細川敬弘さん

伝統ある備前焼を次世代へとつなげる若手作家の想い。

細川敬弘さんがなぜ人気があるのか、作品を見ればすぐにわかる。
「渋い」と形容されることの多い備前焼を、
やさしい色で焼き、使いやすいかたちにひしゃげる。
今までの備前とは違うことが、器からひしひしと伝わってくる。
備前焼作家であった祖父に弟子入りし、
「10年は一緒に仕事をして、教えてもらえる」と思っていたが、
祖父は1年ほどで体を壊して窯を去ってしまう。
細川さんは、他の作家の窯焚きを手伝いながらつくり方を覚えていく。
でも、どの作家も「同じことを言わない」。
となれば、自分なりに磨くしかない。
「同世代の友達に見せると、“なにこれ”ってズバズバ言われます(笑)。
備前焼を知らない友達のほうが直感的に言ってくれる。
そこから使いやすいものって意識が生まれていったのかも」
花器をつくるために、華道を習い、食器を焼くために、料理店に取材に行く。
徹底して、「用の美」にこだわることが、細川さんの個性であり、強みなのだ。
「まず眼に留めてもらわなきゃいけない。
だから色にはすごくこだわります。
手に取ってもらえたときのために、質感も大切にしなければいけない。
買ってもらうって、すごいことだから」
窯焚きを終え、冷まして取り出すまでの数日間。
自分の仕事が試される瞬間を前に、細川さんは情緒不安定になってしまう。
ようやく窯を開けてもすぐ、「次の窯焚きではこうしよう」と考えてしまうから、
作陶をやめることはできないと、細川さんは笑う。
エンドレスな試行錯誤。
その覚悟が、細川さんの備前焼にかける思いなのだ。

2つのカップを重ねて焼いた異色の作品。自由な発想も細川さんならでは。お店に訪れて気に入ったものをオーダーすることも可能。

島やさい食堂 てぃーあんだ

ここで生まれた食材とうつわが表現する、沖縄のエネルギー。

沖縄県中頭郡読谷村の海沿い、
大きな民家を改装した店内の大きな縁側を心地よい風が吹き抜ける。
「島やさい食堂 てぃーあんだ」は、
そんな沖縄ならではのゆったりした風景を身近に感じながら、
地元で採れた野菜や魚を中心にした滋味あふれる料理が
心ゆくまで楽しめる食堂。
「てぃーあんだ」とは直訳すれば「手の脂」。
「手間をかける」「愛情をそそぐ」という意味を持つ沖縄の言葉だ。

2006年にお店をオープンした店主の伊波清香さんは生まれも育ちも沖縄。
「子どもの頃、赤瓦の家に庭があって、そこで採れたゴーヤや冬瓜などの野菜が
食卓に上るというのは普通のことだった」
という彼女が、あらためて沖縄の食文化に目を向けるきっかけになったのは、
進学のために沖縄を出て福岡に移り、
そのままアパレル会社に就職した後のことだった。
「ある日体調が悪くなって熱が出たことがあったんです。
沖縄にいた頃はそういう時いつも、黄色い人参と豚肉のレバーを使った
栄養たっぷりのスープを母が作ってくれて、
それを飲むとケロッと治ったんです。それで、いざ作ろう! と思ったら、
スーパーに行っても『黄色い人参』が売ってない。
それまで『当たり前』と思っていた沖縄の野菜が、
特別なものなんだと気づかされたんですね」

そんな気づきを経て、後に沖縄に帰省した時、ふと恩納村の市場を訪れてみた。
そこで目に飛び込んできたのは、見慣れたハンダマやゴーヤといった、
「パッと見『美味しそう』というよりも、
どこかアクが強くてゴツゴツとした、実に沖縄らしい」野菜たち。
「食に興味を持っていたし、
ずっとお店をやりたいと思っていたけど、なかなか考えがまとまらなかった」
という伊波さんだったが、
「この野菜を料理に使って、自分なりの沖縄を表現してみたい」
と素直に決断できたと言う。

