連載
posted:2015.5.14 from:東京都豊島区 genre:活性化と創生
〈 この連載・企画は… 〉
地域を見つめることで新しい日本が見えてくる。
新しい視座で日本の地域を再発見していく人にインタビューする新ローカル論。
writer's profile
Miori Baba
馬場未織
ライター。NPO法人南房総リパブリック理事長。平日は東京、週末は南房総の里山で暮らすという「二地域居住」をはじめて今年で9年目。3人の子を育てているほか、犬、ネコ、オウム、キジ、サンショウウオ、イモリ、淡水魚、昆虫など何でも飼う。将来飼いたいのはゾウ。著書に『 週末は田舎暮らし~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』など。
credit
撮影:水野昭子
人が減り、空き家が増え、元気のなくなってしまったまち。
日本のそこかしこで見られるようになったそんなまちを、
リノベーションという手法によって再生させる。
これを先陣切って実践し、普及させ、
建築、不動産関係者や全国の行政から
熱い視線を浴びているのは
東京都豊島区で「らいおん建築事務所」を主宰する嶋田洋平さんです。
彼は、実に多くのまちづくりプログラムの運営に関わっています。
遊休案件の事業化を実践で学ぶ「リノベーションスクール」、
民間型のまちづくり事業会社「北九州家守舎」、
同じく「都電家守舎」、
まち再生のための総合的なプログラムを提供する「リノベリング」。
一体、彼はどんな考えに支えられてこれらを生み出し、動かし、
人々を巻き込み続けているのだろうか。
それがどうしても知りたくて、インタビューをお願いしたら、
4時間にもわたるものに。
ここに記すのは建築家を志した北九州の若者が、
“リノベーションまちづくり”を確立するまでの半生記です。
(取材中にふらっと訪れた、「都電家守舎」の青木 純さんも登場します)
(聞き手:馬場未織)
馬場
先日、嶋田さんの若い頃の写真を目にする機会がありました。
模型を掲げる横顔はまさに建築家を目指す若者で、
オシャレでアンニュイな文化系男子という雰囲気が
かっこよくて驚いたのですが、建築家を目指したきっかけは何だったのですか?
嶋田
まあね、その頃は髪もふさふさでしたしね(笑)。
いや、僕は北九州の出身なんですが、
大分出身の建築家・磯崎 新さんの建築作品が九州にいくつかあって、
高校時代にゴミ拾いのボランティアで彼の設計した北九州市立美術館に行ったときに
「でかくてかっこいい建物だなあ、こういうのをつくったらモテるだろうなあ!」
と、つくづく思ったんです。
磯崎 新みたいな世界的なスーパースターになれば絶対モテる、
という思い込みが、建築家を志したきっかけです。
馬場
不純な動機ですが、ある意味、純粋な高校生ですね。
嶋田
田舎で育ち、モテることだけを純粋に追求して決めた進路ですからね!
なおかつ理系でデザインに興味があったため、
東京理科大学の理工学部建築学科に入学。小嶋一浩さんの研究室に入りました。
小嶋さんは、ユニットで活動する、
建築設計事務所「シーラカンス」を主宰する建築家。
当時の僕には、小嶋さんの一挙手一投足がむちゃくちゃかっこよく見えました。
コム・デ・ギャルソン着て、
「きみだって、自分の髪はオシャレな人に切ってもらいたいでしょ。
家を頼む建築家も、同じだよ」と言われると、すごく説得力があって。
馬場
東京に出てきてそんな建築家に会ったら、
確かにカルチャーショックを受けますよね。
嶋田
影響されまくって、
僕も大学院時代からみかんぐみに在籍した頃まで、
全身コム・デ・ギャルソンでキメてました(笑)。
その頃、小嶋さんが言っていたことは、今でも強烈に心に残っています。
たとえば「世の中はフィクションだ」という言葉。
「貨幣経済そのものが“フィクション”なんだよ。
そういう社会の中で何かつくろうとするのだから、
ポジティブでいいんじゃないか?
フィクションの上にフィクションを重ねているだけなんだから」
と言われたときは、痺れましたね。
また、修士1年の頃には、
「これから日本では新築の仕事は激減するだろう。
リノベーションばかりになっているだろう。
建物を建てたいなら、海外に行け。中国、アジアに出て行け」
と言われていました。
当時は僕、その言葉がどうもピンとこなかったんですけれどね。
馬場
その後、就職はしたのですか?
嶋田
はい。海外にポートフォリオを持って飛び出していく友だちを横目で見ながら、
自分はどうしようかなあ、組織事務所には入りたくないし、
入りたい事務所も特にないし……と考えていたときに、
4人のユニットで設計活動をする「みかんぐみ」という建築事務所で
働くのはどうかと勧められて、所員になりました。メンバーの出身地を見ると、
曽我部昌史さんは福岡出身、加茂紀和子さんは北九州市の小倉出身だった。
そのことに何となく背中を押されたかんじがあります。
馬場
みかんぐみでも、全身コム・デ・ギャルソンだったのですか?
