NO ARCHITECTS vol.2: このまちにとって必要な場所

NO ARCHITECTS vol.2
観光案内所のような

NO ARCHITECTSでは、
昭和の風情が色濃く残る大阪市此花区梅香の物件の設計にいくつか関わっています。
その中のひとつ、今やコミュニティの中心的な場所「OTONARI(おとなり)」を紹介します。
ここは、『まちのインフォメーションと寄り合いのスペース(HPより抜粋)』。
オーナーは、おうち料理研究家の溝辺直人さんと、詩人で写真家の辺口芳典さんで、
ふたりはもともと2009年より此花区梅香にて黒目画廊という、
住居兼ギャラリースペースを運営されていました。

僕たちが、初めてお話を頂いたのは2011年の11月頃。
黒目画廊とは別に、まちのインフォメーションスペースと寄合所をつくりたいとのこと。
「年齢や職種を越えて交流を持つというのが、すごく面白いことだなと感じていて、
それを可能にする方法として案内所ってアイデアが出てきたんです。
内側と外側、ベテランとニューカマーをつなぐ存在があれば、
少しずつ広々としたコニュニケーションが得られるはずだって。
ローカルにもグローバルにも目を向けて、
それぞれの身の丈に合った発見と発信を続けている場所っていうのが、
僕らの考える案内所です」(辺口さん)

その考えを自分たちで実行し、
維持していこうという志の高さに、深く感銘を受けました。
最寄りの西九条駅前を見渡してみても、
道路の両脇に2軒とも同じコンビニがあったりします。
まちに住む人からすると、おそらく求められていないもの。
各々の個人的な理由でまちがつくられていってしまう現状に、あきあきしていました。

西九条駅から歩いてきて橋を渡ると、大きな窓から店内の光が溢れているのが、目にとまります。

場所は、梅香エリアの北東のはじっこで、まちの入口です。
建物自体は、木造2階建てのバラック。
同じ建物のなかの1階と2階の隣の部屋は、
以前から梅香堂というギャラリーが入っています。

外装は、銀色に塗りこまれたトタンの波板に包まれています。OTONARIは、大通りに面した2階の部屋です。

梅香堂のお隣さんということで、OTONARI(おとなり)と名付けたそうです。
もともとは紙屋さんの倉庫として使われていた建物で、住居に改装され、
元の住人が引っ越し、長い間、空き物件になってしまって、朽ち果てた状態でした。

窓の納まり、カウンターの高さ関係、板の貼り分けと塗装のイメージ、カウンタースツールなどのスケッチ。

みんなでつくるということ

図面やスケッチで、カウンターの配置、建具のデザインなどの検討をし、
大体のプランニングの方向性が決まったら、最初は解体作業です。
NO ARCHITECTSと事務所をシェアしている工務店の大川 輝さんを中心に、
溝辺さん辺口さんと共に、
ホコリをかぶりながら床を剥いだり壁を抜いたりと進めていきました。
リノベーションは解体がとても大事で、
発掘作業のように残す部分と壊す部分を、その場で判断しながらの作業になります。

解体作業の様子です。解体してみないと解らないことも多いです。

解体が終わってトイレを除いて、ワンルーム状態に。
念入りに掃除をした後、床や壁を貼っていきます。
劣化がひどかった道路側の壁も、コの字型に壁を立てて、補強しています。

床は、構造補強のため、既存の床の上に根太(ねだ)を組んで断熱材をはめ込み、その上に厚めの構造用合板を貼っています。

天井も低く、こぢんまりとした部屋だったので、部屋を広くみせるためと、
窓はできるだけせり出させて、出窓のようにしています。
立食イベントの時など、窓辺がカウンターテーブルにもなるようにと考えました。
さらに言えば、外から見たときに入って来やすいように、
内部はちゃんとリノベーションしていますよ! とアピールするための出っ張りでもあります。

材料のひとつひとつは溝辺さんが楽器を売ったお金で買っています。無駄な装飾や設えは省いて最低限の施しが基本です。

もともと浴室だったところからお風呂の桶だけを取りはずし、
床の防水と排水だけは、洗い場として再利用。
シンクや壁の防水材などは、知り合いの不動産屋さんにご提供いただきました。
使っていないからと、元惣菜屋の空き物件から
ステンレス板を剥ぎ取らせてもらったりもしました。
そして、吊り戸棚、換気扇なども提供してもらい、取り付けていきました。
換気扇のフードは溝辺さんの手作りで、
展開図を描いてトタンの平板を切って作っています。

オープニングの様子です。日野浩志郎さん率いる「彼方」のライブ。

まちに入り込む

年末年始を挟んだ極寒の中での作業ではありましたが、
大川さんの頑張りもあって、
2012年1月7日のオープンの日にはどうにか間に合い、営業がスタートしました。
オープンしてからは、定期的にライブやトーク、
持ち込みイベントなどで、週末ごとに賑わいをみせています。
最近では、辺口さんによる「Wonder Town ツアー」があったり、
近所に住む常連のお父さんによる懐メロDJタイムがあったりと、
日々進化し、まちに定着していっています。

此花区内にある福祉作業所と一緒に作っている広報誌『此花◯◯通信vol.3』にて辺口さんの「Wonder Town ツアー」を特集したページです。 

「OTONARIをやってみてもうすぐ2年が経つけど、
実際、年齢や職種を越えて(人種も越えたりして)、
想像していた以上の交流が日々生まれている実感があります」という辺口さん。

最近お子さんが生まれたという溝辺さんも、世代を越える交流について、こう話します。
「案内所では、この地域で家族を持ち、生活してきた年上の先輩方の話を聞くことができます。
下町ならではの人情や、人生の厳しさを経験している人々の考えからは学ぶことは多い。
案内所での体験をとおして、まちと人との関係が見えてくるこの地域で
子どもを育てたいなと思う気持ちが強くなってきたことが、
この2年間で大きな自分自身の変化です。今後は案内所が、まちでの暮らしを
考えるきっかけになるメディアとして成長していければと考えています」

「今後も交流の軸になれるように、詩の創作や暮らしを楽しみながら、
身の丈に合った発見と発信を続けていきたいと思っています」
と辺口さんも今後の展望を教えてくれました。

これからのOTONARIの展開に、ますます期待が高まります。

このはなに生まれつつある新しいコミュニティの中の内輪な関係を
深めたり広げていくだけではなく、
まちに開放し共有できるスペースをつくることで、
もともとの地域に根付いたコミュニティに接続でき、
より豊かな人間関係を築いていけるということを、OTONARIを通して学びました。

このはなに来られる際は、まずはOTONARIにお立ち寄りください。
イケメンのお兄さんふたりと、気さくな常連さんが、やさしく出迎えてくれて、
今のこのはなを案内してくれますよ。

小田島等さんの大きな絵があったり、辺口さんの写真が貼られていたり、地元の家具作家の宮下昌久さんのテーブルや椅子が並べられたり、見どころいっぱいです。

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NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/

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OTONARI

住所 大阪府大阪市此花区梅香1−15−18 2階
https://www.facebook.com/otonari.konohana

山ノ家 vol.2: 僕らはメッセージボトルを 受け取り、そして…

山ノ家 vol.2
空き家をめぐるストーリー

まつだい(新潟県十日町市)にまでやってきた。妄想も広げた。
物件も見た。軽いショックも受けた。
しかし、そもそも僕たちは一体どういう関わり方になるのだろう?
この地にコミットしつつ、
あらたな拠点を得て活動を展開するということに対する可能性を感じながらも、
改めて考えると不思議な話で、いろいろと確認したいことだらけだ。

物件1Fは土間になっており、奥は一般的な小上がり床になっている。もとはどういう用途だったのだろう?

物件1F、入り口側。上のほうを見るとガラス窓になっている。元は店舗だったようにもうかがえる。

2Fに上がってみた。写真ではそんなに散らかっていないように見えるが、実際は結構ものが散乱している。

まずは、この時点での登場人物を整理したほうが良いだろう。
この話を僕らに持ってきてくれた知人は、河村和紀さん。
彼は映像制作を基点にしながらソーシャルな活動にも多く参画していて、
そのうちのひとつでもある恵比寿での活動がきっかけで共に知りあった。
もうひとり、佐野哲史さん。
もともとは、地元で古民家再生事業を手がけていた彼のもとに、
地元の方から相談があって、河村くんもそこに加わっていき、
その後、空間をどうつくるかで話が僕のところに来たというわけだ。
そして、その地元の方というのが、若井明夫さん。
穏やかな面持ちの中に、確固たる熱い大志をもち、
このまちを面白くしていくために日々奔走している。

若井さんは、測量技師で有機農家。
貸し民家を営み、ドブロクや味噌も生産している。
その上、越後妻有の「大地の芸術祭」の一部施設の運営をするNPOの理事でもあり……
など、知り合っていくうちに、次から次へといろいろな肩書きが出てきた。
書き出すとキリが無いくらいパワフルに活動をしている、
地元の地域活性のキーパーソン。

この人が「空き家を好きに……」という話の発起人である。

若井明夫さん。彼がこのストーリーのカギをもつ人物。

なぜ、若井さんが地域外の人にこの空き家の相談を持ちかけたのか?
という経緯にもひとしきり、ストーリーがあったようだ。
そのきっかけ、「まちなみ助成事業」について話しておく必要があるだろう。
この十日町の地に20年来住み、
ほくほく通りに事務所を構えるカール・ベンクスさんという方がいる。
日本の古い木造建築の美しさに魅了され、
この地に移り住んだというほど、古民家を愛する建築家。
彼はこのほくほく通りを古民家の外装が並ぶ通りにしたら
観光地として人が訪れるのではないかと考え、
想像図としてのスケッチを描き、十日町市長にみせたところ、
「ぜひそれを実現しましょう」ということになったようだ。

カール・ベンクスさんによる「ほくほく通り」のまち並みを古民家風ファサードに変えていくという提案スケッチ。上は現在の状態。

そうして市の助成制度ができた。
古民家風外装にするということが前提条件のようだが、
そのための工事費の7割を補助するというのはなかなかすごい。
ただ、地元の人々にはピンと来なかったのか、あまり情報が伝わらなかったのか、
残りの3割を負担してまでも「それをやろう」と手を上げる人が最初はいなかったようだ。

若井さんは「このまちが変わるせっかくのきっかけになるかもしれないのに、
このまま誰もやらずにこの助成制度が流れてしまってはもったいない」と考え、
この通りで数年来空き家となってしまっている家に目をつけ、その家主に談判しながら、
「例えば東京などから誰かが来て、ここを使って何かやってくれたらいいなあ」
と考えたようだ。

彼はピンとくる人に会うたびにこの想いを相談していて、
それを僕らが佐野さん、河村くんつてに聞いたというわけだ。
なんだか、メッセージの入ったボトルを海に放った人がいて、
それを受け取ったような心持ちになっていた。

状況を聞き、僕らのなかで、この空き家を使えるための条件をざっくりと整理してみた。

・ 助成制度を利用する前提だから、そのための布石として、外装を変えることが必須。
→それはそれで、かえって面白くできるかもしれない。
・ そして、空き家なので中身はどう使っても良い。
→なるほど。制度を活用するにしても、そこでかかる負担を軽減する工夫が必要そうだ。
・ いまから8か月後(次の年の3月)に完成していることが条件。しかし豪雪地帯なので結局は雪が降る前に終わっていないと間に合わない。
→いまは7月(となるとあと4〜5か月くらい?)、
まあ、さすがにそれにはなんとか間に合うだろう……でも急がねば。
・条件とは関係ないが、どうやら世田谷区から十日町まで、無料のバスが走っているらしい。
→これはすごいポテンシャル!

比較的、楽観的に考えていたとは思う。

進みながら考える

しかし、現実はかなりの決断を要するものだった。
どうやら若井さんの話を要約すると、
助成事業で行う外装というきっかけがあるだけで、
他には特に何も後ろ盾があるわけではなく、彼の想いがあるのみ。
地元で尽力できる限りの協力はするが、特に資金があるわけではない。
結局は、それでも僕らにここで事業の主体者になってもらいたいということだった。
うすうす想像してはいたが、やはりそうなのか……。
デザインや企画のアドバイスのような「仕事」ではなかった……。

そして、外装に関してもカール・ベンクスさんが監修するということで、
こちらがデザインをすることは制度の条件上、原則できない。
やはり、古民家風なのか……。
ここで、僕らが外装まで好きにしたいなどと言い出したらきりがないし、
そもそもこの土地にいきなりよそものがくるわけだから、
そこは「郷に入れば、郷に従え」というところで、よしとするべきだろう。
(文脈的には納得できるけど……、色味くらいは相談させてもらいたい)

そのかわり、中に関しては一切だれも関与しないので、好きに使ってほしいという。
家賃も相当安くいけそう。そこだけは唯一の救い。
しかしそのための資金もなんとかしなければならないだろう。

唯一主体的にしかけられる動きとして、
この案件を囲むメンバー全員で組織をつくろうという話になった。
そして、若井さんにもその仲間として協力していただこうと僕らは考えていた。
「私が仲間に入ってしまってもいいの? 私でいいのであれば」
と遠慮気味だが、快諾してくれた。
いやいや、むしろ若井さんがいなかったら僕らにはなにもできない。

工事に関しては、若井さんが紹介できる工務店があるという。
「そこの会長は俺の幼なじみだから、多少相談に乗ってもらえると思うよ」
それをふまえ、古民家再生で実績のある、佐野さんが「僕に考えがある」と。
助成金対象外となる、外装工事費3割の負担についてだ。

「一部セルフビルドとして僕らが行える工事を、
工務店さんの下請けというかたちで請け負う」という。
すごいアイデア。でも、無理なく始めるにはそれしかない。

というような感じで、話を前に進めるためのおおよそ具体的な条件、状況が見えてきた。
実は、事情が複雑で、案外自由ではない条件があることがわかっても
「無理だ」とか「やめよう」という気にはなれず。
とはいえ、「決断」というには中途半端のまま、ことを進めていったのであった。

車で来たときに見えた景色。霧が立ちこめる神憑った風景を何度も見た。

常に「最悪どうしても折合いがつかないことがあったら、降りることも考えよう」
という札も同時に持ちながらも、
決断の先に広がるであろう大きな可能性の何か、に関しては感じていた。
そしてとにかく、
今までに踏み入れたことの無い領域に入ろうとしていることは明らかだった。
その後も、このプロジェクトを進めるべく何度かミーティングを重ねた。

ほくほく線から見える景色がとても雄大。このアングルは機会あるごとについ撮ってしまう場所。

そうして2か月くらい経った頃、「山の家」という仮のプロジェクト名ができた。
雪の降る時期を避けて、季節限定で活動する場所、
いわゆる「海の家」の「山版」というのが最初の思いつきだった。
仮でも名前が決まると、何やら実態ができたような感じになってきた。
しかし、まだまだ工事着手実現までの道のりは遠く、かなり紆余曲折あった。

この空き物件の持ち主の大家さんに会って契約を取りつけたり。
この物件の「借り主」として、地元商工会にプレゼンをしたり。
地元工務店さんとの見積もり検証、確認、
そしてなにより、下請け的なかたちで入らせてもらうことを交渉したり。
カール・ベンクスさんに会って、お互いの仕様に対する考えをつき合わせていったり。

カール・ベンクスさんによるこの物件のファサードスケッチ。実際は木材や壁の色をコントラストのある白黒にしたりして、少しニュートラルな方向にさせてもらった。主な部材寸法や、製材前の粗い木を使うことなども確認しあった。

すべては、地元の「ルール」の中での手探り。
とは言え、決まっていないことばかりで、結局は会いに行って話し合うしかない。
そうして結局、何度現地に足を運んだだろうか。
ときには車で、ときには新幹線で、数時間の打ち合わせのためだけに日帰りで。
その行きすがらの風景を繰り返し見るたびに、
季節の移り変わりや、空の広さ、雲の変化の多さ、気持ちのよい空気などが、
じわじわと心にしみ込み、何とも清々しい気持ちになる。

さまざまな心の迷いや、不安などが小さく感じられ、
この風景を見続けていくことが何か大きなものにつながるような気がしてくるのだった。
決断しなければならないと思っていたことが、そうではない別の思考に変わっていく。
それは「進みながら考える」ということ。

そのこと自体が、最も大切なものなのではないか?
そう思いながら、ひとつひとつ、
ややこしい手続きとしての「道のり」をクリアしていった。

これは最近の写真だが、最も気に入っている視点のひとつ。山ノ家の目の前の坂を下るときに広がる、山とまちが一体となった風景。

そして何度か東京とまつだいの往復をしているうちに、夏が終わり秋が過ぎ、
制度の申請や工事の内容決定、契約、段取りなどを済ませて着工となり、
足場がかかり、ようやく解体工事が始められたときは、
気づけばもう11月も終わろうという時期になっていた。

「やばい、このままでは雪が降る季節にさしかかる……」
その前に外装工事を終わらせられるのだろうか?

つづく

「山を読む、二日間」後編

灯籠を介して、生まれるコミュニケーション

ひじおりの灯」のトークイベント「山を語る」(前編参照)終了後には、
今年は「山を描く」と題して、絵語り、夜語りが行われた。
この日は絵を描いた学生たちが来ていて、制作秘話を聞くことができる。
少しほろ酔いで歩くもよし、湯冷ましがてら歩くもよし。
浴衣に、下駄姿。温泉街を歩くお客さんの姿は肘折温泉の変わらない風景だが、
夏の「ひじおりの灯」開催中は、夜もちらほらと浴衣姿が見受けられる。
愉しげな明かりが通りを灯すから、少しだけそぞろ歩き。

灯籠に灯された、肘折温泉の共同浴場「上の湯(かみのゆ)」。

「ひじおりの灯」期間中は、夜になると、 肘折青年団も、
通称「くろ」と呼ばれる屋台カフェをオープンする。
冬に会った須藤絵里さんや、早坂隆一さん、早坂 新さんもお店を切り盛りしていた。
「『くろ』を見ると、今年もこの時期がやってきたなって思う。
みんながまとまって何かをするイベントのひとつになっています」と絵里さん。
「ひじおりの灯」が始まった当初は、
青年団が集まって話す機会なんてほとんどなかったのだという。
いくつかのきっかけがあったり、毎年「ひじおりの灯」を開催するごとに、
変化していった関係。少しずつ同年代の人との会話が増えていく。
いつのまにか、これを楽しみに来てくれる常連客に会うようになり、
青年団のみなで、毎年「くろ」を出店するようになった。

こちらが通称「くろ」。この日は、日本酒がお客さんたちに日本酒が振る舞われた。お盆に日本酒を持つのが隆一さん、奥にいるのが新さん。

制作について熱心に語る学生の隣で、滞在や制作をサポートした旅館やお店の方々も、
少し誇らしげだった。 まるで、我が子を褒めるようにあたたかく見守り、一緒に会話する。
灯籠絵をきっかけに、コミュニケーションが生まれる。
それも、この「ひじおりの灯」の面白さのひとつだ。

肘折温泉には、何度も来ているという浴衣姿のお客さんたちは、楽しそうに学生の話を聞いていた。

自然のままの森を、歩くということ

「ひじおりの灯」開催中に、開かれたイベント「山を読む、二日間」。
2日目に行われたのは、「山を歩く」。取材チームも参加することになったが、
カメラマンも私も登山初心者。
心配ばかりが募ったが、どんな風景に出会えるのかは楽しみでもあった。
イラストレーターで山伏の坂本大三郎さんを先達(道の案内人)に、
肘折温泉周辺の山へ登る。 まずは、肘折温泉のシンボル・開湯伝説を伝える「地蔵倉」へ。

肘折温泉の共同浴場「上の湯」脇にある石段を登り、
最初に「湯坐神社」と肘折の人々に親しまれている「薬師神社」にお参り。
そして、「地蔵倉」と書かれた看板の方向へ裏山を登っていく。
肘折温泉を訪れる湯治客の多くが訪れるというだけあり、歩きやすい山道だ。
途中で、何度も可愛らしいお地蔵さまに出会った。
「肘折温泉にはたくさんのお地蔵さまがいる」と言って、
東北芸術工科大学の学生が灯籠絵に描いていたのがよくわかる。

地蔵倉までの道を、まるで案内してくれているようにお地蔵さまがいた。

国道 458 号線を渡り、そしてまた山へと入っていく。
肘折温泉の集落を出て 20~30 分が過ぎたころ、
片側の崖に沿ってわずかにつくられた、せまい道が現れた。

崖に沿って少しスリリングな道を進み、松がたっている中央の角をまがると地蔵倉が見えてくる。

反対側は、肘折温泉の集落やそれらを囲む山々を見渡せる。
遠く連なる山々は美しく、目の前に広がる雄大な景色は日本とは思えない。
どうやって、こんな道ができたのだろう。
少しスリリングだけど、他にはない景色を見て、気分は壮快。
心地よい風に吹かれながら、この崖っぷちを歩いて行く。 そして「地蔵倉」に着いた。

地蔵倉のお地蔵さま。

岩壁に守られるように、石地蔵が反対側の山を望んで並び、
その奥には小さなお堂が据えられていた。
地蔵倉は、「縁結び」「子宝」「商売繁盛」の神さまとして崇められていて、
岩肌には、無数の五円玉が奉納されていた。
ここもまた、今までに見たことのない景色だった。

地蔵倉の景色。

一度、肘折温泉の集落へ戻り、続いて登る道が今回の「山を歩く」の本番だ。
ここからは、全員が参加。 参加者は、サポートスタッフを含め 20 名弱。
東北芸術工科大学の学生や、地元の若者など縁あって申し込みをした人たちだ。
番所峰を越え、霊泉とも言われている「今神温泉」を通り抜け、今熊山の山頂を目指す。
まずは、山への登り口「大蔵鉱山跡」までバスで向かった。

山を登り始めるときに、先頭では大三郎さんが、後方ではつたや肘折ホテルの柿崎雄一さんが法螺貝を吹いた。

大三郎さんを先頭に一列になって歩き、法螺貝が、周囲に鳴り響く。
平坦な砂利道から、少しずつ傾斜がかかっていく。
観光地化された登山道のような整備がされているわけではない、
地元の人や山に慣れた人が入っていくような道だ。
緑が深くなり、傾斜も急になっていく。すると、視界が開けた場所に出た。

ここで、大三郎さんが念仏を唱え、私たちも後に続いて、
配られたプリントに書かれた念仏を読みあげた。
あとで聞いたことだけれど、ここは地蔵倉の向かいの山。
山へ入るための、ご挨拶とも言える、念仏を唱えたのだという。

冬には3~4メートル以上の雪が積もるから、雪の重みで根元が少し曲がっている。

両脇に、木が迫ってくるうような細い山道をひたすら登る。
緑が近いから、古木に生える見たこともないコケが目に入ってくる。
少し息もあがってきた。不思議と風が抜ける場所に到着。最初の目的地、番所峰。
ここは昔、鉱山を守る役人が居た場所だったんだそう。
急傾斜が続いたので、先頭を歩いていた学生たちは、少ししんどそうだった。

ブナの森を歩いていく。

続いて、目の前に広がったのは、ブナの森。
ブナの森は、日本古来の原世林の姿とも言われている。
昭和の後半から急速に失われてしまい今では数えるほどになった風景。
このブナの森は、古から地元の人々が大切に守ってきたものだ。

道があるようでない、落ち葉でふかふかの地面を歩いていく。
どんぐりから芽吹いたであろう、小さな若木がたくさん生えていて、
時折地面を照らす木漏れ日がとってもきれい。
見たこともない光の重なりや、見たこともないかたちの植物に目を奪われながら、
自然と足取りも軽くなり、みなリズミカルに下りていく。
ここが豊かな森であることが、視覚からも触覚からも、身体から伝わってくる。

ブナの林で見つけた食べられるキノコ。ミルクのような液が出ることから「ちち茸」と呼ばれ、出汁がとてもおいしいのだそう。堀内さんが教えてくれた。

そして、道はブナ林から少しじめっとした湿地帯へ入っていく。
ごつごつした岩が現れ、コケがはりついている。
滑りやすいところや、飛び石を渡るときなどは、 サポート役として一緒に登ってくれている、
肘折青年団の早坂 新さんや、 山が好きで肘折に通っているという、
堀内 大(ひろし)さんが手を貸してくれる。 山の湧き水だろうか。触るととびきり冷たかった。

「森のなかに、ぼこっと大きな穴が空いていたりするでしょう。
ほとんどは、大木が倒れてしまって空いたものなんだけど、
山の世界では、“山の神が遊んでいる場所”って言われているんです。
だから、通るときは遊んでいる神様を驚かせないように、
咳払いをしてから通るんだよって、僕は教えてもらいました」
と、ときたま大三郎さんが教えてくれると、
何気ない山の風景がどこか違ったものに見えてきて面白い。

今神温泉の入り口。

湿地帯を抜けて 12 時を回った頃に、到着したのは「今神温泉」。
ここは、長期滞在のみを受け付ける湯治専門の温泉で、 724 年の開湯という歴史を持ち、
別名「念仏温泉」とも言われているそう。
私たちはご主人にご挨拶をして、お水をいただき、昼食をとった。

次に目指すのは、「御池」を見られるという今熊山の頂上。
今熊山にも、かつては山伏がいたと言われている。
想像以上の急傾斜をロープをつたいながら、登っていく。
先頭でへばっていた女子学生たちは、いつのまにか足取り軽く、山をかけあがっている。

イタヤカエデの木。

途中、肘折こけしの材料として使われていたという「イタヤカエデ」があり、
前日のトークイベントを思い出した。
こんな風に木地師たちは、山をかけのぼっていたのだろうか。
そして、山頂らしき、視界がひらけた場所に着き、 御池が見え、参加者から歓声があがる。

今熊山から御池を見る。

水面が鏡面のように美しかった。
御池は、日照りの時も大雨の時も水量が変わらないと言われる、不思議な池。
龍神さまが住むと言われ、地元の人に信仰されているのだそうだ。
今熊野神社のご神体と言われる今熊山の山頂には、 祠があり、
そこでもまた大三郎さんに続き、念仏を唱える。 そして、もときた道を下山。
5時間におよぶ「山を登る」プログラムは終了した。
帰りは、バスで肘折温泉へ戻った。 肘折温泉のある大蔵村から、
山を越えて戸沢村に来ていたようだ。

中央のふたりが、今回私たちの登山をサポートしてくれた堀内さん(左) と新さん(右)。手前の4人は、山形市から参加してきたみなさん。

山を登り終えたわたしたちは、少しだけ、感想を言い合った。
「今回登った道は、かつては銅の番人がいたり、山伏が修験をしていたりと、
山ごとにあった文化を感じられる道でした。 みなが今までに
歩いたことのないような道だったんじゃないかと思います」 と大三郎さんが教えてくれた。
山を歩いているときは、そのままを感じてほしいと、あまり説明はなかったのだ。

最初かなりしんどそうにしていた東北芸工大の女子学生が、興味深い感想を言っていた。
「最初は辛かったんですが、最後は山と身体が馴染んできました。
同じ傾斜でもコンクリートの階段を登るよりも、
地面に生えている草につかまりながら登る山のほうが疲れないのかもと思いました」

傾斜に合わせて身体を使っていく。
そして、森の音に耳をすませ、目をこらし、感覚を研ぎすます。
「いまの日常ではあまり使わない想像力が膨らむ経験でした」という感想も。
それは、都会で塞いでしまっている、
身体の感覚を解放していくような効果もあるのかもしれない。

「自分たちが見ているもののなかから、こぼれ落ちてしまっている情報が
山には残っているんだと思う。そこにある時間の蓄積を読むことで、
もっと文化を立体的に捉えられるようになるんじゃないかなと思います」
と、最後に大三郎さんが話してくれた。