“再発見”の驚きは野菜だけではなかった。
高校生の頃まではまったく関心のなかった、
「やちむん(沖縄の方言で「焼き物」の意)」にも、
新たな眼で向きあうことになる。
「ずっとモノを扱う仕事をしていて、モノだらけの日常に
どこかウンザリしていたようなところがあったんですけど、
沖縄の外の世界にある色々なモノをたくさん見てきた眼で、
改めて沖縄の焼き物を見なおしてみて、びっくりしたんです」
これまで一度も行ったことのなかった読谷村の『やちむんの里』を訪れ、
うつわを見て、目が釘づけになった。
「泥臭いけれど力強い、なんでこんな温かいエネルギーが
感じられるんだろう、って。たたずまいだけで沖縄を感じさせる。
これに盛るのは沖縄料理しかないと思った」

この素朴な陶器が生まれた読谷という地で、そのうつわを使いながら、
近郊で採れた野菜を使った料理をできるだけ多くの人に食べてもらう。
伊波さんの中で「てぃーあんだ」のコンセプトが徐々に固まっていった。
とは言え、
「元々料理を仕事にしていたわけではなかったので、不安もあった」
という伊波さん。
食材ひとつとっても、仕入先の農家に足しげく通い、
少しずつ開拓していくしかなかったと振り返る。
「ある日、すごくいい生姜の畑を見つけたんですけど、
いつ行っても誰もいないんですよ。
仕方がないから何度も行って、もうストーカーみたい(笑)。
それでついにある日、生産者のおじさんを見つけて、
やっとのことで譲ってもらったり。あとは、
小さい時によく可愛がってくれた農協のおじさんを頼って、
農家さんを紹介していただいたり。
最初はみんなに“女だてらに何を始めるんだ” “大丈夫か”なんて
言われたりしたんですけど、
だんだん仲良くなると“これ新しく作ったから持って行って”とか、
“これはこんなふうに料理したら美味しいよ”とか教えてもらえるようになって。
人の縁にはすごく恵まれていたと思います」

「てぃーあんだ」で提供する料理は、
伊波さんによれば「決して特別でない、普通のもの」だ。
地元で捕れた魚料理に、
ラフテーやジーマミー豆腐、クーブイリチー、島野菜の漬物……。
昔から沖縄の家庭で食べられてきたもの、だけど、
そこには「ひと手間」の心遣い、
つまり「てぃーあんだ」がたっぷりと込められている。
「マクロビオティックを勉強したこともあって、
『一物全体』というかたちで、
食材をできるだけ使い切るように心がけています。
ラフテーを仕込む時に使う煮汁や、
お吸い物の出汁を取るしいたけを使って佃煮にしたり。
あと、意味なくゴージャスに盛って、
生ゴミが増えるような盛り付けもしたくない。
無駄にお腹いっぱいになるんじゃなくて、
節度ある量で、いろいろな食材をバランスよく食べていただきたいんです。
あとは、ここで過ごす時間や空間の魅力で、お腹いっぱいになってほしい」

料理を提供している「お膳(※1)」もかつての沖縄で盆や正月、
冠婚葬祭の時に、大勢の親戚が集まって食事する際に使用していたものを
独自にアレンジして使っている。
「研ぎ澄まされたセンスの中で、とかいうことでなくて、
日常の中にあるけど、少しだけ特別、という感じがいいなと思っていて。
お客さんも節日(しちび)祝い(※2)や結納などの
イベントの時に来てくださる地元の方々も多いし、
観光客の方々もたくさん来てくださいます。
もちろん県外からの移住者の方々も多いですし。
いろいろな人たちがミックスされているのが嬉しいですね」

滋養たっぷりで優しい「てぃーあんだ」の味が評判となって、
お客さんは当初思い描いていた数をはるかに超えて増え続けている。
「本当にありがたいことですけど、
ちょっと忙しくし過ぎなのかもしれないですよね。
でもまだ始めて5年ですから。
やっとお店らしくなってきたかな、という感じです」
と伊波さんはじっくりと前を見据えている。

その原点にあるのは、小さい頃、
からだを癒してくれた母やひいおばあちゃんの手作りの沖縄料理。
この地で生まれたうつわと食材が表現する、
素朴だけど力強い沖縄のエネルギーなのだ。

