“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト” Amo estas Bluaトートバッグ

気仙沼の港町を心の片隅に感じて。

いまだ瓦礫の残る気仙沼の港町から車で10分ほど走ると、
帆布バッグ工房「MAST帆布 KESEN-NUMA」に辿り着いた。
ガラス戸の向こうでは職人さんたちがミシンを操るのが見える。
「遠いところをわざわざ来てくれて。風が強くて寒かったでしょう」
笑顔で出迎えてくれたのは、店主の宍戸正利さん。
陽だまりが暖かな店内には色とりどりの帆布バッグや小物が並び、
時おりひょっこりとお客さまが訪ねてくるなど、和やかなムードが漂う。

トートバッグの試作品第1号を手にその特徴を話す宍戸さん(2012年7月)。

この工房でつくられているのが、『Amo estas Blua トートバッグ』。
上質な帆布の白生地に青のボーダー刺繍が鮮やかに映える、
一泊二日の小旅行にも対応できるお洒落なトートバッグだ。
デザインは作家でアーティストの小林エリカさん、
グラフィックデザイナーの田部井美奈さん、写真家の野川かさねさん、
イラストレーターの前田ひさえさんの4人による
東京のクリエイティブユニット「kvina(クビーナ)」が手がけた。

「Amo estas Blua(アーモ エスタス ブルーア)」は、
宮沢賢治も愛したエスペラント語で「恋は水色」を意味する。
気仙沼では、朝6時になると港町一帯に防災スピーカーから
「恋は水色」のメロディが響き渡る。
それは、気仙沼の人々にとって忘れがたい原風景でもある。

気仙沼港近くの市街地。更地につくられた慰霊のための広場「風の広場 グラウンドゼロ」。

『Amo estas Blua トートバッグ』は、
“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト”から生まれた。
仙台の編集プロダクション「シュープレス」が震災後から続けている活動だ。
当初は、被災地の情報発信や義援金・復興支援金の募金活動などを中心に行っていたが、
数々の活動を通して行き着いたのは、被害の少なかった東北の中心都市から
被災地を経済的に盛り上げていく仕組みの必要性だった。
そこで、世の中にない新たな商品を生み出して東北の魅力を発信することで、
「東北を旅して、東北のものを買ってもらう」仕組みをつくり、
被災地の経済を活性化する一助になればと思い至った。

シュープレスとクビーナが出合ったのは、2011年4月のこと。
“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト”の主旨に共鳴した、
シュープレスのスタッフの友人であった東京の編集者・高橋亜弥子さんが、
シュープレスと、クビーナとを結んだ。 
世の中にない商品を東北から生み出すことは、小さな「希望」を生み出すこと。
大好きな東北を応援し続けたい。
その思いはクビーナの感性によってより洗練され、
エスペラント語で「東北が好き」を意味する、
“Mi amas TOHOKU(ミアーマストーホク)”のグッズ販売へとつながっていった。
活動に賛同した全国の雑貨店にてグッズの販売を始めると好評を博し、
徐々に雑誌などでも取り上げられるように。売上げの一部は、
義援金として日本赤十字社や被災3県などに送る活動を続けた。

仙台から東京へ、支援の輪は着実に広がりをみせ始めていた。

“Mi amas TOHOKU”(ボーダーこけし、ステッカー、エコバッグ)のグッズ。売上げの一部を被災地への義援金・復興支援金として寄付している。

2012年5月、“Mi amas TOHOKU”第2弾となる、
「海辺の町へ」と題された新たなプロジェクトが始動した。
震災で甚大な被害を受け、1年経っても未だ復興の進まぬ東北沿岸部。
取材で幾度となく足を運び多くの人にお世話になったこの地域の人々とつながって、
長く支援していく方法はないか——。

「あの日のことを忘れず、沿岸部のまちとつながって、心に『海辺のまち』を感じていたい」
こうした思いから『Amo estas Blua トートバッグ』のコンセプトが生まれた。
しかし、かたちにするのは容易ではなかった。まず、バッグをつくる店が見つからない。
そんな時、シュープレスの板元義和さんは、ふらりと立ち寄った、
「気仙沼鹿折 復興マルシェ」で「MAST帆布 KESEN-NUMA」の帆布バッグと偶然出会った。
丁寧な仕事ぶりに一条の光を見た思いで後日、企画書とデザイン画を持って工房を訪れた。

自宅を工房に改装して制作している「MAST帆布 KESEN-NUMA」。

海辺のまちへ。いくつもの出会いが復興へとつながっていく。

当時のことを宍戸さんは振り返る。
「こういう依頼は初めてだったので、最初は戸惑いました。
けどね、デザインもカッコよかったし、コンセプトも面白かった。
なにより新しい試みにワクワクしたんです。だから、やってみようと思いました。
相手がかばんのことを知らなくても私は知ってますから。そういう意味で不安はなかった」
おおらかに笑う宍戸さんだが、震災の折に店を流失。
1年かけて自宅隣の倉庫を改造し、2011年3月に新たな工房で再スタートを切ったばかりだった。

震災前「MAST帆布 KESEN-NUMA」があったエースポート周辺(2013年2月)。

宍戸さんは、父が創業した船のカバーなどを扱う「菅原シート店」に長く従事。
小さいころからミシンと生地に囲まれた環境で育ち、ものづくりが好きだった。
ほどなく独立した宍戸さんは、
2009年6月、港に近い場所にミシン1台と生地台ひとつを持ち込み、
「MAST帆布」を開業。ひとりでコツコツと帆布バッグをつくり始めた。
やがて帆布バッグの店は評判を呼び、テレビの取材なども訪れてくるように。
だが、確かな手ごたえを感じ始めていた矢先、津波が店を襲った。

「その日はテレビの取材が入ってました。
タレントさんのオリジナルキーケースをつくっていて、
1時間ほどで取りに来るという話でしたから、
地震が起きた後も待ってないといけないかなと思い、しばらく残っていたんです。
まちは消防車のサイレンと、道路の亀裂から溢れる水の音しかしない。
それ以外はシンと静まり返っていたことを今でもよく覚えています」

気仙沼の鹿折地区は特に被害の大きかった地域。この通りを抜け宍戸さんは店から自宅へ戻った。

30分近く店にいただろうか。しだいに不安になってきた宍戸さんは避難を開始。
まず、両親の店を訪れ、ふたりが避難したことを確認したあと自宅へ戻った。
余震が続くなか、何も情報を持たぬまま店へ片付けに行こうとした宍戸さんが目にしたものは、
鹿折小学校まで流失してきた瓦礫で塞がれた道路と炎で真っ赤に染まる鹿折のまちだった。

ああ、店はもうないんだ。宍戸さんは来た道を引き返した。

被災後、1か月ほどで宍戸さんは倉庫を片づけはじめた。
とにかく、仕事がしたかったのだ。
だが、結局実際に仕事を再開できるまでには準備期間を含め、1年もの歳月を要した。
ようやく仕事を再開した宍戸さんに舞い込んできたのが、
『Amo estas Blua トートバッグ』づくりだった。
それは、ひとりでバッグをつくり続けていた宍戸さんにとって、
誰かと何かを始める、初めての試みだった。

東京の編集者・高橋亜弥子さん、シュープレスの本間さんと念入りにトートバックの打ち合わせをする宍戸さん(2012年7月)。

『Amo estas Blua トートバッグ』は、8月に京都で行われた東北復興応援のイベント、
「Mi amas TOHOKU 東北が好き—kvina×SHOE PRESsの東北案内」
でのお披露目が決まっていた。
「いいものをつくりたい」という目的はひとつだったが、
互いの意見を尊重しこだわるほどに時間は過ぎていく。
生地選びから難航し、本体を製作し始めたのがすでに7月。
8月のイベント開催が近づくなか、クリアしなければならないことがあった。
デザイン画では青のボーダー部分は、当初「染め」ることになっていた。
だが、「Amo estas Blua」の文字部分は青い刺繍を施すことが決定しており、
「染め」では刺繍糸と同じ風合いは出ず、全体のバランスがどうしても悪くなる。

ひとつひとつ手作業で丁寧に制作するのが、MAST帆布の基本。

皆が考えあぐねていたとき、宍戸さんが提案した。
同じ色の刺繍糸でボーダー部分のみを別の布に刺繍し、バッグ本体に取り付ければいい。
果たして、刺繍を入れたバッグとそうでないものの仕上がりは一目瞭然だった。
寸分違わぬ青い横縞は美しい光沢を見せ、「Amo estas Blua」の文字を引き立てている。
誰もが職人の施したプロフェッショナルな仕事ぶりに感服した。
こうして出発日ギリギリに完成した『Amo estas Blua トートバッグ』第一号は、
宍戸さん自身の手で梱包され、シュープレスとクビーナ、MAST帆布、
それに関わるすべての人々の希望を乗せて、
京都行きの最終電車でイベントの会場へと旅立っていった。

Amo estas Blua トートバッグは、シュープレスのホームページで購入可能。

「やっぱりうれしかったですよ。誰かと何かをつくるって楽しいですからね。
そりゃ、大変なこともあるでしょう。
でも、ひとつひとつクリアしていけば、必ずできますから」

“ひとつひとつクリアしていけば、必ずできる”。
宍戸さんの言葉は深く、東北沿岸部の復興への兆しを感じる力強さを感じた。
仙台—東京—気仙沼、そして京都へ——。
“Mi amas TOHOKU=東北が好き”という素直な気持ちをまっすぐに謳った、
“つながるひろがる東北応援の輪プロジェクト”は、
新たな出会いをつなげ、全国へと広がっていく。

「MAST帆布 KESEN-NUMA」のスタッフのみなさん。

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MAST帆布 KESEN-NUMA

住所 宮城県気仙沼市西中才275
電話 0226-29-5566
http://masthanp-kesennuma.com/
※「Amo estas Blua トートバッグ」
2012年夏より販売をスタートシュープレスのHPにて購入可能。
http://www.shoepress.com/archives/2355

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kvina
クビーナ

作家、デザイナー、写真家、イラストレーターの女性4人が集まったクリエイティブユニット。
http://librodekvina.com/

肘折温泉vol.2 肘折の新しい観光ルート探し

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
第2回は、「肘折の新しい観光ルート探し」について。

知らなかった肘折の土地に眠る歴史。

「最初に肘折温泉に来たとき、偶然カモシカに会ったんです。
都会で生活していると、カモシカと目が合うなんて機会ないじゃないですか。
豊かな自然がそのままの姿で残っているんだとすごく感動したのを覚えています」
出羽三山を拠点に山伏の修行を積む坂本大三郎さんは、
肘折温泉を訪ねては、周辺の山を歩いていた。
昨夏、肘折温泉で開かれたイベントに参加(Local Action #007)して以来、
地元の人々との交流が始まった。

「ぼくは、とても古い時代の山伏の文化にひかれています。
人々が自然を慈しみ、崇拝していたなかで、
自然の知識を豊富に持ち、そのはたらきを理解して
自然と人間社会との間の伝道師的な役割を担っていた人々がいた。
彼らが、山伏の祖先と言われています。
ぼくは彼らと同じように山のなかに入り、自分の身体を通して、自然と向き合ってみる。
そうすることで、現代の僕たちが学びとれるものがあるんじゃないかと考えています」

「最初に肘折に来たのは、いい温泉があると聞いたからなんです。ぼくは温泉が好きなので」とはにかむ大三郎さん。

そば処寿屋四代目の早坂隆一さんも、大三郎さん同様、昨夏のイベントで
ゲストパネラー(Local Action #007)として参加したひとり。
東京でIT関係の仕事に就いていたが、家業のそば屋を継ぐため肘折へ戻ってきた。
現在は、肘折青年団団長を務め、地元で暮らす若者たちと新しい活動を展開している。
「山伏って聞いても、正直、伝説みたいな話だと思っていましたね。
『肘折さんげさんげ』のときに白装束の姿を見たりするくらいで、
月山への修験道のことだって、僕たちにとって身近ではなかったな」

「肘折さんげさんげ」の様子。

「さんげさんげ」とは、羽黒山を含む出羽三山に古くから伝わる越年行事で、
肘折温泉では、毎年1月7日に白装束を着た地元の住民らが
法螺貝を吹いて肘折温泉街を練り歩き、無病息災・五穀豊穣を祈願する。
また、開湯1200年と言われる肘折温泉が
宿屋としての許可をもらったのは、室町時代の明徳元年(1390年)のことで、
月山登拝道としての「肘折口」が開かれた翌年と記録がある(『大蔵村史』より)。
かつては月山信仰の修験者も多く集まったという肘折温泉。
いまも登拝口はあるが、地元の人が登ることは少ない。

「ただ、大三郎さんから『ヒジリ』と『ひじおり』の関係(Local Action #007)を
聞くと、なんだか山伏が急に身近なものになってきて、
古い文化が残っていることが面白いなと思い始めました。
『肘折さんげさんげ』のような、地域で受け継いできた行事も、
単なるイベントとしてではなく、
文化として続いてきたことなんだという、意識が生まれてきました」

大三郎さんの話は、自分たちの知らない肘折を教えてくれる。
それが、とても楽しいという。

「大三郎さんの話を聞いて月山に登ると、昔の人もこの山道を通っていたのかと遠い昔に思いをはせてしまいますね」と隆一さん。

その後も、大三郎さんが肘折にくる度に読書会を開いたり、
大三郎さんと一緒に肘折の有志で月山に登ったりしたという。
「肘折の人たちと一緒に山を登ると、
いろんなことを教えてもらえるんで僕もすごく楽しいんです。
この土地で暮らすみなさんから、言い伝えだとかを聞くうちに、
それまでは知識として知っていた山のことが鮮明になっていく。
山の姿が、また違うものに見えてくるんです」(大三郎さん)

肘折温泉を流れる銅山川。中央に見えるオレンジの建物は隆一さんのお店「蕎麦処 寿屋」。手打ちの蕎麦は絶品だ。

ぼくたちの新しい山とのつき合い方。

春になったら、またみんなで登ってみようという話が出ている。
青年団のミーティングを覗いてみた。
みんなそれぞれの仕事を終えて、肘折ホテルのバーカウンターに集まってくる。
ここが青年団のいつものミーティングスペース。
お風呂セット持参のメンバーもいる。
温泉に入ったり、カウンターで一杯やりながらが青年団のミーティングスタイル。
メンバーは、隆一さん(前述)、カネヤマ商店の看板娘・須藤絵梨さん(30歳)、
若松屋村井六助(旅館)の娘・村井里実子さん(33歳)、
隣の集落から肘折の青年部に参加している、早坂 新さん(28歳)、それに大三郎さんが加わり、
つたや肘折ホテル柿崎雄一さん(Local Action #017)がフォローする。

左から大三郎さん、隆一さん、絵梨さん、里実子さん、雄一さん、新さん。ちなみに、肘折温泉では同じ姓の方が多いので、みんな名前で呼び合う。

大三郎

今日、地図持って来たんです。この地図は古いみたいで、
今はもう埋めてしまっていて、無くなっている「しびたり沼」が載っているんです。
肘折の民話に出てくる大蛇がいるっていう沼です。

絵梨

初めて聞いた。そうなんだ、知らないことばっかりですね。

隆一

あ、ここが御池だ。御池には行ってみたいな。
あと、越後さん家の裏あたりに沢があるんだよね。
(地図を指して)ここを登っていったところ。

ああ、ありますね。

里実子

私も、そこらへんすごく気になってた。行ってみたいね。

あと、鉱山の奥のほうに行っても沢ありますよ。小さい頃はよく行ってました。

大三郎

ありますね。道が少し狭くなっていった先に。

そうです、そうです。

大三郎

あと、三角山もぜひ、みんなで登ってみたいんです。

絵梨

三角山、登ってみたい! 頂上まで登ったんですか?

大三郎

こないだは、近くまでいったんですけど、新しい熊の足跡があったから……
急に怖くなって、戻りました。

里実子

大三郎さん、よく、迷いませんよね。

大三郎

勘です(笑)。でも歩いていると、頂上が見えるからそこを目指していきます。
道らしい道はないけれども、わかりづらい場所じゃないですよ。

隆一

三角山は、小学校の窓から見えたもんね。

大三郎

頂上からは肘折温泉もよく見えますよ。

絵梨

えー! すごい。誰かが手ふったらわかるかな。

大三郎

それはぁ……。

隆一

視力次第だね(笑)。

昨年登山デビューしたという絵梨さん。「登山道って登るだけだと思ったら、下りもあるんですね……」というエピソードに一同失笑。終始なごやかな雰囲気。

雄一

今年登るとしたら、雪があるうちに登ったほうがいいな。
4月中旬くらいになって雪が安定すると、
その時期が一番山を歩けるから、どこに行くのも行きやすい。
でも、みんな三角山にはスノートレッキングに行ったよな?

