長野の木崎湖で本を楽しむイベントを初開催!しずかな湖畔で「ALPS BOOK CAMP」

7月12日(土)13日(日)、長野県の木崎湖キャンプ場にて
自然の中で本を楽しむイベント「ALPS BOOK CAMP」が開催されます。

「ALPS BOOK CAMP」は、今年初開催。
「山と本の宴」というテーマのもと、書店をはじめ
カフェ、パン屋、アウトドアブランド、クラフト作家など、
約40のブースが、湖畔のテントサイトに並びます。
主催は松本の駅前通りにあるブックカフェ「栞日 sioribi」さん。

■ALPS BOOK CAMPの楽しみ方

書店の出店は、下北沢世代・RMM・山鳩舎、mountain bookcase、
山の本屋 by value books、ことば屋、古本ジャンボリーズ、オヨヨ書林、
パタゴニア・ブックス/パタゴニア白馬、 Books&Cafe ひふみよ、
atelier Rust、栞日 sioribiなど。

お腹が空いたら、Tracks BARのハンバーガーや
こーさんのうちのカンボジア料理、青空屋台の玄米カレー、
creperie monkavaのそば粉のクレープなどで腹ごしらえ。

パフォーマンスの出演は、ささきりょうた(ギター弾き語り)、
峰村慶太朗(ギター)、tomoe(ギター弾き語り)、
ウチダゴウ(詩の朗読)、とびだシアター(読み聞かせ)ら。

そのほか、ひといき荘によるハンモックトリップや湖上カヤック体験など
魅力的なプログラムが一杯。

夜にキャンプファイヤーを楽しんだ後は、そのまま宿泊することも可能です。
キャンプサイトで目覚めたら
あのなつかしい歌のフレーズ「しずかな湖畔の森の影から」が聴こえてきそう。
テントを持ち込んで宿泊する場合は、当日申請すればOK。
バンガローやレンタルテントを利用する場合は、木崎湖キャンプ場へ予約が必要です。
くわしくは公式サイトをチェックしてみてください。

ALPS BOOK CAMP
木崎湖キャンプ場

島で考える、本と本屋のこと

夜の小豆島にて

小豆島を目指したのは4月上旬。
夜8時半、高松港から島行きの最終フェリーに飛び乗ると、風には冷たさが残る。
薄手のセーターに薄手のジャンパーの装いでは寒さを感じるほどだ。
夜9時半、フェリーが小豆島・土庄(とのしょう)港へ着く。
仕事帰りの勤め人、予備校帰りと覚しき学生たちの列に混じり、僕も島へと降り立った。

小豆島に来たのは、前回紹介した夏葉社・島田さんが主宰する
「町には本屋さんが必要です会議」(通称:町本会)を取材するためだ。
町本会はそれまで、東京のブックカフェを会場に、
本屋のあり方を参加者と一緒に考えるトークイベントを3度開いていたが、
存続の厳しさを指摘されているのはむしろ地方の町の本屋だ。
島田さんもそのことを気にかけていて、4回目にして地方での開催となった。
僕が本屋を開こうとしている勝山(岡山県真庭市)も、いわば本屋の空白地帯。
勝山で店を立ち上げるヒントを求めて、小豆島を訪ねたというわけだ。

島田さんとは、島で落ち合うことになっていた。
すでに島にいる島田さんに連絡すると、「すぐ迎えに行きます」とのこと。
待つことしばし、てっきり島田さんが迎えに来てくれるのかと思いきや、
クルマで僕をピックアップしてくれたのは、
今回の町本会で島田さんと対談するサウダージ・ブックスの淺野卓夫(あさのたかお)さん、
僕がかねてからお会いしたいと思っていたその人だった。

