島に眠っている資産、ワクワクする古い家

ここでの暮らしを想像しながら。

先日、私たちが運営しているHOMEMAKERSのFacebookページに
1件の問い合わせがありました。

震災後、ライフスタイルについて考えるようになり、海外の農場へ研修に。
そこで体験したようなライフスタイルに少しずつシフトしていきたい。
家族がかつて小豆島で暮らしていて、現在は誰も住んでいない家と畑が残っている。
その小豆島で農業をしている私たちのことを偶然知り、一度お話したい。

そんな内容のものでした。
その誰も住んでいない家と畑は、私たちの家から車で10分ほどの場所に。
すごく近くなのに行ったことのない集落で、
前々から一度行ってみたいなと思っていたので、
ぜひそこを見に行ってみたいとお返事して、
その2週間後にさっそくお会いする約束をしました。

せわしないゴールデンウィークが終わり、ほっとひと息のその日。
通ったことがない道を走り、ワクワクしながら現地に向かいました。
1年半住んでいても、まだまだ小豆島には行ったことがないところがたくさんあります。

ご連絡をくださった方と挨拶をして、さっそく敷地内へ。
家のまわりは植物が成長し、まさに映画『天空の城ラピュタ』のように
植物が建物をとりまいているような感じ。
植物をかき分け、家の中へ。

ご挨拶をしてさっそく敷地へ。お隣には棚田が。

植物が行く手をさえぎる(笑)。かき分けて中へ進みます。

玄関にもツタが。

植物の力はほんとにすごい。すぐに家を飲み込んでしまいそう。

築80年のその家は立派な材でつくられていて、すごく味がある。
特に小屋組(木造建物の屋根部分の骨組み)は見上げると、おぉっとなります。
一方で、床が腐っていたり、家自体が多少歪んで窓がちゃんと閉まらなかったり。
直さないと住めないなあと思う部分はありましたが、
ここをこんなふうに直して、あそこの壁は抜いて……なんて
勝手に想像しながら終始ワクワクしていました。

立派な梁が。木造建築の小屋組は本当に美しい。

床を直して、この壁は抜いて、など妄想。

家のまわりには大きな木が。ハンモックやブランコを吊るして、と想像するとワクワクする。

タバコの葉の乾燥部屋も。

そして、家の外の畑へ。
なんと、畑からは海が見える!
「子どもの頃に見たこの景色がずっと頭の中に残っていて」
とその方は何度もおっしゃっていましたが、確かにこの景色はたまらないなあ。
しばし、その畑で海を眺めながら立ち話。
どうやったら家を直せるか、ここでどんなふうに暮らすことができるのか。

畑からの風景。山と山の間に瀬戸内海が見えます。

どうやって家を直すか、ここでどんな暮らしができるか畑で立ち話。

この古い家の窓が開いて、明かりが灯され、
誰かが暮らす日が来るかどうかはまだわかりません。
眠っている古い家に手を入れて、直して暮らす。
そこには便利さや快適さは少ないけれど、
それでも暮らしたいと思わせる何かがあるんだなと思います。

元浜倉庫

元浜倉庫のそもそものはじまりは2008年の初夏にさかのぼる。
当時ぼくは児島の同じ元浜町にあった「Womb(ウーム)」という
雑貨屋とカフェが一緒になったお店の2階をひとりで間借りしていた。
文句のつけようのない環境だった。
部屋は東側の壁一面がすべて窓、そこからほぼ180度瀬戸内海が見渡せた。
事務所の什器は店主のマコトくんがすべて売りものから無償で揃えてくれるし、
毎日のように彼の奥さんのマキちゃんがお茶とお菓子を2階にもってきてくれるしで、
いま思い返しても夢のような環境だった。
そんな贅沢を絵に描いたようなぼくのオフィスに、
その夏ひとりの年配の女性がやって来た。
聞くと、一度だけ階下のカフェで言葉を交わしたことがあるという。
いずれにしても初対面同様で、
にも拘らずほとんど前置きすることなくずばり用件を切り出した。
「うちの倉庫を借りてほしいの」
これまで誰にも倉庫を借りたいなんてことは口にしたことがない。
モノに執着のない性格ゆえ、だいたい倉庫が必要であったためしがない。
同年代の日本人男性の平均よりもずっと身軽で生きてきた自負さえある。
その後に継がれた彼女の説明を要約するとこういうことだった。
その倉庫はもともとご主人が営んでいた鉄工所で、
ご主人が亡くなった後つい最近までは水産加工会社が魚の加工工場として使用していた。
現在、その倉庫が空いている状態なのだが、これからは倉庫とか工場ではなく、
地場の若い人たちが集まるような場にならないかと。
「で、なぜにぼくのところに?」
「だって赤星さんのところにはいっぱい人が集まってくるでしょ?」
「そりゃ誤解です、若い人が集まって来るのは下のカフェですよ」
「とにかく一度見てほしいのよ、すぐ近くだから」
後に大家さんとなるこのAさん、
とにかく豪腕で根こそぎさらっていくようなところがある。
そのときもはっきり断っているんだけど、気づくと一緒にその倉庫に向かっていた。
歩いてものの2分、
はたしてぼくが子どものころしょっちゅう遊んでいた港のすぐそばにあった。
外観はかなり年期の入ったスレート造り。
元鉄工所とあって、ゆうに3階建てマンションほどの上背がある。
なかに入るとさらに「ザ・倉庫」で、
ソフトボールの内野がすっぽりおさまりそうなほどのだだっ広い空間があるだけ。
ぼくはその場で再度はっきりお断りした。
「じゃあ鍵だけ預かっておいて」
「はあ?」
「まわりで興味がありそうな人がいたら見せてあげて」
「いや、こんな倉庫を借りたいなんて人はそうそういないですよ」
「いたらでいいのよ」
「いないと思うけどなあ」
「いいの、もってて」
そんなわけでそれから数か月もの間、
その鍵は一度も誰の手に触れられることなく、
オフィスの机の一番上の抽き出しでこんこんと眠りつづけた。

その年の秋、事態は一変する。
唐突にマコト&マキから店の移転を告げられたのである。
そこであの倉庫のことを思い出して————という展開はもう少し先の話。
Wombの移転→事務所の立ち退きはたしかに寝耳に水ではあった。
しかし、実は「もしも事務所を移るなら」と密かに見当をつけていた物件があり、
日頃からよく前を通ることもあって、
ここ2年ほどずっと空き家の状態であることを知っていたのだ。
夫妻から移転を告げられたその夜、早速ぼくはその物件の場所に行き、
窓に貼り出された不動産屋にその場で電話をかけた。
「マクドナルドがある港のすぐ目の前のヤツです、2階の角の部屋。
あれ、明日にもなかを見せてほしいんですけど」
「うわあーっ!」
「……うわ?」
「いやあ、あそこね、ずっと空きだったんですよ」
「空きだった……」
「ホント今日の今日ですよ。話があって、明日にも契約なんです」
その日、2度目の予想だにしない展開。
しかし最初のそれはこの物件がすぐにも借りられる算用があったから、
さも申し訳なさそうに話を切り出したマコトにも
「気にするなよ、それよりいままでありがとうな」
なんて懐の大きさを見せる余裕もあった。
むしろこの2度目の方がショックは大きかった。
真っ暗な港で、ぼくはひとりマックのネオンを眺めながら途方に暮れた。

『スライディング・ドア』という映画がある。
主人公の女性が地下鉄にギリギリ間に合って乗車できた場合とできなかった場合、
そのふた通りのその後の人生を描いている。
とてもユニークな映画なのだが、
まったく異なる人生が待っているというのは容易に察しがつく。
でも、タイミングの違いでその後が大きく変わるというのはままあることだと思う。
夜の港でマックのネオンを見ながら途方に暮れたことを思い出すたび、
この映画のことが頭をよぎる。
マコトが数日早く店の移転を伝えていたら、たぶんいまの元浜倉庫はなかった。
しかしそれよりなにより、
Aさんがあそこまで強引に倉庫に引き合わせるようなことをしなかったら……。
いずれにしても、いくつもの偶然を経て、
元浜倉庫は向こうからぼくのもとに転がり込んできたのである。

そして今年で6年目を迎えた元浜倉庫。
ぼくのパートナーのタカコさんが切り盛りする元浜倉庫焙煎所が春から加わったことにより、
昨年までと倉庫の様子は大きく変わった。
豆売りのショップを構えただけじゃない。
コーヒーの試飲スペースとして倉庫の前にベタなウッドデッキまで作った。
一般の人がちらちら出入りするというのも
これまでにはなかったことだし(カフェと間違えての来店も多い)、
たぶん遊びに来やすいのだ、友人や知り合いが訪ねて来る機会もめっぽう増えた。
「人が集まる場にしてほしい」という大家さんの念願が少しはかなったかもしれない。
それにしても宣伝の類は一切していないのに、この元浜倉庫焙煎所の調子がいい。
当然、店主のタカコさんは気をよくしていて、やる気にも拍車がかかっている。
そんなある日のこと、3歳になる娘のチコリが夜中に熱を出した。
翌朝には幾分か熱は下がったものの、保育園に連れて行けるような状態ではない。
「じゃあ、今日はチコリをよろしくね」
慌ただしい朝の、不用意なぼくのその一言でタカコさんの顔色が変わった。
いや、正確に記述すると変わったのは顔色じゃない。目もとの様相だ。
彼女についてわかってきたことのひとつ。
気に障ることがあると普段は愛らしいたれ目が、瞬間、
クリント・イーストウッドのそれになる。いったんそうなると後悔先にたたず、
地雷を踏んでサヨウナラだ。
「私の仕事って、そんな程度なわけ?」
いやあなたの仕事を軽んじているわけではもちろんなく
今日はたまたま仕事がつまっているからお願いしているのであって
ぼくが空いていればぼくがチコリの面倒をみるし
そのあたり臨機応変に対応していこうよ————。
一気の取り繕いでなんとかことなきをえたが、危険危険、
そこには新しい地雷があるのだ。今後も常にその位置を認識していなければならぬ。

かくして今日もコーヒーの香ばしいにおいが漂い、サブの欠伸を誘うような、
ゆるい時間が流れる元浜倉庫。
しかし、そこにあって当然のように見えるものも、偶然の重なりと、
ひとへの気遣いや思いやりによってもたらされているというお話でした。

Wombとぼくのオフィスがあった元浜町の名物的な建築物。5年ほど空きの状態だったが、この春から新モノ旧モノを扱うお洒落なセレクトショップ「The easy shop」として再生した。オノちゃんという好青年がひとりで切り盛りするナイスなお店です。 倉敷市児島元浜町790-2 電話086-486-1962 12:00〜20:00(金・土は22時まで) 木曜日定休

春スイッチが入った 名古屋の港まちからお届け! 『ぶらり港まち新聞』 No.08 はる号

愛知県『ぶらり港まち新聞』

発行/港まちづくり協議会事務局

ぶらり港まち新聞【08】はる号は、春スイッチが入った名古屋の港まちからお届け!まちの名物、灯台をかたちどった名店の紹介から、賢くもかわいい麻薬捜査犬「ブレイブ」くんの一日、子どもたちとかんがえる「防災+まちづくり」など盛りだくさん。

ぶらり港まち新聞
http://www.minnatomachi.jp/shinbun/

発行日/2014.3

肥土山農村歌舞伎、みんなで作る割子弁当

一緒に作って食べる、楽しい時間。

5月3日、毎年この日に肥土山農村歌舞伎が開催されます。
肥土山農村歌舞伎は、300年以上途絶えることなく続いている地元の伝統行事。
ここで暮らす人々自身が役者であり、大道具、衣装、舞台の準備なども
すべて自分たちの手で行っています。

はじまりは江戸時代。
当時、水不足で苦しんでいた農家を救うために、
この地の庄屋、太田典徳さんが私財を投じて蛙子池(ため池)を造成。
その完成のお祝いに、農民たちが小屋を建てて芝居をしたそうです。

300年以上続く肥土山農村歌舞伎。毎年5月3日に開催。

快晴。この季節は本当に気持ちがいい。歌舞伎に出演した地元の子どもたちが控室の窓から。

この歌舞伎の楽しみのひとつが、割子弁当(わりごべんとう)。
大きな木箱の中に、20人分の小さなお弁当が入っています。
これを昔は各家庭ごとに作り、親戚や知人たちと一緒に食べながら
歌舞伎を鑑賞したそうです。
いまでは、大家族が減ってしまったためか、
割子弁当を持ってきている家庭はとても少なくなりました。

そして今年は、その割子弁当を友人たちとみんなで作って
持っていこうということで、午前中からうちに集まって割子弁当作り。
お弁当の作り手は、20〜30代の女子7人。
それぞれ、お弁当に詰める一品を担当。

