山海亭食堂

更新していく葉山町の小さな食堂

2011年秋、46年間続いた小さな食堂が暖簾を下ろした。
女将さんは90歳。地元の人たちから惜しまれつつの閉店だった。
営業最終日には、取引のあった会社や役場などから
仕出し弁当の「さよなら注文」が相次いだ。
弁当の仕込みと配達のために店を開けることができなかったほどだ。
お別れの花もいくつも届いた。地元に愛された食堂だった。
食堂の閉店を寂しく思った若い世代が、
店を引き継ぐかたちで数か月後に再開することになった。
若い世代が店を譲り受け、90歳の元女将さんが見守り続ける、
神奈川県葉山町の小さな食堂を訪れた。

山海亭食堂はJR逗子駅から車で10分ほどの場所にある。
引き戸を開けて店を見渡すと、黙々と定食を食べる作業服姿の男性たちが見えた。
テーブルは8つ。20人も入れば満席の店は、すでに半分近くの席が埋まっている。
いい食堂とは、体を使って働く人が集まる店だと聞いたことがある。
彼らが集まる店は安く、料理が出てくるのが早い上にボリューム感がある。
味は言うまでもない。どのテーブルにもおいしそうな料理が並んでいる。
間違いなくこの店は「いい食堂」のようだ。

お昼時は12時前から大忙し。作業着姿の人が多い店はうまい店が多いというが、山海亭も近所で工事をしている人たちに人気のお店。

「いらっしゃいませ」と、おばあさんに声をかけられた。
小さいけれどよく通る素敵な声だった。
席に着き周りを見渡すと、生姜焼き定食を食べている人が多いようだ。
僕も生姜焼きを頼む。
さっきのおばあさんがストーブの脇に座って、小さな容器にソースを詰めているのが見えた。
時折、店内を見渡し、満足そうな表情で作業に戻る。
元女将の沼田てるさんのようだ。

左端のテーブルで作業をする沼田さん。片時も手を休ませることはない。

ボリュームいっぱいのショウガ焼き定食。肉、野菜、ご飯、味噌汁、漬け物。「正しい定食」だなあと思う。

BGMでは近藤真彦の次にRCサクセションの『スローバラード』が流れた。
ラジオではなくiPodだろう。音楽の選曲は若い世代になって変わったんだろうな……。
そんなことを思っている間に、すぐに定食が運ばれてきた。
豚肉も野菜もライスも多い……。少々不安になる量だ。
豚肉を頬張ると、甘辛い生姜醤油が口に広がる。
このボリュームとシンプルな味つけが、地元の人たちをファンにする理由だろう。
流行りや時代なんて関係ない、普遍的な「ザ・お袋の味」だ。
ボリュームの心配はどこ吹く風、生姜焼き定食はあっという間に僕の胃袋の中に消えていった。

今の山海亭は、前から働いていたおばちゃんたちと、
この店を受け継いだ若い世代が交じり合って店を運営している。
ほとんどの女性は子育て中なのだそうだ。
時間をやりくりし、入れる日に食堂で働く。
子どもが学校帰りに立ち寄ることも少なくない。
親にとっても子どもにとっても安心な職場だ。
子育ての悩みも、経験豊富なおばちゃんたちがいるから心強い。

「ぼけちゃうといけないからね、遊ばせてもらっているの」
と、元女将 沼田さんは言う。御年90歳。歩くことが少し億劫になってきたそうだが、
近所にある自宅から毎朝歩いて店にやってくる。
そして「少しでもなにかの役に」と、店でできることを見つけては手を動かしている。
「お店が休みになると退屈で。なにやっていいかわからなくなるんですよ」
元来の働き者なのだ。

入り口でお客さんをお迎えする招き猫。お客さんからのプレゼンだそう。

「何年も前からお店を閉じようと考えていたんですけど、お客さんが来るでしょう。
そうすると、やめられない。仕出し弁当の注文もあるし、やめないでねって言われるし。
ずっと通ってくれているお客さんもいるから」と笑う。
「いま厨房にいる人ね。28歳の頃にうちに来てくれて、
それからずっと働いてくれているからね」
お客さん、従業員、いろんなことを考えて、半世紀近くも続けてきたのだろう。
「続ける人が現れて、うれしかったですよ」

28歳の頃から働いている関口さん。「孫にはもう働かなくていいよっていわれますけど、家でじっとしているのも、なんかねえ」と笑う。

厨房をのぞかせてもらうと、
店の歩みとともに年を重ねた関口よし子さんが中華鍋を一心不乱に振っていた。
動きが速い……。若い世代もまわりにいるが、厨房に入ってしまえば年齢は関係ない。
注文をさばき、1秒でも早くお客さんのテーブルに温かい食事を持っていく。
関口さんの動きから、大衆食堂の美学を感じた。
関口さんの動きには年齢を感じない。いや、本当に力強い。
関口さんは言う。「好きだから続けてきたんですね。沼田さんは本当にいい人ですよ。
本当にいい人。嫌なら何十年もいませんもん(笑)」

この店を受け継いだ若いスタッフたちは孫ほど年が離れているというのに、
沼田さんや関口さんは彼女たちにルールを押しつけることがない。
程よい距離感で一緒にいる。

「若い人? よく働きますね。なんの文句もありません」と2人は口をそろえる。

どうしてお店を若い世代に譲ったのかと沼田さんに尋ねると、
「さあ、わからないですね。私は海の家もやっていましてね。
そこで任せていた人たちがやりたいというのでね。
前からよく知っていた人たちにやってもらえるんなら、それじゃあいいですよと。
これもなにかの縁ですからね。もう、申し分ないですね。よく気がつくし、働いている。
私はなにも言わないですよ。言わなくてもちゃんとやってくれますからね。
ほら、言い出すとね、いろいろなんでも大変になるじゃない」

沼田さんは、店を受け継いだひとり、中積由美子さんを見て
「私そんなに口やかましくないわよね」と言うように、茶目っ気たっぷりに笑う。
「いろいろ教えてもらいながら、自由にやらせてもらっています。
建物はもう80年くらい使われているんです。かなり傷んでいて……。
直角のところがないくらいなんですよ(笑)。修理をして、ペンキを塗って。
できるだけ、前のお店のままに。
味もメニューもお店をがらりと変えようとは思いませんでしたね」
と中積さんは話してくれた。

長年続いた店を受け継ぐ場合、新しく店にやって来た人は自分の個性を出したがるのに、
中積さんたちは元の山海亭を残した。建物だけではない。
味は厨房を守ってきた関口さんたちにアドバイスをもらい、変えないように努力した。
変えない努力のほうがきっと大変だ。沼田さんは、店をやっていくことの辛さを知っている。
食堂を「これまで通り続ける」という選択をした若い人のことがどこか心配なのだろう。
だから毎日やって来て、静かに見守っているのかもしれない。

ランチタイムが終わると全員で遅い昼食。家族のような食卓風景。

山海亭が次世代に受け継がれていく様子を見ていると、「ブナの森」を思い起こさせた。
ブナの木は倒れた後も、その木が養分となって稚樹(ちじゅ)を育て守っていく。
そうやってブナの森は「倒木更新(とうぼくこうしん)」し、豊かな森になっていく。
葉山町の小さな食堂は、半世紀に及ぶ歴史を一度閉じた。
だが、その食堂に集う若い世代が、
先代オーナーやおばちゃんたちに支えられ、大きくなっていく。
以前より太く地面に張りつき、たくましい木になることを、願わずにはいられない。
その変化を見届けられる、葉山町の人たちがうらやましい。

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