僕が淺野さんのことを知ったのは、2年ほど前のことだ。
お世話になっているミシマ社という出版社のウェブマガジン「ミシマガジン」で、
インタビュー記事を読んだのがきっかけだ。
(思えば、島田さんとのご縁も、「ミシマガジン」での取材だった)
記事で読む淺野さんの経歴は、僕には眩しすぎた。
学生時代に文化人類学を学び、
大学院生のときには、レヴィ=ストロースに憧れてブラジルへ留学する。
レヴィ=ストロースは、ブラジルでのフィールドワークを土台に、
構造人類学という分野を切り開いた20世紀の知の巨人。
『悲しき熱帯』(中公クラシックス)、『野生の思考』(みすず書房)などの著作がある。
怠惰な学生だった僕には、とても手が出せる人ではなかった。

淺野さんは、小学生のころから民俗学者・宮本常一の熱烈なファンでもあった。
きっかけは、祖父から手渡された宮本常一の代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)。
この、辺境の地に生きる老人たちの生きざまを記録した聞き書き集は、
少年だった淺野さんの心をとらえ、
忘れられた庶民の生き方にこそ、生きる喜びや知恵があると感じるようになる。
淺野さんがブラジルへ向かったのは、その思いを確かめ、かたちにするためでもあった。

町本会で本について語る淺野さん。静かな語り口に、本への深い愛情を感じる。

「本のない世界」と「本のある世界」をつなぐ

ブラジルは、20世紀初頭に多くの日本人が移り住んだ「日本の外でもっとも日本人の多い国」。
彼らはいわば、日本の外にいる、もうひとつの「忘れられた日本人」たちだ。
言葉もろくに通じない異国の地で、人生を切り開いた彼らの生きざまが語られることは少ない。
淺野さんは、彼らに会いにブラジルへ行った。
そもそも彼らは、何を求めてブラジルへ旅立ったのか。
子孫たちは、なぜ父母や祖父母の故郷に戻ることなく、かの地に留まったのか。
それを確かめ記録に残すことが、淺野さんのブラジル留学のひとつの目的だった。
宮本常一を読んで育ち、レヴィ=ストロースに憧れた淺野さんは、
自分なりの「忘れられた日本人」を記すために、ブラジルへ向かったのだ。

淺野さんが熱心に話を聞いたのは、ブラジル奥地に住んだ日本人移民の古老たちだ。
そこには、日本人である彼らが解する日本語の本などあるはずもない。
「本のない世界」で、言葉も通じず身よりもない彼らの頼みの綱は、自らの生身の身体だけ。
彼らは、いわば身体という「野生の思考」を武器に人生を切り開いていった。
その生きざまは、淺野さんの心を魅了してやまなかった。

だが、彼らの歩みをアカデミズムの言葉に置き換えることに、
淺野さんはどうしても馴染めなかった。
ブラジルの奥地、「野生の思考」に従い逞しく生きた人たちが奏でる言葉を、
都会の研究室に持ち帰り、データに還元して専門用語で分析する。
そのことに空虚さを感じ、葛藤の末に大学院を辞めて日本に帰国する。2003年のことだ。

けれども、彼らが生きた証をかたちにしたいという思いは、消しがたく心に残る。
ブラジルで会った「忘れられた日本人」の言葉が脳裏にこだまする。
「『本のない世界』に息づく野生の知恵や物語を、
『本のある世界』につなげるような活動をはじめたい」
そういう思いがふつふつと沸き起こり、葉山(神奈川県)でサウダージ・ブックスを立ち上げ、
ブラジルや旅をテーマに本をつくり始める。
その後、2012年に京都を経由し、拠点を小豆島に移すことになる。
瀬戸内の島々に眠る物語を、本というかたちに残したいと思ってのことだった。

小豆島に着いたその晩、淺野さんと島田さん、淺野さんの友人の方々と一緒にご飯を食べる。
入った店は、ちょっとしたショッピングモールのようなところのすぐ近くにあった。
一画には、高松に本店を構え、全国に店舗を持つ宮脇書店もある。
意外に、と言うと怒られるかもしれないけれど、
小豆島は、「島」という言葉から想像していた以上に、ちょっとした町だった。