割子弁当。地元で共有で管理しているものをお借りしました。

みんなで一緒に料理。教えたり、教えてもらったりしながら。

巻き寿司作り。ワイワイ言いながら作るのはほんとに楽しい。

みんなでワイワイ言いながら、巻き寿司を作ったり、夏みかんの皮をむいたり。
それそれは楽しい時間だった。
婦人会のおばちゃんたちが、地域の行事などで
お弁当を作ったりするときの雰囲気はきっとこんな感じなんだろうなと。
20人分のお弁当を私ひとりで作るとしたら、
それはすごくプレッシャーで大変だけど(というか作れない、笑)、
みんなで集まって料理をすれば、それ自体が楽しい時間になる。

畑で採れたスナップエンドウの和え物、掘りたてタケノコの醤油漬けなど。
地元の食材も使って、なんともおいしそうな割子弁当の完成。

それぞれが作った一品。これを割子弁当に詰めます。

おいしくみえるように割子弁当に詰める。これを20人分作ります。

木箱に収納。この大きな木箱を抱えて歌舞伎舞台まで行きます。

木箱に入れて、いざ歌舞伎舞台へ。
最高の天気の中、子どもたちと一緒に、水の張られた田んぼの横を歩いて行きました。

水の張られた田んぼの横を通って歌舞伎舞台へ。

みんなで作った割子弁当や持ち寄ったおやつを食べながら、
お酒を飲みながら、みんなで一緒に歌舞伎を見る。
出てくる役者は地元のよく知った人たちで、
あの人が演じてるんだなと思いながら見る。
それがこの農村歌舞伎の楽しみ方なのかなと。

木箱の中からじゃーん! さぁ食べよう。

友人、知人にふるまって、みんなで一緒に食べました。

来年は私たちの組が歌舞伎の当番(肥土山地区には6つの組があって、
交代で歌舞伎の準備、運営をしています)。
たくちゃん(夫)といろは(娘)も出演予定。
これまた楽しみです。

たくさんの『ありがとう』であふれる温泉。埼玉・玉川温泉「母の日100のありがとう風呂」

昭和レトロな雰囲気と露天風呂が人気の湯郷玉川温泉。
ただいま母の日にちなみ、様々な「ありがとう」のメッセージが書かれた
入浴木が女性風呂に浮かんでいます。
その数は99個。
残りの1つの「ありがとう」は
あなたからお母さんに伝えてほしい、というのが趣旨。
18日(日)まで行われています。

この「100のありがとう風呂」は全国各地の温泉施設で開催されているプロジェクト

玉川温泉の湯船にうかぶ入浴木は
地元ときがわ産ヒノキの間伐材を加工したもの。
またメッセージは町内の学童保育の
児童たちに書いてもらったそうです。

みんな照れずに書けたかな?ときがわ町学童保育「しいの子会」

夏にはホタルが舞うほどの山間にある静かな場所にある玉川温泉

良質なアルカリ性単純泉の温泉。全国でも有数の良質な泉質です

体と一緒に心も温まる温泉。
なかなか素直に伝えられない日ごろの感謝を
温泉を利用して伝えてみてはいかがでしょうか。

湯郷玉川温泉
全国一斉!100のありがとう風呂Facebook

今号は「中野区」に深くつっこむ!毎号1つの区がターゲットのタウンマガジン『TOmag』

毎号、東京23区からひとつの区に焦点をあて
ディープに街を紹介していくタウンマガジン「TOmag」。
足立区、目黒区に続く第3号は「中野区」を特集、
4月25日(金)に発売されました。
表紙を飾るのは、上京後に約5年間中野区に住み
青春時代を過ごしたという女優の長澤まさみさん。
巻頭では当時の同級生を呼んで同窓会を開いています。

また、中野区在住歴20年超の掟ポルシェさんの濃厚な中野区談義や、
中野駅の北口の人たちによる
「北口に来たらこの6人に会うといい」
南口の人たちによる
「愛すべき南口のはなし」といった
同じ街でも全く違った側面がのぞける
趣きあるコンテンツも。
色んな角度から中野区の魅力を徹底的に掘り下げ
凝縮した一冊になっています。

誰しもが持ってる「地元に帰ると食べたくなる味」を紹介するページ。中華屋のオヤジさんのやりがいにフォーカス

マニアックな店はブロードウェイだけじゃない!と、全国のインスタント麺や焼酎が集まるお店を紹介

「真 中野十景」。あまり中野区のイメージにない風景ですが、地元の人にはあるある?ちなみに右は元DPEショップを再利用したギャラリーだそう

7年前から中野に住む芸人やついいちろうさんは「中野駅は南口がアツイ!」と豪語

そこに住む人たちならではの
情報、風景、おもしろエピソード。
中野区のことボンヤリとしか知らない人には新発見が、
地元の人には共感と再発見が
きっとできると思います。ぜひ!
ちなみに次号は品川区を予定しているとのこと。

【コンテンツ】
・長澤まさみの呼びかけで、中野で同窓会をひらくことになりまして。
写真:大森克己 インタビュー:掟ポルシェ
・真 中野十景
写真:酒航太
・中野ブロードウェイ 地上10 階、地下3 階建ての物語は終わらない
写真:後藤啓太 文:川田洋平
・ホール文化の行方
写真:塩田正幸 文:北沢夏音
・中野サンプラザ ライブ伝説
さやわか/鹿野淳/モリタタダシ/杉作J 太郎
・北口の人たち − 北口に来たらこの6 人に会うといい。
・南口の人たち − 潜入!中野会。夜な夜な、愛すべき南口のはなし。
やついいちろう/松本素生/峯田和伸/庄司信也
・コラム特集:中野クロニクル
・西武新宿線で一日を楽しく過ごすために。
・中野の味。
・中野でお宝さがし。
東京都内の各書店で販売。価格は1,000円(税別)。

TOmagazine

田舎に人が来る場所をつくる

ここでいろいろな人と、いろいろな出会い。

カフェをオープンしてから2か月が経ちました。
2か月といっても、週に2日の営業なので
まだ10日くらいしかお店を開けていませんが(笑)。
季節はすっかり冬から春になり、まわりの山々がどんどん緑になっていきます。

それにしてもこの2か月、いろは(娘)の卒園、1か月もの春休み、
そして入学、慣れないカフェの営業、夏に向けた畑作業、
振り返る余裕などまったくないほどにバタバタ。
毎週あっという間にカフェの営業日が来て、終わって、
また1週間過ぎてという感じでした。
最近ようやく平日の畑作業、週末のカフェ営業のリズムができてきて、
少しだけ落ち着いたような気がします。

ずっと手入れしたかった庭の工事をスタート。カフェの外席も作る予定。

カフェの営業中は、収穫したお野菜を販売しています。

少しだけ余裕ができたので、メニューの改良や新しいメニュの追加も。

カフェとして週に2日家を開けるようになって、
本当にいろいろな方々が来てくれています。
そもそもこんな田舎のさらに奥のほうまでお客さんは来てくれるのだろうか、
そしてどんな人が来てくれるのか。
ワクワクと少しの不安でオープンしましたが、
いまのところそこそこ順調に営業中です。

11時にお店を開けても1時間くらい誰もお客さんが来ない日もあるし、
1日の売上が1万円に届かない日もあったり。
それでも、近所のおばちゃんグループのお茶会の場になったり、
島で暮らす同世代の人たちがカレーを食べにきてくれたり、
友人が友人を連れてきてくれたり。
いろいろな人が来てくれて、いろいろな出会いがあります。

この連載を読んで、わざわざ東京から来てくれる方も。
移住の相談に来られたり、自分たちの結婚式でうちのお野菜を使いたいと来てくれたり。
本当にありがたく、嬉しいな、楽しいなと思う瞬間がよくあります。

前日に偶然出会った東京からのおふたり。畑作業を一緒にしました。

島の友人たちとその友人。カウンターで討論したり、世間話したり。

カフェの営業時間以外にも、何か使ってもらえたらいいなと
ひそかに思っていたのですが、先日は、オリンパスの方に来ていただいて、
「小豆島カメラ」プロジェクトの一環でカメラの使い方講座を開催してもらいました。
まさにこんなふうに人が集う場所になるといいなと思い描いていた感じ。

オリンパスの菅野さんによるカメラの使い方講座を開催。

お昼はカフェ、夜は勉強会。こんなふうに使ってもらえてほんとにありがたい。

いまの私たちにとって一番嬉しいことは、ここに人が来てくれること。
カフェだけじゃなくて、畑作業を一緒にしたり、宿泊したり、勉強会をしたり、
いろんなかたちでここで過ごしてもらえたらいいなと思っています。
まだまだワクワクとバタバタが続いていきそうです。

港にて

児島の桜が満開を迎えたその翌週の、とある日の昼下がり。
サブの餌を買いに行ったホームセンターからの帰りみちに、
そのおばあちゃんの姿を見た。港に沿った側道に入ったところ、
すぐ横の歩道を歩いていた。
歳の頃は八十代半ばか後半あたりか、
腰は曲がりきって歩くのもつらそうだった。
目と目が合った。こっちは車の運転中なわけだから
次の瞬間にも視線が離れようものだけれど、
このおばあちゃんの視線がやけに絡みついてくる。
おまけにぼくの車が横を通り過ぎると足を止め、
振り返るようにして粘っこくこっちを見つめている。————おばあちゃんの圧勝。
敗者のぼくはすぐ脇の港に車を停めた。ため息のひとつもついたと思う。
元浜倉庫は目と鼻の先だった。

おばあちゃんは立ち止まってぼくを待っていた。
細かな柄の入った薄いグレイのブラウスに無地のグレイのパンツといういでたち。
やわらかそうな白い布のバッグを手にして、
足もとは白のソックスに黒の革靴をはいていた。
「おばあちゃん、送っていきましょうか」
「すいませんな、お願いします」
聞くと、実家に帰る途中だと言う。
耳をかすめたことのある児島の地名を口にした。
現在の住所表記では使われていない古い呼び名だというのはわかる。
でも、こっちのブランクの長いぼくにはどのあたりなのか見当がつかなかった。
「琴浦の方ですかね?」
「いや、そこまで行かん。もっとこっちじゃ」
「どこだろう? 実家の近くにお店とか目印になるようなものがありますか?」
「酒屋のキシダがあるわ」
「キシダ……ほかになんかないですか?」
「キシダんとこの路地を入ったらすぐなんじゃけどな」
もう少し話してみたがらちがあかなかった。
携帯電話で検索してというわけにもいかない。
ぼくの携帯はネットにはつながっていないのだ。
と、そのときひらめくように頭に浮かんだのが、
児島にある大手学生服製造会社の総務部長Kさん。
とにかく物知りで、しかも児島の地の人である。
この際クライアントだろうが四の五の言ってられない。
迷うことなく携帯を鳴らした。Kさん、つかぬことをうかがいますが。
「そりゃあのへんじゃがな、
酒屋はあそこんとこの角のがそうじゃ……かどかどかどかど……そうそうそうそう!」
一切理由を聞くことなく、短い挨拶だけしてKさんは電話を切った。
こうして無理そうに思えた絶壁を記録的なタイムで踏破した後、
おばあちゃんとつかの間のドライブ。
その間の会話から、おばあちゃんがいま向かっている先のあたりで生まれ育ち、
ずいぶん昔に、児島の漁師町のひとつで、
元浜町からもほど近い漁師町の大畠(おばたけ)に嫁いで行ったことなどがわかった。
「実家にはいま誰が住んでるんですか?」
「おじいさんやばあさんがな」
「長生きの家系ですね。ところでおばあちゃんはおいくつなんですか?」
「ううん、なんぼじゃったかな。まだ三十にはならん思うけどな」
「結構若いな、ははは………」
そのとき初めてだった。
ぼくの頭のなかに「痴ほう」とか「徘徊」という熟語が漂いはじめたのは。
でも、隣にいるこのおばあちゃんがボケているようには到底見えなかった。
耳は普通に聞こえているし、身なりも清潔でちゃんとしている。
少々ピントがズレてはいるけど、なにより会話のキャッチボールが成立している。
ぼくの母よりも年齢はほんの少し上だと思う。
でも、母との間ではこんなやりとりはもう何年も前からできなくなっていた。

母が脳梗塞で病院に運ばれたのは2004年の9月末だった。
後遺症は右半身の麻痺と言語障害。
それだけだったら回復もいくらか望めたろうし、
気持ちもどれだけ楽だったかしれない。
決定的な痛打となったのは2か月後に発症したうつ病だった。
それからの苦労はなかなか言葉で表せるものじゃない
(その苦労のほとんどは父が背負った)。
あれから10年になる。施設の類には絶対に入れないという父の意志で、
これまで母を自宅で介護してきた。
でも、この一年ほどで主たる介護者である父の老いが急速に進んだ。
激しく腰が曲がり、体重も10キロほど落ちた。さすがに限界だった。
今年の正月を明けてすぐ、月曜から金曜までの平日の間、
母を介護施設へ預けることにした。
ところがその後の週末だけの家の滞在も父には負担が大きかった。
4月になってすぐ、父は力のない声でぼくにこう言った。
「お母さんの、土日も通しで預かってもらうことにしたけん」
こうして週を明けての月曜朝、
母はいつものように送迎の車に乗せられ施設へと行った。
この元浜の家に戻ることはないかもしれないと理解できないまま。