嶋田
一転して、ユニクロ・スニーカー・フリース・ダウンといういでたちが
デフォルトの環境になりました(笑)。
それがみかんぐみのスタイルだったのです。
ですので僕も最近は、すっかりその路線ですね。
みかんぐみは、発想の原点もプロジェクトの進め方も
シーラカンスとまったく違ったので、僕にとってはとても新鮮でした。
この事務所は、ほかの人が思いつかないようなアイデアを出して、
相手をワクワクさせればその案が通る、というやり方をしていました。
上下関係も関係なく。これは燃えますよね。
さあ、みんなが唸る案を出してやろう! ってね。
ただ、所員という立場では、
業務をこなすためのいろいろなワザを習得しなきゃならなかった。
ボス4人がそれぞれ、昨日と今日で言うことも考えることも違う、
という一貫性のない状態に臨機応変に対応するワザです(笑)。
額面通りに言葉を捉えていると、本当に混乱するんです。
でもね、僕はこの、毎日言うことの違う4人のメンバーを
「病気の一症状」と見立てるようにした(笑)。
そうしたら振り回されることもなくなり、心も消耗しない。
しかも場数を踏んでいくと、病的な発言でもないことがわかってきた。
含意やニュアンスをよーく聞き分けていくと、
彼らの言外の、暗黙のコミュニケーションが読み取れるようになり、
会話の優先順位も見えてきたんです。そんな日々を送っていたら、
むちゃくちゃコミュニケーション能力が高くなりました。
馬場
すみません、
そんな繊細な技を持っている方だとは思っていませんでした!
通じないとすぐ怒っちゃうようなタイプかと。
嶋田
いやいや、本当は僕、そういう丁寧なコミュニケーションができるんですよ。
でもね、そういうあうんの呼吸をほかの人にも求めるところがある。
自分の出す指示が雑になることがあり、そこは反省しています。
馬場
事務所を辞めたきっかけは、なんでしたか?
嶋田
当時の建築事務所は、所員は3~5年で辞めて、
独立するというのが一般的なスタイルでしたが、
気がつけば、入所して6年目になっていました。
事務所の大多数の所員を統括して、
いくつもあるプロジェクトの現場を仕切るのは実質的に僕になっていました。
自分の思うように仕事ができて、居心地は最高にいいですよね。
しかも、2006年に電撃入籍し、子どももできて子育てが楽しくなって。
生活を支える収入も、チーフという立場になって大分安定してきたという状態。
そんな環境がもう本当に……ダサくてダサくて(笑)。僕は常々、
「アトリエの番頭ほどカッコ悪いものはない!」と思っていましたから。
いつ辞めよう、とタイミングを見計らい、
さあ今日いよいよ相談しようと思っていたら、なんとまったく同じ日、
タッチの差で同僚の吉岡寛之さん(イロイロトリドリ代表)が
「辞めようと思います」とボスたちに先に相談してしまった。
その直後に僕も、
「みかんぐみを辞めさせていただきたいと思っている相談を
させていただきたいんですが……ダメですよね?」と持ちかけると、
間髪を入れず「ダメ」と即刻突き返されました(笑)。
いよいよみかんぐみを辞めることになったのは、
結局2010年になってからでしたが、
辞める宣言した直後、これまでバリバリ働いて家計を分担していた奥さんが
ふたり目を妊娠。……ナイスタイミングですよ、本当に。
まあそれでも、辞めた。辞めると同時に「らいおん建築事務所」をつくり、
すぐスタッフをひとり雇いました。
スタッフを雇うことで、本気度が増すから。
馬場
そこからキッパリ、個人で仕事をとるようになったのですか?
嶋田
実は、みかんぐみに在籍しながら、
個人で受けていた仕事がいくつかありました。
そのひとつは、後から思えば僕の未来を左右することになった、
文京区にある「白山の家」です。
嶋田
2009年の夏、都心に暮らしたいと考えている30代のご夫婦から
「自分たちの住みたい住まいが新築でまったく見つからない」
と相談がありました。そこで、古家付きの土地の購入を勧めました。
見つかったのですが、いろいろ問題があって。
その土地には、増改築を繰り返した結果、建築物が敷地からはみ出していて、
法律の基準からは容積率も、建蔽率もオーバーしている、
バリバリの違法建築があったんです。
解体費を割引いた価格で売られていたものの、
違法建築が建っているせいでローンが組めない。
かといって解体、新築したら予算オーバーになる。
そんな、にっちもさっちもいかない条件をにらんだ挙句、
僕はこの三重苦のような違法建築を合法状態にし、
なおかつ「事務所と自宅を兼ねた空間を持ちたい」という
都心ではそうそう実現できない夢を実現させるべく、
リノベーションを試みました。
すると、建築費用は予算内、4500万円に納まった。
合法建築になったのでローンもつけられるようになった。
さらに、夢も叶ってしまった。
新築を建てていたらいずれも、ありえなかったことです。
リノベーションという手法で、複数の課題を重ねて一気に解決できるんだ、
という手応えを感じました。
馬場
なるほど。設計、特にリノベーションは、
課題を解決する行為だとも言えますよね。
嶋田
「医者と弁護士は困ったときに相談されるが、
建築家は調子がいいときに相談される」と小嶋さんはよく言っていましたが、
僕のところに相談してくる施主は基本的に困っているんですね。
困っていることを解決するということは、
社会の課題に接続することでもある。
社会の課題を解くことこそが、僕のやりたかったことなんだと自覚しました。
それから、自分の事務所を立ち上げた後に
みかんぐみ最後の仕事として関わったのは、
鹿児島にあるデパートのリノベーションでした。
馬場
ナガオカケンメイさんがプロデュースを手がけた
「マルヤガーデンズ」ですね?
