安彦年朗さん

落ち着いて関係を築き、制作できる場所を求めて。

益子の隣町、茂木町で作品制作をする木工作家の安彦年朗さん。
もともとはいろいろな素材でランプをつくっていたが、
現在はおもに木でランプや器、カトラリーなどを制作している。
言葉数は少なく、黙々と作業をする安彦さんのつくるものは、
人間味があり、どことなくユーモアすら漂う。

安彦さんは面白い経歴の持ち主だ。出身は東京の町田市で、
両親は焼き物や骨董、工芸品を扱うお店を経営していた。
16歳のとき、自然保護の団体に参加しネパールへ。
その後インドやヨーロッパを放浪し、18歳のときにバルセロナに行き着く。
やがて両親も安彦さんのところへやって来て、工芸品などを扱うお店を始める。
スペインでは照明づくりが盛んだったこともあり、
いつしか安彦さんは、お店で余った和紙を使い、自己流で照明をつくるように。
安彦さんはその後、帰国。両親はバルセロナから引っ越し、
まだスペインの田舎まちに住んでいるそうだ。

結婚して子どもも生まれ、制作活動にいい場所を探していて、
たまたま現在の場所を見つけた。もともと神社の社務所だった建物を住まいにし、
すぐ近くの炭置き場だった小屋を、工房として使っている。
若いクリエイターたちが集まる益子の隣町という土地柄にも惹かれ、
28歳で茂木に移住し、約9年が経つ。
最初は養鶏場などで働きながらものづくりをし、4年ほど前に木工品の制作を始めた。

「特にこのあたりに縁があったわけではないのですが、益子は面白そうだなと思って。
益子のKINTAさんという、家具やオブジェなどをつくる作家さんがいて、
その方に自分のつくったものを見せたら“面白い”と、
スターネットの馬場浩史さんを紹介してくれたんです」
現在は、同世代の仲間も増え、環境はとてもいいという。
2012年の6月には東京のCLASKAで、益子周辺の作家たちの展覧会も行われ、
安彦さんも参加。ほかにも各地のギャラリーによばれ、展覧会に出品することも多々ある。

益子には、伝統の色は濃くなく、新しいものや人を受け入れやすい土壌があると
感じるという。それも、ここに落ち着く決め手となった。
「それまで人との関係も流動的で、地に足のついた生活をしていなかったので、
落ち着いて人間関係を築けたり、仕事のできる場所を探して、ここに来ました。
ずっとこの土地で過ごしているおじいさんと一緒に歩くと、気づかされることがあります。
私だったら何も感じずに通り過ぎてしまうような、
道の辻にあるほこらのようなところや、木の切り株などにも、
彼が生きてきた歴史が詰まっていて、土地に詰まった思いがあるんです。
その密度の濃さが新鮮に感じられました。
小さなまちでも、実はさまざまな出来事が起こっていて、いろいろな世界があります。
結局、海外などあちこちに行っても、同じまちにずっと暮らしていても、
何かを感じたり考えたりするのは、自分の感性次第なのでは、と思います」

炭置き小屋だったという建物を工房に。大きな機材や木材が、外にも並んでいた。

仕上げのオイルを塗る安彦さん。塗りの作業は自宅でやることも。漆も扱うこともある。

実用品と美術品のあいだ。

安彦さんは、特に誰かに師事したわけでも、学校で技術を習得したわけでもない。
だからこそ、独創的なかたちが生まれるのかもしれない。
「最初ここでも、何をしようというのははっきり決めていなかったのですが、
あまり仕事もないので、だったら自分で仕事をつくろうと思いました。
以前はいろいろな素材を使っていましたが、いまは木工が多いのも、
木材が手に入りやすいから。このあたりでとれるエンジュという木をよく使っています」
エンジュは外側が白くて中が黒く、割れにくいのだそう。
製材所から持ってきた木材を、荒削りして少し乾燥させておき、
だんだんかたちをつくっていく。
木の塊から掘ったり、くり抜いたりしてつくることが多い。精密なものは苦手だという。

「ちょっとひびが入ってもいい、というくらいのものをつくりたいんです。
きれいにつくりすぎると、ちょっとひびが入っただけで気になってしまいますが、
時間が経ってひびが入ったとしても、それすらも内包するようなものがいいと思って。
不要なものと実用的なものの中間、
面白いけど美術品でもないようなものをつくりたいと思っています。
以前アフリカに行ったとき、
まるで宇宙にいるような、星に満たされた夜空や、自然を体感し、
ああいった環境が、縄文人やアフリカ人の創造力に影響しているように感じました。
何か巨大なものをはらんでいるような佇まいの像など、外との交流もないなかで、
あれだけの発想とセンスでつくられたアフリカのものに、とても刺激を受けます。
私は新しいものをつくるのが楽しいし、やったことのないことをやりたいです。
木の仕事は時間がかかりますし、子どもがいると思うように早くは
作業を進められないのですが、長いスパンで一生をかけてやっていきたいです」

2012年9月に益子で行われた「土祭」の「夕焼けバー」の屋台には、
太陽光発電による蓄電を利用した提灯が灯されたが、
そのドロップ型の提灯のデザインは、安彦さんによるもの。
長いあいだひとりで制作活動をしていた安彦さんにとって、
このような活動も新たな創作の刺激になっているはずだ。

これがエンジュ。割れにくいが粘り強いので、気に入ってよく使っている。

作業場にあったスツール。ちょっとした遊び心が楽しい。

作品としてつくっている小さな人形。

土祭だより Vol.10

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月29日 風の道

朝、花火が鳴る。
ついに土祭も今日あしたとなった。
二週間益子に滞在し、たくさんのものを見て聞いて、伝えたいことがありすぎて、
筆(?)がまったく追いつかなかった。
わたしが書いたことは、この二週間で起きたことのほんのわずかにすぎないし、
時間をさいて取材させていただいたのに
書けなかったことがいっぱいあって申し訳なく思っている。
今日は、ゆいいつ見残している展示、
映像作品「土の人3Portraits/6月の夜」を見にいってみよう。
国内外で活躍する若手映像作家が、益子の風土とともに生きる(生きた)自然観察者、
手漉し粘度職人、陶芸家の姿を追ったものであるという。

結局、開幕の日の夜に見て、つぎに明るい昼に見て、
さらに友だちを連れて見に行って、作家による朗読会にも出かけと、
今回もっとも多く足を運んだのが橋本雅也さんの彫刻展「風の回廊」であった。
スターネットの丘の上の建物「zone」の白く天井の高い空間に、
ただひとつ、14頭の鹿の角から穿(うが)たれたという作品が展示されている。
それは硬質で闘争的な角とは、にわかに信じられないほどに薄く繊細な作品で、
発光しながら風を追い、風においていかれてしまった恰好のまま、
静かにそこに存在している。
その悲しい躍動は、わたしに、アポロンの愛から逃げるために
月桂樹に姿を変える瞬間のダフネを思わせる。

橋本さんは数年前にも、鹿の角や骨を削った花の作品をいくつか発表しているが、
それは自ら撃った一頭の鹿から生まれたものであり、
その際の凄まじい物語を彼は一冊の本にまとめている。
先導をした猟師がその鹿を解体しようとナイフで腹を切り、
体内に宿された小さな胎児を目の当たりにしたときの頭を殴られたような衝撃。
いのちというものが、忽然と重力をもって、のしかかってきた。

その瞬間に映像として脳裏に浮かんだ白い花々を、
自分の場所に帰った橋本さんは一年かけて彫りすすめていく。
供養というよりは、命を受けとったものが担う役割りを
ただ無心に果たしていたようだったと橋本さんはいい、
花が一本生まれるたびに、心は落ち着きを取り戻していった。
七本の花が生まれた。

それから数年、橋本さんは、花にした残りの骨を同じ山に返しに行って、
今回の作品のベースになった鹿と出会うことになる。
しかし前回と違うのは、その鹿ははじめから死んでいた。
まるで橋本さんに、その身を捧げるかのように。

「けもの道ってありますよね。人は通らない、動物だけの通り道。
あてどもなくそこを歩いていくと小高い頂きに出て、
そこは峰から吹きおろされる風の道だったのか、強い風が吹く場所でした。
ぼくは目を閉じて風の音を聞くうちにいつしか眠ってしまって、
ふと目を覚まして引き返そうと歩き出すと、ツツジの木の下で鹿が死んでいたんです」

それはりっぱな角をもった雄の鹿で、外傷もなく、自然死に見えた。
けもの道を行けば自然死した動物と出会うことはあるが、
そこは急な斜面に囲まれた頂きで、橋本さんには、
死期を悟った鹿が、あえて死ぬ場所として、その風の道を選んだようにも思えた。
その魂の気高さに身震いがした。
半年後に再びそこを訪れると、朽ちて白骨化した鹿の骨と角が森に点在していた。
橋本さんはその角をていねいに拾い、持ち帰った。

(撮影:矢野津々美)

その鹿の角で新しい作品をつくろうと思ったとき、
橋本さんの頭にはすでにこの場所、「zone」があったのだという。
馬場さんに相談してみると、「それならやりなさい」という答えが返ってきた。
22日の夜には会場で、橋本さんと馬場さんとの対談がおこなわれたが、馬場さんからも
「この作品が、今回の土祭のはじまりだった」という発言が出た。
「ぼくたちが失ってしまったもので、いま取り戻さなければいけないもの。
それは霊的なものといっていいと思うけれど、この作品にはそれがある。
橋本さんは、古代の仏師が仏さまを彫るような気持ちでこの作品をつくったと思う。
ある意味、命の移しかえともいえる行為なんじゃないか」

その後のことだ。偶然、益子にもってきていた一冊の本に、
こんなくだりを見つけて、はっとした。

「村の中、特に山の中には時空の裂け目のようなものがある。
それをこの世とあの世を継ぐ裂け目といってもよいし、
霊界と結ぶ裂け目、神の世界をのぞく裂け目といってもよい。
異次元と結ぶ裂け目である。この裂け目は人間には見えないが、動物にはわかる。
そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。
埋まらないかぎり永遠に口を開けていて、その裂け目に落ちた者は命を落とす」
(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節著より)

橋本さんを風の吹く道に招いたものは、いったい何か。

橋本さん(左)と馬場さんの対談。前作の月下美人の花の彫刻も特別に展示。(撮影:矢野津々美)

土祭だより Vol.9

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月27日 夕焼け

綱神社のふもとにある鶴亀の池は、鎌倉時代に宇都宮氏が造園した浄土庭園の一部とされ、
いつしか埋没していたのが近年整備されて、ふたたび水を湛えるようになった。
浄土庭園とは阿弥陀仏のいる西方浄土への往生を願ってつくられるもの。
その、おめでたいというか、ありがたい名を冠した「鶴亀食堂」の人気は
聞きしに勝るもので、週末はもちろん、平日の昼どきも大賑わいである。
二週間限定オープンの食堂店主は、
東京を拠点に活躍する料理ユニット「南風食堂」さんで、わたしもお名前は知っていたが、
料理や活動のことはよく知らなかったので行くのを楽しみにしていた。

近頃は、南風さん(なんぷうさん。ぷう、と口をとがらすときが快い)のように、
自分の店をもたず、イベントやギャラリーのオープニングといった
特別な場に料理を届ける、若い女性のケータリング屋さんがふえているように見える。
経済的な問題もあるかもしれないが、場所を所有せずに、
臨機応変に場所をつくっていくというスタイルは、
わたしの世代にはなかった新しい働き方で面白いと思う。
ただおいしい料理をつくって届けるだけでなく、
いわば、しあわせな空間や時間を、自分から動いて人に届けようとする。
南風食堂さんは、その代表ともいえる存在となっているのかもしれない。
ユニットというからふたり組だが、ただいま相方が子育て中で、
今回は三原寛子さんがひとりで参加。
今年益子に移住してきたという女性が、お手伝いに厨房に入っている。

かまどや七輪で調理する神社のふもとの食堂、というコンセプトは、
総合プロデューサーの馬場さんからの提案らしいが、
冷蔵庫も藤村靖之さん考案の手づくり非電化冷蔵庫を使用し(「土祭だより Vol.4参照)、
こちらも手づくりのかまどで朝に農家から仕入れる野菜を蒸し、
スープは七輪でことこと温めるという、前近代的で、
同時に未来的な食堂の実験がこころみられている。
現実的には、夜が晴れないと非電化冷蔵庫は機能せず、
お客が押し寄せればガスコンロも使わなければとても手が回らないようではあるが、
わたしたちの食をめぐるリズムが電気とガスなしではどうなるか、
そのことを体験として知るだけでも大きな収穫にはなる。
「待つ」訓練を、みんながするときがきている。

お父さん、お母さんと来ていた、とてもお行儀のよい子。

杉の木だろうか、設計者である日置拓人さんは、
長い縁側をイメージしてこの建物をつくったのだという。
その縁側の一端がなぜかくるりと渦を巻き、お客は靴をぬぎ、
その渦巻きをくぐって食堂に入るようになっているのだが、意味はよくわからない。
もしかしたら渦巻きは、食堂の結界としての暖簾のようなものなのだろうかとも思ったが、
設計者には残念ながら聞きそこねている。
お皿やコップは、益子の陶芸家である鈴木稔さんが、
二週間限定のこの店のために特別に焼いてくれたもの。
食事のメニューは日替わりの定食プレートのみで、朝に農家をまわり、
手に入った素材のならびを見て、その日の朝に考えるのだそうだ。
そう聞いて、思わず何時に起きるのかと訊ねてみると、始動が7時半だといい、
開店時間の10時から逆算すると、その反射力というか即興力に思いがいたる。
毎日おおよそ50皿ぶんを仕込み、それが13時には尽きてしまうこともあるのだという。
なぜ「なんぷう」とつけたのかとか、食の場づくりのことなど、
いろいろ聞きたいことはあったのだが、タイミングを逃して聞けずじまいで、
ついに最後の週末になってしまった。

鶏肉は、通常はワークショップにも登場した高田さんの平飼い鶏だが、この日はたまたま手に入らず。非常に弾力のある、おいしい鶏肉なんだそうだ。むちむちのナスは山崎農園のもの。

先日の日替わりプレートは、
鶏肉とトマトのバジル煮込みにレンズ豆とベーコンのサラダ、
ナスのレモングラス蒸しに玄米という献立(900円)。
掘りゴタツ式の縁側に座り、それをのんびりいただいているときのこと、
むこうから杖をついた、腰の曲がったおじいさんがてらてらとやってきた。
「おお、(人が)入っとるなあ」
おじいさんはいきなり大きな声をあげ、
「なに、わしも食べてみるかな。ヨッコラショ」
と、渦巻きの玄関を完全に無視して縁側にあがろうとしてきた。
聞けば老翁はこの地区に住む綱神社の管理人、
「こんなはずれた場所に人が来るわけないって近所では悪口いっとったんだが、
悪かったね(と三原さんに向かって)。
おかげさまで綱神社の賽銭も日ごとにふえましてな」
と、ほくほく顔である。

そういえば開幕の日に訪れたお隣の「食卓の家」でも、
はじめはどこか不満げな近所の人たちが、建物ができるにつれて「いいねえ」と、
一緒に楽しんでくれるようになったのがうれしかった、という話を聞いた。
「朝早く勝手に内部に入って過ごしているらしき痕跡を見つけたこともあった」
と微笑ましげにいっていたが、それもやっぱり、三和土に残った杖の跡だった。
老人たちは、半分閉めきった窓からこそっと顔を出し、
眠っていたこの場所にあらたな息吹がふきこまれる過程を、
懐疑半分、期待半分で眺めてたろうにちがいない。
縁側にちょこんと座りこんだおじいさんは、
「綱神社の階段は昔は百段ありましてな」
「昭和半ばの二度目の改修でなぜか一段へり」
「いやいや、土祭のおかげで社務所の屋根も新しくできました」などと、
誰に向けてというわけではなく、神社の歴史を諳んじて、それは何とも誇らしげだった。

お昼どきが過ぎ、落ちつきを取戻した食堂。かまどの煙が見える。

この食堂にはお酒も用意され、ここで夕焼けをみながら飲むのはすてきだろうと思う。
益子の夕焼け空は毎日ちがって、それは圧倒的な美しさなのである。
メイン会場である土祭広場の屋台を「夕焼けバー」とつけたのは、
益子人にしてみればごく自然なことだったのだろうなと、いまになってわかる。
今日の夕焼けは、まちのはずれの山中にある西明寺から見た。
空がここまで雄弁なことに、毎日驚いている。

諸富町 Part4 再び、「婚礼」から家具を 見つめたい。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとりでも多くの方に足を運んでもらいたい。

山崎

ショウルームと併設して、いくつかお店が入っていますよね。
これらは、平田さんが経営されているのですか?