酒屋の駐車場に車を停めた。
駐車場のすぐ横に、入り口をつい見落としてしまいそうな細い路地がある。
実際、見落とした。
その次の路地に入って狭い道をさんざんぐるぐるした挙げ句、
ここに引き返してきたのだった。
「おばあちゃん、この路地でいいのかな?」
「ああ、うーん、どうかな。そうじゃろうかな」
いまひとつはっきりとしない。
ぼくはおばあちゃんに車で待つように言い残して、
ひとりで歩いて路地に入った。路地はほどなくして右に折れ、
すぐの右手に平屋の一軒家があった。
さらに進むと急なこう配になっており、のぼり口の左手に木造の古い廃屋があった。
その右手には未舗装の駐車場があって、奥に白いモルタルの一軒家がある。
視界にある家はそれだけで、
路地のこの先に家がどれだけあるかはこう配を上ってみないとわからなかった。
そのとき、買い物袋を手に下げた女性が路地をこちらに向かってきた。
ぼくはすぐに声をかけ、おばあちゃんから聞いていた旧姓を彼女に伝えた。
このあたりの集落に思い当たる家はないようだった。
理由を聞かれたので簡単に経緯を説明したところ、
彼女はさも申し訳なさそうな顔で「警察に行かれた方がいいですよ」と言った。
ぼくはお礼を言って、まっすぐ酒屋の駐車場に戻った。
車のドアを開ける瞬間まで、彼女に言われた通りそのまま警察に行くつもりでいた。
ここで切り上げても、「もうやることはやった」と自分で納得できる。
ところが、おばあちゃんのしわだらけの顔を見て、どういうわけか気が変わった。
「ちょっと降りて歩いてみましょうか?」
しばらくおばあちゃんと手をつないで路地を歩いた。
ぼんやりしたおばあちゃんの反応からは、この路地が正しいのかどうかはわからない。
歩いていても、のどの奥の方からかすれたような乾いた音が漏れるだけだった。
急なこう配にさしかかったあたりで、おばあちゃんが口を開いた。
「そこんとこがな、昔はうちの工場じゃったんじゃ」
そう言って左手にある廃屋を指した。
そしてぼくの先に立ち、これまでの足どりが嘘のようにすたすたと歩いた。
向かう先は右手に見える白いモルタルの二階建ての家。
家のなかでゴールデンレトリバーが窓のガラス越しにこっちを向いて吠えつづけている。
おばあちゃんはおかまいなしでまっすぐ玄関に向かって歩いた。
赤の他人であればすでに完全な住居侵入だ。
ぼくはやきもきしながら金魚の糞の体でおばあちゃんの後ろを歩いた。
てっきりその家に入るのかと思いきや、おばあちゃんは玄関先をかすめ、
迷いのない足どりでさらに敷地のその奥へと足を進めた。
そこにこつ然と、屋根の低いプレハブ小屋が姿を現した。
ドアの上に木の表札があった。
そこに人名はなく、筆で書いた文字で「河童ビリヤード」。
おばあちゃんは迷わずドアの把手に手を伸ばした。
……ビリヤード場? かっぱ……? わけがわからなかった。頭がクラクラした。
しびれたような頭のなかで、いろんなものが音をたてて回っていた。

ドアまわりの長く打ち捨てられたような雰囲気のせいで、
鍵がかかって開くわけがないと思ったドアは存外にするりと開いた。
おばあちゃんはその奥へと入っていった。
背中越しに室内をのぞいてみる。カビの匂いがつんと鼻をついた。
目に飛び込んできたのは、ブルーシートに覆われた大きなテーブルのような台。
サイズといい高さといい、ビリヤード台であるのは間違いない。
左手に1台、建物の奥に向かって3台が縦に並んでいた。
その板壁には炭のように黒々としたキューが何本もたてかけられている。
長く稼働していないというだけで、紛うことなくビリヤード場だった。
紛うことのないビリヤード場ではあるんだけど、
ぼくにはこの世界のどこでもない場所に足を踏み入れたような感覚があった。
 おばあちゃんが向かっているすぐ先で、突然黒っぽい塊が動いた。おばあちゃんの向こうでおばあちゃんが振り向いた。
齢九十超えはかたい大おばあちゃんがいた。
ふたりは一瞬顔を見合わせた後、大おばあちゃんが
「あんた、どうやって来たん?」
「うん? 乗してきてもろうたんじゃ」
小おばあちゃんがそう言ってぼくの方を振り向く。
ああ、どうもとぼくは挨拶したが、大おばあちゃんはぼくの方をまったく見なかった。
「おじいさんはどうしたん? どこにおるん?」
「はあ? なにゆうとん? おじいさん、おらんよ」
「おらんの? 死んだん?」
「死んだ。二十三年(おそらく平成23年のこと)」
「そうかな……そうかな」
言いながら、小おばあちゃんはそこにあったソファに腰を下ろした。
「あんた、ここにおってもろうても困るよ。
わたしゃこれから降りるんじゃから。乗して帰ってもらい」
「ああ、そうな……」

結局、ものの5分といなかった。
そこがおばあちゃんの実家だったとすれば、なんとも滞在時間の短い里帰りだった。
ぼくたちはその魅惑的なビリヤード場を出て、駐車場で大おばあちゃんに別れを告げた。
小おばあちゃんは終始素っ気ない感じで、振り向きもせず路地をすたすたと降りて行く。
大おばあちゃんはぼくに「申し訳ないね、すまないね」と最後まで繰り返していた。

さて、帰りもすんなりとはいくはずもない。
まず大畠というエリアはわかっているが詳しい住所がわからない。
近隣の知り合いに電話したりしてのすったもんだは省略して、結果からいうと、
すべてはおばあちゃんの手に下げた白い袋のなかにあった。
住所だけでなく電話番号まで記した名札のようなものが入っていたのである。
そしてその住所は大畠ではなく、なんと元浜町、元浜倉庫があるエリアである。
電話にはおじいちゃんが出た。すぐに迎えに行くと言う。
ぼくも元浜町に帰る旨を伝え、
元浜エリア最強のランドマーク「大たこ」の前で落ち合う約束をした。

 

はたして、夕陽に染まった大たこの前におじいちゃん本人がいた。
息子の嫁とか娘とかでなく。おじいちゃんも齢は80代半ばあたり。
白髪あたまはぼさぼさ、しかし浅黒い顔に
よれた感じの薄いブルーのブルゾンがやけにしっくりとしていた。
おじいちゃんは大たこの向かいある低い堤防の上に腰を下ろしていた。
杖代わりに使っているのだろう、
隣には布地の部分がひどく色褪せした古いカートが置いてある。
おじいちゃんの表情は終始穏やかで、
おばあちゃんには叱るような言葉を一切口にしなかった。
「ばあさんには、出て行ったらいけんと日頃から言うとんですけどなあ」
むしろやさしげな笑顔さえ浮かべてぼくにそう言った。
おばあちゃんはというと、おじいちゃんに謝るでもなく、
目も合わようともせず、
それでもおじいちゃんの隣にちょこっと腰を下ろしてじっと海の方を見ていた。

そしてぼくはというと、このふたりの姿に、
10年前に母が病気をしなかったら現在こうであったかもしれない、
父と母の姿を見ていた。

もともとはたこ焼き屋さんだったが、現在は高齢者向けの最大の娯楽スポット。昼間からカラオケの音が近所に響きまくっている。タクシーで乗りつける常連のお客さんの姿も。

*当連載に登場する人名・店名等はプライバシー保護のため
一部仮名を使用させていただいています。

名古屋の港まちを歩いて見て 聞いて集めた情報が満載。 『ぶらり港まち新聞』 No.07 ふゆ号

愛知県『ぶらり港まち新聞』 

発行/港まちづくり協議会事務局

「ぶらり港まち新聞」は、名古屋の港まちを歩いて見て聞いて集めた、名古屋で暮らす等身大のひとの情報が詰まっている季刊のフリーペーパー。名古屋のみなとまち、名古屋港の西築地学区周辺エリアを中心にまちづくりを行う「港まちづくり協議会事務局」が発行しています。

ぶらり港まち新聞
http://www.minnatomachi.jp/shinbun/

発行日/2013.11

地元の旬な素材でつくるシンプルな料理

瀬戸内海の島で食べる幸せなごはん。

先日、瀬戸内海にある女木島(めぎじま)で、
「“SEED” by Nomadic Kitchen | 食のつながりを育てる。」
というイベントが開催されました。
カリフォルニア州バークレーのオーガニックレストラン「Chez Panisse」の料理長、
Jérôme Waag(ジェローム・ワーグ)さんと一緒に学んで、食べて、語り合う、
そんなイベント。

女木島は小豆島から船を乗り継いで1時間半くらいで行ける島。
高松からは、めおん号という赤と白の可愛らしいフェリーに乗って20分ほどで着く。
東京で開催だとなかなか行けないけれど、
こんな近くで、しかも瀬戸内海の島で開催されるとなれば、
これは行かねば! と島の友人たちと一緒に女木島へ行ってきました。

高松で出迎えてくださったスタッフの皆さんたち。

オリーブや野の花でつくられたブローチが受付のしるし。

高松から女木島までは、赤と白のめおん号で20分ほど。

このイベントを企画されたのは、「Nomadic Kitchen」さん。
野村友里(eatrip)さんなどの料理人の皆さんによる食のプロジェクトで、
さまざまな土地を訪れ、地域の風土や文化を身体にとりこんでいく、
食の集いを開いています。

当日は、あいにくの天気。
パラパラと降る雨の中で、女木島にある「Beach Apart」に向かいました。

出迎えてくれたウェルカムボード。
庭や軒先、テーブルの上に飾られた植物。
これから料理される下ごしらえされたおいしそうな食材。
雨だろうと寒かろうと、ワクワクせずにはいられない雰囲気が
すでにそこにはありました。

海辺に置かれたウェルカムボード。

庭のテーブルに飾られたオリーブや野の花。

立派すぎる鯛! 瀬戸内海は海の幸も豊富です。

ピザに乗せられる食材たち。右上は大根の実、食べられるんだとびっくり。

そして、乾杯とともにいよいよ料理スタート。
U字溝でつくられた即席の窯で薪を燃やし、その上に大きな大きな鍋。
そこで、ジェロームさんが豪快にパエリヤづくり。
庭にあるレンガの窯ではピザが焼かれ、大皿サラダも並びました。

ジェロームさんと原川慎一郎(BEARD)さんが乾杯の挨拶。

庭のレンガづくりの窯でピザ。ピザ生地にお醤油ベースの和風ソースを。

大皿で運ばれてきたサラダ。どれも野菜を切って少し味つけしただけ。

目の前でつくられていく料理はどれもとてもシンプル。
素材の色や形がわかる状態。
パエリアの中には、切らずに1本まるごとのワケギが入っていたり、
グリーンサラダは、葉を少し切ってドレッシングをかけただけ。
素材をそのまんま食べている、そんな感じでした。

1本まるごとのワケギがたっぷり入ったパエリヤ。

葉を切ってドレッシングをかけただけのグリーンサラダ。

鯛もシンプルに焼くだけ。それにワケギと山菜の薬味を添えて。

つくりこまれた料理じゃなくて、なるべく素材に手を加えないシンプルな料理。
あらかじめすべてを決めて準備万端にしておくんじゃなくて、
その場の雰囲気やノリにある程度まかせてつくられていく料理。
各地から集めた贅沢な食材じゃなくて、そこにある旬なものをいかした料理。

それは、本当に心もお腹も満たされる幸せなごはんでした。

小豆島に戻って次の日、さっそく畑からあるものを調達。
ワケギ、若いニンニク、小松菜がとう立ち(花を咲かせようと茎が伸びること)して
できたナバナ、アスパラ。
友人が用意してくれた旬のタケノコとあわせて、
みんなで一緒に料理して食べました。

あらためて、旬の食材がすぐ近くにある、小豆島、
瀬戸内海の豊かさに気づいた1日でした。

失われつつある日本の伝統的な暮らしを高校生がインタビュー。「聞き書き甲子園」

高度経済成長期を境に大きく変わった、日本の暮らし。
森や海、川と共に生きる伝統的な暮らしはいまや
失われつつあります。
豊かな暮らしの知恵や言葉を、未来のために
少しでも残すことができたら。
そんな思いから始まったのが、「聞き書き甲子園」。
夏休みの時期に、毎年全国から100人の高校生が参加。
聞き書き実習の合宿を経て、全国の炭焼き職人、
漁師、海女など、自然と関わるさまざまな職種の"名人"の
言葉を聞いて記録するプロジェクトです。
話し手の語り口でまとめられた文章から、“名人”の人柄や
生き様が浮かび上がってきて、読むものを感動させます。