隆一

そうですね。僕らみんなスキー部ですからね。

絵梨

だって、卓球部とスキー部しかなかったから……。

隆一

どっちかに入るしかなかったからね(笑)。
大三郎さんから話を聞くと、自分たちが知っているこのへんの山も
登れるんだなと思いますね。
月山や葉山もいいけど、まずは、そっちが面白そうだなって思いました。

絵梨

そうそう、大三郎さんからこういう話を聞くと、登ってみたくなるよね。

大三郎

日本の登山道って山伏がつくったと言われているんです。
昔は木地師の道とか職業によって道があったといいます。
残っている場所を訪ねるのもいいと思うんですけど、みんなと山に登ることで、
今のぼくたちと山のつき合い方が見つかるんじゃないかと思っています。
聖地と言われる場所は、時代時代でつくられているもの。
みんなと新しい肘折の聖地と言われる場所を探せるんじゃないかなと思っています。

左/肘折温泉から見える秋の三角山。紅葉が美しい。右/ブナの原生林に囲まれている御池。古くはここに龍神がすむと信じられていたという。(撮影:坂本大三郎)。

肘折口から月山登山の途中にある小岳から月山を望む(撮影:坂本大三郎)。

春になったら、みんなはまず最初にどこに登るのだろう。
こんな風に始まっている、肘折の若者たちによる新しい観光ルート探し。
山の話の続きは、いずれまた。
第3回目は、肘折温泉に残る湯治文化と、新しい湯治文化について。

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肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

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DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

肘折温泉vol.1 今も残る美しい手仕事

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
第1回は、「今も残る美しい手仕事」について。

雪国で生まれた細やかな手仕事。

東京駅から山形新幹線で、3時間半。
終着の新庄駅からさらに車を走らせること50分。
同じ山形県のなかでも特に雪深い肘折温泉やその周辺地域は、
多いときで4メートル以上も雪が積もる。
雪の季節ともなれば外での仕事は封じられ、
昔のひとびとは家の中で手仕事をしながら過ごした。
藁で、藁沓(わらぐつ)や蓑(みの)などを編み、
また、木地師と呼ばれる職人たちは木で、茶筒や器などをつくった。
それらは、「かつての生活道具」とは言い切れない、細やかな手仕事の美しさを放つ。
柳宗悦は著書『手仕事の日本』のなかで、東北地方について、こう綴っている。
「日本でのみ見られるものが豊かに残っているのであります。
従ってそこを手仕事の国と呼んでもよいでありましょう」
肘折温泉を含む、雪深い最上地方では
そのような雪国の暮らしから生まれた素朴な文化に、今も触れることができる。

大蔵村の南に位置する通称・四ヶ村には、美しい棚田の風景が今も残る。
須藤福寿さんは、この地で生まれ、農業を営む傍ら、村議会議員などを務めた。
引退してからは、依頼されると蓑(みの)や藁(わら)細工をつくっていたという。
「蓑はじいさんの時代からずっと、つくっていたな。昔は雨合羽なんか無かったから。
そうだな、昭和30年代くらいまではどの家でも男がつくっていたもんだよ。
つくり方は親の見よう見まね。その家その家で、ずっと継承されてきたんだ」

大人用につくられた蓑。首回りの綿糸でほどこされた赤や紺の刺繍がとてもきれい。

蓑の材料となるのは、「みご」と呼ばれる、藁の丈夫な茎の部分と、
ウリハダカエデという木の皮を使う。
木の皮は田植えの時期に採り、乾かしておくなど、
つくるには、冬が来る前に準備をしておかなければならない。
「今はもう車の免許を返しちゃったから、材料をとってくるのが難しくってな。
それに、あまり使う人もいなくなったから、つくる機会も減ったかな」
いま、四ヶ村で蓑をつくることができる人も少なくなっているという。
暮らしに必要だから、丈夫になるよう丁寧に編む。
その細やかな美しさは、小さな藁沓にも込められている。

「ひとつの蓑をつくるのに、4〜5日かかるよ」と話す須藤さん。

須藤さんは話ながら、足の指を使い、手早く小さなかんじきに凧糸を通す。

須藤さんがおみやげ用につくったというかわいらしい「かんじき」と「藁沓」。

こけしは、東北の温泉場を中心に
子ども向けのみやげものとしてつくられてきた木の人形だ。
宮城県の鳴子地方や、遠刈田地方が産地としては有名だが、
肘折温泉も、明治の頃より「肘折こけし」と呼ばれる系統のこけしがつくられてきた。
「もともとは、わたしらみたいのを木地師と言って、
器や茶筒なんかをつくっていたっていうね。
その合間に、こけしなんかの玩具をつくり始めたんじゃないかな。
昔、木地師は、いろんな温泉場を渡り歩いた人だったんだ。
もとを辿れば肘折の工人たちも、鳴子や遠刈田へ修行に行ったんだよ」
そう話すのは、今はただひとり残る、肘折こけしの工人・鈴木征一さんだ。
肘折の工人さんのもとで修行して、その後独立。
当時から40年以上も使っているという工房には、伐り出された木材が積まれ、
お客さんを待つ、かわいらしいこけしが並んでいる。

「こけしはやっぱり顔を描く段階が一番むずかしい」と鈴木征一さん。肘折こけしは、昔と同じく、墨のほかは赤、青、黄の三原色で表現。

鈴木さんの工房。木取りをした角材は乾燥したあとに、挽く。材料はおもに「イタヤカエデ」を使う。

産地によって顔・かたちが異なるのがこけしの面白いところ。鈴木さんは青森や山形など他系統のこけしも販売している。

「もとは冬場もできる仕事だからって始めたんだ。
こけしは山から木を伐ってくれば、すぐできるってわけじゃないからね。
乾燥させたり、挽いたり、筆で顔を入れたり。手間がかかります。
最初は、こけしの面白さなんかわからなかったけど、
購入しにわざわざ訪ねてくれるお客さんと話すようになって、
こけしの奥深さを教えてもらった気がするね」
以前は年配の方が多かったというお客さんも、最近は若い人も増えてきたという。
「でもね、こけしは量産はできるものじゃないから。
おれの代で肘折こけしは終わりかなと思ってるよ」

明治時代、肘折こけしを始めたと言われている柿崎伝藏が生まれた柿崎家(現在は「旅館 伝蔵」)には、肘折こけしの工人の系譜があり、奥深い歴史を感じる。

こけしの底には、工人の名前が書かれている。写真は鈴木さんのもの。

山伏の原初の文化に触れたい。

このような肘折の手仕事に対して、若き山伏の坂本大三郎さんは、
「古い時代の山伏の文化と呼応している気がするんです」と別の視点から興味を示す。
普段は関東でイラストレーターや文筆家として活動をする坂本大三郎さんは、
6年前にふらりと体験した山伏修行をきっかけに、
その奥深さにひかれ、以来、出羽三山を拠点に修行を積んでいる。

羽黒山は、月山、湯殿山と合わせて「出羽三山」と呼ばれ、
「西の伊勢参り」に対して、
出羽三山へのお参りを「東の奥参り」と言われるほど、
一帯の山々は古くから山岳信仰、修験の霊場として知られる。

法螺貝を持つ、大三郎さん。法螺貝は材料をとりよせ、手づくりしたのだという。

絵を描くなど表現者として仕事をしてきた大三郎さんは、
特に芸術や芸能を担っていたという山伏の一面にひかれる。
「山伏の祖先と言われる人々は、神や精霊と人々をつなげながら、
山から山へ漂泊する民でした。日本という言葉もない古い時代のことです。
彼らが呪術を行うとき、言葉からは歌が、動きからは舞が生まれ、
芸術や芸能が生まれていきました。山伏のルーツというのは、漂泊をしながら、
手仕事をしたり芸能をしたりする人だったとも言われているんです。
木地師も、木を求めながら漂泊していた人々。
かつては、彼らは同じ人だったんじゃないかと思い始めたんです」

年に1回ある羽黒山での修行の度に、肘折温泉に立ち寄った。
本を読み、山を歩く。
次第に、肘折に残る文化が古い時代の山伏の文化と呼応すると感じる。
肘折への興味が募っていった大三郎さんは、
昨夏、「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」というイベントに
ゲストパネラーとして参加(Local Action #007)することになった。
これをきっかけに、地元のひとたちと知り合い、
外からしか見えていなかった肘折のことが、ぐっと近づく。

大三郎さんが普段、修行のときなどに着ているという白装束。

「大三郎くんが勉強してきたことを聞くのは、とても面白い」と、
つたや肘折ホテルの柿崎雄一さんは大三郎さんを快く迎える。
「大三郎くんが肘折に通ってきてくれるのは、とてもうれしいんですよ。
僕たちが知らない自分たちの土地のことを教えてくれる。
肘折青年団の若いみんなもいい影響をうけているみたいだから」と微笑む。
雄一さんは、大三郎さんが肘折に来れば、滞在などをあたたかくサポートする。

大三郎さんは、肘折を訪れて、寂しいと思うことがひとつあった。
それは、この周辺の手仕事が継承されずに、消えていこうとしていること。
しかし、雄一さんや肘折のみんなと話すうちに、
自分が、教えてもらうことはできないかと思い始めたという。
「すごく大事な文化だと思うんです。だから、僕は教えてもらいたい。
無くなってしまう前に、僕にできることはやりたいと思ったんです」
実は、大三郎さんは、雄一さんの協力もあり、
春になったら肘折温泉に住むことを考えているという。
この地にある手仕事を学ぶためだ。
「震災以降って、山とまちの距離が縮まったんじゃないかと感じています。
みんなが地方と都心を行き来するライフスタイルが増えている。
僕自身も千葉に実家、神奈川に暮らしている家があって、肘折に来ている。
こうやって行き来しながら生きていくことができるんじゃないかと思っているんです」

次回は、大三郎さんと肘折青年団の有志が取り組む、
肘折温泉周辺の新しい観光資源を探す活動についてレポートします。

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肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

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鈴木肘折こけし工房

住所 山形県最上郡大蔵村南山2126-291
電話 0233-76-2217
営業時間 8:00~18:00 不定休

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DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

present

肘折温泉のおみやげをプレゼント!

四ヶ村の須藤さんから、おみやげをいただきました。かんじきと藁沓、蓑のミニチュアの1セットです。「せっかく来たんだから」と取材チーム全員に持たせてくれた、須藤さん。ミニチュアながら、しっかり刺繍された蓑もとてもかわいいです。ご応募はコロカルのfacebookからお願いします。
※プレゼント企画は終了いたしました。

橙書店

橙に暮れていく本屋でひとり

親しい友人が住んでいることもあって、昨年は何度か熊本を訪れた。
豊かな自然、おいしい食べもの、過ごしやすい気候、
日本一ファッショナブルともいわれる若者たち、そして友人の温かなおもてなし。
行くたびにいつか住んでみたいなんて思いながら帰ってくるのだけど、
そういえば本屋さんには行ったことがなかった。

「熊本で本屋に行こうと思って……」と人に相談すると
必ず名前が挙がるのが橙(だいだい)書店。
ちょっと変わった名前のこの店は、 新市街というアーケード街から一本脇へ入った通りにある。
この通りがとにかく狭くて、両手を伸ばせば両サイドの建物に手が届きそうだ。

大通りへ抜ける手前に、「橙書店」があり、
隣には、橙書店と同じ店主田尻久子さんが営む雑貨&カフェ「orange」がある。

橙書店1階の奥から入口を振り返る。全部見てやろうという気にさせるサイズ感だ。

終戦直後に建てられた建物が今も並ぶこの通りが気に入って空き物件を探したという。
orangeをオープンしたのが 2001年、
その後2008年に隣の物件を橙書店としてオープンさせた。
だからふたつの店は元々違う店だったということもあって、
つくりも違うし、雰囲気も異なる。そんなふたつの店をつなぐのが、
壁に空けられた、かろうじて人が通れるくらいの小さな四角い穴だ。

ドアとも窓とも書いてみたけどどうも違うので「穴」としか表現のしようがない。
田尻さんはカフェのカウンターでお客さんと話をしながらコーヒーを入れていると思えば、
「この本ください」と声がかかれば、穴から橙書店にやってきてお会計をしてくれる。

orangeを外から眺める。カフェのテーブルや壁に作り付けの棚など本がそこかしこに置かれている。

店主の田尻久子さん。左奥に見えるのが橙書店へと続く穴だ。

orangeの店内は白が基調のラフな雰囲気。
元々あったアーチ状の天井が好きで、
天井が低い分カフェのカウンターも低くした。
そのせいでカウンターの中まで丸見えだけど、
それがorangeのフレンドリーな雰囲気と合っている。

一転、橙書店のほうは夕方から夜のイメージ。
元の物件にほとんど手を入れず、床を貼って本棚を付けただけと田尻さんは謙遜するが、
濃い茶色の棚に、濃いグリーンの椅子がとてもシックだ。
入ってすぐの平台には重厚な海外もの、
例えば『獄中からの手紙 ゾフィー・リープクネヒトへ』(ローザ・ルクセンブルク)、
『私はホロコーストを見た』(ヤン・カルスキ)など手強そうな本が並んでいて
一瞬ひるむけれど、隣に並ぶ新潮クレスト・ブックスの背表紙のカラフルさに救われる。

天高がある分、スペースの割に広く感じられる。

河原町繊維問屋街プロジェクト

シャッター街が、ユースカルチャーの発信地に

JR熊本駅から路面電車で5分ほどのところ、
駅から中心街へと向かう、ちょうど中間地点。
ほかの地方都市と変わらないまちなみの一画に突如あらわれる、河原町繊維問屋街。
昭和に建てられた店舗が問屋街ごとそのままの姿で残っていて、
その建物の古さからか、東南アジアの露店街のような、
まるで日本とは思えない、不思議な空気をまとっている。
基本、1軒の建物の広さは、3坪ほど。
トタン屋根のアーケードのなかに、
2メートル幅の路地が5つ(裏に行けばもうふたつ)あり、
コンクリート造の建物が長屋のように連なる。
繊維問屋街と言っても、それはかつての名で、
近年は、繊維業者が去った建物に
若い人がカフェや古着屋を始めたり、イラストレーター、
建築家やグラフィックデザイナーが入り、アトリエとして活用している。

昼間は明るい問屋街。狭さゆえ対面する店舗とも近いからコミュニケーションもおのずと生まれる。

「この問屋街にクリエイターが集まり始めたのは、10年ほど前からです。
多くの繊維関連の業者が立ち退いて、
この問屋街はずっと、シャッター街となっていたようなんです。
そこで、若いクリエイターを誘致しようという計画が立ち上がりました」
そのときからここで、カフェギャラリー・GALLERY ADOを開き、
いまは、この問屋街の自治組織・河原町文化開発研究所の代表を務める黒田恵子さん。
「わたし自身、熊本市で育ちましたが、ここの存在は全く知りませんでした。
当時、知人づてに聞き、見に来たんですが、この異空間に惹かれてしまって。
ここならクリエイターたちが集まるまちになるなと。
だったら、表現の場にもなるカフェギャラリーを始めようと思ったんです。
今は、ここに、25前後のアトリエや店舗が入っていますよ」

GALLERY ADOのカウンターに立つ黒田さん。店内には地元の作家の作品が飾られている。

市街地から離れているとは言え、周辺には高いマンションも立ち並ぶ河原町。
問屋街も土地開発の例外ではないはずだが、
どうしてここだけ昭和の遺跡のように残ったのか。

この問屋街に事務所を構える、建築家の長野聖二さんはこう話す。
「第2次世界大戦後に焼け野原となった河原町には、
闇市がベースとなった店舗が多く立ち並びました。
しかし、昭和30年代に大火があり、店などがすべて燃えてしまった。
そこで、その翌年、共同出資でこの繊維問屋街が建てられたと聞いています」
共同で建てたから、この問屋街の店舗の大家はすべて異なる。
さらに、路地も何分の1ずつと、利権が細分化されているため、
管理の所有区分がとても複雑で、売却しようにも話がまとまらない。
「だから、この問屋街は、
残ってしまった場所と言ったほうが正しいかもしれませんね。
ちなみに僕の事務所は、真ん中の壁をとっぱらって
2軒分を借りているのですが、大家はそれぞれ異なるんです(笑)」

