡くした者が少なくない。
この時、前年から仕込みを続けたお酒の完成をあきらめる覚悟もしたという。

「まわりの人がまだ水も電気もない生活を続けている中で、
我々は洗い物をするための水を手に入れようとしているわけですから、
準備が出来てもすぐに気持ちを切り替えられないだろうと思っていました。
こんな状況の中で仕事、ましてや酒なんて造れない」

その時、周辺の人々から応援の声が挙がった。
「地元の生産者として、気仙沼を盛り上げてくれ」
「電気も水も提供するから、是非とも続けてくれ」
従業員達は、この声に背中を押されるかたちで、搾りの作業を実行。
約1600本分の「蒼天伝」が完成した。

男山の社屋兼店舗。目の前に気仙沼湾が広がる。

高台にあった酒蔵も築100年を越える建物。震災の被害は免れた。

震災当時は、タンクに氷を巻き付けて温度調節を行ったそう。

全国から寄せられた応援に応えたい。

「そこから先は怒濤の忙しさで、休みもなく毎日ふらふらな状態。
しかし、ほかの製造業はほとんど動けない状況になっていたので、
私達がやるしかないという使命感で乗り切りました。
あとはなにより、全国の皆様からメールや電話で寄せられた、応援に、
応えたいという気持ちが強かった。
うちは小さい会社なので、市内での流通がほとんどだったのですが、
地元酒販店さんのほとんどが被災し、すぐに商売を再開できる状態ではなかった。
それでも商売を続けることができているのは、
震災をきっかけにできた多くのご縁のおかげです」

それから1年数か月がたち、激務からは解放されつつあるが、
全国から届く励ましと、営業を再開した地元酒販店のために、現在も懸命に出荷を続けている。

「気仙沼を全国に発信するとは言っても、私たちの本業はお酒を造ること。
気仙沼の地酒をできるだけ多くの人に届けたいし、楽しんでもらいたい。
それが、結果的にでもこのまちのためになれば本望です」

震災後に入社した伊藤さんは、元漁師だ。

蒼天伝をはじめとした男山のお酒は、ホームページでも購入可能。

諸富町 Part2 継ぎたくなかったのはなぜか。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

あわよくば、家から逃げ続けたかった20代。

山崎

いま、おいくつでしたっけ。

平田

37歳です。

山崎

学校を卒業してすぐ家業に就かれたんですか?

平田

いいえ。地元の高校を卒業して、カナダへ行きました。
いわゆる遊学というやつです。とにかく、家を出たい一心という感じで。

山崎

そうだったんですね。

平田

日本に戻ってきてからも、同級生たちはみんな外に出ていなくなっているし、
そんな佐賀に戻るのはつまらないと思い込んでいました。
だから、帰国後もしばらく沖縄や東京を転々としてましたね。

山崎

しごとは?

平田

バイト暮らしです。長男なのに。

山崎

長男なのに(笑)。

平田

弟が2人いるので、ぼくがフラフラしてる間に、あわよくばどちらかが
継ぐと言い出してくれないかなぁなんて、都合のいいことを思ったりして。
でも、弟のほうが先に外できっちり就職を決めてきてしまって(笑)。

山崎

もう逃げられない、と。

平田

そんな気持ちのまま戻ってきたんで、はじめのうちはだから、
全然やる気のないぐうたら社員。いま思い返せば、ほんと、よく雇ってくれたなと。
ぼくだったら、絶対雇いたくない(笑)。

山崎

でも、お客さんに育てられて、結婚も考え出すようになって、変わったんですね。

平田

はい。3年ぐらいかかりましたけどね。
大きなきっかけになったのは、ちょうどそのころ、
隣の大川市で行われていたインテリア塾に通い始めたことでした。

山崎

なるほど。はじめは、橋の向こうの大川のひとたちと繋がったんですね!

平田喜利さん

父の平田喜利さんはこの道45年の63歳。受注家具を中心に、「幸せになる家具」を作り続ける。

家具の設計図

設計図にたくさんの道具、年月をかけて集められたこだわりの木材……店の裏に併設するこの工場から、家具が生まれる。

継ぐこと=作ることではないと気づいて、楽になれた。

平田

そこに集まるひとたちの熱意に触れたころが、すごくたのしくて。
それぞれの職場の枠組みを離れて集うための場所を作りたくて、
生まれたのがこの2階のフリースペースなんです。

山崎

いいですね。まさに、おとなのための空間。

平田

彼らとここで関わっていくうちに、技術も知識も熱意も、
すべてが到底かなわないと気づくんです。
父が家具職人ですから、継ぐ=作ることだと、あたり前に思っていたけれど、
父にも仲間たちにも、かなわないなって。

山崎

うん。

平田

そんなときに、テレビかなにかで、北野武さんが
「周りのひとが作ってくれる。ぼくにはイメージがあるだけだ」
というようなことを言ってたんです。これか、と。
ひとりで抱え込まなくていいんだ、と。

山崎

自分の役割のようなこと?

平田

そうですね。ショウルームにある家具は、ほとんど父の仕事。
ぼくが職人として手掛けるのはオーダーメイドの一部だけで、
おもに全体のプロデュースにまわっています。

山崎

そこも、ぼくと一緒だな。ひとの作ったもので、なにができるかを考えよう、と。

平田

山崎さんにそう言われると、いちいち鳥肌が立ちますよ(笑)。

山崎

だからよくわかるんですけど、葛藤や敗北感がないわけではないんですよね。
「でも、やりたい」ことが出てきてしまったから振り切るしかない(笑)。

平田

その通りです! 当然ながら、職人は「いかに作るか」ということを追究し、
こだわって考えるひとたちばかりですから、組合でもぼくは明らかに異端児です。
ことばでは、なかなか説明できないのももどかしくて……。

山崎

そこはもう、やってみせるしかないでしょう。

平田

ええ。最近、そうだと気づきました。

山崎

それで、喜んでるひとの顔を見せるのがいちばんいいんだと思います。

(……to be continued!)

仲間と集うために作ったフリースペース

平田さんが仲間と集うために作ったフリースペース。壁には友人がここでライブペインティングした絵画、階段上には基地のようなスペースがふたつも!

フリースペース2階のテーブル

対談の様子

「もとは作り手だった、というところが一緒。なんだか共感することが多いですね」(山崎)

平田一成さん

「家具を作るだけでなく、周りをとりまく環境をプロデュースする役目を担いたい」(平田)

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・後編

3.11以降の生き方、うけつぎ方を問いかけてみる。

2012年8月11日。肘折温泉の外れにある「いでゆ館」ゆきんこホール。
東北芸術工科大学の准教授で、「ひじおりの灯」アートプロジェクトの
担当教員でもある宮本武典さんが提起したイベントが
「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」。
働き方研究家・西村佳哲さんがファシリテーターになり、
山形の5人のカルチャーリーダーたちと語り合う、約4時間のミーティング。
会場には、約100人の、学生たちを中心とする若者が集まった。

なぜ、このミーティングを行おうと思ったのか、
まず、宮本さんと西村さんが対話する。

働き方研究家の西村佳哲さん(左)と東北芸術工科大学准教授の宮本武典さん。

Talk1 宮本武典(東北芸術工科大学准教授)×西村佳哲
<どうしてこの企画を?>

西村

今日のテーマは、3.11東日本大震災後の東北、山形を
どううけつぎ、生かしていくか?
宮本さんは震災で変わったのだと思っている。
そして今日のゲストは山形県の文化的リーダー。
宮本さんは、このひとたちが変わったように見えるのですね。
家業や、立ち上げた仕事へ意欲を持つひとたちの居所が
変わらざるを得なかったといったことも含めて。

宮本

1年半前の東日本大震災。また肘折では、
外からの往来をつなぐ幹線道路の地滑りによる交通の遮断もありました。
肘折という場所は、地域と大学とが一緒になって、
地域を考えていくひとつの入り口。
これまで100人以上の学生が参加、通い、学んできたのですが、
3.11以降起こったことは、地域とアートでは括りきれない出来事。
学生たちにとっては、これからなにを作ったらいいのか?
が今日のテーマでもあります。
ただし、おそらくアートやデザインを学ぶ学生たちだけでなく、
自分も含めて、この出来事によって、
私たちは、生活全般を作り直さなければならない、
という状況にあるのではないかなという思いがあります。

西村佳哲さんにファシリテーターとして来ていただいたのは、
西村さんの本『いま地方で生きるということ
がきっかけです。
震災後の山形をどううけつぎ、生かしていくのか?
それぞれの生活や仕事でうけついだもの、うけつぎたいものを、
うかがってみたかった。
復興支援の活動を学生たちとやっているのですが、
あるまちで象徴的な光景を目にしたんですね。
そこは震災によって集落は消え、高台の神社だけが残っていた。
神様だけがそのまま。
アートは、次になにをつくるかという、
新しいものへ向かうことが多いものですが、
ここになにか新しいものをというのではなく、
過去を呼び出す、うけつぐことのほうが重要なのでは
という思いが生まれたんです。
今日のゲストは、前の世代をうけついだひとたち。
でも、ストレートに“うけつぐ”ということが
難しくなっているとも思うんです。
“うけつぐ”と“呼び出す”はニュアンスが違いますが、
土地やひとの歴史にもっと深く感度を上げて、
以前からあるものをカスタマイズしながら、
いまの時代にあったかたちで、うけつぎ、呼び出していく行為。
その“うけつぐ”現場、“呼び出す”現場が
どうなっているのかを知りたいんです。

西村

宮本さんから見て、今日参加してくれている5人の方々は、
理想を実現している印象なんですか?

宮本

んー。いろいろ直面していると思うんです。
でもけっして、「しかたないよ」ではなく、
自分で仮説を立てて、受け身でなく対応している。
それによって、なにかに直面していると思うんです。
まさに、そのことは、アート、農業、観光などに携わる
ひとびとが、業種を超えて共有しなければならないものです。

西村

どう生きていくか、働いていくか。
その実践を語ろうというのは、成功例でこのようになりましょう
ということではけっしてなくて、どう考え、喜び、しんどいか。
おそらく今日は、それを報告してほしいということなんでしょうね。

宮本

問題を発見する能力だと思います。
アートでもほかでも、それがないとピントがあっていかない。

西村

うまくいっている部分というより、期待しているのは、
課題をどう捉えているか知りたい
ということなのかもしれませんね。
今日、みなさんが集まった意味は。

Talk2 渡辺智史(ドキュメンタリー映画作家)×西村佳哲
<山形でドキュメンタリーを撮り続けることは可能か?>

渡辺智史(わたなべ・さとし)
1981年山形県鶴岡市生まれ。鶴岡南高等学校卒業。
東北芸術工科大学デザイン工学部環境デザイン学科卒業後に上京し、
映画制作会社に勤務後フリーとして活動開始。
2011年に映画『よみがえりのレシピ』を完成させる。

西村

最初のゲスト。渡辺智史さんです。
まず、今日のテーマを受けての自己紹介を。

渡辺

私は東北芸術工科大学に1999年に入学しました。
建築に憧れ、環境建築を専攻。
2000年に大学で東北文化センターが立ち上がり、
その活動の一環で、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に参加。
世界中から制作者が集まり、話を聞くというまたとない機会で、
自分の中にひとつ、ドキュメンタリー映画の可能性
という気持ちが芽生えたんですね。
2001年、大学3年生のときです。
9.11のNYテロが起き、その映像を見た瞬間、
言葉では表せない恐怖感を覚えた。
大学の授業は、体系だったものを教えるもの。
では、目の前で起きたことに大学の学問はどう答えられるか?
という自分の中の課題もそこで生まれました。
その後も、世界中からさまざまなドキュメンタリー映像が集まり、
その濃さに驚いた。市民がビデオを持って作品をつくれてしまう、
作家と市民の境目がなくなった、と思った。

そうして、ぼくは映像の世界に入っていくのですが、
山形のどういうものを掘り下げるか。
自分が探っていたいものは農村だったんですね。
そして、初めて監督した作品が
湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』。
(2009年廃校になる大蔵村立肘折小中学校の
廃校を迎えるまでのドキュメンタリー)
青年団や地元のひとたちと、映画を撮れた。
映画制作が、撮って終わりでなく、上映にも関わる。
それを体感できたのは貴重な体験でした。
つくるだけでなく、届けること。
ただ、一方で、経済的には成り立たない面もあることに
直面するわけです。
今度新作を撮りました。
よみがえりのレシピ』という作品で、
テーマは“在来作物”。
その土地特有の野菜は、貴重な地域資源でもあり、
生物多様性の豊かさでもある。
その種を守り、つくる、その在来野菜に光を当てて
メニューを提供する山形イタリアン「アルケッチァーノ」の
シェフ奥田政行氏も登場します。
この製作は、市民有志で製作委員会を構成する
“市民プロデューサーシステム”というかたちで実現しました。
一口1万円の資金を提供する。
上映されることでどうか関わっていけるかなど
トークショーなどもしながら、つくってきました。

西村

この映画は、みんなが見たいと思ったらどうすれば?

