多様な生き方がつくる、 古マンションの活用。 403architecture [dajiba] vol.3

403architecture [dajiba] vol.3 
使われ方から生まれる新しいかたち

今回は、2013年1月に竣工した「渥美の収納」の施主、
原田ちか子さんにお話を伺いました。
原田さんは、僕らが拠点を置く浜松市内で
長年ニットの手編み教室を営んでいる先生です。

最初にお会いしたのは、僕らも参加した2010年の浜松建築会議。
これは、浜松出身の建築に携わるメンバーが中心となった実行委員会が主催し、
地方都市での建築家の役割や中心市街地のあり方を
建築的な観点から考えることを目的としたイベントでした。
2010年はその第1回目となるもので、
以降は、不定期にこれまで3回開催されています。

この企画のひとつに市街地に増えていた空き室を
建築学生とワークショップを通して活用していく試みがありました。
いまは、さまざまなショップが入居し、
浜松のカルチャーの発信地ともいえる「カギヤビル」も、
当時は2階以上になると空き室が目立っていて、
このワークショップを通して活用が考えられた建物です。

カギヤビル

浜松市内の東海道筋となっているゆりの木通りにある共同建築。
数年前までは、2階以上がほぼ空き室となっていたが、
現在は、丸八不動産グループの平野啓介社長(後にインタビューに登場)が運営を行い、
現在は写真家が経営する本屋やアンティークショップ、デザイン事務所が入居している。
403architecture [dajiba]の事務所からも徒歩3分ほど。

そんなカギヤビルの1室に住み、別の1室で手芸教室をしていた原田さんが、
家を僕たちの事務所も入居する「渥美マンション」に引っ越すにあたり、
部屋を改修して、別々だった住居と手芸教室を一体化させたいということで
仕事を依頼してくれたのが「渥美の収納」というプロジェクトの始まりでした。

彌田

当時はカギヤビルの3階に住みながら、
「チカコズコレクション」という手芸教室を1階で営んでましたよね?
原田さんは、ずっとカギヤビルでやられていたんですか?

原田

30歳の時にカギヤビルでやるようになってからは、ずっとカギヤビル。
当時は編み物ブームだったから生徒さんがすごかったの。
90人くらいを1週間に分けて、教えてたんだから。
複数階のフロアを借りたこともあったし、
カギヤビルの中で何回か場所は動いてはいるんだけど、
40歳を超えた1990年くらいから
1階だけで編み物教室を始めて、3階に住むようになったの。

彌田

へー。ずっと1階で手芸教室をされていたんだと思ってました。
たまに銭湯に行くところを見かけたりしてましたけど、よく行かれていたんですか?

原田

お風呂が使えなかったから、
「巴湯(浜松の市街地にある唯一の銭湯)」に通ってたの。
ここに引っ越してからもたまに行っているよ。

彌田

あ、そうなんですね。
てっきりずっとそういうライフスタイルなのかと思っていました。
1970〜80年代の歌に、銭湯ってよく登場するじゃないですか。
お風呂は銭湯で入るのが普通なのかなって勝手に思っていたんですが、
ちょっと違う事情があったんですね(笑)。

原田

そう(笑)。お風呂があった時は家で入ってましたよ。

こちらが原田さん。

彌田

この仕事を僕らに依頼していただいたのは、どうしてですか?

原田

浜松建築会議のときに辻くんに知り合ったからだったと思う。
彌田くんとも、現在のようなカギヤビルとして運用される以前に、
空いている部屋を活用してクリエイターの活動拠点になっていた、
「KAGIYA HOUSE」でよく会ってたし、
商店街で行うイベントを手伝ってくれていたから毎月の定例会でもよく会ってたしね。
顔なじみというか、そういうのだと思う。
浜松建築会議とKAGIYA HOUSEがなかったら、こうなってなかったかもね。

©Takumi KAWAGUCHI

KAGIYA HOUSE

2010年、2階以上がほぼ空き室となっていたカギヤビルの2階と4階の一部を
地元のクリエイターが主体となってギャラリースペースとして活用していく試み。
展示を始め、ワークショップや商店街の会合などの際にも使用され、
アーティストだけでなく多くの人が訪れる場所となっていた。
2011年5月からビルのオーナーが丸八不動産グループとなるまで運営されていた。

彌田

それはありがたいですね。でも原田さんは
大工さんのお知り合いもいらっしゃるじゃないですか。
普通だったら、大工さんとかに頼むと思うんですが……。

原田

それは、もともとあった手芸教室の棚を使ってもらいたかったから。
この棚自体は、大工さんがつくってくれたものだけど、
この棚を生かして何かつくるっていうのは、大工さんはしないじゃない。
つくる時に少しお金もかけたしね(笑)。
長年使った思い入れもあって、引っ越しても使いたいなぁと思ってたの。

彌田

なるほど。それは僕らにピッタリのプロジェクトですね。
原田さん、隣の部屋(「渥美の床」がある部屋)は見たことあります?

原田

うん。一度だけ入ったことある。

彌田

あの部屋の一部も僕たちがやらせてもらっていて、
寝室の寄せ木みたいな床(vol.1に登場)は、天井にあった木材を細かく切って、
床に敷いているんです。もとの状態とは違いますが、
あっちにあった素材をこっちに持ってきて作ったプロジェクトなんですね。
そう考えると、
「渥美の収納」は木材が収納に置き換わったようなプロジェクトですね。

2DKの間取りから、収納棚を壁面に配した手編み教室兼リビングとなる広々とした空間に。この部屋のほかに寝室、キッチンがある。©kentahasegawa

「渥美の収納」

築40年ほどのマンションの1室の改修。居住機能に加えて、
施主が営んでいる手編み教室を行うためのスペースが併設されている。
手編み教室で必要となる毛糸などを収納する棚は、
施主からの要望であった既存の棚の一部を使用。
棚板や仕切り板同士の間隔はもともとの寸法を参照し、つくられている。
教室部分は、生徒がいない時には施主のリビングとしても使われるため、
毛糸や教科書などの教室に必要な道具に加え、
暮らしの道具も混在することが想定された。
以前から使われていた家具そのものや家具が持つ寸法を用いることで、
両方の道具が新たな環境になじむような状態を目指した。

右のガラス戸の奥が玄関になっている。©kentahasegawa

京都で千年以上受け継がれてきた、 高貴な染め技法「京鹿の子絞」

職人さんの連携が命の京鹿の子絞

BS朝日で放送中のTV番組『アーツ&クラフツ商会』は、
日本各地で継承されてきた伝統工芸を紹介しながら
その技術を生かし、現代のライフスタイルにもあった、
ニュー・クラフツをつくろうというもの。
番組スポンサーであるセキスイハイムが、
企業の姿勢として掲げる「時を経ても、続く価値を。」をテーマに、
小山薫堂氏の企画・監修のもと、この番組がつくられています。
今回も、時を経ても続いてきた伝統工芸の魅力に迫ります。

vol.1ではスタジオ撮影の様子をお届けしましたが、
実際、職人の現場ではどんな撮影が行われているのか? ということで
このたび、撮影に同行しました。

訪れたのは、歴史香るまち、京都。
ここでは千数百年もの長きにわたり、
「京鹿の子絞(きょうかのこしぼり)」という絞り染めの技術が受け継がれています。

これは、布を糸で括って、染まらないようにした部分を
美しい文様として表現する技法です。
括りの文様が子鹿の斑点に似ているところから、
そう呼ばれるようになりました。
着物や振り袖だけでなく、
和小物や髪飾りなどの装飾にも幅広く使われています。

その歴史は古く、「日本書紀」にも絞り染めに関する記述がみられます。
江戸時代になると、
京都では鹿の子絞を括る職人は、「鹿の子結い」として専業化されるなど、
女性の手仕事として広く普及していったそうです。

今回、番組の撮影スタッフが追ったのは
二色に染め分けた絹の生地に
京鹿の子絞のあじさいが咲き誇るストールの制作工程。

京鹿の子絞はさまざまな工程に分かれているため、
古くから分業制が取られ、作業ごとに職人が変わります。

最初の工程は、下絵です。
絵師が完成予想図を描き、厚紙で型を作成。
その後「青花(あおばな)」と呼ばれるつゆ草の汁を使い、
型に添って、生地の上に色を付けていくのです。
これが、布を括る際の目印になります。

その後、京鹿の子絞の花形である「括り」の職人さんへと生地がわたるのです。

緻密な“括り”の作業に、ため息の連続

括りの作業を行うのは、この道60年の川本和代さん。
撮影は、京都市西京区にある川本さんの工房で行われました。

京都駅から電車で20分。川本さんの工房の近くを流れるのは桂川。のんびりした河原の向こうに、阪急電車が見えます。

まずは青花で描かれた直径数ミリという粒の真ん中をつまんで、
布を4つに折って粒の大きさを決めます。
続いて下から上に向け、時計回りに4回糸を巻き
最後に粒の頭を押さえ、つくった輪っかで2回硬く締めるのです。

カメラで追うのもひと苦労! 細かい括りの作業に思わず息をのみます。(画像提供:BS朝日)

着物一面に絞りの入る「総絞り」の場合、みっちり等間隔に括って、一反で15万粒。振り袖なら、17万粒にもなるといいます。絞りの作業だけで、1年以上かかるそうです。(画像提供:BS朝日)

締める時、糸が指ぬきに当たって出る
「ポン、ポン」という小気味よい音がとても印象的。
「勢いよく締めないと、締まらへんから」と川本さんは話します。
22本の絹糸をこよった「しけ糸」は、
指ぬきをしなかったら手が切れるほど強いのだそうです。

50種類以上ある京鹿の子絞の技法の中で、
今回川本さんにお願いしたのは「本疋田(ほんびった)」という括り。
「道具を何も使わず、職人の手と座るための座布団だけあったらできる仕事です」(川本さん)
もちろん、熟練の技がなければできないことは言うまでもありません。

ひと括りの作業が早く、視覚で確認するのもひと苦労。さまざまなアングルからカメラを向けます。

緻密な作業ゆえに、撮影スタッフからは緊張感がひしひしと伝わってきます。
川本さんの爪で、括りの撮りたい部分が隠れてしまうため
アングルを変えながら何度も挑戦。
括りの動きを視聴者になるべく鮮明にお届けしたいという思いから、
「手をあまり動かさずに括ってもらいたいんです」と、
カメラマンから思わず本音がこぼれます。
川本さんは「そんなん、難しいわ〜」と笑いながらも、
期待に応えようと、何度も繰り返し括りの作業を行ってくれました。

番組では、音声スタッフが括りの作業に
チャレンジする企画も放送されました。
「やり方はわかります」と息巻いて始めたものの、
ひと粒括るだけで、かなりの時間と労力が……。

「最初のひと粒を稽古するだけで、一週間から10日かかります。
ふた粒括ろう思たら、前の粒がほどけます。
ふた粒目というのが、関所なんですね」と川本さんが話すほど、
甘い世界ではない、ということ。
道具を使わず人の手だけで行うため、ごまかしがきかないのです。

粒の揃った見事な括り。目印である青花の色は、水洗いすることできれいに落ちます。

「大きな手やけど」と言いながら、川本さんが手を撮らせてくれました。職人歴60年余の手は、何も語らずとも重みがあります。

おばあさまの代から、括りの職人さんだったという川本さん。
手取り足取り教わるというよりは、おばあさま、お母さまの作業を
目で見て、耳で聞いて、盗む、の繰り返しで技を習得していきました。

「昔は、このあたりには結い子さん(括りの作業を行う職人さん)も
2000人くらい居はったんと違いますか。
夏なんかは今みたいにエアコンがないから、みんな扉をガラ開けでね。
夜も外を歩いていると、ポン、ポンと言わしてはる。
『ああ、今日も夜なべしてはるな』と。
だからね、私も気張りたい、という勢いがなかったかしらんね」

制作途中の注文品。「気持ちにムラがあると、粒にもムラができる」ゆえに「一日に5時間も括ったら精一杯」と川本さんは話します。

今ではすっかり結い子さんの数も減ってしまいましたが、
川本さんの娘さんが、弟子として修業されているそうです。
「私が母親から教えてもらった仕事を、
この子がまた継いでしてくれるっていうのはね、やっぱりうれしいですね。
私の仕事は本疋田に限り、女性なんですよ、不思議でしょ。
ほかの工程はみんな男の人。だから余計に
娘が継いでくれると聞いたときはうれしかったです」と話してくれました。

技術だけではなく、母の思いまで未来に受け継がれていきます。

今では展示会で、直接お客様から注文を受けることも多いそうです。「顔が見えるとお客様は『この人がつくってる』、職人も『この人が着てくれはるんや』という関係ができてうれしい」と話す川本さん。

京鹿の子ならではの、独特の染めの技法

括りが終わると「染め分け」という、染色前の下準備に入ります。
今回行ってもらったのは「桶絞り(おけしぼり)」という、独特の技法です。

このような専用の桶を使います。こちらは紺色の桶ですが、番組撮影のときに使われたのは赤い桶。染める色に合わせて、桶を選びます。

中古物件の環境と構造を生かす。 海が見える週末住宅。 ルーヴィス vol.3

ルーヴィス vol.3
海や山、土地の息づかいを感じられる空間へ。

みなさんこんにちはルーヴィスの福井です。
今回は個人邸のリノベーションのお話です。

ルーヴィスを立ち上げて4年が過ぎると、
個人のクライアントからの依頼が増えてきました。
そんなとき神奈川県横須賀市にある、
「昭和39年に建てられた平屋を週末住宅にしたい」という依頼がありました。