事務所わきにあるベンチにすわる、長野さん。

安さゆえ、古い建物を自分でカスタマイズ。

クリエイターが集まってくるもうひとつの理由は家賃の安さ。
熊本市内の中心地の約4〜5分の1の賃料で借りられるという。
それゆえ、なかには、雨漏りするほど老朽化している建物もある。
だから、大家さんと交渉しながらそれぞれ自分の好きなように
カスタマイズして、活用していくというわけだ。
「僕の事務所の建物は、以前喫茶店だったようですけど、
入るときは、すでに数年使用されていない廃墟だったんです」
と長野さんは言うが、当時が想像できないほどに、
リノベーションされて、モダンでシンプルな内装だ。
2階は事務所としてスタッフが数名働いており、
真っ白に塗られた1階の空間はギャラリースペースになっている。

左手にあるのが長野さんの事務所。廃墟だったとは思えないかっこいい空間。

黒田さんのカフェギャラリーは、かつては洋品店だった建物。
問屋街の表の通りに面していることもあり、約12坪と広い。
「借りるときは洋品店のなごりで、服をかけるラックが置かれていましたね。
まず、1階は、床にコンクリートを流して整え、カウンターをつくりました。
2階は板貼りの床をそのまま生かした、展示空間になっています」
建物の歴史を物語っているようなあめ色の床は、何とも言えない趣がある。
2年前くらいからは、この空間を気に入ったという劇団の方が増え、
月に1〜3回、小規模の演劇が上演されているのだという。

グラフィックデザイナーの石井克昌さんも、
問屋街の一番奥にある、組合事務所だった部屋を借り、
素色図画工作室IROMURAというワークショップスペースにしている。
奥の壁には自作の黒板があり、まるで小学校の図工室のような空間。
もとは後輩が借りていたスペースだったのだという。
「後輩が借り続けるのが難しくなったと言うので、そのまま引き継いだんです。
この場所に自分が可能性を感じていたので。
ぼろぼろだった天井や壁など、少しずつ時間をかけて自分で修復して、
ふさがれていた天窓も自力であけたんですよ」

今年31歳という石井さんは、熊本で育ち、熊本でデザインを学んだ。
今は、熊本市現代美術館の広報物など、
地元でグラフィックデザイナーとして、活動している。
グラフィックデザイナーを志すなら、都会に出たほうが仕事も多いのでは? と伺うと
「ぼくは、大きな会社のデザインを手がけたいという気持ちよりも、
自分の生活と身近なところにあるデザインの仕事をしたかった。
もちろん、グラフィックの仕事が少ない分、金銭的に苦しいこともありますが(苦笑)。
でも、ここの問屋街には、いろいろなつくり手がいて、
自分の好きなことを本気で頑張っている人が集まっている。
生活がうまくやりくりできるようなかたちで、
いろいろな企画が生まれればいいなと思っています」

石井さんはここで、「おくりもの学校」と称して、いろいろなつくり手さんと一緒に、さまざまなワークショップやイベントを提案している。

河原町繊維問屋街では、毎月第2日曜日、
「河原町アートの日」というイベントを開催している。
参加者はイラストやクラフトなど、自分の作品を出店している。
徐々に参加者や常連客が増え、平均25組が毎回参加しているという。
さらに、ここでは、さまざまなワークショップも開かれる。
熊本市現代美術館主催で行われた、
現代美術家の淺井裕介さんのワークショップもそのひとつ。
いまも、そのときの浅井さんの作品が問屋街に刻まれている。

現代美術家の淺井裕介さんの作品が問屋街の路地に刻まれている。

ほんの数軒から始まったクリエイターのまちは、
少しずつカルチャーの発信地として認知され、進化をとげているようだ。
「何かしたいけど、何がしたいか分からないって若い人たちが結構いて、
そういった子たちが、自分自身に刺激があるような場所は必要。
いろいろな人が出会える場所になったらいいですね」(長野さん)
「自分のやりたいことだけを受け入れてもらう場所になるのではなく、
より広い世界へ向けて、スキルアップにつながるような
出会いが増えていくといいなと思っています。
そのためには、この河原町全体の発信力も強めていきたいですね」(黒田さん)

information


map

河原町繊維問屋街

住所 熊本市中央区河原町2
活動クリエイター数:約12名(店舗数は25〜30店[不定営業店舗も含む])
職種:イラストレーター・アクター・ミュージシャン・美容師・能楽
家賃相場:1.5万円〜6万円/月

information

GALLERY ADO

電話 096-352-1930
営業時間 Cafe15:00~18:00、Gallery11:00~18:00 木曜休
http://galleryado.com

information

長野聖二・人間建築探検處

電話 096-354-1007
http://www.fieldworks.biz

infotmation

素色図画工作室IROMURA

電話 070-5818-1671
motoshiki@gmail.com

Barnshelf

思い出が詰まった雑貨と本の店

Barnshelfの店長である小前 司くんとのつき合いは長くて、僕が本のセレクトを手伝っていた、
書店を併設した梅田の雑貨店「アンジェ・ラヴィサント」に入社してきたのが小前くんだった。

圧倒的に女性が多いこの店において、
男性というだけでも珍しいのに、元書店員、さらに古本好きとくれば仲良くならないわけがない。
梅田への出張の後には必ずといっていいほど大阪のまちに飲みに出かけ、
また出張の日程を調整しては、大阪・四天王寺の古本市にも一緒に出かけ、
お互いの収穫物を自慢し合うようになった。

一方、その雑貨店は京都に本店があって、そこで店長をしていたのが鷺坂えりかさん。
三条河原町という京都でもとびきりの繁華街にあり、
3階建ての大店舗をまとめあげるその力量と
いつでも楽しそうに仕事をしている姿に惚れ惚れとしたものだった。

小前司さんと奥さまのえりかさん。わざわざ向き合ってもらった。

そんなふたりがいつの間にかつき合って結婚して息子が生まれて、
前後して小前くんの実家がある三田市に一緒に住むようになった。
子どもが生まれてから、彼から独立の思いを聞くようになった。
実家のそばにある元牛小屋、この場所を改装して本と雑貨の店にしたい。
最初に聞いた時はびっくりしたけれど、
訪れてみれば、そう考える理由もよくわかる。
駅からは決して近くないが、多くの人は車で移動する土地柄、
立地よりも場所の面白さに人は集まってくる。

通りから店までは小前くんの家の畑とBarnshelfガーデンを通り抜けて行く。

大阪から快速電車で約40分、神戸からも同じくらいの時間で来れる三田市。
10数年前、新三田駅から有馬富士公園へと抜けるバイパス道路が開通し、
小前くんの家の畑を横切るように道路が通った。
その頃には農機具置き場になっていた元牛小屋は、なぜか道路沿いに建つことになった。
この場所に生まれ育った小前くんは、休日になると大阪の都会を楽しみ、
普段は三田でのどかな生活を送るという、
都会と田舎のどちらのいいところも吸収しながら伸び伸びと成長していった。

半年ほどの準備期間を経て、2012年7月にオープンしたふたりの店には
牛小屋(cow barn)と本棚(bookshelf)がくっついて「Barnshelf」という名前になった。

「ようやく落ち着いてきました」という連絡をもらって遊びに行った。
今回紹介するのはそんなお店だから、
どうしても贔屓してしまうのだけれどそれは勘弁してほしい。

登山、アウトドア、軍モノ。並ぶものと木の棚との質感が良く似合う。

新居幸治さん 洋子さん

知らない土地ではじまった、服づくり。

東京から新幹線で1時間弱のところにある静岡県熱海市。
かつては多くの文豪も通いつめた、潮風香る温泉街には、
今もレトロな看板や喫茶店が佇む。そんな昭和の香りが漂うまち並みを抜け、
海岸線を横目に、車で10分ほど行くと、ファッションブランド、
「Eatable of Many Orders(エタブルオブメニーオーダーズ、以下エタブル)」の
アトリエがある。

デザイナーの新居幸治さんは、アントワープ王立芸術アカデミーで学び、
同じくデザイナーの洋子さんは、
著名なデザイナー、ベルンハルト・ウィルヘルム氏に師事していた。
ふたりはベルギーで出会い、帰国後、熱海に移り住み、エタブルを立ち上げた。
天然の染料や革など、自然の素材にこだわり、
少しまるみを帯びた独特なフォルムや
シンプルながらもどこか愛らしいエタブルの洋服。
それらすべて、ひとつひとつ素材と製法にこだわった丁寧なものづくりには、
日本はもちろん、海外にも根強いファンが多い。

エタブルのアトリエの玄関。入り口には、コレクションサンプルが飾ってある。

入り口のショーケースにあるのは、幸治さんがひとつひとつ手掛ける木のキーホルダー。

海外で研鑽を積んだふたりが、どうして熱海に拠点を? と伺うと、
「たまたま、なんです」と話す幸治さんは東京都出身、
洋子さんは愛知県出身と、ふたりにとって熱海は全くゆかりのない土地。
「帰国して幸治さんの父親に物件を紹介してもらって、熱海に越して来たんですが、
右も左も分からなくて。まるで海外生活の延長のようなかんじでした(笑)」
と洋子さん。しかも、当時住んでいたのは別荘地だったため、
地域の人との交流もなく、まるで言葉の通じる異国にいるような暮らしだったという。
服のデザインのほかに、バッグなどを制作するのに木工を手がける幸治さんにとって、
比較的東京にも行きやすく、
材料となる木材などが手に入りやすい自然豊かな熱海は魅力的だった。

月に一度、アトリエを開放する限定ショップでは、アーカイブも含めた中から月ごとのテーマにあわせたラインナップが並ぶ。

革加工をする机。たくさんの道具が並ぶ。

しばらくは、住まいをアトリエと兼用しながら制作に没頭していたふたりだったが、
熱海での暮らしが1年ほどすぎた頃、古くからの住人も多い、
上多賀というエリアで見つけた古民家を改装し、アトリエを構えた。
「それなら、このアトリエで期間限定ショップを開いて
地元の人や東京からのお客さんを招こうってなったんです。
期間限定ショップの名前は『山猫軒』。
それまで、私たちから地元の人たちに何かアプローチすることはなかったから、
近所にお住まいの方も、何をそんなに一生懸命こしらえているのかって
不思議に思っていたんじゃないかな(笑)。
でも、このイベントのおかげで各集落に私たちの洋服の顧客ができたり、
地元に住む家具作家さんやグラフィックデザイナーさん、
画家の人などと知り合えたのはとてもよかったですね」と洋子さん。
幸治さんも「最初は自分たちの制作現場を見せるということに
少し抵抗もあったんです。でも、少しずつ意識が変わってきて、
いまは月に1度アトリエを開放して「山猫軒」をオープンしたり、
熱海でも、ファッションショーを行うようになったんです」と話す。

この「ハンガーバッグ」の誕生がブランドの立ち上げとなった。今もひとつひとつアトリエで手づくりされている。

左が幸治さん、右が洋子さん。アトリエの奥にはこれまで制作したバッグや靴が並ぶ。

熱海花柳界が花開いた舞台で、今季のショーを開催。

アトリエを開放し始めたり、プライベートでは子どもが保育園に通いはじめたりと、
エタブルのふたりにとって、知らない土地だった熱海が、
少しずつ、なじみ深いものに変化してくる。
そんなとき、熱海らしい場所でファッションショーをやらないかという声がかかった。
それが昨年の、大正期に建てられた熱海の文化財建築、「起雲閣」でのショーだった。
「僕はそういったものが面白いって思っちゃうタイプだから、
軽い気持ちではじめてしまったんですね」と幸治さんは昨年を振り返る。
少ないスタッフでやりくりしながらのショーは、とても大変だったというが、
起雲閣でのショーは好評を博した。続いて今年の5月には多賀神社で、
そして、11月23日には、熱海芸妓見番で行うことになっている。
「神社や有名建造物など、面白い場所でファッションショーができるのも、
協力してくれる方がいる熱海ならではの面白さかもしれません」(幸治さん)

毎週土日には一般にも開放される熱海芸妓見番。芸妓さんの踊りが鑑賞できる。

ちなみに、今回ショーが行われる熱海芸妓見番とは、
芸妓が所属する「置屋」の組合で運営している、演舞場だ。
熱海の芸妓衆が稽古をする拠点でもある。
かつては東京の奥座敷と呼ばれるほど熱海の花柳界は栄え、華やかな歴史を持つ。
もっとも栄えた昭和の全盛期には、1000人を超える芸妓がいたという。
今でも200人前後の芸妓がおり、置屋は約80軒ほどある。
観光事情が著しく変化している昨今で、
熱海の芸妓文化をどう後世に伝えられるのかが
今の課題だと、組合長をつとめる西川千鶴子さんは話す。
「これまでは、寄席や着物の展示会などは開いたことがあっても、
ファッションショーを開催するのは、熱海芸妓見番にとって、初めてのこと。
わたしたちにとっても新しい試みなので、みんなとっても楽しみにしているんですよ」

建物は昭和29年にに建てられた。演舞場入り口には、歴代の芸妓さんの写真が飾られている。

組合長の西川千鶴子さん(芸名:松千代さん)。ちょうちんに明かりが灯ると、一気に雰囲気が高まる。

わたしたちが訪れた日、熱海芸妓見番では、
幸治さん、洋子さんとスタッフの方々が、芸妓さんたちのお稽古の合間に、
慌ただしく舞台での動きや照明などの確認をしていた。

プレススタッフの増崎さんと、今回のショーを手伝ってくれているという、熱海の干物店の若旦那・富岡さんを交えて舞台で打ち合わせ中。

宮沢賢治の著書をブランド名に引用しているエタブルは、
2012年の春夏から、宮沢賢治の著書をシーズンテーマにもしている。
完結の三部作目となる、今季のテーマは『ポラーノの広場』。
洋服に織り込められた物語が、朗読や音楽も加わりながらショーで表現されるという。
とは言え、日本舞踊のためにつくられた舞台で、
自分たちの世界観をどこまで表現できるかが要となる。
「見番の舞台では、細かい決まりごとがたくさんあって、
僕たちの表現が制限されることもあるんです。ただ、
自分たちが大切にしたい世界観を表現したいと思う一方で、その土地でやるからには、
ある程度土着性みたいなものとも向き合っていきたいと、いまは思うんですよね。
来てくれた人が熱海のよさを
少しでも汲み取れるようなものになったらいいのかなと思っています」
と幸治さんは今回のショーに向けての思いを話してくれた。
エタブルの洋服そのままのような、
ゆるやかでかわいらしい雰囲気を纏う幸治さんと洋子さん。
偶然に暮らしはじめた熱海という土地で、
自分たちのブランドの道をゆるやかに追求している。

profile

Eatable of Many Orders
エタブルオブメニーオーダーズ

多摩美術大学で建築を学んだ後アントワープ王立美術アカデミーを卒業した新居幸治と、アントワープ・パリでベルンハルト・ウィルヘルムに師事、バルセロナでの革工芸経験ももつ洋子により、鞄・靴を中心として 2007年にスタート。ブランド名の「Eatable=食べられる」は素材の理解、天然素材の使用、染色工程や革 の鞣しなどへのこだわりを表現する言葉で、そのこだわりが1点1点の商品に表れており、その素材感や独特のデザインを楽しむ顧客が多い。現在、熱海に暮らしながらクリエーションを続け、毎シーズン、パリと東京で展示会を行っている。

www.eatableofmanyorders.com 

information


map

エタブルのツキイチショップ「山猫軒」

毎月第1日曜日(※月により変更となる場合がありますのでHPなどでご確認下さい)
住所 静岡県熱海市上多賀277(エタブル熱海アトリエ)
JR伊東線「伊豆多賀駅」より徒歩7分
電話 0557-67-0718