渡辺

10月20日からユーロスペースで公開されますが、
肘折でも、東北芸術工科大学でも上映します。

西村

渡辺さんの関わり方は、作品をつくるだけでなく、
届けることもする。そこに活路を見出している。

渡辺

売れる映画というのは製作面でも上映でも
だれかに面倒を見てもらえますが、
ドキュメンタリー映画というのは、
どこか在来作物のようなところがあって、
小規模で、手を差し伸べてもらえることがなかった。
なんとか自分たちで再生産できるように、
経済活動のなかでも生き残れるようにしていきたいと思うと、
こうした手法になります。

西村

日本の戦後の映画興行システムとは違い、
多くのひとは食べさせられなくても、
少人数は生業を立てていけるようなイメージ?

渡辺

東京はフリーのチームの自在なつくり方ができる。
山形でも山形らしいそうしたかたちがつくれたらいいのでは
と思ってます。

西村

私は出身が武蔵野美術大学の工業工芸デザイン。
作品のつくり方は教わったが、つくり方以上のことは
教わらなかった。例えば、ポストカードをつくったとして、
どう届け、広め、稼ぐかを、大学では全く教えてくれなかった。
それは渡辺さんが専攻した建築でも?

渡辺

みかんぐみの竹内昌義先生のような、
現場をもちながら、教えてくれるひとはいますよ。
それは勉強になった。

西村

目の前で生み出されることを知るのはいいよね。
ロサンジェルスに建築を学び行っていた若い友人に
どんな授業を受けているのか訊いたら、
ちょうどその頃は、300人くらいの大きな設計事務所のひと、
10名ほどのアトリエのひと、ひとりでやっているひとなど、
いろんな建築家が週替わりで教室に来て、
仕事の進め方や成り立たせ方を教えてくれているって。
すごくいいなと思った。
渡辺さんは、東北を離れようという考えはなかったのですか?

渡辺

6年ぐらいは東京にいました。
映像制作の事務所にいたことがあるのですが、
そこでは、まず企画書を書いて、ゼロから始める。
そこで鍛えられました。
山形でやろうと思って、縁あって
『湯の里ひじおり -学校のある最後の1年-』を
つくることができたのですが、
その時、後ろめたさも感じたんです。フォーカスする場所について。
なので、『よみがえりのレシピ』というのは、鶴岡を舞台に、
自分の生まれた場所で映画をつくろうと思った。
それは、自分が距離を置いていた故郷と
関わり直すことでもあった。
ドキュメンタリーというのは、撮る側も、見る側も
学びのツールだなとつくづく感じます。
真剣勝負で関わることで、とても勉強になる。

西村

東京では離合集散ベースで作品制作はできるが、
山形でそれをやるのは難しいのかな?
ひとが少ないから?

渡辺

フリーランスで活動しているひとが少ないですね。
映画だけで食べていくのは難しい現実がある。
だけども地道に上映活動をすることで、
地域の観客としっかりした関係が生まれ、
継続して映画制作を応援してくれる土壌ができあがる。
そのためにも『よみがえりのレシピ』の上映活動を
地道に行っていこうと思っています。

西村

震災の前後で世界や認識は変わりましたか?

渡辺

ひとの動きが変わったと思います。
FacebookなどのSNSをやるひとが山形県内でも増えた。
故郷に帰るデザイナーもいる。そんなひとたちと、
ゆるやかな連帯の中から、
ビジネスの芽を見つけようとしています。
インターネットのことなどは、
地元にいるスペシャリストから知恵をいただいて、
進めていたり、ということが起こっています。

西村

それが聞けてよかった。

月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方・前編

山形県のちいさな温泉街でおきていること。

山形県大蔵村は、全国に44ある「日本で最も美しい村」のひとつ。
山形県のほぼ中央に位置し、JR新庄駅からならクルマで約30分の小さな村。
その村の中心部から、さらに山を越えたところ、
肘折火山の噴火が作ったカルデラに佇むのが肘折温泉。
月山、葉山などの山々を水脈とする銅山川の水は豊富で、
川沿いに寄り添うように並ぶ20余りの旅館や小さな温泉街の通りには、
水も源泉も惜しみなく流れ続けている。

開湯1200年と伝えられる肘折温泉は、
東北地方を中心としたひとびとの湯治場として愛されてきた。
風情のある旅館は縁側も開放され、
ひとびとはそこでのんびりと無駄話を楽しむ光景が見うけられる。
商店には、みやげものだけでなく、地場の山菜、日用品、食材が並び、
そして、毎朝5時には地元農家のばあちゃんが開く朝市も起ち、
自炊も含めた湯治文化が残っていることを感じさせる。
旅館のごはんも、滋味溢れる地元の食材を、
米どころ山形のうまい飯でいただく。美味しさをしみじみ堪能できる。

大蔵村四ヶ村地区にある棚田は、日本の棚田百選にえらばれ、夏にはほたる火まつりが行なわれる。

カルデラ温泉館に湧き出る炭酸泉。飲泉として利用すれば、胃腸や肝臓などの働きを良くしてくれる。

これが肘折温泉のメインストリート。旅館と商店が並ぶ、小規模な温泉街。

商店にはおみやげとしても自炊湯治にも使える地元の名産が並び、朝市も立つ。

ものの5分もあれば、端から端へと行き着いてしまう温泉街。
普通なら、高齢の浴衣姿の客がそぞろ歩く静かな湯治場であるはずが、
ここはちょっと違って、若者たちのグループや、若い家族連れやカップルの姿も多い。
その呼び手となっているのが、山形市にある東北芸術工科大学の活動。

肘折もかつてに比べると、訪れる客も減り、後継者の問題も根深くある。
そんな温泉街に2007年から東北芸術工科大学がアートプロジェクトを立ち上げ、
学生たちが訪れ始める。
アーティストが滞在して作品を制作するアーティストインレジデンスや、
『ひじおりの灯』と名づけられたプロジェクト。
これは今年で6回目を迎える。
肘折は夏や、秋の収穫を終えた農閑期には湯治客で賑わうが、
冬は3メートルほども積もる雪のなかで、ひっそりと、
本当に地元のひとびとだけがひっそりと家の中で暮らす土地になるという。
その雪が消え始める春先、
東北芸術工科大学の学生たち(あるいはいまでは卒業生も)が、温泉街にやってくる。
旅館に滞在しながら、旅館や店の歴史や物語を聞き、
それを月山和紙に灯ろう絵として起こしていくのだ。
その灯ろうは、毎年、7月終わりから9月にかけて、それぞれの家に吊るされ、
毎夜、灯が灯されて、観光客たちの目を愉しませている。

おそらく、アートには、つくられた作品によってひとを招く力だけでなく、
制作する過程の中で、土地の記憶を呼び覚ます力、ひとをつなげる力、
土地の伝統文化や資源を保全する力、その土地の価値を高める力があると思う。
そうした、アートの可能性を、学生たちと地元のひとびとが模索し、
協力し、実践する、大きな実証の場にこの肘折温泉はなっている。

温泉街の真ん中に、旧肘折郵便局舎の建物がある。
この昭和12年に建てられた洋館は、肘折温泉のひとつのランドマークで、
これまでの灯ろう絵のギャラリーを学生たちが運営しながら、
毎朝、はたきを持って、灯ろうの手入れをし、夜は灯ろうに灯をともす。

旧肘折郵便局の建物から始まる、毎年恒例の「ひじおりの灯」のイベント「肘折絵語り・夜語り」。

肘折には、いま学校がない。かつて、大蔵村立肘折小中学校があったが、
村の中心部の学校に統合され、2009年廃校となった。
それ以前ももちろん、中学を卒業すると村の子どもたちは、
さらに外の高校へ行き、その後の進学や就職によって
肘折をいったんは離れていくというケースも多いと聞く。
そして、ある時期に、家業を継ぐために帰村するかどうか選択する時がくる。

肘折でそば屋さんを営む、肘折青年団の団長の早坂隆一さんは、
大学院を出た後、東京のIT系の会社に勤め、2005年に肘折に帰り、家業のそば屋を継いだ。
東北芸術工科大学のアートプロジェクトや、
そのOBのドキュメンタリー映画監督渡辺智史さんの肘折での映画制作に関わる中で、
青年団の活動の輪を広げていった人物。
彼が語った言葉。
「ひじおりの灯というのは、この場所の、
地元の自分たちが見えていなかったものを見せてくれる活動。
例えば、この村に自然があるのはあたりまえのことなんですが、
それをひとつの作品というかたちで見せてもらえるのが新鮮だった。
外のひとたちの視線や体験が残したいものを照らしてくれる。
そして、そのこと自体も、残したい財産のひとつになっている気がします」

ある大学とある温泉集落。ここで営まれることの価値は、
次第に内外のひとびとを巻き込み、あるかたちを見せてきている。
これは、確かなこと。

諸富町 Part1 佐賀・諸富で 家具をつくるということ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

「日本一の家具産地」の、隣町。

山崎

はじめまして! ようやく会えましたね。

平田

先日は、せっかくお越しいただいたのに留守にしていてすみませんでした。

山崎

いえいえ。こちらが突然押しかけたんですよ。
前回は、お父さんに案内していただいたので、
今日は一成さんのお話をたのしみにやってきました。

平田

よろしくお願いします。

山崎

佐賀駅からタクシーに乗ってしまったので、地理がよくわかっていないのですが、
ここはもう福岡県との県境なんですね。

平田

そうなんです。ここは筑後川の中州にあたるんですが、
次の橋を渡れば、福岡の大川市というまちに入ります。

山崎

大川も、たしか家具で有名なまちですよね?

平田

ええ。むかしから、日本一の家具の産地といわれたまちです。

山崎

とすると、諸富に家具屋さんが多いのも、隣町の大川と関係が?

平田

ありありですね。少し前までは、この辺りまで、
エリアとして大川と認識されていました。
佐賀のひとにさえ「諸富の家具」という知られ方はしてこなかったと思います。

山崎

なるほど。

平田

うちも、本家は大川で婚礼家具をつくっていて、
父の代からそのショールーム的機能として、ここを設立したんです。

山崎

お。婚礼家具だから「お祝い」の「いわい家具」なんですね!

豊かな樹木に囲まれた「いわい家具」

国道208号線沿い。小さな森のように豊かな樹木に囲まれた建物が「いわい家具」。すぐ先の大川橋を渡れば、福岡県。

「いわい家具」の看板

店名は「祝い」に由来。一成さんの父である喜利さんは、無垢の木を使ったオーダー家具、創作家具の制作を得意とする。

「諸富家具」として、胸を張っていく。

山崎

筑後川にふたつの橋が架かり諸富にも企業が進出し、
お父さんがここに「いわい家具」を構えられたのが、
ちょうど右肩上がりの高度経済成長期だったというわけですね。

平田

そうですね。

山崎

だとすると、そろそろ代替わりの時期でしょうか。

平田

うちはまだ父が粘っていますけど(笑)、
諸富家具振興協同組合は現理事長が40代なので、全体的に若返りつつありますね。

山崎

後継ぎさんたちは、だいたい一成さんと同世代ですか?

平田

40代が多くて、ぼくはその世代のいちばん下ぐらいですね。

山崎

組合の規模はどのくらい?

平田

家具メーカーだけでなく、資材卸業者や木工機械メーカーなども含めて約30社です。

山崎

代替わりで、ずいぶん面白くなりそうですね。

平田

ぼく自身も、やっとやる気になったんで(笑)。

山崎

え、やる気なかったんですか(笑)。

平田

そうなんです。
25歳でやっと家業に戻ったんですが、入社しばらくは、我ながらぐうたら社員で。
今から思えば、よく雇ってくれたな、と。

山崎

それで、気持ちが変わったのはいつ?

平田

隙あらばサボっていた自分でも、納品先で「ありがとう」と喜んでもらえると、
やっぱりうれしいんです。
でも、そのことに気づくまでに、数年かかりましたよね。
お客さんに育てていただいたんだと、今はつくづくありがたく思っています。

山崎

いい話だなあ。ぼくも一緒だな。

平田

……え?

山崎

ぼくだって、そうだったはずなのに、人前ではついつい
「はじめからできてました!」みたいに語ってしまうから……。
正直にさらけ出さなくちゃ、と(笑)。

平田

あはは。山崎さんも一緒だなんて、なんだかうれしいですよ(笑)。
正直、結婚前ですね。ぼくがやっとちゃんと働こうと、こころを決めたのは。

(……to be continued!)