文藝の島に眠る物語

翌日、淺野さんが小豆島を案内してくれた。
クルマを運転しながら、「小豆島は牛のかたちをしているんですよ」と語る。
牛の頭に相当する部分をグルっと周る途中、西光寺という寺に立ち寄る。
そこには明治から大正時代を生きた自由律俳句の俳人、尾崎放哉(ほうさい)が眠る墓がある。
同時代を生きた種田山頭火とともに「漂白の俳人」と呼ばれる放哉は、
病に侵された身体で小豆島に辿り着き、最晩年をこの寺で過ごして41歳の生涯を閉じた。
寺の敷地内には、放哉が往時を過ごした庵を再建した「尾崎放哉記念館」もある。
展示を見ながら、放哉について何も知らない僕に、淺野さんが解説をしてくれた。
サウダージ・ブックスでは、去年(2013年)の秋、
放哉を主題にした『「一人」のうらに 尾崎放哉の島へ』(西川勝)を刊行している。

放哉は、酒に溺れる質の人だった。
金が手に入ると酒を呑み、金が尽きると誰彼構わず金の無心をする。
それを見かねた放哉の師匠にあたる荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は、
自ら創刊した自由律俳句の機関誌で、放哉直筆の句の買い手を募り、援助の手を差し伸べる。
放哉は、ときの公務員の月給に相当する金額をいとも簡単に手にするも、
それがまた酒に消える。
それでも放哉の才能には多くの同人たちが惚れ込んでいて、
機関誌というメディアを通じて、少なくない資金が放哉のために融通されていた。
「それって今で言うところのクラウド・ファンディングですよね」
そうこぼすと、「そうですね、ソーシャルですね」と淺野さんは笑って応えてくれた。
驚いたのは、帰ってきて放哉のことを調べていたときのことだ。
井泉水が主宰する機関誌の名は『層雲』という。
まさにクラウド(雲)による資金集めではないか、と目を丸くしたのとあわせて、
「漂白の俳人」たる放哉が、雲によって生かされていたと思うと感慨深い。
流れ行く雲は、ひとつところに留まって生きることのできなかった放哉の人生を連想させる。

西光寺に建てられた放哉の句碑。刻まれている句は、「いれものがない 両手で受ける」。『「一人」のうらに 尾崎放哉の島へ』(西川勝)によれば、ひとり病に冒され、暮らしがままならなくなった放哉が、自らの孤独と不如意を笑う句だという。(筆者撮影)

淺野さんいわく、小豆島は文藝の島だ。
圧倒的に有名なのは壺井栄の『二十四の瞳』(角川文庫)だが、島には放哉がいて、
小林多喜二に並ぶプロレタリア文学の旗手として活躍した小説家の黒島伝治もいる。
黒島伝治の短編を集めた『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』も、
放哉の本と同じ時期にサウダージ・ブックスから刊行された。
淺野さんは、これからどんな物語を島から掘り起こしていくのだろう。

町本会のイベントまでには時間があり、島の図書館にも足を運ぶ。
そこは、僕がいま住んでいる町(神奈川県茅ヶ崎市)の図書館と
変わらないぐらいの広さがあるように感じた。
一画では、島の個人蔵書家が寄贈したという本が展示されている。
海外文学全集や萩原朔太郎全集がずらっと並ぶさなかに、
ビジネス書や時事問題を扱う本がひょっこり混じり込む。
一室では古本市も開かれ、
小学校の教室の半分ほどのその部屋は、掘り出しものの本を探す人たちで賑わっていた。
島の人たちも本を求めているのだと、
言葉にしてみれば当たり前のことを確認して、何だか少し嬉しくなった。

島の本屋にも立ち寄った。個人経営のさほど大きくない本屋だ。
聞けば、1階を店舗、2階を住居にしているという。
コミックがあって雜誌があって、旅行のガイドブックがあり、Hな本もある。
売れ筋の文庫や新書、単行本も取り扱う。どこでもよく見かける、ごく普通の本屋だ。
島でどんな本と出会えるのかと期待に胸を膨らませていた僕は、
その普通さに肩透かしをくらったような気分になった。
けれども、それは外からやってきた人間のひとりよがりでしかない。
島の本屋は、たまに外からやって来る人のためではなく、
島に住む人たちのためにあるはずなのだ。