実は、この「山を登る」プログラムを実行するためには、
肘折の青年団が一度登ってコースを確認したり(こちらに詳しく)、
戸沢村の方々の協力があったりして実現したことだったという。
手つかずの森に初心者が入るとなれば、いくつかの準備も必要となる。
しかし、そんなふうに、毎年「ひじおりの灯」が行われることで、
地元のみんなで新しい試みにチャンレジンする機会にもなっている。
特に今回は「この土地の根源的な文化に触れられるテーマだった」と、
共同企画者、東北芸工大の宮本武典先生。
今回のプログラムで、新たな試みを動かしつつあるようだ。
「大三郎さんが肘折に来たことで、この土地と“山”との関係を見つめ直しました。
今後も『肘学―山行』として、季節やコースを変えながら、
周辺の山々をめぐる企画を考えています」とつたや肘折ホテルの柿崎雄一さんは話す。

1日目に行われた「山を語る」で聞いていたことが、
実際に山を歩くことで、体感できた今回の「山を読む、二日間」。
実はあまり、山に馴染みがないという地元の若い人たちや、
東北芸工大の学生たちにとって、山が身近な存在になったはず。
素朴で昔ながらの山道が教えてくれることは、まだまだたくさんありそうだ。

information

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

MAD City vol.2: 笠井くんと「やっちまえアトリエ」

MAD City vol.2
リノベーションが、教えてくれたこと。

まちづくり屋さん兼不動産屋さんをやっていると、
それはそれはいろいろな電話がかかってきます。彼からの電話もそう。

「あの、そちらで、『やっちまえアトリエ』という、物件を、お借りしている」

妙に文節の途切れた口調には読点があまり似合いません。

「ta-reという、集団の、笠井という者なんですが」

笠井 嶺くんからの電話はいつもなんだか困った声をしています。

ta-re(タレ)というのは笠井君がメンバーに加わっているものづくり集団のこと。
それぞれいろいろなものづくりの仕事をしています。
代表の竹内寿一さん(以下とっくん)は個人としてのデザインの仕事をはじめ、
「渋さ知らズオーケストラ」での舞台美術を担当していたりします。
とっくんは人脈が広いのでいろいろな仕事を頼まれるそう。
最近では代官山蔦谷書店の「丸若屋×モリワキ展」の什器制作なども担当したそうです。

「ta-reの、代表をしている、とっくんという男がいるのですが、
彼から家賃をお渡しに行けと言われております」

いい電話です。ぜひ来てください。家賃ほしいです。という感じです。
別の日の電話はこうでした。

「改装でご相談があるのですが、ちょっと伺ってもいいですか……」

これはちょっと大変そう。
MAD City 不動産は改装可能物件をたくさん扱っている不動産屋さんですが、
改装自体は、スタッフですら
自分の家で試行錯誤を繰り返しているような段階です(vol.1参照)。
わたしたちでご相談に乗れるのかしら……と思いながら、
その日はとりあえずお話を聞くことにして、事務所に来ていただきました。

あまり困っていない顔のときの笠井くんです。

「柱がないんです」

登場した笠井くんのひと言はたいそう衝撃的でした。

「ta-reの代表をしている、とっくんという男がいるのですが、
彼に言ったら、おまえが考えろと言われてしまいまして」
毎回とっくんの紹介をわざわざしてくれる笠井くんは面白いのですが、
お話の内容は面白いどころではありません。
柱がないってどういうことなんでしょう。

調べてみたところ、床下で柱が腐食してしまっていたことがわかりました。これは修繕だねと言ってオーナーさんに連絡しました。

そう、「やっちまえアトリエ」という、
ちょっとそれ適当なんじゃないですか……という名前の物件は
物件自体もけっこうものすごく、わたしたちスタッフ間でも
「これはリアル廃墟だ!」と言い合ったようなふるーいアパートなんです。

これが入居者募集当時の写真です。なんていうかボロボロ。そのかわりいくらでも改装していいよという条件でした。

ta-reがやっちまえアトリエを借りてくれてから早いものでもう1年以上経ちました。
廃墟からのアトリエ兼事務所へ。
旗振り役は代表とっくんですが、
改装経験も全くないのにハードな仕事を頑張ったのがメンバーの笠井くんです。

改装当時の笠井くん。防塵マスクで最強装備です。

今回この記事を書くために久しぶりにやっちまえアトリエを訪れました。
久しぶりに会った笠井くんは以前よりも滑らかに喋るようになっていました。

「ta-reのアトリエを探そうという話になって、
とっくんから格安で借りられるアトリエ物件を見つけたって言われたんです。
嫌な予感しかしなくて。実際来てみて、うわーほんとにこれ来ちゃったか、って思いました」

謎の染みがついた畳。畳を剥がして根太を張り直し、フローリングを上から貼っていきました。

「でも当時はなんだかハイだったので、イエーイやっちゃえ!
ってどんどん壊してどんどんやっていったんです。
とっくんからはそこまで壊さなくてもよくない?とか言われたんですけど」

どんどん壊した結果がこちら。もう廃墟には見えません。

「自分で作品をつくりたいっていう欲望みたいなものは無いんです。
仕事はなんでもいい。けどやっていて意義を感じられないことはしたくないですね。
この夏にはいきなり原型制作の仕事を頼まれて」

上記でご紹介した「丸若屋」さん。今年の夏、ta-reは新商品の開発のお仕事をしたそうです。「firefirefire」というろうそくのシリーズで、笠井君は日本の焼き物のかたちを型にとる作業を担当しました。

ta-reでやることには意味を感じられると笠井くんは言います。
「製品を大量生産するための型をつくる作業なんですけど、
そんなのやったことないんですよ。
でもとっくんに『え?できるでしょ?美大出てるならやれるでしょ?』って挑発されて。
ムッカー、と思ってやりました。夏の暑い中に。ここクーラーないのに、
1か月間ひとりで黙々とシリコン流しては固まるのを待って、ダメ出し食らってはまた流して、
そのうち型に傷がつくので傷を補修してはまた失敗して」

つらくなかった?

「ta-reはリハビリ施設なんです。心のリハビリ施設。
あとなぜ辞めないかっていうと、僕自身には主体性がないからじゃないですかね」

リハビリ! 仕事とかじゃないんだ。ずいぶん客観的に自分を見ていますね。

「就職できてないまま美大出て、自分は何がしたいのかとか、
何ができるのかとか、わからなくなりまして。
『家にいてもやることないから』くらいの理由でとっくんに呼ばれてta-reに入って。
そんな時期にひたすら手を動かす作業ができたことで気分が少し楽になりましたね。
やることがあるって大事で、やっていること自体はなんだかよくわからないんだけど。
いいリハビリでした。この夏もシリコンが固まるのを待ってるときってヒマじゃないですか、
そういうちょっとした時間に本を読んだりニュースを見たりして、
政治とか経済とか歴史とか思想とか、
今まで無視してきた世の中の成り立ちをなんとなく眺めて、
これから世の中どうなっていくんだろうということを考えていましたね。
『これからは第一次産業アツいな』とか。
住むところだってこれからどんどん変わるんでしょうね。
家を新築で建てることが少なくなって、リノベーションする人たちも増えるだろうし」

笠井くんみたいにね。笠井君自身はこれからどうするつもりですか?

「決まっていません。自分では何も決めないことを決めたんです。
ただ流されるだけにしようと。
いろいろ自分で決められてどんどん道を進める人もいるけど、
僕はそうじゃないってわかったんで。
あ、これ合わないな、だめだなって思ったら離れる、
意味を感じられたら留まるっていう風にしたい。
それに気づくのに時間がかかりました」

主体性がないっていうことが笠井くんの個性になったんだね。
ta-reでやっていたことが実になったのかな。

「リハビリの効果が出たってことじゃないですかね。
将来実になるかっていうと、
同じような仕事をしないかぎり役に立たないことのほうが多いとは思います。
でも、最近気づいたんですが僕は肉体労働が好きなんです。
これは声高に言いたい。僕は肉体労働が大好きなんです」

声高に。体を動かすことによって心身が整理されることってあるよね。

「もともと掃除が大好きなんです。
リノベーションも、基本的にはとっくんが出すプラン通りに作業するだけなんです。
だけどあまりにもボロボロなので、これだけボロボロのものを
どこまで使えるようにするのかって試されている感じがして、燃えましたね」

久しぶりに会った笠井くん、ほんとに楽しそうでした。
ta-reでものづくりの仕事をして、
アトリエをつくるところから自分たちでやって、
なんというか世界観みたいなものがちょっと変わったんじゃないかな、
と傍目には感じられました。

実にならないんじゃないか、と言っているta-reでの経験だって、
きっと得るところはあったはず。
たとえば解体の仕方にしても、床の張り方にしても、
やったことがなければどうやって始めればいいのか、
どういう工具が必要なのかまったくわかりません。
でも一回体験してみれば同じことを次に自分ひとりでやることができます。
それにどういう仕組みで建物がつくられているのかがわかってくるから、
やったことのない作業でもだいたいの見当がつくようになったり。

「最初はほんとにやったことがなかったからなにもわからなかったんです。
でも構造がわかれば自分でつくったりもできるようになりました」

基本を知るって重要だよね。どこを支点にして考えるかにも繋がるし。

「ta-reにいることでいろいろ価値観がひっくり返りましたね。
とっくんと最初はぜんぜん話が合わなくて。
言ってることがわからないんですよ。
わからないけどわからないなりに家に帰ってから考えるんです、
もしかしてこの男は自分の知らないことを知っているんじゃないだろうかって」

陳腐な言い方だけど、そうやって自分の世界をもう一度見つけた笠井くん。
これからどんな生き方をしても、ごちゃごちゃの中から
自分の世界を再生するっていうことをし続けることができるんじゃないかなと思います。

リノベーションするってそういうこと、
ただ単に古い建物をつくり替えてキレイな空間をつくりたいわけじゃない。
自分の手足の届く範囲の心地よさをつくり出したいなって思うときに、
いまあるものを壊して0からやるのじゃなくて、
いまあるものとゆるく共存しながらやっていくということなんだと思います。
笠井くんはもともとそんなことを思ってもいなかったのに、
やりながら気づいちゃった。
自分は流されればいい、
無理に自分で決めようと頑張らなければきちんと落ちつくべき場所に落ちつくはず。
これってけっこうすごいことだと思います。

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MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

ビルススタジオ vol.2: もみじ、それぞれの事情。

ビルススタジオ vol.2
巻き込み、巻き込まれ、できてゆく

2013年10月12日快晴。「あ、もみじずき」イベント当日、
閑静だったもみじ通りに人が溢れてしまいました。
いや、通りではなくそれぞれのお店、
その内外に人が溢れていました、と言ったほうが正しいかもしれません。
その様子を眺めながら、
数年前にそれぞれのオーナーさんと出会った頃をしみじみと思い出していました……。

あ、もみじずき当日の様子。

まずはドーナツ専門店「dough-doughnuts」(ドー・ドーナツ)の石田友利江さん。
今や県内随一のドーナツ店となりましたが、
思えば彼女は、もみじ通りでもなく当社で扱ってもいない物件についての相談で、
いきなりオフィスに現れたのでした。

石田さんは思い立ったら変な確信をもって、ガッと動いてしまう方。
正直、人とそんなにいきなり距離を縮めたいとは思わない私とは水と油のはずが、
私とは何も関係ないその物件での出店にいつのまにか協力することになり、
巻き込まれていきました。
栃木にUターンしてくる彼女からは地元のブランクを埋めるべく、会うたびに質問攻め。
しまいには「栃木でドーナツ専門店ってどうなの?」という、そもそもの相談までされる始末。

しかし、そんなふうに色々と意見交換しているうちに数か月経過。
なんだか悪くない気がしてきた頃、
「もみじ通りに出店できるトコあるの?」との問いが不意にでてきました。
“えっ!?”とは内心思いつつ、「そうだ、そういう人だった、この方は……」と再認識。
慌てて空き物件を探してみると、私のオフィスの3軒隣に空いているコが。
特になんの変哲もないビルのテナントっぽい物件でしたが、
先に出来たカフェ食堂は私のオフィスより西に3軒隣、こちらは東に3軒隣。
……ここだっ!
という説得力のない確信を元に、上に住んでいる大家さんに相談。
話はひとまず聞いてくれたのと、
石田さんに似てさばさばした感覚を持っている大家さんだったので、
“本人に会ってもらえれば大丈夫かな”と思い、
勝手に次週連れてくると約束してしまいました

早速石田さんへ報告し、「来週大家さんに会うから、ドーナツの試作品持ってきて!」と依頼。
「うんっ、わかった」
と、きっと彼女は意味も分からないまま了承(←こういうトコも凄いです)。
当日、大家さんへの紹介はそこそこに「下でこんなものを売りたいので、食べてみてほしい」と、ドーナツを数点差し出しました。
そんなこんなで、入居が決まりました。

元やきとり屋のこの物件。

欧州アンティークな家具建具を贅沢にあしらっているな、と思ったら、なんとお姉さんが目黒区のFOUNDの方でした。

コンビニより近い所で毎日でも食べたくなるおやつが買える。
手土産にもちょうどいいし、子どもだけで食べにきている風景もほほえましい。
自分の生活する近所にこんなお店がある人って実はあまりいないんじゃないか、と思います。

前回で紹介したカフェ食堂「FAR EAST KITCHEN」ができた頃、
行くと必ずと言っていいほど居る、「梅園さん」という方がいました。
ひとり客同士だったので、なんとなく同じテーブルに通され、
オーナー藤田さんに紹介され、自然と話すように。
梅園 隆さんは、生まれも育ちもこのもみじ通り界隈。
もともとは自分で豚と卵の生産と直配をしていて、
今は契約農家も巻き込み、野菜も扱っているとのこと。
話では、せっかく良い食材を売ってもそれを上手に調理してもらえてない、とか、
近所には単身の高齢者が多く、
デパートやコンビニで食事を買っているので身体が心配だ、とか、
不満が溜まっているようでした。
さらには、お母さんたちが働ける場所がもっと必要だ、との想いも持っていました。

その頃には私は自宅ももみじ通りに移し、完全なるもみじ住民になっていたこともあり、
家メシのお供においしいおかずの必要性を感じていた頃でした。
そこで私は「この界隈にはきちんとした総菜屋さんが求められているんじゃないか」と
ことあるごとに梅園さんに言ってみました。

気がつけば、梅園さんがどうやらソノ気になってくれたので、
候補物件の大家さん(実はドーナツ店と同じ)にこれまた総菜の試作品を持って、
相談しにいきました。
この大家さんは毎日の食事事情に苦労している単身の高齢者さん。
まさに、今回オープンする総菜屋のターゲット。
当の総菜は塩分・油分を極力減らしつつも味わいのあるもの。
しかし、オーナーさんと梅園さんは、
私そっちのけで、この界隈の昔話で盛り上がっていました。

そうして総菜店「ソザイソウザイ」の出店も、決まりました。

元カラオケスナックだった当物件。解体作業と漆喰塗装は自分たちで行っていました。モルタルだった床には墨汁を塗り込んでいました。

梅園さんが、キャッチコピーとして掲げている、
「まじめなソザイとまじめにつくったおいしいソウザイ」の通り、
いい素材を使い、塩分ではなくダシでその素材の旨味を引き出しています。
……というとなんだか難易度の高い味のようですが、そのままが本当においしい。
毎日いや、毎食いけます。
まさに近所に一軒、欲していた総菜屋さんが誕生したのです。

こちらが、梅園さん。

出店・入居までの事情や流れはそれぞれにもっともっと語り尽くせない物語があるのですが、
ざっとこんな感じで出店してきています。
徒歩3分圏で質のよいお店が集まりつつあり、生活者としてはとても良い状況にあります。

改めて思ったことは、“まちは人”だなと。
単に店舗だけがオープンしても、
これらの良いお店たちを日常で使い倒す(リピーターになる)、お客さんが必要です。
積極的にこの地域を「選んで住まう」住人がまちには増えてこないと意味がないのではないか。
という新たな課題が見えてきたわけです。
では、その地域を気に入って住民となる人たちはどういう住まいを欲しているのか。
そんな想いで悶々としていた2012年夏、
後に栃木県初のシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」のオーナーに意図せずしてなってしまった、
森さん(仮名)との出会いがあったのです。

つづく

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ビルススタジオ

住所 栃木県宇都宮市西2-2-24
電話 028-636-5136

金入健雄さん

伝統工芸品から学ぶ、東北らしさ。

東北のものづくりを軸として、東北に根づいた「暮らし方」を見つめる視点として、
「東北STANDARD」と名付けられたwebサイトがある。
青森県の「裂織(さきおり)」、福島県の「会津張り子」、
岩手県のお祭り「けんか七夕」など、
東北で生まれ、伝えられてきたものづくりや祭りを、
自分たちの視点で見つめ、映像や写真などとともに発信するカルチャーサイトだ。

金入健雄さんは、このプロジェクトの代表を務める。
ちなみに彼は、青森県八戸市を拠点とする、
文房具や本などを扱っている会社「株式会社金入」の七代目、若き社長。
ライターや新聞記者など、メディアに携わっているわけではない彼が、
なぜこのようなプロジェクトを立ち上げることになったのか――
その背景を、金入さんに聞いてみた。

東北STANDARDには、写真や文章だけでなく動画でも現場の臨場感を伝えている。

大学を卒業後、文房具の老舗・伊東屋に勤めていた金入さん。
家業を継ぐために戻ってきた八戸で、
家業の流通事業の強みを生かし、新しく立ち上がった、
「八戸ポータルミュージアム はっち」内に設ける
ミュージアムショップ「カネイリミュージアムショップ」を手がけることになったのだ。

そこで、金入さんが考えたのは、地元青森の工芸品も一緒に販売すること。
「八戸で、東京と同じことをしても意味がないじゃないですか。
八戸に住む自分たちにしかできないものをやろうと考えた結果、
地元で続いてきた工芸品を、地元の人にも観光客にも知ってほしいと思ったんです。
地元の人が、地元の工芸品に触れられる場所って、意外と少ないんですよね」

それは、地元の工芸品を新しい視点で発信する機会となった。
続いて、せんだいメディアテーク内のミュージアムショップも手がけ、
取り扱う工芸品は、東北6県にまで広がっていった。
職人のところへ会いにいき、ひとつひとつ取り扱わせてもらうようお願いする。
扱う商品が増えていくのと同時に、
金入さん自身が、東北のものづくりについて話す機会も多くなっていく。
そのうち、こんな質問をされることが多くなったのだという。

“東北の良さって何ですか?”と。

「あるイベントで単刀直入に質問されたとき、うまく言葉にできなかったんです。
東北の良さって何だろうと、改めて考え始めました。
うまく言葉では置き換えられないけれど、何かがある。
その何かを包括的に伝えられるようなプロジェクトをしたいなと思い始めました。
そうしたら、東京でクリエイターをしている高校のときの先輩が、
同じようなことを考えていた。彼と言葉を交わしているうちに、
東北STANDARDが生まれていきました」

それは、東日本大震災が起こったことで特殊な状況に置かれてしまった、
東北のものづくりへの危機感も含まれていると金入さんは続ける。
「大手メーカーが復興支援として発注した何万個という需要に対して、
おみやげとして消費されるだけの工芸品と同じものづくりを繰り返していても、
それがまた終わってしまった5年後は、すっかり忘れられてしまう。
そうなる前に、東北の知恵や創意工夫はかっこいいんだと発信していきたいんです」

それが、東北スタンダード。
例えば、北欧のライフスタイルがインテリアのスタイルとして注目されるように、
東北にも似た何かがある。少なくとも、青森で生まれた“裂織”や“こぎん刺し”には、
南米などでは見られない素朴な美しさを放っている。
東北の工芸品をつくる職人たちを訪ね、そこに眠る風土やライフスタイルを知る。
それが、東北で生きる知恵や東北の誇りといったものを抽出するカギになり、
世界中の人々にとっても新鮮なライフスタイルに映るんじゃないか。

「そんなふうに10年後も勝負できるようなものが必要。
工芸家も食べていけて、自分のショップも成立していけるようなものを
発信していかなきゃいけないと思っているんです」

カネイリミュージアムショップが青森の裂織作家と一緒につくったオリジナルの裂織の文房具。左から筆入れ、カードケース、iPhoneケース。

カネイリオリジナルのプロダクトも、
そんな金入さんの熱い思いを体現するもののひとつ。
職人さんたちが考えていることを引き出しながら、
いまのスタイルに合わせた商品を一緒につくっていく。
ちなみに、青森の裂織作家の井上澄子さんとつくった、裂織の文房具は、
2013年グッドデザイン賞を受賞したという。

ミュージアムショップを立ち上げたことから始まった、東北の職人たちとの出会い。
いつのまにか、東北について考える日々が多くなった金入さんは、
少しずつ、少しずつ東北の良さを探し始めた ところ。
そんな彼を突き動かしているものは何なのか聞いてみると、
「僕がただ、楽しく八戸で生きていきたいだけなんです」と金入さんは笑う。

「東京のスピード感や物欲を持って、八戸では生きていけないですね。
だからと言って、ネガティブなことばかりでもないと思うんです。
ここには、取り替えがきかない文化があって、家族がいる。
だから、そんな人たちが、もうちょっと楽しくなれて、
自分のまちを誇りに思えるようなものを発信できないかなと思って。
身近な人が楽しめていないのに、活性化とかってなんか違うと思うんですよね。
世界の人に“東北ってかっこいいね”って
思ってもらえるようになれたら、とてもうれしいです」

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TAKEO KANEIRI
金入健雄

1980年青森県生まれ。株式会社金入代表取締役社長、東北スタンダード株式会社代表。伊東屋を経て現職。せんだいメディアテーク、八戸ポータルミュージアムにてカネイリミュージアムショップ運営。アートデザイン・グッズと東北の工芸品のセレクトを通し東北の素敵な暮らしを発信している。
http://tohoku-standard.jp/

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別冊コロカルでは、金入さんが手がけるミュージアムショップショップを紹介しています!
フフルルマガジン「別冊コロカル」

NO ARCHITECTS vol.1: 住みながらつくる家

NO ARCHITECTS vol.1
“このはな”で出会った、風呂なしの木造二階建て

はじめまして。NO ARCHITECTSの西山広志です。
大阪の此花(このはな)区梅香というところで建築の仕事をしています。
このあたりは、大阪の中でも昭和の下町情緒あふれるまち並みが残る地域で、
ここ数年、アーティストのアトリエやギャラリー、
カフェやショップ、住居、事務所など、
リノベーション物件が、少しずつ増え始めています。
ぼくらもこのはなで開催されるイベントのお手伝いや地域情報の広報活動、
内装の設計やデザインで何軒か関わっています。

「このはなの日2013」というまちなかイベントのときのマップです。「このはな」と呼んでいるエリアはこんな感じです。

ぼくらの自宅もこのはなにあり、「大辻の家」と呼んでいます。

外観。外装は廃材の銀色の波板を使っています。このはなのまちなかでよく見かける素材です。家の脇にある路地の奥にアパートと屋上への階段があります。

この家と初めて出会ったのは、2009 年。
「見っけ!このはな」というイベントの中の空き物件ツアーでした。
当時の印象は、玄関が北を向いていてどんよりした感じ。
中に入っても、雨戸が閉まっていたせいもあって真っ暗。
お風呂もありませんでした。

かろうじてキッチンのタイルはいいなあと何となく覚えていた程度。
立地もT字路に面していて、窓をあければ目の前は道路が奥に伸びています。
つまり、全く惹かれない物件でした。
まさか、自分が住むことになるとは、想像もつきませんでした。

こちらが大辻の家のビフォー。

しかし、2011年 に事務所をこのはなに移したことをきっかけに、
ここに住む人たちとの関係を深めていく中で、
このはなに住むことを考えるようになりました。
賃貸なのに改修可能で、
辻(十字路やT字路のこと)に面していることは、
逆に言えば、見通し、風通し良好ということ。

いつのまにかこの物件を魅力的だと思うようになっていきました。
そして、自分たちが住み、リノベ−ションしていくことで、
この物件の特性を活かしながらも、
理想的なライフスタイルを表現できると確信しました。

さらに、「大辻の家」と呼ばれるこの一軒家は、
裏にあるアパートとは、階段室で繋がっていて、少し特殊な建ち方をしています。
全体をまとめて借りることで、アパートの屋上が自由に使えたり、
コストも抑えられた事から、友人とともにシェアすることになりました。

自分たちの暮らしに合わせて、
ひとつひとつリノベーションを考えていきました。

1F奥のアトリエ。事務所で終わらなかったデスクワークをしたり、簡単な木工作業場として使っています。

暮らしを豊かにする方法

引っ越す前に、トイレとお風呂とキッチンの整備などの大規模な工事だけは、
工務店と大工さんにお願いしました。

このはなには、素敵な銭湯がたくさんあるので、
お風呂をつけるかどうかは最後まで迷ったのですが、
結局、洗濯機置き場だったところにお風呂の小屋を増築しました。
理由は、3年間銭湯に通ったときのコストの比較の結果と、
お風呂にまつわるおもしろいプロジェクト「風呂ンティア」を続けている、
画家の権田直博さんに銭湯画描いてもらいたかったから。
彼は、個人宅のお風呂に銭湯画を描いています。いろいろ要望にも応えてくれて、
ぼくらは大小の円形のフレームの中に、「宇宙インコ」と、
「富士山とシカ」を描いてもらいました。

お風呂の内観。小さなユニットバスですが、とても広く感じます。

トイレはタイル敷きの和式便所が窮屈だったので、
洗面スペースと一体にして洋式の便座を入れました。
床を敷き直して、壁も塗り直すと、とても清潔感のあるトイレになりました。
窓からは磨りガラス越しに隣のおばあちゃんが毎日手入れしている
庭の植木が見えます。
たまに枝切りばさみのカチカチという音がして、ほっこりします。

1F内観。もともと玄関だったところの半分がお風呂の入口になっています。

タイルが気に入っていたキッチンはできるだけ、そのまま使いたくて、
ボロボロになっていたシンクの内側部分のタイルだけ壊して、
ステンレスのシンクを上からカポッとはめました。
食器棚は、ぼくのお父さんが学生時代に使っていた本棚で、
ダイニングテーブルは、相方のお父さんが子どもの頃から使っていた勉強机です。
古いものが特別好きというわけではなくて、
もともとあったものを最大限に有効利用して、最小限の手を入れています。

全体的に意識したのは、ガスや水道、電気、ネット、排水まで、
できるだけ隠さず、目に見えるように取り付けています。
どこから来て、どこに流れて行くのか。
日常生活の中で忘れてしまいがちな感覚を、少しでも実感できるように。

キッチン。流しの前のすりガラスの柄も気に入っています。あと、豆苗を観葉植物として育てています。

家具は生活していくなかで必要になったら、
急かされるように、少しずつ、つくり足しています。
その都度、必要な場所に必要なサイズで。
今は、ちょうど玄関の踏み板をつくっているところです。
コスト面から考えても、少しでも無駄なものはつくらないほうが良いと思っているので。

寝室とリビングの間の壁。今は出窓のように開口部だけ突き出していますが、家型の壁一面を棚にする予定。

照明も同じです。生活に合わせて、明るさをコントロールできるように、
2階の5つある照明は、6段階に調整できます。
そのほうがずっと健康的です。
そんな些細なことが、実は重要だったりします。
自分たちの理想の生活に合った家は、
もしかしたら、低コストで見つけることができるかもしれません。

最低限の豊かな暮らしを心がけることが、
NO ARCHITECTSの目指すところでもあります。

2F内観。寝室は、空の色が映り込むように白く塗っています。リビングは、天井を抜いて屋根裏ギリギリのところまで空間を広げています。

ゆるやかに友人たちとつながる暮らし

裏のアパートの2部屋に住んでいるふたりは、大学からの友だちです。
ひとりが近所にあるモトタバコヤというスペースでカフェをしているパティシエ。
もうひとりは、服をつくっています。
シェアハウスと言えど、それぞれ住居スペースは独立していて、
階段室と洗濯機置き場と屋上を共有しています。

屋上へは、2Fのクローゼットの奥の勝手口からも出ることができます。

各々の生活にあった暮らし方を束縛することなく、
時には、共有スペースの使い方を、住人みんなで話し合いながら、
より楽しい生活になるように、つくり足していっています。
リノベーションは完成させてしまうことよりも、
生活に合わせて更新していけるようにしておくことが大事だと思っています。

天気の良い日は日向ぼっこしたり、みんなでバーベキューをしたりしています。

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NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/

「山を読む、二日間」前編

「山を読む」とは?