平田一成さん

「大川ブランドから脱却して、諸富家具としてのアピールを」(平田)

山崎亮さん

「世代交代で、まちが面白くなりそうな予感がしますね」(山崎)

「いわい家具」内観

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

滝川 Part4 第5回太郎吉蔵デザイン会議 を終えて。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

少しずつ、間接的に。でも確実にまちへ沁み出していく。

山崎

大きな蔵のなかに何人かのデザイナーが集まって
「あーでもない、こーでもない」と本音でしゃべる。
聴衆を意識したり、喜ばせたりしようと努力する必要がなく、
ただそこに集まったパネリストとの対話を楽しむだけでいい。
これは気が楽でいい。のびのびと、対話を楽しませてもらいました。
でも、蔵の外からは、なかで何が行われているのかわからないし、
この会議はそもそも滝川のまちに影響を与えようと意図されたものでもありません。
では、まちにまったく何の影響もないのかというと、そうでもないと思うのです。

会議には毎回、地元のデザイナーや起業家、活動家が呼ばれます。
そして、まず彼らの基調講演を受けて、
全国から集まったデザイナーたちが語り始めます。
彼ら地元の基調講演者、加えて地元の聴衆者が、
この場の対話の内容をそれぞれの日常へ持ち帰ることで、間接的とはいえ、
蔵の中で話し合われたことが少しずつまちへと沁み出していくことになるでしょう。

そして、毎年全国からデザイナーが集まって
蔵のなかで話をしているという事実は、
回を重ねるほど地元の人たちにもその存在が認知されるようになるはずですね。
「なぜ自費で?」「なぜ滝川で?」「なぜ蔵のなかで?」
こうした疑問は、じぶんたちのまちの価値や
今後のあり方を改めて考えるよいきっかけになると思います。

「地域の未来を考える会」「地元の元気を取り戻すために」と銘打った
シンポジウムや講演会も一定の価値を持つことは確かです。
でも、それをくり返せばくり返すほど、住民が受け身の姿勢になってしまい
「地元がお客さんになる」危険性も内在しています。
ところが、太郎吉蔵デザイン会議はそうじゃない。
住民が自ら動き出さなければ、情報が手に入らない。
それはほんの一部の人かもしれないけれど、
主体的で力強い行動が生まれる可能性を内在しているといえます。
こんな会議、どこにでもあるわけじゃないですからね。

第5回を数えた太郎吉デザイン蔵会議の会場

第5回を数えた太郎吉デザイン蔵会議。パネリストがじぶんたちで会場の椅子をセッティングするのもユニーク(写真左端は原研哉さん)。

会議中の山崎亮さん

参加申し込みはインターネットの告知のみで、2週間で定員に達したという。「のびのびと好きなようにしゃべれて、たのしかった」(山崎)

小さな田舎の小さな会議。その大きな希望と可能性。

五十嵐

今回も、議論には素晴らしいものがありました。
特に、山崎さんによる「つくることとつくらないこと」の真実、
この視点が議論に持ち込まれたことが
今年の議論の広がりと深さをつくりあげたと思います。
人と人がつながったときの力、激変する世界のスピードに対する態度、
さらにアジアの近未来についても、
情報と知恵と思考の大きな広がりと可能性に思いをはせることができました。
たくさんのおみやげが、心のなかに積み重なった濃密な2日間でした。

山崎さんのおっしゃる通り、
会議は地域の活性化を目指すために開催しているわけではありません。
「NPOアートチャレンジ滝川」としてはそういう活動をしていますが、
その一部である太郎吉蔵デザイン会議は、日本や世界が抱える問題、
本質的な問題についてデザインで解決できる方法、理念について、
滝川のような田舎で話し合われることの健康さを目指しているといえます。
とはいえ、昨年の基調講演者の金道泰幸さんが今年は事務局を手伝い、
新十津川町のお母さんたちが昼食を用意、
滝川の野口翔吾さんが野菜とお米の販売を始めるなど、
運営サイドも生き生きと成長し拡大しています。このような人たちを通じても、
私たちの思いがじわじわと地域につたわることも期待しています。

一方で、新滝川市長、教育長も昨年に続いてのご参加、
地元企業や滝川市と新十津川町の教育委員会の支援もいただき、
ある意味、会議は小さいながらもピークに達した感があります。
今後は、新しい魅力的な仕組みを考えるタイミングにあると考えています。
もちろん、パネリスト自身のための会議だという基本は変わりませんが、
小さな田舎の小さな会議であるから可能な仕組みと議論の高い質を維持しながら、
本音で話ができる環境をひき続き実現したいと話し合っているところです。

帰り際に原研哉さんが、この会議はかなり重要な会議になるかもしれないと
希望の言葉を残してくれました。
この希有な小さな会議を新陳代謝しながら、みなさんと共に、
さらなる高みを目指したいと思っています。

五十嵐威暢さん

真剣な表情で、デザイナーたちの意見交換に聴き入る五十嵐さん(写真奥)。

五十嵐威暢さん、山崎亮さん

パネリストと参加者が平等に交流しながら全員でつくる会議。「こんな会議はほかにはありませんね!」(山崎)(撮影:山口徹花)

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map

TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

滝川 Part3 アートが、まちの未来に どう関われるか。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

そして、太郎吉蔵の修復が始まった。

山崎

日本に戻ってこられたきっかけは?

五十嵐

終の住処だと思ってロスに家も建てたのに、44年ぶりに北海道から声がかかってね。
故郷が呼んでくれているのだからと、先生と同級生に会いに来ました。

山崎

滝川へ? いつごろのことですか?

五十嵐

2000年です。

山崎

まちの印象は、ずいぶん変わってたはずですね。

五十嵐

ええ。大嫌いなまちになっていました。ゆたかな、自然の美しい場所だけれど、
2代前に開拓された地ですから、やはり文化がない。
でも、同級生との再会が運命を変えたんですね。

山崎

では、太郎吉蔵の修復も、仲間のみなさんからの提案だったんですか?

五十嵐

そうです。ぼくたち兄弟が祖父から相続していた古い蔵は、
次の冬にも崩れるぞという状態だったんですが、
修復してコンサートをやりたいねえ、と。

山崎

改修設計は中村好文さんですね。

五十嵐

改修の費用は見積もりで3400万円。
NPOを立ち上げて助成金を申請しても、行政から出るのは2分の1。
滝川ではほとんどお手上げだったのですが、道内外から、
半年のうちに寄付などで残りの1700万円が集まって。

山崎

それはすごい。

五十嵐

というわけで、アメリカの家をひき払うことになるんです。

修復されてよみがえった太郎吉蔵

修復されてよみがえった太郎吉蔵(1926年竣工)。重厚な木の扉は、五十嵐さんの作品。

アートとデザインと、まちの関わり方。

山崎

なるほど。そういういきさつがあって、
「アートチャレンジ滝川」が生まれるんですね。

五十嵐

駅前のシャッター街は、このまま放っておいても空き地になる。
それならいっそ、札幌の大通公園に負けない公園にしたらどうか。
風景、ランドスケープを観光資源にしよう! というのが当初のコンセプトでした。
でも、のちに山崎さんの本を読んで、おおいに反省することになるんです。

山崎

反省?

五十嵐

全国のメンバーと共有したはずのこの夢に、サークル活動のような
地元の種や芽や根をうまく乗っけることができてなかったんです。
反省すべき大半の原因はここにあると、いまでは思っています。

山崎

なるほど……。

五十嵐

「紙袋ランターンフェスティバル」など、
うまくいったプロジェクトもあるんですよ。
冬のまちが生き返るようになるイベントで、これは実行委員会が発足して、
すでにぼくたちの手を離れるまでに成長しました。

山崎

資料によると10年も続いていますね。なぜ、これはうまくいったんでしょう。

五十嵐

始まりが市民ワークショップだったんです。雪に閉じ込められる長い冬に
たっぷりの時間をかけて、ひとがひとにその手法を教えていく。とくに、
子どもたちの作品は、とてもすばらしい。まさに、まちのひとが生んだアートです。

山崎

では、太郎吉蔵デザイン会議はどこからアイデアが?

五十嵐

「アートチャレンジ滝川」の主たる事業として、五十嵐アート塾があります。
はじめは200人集まったこのアート塾も、
回を重ねるごとにやはり参加者は減っていく。
そこで、ひとが集まる魅力は何だろう、そのための仕組みはどうすればいいだろう、
と考え抜いて生まれたのがデザイン会議。
スピーカーが主役だから、自腹でもやってくる。いわば、聴衆はおまけ。
このあたりの発想は、リチャード・ソール・ワーマンが創設した
当初の「TED(*1)」に影響を受けています。

山崎

なるほど、TEDですか!

五十嵐

足を運んでくださる聴衆を、おまけなんて言ったら失礼だけど。

山崎

いえいえ。ぼくも初めは聴衆として参加したわけですが、
ここで原研哉さんにも会うことができたし、とてもよい刺激をいただきましたよ。

(……to be continued!)

*1 TED:T=テクノロジー、E=エンターテインメント、D=デザインの意。全世界500名の招待者限定のカンファレンスとして、1984年、情報建築家のリチャード・ソウル・ワーマンによってモントレーで開催されたのが始まり。五十嵐さんは、1990年に行われた「TED2」にスピーカーとして登壇しているほか、ワーマンからの依頼でTED10までのタイトルの数字をデザイン。その数字を含むタイトル映像が、毎回の会議のオープニングを飾った。

五十嵐威暢さん

「最近やっと、地元の若いひとの参加が増えてきたし、あたらしく、母校の改修のはなしもある。やめなくてよかった」(五十嵐)

山崎亮さん

「やめなくてよかったですね。でも、ロサンゼルスの自宅から通われていたころはさぞかし大変だったと思います」(山崎)

「第5回太郎吉蔵デザイン会議」で展示された、紙袋ランターン

「第5回太郎吉蔵デザイン会議」で展示された、紙袋ランターン。中に、ろうそくを灯す。(撮影:酒井広司)

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TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

STUDY 導入ポテンシャル

自然エネルギーの宝庫、日本。

日本で自然エネルギーがどれだけ導入できる可能性があるのかを考えたとき、
可能性のある自然エネルギーには以下の様にさまざまな種類があります。
これらの自然エネルギーの可能性を考えると
日本はまさに自然エネルギー資源が豊富な国であることに気がつきます。

・太陽光発電
・太陽熱による熱利用および発電
・風力発電
・バイオマスの熱利用、発電および輸送燃料(バイオ燃料)
・水力発電(大規模なダム式の水力発電、小水力発電)
・地熱の熱利用および地熱発電
・波力などの海洋エネルギー

実際に、日本を地域別にみた自然エネルギーの導入ポテンシャル
(将来、導入が可能な発電設備の容量)は非常に大きいことが分かっています。
例えば、日本国内でも導入が進んでいる住宅用の太陽光発電では、
全世帯の7割程度の屋根に設置した場合、日本全体の発電量の10%程度に相当します。
さらに環境省による自然エネルギーの導入ポテンシャル調査では、
住宅用以外の太陽光発電、小水力発電、そして風力発電について
国内全域の導入ポテンシャルを推計しています。
太陽光発電については、工場やビルなどの屋根の上に太陽光パネルを取り付けるほか、
遊休地などさまざまな未利用の土地が日本全国で活用できることが示されています。
小水力については、水資源の豊富な全国の山間地域において導入が可能であり、
その導入可能量は1400万kWと推計されています。
風力発電については、従来から導入が進められてきた陸上について、
特に東北地域や北海道において導入ポテンシャルが大きく、
その導入可能量は、2億7300万kWと推計されています。
さらに現在、技術開発が世界中で進んでいる洋上風力については
北海道を中心とした地域で導入ポテンシャルが大きく、導入可能量は1億4100万kWと推計され、
陸上とあわせた導入可能量は4億kWを超えています。
これは、日本国内に現在ある発電設備の全設備容量を遥かに上回る量です。

この地域別の導入ポテンシャルを風力発電について見てみると、
北海道や東北そして九州に多くのポテンシャルがあることが、
さまざまな調査でもわかっています。
特に北海道では現在導入されている全ての発電設備(火力や原子力を含む)に対して、
30倍もの導入ポテンシャルがあるという調査結果となっていますが、
その豊富な自然エネルギーによる電力を、
エネルギー需要の大きい他の地域へ送る為の
インフラ(送電系統など)の整備が課題となっています。
その中で、陸上での導入に加えて洋上での風力発電の導入も期待されており、
日本国内でも技術開発や実証試験が始まっています。
さらに日本国内には、世界第三位の地熱資源による地熱発電や
地熱利用の大きな可能性があります。
産業技術総合研究所が2008年度に行った地熱資源量の評価結果では、
大規模な蒸気を利用した地熱発電の導入可能量が約2300万kWあります。
これは現在の設備容量の40倍以上に達します。
さらに日本には高温のため利用されていない温泉のエネルギーがあり、
それを発電に活用する温泉熱発電(バイナリー発電)の導入可能量は
約700万kWあると推計されています。

市町村別陸上風力ポテンシャル量と洋上風力ポテンシャルマップ(出典:一般社団法人 日本風力発電協会)

TOPIC GREENY岐阜

市街地民家における再生可能エネルギープロジェクト。

前回は、古民家における再生可能エネルギープロジェクトを紹介しましたが、
今回は、市街地の民家での再生可能エネルギープロジェクトを紹介します。
ともに、岐阜県が、環境省の委託費を得て行っている新エネルギーパークの事例となります。