平田

いいえ。カフェ以外は、テナントです。
うちは家族経営ですし、家具を買ってくださいと営業に出向くわけでもありません。
だから、店舗の空きスペースにカフェを併設したり、テナントを入れることで、
ひとりでも多くの方に、この場所に足を運んでもらえるよう工夫したんです。

山崎

なるほど。

平田

いまは、陶芸家さんの工房兼ギャラリー「indigo」、
アーユルベーダーサロン「Pithika」、
ハンドメイドのバッグと小物の店「tikitiki」が入居しています。

山崎

この、バッグのお店、商品と場の雰囲気にすごくマッチしていてステキですね。
内装はどなたが手掛けられたんですか?

平田

そのむかし、父が建てたログハウスなんです(笑)。
それを、事務所に使い、その後倉庫になっていた場所。
しばらくはカフェとして営業していたのですが、空き店舗となり、
以前から tikitiki の商品に興味があったぼくから
「お店を出してみない?」と彼女にオファーをかけて、話が決まりました。

山崎

あ、ほんとうだ。奥にキッチンの名残りのようなスペースがありますね。
面白いなあ。商品もユニークだし、ファンが多そうですね。

平田

そう言っていただけるとうれしいです。
テナントを入れ始めたのは3年前のことなんですが、
ひとりでかんばろうとしていた気負いみたいなものが、
おかげでふっと軽くなった気がしています。

「tikitiki」のハンドバッグ

ハンドメイドのバッグや小物を販売する「tikitiki」。オリジナリティあふれるカラフルでハッピーな小物が、ログハウスの雰囲気にぴったり!

カフェの窓。イラストでお出迎え

「いわい家具」店舗の一角をカフェに。気軽に家具に触れられる場、ひとが集う場としてのカフェ。

いわい家具のカフェで提供されるピザ

もう一度、原点回帰できるだろうか。

平田

ひとが集う場として、カフェの存在も大きいと思っているのですが、
当初はやっぱり「家具屋がカフェ?」という目で見られていたし、
そういう意味を多分に含んで同業者から
「ピザ、儲かかってるか?」なんて声をかけられたりもします。

山崎

言われるでしょうね。そして、そのたびに葛藤もあると思います。
「つくらないデザイナー」の道を選んだぼくも同じだからよくわかります。
「でも、やりたい」ことがあるんだから、ふたりとも、仕方がないんです(笑)。

平田

そうですよね(笑)。
だからこそ、周りにうらやましがられるようなことをやりたいんです。

山崎

もうその方法は思い描いているんですか?

平田

はい。「いわい家具」の始まりは、祖父の代の婚礼家具です。
だから、もう一度、原点回帰できるのが美しいと思っているんです。

山崎

いいですね。

平田

問題は、それを現代にどう回帰させるか。

山崎

うん。おじいさんの時代とは婚礼のカタチもずいぶん変わってきていますし……。

平田

そうなんです。たとえば、このカフェで結婚披露宴をする。
新婦のブライダルエステは「Pithika」で。
引き出物や、こどもが授かったときの記念品は、
「indigo」の器や「tikitiki」のハンドメイド小物。
そうして、結婚や生誕の記念日のたびに、ここでお食事をしてもらう……。
そんな提案ができればいいのかな、と。

山崎

なるほど!

平田

となると、次に入居してほしいテナントは、不動産屋さんかな、とか(笑)。

山崎

団塊の世代の子であるぼくたちは、構造の変化に気づき、
かつてのやり方やモノの売り方に対して
「そうではない」と気づき始めた世代なんですよね。
そして、そういった考えがいよいよ実行できる年齢になってきた。
平田さんが、いま考えていらっしゃることは、
きっと、まちを元気にしていくきっかけになるはずです。

ピザ窯の薪に使う端材

「ピザ窯の薪には、家具づくりで出た端材を使っています」(平田) 「うわぁ、こんなぜいたくな木材の薪、見たことないですよ(笑)」(山崎)

対談の様子

ハコをつくるのではなく、ひとをつないでまちを元気にしたい。「地元に生まれ育った平田さんだからできることです」(山崎)

いわい家具の入り口。緑に囲まれている

緑に包まれた「いわい家具」。祖父、父が大切に守りついだ店舗と空間を、平田さんは、技術以外の面からもサポート、
プロデュースしようと考えている。

information

map

いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

川内倫子『照度 あめつち 影を見る』

引き寄せられるように撮った、阿蘇の野焼き。

だれもが「知っているかもしれない」と思う日常の一片を、
みずみずしく掬い上げてきた写真家、川内倫子。
今年は彼女の作家としてのキャリアの中で、
2002年の木村伊兵衛写真賞受賞から10年目にあたる。
2001年に初めての写真集を3冊同時出版して以来、
彼女の新作はつねに待望され、国内外の出版社が、出版の機会を待っている。
川内は忙しく仕事をこなす一方で、美術館やギャラリーの展示をはじめとする
さまざまなプロジェクトに招聘され、休むことなくあらゆる都市を旅し続けている。

印刷という行為と深く結びついた写真メディアを表現の中心にしている川内は、
他の多くの写真家と同様に東京の一角に活動拠点をもつ。
手のひらにのせた生まれたばかりの小さな蛙や、母の乳を吸う新生児、
あるいは光のあたる階段を上っている制服の学生たちの足もと、などのように、
日常をどきりとする鮮やかさで切り取ってきた川内倫子が
2012年に発表したシリーズ「あめつち」は、身近な世界から一転して、
広大な風景を目の前に、一層スケールアップした世界を見せた。

どこまでも広がる大地。なだらかなカーブをみせる塚を、やきつくす炎と煙。
「あめつち」の中で核となる阿蘇の野焼きの写真は、川内が写真撮影を前提に、
一年に一日だけ行われるその「場」に立ち会い続けた行為の記録だ。
7月まで東京都写真美術館で開催されていた展覧会『照度 あめつち 影を見る』で、
彼女の写真の前に立ち、むき出しにされた広大な土地に向き合った私たちは、
無防備なまま自分たちの内部にも実は抱いていた
「むき出しの何ものか」に引き合わされた。
観客が川内の写真の前からなかなか立ち去れなかったのは、
言葉にできない「むき出しのものに出会う体験」をどう自分は引き受けたらいいのだろう、
という想いを、草を食む牛のように反芻していたからではないだろうか。

野焼きは酪農業を営むため、日本国内でも多くの場所で行われているが、
川内は、直感的に「自分が撮るのは、阿蘇でなければならない」と選択し、
2008年から導かれるように、その地を毎年、訪問した。
野焼きが行われるのは、毎年2月末から3月の第3週までの、どこかの日曜日。
「その日」を逃せば翌年まで記録することはできない。
多忙をきわめる川内が、仕事のスケジュールを調整しながらも他人任せにせず、
自分自身が「その地」を訪問し続けることにこだわり、撮り続けたこの連作は、
2012年初夏に東京都写真美術館において大判プリントで展示され、
来春アメリカの出版社アパチャーから刊行される作品集にまとまる予定だ。

「まずは、自分がその場所に行って、その土地を、その場所を、体感してみたいんです」

一度は3月に真っ黒に焼かれた塚が、5月になると急に緑で覆われる。
野焼きは、美しい草原を草原のままに保つために、
牛の餌を絶やさないために、欠かさず行わなければならない作業だ。
川内は、異なる季節にも訪れ、写真のほかに映像でも記録した。

《無題》(シリーズ〈あめつち〉より)2012年 ©Rinko Kawauchi

《無題》(シリーズ〈あめつち〉より)2012年 ©Rinko Kawauchi

「大きな星に立っている小さな自分」を感じて。

世界中を飛び回る川内が、阿蘇にこだわり、野焼きにこだわって、
自分の作品世界を拡げようとした、その理由はどこにあるのだろう。

「撮り始めたころは、『もっと土地の力をダイナミックに実感したい』、
と考えていたんだと思います。
阿蘇に行ってみて、初めて、どんな遠くの国にいった時よりも
『大きな星に立っている小さな自分』を実感できたんです。
初めて自分が『惑星の上に立った』というような」

以前アフガニスタンでもそれに近い感覚を得たことがあるが、
阿蘇での体験はより強烈なものだったという。
星の王子さまの絵本に出てくる絵のように、「惑星の上に自分の足で立つ」という感覚。

「『自分がここに住んで生きていること』や、『自分の小ささ』を実感したいんです。
東京にいると、それはなかなか感じることができない。
現地に行って感じたのは、神社に行って詣でるような新鮮さでした。
あらためて、畏敬の念を抱くことができました」

阿蘇も広いし、熊本もとても広い。
野焼きは朝の9時から14時くらいまで、いくつもの塚で行われる。
燃える時は、一気にワーっと燃え、あっという間に燃えて真っ黒になる。
そして、5月になると急に緑の草原になる。

「阿蘇の野焼きは1300年間続いていると言われていますが、
その目的は、放牧のための草原をキープするため。
焼かないで放置すると森になってしまうからです。
あの、阿蘇のきれいな緑の景色も、人の手によって作られたもので、
害虫駆除や草原を保持するという実用的な目的から生まれたものなんですね」

「牛を飼っている人たちからすれば、野焼きを続けられるかどうかは死活問題なんです。
最近は阿蘇でも過疎化が進んで、この野焼きを継続できるかどうかが問題になっています。
現在では野焼きに興味のあるボランティアの方たちが参加して成り立っていますが、
非常に危険な作業でもあるので、あまり経験のない人だと
事故に巻き込まれる可能性もあるんです」

本来は腰が重く、写真を撮るという理由がなければ、
何度も同じ場所に通わなかった、と川内は言う。
阿蘇の野焼きを撮る、という想いにひっぱられて、同じ場所に通い続けたのは、
このシリーズが初めての試みだった。
それには自分も周囲も納得させる、深い動機があったはずだ。あえてそこを問うと、
「はじまりについて、考えてみたかった。いろいろなことの、起源をみたかったんです」
と語った。

土祭だより Vol.8

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月25日 与える

益子滞在10日目。
毎日、受け取るものがあまりに大きくて、それを記録するのが追いつかない。
今日も実際には25日の火曜日なのであるけれど、
23日、先週の日曜日のことを書いておかねばと思う。
あの日は土祭一週間目。
一日じゅう雨であったが、夜には雲の切れ間からきれいな上弦の月が顔を出し、
この地はやはり何かに守られていると思えた晩だった。

益子の食のレベルはかなり高いと思うのだが、それは材料の新鮮さにつきる。
宿泊中の町営ホテルについた食堂でも、サラダなどの野菜がとてもおいしく、
聞けば早朝に農家から採れたての野菜がごっそりと届くのだという。
トマトなど、東京で食べるものとはくらべものにならない。
10日間ここで暮らしていたら、外で食べる料理に使われている野菜の割合が、
どこの店でもなんとなく似通っていることに気づいた。
それはそのまま、益子の畑の生りものの割合なのだろう。
ちなみに、ここ数日でカボチャの頻度が忽然とふえ、
残暑の名残りか、まだ採れるニガウリをなんとか使い尽くそうと苦心している形跡が、
小さく刻まれた緑に感じとれたりもする。
新米の季節、ごはんもおいしい。
里山の実りがそのまま食卓に。これこそ「健康」だなと思う。

今年も実りの季節。

循環型の農業を営む山崎農園のことを知ったのは、「スターネット」を通してだったが、
23日の日曜日の午後には「山崎農園とゆかいな仲間達」による
「みんなで考えよう食の安全のこと」というワークショップが開かれた。

同じ時間、土祭セミナーでは「BEAMS」バイヤーの北村恵子さん、
「D&DEPARTMENT」代表のナガオカケンメイさん、
「ランドスケーププロダクツ」代表の中原慎一郎さんという、
伝統や手仕事をビジネスとして成立させるための
太いパイプラインとなっている人々による講演がおこなわれていた。
近隣から大勢の若者が集まったようで、「スターネット」の馬場さんは、
その光景や熱気からも「得るものがあった」と仰っていた。
わたしは、どちらに行くべきかと迷ったのだが、
気づいたら車のハンドルを山崎農園方向にきっていたのだった。
「3.11以降の食の安全とその取り組み」というテーマは聞くべきものと思った。
陶器屋が並ぶ城内坂の交差点を
左折したのははじめてだったが(直進すると本通りにつながる)、
すぐさま田園地帯が一望にひろがって、空がぐんと大きくなった。
雨に煙る益子も、またきれいだ。

集会所の土壁の前で、雨水の流れ道をつくる若者たち。

はたして場所がわかるだろうかという一抹の不安を抱えて走っていたが、
目印といわれた新しい土壁が、すぐに見えてきた。
この無人の一軒家は以前から集会所として、
みんなで酒を酌み交わしながら語りあう場になったり、
あるときは都会から農村留学で来る子どもたちの
キャンプ地となったりしてきた場所だそうだが、
今回の土祭をきっかけに、あらためて
「益子の農の未来を考える拠点」として始動すべく、
仲間たちの手で、崩れていた壁の化粧直しがほどこされた。
「拠点というか、まあ、ここで酒でも飲みながら話そうというのは変わらないでしょうが」
というのは、「たてものの未来 食卓の家」の制作者で、壁づくりの隊長でもあり、
このワークショップの司会進行もつとめる建築家の町田泰彦さんである。

各地を転々としたのちに益子に定住を決めて約7年という町田さんは、
非常にクリアにヴィジョンを語る人で、この土地に少しでも早く根づき、
この地のために何かをしたいという熱い思いにあふれている。
自然の豊かさ、文化的な土壌、東京とのほどよい距離感もあってか、
益子を新天地として移り住んでくる人は、それこそ濱田庄司の時代から絶えない。
その大半は、焼きものをはじめ、ものづくりをしながら生きる暮らし、
あるいは自給自足をめざした人たちで、
山間の小さな農村としては驚くほどの民度の高さは、
そうした蓄積や文化の混血の上に成り立っているのだと思う。

この会の主宰者名は「山崎農園とゆかいな仲間達」とあるが、
この地に生まれ育って土と格闘してきた山崎さんのような人と、
外から来た町田さんのような若いクリエーターたちが、
互いに境界線を引くことなく交じり合い「仲間」になっている事実が、
わたしにはとてもまぶしく、貴重なことと思えた。
彼らをつなぐものは「理想」である。
はたして、こんな場所が、ほかにあるのだろうか? 
いや、わたしが知らないだけで、いまは、こんな未来的な親和が
日本各地で起きはじめているのかもしれない。
3.11をきっかけとして。