※1 厳密にはもう少し足の高いお膳が使われていた。
※2 沖縄で昔から受け継がれてきた年中行事のこと。

「特別ではないけれど、丁寧でバランスのよい料理を提供したい」と語る伊波さん。

時期や日ごとに違う、とれたばかりの新鮮な魚を使った小鉢が並ぶ。

海の見える気持ちのよい縁側の席を含む店舗は、民家を改装したもの。

Information


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島やさい食堂 てぃーあんだ

住所:沖縄県中頭郡読谷村都屋448-1

TEL:098-956-0250

営業時間:12:00〜15:00(L.O. 14:30)、18:00〜21:00(L.O. 20:00)

定休日:木曜休

六角橋商店街

老舗商店街のもうひとつの顔は、サブカルイベントのメッカ。

東急東横線・白楽駅を降りると、華やかなアーチの看板が見えてくる。
住宅地に囲まれている六角橋商店街は、
約500mのメインストリート「六角橋大通り」と、
それに平行する裏路地アーケード通り「仲見世通り」、
さらに、多数の小さな路地で構成されている。
近くには神奈川大学もあるため、通学途中の学生や、
商店街にやってくるたくさんの人で通りはにぎわっている。

六角橋商店街の歴史は古く、横浜市内でも戦前から続く老舗商店街。
第二次世界大戦中には、延焼を防ぐため
ほとんどの建物はつぶされてしまったというが、
戦後、たくさんの商店が並んだ。
なかには、戸板で闇物資を売るものも。こうして、今の商店街が始まった。

乾物を扱う足立商店も戦後すぐにお店を構えた。
「昔は、商売が楽しくってね。なんでって、そりゃ、売れるからさあ。
サラリーマンなんかやってるより、ずっと面白かったよ」
ご主人の隆さんは当時を懐かしそうに話す。
開店当時から変わらない足立商店のレトロな看板が、心をくすぐる。
そんな歴史ある六角橋商店街では、
近年「ヤミ市」というイベントでにぎわいを見せているらしい。
一体、ヤミ市とは……?

ガラスケースに並ぶ、揚げたての唐揚げに思わず立ち寄る高校生の姿も。

新聞に目を通しながら店番なんて、なんだか昭和のドラマみたいです。

「20年くらい前かな、閉店する店が増えてしまったから、
客引きのためのイベントをいろいろ考えたんです。そしたら、
シンボルイベントの大道芸が失敗。お客さんは来たんだけどね。
結局、野毛(※)の二番煎じにしかならない。
もっと六角橋らしいものは何かと、考えた結果、
アジアのナイトマーケットのようなフリマをしようと。
それなら、近隣住人たちでライブもしようってなったんです。
この街にはミュージシャンたちが結構住んでいましたから。
しかも、場所は店が閉まった後の仲見世通りの路上。これがウケましてね」
このアイデアの発案者で、現在、六角橋商店街の販売促進部長を務める
石原孝一さんが、真相を教えてくれた。

以来14年ほど、夏季(4月〜10月)限定で、
「ヤミ市」と称して、フリマの他にもさまざまなイベントが、
夜な夜な開催されているのだ。
20時以降、しかも路上だからか、開催されるイベントはどれも個性的!
南陀楼 綾繁さんの一箱古本市、
パフォーマンスアーティスト・ギリヤーク尼崎さんの公演など、
サブカル好きにはたまらない有名人たちの名前も。
さらには、チャリティー野宿、ストリート結婚式など、
あの狭い道幅で、どんな風に開催されるものなのか興味惹かれる。
「基本、誰でもウェルカムですからね!
おもしろいことをしてくれれば、それでいいんです」

ヤミ市の様子。古本市とかっぱのダンサー・おいかどいちろう氏のパフォーマンス。

左から専務理事の糸井勇さんと、石原孝一さん。

ニセコの味を守る、料理グループ 〈じゅうごばぁ〉代表・ 菊地昌子さんの朝ごはん。

土地のおいしさが集まった、栄養たっぷりごはん。

ニセコの味を守る、料理グループ「じゅうごばぁ」の代表、菊地昌子さん。
朝食に限らず、菊地さんの食卓はいつも賑やか。
なぜなら、近所の仲間たちがいろいろなものをおすそ分けしてくれるからだ。