GREENY岐阜と名付けられた実験施設は、岐阜駅から遠くない市街地の中にあります。
前回紹介した「電池三兄弟」、つまり、太陽電池、燃料電池、蓄電池の3つに加えて、
このサイトでは、小型風力発電を組み合わせていました。
管理を委託されているイビケン株式会社の服部哲幸さんにいろいろと説明いただきました。
まず、太陽電池は、2009年11月のコストで、
kWあたり60万円でSANYO三洋製のパネルを6.3kW購入したということです。
GREENY岐阜では、午後に電柱が常に太陽光パネルにかかっていて、
期待値の8割しか発電量が得られていないということです。
モジュールが直列になっているため、
一部に影がかかる場合でも全体の発電量が減少するということでした。
これから太陽光を設置する場合には、十分注意しなければならない点だと思います。
なお、最近は、モジュールを並列に組んでいる太陽光パネルも市場に出ているようです。
燃料電池のエネファームは、年間2000kWhで、
補助金85万円分を除いて100万円で購入ということでした。
ただ、燃料電池は蓄電池には直接つないでいません。
蓄電池は、太陽光パネルと小型風車の電力のみということになります。
太陽光パネルを付けている家庭では、燃料電池の使用によって電気代が減った分、
電力会社に売電できるので、
結果的に、間接的なインセンティブを与えることができるということになります。
リチウム蓄電池はSANYO製で、9.7kWh、500万円ということでした。
現在の価格水準は、4.15kWhで120万円くらいということです。
最大出力まで溜めて、使い切るという使用法だと耐用年数が短くなるため、
7割充電して止めて、使うという方法なら10年以上は持つようです。
つまり、耐用年数を考えると、7割までしか使えないということです。
この容量で、この建物で生活するためにぎりぎりのところということでした。
GREENY岐阜では、体験宿泊を受け入れているのですが、
最初の客に電力を使い切る可能性があることを伝えなかったところ、
蓄電池容量をすべて使ってしまったので、
その後のお客さんにはその可能性を伝えています。
そうすると、蓄電池容量を使い切るお客さんはいなくなったということです。
つまり、意識すればこの容量で生活できるということです。
ちなみに、照明はすべてLED照明で約3kWh。その他、テレビ、冷蔵庫、
パソコン、ゴパン(お米からパンをつくる装置)などが置かれています。
小型風力は、ゼファーのエアドルフィン4kWで160万円です。
しかし、年間27kWhしか発電していません。
年間500kWhくらい発電してくれると期待していたが、
屋根からの突き出し方が足りなかったということです。
また、小型風力を建物本体に付けてしまったので、
建物と共鳴して騒音が発生してしまったということです。
わたしが訪問したときも、
ほとんど発電していなかったのにもかかわらず、うるさく感じました。
太陽熱給湯器は置かれていませんでしたが、
太陽光パネルにたまった熱をファンで室内に持ってくる設備を設けています。
これは日中だけ使えることになりますが、
ファンで使う電力の10倍分くらい熱エネルギーが回収できるということでした。
全体をコントロールするHEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)は、約500万円です。
服部さんは、直流のままバッテリーから家電に流すことができれば、
もっと効率が良くなり、LEDも直流で点くため
DC家電(直流で動く家電)の整備が必要と指摘しています。
GREENY岐阜によって、約10kWhの容量の蓄電池があれば、
太陽光による昼間の充電で、一家族が一晩暮らすことができるということがわかりました。
蓄電池は高価ですが、現在、販売されているプラグインハイブリッド車に積まれた蓄電池は
かなり大きな容量が大きく、三菱アイミーブで16kWh、日産リーフで24kWhとなっています。
すでに車から家庭へ電力を供給するプラグも販売されています。
太陽電池とプラグインハイブリッド車の組み合わせで、
家庭のエネルギー自給を図ることが現実的になってきています。
岐阜県の事例では、太陽電池、燃料電池、蓄電池の「電池三兄弟」に注目した取り組みでしたが、
太陽熱給湯器、地中熱ヒートポンプ、薪・チップ・ペレットによる熱供給など、
熱にも注目して、建物単位・コミュニティ単位のエネルギー自給を進めていくことが
重要だと思います。

GREENY岐阜全景(左の電柱のおかげで太陽光発電量が2割減となっている)

GREENY岐阜の内部(窓際におかれている黒い装置が蓄電池)

河合 誠さん

山の中から発信されるバッグづくりとコミュニティ。

岡山の市街地から車で約30分。山道をくねくね上っていくと、napが現れる。
napはシュペリオール・レイバーというバッグブランドを中心に、
メンズ・レディスも扱うアパレルメーカーだ。
ここは本社であり工場。すべての機能が集約されている。
もともと本社は岡山市内にあった。
岡山はアパレル産業で有名だが、それでもやはりファッションの中心地は東京。
岡山市内でも不便はあっただろうが、もっと不便ともいえる山の中に、今年3月に引っ越した。

「海外のブランドってよく環境の良さそうな雰囲気のいい
アトリエを持ってるじゃないですか。
海外を相手にするときに、日本の田舎の雰囲気を大切にしながらものづくりをしないと、
同じ土俵に立てない気がしたんですよね。
それなら日本には里山文化というものがあるので、
懐かしい風景を織り交ぜて、それらを生かしてみようと。
ゆくゆくは、小さな会社であっても、
世界的な位置づけを持つ会社を目指していきたいと思い決断しました」
と語るのは、社長の河合誠さん。

懐かしさを残しながら、洋風にリノベーションされた校舎。校舎の前には校庭もある

この場所はまちから購入した小学校の廃校跡で、校舎を改築している。
それ以外にも、敷地内に2棟建てて、社長夫妻の自宅もつくった。

「初めてこの場所を見せてもらったときに、
“開拓魂”と書かれた紙が黒板にバンッと貼ってあったんです」

このあたりは戦後の開拓村で、
開拓者の子どもたちが通う小学校として昭和22年に開校。
一番最初に1軒だけ入植したのが、現在の住民会長の父親だ。
そのような背景にも共感し、自分たちもフロンティアスピリッツを
持ち続けていこうという心意気でこの場所を購入することにした。

「校舎は壊しても構わなかったけど、壊すと二度と古いものはつくれないし、
1991年まで使われていた学校ということは、今の30代以上のひとたちは通っていたんですよね。
それなら残しておくほうがいい」と、
校舎は雰囲気を残しながらリノベーションして利用することにした。

この地区に住んでいるのは現在、河合さん世帯を含め19世帯。
半径1kmにはひとが住んでいない。
「昨日も、朝、大声出してみたけど……(笑)」 もちろん反応ナシ。
そんな刺激が少ないと思われるような場所でクリエイティビティはどのように生まれるのか。

「例えば、何かものをつくるのに、
道具と材料があってやり方を教われば誰でもできると思うけど、
それでは工夫は生まれません。ここにくると、大工仕事とか電気工事とか、
ちょこちょこは業者には頼めないので、自分たちでやるようになります。
階段、石垣……、いろいろなものをつくりました。
僕個人的には、石にはまっていますね。ひとつひとつかたちが異なるものを組んで、
どうやったらきれいになるか、丈夫になるか工夫します。
こういう道具があればいいなと思えば、自分でつくってみる。
そのような創意工夫を、どのようにものづくりに落とし込めるか。
そういう姿勢を持って、都会暮らしのものづくりからは変わっていかなくてはなりません」

刺激は、ひとから与えられるだけではないということ。自ら生み出せる。

「アパレルの常識でものをつくっていたら、なんとなく違うだけで、
大きくは変わらない。違う仕事のいいところを、
どんどん自分の仕事に落とし込まないといけません」

これから色を塗るバッグにマスキング中。大胆な色使いがシュペリオール・レイバーの特徴でもある。

小さな財布に金具の取り付け作業。手仕事へのこだわりが強い。

旧校舎の内部は、バッグの組立を行っている工房。15人程度のスタッフが働いている。

各地の地域性を打ち出したnap village構想。

napは、nap villageという村構想を描いている。
アパレルメーカーとしてだけでなく、
飲食店やセレクトショップがあり、きれいな小川やガーデンがあり、あひる小屋も建設中。

「今はスタッフの平均が20代ですが、
これから数年後、会社としてアパレル以外の受け皿を考えておかなければなりません。
そういうときに、この場所はすごく可能性を感じる場所です。
行政と近いし、住民にももっと貢献できるような仕事があるんじゃないかと模索中です」

小学校にレザークラフトを教えにいったり、
吉備中央町からの要望でイノシシの革を使った商品開発をしたり。
まちとの関係はより密接になる。
そういったなかで生まれる新しいアイデアは、どんどん採用していきたい。

「よく、儲からないからダメ、といわれがちですが、
みんなで考えればできる方法はきっとあるはず。
いきなりNOとはいわずに、真剣に考える会社にしたいです」

この場所だからこそできるものづくりがある。
東京でなくても、まだまだ地域にはポテンシャルがあるはずだ。

「地方である程度成功すると、東京にショップを出したくなりますよね。
でも僕たちみたいなレベルだと、
恵比寿とか中目黒のはずれあたりにせいぜい15坪くらい。
そこで直接売っても大きな意味があるかどうかは疑問です。
それよりも、うちは何をすべきか考えた結果、工場をつくったんです。
岡山では業界が縮小して工場がドンドン倒産している時期だったので、
いろいろなひとに反対されました。
でも、新規参入するひとがいないので、逆にミシン屋さんは大喜びだし、
糸屋さん、生地屋さんも大歓迎でしたよ」

工場をつくったということは、ものづくりの方向に向いたということ。
シュペリオール・レイバーが今ファッション誌を賑わしている理由は、
デザイン性もさることながら、その姿勢によるところも大きいはずだ。

「世界観という言葉がありますね。でもそれはあくまで“観”にすぎない。
それよりも僕がここでつくりたかったのは“世界”。
たとえ片づけができてなくてゴチャゴチャしていても、
それが実際の僕たちの世界であって、ここに来てもらえばすべてがわかる」
世界観ではなくてリアルな世界。そこには強さがある。

このnap villageは地域性を強く打ち出している。
その象徴ともいえるのがショップ『& thingsハチガハナ』。
このショップはレストラン&セレクトショップで、自社の商品は置かない。
これを各地に展開する構想を抱いている。
そこで忘れたくないのがもちろん地域色。

地元の食材をつかった料理を提供。フランスの田舎料理風にジビエ料理なども。

「ハチガハナというのは、ここのピンポイントの地名なんです。
今後、このショップ形態で他の地域に出店して、その土地のいいもの、
おいしい食材を探して、それを打ち出すようなショップを展開したいです。
もちろんその場所の地名を店名に付けて」

単純にフランチャイズするのではなく、コンセプトのみを展開する。
そうすれば地域の特色を持った「& things ○○○」が増えていくだろう。
ファッション業界にも、東京発信ではない、
地域発信の小さなコミュニティが湧き上がる時代がくるかもしれない。

細部にも、ちょっとした気の利いたデザインがアパレルらしい。

information


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& thingsハチガハナ(nap village内)

住所 岡山県加賀郡吉備中央町上田東字ハチガハナ2395-5
電話 0867-34-1133
営業時間 10:00 〜 18:00 土日祝のみ営業
http://www.nap-dog.com/
http://www.andthings-hachigahana.com/

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MAKOTO KAWAI
河合 誠

1966年にM.leatherを創業。古着の買い付けで世界を回り、レザー商品なども扱う。1999年、ペット用品店をオープン。オリジナルのレザーグッズなどを展開する。2006年に有限会社nap設立、2007 S/Sシーズンよりバッグを中心にしたブランド「THE SUPERIOR LABOR」をスタート。2010 S/Sよりレディスブランド「La rosa de la fabrica」を手がける。

滝川 Part2 仕組みを利用して、 遊びながら学んできた。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

太郎吉蔵会議のルーツは、小学生の作戦会議。

山崎

2009年の太郎吉蔵デザイン会議で初めてお会いして、
その後のメールや手紙のやりとりを通じて、
「なんておもしろい人生を歩んでる方なんだろう!」と、
五十嵐さんに魅了されたんです。ランドスケープという共通点もあって、
すぐにまたお会いしたくなり、アトリエまでお邪魔することに……。

五十嵐

うん。三浦半島まではるばるね。

山崎

そのとき制作されていたのも、このモチーフだったような記憶があるのですが?

五十嵐

そうだね。まったく同じものではないんですが、
日本に帰ってきてアトリエを構えてからつくり始めたシリーズなんです。
この夏から「かぜのび」のために、巨大なのを作る予定です。

山崎

「かぜのび」……たしか、小学校跡ですよね。

五十嵐

ええ。石狩川を渡って、滝川市の隣町、新十津川町にある、旧吉野小学校です。
3年前の春に廃校になり、いまはぼくのアトリエとギャラリーを中心とした
彫刻体験交流施設として運営されています。

山崎

小学生のころの五十嵐さんは、どんな子どもだったんですか?