嶋田
そうです。そもそもは老舗の地場のデパートだった「丸屋」が、
紆余曲折を経て「三越鹿児島店」へと変わり、
それも経営不振で2009年に閉店してしまった。
この、鹿児島市の中心地にある施設の再生計画にみかんぐみが参入したのです。
テナントが去ってしまったこの施設を前に、
これからの時代に社会が求める商業施設とは
一体どういうものだろうかということを根本から構想して、
客やテナントが有機的に交わり合う場を持つ
「マルヤガーデンズ」として復活させました。
嶋田
思えばマルヤガーデンズのプロジェクトでは、
山崎亮さん、コピーライターの渡辺潤平さん、
映像作家でクリエイティブディレクターの菱川勢一さん、
D&DEPARTMENT PROJECT 代表のナガオカケンメイさんなど、
ずいぶん多くの出会いがありました。なかでも山崎さんの存在は大きかった。
「日本の人口は今後、減る。つまり建物が余り始める。
それなのに、建築家はなぜ新たに建て続けるのか?」
と山崎さんに言われた時には、ひっくり返りそうになりました。
だって僕、磯崎新になろうと思っていたんですよ。
でかい、かっこいい建物を建ててモテてやるって(笑)。
でも、よーく考えてみたら以前から小嶋さんは
「これから日本では新築の仕事は激減するだろう、
リノベーションばかりになるだろう」
と言っていたよな……と、急に思い出したんです。
馬場
つながった!
嶋田
そう! つながった!
これからの日本の軸は、そっち側にある。と、僕が確信した瞬間でした。
小嶋さんよりだいぶ遅いけど(笑)。
Page 2
馬場
「白山の家」「マルヤガーデンズ」を経て、
リノベーションを中心に据えた嶋田さんの活動は、
その後どんな展開を迎えましたか?
嶋田
ちょうどこの頃、福岡県北九州市の小倉というところにある、
僕がよく知る「中屋ビル」について父から気になる話を聞きました。
小倉は市の中心地で、僕は少し離れた黒崎というまちで育ちました。
高校生の頃は、繁華街と言えば、
小倉の魚町銀天街で、そこにある「中屋ビル」はかつての遊び場でした。
地下にはゲーム機が数十台置かれていてすごく賑わっていた。
最盛期には、地下部だけの売上が月間2400万円あったというのですから、
相当な賑わいですよね。でも時代は変化し、
中屋ビルの1階から4階までを占めていた和光(衣料店)が
2010年には全撤退してしまいました。そして父が、このビルの進退について、
オーナーの梯さんから相談を受けているというのです。
嶋田
リーマンショック直後だったこの頃、
丸屋しかり、地方都市のそこかしこで同様な事態が起きていると思いました。
しかも、こうやってできた巨大な空テナントビルには
もう大手のチェーン店すら入らないのです。
昔と変わらず小倉魚町の家賃は高いから、
現実的にチェーン店しか借りられないまちになってしまいます。
そうやってまち全体がチェーン店だらけの風景になる。
まちに個性がなくなってしまったあと、
どんどん人通りが減ってしまった商店街のお店は売り上げが下がります。
するとチェーン店は小倉に思い入れはないので、すぐに撤退してしまいます。
「これは中屋ビルだけの問題じゃない、まちの問題として捉えるべきだ」
と、僕は直観しました。
チェーン店だらけのまちを誰が歩きたいですかね?
このまちで働きたいと思いますかね?