裏山から採ってきた枝ものを、大きな花器に目にも鮮やかな勢いで生けているのは山崎さんの奥さん。

ワークショップ第一部のディスカッションは、
養鶏家の高田さんの開口一番、いきなり放射能汚染の話からはじまった。
「(原発事故で)日々の暮らしが壊された。
静岡以北の作物はほとんど動かなくなっちゃったのが現状」
スーパーの陳列棚に並ぶ野菜のなかで、
もっとも南の生産地を選んで買うのが習慣になっている自分は、
身の縮む思いでそれを聞いた。
益子は、地震で被災したうえに、放射能汚染の風評がそれに追い打ちをかけた。
生産者が訴え、町民に寄付を募って測定所をつくり、
それでようやく比較的汚染度が低いということが判明したのだが、
その間に出荷した作物はまったく売れず、
土地を離れた若い生産者はまだ戻ってきていないという。

パネラーは五名。
生産者(それも山崎さんと同様に無農薬の循環型農法でがんばってきた養鶏家と米農家)、
益子にセカンドハウスをもつ経済界の大物、
東京在住の山崎さんの長年来の顧客であるデザイナーに編集者など、
五者五様の原発事故への思いが語られ、
その温度差には非常に考えさせられるものがあった。
放射能問題については、事故直後ほどではないにしても、
いまだ情報が錯綜して、何を信じればよいかがわからない。
だから安全策としてリスクのあるものはなるべく避けるという人は、
わたしのように多いのだと思う。
しかし、その態度は怠慢以外のなにものでもなく、
正直な仕事をしてきた生産者の人たちを窮地に追い込んでいるという紛れもない現実を、
わたしははじめて目にした。そして悔いた。

とくに、十数年来、山崎さんから届く野菜で旬を知り、
料理が楽しくなったと語る編集者の多田さんの発言は胸に滲みるもので、
「事故後はネットに氾濫する情報を読んで迷いに迷い、
でも不確かな情報に左右されて山崎さんの野菜をやめたら、
自分は(安全よりも)もっと大きなものを失うことになると思った。
わたしは自分が信じる人を信じよう、そう決めた」
という言葉に、人としての大きさが感じられた。
「食べます! 送ってください」
多田さんからその連絡を受けた山崎さんは、
「救われる思いだった」と、多田さんにむかってペコリと一礼をして、
「事故のあと、畑にたんまりできたチヂミホウレン草を見て、
これ、ぜーんぶゴミになっちまうのかなあって思ってたからね。
お客さんの半分以上、お子さんがある人なんかは離れたけど、
半分の人は『放射線の悪いことが出るのはあの世いってからだ』なんて、
温かいような諦めのような(笑)こといって続けてくれた。
あのとき食ってもらったのは、ほんと、うれしかった。感謝してます」
会場から自然に拍手が湧いた。

司会をつとめた町田さんと、長靴をはいた可愛いアシスタント。

左端が、養鶏家の高田さん、その隣が米農家の小島さん。右端が編集者の多田さん。

栃木なまりが温かい山崎さんは、「益子のキーパーソン」と誰もが認める人物である。
この人がいるから益子にいるという移住者も多いと聞いたが、
ご本人の語り口をはじめて拝聴して、人をそこまで動かす理由がわかった気がした。
「今後は、わたしたちもきちんと情報を調べながら、
細々とでもやっていければと思ってます。
来年にはセシウム、137だったかな、134だったかな、が半減するらしいから、
そろそろ枯葉を(堆肥として)山からもらってきてもいいのかなって。
そろそろ自信をもって、食べてもらってもいいのかなって、そんなふうに思っています。
離れちゃったお客さんは戻ってこないけど、
でも、こんなふうにつながりをつくっていければ、また(新しい人たちと)
つながっていけるかもしれないなって希望も抱いています。
よろしくお願いします」

農園主の山崎光男さん。『北の国から』の黒板さん(田中邦衛)を柔和にしたような。

熱く語る高田さん。

柔らかに語る山崎さんに対し、
養鶏家の高田さんの怒りを隠さないストレートな言葉も、
また胸に滲みた。魂のこもった言葉だったので、
そのまま(録音はしていないので記憶に頼り。方言はイメージ)書いておく。

「オレがいいたいのは、『止まれ』って。
立ち止まって、自分がいる状況をよく見てみろって。
震災後にオレが思ったのは、人間、ふたつしかないってことで、
自分さえよければで生きていくか、お互いよくなるかのどっちか。
日本は高度経済成長期に『自分さえよければ』ばかりが発達しちゃって、
でも、お金があったって、明日はどうなるかわかんないって、みんなわかったっぺ。
お金ためて老人ホーム入ったって、オレが卵を届けに行って見ると、
みーんな下を向いて暮らしてるよ。そんなの、しあわせか? 
だから、ここで立ち止まって、自分は何のために生きてるか、
しあわせって何かを考えないといけないでしょ。
オレはニワトリ育ててるけど、
ニワトリは人間に食べられるために生まれてきたわけじゃないわけで、
だったら生きもんを食べるとき、ぼくらは『自分は何のために生きているのか』に対して、
しっかりとした答えを出さなきゃいけない。それが3.11以降の課題。
それからなにより、自分でケツのしまつができないもん(原発)なんて、
つくっちゃだめ。つづかない。以上」

青い夕闇に包まれる17時から第二部がスタート。

山崎さんの奥さんが生けた花の前に、お月見団子とろうそく、さらには、たくさんの手料理が並ぶ。

秋サンマも炭火で焼かれ。

今夜の山崎農園プレート。

夕暮れて、第二部は「益子の食を楽しむ時間」、端的にいえば宴会となった。
山崎さんのお母さんが生けた花にスポットライトがあてられ、
採れたての野菜を中心にしたごちそうが並ぶ。
オクラの天ぷら、かきあげ、冬瓜と挽肉の煮たの、葉もののサラダ、
カボチャのサラダ、キュウリとナスの漬けもの、エトセトラ、エトセトラ。
これもすべて、お母さんの手料理。お母さん、すごい。
ビールにワインに日本酒と、お酒もたっぷり用意され、
「飲んでるか? 食ってるか?」と、山崎さんは集まった人のあいだを
声をかけながらまわっている。
わたしもお酒を飲んで、すっかり楽しくなり、
しかしこの光景はいったい何なんだろうと夢を見ているような気持ちにもなった。
お客さんの3分の1は、おそらく東京圏から、この益子の、
田んぼのなかの一軒家でひらかれるこの会のためにやって来た人である。
「益子は精神的には東京のはしっこのようなものだからね」
たしかそういっていたのは、髭の木工作家の高山さんである。

山崎さんは、見知らぬわたしにも、
「ほら、食いな。酒も飲んでるか? 何? 車で来た? 
だれが送ってってやる人がいるから、だいじょぶだ。飲め飲め」
と、なんやらかんやらすすめてくれる。
食事のクライマックスは、お釜で炊いた無農薬の新米に、
高田さんの平飼いのニワトリが生んだ卵をかけて食べる、特製卵かけごはんだった。
その味を知る地元の人たちからは大きな歓声が湧き、
わたしも、益子の大切な宝のようなものを、ご相伴させていただいた。
よそものに、あるいは知らない人間に、彼らはこんなにも惜しみなく与える。

「自分さえよければで生きるか、お互いよくなるかのどちらか」

わたしがこの晩のことを、どうしても書きたかった理由がわかってもらえたら、
うれしい。

「本当のいやげ物」 結果発表第2弾

土産物屋の片隅に隠れている、あんなモノ、こんなモノ。

もらっても思わず首を傾げてしまいそうな、いやげ物。
みなさんから集まったいやげ物に、みうら所長よりコメントが届きました。

yotecoさんの投稿
九州最北端、門司港で見つけました。
武蔵小次郎を推す街なのになぜかこのセレクト。
「絶対いらんやろ」と思わずつぶやきました。
産地:福岡県北九州市門司区

みうら:もし、本人のものなら重要文化財でしょう。

渡部優子さんの投稿
足が4本に手(?)が1本。
気持ちよすぎるせいか目がイッちゃってます。
産地:岡山県倉敷市児島

みうら:ハッキリ言っていらないし、白いヒモの意味わからない。

つつみさんの投稿
お祭りに祝儀を包んだら、お返しの品としていただきました。
来年も行きペアカップにしたいと思っています。
産地:愛知県北設楽郡東栄町

みうら:入れるものは苦いものに決まってる。

けだものがかりさんの投稿
鳥取県を東西に走る国道9号線沿いにある饅頭屋さん「木の根本舗」の
「木の根まんじゅう」。
この近所にある木の根神社のご神体をモチーフにして作られたらしいです。
小さいサイズもありますが、写真は特大サイズ(18cm)。
HPによると、お召し上がり方として「羊羹のように切り分けて」とのこと、
思わず股間を押さえてしまいました。
産地:鳥取県西伯郡大山町

みうら:困ったことに”アレ”としか説明がつかない。

なかPさんの投稿
アジア雑貨の店で買いました。
ホコリかぶってたんで、洗ったら妙にセクシーなんで写真撮ってます。
普段はネクタイピン置き場です。
産地:京都市

みうら:これはちょっと欲しいかも。ヘンな所でタバコ消したりして。

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みうら所長より
この世には決して欲しくないものが存在します。欲しくないとは何でしょう?
いらないと思っているのに、そんなものを作るとはどういうことでしょう?
でも、きっとこの世の中の誰かはものすごく欲しがってるかも?
そんな不確かな気持ちでモノを作ってもいいのでしょうか?
じゃ、いるものって何でしょう? 大勢の人が欲しがるもの。
流行りものってことでしょうか? でも、流行りものは必ずスタれます。
スタれたとき、それは欲しくないものと同時に持っていては自分のセンスが疑われます。
と、いうことは流行りものがスタれて目も当てられないものより、
まだ欲しくない程度のものがマシだってことになりますね。
時代性のない欲しくないものの多くはいま、古びた土産物屋の奥。
ガラスケースが曇って見えないところに生息しています。
いまはこんな扱いだけど発売当時はそれないりに喜ばれたもんなんじゃないの? って、
意見もありますが、それは間違いです。
欲しくないものって、ずっと欲しくないわけで、結局、隅に追いやられただけのこと。
いい言い方をすればそれは“ゆとり”ってやつですね。
買ってくれてもいいし、買ってくれなくてもいいという店のゆとりです。
ゆとりを買ってしまうと、その店のゆとりがなくなってしまうわけですから、
みなさんは見つけても決して買わず店内で撮影しておいてください。
その雰囲気が今後の民俗学に繋がることでしょう。

編集部より
みなさんが見つけたいやげ物、まだまだ募集中です。
どこのお土産か、またはどこで見つけたかも教えてくださいね。
お待ちしております!

募集は終了しました。たくさんのご応募ありがとうございました。

土祭だより Vol.7

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月22日 手と頭と心と

よく雨が降る。
雨が降るごとに朝夕すっかり涼しくなり、
森の音やにおいから、長い夏がようやく終わったことを実感する。
わたしがいるのは、ドアの向こうには森がひろがる町営ホテルなのである。

今日は11時から「光る泥団子」のワークショップに参加。
藁を混ぜた土の芯玉に、しあげの化粧土をごく薄く重ね、
ていねいに磨くことで光らせる泥団子のワークショップは、
土の不思議や可能性を伝える企画として2009年にも開催され、
子どもたちに人気を博したようだ。

見目陶苑のギャラリーに集まったのは、今年もやはり子どもたちがメイン。
まずは色違い質違いで8種類ある化粧土からひとつを選ぶのだが、
女の子が多かったからか、人気は桜色の桜土に集中していた。
土は益子の各所から陶芸家が採掘してきたもので、
こんなにいろいろな色や質感があるものなのかと、子どもといっしょに勉強である。
ちなみわたしは、北郷谷地区で採集されたという白いボクリ土を化粧土に選んだ。
昔は陶土にむかないと捨てられていた土だそうだ。

どれにしようかな。

泥玉を大理石(のよう)にする錬金術を考案したのは榎本新吉さんという名左官。
本格的な京壁塗りの第一線として活躍し、
日本各地の美しい色土を左官材として次々提案してきた進取の人らしい。
光る泥団子づくりは、その新吉さんが完成させた「現代大津磨き」という技を、
小さな手でもできるように応用している。
秘密はどうやら化粧土に混ぜた石灰の特性と、
とにかくていねいに根気よく磨くという2点にあるようで、
30分もたった頃には会場のあちこちでぴかぴかに輝く小さな惑星が誕生していた。
途中でいやになって投げ出し、お父さんやお母さんに磨かせていた子も何人かいたが、
同じく根気のないわたしの泥団子も、ボランティアスタッフが
手伝ってくれたにもかかわらず、どこか鈍い光で終わってしまった。

栃木県内で保育士をしているというそのボランティアさんは、
自分の保育園の子どもたちにもおしえたくてボランティアに応募し、
8月から益子に通って泥団子づくりの研修を受けたのだという。
最初に渡される土の芯玉も、彼女たちボランティアの手で
百個以上が用意されたと聞いて驚いた。
それは、ほんとうに、まんまるなのである。
これをひとつつくるだけでも、大変なことだと思うのだ。
自分で磨いた泥団子は特製の箱に入れて持ち帰れるのだが、
この箱も、こんな箱を用意しようと思いついた人たちの心もすてきである。
ダンボール製の簡易なものだが、内側には鳥の巣状の紙のクッション材も入っていて、
そこに泥団子をおさめると、とてもりっぱな宝物に見える。
その瞬間の子どもたちの、うれしそうな顔。
前回は新聞紙にくるんで持ち帰らせてしまった反省から生まれたアイディアだと聞いたが、
こんなちょっとしたことが気持ちを豊かにして、ものを大切にする心を生むのだろう。

芯玉にバターナイフで化粧土を塗りつける。この後、フィルムケースの口で余分な土をそぐように取り、できるだけ薄く塗るのがコツ。

小さな惑星、できました。次の週末、29、30日にもワークショップあり。予約優先。参加費1000円。

お昼は今日も「土祭食堂」へ。鶏肉の塩糀漬け、きんぴら、かきあげ、味噌豆の「ましこプレート」800円。テーブルにはマリーゴールドの花。野に咲く花を摘んで飾るという行為が、益子ではごくふつうにおこなわれているのを感じる。

てんやわんやの厨房をひとのぞき。

午後は、先週にひきつづいて「土祭セミナー」へ。
会場の「つかもと迎賓館」と同じ敷地内の石の蔵では、
生井亮司さんの彫刻展「少年の詩学」が開催されている。
ひんやりとした闇に佇む少年たちは一見すると
何でできているのかがわからないのだが(「ブロンズかしら」という声も聞いた)、
主に漆の樹液、黄土を焼いた砥の粉、麻布などを
土を媒介にして結びつけた乾漆技法というものだそうだ。
静謐に手触りがあるとしたら、こんな感じかしらという質感である。
少年たちの存在感は恐いほどに清らかで、ひとりきりでそこにいたら、
わたしは何か罰を受けているような気持ちになってしまった。

「少年の詩学」の展示。(写真提供:土祭実行委員会)