山形県の肘折温泉では今年も7月27日〜9月16日まで「ひじおりの灯」が行われた。
「ひじおりの灯」とは、7年前から肘折温泉で開催されている、
東北芸術工科大学(以下、東北芸工大)の学生たちによる滞在アートプログラム。
学生たちは、春に肘折温泉やってきて、滞在制作を行う。
自分の担当となった旅館や商店のおじちゃんやおばちゃんたちに話を聞いたり、
肘折の空気を感じ取ったりして、思い思いの灯籠絵を月山和紙に色づけしていく。
灯籠の骨組みは、立ち上げ当初にみかんぐみの竹内昌義さんが設計。
それに、毎年灯籠絵が張り替えられてきた。
学生たちが手がけた灯籠が、夏の肘折温泉街の夜を灯す。

そんな「ひじおりの灯」開催中に、
肘折温泉では、さまざまなイベントが行われ、老若男女が訪れた。
7月27日には前夜祭として電子音楽イベント「肘響」が、
そして、8月10日、11日には、「山を読む、二日間」と題して、
トークイベント「山を語る」、「山を歩く」という山登りワークショップが行われた。
コロカルも、山を読む二日間に参加。
山伏でイラストレーターの坂本大三郎さんの肘折温泉での生活が少しずつ始まり
冬に訪れたときに肘折青年団のみなさんと考えていた「山のこと」が
少しかたちとなっていたからだ。

1日目のトークイベントのパネラーはこちらの4名。

左からKIKIさん、坂本大三郎さん、石倉敏明さん、田附 勝さん。トークベントは肘折温泉いでゆ館のホールで行われた。

司会は、イラストレーターで山伏の坂本大三郎さん(以下大三郎)。
大三郎さんは、昨年の「ひじおりの灯」のイベントへの参加をきっかけに
肘折温泉に通い、今年から肘折に住み始めた。彼が考える肘折の山のことは、
著書に綴られていたり、コロカルでも取材している。
(→「月山若者ミーティング 山形のうけつぎ方」 、「肘折温泉vol1今も残る美しい手仕事」
ふたり目は、モデルのKIKIさん(以下KIKI)。KIKIさんは山のことを、
自らまとめているという冊子や著書『山が大好きになる練習帖』(雷鳥社)で書いていて、
そこには等身大の山の風景が綴られている。
3人目は写真家の田附 勝さん(以下田附)。彼が撮影した写真集『東北』(リトルモア刊)は、
2012年木村伊兵衛写真賞を受賞。
今も東北へ通い続け、まっすぐな衝動をフィルムへと焼き付ける。
4人目は人類学者の石倉敏明さん(以下石倉)。
石倉さんからは、日本だけではなく、世界の山と人との根源的なお話が展開される。
秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻講師を務める一方で、羽黒山伏でもある。
ちなみに、田附さんと石倉さんは『なごみ』という雑誌に連載中の、
『野生めぐり』という企画でいつも一緒に旅をしているのだそう。

四者四用に山に魅せられているパネラーのみなさん。
それぞれが撮影した写真をスライドで上映されながら、
「東北に宿るなにものか」「土地の文化の継承」
さらには、「エチオピア音楽と東北」「歌が伝達してきたこと」など、
人類の芸術の出発点にまで、話はひろがっていった。

山に息づく姿をどう伝承していくか

大三郎

まずは、KIKIちゃんに。KIKIちゃんは雑誌や番組の取材で山に行くことが多いと思うけど、山はどうですか。

KIKI

「山の登り方」にはいろいろな楽しみ方があると思うんですけど、私は、最初は「どこどこの山がいい」とか「景色がいい」と聞いて登る山を決めていました。そのうち、道はどうつくられたか、ほこらはどうしてできたかということに興味が出てきて、自分のなかで、徐々に山の登り方が変わってきました。山にいる時間って、とても特別なもので、感動がすごく多い。山の見え方や、神さまとして祀られているものはとても神々しくて。そういった姿を写真におさめて、個人的に冊子にまとめています。

大三郎

撮影しているものや雰囲気は全然違うんですが、KIKIちゃんの写真を見て田附さんと似ているものを感じたんです。

写真はKIKIさんが出羽三山に行ったときの冊子。

KIKI 

(岩木山のスライドをみながら)これは岩木山(青森県弘前市、標高1625m)です。本当は、8合目まで車で行ける簡単な登山道があったけれど、信仰の道に興味が出て、探して登りました。実は、その信仰の道もふたつあった。岩木山神社の裏からの道と私たちが登った道。前者はかつて殿様がお参りするための道だったそうです。私たちが通った道は土地の人が山を崇めて歩いた道だった。地元の人からは「なんで神社からの道を通らなかったの?」とびっくりされたけれど、気持ちのよい道だった。山の見え方がちがうなって気もしました。

大三郎

山伏から入ると山のことって、ツライことをやるというイメージだけど、山は本来気持ちいいもの。山に登るって、最初に、楽しいという気持ちがある。

KIKI

もちろん、山を登るわけだから途中はつらいかもしれないけど、頂上に到達すると最後は楽しいし、気持ちいい。そう思えることが、山に対する何か信仰のあり方なのかなって思います。

山行のあとに、KIKIさんがまとめているという冊子たち。

大三郎

田附さんの写真って、これまでの東北の姿とはまた違った土着的なにおいを映し出す写真だと思うんです。

田附

60年代〜70年代にかけては、濱谷浩さん、岡本太郎さんや写真家の内藤正敏さんに代表するような、裏日本というテーマのなかで東北の姿を捉えられることがあった。でも、80年代以降はあまりビジュアルとしては見かけなかった。僕は東北には、独特の土着的な姿というのがあるんじゃないかと思って、写真を撮り始めたんだけど。

大三郎

田附さんの写真にある風景は、都会に住む人が忘れた姿なんじゃないかと思うんです。

田附

そう。肉を食べるために、動物を裂く姿までは見ることができない。でも実際はその土地からいただくみたいなことがあるわけで。このことはちゃんと知らないといけない。動物から血が流れるということはどういうことなのか、感じたり、見なきゃダメだというのがあるね。

田附さんの写真がスライドで流れる。

KIKI

東北を撮り始めたきっかけって何だったんですか?

田附

僕は、生まれは富山、育ちは埼玉。だから小さい頃から東北に親しんでいたわけではない。でも、19歳のときに青森へ行ったらぞわぞわする感性が動いて、それが自分のなかでずっと残っていた。残った何かを確かめたいと思った。(スライドを見ながら)これは、山形県の飯豊の熊祭りです。熊役を演じるひとが熊をかぶるパフォーマンスを見たときに、かつては山を歩いて、熊を仕留めていた誰かの姿として、目に焼き付いた。この土地にある文化が、いま、見えているものと重なって浮かび上がった。

大三郎

都市部に行くと洗練された文化がある一方で、自分の足下で脈々と続いてきたものに触れられる場所は限られてきている。でも、東北を歩いていると、何かいまの姿と違うものに触れる感覚がある。田附さんの写真はそうしたものをえぐり出そうとしている。

田附

わかんないけど、東北に来ると、自分のなかの、ある気持ちとリンクする。特に、夜って、普段は見られない何かを見られるんじゃないかと思っていて。山の夜は、人間が立ち入っちゃいけない時間だと思うくらい、何か見えないものがうごめいているんじゃないか。

大三郎

僕も山にいて、夜は本当に真っ暗になるので、びっくりしたのを覚えています。まちの夜と全然違う。

田附

そこにいる自分にまずびっくりする。呼吸がこんな音をしていたのかとか。

大三郎

夜の森で一番こわいと思ったのは、自分は見えないけど、動物からはこっちが見えているということ。これは、昔のひとは持っていた感覚なんだと思う。

田附

昔の人はその感覚を知っているから、夜は獣たちの世界だと認識していた。そうやって、人間と獣の世界が分断されていたんじゃないかって思う。

大三郎

(雑誌『なごみ』の連載『野生めぐり』の写真を見ながら) 石倉さんとの連載ではどんな所に行ったんですか?

石倉

第1回目の取材では、青梅の御岳山(東京青梅市、標高929m)や奥秩父の三峰山(埼玉県秩父市にある三山※1の総称)に色濃く残っているオオカミ信仰を取り上げたんです。野生的な何かを発見するための、最初の場所として選びました。東京や埼玉を取り囲む山々の奥地には水が湧いていて、それが川や飲料水となって平野部の農業や生活を支えている。御岳山には山伏の末裔である御師(おし)と呼ばれる祈祷師が住んでいて、いまは絶滅したと言われているニホンオオカミを大口真神として祀っています。

たとえ現代の東京でも、ちょっと山に行くだけで古代的なオオカミ信仰の層を発見できる。それから一年かけて田附さんと一緒に日本各地を歩いている最中で、いまも行く先々で野生的な力の文化を実感しています。

夜の森を歩いて撮影したという、田附さんの写真集『KURAGARI』。http://superbooks.jp

大三郎

昔の人がどう山に関わっていたのか。特に僕は、山伏の古い時代の行いに興味があるんです。もともとは現代美術に近い場所にいた僕は、日本のものづくりのルーツを知りたかった。山伏は、古い時代には「ひじり」と呼ばれ、お祭りのときには、舞を踊ったり、音楽を奏でたり、面をつくったりしていたりと、日本のものづくりや文化に非常に関わりのあった人と言われています。それで実際に山に入り山伏の修験を体験してみたら、面白さを感じてしまったんです。

僕は、現代までに重ねられてきている、蓄積された文化を見ていかないと、「いま」を本質的に捉えられない気がしています。そのときに、肘折には、古い時代の山伏の姿を残しているじゃないかと推測できる場所が多い。柳田國男(民俗学者)は、ひじりがつくった場所は「ひじ○○」と呼ばれると言います。肘折もひじりがつくった集落なんじゃないかと推測できる。実際、肘折の山には、古いかたちがそのまま残っています。

人と樹木の関係はものすごく古く、根の深いものだと思うんです。いま僕たちが触れられる山の文化に対して、「木地師」の存在はとても興味深い。肘折温泉では、こけしがつくられてきたんですが、この土地の職人は、実際に森に入って木をとっていたそうです。これは他の産地ではないこと。肘折のこけし職人だった奥山庫冶さんの息子さんに話を聞いたら山から木をきる作法をよく知っていた。そういった些細な作法にもすごく重要な情報が詰まっていると思うんです。それは、山伏にとってというよりも、ぼくたちの生活に。だから、僕は残したい。

坂本大三郎さん。

石倉

僕が肘折に初めて来たのは、1997年。研究室の合同ゼミで、1年に何度も大蔵村を訪れていました。山が、森が、本当に豊かな場所だと思いました。そのときは山間地で農業をして、東北の人びとの暮らしや芸能を知り、汗まみれの身体を肘折のお湯で流す、という日々を送っていました。地底からわいてくる力、鉱物としての土地の豊かさ、そして、山を豊かにしている植物や動物への想像力。そんな土地に人間がいて、芸能や信仰が生まれている。それらが渾然一体となっているここの文化に圧倒されました。

当時、舞踏家の森繁哉さんや阿部利勝さんにいろいろと教えていただいて、羽黒山伏の星野文紘さんにも、大蔵村ではじめて出会ったんです。だから、僕もこの肘折に残る文化を残そうとしていることは、とても意味があることだと実感しています。それに、ただ古い文化を残すというだけじゃない。外からの新しい刺激を受け入れて「生まれ変わる」力もあると思うんです。

大三郎

なかなか担い手が少なくなっている時代だけど、せっかくすばらしいものがあるんです。どうにかして残していきたいと僕は思うんです。

石倉

僕たちが関わっている秋田県上小阿仁村の「KAMIKOANIプロジェクト」でも、地元の生活に根ざした芸能や文化と新しいタイプの芸術を密着させることを目的としています。土地の人たちと外から来た人たちが、それぞれの役割を担ってすすめようとしている。目指すところは「ひじおりの灯」の精神性とつながっているんじゃないかなと思っています。

大三郎

肘折は外に出たひとがわりと戻ってくれるという、素晴らしいところ。でも出羽三山のまわりを見回すと、住民は老人ばかり。特にこのへんは豪雪地帯だから、1〜2年家を放置するだけで、つぶれてしまう。おふたりが見てきた土地ではどうでしたか。

田附

僕が、写真を撮りなが東北をまわっていると、若いやつが多少いる土地もある。例えば、彼らは伝統的な踊りを担っているけれど、昔と同じ衣装では踊っていない。それは単純な理由で、衣装が重いから。そんな風に、無くなるものは無くなっていいと僕は思う。残そう残そうと思うと、違うものが残っちゃう気がする。

誰かが強く思えば、たとえ一度は消えても、その土地から湧き出てくる何かによって、復活されることがある。そうやって日本列島では何千年も同じことを繰り返してきたんだと思うんだよね。残るものは残る。絶対またもとに戻るものってあると思う。

石倉

最近ある学生に「私には神道や仏教という宗教の信仰は無いけど、それでいいと思っている。かたちは変わっても、自然を大事にしたいという信念を持っているから」と言われたんです。たしかに、表に見えるような宗教という考え方は消えても、プリミティブな自然との関係は残っている。そういう関係って、かたちだけ残せばいいというものではないし、常にその時代の人びとが再発見して、その時代の表現のあり方を考えなければいけない。

いま「ひじおりの灯」や「KAMIKOANIプロジェクト」に限らず、全国の小さな村や大自然を舞台としたプロジェクトが立ち上げっているけれど、やはりその人なりの「土地とのつながり方」を見つけることが大きな主題になっているのだと思います。田附さんは上小阿仁村の八木沢集落という限界集落で、朽ち果てようとするトタン小屋を会場として、その土地に暮らす昔マタギや木こりだった人たちの写真を展示しました(写真展の様子はこちら:前編後編)。

KIKIさんは、ファッションやアートを通じて、普段はあまり山のことを知るチャンスが少ない若い女の子たちが、自分もそこに行ってみたいと思わせる風景を実際につくり出していて、言ってみれば、「道」をつくる山伏の先達みたいな存在。大三郎くんも、イラストや文章等を通して、山伏自身も伝統の中に抑圧してきた野生的な文化を発掘してみせている。

そんなふうに、ぼくらの世代が、かつての文化を新しくつくり直していくことも必要なんじゃないかと思う。

田附

ただ、自分たちが新しいことだと思っていても、実は歴史の中に組み込まれているんじゃないかと思うときもある。昔あったものがまた現れるというふうに。

田附 勝さん。

土地を読むこと=歌をうたうこと

大三郎

続いては、ここに参加してくれた方からの質問に沿って、話をしたいと思います。ひとつ目は、「石倉さんに質問です。今日スライドで流れていた石像が、エチオピアの映画にでてきた洞窟の絵と似ている」ということなんですが。

石倉

僕自身は行ったことがないのですが、エチオピアは宗教が重層していて、たいへん面白い地域だそうです。エチオピア正教というキリスト教と、イスラム教と、土着の精霊信仰などが混在している。そういう意味では、東北と共通しているところがあるのかもしれません。特に、家々を訪ねて物乞いをしながら、歌をうたって人びとを祝福していく文化がエチオピアにはあるんです。

これについては、川瀬 慈(かわせいつし)さんという映像人類学者が『ラリベロッチ—終わりなき祝福を生きる—』という素晴らしい映像作品にまとめています。それを見ると、たしかに歌がすごく面白い。川瀬さんから聞いた話ですが、エチオピアの歌というのは、演歌にそっくりなんだそうです。エチオピア人に吉 幾三の歌を聞かせたところ「この歌手は誰だ? エチオピアに呼びたい」って言わせたほど(笑)。

かつて東北の農村には、家々を祝福して廻る門付芸人(かどづけげいにん)がいましたが、彼ら自身もある意味では大三郎くんが言う「ひじり」と同一視されるような存在だったと思います。

大三郎

昔は、山伏と巫女が夫婦になって、憑依させて集落から集落に練り歩くということをしていたようですね。エチオピアの芸能は日本と共通点があって面白そう。

KIKI

私、エチオピアに行ったことがあります。清水靖晃さんというサックス奏者の方がいて、とてもすてきなジャズを演奏する方なんですが、なかでも『ペンタトニカ』というアルバムは、民族的な音階を集めていて、エチオピアの伝統音楽を編曲したものも入っていてとてもかっこいい。

石倉

いいなあ、行ってみたい(笑)。ジム・ジャームッシュ監督の映画『ブロークン・フラワーズ』にもエチオピアの音楽が使われていましたね。五音音階(ペンタトニック)の民謡調で、しかもすごく洗練されている。

KIKI

エチオピアではラリベラとう古都にある岩窟教会群へ行ったんですが、地域によって宗教観が全く違っているんですよね。その教会には、壁画がなく、地面を掘り下げて祭壇があるシンプルなものでした。

石倉

川瀬さんの映画に出てくる「ラリベロッチ」という芸能者も、まちを転々としながら各地の家を訪ねて、その家がキリスト教かイスラム教なのかもこっそり確認しながら、その人を讃える歌を即興でうたうそうです。たしかに東北の放浪芸人とそっくりなんだなあ、ということがよくわかりました。

ちなみに川瀬さんは、精霊に憑依された霊媒の女性を主題とする『精霊の馬』という作品も撮っているんです。女の人が馬のようになって精霊を乗せ、トランス状態で託宣を告げる儀礼。これも東北に伝わる「いたこ」文化に似ているのでびっくりしました。

大三郎

東北には瞽女(ごぜ)さんという女性たちもいて、目の見えない人が多かったんですが、彼女たちは歌をうたって集落から集落を歩いていた。行く先々で、説教を歌っていたようです。瞽女という名前も御前(ごぜん)から来ているのではという説もあり、何か儀礼をする人だったんじゃないかと推測が生まれる。遠い国なんですけど、通じることがあるんですね。

石倉

山伏のやっていることもそうですよね。ある意味で、東北の山は「世界」に通じて、それだけ古い文化が残っている。山伏が抖擻行(とそうぎょう、※2)を行って、道無き道を読んで歩いていく背景には、そういう古い世界的な文化があると思います。たとえば山伏は、山中の特別な拝所をめぐって祝詞や真言を唱えますが、ある意味では土地を読むことと歌をうたうことを一体化させている。

オーストラリアの先住民アボリジニたちも、殺風景な砂漠の中の土地を「読んで」歩いていく。そして、彼らの神話に登場する特別な泉の前で、特別な歌をうたう。山伏たちがやっていることの本質と、とても近い儀礼だと思います。

田附

なんで歌なの? 言葉で言うだけじゃダメなの?

石倉

単に発声するだけじゃなくて、抑揚をつけてうたうことで、はじめて世界に働きかける力が生まれるんだと思う。それはたぶん、社会的なコミュニケーションの道具としての言葉以前に生まれた力かもしれない。先住民は広大なオーストラリアの土地の全てを楽譜のようなものととらえ、そこを歩くことで創造神話と一体化する(※3)。からだごと音楽や神話と一体になるんです。

山伏修行の一番深い層では、こういう儀礼ととてもよく似たことを行っています。普通の人が茂みや岩だと思っているところに、熟練の山伏は古くから伝わる神話の痕跡を発見する。そして、そこでお経や真言を唱えることで、山全体に眠っている記憶が呼び覚まされます。

大三郎

折口信夫(民俗学者)は、「自然に対して訴えかけることが歌である」と言っています。訴えるときに語られたことが、物語になっていくと。日常的に話している言葉よりも先に歌があって、それが繰り返されることで、いまの「歌」という形式に収まっていった。そこからは、身振りが「舞」になり、激しく舞うことが「狂う」という風に言われている。かつて自然と向き合った姿はやがて歌に残され、そこで語られる物語が神話になっていくんだと思う。

田附

歌のもっと前に、動物的な感覚で人間は声を発し始めたじゃない。そう言った音というか声というか、発声から来ているのかとも思った。それが音楽になり、理解されていくものになったのかなと。でも、いまの話は、すごく面白い。

石倉

ジャン=ジャック・ルソーも「最初の言葉は詩であり歌であった」と言っています。僕自身、子どもを育てていて感動したんだけれど、赤ん坊は言葉によるコミュニケーションを覚えるずっと前に、簡単なメロディーやフレーズを覚えて歌をうたうんですよね。現代の生物学者も、音を使ったコミュニケーションが動物と人間に共通するとても重要な回路だということをあきらかにしている。

芸術というとすぐに壁画や彫刻を想像するんですが、ラスコーのような旧石器時代の洞窟の中でも音楽やダンスが重要な役割を果たしていたようです。昔の人類は、音を響かせ、歌をうたうことで、岩や土の壁の向こう側に広がる目に見えない自然の領域に働きかけていたかもしれない。芸術の歴史もそうやって捉え直してみると面白いですよね。

石倉敏明さん。

大三郎

続いて一番多かった質問で「山のエネルギー、力を感じるところはどこかありますか?」ということなんですが。僕は、湯殿山(山形県鶴岡市と西川町の境にある、標高1500m)ですね。初めて東北に来たときに行ったところですが、すごいと思った。真っ赤な岩から何か出ているじゃないですか。

田附

いや、本当あれはやばい。僕は観光で、特に何も情報もないまま行ってみたら、赤い岩が! 濡れている! というような、とにかくファーストインプレッションが衝撃的だった。だって、

KIKI

行っていない人もまだいます……

田附

あ、すみません。でもすごかったよ。 

大三郎

語るなかれ、聞くなかれ、湯殿山(笑)。僕は山のパワーという言い方は好きじゃないんですけど、やっぱりその自然のインパクトというか、存在感は、人間の感覚を刺激するなって思います。岡本太郎さんが、湯殿山を見たときに「民俗のそこにあるものを刺激された」と言ったようです。

石倉

田附さんと一緒に旅をするとき、ひとつ大事にしていることがあるんですが、それは聖地というのは必ずしも神社やお寺の社殿ではない、ということなんです。だからたいてい、山や湖や洞窟を目指すことになります。聖地と呼ばれる場所にはたいてい立派な社殿が建てられているんですが、その前になにがあったのかを見ないと、本末転倒になってしまう。例えば湯殿山も、湯殿山神社じゃなく、ご神体を意識するように設計されています。こういうところからも、いろいろ見えてくるものがあると思う。

田附

かたちに気を取られるとちがうものになっちゃうじゃない。そういうのがすごくいやで。もっと先にあるものを見たい。

大三郎

今日「山を読む」というテーマで話をしてきたんですが、山を読むってつまりは、「読み方」なんだと思います。例えば、肘折温泉のような自然の豊かなところに入れば山は身近だけれど、見落としてしまうものもある。かつて、自分たちの文化が豊かだった時代というのが何百年か前にあって、そのときの人たちがどういう風に自然と接していたか。という、山の読み方をひとつひとつ、僕はひじりや山伏という視点からひも解いていきたい。

石倉

それだけ濃密な情報が、山という空間には満ちあふれている。本を読むことも大事だけど、山を読むことで別の次元の情報に触れられるんじゃないか、と僕は思っているんです。中沢新一先生も「山伏っていうのは、そこに身をおいて学ぶ学問だ」とおっしゃっていて、基本的には先達をとおして「独学の仕方」を学ぶものなんですよね。木や岩を通して、季節や生態系の変化だけでなく、先人の足跡や歴史的な出来事、神話や伝説のような情報も教えられる。それが山を読むこと。「ひじり」と呼ばれた人たちは、情報のハブになっていた。彼らのネットワークが、山とまちをつなげていた。僕らはそれを実践的に学んでいるんです。

大三郎

僕以外の3人が各地の山を旅しているなかでも、その土地土地の自然の読み方があったと思う。いま、ぼくは肘折という土地で「山の読み方」を読み込もうとしています。東北芸工大の学生さんたちも今日はたくさん来てくれていますが、「山の読み方」というのを今日の4人の話から、少しでも感じ取ってくれるといいなと思います。

3時間にも及ぶトークの後のオフショット。右端は「ひじおりの灯」の共同企画者のひとり、東北芸術工科大学の宮本武典さん。

このトークの後、夜には参加者みんなでで肘折温泉の夜へと繰り出し、
灯籠をを見て歩いた。その様子や2日目の「山を歩く」、山登りの様子は後編で!