参加高校生100人が集まるの聞き書き実習の模様。実習は3泊4日で行われ、交流会などもあります。合宿を終え、100人それぞれが一対一の聞き書きへ出向きます。

今回コロカルでは、北海道羅臼町で昆布拾いをする藤本ユリさん
の「聞き書き」を全文掲載します。
ユリさんは毎年夏に知床半島の突端に近い浜、
赤岩にある番屋(詰所)に住み、一人っきりで
自給自足の生活を行い、昆布を拾い続けている漁師さんです。
ユリさんのカッコイイところは、知床の番屋暮らしに
誇りを持っているところ。彼女の生き方は、地域の人たちに
とっても生きる指針となっているんだそう。
「聞き書き甲子園」からもほぼ毎年記者が訪ね、
たくさんの人と交流を続けています。

■拾い昆布漁業、藤本ユリさん

大正15年1月3日生まれ、87歳の藤本ユリさん。

1.自己紹介
藤本ユリ。生年月日は大正15年1月3日、今はもう86歳。職業は漁師。生まれはね、北海道の乙部村、今は乙部町。嫁いだのは函館の古川町。子供が二人、孫が八人の家族だ。
漁師っつっても正しい名前は拾い昆布漁業。9年間旦那と昆布拾いやってたけど、俺が60歳の年に亡くなっちまった。そのあと余所で働いてもよかったんだけど、いろいろ考えて一人でもできる職業だから「いや俺は昆布拾いする」っつって、ずぅっとやってる。

2.俺、わがままな子供だったな
今おっきくなって考えたら、子供のころはわがままだった。勉強は好きでねぇ、というより嫌いだ。好きなわけねぇ、覚えられねぇから。勉強のことはぜんっぜんね、だめだった。ひとっつも書けね。今もだめだけどな。今までかかわってきた人から手紙をもらって、それを読むことはできるんだけど、書くことはまったくだめなんだ。勉強嫌いで好き勝手して、だけどじじばばもいたったからね、だんじだんじに(大事大事に)育ててもらったね。周りがみんな男の子ばっかしだったのよ。俺は女の子だったからね、それこそだんじだんじに育ててもらった。ほんとにどうしようもない、わがままだったな。

3.農家の生まれで昆布拾いに
俺の生まれたとこは農家だけど、嫁に行ったとこが漁師だから、そのときから漁を始めたね。その前にも、豚やってたし、鶏もやったんだけど、豚もだめ鶏もだめ。借金だらけだし…。ほかにもイカ漁、ウニ漁、カニの缶詰工場に勤めたり、なんでもやった。でも売れなかったね。そのときに昆布拾いしたの。一人でできるってのもあってね、羅臼越して向こうの赤岩のほうさ行ってね、昆布拾いやったの。

4.拾い昆布漁業とは
昆布の採り方っつったって、たいていの人は船使うんだわ。船さ乗って、岸からだんだん深いところに向かってね、はさみみたいなやつで挟んでねじって、からめてちぎるんだ。はさみみたいなやつは昆布採り竿っていうんだ。でも赤岩の昆布は意外と浅いところにもあるから、採りやすいんでねぇか。
俺の拾い昆布漁業は、岩に生えてる昆布が、ぐらぐらと波で揺らぐべさ。で、大きな波が来て、今度その岩から離れて押し流されて寄ってくるわけ。波の力でちぎれて、浜に流れ着くんだわ。それを俺が拾って歩くんだ。だから番屋にいて、天気が悪くなって嵐が来て、大きな波が来ても俺はこわがらねぇ。逆にうれしくなるんだわ。次の日に浜へ行ったら昆布が流れてくるから。
ほかの漁師は、みんな昆布採り竿を使った方法だ。拾い昆布やってるのは俺一人しかいねぇもん。いや一応三人いることになってるけど、誰も行がねぇから。昆布拾いってね、道具で採る権利を持ってる人はね、拾い昆布の権利も持ってるけど、拾わねぇ。たまに拾うけど、手間のかかる作業なんだ。原始的っちゅうかな。機械も何も使わないからよ、大変なのよ。だからみんなやらねぇんだ。

5.働き場は「赤岩」
俺の働き場は赤岩ってところだ。赤岩は知床岬の突端にある浜だ。羅臼の港から船で1時間かからないくらいだな。息子か孫に舟漕いでもらって行ってる。
行くときは、3㎞以上離れてるけど隣の番屋の人間が行ったら俺も行ってたな。昔は5月だった。でも今は自分一人じゃ行かれねぇから、送ってくれる周りの人間の都合いいとき。最近は7月ごろになるな。
でももうこれからはずっと6月に行こうと思ってる。早めに行って浜をきれいにするんだ。1年間草をがって(刈って)ないし、流れ着いたごみを拾わねぇと。半年放っておくと浜はやっぱ悪いところも出てくるんだ。それだからやっぱり直したりしねぇど。あんまり遅く行くと浜直せねんだわ。きれいにした昆布を、玉砂利の上で干さなきゃなんねぇのに。余所の浜から拾っても、自分の浜さ持ってくるまでに、ごみとか付いちまう。それじゃ二度手間だ。
それにほかの人より後に行ったら、いい昆布が少ないんだよ。やっぱり昆布は早いうちのほうがいい。ほかの人が採ってから、そのあとに流れて来る昆布って、いいとこ採っだあとの昆布だからね、あんまりいい昆布流れて来ない。どうしても早いうちのほうが、薄いけどいい昆布があるからね。

6.何もない生活、でも住めば都
そこから、電気も水道も電話も何もない生活の始まりだよ。店もねぇ、だんれも(誰も)人っ子一人来ないところだ。したけど住めば都でね、アサリはあるわ、ちっこいカニはいるわ、そんでもってウニはいるし、マスもものすごくいるし、アサリのおつゆ食べて、浜からなんでも採ってくる。ほんとにいいとこだ。
それと赤岩の浜さ来るときに、自分と一緒に舟に乗っけてきた米食べて生活してる。畑も自分で作ったからな。まず赤岩さ着いたら野菜の種まいて育てるんだ。だから野菜とかは買わなくても採れる。それからたくさんの動物が会いに来て、ほんとにいーとこさぁ。友達がいなくても、自然が友達だ。
たまに熊も出るな。熊出て来るったって、熊だって逃げ場なんかねんだからね、おっかねぇったけど、のんきな熊ばっかしだから、あっちの熊は。乙部のほうの熊と違ってさ、そんな逃げねばな、追ってくることってねんだわ。背中向けて逃げるから熊も追ってくる。どうせ走っても負けるし、けんかしても負けるから、ただこっちも棒振り回していんばってれば(威張ってれば)、なんも熊のほうが、なんだあのばばぁ、全然逃げねぇばばぁだなって思うからな、熊も自然にいねぐなる(いなくなる)んだわ。なんぼ熊見でもね、見たら向かって行ってでもいいから、逃げるってことさえしなきゃええんだわ。昔目の前で、連れてきた犬がわんわん鳴いて、俺守ろうとして殺されたこともあったな。やっぱり何もしないでただいんばって、黙って見てるのが一番だわ。

7.あるだけ拾う、ただそれだけ
7月くらいから昆布を拾っていく。服装はかっぱがいっつもの格好だな。濡れなくていい。あと膝まである深い長靴も使ってる。持ち物はそり。拾った昆布をそりさ積んだら、昆布に砂付かねぇべさ。そりがなけりゃ拾った昆布に砂付いたり、浜にごみあったらごみ付いたりする。そりだけ持って歩けばどこでも行ける。あとは杖だな。昔拾った細いけど丈夫な木の棒があるから、その杖をついて歩いてる。
1日にこれだけ拾わなきゃならねぇとかは決めてない。あるだけ拾う。だから日によって採る量は変わる。落ちてるだけ拾う。8月が拾いどきだわ。昔なかなか売れない時期があってね、あっちゃ行ってこっちゃ行ってね、1日1杯(20㎏)で、1杯拾えば7500円、7500円、犬も歩けば棒に当たるって言いながら拾ったの。

8.潮水でゆらゆらと、洗うんだ
拾った昆布は、まず汚いところとか、砂が付いてるところがあったら洗うんだ。でも雨水とか水道水はだめだ。昆布が赤くなって見た目が悪くなる。やっぱいい昆布ってのは真っ青な昆布なのさ。だから潮水で洗う。潮水なら色は悪くならねぇ。浜辺で昆布持ってゆらゆら動かすんだ。そしたら自然と砂もごみも取れる。
きれいになったら次は、昆布をぐるぐる巻いて、伸ばして、落ちてる石をおもりとして使って、しわを伸ばしていくんだ。それを何度も何度も繰り返す。まっすぐなのがいい昆布だ。

9.昆布干すのは、簡単にはいかねぇ
しわがきれいに伸びたら、今度は干すんだ。天気のいい日は2日で乾くんだけど、どうしても3日干さないと、しっかり乾かない。俺が安心するためっちゅうのもあるね。
でも、干すのもそんな簡単にはいかねぇんだ。海辺の太陽にさらして、玉砂利の上に置いて干すから、その途中でもちろん雨が降ることもある。そしたらもうその昆布はだめだ。ずーっと濡れてると色が悪くなる。茶色くなって臭くなるんだわ。それじゃあもう売りには出せん。逆にいい昆布でも干しすぎたらだめなんだわ。ばりばりになって折れたら、せっかくの大きくて色のいい昆布でも、高くは売れなくなっちまう。
余所の人だら、乾燥機持ってるからね。乾燥機でみんな干してるから、天気なんて関係ねぇ。拾い昆布漁業は乾燥機だめだってか、付けられねぇっていうから。それに乾燥機でやるっつったらうづ(家)から赤岩まで持ってくるのが大変だ。だから俺は玉砂利の上置いて、3日間太陽に当てるしかねぇ。乾燥機のある人は、すぐ乾燥機さ入れるべさ。俺拾うのも一人、磯上げるったって一人、干すときだって一人だから。今日天気良くたって次の日天気悪いばね、全部だめになるんだわ。したけどね、たくさん干して手一杯のときでもね、見たら拾わねぇでもいられないんだよね。だって落ちてるから拾いたくなるもの。
干してる途中に雨に当たるのは悪いけど、拾ってるときに雨に当たるのはまだ大丈夫なんだわ。だから天気の悪いときは、拾ったらすぐ海の中に漬けておく。漬けておけば潮水の中だから腐らないの。したけどね、雨水だったら、すぐだめになるの。拾って、洗って、伸ばして、乾燥させて、まっすぐにしてやっと売りに出せるようになるけど、乾燥させるのが俺にとっちゃ一番大変だわ。

10.最近は、つらいね…
何がつらいかって? もちろん乾燥中の天気も嫌だけど、売れないことが一番つらいね。この頃は羅臼に昆布は余ってるから、俺のはなかなか売れねぇんだ。こればっかりはどうしようもね。もちろんいい昆布は売れていくけど、悪い昆布は残っていく。検査員が来てこれはだめ、あれもだめって言われると、悲しくなるね。根っこは食えねぇから、細かく切って薬になったりする。だから一応は売れる。あんまりいい昆布じゃないからって、まさかひとっつも売らないってことはできないと思う。お土産にでもして売れやって言われても、いやだなんて言うだけの昆布でもないと思うわけ。いっぱいあるからね、2本か3本の昆布だったらお土産にするっちゅうこともあるんだけどね、何千の昆布だもの。諦め切れねぇわ。

11.赤岩を離れるのが、何より寂しい
昔は 10 月の前半までいたんだけどね、今は迎えに来る息子や孫たちが俺のこと心配だっていうんで、早くて9月後半ぐらいに帰るな。帰るときは俺ずっと赤岩を見てしまうよ。離れるのが寂しい。俺な、赤岩さ行くたんび(度)に思う。あそこにいると、あー、俺は生きているんだなぁって実感するんだわ。大自然の中で、一から十まで全部一人で生活してるとね、ひとつひとっつのことするたんびにほんとにそう思うんだ。
今まで昆布ばっかし何百枚も拾ってきたんだよ。したからね、悪い昆布を拾ってもなんとなく愛着がわくんだわ。俺、拾うのも一人、磯上げるったって一人、干すときだって一人。確かに昔は寂しい時もあった。夜になれば暗いから、一人でランプの灯つける。昼間になれば、拾った昆布は1日で乾くわけでねから、干したり拾ったり干したり拾ったりする。
まぁ、寂しかったときもあった。でももうそれは通り越したよ。黙々と作業してたら気にしなくなるもんさ。楽しくなってくる。赤岩にいると生きてることを実感するから、そこを離れて、うづ(家)に帰るほうが寂しくなるときもあるね。