熱海芸妓見番ファッションショー

熱海芸妓見番
2012年11月23日(金・祝)15:00開演(14:30開場)
入場料 1.000円
衣装/エタブルオブメニーオーダーズ、スライド原画/小林敏也、音楽 OVERROCKET、
踊り/熱海芸妓、舞台演出/池内万作、舞台美術/近藤正樹、音響/AO
※お問い合わせはエタブルオブメニーオーダーズまで。

田中啓子さん

阿蘇の山の麓に開いた、小さなレストラン。

阿蘇くまもと空港から車で一時間。車窓からの景色が緑濃くなると、
見えてくるのはカルデラに広がるのどかな田畑風景。
そして、それを取り囲むようにそびえる雄大な阿蘇の山々だ。
点々と別荘やお店が建ち並ぶ森のなかを登っていくと、可愛らしい木の看板と庭が現れた。
レストラン「ボンジュール・プロヴァンス」だ。
400坪の細長い敷地には、たくさんの木々やハーブ、花が植えられていて、
「バラだけで約100種類あるから、それ以上の植物があるはずだけど、もう数えきれないわね」
とチャーミングに話すのは、この店の主、田中啓子さん。
一緒に切り盛りする夫の信也さんと共に出迎えてくれた。
テラスが設けられ、窓も扉も開けっ放しと開放的な店内は、高原のさわやかな風が心地よい。
レストランの奥は田中さん夫妻の住まいになっている。

ボンジュールプロヴァンズの入り口。春になれば、庭は色とりどりの花でいっぱいになる。

田中さん夫妻がこの地に移り住み、レストランをオープンさせたのは1999年のこと。
もともと会社員だった信也さんと子ども3人と
熊本市内でマイホーム暮らしをしていた啓子さんは、
「いつか小さな飲食店を開きたい」と夢を抱いていた。
しかし、子どもが自立するまでは辛抱、と心に決めて、まずはコツコツと資金づくりに勤しんだ。
営業職として毎日忙しく働きながら、友人とのつきあいや遊びも我慢する節約生活。
「そうじゃないと、夢は叶わないと思いましたから」
息子たちが自立し、あとは娘が大学を卒業するのみと思っていた矢先、
娘から「パティシエを目指したいから大学を辞めたい」という相談をもちかけられた。
それを聞いた啓子さんは動揺するでもなく
「それなら、お母さんも仕事を辞める! って。それで、いよいよお店を開くことにしたんです」
かくして、51歳になった啓子さんは、長年あたためていた夢をスタートさせたのだ。

入り口を入るとすぐあるテラス。高原の風が気持ちよい。

チャーミングな笑顔が印象的な、啓子さん。

家族に支えられた、お店づくり。

まずは、阿蘇で土地探し。熊本市内よりも標高の高い阿蘇エリアは、
年平均気温が13℃と夏でも涼しく、自然豊かな環境だ。
「私は福岡の生まれですが、初めて訪れたときからこの阿蘇の自然と気候が大好きだったんです。
だから絶対、阿蘇にしようって決めていて。下調べでちょくちょく通っていました。
そのなかでも、この場所を選んだのは、ある本の写真と同じ景色が見えたからなんです」
と啓子さんは1冊の写真集を見せてくれた。
そこには、園芸や料理など、南フランスにあるプロヴァンス地方の日常風景が綴られている。
なるほど、店名にもしているし、やはり啓子さんはプロヴァンス地方にゆかりが? と伺うと、
「いえ、当時はプロヴァンスに行ったことはなかったんですよ(笑)。
娘が高校生のときにこの写真集をプレゼントしてくれたんですが、すごく素敵だなと思って。
以来ずっと、見たこともないプロヴァンスの暮らしに憧れてしまったんです。
ハーブもこれを見て勉強しました。お店を開くなら、こんな雰囲気にしようって思ったんです」
運命の土地を探し当てた啓子さんだったが、信也さんは反対。
今でこそ別荘やカフェなどが建ち並ぶこのエリアも、当時は何もないただの森だったから。
「最初はこんなところで店を出すなんて絶対うまくいかないと思って、反対したんですけど」
と言う信也さんに、「私はなーんにも不安はなかったんですよ」と啓子さんがさらりと返す。

テラス席から見える、阿蘇のカルデラの美しい田園風景。

プロヴァンス地方の風景が綴られている、啓子さん思い出の写真集と当時啓子さんが描いた図面。

ほどなく土地が決まり、次は住まい兼お店をどうつくるか。
啓子さんは見よう見まねで自ら設計図と庭の植栽図をひいて、
設計士に依頼すると、そのままの間取りで建ててくれることに。そして、1年をかけて完成した。
オープンしてすぐに信也さんも会社を辞めて、啓子さんをサポート。
お店の経営を軌道にのせながら、お金が貯まれば、テラスを増築して、住まいを整備していった。
母屋の隣にあるアトリエは、
陶芸家である娘の旦那さまと信也さんが建てたというから驚きだ。
「もう、同じものはつくれませんね」と信也さんは苦笑する。
家族とともに、長い年月をかけて、少しずつ、少しずつ手を入れてきた夢のかたち。
「だからちっともお金は貯まりませんよ。それでも、今はここでの暮らしがとても楽しいから。
満足しているんです」と啓子さんはにっこり笑う。

母屋の奥にあるアトリエ。ごつごつした壁の漆喰は、陶芸家である娘の旦那さまが仕上げたもの。

ボンジュール・プロヴァンスで使う素材は、ほとんど阿蘇でとれたもの。
なかでも野菜は、自然農法にこだわる宇都宮自然農園の有機野菜を使っているので、
旬の野菜が日替わりのサラダやスープにたっぷり使われる。
また、熊本特産のあか牛のすね肉をワインと塩とハーブだけで煮込んだ、
看板料理「ドーヴ・プロヴァンサル」は、前日から仕込み、毎日3時間かけて作る。
「専門的に習ったわけではないけれど、
素朴なフランスの家庭料理を楽しんでもらいたい」と啓子さん。
オープン以来、宣伝はせず口コミだけで広まっていったが、
ファンは増え続け、14年目の今もここに通うお客さんは絶えない。

「桜の森 夜の森」 プロジェクト移動写真展

ふるさとを想う若者が4t トラックに咲かせた、満開の桜。

福島県双葉郡富岡町にある夜の森地区は、福島県内でも随一の桜の名所として知られる。
明治時代、当時荒野だった土地を開拓・入植した記念に、
300 本のソメイヨシノを植えたのが始まりだという。
以来、地元住民によって植樹は続けられ、いまでは1500本以上が植えられている。
春になれば、まちじゅうで桜が咲き乱れ、
その風景は100 年以上にわたり、ずっと大切に受け継がれてきた。
現在、富岡町は原発事故の影響で避難区域内となっている。
原発事故が起きた後も変わらずに桜は咲いていても、誰もその姿を見ることはできない。

「夜の森の桜がまた見たいね」
「桜の森 夜の森」プロジェクトがスタートしたのは、
このプロジェクトの発起人である、宮本英実さん家族の何気ないひとことがきっかけだった。
宮本さんの母は富岡町で生まれ、結婚を機にいわき市小名浜に移り住んだ。
宮本さんはいわき市で育つが、休みとなれば富岡町の祖母の家に遊びに行っていたという。
伯母をはじめ、親戚の多くは、富岡町に住んでいたから。
宮本さん自身は、幼いころに数回見た記憶しかない夜の森の桜だったが、
母や伯母の話を聞いているうちに
「夜の森の桜を見せてあげたい」という思いが募っていった。

「よし、夜の森の桜を撮りに行こう」
そう決めた宮本さんは、同じく、小名浜出身で写真家の白井亮さんに声をかけた。
「もともと、ふるさとの写真は撮りためていたんです。いつか何かのかたちにしたいなと。
そして、震災が起きた。それでも変わらずにある普遍的で美しい景色を撮っていましたが、
何かそれを通してふるさとのためにできないかとも考えていました。
それで宮本さんに写真を見てもらったのがきっかけで、
今回お話をいただいたんです」(白井さん)
宮本さんと白井さんは桜の満開の時期を予測しながら、
4月下旬に特別な許可を得て桜を撮影。幸いにも満開の桜を撮ることができた。

Photographed by Ryo Shirai

左から、発起人の宮本英実さんと伯母の舛倉和子さん、母の宮本邦子さん。

しかし撮影するも、まだその写真の発表方法については何も決まっていなかった。
いろいろな方に相談していくうちにFMラジオ局J-WAVEが協力してくれることになり、
急ピッチで「桜の森 夜の森」プロジェクトが進められた。
一方向的に見てもらうのではなく、
ダイレクトに対話できるような発表のかたちを模索していた白井さんと宮本さん。
一番の思いは「避難している富岡町住民の方々に見てもらいたい」ということ。
そこであがったのが、4トラック内での展示だった。
ほどよい広さが確保でき、そのまま移動もできるので、
届けたい人のところへ桜の写真を運べる。
運送会社の株式会社ウインローダーの協力を得て、
8月に福島県内の4会場で「桜の森 夜の森」移動写真展が開催されることになった。

想像を超える、地元の方のあたたかい反応。

編集部が訪れたのは、8月25日に行われた、いわき市の会場。
いわき市は富岡町と同じ浜通りと呼ばれる海沿いのエリアに含まれ、
富岡町の人々が避難している仮設住宅がある。
それが、午前中の会場となった泉玉露応急仮設住宅だ。
駐車場に停められたトラックの荷台が大きく開かれ、
真っ白に塗られた空間には、満開の桜の写真が展示されていた。
少しでも素敵な空間に仕上げたいとトラック内を補修したり、
ペンキを塗る作業はすべてスタッフで行ったのだという。
10時のオープンから、仮設住宅に住む方々や周辺の住民が駆けつけた。

「感激しましたよ」と話してくれたのは、
生まれも育ちも夜の森という猪狩(いがり)ミユキさん(89 歳)。
「いまの桜並木だってわたしは植樹を手伝ったのよ。
小さいころはね、遠足って言えば、夜の森公園の桜。
最近はさくらまつりのよさこい(踊り)をみんなで見に行ったり。
もう何十年って付き合ってきた桜だから、本当にうれしかった」と涙をうかべた。
一緒に見に来たという川口正子さん、細山美智子さんも口々に
「また夜の森の桜が見れてうれしかったです」と話していた。

右から猪狩さん、川口さん、細山さん。仮設住宅では毎日イベントがあるから楽しみにしているのだという。

「桜の森 夜の森」プロジェクトのポストカード。3枚セットで530円で販売している。

クローズの時間が近づいても移動写真展には、
またひとり、またひとりと展示を見に来るお客さんは絶えない。
何かを確認するように、静かに写真を見つめ、
口から「きれいだね」というひと言がこぼれ落ちる。
お金を持ってこなかったからというおばあちゃんは、
自宅に帰ってからまた戻ってきて、大切そうにポストカードを購入していた。

今回開催した4か所のなかでも、やはり、
もともと富岡に住んでいた人が多く住むこの泉玉露応急仮設住宅では、
来場者からの強い思いが伝わってきたという。
「来ていただいた方は、難しいことを言うわけではないんです。
ただ、“キレイだね”とか“もう見れないのかな”とか。
でも、それだけで、その言葉の裏にどんな思いがあるのか伝わってきました。
みなさん、涙を浮かべながら見ていて、
それはもう自分たちが想像していた以上の反応でした……
こんなにも、富岡町の人にとって夜の森の桜が誇りだったんだなと」
もちろん、この桜の写真を見ることで、
うかぶ思いは決してうれしい気持ちだけではない。それでも、
「“展示してくれてありがとうね”とみなさんに言われると、
やった意味はあったのかなと思っています」と宮本さんは言葉を続けた。

「最初は桜の写真を撮影すること自体に迷いもあったんです。
警戒区域に行くことも、写真を撮ることも。
でも写真をみんなで選び、仕上がったプリントを見ていく過程や、
来ていただいた方の反応を見るとやってよかったなと思えました。
みなさんキレイな写真だって褒めてくれるんです(苦笑)。
“自分が知っている桜よりキレイ“だと。
“一時帰宅したときに見たまち並みよりもきれいに写っているから、
以前の夜の森に帰れたみたい”とも言われました。
希望なんて大袈裟なことは言えませんが、少しでも元気づけられたのかなと思っています」
白井さんはそう静かに話し、iPadに入っている、展示しきれなかった写真を見せてくれた。

午後は、市内のアクアマリンパークという市民の憩いの場にトラックが移動し、
ここでも多くの来場者が足を止めていた。

来場者の多くが自分の思い出を確かめるように、一枚一枚じっくりと桜を見ていた。

いわき市内に住む、白井さんのはとこの陽悠(ひゆう)くんがお母さんと一緒にやってきた

「こうやって咲いてるんだから、自然てすごいね。来年は……見にいけるのかな」とうれしそうだけど、どこかさみしそうもに話すのは泉玉露応急仮設住宅に住む半谷光子さん。

わたしたちの地元のことだから。

今回の「桜の森 夜の森」移動写真展の母体となっているのが、
宮本さんが代表をつとめる福島県内の地域活性プロジェクトを発信する「MUSUBU」だ。
メンバーは宮本さんと末永早夏さん。ふたりは、震災直後のボランティア活動をきっかけに
「MUSUBU」を立ち上げ、これまで音楽イベントやワークショップなど、
いわき市を中心に開催してきた。
「私、よく『いわき』とか『福島』ってネットで検索するんですけど
全然いいニュースが出てこないんですよ。それが事実だとしても、
地元の人間としてはやっぱり悲しいんですよね。
悪く考えればきりがないと思うから、私は少しでも楽しみを見つけたり、
楽しめる機会をつくっていけたらと思っているんです」と宮本さんは朗らかに話す。
「桜の森 夜の森」プロジェクトはMUSUBUの活動のひとつとして、
これからも続けていくという。

「次は今回のプロジェクトで撮影したもので写真集をつくったり、
国外での展示方法を考えたりと、どういうかたちが
一番よいかを模索しているところなんです」と白井さん。
宮本さんも、「まだ夜の森のことを知らない人たちにもこの美しい桜を届けたい。
海外の人とか。単純にこの美しさを知ってほしいですね。
それをきっかけに福島のことを何かまた想ってもらえたりしたらいいな」と、
次のステージへのビジョンを語ってくれた。

とは言え、宮本さんも末永さんも白井さんも、本業の仕事のかたわらに、
MUSUBUや「桜の森 夜の森」プロジェクトの活動をしている。
続けるのは大変では? と伺うと、
「誰に言われているわけじゃないから、辞めようと思えばすぐ辞められるんですが、
自分たちが楽しいから続けていられるんです。
自分たちの地元だから、楽しくしていきたいですよね」と末永さんは笑顔で答える。
白井さんも「いわき市出身として福島県で起こったことに対して
何かしたいという思いがやっぱりあるんです」と力強く語る。
「こうやって東京から来た人にも
“大変そうだね”って思われるんじゃなくて、“楽しそうだね”って思われたい。
いわき市は、本当はいいところいっぱいあるんですよ」
とにっこり笑い、宮本さんが言葉を添えた。
「桜の森 夜の森」プロジェクトは今後も少しずついろいろな場所で巡回してく予定だ。

(株)ウインローダーのトラック。裏側に書かれたイラストは、ウインローダーが7月に開催したワークショップで福島の子どもたちが描いたもの。偶然にも「富岡は、負けん」という文字が描かれていた。

左から白井さん、末永さん、宮本さん。3人は偶然にも同じ小名浜出身だったという。

訪れた日は、夏休みまっただ中の日曜日。午後の会場となったアクアマリンパーク内にある「いわきら・ら・ミュウ」では音楽イベントが行われていて、それを楽しみに多くの人が訪れていた。

information

「桜の森 夜の森」プロジェクト移動写真展

主催:福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU 、J-WAVE 81.3FM
撮影:白井亮
ビジュアルデザイン:渡辺俊太郎(BLUE BIRD d.)
協力:株式会社ウインローダー、
富岡町生活復興支援センター「おたがいさまセンター」原田大輔、富岡インサイド
※MUSUBU Online Shopで「桜の森 夜の森」ポストカード販売中
http://musubu.me/

profile

HIDEMI MIYAMOTO
宮本英実

福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU代表。1984年福島県いわき市小名浜生まれ、東京在住。高校卒業後に上京、音楽プロダクションでマネージメント業務を経験後、レコード会社に勤務し宣伝業務を経験。現在はフリーランスでPR・広報などを行う。MUSUBUの活動の為、東京と福島を往復する日々を送る。

profile

SAYAKA SUENAGA
末永早夏

1981年福島県いわき市小名浜生まれ。福島高専3年修了後、単身渡英。イースト・アングリア大学で発展途上国の開発について学ぶ。帰国後、地元企業へ就職するも、途上国への想いをさらに強めることになり、2009年(株)ethicafeを設立。フェアトレードを通して世界の貧困問題と奮闘中。http://www.ethicafe.co.jp/

profile

RYO SHIRAI
白井 亮

写真家。1979年福島県いわき市生まれ。2003年大阪芸術大学写真学科卒業後、電通スタジオ勤務を経て、2007年より上田義彦氏に師事。2011年に独立しフリーランスとして活動を始める。雑誌、広告などの撮影を手がけながら作品を撮り続けている。mail@ryoshirai.com