本当は、ここにしかない、
ここにこないと出会えないものをつくるべきなんです。
そうすれば人が集まってきて、まちに新陳代謝が生まれるはずなんです。
馬場
歩きたくなる、働きたくなるまちづくり。
嶋田
そうです。郊外に大手ショッピングモールができたから商店街が衰退した、
なんていう話をよく聞きますが、
それだけが理由じゃないはずだと思っています。
北九州市はかつて、重工業で大いに栄えた地域ですが、
産業構造が変化していくことで雇用が減り、まちから人が減りました。
1979年に約107万人いた住民は、2010年には約98万人に、
そのうち新日鉄八幡製鐵所(現:新日鉄住金 八幡製鉄所)の企業職員は
7万人から2800人に減ったというデータもあります。
質の高い雇用者層がごっそりいなくなったわけです。
働けないまちになったから、衰退したんです。
つまり、衰退を食い止め、まちに活気を取り戻したいのであれば、
これからの時代にフィットした「都市型産業」を
新たに生み出していく必要があるわけです。
そんな考えをまとめたものが、
都市再生プロデューサーの清水義次さん(アフターヌーンソサエティ)が
プロデュースし、行政や不動産オーナーやまちの人や大学教員など、
小倉のまちづくりに関わる、
さまざまなステークホルダーの人たちとの議論を重ねつくり上げ、
2011年2月に北九州市が策定した戦略的都市政策「小倉家守構想」です。
馬場
小倉の、家守?
嶋田
江戸時代には「家守」という職業があったんです。
長屋の大家のことですが、
それだけではなくまち全体のマネージャーのような仕事をする。
「小倉家守構想」では、
廃れていた小倉の商店街の空き家や空き店舗を活用して、
そこから新しいビジネスを生み出し、働く人を育て、
質の高い雇用をもう一度生み出してコミュニティを再生させるという構想を、
現代の家守の仕事として掲げています。
このストーリーが絵に描いた餅で終わっちゃしょうがない。
と、小倉家守構想のリードする事業として、中屋ビルをリノベーションして、
クリエイティブな利用を促す、
「メルカート三番街」というプロジェクトが立ち上がりました。
お金のない若きクリエイターたちもここで起業できるように、
家賃を相場の半額程度まで引き下げたら、
30代の若者がここをアトリエとして利用したり、お店を開けるようになった。
そして、チェーン店ではないショップも開店できた。
彼らを中心に魚町サンロード商店街全体、地域全体は盛り上がりを見せて、
歩行者は、なんと以前の4割増しになったんです。
馬場
4割増し! そんなに明確に、まちって変われるものなんですね。
嶋田
これが、魚町再生のリーディングプロジェクトとなり、
全国からここを見にたくさんの人が視察にも来るようになりました。
今では何でもない平日でも賑やかです。
嶋田
また同時期に、建築に関わるさまざまな人たちの研究活動の場であるHEAD研究会が
「既存建築や既存環境の活用」を目指して進めていた、
リノベーションシンポジウム@北九州の中で、
「リノベーション大喜利」というイベントを行っていました。
北九州に実在する物件を対象としたリノベーション提案を
グループに分かれて短期間に集中して行い、審査されるというものです。
これが、今全国で展開している「リノベーションスクール」の原型になったわけです。
馬場
リノベーションスクールについては、
最近メディアにたくさん取り上げられていますね。
まちづくりに関わりたい人たちがこぞって受講していると評判ですが、
一体どんなプロジェクトなんですか?
嶋田
リノベーションスクールも清水さんの発案です。
参加者をいくつかのユニットに分け、
ユニットマスターとともに、1ユニットにつき1案件、
実在の遊休案件のリノベーションの事業計画を考えるというプログラムです。
ミッションは
「物件のあるスモールエリアを物件の再生を通じて劇的に変化させる」こと。
基本的に4日間で行われ、
最終日に案件オーナーに対して事業アイデアをプレゼンテーションします。
そしてもし、このプレゼンを聞いてオーナーが事業化に乗り気になった場合は、
北九州のリノベーションスクールの場合は
「北九州家守舎」がそれをフォローして実現させていきます。
馬場
事業化をフォローしてくれる組織があるんですか?!
嶋田
そう、「北九州家守舎」は、
リノベーションスクールで生まれたアイデアの実現をフォローする会社です。
僕らのリノベーションまちづくりの師ともいえる清水義次さんから
「現代の家守たれ!」という教えをもらい、それをちゃんと実践しようと
4人のパートナーで10万円ずつ出資して(僕は20万出したけど)設立しました。
嶋田と遠矢弘毅さん(「cafe causa」オーナー)の共同代表で、
ほかに徳田光広さん(九州工業大学准教授)、
片岡寛之さん(北九州市立大学准教授)という、
職業も得意分野も違う4人のパートナーがいます。
嶋田
この会社では、平たく言うと、
僕は、実現化のために資金を工面するために東奔西走しています。
行政の補助金は、使わない。
補助金を使うくらいなら借金をする。
補助金を使うことで、事業者の自立心が削がれ、
事業そのものが骨抜きになっていき、
結果、事業の継続性がなくなるという事態をたくさん見ていますから。
馬場
実際に、実事業化したものはあるのですか?