12.やるよ、赤岩で、90 歳まで
俺は 90 歳まで赤岩さ行く。つっても 90 過ぎたら行かない。90 まで昆布拾いして、90 から 100 まで生ぎるから、あどの 10年間はうづにいで、ゆっくり生きる。あんまり人の世話にならないで、目立たないで、暮らしていく。それがこれからの目標だ。
90 過ぎたら、きっと昔のことも家族のことも、なんもかんも忘れてくと思うからね、そこまで頑張るんだ。どんなに元気でも、90 過ぎたら赤岩さ行かねぇってもう決めたんだ。だって舟乗るときも大変、降りるときも大変で、もう一人じゃどうしようもできねぇもん。二人も三人も息子や孫たちに後ろに付いてもらってようやく舟さ乗る。波があるとこならね、舟がぐらぐらぐらぐら動いてね、なかなかいい具合にすぐ足かけて降りるってことできねぇから。したら何べんも家族から、来年から行かねぇ方がいいかべって言われるけど、俺は来年だって行くっ!つって…。赤岩さ来るたんびに(度に)来年の話してる。自分では何もどこも悪くないと思ってるけど、だんれもいねぇ赤岩さいるのはやっぱりよくないっちゅうからねぇ…。羅臼のほうの人たちも心配だって言うからねぇ…。だから、90 で終わり。跡取りとかも作るつもりはねぇ。息子は息子で違う漁してるからな。だんれもいないよ。もう俺で終わりだ。
前にね、番屋の屋根が穴空いてたり、五右衛門風呂の調子が悪くなったことあったんだわ。そいで迎えに来た息子たちに直してもらったんだ。もう赤岩さ行くのやめろやめろって言われてるけど、直されちゃあまた来年も来たくなるべさ。俺笑っちゃったね。
でも、90 まで赤岩さ行って昆布拾い続けたらもう俺は満足だ。もう決めたからな。それを達成できたら十分だ。あとはみんなに迷惑かけずに、100 までゆっくりするわ。

取材日:2012年10月27日、11月17日

【取材した高校生】
逢坂 理子(藤女子高等学校2年当時)
取材の感想:
昆布にはこんな採り方があるのか、というのが、名人のプロフィールを見たときの初めの感想でした。取材の時期と仕事をなさっている時期が合わず、実際に仕事をなさっている姿や、仕事の道具を拝見できなかったことは非常に残念でした。漁師、という全く関わったことない職種の方とお話しすることとなり、初めは右も左もわからないことばかりでしたが、お話を聞いていくうちに、ユリさんが本当に赤岩での生活に誇りを持っていることが、話だけでも伝わってきました。それをまとめるのは骨が折れる作業ではありました。
しかし、同時に聞き書きはとても楽しかったです。「聞き書き甲子園」という機会は、ユリさんという人間と、インタビューという単なる質問で接するだけではなく、対話をしていくことで、藤本ユリさんという「人格」に引き込まれていくうれしさを実感し、大変心を動かされました。日常で自然と口に入って来るもの、目にするものは、すべてたくさんの物語があり、大切に手を加えられているんだと、深く考えるようになりました。これまでの人生になかった、素晴らしい経験でした。

「聞き書き甲子園」のことは、映画にもなっています。
高校生への指導は聞き書き甲子園卒業生の
大学生が行うのだそうで、このプログラムで
一生の仲間との出会いが生まれていると、
運営する「NPO法人共存の森ネットワーク」副理事長の
工藤大貴さんは語ります。
今年はどんなドラマが生まれるのでしょうか?

聞き書き甲子園
聞き書き甲子園facebook

冒頭写真:奥田高文

お地蔵さんの口元にあんこを塗りたくる!福島県新地町の奇祭「あんこ地蔵供養祭」

全国津々浦々、いろいろなお祭がありますが、
福島県の北部にある新地町の「あんこ地蔵」は、
ちょっと変わったお祭りです。

季節は毎年8月お盆後の日曜日。
二羽渡神社にあるお地蔵さんの口元に、
あんこをたっぷり塗りつけるんです!

これは、新地にいたお坊さん「家山(かざん)和尚」を祀るお祭り。
家山和尚は元禄年間のころ、新地の空き家に住み着いたお坊さん。
いじめられている子供や病気の女性など、
地元の困っている人を積極的に助けてくれました。その御礼に、地元の人は
和尚の大好物であるあんこ餅を差し上げるように。

そうして皆を助け、慕われた和尚も寄る年波には勝てず、
床に伏せるように。和尚が「自分が死んだ後もみんなを守ってくれる
お地蔵さんを建てて欲しい」と願ったところ、地元の庄屋さん
の呼びかけによって立派なお地蔵さんがたてられたのです。
そのお地蔵さんを見て安心した和尚は、8月24日に亡くなりました。

ところが和尚の死後、となり町の住むおばあさんが
神経痛の足を治してもらおうとあんこ餅を抱えて和尚を訪ねてきます。
和尚の死を知って悲しんだおばあさんは、せめてもということで
お地蔵さんの口元に持ってきたあんこ餅を塗りました。

すると、たちまちおばあさんの神経痛が治ってしまったのです!
以来、お地蔵さんにあんこを塗ってお願いごとをするようになったのだとか。

そんな言い伝えがあって、
家山和尚の命日には、和尚が大好きだったあんこを
地蔵の口もとにぬって供養しているというわけです。
ユニークなお祭り、地元の人に慕われた
和尚さんの人柄と温かさが伝わってくるようです。

あんこ地蔵供養祭
参考資料

あれから1年、今年もまた春の畑で

2度目の春を迎えて。

「小豆島の里山から」というタイトルでこの小豆島日記を書き始めてちょうど1年。
季節は再び春となりました。
小豆島で迎える2回目の春です。

どんどん暖かくなっていくこの季節は本当に気持ちがいい。
暖かい太陽の光、心地良い風、そして色とりどりの花々。
文句なしに最高の季節です。

畑からの風景。満開の桃の花とその向こうに段々畑と肥土山の家々。

去年植えたクールミント。暖かくなり一気に地面から新しい芽が出てきました。

1年前といまとを比べると、だいぶ状況が変わりました。
ひとり娘のいろはは幼稚園児から小学生へ。
家の改修工事が終わり、カフェの営業をスタート。
たくちゃん(夫)は1年間の農業研修を終え、知識と技術を習得。
軽トラ、トラクター、畝立て機など農作業に必要な車や機械をゲット。
いまでは、移動は基本的に軽トラ、ブイブイいわせて走っています(笑)。

草刈り機は必需品。

去年購入したトラクター。斜面のため片側に乗って操作。

さて、この春も畑で作業。
1年前に借りた畑のひとつが、ようやく作物を植えられる状態になりました。
切り株と石ころだらけだった休耕地(使われていなかった畑)。
地図で見たらほんとに小さな畑なのに、
自分たちの手で耕すとなるととてもとても大きい。
ほかの作業もしながらなので、なかなか進まず(言い訳です、笑)。

先日、島の友人たちに手伝ってもらって、やっとトラクターを入れて土をおこせました。
ふたりだとなかなか進まない作業も、友人たちが揃うとあっという間に終わります。

切り株と石ころだらけだった休耕地。この春やっと蘇りました。

島の友人たちが手伝ってくれました。山々を眺めながら10時のおやつ。

蘇った畑にレモンの苗木を移植。3年後くらいにレモン収穫できるかな。

そして、いろはもお手伝い。
苗の定植作業など内容によっては、しっかりひとり分の仕事をしてくれる。
この1年でいちばん変わったのはいろはかも。

マルチ張りの手伝いをするいろは。

とうもろこしの苗を定植します。

最近は、畑以外にもカフェの営業やその他のプロジェクトなど
やることが増え、せわしない毎日。
でも私たちの暮らしのベースは「農」。
この1年も毎日畑で土と野菜を触っていたいなと思います。

ゲストハウス「へんぼり堂」でヨガや染物を学ぶ! 東京本土唯一の村にある宿にはヒッチハイクで行くツワモノも

新宿から電車+バス、もしくは車を使って約2時間ほど。
東京都本土唯一の村「檜原村(ひのはらむら)」に
イベントスペース併設のゲストハウス「へんぼり堂」はあります。
築120年の古民家をのべ350人で協力しながら
改修したゲストハウスは
素泊り一泊3,000円、一棟貸切30,000円。
また、ヨガや染物、野点(屋外で楽しむお茶会)、
村ならではの美味しい食事作りなどが体験できる
魅力的な「習い事」がたくさん企画されています。

スーパーおばあちゃんヒロ子さん師匠。こんにゃく・蕎麦・うどん・おやきづくりを教えてくれます

大人気のヨガと座禅会はお寺で。玉傳寺からの景色も見ごたえ有り!

デザインから型作り、染めまで全部自分の手でやる本気の草木染め合宿

ヒッチハイクできたツワモノたち。檜原村は主要道が南北に1本ずつしかないため乗せてくれることがあるとか。*ヒッチハイクをおこなう場合は充分ご注意を!あくまで自己責任で

へんぼり堂は、ゲストハウスではありますが
一番の目的は「皆がつながる場」として機能すること。
檜原村に住む人や興味をもって村にやってきた人たちが
一緒に体験して学び、遊び、笑いながらつながっていきます。
そしてさらに、誰でも「教える人(師匠)」になれるのも
おもしろいところ。
檜原村でなにかをやってみたい!という師匠希望の方も募集しており
謝礼も出るそうです。

東京とは思えないほどの自然のなか
体を動かしながら学び、つながりができていくのは素敵ですね。
ぜひ遊びに行ってみてください!

【へんぼり堂の近日開催イベント】
4/19-20 倒壊した窯小屋を再生!超突貫小屋作りプロジェクト!
4/26-27 一泊二日本気の草木染め!
4/29(火) 日帰り特訓!村のおばあちゃんワークショップ!
5/5-6 プロジェクト発足から1年これからの1年をみんなで考えよう!+へんぼりファーム
5/12-13(月火)平日開催!ヨガと座禅合宿!てんこ盛りの二日間!
5/17-18(月火)春だ!ヨガと座禅合宿!てんこ盛りの二日間!

へんぼり堂
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フォトいばらき 2014年春季号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

茨城県北エリアには、地球が形づくってきた大地の歴史や人間の文化的歩みを見ることができる貴重な自然・文化遺産が数多く残っています。
これら地域の環境保全と観光を整備し、まとめられたのが茨城県北ジオパークです。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2014.4

ミラクルな幸運とミラクルな過失

岡山県都窪郡早島町。
日本のへそのような位置にある岡山の、そのまたへそのような小さな町。
この話はその町のどこかにある、コーポ造りというか、
比較的新しめというだけでこれといって特徴のない2階建てアパートの一室から始まる。

その前に今回の出来事の背景にあるいくつかの問題のうち、
ふたつをここで明らかにしておきたい。
まずひとつはレンタルDVDの延滞料だ。
昨今、大手チェーンのTSUTAYAもGEOも、
店舗によって差はあるらしいものの、
新作・準新作以外の「旧作」のレンタル料金は1週間100円でほぼ定着している。
なんともありがたいデフレ価格なわけだけれど、
一方、延滞料金となると競争の原理はまったく働くことなく、
全国相場は一日につき200〜300円。
家の近所にあって、ぼくがもっともよく利用しているGEO茶屋町店では
240円で設定されている。
レンタル料からしてこの延滞料、ちょっと高すぎやしないか。

問題のもうひとつは、この10年ほど続いている
あまりよろしくないぼくの個人的な経済状態である。
家の事情で2004年から東京と郷里の倉敷を行き来する生活を始め、
直後に個人で定期刊行のフリーマガジンなんぞ立ち上げたものだから一気に状況は悪化。
号を重ねるごとに生活は困窮し、ついには物価の安い郷里へ完全Uターン。
雑誌の発行を終えた2010年からは、
Uターン以降本業としている広告制作に打ち込んでゆるやかな回復傾向を示すも、
2012年に岡山市内でコーヒースタンドという新たなビジネスを始めることになり、
ふたたび冬の時代へ(その顛末はこちら、『マチスタ・ラプソディー』でどうぞ)。
そして昨夏に18か月間心血を注いだ店を閉めたことで
状況はいくらか改善するはずだった。
ところが実際はその逆で、わずかの風に揺れる風知草のごとく、
いまやどんな支払い・請求書の類にもざわざわとして胸がざわめく。

東の空もまだまだ濃い闇にある午前5時。
早島町の件のアパートの一室で、ぼくはひとり物音をたてないようにして
必死の探しものをしていた。
といってもお盗(つと)めに励んでいるわけじゃなく、
そこはぼくの住まい、一室は我が家の居間である。
探しものは、3歳になる娘のチコリのために1週間前に借りた
ディズニーの『白雪姫』、そのDVDディスクがまったく見当たらないのだ。
返却用バッグのなかに空のケースを見つけたのは午前2時頃だった。
まあ、すぐに見つかるだろうと、その後余裕で映画を1本見た後、
娘がディスクを置いたり隠したりしそうな場所を探してみた。
が、この『白雪姫』がどこにもない。
かれこれ1時間近く探してみたけど、ありそうな気配もない。
返却期限はその日の午前10時。
GEO茶屋町店の開店前に返却しないと、冒頭で述べた延滞料240円がかかる。
この料金設定に納得しかねる気持ちと、
同じく冒頭で述べた個人的経済事情が絡み合い、
延滞料の支払いはなにがあっても避けねばならぬ。
この10年で染みついたその思いは、悲しいほどに強いのだった。
窓の外がうっすら白みはじめるにつれ、気持ちはげんなりしてきていた。
しかし今から思うと、そこで開き直って気持ちに余裕をもてたことが勝因だったと思う。
「音楽でも聴きながらじっくり探そうか」と、
アンプの横に山積みになった50枚ほどのCDの中から、
何気なくチェット・ベイカーの1枚『Sings』を手にとった。
ぼくは熱心なジャズファンでもないし、
少なくともこの1年ほどまったく聴いていなかったCDなのだけれど、
そのときなんとなく手が止まったのがそれだった。
ディスクを取り出そうと、プラスチックのケースを開けた。
と、目前にあるそのディスクに思わず我が目を疑った。
なんとそこに失踪中の姫がおわしたのである。