地域を支える「苛烈な読書」

町本会は、西光寺からも程近い「Cafe de MeiPAM(メイパム)」で開かれた。
辺り一帯は、古くから「迷路のまち」と呼ばれるほど、通りが入り組んでいる。
島民たちが、中世の海賊行為や南北朝時代の戦乱から身を守るために、
あえて路地を入り組ませ、部外者に容易に侵入させないようにしたのだそうだ。
「MeiPAM」は、「迷路のまち」全体をミュージアムに見立ててアート活動を行い、
その拠点のひとつとして、カフェを運営している。
店内では、サウダージ・ブックスや夏葉社、ミシマ社など、
近年活動を始めた独立系出版社の本の販売も行う。
その名も「迷路のまちの本屋さん」。本記事冒頭の写真が、店の書棚だ。
カフェの2階では、サウダージ・ブックスが事務所を構える。
つまりここは、淺野さんが本をつくって届ける場でもある。
僕が目指す「本屋」も、こんなふうに始まっていくのだろうか――。

「Cafe de MeiPAM」でのイベント当日の様子。参加者からもさまざまな意見が寄せられた。

イベントの参加者は15人ほど。2時間の予定が3時間になるほど話は盛り上がり、
話題は多岐にわたったが、ここではポイントを絞って紹介したい。

淺野さんは、ブラジルで「辺境」と言われる地を訪ね、
自らの手で暮らしをつくる人たちと直に接し、話を聞いてきた。
「本のない世界」に生きる彼らは、自分自身の身体に豊かな物語と哲学を刻印し、
ひとたび聞き手をつかまえると、あたかも自身の肉体が書物であるかのごとく、
生身の肉体に宿る「身体の言葉」で淀みなく話し続ける。

そういう「辺境」の地にも、「書物の言葉」を持つ人たちがいる。
村の知識人と呼ぶべき彼らは、圧倒的な量の本を読み
本から得た知識と関連づけて地域の歴史を語り、地域の行く末を案じる。
彼らが本を読むのは、都市に住む読書家たちとは理由がまるで違う。
都市の読書家が本を読むのは、あくまで自分ひとりのためだ。
知識欲を満たし、仕事の糧にできればそれでいい。
だが、村の知識人たちは、村のため、地域のために本を読む。
勉学の道に進みたくても進めなかった人たちの思いを背負い、
地域を少しでもよくしたいと願って一心に本を読む。
淺野さんは、それを「苛烈な読書」と呼ぶ。
図書館に寄贈した個人蔵書家も、ここ小豆島で「苛烈な読書」をしていたのだろうか。

町の本屋の担い手たち

淺野さんの話を受け、島田さんが『本屋図鑑』(夏葉社)の取材時の体験を語る。
地方の町の本屋、それも個人店は、戦争から帰ってきた人たちが、
町の文化向上のために始めた店であることが多いという。
店主たちの肩には、戦場で命を落とした戦友たちの思いが見え隠れする。

対談の掛け合いで笑みをこぼす淺野さんと島田さん。島田さんは二度目の出家(前回参照)で、以前とは印象がずいぶん変わった。

ここからは僕の推測だが、そういういわば「苛烈な本屋」が、
戦後の出版文化の一翼を担ってきたのだろう。
だが、本にかける彼らの苛烈な思いも、寄る年波にはかなわない。
終戦時に20歳だった人は、もうじき90歳になる。
1990年代後半に22,000店以上あった本屋が、いまでは14,000店強にまで減った。
その理由はさまざまに語られはするけれど、
「苛烈な本屋」の担い手が店から退き、あるいは生涯を全うしつつあることも、
少なからず影響しているのではないだろうか。