Coquette

フェミニンなデザインに込められた、丁寧な日本のものづくり。

東京都台東区、JR御徒町駅からほど近いところに
ショップを構える、革バッグのブランド・Coquette(コケット)。
古い小さなビルが建ち並ぶなか、
この店も昭和に建てられたというビルの1階をリノベーションしていて、
使い込まれたレトロな床がかわいい。
鳥かごやりぼんをモチーフにしたバッグ、ピンクや黄色のカラフルなお財布など、
フェミニンだけれど、どこかチャーミングなデザインの革小物が並ぶ。
「Coquetteのバッグは、女性が心躍るようなデザインでありたいんです」
と話すのはオーナーであり、デザイナーの林きょうこさん。
30代になってから会社員を辞め、
バッグデザイナーを志した林さんが目指したものは女性らしいバッグをつくるということ。
「使ううちに、出てくる風合いや色の深みを楽しめるのは革のいいところ。
でも、その風合いを生かしたブランドは数多くありました。
私がつくりたいと思ったのは、そうしたスタイルではなく、
端正な縫製や加工が施されながらも、女性らしい華やかな色やデザインの革バッグでした」

しかし、そのような、カラフルな革はいったいどこがつくってくれるのか。
ツテを頼りに、革屋さんや革問屋さんを探し歩くも、
なかなか思い描いている革と出合えずに切羽詰まっていた。
「“うちはロットがあるからお断り”って言われたこともありますね。
そんな1個や2個じゃつくれないよって。
革問屋さんに行き着いても、見たことのある加工の革しかない。
こんな色の革をつくってほしいと言っても、
最小販売ロットの価格が高額で私には手が出せなかったり。
もうブランドは立ち上げられないかもという不安の渦中にいたところ、
『墨田キール』に出会ってオリジナル加工の革をつくってもらえた。
墨田キールがなければ、Coquetteは生まれなかったですね。本当に感謝しているんです」

Coquetteの商品は、すべて台東区や墨田区近郊に住む職人たちによってつくられている。
革の染色や型押し、そして裁断や縫製まで、それぞれ専門の職人がいて、
ひとつひとつ丁寧に仕上げられたものだ。
墨田キールもそんな職人工場のひとつ。
林さんの救世主とも言える、墨田キールとはどんな工場なのだろう。
林さんの案内で現場に向かった。

出迎えてくれた、林きょうこさん。クラッシックなCoquetteの外観はパリのお菓子屋さんのような雰囲気。

昔ながらの職人文化がいまも残る、革加工のスペシャリスト。

Coquetteから車で20分ほどのところにある墨田キールは、
革の染色から、型押しなどの仕上げまでを行う工場だ。
本来、革の「染色」と「仕上げ」を行う工場は別々のことが多い。
両方を一括で行う墨田キールは、自ずと加工できる幅も広がる。
ここで使われる型版は200種類以上あり、
日本製のほか、ドイツ製やイタリア製など。高額なもので1点120万円以上するという。
毎年イタリアで行われている見本市に足を運び、仕入れるのだと、
社長の長谷川憲司さんが教えてくれた。
箔のカラーバリエーションは140種類以上あり、フィルムも数十種類、
型版や染色、箔などの組み合わせ次第で加工のバリエーションは無限大にある。
社長に案内され、Coquetteの型のひとつを見せてもらった。
まず、仕入れた牛革を染め、「ユーロフラワー」という花柄の型押しをほどこす。
その後、型押しした模様の凹凸の凸のところだけ箔を貼った状態になるよう、加工する。
他にも同様の染色と型押しで全面に箔を貼ってから、
凸の部分だけ、箔をはがすパターンもある。

型版がしまわれているスチールの棚。代々使われてきた歴史を感じる。

4階建ての作業場の1階には、型版やプレス機などが置かれている。右端が社長の長谷川憲司さん。

色を染めたり、のりを施したりと、難しい調色や特殊加工を担当するのは、
この道50年のベテラン職人、三木裕二さん。
三木さんはいくつかの染料をまぜて調色しながら、まずは何度か革の切れ端で試し染め。
色が決まれば、革全体に染料を吹きつけていく。その作業の早いこと早いこと。
三木さんはあっという間に作業を終わらせてしまう。
その精度の高さは言うまでもない。
「初めて墨田キールを訪れたときも三木さんのこの作業場に連れてきてもらったんです。
こんなパール感と色にしたいって口頭で伝えたら、
三木さんがその場で調色して革の切れ端を染めてくれて。
その色が一発でイメージ通りだったんで、もう感動でした」と、林さんは振り返る。
実は、林さんの前職は、資生堂でメーキャップブランドの化粧品の開発を担当していた。
パールの調色の難しさは誰よりも熟知している。
「三木さんのすごいところは、言葉だけで、私が思い描く色の着地点を理解してくれて、
それを瞬時に再現できる高い感度」だと言う林さん。
「かなり私もしつこいんだと思うんですけど」と苦笑するも、
早速三木さんに別の加工の相談を始めていた。

型を押した革に、箔を貼るための糊をのせる三木さん。一見簡単そうに見えるこの作業。型押しの凸の部分にだけぬるため、高い技術が必要なのだという。

キレイに整理整頓されている三木さんの作業場。細やかに道具を扱っているのがうかがえる。

「普段は口数も少ないし、こんな風に三木さんのところにまで来れる人は、
なかなかいないんだけど。林さんは熱心だからね」と社長が耳打ちする。
「入ったばっかりのころはさ、俺もなかなか頼みを聞いてもらえないこともあったよ。
でも自分じゃうまくできなかったからね。だから、自分でもひと通りできるように勉強したよ。
そういう世界だから、職人さんて。みんな口悪くても、気持ちのある人たちだから、
こっちが一生懸命やれば、一生懸命やってくれるんだよね」
よりよいものをつくりたい。そのまっすぐな林さんの思いが職人を突き動かし、
また新たなデザインが生まれていくのかしれない。

普段は、個人のデザイナーと会うことは少ないと言う社長だが、
林さんは知人の紹介だったからと話す。
そんなふたりを引き合わせたのは、「台東区デザイナーズビレッジ」の、
インキュベーションマネージャー(村長)を務める、鈴木淳さんだ。

林さんは「ここに来ていろいろなサンプルを見て、三木さんや社長と話すことが、一番のアイデアソースになる」と言う。

ユーロフラワーの型でつくられたCoquetteの商品。ちなみに、Coquetteのバッグにはどこかに必ずてんとう虫のモチーフが隠れているのだそう。

デザイナーを育て、職人技術を生かす、台東区のものづくり。

台東区デザイナーズビレッジとは、廃校になった小学校の跡地を活用して、
起業5年以内のデザイナーを支援する施設。
もともと、台東区は、古くから革小物やジュエリーなどの問屋が軒を連ね、
職人が出入りするものづくりのまち。
生産拠点が安価なアジアへと移行していくなかで、
日本のものづくりは高付加価値なデザインが求められ、
その開発を担うデザイナーを誘致する目的で、台東区デザイナーズビレッジはつくられた。
鈴木さんは、この施設の創立から村長を務め、
入居者の相談にのったり、さまざまな組合に顔を出したりと
このエリアのものづくりを支援している。
本来、クリエイターと付き合いをほとんどしない工場でも、
鈴木さんが入居者を連れて工場見学に行くなどして、
そこから付き合いが始まることもあるのだという。
だから、卒業後も台東区を拠点にものづくりを続けていく人は多い。
林さんも、そんな卒業生のひとりだ。

台東区デザイナーズビレッジの外観。小学校の正面玄関の面影がそのまま残る。

前職を辞めた林さんは、デザイナーズビレッジに一期生として入居。
1室をアトリエとして拠点にしながら、およそ3年間、自分のブランドの足場を固めた。
「サンプルをつくるにもかなり費用がかかるから、
当時はいつも通帳の残高とにらめっこ。
続けられたのは単純に辞める勇気がなかっただけなんです」と林さんは笑う。
墨田キールと巡り合い、展示会に出展し続けた結果、
次第に受注がくるようになり、いまは女性誌にも紹介される人気のブランドとなった。
最近では台湾で展示会を行うなど、
林さんの感性をかたちにした職人たちの丁寧な仕事は着実にファンを増やしている。
「金具を揃えたり、職人に相談したり。
ものづくりするのにいろんなことが自転車で回れちゃうんです、このまち。
よそ者を受け入れてくれる下町の懐の深さもある。
私は職人さんにつくってもらっているって意識が強い一方で、
その技術を後世へ残すために、デザイナーとして
彼らに仕事を出し続けていくことも使命かなと、いまは思っています。
これからもずっと、女性が輝けるようなバッグをつくっていきたいですね」

現在入居している、洋服のデザイナー・中島トキコさんのアトリエ。きっとまたステキなものづくりの出合いが待っているのだろう。

Coquetteを支える職人たちをモチーフに制作されたアニメーション。

第一被服

人気のデイリーウエアブランドを支えるのは、家族総出の熟練職人たち。

埼玉県草加市の住宅地に静かに佇む、縫製工場「第一被服」は、
80年以上、スラックスを専門に手がけてきた。
今は、鎌倉・由比ヶ浜に本店を構える、JAMES & COのブランド、
「STUDIO ORIBE(スタジオ オリベ)」の商品を作っている。

2階にある裁断部屋。裁断の際に出る布ぼこりを払うため至る所に扇風機が吊されている。

100平米ほどある2階建ての工場内には、
カタカタカタ、と、小気味いいミシンの音が鳴り響く。
検反、裁断、地縫い、カン縫い、千鳥、カンヌキなどの、
パンツ作りに必要な60ほどある行程を
特殊なミシンを使いながらすべてここでこなす。
職人たちは、この道50年のベテランばかり。
裁断を担当するのは、三男の鈴木国夫さん(75歳)。
縫い場を担当するのは、次男・庸夫さん(77歳)と、
奥さまの勝子さん、息子の弘久さん、従姉妹の見木恵子さん。
夕方にはアルバイトとしてお孫さんもやって来る。
家族が営む、小さな小さな工場なのだ。

ミシンをかける庸夫さん。1着、1着、糸の調子を見ながら作業をすすめていく。

「もともと親父が始めて、戦後に兄弟みんなでやろうってなったんだ。
でも、最初は、全然ダメ。問屋から返品されてばかりだよ(笑)。
だから、どこが悪かったのか、どうしたらいいものが作れるかって、
兄弟で話し合ってさ。そのうち、俺たちが作ったものが、
三越やなんかのデパートでも扱われるようになっていったんだよ」
と、国夫さんがニヤリと笑う。
ときには、朝3時から工場を動かすこともあったという。
地道に、真面目に、より良いものを。
いつしか良質なスラックスを生み出せるようになっていた。

50年以上使い続けている年代もののボタンホール用のミシン。アメリカのリース社のもの。

その後、取引していた問屋さんが倒産するなど、
設備と技術があっても仕事が先細りする一方だった90年代後半。
庸夫さんの息子・輝永さんがアパレルブランドを立ち上げるから、
手伝ってほしいという話が持ち上がった。
それが、STUDIO ORIBEだ。

STUDIO ORIBEは、塩谷雅芳さん、鈴木輝永さんが
1999年に立ち上げたデイリーウエアブランド。
立ち上げ当初からデザイン性と履き心地に定評のある、
「L-ポケットパンツ」は、「SHIPS」をはじめ、
全国70店舗以上で扱われおり、着実にファンが増えている。

もともと、メーカーで生産管理の仕事をしていた輝永さん。
「たくさんの縫製工場を見て、おやじの仕事の丁寧さが改めてわかりましたね。
昔から俺の着ている服の縫製にずっと文句言ってたくらいですから。
ステッチひとつをとっても、途中で切れたら、全部ほどいて縫い直す。
そんな当たり前のことをしてくれる工場は少ないんです」

「私は器用ではないんですけどね」と微笑む奥さまの勝子さん。さすが庸夫さんとの息はぴったり。

1着につき、1行程分のミシンをかけるのは、ものの1〜2分。
見ていると単純なようだが、正確さと速さが求められる。
「幅は3センチ。定規を当てて、ピシっとまっすぐね。
ぴったり縫わないと」と、冗談を言いながらも、
庸夫さんは、みるみるうちに作業をこなしていく。
そして、「これは少し強すぎだな」と言って、
糸の具合やミシンの器具を調整。
細かい部分の布を裏返すのはピンセットを使う。
採算を考えれば、作業時間を減らすほうがいいけれど、
品質には、絶対に手を抜かないのが、第一被服の仕事。
「だって、キレイにできないとシャクだからさ」
と国夫さんも裁断室で作業を進めていた。
「ひと手間を惜しまない。
だから、上がってくるものはもちろんきれい。
職人として、信頼できるんですよね」と輝永さんは話す。

生地を裏返すのもピンセットで。「こうしないと直角にできないからね」と庸夫さん。

特に、STUDIO ORIBEは日常着を提案するブランド。
丁寧で確実な縫製が、服の寿命を延ばす。
「ちょっとスタイリッシュなデザインで、
毎日着たいようなパンツってありそうでないんですよ。
見つけても、次のシーズンはカタチが変わっているとか。
だからSTUDIO ORIBEは、
定番としてずっと作り続けていきたいと思っています。
適正な価格と、確かなクオリティーで。
そのためには、やはりいい職人さんが必要ですね」
と企画を担当している塩谷さんは語る。

由比ヶ浜からほど近いJAMES & COの店舗。道に面して大きく開かれた入り口からは心地よい浜風が吹いてくる。

次から次へと新しい服が溢れていく世の中で、
定番を作り続けていく。
その潔い信念を実現させるのは、誠実な仕事を続けてきた職人たち。
決して特殊な技術を使っているわけではなく、
丁寧に、そしてキレイに仕上げること。
そんなものづくりの原点が一枚のパンツに宿っている。

L-ポケットパンツの型紙と完成品。タグには、STUDIO ORIBEからのメッセージが刻まれている。

(左下から時計まわりに)庸夫さん、国夫さん、弘久さん、見木恵子さん、勝子さん。

井上仏壇店

仏壇の漆塗りをカフェグッズに生かす。

300年以上の歴史を持つ彦根仏壇は、経済産業大臣が指定する
「伝統的工芸品」として認定されている。
幅が120cmもあるような大型仏壇が特徴だ。
通常、仏壇を製作するには、
木地(木工)、宮殿、彫刻、錺金具(かざりかなぐ)、漆塗り、蒔絵、金箔押しと、
7つの工程が必要となる。すべてに専門の職人が存在し、
ひとつでも欠けると仏壇をつくることはできない。
しかし他の多くの伝統工芸と同じく、
彦根仏壇もまた、後継者不足や売り上げ低下など、先細りの状況に悩んでいる。
特に職人の数が少なくなり、
このままでは伝統技術の伝承ができなくなってしまう。
そこで、1901年創業の井上仏壇店の井上昌一さんは、
「彦根仏壇の伝統技術を使ってほかの商品をつくる」ことを考えた。

1000万円を超えるような仏壇がたくさん展示されている井上仏壇店。この周辺は仏壇ストリートとなっている。

「仏壇は今では非日常的だし、高いし、一生に一度の買い物。
しかも海外では売れません。
だから、伝統技術をもっと身近に感じてもらえる商品を
つくらなければならないと思ったんです。
でも私たちの発想は凝り固まってしまって、新しいものは生まれにくい。
そこでなるべく仏壇と正反対のイメージの商品が考えられるように、
クルツインクの島村卓実さんという
外部のプロダクトデザイナーにお願いすることになりました」