同日の正午頃。ところは変わって、
倉敷市の南端にある人口約7万人の地方都市・児島。
瀬戸内海に面した風光明媚なこのまちにぼくの仕事場がある。
所在の住所が元浜町であることから「元浜倉庫」と呼んでいるそこは、
小さな港が目の前にあり、背の高いスレート造りの倉庫然とした建物のなかに、
ぼくの制作会社「アジアンビーハイブ」と、
グラフィックデザインの「after hour(アフターアワー)」の2社がある。
といっても、ぼくのほうはひとりきりで、
後者もリュウくんとユウコさんの夫妻ふたりだけ。
3年前に保護して以降、事務所の番犬と化している
元野犬のサブロー(通称サブ、推定10歳)を加えても、ごくごく小さな所帯だ。
この見た目インダストリアルなわりにゆるげな職場に、
今年の3月からぼくのプライベートのパートナーであるタカコさんが新しく加わった。
彼女のビジネスはコーヒー豆の焙煎と販売、屋号は「元浜倉庫焙煎所」。
結果、ひとつ空間の中でデザインとコーヒーというまったく異なる業種が混在する、
かなりレアな場所が誕生することと相なった。

話を元に戻そう。その日のお昼頃、友人のフジタくんが元浜倉庫に弁当持参で
お昼を食べにやってきた。ぼくは早速彼に早朝の顛末を語り出した。
「どこにもないんだよ、その『白雪姫』が。もうホントまいったね」
フジタくんは10数年前、縫製の技術を勉強しようと
郷里の兵庫・丹波から裸一貫バイクで児島に移住してきた強者で、
いまでは繊維のまちとして知られる児島でも唯一だと思う、
フリーランスの縫子として生計をたてている。
近所に住居兼工房を構えていることもあって、
月に半分ぐらいは元浜倉庫で一緒にお昼を食べている、まさに常連中の常連。
「そりゃあ驚いたよ。まさかチコリがそんなところにDVDを入れているなんて
思いもしないじゃない? だって、チェット・ベイカーだよ!」
浮かれ気味な口調もさもありなん、
あのDVDディスクを見つけた瞬間の感動といったらなかった。
ぼくはクリスチャンでも仏教徒でもないけど、神の存在を身近に感じたぐらいだ。
午前中ずっと「やっぱりオレ、愛されてるなー」みたいな
温かい気持ちで満たされていた。しかし、話はこれで終わらない。
ぼくの場合大抵そうであるように、
この手の幸運の後には地震の揺れ戻しのようなものがやってくる。
今回のそれはまさに電光石火だった。
携帯電話が鳴った。目の前にいるフジタくんはまだお弁当の途中。
「GEO茶屋町店のタブチ(仮名)と申しますが」
その朝返却したDVDに100パーセント間違いはあるはずなかった。
返却期日も作品の中身も本数も、
すべてバッグに入れたままにしておいた伝票で確認してから返却したのだ。
臆することはなんにもない。
「DVDなら今朝時間内にちゃんと返しましたけど、なにか問題が?」
「いや、今朝のじゃなく、先週の木曜日にTSUTAYA児島店さんに返却されたDVDの件で」
この電話の主はGEO茶屋町店。ぼくがもっとも利用するお店で、
今朝返却に立ち寄ったばかり。
そして、この店の次によく利用するのがTSUTAYA児島店である。
コンビニで立ち読みするような感覚で、仕事で通りかかったときにたまに立ち寄る。
しかし、「TSUTAYAに返却したDVD」と言われても、
そのときはまったく思いあたるふしがなかった。
「あの、なんのことですか?」
「先週、TSUTAYA児島店さんに返却されませんでしたか?」
その時点でもさっぱりわからなかった。ぼくは電話に集中しようと、フジタくんを事務所に残して倉庫の外の部分に出た。
「なんのDVDかな? 作品名とかわかります?」
「はい、ええっと『ちいさなプリンセス』……」
瞬間、半分を理解した。
あれだ、10日ほど前、チコリが保育園に行きたくなくて
あまりに泣きわめくものだから連れて行くのをあきらめ、
児島の事務所に連れて行ったあの日。
事務所で退屈するだろうと、途中でチコリとTSUTAYA児島店に行って
DVDを借りたのだ。でも、あれはちゃんと返却したはずだ。
理解できなかった半分は、
そのことでなぜにGEOからこうやって電話がかかってきているか
ということだった。……うん?
「オレ、間違えましたか?」
「ああ、はい」
携帯をもったまましばらく片手で頭を抱えた。
どうしようもない思い違いだ、200パーセントTSUTAYAで借りたと思い込んでいた。
チコリちゃん、あれはGEOだったっけ……。
「TSUTAYAさんで預かっていただいていますので、
ピックアップしていただいて、うちの方にご返却いただけないかと……」
電話の声がはるか遠くに聞こえる。振り返って事務所のなかを見た。
透明のアクリル越しにフジタくんが右手に箸をもったまま、
なにを見ているのか、真剣な顔でスマホの画面に見入っているのが見えた。

その日の夕方、GEO茶屋町店で『ちいさなプリンセス』の
4日分の延滞料金960円を支払った。
ミラクルな幸運で延滞料240円の支払いを免れた同じ日に(延滞が一日だったと仮定)、
ありえないという意味でのこれまたミラクルな過失で960円の損失。
それにしても、こうやって数字だけで表してみると、
なんと小市民的な、些細なできごとか。
あれだけの気持ちの振幅の幅があろうとは、
ましてや神様の名前をもちだしたりするようなことがあろうとは思いもしないだろう。
でも、世の中だいたいそういうもので、
一見、とるにたらない些細なできごとのなかに
大の大人が右往左往するようなドラマがあったり、
そこにまた個人の抱える問題や、その問題の本質が見えたりするのだ。
しかし、今回の場合、問題の本質は
信じられないようなポカを起こすぼくにあるのではなく、
ライバル店であるはずのTSUTAYAとGEOが、
なぜにあのように似た素材、似た色、似た形状の返却バッグを
使用しているのかという点にあると思う。いまさら負け惜しみのようだけど。

昨年の夏から秋まで試験的に営業していた元浜倉庫焙煎所。この春、倉庫の人員すべてを動員して無駄に広かったスペースの一部をショップに改装。随分お店らしい雰囲気に生まれ変わりました。念願のお店がもててタカコさんもここのところご機嫌な様子です。元浜倉庫焙煎所の営業時間は平日の正午から午後4時まで。

「小豆島カメラ」本格始動

1日1枚、写真で発信する。

4月に入り、季節は一気に春になりました。
寒い日が続き、いつ春が来るのかなと思っていましたが、
気づけば暖かくなっていて、あちこちで桜が咲いています。
静かだった農村が、一気に色づき始めるワクワクする時期です。

色づき始めた春の農村。

そして、4月1日より「小豆島カメラ」のWebサイトもスタートしました。
「小豆島カメラ」は、以前もこの小豆島日記の中でご紹介しましたが、
小豆島で暮らす女性7人と、オリンパス、写真雑誌「PHaT PHOTO」、
写真家MOTOKOさんが一緒になって進めている地方×カメラプロジェクト。
私たち島のメンバー7人が、それぞれの日常の暮らしの中で出会うシーンを
オリンパスのカメラで撮影し、Webサイトや展示、雑誌などで発信します。

「小豆島カメラ」のWebサイト。7人で1日1枚写真を公開していきます。

「小豆島カメラ」のFacebookページも運用スタート。

このプロジェクトの目的は、写真を通して
「見たい、食べたい、会いたい。小豆島に行きたい!」
さらには「小豆島で暮らしたい!」という流れを生み出すこと。
まずは発信することで小豆島を知ってもらう。
観光地としての小豆島ではなくて、暮らす場所としての小豆島。
毎日ここで暮らしているメンバーだからこそ撮れる写真を
お届けしたいなと思っています。

そして、実際に足を運んでもらうためにどうするか。
発信するだけじゃ、なかなか人は動いてくれない。
だから、具体的な行動につながる企画をいろいろ考え中です。

1週間に1度くらいは集まれる人で集まって打ち合わせ。

この日はHOMEMAKERSでランチを食べながら。

オリンパスさんから新しい機種のカメラとレンズが届き、お試し。

そのひとつとして、小豆島写真ツアーを考えています。
観光スポットをまわるだけじゃなくて、エリアを絞って、じっくりと歩きながら撮る。
ここでの暮らしを感じてもらう。
そんなツアーにできたらいいなと。
詳細な内容はこれからですが、この夏に実現できるように進めています。

プロジェクトを進めながら、私たち自身は日々カメラの勉強。
オリンパスさんからはカメラやレンズの提供に加えて、
来週カメラの使い方講座を小豆島で開催してもらいます。
「PHaT PHOTO」の方々や写真家MOTOKOさんからは、
外からの視点で見た写真についての意見をもらいます。
いろんなことを吸収しながら、新しい機種、レンズで試行錯誤。
カメラを持ってあちこち出かけては、撮る毎日です。

肥土山農村歌舞伎舞台にカメラを持ってピクニック。

M.ZUIKO DIGITAL ED 60mm F2.8 Macro で桜を撮影。

レンズを変えるとまったく撮れ方が変わる。試行錯誤しながらいろいろ撮影中。

これからまずは1年間、小豆島での暮らしの写真をお届けしていきます。

横手の梵天 後編

いよいよ旭岡山神社へ

吐く息も荒々しくまちを抜けてきた梵天一行は、横手川に架かる橋を越えて、
いよいよ旭岡山神社が鎮座する山へとたどり着く。
ここで各町内が行うことは、「押し合い態勢」の準備だ。
仁王門と本殿で、町内対抗で激しい「押し合い態勢」が行われるため、
壊れやすい頭飾りを外して、身軽な梵天とするのだ。
男衆の怒声を聞きつけ、仁王門へと向かうとさっそく、
押し合いが始まっている。
梵天を入れようとする町内は仁王門手前で、梵天を槍のごとく横に構え、
入れまいとする町内は門内に陣取り、
互いに「ジョヤサー」の掛け声で自らを鼓舞している。
そして、怒号とともに揉み合う両者。
降りしきる雪をすべて溶かしてしまわんばかりの熱気で
仁王門の周囲は包まれる。
こうして、押し合いから抜け出した梵天がひとつ、またひとつと
頂上を目指していく。
頂上までの参道は、すべて雪に覆われており、
滑りやすいことのこの上ないのだが、
梵天を担ぐ者たちの足並みの速さは驚くほどだ。
まるで頂きの本殿に吸い寄せられるかのように、雪の参道を上り詰めていく。

横手川を渡って、いよいよ旭岡山神社への参道へと進んで行く。川の向こうはまさに彼岸。別世界へと入っていくようにも思える。

横手の街区を抜けると現れる横手川の橋。ここからが梵天行事のクライマックスだ。

仁王門の中で、ほかの町内の梵天を入れさせないために立ちはだかる男衆。

梵天を手に仁王門の中へと突っ込み、揉み合いが始まる。一気に盛り上がる瞬間だ。

これから始まる揉み合いが楽しみだと語る。男たちは一日限定の大暴れを楽しむのだ。

仁王門での揉み合いを終えた町内は、山頂に鎮座する本殿を目指し、参道を登って行く。

奉納の時を迎えて

杉の古木が立ち並ぶ参道は約650m。
その先に本殿が構える。
しかし、そう簡単に奉納できないのが横手の梵天。
本殿直下から本殿へは急勾配の長い石段が難所となって待ち構える。
この先、本殿では仁王門で行ったよりも激しい押し合いが行われるのだが、
この胸を突くほどの石段への挑戦も奉納行事のクライマックスのひとつだ。
梵天の重さは頭飾りを外したといっても約30kg。
これを両手で高く掲げながら、すべる石段をどう登るか。
腕自慢を中心にスクラムを組むようにして登って行く町内もあれば、
我こそはと言わんばかりにひとりで担ぎ上げる強者もいる。
町内の結束と梵天担ぎの腕力が試されるだけあって、
無事、梵天を担ぎ上げた先の石段の上では歓喜の声があがる。
皆で力を合わせ、ひとつのことに挑戦する。
そんな単純で当たり前のことにこそ、
本当に大切なものがあると思わせる場面だ。

そして、押し合い。神社本殿で迎え撃とうとする他の町内にめがけ、
槍のごとく構えた梵天とともに仲間たちと突っ込んで行く。
怒号と歓声、男たちの熱が高まり、ふっと途切れた瞬間、
梵天は本殿へと吸い込まれていく。
それは仲間たちとつくり、ここまで担ぎ上げてきた梵天が
無事、奉納できた瞬間でもある。