嶋田
今のところ、小倉では17のプロジェクトが実現しています。
コワーキングスペース「MIKAGE1881」、シェアハウス「COCLASS」など
次々と新しい事業が生まれ続け、380人以上の新規雇用者を生み出しているんです。
リノベーションスクールはまさに、「実践」の場です。
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馬場
働いて稼ぐことの健やかさを、とても大事にしていますよね。
嶋田
僕は、実家が「らいおん食堂」という飲食店を運営していたこともあり、
どんな事業も“商売”として成り立ってなんぼという気持ちがあるんですよね。
「貧乏でもいい、いい作品をつくる建築家でありたい」
という風にはまったく思わない。
本気で商売を考えることは、本気で生きる場をつくることだからです。
リノベーションを通じて新しいビジネスを生み出し、
それをまちづくりにつなげようと考える僕のまわりの人たちは、
みんな本気でビジネスを考え、
本気で面白いことを考え、本気でふざける真面目さを持っています。
だから気持ちがいい付き合いができるんですよね。
もちろん僕も超のつく真面目です。
……本当だって!
馬場
北九州出身の嶋田さんですが、
東京ではここ、雑司が谷が拠点なのですよね。
嶋田
そう。住まいも仕事場も、豊島区雑司が谷です。
みかんぐみに勤めていた時に結婚したんですが、
その頃は世田谷の等々力というところに住んでいて、
僕は横浜にある事務所に電車通勤、
奥さんは和光市の会社に自動車通勤していました。
奥さんの妊娠を機に引っ越すことにしたんですが、
まだ副都心線が開通する前で、
開通したらみなとみらい線―東横線―副都心線―東武東上線が直通となり、
横浜と和光市が一本で繋がることを知った。
ということは、「これ、おれたちの電車じゃん!」と。
そこで早速、その沿線で、ふたりの職場の中間地点の雑司が谷に住むことにしました。
職場は近いほうがいいから、ここらいおん建築事務所は、家から徒歩1分です(笑)。
職住近接でしょ?
嶋田
……あ、もう昼ですね、早いなあ。あぶくりでサンドイッチ、つくってもらおう。
馬場
「あぶくり」とは、嶋田さんの奥さまが経営しているカフェですよね。
いつからやっていらっしゃるんですか?
嶋田
開業してから今年で、丸3年ですね。
自動車開発の仕事をしていた奥さんが産休明けに職場復帰したら、
二者択一の壁にぶつかったんです。
「がっつり働いて子どもを保育園に預けっぱなしにする」
もしくは「開発業務をあきらめて時短勤務で働く」の、どちらかを選べと。
その間にある、子育てしながら面白い仕事をする、
という働き方の選択肢がないわけです。
「あなたばっかり思う存分仕事して、わたしばかりこんなに悩んで」
と愚痴を言われるようになったので
「一度しかない人生なのに、
文句ばっかり言って働くような会社なら、辞めちゃえば?」
と言ったら、本当に辞めちゃった(笑)。
それで、自宅から徒歩1分のところにサンドイッチ屋「あぶくり」を始めました。
お母さんたちの活動できる朝から夕方までを開店時間にしていましたが、
最近、夜営業もできるようになりました。
嶋田
僕たち夫婦は、子育てしながら働く難しさに直面したけれど、
これって個人的な問題というより社会全体が抱える悩みだなと痛感しました。
お母さんたちが働きながらも安心して子育てして暮らすことができるまちにすること。
これが、大きな課題のひとつだってね。
馬場
東京の地元への関わりも、深くなりますね。
嶋田
いやあ、実は僕、北九州でリノベーションまちづくりに腐心しながら
ずっと、内心ビクビクしていたんです。
「嶋田さん、小倉ではいろいろ言ったりやったりしていますけど、
自分のまちでは何やってるの?」
と、いつか言われるんじゃないかって。
自分の今立っている足元のエリアにもっと関りたいと、思い続けていました。
あるとき、娘の保育園のママ友から、
自分の親がオーナーの築45年の
「目白ホワイトマンション」が空室だらけで困っていると相談されました。
通常、賃貸マンションは古くなるほど価値が下がるから、
当然、空室は増えていきますよね。たとえばこのマンションは、
ヴィンテージマンションみたいな風情がすごく素敵なのに、
そういう魅力は価値として打ち出されていなかった。
そこで僕は、竣工時の雰囲気を残す部屋を1室自分で借りて、
居住希望のある若い女性に転貸し、
彼女のほしい暮らしが実現する部屋をDIYでつくってしまうことを考えました。
彼女と、オーナーと、僕と、プロのビルダーという4人で一緒にね。
また、そのDIYのプロセスをワークショップにしてみたんです。
すると、この企画がいい入居者募集宣伝になり瞬く間に
空室6戸が満室になった。
これが、「目白ホワイトマンションmemento」のプロジェクトです。
馬場
通常はオーナーがお金を出して、原状回復とクリーニングをして、
家賃で回収しますよね。mementoの場合は、
どんな仕組みでリノベーションのお金を調達したのですか?