五十嵐

この小さな田舎まちに生まれて、オモチャもろくにない時代なので、
「どういう遊びをするか」を仲間と相談するところから、遊びが始まったんです。
その作戦会議をした場所のひとつが、太郎吉蔵だった。

山崎

そうだったんですか! なるほど。

五十嵐

当時は、造り酒屋から食料品問屋になっていて、
塩やなにかが積んである倉庫だったんですが、両親はじめ、
まわりのおとなたちも、ぼくたちが自由に遊ぶのを許してくれたんですね。

山崎

それは素晴らしい。太郎吉蔵会議のルーツともいえる作戦会議ですね。

五十嵐

そういうことです(笑)。

館内には、五十嵐さんの作品がゆったりと展示されている

103年の歴史に幕を下ろした小学校をリノベート。館内には、五十嵐さんの作品がゆったりと展示されている。

カフェスペース

教室も、ゆったりとした時間を過ごせるカフェスペースに。窓から見える田園風景や山並みが、ゆったり、のびのびすることを教えてくれる。

巨大な作品制作がいよいよ始まる体育館

巨大な作品制作がいよいよ始まる体育館。おふたりは、たまたま取材と同じ時間に「かぜのび」にいらした、吉野小学校の卒業生だというご兄弟。奈良の十津川村からこのまちに入植したというご両親のはなしは、おそらく明治時代のこと。「ほら、裏山のあの木は、わたしが植えたんですよ」と懐かしそうに指差す姿があまりにほほえましくて、写真を撮らせていただいた。

いくたびも、リセットを重ねてきた人生について。

五十嵐

作戦を練って、道具をつくって、遊ぶ。
人形芝居なんかは、ストーリーを考えて、人形だけでなく芝居小屋までつくって、
ちらしやポスターもつくって配る。こうなるともう、総合芸術ですよ(笑)。

山崎

スゴイ小学生ですね!(笑)

五十嵐

おとなを巻き込むと、さらに面白くてね。
たとえば防火週間にポスターをつくったりすると、
おとなが喜んで新聞社に電話してくれて、翌日の朝刊にぼくらの写真が載るわけ。
得意満面、してやったり(笑)。だから、いまも、デザイナー時代も、
やってることは小学校時代の延長で、ぼくにとっては「普通のこと」なんです。

山崎

仕組みを利用して、遊びながら学んでいたわけですね。

五十嵐

でも、家庭の事情で中学からは東京に引っ越して、カルチャーショックを受ける。
都会の田舎者として、すっかりおとなしく暮らすようになってしまうんです。

山崎

子どもの世界とはいえ、全然違いますものね。

五十嵐

中学では、母の期待に応えようと人生でいちばん勉強して、だから高校は
進学校に入れてしまうんだけど、入学してみたら、まわりは天才ばかり。
そこで、じぶんが勉強より美術に長けていることに気づいて、
別の高校にまた入り直して、同時に夜間のデザイン学校にも通い始めるわけ。

山崎

そうやって、多摩美へ?

五十嵐

そうです。

山崎

その後の70年代半ば〜80年代のデザイナーとしての五十嵐さんの活躍は、
ここで改めて言うまでもなく、世界的によく知られています。

五十嵐

日本の経済成長に、デザインがぴったりと寄り添った時代でしたからね。
仕事がありすぎて、「50歳になったらもうやめよう」って思ってましたよね。

山崎

そういうところが五十嵐さんらしいんですよね。
個人的には、途中何度か人生をリセットされているところがとても興味深いです。

五十嵐

なんだかね(笑)。
それで実際、50歳になったときには、プロダクトか、彫刻か……と。

山崎

アーティストはクライアントがいないし、デザイナーと違って、
じぶんがつくりたいものを素直につくれるというのが魅力的ですよね。

五十嵐

デザインの世界って、非常に論理的でしょう。
つまり、キャリアが長くなると、自然といろんなことが予測できてしまう。
じぶんのカテゴリーのなかに収まってしまうようになるから、
そうなると、面白くない。

山崎

うーん、いまのぼくが、ちょうどそんな状況かもしれませんね。
とてもよくわかります。

五十嵐

そうでしょう。意外性欠如といおうか(笑)。
出会いもしごとも、想像もしない展開をするから、面白いんだよ。

(……to be continued!)

2011年にできた「かぜのび」

北海道に点在する五十嵐さんの作品を紹介するヴァーチャルな美術館「風の美術館」の拠点となるのが、2011年にできた「かぜのび」。

対談の様子

第5回太郎吉蔵デザイン会議当日の朝。対談は「hotel miura kaen」内の「レストラン イル・チエロ」にて。インテリアとして、五十嵐さんの作品『こもれび』が印象的に使われている。

information

map

かぜのび

住所:北海道樺都郡新十津川町字吉野100-4

開館時間:10:00 ~ 17:00(5月~10月のみ開館。月曜休館、祝日の場合は翌日)

Web:http://www.kazenobi.org/

information

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TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

古田秘馬さん

生産者と会える“食のライブハウス”。

東京・六本木のビルに囲まれた農園付きのレストラン
「農業実験レストラン 六本木農園」をプロデュースした古田秘馬さん。
ニューヨークでコンサルティングの会社を経営していた古田さんが、
東京に戻ってきたのが2002年。
仕事や友人の紹介などを通して、全国各地に足を運ぶうちに、
地域の豊かな食事情に古田さんの心が揺さぶられたことが、
「六本木農園」オープンのきっかけとなった。
「食に興味があったのは昔からなんですけど、
それに加えて食べ物の“物”としてのストーリーに惹かれたり、
食べる雰囲気、食べる仲間含めて、
食っていろいろなものとくっつきやすい“細胞”なんだなぁと気づきました」
その“細胞”を生かすレストランの構想は、この頃に立ち上がる。
「生産者の方々と話しているときに、
“生産者が生産までのこだわりやストーリーを語る場や、
生産者同士や生産者と消費者がくっつきやすい場所ってないよね”という話に。
じゃあ生産者に出会える“ライブハウス”をつくるのはどうだろうと考え、
六本木農園をオープンしました」
ライブハウスは本来新しい才能や、自分好みのミュージシャンに出会う場。
その食の生産者版があってもいいんじゃないかと古田さんは思ったのだと言う。
現在「六本木農園」では、
レストランで出している料理の生産者に来て語ってもらう「農家ライブ」を
週に2回ほどのペースで行っている。
「最近の農家さんは、iPadなどでプレゼンをしたり、
席をまわりながらプレゼンをしたりとアイデアの限りを尽くしてくれるし、
プレゼンがとても上手。
やっぱりこだわりを持ってつくる農家さんは、そのこだわりを話したいと思うし、
食べる方もどうせ食べるなら、なんでこれがおいしいのか、
どうやってつくられているのか知って食べたほうがより話が広がって、
おいしさも違うと思うんですよね」
話を聞いて味わって。
生産者の方を目の前にしてそのひとを想って食べるという機会は
普段なかなかないことに参加者は気づかされるそうだ。

「生産者と消費者、生産者と生産者が出会う、今まで農業業界がやって来なかったことを実験する場所」という意味で、「農業実験レストラン」と名付けた。

「六本木農園」は予約必須。週に2回ほど行われている「農家ライブ」やイベントの予定などは、ホームページをチェック。

トマトを農園内で栽培中。残念ながら料理にこのトマトが出ることはないそうだが、六本木のまちなかでトマトやハーブが栽培されていることに驚く。

「生産者と消費者をつなげましょうと言うのは簡単ですが、
実際は各地域にいる生産者と都心に集中する消費者という構図ができてしまっています。
その構図を変えてみせたい」と語る古田さん。
「食のライブハウス」は六本木だけではなく、全国各地で展開している。
「地産地消から地産継承へ」というキャッチコピーを掲げた
「にっぽんトラベルレストラン」は、
生産者たちに直接会いに行って、話を聞いて、料理人が調理して食す、
一日限りの出張レストランだ。
「集落で代々伝わっている製法などを地域で受け継ぐひとがおらず、
次の代に伝わっていない、ということが増えてきました。
地域で大切にされているものを“継承”していかないと、
“地消”もされなくなってしまいますよね」
参加者は、“継承”すべき生産者の現場を見、料理人が調理する様子を見、
そして舌で味わい語り合う。何とも贅沢なレストラン。
富山では、ホタルイカで有名な漁港に行き、漁師さんとともにホタルイカ漁に同行。
穫ったホタルイカをその場で炭火で焼いて食べた。
さらに、冬の新潟では、雪のテーブルをつくってそこで食べたのだという。
生産者も、料理人も、お客さんもイマジネーションが広がる体験となった。

丸の内で学ぶ。地域で実践する。

東京・丸の内で開講している、丸の内朝大学の「地域プロデューサーコース」は、
数多くある講座のなかでも人気の講座で、40名が朝7時15分からの講義に参加する。
丸の内朝大学の企画を構想し、
実際に「地域プロデューサーコース」の講師として自らも教鞭をとる古田さん。
そもそもこの「地域プロデューサー」の定義について
古田さんはどう考えているのか?
「ガバメントソリューションという行政の理論と、
マーケットソリューションという企業の理論、
そして、それだけでは成り立たないと気づいた3.11以降起きた、
ボランティアやNPOなどのコミュニティソリューション。
それぞれのレイヤーってそれぞれでつながっているだけで、
横軸を縦につなぐひとがいない。
行政でもない、企業人でもない、ボランティアのみをやっているひとでもない、
全てを縦につなげられるひとが“地域プロデューサー”です。
結果的に行政出身のひともいれば、民間企業に属するひともいるけど、
活動的にいろいろなものをつなげているひと、というのが特徴です」
この丸の内朝大学の「地域プロデューサーコース」に集まる“学生”は、
20代半ばから50代までで、職業もバックグラウンドもさまざま。
いずれは、自分の地域に戻って地域振興のための活動をしたいと思っているけれど
きっかけがなかったり、地域に戻ってなにができるのかというイメージができない
という悩みを抱えた学生たちが、ヒントときっかけを求め古田さんのもとに集う。
「地域プロデューサコース」の一番の醍醐味は、
古田さんと学生全員で参加するフィールドワーク。
地域にまず一緒に入ること、地域の風土を感じることを古田さんは学生に求める。
例えば、ある産業が廃れているのだけど、どうしたらマーケットに受け入れられるのか?
という地域の悩みを解決すべく、学生の中でチームをつくり、現地に行く。
行政や企業の担当者も一緒になって考え、古田さんはヒントを与える。
「コンテンツではなく、コンセプトを打ち出しましょう。
例えば、出雲大社になぜひとが集まるのかを考えてみて。
縁結びの神さまというコンセプトがあるわけで、
合コンなどのコンテンツがあるわけではない(笑)。
コンテンツ化の例だと、農業体験などが最近多いけれど、
単なる農業体験だったら、別にその地域でなくてもできること。
それでは、ひとは呼び込めません。
コンテンツ化するのではなく、地域をコンセプト化する。
そしてそのコンセプトに共鳴してもらわなくてはならないですよね」
こうしてカリキュラムを終えた学生は、
地域に戻るひともいれば、東京と地域をつなぐような役目に徹しているひともいる。
古田さんのもとで学んだ卒業生が活躍する姿を見られるのも
そう遠い日の話ではなさそうだ。

東京生まれ東京育ちの古田さんにとって「故郷」は憧れのようなものだと言う。
「地域に足を運ぶときって、観光客か地元民というステータスしかないですよね。
観光客か観光客じゃないかという言い方や、
行く側と迎える側という言い方では言葉に縛られすぎる気がします。
違うステータスをつくりたいですね」

富山の陶芸家のもとで土づくりの話を聞く古田さん。(写真提供:丸の内朝大学)

新潟のフィールドワークに参加する、丸の内朝大学「地域プロデューサーコース」受講者のみなさんと。(写真提供:丸の内朝大学)

profile

HIMA FURUTA
古田秘馬

プロジェクト・デザイナー。東京都生まれ。慶應義塾大学中退。山梨県・八ヶ岳南麓「日本一の朝プロジェクト」、東京・丸の内「丸の内朝大学」、日本中の素敵なソーシャルプロジェクトを紹介する「いいね!JAPANソーシャルアワード」などの数多くの地域プロデュース・企業ブランディングなどを手がける。2009年、農業実験レストラン「六本木農園」を開店。2011年、生産者とお客様をつなぐ現代版三河屋「つまめる食材屋七里ヶ浜商店」を開業。日本中の美味しいものを探して1年の半分は旅をしている。株式会社umari代表。
http://asadaigaku.jp/
http://www.roppongi-nouen.jp/

information


map

六本木農園

住所 東京都港区六本木6-6-15 TEL 03-3405-0684
営業時間
月 18:00 ~ 23:30(LO 22:30)
火~金 12:00 ~15:00 / 18:00 ~ 23:30(LO 22:30)
土~日 12:00 ~ 15:00 / 18:00 ~ 23:00(LO 22:00)
http://roppongi-nouen.jp/

東新町一丁目商店街

踊り手の熱気で満たされる商店街。

午後7時半。あたりの商店が店じまいをする頃、
甲高い鉦(かね)の音と、力強い太鼓の音とともに、
「やっとさー」「やっと やっと」と男女の声がアーケードに響く。
その音に誘われるように近所の人が集まり、帰宅途中の人は足を止め、
夜静まりかえるはずの商店街は、昼間以上の熱気を帯びてきた。
8月12日から始まる「徳島市阿波おどり」に向けて、
阿波踊り振興協会所属の阿呆連(あほうれん)が公開練習を行っているのは、
徳島市の中心街として古くから徳島市民の生活を支えてきた東新町一丁目商店街。
この場所で、踊り手とお囃子が1時間半ほどの練習で汗を流す。

透明屋根のアーケードは平成11年に完成。昼間はさんさんと太陽が降り注ぎ、商店街全体に明るい雰囲気を醸し出す。

阿呆連は、昭和23年に結成され、
数ある「連」(阿波踊りのチーム)の中でも2番目に結成が古い有名連。
その踊りは阿波踊りの「3大主流」のひとつと呼ばれ、
豪快で、躍動感あふれる挙動と、
江戸庶民の遊び、凧揚げの様子を模した「やっこ踊り」はオリジナル性が高く、
県内外のファンも多い。
その阿呆連が東新町商店街で練習を始めるようになったのは、およそ6年前。
商店街の活性化を願う東新町一丁目商店街と、
照明完備、雨が降ってもアーケードのおかげで練習ができる阿呆連のメリットが重なり、
本番間近の6月から週に一度、商店街で練習を行うようになった。
月曜日から木曜日までの普段の練習は、河原や公園などで行われるが、
その環境は抜群とは言い難い。
週に一度金曜日の商店街での練習は、
道幅が広くて長さもある商店街の利点を生かして通し練習ができる貴重な時間なのだ。