いま、「苛烈な本屋」が築いたひとつの時代が終わりを迎えようとしているのだとすれば、
これから、町と本の関係はどうなっていくのだろう。
いまを生きる僕らが、新たに「苛烈な本屋」にならなければ、
町から本が消えてしまいかねない。
ネット書店が津々浦々に本を運んでくれるとしても、
町に住む人が、ふと本と出会う場が失われてしまう。
それは、本にとっても町に暮らす人にとっても、途轍もなく大きな損失なのではないか――。
規模は小さくとも、町に本のある場をつくることが、
いま求められていることなのだとあらためて噛みしめる。
僕が目指しているのは、きっと、僕なりの「苛烈な本屋」をつくることなのだ。

小豆島からの帰り道、高松行きのフェリーのなかで、そんなことを島田さんと話し込む。
「やろうと思った人間がやるしかない」。そう口走ったことをはっきりと覚えている。
思いだけでは生きていけない。それがわからない年齢ではないけれど、
思いがなくては始まらないと、青臭いことを思う。

高松では、宮脇書店の総本店に島田さんと足を運ぶ。
売り場面積およそ2000坪、日本有数の規模を誇る店舗に足を踏み入れると、
フェリーのなかで抱いた思いが、すべて吹き飛びそうになった。
こんな規模は、個人の力ではどうしたってできっこない。
初めて見る本が、山のようにある。まともに勝負したら、どう考えても勝ち目がない。
イベント参加者のひとりが、「島にも大きな本屋がほしい」と切実に語ったことを思い出す。
弱気の虫が思わず顔を出し、打ちのめされそうになりながら、店を後にする。

ふと、島で立ち寄った本屋のことが頭に浮かぶ。
地方に住む人たちは、どういう本屋を求めているのだろう――。
本屋はそれに、どう応えていけばいいのだろう――。
結局、本屋を始め、続けていくには、この素朴な問いに向かい続けるしかないのだろう。

島田さんと、高松で別れを告げる。次に会うのは一週間後、舞台は札幌だ。
北の大地に、放哉ではないけれど、
クラウド・ファンディングで経営危機を乗り越えようとしている本屋がある。
僕はそこで、本屋の厳しい現実を知り、いくつものヒントを手にすることになった。

崖から投げられるお婿さん求む!担ぎ手ら6名をご招待。松之山の奇祭「むこ投げ・すみ塗り」

6月といえばジューンブライド。
この時期に結婚式をあげた方や、
友人が結婚した、という方も多いのではないでしょうか。
そんな新婚ホヤホヤのカップルたちにお勧めなのが
新潟県にある豪雪地帯・松之山で毎年行われる奇祭
「むこ投げ・すみ塗り」祭り。
ただいま来年の1月に「崖から投げられるお婿さん」を募集しており、
なんとカップルと担ぎ手合わせて6名の
1泊2日無料招待つきです!

舞台は松之山温泉地。あまり知られていませんが群馬の草津温泉、兵庫の有馬温泉と並ぶ日本三大薬湯のひとつです

これから投げられるお婿さんたち

大雪の中登っていきます

お婿さんはおんぶされた状態で村のはずれにある
薬師堂前まで運ばれ、
高さ5メートル以上ある崖の上から
イチ・ニの・サンで
投げ飛ばされちゃいます。
大量の積雪の上に投げられるためもちろん安全。
投げる方も投げられる方も、
それを見ている人たちもみんな笑顔で楽しそう。
もともとは、よそ者に集落の娘を取られた
はらいせに投げていたのが始まりだそうです。

お嫁さんに墨を塗られてます。めちゃくちゃ幸せそう!

むこ投げが終わったら、今度はすみ塗り。
注連縄や正月飾りなどを燃やした灰と
雪を混ぜてつくった墨を
だれかれ構わずお互いの顔に塗りあい
みんなで「おめでとう」と祝福し
無病息災を祈ります。
約600年も続いている奇習なのだとか。
結婚の思い出作りにいかがでしょうか!