それが「chanto」。
chantoはコーヒーミルやトレイ、ドリッパーなどのカフェグッズで、
ウッドと鮮やかなカラーリングの組み合わせがポップな印象。
まさか仏壇屋さんが生み出したとは思えない。
しかし色が塗ってある部分は、すべて彦根仏壇の漆塗りなのだ。

内側が塗られる前の状態。これが抹茶やカフェオレ用の大型カップ「MATCHA」となる。

「通常、漆は黒と赤しかないんですよ。
でも、私がお付き合いのあった中嶋誠作さんという漆の塗師の方が、
10年ほど前からさまざまな漆の色の研究をしていたんです。
その色サンプルをデザイナーの島村さんと一緒に見て、
“こんな漆の色は今まで見たことがない”という話になり、
chantoの商品開発につながりました」

漆の塗師の中嶋さんは、陶芸もこなし、さらに文化財の修復や骨董品の修理など、多岐に渡って伝統技術を伝える活動に尽力している。

塗師の中嶋誠作さんは、彦根仏壇の塗師だった父親のもとで修業を始め、
30年以上活動している。
漆の可能性を広げるべく、色の研究は欠かさなかったという。
中嶋さんの漆の色があったからこそ、
このchantoが生まれたといっても過言ではない。
数十種類もある色サンプルのなかから10色を選び、
chantoの商品に採用している。漆の特性と難しさを中嶋さんは語る。

板に塗られた数々のカラーサンプル。ここだけ見ていると、漆や伝統技術という言葉は出てこないポップさ。

「漆と顔料を混ぜて色を調合しています。
なるべく漆の分量を多くしたいですが、色によってその割合は違ってきますね。
また、漆は本来アメ色をしているので、
アメ色のフィルター越しに顔料の色を見ることになります。
だから、白や薄いグレーなど、薄くて淡い色になるほど難しい。
厳密に言うと真っ白はできません。
配分や乾かし方にもかなり気を使います。
あまり早く乾かすと、今度は黒っぽくなってしまうのです。
ゆっくりと乾いていくように、湿度と温度を調整する必要があります。
漆は、硬化剤など一切入れずに空気中の水分から
酸素を取り込み自然と硬化する天然樹脂です。
漆にはそんな不思議な力があります」

漆と顔料は、かなり厳密に重量を量って配合している。少しでもズレると色が変わってしまうデリケートな世界。

ムラなくきれいに塗られたばかりの漆塗りを見ると、
ツヤツヤして光沢が美しい。

「きれいに塗ると鏡のようにきれい。
でも、全体をくまなく塗ったサンプル商品を見たときに、
プラスチックのように見えてしまいました。
赤や黒だと我々日本人は見慣れているので、
漆器だとすぐに理解できるのですが、カラフルなものだと漆とは思われない。
それで木目の一定部分を塗らないで残しながら、部分的に塗るようにしました」
と井上さんは当初を振り返る。
確かにそのほうがバランスがよく、きれいだし、今の時代に合っているようだ。

「ESPRESSO」カップの塗り工程。真空ろくろを使ってカップを固定し、内側を塗っていく。

塗った商品は、ほこりをつけないために素早く室(むろ)のなかへ。ストーブや除湿機などで、室のなかの温度と湿度は常に管理されている。

古くから日本の風土に伝えられてきた漆塗り。
伝統工芸である彦根仏壇の塗師が未来のために研究し、
それを生かした商品ができた。これが広がっていけば、
他の職人の活動をもっと活発にできるかもしれない。

「ただし、前述した通り、仏壇製作には7工程あり、
それぞれに職人がいるのですが、
今回のchantoでお願いできたのは、漆塗りの職人だけです。
他の職人にも、何らかのかたち、彼らの伝統技術を生かしてもらえるような
商品をこれからも考えていきたいと思っています。
それが私の彦根仏壇業界への恩返しです」
と井上さんは意欲的だ。

chantoは、「しゃんと」と読み、彦根の言葉で“背筋を伸ばし、
集中したり、ものごとをきちんとする行為”を表すという。
彦根仏壇の精巧で緻密な伝統技術は、きわめて“しゃんと”している。
廃れさせてはいけない技術のために、
まずはコーヒーとともに、漆の美しさとあたたかみも味わおう。

chantoの商品は、現在7種類。木と漆という天然素材からできた、ひとにやさしいデザイン×伝統の技。

川端健夫さん 美愛さん

木造校舎を改装して、工房とカフェ、住まいをつくる。

細くて急な道を少し登っていくと、
空間がひらけ、そこに味のある建物が現れる。
ギャラリー、カフェ、パティスリー、木工工房、
そしてこれらを運営している川端夫妻の自宅という複合施設だ。
一目見ただけで、歴史がつまっていそうな風貌は、なんだか貫録がある。

「この建物は築90年くらいです。聞くところによると、
もともと蚕小屋で、養蚕業の工場のなかのひとつの施設だったようです。
その後、農業学校としても使われたので、今も学校の趣は残されていますよね」
と語るのは、現在、木工業を営んでいる川端健夫さん。

もともとの意匠を最大限に活かして、モダンさを少しプラス。

夫妻は関西出身だが、東京で、健夫さんは木工の修業、
奥さんの美愛さんはパティシエの修業をしていた。
そしてふたりは独立の時期を迎え、店舗や工房となる場所を探し始める。

「パティスリーのお店ができて、木工ができて、
住めるようなところを探していたんですが、そんな場所はなかなかなくて。
以前に、この近くで働いていたことがあったので、
その頃の知り合いに相談してみたんです。そのツテでこちらを見つけました」

丘の上に建ち、眺めこそ最高の立地だが、
広すぎるし、当時はボロボロだったという。

「窓ガラスもほとんど割れていたし、お化け屋敷みたいだった(笑)。
これを住めるように直すなんて想像できませんでしたよ。
でも、その当時から将来的にはいろいろな人が集まれるように
ギャラリーも含めた施設にしたいね、って話していたので、
ちょっと早いけどがんばってみようと」

横に長いさまが校舎のような雰囲気。ひさしの金具が不思議とデコラティブだ。

とはいえ、これだけの広さ。自分たちだけで改修するには手に余る。

「最初は自分たちでやろうと思ったけど、とにかくボロボロ。
僕たちが入る前はニット工場だったらしくて、
電気配線がいたるところにあったんです。
そんなのもう生きてないだろうと思ってペンチで切ろうとしたら、
ボンッと飛ばされて(笑)。そんな状態からのスタートでした。
それで知り合いをたくさん呼んで、その友達や家族で
大工経験や電気設備系の仕事をしている人たちに助けてもらって、
なんとか住めるようになるまでこぎ着けました」

質素だが、深みのある空間はこうしてできあがった。
もともとあったものが活かされているからこそ、ぬくもりを感じられるのだろう。

「新しいものはほとんどないですね。
構造上、外光を取り入れやすいように仕切りを外したり、
むしろ間引く作業をしました。最低限のことしかしていないんですけど、
いま思えば、そのほうが創造力を膨らませられるようなものになって、
良かったと思います。そういう意味では、建物に恵まれたというかね。
僕たちはほとんど何もしていないですよ。建物がもともと持っていた力です」

木造で築90年。さまざまな会社や業者が入れ替わりながらも生きてきた建物は、
知らず知らずに力を蓄えてきたのだろう。

建物にはいると最初にお出迎えしてくれるのはこのギャラリースペース。

自分たちが住んでいる“ココ”から、文化を発信する。

東京にいたふたりは、物件を探すとき、都会ではない場所を求めていたという。
関西でも、奈良や滋賀で探した。
自分たちの仕事をするうえで、東京では得られないものをそこに感じていたからだ。

「自然に近いところでやりたいという思いはふたりのなかにありました。
都会だと、自分をブロックしている、防御壁をつくっている気がするんです。
でもここではそんなことせずに、いつも感覚全開。
いろいろなことを感じ取れる精神状態での暮らしは気持ちがいい。
僕たちみたいに、ものづくりをして生活している人間にとっては住みやすいです。
もし滋賀じゃなかったら、ぜんぜん違うものをつくっていたかもしれませんね」

木製スプーンに手作業で紙やすりをかける川端健夫さんの工房スタッフ。ただいま修業中。

そうしてこの場所でものづくりにはげむふたり。健夫さんがつくるのは、
カフェで提供されるスプーンやプレートから、テーブルやイスまで。
そして各地の展覧会で発表する木工なども制作している。
取材時は、「木の台所道具展」に出展するまな板を丁寧に磨いていた。

お菓子をつくるその手に、ついつい見入ってしまうオープンキッチン。店内に甘い香りが漂う。

奥さんの美愛さんが担当しているパティスリーでは、
マドレーヌやフィナンシェなどの焼き菓子が並ぶ。
もちろん併設のカフェでいただくことも可能だ。
奥に見えるオープンキッチンでは、つくっている様子を見ることができる。
その反対側は、南向きで自然光がたっぷり。
丘の上から田園風景を眺めながら、
のんびりと過ごすことができて、とても居心地がいい。
そうした時間を過ごすためか、
週末になると、大阪、京都、名古屋からもお客さんが訪れる。

広がる景色についついぼーっとしてしまうカフェスペース。日差しもあたたかい。

「最近、スイーツランチを始めました。
最後にデザートをおいしくいただいてもらうためのコースです。
食事は野菜だけを使った料理になります。
ほとんどは地元産の野菜です。デザートにも、
そのときの料理で使った野菜をジャムにアレンジしたりしています」
と美愛さんのこだわりと地元への愛が料理につまっている。

旧称「宮村」であったこの地の子どもたちをイメージしたシュークリーム「miyacco」。

このように、ふたりは地元に根ざした活動を大切にしている。
設立当初から夢見ていた「文化の発電所にしたい」という思いがあるからだ。
ギャラリーも併設し、
健夫さんが活動のなかで知り合った人たちを中心に展示をしてもらっている。
建物、食べ物、土地など、暮らしのなかから生まれるものが、
彼らが考える“文化”であり、自分たちの身近なものから発信すること。
決して都会ではなくても可能な気がした。

焼き菓子やケーキのほか、旬の果物を使った10数種類のコンフィチュールが人気。

たらば書房

きっと誰かが読みたいって思う本だけが並ぶ。

鎌倉とか湘南といったしゃれたまちの響きに、つい身構えてしまう僕だが、
鎌倉駅前には「たらば書房」という本屋があって、
とてもいいよと教えてもらったので、訪れてみた。

鎌倉駅西口、駅前ロータリーを抜けてわずか2、3軒目、
外から見れば失礼ながらどこにでもありそうな駅前の本屋。
しかし中に入り、店内を眺めただけできめ細やかに
本が選ばれていることが伝わってくる。奥に深い店内は、
僕がその日のスケジュール変更を余儀なくされるほどの濃い密度で迎えてくれた。

1974年に鎌倉駅西口の御成通りにオープンした「たらば書房」が、
今の場所に移転したのは28年前。
現在は店長の川瀬由美子さんらスタッフ7人でこのお店を運営している。

その日はお休みだった川瀬さんがわざわざ来て、店内を案内してくれた。
20坪弱の店内は間口の割に奥に長いつくり。入口手前には、雑誌などが並ぶ棚、
店内に入ると左側に小さなレジカウンターがあって、
店内壁一面の本棚に加えて、背の高さほどの本棚が2列設置されている。

見回してすぐに気づくのは、簡単にいうと、
棚にざまざまなジャンルの本がぎっしり詰まっていること。
例えば、雑誌の面出し(表紙が見えるように置くこと)の棚は、
雑誌の前にサイズの違う雑誌や単行本、文庫本という具合に二重、三重に本が置かれ、
逆に壁の棚は面出しはほとんどなくて、ひたすら本が差してある。
川瀬さんは「古本屋みたいでしょう」と言うが、これは見応えがありそうだ。

入り口付近の女性雑誌棚。雑誌のロゴを隠さないよう手前に同じジャンルの単行本が置かれている。

お米農家を支える健康朝ごはん。 家倉民子さん

からだが資本のお米農家を支える健康朝ごはん。

朝ごはんのみならず、日本の食の原点ともいえるのが米。
そこで米農家の朝ごはんを覗きにきた。
滋賀県長浜市、琵琶湖のほとりで米農家を営んでいる
「お米の家倉(やぐら)」の家倉民子さん。
現在は息子さんが専業農家として米づくりに励んでいる。
もっと農家らしい豪快な朝ごはんを思い描いていると、
想像以上に、健康を考えるヘルシー志向だった。

「黄色とか赤とか黒とか白とか、なるべくいろいろなものを食べたいんです。
味付けもしょっぱくならないように、特に塩分には気を使っています。
塩は1日6gが理想」
目分量でもおいしい“おっかさんの料理”のようでいて、きっちり計算されている。
いただいてみると、どれも薄味だが、しっかりと素材の風味が生かされている。
ほとんどが自宅でとれたものや自家製なのだ。

「白菜と人参はうちで採れたもの。野菜は自分たちが食べる分だけ育てています。
この季節になるとなくなってしまうのよ。
黒豆も黒砂糖を使って作ったし、らっきょうも自家製です。
たくわんは主人が漬けたもので、ちょっとしょっぱいわね。
ユズジャムは初めて作ったんだけど、作り過ぎちゃって、3kgも!(笑)」
あっけらかんと笑う姿にホッとする。いいかあちゃんだ。

さて、米のプロということで、
“おいしいお米の炊き方を教えてください”と尋ねると
「こっちが教えてほしいわ(笑)」とまたまたにこやかに返す。
ここは息子の家倉敬和さんがフォローしてくれた。
「今日のご飯は無農薬のこしひかりです。
昨日の夜から水に浸けておきましたが、ベストは1時間半くらいです。
でも、そのために朝早く起きるのも大変なので、
前夜から漬けておいても割とおいしく食べられる『こしひかり』にしました。
だから、ごはんを朝炊く派、夜炊く派、
それぞれの生活リズムに合わせた浸水時間のお米を選ぶといいですよ」
なるほど、ライフスタイルに合わせた浸水時間というのは考えたことがなかった。

民子さんに話を聞いていると、
「新聞に載っていた、テレビで見た」という料理法やテクニックを話す。
一度試してみて良ければ実際に取り入れてみるという。
実に研究熱心だが、それもそのはず、滋賀県健康促進連絡協議会で活動しており、
また地元長浜の料理研究家である肥田文子さんの活動をお手伝いしているからだ。
肥田文子さんは湖北町食事文化研究会の代表で、
著作『忘れぬうちに伝えたい湖北街の伝統食・地産食』で
農山漁村女性・生活活動支援協会の
「平成21年度 農山漁村いきいきシニア活動 優良賞」を受賞。
さらに、農林水産省が選ぶ「平成23年度 地産地消の仕事人」に選ばれている。

「健康促進協議会は、厚生省から補助金をもらっているんですけど、
一度、事業仕分けで、廃止になりかけたの(笑)。
もっと若い人に郷土料理を伝えたいんだけど、料理教室をやっても、
平日はみなさん勤めてるし、日曜日も子どものコトとかで、
なかなか人が集まらないんです。年配が対象になってしまってねぇ」

こう見えて(!?)、トラクターもコンバインも田植え機も乗りこなす、
スーパーお母さん。いつまでも明るく笑う笑顔で、
健康的な郷土食を次代に伝えていってほしい。
ごちそうさまでした。

豊郷小学校旧校舎群

農村に佇む、1930年代の最先端の設備が整った白亜の小学校。

10年ほど前の校舎解体騒動、
最近ではアニメ『けいおん!』の舞台のモデルとして
ファンが聖地巡礼に訪れるなど、
話題を振りまくことの多い豊郷小学校旧校舎だが、
実際にその場所に行ってみると、
思った以上に雄大に、しかし静かに佇んでいる、という印象だ。

1937年に建築され、当時、東洋一の教育の殿堂と呼ばれた豊郷小学校。
本校の出身で丸紅の専務であった古川鉄治郎が自らの資産の3分の2を投じ、
アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計、
完成後は、豊郷町へと寄附された。
古川鉄治郎は、海外への視察に行く機会があり、
そこで海外の科学技術の進歩に驚き、教育への重要性を感じたという。
また海外には財団などが学校をつくるために寄附するなど、
社会福祉のために広く還元していく考え方があり、感銘を受けたようだ。