石蔵の脇にも、ほら、大樹が。

セミナーは今日から「民藝と手仕事から考える益子の未来」にテーマが変わり、
本日の講師は日系アメリカ人で、16歳で仏教思想家の鈴木大拙に出会い、日本に帯同、
大拙が鎌倉松ヶ丘文庫で逝去するまで秘書をつとめた岡村美穂子さんである。
席につかれると、まずは1935年生まれとは思えないその若々しさに驚いた。
黒い瞳が、きらきらと輝いている。
鈴木大拙は柳宗悦の学習院時代の英語教師で、
生涯ふたりには親子のような親密な関係があったという。
柳の民藝、その美論は深く宗教に結びついている。

1950年代の半ば、アメリカの大学でおしえる大拙を見舞った柳は
「ぜひ益子に一緒に行って濱田庄司に会ってほしい」と懇願。
その際、大拙に付き添い、のちに3番目のバーナード・リーチ夫人になる
ジャネット・ターネルも同行し、みんなで上野駅から電車に乗って遠路はるばる来たのが
岡村さんと益子とのはじめての出会いで、濱田邸に着いてみると
「見たことのない厚手物の器」に手料理のごちそうが盛られて並び、
「うぉーと思った」という、とても魅力的な出だしのお話に最初から深く引き込まれた。
うぉーと目を丸くしている若い小娘に、隣に座っていた柳は
「どうだ、美穂子さん。(この焼きものを)どう思うか?」と訊ねてくる。
突然そう聞かれ、答えに詰まっていると、柳はひとこと、こういったのだそうだ。
「健康でしょ」と。
「この焼きものは少々のことでは割れたりもしないんだぞ」と。

健康、という言葉は、民藝の本質が語られるときによく出てくるキーワードだが、
もちろんそれは頑強という意味に終わらない。
そこで岡村さんは「健康」を「自由」という言葉におきかえ、
仏教の考えにおける人間の自由とはどういうことかという哲学的な話になっていくのだが、
結論を先にいえば、それは人間が本来の状態を取り戻したときだという。
本来とは大本(おおもと)でもあり、人間が意識をもつ以前の状態をさす。
その大本が分かれて主観と客観が生まれたこと、
もとはひとつだったものがふたつになったことで人は迷うようになり、
そして不自由になったという論理はわたしには非常にわかりやすく、
おのずから旧約聖書のアダムとイブの楽園追放の物語を連想させた。
彼らが食べた「禁断の林檎」とは、もちろん意識のことである。

しかし、と岡村さんはいう。
「西洋の人は、それ以前を考えないんですね。
西洋文化は意識が生まれたところが幕開けで、
その前に大本があるという考え方は日本独自の文化です」
ならば日本人(仏教)が考えるその大本とは何かといえば、それが「無」である。
アメリカ育ちの岡村さんには「無」の存在ということが実感としてわからず、
60以上歳の離れた大拙を質問攻めにしては、
「本来なんにもないんだよ、美穂子さん」
「本来無一物なんだよ、美穂子さん」と、
「それこそ殴られるように、いわれつづけました」と笑う。

無とか意識とか、こういう形而上的なことを考えていると、
わたしの小さな頭はすぐにキャパを超えてきゅうっと痛くなるのだが、
それはけっこう快感でもある。
こういうことは、あるとき頭からふっと下に降りて、腑に落ちるときが必ずあって、
その瞬間にぱっと視界がひろがる体験を、もう何度もしてきている。
だから、しつこいようだが、頭を整理する意味でも書いてみようと思う。

さて、岡村さんは、「無」から分かれて意識が発達し、
主観と客観、善と悪、上下と左右、美と醜といった相対するものの間でつねに迷い、
自由に動けなくなってしまった人間は「ハテナ病」にかかっているのだという。
ふたつのものの間で、つねに「ハテナ?」と立ち止まってしまう。
進化してハテナの業を抱えてしまった人間が大本に戻ることはもはや不可能なのだが、
たったひとつだけ、それを乗り越え、人間が「無」を、自由を取り戻す方法がある。
それは、くりかえすこと。反復である。
その例として日本のお稽古ごとをあげる。
茶道、華道、武道、柔道、合気道……道がつく修行のほとんどが、
ほら、同じふるまいや練習をくりかえすことで、
最終的には「無」を会得することをめざしているでしょうと。
念仏を百万遍唱えるのも同じことをめざしているのですよと。

話はここでようやく民藝につながるのだが、たとえば職人が、妻子を養い
少しでも豊かに暮らしたいと、日夜たくさんのものを一生懸命につくる。
そこには美醜について迷ったり、あるいは意識の産物である自我を込めるひまなどもなく、
つまりは無心であるがゆえに自己を超えた大きな力が入り込み、
思いがけない美しいものが生まれてくることがある。
職人は自分でも知らぬうちに本来の自由を取り戻していたわけで、
そんな心と手から生まれた無作為の美を「健康」と、柳宗悦はいったわけである。
健康な美の源にはいつでも健康な暮らしがあり、
そこから生まれてくる働きものの美だけが人を救い、人をしあわせにするのだと。
いってみればそれは偶然の産物であるともいえるのだが、
ときに意識をもって、意識を超えることができる達道の人がいて、
その希有な人間が濱田庄司だった。
「濱田先生は、ものが『生まれる』といっていました。
『つくった』とはいわないのですね。無心を体得されていたのだと思います」
と岡村さんはいう。

ほかにも、濱田が、庭先の畑でみずみずしく熟れるナスやキュウリを見ながら、
「自分もこんなふうに(作品が)できたらなあ」と心底うらやましそうに語ったという話。
夜ふけに少しだけ開いていた障子の隙間から灯火に濱田が読書する姿が見え、
おしゃべりな人と認識されていたが、深い次元では静かな人と直感したという話。
そして鈴木大拙が逝去したとき、益子からひと晩かけて鎌倉まで車を飛ばし、
書生に名を訊ねられると「濱田です」と一言。
中にも入らず、自分の焼いた花瓶をひとつポンと玄関先において帰った話など、
岡村さんから語られる濱田庄司像はひどく魅力的で、
彼のことをもっと知りたいと、わたしは思ったのだった。

岡村美穂子さん。

陶芸メッセ益子内に移築された旧濱田邸では、
綱神社にも音を奉納する川崎義博さんが手がけたサウンドインスタレーション
「Leave it as it is」がおこなわれている。
いや、「おこなわれている」という表現は正しくなく、
川崎さんは、ただそこにあるがままあるよう、音を置いているだけだ。
誰もいないときに、ここを訪れることができた人は大変な幸運である。
反復する音に耳をすますうちに、自分がどこまでも澄んでいくという体験を
味わってみてほしい。

隣接する益子陶芸美術館では
「濱田が出会った魅惑の近代」と題された展覧会がおこなわれているが(〜12月2日)、
その出口付近に設置されたモニターに流されている映像は必見である。
メキシコ人の女性陶芸家、グラシエラ・ディアス・デ・レオンが濱田庄司に師事し、
益子に逗留した夏のある一日を記録した映像のようだが、
桃源郷のような1950年代の益子の田園風景や、
岡村さんのお話にもあった濱田家の晩餐、早朝黙々と作陶する濱田の姿などが
淡々とモノクロームで写し出されて、夢を見ている気分になる。

土祭って、なんて贅沢なお祭りなんだろう。

濱田のコレクションを所蔵する「益子参考館」の空間も、作曲家の畑中正人さんによる新たな音の表現に満たされている。

濱田が作陶をしたロクロ場にも静かな音楽が。

白い猫がふりむいた。

ヤマイエヒト

半分、この土地で働き、暮らしてみる。

「大地の芸術祭」のメイン開催地でもある新潟県十日町市松代。
「農舞台」のあるまつだい駅のほど近く、ほくほく通りに
「山ノ家」という名のカフェ&ドミトリーがオープンした。
古民家のような外観だが、入ってみると外観のイメージとはまた違った
洗練された内装で、居心地のいい空間が広がる。
1階がイベントなども開催できる多目的スペースとしてのカフェ、
2階はアーティストが制作のために滞在できるレジデンスと、
旅人のための簡易宿泊施設になっている。
無線LAN完備で、カフェではノートパソコンを開く人がちらほら。

山ノ家プロジェクトの母体となっているのは、
このプロジェクトのために立ち上げられた社団法人「ヤマイエヒト」。
立ち上げメンバーの河村和紀さん(写真右)、後藤寿和さん(写真中央)、
池田史子さん(写真左)は、もともと東京の恵比寿で活動する、
地域在住在勤のクリエイターたちがゆるやかに連係し、協力し合うコミュニティ
「START EBISU」の仲間たち。河村さんの本業は映像制作、
後藤さんは空間デザイン、池田さんはアートやデザインプロジェクトの企画制作だ。

この場所との縁は、河村さんの知人で、
学生時代から地域活性コンサルティングをしていた佐野哲史さんが発端。
十日町市内の別のエリアで古民家再生プロジェクトを推進していた佐野さんは、
この松代のプロジェクトを引き受けた直後に起きた東日本大震災の復興のために
急遽東北に赴くことになり、松代の空き家プロジェクトを引き継いでもらえないかと
河村さんに相談。河村さんは場とコンテンツのクリエーションサポーターとして、
旧知の後藤さんと池田さんに声をかけた。
まずは現地を見てみようとこの空き家を訪れた3人は、
この場所に直観的に大きな可能性を感じたという。
「僕は映像の仕事をしていて、これまでもいろいろな地域に行ったことがあるのですが、
ここは単なるいなかまちじゃないな、と最初から強い確信を持ちました」(河村さん)
「これまでにも芸術祭を見にこの地に来たことはあり、
ローカルと現代アートが共存している状況をとてもリスペクトしていましたが、
その膨大なアート作品を抜きにしても、とにかく自然や大地そのものの磁場が
すごく強いところだとあらためて感じました」(池田さん)

もともと大地の芸術祭のオフィシャルプロジェクトでも、
空き家そのものをアートワークとしてリ・クリエイトしたり、
土壁を塗り直すことで新たに建築としての再生を促すプロジェクトなどが
先行して取り組まれていた。この山ノ家が面するほくほく通りでは、
長年この地に居住し活動しているドイツ人建築家のカール・ベンクスさんが、
通り沿いの民家を昔ながらの建築様式に外装改修するプロジェクトを、
市と共にちょうどスタートさせたところで、
この空き家はその改修プロジェクトの助成対象家屋だった。
単なる1軒の空き家のリノベーションではなく、
地域内の複数の場所にコミットしていく過程で、そこに人が集ったり、
その場所が活性化していくしくみがつくれるのではないか、というのだ。

そもそも、前出の佐野さんにその空き家プロジェクトを紹介したのは、
大地の芸術祭の現場運営の母体であるNPO「越後妻有里山協働機構」の理事長であり、
地元の地域活性の旗ふり役として活躍している若井明夫さん。
若井さんと出会い、話し合いを重ねていくなかで、この地で何かを生み出していく
原動力になることが求められているのだということを体感した3人は、
”良きヨソモノ”として、元来の活動本拠地である首都圏とこのエリアとを
往還するライフスタイルを実験をしてみようということになった。
従来型の、ローカルへのややエスケープ的、もしくは自己犠牲的な完全移住ではなく、
都市とローカルの価値を同等に享受し、都市⇔里山を行き来する
「移民」と自分たちを定義し、方向性が固まった。
こうして、プロジェクトの発端をつくった佐野さんと、
地元の強力なサポーター若井さんを顧問に、
河村さん、後藤さん、池田さんで、社団法人ヤマイエヒトを設立し、
拠点となる山ノ家の企画運営母体となる組織「MPM」も、
同じメンバーで同時に立ち上げることとなった。

外観は助成のルールに沿った設計だが、内装のディレクションはふだん空間デザインの仕事をしている後藤さんが手がけた。地元の工務店や大工さんたちの手を借りながら、これまでも東京での地域展覧会構成を協働した仲間たちや有志の“インターン”が集結し、のべ30名を超える若者たちと共にセルフビルドして、2012年8月に完成。

複数の拠点を持つ、ということ。

場所はある。ではこの場所で、何をやるべきかと考えた。
「いろいろとやることを想定しつつ調べてみたら、やはりすでに大地の芸術祭で、
たいていのことはやってしまっているんですよね。
じゃあ僕らがやれることって何だろうと、もう一度考え直したんです。
そのなかで出てきたアイデアが、背伸びしない、僕たちの日常。
東京の日常の延長のような場所として、いかに特別じゃないかということを
やろうと思いました」(後藤さん)
十日町の風景に触れ、ここの空気を吸うだけで、自然と非日常にスイッチは切り替わる。
けれど山ノ家に入れば、無線LANは自由に使えるし、おいしいコーヒーも飲める。
東京では当たり前になっていることも、この土地ではまだ貴重だ。
「実は、移民たちのカフェというのが裏テーマ。
ここで出す料理は地元でとれた素材を使っていますが、郷土料理ではなくて、
私たちが日常的に食べているもの。
妻有ポークを使って、中近東風のハンバーグをつくっちゃおうとか。
地元の食材に自分たちの感覚をかけ合わせたらどうなるか。
けっこうみなさん、おいしいと言って食べに来てくれますよ」(池田さん)

東京と十日町を行ったり来たり、となるとネックは移動の問題だが、
実は十日町市が、農業体験をする人や十日町で働く人のために、
東京と十日町をつなぐ無料の往復バスを週末だけ運行させている。
山ノ家で働いているスタッフも、東京方面からそのバスを利用して来ているそう。
おもにアートや建築を学ぶ学生さんたちに、いわばインターンとして来てもらう。
彼ら、彼女らにしてみれば滞在費はほとんどかからないし、おいしいごはんが食べられて、
いろいろな人に出会え、オフの日は芸術祭を見て回ることもできる。
お互いハッピーというわけ。
「土地の持つパワーがあり、芸術祭があることで
カルチャーインフラがすでに存在していたこと、そして移動のシステム。
この3つがあるから、この場所が成立しえたと思います」(池田さん)

十日町の面積は、東京23区と同じくらいだが、
人口密度は1キロ平方メートルあたり十日町が100人弱なのに対し、
東京は6000人と、ものすごい差だ。
「ある時代の流れのなかで、人にしろ情報にしろ、
高密度であることが善になっていったのだと思いますが、
3.11以降は特に、それだけでいいのだろうかという考えが強くなってきたと思います。
僕らも根底にそういう思いがなかったら、ここに来ていなかったかもしれない」(後藤さん)

でも、3人は東京を捨てたわけではない。あくまで、拠点が増えたということ。
「帰れる場所が複数あったほうがいいんじゃないかと思うんです。
いまも週に一度くらいは東京に戻っていて、東京の利便さも手放していないけど、
こちらの生活も満喫しています。
ホームグラウンドが倍になって、ダブルローカルという感じ。
次はトリプルローカルにできればと思っています」(池田さん)
震災後に移住した人は少なくないが、移住に踏み切れないでいる人はもっと多いはず。
“東京かローカルか”ではなく、こういうライフスタイルも、
選択肢のひとつとして考えてもいいはずだ。
「人口密度の高いところと低いところを行き来するのが重要なのではと思っています。
移動にはコストも時間もかかりますが、みんながどれだけ快適に移動できるかという
しかけづくりもしていきたいと考えています」(河村さん)