【奇祭「むこ投げ・すみ塗り」】
日時:毎年1月15日 14:00頃~16:00頃
場所:松之山温泉街、薬師堂およびすみ塗り会場
【応募条件】
・今年1月1日から12月31日までの間に結婚された、もしくは結婚される健康なカップル
・担ぎ手4名(体力のある方)を確保できること
・規定の応募用紙にて応募されたカップル
・申し込み締め切り11月末日

まつのやま.com

梅収穫、梅仕事、豊かな里山の時間

今年も採れたきれいな梅たち。

6月上旬、梅の季節です。
今年も友人たちに手伝ってもらって梅の収穫作業をしました。

うちの畑には、お祖父ちゃんの残してくれた梅の木があります。
狭い段々畑の中に、ダイダイやキンカンなどの柑橘と一緒に梅やスモモの木が数本。
これはほんとにありがたいことで、果樹は実をつけるようになるまで時間がかかる。
それこそ「桃栗三年、柿八年」というように数年単位。
実をつける果樹がすでにあるってことはとてもありがたく、
里山にとって貴重な資産なんじゃないかなとよく思う。

段々畑にある梅の木。手入れしないとすぐに雑草だらけになる。

段々畑からの眺め。肥土山の集落が木々の間に見える。

去年は私たちにとっても初めての収穫作業だったので、
友人たち数人を誘って「梅の収穫祭」という感じでワイワイ収穫。
今年もそんなふうにやりたかったのですが、天気と他の畑作業との関係で断念。
雨の中でのガチの収穫作業となりました(笑)。

去年の梅収穫。友人たちと一緒にワイワイ。

いろはも一緒に梅収穫。木登りしたり半分遊び。

まだ青い梅。
うちでは完熟まで待たずにこの青い状態で収穫。
遠くからみると実と葉の色が一緒でたくさんついているようには見えないけど、
いざ近寄って見てみるとあるある!
葉っぱの中にわさわさなってる。

ニヤニヤしながらひとつずつ収穫。
実を採るっていうのはほんとに幸せで没頭する作業。
オリーブ収穫のときにも感じたけど、
子どもの頃にどんぐりを拾い集めたときの気持ちと似てる。

よーく見ると青い梅がたくさん。

収穫した梅たち。実を採る作業はなんとも楽しい。

収穫後は傷がついているものをよけて、サイズを分けて出荷の準備。
これまたありがたいことに、たくさんの友人や知人が梅を楽しみにしてくれてる。
ダンボールに詰めて発送した梅ちゃんたち。
届いた梅をさっそく皆が梅干しや梅酒、梅シロップに加工し、
その写真をFacebookなどにあげてくれる。
その写真を見ると、なんとも言えないうれしい気持ちになる。

出荷準備。傷がついてるものをよけてサイズを分ける。

とてもきれいな青梅ちゃん。今年はサイズも大きくきれいな梅が多かった。

私たちも残った梅を使って、家やカフェ用に梅の仕込み。
丁寧に洗って、拭いて、乾かして、ヘタを取って。
以前の私はこういう作業が苦手だったし、そういう時間を作ろうともしなかったけど、
いまはこういう作業がたまらなくいい。
いろは(娘)も一緒に黙々と梅仕事。

いろはは梅のヘタ取りが大好きで、黙々と作業。

梅干しづくり。収穫後、追熟させて黄色くなった梅を使って。

梅ジャムづくり。傷んだ梅もジャムにできる。

梅のコンポート。どんなふうに使おうか楽しみ。

という感じで今年の梅収穫は終わり、梅仕事も終盤。
来年は皆を呼んで、ワイワイと梅収穫と梅仕事ができるといいなと思います。

千葉・ちっこ豆腐丼

前回の続き「ちっこ豆腐 後編」をお届けします。

ここまでのあらすじを[yahoonews text='へい']少々。[/yahoonews]