「私自身は野菜をいくらも作ってないのでね、いただきものも多いんですよ。
さといもは、ご近所の方が静岡の弟さんから送ってもらったものを煮付けにしてくれたの。
少し煮ても余るからってね、私が留守の間に玄関に置いていってくれたのよ」
おひたしにした小松菜も、お隣からのいただきもの。野菜はあまり買うことがない。
ご近所では、みんなそうだ。お互いがお互いのものをおすそ分けし合っている。
「主人(元ニセコ町長)に世話になった、と言って、庭の世話をしてくれる方もいらっしゃる。
そうすると、苗を持ってきて植えてくれるわけ。気づいたら、トマトやししとうが育ってる。
食べ切れないから、作っていない方と分けるんです」

鮮やかなピンク色のお漬物は、紫キャベツ。
「紫キャベツも、毎年同じ方からいただくんです。
今年は息子のお嫁さんが半分持っていったから(笑)、残りをお酢で漬けたの」

ひとり暮らしの菊地さんの冷蔵庫は、このような保存食でいっぱいだ。
調味料も、できるだけ自分で作っていると話す。
もちろん、豆腐の味噌汁に使っている味噌も、菊地さんのお手製。

「お味噌汁にはアサツキを散らしてね。これは、春のうちに切って冷凍保存しているのよ」
それに、鮭の塩焼きをメインに添えてできあがり。
鮭は、最近腰を痛めた菊地さんのためにお嫁さんが買って届けてくれた。
「買うものといえば、肉や魚くらいかな」と話す菊地さん。
その土地土地のおいしさが集まった栄養たっぷりのごはんである。

Profile

MASAKO KIKUCHI
菊地昌子

ニセコ町の料理グループ『じゅうごばあ』のリーダー。
かつては中学校で国語を教えていた。元気な86歳。

高久智基さん

自然環境と自分の生活が結びつく場所・ニセコへ移住。

生まれ育った神奈川県藤沢市から、北海道ニセコ町へ移り住んだ
プロスノーボーダーの高久智基さん。
モンゴル最高峰の登頂滑降をはじめ、シベリアやアラスカなど
海外のビッグマウンテンを経験してきた彼が、たどり着いたのがニセコだった。
「世界的に見てもニセコのパウダースノーの質はかなり高い。
ヨーロッパやアラスカのように急な斜面は少ないですが、その分山麓部まで深い雪があるので
スノーボードを日々楽しむ上ではとてもいい場所なんです」
今でもシーズンになると海外で滑ったり、
国内各地の山でイベントや冬山ガイドの仕事をしたりと、
多忙を極める高久さんだが、ニセコを拠点にしてよかったと話す。
「ニセコのシーズンは、11月の終わりから4月の終わりくらいまで。
その間は、冬山ガイドの仕事をしています。ニセコの自然環境や観光資源は素晴らしい。
その地の利を活かして、冬だけではなく夏もアクティビティを楽しんでもらえるよう
自転車コースを製作中です。
スノーボードも自転車も自然からの恩恵を受けて遊ぶもの。
だから、喜びとともに怪我などのリスクも各自が受け入れる自己責任の意識が広まればと」

「POWDER COMPANY」事務所。敷地内に自転車コースを設けている。

2012年以降、300mほどの自転車コースを無料開放する予定。

高久さんは冬山ガイドとして、ユーザーが安全に雪山を楽しむための活動をしている。
そのときに伝えているのは「ルールを守る」ことと「自分の身は自分で守る」こと。
「スキー場のリフトで登ってしまえば、ゲレンデからたいがいのバックカントリーに行けます。
でも、スキー場内のルールは守らなければなりません」
なぜなら、スキー場はエキスパートだけの場所ではなく、
日々多くの「初めての人」が訪れるパブリックな施設ですから。
例えば、経験の少ない人が真似をしないよう、立ち入り禁止のロープをくぐらない。
そして、管理されていないところで起こる立ち木への激突などは自身で気をつける。

「その認識は、みんなで作り上げることが大切。これだけの人が何を目的にニセコを訪れ、
そこに伴うリスクは何なのかということを、事業者にもユーザーにも落とし込みたいんです」
シーズンになると朝7時半前から、前日と当日の雪山のコンディションを照らし合わせる。
そして高久さんの所感とガイド全員の所感、天気予報も交えてその日の予測を立てる。
「今日はこういう範囲で行こう」という判断も、ガイドの大切な仕事だ。
「シーズン中はほとんどフィールドにいます。
アンヌプリスキー場内の事務所にもたくさん人が来ますしね。
もちろん自分も滑りを楽しみながらの仕事ですから、四六時中ウェアは着たままです(笑)」
ニセコに訪れる人が、ニセコのアウトドアを楽しみ、この地を好きになってくれたらうれしい。
道外から移り住むほどニセコを愛した高久さんだからこそ、その思いは深いのである。