※1 三山…妙法が岳・標高1332m、白岩山・1921m、雲取山・標高2017m
※2 山林中を自らの足で歩いて修行すること 
※3 参考:ブルース・チャトウィン著『ソングライン』

information

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

profile

TOSHIAKI ISHIKURA
石倉敏明

1974年東京都生まれ。1997年よりダージリン、シッキム、カトマンドゥ各地で聖者(生き神)や山岳信仰、「山の神」神話調査をおこなう。2013年より秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻講師。明治大学「野生の科学研究所」研究員、羽黒山伏。共著・編著に『人と動物の人類学』(春風社、2012年)、『道具の足跡』(アノニマスタジオ、2012年)など。

profile

KIKI

東京都出身。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒。在学中からモデル活動を開始。雑誌や広告、TV出演をはじめ、連載などの執筆など多方面で活動中。著書に『山スタイル手帖』(講談社)、『美しい教会を旅して』(marbletron)。カメラマン野川かさね氏との共著『山・音・色』(山と渓谷社)や最新著書『山が大好きになる練習帖』好評発売中。

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。2006年、山形県羽黒地方にある宿坊「大聖坊」の山伏修行に参加。2009年、山伏出世の行と呼ばれる「秋の峰入り修行」に参加する。以降、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然と人を結ぶ活動をしている。著書に『僕と山伏』(リトルモア、2012年)、『山伏ノート~自然と人をつなぐ知恵を武器に~』(技術評論社、2013年)。

profile

MASARU TATSUKI
田附 勝

1974年富山県生まれ。9年間に渡り全国でトラックおよびドライバーの撮影を続け、写真集『DECOTORA』(リトルモア、2007年)を刊行する。2012年、写真集『東北』(リトルモア、2011年)で第37回木村伊兵衛写真賞を受賞。最新作に、釜石市唐丹町で4年に渡り撮影をおこなった写真集『kuragari』(SUPER BOOKS、2013年)がある。

山ノ家 vol.1: 「好きにしていい空き家がある」 と言われて

山ノ家 vol.1
構想はいつも妄想から始まる

「ある空き家があって、誰かに好きに使って何かやってほしい」
そう聞いたのは、2011年の初夏のこと。
震災後の東京ではなんだか皆がいそいそと通常どおりの生活に戻っているふりをして、
まだどこか上滑りな気持ちと折り合いをつけかけていた頃のことだ。

僕らは、東京・恵比寿を拠点にgift_という名前で空間のデザインや企画の仕事をしている。

恵比寿の僕らのスペースgift_lab。中央に置かれた可動の本棚は間仕切りにもショーケースにもなる。それをぴたりと壁に寄せてしまえば、30人くらいは入れるまあまあの広さのイベントスペースになる。限られた空間を臨機応変に変化させながら使うというかたち、これも「リノベーション」のひとつのあり方だと思う(現在はスペースの一部を別チームとシェアしている)。

古いビルの2Fの一室を、展示やイベントスペースなどとしても機能するように、
可変な空間として内装も自分たちでできることは手がけた。
事務所でありながらも人が出入りする「場」としてオープンに、
かつ多様で刺激的な空間として2005年にスタートし、
音楽のイベントやアーティスト・トーク、上映会、アートワークの展示などを
実験的にいろいろ行ってきた。
おかげでさまざまなアーティストとの縁もたくさんつながっていった。

しかし、これが例えば1Fでカフェなどが併設できたらやれることが広がるのでは、
といった考えが次第によぎるようになっていた。
もっと開かれた、人が自然に集い、行き交い、
出会えるような「場」をつくりたいという気持ちを漠然と心の中に持ちつつ、
まちなかのビルの空室をおもむろに外からのぞきこんでみたりもするけれど、
なかなかそう好都合な物件は近くには見当たらず。
また、そこまで真剣に探すつもりもあまりなかったのだとも思う。

そんなとき、冒頭の「空き家」の話を聞いた。
しかもそれは都内ではなく、新潟県中南部の十日町市まつだいにあるという。
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の開催地のひとつとして知られている土地だ。
地方で行われるアートイベントの先駆けだった大地の芸術祭に、以前僕らも訪れたことはあった。
すばらしい里山の風景の中に、
アートの作品がこつぜんと姿を現すという
なんともわくわくする体験を思い出した。
移動は少し大変だったが、今となっては不思議とポジティブな印象しか残っていない。

この越後妻有の地にある空き家。
その上「好きにしていい」というのが、僕らにとってはとても魅力的な響きだった。
漠然と、しかし、ふつふつと温めていた「より開かれた場」についての妄想が、
思ってもみなかった土地での話と不思議と結びついた。
それはおそらくほぼ初めてと言っていいほど、
いわゆる「地方」と呼ばれているようなエリアに自分ごととして興味を向けた瞬間だった。
ここで何かできるのかもしれない。面白そうだ。直感的にそう思った。
なぜか分からないが何か可能性があるような気がして、とにかく現地を見に行くことにした。

そして、物件を前にして

十日町市まつだいは東京の都心からは、車で行くと3時間から4時間かかる。
行きの車の中で、仲介者である知人を相手に、何ができるのか、何ができないのかも
分からないながらも、これからの勝手な妄想を広げていた。
構想はいつも妄想から始まる。

まつだいの風景。この先に空き家のある商店街がある。空がとても広く感じられる。

最初にイメージを重ねたのは、ちょうどその前年までディレクターの一員として関わっていた、
「CET=Central East Tokyo(セントラル・イースト・トウキョウ)2003-2010」のことだ。
東京の東側のエリアで8年間行われたイベントで、これをきっかけに
少しずつアーティストやデザイナーたちがイベント会場となった空き家物件などに移住したり、
アトリエをかまえたりしだして、ある意味自然発生的に(イベントの時にだけ賑わうのではなく)
日常的に面白いことが営まれているまちへと変容していった。

CETとは、神田と隅田川の中間にあるエリアの、馬喰町の問屋街や近隣のオフィスビルなどで行われたイベント。ムーブメントと言った方が正しい表現かもしれない。東京・丸の内からあまり離れていない区域でありながら、当時、地価が下落してややシャッター街化していた都市のスキマの空き地や空き家などで、アーティストやデザイナーが作品展示やパフォーマンスなどを行い、数日間、実験的にまちそのものを同時多発の仮設ギャラリーに変容させた。

その状況を目の当たりにした経験はまだ記憶に新しく、
このプロジェクトに関われたことは現在の僕らの発想や活動に重要な位置を占めている。
環境は違うが、まつだいでもそんなふうにすることができたらそれは本当に理想的だな……などと
妄想はとどまる所を知らずに僕らの頭のなかで広がっていった。

まず、人が出入りしやすいようなきっかけとしての、カフェをつくろう。
そして滞在もしてもらえるような宿泊設備が併設されているといい。
カジュアルに、でもかっこいいような。
東京とローカルをつなぐような新しい拠点となってもいい。
もちろん、地元の人たちとも何かできたら。
ワークショップやイベントなども、ユニークに企画できるかもしれない。

と、妄想が膨らむ一方で、一抹の不安も頭をよぎらなかったわけではない。

その地にいる人たちは、どんな人たちなんだろう? うまく受け入れてもらえるのだろうか?
とはいえ、今、
僕らは東京に事務所を持ち、東京に生活の基盤を持っている(それを捨てるつもりはない)。
果たして、東京と里山を行ったり来たりしながら
両立させてやっていくという選択肢の可能性はあるのだろうか?
一時的なイベントではないかたちで、何かをやり続けることは可能なのだろうか?

物件がある街並みはこんな感じ。

その空き家は、「ほくほく通り」という商店街のちょうど真ん中あたりにあった。
通りは昭和の終わり頃まではとても賑わっていたというが、現在はその面影はなく、
商店らしき看板を残してはいるが、
明らかに今は住宅としてしか使われていない……というところも少なくない。
いわゆるシャッター商店街とはちょっと違うのだが、少しさびしい印象だった。
事前に最近の様子というのを写真で見ていたので、
ある程度の覚悟はしていたが、実際に見ると現実に引き戻された感じになる。

これがその物件……。

そして、空き家は何も特別な感じのない、
古民家でもない、店舗兼住宅? 倉庫? といった物件だった。
正面の開口部には重たい錆びたスチールのシャッターが付いている。
脇には木枠でざっくり囲ってある物置のようなものがあり、
何に使うのかわからない容器やら、スキー板やら、さまざまなものがごちゃっと放置されている。
古民家という言葉から連想されるようなある種の情緒的な雰囲気はない。
物件そのものの表層には魅力は(失礼ながら)全く無く、
中途半端に昭和の時代を感じるようなトタンが貼られていて、
あきらかにだいぶ放置されていたような感じだ。

うーん、これはリノベーションのしがいのある物件だな……(冷汗)

シャッターをあけ、中に入ると、とにかく物が以前のままにぐしゃぐしゃとたくさん置いてある。

何はともあれ、まず必要になる電気。分電盤を探し、既存の電気容量をチェック(暗くて良く撮れていないが)。

しかし、同時に、どんな物件であろうと
「全く違う存在に変換できる」という、不思議な、そして確かな自信があった。
もちろん、それはいつものことなのだ。

あとは、僕らがここにどのように関わっていくことになるのか。それ次第。
そこで大きな決断をすることになるとは、まだこの段階では考えても見なかったのだが――

つづく

MAD City vol.1: 自分でつくる家で暮らすこと

MAD City vol.1
DIY可能な物件を探して、生まれるコミュニティ。

MAD Cityが立ち上がり、早3年。さまざまな方と出会い、
千葉県松戸市で面白い空間をプロデュースしてきました。
はじめまして、MAD Cityの赤星です。

MAD City、読みは「マッドシティ」です。
私たちはJR松戸駅の駅前だいたい半径500メートルのエリアを
「MAD City」と呼んで、まちづくりをしています。

MAD Cityのまちづくりはビルを建てたり、
道路を広げたりするようなものではありません。
まちの中で長いこと使われていない建物を探してきて、
それをアーティストやクリエイターのアトリエにしたり、
工房にしたり、自由に改装できる住居にしたりしています。

その名も「MAD City 不動産」として営業しています(……名前が安直)。
このMAD City 不動産を通じて
ここに移り住んでくれた人たちと多種多様なプロジェクトに取り組みながら、
ここを「他ではできないことができるまち」にしていこうとしています。

じゃあそんなMAD Cityににはどんな人がすんでいるんでしょう。
というわけで今回はMAD City不動産を担当している
殿塚の暮らしを覗いてみたいと思います。

メイン写真にも使われてる「古民家スタジオ 旧・原田米店」はMAD Cityの代表的な物件。100年以上の古民家をひと続きのアトリエとして改装し、定期的にイベントが行われている。間口の奥にはこのような広々とした庭が。敷地にある建物それぞれを活用中だ。

自給自足する暮らしに憧れて

こんにちは。MAD Cityの殿塚建吾です。
千葉県松戸市出身です。苗字は偉そうですが、実際は偉くないです。
普段は不動産担当として古民家や、空き家だらけのマンション、
扉が外れかけている一戸建てなどを探して回ったり、
内見に来てくださった方と一緒に物件やまちを見て歩いたりしています。
今住んでいる物件はあるきっかけがあって自分で見つけました。
思えばMAD City で住居を借りた一番最初の入居者かもしれません。

殿塚が住む家。通称自給ハウス(勝手に命名)。

子どもの頃から、農家を営んでいた母方のおばあちゃんのように、
家族が仲良く、自然とともに笑って暮らす生き方をしたいと思っていました。
そんな暮らしを模索しているうちに学生時代に環境問題に興味を持ち、
卒業後、古いマンションをリノベする不動産会社に就職。
その後、CSRの企画会社に転職し、野山を奔走してました!

ふたつの仕事を経験するうちに、大げさにエコを掲げるより、
地域に根ざして田んぼや畑をつくったりする生き方のほうが本質だなと思って、
いろいろな地方を放浪。
最終的には千葉の房総半島に移住しました(つまり当時ニートです)。
房総では自給自足をしている古民家カフェに居候をしていましたが、
ある日カフェの方から、
とにかく超自給自足しているすごいおじいさんがいると聞き、会いに行きました。

おうちを訪ねると、その自給ぶりに驚きました。
無農薬の田んぼや畑、炭焼きをする窯、地下に掘られた芋の貯蔵庫、
おじいさんは食べるものから使う道具まで、全てを自分でつくって使っていました。
感動する僕を、さらに感動させることが!
おじいさんについて、森の中へ行くと、

さっきまでのんびりしていたおじいさんが、
急に戦闘態勢に入り「ちょっとそこどけ〜!!!」と叫んで、
僕を少し離れたところまで避難させました。
すると、おじいさんはおもむろにチェーンソーを取り出し、
高さ4メートルはあろうかという大木をバッシバシ、切り倒していきました。

そう。なんと山に来たのは、建てる家の木材を確保するため。
「え、材料から自給してんの!! まじすげーーー」
と、テンションがあがった自分はその日から、
自分がなんかできるところまで自給自足したいと、おじいさんに憧れてしまったのです。
とにかくおじいさんにいろいろ教えていただきたくて、
お話を聞いていたらこんなやりとりに。

おじいさん:「君、出身はどこ?」

殿塚:「千葉の松戸です」

おじいさん:「ま、松戸!! 俺の前の家のそばじゃないか」

殿塚:「え、そうなんすか?」

おじいさん:「40年くらい前に俺がひとりで建てたアパートあって空いてんだよ。
自由にしていいから誰かいないかな?」

殿塚   :「ミラクルなう!!!!!(心の中で)」

という訳で、偶然出会った松戸の物件。
でも当時の僕は房総に引っ越していたので、
おじいさんの家を知り合いだったMAD Cityのみなさんに紹介し、
入居者を募集をしてもらいました。

募集を開始してちょうど1か月後。
東日本大震災が起こりました。
これをきっかけに僕は松戸に戻ろうと決めて、そのおじいさんの家もお借りすることにしました。
同時にMAD Cityのスタッフとして合流することに。

ド素人でも、改装してみる

実際に行ってみたその家は、立ち入って3歩で足裏が真っ黒になる状態。
あちこちの壁紙ははがれ、
トイレの床は腐りかけて、シャワーからは水が漏れていました。だけど、
古さゆえのなんとも言えない味わいと何より運命的な出会いが決め手になったのでした。
もちろん最初は自分がこの家をどうできるかわかりませんでした。
でもおじいさんはひとりでこの家を建てたんだから、
直すくらいド素人の自分でもなんとかなるだろう。
そこから僕のDIYライフがスタートしました。

まずは、掃除して、掃除して、えっとまだ掃除して……
なんとか入れるようになって最初に直したのは、一番実用的なところ。
水回りの水栓とお風呂のシャワーを交換しました。
慣れないと大変なのに見た目があんまり変わらないので、
個人的に一番地味な作業に認定。

次にトイレの床を張りかえたり(手抜き)、

トイレの床(左:before 右:after)

和室の壁に漆喰を塗ったり(雑)、

漆喰壁にDIYした和室。

ロフトを解体して木材むき出しの屋根裏にしたり(解体しただけ)、
ベランダのトタンを透明なものに張り替えて(途中落ちそうだった)
太陽の光が入るようにしました。

ベランダのトタン屋根を交換!(左:before 右after)

さらには庭を除染して野菜を育てたり(絶賛、失敗中)、
あとベランダにソーラーパネルを置いたり(これは買いました、オススメです)。
大したことはできてないんですけど、
2年かけて少しずつDIYを進めていて、まだまだ終わらない感じです。

僕は本当にド素人でした。ご覧の通りなかなかうまくはできていません。
それでもなぜやろうと思えたかというと、
MAD Cityに建築や設計やDIYに詳しい仲間がいてくれたからです。
MAD City 不動産で扱っている改装可能な物件を借りてくれる方は改装未経験者がほとんどです。
もちろんみなさん僕に比べたらはるかに良い腕前です。でもプロではありません。

それでも、それぞれの方が自分たちらしくスペースを改装しているのは、
個々人のチャレンジ精神や努力に加えて、
すぐそばに工具の使い方や床の張り方を教えてくれたり、
ときに作業を一緒に手伝ってくれる仲間がいることも、大きな要因のひとつだと思います。

MAD Cityにおける何よりの魅力はコミュニティ。
それが部屋のDIYをする時にも生かされている気がしています。

ひとりだとできない。だけどちょっと手伝ってもらえればできる。
MAD CityらしいDIYは
周りの人とのつながりを築きながらすすめていくものなのかもしれません。

MAD Cityの仲間たちで(地元の皆さんも大勢巻き込んで!)、野外結婚式までつくっちゃいました。

information


map

MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

ビルススタジオ vol.1: 空き家と妄想。

ビルススタジオ vol.1
ガラガラのシャッター通りで、始まったこと。

大学入学からの10年間、建築デザインの世界にはまり込んでいた私は、
その後、海外の美術大学院への留学期間を経て2006年に地元宇都宮市に帰り、
自宅の一室にてこっそりとオフィスを営んでいました。
しかし業務の量がかさむにつれ、手狭感や生活との切り離しの困難さ、
そして何よりも人の出入りがないことに耐え切れず、物件を探し始めることに。

そうして2009年末、見つけたのが「もみじ通り」の物件。
2007年に商店会が解散されてからは、先の見えないままシャッターを閉ざす、そんな通り。
典型的な地方都市である宇都宮市の、商業地とも住宅街とも言えないエリアにあり、
不動産屋も募集中看板を出すのを拒否する。
建物たちは中途半端に古く、歩いて来るには中心地から遠い。
かといって駐車場がとれるほど土地が余っている訳ではなく、交通量もほとんどない。
つまり、物件の利用価値がないと判断されている場所でした。

もみじ通りのようす。

しかし、そんなトコだからこそ、物件は格安。
それがここの物件に決めた一番の理由です。
さらには改装自由。現状復旧義務なし。
言い換えれば、大家さんは補修も含めて何もしたくない、
という一般的には不利な条件が私にはとても魅力的に映りました。
じゃあ、家賃をもっと下げてくれ、というお願いもすんなり受け入れられてしまったこともあり、
即座に契約をすることになりました。

自分のオフィスを持つことが第一目的。それは果たせそうです。
とはいえ、この殺風景な通り。
ひとまず、それをポジティブに捉え直してみました。
 人通りが少ない——落ち着いて仕事に没頭できそう。
 車通りが少ない——同上。路上でも遊べそう。
 建物が中途半端に古い——気兼ねなく自分色に改装できそう。
 元商店街——多少は外からの人を受け入れる土壌がありそう。
 元、武家屋敷街——周辺の住宅の敷地がゆったり。上品な近所の人が多そう。

そして、
 空いている建物が多い——出店余地がいくらでもあるっ!

そう、この点。
自宅兼オフィスで感じていた、人の出入りのなさ。
それを解消すべく、いろいろなお店が増えていける舞台はあるわけです。
そこで、日々自主工事のために通いながら、
自分がここで毎日働くにあたり、「ほしい状況」を妄想するようになりました。
 「おいしいランチを食べたい」
 「息抜きにコーヒーを飲みたい」
 「ほっとするデザートが欲しい」
 「仕事帰りに買える、お惣菜があるといい」

なによりも、私は寂しい自営業者。更には、なかなかの出不精。
 「志はあれど、日常でそれを共有できる仲間が近くにほしい」
こんな自分勝手なことを、もくもくとペンキを塗りながら考えていました。

ようやくオフィスが使えるようになり、業務も落ち着いてきたところで妄想を実行に移しました。
まずは、言いふらし。
「あんなんがほしい」「こんなんがほしい」と、会う人会う人に伝え続けました。
数か月経った頃に、
知り合いから「宇都宮市内に移転を考えているカフェがあるよ」との情報が。
私はすぐ高速に乗り、その店へ。

普通のお客を装い、時間を過ごしました。
あぁ、こんなの近くにあってほしい……。
ほどなくして誘う決意をしたものの、その気持ちを抑えつつ他のお客さんが帰るのを待ち、
帰り際のレジにて気持ちを打ち明けました。
うぅ、なんか恥ずかしい……なんだろ、この感情。告白……?
初対面なのにいきなり「うちに来ないか」って……
しかしそんな葛藤も杞憂に終わり、「来週伺います」と、なんともあっさりした答え。
しかし困った。実はもみじ通りにはその時点で賃貸できる物件がなかったのです。
まあいいや、まずは見てもらおう。通りの雰囲気を肌で感じてもらいながら、
私の感じた、この通りのポジティブな面を共感してもらおう、と腹を決め当日を迎えました。
小1時間程度、通りを一緒に散策しながら想いを伝え、
空いている”だけ”の建物を探し、紹介しました。
どうやら、なぜやら共感いただけたようで、
通りの落ち着いた雰囲気が自分に向いている、と感じてもらえたようでした。

さて、そこから貸してくれる大家さん探し。
3つの建物を散策中に目を付けていましたが、そのうちふたつは貸す気が全くない、との返事。
当社オフィスの3件隣にある最後のひとつは大家さんがどこにいるかわからない。
近所の方に相談すると、
ごくたまに風通しに親戚の人が来るらしいという噂をききました。
しかしいつ来るかわからない。
そこで置き手紙をポストに適度なペースで入れる、
というなんともアナログな作戦をとりました。

狙いをつけた空き物件。

——2か月後、大家さんから電話が来ました。
うれしさよりも「あの置き手紙だけで、来るんだ、連絡」という驚きが正直な感想。
大家さんは、一体なにがしたいんだ、という感じでした。
電話口でしたが、溢れる想いを伝えたところ、
半ば呆れ気味に、ともかく会ってくれることに。
1週間後、件のカフェオーナー藤田さんを予告なしに連れて行き、2人掛りでとにかく説得。
熱意に負けたのか、しつこかったのか、なんとか貸してくれると言ってくれました。

ともあれ2010年の夏、ようやく2店舗目が決まり、
カフェ食堂「FAR EAST KITCHEN」がオープンしました。
これまでの実績、もみじ通りにピンと来てくれた感覚、
ツーカーの工務店との関係が既にあったので改装はオーナーさんにて行なわれ、
「もともとここにあったようなお店」のように仕立てられました。
工事中にすでに通りがかりの人に
「いったい何ができるのか」「まさかここでお店をやるのか」
といった反応がむしろ良い口コミ効果を呼び、
オープンの頃には結構知られたお店になっていました。

改装後のカフェ「FAR EAST KITCHEN」。

「FAR EAST KITCHEN」の店内。

よし、これでおいしいランチが食べられる。コーヒーも飲める。
あとは、あとは……と、妄想をひとつひとつ実行していったのです。

それから3年経った2013年10月現在、
もみじ通りとその先のあずき坂の界隈には
ギターショップ、ドーナツ店、総菜店、カフェ、子供服店やギャラリーなどなど、
なんと計12店舗が新規OPENしました。

2010年のもみじ通り。

2013年のもみじ通り。

実は、10月12日(土)にそれらの店舗が自然発生的に連携して
もみじ通りでは初のイベントとなる、「あ、もみじずき」が開催されることになりました。
私もその日は古家具屋さんを開いて、
ふだんは立寄りにくいオフィススペースを開放する予定です。
私自身、とても楽しみです。

あの、ないない尽くしだったもみじ通りが
私の妄想を超えた状況になってきています。

「あ、もみじずき」のフライヤー。

information


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ビルススタジオ

住所 栃木県宇都宮市西2-2-24
電話 028-636-5136

moconoco(モコノコ)

いわき発、木工のプロがつくる新しい神棚のかたち。

細かい彫りと木目が美しいこちらのプロダクトは、
神社のお札が入るようにデザインされた神棚「Kamidana」。
デザインは、mizmiz designの水野憲司さんが手がけ、
福島県いわき市の木工集団「moconoco(モコノコ)」がかたちにした。
「しろ」だと高さ28センチ、「むく」は高さ32センチと、
どちらもとてもコンパクト。
それにしても神棚って、こんな斬新なものでもよいんですね(!)。
「最初、デザイン案を見たとき、私たちもそう思いました(笑)」と話すのは、
このKamidanaをプロデュースした、大平宏之さんと祐子さん夫妻。
夫妻は、福島県いわき市で100年以上続く老舗の正木屋材木店を営む一方で、
木工集団「moconoco(モコノコ)」を束ね、
いわき市から、木工で何か発信できることはないかと模索している。
「きっかけとなったのは、仮設住宅に住む方から、
手軽な神棚はつくれないかと相談されたことです。
確かに、最近の新築住宅で神棚をつくるところは少ないですし、
それなら、今のライフスタイルにも合うような、
新しいスタイルの神棚をつくれないかなと思ったんです」(祐子さん)

正木屋材木店の大平宏之さん(上)と祐子さん(下)。

そこで、大平さん夫妻はデザイナーの水野さんに神棚の相談をもちかけた。
当時水野さんは、自らデザインした
“kotori chair”をつくってもらえる木工所を探しているところで、
大平さんたちにコンタクトをとったところだった。
「本当は、自分の相談をしにいくつもりが、
代わりに神棚のデザインの宿題をもらってきてしまったんです。
神棚なんて、どうデザインしようかかなり迷いましたが、
まずは、神棚の歴史から勉強して、コンセプトを絞っていきました」
と水野さんは、当時のことを教えてくれた。

お神札を家の中で祀る風習が一般に広まったのは、
伊勢信仰が流行った江戸中期と言われている。
以来、広く使われている神棚は、伊勢神宮に代表される「神明造」という
建築様式を模し、小さな神社のかたちをした「宮形」にお神札を祀るものだ。
ただ、そのような宮型は無くとも、
板にお神札を祀るだけでもで神棚としての機能は持ちうるのだそう。

ここから、水野さんは、コンセプトを3つのポイントに絞った。
まず、お神札を祀るという用途はコンパクトにまとめ、シンプルなデザインに。
ふたつ目は、伊勢神宮のシルエットを刻印として残すこと。
3つ目は、木、本来の素材感だ。
「日本には、古くから“木に神が宿る”というような考え方があります。
木の素材感を生かしたかたちにすることで、
木がもっている神聖な雰囲気を保てないかと考えました」

「完成までは、何度もいわきに通いました。いつも終バスギリギリまで職人さんたちと打ち合わせしていましたね」とデザイナーの水野さん。

しかし、そんな水野さんのデザイン案には賛否両論だった。
寺社建築を手がけてきた経験のある職人からは、
やはり、斬新過ぎるかたちなのではという意見も出た。
念のため、祐子さんは地元の神社、数社へ相談しに行くと、
そういった新しいかたちの神棚の提案を快く喜んでくれた。
最近はある神社庁が新しいデザインの神棚を募集していたこともあったという。
地元の神社の太鼓判ももらったことだし、
「だったら、一度デザイナーズウィークに出して反応をみよう」
と、まずかたちにしてみることになったのだ。

頭を悩ませたのはmoconocoのメンバーだ。
「僕たちの想像を超えるものだったので、どうつくっていいか考えましたね」
実制作の担当となった作田木工所の作田貴光さんは話す。
moconocoは、個人や木工所など10数名で構成され、
毎回のミーティングには、仕事状況に合わせて、みながフレキシブルに参加。
基本的には、ミーティングで制作の方向性を決め、
各々が得意とする技術を生かしながら実制作の担当を決めていく。
「頼まれると“ノー”と言えない人と、“できますか?”と聞かれたら、
“できない”とは言えない人たちの集まりかもしれませんね」
と、宏之さんは微笑む。

佐藤木工所の佐藤さんは、つくり付けの家具などを手がける。今回は水野さんデザインのkotori chairを担当しながら、いつも作田さんの相談相手だったそう。

最初のサンプルが完成するも、水野さんからは即座にNGが!
moconocoは、利便性とかたちを最優先に考え、
木を貼り合わせたものをサンプルとして作成。
すると、「木」本来の質感がうすまってしまったのだ。
従来の神棚と同様に、使った木材はヒノキ。
ヒノキは水分の吸放出性が高いため、くるいが出やすい木材だ。
このヒノキを使いこなすためには、
切ったり貼ったり加工を増やすほうが、はめ合わせのくるいが少ない。
しかも日本には四季があり、季節によって木のくるい方が変わってくる。
試作品のなかでも、次第にあかなくなってしまったサンプルもあったという。
それでも、「木のなかに神が宿るような、
自然のままのかたちというコンセプトは、絶対保ちたい」と水野さん。
ここは、職人の腕の見せどころ。
ヒノキのひとつひとつの性質を見極めながら、
乾燥の方法や加工など、作田さんは、佐藤木工所の佐藤 武さんや
他のメンバーにも相談しながら試作を重ねた。

完成までにつくられたサンプルは、50個以上。すべて天然乾燥した無垢のヒノキが使われた。

もうひとつ、メンバーを悩ませたのは、伊勢神宮のかたちを模した刻印。
焼き印では均等に刻印することは難しい。
モチーフとして切り取ったものを貼ってもなんだか安っぽい。
だったら、彫るのか。ひとつひとつ、手彫りなんて、商品化できない……
と、メンバーが頭をかかえるところへ、救世主の一声が。
「新しく入れたうちの機械で彫れると思いますよ」
と、口を開いたのは遠藤建具店の遠藤さとしさんだった。

家業の建具店を継いだ遠藤さんは、
ひとつひとつ、建具をつくる職人技術を大切に考える一方で、
「ライフスタイルも変わってきていますし、従来の技術に加えて、
何か自分のなかでも新しいチャレンジができないか。
新しい加工をお客さんに喜んでもらえないか。
そこで、最新の機材を導入しました」