キッチンでは朝からスタッフがせわしなく動き回っていた。アートや建築を学ぶ学生のインターンも多い。

山ノ家でいただく朝ごはん。万願寺唐辛子と鶏肉のハーブ焼き、塩豆腐、まいたけご飯、みそ汁。このあたりでとれた素材で自分たちが食べたいものを。

「茶もっこ」文化があったから。

山ノ家を立ち上げるにあたってキーパーソンとなったのが、先述の若井明夫さん。
池田さんいわく「シンクグローバル、アクトローカルの権化のような人」で、
完全無農薬農法で農業をしたり、どぶろく特区制度の認定を全国で最初に取得したりと、
バイタリティあふれる人。
山ノ家で出すみそ汁は、若井さんの畑でとれた大豆でつくった自家製のみそを使っている。
その若井さんのアイデアからできた「ほくほく茶もっこウォーク」という
ストリートマップが置いてあった。
ほくほく通りは江戸時代から街道筋として栄え、旅人が来ては休んでいくエリアだった。
このあたりには、旅人たちにあたたかく声をかけ、お茶でも飲みながら話をする
「茶もっこ」とよばれる文化が古くからあり、それを復活させて
外から来た人に体験してもらおうと、茶もっこができる場所をマップにしたのだ。
「僕らが初めてこの場所を見に来たときに、向かいの方がひょこっと出てきて、
“何しに来たの?”と聞かれたんです。ここで何かやろうと思って、と話すと、
ふた言目には“まあコーヒーでも飲んで行け”と(笑)。
それが最初の体験としてすごく印象的でした」(後藤さん)
「もともとここには茶もっこの文化があったから、
外から来る人に対してオープンハートなんです。
このマップはほくほく通りの有志でつくったんですが、
こういうことがやりたいけど最初はみなさんどうしたらいいのかわからない。
じゃあ私たちがお手伝いできることがあるので、やりましょうと。
私たちは逆に、畑のことや雪の下ろし方を教えてもらったり。
お互い助け合っています」(池田さん)

まずは、新しい拠点ができた。
第2フェーズとしては、芸術祭が終わったあと、秋から冬にかけて
自分たちオリジナルのイベントやプロジェクトを発信していこうと、3人は考えている。
「実は、オフシーズンの妻有も楽しいんですよ。
芸術祭の会期中でなくても見られる作品もあるので、
オフシーズンの妻有アートツアーみたいなものができないかとか。
あと私たちはもともと映像やメディアアートのネットワークがあるので、
冬は雪原にプロジェクションマッピングをしたり、雪の中でのサウンドとビジュアルの
アート祭りをやりたいなとか、いろいろ考えています」(池田さん)

イベントだけではなく、ジャムのプロジェクトも進行中。
それも若井さんのアイデアで、休耕地に木の実がなる木を植えて、
その野生に近い木の実でジャムをつくるというもの。
畑は人手が足りなくなるとどうしても休耕地が増えてしまうが、
ほとんど手を入れなくても木の実は実る。
実際に若井さんがつくった木イチゴで試作品のジャムをつくっているところだ。
「私たちは、いい意味で異分子だと思いますが、若井さんも期待してくれています。
いろいろなことで化学反応を起こしてほしいと思っているみたい。
実際に少しずつ、起こしつつあると思います」(池田さん)

東京のフードクリエイターが山ノ家に来たときに、野生の木イチゴでつくったジャムの試作品。

棚は、もともと履物屋だったこの家に置いてあったものを磨き直して使用。近くの下条地区の蔵からたくさん出てきて捨てられそうだった漆の器も譲り受けた。

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YAMANOIE Café & Dormitory
山ノ家 カフェ&ドミトリー

住所 新潟県十日町市松代3467-5
電話 025-595-6770
http://yama-no-ie.jp
https://www.facebook.com/pages/Yamanoie-CafeDormitory/386488544752048

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YAMAIEHITO
社団法人ヤマイエヒト

東京・恵比寿を拠点に活動するクリエイティブユニット「gift_」のスペース+サウンドデザイナーの後藤寿和とクリエイティブディレクターの池田史子、それに映像ディレクターの河村和紀で立ち上げ、佐野哲史、若井明夫が顧問として参加。複数拠点のワーク&ライフスタイル実験の場としてカフェ&ドミトリー「山ノ家」を2012年8月にオープン。

土祭だより Vol.6

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月20日 ゆっくり満ちるもの

考えてみれば、2週間もつづくお祭りというのは、そうない。
長くて3日。それも週末などにあて、日常を忘れ
集中的に賑わいで燃えつきるといったものが多いのではないか。
土祭にしても、もちろん2週間まるまる益子の日常機能が停止するわけではなく、
週末が過ぎてウィークデーになれば、勤め人は会社に行き、子どもは学校に行くという、
ごくふつうの生活が戻ってくる。

火曜以降は、訪れる観光客もちらほらになった。
しかし、ふだんどおりの益子の営みのすぐ隣には
アートや特設ショップなどが依然として存在しているわけで、
高揚感が底に流れる静けさというか、日常と非日常が混在する面白い空気を感じている。
エッジのきいた現代アートの会場の受付で、
ボランティアのおじさんがこっくりこっくり居眠りしている様子などは、
なんとも、ほのぼのとしていい。

初日のセミナーで、小倉美惠子さんは
お祭りとイベントの違いから話をはじめていたのが印象的だった。
その意識が風土に向いているとお祭りになり、人に向いているとイベントになると。
新月の奉納演奏会から、満月の千秋楽まで。
風土と先人にじゅうぶんな感謝を捧げるのに、2週間は長すぎない。
月のテンポでゆっくり満ちるものを土祭はめざしている。

以下、昨日と今日の断片。

益子の陶芸家の若杉集さん、造形作家の庄司千晶さん、染め絵作家の冨山麻由子さんによる「益子の土を用いたそれぞれの表現」。築年明治38年の陶器店、岩下太平商店にて。(撮影:矢野津々美)

同上の展示。益子の地層を表現した作品についていた言葉。

19日の6時からは、スターネット「recode」で、土祭の総合アートディレクターをつとめる吉谷博光さんの映像作品『土祭』が上映された。前回の初日未明から満月の直会までを追った、土祭の精神あるいはエッセンスともいえる作品。その後、急遽依頼されて、なぜかわたしが吉谷さんの対談相手に。(撮影:矢野津々美)

上映とライブの合間には、ヒジノワにも出店している「色実茶寮」さんによる軽食が販売された。おむすび、おいしかった。(撮影:矢野津々美)

「土祭」のエンディングソングを歌ったarcoさんによるライブ。歌は益子の山中で録音され、同じその日にarcoさんは、お腹に新しい命が宿ったことを知ったのだとか。(撮影:矢野津々美)

戦前に窯業技術の伝習所として使用されていた小峰邸は、地元食材を使った益子の家庭料理が味わえる「土祭食堂」としてオープン。陶器店が軒を連ねる城内坂の路地裏、毎日11時半〜15時の営業。(撮影:矢野津々美)

畳に座って、わいわいと。(撮影:矢野津々美)

道祖土の信号から駅に向かう途中の右、見目陶苑の敷地には、かつての益子のまち並みを彷彿とさせる魅力的な建物が並ぶ。その奥の窯場が、小松義夫さんの写真展「たてものの未来 土の家」の会場。

映っているもの、小ささ、飾り方、どれもユニーク。

ときどき、ここで店を出すというワゴン車の移動パン屋さん「泉’sベーカリー」に遭遇。濱田庄司がブルガリアから持ち帰り、いまも濱田家に受け継がれているというヨーグルト種を分けてもらい、酵母に使用しているそうだ。

益子焼共販センターのシンボル、巨大たぬき。益子の今昔の移りかわりを、どう見ているのだろう。

共販センターの隣にある陶芸教室。

歩いていると突然に出現するビルボード。「益子の山には古い地層がむきだしになった箇所が幾つかあって、過去が現在に横溢してくるふしぎな感覚をおぼえる。それと同じ感覚をまちのなかでも起こしてみようと思った」と、アートディレクターの吉谷さんは、そんなことをいっていた。死んでしまった先人たちがいまの益子に蘇る。それがすべて働く姿であることに、どれだけの人が気づいているのだろう。

吸い込まれそうな夕暮れの空。

変わらない日常。

土祭だより Vol.5

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月18日 三日月 いのり

澤村木綿子さんの展示は、本通りの岡田酒店奥座敷にある。

かつて醤油やはちみつなどの食品の仲卸を営んでいた岡田屋。
その左脇を入ってまずある百年経った石蔵が商いのはじまりだそうで、
震災の爪痕か、瓦や土壁が一部崩れ落ちたその蔵でも
展示がおこなわれている(藤原彩人さんによる陶器の人の彫刻「空と色」)。

さらに奥にある座敷は、多くの従業員や使用人を寝泊まりさせるのに利用された建物で、
一階の応接間では結婚式なども挙げていたのだという。
廻り廊下で縁どられたその畳間は、襖も取り払われて開け放されているというのに
ひっそりと暗い。その薄闇の宙にふんわりと白いものが見えた。
キツネである。

キツネは、きらきらとした錦糸の刺繍のある茜色というか桜色のオーガンジーの衣装を、
まとうのではなく、まっしろの立派な尻尾を見せびらかしながら、
その衣装のうえに鎮座していて、「宙」にいるように見えたのはそのせいであった。

この、キツネつき衣装は人が身にまとうものなのである。
身にまとうと、ちょうどキツネが自分の肩に足をまわして
乗ってくれている姿になるそうで、わたしのようなものは想像しただけでも胸が騒ぐ。

動物のぬいぐるみというものに異常な愛情を抱く子どもだった。
母親に、おんぶひもで3匹も4匹も身体にくくりつけてもらい、
みんなでおさんぽと称して近所を歩き回っていた。
この年齢になっても、よくできたぬいぐるみをみると胸がときめくのは、
お恥ずかしいばかりなのだが、
いま思えば、あの行為は、好きなものとひとつになりたいという
生物としての根源的な欲求から来ていたのかもしれない。
なんて、それらしい言い訳をしたりして。

澤村さんのつくる動物は、ぬいぐるみというにはあまりに精巧でリアルで、
あまりに気高くて神々しいから、わたしはちょっと泣きそうになる。

彼女は数年前から、このキツネのように身にまとえる動物の立体作品を
「いのり」シリーズとしてつくりつづけている。
「自然界のすべての存在はつながっていて、
そのつながりから生まれる心安らぐ場をつくりたい」
使用する素材や染色も、できるかぎり天然をめざし、
身にまとうのは、べつの存在とつながるためのひとつの手段なのである。

喜び、はしゃぎまわる子どもを見つめる白キツネ。

さて次は、踏むたびにミシミシと音をたてる階段を登り、そっと2階にあがる。
ここで目に入ってくるものの姿に、ほとんどの人は思わず声をあげるだろう。

と、ここまで書いて、これから土祭に来るつもりの人がいたら、
種あかしをしすぎるのはどうなんだろうと思えてきた。
そのつもりの人たちは、ここから先は読まないで、なにがいるのかを楽しみに来てほしい。

さて、六畳ほどの和室の真ん中に立っているのは、大きな白熊である。
毛糸のエプロンスカートをはいているから、
女(メスとはどうしてもいえないわたし)の熊にちがいない。
前にまわって正面から見てみると、少し目を伏せ、
両手をエプロンの前でそっとあわせた、なんともいえない優しい姿をしている。

澤村さんによると、これは「お母さんグマ」なのだそうだ。
だから、エプロン、なのである。

冬の森のエプロンスカートをはいたお母さんグマ。身にまとった人の顔は、熊の顔の下にくるようになっている。

生きものの表情は、大好きな動物写真家の
星野道夫さんの写真からインスピレーションを受けることが多いそうだ。
このお母さんグマの顔つきも、星野さんが撮った親子の熊の写真を
何十枚と見ているうちに、子熊を見る表情が人間のお母さんと同じということに気づいて、
こうなったのだという。

目は天然石の瑪瑙(めのう)を少しだけ着色し、
鼻と爪は桜の木を彫ってつくっている(「土祭だより Vol.3」に写真あり)。
毛並みは木綿のファーで、手の甲のリアルな茶色は
コーヒーと紅茶で染めて出しているのだという。
エプロンスカートも、もちろん手づくりだとは思ったが、
その長い制作過程を聞いて、わたしは気が遠くなった。

まずは茶からグレイまでのグラデーションの4色の羊毛をそろえ、
足りない中間色は桜で染めてつくる。
その羊毛を簡易機で小さな長方形に織って(そのとき熊手という道具を使うそうだ。
だから「ほんとに熊の手で織ったんですよ」と澤村さん)、
何十枚かが織れたところでスカートのかたちに縫い合わせ、
さらにそのうえから毛糸で刺繍をした。
刺繍は雪の日の森をイメージしたもので、この冬の森のスカートのなかには小さな人、
つまりは子どもが数人、入れるようになっているのだそうだ。

そのアイデアは素晴らしいと思った。
なぜなら、わたしもお母さんのエプロンのなかに入りたくて仕方のない子どもだったから。
しかも、熊のお母さんのエプロンスカートに入れるなんて、僥倖以外のなにものでもない。

染めて、織って、刺して。

薄暗いせいで、気づく人は少ないのだが、1階と2階の床の間には、
澤村さんがこれらの作品に込めた思いを綴った文章が掛けられている。

わたしも見過ごすところであったが、よく読んでみようと近づいて見て驚いたのは、
黒い紙と思ったのは黒い布で、しかもその文字は
白い糸のチェーンステッチで刺繍されたものであったのだ。

作品がしあがったあとにはじめたその作業は、土祭開幕の朝までかかったという。
ここに2階にあった澤村さんのメッセージを引用してみたい。

 もりは きれいな くうきをつくる
 とりは そらを とぶことができ

 くじらは ひろい うみを およいでいける
 にんげんは……
 にんげんは
 そうぞうすることができる
 こどもたちの
 そのこどもたちの
 そのまたこどもたちの……
 ななつせだいさきの こどもたちの
 しあわせなくらしを
 そうぞうすることができる
 すべての いのちと ともに

パソコンで打てば、1分もかからない。それを何日もかけて手で刺す。
「いのり」とはそういうことなのである。

土祭においては、アートとその舞台になっている場の関係性を見るのも、非常に興味深い。アーティストは何か月も前から益子に通い、与えられた場に新しい命を吹き込むための展示を考えぬく。場は作品の一部であり、「畑の真ん中に訳のわからない異物」にならないのはそのせいである。これは大田高充さんのインスタレーション「風を招く試み」。風が吹けば竹林が揺れ、木造倉庫に取りつけられたプロペラがいっせいに回りはじめる。風の道が見える。

諸富町 Part3 ソフトから始まるまちづくり。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

ひとをつなげば、まちも動く。

平田

ぼくも先ほどじぶんのことを組合の異端児だ、と言いましたけれど。

山崎

ええ。

平田

おやじもずいぶん変わり者だと思います。
いまでさえ「手づくり」があたりまえの時代ですが、
昭和好景気に生きてきたおやじの世代では珍しかったはずなんですよね。
「これ売っとけばいいだろう」というようなことを過信せず、
じぶんのやり方を貫いてきたんだと思います。

山崎

ぼくも先日、おとうさんとずいぶんおはなしさせていただいたので、
わかるような気がします。

平田

なんだかんだ言って、アタマが柔らかいし、
ぼくのやることも黙って見て見ぬふりをしてくれている。
そういうところは感謝しているし、ほんとうに恵まれていると思っています。

山崎

ありがたいですね。そういえば、入り口横の大きな木を使ったツリーハウスも、
おとうさんが作られたものだとお聞きました。すごくロマンがある。

平田

そうなんです。木を扱う家具、インテリアのまちに並木がないのは
おかしいだろうって、店の周りにたくさん木を植えたのもおやじです。

山崎

うーん、いいはなしだなあ。

平田

すぐ近くにある平田椅子製作所さん、飛鳥工房さんも、
それぞれにがんばっている。うちだけでなく、このムーブメントを
うまくつなぐことでまちづくりができればと考えています。

山崎

あ、せっかくだから飛鳥工房さんにもちょっとうかがってみましょうか。

木のおもちゃ飛鳥工房

木のおもちゃ飛鳥工房。廣松利彦さん、美紀さん夫妻が娘の飛鳥ちゃんのために作った木馬からはじまった、安心・安全な木のおもちゃのメーカー。http://www.asukakoubou.com/

次の世代のためのタネを蒔くこと。

山崎

こんにちは。急にすみません。

廣松

いえいえ。大歓迎ですよ。

平田

こちらは、娘さんの誕生を機に、
木で作るこども用の玩具の制作をされているんです。

山崎

すてきですね。

廣松

その娘も、もう19歳になりますが(笑)。

山崎

もうそんなになるんですか!