嶋田
初期コストは、オーナー・入居者・らいおん建築事務所という
三者が分担します。
家賃収入の6~7割はらいおんがもらい、3~4割はオーナーに返す。
そもそも収入のない物件だったのだから、
オーナーにも充分メリットがありますよね。
初期コスト分を回収し終わった後は、徐々にこちらの割合を下げていき、
自走できるようになるまで併走します。
嶋田
これまで建築家は「つくって終わり」だった。
でもそれだと、お金をかけてつくったほうが
設計料が高くなって得だということにしかならなくて、
あとのことは考えずにつくり続けることになる。自分が出資すれば、
いいものを安くつくっていい事業をすることを本気で考えるでしょ。
オーナーも事業者も建築家も稼いだ分だけもらえるという条件を共有して、
みんなで同じ方向を向くことができるプロセスをつくり出し、本気度も共有する。
そのほうがずっと健全だし、
社会がシュリンクしていく時代に合った方法だと思います。
馬場
賃貸マンションの借り手をつけるというプロセスに、
今までやられていなかったことがこんなに盛り込めるんですね!
嶋田
まちには空室だらけの賃貸マンションが増え続けているのに、
一方で、ありきたりの賃貸物件では満足できない住み手も増えている。
このふたつの問題を重ねて一気に解決する手法を、
mementoは示せたと思うんです。
こういうプロジェクトをたくさん生み出して、
僕たちの住んでいるまちを楽しくしたい。そのためにつくった会社が「都電家守舎」という家守会社なんです。
「ちゃんと『まち』しようぜ」って、雑司ヶ谷で言えるようになった。
(背後に気配)……お、青木? 何しに来たんだ。
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青木
どうも(所用でらいおん建築事務所を訪れた青木純さん)。
嶋田
どうもじゃないよ。
インタビュー中だよ。
青木
そうらしいね。邪魔かな?
嶋田
邪魔だよ(笑)。
そう、青木くんとは、あぶくりで出会ったんですよ。
カフェをつくったら、そのまちで会いたいと思う人と
会えるんじゃないかと思っていたら、本当に青木みたいな人と知り合えた。
彼は、豊島区の東池袋(都電向原駅)にある、
「ロイヤルアネックス」という賃貸マンションのオーナーなんですが、
2013年に『大家も住人もしあわせになる賃貸住宅のつくり方』
という本を出したら、
大家という存在のポテンシャルがクローズアップされるようになりました。
そういうムーブメントをつくった男です。
日本中の大家がみんな、青木くんみたいだったらいいのにって、
心底思いますよ。
この人のすごいところは、見学者に物件案内をすると、
歩留りがほぼ100%なところです。その場で契約成立。
信じられないでしょ? ぼくらの住むまちを、
ロイヤルアネックスでいっぱいにしたいって、本気で思っています。
嶋田
ということで、続きはお前に任せた!
ちょっと仕事して、あとで戻るから。(嶋田氏去る)
青木
いいんすか僕で。
馬場
ええっと……はい(笑)。ついでだから伺わせてください。
青木
ついでって!(笑)。まあ、嶋田の取材ですもんね。
馬場
青木さん、都電家守舎を嶋田さんと一緒にやっているんですね。
そもそもご自身でやっている大家業と、重なりますよね?
青木
そうですね。大家というのは「まちの採用担当」だと、
僕は言っています。
自分の持っているマンションやアパートをぼんやり管理しているだけではなく、
積極的にいい住人をスカウトして引き入れていく。
そうすれば、いいまちができる。
賃貸住宅のオーナーにはみんな、
そういう関わり方のできるポテンシャルがあるはずなんです。
逆に、オーナーがいい住人や事業者を採用しようと努力しなければ、
地方都市のようにチェーン店が跋扈するんだと思う。
馬場
さっき、嶋田さんが「歩留り100%」と言っていましたが、
青木さんはなぜそれほど、入居希望者の心を掴むことができるんですか?
青木
僕や僕の会社のスタッフが案内するのが、
部屋ではなく「暮らし」だからかも。
だって、入居したら部屋だけに住むわけではないでしょう?
まちに住むでしょう?