かくして、Kamidanaの最終形が、ようやく見えてきたのだ。

遠藤建具店の遠藤さん。もともとの工房は津波で流されてしまい、いまは仮設の工場団地に工房を構える。

図面データを読み込むと自動で、レーザーで彫られるため、細かいデザインでも実現可能。遠藤さんは通常の業務が終わってからいくつも試作を重ねたという。

「みんな、うまくいった試作品を持ってくるときは、
ミーティングに少し遅れて登場するんですよ。
でも、こっちはドキドキですよ! 遅れてくるから、
“やっぱり、できませんでした”って言われるんじゃないかって」
と水野さんは当時を振り返る。
サンプルをもって遅れて登場した作田さんが持っていたのは、完成品。
無事に、デザイナーズウィークへ出品することができた。
すると、評判は自分たちの想像以上を上回る好反応だった!
いくつかの雑誌で紹介が決まっていく。なかには、海外雑誌もあった。
みんなの思いと努力が、かたちになった瞬間だった。

Kamidana「しろ」。サンプル制作の途中でサイズ変更が出て、木組みの部分が細かくなり、かなり苦労したそう。

「最初の試作品を見たときの水野さんは、
ものすっごい怒っていましたからね。あの時はこちらも焦りましたよね」
と佐藤さんや遠藤さんは冗談を言うも、
「でも、今までやってきたこととは全く違うことだったから、
違う視点から、木工を捉え直す新鮮さはありましたね。
既存の考え方をとっぱらって、水野さんの視点に立ってみることができたから、
いろいろ検討することができたんだと思います。
曲がっている木もあれば、まっすぐな木もある。
やわらかい木もあれば固い木もある。
この特性をどうやって生かしていこうかなって思うと、
次の楽しみができました」と遠藤さん。
そして、何十個もサンプルをつくった一番の立役者・作田さんは、
「みんなの力があってできたものです。
いろいろな意見を交わしながら一緒にできたことで、
絆も生まれたのかなと思います。いいものをつくることは、
職人にとって、当たり前のことですからね」と、思いを語ってくれた。

Kamidana「むく」。お神札は3枚重ねて納められる。順番は、上から、伊勢神宮、氏神様となる神社、その他崇拝する神社。

「東日本大震災がおこり、福島では、原発事故がおこりました。
でも、いわきも福島も無くなったわけじゃなくて、普通に生きて、
頑張ってやってるんですよ! というものづくりを発信したかった。
世界で、ものづくりが認められるような団体になりたいですね。
いろんなエキスパートが集まることによって、
新しいものが生まれていくような、
moconocoに育っていければいいかなと思っています」と祐子さん。
「めざすは、ミラノサローネですよね?」と言う水野さんに、
みなが笑うも、祐子さんは本気だ。
しかし、このメンバーなら、実現する日も近いのかもしれない。
日本の木を想う職人とデザイナーの心が通じた、
あたたかくもまっすぐなものづくりが、そう思わせるのだろう。

Kamidanaのスタッフ。左からプレス担当の宮本英実さん、デザイナー水野さん、正木屋材木店の祐子さと宏之さん、遠藤さん、佐藤さん。

profile

moconoco

2010年、福島県いわき市内の木工業者と材木屋が集い木工技術の継承、共有、情報発信を目的とした木工職人集団が結成され、2012年震災後の活動を機に「moconoco(モコノコ)」として活動の場を広げる。木のクリエーターとしてさまざまな製品開発、各業種とのプロジェクト、コラボレーション等を行っている。
http://i-moconoco.com(購入&お問い合わせはこちらからどうぞ)

profile

KENJI MIZUNO
水野憲司

1979年東京都生まれ。一級建築士、デザイナー。工学院大学大学院を卒業後、設計事務所勤務を経て、2011年mizmiz design設立。デザインを通して、人の気持ちや想い、願いやその先の風景をシンプルなカタチに落し込み、デザインで心が繋がっていくような空間やモノづくりを行っている。
http://www.mizmizdesign.com/menu.html#id109

御所浦アイランドツーリズム

昔ながらの伝馬舟が、海の道を行く。

海上タクシーというなんだか贅沢な響きがする交通機関に乗って、
熊本県天草市の本渡港から御所浦島に向かう。
漁船を改造したような雰囲気で、
船内はエアコンが効いていて思いのほか涼しい。
しかし外に出て海風を感じたいのが、観光客の気分だろう。
その日の宿を〈はくお丸〉の船長(タクシードライバー)に伝えると、
着いた場所は港ではなく、なんと宿の目の前。
何もない草むらにぴったりと接岸し、降ろしてくれた。
満ち潮の時間帯だからできたことだという。
しかもそれを見越したかのように出迎えてくれたのは
御所浦でジオツーリズムのガイドやアイランドツーリズム、
各種イベントなどを手がけている野原大介さん。
島らしく真っ黒に焼けた肌に白い歯が映える笑顔で迎えてくれた。

島に渡る交通手段から早速、旅情をくすぐる御所浦島は、
本土から橋がかかっていないので、
島に渡るにはフェリーや海上タクシーなど、必ず船に乗らなくてはならない。

海へせり出したナダラ(網洗い場)は、子どもたちの格好の飛び込みスポット!

御所浦島はかつては港が整備されておらず、
大型の運搬船などが接岸することができなかった。
そのときは少し沖合で停泊し、
そこから陸地までをつなぐ輸送用のはしけ船として
伝馬舟(てんません)※注1が活躍していた。
伝馬舟とは、櫓で漕ぐ小さな木造の舟。
昭和40年頃までは、運搬以外にも簡単な漁や、
集落間の移動など、島民の一般的な足として使われていたが、
港の整備が進み、船の性能が上がっていくにつれて、その姿を消してしまった。

伝馬舟が木造であることがよくわかる。

失われていく伝馬舟をそのままにしてはいけないと復活させたのが、
御所浦アイランドツーリズム推進協議会。
「子どものころは普通に乗っていましたし、
自分の子どもを伝馬舟に乗せて釣りなどに出かけていました」
と話してくれたのは、伝馬舟復活の仕掛け人である三宅啓雅さん。
今でも橋が渡されていない御所浦にとって
“舟で渡る”という行為は、残しておくべき貴重な文化だろう。

野原大介さん(左)と三宅啓雅さん(右)。

野原さんは、2004年の〈ざぶざぶ 海の道〉という
伝馬舟のイベントのお手伝いで初めて御所浦を訪れた。
かつては島内の移動も、隣の島へも、
数キロだったら伝馬舟が活用されていたという。
それは島だけが持つ独自の経路。その“海の道”を辿るイベントだ。
御所浦は不知火海という内海に浮かび、しかも入り江が多く、
海なのにほとんど波がない凪状態。
だから伝馬舟のような小さな舟でも、子どもの力でも進むことができたのだ。
静かな海と森に、動力のない小舟がゆっくりと進む姿は落ち着く光景だ。

現在、個人所有として島に残されていた3艘を譲ってもらい、
5年前に新たに作られた2艘を加えて、5艘の伝馬舟がある。
パッと見は、公園の池などにあるボートのようだが、
前方がぽってりとして横幅があるのが特徴で、
安定感があり荷物の運搬などに向いている。しかし、櫓が1本しかない。
船体の後方に飛び出ている金具に、櫓にあるくぼみを上から乗せるだけ。
固定はされていない。

実際に漕いでみると、真っすぐゆっくり進むことは割とすぐにマスターできた。
しかしちょっとスピードを上げようと力を入れてみたり、
方向転換をしようとすると、
無駄な力が入ってすぐに櫓が金具から外れてしまう。

息を合わせてエンヤコラ。腰の入った力強い漕ぎ手です。

このように、櫓は小さな金具に乗っているだけ。ここを外さないようになると上達への道が開ける。

「現在50代後半のひとたちは、
復活した伝馬舟をすぐに操ることができましたよ。
“30年ぶりに漕いだ”なんていいながらも、体が覚えているんですね。
子どもも吸収が早いから、すぐに体で覚えます。
なかなか漕げないのは、30代40代ですね」と苦笑するのは30代の野原さん。

「50代のひとたちは今でも伝馬舟を漕ぐことができるので、
子どもたちにすぐにでも教えることができます。
伝馬舟というものが、櫓こぎとともに、かつての島文化を
世代を越えて伝えるコミュニケーションツールになるんです。
そういった関わりから、
地域の中で伝馬舟に新たな価値が生まれることを目指しています」

野原さんや三宅さんが目指しているものは、外からお客さんがたくさん来て、
それで地域が潤うといういわゆる観光が目的ではない。

「地域で物語を共有していかないと、
“地元のために何かをしよう”という思い入れを持つことのできない、
のっぺりした地域になってしまうと思います」

伝馬舟に乗っている最中、友だちを発見。このまま上陸し、友だちと遊びに行ってしまった……。まさに伝馬舟が普段の足となった瞬間!

また、野原さんは〈御所浦.net〉というウェブサイトも運営している。
これも「観光情報サイトではありません」という。
「御所浦を出たひとが見て、楽しめるものにしたい。自分の生まれたまちが、
こんなところだよと友だちや周囲に伝える手段にもなってくれると思います」

東京や沖縄など、いろいろなところで地域活性の活動をしてきた野原さんだが、
次第に御所浦にいる時間が長くなってくる。
無論、御所浦で伝馬舟にかける思いは、地域での目線なのだ。

島の生活をまるごと感じ取れる民泊。

御所浦アイランドツーリズム推進協議会の活動としては、
〈民泊〉も、面白い取り組みのひとつ。
多くは修学旅行のプログラムで、御所浦の民家に5、6人ずつ学生が宿泊する。
御所浦にはこの民泊受け入れの民家が20軒ほどあり、
それぞれは観光業に従事しているわけではないごく普通の民家。
だから、宿泊中にどんな体験をして、どんな食事が出るのか、
各家庭によってさまざまだ。その内容を強要することもしない。
魚釣りに行ったり、磯遊びをしたり、時季の野菜を収穫したり。
島だけあって、食事は海産物が多い。一緒に料理をすることもある。
魚を捌いたことがない都会の子も多いので、大騒ぎだ。
それでも受け入れ側は、普段のまま接してくれる。
方言丸出しで、気兼ねはしないが、温かく迎えてくれる。

「親戚の子が遊びにきたような感覚で、
家族同然に接している」と民泊の様子について話す野原さん。
いつも通りだから新たな経費がかかることもないし、
島のリズムにお客さんが溶け込んでいくのだ。

なんと化石がとれることでも有名な御所浦。子どもたちもハンマー片手に夢中になって化石探し。気分は考古学者だ。

すると不意にプテロトリゴニア プスチュローサの化石をゲット!

野原さんは、御所浦で活動している目的として
「魚をおいしく食べ続けるため」という冗談みたいなことをいうが、
野原さん独特の言い回しであり、目は真剣だ。
これには地域づくりに対しての、野原さんのひとつの哲学が込められている。

「いわゆる地域づくりとして今流行っている方法をそのままやれば、
なんとなくいいことをやったよねと評価されるかもしれませんが、
それで意味があるでしょうか?
僕が勝手に決めたいいまちの姿は、
このまちのひとにとっていいまちではないかもしれない。
だから、少なくとも僕を含めて御所浦の人が
おいしく魚を食べ続けることができる地域の関係というのは、
どういうものなのか考える。そこからスタートすべきだと思うのです」

地域づくりには答えなんてない。
まずは“魚がおいしい”という
多くのひとと共有できそうな日常的な価値観で合わせていく。
これはよそ者であることを強く認識しているからこそ。

「先のことはわからないから、この地に骨を埋めるとは言いたくない」
というが、“そんな無責任なことは軽々にいえない”という思いを感じた。
ただし「これから先、ずっと御所浦を応援していく」ということは宣言した。
御所浦のためには、東京で活動していたほうがいいという場合だってあるだろう。

かつてはちょっと遊びに行くにも、伝馬舟が使われていた。
そこには島のひとには見える海の道があった。
伝馬舟、民泊、漁業などをつなぐ御所浦の道を見据え、
野原さんは櫓こぎのペースで進む。それが御所浦のリズムに合っている。

注1:御所浦アイランドツーリズム推進協議会では、伝馬舟を「てんません」と読ませていますが、「舟」は常用では「せん」と読みません。しかし小舟のイメージから「舟」という漢字を充てています。

information

御所浦アイランドツーリズム推進協議会

住所 熊本県天草市御所浦町牧島219-2
電話 0969-67-1080

profile

DAISUKE NOHARA
野原大介

1980年生まれ。千葉県出身。2013年8月現在、熊本県天草市御所浦町に在住。 数か月から1年程度のスパンで、首都圏と天草市御所浦町や沖縄県沖縄市などにそのつどその地にある仕事を請けながら暮らす。請け負う仕事はデザインやワークショップ、イベント、事務局などその時々で異なる。御所浦町では、御所浦アイランドツーリズム推進協議会で民泊事業の受け入れやイベントのサポートから、デザイン業務、伝馬舟(てんません)インストラクターなどを行う。ここ数年は御所浦町を中心に活動している。
御所浦.net:http://www.goshoura.net" target=

倉敷味工房と平翠軒

添加物を使わない、誠実なソースだれの商品づくり。

岡山県倉敷市。風情あるまち並みが残る美観地区を通り抜け、
歩いて15分ほどのところにある、倉敷鉱泉。
昔ながらのラムネを製造してきた創業103年の老舗だ。
なまこ壁が凛々しい蔵を改装したという工場の事務所には、
グリーンのラムネ瓶がたくさん並んでいた。
その隣にあったのは、数種類の調味料の瓶。
ポン酢やウスターソース、デミグラスソースなど商品が並ぶ。
実は、こちらの会社のもうひとつの顔が、
こだわりのソースやたれをつくる倉敷味工房という調味料メーカー。
数年前に爆発的ヒットとなった「塩ぽんず(630円)」の生みの親だ。
高知産のゆずと塩がベースのシンプルな味わいに今もリピーターは絶えない。

いつ見ても、懐かしい気持ちになるラムネ瓶。

塩の次は味噌というラーメンの発想で生まれた「味噌ぽんず(735円)」。地元ファンも多いという岡山県の「まるみ麹」の無添加の味噌を使った風味豊かな1本。

倉敷の美観地区に店を構える、食のセレクトショップ・平翠軒でも
倉敷味工房の商品を複数取り扱っている。
平翠軒は、全国から取り寄せたおいしいもの、ストーリー深い食品を扱う名店。
ちなみに、店主の森田昭一郎さん(メイン写真左端)は、
この倉敷味工房がこだわりのソースやたれをつくることになったきっかけの人。
「おいしい焼き肉のたれがほしいと言われたんですよ」
と言う倉敷味工房の石原信義さんに対して、
「うまい焼き肉を食べるには、うまいタレが必要です。
平翠軒で扱いたいと思っても、なかなかこれっ! というものが無かったんです」
と森田さん。ふたりは、同じ大学の先輩と後輩。
商品の相談は、いつも共通の趣味である海釣りへ向かう車中だったという。
「あーでもない、こーでもないと話していましたね」(信義さん)
「でもそんなときこそポッとヒントが浮かぶんだよ」(森田さん)

「いくら売れた商品があってもね、同じものをつくり続けるだけじゃなく、新しい商品を開発していくのは面白いですね」と倉敷味工房の石原信義さん。

もともと信義さんは、ジュースを瓶詰めする設備を生かして、
業務用のソースをつくったりしていたが、
「たいていのメーカーは、○○エキスっていうのを入れるんです。
成分表示にもよく書いてありますが、それが一体何かわからないですよね。
自分がつくるものは、ちゃんと説明できるものをつくりたかった」
そこで最初につくったのが、ウスターソースそして、焼肉のたれ。
それが売れたので、
ドレッシング、デミグラスソースなどをつくり始めたのだという。

料理人ではないから、商品開発は、いたってシンプル。
試作は家庭のお母さんがするのと同じように料理本を見ながら。
実際の商品でも大型の釜で1度に大量につくると、
味に深みがなくなってしまうから小さい72Lサイズの釜で、複数回くりかえす。
大量の野菜を刻み、手間を惜しまず、手順に忠実に手づくりする。
ときにはフライパンでつくることもあるという。

事務所の本棚には、家庭にありそうな料理本が並ぶ。

「例えば、ウスターソースの場合、新鮮な野菜に徹底してこだわります。
仕入れは、近くの市場でそのとき一番おいしいものを選ぶ。
その何十キロという量の野菜をひたすら刻み、
その野菜の煮汁に、香辛料を入れて炊く。
材料は野菜と香辛料の他にはくだもの、
砂糖、塩、酢、それに、色付けのためのカラメルだけです。
野菜本来のうまみをきちんと出せれば、旨味エキスはなくても大丈夫なんです」
と、息子の信太郎さんがつくり方を説明してくれた。
しかし、そのためには、手間と時間がかかる。
寝かせる期間も含め、
2週間くらいかけて倉敷味工房のウスターソースはでき上がるという。

「それがうまいんです。おれはあんたのところのウスターしか使わんからね。
ありとあらゆるウスターソースを使っても、結局これに戻ってくるんだよ」
と森田さんが話すように、倉敷味工房の調味料は、リピーターが多い。
毎日食べたい家庭料理のようなやさしい味わいがそうさせるのかもしれない。

冷蔵庫から出てきたのは、高知から直接取り寄せているという大きな生姜。

主な材料は トマト、りんご、玉ねぎ、人参、セロリ、にんにく、生姜。味付けには化学調味料、天然調味料、各種エキス類を一切使用していないウスターソース本来の豊かな味わいの「美和 ウスターソース(420円)」。

どれだけ商品が爆発的に売れようとも、素材を厳選し、
数を限定し、手づくりにこだわってきた信義さんと信太郎さん。
「原材料の仕入れを増やせられなかったということがひとつあげられるんです。
果樹であるゆず等は、年に一度の収穫ですから
年間のうちの仕入れる量を取り決めているんです。
特に塩ぽんずは、『高知のゆず』とラベルに産地を書いてしまいましたから、
足りないからといって他の産地のものを混ぜるようなインチキはしたくなかったですね。

それに、たくさんつくって、その販売経路を考えていくよりは、
うちの商品を好きなお客さんに届ける回数を増やしていくほうが、
全体的にはプラスになるんだろうなって思うんです。
たくさんつくってたくさん売ることを目的とするのではなく、
本当によいものだけをつくりながら、細々と続けていくほうが、
自分たちには合っているんですね」(信太郎さん)

信太郎さんが着ているTシャツは、倉敷鉱泉ラムネ製造100周年記念でつくったマチスタの赤星さんがプロデュースしたもの!

とくに倉敷鉱泉は、従業員の半分が家族。
家業にとっては、「続ける」ことのほうが大切なときがある。
「だから、今後の目標はと聞かれれば、
家族、社員みんなが健康であることですね」と信太郎さんは微笑む。
「それが、家業と企業の違いかもしれませんね」と森田さんも言葉を続けた。
森田さんもまた、平翠軒という店を切り盛りする一方で、
代々続く、森田酒造3代目という家業を担う立場のひとりでもあるのだ。

地元に根付いてきた家業を担うからこそ、理解できる関係。
そしてそれに甘えることなく、ふたりが目指したのは、「誠実なものづくり」。
いま、その思いは息子の信太郎さんにも受け継がれている。
倉敷という土地で、ゆるやかに、そして誠実に、
これからも倉敷味工房は続いていくのだろう。

倉敷味工房の作業の様子。

自家菜園をはじめた信義さんが、自分でつくった野菜をもっとおいしく食べたいとつくったという「味噌炒めの素(525円)」と、試食した人たちから絶大な人気を博した「炒飯の素(525円)」は最近の新商品。

information


map

倉敷味工房/倉敷鉱泉株式会社

住所 岡山県倉敷市美和2-7-17
電話 0120-21-6020
http://www.kurashikikousen.com

>>この記事に登場した「平翠軒」にもコロカルは訪ねました!
その様子は別冊コロカルでくわしくどうぞ!

田淵太郎さん

炎によって生まれる色が美しい、白磁の可能性。

高松市内から40 分ほど、山のほうへ車を走らせる。
陶芸家の田淵太郎さんは、徳島県との県境のまち、塩江(しおのえ)町に窯を構える。
小鳥の声や沢の音が聞こえる、
静かな山間の傾斜地に建てられた古い民家が田淵さんのアトリエだ。
改装したときにつくったという縦長の窓からは、向かいの山が見え、
木々のグリーンがとてもきれい。

ピンクのやわらかい独特の色合が美しい田淵さんの花器。

薪が比較的入手しやすく、山のなかに工房を構えた。
「やっぱり自分のふるさとの風景って好きなんですよね。
発表する場所は選んでいくべきだと思うけど、
制作する場所は、なるべくストレスのない、
自分の居心地のよい場所でやるほうがいいかなと思ったんです。
考えた結果、自分のいちばん好きな場所は香川でした」

家から見える山の風景に惹かれて、この場所に決めたという。

田淵さんの器は、白を基調に、淡い紫のようなピンクのような色がほんのりつく。
どこか、不思議な魅力を持っているその色は、
岐阜県から取り寄せる白磁の土で、薪窯でサヤを使わずに焼いているからだという。
本来、白を美とすることが多い白磁は、
窯の中で薪の灰がかからないように、サヤと呼ばれるもので守り焼く。
しかし、田淵さんの場合は、サヤで守らず、
陶器と同じように灰の影響だけで風合いをだしている。
「これ、加藤委(つぶさ)さんのところで焼かせてもらった、20 歳のときの作品です」
と田淵さんは奥から大きな焼き物を持ってきた。

こちらが、加藤さんのところで焼いたという田淵さんが20 歳のときの作品。

「本来白磁は繊細に、端正に焼くものなのに、
薪の窯で白磁を焼くと汚れたような雰囲気の景色が生まれるというのが
とても新鮮でした。 直感で、もうこれだって思ってしまったんです。
当時大学で陶芸を学びながらも自分のビジョンが全然見えていなくて。
これを続けた先に何かがあるような気がして、
それで、まずは、自分の薪窯をつくろうと思いました」

田淵さんのアトリエに飾られていたルーシーリーのポスター。

香川に戻ってきた田淵さんは、
ひとつひとつレンガを積み上げて薪窯をつくった。
「最初はものにならなかったですね。全然きれいに焼けない。
白磁を自分の薪窯で焼くためにいろいろ準備してきて、
あのときの作品に近いものは焼けるようになったんですが、
物足りなくなってしまった」
実際、薪窯ができたのは、田淵さんが30 歳になってから。改めて見ると、
もう20 歳のときに思い描いたものでは納得がいかなくなってしまった。

「白磁をわざわざ薪窯で焼く意味を痛感させられました。
ただ、白い粘土を薪窯で焼けばいいわけではない。
それって、白磁の原点みたいなところですよね。
昔の陶工たちは、そこから、より白くて美しいものをと追求してきた結果、
白磁は仕上がった。 ぼくはそれを逆行していたわけなんですが、
ただ、原点回帰をしたところで新しいものは生まれない」
釉薬の種類、配合の割合、なでさまざまな方法を試しては、
ノートに記入。そして、また試す。まさに、試行錯誤の3年間。

そして見つけた、田淵さんの色。

炎があたっているところに景色が生まれる。

「どの釉薬の調合が、土と火と相性がよいのか、
もうそのへんは化学なんですね。
調合のバランスが少しでも違うと色の出方が全然違う。
その時の薪によっても異なるし、窯のなかの置く場所によっても全然違う」
簡単にコントロールできない。
石の上にも3年と、ことわざが言うほど現実はやさしくない。
くじけそうになることは無かったのですかと伺うと、
「くじけますよ! でもくじけたときには、遊びに行って忘れるんです。
イカ釣りにいったり、食事にいったり。
でも、遊び続けると、“何やってるんやろ”って、結局ここに戻ってくる。
うまくいかなくても、いろいろ焼くなかで、
よさそうなものが何個か生まれてくるんですよ。
それを拾い集めていっただけな気がしますね」

6年ほど前に築いた田淵さんの薪窯。窯の奥には、作品のかけらがまだ残っていた。

「炎って一方通行なんです。
焚き口の奥に作品を並べて、その先に煙突がある。
焚き口から燃え上がった炎が器にあたったところは、
ピンクっぽくなって、炎があたらない裏側は色の変化がない。
炎の動きがそのまま器に表れるんです。この変化が薪窯独特の魅力ですね」
だからこそ、また何か新しいものが生まれてくるんじゃないかと
窯に火を入れるたびに思うのだという。
「今でもどういうものが焼けてくるのかわからない所は多いですよ。
焼き物って、経験値を必要とする一方で、
自分の手の届かないところ仕上がる。窯出しの時まではわからんのです」

ようやく自分の色が見えてきた田淵さんだが、
ひとつの方向性が見えてくれば、また新たな目標が生まれる。
「展覧会を重ねていくと、見る人は前のものと比べるでしょう。
毎回同じには焼けません。うまく焼けないってことが続いても、
見に来てくれる人は前以上にきれいなものを求めている。
今のほうがしんどいかもしれないですね(笑)」
と田淵さんは苦笑するも、インタビュー中、
「まだまだ何かできそうな気がするんですよ」
という言葉が何度も出てきた。
自分でコントロールできない難しさとその面白さ。
火と向き合いながら、生まれる淡い色の美しい焼き物の先には
何が待っているのか。
「焼き物って面白いんですよ。この魅力を伝えるのは、
器だけじゃないかたちもあるのかもしれないって思うときもあります。
器でしか表現できないこと、器では表現できないこと。
またいろいろな実験をしながら可能性を広げていきたいと思っています」

profile

TARO TABUCHI
田淵太郎

1977年香川県生まれ。2000年大阪芸術大学工芸学科陶芸コース卒業、2003年第21回朝日現代クラフト展 優秀賞、2005年第7回国際陶磁器展美濃 入選、2007年高松市塩江町に穴窯築窯、2013年香川県文化芸術新人賞受賞。
個展では、2003年高松市塩江美術館(香川)、2004年INAXガレリアセラミカ(東京)、2005年灸まん美術館(香川)、2008年ギャラリー道(大阪)、高松市塩江美術館(香川)、2009年あーとらんどギャラリー(香川)、陶林春窯(岐阜)、2010年エポカ ザ ショップ銀座 日々(東京)、ギャラリー器館(京都)、2011年エポカ ザ ショップ銀座 日々(東京)、2012年エポカ ザ ショップ銀座 日々(東京)、灸まん美術館(香川)、2013年萩の庵(徳島)がある。パブリックコレクショに、高松市塩江美術館・世界のタイル博物館・Clark Center for Japanese Art & Cultureがある。

>>田淵さんの作品を扱っている、高松市のセレクトショップ「まちのシューレ963」にもお邪魔しました。その様子は別冊コロカルでどうぞ!