クライアントからの要望は、
「頑張りすぎず、落ち着いた感じがいい」ということでした。
後日、現地を見に行くと、
その平屋は、ただの平屋ではなく、
リビングから海が見渡すことができる、眺望が最高の立地。

3棟の平屋が廊下でつながっている面白い物件で、
築50年近いとはいえ傷みも少なく、広さも十分の平屋でした。

前所有者が使っていたときに見学へ。ここは真ん中の1棟の空間。バリ風のインテリアで整えられていました。

「頑張り過ぎず」という要望でしたが、物件を見てしまうと、
「頑張りたい」気持ちで一杯になってしまったのを今でも覚えています。

それから数週間、
「頑張り過ぎず」というキーワードと
「頑張りたい」という気持ちの狭間で
もやもやしたまま初回のプレゼンテーションの日を迎えます。
今思い返しても、このプロジェクトほど
奥歯にものが挟まったようなプレゼンをした記憶はほかにないです。

プレゼンを終えると、クライアントとそのまま食事をご一緒したんですが、
僕はそのお店で、
「正直、どうすることがベストか僕自身わからなくなってしまっています」
と打ち明けました。
今振り返れば、これから請負うプロとしての言葉か? と思うのですが、
返事としては「1日、一緒に合宿してみよう」ということでした。
思い返せば、クライアントの返しも秀逸です。

そして、僕とクライアントは、家具も何もない暖炉だけある、
大きな平屋に真冬の夜に集合して、この平屋で求めている過ごし方や、
クライアントの仕事のことなど、いろんな話をして過ごしました。

前所有者の引っ越しが終わり、家具などが何もなくなった真ん中の1棟。この空間で合宿しました。

とにかく寒かったですが、
夜空が近い感じや、夜が明けていくにつれて見えてくる漁港の風景や
明け方の澄んだ空気や冬空を見て、
「自分のプレゼンしたことって、自然体じゃなかったかも」
と、この合宿を通じて感じました。
当初のプランは、すべての和室を無くすなど、
全体的に変えるようなもので、
この建物が刻んできた歴史みたいなものもすっ飛ばしていた気がします。

力みや欲のようなものが、すっかりなくなり、
新たなプランは、
左右の棟は、直したかどうかわからない程度に整え、
中央の棟を重点的にリノベーションすることに。

もともとの玄関を生かし、外壁を塗り替えるだけでフレッシュな印象に。

玄関から続く最初の棟を寝室にしました。

左端の窓は浴室です。ここにもともとあった目隠しは撤去し、開口部を広げています。デッキを右から左まで新調し、隣地に建物がないため、浴室からデッキへもアクセスできるようにしました。

なかでも手を入れた真ん中の平屋は、
海がより大きく見えるリビング棟としました。

日本の伝統技術を伝える 「アーツ&クラフツ商会」 番組撮影現場へ!

日本の伝統美を伝えるべく、スタッフの力が結集!

BS朝日で放送中の『アーツ&クラフツ商会』は、
毎回日本に古くから伝わる伝統工芸品をご紹介する番組です。
この名前の由来となっているのは、19世紀イギリスの「アーツ&クラフツ運動」。
当時のデザイナー、ウィリアム・モリスが
「古き良き時代の熟練職人による質の高い工芸品のよさを見直し、
現在のライフスタイルに取り入れよう」と提唱し、
手仕事を大切にした商品が続々と生まれた運動のことです。
この番組は、そんなモリスの思想や、
世界に誇るメイド・イン・ジャパンの情熱を伝えています。

企画・監修は、小山薫堂氏です。
もともと、番組スポンサーであるセキスイハイムが、
企業の姿勢として掲げたテーマが「時を経ても、続く価値を。」。
この言葉をベースに伝統工芸を掘り下げていくこの番組が生まれました。

全国の伝統工芸品の中から、ジャンルや地域が多岐にわたるようにセレクト。
「制作チームは毎回工房にお邪魔しているのですが、共通して言えるのは、
どの職人さんもプライドを持って伝統工芸品をつくっていること。
そして、その活力を一番感じられるのが工房であるということです。
通常であれば入らせていただけないようなところまで、
本当に密着して、とても時間をかけて撮影をしています」と話すのは、
小山さんの事務所N35のプロデューサーの岩佐 恵さんです。

番組を統括するBS朝日の魏 治康プロデューサーは
「難しい専門用語もたくさんありますが、
作家と一緒に知恵を出し合って、いかにわかりやすくそれらを説明しながら
伝統工芸の魅力を伝えられるか工夫しています」と話してくれました。

さらにこの番組で注目すべきは、
伝統的な手仕事という技が現代に生きるものを生みだす
ニュー・クラフツという視点です。
BS朝日の宮島花名さんも「伝統工芸を取り上げた番組は多々ありますが、
その技を使って新しいものをつくる企画はこの番組ならでは。
それを、丁寧な編集でかたちにできるよう努力しています」と言います。
受注生産の世界なので、職人さんは常に予約でいっぱい。
その合間を縫って制作していただく大変さは想像するに余りありますが、
毎回番組サイドが提案したアイデア以上のものが返ってくるのだそうです。

左からN35の岩佐さん、BS朝日の魏さん、宮島さん。

番組ではこれまで、鳴子こけしや有田焼、鎚起銅器(ついきどうき)など、
古くから受け継がれてきた日本の伝統工芸品やその歴史、
そして職人技にフィーチャーしてきました。
現代の生活にマッチする“ニュー・クラフツ”を、毎回それぞれの職人が技を駆使して制作。
手仕事の繊細さや温かみが吹き込まれたひとつひとつのプロダクトに、
思わずため息がこぼれます。

宮城県の鳴子こけしの職人さんがつくったのは、中の空洞に手紙を入れて、想いを届ける「交換こけし」。(画像提供:BS朝日)

約400年の伝統を誇る佐賀県の有田焼。制作されたニュー・クラフツは、上下ふたつに分解できる、有田焼クリスマスツリー! 先端はグラス、スソの部分はシャンパンクーラーになる優れものです。(画像提供:BS朝日)

新潟県燕市の鎚起銅器の技術を駆使してつくられたのはランプシェード。職人歴35年の椛沢伸治さんが外側と内側に異なる美しい模様を施しています。(画像提供:BS朝日)

番組の制作現場に潜入しました。

毎回、番組はここからスタート。ダイナミックに書かれた「手考足思(しゅこうそくい)」という言葉は、民芸運動でも知られる著名な陶芸家・河井寛次郎の言葉で「手を動かして考え、自分の足で歩きながら思いをめぐらせる」という意味。小山薫堂さんの直筆です。

「もしあなたが○○に興味を持たれたなら、どうぞこちらへ……」
というナレーションから始まるこの番組の舞台は、実は都内某所にあるアンティークショップ。
アーツ&クラフツの息吹を伝えるべく、
店内にはたくさんの古書や骨董品、家具が並んでいます。
撮影は、まず店内の商品を片付けるところからスタート。
その量、段ボール約10箱分!
さらに天井に照明を追加し、棚を整理し、限られたスペースに大きなカメラを入れる……。
準備だけでも半日を費やす大がかり。スタッフさんたちも大変です。
棚には、これまで番組で紹介した作品もいくつか並んでいます。

壁付けの棚には、江戸切子など、これまでに制作した伝統工芸品も。4月に放送した津軽びいどろの瓶は、番組の美術さんが持ってきたものです。

店主のほかに重要な役割を担うのは、声の主でもある「本の精」。
もともとこのお店にあったアンティークの本に、
美術さんがダメージ加工を施してつくったラベルを貼りました。
実は中も、数ページだけ制作しているそうです。

本物かと間違うタイトルラベルのダメージ加工はさすが!

まだまだ、撮影はつづきます。

集落丸山が教えてくれたこと。 一般社団法人ノオト vol.02

一般社団法人ノオトvol.02

みなさん、こんにちは。一般社団法人ノオト代表の金野(きんの)です。
弊社はどうやらフラットな組織のようで、入社したばかりの担当者から、
連載第2回目を執筆するよう指示がありました。
〆切厳守とのことです。
そんなわけで、弊社スタッフもあまり知らない創業期のことを書くことにします。

空き家と景観

昨今は、全国で「空き家問題」が取りあげられるようになってきましたが、
ノオトが創業した平成21年頃はそうでもありませんでした。
私はまだ兵庫県の篠山市役所に籍があって、
景観まちづくりの仕事もしていたので、
景観条例に基づく景観地区、景観重要建造物の指定に向けて、
その候補地、候補物件を探していました。
実は、ここから、空き家問題、空き家活用事業の創業に辿り着いたのです。
役所のことを書き始めると文章がどうしても固くなりますね。

篠山市のほぼ中央に位置する篠山城から北に車を走らせると、
多紀連山に向けて、小さな谷筋に入って行きます。
7分も走れば、もう行き止まるのですが、
そこに「丸山集落」があります。
ほとんどの家屋が、茅葺き屋根にトタンを葺いたもので統一されていて、
家と家との距離感や、各家の配置が何とも絶妙なんです。
石積みや水路や樹木も、その景観を構成しています。
計算され尽くしたような、と言いますが、
昔の人は本当に計算し尽くしたのだと思います。
土地を読み、気候を踏まえ、暮らしを想像し、
名もなき人たちが長い時間をかけて
ひとつの有機体として設計し続けてきたのでしょう。
それは現代社会の「計算」とは違う計算の方法です。

私は最初、この美しい集落の景観地区指定のことを考えていました。
平成20年春のことです。
しかし、よく眺めていると空き家が多数あることに気がつきました。
空き巣が入った形跡も見受けられ、少しすさんで残念な印象をもったのを憶えています。
後日、自治会長であった、
佐古田直實さん(現在はNPO法人集落丸山の理事長)と話をする機会があり、
全12戸のうち7戸が空き家であること、
かつては城下町水源を守る「水守」の集落であったこと、
集落の未来に危機感を抱いていることなどを伺ったのでした。

法令に基づく景観地区指定やルールづくり(景観形成基準など)は
とても重要な政策ですが、
それだけでは美しい景観を守ることができない。
私たちはそういう時代に生きている。
ルールをつくっても開発が押し寄せてくるわけではない。
ルールを使うシーンはあまりなく、建物が空き家となり、農地が放棄地となり、
景観は内側から朽ちていく。
だから、何かその空間にエネルギーを注ぎ込む政策がなければ、
景観を守れない。何より地域を守れない。
私たちは、そのことを丸山集落で学んだのでした。

活用の対象となった古民家(奥の3戸)。

嶋田洋平さん

リノベーションで、暮らしをつくる、仕事をつくる、まちをつくる

人が減り、空き家が増え、元気のなくなってしまったまち。
日本のそこかしこで見られるようになったそんなまちを、
リノベーションという手法によって再生させる。
これを先陣切って実践し、普及させ、
建築、不動産関係者や全国の行政から
熱い視線を浴びているのは
東京都豊島区で「らいおん建築事務所」を主宰する嶋田洋平さんです。

彼は、実に多くのまちづくりプログラムの運営に関わっています。

遊休案件の事業化を実践で学ぶ「リノベーションスクール」、
民間型のまちづくり事業会社「北九州家守舎」、
同じく「都電家守舎」、
まち再生のための総合的なプログラムを提供する「リノベリング」。

一体、彼はどんな考えに支えられてこれらを生み出し、動かし、
人々を巻き込み続けているのだろうか。
それがどうしても知りたくて、インタビューをお願いしたら、
4時間にもわたるものに。
ここに記すのは建築家を志した北九州の若者が、
“リノベーションまちづくり”を確立するまでの半生記です。
(取材中にふらっと訪れた、「都電家守舎」の青木 純さんも登場します)

第一時代:モテたかった、建築設計期

(聞き手:馬場未織)

馬場

先日、嶋田さんの若い頃の写真を目にする機会がありました。
模型を掲げる横顔はまさに建築家を目指す若者で、
オシャレでアンニュイな文化系男子という雰囲気が
かっこよくて驚いたのですが、建築家を目指したきっかけは何だったのですか?

嶋田

まあね、その頃は髪もふさふさでしたしね(笑)。
いや、僕は北九州の出身なんですが、
大分出身の建築家・磯崎 新さんの建築作品が九州にいくつかあって、
高校時代にゴミ拾いのボランティアで彼の設計した北九州市立美術館に行ったときに
「でかくてかっこいい建物だなあ、こういうのをつくったらモテるだろうなあ!」
と、つくづく思ったんです。
磯崎 新みたいな世界的なスーパースターになれば絶対モテる、
という思い込みが、建築家を志したきっかけです。

こちらがうわさの嶋田さんの学生時代。(photo:らいおん建築事務所)

馬場

不純な動機ですが、ある意味、純粋な高校生ですね。

嶋田

田舎で育ち、モテることだけを純粋に追求して決めた進路ですからね!
なおかつ理系でデザインに興味があったため、
東京理科大学の理工学部建築学科に入学。小嶋一浩さんの研究室に入りました。
小嶋さんは、ユニットで活動する、
建築設計事務所「シーラカンス」を主宰する建築家。
当時の僕には、小嶋さんの一挙手一投足がむちゃくちゃかっこよく見えました。
コム・デ・ギャルソン着て、
「きみだって、自分の髪はオシャレな人に切ってもらいたいでしょ。
家を頼む建築家も、同じだよ」と言われると、すごく説得力があって。

馬場

東京に出てきてそんな建築家に会ったら、
確かにカルチャーショックを受けますよね。

嶋田

影響されまくって、
僕も大学院時代からみかんぐみに在籍した頃まで、
全身コム・デ・ギャルソンでキメてました(笑)。

その頃、小嶋さんが言っていたことは、今でも強烈に心に残っています。
たとえば「世の中はフィクションだ」という言葉。
「貨幣経済そのものが“フィクション”なんだよ。
そういう社会の中で何かつくろうとするのだから、
ポジティブでいいんじゃないか?
フィクションの上にフィクションを重ねているだけなんだから」
と言われたときは、痺れましたね。
また、修士1年の頃には、
これから日本では新築の仕事は激減するだろう。
リノベーションばかりになっているだろう。

建物を建てたいなら、海外に行け。中国、アジアに出て行け」
と言われていました。
当時は僕、その言葉がどうもピンとこなかったんですけれどね。

馬場

その後、就職はしたのですか?