山の頂にある旭岡山神社の本殿。ここに梵天を奉納するためにはもう一度、激しい揉み合いをクリアする必要がある。

本殿で始まった揉み合い。迎え撃つ者、一気に押し込む者。両者ががっぷり四つに組み、はげしく揉み合いをする。

胸を突くほどの急勾配。本殿に向かって、最後の石段をかけあがる。ここが梵天担ぎの腕の見せ所でもある。

梵天の終わり

こうして、すべての梵天の奉納が終わると、
男たちは梵天とともに山道を下って行く。
登って行く際には血気盛んな形相を見せていた男たちだが、
下りでは口数も少なく足取りも重い。
山の頂きに情熱のすべてを置いてきてしまったような雰囲気ですらある。
誰かが、「横手人ってこんなもの。普段は無口で恥ずかしがり。
梵天の時が特別なのさ」とつぶやく。
そうは言っても、一年に一度の大切な行事をやり遂げた男衆の表情は、
やはり普段とは違う凛々しさを宿しているようにも見える。
山を降りると、町内の女性たちが温かいものをつくって待っていた。
下降祝と呼ばれるものでお酒とささやかなごちそうで
無事に奉納できたことを祝うのだという。
また、ここで梵天をばらし、鉢巻やさがりを神官宅に奉納し、籠は火で燃やす。
まるで、この日を存在しなかったことにするように、
梵天のすべてを消し去ってしまう行為には潔さ以上に寂しさを覚えるが、
これも長い歴史の中での習わしだそうだ。

奉納した梵天とともに山を降りて行く。祭りの余韻が山の静けさに溶け込んでいく。

山の下まで来ると、梵天はすぐに解体される。祭りの中心的存在だっただけに少し寂しい瞬間でもあった。

鉢巻や幕、制札などを神官宅に奉納する。

下降祝いで用意されていたうどんをすする。心まで温まる味わいに笑みがこぼれる。

梵天が行われる意味について

「梵天の日は荒れる」と、横手の人が言う通り、
今年の梵天奉納も始まりから終わりまで、始終雪が降り続け、
ときには吹雪模様となる梵天らしい一日となった。
個人的な話になるが、15年前に岩手に移住してから、
ここ7、8年は、ずっと北東北の祭りや年中行事をテーマに撮影を続けてきた。
東北の風土に興味があり、その延長として始まった祭りへの旅だが、
撮影を続けていくなかで、ずっと頭にあるのは、
今、この時代にこうした行為が「存在すること」の意味だ。
僕たちの先祖の時代、祭りはある意味必然から生まれたはずだった。
少し乱暴な言い方になるが人間は今よりもはるかに弱く、
自然はもっと強大だった。そのなかで人が生きていくために、
人はさまざまな工夫を凝らしてきた。
祭りや信仰は、いわば、こうした工夫が簡単には及ばない領域に関わるもので、
生きることへの切実なる祈りそのものだった。

例えば、各地で行われている「虫送り」を例にあげようか。
今のような科学の力がない時代、田畑を荒らす病害虫を防ぐために
人は祈りというかたちで回避しようとした。
その祈りのかたちが、「虫送り」となった。
今、虫送りをすることで
病害虫から田畑を守れるかもしれないと信じることができる人は
果たしてどれだけいるだろう。
梵天にしてもそうだ。梵天を神社に奉納することで、
家内安全、商売繁盛が成就するということを
心底信じられる人がどれほどいるだろうか。

今という時代はきっとそういう時代で、
そこに悲観や回帰行動を持ち込むものではないというのが、僕個人の意見だ。
なぜなら、祭りは必要とされることで初めて「在る」ことができるもので、
必要とされなくなるということは、
役割を終えたと考えるのが妥当だと思っているからだ。
つまり、今、この時代に祭りが在るということは、
遠い時代に生きた人たちの必然を共有しているのかもしれないし、
また一方では、今の時代を生きるための必然、
言い換えれば新たな価値のようなものを見出した結果ではないかと感じてきた。
そして、僕が心の底から見たい、感じたいと思っているのは、
自分と同じ今を生きる人たちが新たに見出した価値だ。
東北の田舎はある意味問題だらけだ。
人口、医療、農業、経済、教育。
おそらく日本という国が抱えるすべての問題をかなりの深刻さで抱えている。
正直なところ、にっちもさっちも行かないという土地もある。
それでも、人は、そこに暮らしている以上、
生きることへの工夫をやめるわけにはいかない。
そんななかで祭りに新たな価値を与え、
土地とそこに暮らす己や仲間に清々しい息を吹き込んでいく。
まるで現代の夢にも例えられるできごとなのかもしれないが、
東北のあちこちで祭りを見ていくなかで、
そういった力を生み出そうとしている祭りにも出会うことがあった。

では、横手の梵天とはどのようなものだろうか。
この一日があることで、そこに暮らす人に何をもたらし、何を生み出すのだろうか。
梵天を担ぎ、4km先にある旭岡山神社に奉納するためには、
最低でも7人程度の男衆が必要だと聞いた。
多くの町内は、20〜30名の男衆で組まれていたが、
なかには最小人数でヘトヘトになりながらも、必死で雪の参道を上り詰め、
皆で梵天を掲げようしにて石段を一歩一歩登り、本殿へと駆け込んだ町内もあった。
もしかしたら、そういった町内のなかには、
人出を確保するのが困難となり、
梵天を続けることが難しくなっている地域もあるかもしれない。
それでも、皆で力を合わせ、今年も梵天をあげる。
そこにはそれぞれが梵天を担ぎ上げるその意味を胸に刻み、
かつ、そこへの価値観の共有があるに違いない。
遠い時代、祭りとは、人間が大いなる物語に身を委ねる時間だった。
そこでは個の存在は消え、
神や仏といった大きな世界のなかに身を投じることができた。
そこではきっと、なぜ、祭りをやるかという理由は
まったく必要ではなかったはずだ。
ところが今の時代、大いなる物語は遥かに遠のいてしまった。
そうしたとき、祭りを続けるために必要なものとは
実はごくごく当たり前でパーソナルな思いではないだろうか。
たとえば、明日もこのまちや家族と一緒に暮らしていきたいと願うような。

梵天を担ぐ横手の男衆や彼らを支える人たちは何を思い、
旭岡山神社を目指すのだろうか。
いつか、ひとりひとりの胸の内を尋ねてみたい思いがした。
横手では、梵天を終えると高く積み上がった雪がゆるみ、
冬の曇り空に春の明るさが宿るそうだ。

横手川を渡る梵天。横手の自然の中での祭りの営みは、どこまでも美しい。

梵天を担ぐこと。そこには簡単に言葉では言えないものが隠されているのかもしれない。

横手では梵天が終わると、季節が長い冬から春へと歩み始めると言われている。

島のディープな農家&宿、コスモイン有機園

野菜の話を聞きながら、自分の手で収穫。

小豆島で暮らすようになって、本当にたくさんの方々のお世話になっています。
そのなかでも、移住する前から相談にのってもらっていたのが、
コスモイン有機園さんのご夫妻。
有機園さんは、農家であり、民宿もやっていて、
WWOOF(ウーフ)のホストでもある。
ウーフというのは、有機農場や、環境を大事にする人たち、
自然が豊かに残っている場所、または人と人との交流を大切にしているところと、
農業や、生き方について学びたい人や、
仕事の手伝いや家事の手伝いをしてみたい人たちとをつなぐ組織。
有機園さんには、いつもいろんな国から
ウーファーさん(ホストのところに行き、手伝いする人たち)が来ています。

大根を収穫する子どもたち。まさにうんとこしょ、どっこいしょ。

レモンを収穫。おいしいそうなのを選んでチョキリ。

有機園さんにはヤギがいます。それにしても小豆島に来てからヤギが身近になった(笑)。

雨上がりのしっとりとしたグリーン。これは白菜のなばな。甘くておいしいのです。

先日、久しぶりに有機園さんのところへ。
カフェのメニューで使う無農薬のレモンをいただきに。
もう私たちの畑のレモンはなくなってしまったので……。

有機園さんは、うちから車で15分くらいの長浜という地区にあります。
島の北西にあり、北側には瀬戸内海、その向こうに岡山が見える場所。

雨がしとしと降り、霧がたち込める日。
久々にうかがった有機園さんは、とてもしっとりとしていました。
その中を、鳥の声が響き渡る。
心落ち着くなんともいい場所だなーと改めて思いました。
私たちが暮らしている肥土山とはまた違う良さ、人の手が入り過ぎていない、
まさに自然の中というのをひしひしと感じる。

この日は島の友人も一緒に行ったのですが、私たちはレモンを、友人はお野菜を購入。
購入というか収穫というか。
まだ土の中にあるもの、木についているものを自分たちの手で収穫させてもらいます。

おかみさんと一緒に収穫。とにかく楽しくてうれしい。

キャベツ。この芯のところが甘くておいしいのよーとおかみさん。

レモンは傷がつかないように二度切りするのよー。専用のハサミもあるの。と教えてくれる。

一緒に収穫してくれる有機園のおかみさんがいろんなことを教えてくれる。
「ルッコラはポテトサラダに刻んで入れるとすごくおいしいの」
「キャベツはこの芯の部分が甘くていいのよ」
「レモンは傷をつけないように二度切りするのよ」
これがまたすごくいい。
どんな野菜も本当に愛おしく宝物に思えてくる。

収穫したほうれん草を畑脇の水道で洗う。

すごく鮮やかな人参と真っ白な大根。

ピチピチのほうれん草とルッコラ。

同じ野菜がぽんっとスーパーに置かれていても、なんとも思わないかもしれないけど、
この場所でおかみさんの話を聞きながら収穫した野菜は、ずっと大切なものに思える。
そう感じさせてくれるおかみさんの言葉とこの場所は、
改めてすごくいいなあと感じました。

収穫後、自家製ピーナッツバターとマーマレードが塗られたクラッカーとお茶。
この日台湾から来ていたウーファーの女の子たちと一緒に。

有機園さん自家製のピーナッツバターとマーマレード。

ここは、農とそれをベースにした人の繋がりがある、本当に素敵な場所です。

information


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コスモイン有機園

住所 香川県小豆郡土庄町長浜甲1446-1
TEL 0879-62-4221
http://ww82.tiki.ne.jp/~cosmo-yuki/

information


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HOMEMAKERS

住所 香川県小豆郡土庄町肥土山甲466-1
営業時間 土曜(喫茶のみ)13:00~17:00(L.O. 16:00)
日曜(喫茶&カレー)11:00~17:00(L.O. 16:00)
http://homemakers.jp/

横手の梵天 前編

雪の朝 梵天奉納のはじまり

横手市役所前に集まった梵天に雪が降りしきる。
大人の梵天のほか、子供梵天も集合する。
「ジョヤサー、ジョヤサー」
ほとんど視界がきかないほどの吹雪のなか、
祭り衣装に身を包んだ男たちが大声で叫ぶと、
横手市役所前にずらりと並んだ30本を超す梵天が
全体に大きくゆらりと揺れた。
と、同時に、先頭で隊列を組んでいた町内が、
梵天を高々と抱え、なだれ込むようにして走り出した。
観衆の喝采を浴びて、そのほかの町内もすぐさま後に続く。
目の前を色とりどりの梵天と白い息を吐く半纏(はんてん)姿の男衆が勢いよく通過していく。
梵天の隊列が目指すのは、ここから4km先、
山上峯の山頂に鎮座する旭岡山神社。
五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、それぞれが祈りを抱え、
梵天とともに凍てつく雪の山を目指すのだ。
2014年2月17日。毎年恒例の梵天奉納の始まりは、厳寒期の横手らしく、
人もまちも、そして梵天も雪で真っ白に染まっていた。

狼煙を合図に、旭岡山神社を目指して出発する。男衆の熱気が一気に膨らむ瞬間だ。

勇壮で華やかな横手の梵天

梵天は秋田を代表する祭り習俗のひとつだ。
大曲(大仙市)の「川を渡る梵天」や太平山(秋田市)の「三吉梵天祭」など、
県外にも広く知られる梵天行事も多い。
横手の梵天も行事の意味合いとしては他のものと同じだ。
町内会や仕事仲間で作った梵天を
五穀豊穣や家内安全などの祈りを込めて奉納するもので、
小正月行事のひとつとして約300年の伝統を持つ。
そもそも「梵天」という言葉は仏教語に由来し、
淫欲を離れた清浄な天を意味することから、
掲げた梵天で邪気が払われ、浄化されると信じられてきた。
また、神が降りる祭場を標示するため、
高く茂った樹木や竿に御幣をつけたことが、
梵天の形状の原型になったとも言われている。

