〈 この連載・企画は… 〉
フォトグラファー、津留崎徹花が、美味しいものと出会いを求め、各地を訪ね歩きます。
土地の人たちと綴る、食卓の風景を収めたアルバムです。
text & photograph
Tetsuka Yamaguchi
山口徹花
やまぐち・てつか●フォトグラファー。東京生まれ。『コロカル』のほか『anan』『Hanako』など女性誌を中心に活躍。週末は自然豊かな暮らしを求めて、郊外の古民家を探訪中。
ある日の午後、「牛が生まれるよ~」という知らせを受けた。
電話口の女性は、千葉県南房総に住む鈴木俊子さん。
以前この連載で「やん米」という郷土料理を教えてくれた方。
その鈴木さんからの電話だった。
鈴木「ほら、ちっこ食べたいって言ってたでしょ。
そろそろ生まれるよー、来れる?」
待ってました!
テツ「いつまでに伺えば間に合いますか?」
鈴木「あと4、5日で生まれるって言ってたから、そのあたりはどう? 来られそう?」
テツ「はい! 行きます行きます!」
鈴木「ふふふ、よかった。じゃ、お待ちしてますよ~」
お礼を伝えて電話を切ると、じわっと嬉しさがこみ上げてきた。
ひとつは「ちっこ」に出会えること。
そしてもうひとつ、鈴木さんが忘れずに連絡をくださったこと。
以前この連載で、千葉の郷土料理を地元のお母さん方に教えてもらいました。
(「千葉・太巻き」「千葉・やん米」)
その帰り道、バス停まで送ってくださった鈴木さんと「ちっこ」の話に。
鈴木「牛の初乳を煮立てると固まるんだけど、それがホワホワで美味しいんだよね~」
産後の牛の初乳は高タンパクなため、火を入れるだけで固まる。
それをいろいろな調理法でいただくのだそう。
ただ、初乳はとても足が早く、搾ったらすぐに煮立てないと傷んでしまうらしい。
そのため、一般にはあまり流通せず、酪農家さんのあいだで楽しまれている逸品。
鈴木さんは年に数回、それを馴染みの酪農家さんからいただくのだとか。
そんな話を聞いてしまったら、体感しないわけにいかない。
どうにか食べてみたいとお願いしてみると、
鈴木「次に生まれるとき連絡しようか?」
と、約束をしてくれた。
そして今回の電話につながる。
数日後、東京駅から高速バスに乗り、南房総を目指す。
待ち合わせの場所、道の駅「富楽里」に到着した。
以前、鈴木さんに見送っていただいた場所、ここで再会する。
バスから降りて辺りを見回すと、駐車場の奥に鈴木さんの姿が見えた。
テツ「こんにちはー、いろいろとありがとうございます」
鈴木「よく来たね~、大変だったでしょ」
鈴木さんの顔を見ると、つい昨日も一緒にいたような親近感が湧いてくる。
人を安心させる何かを、鈴木さんは放っている。
車に乗せていただくと、袋いっぱいに詰められたみかんが、後部座席に鎮座している。
鈴木「これ、重いけどお土産に」
なんとありがたいお心遣い。
鈴木「あとこれも、重いけど」
千葉県産のお米5キロ、確かに重い。
けれど、そのお気持ちが心に染み入る。
テツ「いつもすみません、ありがとうございます」
鈴木「いい景色があるんだけど、そこ回って行こうか?」
はい!
取材に行った10月は、ちょうど南房総はみかんの最盛期に差し掛かっていた。
木々には、橙色に熟した実がこぼれおちそうになっている。
みかん畑の緩やかな景色を眺めながら、いただいたみかんを頬張る。
瑞々しくて甘い汁が、口いっぱいに跳ねた。
私を迎えに行く前に、もぎたてのものを買いに行ってくれたのだそう。
感涙。
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ちょうどみかんをひとつ食べ終えた頃、酪農家さんのお宅へ到着。
鈴木「今日ね、ここの牛やさんがちっこ作ってくれるから、ちょっと待ってて」
鈴木さんが先に車から降り、ご挨拶に向かう。
玄関先で何やら話をした後、急いで戻って来た。
鈴木「そろそろ温度が上がるんだって! 早くしないと!」
???
どういうこと?
わからないけれど、手早く機材を準備してお宅へ突入。
テツ「おじゃまします!」
台所に入ると、コンロに置かれた大鍋と向き合っているお母さんの姿が。
テツ「こんにちは、今日はありがとうございます」
柔和な空気をまとっているお母さん、前田みつさん。
少し緊張している様子で、こちらをちらりと覗く。
母「どうも~」
テツ「いま、これはどういう状況ですか?」
母「この温度計が80度超したところでしょぉ、90度になるまで温めるのね」
鍋には真っ白な牛乳がたっぷりと注がれ、少し泡が立ち、こんもりしている。
そこへお父さんが登場。
テツ「すみません、おじゃましています」
父「あ~、よくいらっしゃいました~」
前田善治さん。
端正なお顔立ちに、薄茶色のきれいな瞳が印象的。
父「今日はなんか、ねぇ、熱出ちゃってねぇ」
??