嶋田

はい。海外にポートフォリオを持って飛び出していく友だちを横目で見ながら、
自分はどうしようかなあ、組織事務所には入りたくないし、
入りたい事務所も特にないし……と考えていたときに、
4人のユニットで設計活動をする「みかんぐみ」という建築事務所で
働くのはどうかと勧められて、所員になりました。メンバーの出身地を見ると、
曽我部昌史さんは福岡出身、加茂紀和子さんは北九州市の小倉出身だった。
そのことに何となく背中を押されたかんじがあります。

馬場

みかんぐみでも、全身コム・デ・ギャルソンだったのですか?

嶋田

一転して、ユニクロ・スニーカー・フリース・ダウンといういでたちが
デフォルトの環境になりました(笑)。
それがみかんぐみのスタイルだったのです。
ですので僕も最近は、すっかりその路線ですね。

みかんぐみは、発想の原点もプロジェクトの進め方も
シーラカンスとまったく違ったので、僕にとってはとても新鮮でした。

この事務所は、ほかの人が思いつかないようなアイデアを出して、
相手をワクワクさせればその案が通る、というやり方をしていました。
上下関係も関係なく。これは燃えますよね。
さあ、みんなが唸る案を出してやろう! ってね。

ただ、所員という立場では、
業務をこなすためのいろいろなワザを習得しなきゃならなかった。
ボス4人がそれぞれ、昨日と今日で言うことも考えることも違う、
という一貫性のない状態に臨機応変に対応するワザです(笑)。
額面通りに言葉を捉えていると、本当に混乱するんです。
でもね、僕はこの、毎日言うことの違う4人のメンバーを
「病気の一症状」と見立てるようにした(笑)。
そうしたら振り回されることもなくなり、心も消耗しない。
しかも場数を踏んでいくと、病的な発言でもないことがわかってきた。
含意やニュアンスをよーく聞き分けていくと、
彼らの言外の、暗黙のコミュニケーションが読み取れるようになり、
会話の優先順位も見えてきたんです。そんな日々を送っていたら、
むちゃくちゃコミュニケーション能力が高くなりました。

馬場

すみません、
そんな繊細な技を持っている方だとは思っていませんでした!
通じないとすぐ怒っちゃうようなタイプかと。

嶋田

いやいや、本当は僕、そういう丁寧なコミュニケーションができるんですよ。
でもね、そういうあうんの呼吸をほかの人にも求めるところがある。
自分の出す指示が雑になることがあり、そこは反省しています。

第二時代:リノベーションの力を知った、過渡期

馬場

事務所を辞めたきっかけは、なんでしたか?

嶋田

当時の建築事務所は、所員は3~5年で辞めて、
独立するというのが一般的なスタイルでしたが、
気がつけば、入所して6年目になっていました。
事務所の大多数の所員を統括して、
いくつもあるプロジェクトの現場を仕切るのは実質的に僕になっていました。
自分の思うように仕事ができて、居心地は最高にいいですよね。
しかも、2006年に電撃入籍し、子どももできて子育てが楽しくなって。
生活を支える収入も、チーフという立場になって大分安定してきたという状態。
そんな環境がもう本当に……ダサくてダサくて(笑)。僕は常々、
「アトリエの番頭ほどカッコ悪いものはない!」と思っていましたから。

いつ辞めよう、とタイミングを見計らい、
さあ今日いよいよ相談しようと思っていたら、なんとまったく同じ日、
タッチの差で同僚の吉岡寛之さん(イロイロトリドリ代表)が
「辞めようと思います」とボスたちに先に相談してしまった。
その直後に僕も、
「みかんぐみを辞めさせていただきたいと思っている相談を
させていただきたいんですが……ダメですよね?」と持ちかけると、
間髪を入れず「ダメ」と即刻突き返されました(笑)。

いよいよみかんぐみを辞めることになったのは、
結局2010年になってからでしたが、
辞める宣言した直後、これまでバリバリ働いて家計を分担していた奥さんが
ふたり目を妊娠。……ナイスタイミングですよ、本当に。
まあそれでも、辞めた。辞めると同時に「らいおん建築事務所」をつくり、
すぐスタッフをひとり雇いました。
スタッフを雇うことで、本気度が増すから。

馬場

そこからキッパリ、個人で仕事をとるようになったのですか?

嶋田

実は、みかんぐみに在籍しながら、
個人で受けていた仕事がいくつかありました。
そのひとつは、後から思えば僕の未来を左右することになった、
文京区にある「白山の家」です。

白山の家、外観。(photo:中村絵)

白山の家、内観。(photo:中村絵)

嶋田

2009年の夏、都心に暮らしたいと考えている30代のご夫婦から
「自分たちの住みたい住まいが新築でまったく見つからない」
と相談がありました。そこで、古家付きの土地の購入を勧めました。
見つかったのですが、いろいろ問題があって。
その土地には、増改築を繰り返した結果、建築物が敷地からはみ出していて、
法律の基準からは容積率も、建蔽率もオーバーしている、
バリバリの違法建築があったんです。
解体費を割引いた価格で売られていたものの、
違法建築が建っているせいでローンが組めない。
かといって解体、新築したら予算オーバーになる。

そんな、にっちもさっちもいかない条件をにらんだ挙句、
僕はこの三重苦のような違法建築を合法状態にし、
なおかつ「事務所と自宅を兼ねた空間を持ちたい」という
都心ではそうそう実現できない夢を実現させるべく、
リノベーションを試みました。
すると、建築費用は予算内、4500万円に納まった。
合法建築になったのでローンもつけられるようになった。
さらに、夢も叶ってしまった。
新築を建てていたらいずれも、ありえなかったことです。
リノベーションという手法で、複数の課題を重ねて一気に解決できるんだ、
という手応えを感じました。

馬場

なるほど。設計、特にリノベーションは、
課題を解決する行為だとも言えますよね。

嶋田

「医者と弁護士は困ったときに相談されるが、
建築家は調子がいいときに相談される」と小嶋さんはよく言っていましたが、
僕のところに相談してくる施主は基本的に困っているんですね。
困っていることを解決するということは、
社会の課題に接続することでもある。

社会の課題を解くことこそが、僕のやりたかったことなんだと自覚しました。

それから、自分の事務所を立ち上げた後に
みかんぐみ最後の仕事として関わったのは、
鹿児島にあるデパートのリノベーションでした。

馬場

ナガオカケンメイさんがプロデュースを手がけた
「マルヤガーデンズ」ですね?

嶋田

そうです。そもそもは老舗の地場のデパートだった「丸屋」が、
紆余曲折を経て「三越鹿児島店」へと変わり、
それも経営不振で2009年に閉店してしまった。
この、鹿児島市の中心地にある施設の再生計画にみかんぐみが参入したのです。
テナントが去ってしまったこの施設を前に、
これからの時代に社会が求める商業施設とは
一体どういうものだろうかということを根本から構想して、
客やテナントが有機的に交わり合う場を持つ
マルヤガーデンズ」として復活させました。

グリーンに覆われる、現在のマルヤガーデンズの外観(photo:マルヤガーデンズ)。

屋上庭園の「ソラニワ」(photo:マルヤガーデンズ)。

嶋田

思えばマルヤガーデンズのプロジェクトでは、
山崎亮さん、コピーライターの渡辺潤平さん、
映像作家でクリエイティブディレクターの菱川勢一さん、
D&DEPARTMENT PROJECT 代表のナガオカケンメイさんなど、
ずいぶん多くの出会いがありました。なかでも山崎さんの存在は大きかった。
「日本の人口は今後、減る。つまり建物が余り始める。
それなのに、建築家はなぜ新たに建て続けるのか?」

と山崎さんに言われた時には、ひっくり返りそうになりました。
だって僕、磯崎新になろうと思っていたんですよ。
でかい、かっこいい建物を建ててモテてやるって(笑)。
でも、よーく考えてみたら以前から小嶋さんは
「これから日本では新築の仕事は激減するだろう、
リノベーションばかりになるだろう」
と言っていたよな……と、急に思い出したんです。

馬場

つながった!

嶋田

そう! つながった!
これからの日本の軸は、そっち側にある。と、僕が確信した瞬間でした。
小嶋さんよりだいぶ遅いけど(笑)。

空き地のリノベーションで 地方都市を元気に。 WORKVISIONS vol.3

WORKVISIONS vol.3

みなさん、こんにちは! ワークヴィジョンズの西村浩です。
vol.1vol.2に続けて、
今回からは、ひとりの佐賀市民の方からの一本の電話から始まった、
僕の故郷佐賀のまちづくりに話を進めていきたいと思います。
その始まりは、地方都市の行く末を大きく変える
「空き地のリノベーション」という発想でした。

まちをなんとかしたい

ひとりの佐賀市民の方からの電話から、故郷佐賀に足を運んで、
たくさんの市民の方々にお話を聞く機会が増えました。
一般市民の方々に加えて、
佐賀県や佐賀市の行政職員の方々も加わるようになり、
佐賀のまちなかの状況について、
さまざまな視点からお話を聞く事ができました。

僕の両親は、今でも佐賀に住んでいて実家もありますが、
僕自身は、小学校卒業と同時に佐賀を離れてしまったので、
30年ぐらいの時の経過とともに
佐賀がどう変わってきたのかを知るのにとても助かりました。

実は、お電話をいただいた後に、
久しぶりに佐賀のまちなかの商店街に足を運び、その現実に驚いていました。
子どものころの記憶では、
アーケードの中にたくさんのお店がぎゅうぎゅうに軒を連ね、
人で溢れかえる、活気のある商店街です。
昔は、買物と言えば、この商店街に家族と一緒に足を運んだものでした。

昭和30年代の活気あふれる佐賀のまちなか商店街。(上下写真ともに松本功さん所蔵)

ところが、久しぶりに訪れた商店街は、
僕の記憶にあるものとは全く違ったものでした。
アーケードの入口から覗いた商店街は、薄暗く、
ほとんどのお店がシャッターを閉めていて、
商店街の象徴だったアーケードそのものもぼろぼろに塗装が剝がれて、
いまにも朽ち果てそうな状態でした。
いわゆるシャッター通り化しているわけですから、
当然のことながら、人通りもまばら。
僕の記憶にある商店街そのものが消え失せたといってもいい状況で、
とても悲しい気持ちになりました。

2008年ごろの佐賀のまちなかの商店街の様子。

そんな時に、佐賀市から僕のところに
「まちをなんとかしたい」との依頼をいただいたのです。
子どものころ、僕が迷子になった記憶もあるほど活気に溢れていた商店街、
自慢の商店街でしたから、僕も全くの同感。
この時、まちをなんとかしようと強く心に思いました。

この商店街の状況を見て、とても心配なことがあります。
僕自身は、子供のころ、この商店街で両親や兄弟と楽しい時間を過ごし、
たくさんの思い出があります。
ところが今、随分と寂れてしまった商店街には、人々があまり訪れていません。
大人がいないわけですから、
当然、子どもたちもこの商店街にはあまり足を運んでいないわけです。

まちづくりとは、とても時間がかかるものです。
ですから、僕たち大人だけでできることは限られていて、
子どもたちの世代にバトンを渡し続けることが、
まちづくりそのものではないかと思うのです。

ところが、今、まちなかに子どもたちの姿はほとんどありません。
まちの楽しさを経験していない子どもたちが、
将来、僕たちの世代のように「まちをなんとかしたい」と、
果たして思うでしょうか? そうなんです。
今、地方都市のまちなかは、
将来、まちの担い手がいなくなってしまう危機にあるのです。
だから、僕は今、まちなかに子どもたちが
当たり前のように遊びにくる日常を取り戻すには、
どうしたらいいんだろうと、日々考えています。
50年後、100年後も、
「まちをなんとかしたい」と思う仲間がいてくれるように……。

こちらも、2008年ごろの佐賀のまちなかの商店街の様子。

駐車場だらけの地方都市

佐賀のまちなかを歩いていて気づいたことがありました。
ひとつは、先ほどふれたように、
子どものころは、軒を連ねていた商店が軒並みシャッターを下ろしていること。

もうひとつは、空き店舗となった建物が次々と解体され、ついには更地となり、
駐車場として使われていることです。これは、佐賀だけの話ではありません。
車社会の地方都市のほとんどが、今、駐車場だらけ、
スカスカの虫食い状態のまちになってしまっているんです。

循環する大自然でのものづくり  奄美で受け継がれる泥染め

未知なる泥染めとの出会い

繊維の仕事にたずさわる中で、
「泥染め」という言葉に何度か出会ってきたけれど、
生産現場を見たことがなく、その実態はずっとわからないままでした。

言葉の持つイメージが男心をくすぐるので
ゆるく、心に引っかかっていました。

そんなある日、綿織物の産地である兵庫県西脇市に取材で訪れた際に
島田製織株式会社で生地の企画を行う岡島修平さんに
泥染めのことを詳しくお聞きする機会に恵まれました。

岡島さんは、お会いするといつも優しく接してくれる
さわやかな笑顔のお兄さん的存在です。

西脇で働く岡島修平さん。

岡島さんは鹿児島県の奄美大島で、
地元の「大島紬伝統指導センター」の研修生として
伝統工芸品である「大島紬」を学び、なんと、ご自身も泥染めをしていたというのです!