鈴木輝隆さん

地域文化と向き合う人々と出会い、始まったこと。

著名デザイナーや建築家から「みつばち先生」と親しまれる鈴木輝隆さんは、
日本のローカルで、ネットワークをつくりだす達人。
2003年からは「ローカルデザイン研究会」を主宰するなど、
ローカルの人々とクリエイターとをつなげ、
これまで、彼らとともに美しい「ローカルデザイン」を生み出してきた。
現在は、江戸川大学で教鞭をとり、学生たちとフィールドワークを行う一方で、
自らもさまざまな地域プロジェクトのアドバイザーや委員長を務める。
そうして、これまで鈴木さんが携わったプロジェクトのひとつひとつが、
著書『ろーかるでざいんのおと』にも綴られている。
花から花へ、みつばち先生が動けば、日本の地域で実が結ぶ。

鈴木先生の研究室には、さまざまな地域での思い出の品が飾られている。窓辺に飾られた写真はローカルデザイン研究会100回目のときに撮影した原 研哉さんとの写真。撮影は、写真家の砺波周平さん。

今でこそ秘湯の代名詞として名高い秋田県の乳頭温泉「鶴の湯」は、
廃業寸前だった経営をオーナーの佐藤和志さんが資金ゼロから立て直したもの。
佐藤さんの理念に共感した鈴木さんは、
デザイナーの梅原 真さん(innovators#005)を連れて行く。
そして秘湯の趣そのままを語るような素晴らしいポスターが世に送り出された。

まちの景観を修復し、今や全国から訪問者が絶えない、長野県小布施市。
まちのランドマークとも言える小布施堂へ
鈴木さんはデザイナーの原 研哉さんを連れて行った。
そこで、生まれたのは、桝一市村酒造場の「白金」という酒の美しいボトルデザインだ。

新しくつくりだすことで、守ることができる文化がある。
優れた人材を味方につければ、
自分たちだけではなし得なかった大きな発信力となっていく。
鈴木さんは、そのような出会いをいくつも結んできた。
新しい情報が流入することが少ない辺境の土地にとって
ひとつの出会いが、とても重要な意味を持つ。

「僕は、人を通してその土地を見てきました。
“こんな面白い人がいるから、一緒に行かない?”って誘って、会いにいく。
そうすると、“僕も連れていってほしい”って人が増えていって、
自然と、何かが動き出したりします。
僕はみんながやりやすい場をつくるだけで、あとはお任せなんです」
と鈴木さんは、ただ、仲の良い友人と友人を引き合わせたように、楽しそうに話す。
そんな風に、美しいローカルデザインの立役者・鈴木さんは、
かつては地方行政に携わっていたひとり。公務員だった鈴木さんが、
全国に広がるネットワークを、どのように築いてきたのだろう。

10年間続けられたローカルデザイン研究会は、2013年1月の100回目で幕を閉じた。記念すべき最終回のゲストは、門出和紙職人の小林康生さん(写真中央でマイクを持った方)と、荻ノ島自治振興会長春日俊雄氏さん(写真左端着席)。(撮影:砺波周平)

鈴木さんは、大学を卒業後、神戸市役所に勤務するも、
山や自然が大好きだったため、もっと田舎で働きたいと考えた。
そして、縁あって山梨県庁で勤務することに。
しかし、待っていたのは、当時の地方行政が抱えるもどかしい現実だった。
「上が決めたことに対しては、別の意見を言っても、なかなか通らない。
せっかく担当になった仕事も、2〜3年で異動しちゃうでしょ。
そうすると、自分を裏切って仕事をしている気がした。
僕は、ただ、きちっとした仕事をしたかったんです」

そこで、鈴木さんは、月に2回、1年間で20〜30か所、
休みを利用して日本中の地域を見て勉強することに決めた。
今から30年以上前のことだ。
当時は、インターネットなんてものは無く、情報はすべて現地で仕入れた。
喫茶店で地元紙を読み、面白いことをやっている人がいたら、その場で電話。
「そんな風に旅をしている人がいなかったんでしょうね。皆さん快く会ってくれました(笑)」
そして、もちろん旅費は自腹。
「だから、“うちへ泊まって行けばいいよ”なんて親切な方もいました。
そこから、またいろんな人を紹介してもらったりしましたね」

そんな風にさまざまな人と知り合うことができたのも、
「観光地」と整備されてしまった場所を選ばなかったからと鈴木さんは話す。
「大学生の時に読んだ『幻影の時代』という本に、こう書かれていました。
“人はイメージの確認で、旅に出る”と。
確かに旅と言うと、証拠写真のように観光地で記念撮影をして、
満足してしまう人がいますが、それは単にイメージの確認に行っただけ。
しかし、そうやって大衆旅行時代が始まるわけですが、
大量消費の対象として、地方には新しい建物ばかり生み出されてしまった。
何でも新しければいいなんて、全然面白くないですよ。
そこにある文化を理解する。
埃がかぶって手あかがついてきたまちのほうがずっと魅力的です。
そうやって考えて、10年後には、
世界の人が驚くようなまちになると信じている人たちがいました。
そんな方々と出会ううちに、ローカルの面白さにハマってしまったんです」
県庁時代、その後の国の研究機関「総合研究開発機構」へ出向時代と合わせると、
関わってきたプロジェクトは数えきれない。
そのうち、さまざまな大学で講演をしてくれと呼ばれるうち現在の研究職に就いたという。

2012年に松屋銀座7階・デザインギャラリーで開催された「みつばち先生 鈴木輝隆展」の様子。鈴木さんがこれまでに携わった日本の10個のプロジェクトが紹介された。中央にある、シルバーのボトルが原さんデザインの「白金」のボトル。

国土交通省半島振興室のプロジェクト「半島のじかん」。鈴木さんは、コーディネーターとしてこのプロジェクトに参加。若手クリエイターを起用することで、新たな視点で半島への喚起よびかけに(AD・大黒大悟さん、写真家・白井 亮さん)。

地方を歩く一方で、鈴木さんは、さまざまな勉強会にも積極的に参加し、
才能あるデザイナーや建築家と出会い、その縁を大切にしてきた。

デザイナーの原さんと出会ったのも、
資生堂が主催する、日本の職人に関する講座に参加したときだったという。
意気投合して、鈴木さんがこれまで出会った人のもとへ原さんを連れて行く。
そして、小布施堂のように、さまざまなプロジェクトが生まれていった。
知人の紹介で会ったという建築家の隈研吾さんとも、もう15年来の仲だ。
バブル崩壊後の当時、東京に仕事がないという隈さんを連れて、
新潟県・高柳町(現柏崎市)へ。
そして、地元市民の迎賓館として、
門出和紙職人の小林康生さんが手がける、
手すき和紙を駆使した茅葺きの「陽(ひかり)の楽屋」が完成した。

「今思うと、地域を勉強したいと思いながらも
僕は、見たこともないものに出会いたい、生み出したい、
という個人的な知的欲求もあったかもしれません。
それは、そこで生まれる何かもそうだし、そこにあるものもそう。
自然農法でハーブを育てる農家さんだったり、漁師さんだったり、
他にはない、その土地の自然のなかで育まれた彼らの生き方に感動します。
それで、また会いに行ってしまうんです」

鈴木さんが尊敬する偉人のひとりが下河辺淳さん。「彼が“人生は15年以上ひとつのことをやってはいけない。節目が無くなる。人間はだらだら生きちゃいかん”って言うんで、県庁を辞めようと思ったんですよ(笑)」

鈴木さんは、土地で生きる人々を研究するように、
まちからまちへと感動を求めて津々浦々歩いた。
それらの出会いは、もちろん、本拠地・山梨にもあった。
「ギャラリートラックスの木村二郎さんもとても素晴らしい方でした」
家具作家として知られる木村さんは古材を使った家具づくりの先駆者と言われ、
亡くなった今も、木村さんの世界観に魅了される人は多い。
木村さんとのプロジェクトのひとつが、
山梨県北杜市須玉町の津金小学校大正校舎の修繕だ。
木村さんは、慣れない手つきの地元住民と一緒に、壁を塗ったり、
古材でンテリアを制作したり。素晴らしいものに仕上がるも、残念ながら、
建て替えられてしまうことになったというが、
木村さんの理念は、地元住民の心に刻まれている。
古材を活かす柔軟な発想と斬新なデザイン感覚は、地域に生命力を蘇らせ、
土地の歴史、培われてきた技術や暮らしの知恵を継承していけるのだと。
「不思議な魅力を持っている人に対して、行政はなかなか評価しづらい。
だから、僕はその人は、とても面白いよと伝える。
そういう役割も果たしていたかもしれません」

一般社団法人ハウジングコミュニティ財団の事業のひとつ「住まいとコミュニティづくり活動助成」は全国の市民の自発的な住まいづくりやまちづくり地域づくり活動を支援する。選考委員会委員長を務める鈴木さんは毎年選ばれたプロジェクトの報告書を、梅原さんにデザインをお願いし、1冊の小冊子にしている。「こんな風に素敵なかたちで自分たちのプロジェクトをまとめてもらえたら、やっぱりうれしいですよね」

成熟化してしまった社会を見直すヒントが、ローカルにはある。

現在、鈴木さんが足しげく通っている場所のひとつに、
北海道の清里町がある。もう10年以上も、通い続けているという。
イギリスのコッツウォルズにも負けないほど美しい景色が広がる、
人口4500人の小さなまちだ。
ここへ、「庭園のまちづくり構想」を進める町のアドバイザーとして、
鈴木さんは気鋭の若手デザイナー3人を連れていった。
パッケージや制服など、まちのなかのものをすべて見直しながら、
まちをまるごとデザインしていこうというのだ。
何と、面白そうなプロジェクト!
しかし、町の3人への支出は交通費だけで、デザイン料は無料。
採用するかどうかも、町が決めることになっている。
「それでも3人はやってみたいって言うんですよ。
でも、僕も何か面白いものが生まれるって思っているんです。
ここは、流行とか景気とかに左右されない、自然が美しくて、
食べ物もおいしくて。何よりここに住んでいる人がみんな素敵だからね」

第一弾として、始まったのは清里産じゃがいもでつくられる、
焼酎のパッケージデザインのリニューアル。2014年4月に完成予定だ。
地元の人との交流を通して生まれたデザイン案に対しては、
高校生、青年団、おじいちゃん、おばあちゃん、
土地のみんなが意見をかわすのだそう。
そんな何気ない小さな意見を汲み取り、コミュニケーションを重ねることで、
新しい価値が生まれていくのだと鈴木さんは言う。

「今は情報が多いでしょ。都市部は特にそうですね。
イメージを持たないで物事を見るほうが大変なくらい。
みんな知らず知らずに埋め込まれてしまったステレオタイプに従って生きている。
そうすると、いろいろな可能性を選択肢から省いているんですね。
成熟化した日本の社会は、ますますステレオタイプなものをつくっていく。
誰かが歩いた道を歩くほうが楽ですから。でも、田舎ではそうはいかないんです」
日本の地域にはそこで培われてきた歴史と風土があり、
その個性を大切に考える以上は、右へ倣えのやり方は通用しない。

「そして、そういった可能性を受け入れる柔軟な土壌もあります。
みな、可能性があるということは楽しいんですね。
新しい価値が生まれれば、両者は生き生きしてきますから」
そう断言できるのも、鈴木さんがこれまでそんな場面にいくつも立ち会ってきたから。
「だから、今、僕らの世代の役割って、さまざまなハードルを低くして、
若い人たちが参加できる場所をつくってあげることが重要だと思う。
そうすれば、みんなが考えている以上に生まれてくるものがあると思いますよ」

デザイナー3人を連れて清里町を訪れ、地元の漬け物工場も訪問。「地元住民と一緒に流氷を見に行ったりもしましたよ。まち全体に流れる空気や風を感じ取りながら、時間の蓄積や時間の包有を味方につけたら、都心では考えつかないような写真やデザインを生み出せるんじゃないかな」(撮影:清里町)

「TAKAO599 MUSEUM」は、旧東京都高尾自然博物館での展示物をベースに高尾山の新たな魅力と活力を創出する場としてつくられる、体験型のミュージアム。鈴木さんはこのプロジェクトの総括座長を務め、ADの大黒大悟さん(日本デザインセンター)と共に写真の報告提案書をまとめた。平成27年に運営開始予定で、完成が待ち遠しい。

Profile

TERUTAKA SUZUKI
鈴木輝隆

1949年愛知県名古屋市生まれ。神戸市役所、山梨県庁、総合研究開発機構を経て、現在は江戸川大学社会学部現代社会学科教授。地域の自立には歴史や伝統を軸に、美意識のある「ローカルデザイン」が必要と考え、「ローカルデザイン研究会」(現在第100回)を主宰している。2012年8月、約1か月、「みつばち先生鈴木輝隆展」(松屋銀座・日本デザインコミティーの主催)が開催された。著書には、『ろーかるでざいんのおと(田舎意匠帳)』(単著)全国林業改良普及協会、『気づきの現代社会学』(共著)梓出版など多数。2013年、『みつばち先生-ローカルデザインと人のつながり(仮)』原研哉編・羽鳥書店より出版予定、『地域開発』(一般財団法人日本地域開発センター)(11月号)で、特集『ローカルデザインとは何か』を企画編集している。
http://www.edogawa-u.ac.jp/~tsuzuki/
【参考】
※ローカルデザイン研究会 http://www.tsugane.jp/bunka/event/ld.html
※鶴の湯 http://www.tsurunoyu.com
※桝一市村酒造場 http://www.masuichi.com
※半島のじかん http://hanto.jp
※津金学校 http://tsugane.jp/meiji/

木綿街道プロジェクト

開発を逃れ、残されたのは古きよきまちの姿。

島根県の東部に位置する出雲市平田町に、
「木綿街道」と親しまれる、風情あるまち並みが残っている。
代々受け継がれてきた製法を守ってつくられる「生姜糖」の店や、
醤油の醸造所が3軒、そして造り酒屋など、いまも現役の老舗が軒を連ねる。

明治10年創業「酒持田本店」。熟練の出雲杜氏が銘酒「ヤマサン正宗」を生み出している。

宍道湖と日本海に挟まれているこの地域は、
江戸時代、綿の栽培がさかんになったのと同時に舟運も活発になり、
「雲州平田」と呼ばれる賑やかな市場町として栄え、立派な商家が建ち並んだ。
その後、水上から鉄道や車へと交通手段が代わりゆく昭和以降、
まちに繁栄のかげりが見え始めた。
昭和50年代には、平田のなかでも繁栄の中心だった本町エリアが、
開発区域に組み込まれ、昔の面影を残す多くの商家が消えてしまったという。
しかし、その開発を逃れ、江戸中期の佇まいが今も残っている地域が
現在、「木綿街道」の愛称を持つ、新町・片原町・宮の町エリアだ。

「僕が育ったころ、周辺は取り残され『寂れたまち』という印象でした。
観光客なんて来ることもなく、用事がある人のみが出入りする。
かと言って、当事者のわたしたちも、江戸中期のころの建物と言われても、
それに価値が見いだせていなかったんです」
と話すのは、來間 久さん。
片原町で300年続く、生姜糖を製造する老舗・「來間屋生姜糖本舗」の店主だ。

改修をしながら当時の佇まいを残す來間さんのお店。看板商品の「生姜糖」はさっぱりとしていて美味。

來間さんは、大学を卒業後、東京で10年ほど会社員として勤め、
父親が亡くなったのを機に帰郷し、店の跡を継いだ。
同じ頃、新町・片原町・宮の町のまち並みを保存しようと外部から働きかけがあり、
そのメンバーに参加することになったという。2001年頃のことだ。
誰もが初めての試み。
地元の人からなかなか理解を得られないこともあったというが、
イベント「おちらと木綿街道」や「もち街木綿街道」を企画したり、
木綿街道地域の存在を広く周囲に知ってもらえるよう、
まち並みを活かす活動を年々展開していった。
さらに、観光の拠点として、「木綿街道交流館」が整備され、
徐々にたくさんの人に、訪れてもらえるようになったという。
現在は、街道内の事業者を中心として結成された、
「木綿街道振興会」が主体となり、年1回の「おちらと木綿街道」だけでなく、
大小さまざまなイベントが企画されている。
その拠点となっているのが、「旧石橋酒造」だ。

「おちらと木綿街道」は、街道内の空店舗、空家を利用して地元のものづくり作家を中心に、多ジャンルの出展者が集う毎年恒例のイベント。今年も5月26日に開催され、6000人以上の人が訪れ、賑わいをみせた(撮影:木綿街道振興会)。

学生や若い世代が参加し、新たな活動へ。

江戸期から続く造り酒屋である石橋酒造が廃業したのは、2007年のこと。
木綿街道の認知度が少しずつあがってきた矢先だった。
800坪もの敷地を持つ建物であり、観光の核にもなりうる建物が、
心ない人の手に渡っては、木綿街道の美しい景観が壊れてしまう。
そこで、平田商工会議所などの働きかけにより、
出雲市が買い取り、活用する方向へ走り出した。
木綿街道振興会のメンバーが中心になり、活用に向けて、広大な敷地を大掃除。
「あれは、もう本当に大変でしたね……」と來間さん。
「でも、大変だった分、みんなにも愛着がわいたのも事実です」
どんな活用方法がよいか、この場所にみんなが可能性を感じたきっかけになった。

みんなで大掃除してつくられた旧石橋酒造奥にあるホール。音の反響もよい広々としたスペースゆえ利用できるようになる日が待ち遠しい(撮影:木綿街道振興会)。

左から、來間さん、木綿街道事務局の平井さん、高橋さん、渡部さん。旧石橋酒造の前で。

そんな生まれ変わった旧石橋酒造で活動を展開している団体のひとつが、
「City Switch」だ。
City Switchは、グローバルに都市デザインの知識やアイデアを交換し、
都市の再生を考えていくプロジェクト。
現在は、東京、出雲、オーストラリアに拠点を持つ。
出雲では、建築事務所「江角アトリエ」が主体となり、
毎年、日本中から大学生の参加を募り、ワークショップを開いている。
学生たちは、1週間ほど出雲の各宿泊施設に滞在しながらグループ制作を行う。
そのワークショップのひとつに、「旧石橋酒造の活用」が取り入れられた。
学生たちは思い思いに、地元の人と交流しながら、
2010年にはこの場所の記憶をとどめる「memory2010」という
インスタレーションを発表したり、
さらに、2011年には日常的な活用方法のひとつとして、
ブックマーケットの仕組みを考え、スタートさせた。

インスタレーション「memory2010」の様子(撮影:江角アトリエ)。

ブックマーケットの様子(撮影:木綿街道振興会)。

「そこで何ができるか、何をするかは、学生たちが決める。
それが、このプロジェクトの面白いところなんです」
と、江角アトリエの江角俊則さんも話し、
木綿街道振興会と共に、学生たちの制作をフォローしている。
学生たちの自由な発想で、面白い活用法のアイデアが生まれる。
なかには、海外から参加する学生もいるようで、
出雲で建築に携わる若いスタッフにもよい刺激になっているようだ。

そんなCity Switchがきっかけで今年4月に木綿街道にやってきた女性がいる。
井上季実子さん、24歳だ。
「ワークショップがきっかけで、
大学生のときに初めて木綿街道にきました。島根の豊かな自然や、
深い歴史を物語るまち並み、そこで出会った人々に魅了されてしまって。
そのとき、こうやって地域やここにいる人たちと関わりながら、
いつかはこっちにきたいな……と思っていたんです。
そうしたら、木綿街道振興会の方から“一緒にカフェをやらない?”と誘われて。
もちろん、即OKの返事をしました!」

実は、これまでイベントや外部団体が活動の拠点としてきた旧石橋酒造は、
今後2〜3年をかけて、建物の防災設備を整えるため修繕に取りかかる。
その間、多目的活用スペースとして、
また木綿街道内で製造されている商品の総合ショップとして、
木綿街道の空き店舗を改修し、カフェを開くことになったのだ。
井上さんは、木綿街道振興会事務局の平井敦子さんと一緒に
振興会を盛り上げながら、今年度中のオープンに向けて準備を進めている。

ちなみに、井上さんは、横浜市出身。なれない土地での生活、不安は無かったかと伺うと、
「初めてのひとり暮らしであたふたしていますが(笑)、
まわりの人がみなさん助けてくれるんです。
一緒にお茶をしたり、食事したり……。とても楽しい毎日を送っています!」
と井上さん。そんな充実した生活から、ここでの目標も見えてきたよう。
「私の勝手な目標ですが、若い人を木綿街道に呼んで、
この地に住んでもらえるような、何か新しい生活スタイルを提案したいですね」

長い年月をかけて、少しずつ、少しずつ、かつてあったような、
人々の息吹や活気を取り戻してきている、木綿街道。
それは、訪れた誰もが魅了されてしまう、歴史的財産が残っているから。
「私たちの一番の目的は、
この木綿街道の美しいまち並みを後世へ残していくことなんです。
しかし、古い木造の建物の価値や魅力を残しつつ維持していくには、
個人では到底まかなえないような多額な費用が発生する場合もあります。
だから、行政の保存制度に頼るしかない。
行政による保存に向けての取り組みを活発化させるために、
文化財的価値を持つ建造物として認知してもらいながら、
この木綿街道を好きになってくれる人をもっと増やすような、
そんな活動を行っていけたらいいですね」(平井さん)

今年の「おちらと木綿街道」前夜祭では木綿街道近くにある「宇美神社」でフードや飲み物が振る舞われた。このような神社内での風情ある夕涼みに想像以上の参加者が集まった。

Information


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木綿街道振興会

住所 島根県出雲市平田町831-1
電話 080-3025-6901
http://momen-kaidou.jp

Information

City Switch

2007年に設立され、これまでに島根県出雲地域やオーストラリア・ニューカッスル、中国・大連において国際デザインワークショップをコアアクティビティとして活動を展開してきた。建築家・大野秀敏の指導のもと、ジョアン・ジャコビッチと山代悟のパートナーシップにより運営され、それぞれの活動地域の地元グループとのコラボレーションによって活動中。
https://www.facebook.com/CitySwitchJP

Information

江角アトリエ

住所 島根県出雲市古志町2571
電話 0853-31-8211
http://www.esumi-atelier.com

家具工房 en

端材から生まれた、美しい木目のお皿。

島根県松江市の中心地から車を走らせること約20分。
民家が立ち並ぶ集落のなかに、「家具工房 en」と書かれた木の看板を見つけた。
どこにでもある民家の軒先に控えめに置いてあるものだから、
見過ごしてしまいそうになる。
「実は、辿り着けませんでしたっていう方も多くて(笑)」
とオーナーの藤原将史さんは笑いながら、工房へ案内してくれた。
蚕業を営んでいた民家の1階を工房として借りていて、
ひと間は作業場、もうひと間は藤原さん自ら手を入れたというショールーム。
enオリジナルの家具や器、カトラリーが並び、室内はやわらかい木の香りに包まれる。

家具工房enのショールームにある家具はすべて藤原さんが手がけたものだ。

愛媛県出身の藤原さんは、島根の大学へ進学し、建築を学んだ。
「建築士を目指して大学に入ったんですが、
座って計算して図面ひいて……というのは、自分には合わなくて。
もっと体を動かしてものをつくる仕事がしたくて、
大学卒業後は、木工技術を学べる岐阜の専門学校へ進みました」
専門学校では木の種類や
どの木目がどんな部材に適しているのかという「木取り」のノウハウ、
そしてデザインから加工技術まで、家具づくりの基礎をじっくり学んだ。
「大学で建築を学んでいるときから、木の家具に興味があったんです。
デザインから加工までひとりの職人が通しで手がけられるところが、
家具づくりの面白いところだと思いますね」
専門学校を卒業後は、無垢の木を扱っている仕事場を探して、
建具屋、続いて材木店の家具部門に勤務し、その後、独立。
「本当はすぐに独立するつもりじゃなかったんですが、
自分が行きたいと思う工房に人員の募集は無かったんですね。
それなら、妻の実家である島根に戻って制作しようということになって。
そのとき都会を選ばなかったのは、
単純に人ごみが嫌いだというのもありますが(苦笑)、
制作するなら静かな場所がよかったんですよ」

「やっぱり、難しいのは木取り。木のクセで加工も表情も変わりますから」と藤原さん。作業場にはさまざまな大きさの木材が並んでいた。

島根に戻った藤原さんは、半年ほどで現在の工房が見つかり、
本格的に家具工房を始動させた。しかし、思うようには進まない。
「ちゃんと資金が必要やなと思いましたね。
材料費が無くて、家具をつくるにも木が買えなかったんですよ」
そんなとき、藤原さんが思いついたのは、
専門学校時代からずっと貯めていた端材を使うこと。
1俵分の米袋が3つもあった。引っ越す度に、一緒に運んだという。
「貧乏性なんでね(笑)。
無垢の木材やし、捨てるのはちょっともったないなと思って」

かくして、端材で木の皿をつくり始めた藤原さん。
本来は、お皿や器はろくろを使ってつくるものだが、
材料が買えない藤原さんは、もちろん、機械も買えない。
ひとつひとつ、原始的にノミではつって皿をつくり上げた。
しかし、売れなかった。
「嫁には、“売れんもんつくり続けてどうするん?”と、よく怒られていましたね。
“なんとかするわ!”とこちらも意地になって考えましたよ」
そこで、藤原さんが考えついたのが、
ノミではつった削り跡をそのままにすること。
「最初は、ヤスリで仕上げてつるつるのお皿をつくっていたんですが、
できあがったのを見ると、手で削っているはずなのに、
ろくろでつくっているものと見た目が変わらないんです。
手間がかかるから、値段はこっちのほうが高い。
あんまりうけもよくないですよ、だって、ただ高いだけですから。
それで、皿を彫りながら“あ、このままでいいかも”と思いついたんです」
その後、大きさやかたちの異なるノミを買い揃えながら、彫り方を研究し、
それぞれの木や器のかたちにあった彫り方を模索した。
3年ほどたって、やっと自分が納得できる器になってくると、
徐々に、問い合わせも増えていったという。
独特な風合いをもつ藤原さんの皿。
ひとつひとつ、手間ひまかけてつくられる彫り跡が、
ナチュラルな木目の美しさを際立たせている。
「お皿をつくったおかげで、他の木の家具がつくれるようになりましたから。
端材をとっておいて、よかったですね」

ブラックフォールナットの木材をノミではつる。1日につくれる皿は4〜5枚ほど。

くるみオイルを塗装後、拭き取り、仕上げは蜜蝋ワックスで。仕上げの塗装には1週間ほどじっくり時間をかける。

「木のものならなんでもつくりますよ」と言う藤原さんは、
現在、お皿や器の他に木の家具、そして時計などの小物も制作している。
どれも、無垢の木の風合いが生かされたものばかりだ。さらに、
「最近、籐を学んで編んだりしているんです。
自分でできるものは、全部自分でやったほうが値段もおさえられますしね」
と、見せてくれたのは、座面が籐で編まれたスツール。
縁あって、籐細工の名職人と出会い、学ばせてもらっているのだそう。
「その家で代々受け継がれてきた籐細工。でもまだ継承者はいなくて。
でもその技術を絶やすのはもったいないじゃないですか。
だったら、僕が教えてもらいたいなって思って、通っているんです」

藤原さんが制作した、籐のスツール。

古くからはもちろんだが、
松江には、ものづくりをしている若い作家さんも多くいるのだという。
最近はそんな横のつながりが増えつつある。
「展示会などで一緒になると、ものすごく勉強になるんですよね。
ものづくりに対する姿勢っていうか、
お客さんの接し方も含めて、おれ、まだまだやなって思うんです。
みなさん、いろいろ親切に教えてくれて、本当に、いい人ばかり。
おかげで島根が好きになりました」と、勉強熱心な藤原さん。
その意欲が、きっと新たなものづくりを生み出していくのだろう。
木のナチュラルな風合いを大切にしながら、
次はどんな家具をつくり出すのか、今後も楽しみだ。

最近つくってみたという、こけしのような木の人形(中央)が愛らしい。

藤原さんの工房の目の前は原っぱが広がる。きじが出るときもあるくらい自然豊かな景色が気に入っているのだそう。

漁師穴子の店 たまちゃん

豪快な漁師定食と楽しい会話に、お腹も心もほっこり。

山口県の南西部に位置し、瀬戸内海に面している宇部市。
市内の中心地にほど近い、レトロな看板が並ぶ商店街、新天地名店街に入ると、
醤油の香ばしい匂いが通りに立ちこめる。
店前ではおいちゃんこと、福田 誠さんが炭火で穴子を焼きながら、
「いらっしゃーい」と屈託のない笑顔で迎えてくれた。
「漁師穴子の店 たまちゃん」の看板メニューは、店名通り、もちろん「穴子丼定食」。
かつては、穴子漁師だったおいちゃんが、厳選して仕入れる穴子をさばき、
注文を受けてからひとつひとつ、炭火で焼いている。