ペンション&喫茶店だった物件を買い、自宅に。冬の間は友人が飲食店を開く。

高久さんのスノーボード写真の手前に、ニセコのバックカントリーマップ。

Profile

TOMOKI TAKAKU 
高久智基

1972年生まれ。バックカントリーを中心に活躍するプロスノーボーダー。海外ビックマウンテンでの滑走経験多数。アラスカ急斜面や、氷河キャンプなどにて撮影を行い数多くの映像を発表する。ニセコ町の冬山ガイド集団「POWDER COMPANY」代表。ライディングクリニックやツアーを通じ、ゲストのスキル向上を図るとともに、安全で楽しいスノーボードを提唱している。http://www.powcom.net/

ショウヤ・グリッグさん

大好きなニセコを、たくさんの人に楽しんでもらいたい。

オーストラリア出身・北海道ニセコ在住のショウヤさんが、日本へわたったのは17年前。
元々日本には興味があった。しかし首都東京ではなく、北海道を訪れたのには理由がある。
「オーストラリアの学校で勉強するより、その国に行った方が言葉を覚えられる。
その点、東京のような大きな街だと英語が話せる人が多いかもしれない、と思ったんです」
加えて彼は、山や雪といった自然を愛していた。ある日図書館で本を読んでいたら
目を疑うほどに美しい自然風景の写真を見たという。それが、北海道だった。
「来日して半年ほど、自転車で道内を回りました。自然の匂いや水の音を感じながらね。
僕の生まれはイギリスだけど、イギリスとニセコはなんとなく雰囲気が似ているんです」
周辺環境に惹かれた彼は、2年前、ニセコに大きな自宅を建設。
洋風建築の中には日本画や書などが飾られ、茶室までが用意されていた。
「今、庭に蔵を移築しようと考えています。茶室の窓から見えるような位置にね」
洋と和を上手に融合させたスタイリッシュな建築には、彼独自のセンスが溢れている。
オーストラリアではフォトグラファー、そして
来日してからはクラブやラジオのDJ、イベントのMCなどをしていたというショウヤさん。
そのうちに知り合いが増え、元々やっていた写真の仕事が舞い込み始めたという。
やがて、パーツだけではなくデザイン全体にも興味を持っていた彼は会社を設立し
プランニングから、グラフィックやweb制作まで、
一貫して行なうという仕事を生業にするようになった。
「それだけでなく、建築やインテリアも好きだった。でも最初は仕事がなかったから、
自分で作品をつくってしまおう、と。そうしてできたのが『J-SEKKA』なんです」
「J-SEKKA」は、ホテル・ダイニング・アクティビティを提供する複合施設。
洋の中に「わび・さび」を取り入れた斬新な建築デザインと、
北海道の味覚が楽しめるカフェやラウンジバーなどが
地元の人だけでなく、雪山に訪れる外国人にも大人気だ。