奄美大島について、大島紬について、泥染めについて、
初めて生きたお話を聞くことができました。

大島紬の製織の工程。

まず大島紬というのは、
手で紡いだ絹糸を泥染めして手織りされた絹布のことを呼び、
1300年前から続く日本最古の伝統染織と言われています。
また、ゴブラン織、ペルシャ絨毯と並ぶ世界三大織物のひとつとされています。

大島紬は30から40の工程を経て生地ができあがりますが、
数ある工程の中でも最大の特徴は、
世界でも奄美大島だけで行われているという天然の泥染めです。

「とにかく島が美しいです。
五感が大自然に囲まれる中で行われる緻密な手仕事と
リズミカルな染色風景に惹かれました。
そこから生まれる色に日本独特の温度を感じる」
と、岡島さんは話してくれました。

島に魅了された岡島さんは、
西脇で働くいまも定期的に島を訪れるそうです。
島の方々とは、一緒に地酒を飲んだり、風景を楽しんだり、
波乗りをしたり、島の楽しみ方はたくさんあるとのこと。

そんな話を聞いて、ますます泥染めにも奄美の文化にも興味がわきます。
そこで、岡島さんとも親交の深い、泥染工房「金井工芸」を訪ねることとなりました。

岡島さんから授かった奄美大島に関する資料を片手に
バニラエアが就航する7月(2014年のこと)まで待ち、
成田空港から奄美大島へ飛びました。

現在ある素材で、 新たな環境をつくる。 403architecture [dajiba] vol.2

403architecture [dajiba] vol.2

第2回目のインタビュイーは、第1回目のennの林さん同様、
僕たちが日頃からお付き合いさせていただいている方のひとり。
403architecture [dajiba]を設立して、
おおよそ1年が経つ頃に店舗の改修を依頼していただいた
「手打ち蕎麦 naru」の石田貴齢さん、通称ごりさんです。 
naruは、蕎麦はもちろんそのほかの料理やお酒まで
こだわり抜く本格的なお蕎麦屋さんですが、少し変わった一面も。
蕎麦屋の奥に「conaru」と呼ばれるイベントスペースも運営していて、
ご飯を食べにくる人のほか、さまざまな人が集う場所となっています。
そんなnaruの石田さんとの話を通して、
僕たちのことや僕たちが関わる浜松という都市の状況が垣間見られればと思います。
今回は、彌田が担当します。

自分が見渡せる環境の中で、働く

彌田

お話を伺う前にあれなんですが、第1回目の記事は読んでいただけました?

石田

読みました。読みました。

彌田

どうでした?

石田

いいんじゃない。ありのままって感じで(笑)。今回は何を話す感じなの?

彌田

日頃聞けないことを聞ければうれしいです。
ごりさんと初めて会ったのは、
浜松出身の建築に携わる人が主催した「第1回浜松建築会議」の打ち上げの時です。
途中から来たのに学生のみんなが「ごりさん、ごりさん」と騒ぐのを遠目から見て、
ここらへんのお兄さん的な存在なんだと思いました。

石田

あーちらっとお店に言った時かぁ。
僕は、ちゃんと会ったのって3.11のあとだと思ってた。
でも、辻ちゃん(403architecture [dajiba]のひとり)は
その前から浜松で活動していて、
確か鍵屋ビル(前回登場したマシューが入居するまちなかの古い共同ビル)を
有効利用するとかしないとか、そんな話をした気がする。

彌田

それは、「untenor」としてですね。

※untenorは、辻のほかに、植野聡子さん、吉岡優一さんの3人を中心に、
2010年より浜松を拠点に「教育」と「まち」をテーマに活動するメディアプロジェクト。

石田

そう。で、どのタイミングだったかは忘れちゃったけど、
「4月から独立します」と言われて……。

彌田

僕と橋本がやってきたと。

石田

その時は、建築に使われる材料をリユースして……なんて言っていたよね。

彌田

「マテリアルの流動」ですね(笑)。

石田

「マテリアルの流動」ね(笑)。

手打ち蕎麦 naruの店内で、石田さん(左奥)に話を聞く。

石田

実は、そのとき僕もちょうどリサイクルについて考えていて。
naruをつくった時にいっぱいゴミが出て、それを捨てるのにお金がかかる。
でも、また新しい材を買うわけでしょ?
服とかだと古着として捨てる神あれば拾う神ありだけど、
建築ってすごいゴミを出すんだという実感があった。
でも、気持ちよい場所にするにはつくり変えなきゃいけないし。
そんな時に聞いたから、この子たちは応援しないといけないなと純粋に思ったんです。

彌田

僕らは設立当初、建築の制作過程をそこまで知らないながらも意識していたことは、
一般的には見落とされがちなものを
建築をつくるときの一部として捉えられないかということで。
廃材の活用は、その考えを実践する手法のひとつでした。

石田

そうだよ。dajibaの設立当時だったら、
僕のほうが詳しかったんじゃない? それこそここをつくったばっかりだったし。

彌田

たしか、お店の図面も自分でイラストレーターで描いたと言ってましたよね?

石田

時間がいっぱいあったから(笑)。
あと、普通、施主は現場にいないと思うんだけど、
暇だったから僕はここにいて、大工さんといろいろやり取りしてた。
例えば、キッチンの天井に後々戸棚を吊るかもしれないから
石膏ボードの下地に合板張っといてね。みたいな。
それを現場監理っていうかはわかんないけど。

彌田

そんなのつくり慣れていないとわからないですよ?

石田

年の功というか、手を動かすのが好きだったからね。
小学校の頃につくったラジコンとか。
ラジコンと言ってもサーキットで走らせるような本気の。
速く走らせるためにマシンを改造するんだけど、
そのときにドライバーとかちょっとした工具の使い方を学んだり、
適当にやったら、適当な結果になるということも学んでたんだよね。

彌田

へー。

石田

まぁ、小さい頃から何かをつくるのが好きだったってことかな。
仕事で事務所をつくるときも僕が担当したり、
ニューヨークでマンション借りた時も
棚付けたり、配線を通したり、自分で部屋をDIYしてたんだよね。

彌田

ニューヨークに住んでいたこともあるんですね。
お蕎麦屋さんになる前のお話は、聞く度に
いつも初めてのネタが出てきますね(笑)。
なんでお蕎麦屋さんを始めようと思ったんですか?

石田

それは、人が集まる所で何かをしていたいと思ったのが一番大きな理由かな。
奥さんの実家に帰省する度に、おいしいお蕎麦を食べていたこともあって、
蕎麦が身近なものだったし、
勉強してみたところお蕎麦って賞味期限が短くて、
気を使ってお客さまに出すには
席数はあまり多くできないっていうミニマムな世界だった。
自分が見渡せる中で仕事ができそうっていうのも大きいよね。

彌田

場所は、最初から実家がある浜松だったんですか?

石田

そうだね。今から10年ちょっと前のことだったけど
東京はなんかこれ以上住むと息が詰まる感じがしたんだよね。
あと、蕎麦ってすごいシンプルだから
お客さんの反応がダイレクトに返ってくるのも良いなぁと。
僕、DJもやってたじゃない?
DJの時も曲を変えるとお客さんの反応がすぐ返ってくるし、その辺りは似てるかな。

彌田

あー。そういう感覚はなんとなくわかります。
設計の仕事も打ち合せでお施主さんと直接お話するので、
良い悪いの反応がすぐわかりますね。
「開放的にしたいけどプライバシーは守りたい」と一見矛盾した要望もよくあるので、
提案のバランスはそのやり取りの中で決まっていくことが多いんです。
たしかにそこは面白いですよね。

ダブルローカルの考察、そして雪融けの春。

どちらも自分たちの「地元」

「山ノ家、ときどき東京」と本連載タイトルにもある通り、
私たち gift_は、山ノ家プロジェクトが始動した2012年初夏から、
基本的には、もともとの本拠地であった東京と、
山ノ家がある新潟県南部の豪雪地帯である十日町市とを
往復して、月の半分ずつどちらかで過ごしている。

従来型の、富裕層の人々が田舎に持つ「別荘」でもなく、
一家の主人が単身赴任して、やむなく別宅を設定したりするのとは異なり、
私たちにとって、両方の拠点が自分たちの日々の暮らしと仕事の本拠地、
どちらも自分たちの「地元」=マイ・ローカルだと思って生活し、仕事をしている。
ふたつの、複数の場所を、どちらも同じ重さの、
愛すべき「地元」として行き交うことを
私たちは「ダブルローカル」と命名したのであった。

東京のgift_lab GARAGEで、スタッフが働いている風景。

新潟の山ノ家で、スタッフが働いている風景。

どちらの拠点でも、本当にスタッフに恵まれている。
それぞれ、いろいろな働き方で関わる人がいて、
短いスパンのボランタリー・ワークをしてくれる学生さんたち、
必要なタイミングにバシッとプロの仕事師として活躍してくれるクリエーターたち、
そして、それぞれの地元の隣人助っ人さんたち。
新潟・十日町市松代の 山ノ家 も、東京・清澄白河の gift_lab GARAGE も、
単なる仕事場ではなく、シェアハウスであり、シェアオフィスと認識している。
複数の地元を行き交う生活や、ここで何かが出会い、クロッシングして、
化学反応が生まれて行く状況をシェアする「場」。
とてもささやかな動きではあるけれど、文化交流としか名づけようのない状況が
じわじわと、関わってくれるすべての人たちによって形成されていく現場を、
シャーレの中の培養微生物を見守る研究者のように、歓喜と愛情をもって、
観察させていただいいている毎日である。

シームレスな日常

両拠点のインテリア。確かに似ている……?上がgift_lab GARAGEで、下が山ノ家。

こうした都市文化の拠点と、地方文化の拠点を行き交うことで、
ある種の温度差、落差、ギャップなどを感じないのか?
もしくは時差ぼけのようなものはないのか?
と、いうようなことを聞かれることは多い。
が、ありがたいことに、実は意識したことはほとんどない。

「山ノ家」をつくって行く時に、唯一意識したのは、
これまで自分たちにとって「日常」だった生活感をシームレスに実現させること。
地方の里山に立地するのだから、そこの風土に合わせなくては……
といったことは正直、ほとんど考えなかった。
ヨソモノであり続けることを、当初から、確信的に自覚していた私たちとしては、
その地に単純に同化するつもりはまったくなかったのである。
「そこにあるもの」は、でき得る限り活用してリノベーションしたし、
カフェで出すごはんも食材は地産地消が基本だし、
実は都市の拠点から持ち込んだものはとても限られている。

けれども、「山ノ家」を訪れる人のほとんどは、ここを「東京的」だと言う。
構成成分がどれだけ地元産/里山産でも、使い方が「東京的」なんだろうと思う。
ただ、どうやら、そのこと自体は「排他的」には作用していないらしい。
いまや、ウィークデーの来訪者のほとんどを占める地元のお客さんも、
週末の東京および都市圏からのお客さんも、一様に、「居心地がいい」とおっしゃる。
不思議なものだ。
私たちは、長らく生活し、仕事の糧を得てきた「東京」成分で、
自分たちのふたつの「日常」を構成することで、
シームレスな生活感を目指したのだが、
その場を享受する人々も、都市/里山の区別なく
シームレスに、その場でくつろいでくれている。

なぜだろう? と、折に触れてふと思う。
最大の理由は、たぶん、「無理していない」からなんだろう。
きっと、私たちが無理して地元に合わせていたら、きっとこの場には
とても不自然な気が充満したに違いない。
自分たちにとって自然な状況だからリラックスする。
その空気が、場をともにする人たちとシェアできているんじゃないかと思う。

日常的二拠点間移動の距離感覚について思うこと

さて、状況としてシームレスであるが、東京と新潟県十日町市とは、
物理的には、およそ250km離れている。残念ながら、
“どこでもドア”でワープできるわけではないので、
私たちはかなりその二拠点間を「移動」している。

既存部分をどう残して、どう見せるか?築年数不詳の木造平屋。 ルーヴィス vol.2

ルーヴィス vol.2
駅から遠くボロボロだった平屋が人気賃貸物件に

皆さま、こんにちは。ルーヴィスの福井です。
vol.1では、「古さを、懐かしさにかえる」と題して
手探りでやっていた頃の「みどり荘」のお話をしましたが、
今回は、古い物件でも競争力は新築以上に出せると確認した
「築年数不詳。木造平屋のリノベーション」のお話です。