だから、まちへの関わり方のプロセスを伝えてあげるんです。
人や、場所との関係性をどうつくるのかも、
自分の実体験に基づいて丁寧に伝えていく。
すると、ここに住めばどんな暮らしができるのかイメージできるようになり、
そのまちのファンになる。
ファンになると、ほかの物件と比べようとする気持ちがなくなる。
そういうことです。
青木
さらに、僕たちが提供する部屋は、
自分のほしい暮らしに合わせた空間として自分でつくりこんでいい、
という特徴があります。
賃貸でもここまで自由に豊かに暮らせるんだというリアリティを、
例えばロイヤルアネックスの住人の部屋を実際に見せることで
実感してもらいます。
馬場
まちにも、部屋にも、愛着が湧きますね。
青木
そう、そして家守も、ただ貸家管理をするだけでなくて、
住みたい人や、働きたいひととまちを繋いでいく役割を果たしていくんです。
そんな考えから、都電家守舎は「まちの暮らしの舞台づくり」をしようと、
都電沿線で働いたり子育てをしたりして暮らす人たちが集う
「都電テーブル」という食堂をつくったんです。
4月4日にプレオープンの予定で、
実は今、準備の真っただ中!(*取材日は3月でした)
働くひとたちがほっとできる家庭料理をお母さんたちがつくり、
そのお母さんたちが自分たちの暮らし方に合わせて働けるように考えて、
そんなお母さんたちの子どももくつろげるような空間がある。
近い将来、そんな、みんなの居場所になればと思っています。
今まで、こんな働き方は無理でしょとか、
こんな場所があったらいいけどつくれないでしょと思われていたことが、
「やれるじゃん!」「できたじゃん!」と実現できれば、
それを見た人もきっとチャレンジする勇気が持てると思うんですよね。
もちろん、コストについては充分に気にする必要があります。
言ってみれば、お金をかけない努力。
たとえば床の仕上げも、
コンクリートやモルタル仕上げにせず、ピータイルのままにしました。
最高にカッコよくすることを目指すより、
「新しいことを始めるときの、敷居を低くする」ことにこだわったんです。
運転資金繰りだって大変ですが、
特別なことはせず、あえて制度融資を使うことにして。
こういう試みがどんどん増えていくといいな、
それぞれのまちに家守会社ができるといいなって思う。
馬場
それにしても都電家守舎は、桁外れの実行力ですよね……。
青木
嶋田という男は、構想をかたちにするのが
すごく早いんですよ。雑だけど(笑)。
しかも負けず嫌いで執念深い(笑)。スピードのある行動は、実行の要です。
よく「やってから、考えろや」と言ってるくらい。
……あ、噂をすれば嶋田。戻ってきた。
馬場
あ、嶋田さん、おかえりなさい!
嶋田
ただいま。
青木、もうお前は去れ(笑)。
馬場
青木さん、ありがとうございました!(青木さん去る)
嶋田
あぶくりからサンドイッチ届いたよ。食べよう。
馬場
職住近接を実感しますね……。おいしい……。
嶋田
うん。うまい。僕たちが自分のこういう暮らしを自分でつくったように、
いろんな働き方、いろんな暮らし方ができる器を、
このまちでつくっていきたいんだよな。
嶋田
僕、このまちでちゃんと暮らそうと思って、
お祭りで裏方の下働をしたり、
最年少にして商店会の会長を引き受けて、
商店街のハロウィンイベントをがんがん盛り上げたり、
保育園の父母会長も引き受けました。
そしていよいよ、このまちの家守になろうと決心して、
都電家守舎を立ち上げた。
そうしたら、去年2014年に発表された
「消滅可能性都市となりうる869自治体」のリストの中に、
僕たちの暮らすこの豊島区が入っていたんですよ。
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馬場
23区で唯一、豊島区だけが入っていたと話題になりましたね。
嶋田
でも、そりゃそうだと思います。
例えば池袋界隈を見ると、建物は高密度なのに、空室だらけ。
その上、役所では
「古い賃貸住宅ばかりで、新しいタワーマンションがないからまちが廃れる」
という見解の幹部もいて、
どんどん空き家をつくっているという状態なんです。
もう、ひっくり返りそうでしょ。
全国規模で見ても、現在6000万戸ある住宅の中で、
実に820万戸が空き家なのです。
それなのに毎年80万戸ペースでつくっている。
さっきここにいた青木は、
1998年竣工のロイヤルアネックスのオーナーとして、
3年間で90組受け入れていて、そのうち9組が結婚していて、
9人出産している。しかも、9割が豊島区外から転入しているんです。
ひとつの物件だけでこれだけ区の課題を解決できるわけですから、
すでにあるものを使って、できることはいくらでもある。
なのに、安易にタワーマンションを建てて、
将来どうするつもりなんだろう、と。
馬場
たしか、「消滅可能性都市」というのは、
これから子どもを生み育てる20代~30代の女性の減少を指標に出されていましたよね。
嶋田
そうです。
豊島区では30代~40代の女性が流出しているというデータがありました。
それはなぜか。
「子育ても、自分の仕事もちゃんとやりたい」という主婦はたくさんいるのに、
ワンルームの賃貸住宅だらけで、受け入れる箱がないからです。
だから、子どもが大きくなった時点で、区外に引っ越してしまいます。
若い人が働けるイメージがない。魅力的な雇用もない。住む場所もない。
だったら、若い人が働けて、魅力的な雇用があり、
住む場所もある状態にするために何をすべきかを考えるべきでしょう。
そんな折に、北九州での僕たちの取り組みを知った豊島区長に、
プレゼンテーションする機会を得ました。2014年6月のことです。
青木と僕は区長室で
「リノベーションで豊島区を、
女性が子育てしながら住み続けられるまちにかえましょう」
と本気で訴えました。タワーマンションをつくることを推奨する行政から、
リノベーションまちづくりをする行政へと、転換するべきだって。
この話し合いから半年あまりという早さで、
「リノベーションスクール@豊島区」が実現したんです。
馬場
わたしたち(執筆者+編集者)もスクールを見学しましたが、
副区長の渡邊浩司さんの「消滅可能性都市、豊島区へようこそ!」
という言葉で始まったのがとても印象的でした。
嶋田
副区長さんとも、担当の職員さんとも何度も膝つめて話しました。
行政だろうと、民間だろうと、
個人が責任を持って本気でプロジェクトを進める、
ということを大事にしたいから。
もし、新築型から今あるものを活かしたリノベーションまちづくりによって
地域経営課題の解決する行政へとゴールの絵が変わったのなら、
やり方だって変えようよ、
調整ではやりきれないレベルのことをしようとしているのだから、と。
そこに豊島区が、本気で応えてくれたんだと思います。
僕は、豊島区を「リノベーション特区」にしたい。
リノベーションでまちを再生させる試みのすべてを
豊島区が一番初めにやるべきで、区の条例としてそれを補完する。
そんな動きがつくれないかと考えています。
民と官が一体となってやるべきなんですよ。
馬場
嶋田さんを、ここまで情熱的に突き動かしているモチベーションは、
何ですか?