テツ「熱? どなたがですか?」
父「いや、お産した牛がね、熱出しちゃったもんだから」
あっ、人ではなく牛ですね。
父「だから、初乳が使えないんですよねぇ、
獣医さんが来て抗生剤を打ったもんだからね」
??
えと、初乳ではない?
父「今日はだから、牛乳のほうでね」
ん?
とすると???
テツ「あの、この、いま煮立ててるのは?」
母「普通の牛乳」
……。
牛がお産で熱を出した場合、抗生剤を投与することがある。
そうした牛の牛乳を飲むと、薬が人体に影響を及ぼす可能性があるので、
一定期間飲むことが禁止されているのだ。
初乳に……初乳に出会えなかった……。
しばし呆然。
父「初乳より、普通ので作ったほうが美味しいんですよ」
そうなんですか?
母「知り合いもね、初乳じゃなくて普通の牛乳のがいいって、
こっちが欲しいって言うんだよねぇ」
ほぉ、そうでうすか、ふむふむ。
母「でも、初乳で作るより量ができないのね、だからけっこう大変なんだよね」
初乳は高タンパクなため、大量のかたまりがとれる。
普通の牛乳を使う場合、初乳の半分の量しかとれないのだそう。
鈴木「今日のはほら、搾りたての牛乳だから特別だよ、
なかなか食べられないよー」
ふむ。
初乳に出会えなかったのは残念だけれど、これはこれで楽しみ。
母「そいだから、今日はお酢を入れるわけ、
初乳と違ってそれだけじゃ固まらないからね」
なるほど、それでこのカップが用意されていたのか。
テーブルの上に、お酢の大瓶と計量カップ。
牛乳に含まれるタンパク質が、酸性のお酢によって固まる。
テツ「お酢はどれくらい入れるんですか?」
母「このお鍋いっぱいで、180ccちょうど」
テツ「このお鍋だと、牛乳はどれくらいですかね?」
母「うーーーん、7リットルか8リットルじゃないかと思うよ」
なるほど、ざっくりですね。
温度計を注意深く見ながら、
母「そろそろ90度になるよ、いい?」
カメラを構え、スタンバイオッケー!
90度より低いとうまく固まらず、高すぎると堅くなってしまうのだそう。
こんもりした搾りたての牛乳に、お酢が投入されていく。
ゆっくりゆっくり混ぜていくと、少しずつ固まり始めてきた。
なんだか実験みたい、ワクワク。
母「あっ、いいね、よくできた」
お母さんの顔から、安堵の笑みがこぼれる。
穴空きのお玉で、丁寧にすくっていく。
大方すくい終わったところで、
母「お父さん、お父さんこれ!」
ここでお父さんの出番。
鍋をよいしょと持ち上げ、シンクに置かれたザルへお湯をこぼす。
テツ「こういうところはやっぱり、お父さんの出番なんですね」
父「いや、普段はやんないですよ~」
照れ笑い。
むわ~っと湯気が立ち上り、部屋中が柔らかいミルキーな匂いに包まれる。
なんだろう、この幸福感は。
母「これ、できたての食べてみる?」
はい! はい!
母「醤油をちょこっとかけてね」
牛乳に醤油とは、意外な取り合わせを初体験。
いただきます!
ほふっ、ほふっ、ほわ~。
とてつもなく濃厚な乳の香りが、もわ~っと口中に広がる。
温かくて柔らかくて、優しい味。
ほんわりした乳の味を醤油がぐっと引き締め、見事に調和している。
テツ「おいしい~! これいくらでもいけちゃいますね」
母「ふふふ、よかった。
息子もこれ出してやると、うめえうめえって食べるもんねぇ」
テツ「このかたまりを、ちっこって呼ぶんですね?」
母「いや、ちっこっていうのは、ここいらの方言で牛乳のこと」
わたくし、勘違いをしていたようです。
鈴木「んだからこれは、ちっこを固めたものとかって言うけどね。
初乳の場合は初乳を固めたものって言うしねぇ」
テツ「初乳のことは、ちっこって言わないんですか?」
鈴木「いや、初乳は初乳、ちっこはちっこ」
母「カッテージチーズって言ったりもするけど、最近になってからだしねぇ」
鈴木「うーーーん……」
ここでお父さんがひと言。
父「ちっこ豆腐とも言いますけどね」
母・鈴木「そうそう」
納得の様子。
次回、ちっこ豆腐を使った料理をお届けします。
★ちっこ豆腐
材料
ちっこ(牛乳):1リットル(少量でも作れます)
お酢もしくはレモン汁:75cc
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