神奈川、特に東京に近い都市部では
比較的借り手の需要に恵まれた環境にあるとは思いますが、
それでも23区と比較すると、賃貸物件では改修費用もかけにくいですし、
入居者も誘致しにくいと思っています。
非都市部においては、より顕著なものと想像しますが、
そのような厳しい状況下において成功モデルをつくることが、
今後の日本において最も競争力のある先端モデルだと考えています。

そして「みどり荘」から数か月後に、横浜の地主さんから
さらに厳しそうな相談が来ます。

「もう3年ぐらい誰も住んでなくて、貸してもいない物件がある。
困っているわけではないけど、そのままにしておくとどんどん傷んでしまうし、
周りの人にも迷惑掛けちゃうから、どうにかしたい」と。
もちろん喜んで見に行きました。
横浜駅から平坦な道を歩いて20分。大きな道から細い脇道に入っていくと、
道はどんどん細くなり、行き止まりの手前に現れたのが、こちらの平屋です。

外観。

僕が小学生の頃、
みどり荘のようなアパートに住んでいる友達は何人かいましたが、
平屋に住んでいる友達はいませんでした。
そして内部はこのような感じです。

全体的に薄暗く、重苦しい印象だった既存の室内。

床は、もうよくわからない状態にあり、壁の元の色もなんだかわからず、
建物全体から負のオーラが出ていて、
懐かしさは通り越して香ばしい感じでした。
事務所に戻ってきてから、ボロボロの状態の既存写真を
呆然とただただ眺めていた記憶があります。

既存の床は、劣化が激しく水色の養生シートのようなもので少しだけ歩きやすくされていた。

カギが閉まらないぐらい傾いていたサッシ。

当時はまだ、「平屋=取り壊し」というのが当たり前で、
多くの人が直したところでどうにかなるもんじゃないという状況でした。

ただ、建て替えを選択しないのにはオーナーにも理由がありました。
後ろに崖を背負ったこの物件を建て替えようとすると、
セットバックをさせなくてはならず、
現状の建坪10坪強よりもさらに小さくなってしまうため、
建て替えでは費用対効果が得にくいという判断でした。

古民家から考える地域の未来。 一般社団法人ノオト vol.01

一般社団法人ノオト vol.01
丹波篠山で暮らしながら地域づくり

みなさんはじめまして。一般社団法人ノオトの星野新治と申します。
私たちは、兵庫県の丹波篠山を拠点に、
古民家の再生活用と古民家を入口とした地域づくり事業や中間支援などを行っています。
この連載では、ノオトで働くさまざまな立場の担当者が交替で、
私たちの取り組みを紹介していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
第1回目の今回は、ノオトの概要を書いていきます。

私たちの拠点である篠山は、
兵庫県の中東部、京都府と大阪府の県境に位置する、山あいの盆地のまちです。
約400年前に篠山城の築城に伴って形成され、今も城下町の面影が残されています。
市の中心には国指定伝統的建造物群保存地区に選定される歴史的まち並みがあり、
周辺には、丹波栗、丹波黒豆、松茸、ぼたん鍋(猪鍋)など、
豊かな食文化を育む農村地域が広がっています。
しかし、人口減少、空き家、産業の衰退など、地方の多くが抱える課題を同じく抱えています。

私たちは、そんな丹波篠山に暮らしながら、地域づくりに力を入れています。

篠山市河原町地区には、町家が並び、歴史的まち並みが残る伝統的建造物群保存地区。

篠山城跡。

空き家となっている古民家が、地域づくりの鍵となる

私たちの地域づくりの鍵となるのは、空き家となっている古民家です。
古民家の定義は人や場合によってさまざまですが、
概ね築50年以上、特に昭和25年につくられた現在の建築基準法以前の建物のことを
そう呼ぶことが多いようです。
なぜかというと、戦後につくられた建築基準法では、
コンクリートや鉄を中心とした建築に適した基準となっているため、
低層な住宅以外での木造建築の利用可能性はほとんど想定されていません。
つまり、旅館や飲食店など、まちの生業を生み出す用途には、
なかなか使いにくい状況になっています。
そのため、現状ですでに使用しているものを除き、
古民家を住宅以外の用途で使用する場合には、かなりの工夫が必要になっています。
だからと言って、使われずに放置されてしまうのは残念でなりません。
古民家には、これまで積み重ねてきた日本の暮らし方や文化、
時を超えて残る歴史的な空間の力強さ、
そして地域ごとの特色が詰まっていると私たちは考えています。

ものづくりから まちのリノベーションへ。 WORKVISIONS vol.2

WORKVISIONS vol.2

みなさん、こんにちは! ワークヴィジョンズの代表、西村浩です。
vol.1では、僕が倉庫をリノベーションして使っていた、
品川のオフィスについて書きましたが、今回は、その冒頭で少しふれた
「都市のリノベーション」という考えに至るまでについて、書きたいと思います。

分野を超えて行き来すると、都市がみえてきた

リノベーションというと、一般的には古い建物を対象にするイメージがありますが、
本来的な意味は“価値の革新”であって、
建物に限らなくてもいいんじゃないかと僕は考えています。
何か新しく生まれたものは、時の経過とともに物質的に古くなる。
それと同時に当初の存在意義も、どこか社会の価値観とのズレが生じていきます。
古くなってしまったものを、物質的に新品に戻すことはできませんから、
逆にその古さを時間の積み重ねによる“味”と捉えて、ものの古めかしさを生かしつつ、
そこに未来の価値に繋がっていくような使われ方や人との関わり方を、
デザインという武器を駆使しながら、未来へ受け継いでいくことこそが、
リノベーションということではないかと思っています。

そう考えると、建物以外にも、道路や公園、水辺など、
公共の場にもたくさんのリノベーションの対象となるものがありそうですね。
今後、人口が減少し、それにあわせて車も減っていく社会が訪れるとすれば、
車をスムースに通すための道路空間なんかは、もっと歩行者のために開放して、
むしろ公園のような空間にリノベーションしてもいいかもしれません。
その好例としては、ニューヨークのハイラインが有名です。
http://www.thehighline.org/about
もともと、高架の鉄道貨物線だったところですが、1950年代になると、
物流の主流が鉄道による貨物輸送から高速道路を使ったトラック輸送へと移行し、
ニーズの減少に伴って廃線となってしまいました。
長らく使われずに放置されていましたが、この廃線跡地を、
約1.6kmに渡って緑道にリノベーションした空間がハイラインで、
今や市民に人気の憩いの場となっています。
その結果、沿線地域の価値が上昇して、不動産開発が活発化し、
まちの活性化にも大きく貢献したプロジェクトなのです。

整備前のハイラインの様子(公式Webサイトより借用)。

まちの活性化に大きく寄与したハイラインの様子(公式Webサイトより借用)。

小さなリノベーションが、大きなまちづくりにつながる

この醍醐味こそが、リノベーションの意義であり楽しさだと僕は思います。
そして、日本の地方都市の現状は、どこにいってもなかなか元気がない。
まちだって老化する。時代の価値観とのズレを矯正して、
美しく年齢を重ねるまちのあり方を考えることが必要で、
それが“都市のリノベーション”だと考えます。
ひとつの建物に留まらず、都市まで視野を広げて、
そのために必要なことが何かと考えれば、
実は、建築や土木、都市計画とか、そういった分野の壁を越えて、
それらが上手に連携することが大切だと思います。
空き家だらけのストック過剰状態の状況とはいえ、
必要ならば、新築の建物をつくったっていいんじゃないかと思うのです。

一般的にイメージされる建物のリノベーションは、
都市のリノベーションのための手段のひとつだと考えています。
僕は、疲弊し続ける風景をなんとか再生したいという思いから、
どんなプロジェクトにおいても、分野を限定せず、
まちの再生に少しでも貢献できるアイデアを探すようにしています。
そして、都市に関わるさまざまな分野同士や、
そこに込められるアイデア同士がいかに密に連携できるかというところに、
都市のリノベーションの効果が現れると思っています。
これからの時代を支える価値の革新をもたらすリノベーションの勘所は、
分野と分野の隙間にあるような気がします。

都市のリノベーションは、分野同士の連携が大切。

ある都市で建築をつくるということ。 403architecture [dajiba] vol.1

403architecture [dajiba] vol.1 
見知らぬ土地、浜松を拠点にした理由

403architecture [dajiba]は、今から4年ほど前に
彌田徹、辻琢磨、そしてわたくし橋本健史によって設立されました。
静岡県の浜松市を拠点に活動をしています。
事務所から徒歩圏内にプロジェクトが集中しているなど、
ちょっと一般的な建築設計事務所とは違った仕事の仕方をしています。
この連載のテーマにもなっている「リノベ」の仕事も多い傾向にありますが、
ただ、手法としての「リノベ」を重視しているというよりは、
もう少し根本的な問題として、建築をつくるときの、
都市への関わり方について模索している、というのが率直な認識です。

そこで、僕らの仕事をより具体的に説明するために、
今回の連載企画では、クライアントである浜松のまちのみなさんへの
連続インタビューを行っていきたいと思っています。
そこから、パートナーとしての関わりを超えて、
僕らが浜松という都市そのものとどのように関わっているのかを
お伝えすることができればと思っています。

第1回目のインタビュイーは、浜松市の中心街で
美容室「enn」を営む、林 久展さんです。
ennは、浜松駅からほど近い、古いビルの1室にあり、
夫婦ふたりで営まれています。
林さんは403architecture [dajiba]として正式に活動を始める前から、
僕らをご存知で、最初のふたつのプロジェクトのクライアントです。
今回のインタビューでは、
普段と同じように(途中から)髪をカットしてもらいながら、お話をお聞きしました。

橋本

今回は第1回目なので、
「そもそもどんなかたちで僕らが浜松にやってきたか」
というところから振り返っていきます。
思い返してみると、初めてお会いしたのはお店の隣の空き室で、
ワークショップをやった時でしたよね? 
2010年、僕らはまだ大学院を修了したばかりの頃でした。
このビルのある通りに増えていた空きテナントをいくつかお借りして、
地元の静岡文化芸術大学(以下、文芸大)の学生のみなさんに、
なんらかのインスタレーションを制作してもらう、
というワークショップを運営した時です。覚えてます?

覚えてる覚えてる。

橋本

それまで、文芸大の学生との接点はありましたか?

あったよ。naruっ子(クライアントでもある「naru蕎麦」のバイトの総称。
次回店主にインタビュー予定)とか。
あと、今30歳くらいになる子たちとは面識あって、
このビルの屋上で小屋みたいなのつくってたな。
接点と言ってもピンポイントだけどね。
文芸大も当時は、今みたいな子たちじゃなくて、
僕の知ってる子たちはもうちょっとこう、ガテン系っていうか。

橋本

ガテン系?

「あれつくろう」というノリでやってる。
でも今の子たちはもうちょっと理論というか、
頭で考えてるような気がする。

橋本

学生の雰囲気や印象って、変わってきたと感じます?

それはあるね。でも、なんか世の中が、全体的になのかな。
建築は前から、そんな感じなのかもしれないけど。

橋本

いやー、建築も同じかもしれないですね。
最近はあんまり手で考える、みたいな人は少ないような気がします。
それよりは、もうちょっと社会貢献というか。このあいだ、久しぶりに
学生の卒業設計をまとめて見る機会があったんですけど、
災害対策とか高齢化とか、
あるいは廃施設の再利用というようなテーマを扱ったものが、ほとんどでした。

そうだよねえ。これつくりたいから、これつくる、みたいなのないよね。

橋本

あんまりそういう人はいないですね。文芸大の子が、というよりは、
日本全体の傾向なのかもしれません。あのワークショップのときは、
2010年で、いまほどそういった気運もなかったと思います。
でもそのときのシンポジウムには、
山崎亮さんが登壇されていたりしたんですけどね。
いずれにしても、林さんは僕らが「建築」の奴らだということは、
ご存知だったと思うんです。
空き室を使ったインスタレーションのサポートをしていることについて、
何か疑問などはありませんでしたか? 
変な奴らが来た、的な。

うーん。わかんないけど。今までにはない流れを持ってるな、
とは思ったかなぁ。
この界隈で生活をしている僕は、ライブや写真展とか、
なんとなく自分が興味があるもので人と関わってきたけど、
「建築」をベースに新しく人と関わるということはなかったから。
建築=建物を建てる、という感覚だったし、
少なからず学生が集まってくるのを見たとき、自分にはない感覚だった。

橋本

建物を建てるわけでもないのに「建築」の子って集まるんだ、みたいな? 
確かに、よく集まってくれましたよね。ちょっと前まで学生だった、
何者でもない奴らがぞろぞろやってきて、
「空き店舗に何かつくりませんか?」って言ってても、あやしさ満点ですし。
それでも、僕らもそうだし文芸大の学生にとっても
まず、浜松のことをちゃんと知る機会にしたかったというのはあります。
最初からインスタレーションをつくることありきだった訳でもなくて、
空きスペースのリサーチをやってみてから、いくつかの店舗スペースを
お借りできそうだったので、それなら学生主体で何か所か同時にやったほうが
インパクトもあるだろうと思っていました。

あと、建築の人との関わりっていうと、かっちゃんとかね。

橋本

かっちゃん?

家成さん(家成俊勝さん。大阪の設計事務所dot architects共同主宰)。

橋本

ああー! それはいつ頃の話で、どういうかたちで知り合ったんですか?