「商店街を通るお客さんがこうやって立ち止まって見てくれるんですよ。
お客さんとの距離も近いし、本番さながらのいい緊張感で練習ができます」
そう語るのは、高校3年で阿呆連に入連し、今年で21年目の宮村憲志さん。
お子さん2人もこの日の練習を見に来ていた。
「この商店街は庭みたいなものですね。
だからここで踊るのは桟敷で踊るより思い入れがあるかも」と目を細める。

高校時代には、野球部の練習が終わってからその足で阿波踊りの練習に参加するほどの入れこみ。いつか2人のお子さんと同じ衣装に身を包むことを夢見る。

この日、女踊りの指導にあたっていた宇津宮亜由美さんは、高校2年で入連し、今年で10年目。
徳島市内在住で、高校生の頃にはよくこの東新町一丁目商店街に遊びに来ていたのだと言う。
「商店街で練習していると、商店街のお店のひとと顔なじみになれたり、
つながりが持てるところがいいですね。
高校生の頃とはずいぶんお店も変わってしまったけど、
やっぱり思い出が詰まっているこの商店街で踊れるのは嬉しい」

厳しい経営状態や集客は東新町一丁目商店街も例外ではないが、
こうして、東新町一丁目商店街という場に愛着を持つ若い世代を増やすことが、
商店街の発展と存続に希望を持たせる。
本番に向けて練習もいよいよ大詰め。
力のこもった指導と練習で阿波の夜はいっそう熱さを増しそうだ。

自家用車で移動する人が多い徳島。商店街近くにはコインパーキングが多いため、通いやすいのだという。この日は踊り手とお囃子合わせて70名ほどが練習に参加した。

「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損」。未来の女踊りのセンターポジションの有望株。小さい子にも踊り手のDNAは刻まれている。

滝川 Part1 小さな北のまちに、 デザイナーたちが集まる日。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
滝川編・目次

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生まれ育った北海道滝川市にて、デザインとアートによるまちの再生にたずさわる
彫刻家・五十嵐威暢さんと山崎さんの対談を、4回にわたってお届けします。

「太郎吉蔵デザイン会議」という特別な1日。

山崎

今日はお招きいただき、ありがとうございます。

五十嵐

最近はどうですか?

山崎

本をいくつか出版しました。書きながら、五十嵐さんのことばのアレコレを
思い出す機会が多かったので、今日は久しぶりにお会いできて光栄です。

五十嵐

午後のデザイン会議には取材に入ってもらえなくて、申し訳ないですが。

山崎

いえいえ。マスコミは、初回から一貫してシャットアウトなんですよね。

五十嵐

そうなんですよ。山崎さんもはじめはたしか、
聞き手としていらしてくださったんですよね。

山崎

はい。第3回の2009年「太郎吉蔵デザイン会議(*1)」に、
聴衆として参加させていただきました。

五十嵐

なにがきっかけで?

山崎

その直前に、エレファントデザイン株式会社代表の西山浩平さんと
初めてお会いする機会があり、意気投合したんです。
そうしたら、1か月後に北海道で彼がしゃべる場があるという。
聞けば、その10人のパネリストたるや、原研哉さん、梅原真さん、
それに五十嵐さんと、そうそうたるもので、さらにユニークなのは、
聴衆だけでなく、彼らパネリストもみな手弁当。
しかも、会議後の質疑はナシ! それはなんとしても行ってみたいぞ、と(笑)。
それが、「太郎吉蔵デザイン会議」との出会いです。

五十嵐

そう。聴衆のためでなく、10人のパネリストが自分のために話をする場なんです。

山崎

日本では、なかなかないですよね。

五十嵐

ええ。本音で話す場にしたいから、取材もご遠慮いただいていると。
そういう次第です。

*1 太郎吉蔵デザイン会議:1926年に建設された歴史ある石蔵「太郎吉蔵」で行われる、パネリストによるパネリストのための円卓会議。パネリスト以外の90名の参加者は、議論の場に立ちあう聴衆となる。2007年に「アートフェスタタキカワ」のメインイベントとしてスタート。以降、今年で5回目を数えるデザイン会議。http://www.designconference.jp/

日本で3番目に長い石狩川

新千歳空港から直通電車で約90分。滝川市は、北海道の中空知地域の中心都市。市西部には、日本で3番目に長い石狩川が悠々と流れる。

本音でしゃべり、じぶんのことばを見つける。

五十嵐

ぼくも、お会いする前に、ローカルデザイン研究会の鈴木輝隆さんから
山崎さんのことを聞いていてね。ぜひ会わせたいと言われていたんだけれど、
ご覧の通り老人なものだから(笑)、なかなか行動力がなくて。
そんなときに会いに来てくださるというので、どうぞどうぞ、とお受けしたんです。

山崎

そうでしたか。ありがとうございます。

五十嵐

それでもそのときのぼくは、山崎さんのやっていることを
ほんとうには理解できていなくて。
その後ですね、すばらしいことをされているんだな、と。
だから、今日はぼくのほうが質問したいくらいなんですが(笑)。

山崎

いえいえ、とんでもない。

五十嵐

あのときも面白かったですよね。

山崎

ええ。めちゃくちゃ面白かったです。

五十嵐

デザイナーがビジュアルにたよらずに、
じぶんのことばでほんとうのことを上手にしゃべる。
その「練習の場」としてこのデザイン会議を立ち上げたんです。

山崎

そうだったんですか?

五十嵐

うん。日本人はそういうことに慣れていないでしょう?
やさしいから、相手に気を遣って本音が言えなかったり、自慢話に終始したり。
でも、そこからはなにも生まれませんから。そうではなく、
ここで感じたこと、経験したことを日常にもって帰ってもらいたいなと。

山崎

なるほど。

五十嵐

だから、3回で辞めようと思っていたんです。
みなさん、すばらしいリーダーたちなんだから。

山崎

練習の場だとすれば。

五十嵐

それが5回も続いて、どうしたものかと(笑)。

山崎

でも、3回目で終わっていたら、ぼくは今日ここに呼んでもらえていないので(笑)。

五十嵐

ああ、そうですね。楽しみだ。

(……to be continued!)

designshop takikawaの入り口ロゴ

五十嵐さんプロデュースによる「designshop takikawa」。小さな空間に、世界のグッドデザインプロダクトがそろう。滝川市内の「hotel miura kaen」内に併設。

五十嵐さんの作品「eki clock」

五十嵐さんの作品「eki clock」。「designshop takikawa」オープンとともに、壁掛時計と腕時計が発表された。

information

map

TAKENOBU IGARASHI 
五十嵐威暢

1944年北海道滝川市生まれ、多摩美術大学卒業、UCLA大学院修士課程修了。1970年イガラシステュディオを設立。国内外でグラフィック・プロダクト デザイナーとして活動し、その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)をはじめ世界各国の美術館に永久保存されている。’94年より米国を拠点に彫刻制作に専念し’04年に札幌駅の時計デザイン、札幌駅JRタワー展望室の彫刻「山河風光」などを手掛け、帰国を決意。現在、故郷滝川市にて、デザイン/アートで町を再生するプロジェクト「NPOアートチャレンジ滝川」を設立し、「五十嵐アート塾」を主宰する。2011年4月から多摩美術大学学長に就任。

Web:http://www.igarashistudio.com/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

STUDY 自然エネルギー100%シナリオ

長期的なエネルギーのビジョン

大量のエネルギーを消費する現在の社会や経済では、
そのエネルギーのほとんどを
将来は持続不可能な化石燃料(石炭、石油、天然ガス等)に依存しています。
特に日本はその化石燃料のほぼ全てを海外に依存しており、
エネルギー自給率は5%程度に過ぎません。
この化石燃料の削減とエネルギー自給率向上を主な目的に導入されてきた原子力発電も、
安全性や核廃棄物などの問題から大きな見直しを迫られています。
日本では、今まさにエネルギー政策全体の大幅な見直しが求められているのです。
エネルギー消費を抑制し、持続不可能な化石燃料と原子力をできるだけ減らし、
持続可能な自然エネルギーを増やすエネルギー政策が、
世界的にも求められるようになっています。
この持続可能なエネルギー政策を実現する重要な方法として、
エネルギーの消費量を抜本的に減らす省エネルギーと共に
本格的な自然エネルギーの利用があります。
この本格的な自然エネルギーの利用を考える際に重要になるのが、
将来のあるべき姿を考える長期的なエネルギーのビジョンです。
そこで、2050年頃までの長期的なエネルギーのビジョンとして、
さまざまな「自然エネルギー100%シナリオ」が提案されています。
例えば、2011年2月には国際環境NGOであるWWFより
自然エネルギー100%の世界シナリオ
「エネルギー・レポート~2050年までに自然エネルギー100%:
The Energy Report – 100% Renewable Energy by 2050」[1]が発表されました。
この世界シナリオでは、
2050年までに世界のエネルギー需要をすべて自然エネルギーで供給することが
経済的にも技術的にも可能であるという研究の成果が示されています。
日本が自然エネルギー100%へ転換するには、
まず、2020年や2030年など、その中期的な自然エネルギーの導入目標を定める必要があります。
日本では電力について現在およそ10%の自然エネルギー比率(大規模水力発電を含む)ですが、
これからの10年程度で30%以上に高めるという政策的な目標であれば、
実質的に自然エネルギーの導入で先行する欧州各国に匹敵する政策目標となります。
欧州各国では2020年までの自然エネルギー導入目標を定めています。
日本は今後、従来の中央集中型のエネルギーシステムを見直し、
省エネルギーや自然エネルギーを中心とする分散型のエネルギーシステムに転換し、
震災復興の柱とするだけでなく、
電力安定供給・エネルギー自給率・温暖化対策を柱とする
大胆かつ戦略的なエネルギーシフトをめざす必要があります。
環境エネルギー政策研究所(ISEP)が大震災後に発表した
「3.11後のエネルギー戦略ペーパー」では、
中長期的に自然エネルギーを2020年頃には電力の30%以上とし、
さらに2050年頃までには自然エネルギー100%をめざすことを、提言しています。
電力だけではなく、エネルギーシステム全体を分散型に転換し、
熱利用や輸送燃料を含めたエネルギーの効率的な利用を進めることも重要です。
導入する自然エネルギーの種類としては、
日本国内での豊富な導入ポテンシャルなどを考慮して、
電力ではこれまでご紹介してきた太陽光発電、風力発電、地熱発電、小水力発電、
バイオマス発電などそれぞれの地域の特性に合わせて導入することを想定しています。

中長期的なエネルギーシフト(電力)のイメージ(ISEP,2011)

TOPIC 岐阜県明宝サイト

古民家における再生可能エネルギープロジェクト。

岐阜県では、環境省の委託費を得て、新エネルギーパークの運営事業を進めています。
全国と同じように、岐阜県でも民生用と運輸用部分のエネルギー需要が伸びています。
民生用のエネルギー需要の伸びに対処するため、
岐阜県では、太陽電池、燃料電池、蓄電池からなる
次世代エネルギーインフラを各家庭に導入していくことを計画しています。
岐阜県次世代エネルギー・産業技術推進室の千原さんは、
この三つを「電池三兄弟」を呼んでいました。
千原さんによると、次世代エネルギーインフラは
2030年に岐阜県の半数の30700世帯に入れる計画を立てているということです。
今回紹介する郡上市明宝の古民家サイトでは、
築110年の古民家に、太陽電池、燃料電池、蓄電池の「電池三兄弟」に
まきストーブと小水力発電を組み合わせて導入しています。
郡上市は、2005年の国勢調査の46000人から、2010年には3000人減少しました。
旧明宝村は2000人の人口です。
このまま何もしないと集落の存亡の危機を迎えるのではないかという危機感があり、
古民家の所有者で郡上市の職員でもある置田さんが中心となって、
2009年度から空き屋になっていた古民家を使って「栃尾里人塾」が始められました。
週末に受講生に参加してもらうかたちで、
受講料3800円(食費、宿泊費別、宿泊は雑魚寝なら古民家でただ)
農、森、自然エネルギーの三つのテーマですすめています。
このような活動があったところに、環境省の委託費7000万円が出て、
2011年3月に明宝サイトが完成しました。
今後、10年間の成果測定を県が実施する予定です。
太陽電池は、古民家の屋根ではなく、古民家前の空き地に置かれていました。
古民家の上に載せるには重すぎたということです。
この地区は雪が降るので、雪が落ちるように傾斜角度をつけて置かれていました。
ここに導入されている燃料電池は、ENEOSの試作機で900万円したということです。
エネルギー効率が70%から80%です。
今は、250万円でまだ価格の引き下げが図られていますが、
問題は、システム内部が900度まで上がるため、
常に動かしていることが求められることだということでした。
明宝サイトは需要がすくないため、結果的に過大な設備投資になってしまっていました。
LPガスの消費量が約10倍になってしまい、
この分が地域の負担になっているということでした。
明宝サイトに設置されたリチウムイオン電池10kWも試作機で、
300万円から400万円かかっています。
寿命は鉛蓄電池よりも長くて、約10年ということです。
蓄電池の容量で電力自給率が決まり、今は7割から9割ということでした。
小水力は、公称出力が0.5kWですが、通常の出力は50Wくらいということです。
これに500万円かかっています。
実際に見学すると騒音がかなりありました。
敷地内に入り込んでいる水なので、水利権の問題はなかったということです。
これらを制御するシステムは特注品で2000万円かかっています。
今は、ハウスメーカーがパッケージで650万円で販売しているということです。
千原さんは、栃尾地区は災害時に橋が落ちると孤立する集落なので、
コストはかかるが、避難所へのエネルギー供給としては有効ではないかとおっしゃっていました。
このような集落は、岐阜県の中でも500か所(2010年調べ)強存在するということです。

古民家の前のスペースに置かれた太陽光発電

古民家全景

薪ストーブ用の薪はたくさんあります

古民家の脇に設置された小水力発電

番外編「studio-L IGA」始動!