穴子は、以前は近くの海でもたくさんとれたが現在は減ってしまい県外から仕入れることも。

穴子がたっぷりのった豪快な穴子丼定食(980 円)は、人気メニュー。

醤油タレにつけながら、かりっと、ふわっと焼き上げたアツアツの穴子を
豪快に大盛りのご飯に乗せるのが、たまちゃん流。
それに、地元の新鮮野菜を使った、たっぷりの副菜とお味噌汁、漬け物がつく。
これは、おばちゃんこと、奥さま球子さんの担当だ。
ちなみに、この日の副菜は、煮物と「はなっこりー」のごま和え。
「はなっこりーはね、山口県で生まれたかけ合わせの野菜。
炒めてもおいしいんだけど、おいちゃんがさっぱりしたものが好きだから、
うちはいつもごま和え。どう、おいしいでしょう?」
“はい!”と思わず答えてしまう、おばちゃんの気さくな人柄に気持ちもほぐれる。
野菜も多いからか、見た目のボリューム感とは裏腹にぺろりと食べられる。
「多い多いって言いながら、みんな意外と食べちゃうんだって。でもさ、
量が少ないとかわいそうじゃない。お客さんにはお腹いっぱい食べてってほしいから」

穴子丼の他にも、親子丼やうどんなど、10くらいあるメニューのなかで、
お客さんのお目当ては、刺身定食(900円)と焼き魚がメインの日替わり定食(500円)。
魚は、毎朝市場から仕入れるので、毎日、異なる。
だから、その時期に一番おいしい魚だけを、食べさせてくれるというわけだ。
旬の素材に、シンプルな調理。
母の味を思い出すような定食は、どれも、ホッとするおいしさだ。

訪れた日、日替わり定食の魚は「メジ」。ほどよく脂がのっておいしい。定食のご飯は「穴子のせ」もできる。お客さんの要望で生まれたそう。

「もともとはね、おいちゃんとおばちゃんふたりで船に乗って、
漁に出ていたの。とれた魚や貝を売り始めたのがこの食堂のはじまり」
大分県の小さな島に生まれたおばちゃんは、
宇部から、その島に貝をとりに漁に来ていたおいちゃんと出会って結婚。
当時は、戦後まもないとき。おいちゃんの仕事は、冬は貝などをとり、
夏は、宇部周辺の海底に残った「爆弾とり」だったという。
「新しく港を整備するっていったら、うちらみたいなもぐりが、爆弾を拾いにもぐる。
おばちゃんとふたり船で沖へ出て、おいちゃんがこの潜水服を来てもぐるんよ。
おいちゃんは耳が弱かったから、辛いときもあったなぁ。
でも、子どもたちを食わせないけんからね」とおいちゃんは目を細める。
二人三脚で、漁師を続けて数十年がたったころ、
今は亡き娘さんが、とれたての魚や総菜を売る店を始め、今の食堂に至るという。

店の入り口にある陳列棚にはお弁当や総菜が売られている。食べたいものがあれば、中で定食と一緒に食べることもできる。

この食堂を始めて8年目というが、
とても気になるのは、店内にある何十年も使い込まれたような家具や置物だ。
実は、この店にあるテーブルやイス、棚や人形など、
ほとんどすべてが知り合いから譲り受けた品々なのだという。
日本人形や、木彫りの熊、そして年代もののレトロなミシンまである。
コロカルの連載「「みうらじゅんのニッポン民俗学研究所」の“いやげ物”」にも
登場できそうなものもちらほら……。
パズルでつくられた立派なお城の写真が飾られ、
思い出の場所なのかとおばちゃんに伺ってみたが、「どこかは、知らん」と、一言(笑)。
「何も考えんともらってきて、置くとこないんじゃ」とおいちゃんも笑う。
さらに、1年しかもたないと言われてもらって来たという陳列棚の冷蔵庫は、
なんと、8年も使い続けているというから驚きだ。

ノスタルジックなものばかりが並ぶ店内。右にあるのはおいちゃんが現役のときに使っていたという潜水服のヘルメット。

「私は田舎の人間やから、なんでも『もったいない』って思ってしまって、
“たまちゃん、要る?”って言われたら、“要る要る! ちょうだい”
ってもらってきてしまうのよ」
「こんなにもらってきてね、倉庫にもいっぱいあるやろ……」
とおいちゃんはあきれるが、「だって、もったいないじゃろ」とおばちゃん。
そんなふたりの会話を聞き、おいしい魚をいただいたお客さんたちは、
「おばあちゃん家に来たみたいで、すごく落ち着く」と口々に言うのだそう。
時間があれば、おばちゃんに悩みを話しこんでいくこともしばしば。
「おばちゃんは話が好きだから、いろいろ聞いてるだけよ」

おいちゃんとおばちゃんのあったかい人柄と
季節の魚と野菜を使ってつくられる、素朴で、おいしい定食。
宇部に来たら、またふたりに会いに来よう。そう、何度でも訪れたくなる食堂だ。

愛猫のゴンちゃんと一緒に。

「OCICA」と「ぼっぽら食堂」

牡鹿の人と土地を象徴した手仕事ブランド「OCICA」

三陸海岸の南から太平洋に向かい南東にせりだした牡鹿半島。
複雑なリアス式海岸に点在する約30の浜ごとに集落を形成するこの地域は、
漁業関連の仕事に従事していた多くの住民が、津波により家と仕事を失った。
現在、瓦礫の撤去はほぼ終わり、
ワカメや牡蠣などを扱う水産加工業の生産体制も徐々に回復へと向かっている。
しかし、「復旧」から「復興」へ向けた動きのなかで、
集団移転の問題や回復の進まない地域経済など、さまざまな問題が浮かびつつある。

そんな中で、地域住民のつながりを大切にした
「一般社団法人つむぎや」の活動が注目されている。
代表の友廣裕一さんが手掛けるふたつのプロジェクトを追った。

牡鹿半島には美しい漁港がいくつも点在する。

「OCICA」を制作する地元のお母さんたちと、右端が友廣裕一さん。週に2度の制作時間を楽しみにしている人も多い。

2年前——。
被災後間もない牡鹿へ支援のために入った友廣さんは、
瓦礫が山積し、援助が行き届かない苦しい状況のなかで工夫をこらし、
希望を失わず、前に向かって生きようとする牡鹿の人々に出会った。
この人たちのために自分ができることはないか——。
全国70か所にわたる日本の中山間地を旅しながら、地域の人々の生活に触れ、
その中から関係性をつむいできた自分だからできることをしたかった。

「一歩踏み出そうとする人たちと同じ方向を向いて、全力でサポートしていこう」
それが、“つむぎや”のはじまりだ。

牡鹿半島には鹿が多く生息している。
当然、鹿の角も豊富に手に入るが、まったく使われていなかった。
「なにかできないか」と友廣さんは、
素材調達、加工、デザインなどひとつひとつの課題をクリアし、
「OCICA」というアクセサリーブランドを生み出すプロジェクトを立ち上げた。
デザインには、「NOSIGNER」デザイナーの太刀川英輔さんの力を借り、
まず、鹿の角と漁網の補修糸を用いたネックレスができあがった。
2011年9月、プロジェクトは本格的に動き始めることになる。
仕事を失ったまま、仮設住宅に暮らす東浜地区(竹浜と牧浜)の女性に
わずかながらでも定期的な収入をもたらすことと、
ともすれば途絶えがちになる彼女たちの交流をうながし、
コミュニティとしての再生を図ることを目的としてスタート。
火・木曜の午前中、みんなで集まってアクセサリーをつくるという“しごと”。
これは、現在も続いている。

だが、素人が始めたその道のりは決して平たんではなかった。
そこは、知らないことは謙虚に教えを乞う姿勢で。
振り返れば、牧浜の女性たちを紹介してくれた牧浜区長の豊島富美志さん、
鹿の角を仲間から大量にかき集めて提供してくれた猟師の三浦信昭さん、
磨きから加工まで教えてくれた元捕鯨船の乗組員の安部勝四郎さん、
そして、NOSIGNERの太刀川さんなど、
縁ある多くの人々とつながり、協力を仰いだ結果がそこにあった。

おしゃべりしながらでも手は止まらない。楽しい手仕事は午前中いっぱい続く。

鹿の角の加工は難しい。お母さんたちは独自に練習を積み腕を磨く。

このように、OCICAは仮設住宅の集会所で製作されている。
仕事をする女性たちはみんな明るく、笑顔がたえない。
「今日、もらった野菜の中にガーベラが一輪あったの。部屋に飾ったら
パッと明るくなって、うれしくてねぇ」と阿部けい子さん。
「うちはお花はいいから、野菜をもっとちょうだいって言ったさ」
そう返す阿部美子さんの言葉に一同笑いが起こる。
美子さんは、小学生を筆頭に一女三男の子供を持つお母さん。
一番下の男の子は、震災後の4月に生まれた。
秋から本格的に始まる牡蠣の殻むきの仕事を心待ちにする一方、
色々な人と交流できる作業場での時間を生活の張り合いにしている。

チーム最年少の阿部美子さん。みんなに頼りにされている。

「ここがあったから立ち直ることができたんだよ」
そう語るのは、チーム最年長の豊島百合子さん。
孫の結婚式に出るため出かけた横浜で震災に遭遇。
やっとの思いで牡鹿に辿り着き百合子さんが目にしたのは、
津波で壊滅的な被害を受けた故郷牧浜の変わり果てた姿だった。
独り身の百合子さんは震災の深いショックから立ち直れず、
仮設住宅で昼夜ふさぎ込む日々が続いた。
そんな折、百合子さんはOCICAの初回ワークショップに出席する。
「最初は手さ、ぶるぶる震えたけど、やってくうちに気にならなくなって、
いつの間にか笑えるようになったのよ。みんなのおかげだよ」
以来、皆勤賞。収入につながる仕事の達成感もさることながら、
ここに来れば誰かがいるという安心感が大きかったという。

豊島百合子さん。よい商品をつくるために人知れず練習を重ねる努力家。

人々が共に“笑顔で過ごせる場”をつくることの大切さ。

ここでは30〜70代の幅広い年齢の女性が一堂に会してアクセサリーをつくる。
話をしながらも、手元を見つめる目は真剣そのもの。
少しでもよい商品にしようと、日々改善を加えながら作業にあたる。
テキパキと作業をこなして本日の製作分が終了すると、
OCICA恒例の “お茶っこ”の時間だ。
自宅で収穫した白菜の漬物や、茎わかめの煮物、ゆで卵など思い思いの品を持ち寄って、
お茶を飲みながら語らいの時間をもつ。
「この時間とみなさんの笑顔を大切にしたいんです。
いつの間にか作業の反省会に突入すると、どんどん白熱していって、
時の経つのを忘れて話しているときもありますけどね」と、友廣さんがほほ笑む。

OCICAは、海外にも販売店が広がり、順調に売り上げを伸ばしている。
購入する人たちは、ひとつひとつ形の違う商品に手づくりの温もりを感じ、
その背景にある「OCICA」の「人」や「物語」に魅力を感じるという。

だからこそ、短期的なプロジェクトで終わるのではなく、
OCICAを継続させる中でお母さんたちの求めるかたちを
日々追い求めていきたいと友廣さんは話す。

ひとつの夢の実現が、新たな夢へつながっていく。

このOCICAとはまた違う歩みをしてきた、もうひとつのプロジェクトがある。
2011年4月——。
被災で仕事を失った鮎川地区(鮎川浜、新山浜)の
牡鹿漁業協同組合女性部の女性たちと友廣さんは、
早急に、なにか手仕事がつくれないかと模索していた。
夫婦で漁業に携わる人の多くが、漁船や漁具を失っていた。
震災前、女性は夫の手伝いをしながら、
空いた時間には牡蠣むきなどのパートに出て小さな現金収入を得ていたが、
それらの加工施設も沿岸にあったため壊滅してしまった。
それに代わるものとして、何とか元手をかけず、
地域に眠る資源を使った手仕事ができないか——。

みんなで話し合う中で、
安住千枝さんから、漁師町のアイデンティティである
漁網の補修糸を使ったミサンガならつくれるという話が持ち上がった。
2日後には、流出しなかった糸を使ってミサンガをつくり始めたのだが、
それが美しく、メンバー一同これをつくっていきたいということになった。
ミサンガは切れることで願いを叶えるというが、漁網は丈夫で切れない。
メンバーたちは、「切れない絆」に強い願いを込めた。
その日から千枝さんを中心としたミサンガづくりの特訓が始まった。

カラフルな漁網でつくられたオリジナルのミサンガ(photo:Ayumi Ito)。

3か月後、集まったミサンガを香川で行われた野外フェスで
1本1000円で販売。1日で400本近くを売り切った。
ここでも鮎川地区の女性たちの「切れない絆」の「物語」は、
ミサンガ購入へと人々の心を動かしていた。
これらで得た売上については、半分を製作した人の収入に、
もう半分は次の事業を始める資金に使うべく貯蓄に回した。
完売という結果は、当初弱気だった鮎川地区の女性たちを勇気づけ、
ミサンガの編み方を自ら考え出したり、色合いに細やかな気を配るなど、
商品の品質をさらに向上させていった。
ロゴは、震災後ボランティアとして
何度も足を運んでいたデザイン事務所「あちらべ」が手掛けてくれた。

「みんなで集まる場所がほしいよね」
震災後、集まる度に千枝さんがふるまってくれた、
支援物資を使ったアレンジ料理が好評だった。
そば粉がケーキに、レトルトカレーがカレーパンに変わり、
食べたみんなが笑顔になった。
漁業が一部再開するようになってからは、市場には流通しないが、
自宅でおいしく食べられている魚を、ボランティアの人などにごちそうしていた。
「鮎川の人々が集まれる場所をつくりたい、
地元の美味しい食材を使った料理をふるまいたい——」
いつしか千枝さんを中心にした弁当屋を開くのが共通の夢となっていった。
これが「ぼっぽら食堂」が始まるきっかけとなる。
ミサンガをつくっていたメンバーでオープンを目指した。
つむぎやも店舗建設や設備にかかる費用の確保に奔走した。
設計については、「akimichi design」の柴秋路氏、
「DOOGS DESIGN」の中島保久氏が関わってくれた。

2012年7月。
弁当屋・ぼっぽら食堂は、多くの人の力添えによってオープンを果たした。
現在、牡鹿漁業協同組合女性部7名の有志で結成された「マーマメイド」が
運営しており、地元で人気の弁当屋に急成長中だ。
月曜から土曜まで営業し、日によっては100食近くを売り上げる。

午後、すべての業務が終わったあと、メンバーは休憩に入った。
訪れた友廣さんにまかないの山盛りチャーハンをさりげなく差しだす。
「弁当屋の次はやっぱり、海産物の加工品の店を出したいっちゃね」
つかの間の休憩時間、メンバーのおしゃべりに花が咲き、笑顔がこぼれる。
だが、時計の針が3時を指すとみんな一斉に立ちあがった。

「さあ、明日の仕込みをすっぺ!」

「マーマメイド」のリーダーを務める安住千枝さん。陽気で元気な浜のお母さん。

方言である「ぼっぽら」には、急に・準備なしにという意味合いがある。地元食材を使ったメニューでボリュームのある温かい弁当を500円で販売している。

本当の意味で被災地が「復興」を遂げるには、
地方都市の農林水産業の衰退、それを伴う過疎化、高齢化など、
震災で浮き彫りになった、日本が抱える多くの問題を解決していく必要がある。
地方の「人」、人々が集まる「場」、活用しきれていない「土地の素材」。
それらをつなげ、ひとりひとりの役割が果たせる仕事を創出する
つむぎやの地道な活動は、「復興」につながっていくであろう
日本の健全かつ新しい仕事のかたちを予感させる。
キーワードとなるのは、人々の“笑顔”だ——。

Information

一般社団法人つむぎや

http://www.facebook.com/TUMUGIYA

Information

OCICA

石巻市牡鹿半島のお母さんたちによる、手仕事のブランド。
http://www.ocica.jp/

Information


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ぼっぽら食堂

住所 宮城県石巻市鮎川浜北18-4
電話 080-2816-1389
浜のお母さんたちが作る日替わり弁当がワンコイン(500円)で食べられる。
http://mermamaid.com/

肘折温泉vol.3これからの新しい湯治

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
最終回の第3回は、「これからの新しい湯治」について。

山奥の湯治場のゆったりした時間と、人との出会い。

「昔は、湯治に来たら、多い人だと3まわり(1まわり=1週間)くらい
泊まっていったんじゃないかな。当時はどの旅館にも自炊場があって、
お客さんたちは、自分たちが食べる分のお米を担いできて自炊をしていたんですよ。
食事ができると、私にも食べないかって声をかけてくれましたね」
と、当時を懐かしむように、肘折の湯治文化を話してくれたのは、
今年90歳になるという、若松屋村井六助の会長、村井健造さん。
大蔵村村長を務めた経験を持ち、昭和の肘折温泉を見つめてきたひとりだ。
現代でいえば、ユースホステルのような、この湯治場の仕組み。
その分、宿泊費用も低価格で提供されていたという。
「そうやって自炊するから、みな山菜採りを楽しんでいましたね。
塩蔵して家へ持ち帰る人もいました。
自然いっぱいの肘折周辺の山は、山菜がたくさん採れるんです」
湯治で温泉も、アウトドアも楽しんでいたというわけだ。

肘折温泉の共同浴場「上の湯」。入浴料は大人200円。かわいいのれんは女将たちの手づくり。

昔は、お客さんのほとんどは山形県内で農業などを営む人々。
田植えや稲刈りが終わると湯治場を訪れ、日頃の疲れを癒していったという。
ちなみに、「肘折」という名前の由来は、その昔、肘を折った老僧が
この地のお湯につかったところ、たちまち傷が癒えたから——という説が残っている。
「だからね、各旅館には松葉杖がたくさん置いてあったんです。
みんな、良くなって置いていくんですよ」と建造さんはにこやかに教えてくれた。
本当に?……と半信半疑になっていると、
33年にわたり、肘折温泉組合長を務めた、
つたや肘折ホテルの会長、柿崎繁雄さん(81歳)も同じことを言う。
「うちの玄関のところにもね、昔は松葉杖がたくさんあったんだから」
なるほど、温泉の効能は、肘折の翁たちのお墨付きのようだ。

「お客さんがたから他の地域の食文化や踊りや歌を教えてもらうのも楽しかったですね」と健造さんはさまざまな昔の肘折温泉の景色を教えてくれた。

肘折温泉の集落の風景。

こけしの収集家でもある繁雄さん。この部屋にある歴代の肘折こけしを見せてくれた。

さらに、繁雄さんは湯治のもうひとつの楽しみをこう話す。
「昔は、そうやって、長く滞在しながら自分たちで食事をつくったりするでしょ。
すると、自然と、一緒に居合わせた人とも仲良くなって、
お客さん同士の交流が生まれるんです。
だから、来年も会おうねって、約束したりするんですね」

そんな湯治友達に会えるのが楽しみだったと話してくれたのは、
つたや肘折ホテルに、40年間通い続けている鈴木新藏さんと妻のちえ子さん。
若いときは、養蚕にお米、ホップをつくっていたという鈴木さん夫妻は
「昔は、遊ぶ間がないくらい本当に忙しく働いていた」と口をそろえる。
だから、農閑期だけは、肘折温泉でお湯につかって、山道を散策して、
ゆったり過ごし、心身ともに疲れをほぐしていた。
「ここは山奥だし、来ればいつも気持ちがゆったりするんです。
うちのほうでは見られない山菜の青ミズを採ったりするのも楽しいですね。
いまは、湯治友達がみな来られなくなって、ちょっとさみしいけどね」
と、ちえ子さん。それでも、
毎年変わらずに迎えてくれる肘折温泉が好きだとも教えてくれた。
「ここの青年団がね、毎年、山道のあちこちを整備してくれるから、
歩きやすくなっていくし、すごくきれいになったのよ」
「肘折温泉は、いつ来ても人情味あふれるところ。それにつきるな」
と新藏さんは微笑む。

「毎年決まって、こんな山奥まで来てくれるでしょう。
こちらもお客さんが親戚みたいに思えてくるんですね」(繁雄さん)

いまは、旅行がふたりの楽しみと話す鈴木ご夫妻。「若いうちから旅行を楽しんでって息子夫婦にも言っているんだけど、やっぱり忙しいみたいね」

肘折温泉の旅館は売店を持たないため、買い物は通りの商店へ。「肘折温泉にきたら、筋子を買うのが楽しみなの」とおばあちゃんが教えてくれた。

肘折温泉ならではのユニークな過ごし方。

開湯1200年と言われる肘折温泉。代々受け継がれてきた湯治文化も、
ライフスタイルの変化とともに、湯治客の数が減ってしまった現状もある。
これからの肘折温泉を担う青年団。彼らのミーティングにお邪魔して、
その想いを聞いた(メンバーは、local action #019と同様)。
まずは、湯治文化について聞くと、
いまも変わらない肘折温泉での出会いや楽しみ方があるようだ。

里実子

こないだうちに来たお客さんたちで、去年偶然一緒になったから
“じゃあ来年も同じ日から泊まろう”ということになった方々がいたんです。
でも、ひと組は予定がずれて前倒しの日程になっちゃって。
もうひとつの組は、約束通りの日に来たんです。滞在が1日だけかぶったんだけど、
“なんだ、おめえら、約束したじゃねえか!”ってすごい責められてた(笑)。
電話するとか連絡方法はあったと思うんですけど、それはしなかったみたいですね。
でも、「また来年な」って言ってました。

絵梨

肘折温泉は、お部屋まで配達っていうのが普通なんですけど、
こないだお部屋にお邪魔したら、大きな電車の模型がつくってあったんです!
ふたりは奈良と東京から別々で来て、
ここで待ち合わせして一緒につくっているって言っていましたね。

隆一

それ、すごい!

大三郎

めちゃくちゃ楽しそうだね!

雄一

趣味をゆっくり楽しむ合宿みたいなもんかな。

絵梨さん(左)は保育士を辞め、実家の商店を手伝い、里実子さん(右)は、一昨年南米から戻り、実家の旅館を手伝っている。

里実子

うちのお客さんなんかだと、部屋を真っ暗にしているから
“電気つけないんですか?”って聞いたら、いま節電だからって言うんですよ。
旅館のことなのに、節電してくれている。
私は、温泉っていうと、おいしいもの食べて贅沢するイメージだったけど、
肘折温泉のお客さんはなんか違うのかなぁって思いました。

雄一

家と同じように想ってくれていて、リラックスもしているのかな。

隆一

僕、こないだ出前を部屋まで届けたら、
ばあちゃんたちが部屋の電気のスイッチに帯を結んで長くして、
楽に電気を消したりつけたり、くつろいでましたよ(笑)。

絵梨

帯の使い方と言えば、うちの店の前の旅館の2階から、
「ちょっとねえちゃん、そのアイスちょうだい」
て、声が聞こえてきたと思ったら、かごが降りてきたんです!
帯をつなぎ合わせた先に、かごが結んである。
降りてきたかごにアイスを入れたら、するするって上にあがってくんですよ。
そしたら、またかごが降りてきて、お金が入っていました(笑)。

雄一

肘折温泉では、それが普通の文化だもんな(笑)。面白いよなぁ。
お客さんも、肩の力を抜いて、くつろいでくれているんだろうな。

つたや肘折ホテルのバーに集合。手前のバーテン役が柿崎雄一さん。若い人たちのよき理解者。

新しい湯治のスタイルを探して。

隆一

「湯治」っておじいちゃんおばあちゃんのものだと思っていたんですよね。
でも、「ひじおりの灯」(*1)をきっかけに、肘折温泉にやってくる
若い人たちと会って話すようになってから、意識が変わってきましたね。
東北芸工大の学生たちは創作するために滞在しているけど、
温泉につかって元気になって帰っていく。これも肘折温泉の「湯治」かなって。
そしたら、いろいろな湯治のかたちがあるのかもしれないと思いました。

里実子

最近は、若いお客さん、増えているよね。

雄一

肘折の「地面出し競争」も年々、参加者が増えてるよな?

隆一

そうですね。1回目は9チームでしたけど、4回目の今年は、30チームに。
地元のチームだけじゃなく、盛岡とか外から参加する人もいます。
地面出し競争って、地面まで積雪を掘る速さを競うっていう単純なものなんですけど、
もとは、僕たちが小中学校合同やっていた雪上運動会の競技だったんです。
肘折小中学校が閉校しても、地面出しは残したいと思って。

里実子

隆一くんが残そうって言わなかったら、残らなかったもんね。
隆一くんも、一度外に出たから、それが肘折の面白さって思ったんだよね?

隆一

そうだね。僕たちにとっては当たり前だったことが、
視点を変えてみると、人を集めるイベントになっている。
でも、僕たちも楽しんでいますからね、地面出しは。

毎年前夜祭も行われて初参加の人に説明したりするんですが、
実は裏テーマがあって……。強豪チームは酔わせてつぶすっていう(笑)。

隆一

奥が深いんです(笑)。

*1ひじおりの灯:肘折温泉が開湯1200年を記念して始まったオリジナルの灯ろう展示会。東北芸術工科大学の学生や地元の小学生、青年団らが、手漉きの月山和紙にそれぞれの〈肘折絵巻〉を表現、その灯ろうを温泉街の旅館や商店に設置、湯治場の夜を幻想的にライトアップする。

2012年8月に行われたひじおりの灯のイベントのひとつ、「肘折絵語り・夜語り」の様子。学生たちが制作した灯籠が宵闇を照らす。

隆一

地面出しに参加してくれたり、「ひじおりの灯」に来てくれたり、
最近、おやじたちの代の客じゃなくて、
自分たちの常連さんがみえてきたなって思うんです。
僕らに会いに来てくれるというか。

雄一

誰かに会う楽しみっていうのは、肘折温泉の変わらないところかもな。

隆一

自分がそうなんですけど、“どこに行ったら面白いかな”じゃなくて、
“誰に会いに行ったら面白いかな”って考えて、遊ぶ行き先を決めている。
だったら、お客さんにあの人たちに会いに行ってみたいなって思ってもらえたら、
肘折温泉にも来てもらえるようになるのかなって。
お客さんが来ないって言っているんじゃなくて、まずは、
僕らが楽しいと思うことをするのが大切なのかなって、最近すごく思っています。

肘折温泉をテーマに同年代で話す会話はつきない。

里実子

私、ひとつ、提案があるんです! 
大三郎さんの読書会とか、私が週に1回やっている英会話クラスとか、
一般の人も参加できるように開放したらどうかなって思っていて。
他にもいろいろな講座ができたら面白いんじゃないかと思うんです。

隆一

おー! それは、「肘学」だ。

雄一

いいな!

里実子

雄一さんもぜひ、何かやってくださいね。温泉講座とか? あれ面白いですよ。

大三郎

僕もそれは、ぜひ聞きたいですね。僕も読書会の他に、音楽がやりたくて。
例えば、つたや肘折ホテルにある屋内のゲートボール場でライブとか……。

雄一

よしわかった!