ここ(美容室ennの内装)をつくったとき。
当時、翼(大東翼さん。元dot architects共同主宰。
浜松にて「株式会社大と小とレフ」設立)
と家成さんがやっていた仕事の廃材が、ここの床の材料になりそうだったから、
家成さんの家、神戸まで取りに行ったんだよね。13年前になるかな。

橋本

ここの床の材料は神戸から来たんですね! 
13年前なら、僕も明石にいた頃です。そんなところでニアミスしているとは。
そう考えると、この床もずいぶんと歴史があるんですねー。

※ここで、突然マシュー(マシュー・ライアンさん。先日完成したばかりの
ゲストルームのクライアント。第4回目にインタビュー予定)がやってくる。

マシュー

ハーイ。ハッピーパディス!

橋本

パディ?

マシュー

ハッピー・パディス! 知らない? 
セイント・パトリックス・デイ(聖パトリックの祝日。この日は3月17日。
アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの命日)。
アイルランドの、飲み会の日。
グリーン着てる?(たまたま筆者は深緑のシャツを着ていたので)
ハシはセーフだね。
アメリカでは、今日グリーンをつけてないと、つねられるよ。

橋本

へえー。

※マシューはドイツの編集者と林さんを取り次いでいるらしく、
諸所相談しにきた。その間しばし待機。

マシュー

邪魔してごめんね! 今日は何してんの?

橋本

林さんにインタビューしてる。
僕らが関わったクライアントに話を聞く企画で、
マシューのとこにもそのうち行くよ。そんときはよろしくお願いしまーす。
月イチの企画だから、数か月後になるけど。

マシュー

待ってマス。

※マシュー帰る。以後はカットをしてもらいながらのインタビュー。

じゃーそろそろ切るか。

橋本

そうですね。お願いします。

雪のタイムカプセルから「茶もっこ」復活へ!

雪室、冬の間だけのタイムカプセル

アルゼンチンのアーティストユニット「メフンヘ」が、
冬の松代、山ノ家を拠点にフィールドワークを重ねる中で出会い、魅了された、
雪国の食品保存技術である「雪室」。
雪中に食品を埋めて保存することで、冷凍でもなく冷蔵でもない、
絶妙なチルド温度帯の中でじっくりと低温熟成して、食品を越冬させる雪室保存法。

雪の上に、かろうじて顔を出す目印のトーテムポール。

さて、「メフンヘ」のふたりが雪室というタイムカプセルに埋めた物体とは……?

どぶろく! でした。

この越後妻有の地は、魚沼産コシヒカリを産出する米どころでもあり、
地酒もとても美味。なかでも、ふたりはどぶろくが大のお気に入り。
これを雪中熟成させたらどうなるんだろう?と、お正月から滞在した後、
1月中旬に、そっとそれを雪中に埋め込んで、
来る春分の日に再び戻ってくることを誓って、
当時拠点にしていた九州は別府に戻って行ったのであった。

地元名物創作料理開発から、地元の冬イベント出店!

そのころ、山ノ家では、当地の名物料理を創作すべく、
メフンヘたちの雪室保存フィールドワークと並行して、
研究対象となった、この地の伝統料理「いちょっぱ汁」のフィールドワークを
シェフ ミナコさんが精力的に行っていたのでありました。

ミナコさん。

当初は、各家庭ごとに存在する製法を丁寧にヒアリングしていたものの、
このように多様に製法が存在するならば、どれが正解というものではない、
自分の舌がおいしいと感じる味がおいしいのだ、という確信に至り、
比較的濃いめの、いかにも雪国らしい当地風の味付けではない、
上品な薄味の、自分スタイルの「いちょっぱ汁」に到達。
そして、もうひとつの研究課題であった、やはり地元特産の「蕎麦」。
麺類としての蕎麦にこだわらず、何とマフィンに仕立て上げた。

香ばしい蕎麦粉と胡桃のマフィン。ころころとクッキーサイズに造形。

1月中に、山ノ家を含む松代の飲食店オーナーたちが、
ほとんど毎週繰り広げたお互いの試作発表・試食会は、
かなりのサプライズな「作品」の連続で、
伝統的な「いちょっぱ汁」を餃子の皮に包んだ小籠包仕立てなどなど、
この地の料理人たちの、何ともユニークな、とめどない発想力に絶句し、爆笑する日々。

この試食会への参加を通じて、もともと、飲食業が本業ではなかった
現地立ち上げメンバーの3人の女子たちは、
めでたく、地元飲食業界に仲間入りを果たしていたのでありました。

そして、迎えた「松代新名物創作料理発表会」は、大盛況!

いったい、この見渡す限りの雪の壁の中のどこにひそんでいたのであろうか?
という元気な地元のみなさんが、まつだい駅に直結する市民ホール、
その名も「常春ホール」に続々と集結し、
用意した試作たちはあっという間にあとかたもなく消費され、
私たちも、100メートル走を疾走した後のような心地よい疲労感に包まれて初の発表会を終了。

冬の空にひるがえる山ノ家のぼり!

そのおよそ、1か月後に、せっかくおいしく作った、
この山ノ家オリジナルいちょっぱ汁を、
冬の地元催事としては最大のイベント「冬の陣」(これも説明すると長いのだが、
まつだい駅から見える小高い丘の上に立つ松代城を征服する雪上トライアスロン
のようなもので、全国からトライアスラーが大挙して参加する名物イベント)
の屋台村にも初出店!

なんせ、人生史上、山ノ家女子たちは、屋台出店など経験がない。
右も左もわからぬまま、かなり手探りで準備して、
現場では、のぼりも自分たちで立てられないことをからかわれながらも、
山ノ家の良き隣人、鈴木家に手取り足取り助けられて、何とか決行。
この後も、毎年、この連合チームで出展準備するのが恒例となったのであった。

そして、雪は降りつもる

申し遅れましたが、当地では、2月中旬の「十日町雪祭り」に始まり、
その後およそ1か月、毎週末が次から次へと、息つく暇もなく
各地でさまざまな「雪」イベントが繰り広げられている。
そのような冬のイベントを、ふうふうと、こなしている間に春分が近づいてくる。
気がつけば、そうか3月も下旬なのだ、となる。
降雪期にこれでもかと雪で遊んでいるうちに春の足音がしてくるなんて、なかなかいい。
雪に閉じ込められて、落ち込んでいる暇などないのだ。
これも雪国をサバイバルする智恵なのかもしれない。

そして、雪は当地の人の心をつなぐ架け橋でもあるのである。

古さを、懐かしさにかえる。 ルーヴィス vol.1

ルーヴィス vol.1
アンティーク家具メンテナンスの経験から。

みなさま、こんにちは。ルーヴィスの福井と申します。
僕は、神奈川県、横浜を拠点に
横浜、東京、湘南エリア、ときどき千葉の内房の古い建物の改修工事をしています。
個人や法人のお客さまからの依頼で
デザインと施工の両方をさせてもらう時もあれば、
設計事務所からの依頼で施工だけをさせてもらう時もあり、
関わり方はさまざまですが、カテゴリーでいうと工務店だと思っています。

僕自身はリノベーションの仕事における立ち位置に特にこだわりはなく、
クライアントのニーズに合わせて
ポジショニングを微調整しながら携わっています。
クライアントからよく「結局、ルーヴィスは何屋なの?」とよく聞かれるので、
この連載では、自己紹介を含めて、考え方や活動について書いていきます。
お付き合い、どうぞよろしくお願い致します!

そもそも、僕は建築を学んだこともなく、
設計事務所で働いたことも工務店で働いたこともない、アウトサイダーです。
そんな僕がなぜリノベーションの仕事を始めたのか。
15年ほど前に、当時東京の目黒通りにあった「ACME FURNITURE」
(http://acme.co.jp/ )というインテリアショップに勤めていました。
ACMEでの仕事は主に中古家具のメンテナンスだったのですが、
3か月に1度、カリフォルニアに中古家具の仕入れにも行かせてもらっていました。
フリーマーケットやアンティークモール、
リサイクルショップやインテリアショップをまわって、
1930年代〜1980年代ぐらいの中古家具や雑貨を仕入れ、
40フィートのコンテナを満載にして日本へ送り、
メンテナンスをして販売する仕事です。

アメリカ最大規模のフリーマーケットのひとつ、ロサンゼルスの「Rose Bowl Flea Market」。

仕入れた時に、コンディションの悪い家具も、
組み直したり塗装をし直したりすると、
生産当時のよさがよみがえり、今また新しくつくろうと思っても
コストや材料の問題で実現することができない価値があり、
当時から人気がありました。
今思えば、「古くてもボロボロでも直し続ければ価値は持続する」という感覚が、ACME時代に培われていたのだと思います。
その後、26歳の時に僕は父親の誘いもあり、
横浜にある実家の不動産会社に転職をします。

増え続ける、古い管理物件の空き室

不動産会社では、主に賃貸管理に携わっていました。
管理物件の中でも、築30年以上のものになると空室が多く、
賃料を下がり続けなくてはならないとなると、
運営維持も入居者を見つけるのにも苦労していました。
当時(いまから約10年前)、横浜でも空き家や空室は増え始めており、
「空室対策」というものを色々とやっていました。
と言ってもリノベーションなどではなく、家具付きの物件にしてみたり、
入居者を紹介してくれるほかの不動産会社に広告料を払ったり、
マンスリーマンションをやってみたりという感じでした。
そんなことを続ける中で、漠然とした疑問が出てきます。
「家具は直せば価値が上がるのに、不動産はなんでだめなんだろう?」
ということです。

家具は消費財だからか? いや、家具の中でも消費財ではないものは価値がある。
日本は地震が多いから古くなったら建て替えないといけないのか?
いや、100年以上建っている家だってある……。
という感じで疑問が疑問を呼び、
自分の目で、自分の体で検証してみたくなったのです。

萩の小さな美容院「kilico」。 medicala vol.6

medicala vol.6
縁のあるまちの、もうひとつのリノベーション

前回は大分県竹田市のイタリアンレストラン『Osteria e Bar RecaD』を紹介しました。
オープン以来、大盛況みたいで地元の人はもちろん、
遠方からのお客さんもたくさん来ていて盛り上がっているみたいです。

さて、今回は山口県萩市に先日(2015年3月1日)オープンした、
美容院「kilico(キリコ)」についてご紹介します。
RecaDが完成したのが2014年の12月で、
kilicoの着工をしたのが2015年1月4日。
僕らmedicalaは2日遅れて6日から萩に入りました。

kilicoのオーナーは内田直己(通称うんちょ)。28歳です。
2014年12月末まで山口市内の美容院に勤め、店長を経験後、
地元の山口県萩市にて独立して美容院を開業するためにUターンしてきました。
僕とうんちょとの出会いはゲストハウス「ruco」の改装工事中に
髪を切りにきてくれたことが始まりでした。

うんちょに髪を切ってもらってる写真。

萩にrucoができたからかどうかは定かではありませんが、
rucoがオープンしてほどなく彼は独立を決意して萩市内で物件を探し始めたようです。
そんな時、
「rucoができて、通りが明るくなって嬉しい!
という話を地元の人たちからよく聞くようになった。
実際rucoができるまではこの通りは、夜は暗いし、何も無い通りになってしまっていた。
rucoがきっかけで萩の中のこの近辺にお店ができて、少しずつまちに明かりが灯りだす。
そういう風景を夢見ている。ここから萩を元気にしたい」

というrucoのオーナーのひとり、塩くんの思いを聞いて、
うんちょはrucoから徒歩1分以内の空き店舗に出店を決めました。

rucoとkilicoの位置がわかる写真。左奥の赤っぽく錆びている店舗が工事前のkilico。右の茶色い4階建てのビルがruco。

実は今回の物件はrucoの改装当時は塩くんの友達が営んでいた古着屋さんで、
改装中に塩くんや僕がうんちょに裏庭で青空カットしてもらっていた場所。
なんだか幸先がいい感じです。

コンセプトは「めんどくさい店」

今回の施工メンバーは僕らmedicala、
rucoの棟梁だった大工の入江 真さん(通称マコさん)、
家具は同じくrucoでも家具をつくってくれた中原忠弦さん(通称チュウゲンさん)、
rucoのオーナーのひとり、秋本崇人(通称アッキー)、
そして信州大学の大学院生の福田真享くん(通称ふくちゃん)が
インターンとして来てくれました。

着工の1か月ほど前、rucoの2階にマコさん、チュウゲンさん、
medicala、そしてオーナーのうんちょの5人で集まって打ち合わせをしました。
デザインや工事の前に、
「どういうお店にしたいのか?」という根本的な部分をメインに話をしました。
どういうお店にするのか? どういう人に来てほしいのか? どうして独立するのか?
何年続ける覚悟があるのか? どんな接客をしたいのか?
そんなことを話しました。

rucoの2階での打ち合わせ風景。

打ち合わせが進んでいくなかで、medicalaにとって初めての美容院ということもあり、
必要な設備や導線などについて、うんちょにヒアリング。
美容備品の収納、バックヤードの広さ、など使い勝手について話が進むなか、
大工のマコさんからゆっくりと出た言葉は、