「ウサギとカメ」の物語のカメを古川鉄治郎に見立て、あちこちの階段をウサギとカメが登っている。

こうして建築された豊郷小学校は、当時、農村のど真ん中に建てられ、
当初よりまちのランドマークとして機能していた。
「手紙などで残っていますが、設備などいくらかかっても構わないから、
とにかく一流のものをつくろうとしていたようです。
すでにヴォーリズは大阪や神戸で大学をつくるなど、名の知れた建築家でした。
彼は、すごく手間のかかる住宅の設計を1000軒以上手がけています。
生活する人のことを考えてデザインするというポリシーがあったようで、
この校舎にも随所に表れています」と語る豊郷町産業振興課の清水純一郎さん。

一番上の窓は外側に、下二段は廊下の生徒にぶつからないように内側に開くように工夫されている。

引き戸ではなく扉であったため、そのガイドとして黄色い線が描かれている。

外から見ると左右シンメトリーで白亜の校舎。
当時としては珍しい鉄筋コンクリートでできている。
校舎内に入ってみると、一転、木のぬくもりを感じさせる。
米ぬかで磨かれていたという廊下はツルツルで、走ったら危なそう。
直線100mに及ぶこんなに真っすぐな廊下を、小学生が走らないわけがない。
床の木材は海外から輸入されたものだそうだが、
大切に使われていたことを感じさせる艶と輝きを放っている。
「最低限必要な耐震補強はしながらも、
限りなくオリジナルに近い姿に戻すべく、改修しました。
なるべくあったものをそのまま使っています。
各教室の鍵も同じままなので、管理が大変です(笑)」(同・清水さん)

ボイラー室で焚いた火で全教室を暖めるセントラルヒーティングを採用。その熱を利用した弁当保温所も。

他にも、特別教室が充実していた。
青年学校という専門学校のような施設が併設されており、
大人向けの測量器具や、教材用の変圧器、
講堂にはスタンウェイのピアノなど、備品だけでもかなり高額になる。
先生のための宿舎も建てたり、維持管理の基金を設立してくれたり。
古川鉄治郎は、校舎というハードだけでなく、ソフトの向上にも尽力し、
トータルで教育に力を入れていたようだ。

天球儀やX線装置、暗室など、およそ小学生にはハイレベルな設備がたくさん。

現在は、町立図書館や子育て支援センターなどが1階に入っている。
そして講堂は、裏にある現豊郷小学校の修了式や卒業式などで
今でも使われている。
取材時も、まだ卒業式の花飾りが取り付けられたままだった。
2002年まで65年間、実際に使われていて、
今もこうして町民の役に立っている。
ただ歴史的に貴重だからとアンタッチャブルなものとして奉るのではなく、
使いながら保存されていることは、建築自体としても本望だろう。
そうすれば、もっともっと長く、後世に残していけるはずだ。

現在でもイベントごとに使われている講堂。前に向かって傾斜になっている。はね上げ式の窓の形状が特徴的だ。

西村記念館

大正時代、独学の建築家が「家族との時間」を設計に込めた新しさ。

和歌山県の南部、新宮市に西村記念館はある。
現在は、記念館として一般公開されているこの洋館は、
建築家・西村伊作(1884〜1963)が、自宅として、
大正4(1915)年に建てたものだ。
伊作は、22歳のときに最初の自邸を手がけて以来、
全国に160ほどの建築設計に関わっている。
故郷・新宮市では5軒ほど手がけているが、
現存しているのは、この西村記念館を含め2軒のみ。

1階居間と食堂。中央の家具は伊作オリジナルデザインのもの。

玄関を入ると、ホールの右手に、居間(パーラー)と食堂が一体となった、
今でいう、リビングダイニングがある。
伊作は、家族が過ごすための部屋としてこの一室を南の庭に面して大きく配置。
庭への眺望も意識されていて、窓が多く、気持ちのよい光が差し込んでくる。
日当たりがよく、ぽかぽか居心地のよい空間だ。
元来、伝統的な日本家屋とは「客間」を大きくとり、
来客に対して意識された間取りだった。
この家が建築された大正初期、伊作のような、住まい手本位の設計は先進的だった。

食堂の床は組み木になっていてお洒落。この部屋から庭へとつながるドアもある(現在は開閉不可)。

「伊作は、家を“人を迎え入れる場所”というよりも、
“家族が過ごすための場所”考えていたようです。
そのためには、居間が重要だと考え、家の一番よい場所に設計した。
既存のものにとらわれず、
必要あれば柔軟に変えていこうという意識が強かったようです。
彼の考えは新宮市で最初のキリスト教徒であった父・余平が、
洋式の生活を勧めていたことも、影響しています。
また、伊作は、自由な気風と芸術教育を目指した、
東京・お茶の水にある文化学院の創始者としても知られています」
西村記念館の管理人を務める吉田勝正さんが、そう教えてくれた。

伊作は、ここでの暮らしを著書でこんなふうに語っている。
“子どもたちの数がふえ、そして大きくなるに従って、
ご飯を食べるときは食堂のテーブルを大きく引きのばして、
その回りにいっぱいすわった。
……また来合わせた客もいっしょになると
食堂が非常ににぎやかであった。
食事の間もいろいろな話をする。子供も自由にいろいろ話をして
にぎやかにディスカッションしだす。……”(自伝『我に益あり』より)

台所にある食器棚も伊作のデザイン。白を基調としたどこかモダンなつくり。

他にも西村記念館には、先進的な間取りや設備が見られる。
1階には、居間と食堂、事務室、台所を、
2階には寝室と浴室を配置。地下室にボイラーを設置して、
家全体の暖房を備えていたり、お湯を沸かすのに利用したりと、
暮らしの快適さが考えられた最先端の設備が整っていた。
このような伊作の設計はすべて独学で、
そのほとんどがアメリカの雑誌や本から知識を得ていた。
外国のリビング中心の実用的な暮らし方を、
日本の住まいに取り入れようとしたのだ。
だからと言って、すべてを模倣しているわけではない。
外観には、「ガンギ」と呼ばれる
紀南地方の山間の民家で見られる幕板を下ろすなど、
伊作は、その土地の気候風土に根ざした民家に学ぶことも大切だと考えていた。
さらに、椅子やテーブル、チェストなどの家具もほとんど伊作自らデザイン。
それらに際だった装飾は少なく、
最小限におさえられた控えめな色づかいにまとめられ、
落ち着きのある内装になっている。
生活の実用性を意識しながらも、洗練された伊作のセンスが感じとれる。

2階にある、寝室。コバルトブルーのタイルが張られた化粧台も伊作デザイン。

このような伊作の設計により西村記念館は、
近代の重要な住宅建築として評価され、2010年に重要文化財として認定された。
西村家が大切に住み継いできた家を、1998年に新宮市で寄贈を受けてから、
市や、有志で集う「西村記念館を守り伝える会」などの
地道な保存活動が実を結んだ。
ツタを取り払ったり、床を修復したりと、
少しずつ後世へ語り継ぐための保存活動が行われている。
築100年を迎えようとする、木造2階建ての西村記念館は、老朽化が著しいのが現状だ。

「大正デモクラシー」と言われるように、
政治的にも、文化的にも自由主義的考え方が現われはじめた時代。
伊作は、そのような考えを住まい設計で実践しようとした。
そして、家族と過ごす時間を最も大切に設計された彼の自邸は、
今も変わらない住まいのあり方かもしれない。

玄関から庭へと入る木戸。丁寧につまれた石垣は、どこか南欧をかんじさせる佇まい。

源じろうさん

改めて気づいた、和歌山の海の景色の美しさ。

昨年11月に和歌山市の片男波公園で開催された
アート&クラフトイベント「満潮祭」で大会委員長を務めた、源じろうさんこと、半田雅義さん。
本業はリノベーションカフェのオーナーだが、
和歌山市で発行される情報誌『アガサス』に連載を持ったり、
イベントを行ったり、和歌山カルチャーを発信しているひとりだ。
ちなみに、「源じろう」とは、最初のお店の屋号で、
知人たちの間で呼ばれているうちにいつのまにかそれを通称にしてしまっているのだそう。
満潮祭は、『アガサス』の25周年記念の特別イベントとして開催されたもので、
和歌山という土地の美しさと、和歌山でものづくりをする作家のことを
多くの人に知ってほしいというのがコンセプト。
和歌山県内の陶芸家やアーティストのお店のほか、
ミュージシャンの七尾旅人やU-zhaanの無料ライブも開かれ、当日は多くの人が詰めかけた。
「和歌山にもこんなに面白いものをつくる人がいたんだってわかれば、
地元の人も“和歌山も捨てたもんじゃないな”って自信がつくと思ったんです。
それくらい、やっぱり今、まちの元気がなくなってきていると思う」

カウンター上部に取り付けた彩やかな色が美しいスポットライト。

和歌山市から海岸に沿って1時間ほど南下した有田市にある「rub luck cafe」は、
源じろうさんが和歌山の美しい景色をもっと多くの人に知ってほしいと、
リノベーションを手がけたカフェだ。
「和歌山の自然がありのままに見られるカフェをつくりたかったんです。
有田市に訪れてみると、海の景観がすばらしくきれいだったんですね。
この海の景色は昔から何も変わってないんやろうなって思ったんです。
以前、器を売る店を営んでいたとき、焼き物が好きで、
ずっと器を売ってきたんですが、自分の店の商品は、
他の店とどこに違いをつければいいのかわからなかった。
京都の器を扱えばいいのか、いや違う。
東京で流行った新しいものを取り入れればいいのか、いや違う。
そんな葛藤がずっとあった。
ある日、和歌浦に夕日が沈む景色を見ていて
これは和歌山の財産やないかなぁって。
和歌山の持っているもんで勝負したい。
そう、思うようになっていったんです」
そうして、源じろうさんは、海に面した倉庫を借りて、カフェを開くことを決めた。
「まわりからは反対されましたけど(笑)、人が来るのかとか、大丈夫かとか」
そう話す、源じろうさんの明るい口調からは、不安があったことなど全く感じられなかった。
きっと本人は、rub luck cafeから見える景観に自信があったのだろうし、
さらに、信頼できる多くのスタッフが支えてくれたのだと教えてくれた。
「rub luck cafeの建物は、もとは除虫菊を保存していた倉庫らしいんです。
カフェに来たお客さんが“昔、ここで働いてたんです”って教えてくれた。
そこから、有田市はもともと除虫菊の栽培が有名で、蚊取り線香発祥の地だって知って。
海に魅せられてオープンした店だったんですけど、
ここに来たことは、和歌山を勉強することにつながっていった。
場所がつくられることによって人と人とが出会って、
文化が紡がれていくって、いいなあと思いましたね。
自動販売機では人と人は出会えへんですから。
その頃から、ぼくのなかで、『場所をつくる』ということが
大きなひとつのテーマになり始めたんです」

訪れた日は、rub luck cafeでマイク槙木さんのライブが開催される当日。proyect g oficinaにもポスターが。

和歌山で使われていたものを活かし、魅力ある「場所」をつくる。

源じろうさんは、最近、和歌山市内に、
リノベーションカフェ&バー「proyect g oficina」をオープンさせた。
まちなかにオープンさせた理由は、
若い人たちがカルチャーを発信していく場所が必要だと思ったから。
それくらい、市内は中心地が閑散としていると源じろうさんは嘆く。
このカフェの特長は、住宅などの解体現場から
拾ってきた廃材だけを使ってできているということ。
手間ばかりかかる廃材を使う理由を聞くと、
さらなる源じろうさんのこだわりが出てきた。
「『魔女の宅急便』に出てくるまち並みって、みんなの憧れだと思うんです。
あんな美しいまちに住みたいと思ってますよね?
それなのに、何でも新しく塗り替えられていくじゃないですか、今の日本って。
長い歴史のなかで大切にしてきたものをだんだん削りながら、身売りしてしまっている。
和歌山市だって、もとは、紀州藩の城下町として歴史ある建物がたくさんあったはず。
戦火もあったとは思うけど、歴史ある建物がどんどん変えられてしまっている気がするんです。
だから、ぼくは和歌山が培ってきたものを捨てずに、
まち並みをつくっていけたらなぁと思って、廃材をひらってきたんです。
誰もやらんなら、ぼくがいっこいっこ、つくってこかなって思ってるところなんです(笑)」
和歌山が持っている自然景観を楽しむことから、
もともとあるものを使って新しいカルチャーを編みはじめた源じろうさん。
みんなが自慢したくなるようなまち並みに、少しずつ変わっていくのかもしれない。
源じろうさんの言葉の熱さから、そんな期待を抱かせる。

冗談を交えながら、ときに熱く語る源じろうさんの話に終始ひきこまれてしまった。

最後に、源じろうさんに今後のプランを伺うと、わくわくするような答えが返ってきた。
「和歌山の田舎のほう行ったらね、いい物件がめちゃくちゃ空いてるんですよ。
それをリノベーションして安く1泊2,000円くらいのドミトリーをつくりたいですね。
それくらい、みんなが訪れたら惚れ込んでしまうような面白さが和歌山にはたくさんあると思う。
もともと和歌山が持ってたものを使って、新しい魅力をつくっていけたら楽しいですよね」
モノから場所、そして人のつながりへと、
和歌山の魅力を伝えてきた源じろうさんの挑戦はこれからも進化しながら続いていくようだ。

proyect g oficinaの店内には、アンティークの自転車やインテリア、古書などが置かれ、まるでNYのカフェのような雰囲気。

proyect g oficinaの入り口。看板や内装などはアーティストのウッキー富士原さんと一緒にすすめたという。

山村富貴子さん

備前の良さを経験的に知っている強み。

「私は、他の作家のように備前がやりたくてここに来たわけじゃないんです。
なんとなく、流されるように辿りついたというか(笑)」
大阪出身の山村富貴子さんは、
高校生の時にはインテリアデザインを学び、
卒業後は神戸の「釉薬を使う」陶芸の学校に通っていた。
備前に移り住んでからも
「最初は、全然良さがわからなかった。渋すぎるなぁ」と思っていた。
けれど、さまざまな備前焼に触れ、
自分の眼で確かめていくうちにその世界に引き込まれていくようになる。
「私がつくりたいのは、思わず触りたくなるようなモノなんです。
コップでも器でも、備前焼は使ってこそ真価を発揮するし、
使えば使うほどツヤも増すんです。使う人に育ててもらう。
備前焼のそういう部分が私には合っているんじゃないかなと」
取材時にいただいた、山村さんのカップで飲んだ抹茶は、実にまろやか。
人里離れた、穏やかなアトリエの環境と相まって、
ついつい長居をしてしまった。
「女性ならでは」というと語弊があるかもしれないが、
ものづくりへの視線には確かに「女性らしい」堅実さとこまやかさがある。
「もしかしたら、食器にしろ花器にしろ、
日常使いという視点が強いのかもしれませんね。
細工物に関しても、そうかも。
飾ってカワイイ動物をつくりたくなっちゃうから(笑)」
猫をモチーフとした器や、象の置物が整然と並ぶアトリエ。
「自分が欲しくなるようなもの」を経験的に知っている山村さんのつくる備前焼は、
使ってこそ、価値がわかるはず。

備前の歴史の中には、「細工物」と呼ばれるジャンルがある。象をそのままかたちにした、山村さんならではの細工物。

藤田 祥さん

自由に大胆に、備前の「本当」を追う。

藤田祥さんは、研究熱心だ。
土を探し、練り、成型し、焼く。
すべての過程を自分でこなさなければならない若手作家にとって、
プロセスを楽しむことができなければ、その作業は苦行でしかない。
もちろん修業時代は、「いかだで遭難したときのように」ただひたすら
手を動かして菊練りを繰り返し、「土を見るだけで気持ち悪くなるほど」だった。
だが、教えられるよりも「体で覚えながら、自分で考える」ことで、
備前焼の奥深さにのめり込んでいった。
「備前焼の歴史を調べていくと、
いかに昔の人が自由勝手につくっていたかが分かるんです(笑)。
“こうでなくちゃいけない”っていうルールは、
実は結構最近の人がつくり出したものにすぎない。
備前地方の土を使い、釉薬を使わずに、備前の窯で焼く。
備前焼のルールは、本当はそれだけだと思うんです」
その言葉通り、藤田さんの作品は、地層をそのまま再現したかのように、
ゆるやかにグラデーションしている壷や黒く美しく光る花器など、
一般的にイメージされる“茶色”の備前焼とは違う。
だが、そこには脈々と流れる備前の1200年の歴史を受け継いだものがある。
「研究することがたくさんあるんです。
黒備前は、土中の鉄分を5%まで上げて、
1200℃で焼く必要があるんですが、それも試行錯誤の結果分かってきたこと。
知れば知るほど、世界は広がっていく感覚が面白い」
一生かけて研究する題材が僕にとっては備前焼なんです、と藤田さんは言う。
若手作家には、その進化を見守る楽しみもある。