廣松

はい。それで、ちょうど、このショップの改装や拡充を
考えているところなんです。たとえば、このすぐ隣の空き地に
地域のこどもが安心して遊べるログハウスを作ろうか、とかね。
こども向けのものづくりワークショップもやりたいですし。
たとえば、むかしの駄菓子屋さんのように、
地域のこどもが学校帰りになんとなく立ち寄ったりしたくなる、
おとなもいて安心して遊べるような場所が理想なんですよね。

山崎

いいですね。次の10年のための構想。

廣松

たとえば、こども向けの木のオモチャづくりのワークショップをするでしょう。
そうすると、普段オモチャを大切にしない子も、
じぶんが作ったものは、笑っちゃうくらい大事にするんです。

山崎

ぼくらがやっているまちづくりも一緒ですね(笑)。
いかに関わって、大事だと思えるものを作るか。
加えて、たくさんのものを作る時代じゃないからこそ、
従来あるものにも、いかにあたらしい関係性を作るか……。

廣松

ええ。
もともと父の代から受け継いだ「廣松加飾」は家具のパーツを製作する会社で、
当初はわたしたちだけ生きていければと思っていました。
でも、次に修理をするひとがいてくれないと成り立たないんだな、と。
そう思うと、ちゃんと次の世代を育てていかないといけないんですよね。

山崎

そうですね。
まちをつくるときに、まずハコものを作りたがるケースも多いのですが、
ここではひとの顔がちゃんと見えているから、ひとをつないでまちをつくれる
というのはとても大きなメリットのように感じますね。

(……to be continued!)

飛鳥工房のショップ

「廣松加飾」の一角に、かわいい木のおもちゃがならぶ飛鳥工房のショップを併設。

かわいい木馬

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんと談笑

飛鳥工房店内にて、廣松美香さんとともに。「学校でも家庭でもない、こどもたちが集う場所を作りたいですね」と夢を語る廣松さん。

information

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

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ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

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RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

土祭だより Vol.3

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月16日 新月 土祭開幕・午後の部

開幕の日については書きたいことがたくさんあり、午前、午後と分けてみた。

開幕式のあとは、隣接する鶴亀の池周辺につくられた「たてものの未来 食卓の家」と
「鶴亀食堂」をめぐり、そのまま本通りまで戻って、前々から楽しみにしていた
澤村木綿子さんの作品「いのちはつながっているのだから」をとんで見にいった。
澤村さんとは東京で一度お会いしたことがある。
はかなさの奥に底知れない強さを感じさせる彼女が、この益子に与えられた場で、
どんなものをつくりあげるかがとても気になっていた。

ふらりと入った「食卓の家」は、縄文の竪穴式住居を
地場で手に入る天然素材だけで再現した、
作者のひとりである高山英樹さんいわく「ほったて四阿(あずまや)」で、
木と土と石と水、そして火と光という地球の基本エレメントが
むきだしで感じられる空間になっている。
人が気持ちいいと感じるために、ほんとに必要なものはこれだけでしょ。
そういっているような小さな家である。

「こんなところでお茶が飲みたい、夜は酒が呑みたいっていう、
シンプルにそんな場所をつくりたかった。
みんなにもここに座ってもらって、なんだかよくわかんないけど気持ちいいという、
その感じを体感してもらうことで何かが変わっていくんじゃないかなと」

今回の土祭には、ほかにも「たてものの未来」をテーマに、
これからの住環境、というとなにやら難しくなるが、つまりは生活の器、
煎じつめれば人間の居場所を考えていく展示がいくつかあるようだ。
震災後に、とってつけたように大企業が喧伝しはじめた「スマートハウス」に
ほんとうの豊かさがあるとは思えない。
原発をつくってきた家電メーカーの「すりかえ」に、わたしたちはもうだまされはしない。

ならば、ほんとうの豊かさって何だろう。
高山さん、そしてもうひとりの作者である町田泰彦さんから聞いた話は
とても面白かったのだが、(またまた長くなるので)ほかの展示も見たあとで、
あらためてまとめてみたいと思う。

篠竹と間伐材の「おとし」(廃棄部分)を組み合わせてつくられた食卓の家。小さな窓(?)からの眺めも粋に設計されている。何が見えるかは行ってのお楽しみ。

日干し煉瓦の囲炉裏ふう食卓を囲む座は、地元の庭師さんからもらい受けた石。「板の隙間も生きてるでしょ」と高山さん。光が遊ぶ。

澤村木綿子さんの作品の一部を予告編として。桜の木でできたこれは、さて何の手でしょう。このお話はあらためて。

つい忘れてしまうのだが、益子も昨年の震災で大きな被害を受けた被災地なのである。
3月11日のあの震災は、日本人のひとりひとりに
「これから、どう生きていくべきか」という命題をたたきつけた。

誤解を恐れずにいえば、わたしはやっぱり神様はいると思ったのであり、
ぎりぎり、もう地球がぎりぎりという一歩手前で、
わたしたちに情けをかけ、最後の警告を与えてくれたのではないかと思っている。
言いかえれば、いまならまだ間に合う、そうおしえてくれたとも思われるのだ。

いまならまだ間に合う。このフレーズを、わたしは近頃よく耳にする。

この日の午後のセミナーでお話をされた小倉美惠子さんの口からも、
このフレーズが出て、はっとした。
「いまならまだ間に合う」。そのことに気づき、動きはじめている人がたくさんいる。
震災前のとおの昔から危うさを察知し、こつこつ着々と
自分のできることをしつづけてきた人たちもいる。
人が動いている姿は、あらたな人を動かす。

今日明日、そして来週週末に全5回の予定で開催される土祭セミナーの講師には、
どうもそんな人たちが選ばれているようだ。風土、自然、民藝、手仕事……
益子を益子たらしめるこれらをキーワードに講演をおこなうのは、
話題の映画『オオカミの護符』のプロデューサーで、同名の著書も出版した小倉美惠子氏、
発明家で「非電化工房」主宰の藤村靖之氏、
禅研究の大家である鈴木大拙の秘書を長年つとめた岡村美穂子氏に、
日本民藝館学芸部長の杉山享司氏……。
なんとも興味深いラインナップ。これはどれも聞き逃したくはない。

セミナー会場となる「つかもと迎賓館」は、隣の茂木町から移築した、この地方の代表的な庄屋造り。棟方志功がアトリエがわりに滞在したこともある。(撮影:矢野津々美)

今日の小倉美惠子さんのお話からして、非常に示唆に富んだ内容だった。

わたしは小倉さんと同じ年である。
高度経済成長の申し子として恩恵にあずかりつつも、
大切なものがどんどん壊されていく、大切なものから消えていってしまう、
何かが間違っている! と叫び出したいような、
時代への反発をずっと抱きながら成長したという点では共通するものがある。

『オオカミの護符』は、加速度的な開発で生まれ育った農村が
「まち」へと変貌を遂げるなか(それが川崎であることに驚くのだが)、
昔から変わることなく生家の土蔵の扉に張りつけられていた1枚のオオカミのお札に、
小倉さんの目(意識)が留まるところからはじまる。
ずっと見ていたのに、見えていないものがある。
それが忽然と見えてくるのは「とき」が熟したということで、
小倉さんは牙のある「オイヌさま」に導かれ、
日本人が捨ててきたものをていねいに拾い直すような心の旅に出ることになるのだ。

ゆっくりと咀嚼して身体にしまいたいような言葉がたくさん聞けたのだが、なかでも
「所有しないことが、そのものの命を永らえさせる唯一の知恵」といわれたときは、
がんと頭を殴られたようだった。

講演後は映画の上映もあった。出てくる老人はみんないい顔をしていて、
これを映像として記録できただけでもよかった、「間に合った」のだと思った。

途中で機械の調子が悪くなり、1時間ほど中断するハプニングもあったが、
席を立つ人がいないのも驚きだった。
ぎりぎりまで待って、電車の時間があるからと残念そうに帰った女性がいたが、
彼女にしても川崎の小学校の先生で、小倉さんにぜひ子どもたちに話をしに来てほしいと
一言を残して帰っていった。

種が蒔かれれば、そのうちのいくつかは発芽する。まずは蒔くことが大切なのである。

夕暮れどきから夜にかけては、土祭広場に設置された櫓と土舞台で恒例の奉納演奏会が。和太鼓、獅子舞、神楽、雅楽、お囃子など益子各地に受け継がれている伝統芸能が披露された。(撮影:矢野津々美)

土祭広場に建つ「夕焼けバー」の屋台は、昨年の「前(まえ)土祭」で地元の大工さんたちが杉を用いて制作したもの。終了後に解体し、廃校になった小学校に保管していたものを再び組み立てたのだという。出店は地元商工会青年部や料理店、カフェのオーナーなどで、今年は非電化冷蔵庫の試みもあり。器は使い捨てのプラスチックではなく益子焼。そういうところが、この祭りの真骨頂ともいえる。新月の夜。星が降りそうだった。(撮影:矢野津々美)

土祭だより Vol.2

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月16日 新月 土祭開幕・午前の部

朝9時。益子町の東のはずれ。大羽の里。

ボランティアによる手作りの登り旗が会場をさししめす。準備期間を含め、のべ600人のボランティアの働きが祭りを支えている。

第二回土祭の開幕の儀は、かつてこの地を治めた宇都宮氏が築いた菩提寺、
地蔵院に隣りあう綱神社の境内でとりおこなわれた。

建立1194年の木造本殿は茅葺き屋根に寸尺の板間のささやかさだが、
背負うように森に取り囲まれて、空気がひたすら澄んでいる。

綱神社に奉納品が並ぶ。(撮影:矢野津々美)

まちはずれの雑木山中にひっそり佇み、地元でも知らない人が多いという
この神社を開幕の儀の会場に選んだのは、
おそらくは前回にひきつづいて土祭の総合プロデューサーをつとめる
馬場浩史さん(「スターネット」主宰)に違いない。
「いいでしょ、この場所」
馬場さんと話すと、わたしはいつも一瞬にして遠いところに連れていかれる
(いわば下界から天上足下と縦横無尽に)思いがするのだが、
この朝もそうだった。

ほんの数分の間に話は神社の森の奥につらなる山々のいにしえの歴史となり、
その山の歴史が益子の里の文化に
どう影響を及ぼしてきたかをいっきに明快に語ると、
綱神社があるこの一帯を、馬場さんは
「この地のもっとも古い“極”」と表現した。

「極」とは、そこから先はない最果てであると同時に、
中心、という意味ももつ言葉である。
約千年の昔に、この地を守るため、そして子孫を守るために
先人が築いた祈りの場所。
しかし時の流れのなかで忘れられつつある聖地にあらためて人が集い、
厳かなる儀式をおこなうことで、
「極」としての力をふたたび蘇らせたい。
馬場さんには、そんな気持ちがあったのかもしれない。

境内で隣りあう摂社大倉神社。綱神社同様に茅葺きが美しい。

土祭において、アートはとても重要なファクターである。
今回も40人近いアーティストが参加して、
町内各所の会場で新しい表現を見せてくれることになる。

じつはわたしは、ここ数年のブームともいえる地方のまちおこし的芸術祭に対しては、
ひややかな思いを抱いている人間であった。
なぜ畑の真ん中に人がつくった訳のわからない異物(もちろん佳作もあるが)を
運びこまねばならないのか。
それこそ、あるがままのつらなりが台無しになるだけじゃないか。
朽ちるものは、そのまま朽ちさせてやってくれという、
諦観というか、なげやりな一面が自分のなかにはあった。

無知からくるそんな思い込みを軽くとっぱらったのも馬場さんの言葉で、
半年前にやはり益子を訪れ、土祭の話題になったとき、
たしかこう仰ったのだった。
「アートはお灸のようなもの」と。
いや、もしかしたらハリだったかもしれない。
とにかく、益子という場所のツボと思われる場所
——歴史のある建物や人知れずひっそりある聖地——を新しい表現の舞台にすることで、
停滞していた場の血のめぐりをよくして、ふたたび生き生きとさせたいのだと。

この例え話は非常によくわかった。
目の曇りがきれいに洗われたようであった。

もともと芸能というものは人と神さまの仲立ちする行為で、
場所を言祝ぐ力があるとされていた。
それに等しい人を超えた力が、いまはアートに期待されているのだ。

この綱神社から隣接する鶴亀の池一帯も、
日本のフィールドレコーディングの草分け的存在である
川崎義博さんによるサウンドインスタレーションの舞台となる。

開幕式の際も「楽を奏す」という次第で束の間だがその音が流されたが、
気配が泡立つというか、森が、さらにひろがったようであった。
これはぜひ、人のいない時間にもう一度訪れてみたい。

宮司の祝詞を頭を垂れて聞く町の人々。

活力に溢れた大塚朋之町長は47歳。(撮影:矢野津々美)

開幕の儀は、土祭実行委員長でもある大塚朋之町長の挨拶につづき、
町の有志が竹林から切り出して手作りしたという
青竹の杯による乾杯で幕を閉じた。

関係者にボランティアに氏子代表、古老に親子づれに
一見して移住者とわかる都会的な人々。
この多様な集まりを見ただけでも、ここがほかとはどこか違う
チャーミングなまちであることが伝わってくる。

若き町長さんの挨拶がまた洒落ていた。
「見たことのない顔が見え、聞いたことのない音楽を聞かされて、
神さまもきっと驚かれていることでしょう。
しかし、この状況をきっと喜んでくれていると私は思います。
過去をていねいにていねいに見つめていくことで、
益子の未来が自然に見え、開かれてくる。
土祭が、そんな二週間になることを願っています」

儀式終了後、人気のなくなった境内で黙々と片づけをする氏子たち。

土祭だより Vol.1

栃木県益子町。古くから窯業と農業を営んできたこのまちで、
9月の新月から月が満ちるまで、15日をかけて開催される土祭/ヒジサイ。
この土と月の祭りで何が行われるのか。
ひとりの編集者が滞在し、日々の様子を書きおこしていきます。