「内田君、めんどくさい店にしよう」
このマコさんのひと言がkilicoをどういうお店にするか決定づけ、
プロジェクトが目指す方向を見つけて動き出した瞬間でした。それは、
「どういう内装のお店にしたいか?」ということよりも、
もっともっと大切なこと。

kilicoは、カット席ひとつだけの小さな美容院。
シャンプーから、カットもカラーもパーマもブローまで、
全部うんちょがひとりでやる美容院です。
地元の萩市で、これから多店舗展開することなく、
ひとつのお店を何十年も守っていく覚悟のうんちょ。
だから、大事なのは働き手が便利で効率がよく生産性が高いことではなく、
働き手の所作ひとつ、お店のつくりひとつで、お客さんのことを、お店のことを
大切に思っていることが訪れたひとに伝わること。
来てくれたお客さんに対して、何ができるか? どう過ごしてほしいのか?
それをゆっくりと考えたお店づくりをしていこう。

おいしい東北パッケージデザイン展

デザインが伝えられること

東京ミッドタウン内の「デザインハブ」で
3月6日からスタートした「おいしい東北パッケージデザイン展 in Tokyo」。
東北の食品メーカーがつくる10商品のパッケージデザインを、
全国から公募し、選ばれた受賞作品と入選作品270点を展示している。
東北経済産業局による、
「平成26年度TOHOKUデザイン創造・活用支援事業」として、
日本グラフィックデザイナー協会(以下JAGDA)により
デザインコンペが行われ、
昨年12月の仙台での展示に続いて東京での開催となる。
このプロジェクトが最終的に目指すところは、
企業とデザイナーのマッチング。
優秀作品のデザインは、今後、実際の商品化が進められていくという。

さて、展示されているのはたくさんの公募のなかから選ばれし精鋭たち。
審査会は、昨年11月に行われた。

審査会で並べられた応募作品。

事前に与えられた企業の希望や商品の特徴など、限られた情報をもとに、
応募者は、思い思いにデザイン。
届いた総数はなんと、623点にのぼった!
この企画を牽引するアートディレクターの福島 治さんは、
予想を超える応募数に驚きつつも、
「素晴らしい作品がたくさん届いてうれしい」と喜んでいた。
福島さんは2011年よりJAGDAの被災地支援プロジェクトなどを
企画・プロデュース。
「震災後、数えきれないほど東北を旅する機会が増えました。
東北に根づく魅力が僕のなかで次第に大きくなっていき、
何か力になれることはないかと、その想いはますます強くなっています」
と福島さんは話し、今回のプロジェクト開催へとつながった。

“デザインの力によって東北地域の魅力をより強く発信したい”
という思いから、考案された今回のパッケージデザインの公募。
地域の商品パッケージには、どんなデザインが選ばれるのか。
ワクワクしながら、コロカル編集部もその審査会へお邪魔した。

審査会場となった、JAGDA事務局の隣のデザインハブに並べられた
多数の応募作品。その風景は圧巻だった!
どのデザインが選ばれるのかと、思わずキョロキョロしてしまう。

集まった審査員は、地域のデザインやパッケージデザインを手がけてきた、
実績と経験のある方々ばかり。
仙台を拠点に東北のデザインを手がけるアートディレクターの畠山 敏さん、
地域デザインのパイオニア、デザイナーの梅原 真さん、
日本パッケージデザイン協会理事長を務める、加藤芳夫さん、
地域のお菓子メーカーのリデザインなどの実績を持つ、
グラフィックデザイナーの左合ひとみさん、
そして、前述の福島さん、参加メーカー、東北経済産業局が加わった。
参加メーカーの代表者が審査に加わることによって、
本当に納得のできるデザインを商品化するのが狙いである。
みなさん、並べられた応募作品をひとつひとつじっくり見てまわり、
色違いの付せんで票を入れていくという投票方法。
数の多いものが選ばれるが、
満場一致で選ばれるものもあれば、意見が分かれるものもあった。

審査中の様子。

デザインに込められる、さまざまな視点。

たとえば、宮城県の八葉水産がつくる「みちのく塩辛」は、
さまざまな意見交換がされた商品のひとつ。

同社の新商品で、りんごの粉末が加えられた甘い味わいの塩辛。
本当は、東日本大震災が起こる少し前に発売されたものだったが、
販売2週間後に東日本大震災が発生。工場が被災してしまった。
工場を復活させ、ようやく販売再開へと準備をしているところだ。

1回目の投票後、審査員の方々からメーカーさんへ質問が出る。

「販売価格はいくらですか?」
――400円です。

「土地に足を運んでくれた人へのお土産的要素を強く出したいのか、
あるいは地元の人に日常的に親しまれたいのか?」
――お土産というよりは、まずは日常的に愛されるような商品に。
ただ、これは今までにない味だと思っているので、
たくさんの人に手にとってもらえるような商品になっていきたいですね。

価格帯、販売ターゲットなどは、デザインに大きく影響するという。
お土産であれば、少し強めのキャラクター性があったほうがいいし、
日常的に買うものであれば、親しみやすいデザインがいい。

再投票の結果、3作品が残った。
「商品の特徴は、甘さ。塩辛だけど、従来の塩辛ではないこの味を、
どう伝えられるかというところだと思うんです」と加藤さんは指摘する。
審査員たちからは「とてもおいしかった」と好評価を得たが、
消費者にとっては、まだ誰も味わったことのないだろう、塩辛の味。
“塩辛”だけど、“りんご”の甘さが効いている。
これをどうデザインで表現すべきか。

3作品のうち、下記の2点は“りんご”と“塩辛”の特徴をそれぞれ顕著に表していた。

ひとつは、誰もが塩辛だと思えるような味わい深いパッケージで、
もう一方は特徴であるりんごの印象が強い可愛らしいデザイン。
ただこちらは塩辛というよりは、お菓子かな?と連想してしまうのも事実。
「それを解決するのは、ネーミングという場合もあります。
たとえば、“みちのくりんご塩辛”としてもいい」と話すのは梅原さん。
写真左の作品を指し、
「こちらに“りんご”というハンコを押したようなデザインだけでも伝わる。
いずれのデザインでも、まだ詰めるべき課題がありますね」と続けた。
さらに、実用化される場合、手作業が発生するのでは? 印刷方法は?
など具体的な意見が交わされ、再度決戦投票へ。
結果、僅差であったが、
上記の2点ではなく、パッケージ構造の精度の高さから、
別のデザインが優秀作品に選ばれた。

写真提供:JAGDA

大川の木工産業に、新たな販路を。 エトウのものづくり

九州のヒノキを使ってつくる、子ども向け家具

清潔感あふれるやわらかいピンク色の木肌に、
ビタミンカラーのオレンジが可愛い二段ベッド。
触り心地のよいヒノキの無垢材でつくられていて、
枕元には小さな本棚のしつらえも。
こんな遊び心ある二段ベッドが子ども部屋にあったら、
創造力あふれる時間を過ごせるに違いない。

こちらは、家具のまち福岡県大川市で、
家具や木製サッシ、住宅などの事業を展開する株式会社エトウが、
2014年秋に発表した、熊本のヒノキ材を使った「KOTOKA」シリーズ。
家具のまちで根づいてきたよいものづくりを海外へも発信しようというのだ。

KOTOKAは大川で行われた家具の展示会で財務大臣賞を受賞した。

エトウは、大正9年に製材所として創業。
大川は、福岡県中部を横断し有明海へと流れ出る筑後川の下流域にあり、
上流には、木材の産地として知られる大分県日田市がある。
「昔は木材を筏に組んで、筑後川を下り大川の港まで運んでいました。
大川は木材の集積地であり、さまざまな物資や船が集まるまちでした」
と教えてくれたのは、現在の社長、江藤義行さん。

社長業の傍ら、大川商工会議所副会頭や大川木材事業協同組合理事長も務め、地元産業の発展に力を注いでいる。

船が集まれば、船をつくりだす船大工も必要となる。
家具のまちとして知られる大川の歴史を辿れば、
実は、船大工の技術を生かして指物を始めたのが出発点と言われている。
タンスなどのいわゆる“箱もの”を得意とし、
製材所、建具屋、木材加工、道具を磨く研磨屋、塗装、塗料販売まで、
あらゆる作業が工程ごとに
各メーカーに分業化され家具製造がまちの産業として発達してきた。
そして、起こったバブル崩壊。
江藤社長はやさしい表情をゆがめながら、
「地元で活躍していた、たくさんの中小企業が
倒産、廃業に追い込まれたのは事実ですね。
製材所もほとんどなくなってしまいました」と語る。

当時エトウでも自社で製材した木材の販路拡大のためにも、
低迷した地元の家具工場を引き受け、家具製造業をスタートさせるなど、
なんとか、自社と大川の木材産業を盛り上げてきた。
以来、地元メーカーの技術を生かしながら、
エトウは商品を企画し、それらの販路開拓を担ってきた。
現在は、家具などの輸出入事業も手がけている。

実は近年、台湾や韓国で注目されつつある木材が、日本のヒノキ。
さらに、日本の丁寧なものづくりも評価されている。
エトウでは台湾からの発注があったこともあり、昨年から輸出も視野に入れた、
九州産のヒノキを使った家具づくりをスタートさせた。

はじまりは、 品川の倉庫リノベーション。 豊かな発想力の源に。 WORKVISIONS vol.1

WORKVISIONS vol.1
巨大な模型をつくれるスペースを求めてお引っ越し

みなさん、はじめまして! ワークヴィジョンズの代表、西村 浩です。
今回から、6回にわたり、僕のリノベ論と実際の活動について
お話をしたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

まずは、自己紹介から。ワークヴィジョンズは、
東京の品川と僕の故郷佐賀市に拠点を持つアトリエ系設計事務所ですが、
少々変わったスタンスで仕事をしています。
というのも、僕自身は、建築家を名乗っていますが、実は、大学は土木の出身。
大学時代は、景観や土木構造物のデザインについて学んでいました。
そんな経歴から、ワークヴィジョンズの仕事は、建築だけでなく、
河川や道路、公園などの土木分野のデザインの仕事も多くあります。
スケールが大きいものでは、なんと巨大なダムのデザインなんかもありましたし、
近年では、さまざまな分野の総体である都市、
特に地方都市の再生に関わることも増えてきました。

土木から建築へ、そして「都市のリノベーション」へと繋がる活動の展開と
そのいきさつについては、次回以降、詳しく書きたいと思っていますが、
巨大なスケールの土木構造物を相手にしなければならなくなったことが、
僕らのアトリエのあり方を大きく変えました。

ご想像のとおり、模型が恐ろしくでかいのです(笑)。

僕は、1999年に独立し、ワークヴィジョンズを設立。
最初は間借りの小さなスペースではじめました。
その後、何度か引っ越しを経験した後、いよいよ手狭になり、
2015年に改めて引越し先を探さなければならなくなりました。
でかい模型をつくれるスペースに。

巨大な土木の模型。つくったものの、大きすぎて部屋から出せなくなったことも。

ある雑誌との衝撃的な出会い

とはいえ、東京で広いオフィスなんて、駅から遠いか郊外か、
利便性の高い都心ならば家賃が高くてとても手がでません。
広くて安くて自由に使える物件はないものかと悩んでいるときに、
1冊の雑誌に出会いました。

それは、スペースデザイン1999年10月号(通称:SD 9910)、
「東京リノベーション」という特集です。

SD 9910の表紙。EXIT metal work supply 通称作業場の写真。ほんとにかっこいい。

表紙は、大きな倉庫をリノベーションした、
EXIT metal work supplyの事務所+工場+ギャラリー+倉庫で、
超かっこいい!!
中をめくると、同じく倉庫のような修理工場をリノベーションした、
Klein Dytham architectureの元オフィスだったDeluxeほか、
東京の空き倉庫マップまで掲載されています。

SD 9910の東京空き倉庫/工場マップ。

僕にとっては、「リノベーション」という言葉にはじめて触れた瞬間でしたし、
何より、倉庫や工場がここまでかっこよく、クリエイティブな空間に変わってしまうことに、
とても感動したことを覚えています。
ですから、このSD9910は、僕の中ではとても大切な1冊で、
僕の意識を変えてくれた雑誌だと思っています。
残念ながら、このSDは廃刊になってしまいましたので、
今やなかなか手に入らない雑誌ですが、
お勧めの1冊ですから、古本屋でぜひ探してみてください!

東京を南へ!ようやく出合えたおんぼろの倉庫

僕にとって記念碑的な存在となったこの雑誌との出合いから、
僕の頭の中は、倉庫にアトリエを構えるイメージしかありませんでした。

というわけで、早速スタッフの車で、憧れの倉庫探しの旅へ!