里実子

外の人にも、こんな講座があるからってお知らせできたら、
それに合わせて温泉にも来てくれるたりするかなって思うんです。

隆一

ちゃんと「肘学」のかたちをつくりたいですね。
地元の人にちゃんと浸透できるくらいの企画にしていきたい。

雄一

よし、考えよう。早速、どんなテーマがあるか、出し合おう! 肘学開講だな。

と、偶然にもミーティング中、新しい試みが動き出したこの日。
新しい湯治のスタイルとして、みながいくつもの可能性も感じ始めた。

1200年前から人が往来してきた肘折温泉には、
長い歴史のなかで、埋もれてしまっていた修験や山の文化があった。
いま、それを掘り起こし、価値を見いだそうとしている次の世代の担い手がいる。
それは慣例としてなぞるだけではなく、一方で守り、一方で更新していく。
その根幹にあるのは、「自分たちも一緒に楽しむ」ということ。
そこには、これまでと変わらない肘折のぬくもりある出会いが待っているだろう。

そんなにぎやかな肘折温泉の雪解けは、まだまだ先だけど、
その後、彼らが始めた肘学がどうなっているのか——、ぜひ訪れ確かめてみたいものだ。

今はもう閉校してしまったが、肘折小中学校の校舎にも「肘学」。毎年、地面出し競争が行われるのもここ。みんなの思い出の場所。

information


map

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

奈奈子祭

土地に伝わる舞や踊りが、人と人をつないでいく。

「わたしが小さいころからね、神楽さんに宿くださいって言われたら、
何もなくても泊まってもらうもんだっておじいさんに言われたもんだよ」
釜石市で、ワカメの養殖や漁業を営んできた佐々木英治さんとコトさん宅は、
10年ほど前から「鵜鳥神楽(うのとりかぐら)」の神楽宿を担ってきた。
コトさんは、神楽の思い出を、そう話す。

神楽宿とは、巡行してくる神楽衆を迎える家のこと。
畳の大広間に神楽のお披露目の舞台がつくられ、
地域の住民が神楽を観にやってくる。
鵜鳥神楽は、岩手県の北部・普代村にある、鵜鳥神社に奉納される神楽。
同時に、三陸沿岸各地を巡行する「廻り神楽」として知られる。
信仰と芸能の両面で、古くから地元の人々に親しまれてきた。

そんな神楽衆に、今年、釜石市から入った青年がいる。
英治さんとコトさんのお孫さん、笹山英幸くん、18歳だ。
英幸くんは、幼い頃から、
母・奈奈子さんの生家である佐々木家にやってくる鵜鳥神楽が大好きだった。
鵜鳥神楽が、門打ち(集落の各家をまわり、祈祷すること)を行えば、
朝から夕方まで、妹の未来さんと一緒に神楽の後をついてまわっていたそう。
「神楽衆が帰ってしまうと、英幸は泣いてたんだよ。寂しいってね(笑)」
と英治さんは目を細める。
実は、英幸くん、今春高校を卒業したら、
4月から、鵜鳥神楽の拠点となっている、普代村の役場へ就職が決まっている。
偶然だが、大好きな神楽の練習に打ち込める環境が整ったのだ。
「それも、神様に導かれたのかもしれないよね」とコトさんは、微笑む。

佐々木英治さん(右)とコトさん(左)。

「英幸の就職が決まったお祝いに、
鵜鳥神楽を呼んでお祝い会ができないかなって考えていたんですよ」
と、話すのは両親の政幸さんと奈奈子さん夫妻。
毎日、扇子を手にとり神楽の練習を重ねている英幸くん。舞台で舞う姿を、
ひいおばちゃんのヨシさんが元気なうちに観てもらいたい。
そんな思いから夫妻はかねてから親交のあった、追手門学院大学の橋本裕之先生に相談。
すると、橋本先生から、花巻市・早池峰神社に奉納される岳神楽にも、
声をかけてみようという提案があった。橋本先生は大学時代から岳神楽と親交をもつ。
ユネスコ無形文化遺産に登録され、日本を代表する郷土芸能でもある岳神楽。
他地域の民家で披露されるとなれば、とても貴重な機会になる。

NHKの番組『復興サポート』の収録があったのは、そんな矢先だった。
この番組では、橋本先生をナビゲーターに、
郷土芸能の復興に向け、奮闘している釜石市の人々が、
郷土芸能の継承と新しいまちづくりについて考えようというもの。
東日本大震災により、衣装や道具や練習場が失われ、
住民が離れ離れになってしまっている今、
郷土芸能の多くが存続の危機にさらされている。
「このまま何もしなければ大切な文化が失われてしまう。何かできることがあれば——」
と橋本先生は語る。

津波で大きな被害を受けた鵜住居地区の現状。瓦礫が撤去されても、住宅の基礎だけが残る更地となってしまっている。

収録中、いつか、実現したいことのひとつとして参加者から語られたのは、
釜石市内の各地域に伝承されてきた多彩な郷土芸能を一堂に集めた、
お祭りができないだろうかということだった。

「だったら、今度うちに神楽のみなさんを呼ぶから、一緒にやろうよ」
収録中に発せられた、そんな奈奈子さんの一言。
これをきっかけに、1か月半後、
岩手県の郷土芸能祭とも言うべき「奈奈子祭」が開催されることになった。
もとは、家族のためにと考えられたお披露目会だったが、
観る人も、踊る人も、みんなが元気になるようなイベントとなるんじゃないか。
そんな笹山夫妻と橋本先生の思いが込められ、急ピッチで準備が進められた。
実行委員長を務めた政幸さんは、自身も、生まれたときから
釜石市に古くからある「南部藩壽松院年行司支配太神楽」を担ってきたひとり。
今回の奈奈子祭開催に向けてこう話す。
「第1回目として、今回は発声者の奈奈子の地元で開催することになりましたが、
このような祭が、近い将来、さまざまな地域で行えるようになりたい。
被災してしまった釜石の郷土芸能は、助成金を申請しながら、
やっと、少しずつ道具や環境が整いはじめてきたところ。
数年後ではなく、すぐに実現したいと思いました」

橋本先生は、震災後、東北の郷土芸能の保存に駆け回り、さまざまな人と人をつなげる。今回の奈奈子祭の立役者だ。

笹山さん家族。左から、娘の未来さん、政幸さん、奈奈子さん。ちなみに、「奈奈子祭」という名前も、発声者の奈奈子さんの名前にちなんでつけられた。

地元の民家から始まった、新しいかたちの郷土芸能祭。

岩手県は、郷土芸能の宝庫とも言われ、その数は1000を超えるという。
釜石市内だけでも、虎舞や鹿踊、神楽、和太鼓など50近い郷土芸能があるが、
それらを一堂に観覧できる機会は、これまで無かった。
今回、奈奈子祭には、縁あって集まった5つの芸能団体が参加。
佐々木家には、朝から地元の人を中心にたくさんのお客さんがかけつけた。
粉雪が舞うなか、最初に登場したのは、「桜舞太鼓」。
佐々木家の庭に10数個の和太鼓が並び、力強い音が華麗に鳴り響く。

唐丹(とうに)半島の本郷に伝わる桜まつりの手踊り太鼓として始まる。地域の伝統に根ざしながらも、常に新たな脱皮をめざす実力派太鼓集団。

続いて、登場したのは、「鵜住居虎舞(うのすまいとらまい)」。
釜石を含め、陸中沿岸部では、多くの虎舞が存在するが、
なかでも鵜住居虎舞は、「雌虎」として優美に舞うのが特長だ。
鵜住居地区は、震災によって大きな被害を受けた。
今は多くの人が仮設住宅に住み、離れ離れに暮らしながらも虎舞の練習を重ねている。

演舞中、ひときわ、歓声があがったのは、ちびっこの虎舞が登場したとき。
6歳になる佐々木日向くんは、小さい体をめいっぱい使い、力強く、舞う。
その姿に、観客全員が大きな拍手をおくった。
鵜住居地区でずっと受け継がれてきた伝統芸能。
ここには、確かに次の世代の担い手がいる。

虎舞が大好きだという日向くん。「歩き始めた1歳くらいの時から、ずっと踊っていますね」とお父さんは話す。将来が頼もしい担い手のひとりだ。

お昼時には、奈奈子さんやコトさんをはじめ、
近所のお母さんたちが前日から用意してくれたお手製の料理が振る舞われた。
踊りを観覧しながらも、ときおり方言まじりの冗談と笑い声が聞こえてきて、
とてもあたたかい雰囲気が会場内には流れる。

箱崎白浜で採れた、早採りのわかめのおひたしと、まぜごはんのおにぎり。そして、郷土料理・細々汁(こまごまじる)で、心も体もあたたまった。

体があたたまったところで、次は、岳神楽。
岳神楽の時間ともなると、大広間は、さらにたくさんの人で埋め尽くされた。
岩手を代表する神楽だけれども、箱崎白浜地区でも、ほとんどの方が初めての観覧。
数ある神楽の演目のなかで、
今回は、「鶏舞」「山の神舞」「五穀の舞」「諷誦の舞」「権現舞」の5つが披露された。
民家ゆえの、舞台と観客との距離。おのずと神楽衆にも熱がはいる。
ほどよい緊張感のなか、笛や太鼓の美しい音が大広間に流れ、
力強くも、しなやかに舞う姿に、観客みなが魅了されていた。
「こんなに間近で見るのは初めて」という地元のおばあちゃんは、
「神々しかったね」と感想を教えてくれた。

演目「山の神舞」のときには、餅が振る舞われた。これは、佐々木家の粋な計らいだ。

佐々木家のご家族が、身固めを受ける。権現様に頭をかんでいただき無病息災を祈る。

岳神楽が終わると、また、縁側の戸が開けられ、
庭には田郷の鹿踊の踊り手たちが待っていた。
箱崎白浜地区にある、白浜神社の例大祭で神輿が下がるときには、
来てもらっていたという田郷の鹿踊。
久しぶりに見る、懐かしい踊りに、地元の人は楽しんでいた様子だった。

陸中沿岸の虎舞と並ぶ芸能の華である鹿踊りは、鎮魂・供養の舞として知られている。

そして、トリをつとめるのが、鵜鳥神楽だ。
隔年で、佐々木家にやってくる馴染み深い神楽衆を観に、たくさんの人が集まり、
「清祓」「山の神」「恵比須舞」「綾遊」の4つが披露された。
恵比須舞のときには、観覧席にいた男の子を舞台に巻き込んで、
鯛を釣り上げるシーンもあり、和やかな空気が会場を包む。
「演者と観客がひとつになって、濃密な場がつくられます。
あるときは切実な祈りと願いが満ち溢れ、またあるときは爆笑がうずまく。
こんな豊かな場はめったにないと思います」
橋本先生は、鵜鳥神楽の魅力をそう話す。

男の子と一緒に、恵比須さまが鯛を釣り上げるのだが、なかなか釣れないユーモラスな場面。

英幸くんが、登場したのは、最後の「綾遊」。
若いふたりの踊り手が、笛や太鼓に合わせてリズミカルに、そして華麗に舞う。
会場に集まった多くの地元の人は、幼いころから英幸くんを知っている。
舞台で踊る英幸くんを、みながあたたかく見守る。
彼らが踊り終えたときの拍手喝采は、この日一番の盛り上がりだった。
「これからは、尊敬できる先輩のもとで、練習を積んで、
来年の巡行までにはもっと上達したいと思っています」と英幸くんが挨拶。
ここにいるみなが、彼の鵜鳥神楽の上達ぶりをこれからも見守っていくだろう。

真ん中で、厳重に毛布にくるまっていたのが、ヨシさんは今年で93歳。「いがった(よかった)ね」と、近所のみなと楽しそうに観覧していた。

「4月からは、神楽が思いっきりできるからうれしい」と英幸くん。巡行ごとに上達していく姿が今から楽しみだ。

一日を終え、「楽しかった!」と奈奈子さんは笑顔で話してくれた。
「地元のおじいちゃん、おばあちゃんがすごく喜んでくれたから、
本当にうれしかったですね。
たくさんの人に支えてもらいながら、無事終えることができました。
今回は一般の家だから、無制限に人が入れるわけではないけれど、
この奈奈子祭は、地元の人はもちろん、外の観光客の方など、
これからもたくさんの人に見てもらいたいと思っています」

「この岩手県沿岸部は、残っている郷土芸能の数から見ても、
踊りや舞がみんなの生活の一部なんだと思うんです。
それくらい、生まれたときからみんな踊りを練習してきましたから。
震災後は若い人を中心に結束して郷土芸能を盛り上げようとしています。
でも、ほとんどのお祭りが開催できていない状況もある。
発表する場があって、いろんな人が見にきてくれれば、
彼らの活力となるんじゃないかと思っています。
次はあたたかい時期の開催に向けて、動き始めたいと思っています」
と政幸さんは次への展望を語ってくれた。

ここ、釜石市で続いてきた伝統が、新しいかたちの郷土芸能祭として再生しつつある。
奈奈子祭を終えて、
“次も参加したい”“次回は呼んでくれ”といった声もあがっているという。
次はどんな郷土芸能が観られるのか、今後が楽しみだ。

山海亭食堂

更新していく葉山町の小さな食堂

2011年秋、46年間続いた小さな食堂が暖簾を下ろした。
女将さんは90歳。地元の人たちから惜しまれつつの閉店だった。
営業最終日には、取引のあった会社や役場などから
仕出し弁当の「さよなら注文」が相次いだ。
弁当の仕込みと配達のために店を開けることができなかったほどだ。
お別れの花もいくつも届いた。地元に愛された食堂だった。
食堂の閉店を寂しく思った若い世代が、
店を引き継ぐかたちで数か月後に再開することになった。
若い世代が店を譲り受け、90歳の元女将さんが見守り続ける、
神奈川県葉山町の小さな食堂を訪れた。

山海亭食堂はJR逗子駅から車で10分ほどの場所にある。
引き戸を開けて店を見渡すと、黙々と定食を食べる作業服姿の男性たちが見えた。
テーブルは8つ。20人も入れば満席の店は、すでに半分近くの席が埋まっている。
いい食堂とは、体を使って働く人が集まる店だと聞いたことがある。
彼らが集まる店は安く、料理が出てくるのが早い上にボリューム感がある。
味は言うまでもない。どのテーブルにもおいしそうな料理が並んでいる。
間違いなくこの店は「いい食堂」のようだ。

お昼時は12時前から大忙し。作業着姿の人が多い店はうまい店が多いというが、山海亭も近所で工事をしている人たちに人気のお店。

「いらっしゃいませ」と、おばあさんに声をかけられた。
小さいけれどよく通る素敵な声だった。
席に着き周りを見渡すと、生姜焼き定食を食べている人が多いようだ。
僕も生姜焼きを頼む。
さっきのおばあさんがストーブの脇に座って、小さな容器にソースを詰めているのが見えた。
時折、店内を見渡し、満足そうな表情で作業に戻る。
元女将の沼田てるさんのようだ。

左端のテーブルで作業をする沼田さん。片時も手を休ませることはない。

ボリュームいっぱいのショウガ焼き定食。肉、野菜、ご飯、味噌汁、漬け物。「正しい定食」だなあと思う。

BGMでは近藤真彦の次にRCサクセションの『スローバラード』が流れた。
ラジオではなくiPodだろう。音楽の選曲は若い世代になって変わったんだろうな……。
そんなことを思っている間に、すぐに定食が運ばれてきた。
豚肉も野菜もライスも多い……。少々不安になる量だ。
豚肉を頬張ると、甘辛い生姜醤油が口に広がる。
このボリュームとシンプルな味つけが、地元の人たちをファンにする理由だろう。
流行りや時代なんて関係ない、普遍的な「ザ・お袋の味」だ。
ボリュームの心配はどこ吹く風、生姜焼き定食はあっという間に僕の胃袋の中に消えていった。

今の山海亭は、前から働いていたおばちゃんたちと、
この店を受け継いだ若い世代が交じり合って店を運営している。
ほとんどの女性は子育て中なのだそうだ。
時間をやりくりし、入れる日に食堂で働く。
子どもが学校帰りに立ち寄ることも少なくない。
親にとっても子どもにとっても安心な職場だ。
子育ての悩みも、経験豊富なおばちゃんたちがいるから心強い。

「ぼけちゃうといけないからね、遊ばせてもらっているの」
と、元女将 沼田さんは言う。御年90歳。歩くことが少し億劫になってきたそうだが、
近所にある自宅から毎朝歩いて店にやってくる。
そして「少しでもなにかの役に」と、店でできることを見つけては手を動かしている。
「お店が休みになると退屈で。なにやっていいかわからなくなるんですよ」
元来の働き者なのだ。

入り口でお客さんをお迎えする招き猫。お客さんからのプレゼンだそう。

「何年も前からお店を閉じようと考えていたんですけど、お客さんが来るでしょう。
そうすると、やめられない。仕出し弁当の注文もあるし、やめないでねって言われるし。
ずっと通ってくれているお客さんもいるから」と笑う。
「いま厨房にいる人ね。28歳の頃にうちに来てくれて、
それからずっと働いてくれているからね」
お客さん、従業員、いろんなことを考えて、半世紀近くも続けてきたのだろう。
「続ける人が現れて、うれしかったですよ」

28歳の頃から働いている関口さん。「孫にはもう働かなくていいよっていわれますけど、家でじっとしているのも、なんかねえ」と笑う。

厨房をのぞかせてもらうと、
店の歩みとともに年を重ねた関口よし子さんが中華鍋を一心不乱に振っていた。
動きが速い……。若い世代もまわりにいるが、厨房に入ってしまえば年齢は関係ない。
注文をさばき、1秒でも早くお客さんのテーブルに温かい食事を持っていく。
関口さんの動きから、大衆食堂の美学を感じた。
関口さんの動きには年齢を感じない。いや、本当に力強い。
関口さんは言う。「好きだから続けてきたんですね。沼田さんは本当にいい人ですよ。
本当にいい人。嫌なら何十年もいませんもん(笑)」

この店を受け継いだ若いスタッフたちは孫ほど年が離れているというのに、
沼田さんや関口さんは彼女たちにルールを押しつけることがない。
程よい距離感で一緒にいる。

「若い人? よく働きますね。なんの文句もありません」と2人は口をそろえる。

どうしてお店を若い世代に譲ったのかと沼田さんに尋ねると、
「さあ、わからないですね。私は海の家もやっていましてね。
そこで任せていた人たちがやりたいというのでね。
前からよく知っていた人たちにやってもらえるんなら、それじゃあいいですよと。
これもなにかの縁ですからね。もう、申し分ないですね。よく気がつくし、働いている。
私はなにも言わないですよ。言わなくてもちゃんとやってくれますからね。
ほら、言い出すとね、いろいろなんでも大変になるじゃない」

沼田さんは、店を受け継いだひとり、中積由美子さんを見て
「私そんなに口やかましくないわよね」と言うように、茶目っ気たっぷりに笑う。
「いろいろ教えてもらいながら、自由にやらせてもらっています。
建物はもう80年くらい使われているんです。かなり傷んでいて……。
直角のところがないくらいなんですよ(笑)。修理をして、ペンキを塗って。
できるだけ、前のお店のままに。
味もメニューもお店をがらりと変えようとは思いませんでしたね」
と中積さんは話してくれた。

長年続いた店を受け継ぐ場合、新しく店にやって来た人は自分の個性を出したがるのに、
中積さんたちは元の山海亭を残した。建物だけではない。
味は厨房を守ってきた関口さんたちにアドバイスをもらい、変えないように努力した。
変えない努力のほうがきっと大変だ。沼田さんは、店をやっていくことの辛さを知っている。
食堂を「これまで通り続ける」という選択をした若い人のことがどこか心配なのだろう。
だから毎日やって来て、静かに見守っているのかもしれない。

ランチタイムが終わると全員で遅い昼食。家族のような食卓風景。

山海亭が次世代に受け継がれていく様子を見ていると、「ブナの森」を思い起こさせた。
ブナの木は倒れた後も、その木が養分となって稚樹(ちじゅ)を育て守っていく。
そうやってブナの森は「倒木更新(とうぼくこうしん)」し、豊かな森になっていく。
葉山町の小さな食堂は、半世紀に及ぶ歴史を一度閉じた。
だが、その食堂に集う若い世代が、
先代オーナーやおばちゃんたちに支えられ、大きくなっていく。
以前より太く地面に張りつき、たくましい木になることを、願わずにはいられない。
その変化を見届けられる、葉山町の人たちがうらやましい。

『2年目の3.11 南三陸町からの手紙』

それぞれの2年目を綴った、南三陸町発の書籍が刊行。

三陸リアス式海岸の南端に位置する、宮城県本吉郡南三陸町。
空と海が溶け合うかのような美しい景観と、新鮮な海の幸——
人々の暮らしは、美しく豊かな海を中心に営まれてきた。
その南三陸町を、千年に一度といわれる大津波が襲った東日本大震災。
住宅の7割近くが流されるなど壊滅的な被害を受けたまちは、
2年経った今、瓦礫の多くが処理場に運ばれ、建物の基礎だけが残る更地が目立つ。

出版プロジェクト「南三陸町からの手紙」がスタートしたのは、
発起人である南三陸町の漁師である高橋芳喜さん・高橋直哉さんの
「今の気持ちをなんとか、かたちに残さなければ」という震災直後の思いがきっかけだった。
「震災発生直後、幼なじみと再会したときに『嫁さんがいない』と聞きました。
必死に探したのですが、見つからず、泣き崩れている友人が漏らした言葉が
『この感情を忘れるのが辛い』ということだったんです」(芳喜さん)
その言葉を聞き、今の気持ちをかたちに残したいと、出版を思いたったという。

しかし、出版に向けて具体的にどのように取り組めばよいのか——。
途方に暮れるふたりの力となったのが、
「東北復興サポートセンターHamanasu」を主宰する加藤秀視さんだった。
加藤さんは、震災2日後からボランティアとして被災地に入り、
南三陸町を支援の中心地と決め、サポートセンターを立ち上げて活動していた。
人材育成家・社会起業家として著作のある加藤さんに出版への思いを伝えたところ、
加藤さんのブログで版元を募ってくれることになったのだ。

左から発起人の高橋直哉さん、高橋芳喜さん、Hamanasuのスタッフの加藤有美さん。

このブログに対する反響は大きく、多くの出版社が出版を申し出たという。
その中から版元に決まったのは、東京の製本会社・栄久堂だった。
「東日本大震災が起き、我が社としてできることはないかと探していました。
そんなときに加藤さんのブログを読んで、出版の経験はないけれども、
ぜひ携わりたいと思い、メールで連絡したんです」(佐藤さん)
「大手出版社からもオファーをいただきましたが、
栄久堂の佐藤さんのメールがとにかく熱かった。
会社の大小ではなく、被災者の声を真摯に受け止め、届けてくれる人を
求めていたので、栄久堂さんにお願いすることにしました」(加藤さん)

こうして、出版プロジェクトに賛同する写真家・デザイナー・編集者が集まり、
南三陸町に暮らす人々22人が自ら綴った文章は、本というかたちになっていった。
集まった文章は、震災時の極限状態の体験、大切な人を失った悲しみ、
全世界からの支援への感謝など、震災を体験した人の思いが率直に綴られたもの。
こうした生の声をそのまま伝えるために、編集やデザインの過程では、
文章にできる限り手を加えず、本としても作為のないものにすることが心がけられた。
『南三陸町からの手紙』が出版されたのは、震災から1年後の2012年3月。

発起人の高橋芳喜さんは、本が届いた日に幼なじみの奥さんの墓前に本を供えた。
「自分たちの思いを残したいと思ってスタートしたことがかたちになって、
まずはそれを一番報告するべき人のところに行ったんです」(高橋芳喜さん)

『2年目の3.11』の誌面。言葉が丁寧に綴られている。このページの写真はブルース・オズボーンさんが撮影。

2年経った今、浮き彫りになっている困難、悩み、そして感謝。

本が出版されると、予想以上の反響があった。
芳喜さんは、南三陸町を訪れるボランティアの人々から、
「この本がきっかけで南三陸町に来ました」と声をかけられたという。
監修を務めた加藤さんのもとにも、
「頑張って下さい!」「私もできることを続けていきます」
といった応援メッセージや感想が届いた。
特に、被災地の現状を知らなかった人たちからの声が多かったそうだ。

そして、出版から半年が過ぎた頃、版元である栄久堂から、
「このプロジェクトを1年で終わりにしたくない。2冊目も作りましょう」
という申し出があった。
1冊目はメディアなどにも取り上げられ、多くの人が読んでくれた。
けれども、これで終わってしまっていいのか、常に考えていたという。
震災から時が経つにつれて、被災地についての報道は少なくなっている。
南三陸町の人たちは、復興についてどう考えているのだろうか?
そう考えた制作スタッフは、南三陸町のHamanasuを再び訪ねた。
そこで、いまだ復興とはほど遠い光景を見て、改めて2冊目への思いを強くしたという。

高橋芳喜さんは「1冊目はとにかく残したいという一心でしたが、
徐々に変化していく南三陸町を伝えていけるのは嬉しいと思いました」と言い、
さらに「復興に向けての具体的な動きなど、
1冊目には書くことができなかった内容も書けると思いました」と続けた。
また、加藤さんは、継続的に支援を続けていくことが困難になりつつある今だからこそ、
メッセージを発信する意味があると感じたという。

東北復興サポートセンターHamanasuスタッフと支援者の皆さん。前列右から3人目が加藤秀視さん(写真:野寺治孝)。

こうして、2012年秋、2冊目に向けての制作がスタートした。
発起人の高橋芳喜さん・高橋直哉さんは、震災から1年以上が経ち、
再び漁師として海に出られるようになってきていた。
ワカメやホタテの収穫のかたわら、まちの人たちに原稿を依頼する。
2冊目の『南三陸町からの手紙』に原稿を書いてくれたのは、
南三陸町に暮らす人を中心に、南三陸町を離れた人、
そしてボランティアで訪れる人など22人。
住宅の高台への移転について、計画されている防波堤建設について、
そしてボランティアのあり方について――。
震災から2年が経った今、浮き彫りになっている困難、悩み、そして感謝が、
それぞれの率直な言葉によって綴られている。
「1年目とはまた違った、被災地のリアルな声に、
やはりメッセージを伝えていく必要があることを再認識しました」(加藤さん)

復興に向けての歩みを残していくために。

震災当初は南三陸町にあり余る程存在したというボランティア団体も、
2冊目が完成した今は数える程に減り、その活動の頻度も月に数回程度になった。
芳喜さんは、ボランティアに来てくれる人からは
「もっと復興がすすんでいると思いました」と声をかけられることが多いそうだ。
「どうやら、周囲からは復興が進んでいると思われているようなんです。
そういった状況を考えると、やっぱり現状を知ってほしいなと思います。
だからと言って、もっと援助してくださいという意味ではないんですけれど。
とにかく知ってほしいという気持ちですね」

こうした現地の人々の思いを受け、この被災地発の出版プロジェクトは、
今後も毎年1冊ずつ本を出し続けていくことが予定されている。
1冊目と2冊目の監修者である加藤さんは、
「今後、被災地からメッセージを発信したいという想いがある限り、続けていきたい。
その声をひとりでも多くの人に届け、支援の輪を広げていきたい」と話す。

1冊目には震災で失われたものの大きさが、
2冊目にはふるさとの復興に向けてそれぞれが思い描く未来が、
南三陸町の人々の言葉で綴られた。
3冊目、そして4冊目には、どんな内容が綴られるのだろう。
そして、その頃、被災地はどうなっているのだろう。
『2年目の3.11 南三陸町からの手紙』には、こんな一節がある。
「震災前のきれいだったこの町を見せたい」
「震災後、皆さんの支援のおかげで立ち直ったこの町を見せたい」
美しく豊かな海のもと、輝きを取り戻した南三陸町の姿が見られることを、
まちの人も、プロジェクトのメンバーも、そして読者も、みんなが願っている。

発起人のひとり・高橋芳喜さんがホタテの収穫を終えて港に戻って来たところ。今では毎日漁に出られるようになった。