9月15日 土祭前日

数えてみたら、益子を訪れるのはこれで五回めだった。
もっと来ているような気がするのは、そのつどそのつどの時間の深度のせいだろう。
来るたびわたしは、ああ、日本も昔はこのように美しかったのだ、
という感慨でいっぱいになる。
山から森、森から川、川から田んぼ、そして人の暮らす里山が、みなつらなってある。
つらなって美しいという感覚は、イギリスの田舎が
なぜこんなに美しいのかと考えていたときに気づいたことで、
そこには人の征服欲による自然の分断が見えないからであった。
ちいさく、もろい、わが国であるから、コンクリートによる支配は
ある意味しかたがないとしても、必然はとっくに超えて過剰というのが現実だろう。
どこもかしこも固めつくされ、つまりは土が覆われ視界から消され、
その感触や匂いが希薄になるにつれて、日本人の心は変わっていった。
かくじつに鈍麻していった。これは単なる個人的見解だが、人の心の襞は、
その身体がどれだけ多くの手触りを知っているかに比例して育つように思う。
たくさんの本を読んだ人より、たくさんのものを触っている人のほうが人間として強い。
とくに土から離されると、よるべなくなるのが人であるはずなのに、
つるりとした人工的な世界に慣らされ、
そんな根源的な感覚すら麻痺してしまっている人のなんと多いことかとも思う。

益子の昔の暮らしぶりを写しだしたモノクロームの写真が、町の各所に特大パネルにして飾られている。これは大正13年前後、新年の益子焼初出荷のようす。

土を耕し、土を捏ね、土に触れながら生きてきた益子の人々の心には、
自然がおのずからある景色を美しいと感じ、積極的に放置するというまっとうさが、
いまもふつうに息づいてある気がする。
そして、ただあるものを守るだけでなく、卑屈に心を閉じず、
外からやってくる人や新しい文化を受け入れる柔らかな土壌もここにはあった。
しかし、それは何でもかんでもというわけでなく、
自分たちの生活をより豊かにするものを主体的に嗅ぎわけての受容だったのではないか。
濱田庄司の民芸運動しかり。いまでいえば「スターネット」しかり。
2009年に第一回めがおこなわれた土祭(ひじさい)は、ちいさなまちのお祭りとしては、
かなり特殊なものだったと思うが、それもこの地だから実現しえたことだろう。
「ひじ」とは、古代における土や泥の呼びかたなのだそうだ。

 益子の風土、
先日の知恵に感謝し、
この町で暮らす幸せと
意味をわかちあい、
未来につなぐ。

これが土祭のめざすところである。
あした、月が闇に消える新月の日。第二回めの土祭が幕を開ける。

厳しい残暑のなか、もうコスモスが揺れていた。

そば畑だろうか。白い花が一面に。

益子に到着したのは、山に夕日がしずむ直前。

諸富町 Part2 継ぎたくなかったのはなぜか。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

あわよくば、家から逃げ続けたかった20代。

山崎

いま、おいくつでしたっけ。

平田

37歳です。

山崎

学校を卒業してすぐ家業に就かれたんですか?

平田

いいえ。地元の高校を卒業して、カナダへ行きました。
いわゆる遊学というやつです。とにかく、家を出たい一心という感じで。

山崎

そうだったんですね。

平田

日本に戻ってきてからも、同級生たちはみんな外に出ていなくなっているし、
そんな佐賀に戻るのはつまらないと思い込んでいました。
だから、帰国後もしばらく沖縄や東京を転々としてましたね。

山崎

しごとは?

平田

バイト暮らしです。長男なのに。

山崎

長男なのに(笑)。

平田

弟が2人いるので、ぼくがフラフラしてる間に、あわよくばどちらかが
継ぐと言い出してくれないかなぁなんて、都合のいいことを思ったりして。
でも、弟のほうが先に外できっちり就職を決めてきてしまって(笑)。

山崎

もう逃げられない、と。

平田

そんな気持ちのまま戻ってきたんで、はじめのうちはだから、
全然やる気のないぐうたら社員。いま思い返せば、ほんと、よく雇ってくれたなと。
ぼくだったら、絶対雇いたくない(笑)。

山崎

でも、お客さんに育てられて、結婚も考え出すようになって、変わったんですね。

平田

はい。3年ぐらいかかりましたけどね。
大きなきっかけになったのは、ちょうどそのころ、
隣の大川市で行われていたインテリア塾に通い始めたことでした。

山崎

なるほど。はじめは、橋の向こうの大川のひとたちと繋がったんですね!

平田喜利さん

父の平田喜利さんはこの道45年の63歳。受注家具を中心に、「幸せになる家具」を作り続ける。

家具の設計図

設計図にたくさんの道具、年月をかけて集められたこだわりの木材……店の裏に併設するこの工場から、家具が生まれる。

継ぐこと=作ることではないと気づいて、楽になれた。

平田

そこに集まるひとたちの熱意に触れたころが、すごくたのしくて。
それぞれの職場の枠組みを離れて集うための場所を作りたくて、
生まれたのがこの2階のフリースペースなんです。

山崎

いいですね。まさに、おとなのための空間。

平田

彼らとここで関わっていくうちに、技術も知識も熱意も、
すべてが到底かなわないと気づくんです。
父が家具職人ですから、継ぐ=作ることだと、あたり前に思っていたけれど、
父にも仲間たちにも、かなわないなって。

山崎

うん。

平田

そんなときに、テレビかなにかで、北野武さんが
「周りのひとが作ってくれる。ぼくにはイメージがあるだけだ」
というようなことを言ってたんです。これか、と。
ひとりで抱え込まなくていいんだ、と。

山崎

自分の役割のようなこと?

平田

そうですね。ショウルームにある家具は、ほとんど父の仕事。
ぼくが職人として手掛けるのはオーダーメイドの一部だけで、
おもに全体のプロデュースにまわっています。

山崎

そこも、ぼくと一緒だな。ひとの作ったもので、なにができるかを考えよう、と。

平田

山崎さんにそう言われると、いちいち鳥肌が立ちますよ(笑)。

山崎

だからよくわかるんですけど、葛藤や敗北感がないわけではないんですよね。
「でも、やりたい」ことが出てきてしまったから振り切るしかない(笑)。

平田

その通りです! 当然ながら、職人は「いかに作るか」ということを追究し、
こだわって考えるひとたちばかりですから、組合でもぼくは明らかに異端児です。
ことばでは、なかなか説明できないのももどかしくて……。

山崎

そこはもう、やってみせるしかないでしょう。

平田

ええ。最近、そうだと気づきました。

山崎

それで、喜んでるひとの顔を見せるのがいちばんいいんだと思います。

(……to be continued!)

仲間と集うために作ったフリースペース

平田さんが仲間と集うために作ったフリースペース。壁には友人がここでライブペインティングした絵画、階段上には基地のようなスペースがふたつも!

フリースペース2階のテーブル

対談の様子

「もとは作り手だった、というところが一緒。なんだか共感することが多いですね」(山崎)

平田一成さん

「家具を作るだけでなく、周りをとりまく環境をプロデュースする役目を担いたい」(平田)

information

map

いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ Part3

土とともに生きてきた人々と家。

大地の芸術祭が始まってから12年。1回限りの展示で終わるのではなく、
地域と長くつながりながら続いてきたプロジェクトもある。
十日町エリアの願入集落にある「うぶすなの家」は、
1924年に建てられた茅葺の古民家を、2006年にやきものの美術館として再生させた家。
やきもの作家の作品が部屋の中や家の隅々に展示され、
地元のお母さんたちの手料理でもてなす食堂が、地域の人によって運営されている。
芸術祭の会期中は毎日、会期以外も5月から10月までの土日祝日、
そして8月は毎日オープンしている。
「あのかまどは鈴木五郎先生の織部焼、お風呂は澤清嗣先生の信楽焼、
洗面台は吉川水城先生の益子焼、囲炉裏と床の間は中村卓夫先生の作品と、
どれも有名なやきもの作家さんの作品で、とても贅沢な家なんですよ」
と、ここを切り盛りする水落静子さんが説明してくれた。

大正時代の古民家を建築家の安藤邦廣の設計により再生させた。織部焼のかまどは実際に使うこともできる。

岐阜の幸兵衛窯の作家、加藤亮太郎の器を使ったインスタレーション。こちらは闇の茶室。

同じく加藤亮太郎の光の茶室での展示。

2004年にこの地域を襲った新潟県中越地震。
この家もそれまでは人が住んでいたが、地震のあと空き家になってしまった。
地震で山が動いたり、地面が割れたり、災害も土と関係あるが、
家の壁しかり、野菜を育む畑しかり、この地域の人たちは土とともに生きてきた。
中越地震を乗り越え、2006年の芸術祭では「土」がひとつのテーマともなり、
そのなかでうぶすなの家が誕生した。
うぶすなの家という名前は、産土(うぶすな)という大地の守り神に由来している。
水落さんは地震のあと、地域のために何かできるなら、と芸術祭への参加を決めたそうだ。

越後妻有はもともとやきものが盛んだったわけではないが、
国宝の火焔型土器が出土するなど、古来、やきものと無縁だったわけではない。
2006年の芸術祭では、陶芸家の吉田明が越後妻有の土に魅せられて妻有焼を興し、
その器はうぶすなの家でも使われている。
惜しくも吉田氏は2008年に亡くなってしまったが、現在も「妻有焼陶芸センター」には、
地元の陶芸家や愛好家たちが集い、初心者も陶芸体験ができるようになっている。
水落さんらうぶすなのお母さんたちも、ときどき妻有焼の土づくりに参加しているという。

山菜ハンバーグ定食と、山菜水ぎょうざ定食(各1000円)。お昼どきを過ぎると、売り切れてしまうことも。

うぶすなの家では、このあたりでとれた新鮮な野菜をふんだんに使った素朴な料理が人気。
今年は2006年や2009年に比べ、お客さんが何倍にも増えた。
会期スタートから連日200人以上、多いときで500人近い人が訪れるという。
「どこからこんなに来てくれるんだろうと思うくらい。
ディズニーランドに行くとか京都や奈良に観光に行くならわかりますけど、
現代アートでお客さんが来るということにびっくりしました。
私なんて最初は現代アートどころか、アートって何だろう? という感じでしたが(笑)。
“3年ぶりに来ました!”と声をかけてくださる方もいて、うれしいですね」
そう笑う水落さんは、訪れるお客さんに
「家がまるごとアートです。ゆっくり見ていってくださいね」
と声をかけ、ていねいに作品の説明をしていた。

また、お母さんたち手づくりの梅干しやわらびの塩漬け、塩麹なども販売しており、
商品のための食品加工場も別の場所にある。
「これだけたくさんの人が来てくれるのだから、特産品にしたいという思いで始めました。
2006年にスタートして6年間で少しずつ、いろいろなことを実現させてきました。
これからも世代交代しながら続けていけるといいなと思っています」

芸術祭の会期以外は5月~10月の土日祝日開館(8月無休)。開館時間10時~16時(食事は11時~14時)、入館料500円。

集落をまるごとアートに。

松之山エリアの坪野という集落に
『坪野フィールドパーク』を出現させた美術家の岩間賢さん。
8月24~26日の3日間は「さとまつり」を開催し、
大がかりな野外舞踏公演『谷蟇(たにぐく)』を成功させた。
岩間さんと坪野集落とのつながりは、15年ほど前、
クラリネット奏者であり東京藝術大学名誉教授の村井祐児さんと出会い、
坪野の茅葺古民家の修復に携わったのがきっかけ。芸術祭がスタートする以前だ。
以来、坪野では芸術祭とは関係なく、
定期的に演奏会を開催するなど独自の展開をしてきた。
岩間さん自身は、若手アーティストの在外研修で、
2006年から5年間、中国に拠点を移すことになるが、2009年に一時帰国したのが、
前回の芸術祭の開催時期と重なり、岩間さんも芸術祭に参加することに。
それから舞踏公演を企画し、着々と準備を進めてきた。

「ここは雑木林で覆われていたのですが、集落のお父さんたちと一緒に切り拓いて、
棚田をつくっています。1000坪あって、まだ現在も下のほうを開墾しているところです。
下にも集落があって、ここが棚田の最上段になるので、
そこが荒れていてはいけないからきれいにしようと思いました」と話す岩間さん。
1000坪の棚田を切り拓くというのは、並大抵ではない。
さらに、棚田の上にはブナ林があるが、手入れが行き届かず、
この10年でだんだん荒れてきてしまったので、この夏から手を入れているという。
「山を守らないと、水もなくなってしまいますし、
そうすると生活もできなくなってしまう。まだあまり進んでいないのですが、
水源を確保して、枝打ちをしたり草刈りをしています」

そこで出た木材を燃やし、その熱で沸かす「八角鉄釜風呂」をつくった。
大きな八角形の五右衛門風呂のような風呂で、実際に入浴でき、スタッフも使っている。
なにしろ、人口20人ほどの小さな集落に、最大70人ほどのスタッフが滞在して
制作しているので、お風呂もみんなが入れるようにつくってしまえ、というわけだ。
最初に修復した古民家がスタッフの生活の拠点と事務所にもなっており、
そのほか集会所などいくつかの場所に分かれてスタッフが滞在。
集落の農家の方がつくった野菜をわけていただき、
石でつくったかまどで食事をつくって食べる。
子連れで滞在するスタッフもいて、なんだか楽しそうだ。

棚田にできた野外ステージ。ここもすべて切り拓いた。舞台美術が完成したのは公演当日の昼間。

最初に改修した古民家は、事務所を兼ね備えたスタッフの活動拠点となっていた。

「ここをフィールドパークと名づけたのは、
子どもたちの遊び場としての棚田を考えたからです。
棚田は使い続ければいいのですが、そうでないとすぐに荒廃します。
田んぼを維持し続けるのはとても大変なことですから、
棚田の使い方を少し変えてしまえばいいのではないかと思ったのです」

現在、修復中の土蔵もある。
2011年3月12日の長野県北部地震で半壊してしまったが、
岩間さんには古民家を修復した際に得た技術があるので、修復可能だと思ったという。
2棟並んでおり、ひとつは江戸後期につくられた土蔵。
この土蔵から見つかった獅子頭を、福島県立博物館や、
会津短期大学の准教授で漆造形作家の井波純さんに依頼してきれいに修復してもらい、
舞踏公演ではダンサーがこれをかぶって舞った。
「福島も職人さんが大変な状況にあると聞いて、
ネットワークづくりをする必要があると思いました。
紡がれていくものと紡がれなくなってしまうものがあって、
無理にすべてを紡ぐ必要はないと思いますが、
消しちゃいけないことってあるんじゃないかなと思って。
これもそのひとつだと思っています」

もうひとつの土蔵は大正時代につくられたもので、
集落に暮らす大工さんにアドバイスをもらいながら修復した。
完全ではないが、ほぼきれいに改修されていて、
土蔵内には村井さんが全国で収集したこけしなどの民芸品のコレクションが飾られている。
「ここはいずれは、美術家や表現者、お客さんなどが来て
家族で滞在できるような場所にしようと思っていますが、
あまり便利にするつもりはないんです。水道すらいらないと思っていて。
近くに清水があるので汲みに行けるんですが、そのためにはバケツが必要だし、
火を起こすにも道具がいる。するとどこかの家に道具を借りに行くでしょう。
ゲストハウスのように便利にすることもできるけれど、
そうするとここに来ても閉じたままで帰るだけになってしまいますから」

さとまつりでは、ここでとれた野菜も楽しんでもらえるようにと、
江戸後期の「壺焼き」といわれる調理法で野菜を調理していた。
壺に練炭を入れ1~2時間くらい蒸し焼きにするというシンプルなもので、
じゃがいももほくほくでおいしい。
「坪野だけに壺焼き、というのは冗談ですけど(笑)。
いま原発の問題もありますが、電気を使わないしくみをそれ以前から考えていました。
あの八角風呂も沸くのに30分もかからないんですよ。
楽しさもあってユーモラスだけど、ちょっとまじめなことも考えているんです」