スタイリッシュな自宅。羊蹄山が望める位置に、広々としたリビングを配置した。

「僕は専門家じゃないからこそ、自由にアイデアを出せる。それが面白いですね」
次々と発想をかたちにし続けるショウヤさんの、次の目標は「旅館」。
自宅の2万坪の敷地を使い、2012年の夏頃から着工する予定だ。
「中庭を建物で囲うようにして、縁側をつくたい。だから土地もかなり広めに購入しました。
竹林も最初は鬱蒼としていたけど、かなりの量、僕が機械で刈ったんです(笑)」
羊蹄山の美しい姿が望めるこの敷地には美しい池もあり、水がこんこんと沸いている。
そんなロケーションへのこだわりも、自身が「自然好き」だから。
羊蹄山を始めとする山にもよく登り、夏はトレッキングをし、冬は雪山へ行く。
またニセコのテニスクラブに入っており、地元の人たちとの交流も盛んだ。
「僕は、ニセコが大好きなんです。
旅館ができたら、日本人にも、外国人にも泊まりに来てもらいたい。
冬は、雪山に来る外国人のお客さんが多くなるかもしれませんね。
そういう方たちはコンドミニアムに泊まることが多いけど、
やっぱり純和風な旅館に泊まって温泉を楽しみたい方も多いはずです」
外国人ならではの発想が活きた、洋と和が調和する新しいタイプの旅館になるだろう。
このような型破りな活動は、そうそう容易にできることではない。
彼のバイタリティーとエネルギーは、どこから来るのだろうか。
「やりたいことを実現するために、なるべく具体的にイメージするようにしています。
“ホントにそんなことできるの? 大丈夫?”と思われることもあるかもしれないけど、
自分の体や頭を信じていれば、周りの人にも少なからずその影響を及ぼすことができる。
そうすればたくさんの人が知恵を貸してくれて、どんどん形になるんです」
周囲を巻き込んでニセコに新しい風を吹き込むショウヤさん。今後の展開が楽しみだ。

ショウヤさんが旅館を作るために購入した竹林は、自宅のすぐ向かいにある。

異国の屋敷を思わせる、広々としたリビング。開放的な窓から光が入ってくる。

日本的なしつらいが随所に散りばめられている。庭づくりもポイント。

ふたりの娘に囲まれて、幸せいっぱい。バルコニーは、愛犬のくつろぎスペース。

ショウヤさんの書斎には、カメラのコレクションがずらり。今では貴重な型も。

伝統的な茶室も、現代風にアレンジされているためどことなくモダンな雰囲気。

晴れた日には、羊蹄山が臨めるバルコニー。自然が見せる顔も季節ごとに変わる。

Profile


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Shouya Grigg 
ショウヤ・グリッグ

イギリス・ヨークシャー出身。13歳よりオーストラリアに移り、17年前に来日。ニセコに住み始める。クラブやラジオDJなどを経て、デザインカンパニーを設立。フォトグラファーやグラフィック・ウェブデザイナーとして活躍しながら、空間もデザインし始める。ホテル・ダイニング・アクティビティを提供する「J-SEKKA」オーナー。

http://www.j-sekka.com/

森岡尚子さん

自給自足を目指す家族を受け入れた、ちゃんぷるー文化。

沖縄北部、この島で最も豊かな森林が残るやんばる(山原)の東村で、
自然農法を取り入れた農業を営む森岡尚子さん・浩二さん夫妻は、
この土地に移住して6年になる。
「5年くらいずっと、あちこち自分たちの住む場所を探していたんです。
石垣島に3年半ほど住んだ後に、やっとこの場所を見つけて。当時、
このあたりにはほとんど移住者はいなかったんですが、今はずいぶん増えました」
と尚子さんが振り返る。
その間に、和鼓ちゃん(9歳)、然くん(4歳)、丸ちゃん(1歳)の
3人の子どもに恵まれ、今では賑やかな5人暮らしになった。

尚子さんの「住む場所探し」への思いは、
今思えば「ずっと小さい頃から始まっていたのかも知れない」という。
東京・渋谷区という「超」のつく都心部に生まれた彼女は、
「新宿副都心の超高層ビルを見ながら育ったせいか、
自然の中で暮らしてみたいとずっと思っていた」
「文明のないところで自給自足するような生活に憧れていたんです。
だから、大きくなってから何度も旅をしたけど、
旅そのものが目的というよりも、“自分の住む場所を見つけたい”という思いが強くて。
初めから目標は決まっていたんですよね」

高校生の頃、国際的な政治や国際経済、環境問題に興味を持ち、
フォトジャーナリストに憧れて、大学では写真学科を専攻した。
その在学中、英語を学ぶために休学して向かったロンドンでの体験は、
その後の人生に大きな影響を与えたという。
「ロンドンで暮らし始めると、ジャマイカやアフリカなど、
色々な国から来た移民がすごく多いことが分かって。
しかもみんな『お客さん』ではなくて、その土地にしっかり根ざして生活している。
下町の商店街を歩いていると、あちこちからいろんな種類の音楽が聞こえてくるし、
いろいろな国の食べ物が売っていて、それがもう楽しくて。大好きでした」