嶋田
韓国には「のどがかわいた人が、井戸を掘る」
ということわざがあるそうです。
今、目の前にあることを、自分のためにやる。
まず僕たち夫婦の暮らしているまちですし、
ここが故郷になってしまったふたりの娘たちのために、やる。
そんなリアリティのある範囲で動いています。
それが結果として、公共性をもっていけばいいな、というかんじです。
嶋田
ただ勘違いしてはいけないのは、
「リノベーションまちづくり」は
未来永劫、地域の未来を救う手法かどうかはわからないということです。
リノベーションはそもそも、中古物件の暫定利用です。
再投資され、再利用されますが、10年先のことなんかわかりません。
古い建物の個人オーナーには
既存の建物を壊すお金さえない場合もあると思います。
誰が、このまちの責任を負うんだろう?
僕たちには、建てた人とは違う人が、
建っているものに責任を持たなければならない時代に生きている
という現実があります。
そんな危機感も併せ持ちながら、今できることを精一杯するという状態です。
馬場
最後に、これからの野望を教えてください。
嶋田
リノベーションスクールを核に据えたエリア再生事業を、
もっともっと普及させていきたいと考えています。
車にたとえると、
エンジンにあたるのが「リノベーションスクール」、
車輪にあたるのが「家守会社」です。そして、こうして稼動している
リノベーションまちづくりを普及させるための会社として
「リノベリング」という組織がある。
リノベリングは、大島芳彦さん(ブルースタジオ)、
馬場正尊さん(オープンエー)、西村浩さん(ワークビジョンズ)、
あと既出の徳田光弘、青木純、僕というこれまでリノベーションスクールに
大きく関わってきた人たちで動かしている会社です。
これからこの会社で、
「スタジオリノベリング」という常設のスクールを開く予定なんです。
ここで、リノベーション事業のすべてを教えたい。
というのも、リノベーションスクールの参加者は、
リノベーション事業の全工程が1から10までだとすると、
おそらく5、6にあたる「単体の建物の事業計画とオーナーへのプレゼン」
というおいしい部分しか関われないからです。4日間ではそれが限界。
このスクールでは、
物件探しから事業運営までの10工程をこなすのに必要な知識や技術を、
3か月かけて全部伝えていきたいと考えています。
今年度は、全国で少なくとも20回、
リノベーションスクールを開催する予定です。
……マジで、恐ろしいスケジュールの1年です。
それだけ各地で望まれていることはとてもうれしいし全力でやりきりますよ。
同時に、リノベーションまちづくりを
1から10までこなせる人間がどんどん輩出されて、
一緒にやれる仲間が増えることを超絶希望!(笑)
みんな、ちゃんと「まち」しようぜ。
information
らいおん建築事務所
profile
YOHEI SHIMADA
嶋田洋平
1976年北九州市生まれ。東京理科大学理工学研究科建築学専攻修士課程修了後、建築設計事務所「みかんぐみ」チーフを経て、2010年に独立。北九州市の小倉、豊島区雑司が谷を行き来しながら友人や先輩、仲間を巻き込んで「リノベーションまちづくり」を実践。らいおん建築事務所代表取締役、北九州家守舎代表取締役、都電家守舎代表取締役、リノベリング代表取締役。リノベーションスクールを核にした小倉魚町での実践により、民間まちづくり法人国土交通大臣賞と日本建築学会教育賞受賞。
★5月28日に、著書『ほしい暮らしは自分でつくる ぼくらのリノベーションまちづくり』(日経BP社)が発売します!
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