左は江戸後期の土蔵。右の土蔵は村井祐児さんのコレクションが展示されている。

石焼きいもの原型のような壺焼き。このほか、手づくりパンやどぶろくもふるまわれていた。

続けていくことと、お祭りだからできること。

ここでは継続して取り組んでいくことと、イベントとしてやっていることの両方がある。
ただ岩間さんは、「再生」とか「プロジェクト」という言葉には少し違和感を感じている。
「お祭りというかたちは、とてもしっくりくるので、さとまつりをやることにしました。
こういうことがきっかけとなって、今後続けていけるような
しくみづくりが重要かなと思っています。
土蔵の修復に使う土壁の土はリユース可能なので、
剥がれた土壁を集めて藁と新しい土を混ぜれば、それがまた土壁になる。
ブナ林がきれいになれば、きれいな水が水路に流れていく、というように、
循環的なしくみをつくろうとしています。
全体を大きく捉えて考えると、意外とシンプルにできることがたくさんあると思うんです」
風呂や土蔵は少し高いところにあり、その下に棚田のステージが広がる。
この山あいの谷そのものが、岩間さんが描くひとつの造形作品になっているのだ。

さとまつりのクライマックスは、夜の野外舞踏公演。
音楽パフォーマンス集団「渋さ知らズオーケストラ」などで活躍する舞踏家の
松原東洋さんに魅せられた岩間さんは、松原さん主宰の舞踏家や音楽家、美術家などが
集まった舞踏団「トンデ空静(からしずか)」と野外公演を制作することに。
3年をかけて松原さんとともに舞台を考え、仲間を集い、
集落の方々との協同によって『谷蟇』をつくりあげた。
ダンサーたちは舞台を大きく使って舞い、崖の部分には映像が投影され、
楽隊の音楽と歌声が谷に響く。
人間たちがやがてカエルのように田んぼに還っていく姿が、
プリミティブに、ダイナミックに描かれる。
この特別なステージでの公演は、観客にとってまたとない鑑賞体験になったはずだ。

「愛する仲間たちと、そしてこの地でまた新たな出会いも生まれ、
みんなで一緒にこの舞台をつくりあげました。
芸術祭があったから、これだけのことができたと思います。
僕はここで生まれたわけでもないですが、ご縁があって、
ここを好きになって通い続けています。
この谷あいの雰囲気はとても魅力的で、作品を創造する原点ともいえる場所です。
集落のお父さんたちやお母さんたちには本当にいろいろ手伝ってもらって、
怒られたり、仲良くしていただいたり、小さい物語がたくさんありますが、
いろいろなことが奇跡的につながってできたんだと思います。
これが終わったら、まずはここを静かな坪野に戻して、
それからまた継続していくことを少しずつ進めていこうと思っています」

岩間さんの坪野集落での活動は、まだ終わっていない。
芸術祭がきっかけとなって続いていく取り組みが、今後もきっと増えていくに違いない。

江戸後期のものと思われる獅子頭も立派に復活。公演が始まる前から舞台周辺に出没していた。

『谷蟇(たにぐく)』とはヒキガエルのこと。このあたりでは「ふっけろ」とも呼ばれる。終盤には火を使うなど、大胆な演出が見られた。

「いろいろなものがぎゅっとこの谷あいに引き込まれるようにしてできあがったのがこの舞台」と話す岩間さん。 http://www.oh-mame.com/tsubono 連絡先 info@oh-mame.com(里山フィールドパーク実行委員会、岩間宛)

諸富町 Part1 佐賀・諸富で 家具をつくるということ。

山崎亮 ローカルデザインスタディ
諸富町編・目次

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家業である「家具づくり」から、生まれ育ったまちについて考える
佐賀市諸富町「いわい家具」3代目・平田一成さんとの対談を、4回にわたってお届けします。

「日本一の家具産地」の、隣町。

山崎

はじめまして! ようやく会えましたね。

平田

先日は、せっかくお越しいただいたのに留守にしていてすみませんでした。

山崎

いえいえ。こちらが突然押しかけたんですよ。
前回は、お父さんに案内していただいたので、
今日は一成さんのお話をたのしみにやってきました。

平田

よろしくお願いします。

山崎

佐賀駅からタクシーに乗ってしまったので、地理がよくわかっていないのですが、
ここはもう福岡県との県境なんですね。

平田

そうなんです。ここは筑後川の中州にあたるんですが、
次の橋を渡れば、福岡の大川市というまちに入ります。

山崎

大川も、たしか家具で有名なまちですよね?

平田

ええ。むかしから、日本一の家具の産地といわれたまちです。

山崎

とすると、諸富に家具屋さんが多いのも、隣町の大川と関係が?

平田

ありありですね。少し前までは、この辺りまで、
エリアとして大川と認識されていました。
佐賀のひとにさえ「諸富の家具」という知られ方はしてこなかったと思います。

山崎

なるほど。

平田

うちも、本家は大川で婚礼家具をつくっていて、
父の代からそのショールーム的機能として、ここを設立したんです。

山崎

お。婚礼家具だから「お祝い」の「いわい家具」なんですね!

豊かな樹木に囲まれた「いわい家具」

国道208号線沿い。小さな森のように豊かな樹木に囲まれた建物が「いわい家具」。すぐ先の大川橋を渡れば、福岡県。

「いわい家具」の看板

店名は「祝い」に由来。一成さんの父である喜利さんは、無垢の木を使ったオーダー家具、創作家具の制作を得意とする。

「諸富家具」として、胸を張っていく。

山崎

筑後川にふたつの橋が架かり諸富にも企業が進出し、
お父さんがここに「いわい家具」を構えられたのが、
ちょうど右肩上がりの高度経済成長期だったというわけですね。

平田

そうですね。

山崎

だとすると、そろそろ代替わりの時期でしょうか。

平田

うちはまだ父が粘っていますけど(笑)、
諸富家具振興協同組合は現理事長が40代なので、全体的に若返りつつありますね。

山崎

後継ぎさんたちは、だいたい一成さんと同世代ですか?

平田

40代が多くて、ぼくはその世代のいちばん下ぐらいですね。

山崎

組合の規模はどのくらい?

平田

家具メーカーだけでなく、資材卸業者や木工機械メーカーなども含めて約30社です。

山崎

代替わりで、ずいぶん面白くなりそうですね。

平田

ぼく自身も、やっとやる気になったんで(笑)。

山崎

え、やる気なかったんですか(笑)。

平田

そうなんです。
25歳でやっと家業に戻ったんですが、入社しばらくは、我ながらぐうたら社員で。
今から思えば、よく雇ってくれたな、と。

山崎

それで、気持ちが変わったのはいつ?

平田

隙あらばサボっていた自分でも、納品先で「ありがとう」と喜んでもらえると、
やっぱりうれしいんです。
でも、そのことに気づくまでに、数年かかりましたよね。
お客さんに育てていただいたんだと、今はつくづくありがたく思っています。

山崎

いい話だなあ。ぼくも一緒だな。

平田

……え?

山崎

ぼくだって、そうだったはずなのに、人前ではついつい
「はじめからできてました!」みたいに語ってしまうから……。
正直にさらけ出さなくちゃ、と(笑)。

平田

あはは。山崎さんも一緒だなんて、なんだかうれしいですよ(笑)。
正直、結婚前ですね。ぼくがやっとちゃんと働こうと、こころを決めたのは。

(……to be continued!)

平田一成さん

「大川ブランドから脱却して、諸富家具としてのアピールを」(平田)

山崎亮さん

「世代交代で、まちが面白くなりそうな予感がしますね」(山崎)

「いわい家具」内観

information

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いわい家具

1976創業。もとは婚礼家具専門店で、店名は「祝い」に由来する。1993年からは、「人が造りだせない自然の恵み」無垢の木を材料とする、創作家具、オーダー家具を中心に販売。創業当時の「幸せになる家具を皆様に届けたい」という心構えは今も変わらない。

住所:佐賀県佐賀市諸富町徳富71-1

TEL:0952-47-2696

Web:http://iwaikagu.jp/

profile

ISSEI HIRATA 
平田一成

1975年、佐賀県佐賀市生まれ。祖父、父は家具職人。しかし、ものづくりには全く興味を持たず、佐賀東高等学校体育コースに入学。高校卒業と同時に家を出たい一心で逃げるようにカナダへ2年遊学。放浪癖が身につき、帰国後、アルバイトしながら沖縄や関東方面を転々と旅した後、帰郷して「いわい家具」に入社。ようやくものづくりの面白さに目覚める。現在は、家具作りだけではなく自社の広い敷地を利用し、若手作家のテナント誘致やカフェ併設など新しいかたちの家具屋を目指し、総合プロデュースに力を入れている。

profile

RYO YAMAZAKI 
山崎 亮

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院地域生態工学専攻修了後、SEN環境計画室勤務を経て2005年〈studio-L〉設立。地域の課題を地域の住民が解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、建築やランドスケープのデザイン、パークマネジメントなど。〈ホヅプロ工房〉でSDレビュー、〈マルヤガーデンズ〉でグッドデザイン賞受賞。著書に『コミュニティデザイン』。

迫田 司さん

地元のデザインは地元でやるのがいい。

深い山々と雄大な四万十川の流れを擁する高知県の北西部。
支流沿いの小さな集落、西土佐地区に住むデザイナーの迫田司さんは、
地元の農産物や加工品のパッケージや、鮎市場のチラシづくりなど、
四万十川中流域でつくられるモノのデザインを数多く手がけてきた。
迫田さんのデザインは都会的でお洒落というより、
どこか土着的で土地の香りのするものが多い。

一見何もないように見える田舎にこそ、かけがえのない豊かさがある。
その良さをいかに引き出して伝えるか。
それが迫田さんのデザインの根っこにある。

「デザインというと、まず色やレイアウトなどテクニカルな面に目が向きますが、
大切なのは、生産者がどんな思いでものづくりをして、
どう世の中に届けたいと思っているか。
デザイナーはそれを引き出して、整理して、表現する人。
だから自分たちの地域のことは、遠方にいるデザイナーに頼むのではなく、
同じ目線で見られる、地元のデザイナーがやるのがいちばんいいと思うんです」

大手印刷会社の中国支局でデザインの仕事をしていた迫田さんが
この地へ移り住んだのは20年前。
趣味が高じて始めたカヌーのインストラクターを2年間ほどやっていたが、
少しずつデザインの仕事を再開する。

いまのデザインをカタチづくるきっかけとなったのは、
ある役場の女性から米のパッケージデザインを頼まれたこと。

「西土佐でつくられる米は、水がきれいで寒暖の差も激しいので
東北に負けないくらい旨い。でも手がかかるせいで、生産者が減っています。
依頼主のユミさんは、地元の米を廃れさせたくないという強い思いを持っていました。
そこでまずはふたりで、生産者がどんな米づくりをしているのかを知るところから
始めたんです。スーパーに米袋を見に行ったり、生産現場に通って、
1年かけていまのパッケージができました」

商品につけた名前は「山間米」。
このパッケージデザインは、グッドデザイン賞をはじめ、いくつもの賞を受賞する。
つくり手に寄り添うデザインの方法は、迫田さんの指針となる。

山間米のパッケージは、枡をモデルにデザインされた。2合、3合の食べきりサイズも。

「最初は下手でもいいやん、地元でやろうよ」

そんな迫田さんが、いま力を入れているのが
「地(ジ)デザイナー」をネットワーク化する活動だ。
「地デザイナー」とは、地元に住みデザインをする人のこと。

「いま、青森の下北半島や能登半島など全国20人ほどの地デザイナーとつながっていて、
各地でデザインについて話す機会をつくっています。それぞれ頑張っていますが、
周囲にその価値を認めてもらえずに、くすぶっている人も多い」

たしかに、田舎でデザインの仕事一本で生活していくのは難しい。
デザインとは何か、がまだ浸透していなくて、相応のデザイン料を得にくいためだ。
迫田さんもはじめのうちは、デザイン料のほとんどが米や卵などの現物支給だったという。

「地元に面白いデザイナーがいても、
行政などは東京の有名デザイナーに依頼していることも多い。
それが果たして地域にとって幸せなことかな、と思うんです。
何百万円もの予算があるなら、地元のデザイナー10人に
10万円ずつ渡してコンペするほうが、よほど地元のためになる。
だから、最初は下手でもいいやん、地元でやろうよって言うんです」

南伊豆で行われた迫田さんの「地デザイン講座」には、地元のデザイナーをはじめ、
米農家、加工品製造者、和菓子屋など、製造業に関わる人々が集まった。

南伊豆役場で行われた「地デザイン講座」。製造者とデザイナーの交流の場にも。

迫田さんが手がけたパッケージの数々。

パッケージデザインや販売戦略などさまざまな悩みを訴える彼らに、
迫田さんはこうアドバイスする。

「タイトルや色など細かいデザインも大事ですが、まず考えたほうがいいのは、
皆さんがこの商品を世に送りだして、社会をどうしたいかということ。
誰をどんな風に喜ばせたいのか。
商品そのものより、その周囲を考えることにヒントがある。
それを一緒にかたちにしてくれるのがデザイナーです」

南伊豆の地デザイナー鈴木美智子さんはこう話す。
「地元でデザインの仕事をしていると、都会とは違って
なかなか価値をわかってもらえなかったり、薄謝でへこむことも多い。
そのたびに道を見失いそうになりますが、迫田さんの話を聞くと、
自分の進んでいる方向が間違ってないって再確認できるんです」

地元の製造業に関わる人々にとって、パッケージデザインは大切な要素のひとつ。

全国津々浦々で行われる「地デザイン講座」は、昨年11月に始まり今回が9回目。

商店街にひとりデザイン屋がいれば、地域はもっと豊かになる。

さらに、迫田さんが手がけた仕事のうち、代表的なものが
高知県佐川町の吉本牛乳「地乳(ぢちち)」だろう。

吉本乳業は、大正時代から佐川町で牛乳をつくってきた地元の牛乳屋。
毎日近隣の酪農農家で絞られた生乳を集めて加工し地元で販売している。
学校給食にも使われていて、このまちの人たちは
皆この牛乳で育ったと言っても過言ではない。

「吉本牛乳の話を役場の人から聞いた時、それってぢちちやん! と思ったんです。
地元のための地元の牛乳。地酒ならぬ、ぢちちです。
パッケージには、佐川の地乳と入れて、
飲食業界ではあまり使われていなかった白と黒を使いました」

はじめは関係者全員がこのネーミングとパッケージで大丈夫かと不安を覚えたという。
そんな心配をよそに、売上は予想をはるかに超えて2倍に。
メディアでも取り上げられ、地乳を使った「地乳パン」や「地乳アイス」などもできて、
まちの地産ブランドとして着実に広がっている。

高知県高岡郡佐川町でつくられた吉本牛乳「さかわの地乳」。

地乳をつかった「地乳パン」。「地乳アイス」も人気。

「デザインの仕事が地域社会で認められるのはまだまだこれから。
商店街にひとりデザイナーがいて、土地のいいものを引き出して発信したら
地域はもっと豊かになる。デザイナーが横文字のかっこいい職業と思われているうちは、
田舎の社会の中では市民権を得ていないに等しいです。
魚屋やパン屋とデザイン屋が並んで初めて、地域のなかでもやっていけるようになる」

全国に地デザイナーを増やすべく
「地デジ構想」(地・デザイン・ジャパン構想の略)を掲げて、日々奔走中だ。