フランク・ロイド・ライトの「タリアセン」をヒントに。

JR関西本線島ヶ原駅。
大阪と名古屋のほぼ中間に位置するこの小さな駅に停車する列車は、1時間に1本。
その駅前、徒歩0分の製材所のなかに、山崎亮さんが代表をつとめる
「studio-L」のあたらしい事務所が誕生した。
2007年からこの場所でスタートした穂積製材所プロジェクト、
通称「ホヅプロ」のことは、著書『コミュニティデザイン』のなかにも書かれている。

“70歳を目前に控えた穂積夫妻が経営するこの製材所は、
跡を継いで仕事を続ける人が見つからないため、閉鎖して駅前の公園にする予定だった。
地域の人が集まる場所になると嬉しいという。穂積家は、先代が20年間
島ヶ原村の村長を務めた家だった(現在は合併して伊賀市に統合)。
地域の人たちに大変お世話になったので、息子世代のふたりは地域に恩返しするために
公園をつくろうと考えたらしい。美しい話だ。”

ーー山崎亮著『コミュニティデザイン』より

「もともと、このプロジェクトのための事務所を作ろうというアイデアがあったのですが、
東北大震災を境に気持ちが逆転したんです」と山崎さん。

つまり、studio-L の事務所として、この伊賀がメインとなり、
大阪には数人だけ残ればいいのではないかという発想。
あたらしい事務所のL字のテーブルの奥は壁面がディスプレイになっていて、
Skypeなどの通信手段を使えば、大阪事務所、あるいは「今」山崎さんのいる
どんな場所とも常時つながることができる。

「インターン希望者が増えてきたので、学び舎としての機能をもてること。
ローカルを拠点とすることで、所得の少ない若い所員も生活費が軽減されること。
ただ学ぶだけでなく、地域に若い力が残せること。
そして、公園=ひとが集まる場を作りたいという夫婦の夢を叶えること。
こういった複数の役割を叶える場として、“studio-L IGA”が生まれました」

イメージしたのは、近代建築の三大巨匠と呼ばれるアメリカの名建築家、
フランク・ロイド・ライトの「タリアセン」。
タリアセンは、ライトが生まれ故郷のウィスコンシン州に開設した、
仕事場と住まいを兼ねた場所だが、実際は、
若い建築家を育てるための工房として機能した。

“「ここは、完全な自給自足とまでは行かなくとも、せめて自足はしたかったので、
200エーカーの土地とシェルター、食糧、衣服、娯楽くらいは自前でまかなおうとした」
「タリアセンは、私の子供たちやそのまた子供たち、さらに多くの世代にとって、
クリエーションの場になるだろう」”

ーーフランク・ロイド・ライト

(『GA TRAVELER 002 Frank Lloyd Wright Taliesin』ブルース・ブルックス・ファイファーによる序文より)

「穂積夫妻の力もお借りして、製材所としての機能も取り戻したいと思っています。
“材を欲しいひと自身が動く”という発想で、
訪れるひとがじぶんの手を動かすための製材所。
端材をふんだんに使って studio-L のスタッフがじぶんたちだけで作りあげた
伊賀事務所は、そのショールームとしても役に立てそうです」

「木の家を建てることで、森林も元気になります。
木のよさを実感する経験を通じて、100人にひとりでも
“木の家に暮らしたい”と思ってくださったらうれしい。
加えて、地域の工務店さんや設計士さんがこの事務所に立ち寄って、
うちが所有する膨大な量の書籍や資料を目にしたり、
ぼくらとコミュニケーションすることで、よりカッコイイ家づくりや
グッドセンスなリノベートが島ヶ原内で可能になれば最高だな、
ということまで目論んでいるんです」

JR関西本線島ヶ原駅

JR関西本線島ヶ原駅。運行本数は少ないが、大阪からなら乗り換え1回、所用時間は100分と、意外に近い。

島ヶ原駅前すぐの穂積製材所

島ヶ原駅前すぐの穂積製材所。継ぎ手の不在、業界の低迷という課題を「ホヅプロ」によって乗り越え、「製材所」としての90年の歴史をさらに未来につなぐ。

穂積製材所の代表、穂積享さんと山崎亮さん

穂積製材所の代表、穂積享さんと。「studio-L」スタッフやホヅプロに関わる学生たちにとって、「トオルさん」は、みんなのおとうちゃん的なあたたかい存在。

タリアセンについて書かれた書物

「studio-L IGA」の書棚で見つけた、タリアセンについて書かれた書物。

生活を豊かにしていくためのデザイン事務所。

「studio-L IGA」の始動は5月某日に行われた2泊3日の合宿。
studio-L の所員が一堂に会すのはこれが初めてだという。
これは、非営利株式会社というユニークなスタイルゆえ。

「中にいて外のしごとを受けるのもアリ、
外にいながら距離を置いてうちのしごとを受けるのもアリという
あたらしい働き方を模索しています。
モデルがあるわけではないので、ぼくらも試行錯誤なのですが」

創設メンバーの、山崎亮、醍醐孝典、神庭慎次、西上ありさの活躍に憧れる
スタッフ希望者はあとを断たない。
「この仕事は、ひととはなしができれば誰にでもできる」という山崎さんだが、
あらゆる課題への解決策に「オリジナリティ」と「クリエイティビティ」の
質の高さを求めるのは、studio-L があくまでも「デザイン事務所」だから。

「醍醐、神庭、西上は、自由にのびのびとやっているように見えるけれど、
その背景をきちんと知ることが大事。全員が、設計や建築に長けているわけではないので、
他分野から関わってくるメンバーは、せめて専門用語を理解する必要性もある」

いまのプレゼンテーション、全然オモシロくないよ。笑うところがなかったもんね。
それに、フォントの使い方が全然なってないね……。
メディアでは、おおらかな笑顔が取り上げられることの多い山崎さんだが、
合宿の場において、その口から飛び出すことばはどれも的確で、
細かいけれど肝心な1点を刺すように指摘する。

「初めて訪れるまちでは、ぼくらはヨソモノ。
地元のひとにどんなに叩かれても、大声で帰れと言われても、
へこたれたり諦めたりするのではなく、すぐに次の新しい提案ができる。
そんな精神的なタフさが求められます。
だって、ぼくらは参加者ではなく、ひとを動かす、マネージメントをする側ですからね」

現場での厳しさをいくつも乗り越えてこそ、どんなときも笑顔で
「Yes, and……」と言えるのだ。
「まちのために活動してあげる」ひとではなはく、
「まちを使って楽しませてもらっている」と思えるひとを育てる。
山崎さん自身の経験に基づいているから、その芯は強く揺るぎがない。
「Life(生活/人生)こそが財産である」とは、
19世紀の美術評論家、ジョン・ラスキンのことば。

「個人のしあわせでなく、複数のひとが
相互にしあわせだなと思う気持ちを高めたいですね。
studio-L は、生活を豊かにしていくためのデザイン会社なのですから」

製材所内に設置された「ねどこ」こと、木製テント

ホヅプロの第1弾プログラム「家具づくりスクール」を実行するため、宿泊場所として製材所内に設置された「ねどこ」こと、木製テント。関西で活躍する建築家にデザインを依頼し、建てる作業には学生たちの参加を募った。

「studio-L IGA」での合宿の様子

「studio-L IGA」での合宿の様子。L字のテーブルを囲むメンバーは、仕事の付き合いは長いが初対面、という顔ぶれも多い。

NPO法人「伊賀・島ヶ原 おかみさんの会」

「studio-L」およびホヅプロスタッフの胃袋を支えるのは、同じ製材所敷地内にあるNPO法人「伊賀・島ヶ原 おかみさんの会」。

information

map

studio-L IGA

山崎亮が代表をつとめる会社「studio-L」の5つめの事務所として2012年5月に開設。JR島ヶ原駅前の穂積製材所敷地内にあり、通信手段を通じて、常に大阪をはじめとするほかの事務所、山崎亮本人とつながることができる。

住所:三重県伊賀市島ヶ原5844

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

馬場浩史さん

自分の居場所と、持続可能な暮らしを求めて。

益子の古い市街地を抜け、焼き物や藍染めの店や工房が並ぶ一角を
もう少し奥へと進んでいくと、池沿いに「STARNET(スターネット)」が現われる。
自然と調和した暮らし、ていねいなものづくりを益子という地で実践する馬場浩史さんが
15年前に始めたギャラリーとカフェは、これまで多くの人々を、
時に客として迎え、また、“働く人”“つくる人”として迎え、持続してきた場所。
ここは、馬場さんが「思いをかたちにする」という実践を続けてきた、ひとつの聖地。

土地の新鮮な食材で提供されるオーガニックな食。益子伝統の手仕事に、
デザインや使い心地を追求してつくり上げられてきたオリジナルの陶器。
草木染めのオーガニックコットンやリネンの服。
靴や鞄もヌメ(草木のタンニンでなめす)の革を使った手仕事。
この場所でレコーディングされたスターネットレーベルの音楽……。
クラフト作家たちの発信の場となるギャラリーも併設している。
少し前には、オーガニックヘアサロンもできた。
ここでは、オーガニックのシャンプーなどを使い、
土地を汚さないようにと、カラーやパーマはやらない。
建物は、太陽光や太陽熱を使ったエネルギーの自給をめざして運営されている。
衣食住、そしてエネルギー。すべてが自分たちの仕事として、
ていねいに取り組まれている。これこそが、このスターネットの営み。

「下の須田ヶ池の手入れをしようかと思っていますよ。
山や川の状況が昔と変わったのでしょう。水が濁ってしまった。
いろいろな方法で、水をきれいにして、蛍が飛ぶ池にしたい」
馬場さんがそんな話をしてくれたのは、5月。
益子の夜はまだ少し肌寒く、土間になっているテラスに薪ストーブが焚かれ、
この家の守り犬、ハクが寝そべっている。
神様犬とみんなから呼ばれるホワイトシェパードだ。
屋外からは蛙や虫の鳴き声が聞こえる。
新じゃがの煮転がし、こんにゃくと厚揚げの煮物など、
パートナーである和子さんの手料理はもちろん地の野菜。どれも本当においしい。
きわめつけは、シンプルな梅のおにぎり。馬場さんは東京出張のときにも、
このおにぎりを持参して、みんなで食べながら打ち合わせをするそうだ。
「スターネットは、時間を経て、いろいろな人が関わりを持ち、
いま熟成してきたように感じます。独特の磁場に引き寄せられて、また人が集い始める。
逆に言えば、それぞれがもともと持っていて閉じていたものが、
スターネットとの出会いによって、開くのかもしれませんね。
そんな人が増えてきたと思います」

自然と調和した暮らしを実現するため、1998年に益子スターネットが誕生。

遠方からも多くの人が訪れるギャラリーとカフェ。地の食材を使った料理が味わえる。

馬場さんとスターネットの15年については、
多くの方がこれまでも伝え語ってきたことだが、少しだけ振り返っておくと。
馬場さんは、1980年代、ファッションブランド「TOKIO KUMAGAI」で
故・熊谷登喜男氏のもとで働いていた。しかし、グローバルな社会に違和感を感じ始め、
自分の居場所を求めて、37歳のとき益子へやって来る。
そして98年にスターネットをオープン。
デザイナーだった星恵美子さんが「キッチン」で料理を担当し、
あとはアシスタントがひとりという、ミニマムの態勢でのスタートだった。
ギャラリーでは、益子にない新しい文化を紹介しようと思い、
サウンドアートや写真、ペインテイングなどの展覧会を企画した。
やがてオーガニックに意識の高い人たちが、遠方からも駆けつけるようになり、
1年も経たないうちに改装して店を拡張するなど、経営が軌道に乗り始める。
当初は、ほかにもたくさんお店があるからと扱っていなかった焼き物にも、
しだいに目を向けるようになった。
「焼き物でも僕らの役割があると思ったんです。
ほかのお店にはないような編集で、自分たちでオリジナルもつくり、
新しい陶器のギャラリーを目指しました。そうやって少しずつかたちになってきました」