さまざまな国や民族・文化に触れる楽しさを知った尚子さんは、
かねてから興味のあったアフリカへ、ロンドンから旅に出るようになった。
特に、マリやカメルーン、ブルキナファソなど西アフリカの国々で出合った、
日本やヨーロッパの国々の近代的な生活とは違う、
自然とともにあるプリミティブな暮らしに、強く惹かれた。
その理由を尋ねると、
「説明するのは難しい」
と尚子さん。
「好きなことって、理由がないじゃないですか? 
好きなものは好き、という感じで、
ただそこにいることが気持ちよかっただけなんですよね」

結局、ロンドンでは一年半ほど暮らし、そのまま大学は中退した。
帰国後、ロンドンで学んだアフリカの「ろうけつ染め」や
写真の個展を各地で開きながら暮らしていた尚子さんの心が農業に向かったのは、
一冊の本との出合いだった。
自然農法の創始者、故・福岡正信氏の著書『自然農法 わら一本の革命』。
田畑を耕さず、農薬はおろか肥料も使用しない
独自の農法を提唱するその思想に、大きな衝撃を受けた。
「本を読んで、すぐ愛媛の福岡さん宛に手紙を書いたんです。
すごく緊張してポストに手紙を入れたのを覚えています。
するともう次の日の朝、すぐに福岡さんご本人から電話があったんですよ。
本当にびっくりしました。“こちらに来ていいですよ”と言っていただいたので、
こちらもすぐに“行きます!”と答えました」

移住者も多く、やんばる地域ではこの東村だけが唯一子どもが増えている。

台所には周辺で自生するハーブなどを使った手作りの調味料や保存食が並ぶ。

愛媛で農園を営んでいた福岡氏の元で学び始めた尚子さん。
「福岡さんは当時すでにかなりのご高齢でしたので、
実際に畑仕事をたくさん一緒にやったわけではないんですが、
そばにいることで福岡さんの哲学が学べました。
やっぱりそれが一番大事なことなんですよね」

福岡氏の提唱する自然農法は、畝を作らない。
筋蒔きをしない。「ほとんど『ばらまき』に近い」、
現代の農業においては非常に特異な農法と言えるものだ。
「今でも他人から“そんなやり方じゃ無理じゃない?”
なんて言われることもあるんですけど、
本当に石だらけの土地で大根ができるんですよ。
タイミングさえ間違わなければ、除草も間引きも一度もしなくてもいい。
毎年、ここで実践をして、どんどん結果が出ている。
すごくワイルドで味のいい野菜ができるんです」

タイミングを見逃さないこと。
それは福岡氏の自然農法の大きなポイントだと尚子さんは語る。
「福岡さんはいつも“観察が大切だ”と仰っていました。
雑草ひとつとっても、その状態はいつも同じではないんですね。
だから、“知恵を捨てろ”と言うんですね。
先入観や知識が、観察を邪魔してしまうから」

夫の浩二さんもまた、福岡氏の元へ行き、
それまで持っていた先入観や知識を覆されたという。
「僕はそれまでずっと有機農業をやっていたから。
当初はなかなか自然農法のことが理解できなかったんです。
でも、僕も福岡さんの山に行ってみて、“ああ、そういうことか”と。
あちこちに生えている雑草だって木だって、
何でも食べられるものなんだって分かった。
そう考えたら、自分たちの目の前には食べ物だらけじゃないか! って。
だけど、“これは雑草でしかない”というガチガチに固まった頭で見てしまったら、
そうは見えないですよね」

自然の中のありとあらゆるものが、必要であり、役割があるということ。
「自然農法をやっていると、感謝しか出てこない」
と尚子さんは言う。
「自分は何もやってないのに、自然から与えられるばかりだから。
福岡さんはよく、
“人間は何もせずに、ただ感謝して生きていれば良かったんだ”と仰っていました。
ここで暮らして、本当にそういうことを感じるようになりましたね」

キャベツ、レタス、トマト、じゃがいも、葱……、
周りの人たちから「できないよ」と言われていた米もできた。
「まだまだ…。麦も大豆もやりたい。味噌も自分で作りたい。
どんどん増えてきますね。
来年はあそこをこうやってみようとか、ずっと完結しない。だから、飽きないんです」
と浩二さんは話す。