スタッフのみんなと物件探しの旅に。みんなやんちゃでした(笑)。

路地奥・広場付きの長屋から 「ともにつくる」コミュニティへ。 HAPS vol.6

HAPS vol.6

トンネル路地を抜けると、その奥には長屋群と広場が広がっています。
京都市東山区本町。京都駅の東に鴨川を渡り、三十三間堂のご近所です。
HAPSからも南方向に徒歩圏内。このまちなかにひっそりと佇む、
路地奥の長屋8軒とその奥に広がる350㎡もの広場を、
一体化させ活用しようというプロジェクトが始まっています。
名付けて「本町エスコーラ」。

トンネル路地をくぐり、路地奥長屋へ

HAPSが不動産業者とのネットワークを広げようと動いていた中で知り合った、
若山不動産・若山正治さんから2013年夏頃に紹介していただいた物件でした。
おそらく戦後になって建てられた、
路地奥、風呂なし・汲み取りトイレ・一部共同トイレの長屋8軒。
若山さんいわく、京都でよく見かけられる「典型的な空き家物件」。

このトンネル路地を抜けると、長屋と広場が広がっている。

路地奥で再建築ができないという物件が多い京都。
高齢化、空き家率も京都市内で最も高いエリア、東山区にある
ここもそのケースのひとつ。
現在ぽっかりと広場になっている部分にはかつては工場が建っていました。
広場の北側には20軒ほどの別の長屋群もあるので、
活用するとなると近隣の住民の方たちの理解が必要となってきます。

長屋部分の敷地面積はおよそ70平米。便宜上8軒の長屋としていますが、
6軒は元々上下階あわせて3戸分の長屋だった間取。
1戸分を上下2軒に分けられたり、1階の間取を2軒に分けられたりしているようです。
さらにイレギュラーに向きの違う1軒が連なり、離れが1軒あります。
年を経て幾重にも改築が重ねられた様子が窺えました。
これは、長屋部分に工場で働く人々が住んでいた時期に、
より多くの住まいを確保するために行われた改修と想像されます。
さらに新たに建て直すことはできないものの、建物は修繕を必要とし、
その予算の捻出が必要な状態でした。
土地や建物が相続などを経て複数名で共同所有となっていることも、
新たな借り手の募集にあたり状況を複雑にしていました。
つまり、一般的な不動産の流通にはのれない物件です。

若山さんからは、美大などの団体に、
「柔軟かつクリエイティブに使ってもらえたら」いう期待をよせ、
HAPSへ一括での運用を探ってほしいというのです。
条件としては、地域との関係を大切にしてほしいということ。

若山不動産・若山正治さん。

HAPSでは、面白いことができる可能性があるのではと、
関心を持ってもらえる方々と何度も下見に行ってはみるものの、
規模の大きさと改修にかかる費用を想定すると、
具体的な話まで至らず、時間ばかりが過ぎました。

リノベが生み出す、未来。 シーンデザイン一級建築士事務所 vol.06

シーンデザイン一級建築士事務所 vol.06

“リノベーションをサポートする「リノベ基地」をつくりたい”
そんなマイルームの倉石さんの妄想から始まった、長野市善光寺門前、東町の
倉庫群の再生プロジェクト「SHINKOJIプロジェクト」は、
文具卸売会社の事務所ビルを含む倉庫群、
計4棟を対象としたリノベーションプロジェクトで、
まちなかで増えつつある空き家再生の拠点になる、
「リノベ基地」となることがコンセプトです。

2014年4月に、北棟、西棟、南棟、東棟の4棟ある建物のうち、
まずは北棟がオープンしました。(前回vol.05参照)

使われなくなった古い事務所ビルをリノベしてできた北棟は門前界隈でも話題となり、
それまでほとんど人通りがなかった新小路(SHINKOJI)に、
少しずつ賑わいが戻ってきました。

シーンデザイン一級建築士事務所の連載が最終回となる今回は、
北棟に続くSHINKOJIプロジェクトの現在と、
今後の展開についてお話ししようと思います。

長野リノベーションシンポジウム

2014年7月、北棟のOPENに続き、西棟に【SHINKOJIアトリエ】が完成し、
アート作品の制作や教室、事務所として利用できる、
ものづくりをする人のためのシェアアトリエが運営を開始しました。
2014年10月には、北棟と西棟をメイン会場とした
アートイベント「SHINKOJI ARTS」と、
リノベ工事が途中の南棟で「長野リノベーションシンポジウム」が同時開催されました。

ご近所の松葉屋家具店のイベント「マルクトプラッツ」も同じ日に行われたため、
周辺のエリア全体で大変賑やかなイベントとなりました。
長野リノベーションシンポジウムは、リノベ工事途中の“現場”を会場にしたことで、
わかりやすく、その一端を垣間見せることができたのではないかと思います。

リノベ工事途中の南棟で行われた「長野リノベーションシンポジウム」。

その後、南棟がオープンしたのは2014年12月のこと。
南棟は、4棟のなかでも中心的な役割を担う建物として計画され、
「東町ベース」という呼び名も決まりました。
東町ベースは、2階にCAMP不動産のメンバーがオフィスを構え、
3階の倉庫にストックした廃材や建具など使い、
1階の作業場で職人たちが加工するという、新しいリノベーション基地を目指しています。

東町ベース3階の倉庫にストックされている古家具や建具。

東町ベースの1階の作業場。

CAMP不動産メンバーで最初にできた南棟のmanz-desginのオフィス。

地元の新名物創作料理、 そしてアルゼンチンからの来客

「GARAGE」走る!

昨秋、東京拠点の事務所・gift_labを恵比寿から清澄白河に移していたわれら。
デザイン事務所としてはこの新たな地で既に稼働していたのですが、
2015年2月7日、新拠点 gift_lab GARAGEに併設した、
LOUNGE & EXHIBIT(カフェ&ギャラリーショップ)が
ようやくグランドオープンにこぎつけました!

GARAGE グランドオープニングの様子。

山ノ家の人気メニュー、妻有豚のキーマカレーと旬菜のキッシュをメインに
「ほぼ山ノ家」のメニューを元気に提供しています。
地酒や手作りのどぶろく、雪下にんじんのジュースなど、
越後妻有で私たちが出会ったおいしいものを味わっていただけます。
山ノ家でそこはかとなく「東京」を楽しんでいただけるとしたら、
ここでは、そこはかとなく越後の「里山」を楽しんでいただけるのではないかと。

まったく何の地縁もなくスタートした山ノ家同様、このGARAGEも
「清洲寮」(GARAGEが1階に入居した、同潤会アパートメントと同年に
建てられたレトロな集合住宅)とばったり出会ったがゆえに、
何の地縁もなく、ここ清澄白河に「入植」したわれら。
本当にありがたいことに、山ノ家がある十日町市松代地区同様、
ここでも地域のみなさんの温かいサポートやネットワークに支えられて
一歩、一歩、ですが、おおむね順調に走り出しました。

グランドオープニングに駆けつけてくださった、
東京の旧拠点恵比寿で出会った方々、
私たちのこうした現在のライフスタイルを方向づけたとも言える
CET(セントラルイースト東京)プロジェクトで出会った面々、
そして、山ノ家の立ち上げを通じて出会えたみんな、
新拠点清澄白河で出会えた地域の方々、
そうしたさまざまな局面と場所で出会えたすべてが
一同に集う状況を目の当たりにすると、山ノ家とgift_lab GARAGE、
里山と東京を行き交う拠点として、双方交流の場を持つ、
呼応する「場」がつくれたことをとてもうれしく思いつつ、
ふたつの「場」がそれぞれに生まれていったことは、
必然であったのだろうかとも感じる今日このごろです。

地元の新名物創作料理開発に参画?

少し雪をかぶった山ノ家。

さて、ここで、2012年初冬の「山ノ家」に時計を戻します。
11月下旬、山ノ家初の地域連携イベント「米をめぐるワークショップ」が
さまざまな幸運に助けられて、何とか活況に遂行できた。
何かがひとつ動き始めると、シンクロニシティが起きるものらしく
秋の間、晴れわたった透きとおるような里山の青空とは裏腹に、
しんみりとどんよりと静まり返っていた山ノ家がにわかに活気づいていく。

実は、「米をめぐるワークショップ」の直前の準備をバタバタと
慣れない手つきで進めていたさなか、地元老舗の蕎麦製造業を営む
「日の出そば」の瀬沼さんがひょっこりと山ノ家を訪れ、
ある相談を持ちかけて来たのでありました。

「このあたりの食材を使って“新しい地元名物の創作料理をつくろう!”
というプロジェクトがあるのだが、おまえたちもいっしょにやらないかい?」
(と、このあたりの方言で話しかけられたのであるが、うまく再現できないため、
まったく臨場感はないのだが「通訳」しています。すみません)

え、私たちのような新参者が参加してよいのでしょうか……?

まちにできた 小さなイタリアンレストラン。 地元を元気にしたい店主の思い。 medicala vol.5

medicala vol.5
水のまちのイタリアンは本場さながら

前回はマスヤゲストハウス後編ということで、
解体古材を使ったリノベーションの面白さについて書きました。

今回紹介するのはつい最近、2014年11月〜12月の上旬にかけて
施工に入ったプロジェクト。
大分県竹田市のまちの中心、
四つ角にある元クリーニング屋さんの建物をリノベーションした、
イタリアンレストラン「Osteria e Bar RecaD(通称リカド)」のお話です。

「Osteria e Bar」とは、イタリア語で「気軽なレストランとバー」という意味。
カジュアルに訪れてもらいたいという思いに加え、
「RecaD」とは、「Re=角」の意味で、「マチカドの再生」を表しています。

つまり、コンセプトは「人々が集うマチカドの再生」。

昔と比べて活気がなくなってしまった竹田のまちを
「この場所から元気にしてきますよー!」
というオーナーの想いから、このレストランは生まれました。
オーナーは、桑島孝彦さん。
僕らは愛を込めて「クワマン」呼んでいます。

こちらがクワマン。竹田の市内で行われるイベントに出店しているときの様子。

1982年3月生まれの33歳です(2014年12月時)。
東京のイタリアンレストランで修業後、
2012年に「地元竹田市を面白くしたい!」とUターン。
竹田に帰ってきてからは、実家が営む「お米とお酒のくわしま」を手伝いながら、
移住者に空き家を紹介する仕事をしたり、
地元のイベントに屋台を出店したりと、竹田の中でいろいろ動きながら、
ゲストハウス(!?)を始めるために物件を探していました。

そうなんです。もともとクワマンがやりたかったのはゲストハウス。
クワマンと僕は東京のゲストハウスで知り合い、
その後、連載でも紹介したNui.や、
rucoの工事に手伝いにきてくれたクワマンに、
「アズくんにいつか竹田のゲストハウスのデザインをしてほしい」
と声をかけてもらいました。

しかし、なかなかゲストハウスに合うような物件が見つからない。
Uターンして2年経った頃、
レストランにするとちょうどいい物件に出会えたクワマン。
そこで、まずはイタリアンレストランから始めてみることに方向転換!
今回のプロジェクトが始まりました。
もちろん、志はゲストハウスをしようと考えていたころと変わらず、
「竹田を面白くしたい」ということ。

少し話が変わりますが、僕らは常々、
人がまちを訪れるには「3つの理由」が必要だと思っています。
例えば、会いたい人がいる、行ってみたい場所がある、
行ってみたいお店がある、食べたいものがある……など。
なんでもいいのだけれど、3つくらい理由があると、
じゃあ実際に行ってみようか、となりやすい。
会いたい人がひとりいても、
行ってみたい場所がひとつあっても、
わざわざそこまで足を伸ばすまでにはいかないことが多いのではと。

僕らにとって竹田市は、
会いたい人=クワマンがいる、
行ってみたいところ=ラムネ温泉(後ほど詳しく)がある。
しかし、僕たちがそれまで持っていた理由はふたつだけだったから、
なかなかいく機会がなかったのですが、
今回、物件が見つかったタイミングにたまたま九州にいたので
「近くまできたから」という3つ目の理由を携え、
ようやく初めて竹田を訪ねました。

竹田市の紹介を少し。
大分県竹田市は、大分市と熊本県阿蘇市のちょうど真ん中あたりにあります。
どちらからも車で1時間かからないくらい。
市町村合併のため、その面積は大きく、
また集落が分散されているためひとつの集落に多くの人が集中しておらず、
人口密度は52.6人/㎢(平成22年度、竹田市統計より)。
ちなみに長野県下諏訪町は313人/㎢(平成25年データ、下諏訪町統計より)、
東京23区は14,693人/km²(平成27年1月現在、東京都統計より)。
竹田市の人口は下諏訪と同じ規模の約2万3千人。
日本の市の中で見ると75歳以上の高齢化率は全国2位。
(合併前は全国1位だったみたいです)
そんなお年寄りが多いまちですが、
昨年地域おこし協力隊を18人を受け入れたり、
移住者やUターン者がいたり、アーティストインレジデンスを行っていたりと、
まちづくりへの取り組みが活発なまちでもあります。

文化的な遺産としては、難攻不落の城であった「岡城址」が有名です。
(よく天空の城のある竹田城があると勘違いされますが、
竹田城は兵庫県、竹田市は岡城)
クワマン曰く「岡城に攻め込むつもりで行ってみるとスゴさがわかるよ」
と説明するくらい、岡城は強い城だったそうです。
また、滝廉太郎の「荒城の月」の舞台は岡城であることも有名です。
(「荒城の月」が流れるトンネルがまちなかにある)

個人的には、藤森照信さんの設計した「ラムネ温泉」があったので、
竹田市は行ってみたいまちのひとつでした。
焼杉の外壁、銅葺きの屋根の可愛いかたちをした建築です。

ラムネ温泉。

後からわかった竹田の魅力は、なんと言っても「水が豊富」なこと。
竹田市は広いので、市内のいろんな場所で温泉に入れます。しかも安い。
そして、湧き水もたくさんあります。
「竹田湧水群」という場所があり、数種類の湧き水が楽しめ、
それぞれ味が違うため地元の人は「お気に入りの湧き水」があったりします。

竹田市の紹介はこれくらいにして、
オーナーの紹介と、プロジェクトの経緯について説明します。

クワマンが見つけた物件が、こちら。

工事前の外観。