地層をそのまま再現したような壷(左)と、黒備前の花器(右)。日常使いにこそ「カッコいいものを」が、テーマのひとつである。

「できるだけ周りに他の作家がいない環境」を求めて、山奥にアトリエを構えている。すぐ脇には小川の流れる、閑静な環境。

〈魚彩和みの宿 三水〉の 若女将、吉田さとみさんの 朝ごはん。

新米女将の朝は、地元の野菜たっぷりの朝食からスタート。

房総半島の海沿いに静かに佇む温泉旅館、
「魚彩和みの宿 三水」の若女将が、吉田さとみさんだ。
東京生まれ、東京育ちの彼女は、鴨川の地に嫁いでちょうど1年が経つ。
地の利を考えれば、魚がおいしいのは当然のことだが、
実はさとみさんは魚介類が大の苦手。野菜中心の食生活になるのは必然的だった。
「はじめは見知らぬ土地に来て、不安だらけ。おまけに朝・昼・晩、魚中心の食事……」
と、不慣れな環境に戸惑うこともあったが、
次第に鴨川は美味しい野菜の産地であることを知る。
市内には直売所がたくさんあり、さとみさんは食材のほとんどをそこで手に入れる。
「値段シールの横には、必ず生産者の名前が書かれていて、
一度も会ったことのない人だけど、妙な親近感。
ついつい買い物かごに入れてしまうんです」

そんな彼女の朝ごはんは、
豆腐一丁が主菜で、さまざまな薬味で愉しむという献立。
豆腐は近所の豆腐店で買ってくる。
ここのまろやかな大豆の味わいがお気に入りなんだそう。
それをざるにそのままあしらい、
薬味を少しずつのせては、千葉県産のお醤油をつけていただく。
今朝の薬味は9種類。日によって変わるが、
全て鴨川産ということはこだわりを持っている。
小ネギ、ショウガ、オクラ、ミョウガ、大葉、トマトなどの
野菜はもちろん、豆腐、納豆、梅干しも地元の人の手づくり。
ひじきも近海でとれたものだ。
この他にも高菜や岩のり、お味噌などもメニューの定番。
この豆腐献立は多い時には週に3回ほど、朝の食卓に並ぶことがあるという。
その理由を、
「決して手を抜いているワケでも(笑)、豆腐が好物というワケでもなくて、
新鮮な野菜や食材本来の味を楽しむには豆腐と一緒に食べるのが一番!
と勝手に思っているだけのことなんです」
と、笑いながらさとみさんが教えてくれた。

今、宿では自家菜園を始めた。
鴨川は新鮮な魚だけではなく、美味しい野菜の宝庫でもあるということを、
旅館を通じて、お客様に知ってもらいたいという気持ちからだ。
鴨川に来て、もうすぐ1年。
旅館の若女将にとって、鴨川の地は毎日新しい発見でいっぱいだ。

春光堂書店

売り場の本棚は、お客さんとつくりあげていく。

新宿からあずさ号にのって甲府に向かう。
窓から見える南アルプスや奥秩父の山には雪が見えるけれど、
盆地にある甲府の町に雪が降ることはあまりない。
駅を降りるといつも巨大な宝石のオブジェに目がいってしまう。
研磨産業が盛んなこのまちでは、日本の約8割のジュエリーが生産されている。

駅から約10分、アーケードが架けられた甲府市中央商店街を歩く。
元はこのあたりは甲府城の城内だったのだそうだ。
この商店街の中心に位置するのが銀座通り。日本にいくつもある「銀座」のひとつで、
銀座通りの中ほどに春光堂書店はあった。
入口右手にはたばこの販売スペースがある。
中央の自動ドアを開けると、店長の宮川大輔さんがお客さんと談笑しているところだった。
カウンターの中でタバコ屋からレジから電話の応対から大活躍しているのは、父の久次さんだ。

営業中にもかかわらずあたたかく迎えてくれた、大輔さん。

春光堂書店は1918年に創業した。大輔さんのひいおじいちゃんが始めて、
現在は3代目である父、久次さんと、大輔さんの奥様、愛さんとの3人でお店を運営している。
今の春光堂書店の内装は、20数年前にアーケードを付け替えたときに大きく改装した。
その頃はバブル経済のピーク、商店街も本屋さんもとても繁盛した。
日々やってくるたくさんのお客さんのために、まんべんなく本を揃えたまちの本屋さんだった。
「僕が子どもの頃は、何軒か書店が周りにあったけれど、
その後バブルも崩壊してみんな店をたたんだり、郊外に移ってしまった」
山梨県外で仕事をしていた大輔さんが戻ってきて、お店を手伝うようになったのが5年前。
アーケードの商店街も一度は寂れたけど、最近はまたやる気のある人が集まってきているという。

お店を見渡すと気づくのは、他の本屋であれば目立つ場所にある棚の
「ジャンル分け」の表示がないこと。
「最初はあったけどいつのまにか外してしまいました」と大輔さんは笑うが、
お客さんとの距離が近ければ、わざわざジャンル分けの表示は必要ないのかもしれない。
「今はベストセラーや、地域の人の好みを生かしながら、
自分のやりたいことをどうやっていくか。バランスをとりながらやっています」

棚はテーマごとに並べられ、文庫、新書、単行本など異なるサイズの本が一緒に並んでいる。
本に関するテーマを集めたコーナーには、著者が本屋さんのものや読書術、
「本のしごと」なんてタイトルの本もある。
食べ物の本には、さりげなく、ここから自転車で10分ほどの近所にある、
五味醤油店の五味さんがおすすめする麹の本があったり、
細かくも丁寧に棚がつくられているのがわかる。
さらに見渡すと、大小のPOPと共に、たくさんの企画コーナーがある。

130年以上の歴史を持つ五味醤油さんおすすめの本。手にとってみたくなる。

ヨネクラ玩具店

子どもの能力を引き出す、木のおもちゃの魔法。

カラフルでかわいくって、どこかぬくもりを感じさせる木のおもちゃ。
ヨネクラ玩具店には、そんな、大人でも子どもでも心を踊らせてしまうような
おもちゃが所狭しと並んでいる。
中央には、子どもたちが遊べるスペースが設けられていて、
レールも電車も木製の鉄道セットや、木の独楽、積み木など
さまざまな種類のおもちゃが置かれている。
なかにはいい飴色になったサンプルのおもちゃもあり、
ヨネクラ玩具店の歴史が感じ取れる。
そんな種類の豊富さに驚いていると、そのなかから、
店主の米倉千景さんがひとつのおもちゃについて教えてくれた。
「これは『アムステルダム』という名前で、
166ピースを使ってまちをつくります。ほら、見てください。
右と左でまちを囲っている積み木の家の屋根の色が違うでしょう?
ぼくは不思議に思って、これをつくった子に
“なんで、色が違うの?”と聞いたんです。
そしたら、“昼のまちと夜のまちだから”なんて答えるんですよ。
子どもの想像力はすごいですよね。ひとつのまちを、夜と昼にわけるなんて。
この『アムステルダム』には、そうやって、
子どもたちが編めるたくさんの物語がうずまいているんです」

おもちゃ「アムステルダム」。赤い屋根のほうは、昼のまち。

昭和33年に創業したヨネクラ玩具店は、千景さんで二代目。
父親が若くして亡くなり、千景さんは20代で店を継ぐことになった。
「おやじが亡くなったとき、大阪で別の仕事をしていたんですが、
迷わず田辺に戻ってきました。おやじがいなくなったら、
“やっぱり、ぼくがやらないかん!”と思ったんですね。
弟もまだ大学に通っていたし、ぼくは3人兄弟の一番上で、
『長男が跡を継ぐ』という教育が体にしみこんでいたみたいです」
そうして店を継いだ千景さんだが、
最初から木のおもちゃを扱っていたわけではない。
当時はゲーム機やキャラクターもののおもちゃを販売したり、
「チョロQ」が流行れば、イベントを開催したりと、
どこにでもある普通のおもちゃ屋さんだった。
「電子音がするおもちゃなんかもたくさん販売していましたよ。
だって、ぼくも商売人として売れるとやっぱり面白いですからね。
でも、自分の子どもが生まれたとき、
子どもにあげたいおもちゃが店には見当たらないんですよ。
おもちゃ屋さんなのに(笑)」

取材中、訪れていた常連のお子さん。「ここに来るといつもわくわくしちゃうんです」とお母さま。

以来、それまで扱ったことのない、
特に外国のおもちゃを探すようになった千景さん。
面白そうなものがあると、息子さんに買う。
そのおもちゃを見たお客さんがほしいと言うから、店でも販売する。
それが、ひとつ増え、ふたつ増え、三つ増え……。
気がつけば、木のおもちゃばかりを扱うようになっていた。
「最初は、木のおもちゃを認めてくれるかなという不安もあったんです。
今から30年くらい前ですからね、当時そういった店はなかった。
でも、外国の木のおもちゃって、知れば知るほど面白いんですよ。
手にとってみると、おもちゃに対する思想が日本とは全然ちがうのがわかる。
つくりはとてもシンプルなんだけれども、
子どもが遊んだときにどうなるかっていう『しかけ』が
ものすごく考えてつくられている。ぼくのほうが面白くなってしまったんですね」

店内の遊べるスペースで、カプラを積みはじめた店主の千景さん。

無限に広がっていく、積み木遊びの面白さ。

外国の木のおもちゃを扱うようになった千景さんの興味は
どんどん深まっていく。そんなとき、あるひとつのおもちゃに出合った。
「福音館書店が発行する、月刊『母の友』で記事を見たのがきっかけでした。
ひと目見て、これだ! って思って、すぐに問い合わせました」
千景さんが一目惚れしたおもちゃというのが、
フランスのおもちゃ「kapla(以下カプラ)」だ。
薄くて小さな木のピースを組み合わせて、
お城をつくったり、タワーをつくったりと、積み木のようにして遊ぶ。
見た目はなんの変哲もない板だけれど、このピースを使って遊びはじめると
子どもたちは黙々とカプラに没頭してしまうのだという。

ひとつひとつ、カプラを組み合わせて、まずは、正方形をつくる。

さらに、カプラを組み合わせていけば、お城の屋根に!

その理由は1ピースの高さ:横:縦が、1:3:15の比率でできているから。
ただ、積み上げるだけなのに、どう積んでも美しいかたちにおさまる。
しかも、薄くて軽いカプラは子どもでもたくさん積み上げることができ、
創作は無限に広がっていく。
「カプラの1ピースを5枚並べると、正方形ができます。
それを積み上げるだけでも、とってもきれいなかたちなんですね。
だからつくる側にも自然と達成感が生まれる。
積み木は、かつてフレーベルという教育者が、
自然や宇宙の摂理を知るための道具として、つくったんだそうです。
子どもたちは、比率の数字のことなんてわかりません。ただ、遊びながら、
この比率のなかに秘められた法則を感覚的にわかるようになるんですね。
そんな風に遊びのなかで、
子どもの能力を無限に引き出してくれるおもちゃはたくさんあるんですよ」

赤が印象的な、カプラのパッケージ。200ピースが基本。生成り他に、カラーのピースもある。

流行を追うだけではない、子どもにとって楽しくって、
能力もひっぱりだしてくれる遊びも考えられている。
積み木に、そんな奥深さが隠されていたなんて知らなかった。
さらに、千景さんはドイツのneaf社の「セラ」というおもちゃを持ってきてくれた。
「これなんかも、無限に遊べるんです。
立法体を面に沿って大小9つのピースに分けられている。
まずはバラバラにして大きい順に積み上げていってみましょう。
真上からみると、さあ、何のかたちが見えてきますか? 六角形なんです。
次は小さい順から重ねていくこともできるし、家をつくって遊ぶこともできる。
一定の比率が計算されているからこそ、できる遊びなんですね。
この青のグラデーションもとても美しいでしょ」
と言って千景さんは、セラの何通りもの遊び方を見せてくれる。
一見するとただの大小の立法体の集まりなのに、
組み合わせ方次第で、幾通りにも遊びが増えていく。

各色の立法体をつみあげながら、子どもはバランス感覚も身につけていけるのだという。

目をキラキラさせて、セラの遊び方を教えてくれる千景さん。

もうかれこれ1時間以上おもちゃについて話を伺っているけれど、
千景さんの言葉からは、大人でも思わず引き込まれてしまうほど、
おもちゃの魅力が溢れてくる。
さらに、おもちゃの説明は続く。
そばにあった独楽を手にとれば、今度は独楽の説明が。
奥さまの富美子さんが隣で苦笑しながら
「独楽が一番好きなんです」なんて耳打ちするが、
「まぁまぁ、いいから、いいから。これはね……」と話し始める千景さん。
「独楽と言えば、これです。でももっとおもしろいのは、こっち……」。
と、店内にあるおもちゃすべてについて話してくれそうな勢い。
それも、おもちゃへの愛情があるからこそ。

千景さんが大好きという独楽。さまざまな国の独楽がヨネクラ玩具店には並ぶ。

「幼稚園や保育園に行ってカプラのワークショップをやっているんですが、
子どもたちと遊ぶにはね、体力が必要なんですね。
子どもたちのキラキラした目を見ると、期待に応えないと! って思ってしまって。
だから、体力づくりのために、今は、毎日走ってるんですよ」
とチャーミングな笑顔を見せる千景さん。富美子さんもそれをあたたかく見守る。
木のぬくもりと、ご夫婦のおもちゃへの愛がいっぱいつまったヨネクラ玩具店。
先生でも、エライ教育者でもない、それでもこんな風に子どもの遊びについて
教えてくれる人が自分の住んでいるまちにいたら、なんてすてきなんだろう。
毎日でも訪れたい。そう思わずにはいられない居心地のよい時間が店に流れていた。

二人三脚でヨネクラ玩具店を支えてきた、千景さんと富美子さん。

木村英昭さん

窯元18代目が、世界へ発信する備前。

「歴史をつなぐためには、新しいことをしていかなければいけない」
と、備前市伊部に窯を構えて18代目となる、木村英昭さんは言う。
文献が残り、確実に遡ることができるのは桃山時代だそう。
窯が家庭の中心に据えられ、代々続いていく「備前焼」の歴史。
木村さんにとっては、家に窯があるのも、18代目になり、
備前の歴史をつないでいくことも「当たり前のこと」だと言う。
その「当たり前」を続けるために木村さんは、大学卒業後、バルセロナに留学。
「技術的には備前で修業するのが一番だとは思います。
でも、新しいデザインや色彩感覚を得るためには、
一度離れる必要があったんです。
スペインには土の文化もありますしね」
アパートからサグラダファミリアが見える生活を経て、
木村さんのオリジナルなものがつくりたい、という想いは強くなっていく。
そして、新しい世界観をつくっていかなければ、
備前の歴史をつなげていくことはできないと確信するに至る。
「桃山時代に日常雑器として使われていた備前が、
千利休の『茶の湯』の世界観で高まった。
もう一度、備前の価値を高めることが、
次の世代につなげていくために必要だと思うんです」
だからこそ木村さんは、片足を商品としての器づくりに、
もう片足を現代美術としてのオブジェ制作に置いている。
「ウエ坊」と名付けた小さな壷のような生物のような陶器を無数に並べ、
インスタレーションで備前焼の世界観を表現している。
木村さんが使う土は、祖父が掘り出したもの。
2代寝かすと「いい感じ」にこなれるらしい。
代々続く歴史に、18代目の痕跡を刻む木村さんの挑戦は続く。

先代、木村さん、お弟子さんの3人で使っているアトリエ。穏やかな光の中、黙々と轆轤を回し、お店で販売するための器も製作している。