しかし、横手の梵天については、
弘化2年(1845年)横手城主である戸村十太夫が行った
全町あげての巻き狩りがその始まりだという。
約300年前の2月16日夜から始まった巻き狩りは、
全町あげての催しだったため、
町民はもちろん、町の防火、火消し組も参加した。
巻き狩り終了を告げられた17日の夜明けに、この町の火消し、
火防組が、「まとい」を高々と掲げ、装いも勇ましく旭岡山神社へ参り、
無火災祈願する姿が、梵天奉納の原型となったというのだ。
当時の人々の目に映った火消し、防火組の勇ましさと「まとい」の美しさ。
それが今に見る横手梵天の優美さと勇ましさに受け継がれているのである。

優雅さと優美さで知られる横手の梵天。頭飾りは干支や時局ものが多い。また最近は、仕掛けものも見られる。

色とりどりの梵天。町内ごとに伝統があり、それを踏襲しながら新しい飾り付けがなされる。飾りによって、重さが大きく変わってくる。

原始宗教に見る梵天

こうした横手の梵天について、詳しく説明してくれたのが、
横手市観光協会・梵天委員長の若松明さんだ。
75歳を迎えた若松さんは現在、運営側にたって、梵天を指揮しているが、
かつては22年間にわたって“梵天をあげてきた”大ベテランだ
(横手では、梵天奉納のことを「梵天をあげる」という)。
若松さんによると、横手の梵天は他地域の梵天同様、
いわゆる幣束(神祭用具)のひとつなのだが、
優美さや豪快さで抜きん出た存在だという。
まず、特徴となるのは、竿の長さで、全長は4.3mもの杉の木を使う。
この竿先に円筒形の竹籠に頭飾り、鉢巻、紙垂、さがりなど、
町内ごとに意匠をこらした色とりどり、美しい飾りが付くことになる。
これによって、全体の長さは5mを軽く超え、
総重量も重いものになると40kgを超すという。
「これを両手でバランスを取りながら担ぎ持ち、山を駆け登るんだから、
並大抵の腕力じゃできませんよ」と若松さんが語るのももっともである。

また、梵天は幣束であると同時に男性器の暗喩でもあるため、
寝かしたり、倒したりしては縁起が悪いとされてきた。
秋田の梵天は、仏教や修験道に由来すると言われる一方、
原始宗教にその源流を見いだすこともできるという。
男性器をモチーフとするという説は、まさにそういったところだろうか。
縄文へと続く東北の風土の奥行きを感じさせるエピソードのひとつだろう。
なお、梵天は旭岡山神社に奉納するため、基本的には毎年新たに作り替える。

作業は正月明けから始まり、
町内ごとに受け継がれる伝統のスタイルを踏襲しつつ、
頭飾りや細部を作り込んでいく。
祭りのぎりぎりまで、夜な夜な作業場に集まり、
美しい梵天を作り上げるのだ。
こうして各町内が趣向をこらした梵天の細部や美しさは、
本梵天(奉納行事)でも眺めることはできるが、
梵天そのものを見たいのであれば、
本梵天の前日に行われる「ぼんでんコンクール」もおすすめだ。
会場となる横手市庁前に勢揃いした各町内の自慢の梵天の美しさを
じっくりと楽しむことができる。

18歳のときより、22年間にわたって梵天奉納を行ったという梵天委員長の若松明さん。「梵天をやらないことには一年が始まらない」と笑う。

ほら貝を吹くなど梵天には修験道の影響を感じさせるシーンもある。

荒々しく町中を駆け抜ける

神社を目指して駆け出した梵天と男衆は
まず四日町、鍛冶町、旭川町、本郷町などを抜けて、町外れを目指す。
この道のり、梵天を担ぐ男衆はもちろん、応援にかけつけた者も楽ではない。
古いまち並みの狭い道の両脇には雪が高く積まれ、
ますます道幅は狭くなっている。
ここに梵天を抱え、殺気だった男衆が雪崩のごとく駆け込んでくるのだ。
梵天の美しい飾りを暢気と楽しんでいようものなら、
いつ男衆に吹っ飛ばされてもおかしくない状況が続く。
事実、運悪く衝突事故が各所で発生しているのも見受けられる。
とはいえ、怪我がないのも梵天の特徴。
ケンカ山車など、荒っぽい祭りにはある程度の怪我がつきものだが、
「梵天は不思議と怪我はない。神様が守ってくれるんでしょうな」
と若松さんの教え通り、転んでも笑顔で立ち上がって、
梵天を追いかけていく観衆の姿が印象的だった。

道幅の狭い旧市街へとなだれ込んでくる梵天。皆、小走りで駆け抜けて行く。

重い梵天を両手で掲げ、腰を落として運んで行く。腕力はもちろんのこと、バランス感覚が不可欠だ。

旭岡山神社を目指し、進んで行く梵天一行。半纏姿の男たちで長蛇の列となる。

舞台は旭岡山神社へ。
そして圧巻のクライマックス。後編へ続く。

小豆島のダイダイでぽん酢をつくる

地元の素材を商品化するプロジェクト。

私たちが暮らしている肥土山では、柑橘を育てている農家さんが何軒かあります。
温州ミカンやダイダイ、スイートスプリング、ネーブルオレンジ、
とにかくたくさんの種類があって、いまだに種類が見分けられない(笑)。
私たちのじいちゃんが残してくれた畑にも、ダイダイ、スイートスプリング、
金柑などの木が残っていて、毎年冬になると実をつけてくれます。
冬の間は、自分たちで収穫した分に加えて、
いつも誰かからもらった何かしらの柑橘が家の中に。
風景の中にも柑橘があって、オレンジ色の実がなっている景色が
肥土山らしさのひとつだったりします。

柑橘のある風景。私たちの家のすぐ裏の畑。

収穫したダイダイ。葉つきのダイダイは鏡餅などのお正月飾りに使われます。

この柑橘の栽培も少しずつ減っているそう。
後継者がいない、サルの被害が大きい地域では
温州ミカンの生産が難しくなっているなど、いろいろな理由から。
あと、日本人のミカンの消費量がここ30年で3分の1くらいになったそうで、
需要が少なくなっている、高い値段で売れないというのも理由のひとつなのかも。

そんななかで、いま地元の人たちと一緒に、小豆島のダイダイを使った
ぽん酢をつくるプロジェクトを進めています。
ダイダイは、ゴツゴツとした大きな柑橘。
名前が、「代々」「代々栄える」に通じることから
縁起のいい果物とされ、鏡餅などのお正月飾りに使われます。
そのまま食べるととても酸っぱいので、果汁をしぼって調味料として使うことが多く、
地元のおばちゃんたちは、ダイダイの果汁を冬に絞って冷蔵庫で保管していたりします。

ワタ(果実のまわりの白い部分)は苦いので絞る前に剥きます。

スクイーザーでひたすら絞る。思ったよりもたくさんの果汁。

自家製ぽん酢づくり。お醤油、昆布、かつお削りなどを使って。

去年の冬は、自分たち用に家でつくってみましたが、
今年はいろんな方々と一緒に本格的な商品化を目指して。
先日、ダイダイを栽培している生産者さん、島のお醤油屋「高橋商店」さん、
農業普及センター、産業技術センター発酵食品研究所の方など約20名で、
試作品第1号の試食会。
会場は、うちのカフェで。

ぽん酢の試食用に、サラダや白菜蒸し、湯豆腐などを準備。

島のお醤油屋「高橋商店」さんが製造を担当。説明される高橋 淳社長(右)。

農業普及センターや産業技術センター発酵食品研究所の方なども参加。

味、デザインなどいくつかの視点から採点。

朝から、ぽん酢を試食するための、湯豆腐や白菜蒸し、サラダなどを準備。
顔合わせを終えて、さっそく試食開始。
「ダイダイの香りがもう少しするといいねぇ」
「パッケージはもっとシンプルなほうがいいかも」
「この価格でもいけるのかな」
など、それぞれが思うところを話し合いました。

そして試食会後は、ごはん会。
こんなふうにして地元の人たちにカフェを使ってもらえるのは、とても嬉しいこと。
ここから、新しい商品が生まれる。
ワクワクします。

試食会のあとはごはん会。

まだまだ始まったばかりのプロジェクト。
これから、味、デザインなど少しずつ改良していき、定番商品にすることを目指します。
そして、こういうひとつひとつのプロジェクトが、
柑橘のある風景、お醤油屋さんのある風景の維持に繋がればいいなと。

書籍『週末は田舎暮らし~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記』。平日は東京、週末は南房総。いいとこどり生活を手に入れるまで

UターンでもIターンでもなく、
平日は都市に住み、今までの仕事をしながら、
週末だけ田舎で生活する「二地域居住」というライフスタイル。
いわば都会と田舎の良いとこ取り。
二箇所に居住の拠点を置くということで、
別名"デュアルライフ"とも呼ばれています。

そんなデュアルライフを8年にわたって続けている、
建築ライター・コーディネーターの馬場未織さん。
平日は東京で仕事をし、週末は千葉県南房総市の
山間地で暮らすという生活を2007年から8年もの間、
続けている女性です。
ご家庭はサラリーマンの共働きで子供は3人。
猫も2匹います。
いったい普通の家庭が、どうやって東京と南房総にある
広大な農地でのデュアルライフを成功させているのか?
そんないきさつを馬場さん自身が綴った
書籍「週末は田舎暮らし~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記」(ダイヤモンド社)
がただいま発売中です。

3月になっても札幌のまちには 大量の雪山が残っていた

先日、初めて札幌市に行きました。
札幌は寒い。それは知っていたんですが、
一番驚いたのは、市内に残る大量の雪。
3月になり、東京では春の陽気になっていますが、
札幌では背丈以上もある雪が、市内の道路に
うず高く残っています。ロードヒーティングといって、
循環式で道路を温めているところには雪がないのですが、
そうでないところの雪は気温が上がらないので
残ってしまうようです。
地元の方に「これは雪まつりですか?」と聞いたら
「違います」とのことでした。違いますよね。

滞在中は、これらの巨大な雪の上に、
さらに新しく雪が降って積もっていくのを目撃し、
「これは消えないだろうな..」と実感。
遅いところでは5月ぐらいまで消えないそうです。
ちなみに札幌市では、ゴミならぬ処理した雪を捨てる
「雪堆積場」が冬になると郊外に設置され、
巨大な雪の山が出来ます。

と、札幌の雪はすごいのですが、
寒さに関しては、湿度が低いのでとっても快適でした。
本州の冬の切れるような寒さとは違って、
カラッとさわやかな寒さという感じです。
今年の夏には「札幌国際芸術祭 2014」も開催される札幌。
きっと大きな盛り上がりを見せてくれるでしょう。

冬の農村、日々の暮らし

春を待つ、肥土山の景色と私たち。

3月も中旬なのにまだまだ寒い日が続きます。
つい先日も雪が散らついていたし。
今年は春が来るのが遅いという噂を聞きました。

冬の農村は、ほかの季節に比べるとやっぱりとても静かです。
何も植わっていない茶色い田んぼ。
葉っぱがついてない木々。
なんとなく全体的に茶色が多く、元気というよりは穏やかという雰囲気。

刈り取られた稲が残る静かな田んぼ。

帰り道。山もなんとなく茶色。

夕暮れの肥土山。人がいないとほんとに静か。

ぱっと見は少し寂しそうだけど、よーく見ると、
冬の農村にもそれぞれの日々の暮らしがあって、
歩いてるといろんな人に会います。

夕方、犬の散歩に出かけると、焚き火をする近所のおばあちゃんに出会う。

いろは(娘)「こんにちはっ」
おばあちゃん「いつも元気やねえ」

といつもの会話。

焚き火をする近所のおばあちゃん。ときどきうちにコーヒーを飲みに来てくれる。

幼稚園のお友だちに遭遇。
肥土山にはヤギを飼ってる農家さんが何軒かあって、
そこに行って一緒にエサ(その辺に落ちてる草や野菜くずとか)をあげる。

ヤギさん「メェ」
子どもたち「キャーキャー」

肥土山の農家さんが飼ってるヤギさん。

幼稚園のお友だちに遭遇して、一緒に野菜くずをあげる。

またもやお友だちに遭遇。
今度は空き地で自転車を乗りまわす。

空き地で自転車。子どもたちにとってはちょっとしたスペースが遊び場になる。

何気ない石垣や灯籠も、日々誰かが手入れをして、いままで残し続けたもの。
この農村の雰囲気をつくっている大事な要素。

きれいな石垣。いまはこの石垣を組める人も少ない。

灯籠。何気なくそこにあるけど、昔は立派な明かりとして使われてたのかな。

家に帰ってくると、たくちゃん(夫)は春に向けて苗作り。
もみ殻やワラを使って、苗を育てるための温床作り。

ワラを細かく刻む作業。

苗を育てるための温床を作る。

これが私たちの日々の暮らし。
毎日が全部こうではないけれど、大半はこういう風景の中で
ご近所さんたちと共に過ごしています。
都会とは明らかに違うここでの暮らしを通して、
子どもたちがどう成長していくのかなと見守りながら。

少しずつ春に向かいつつある肥土山。
もうすぐ庭の桜の花が咲きます。
桜の木に取りつけた、いまはまだ空き家の巣箱。
もう少ししたら新しい住人はやってくるのかな。

桜の木に取りつけてある巣箱。ヤマガラさんとかやってくるかな。