そもそも、尚子さんが沖縄に住むことになったきっかけは、
「もともと南方が好きだったんです。
たまたま沖縄でろうけつ染めの個展をやることになって、
その時にいろいろな人達と知り合って、
だんだんとこの場所との縁が深まっていった」とのこと。
当時、同じく農業を志していた浩二さんと出会い、
二人で自給自足を目指す生活を始めることになった。
その理由について、尚子さんはこう語る。
「自給自足することで環境破壊になるべく加担しないですむ。
そういうものに大きく加担していると思うと
すごく居心地が悪いという気持ちはありました。
自分の知らないところで誰かが犠牲になっているという暮らし方はしたくない。
とは言っても、自分としてはやっぱり
ただ気持ちのいい方、いい方へとしか行けない性分だったというのが大きいんです。
都会は自分にとっては大変なことが多かったから。
こういう暮らし方が、自分にとっては気が楽だったということなんです」
浩二さんも
「農業は身体的には辛いこともあるけど、対人関係のストレスに比べればずっと楽。
汗水流して、細かいことは気にせず、快眠快食。働いた結果がお金でなく、
食べ物で得られる。シンプルでいいなあと思いますね」と快活に笑う。

土地を見つけた後、浩二さんがテントで寝泊まりしながら自ら家を建てた。

自然の素材を生かした室内。冷蔵庫や掃除機などの家電は使わない。

自然の中で成長する娘の姿に「自分は街で育ったので、羨ましい限り」と浩二さん。

東村に土地を見つけた後、自分たちの住む家は大工の友人に教えてもらいながら
セルフビルドで半年かけてつくり上げた。
沖縄という地に馴染み、根を下ろして生活していく中で、
南国の明るさや軽さだけではない、
この土地のさまざまな目に見えない文化も理解できるようになったという。
「沖縄には、すごく相手を気づかう言葉の文化があるんです。
『だからよ』っていう方言は翻訳が難しいけど、ちょっとした相槌みたいな言葉で、
その一言だけで相手に気持ちを伝えたり、ハッとさせられたりする。
あと、自分が帰る時に相手に向かって“行きましょうねえ”なんていう、
自分と相手の境をなくして、全てを抱きかかえるような言葉もあります。
お酒の場でも、そこにいない人の悪口はタブーなんですよ。
ウチナーンチュは本当に楽しくお酒を飲むんですよね。
狭い島だからこそ、人間同士がうまくやっていくためのルールとか行動規範が
洗練されていて、スマートなんですね。文化的なレベルの高さを感じます」
と浩二さん。その文化的ルーツは
やはり「海洋民族」ということにあるんじゃないか、と尚子さんは言う。
「『ちゃんぷるー』という言葉は元々インドネシア語ですが、
黒潮に乗って多くの人々がやってきた海洋民族だからこそ、
いろんなものを受け入れる『ちゃんぷるー文化』ができたんじゃないかな。
そんな沖縄の人たちの優しさが、
現代の基地問題なんかにも繋がっているのかもしれないけれど、
やっぱり彼らは人やものを拒むのではなく、受け入れてくれるんです。
すごく懐の深い文化だなあと思いますね」

自分たちのような移住者をも拒むことなく受け入れてくれた、沖縄の土地と人々。
それは、そこに住む人々がとてつもなく長い時間をかけて培ってきた、
平和に暮らしていくための文化と技術に裏打ちされているのかもしれない。
「まだまだこれから、ゆっくり土地に馴染んでいきたい」
と浩二さんは語る。
「ウチナーンチュの時間軸は、内地の人間とぜんぜん違う。
すごく長いスパンで物事を考えているんですよ。
すぐに成果を求めない。決してあせらない。
とても余裕があるんです。だからもう、彼らには本当にかなわないですよ」

Profile

NAOKO MORIOKA 
森岡尚子

1972年東京生まれ。大学の写真科を中退してロンドンへ渡り、その後は全国各地でアフリカをテーマにしたロウケツ染めと写真の個展を開催。自然農法創始者・福岡正信のもとで農業を学んだ後、沖縄へ移住。現在は東村・高江で夫と3人の子どもと暮らす。著書に『沖縄、島ごはん』(ネコパブリッシング)『ニライカナイの日々』(ピエ・ブックス)。