店内にはスターネットオリジナルの器や、益子で活動する作家の器がセンスよく並んでいる。

ていねいにつくられ、安心して食べられる食品を提供するスターネットフーズ。豆やお茶などもある。

「自然に調和する音」をコンセプトに掲げるレーベル「STARNET MUZIK」のCDも販売している。

からだで感じて、きちんと“手入れ”をしていく。

スターネットに惹かれて、益子に若手のクリエイターたちが集まってきたのは、
とても自然なことに思える。
2010年にスターネットに開設された工房「art workers studio」では、
陶芸や服飾など、若手作家たちとの共同作業による作品制作が行われている。
このインタビューの最中も、靴や鞄など、革を扱う作家の曽田耕さんが
隣で作業をしていた。彼はふだんは東京・浅草で活動しているが、
週一度スターネットに通い、馬場さんと制作を続けている。
「それぞれのクリエイターのなかにあるものを、僕は引き出す役割をしているのかな。
その人にとって自然な方向にクリエイティブを導いて、
その仕事が、スターネットとつながっていくのが理想。
いずれは、みんなが持ち寄ったものでスターネットができていくのがいい。
スターネットとしてのスタンダードはぶれちゃだめだけど、
一緒に仕事をしていくなかでつかんだ技術やセンスをうまく使いながら持続していけば、
僕がいなくてもやれるでしょう」

art workers studioで制作をする曽田耕さんも、スターネットに引き寄せられた作家のひとり。

黒板には、作品のデザインやスケジュールなどが書き込まれている。自由な発想が生まれる場所。

2011年2月、東京は馬喰町に、スターネットで生まれたものを紹介する
「starnet 東京」をオープンさせた。そこへ、3月にあの大震災。
私たちの生活の基盤を揺るがすような事態に、馬場さんはとてもショックを受けたという。
そのショックもあったのか、腰を痛めてしまい動けなくなってしまったそうだが、
それでもしばらくすると、大阪や倉敷へと足を運んでいた。
「ここでじっとして頭で考えてばかりいてはだめだと思った。
からだを拡張させるように、少し触覚を伸ばしてみたんです。
いろいろな人の話を聞いて、それぞれのまちの状況を聞くと、
感じ方が全然違うことがわかりました」
そうこうするうち、縁あって、大阪のとあるビルを借りることに。
場所は瓦屋町。その名のとおり江戸時代に瓦を焼いていたというまちだ。
「500年くらい続く鰹節屋さんがあったり、町家もたくさん残ってるんですよ。
土地にぐっと根を張って生きている人たちがいて、いきいきと暮らしている。
あんな状況でしたから、そこにいるときは、魂の休息になりました」

かくして「starnet 大阪」は、震災から1か月余りの4月23日にオープン。
そのスピード感には驚かされるが、やはり馬場さんが
すぐれた身体感覚の持ち主だということがわかる。
馬場さんはいつも、からだをアンテナにしているのだ。
「頭で考えていてもオーバースケールになっていくから、
自分のからだに立ち返ることが大事。からだをアンテナにして、何を感じるか。
そして感じたことに対して常に“手入れ”をすることが必要です。
部屋が汚れていて嫌だなと思ったら、きれいにして快適にしていく。
人に対する接し方に違和感を感じたら、きちんと手入れをしていく。
食べるものも身につけるものもそう。
僕はお肉を食べるとあまり調子がよくないから食べないし、
服も自然素材のものを使って全部自分でつくります。からだをアンテナにしながら、
これは気持ちいい、これは気持ちよくないからこうしよう、と考えていくと、
食べものも暮らしも、おのずと決まってきますよ」

ひとりひとりの感覚と、社会、地球はつながっているというのが馬場さんの根本的な思想。
気持ちいいことに正直に生きることの大切さと、必要以上の欲望を持たない、
過剰に求めないことのバランス。それがこれからの人間のセンスだと語る。
「僕は正しいと思うことに突き進んで、矛盾なく暮らしたい。
個人的には、自給自足の暮らしをするために、
外の何にも頼らない自活型の最小住宅を作って暮らすのが夢です。
でもまずは、もっと深くこの土地に根ざして暮らすことから。
植物や動物は自分が与えられた場所で生きていきます。
人間も、歩ける範囲で暮らすというのが本来の生き方だったはず。
そこから離れてしまったことに、そもそもの問題があるような気がします。
完璧にはいかなくても、それに近い暮らしを実現させるのが、未来を考えるうえで
いちばん大事。グローバルな社会からは、未来に希望は持てませんしね」

素焼きの器が並ぶ工房。シンプルで洗練されたデザインのスターネットオリジナル。

益子を、現代の聖地に。

馬場さんは、益子で開催される「土祭(ヒジサイ)」の総合プロデュースも手がけている。
古くから窯業と農業を営んできた益子の風土と文化を見つめ直し、
展示やワークショップ、セミナーなどさまざまなイベントが重層的に展開する土祭は、
2009年に第1回が開催され、2011年の「前・土祭」を経て、
2回目が今年2012年9月16日(新月)から30日(満月)まで開催される。
民も官も手を携え、まちをあげての一大行事だ。
「土祭をきっかけに、地域の力を呼び覚ましていくことができないか。
たとえば、このあたりには野仏がたくさんあるのに、
ほとんど手入れが行き届いていない。それをきれいにしてあげて、
野仏マップをつくったら面白いんじゃないかって提案したんです。
それに宿泊施設が足りないから、ひとり住まいのおばあさんの家に
民泊できるようにして、田舎料理を味わってもらうとかね。
ここにある歴史的な資源を発掘して、現代の桃源郷を演出できたら、
いまみんなの心が求めている世界ですから、それで成功です。
益子は古来、聖地であったわけだし、民芸の聖地でもあります。
だったら現代の聖地と考えるのも悪くない。
自然豊かで手仕事が残っていて、等身大の暮らしが実践されている、
美しい現代の聖地、桃源郷。それって面白いですよね」

スターネットは最終的な目標やゴールは設定しないという。
“いま”という瞬間にどれだけ真剣に向き合えるか。
その積み重ねで、スターネットを15年走らせてきた。
馬場さんは、もう何も欲しくないという。
「ここにいる限り、基本的にこの恵みのなかでやるということを考えています。
ここにあるもの、やり方で充分と考える。そうするとその結果、
ここにしかない独特のもの、スターネットでしか生まれないものになると思っています」

土祭の総合プロデュースも手がける馬場さん。「予算がないのって面白いですよ。予算があったらできないことができます」

本当の豊かさを探して。スターネットはこれからも続く。

information


map

STARNET
スターネット

住所 栃木県芳賀郡益子町益子3278-1 TEL 0285-72-9661
営業時間 11:00 ~ 18:00 木曜定休
http://www.starnet-bkds.com/

profile

KOSHI BABA
馬場浩史

スターネット主宰。1958年生まれ。
12歳で真言宗の僧侶として得度するが、その後、体調を崩し、僧侶の道をあきらめる。

1980~88年
ファッションデザイナー故熊谷登喜男のパートナーとなり、パリ、ミラノ、東京を活動拠点にTOKIO KUMAGAIブランドのプロデユースを手がける。

1991年
「遊星社」設立。企業の宣伝美術のプランニングやプロデュースなどに携わりながら、舞台やインスタレーションなどの個人作品を発表もするなど、独自の活動を続ける。また恵比寿に手仕事や食(オーガニック)のためのギャラリー&カフェの運営も始める。

1998年
栃木県益子町にそれまでの活動の結晶化、STARNETをスタートさせる。オーガニックレストラン+ギャラリー、陶器やコスチュームの工房も併設。

2004年
馬場浩史環境設計事務所設立。工芸的な手法による建築や空間のプランニングやプロデュースをする。ZONEをオープン。展覧会やワークショップ、コンサートを開催する。

2007年
RECODEをオープン。民間療法による身体の手当を目的とした野草茶寮や鍼灸院の運営。手仕事を紹介するギャラリーも併設。STARNET MUZIK活動開始。「自然に調和する音」をコンセプトに、音作り(レーベル)を始める。

2009年
益子町全域に及ぶアートイベント「土祭」を総合プロデユース。

2010年
art workers studio(starnet内)開設。当スタジオでは、 陶芸、服飾などの若手アーテイストとのコラボレーションによって、ナチュラルで独自なクラフト制作を始める。

2011年
starnet東京、starnet大阪をオープン。art workers studioでの制作の成果を発表する。

仏生山 Part4 じわじわゆっくり 変わっていく強み。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
仏生山編・目次

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高松市仏生山町に暮らし、仏生山温泉の番台を務める岡 昇平さんと
山崎さんの対談を4回にわたりお届けします。

「楽しい」と「好き」を10年がかりで増やしていく。

山崎

魅力的な「ひと」が魅力的な「まち」をつくる、という感覚はいいですね。
どんなひと、どんなお店が欲しいな、という具体的なイメージはありますか?

おいしいパン屋さん(笑)! あと、高松の市街地に
「しるの店 おふくろ」という家庭料理店があるのですが、あんな雰囲気の夜の店。

山崎

お店を始めるには、このくらいの規模のまちが実はいちばんですよね。
どうせなら、岡さんに続いて、パイオニアになれるひとがいいですね。
はじめのうちはお客さんが少なくても、
たとえば今の時代、売り上げの何割かをネットで稼ぐこともできます。
そういう方法の取れるひとなら、無理なくお店を始められそうです。

はい。

山崎

いちばんはじめに岡さんに会いに来たときに、
すでに「まちぐるみ旅館」の構想を描いたかっこいいパンフレットができていて、
ああ、いいなって思ったんですよね。

ありがとうございます。

山崎

でも、それをじわじわと時間をかけて進めているのがきっといいんですよ。
早急にやろうとすると、独裁者になってしまいかねない。

じわじわすぎるほどですけどね(笑)。
2009年からは、秋祭りの「仏生山大行列」のときに、
街道沿いの古い町家の軒先を借りて、こども、地域、手づくりを
テーマにしたお店を30店舗ぐらい出店してみる試みをはじめています。

山崎

行政でいう「社会実験」ですね。
つまり、街道が賑わうイメージをみんなで共有する。いいですね!

法然寺

讃岐高松藩初代藩主松平頼重が建てた、松平家の菩提寺「法然寺」。苔むした古い石段をゆっくりと歩いて案内してくださる岡さん。

秋には、「仏生山大行列」で賑わう門前町

秋には、「仏生山大行列」で賑わう門前町。街道沿いの町家の軒下を借りて、約30のお店が出店する試みを実行している。

このまちの、グッドネイバーズとして。

山崎

古い町家に暮らしたいひとの募集やまちぐるみ旅館のプロモーションは
どんどんやっていくんですか?

うーん、やらないと決めているわけではないのですが、
ほんとうに少しずつ、ですね。

山崎

それでいいと思いますよ。

「まちづくり」っていう大層な旗を立てたくない、というか。

山崎

studio-Lも、実はそのことばをあまり使いませんね。
あくまで「コミュニティづくりのお手伝い」。
ぼくらの場合は、まちづくりの専門家でないという理由もありますが、
岡さんは、個人的な想いから発生している活動なので、
とくにそこが徹底していますよね。

「活性化」「まちおこし」も使わないキーワードです。

山崎

「まちづくり」ということばは、80年〜90年代、法廷都市計画に対して、
市民が主体となる都市計画のことをそう呼んで、
そのころはそれがカウンターパートになれたのですが、
ぼくらはさらにその後にまちと関わり出した世代。
「まちづくり」さえも、派閥を作ったり縄張り争いをしたりしていて、
窮屈だなぁと思ったり。
だからしっくりこないのかもしれないし、いま、ぼくらの世代が使うと、
あぁそっち派ですね、という理解になっちゃうのもある。
もちろん、世代論で簡単に片づけてしまえるような話ではないのですが。

慌てず、年1%計画でゆるやかに進めていけばいいかなと。
本来、まちのあり方ってそのくらいのペースだと思うんです。

山崎

そうですね。「まちづくりプロジェクト」と称してしまうと、
なかなかそうは言っていられなくなるのが現実。
岡さんの場合は、「ニヤニヤしたい」という個人のわがままが、
閉じていなくて公に開いている感じがあるので、気持ちがいい。
滅私奉公的なまちづくりではなく、そういうのを
グッドネイバーズ(GOOD NEIGHBORS)というのかもしれませんね。

対談の様子

「10年がかりで少しずつやっていきます」(岡) 「じわじわと変わっていけるのも、強みかもしれませんね」(山崎)

information

map

仏生山まちぐるみ旅館

客室や食堂や大浴場など、さまざまな役割がまちの中に点在し、まち全体で旅館の機能を担う取り組み。既存の店やあらたに誘致する店と、時間をかけて魅力的な地域をつくり、楽しい人のつながりをつくる。現在は、「縁側の客室」と「仏生山温泉」などがオープン中。

Facebook:http://www.facebook.com/machigurumi

【仏生山温泉】

住所:香川県高松市仏生山町乙114-5

TEL:087-889-7750

Web:http://busshozan.com/

profile

SHOHEI OKA 
岡 昇平

1973年香川県高松市生まれ。物理学者を目指したのに、なぜか徳島大学工学部建設工学科に入学、卒業のころには志をすっかり忘れて日本大学大学院芸術学研究科修士課程に進学、建築を学ぶ。建築設計事務所「みかんぐみ」を経て高松へ戻り、2002年「設計事務所岡昇平」設立。仏生山温泉番台。

Web:http://ooso.busshozan.com/

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。