以前この連載で[ff_textlink_by_slug slug="tpc-foo-tasty-005"]「やん米」を教えてくださった、鈴木俊子さん。[/ff_textlink_by_slug]
その鈴木さんからご連絡をいただき、千葉の南房総へと向かいました。
訪れた先は、鈴木さんのご友人である前田善治さん、みつさんご夫妻のご自宅。
前田さんは、18歳で始業し、今年で実に60年という来歴の酪農家さん。
子どもの頃からよく食べていたという、[ff_textlink_by_slug slug="tpc-foo-tasty-008"]ちっこ豆腐を作ってくださいました。[/ff_textlink_by_slug]
ちっこ豆腐とは、牛乳を煮立て固めたもので、
千葉の酪農家さんのあいだで親しまれてきた一品。
濃厚な乳の香りとほわほわの食感、優しい味わいに包まれたひとときでした。

今回は、ちっこ豆腐を丼に仕立てていただきます。
作り手は、お母さんから鈴木さんへとバトンタッチ。
では、前田家の台所へと戻ります。

母「としちゃん、タマネギあるからやってみてよ」

お母さんから鈴木さんへ、ちっこ豆腐丼のリクエスト。

鈴木「じゃ、ちいとば鍋貸してもらえる?」

母「いいよ、いいよ、ほれ」

鈴木「玉ねぎなんかもある?」

母「あるよあるよ、ほれ」

着々と準備が整い、調理スタート。
聞けば、おふたりは高校の同級生とのこと。
としちゃん、みっちゃんと呼び合う仲。

母「あそこのお子さん、どうしてる? なんて子だったか、ほら」

鈴木「ああ、あの子、あの、右曲がったとこのね、ね」

なんて塩梅で、うわさ話に花を咲かせるおふたり。

鳥取と台北のいいもの、いい食、 いい暮らしを集めた「鳥取・台北–Design and Craft Hunting–」

日本の民芸品の人気が高まる台湾の台北市と、
民芸や手しごとが色濃く残る鳥取。
「民芸」をキーワードに出会ったこの2つの地域から
それぞれの暮らしの中にある「いいもの」を集め展示・販売する
「鳥取・台北 - Design and Craft Hunting - 」が
6/21(土)より開催されます。
「いいもの」をハンティングしてきたメンバーは
大阪で家具製造・販売など暮らしにまつわるものづくりを手掛けるgraf、
東京でイベントプロデュースやブランディングなどを手掛けるLandscape Products、
台北でレストランやお菓子屋さんを展開するVVG
の三者。
各々の分野で活躍する目利きたちが見つけてきた
工芸品、プロダクツ、おいしい食材が会場に並び、
鳥取と台北の魅力を体感できます。

鳥取と台北のいいとこどり!

会場は東京からスタートし
その後、大阪、鳥取、そして最後は台北までまわります。
また、各会場ではワークショップやトークイベントといった
連動企画も開催されるそう。
鳥取と台北の素敵な出会いをぜひご堪能ください!

【鳥取・台北 - Design and Craft Hunting -】
東京会場:展示期間 / 6月21日(土) - 6月29日(日)
     場所 / CURATOR’S CUBE(東京都港区愛宕1-1-9)
大阪会場:展示期間 / 7月5日(土) - 7月13日(日)
     場所 / graf(大阪府大阪市北区中之島4-1-9 graf studio)
鳥取会場:展示期間 / 7月19日(土) - 7月27日(日)
     場所 / ギャラリーショップそら(鳥取県鳥取市栄町658-3駅前サンロード)
台北会場:展示期間 / 8月8日(金) - 8月17日(日)
     場所 / Songshan Cultural and Creative Park East Tobacco Factory 2F Lab
松山文創園區 東向製菸工廠 2F Lab 實驗室(台北市光復南路133号)
詳細は以下を参照ください。

鳥取台北 - Design and Craft Hunting -
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島のレモンで新しい商品をつくる

新たな名産品が生まれるまで。

小豆島で暮らすようになって嬉しいなと思うことのひとつ、
それは国産のレモンが身近にあること。
国産というか庭産というか(笑)。
うちの庭にもお祖父ちゃんが残してくれたレモンの木があって、
引っ越してきた秋にはすでにレモンがなっていました。

小豆島は本当に柑橘が豊富。
レモンの木が普通に道端に植えられてたりして、思わず採りたくなる。
近所の人からもレモンをおすそ分けしてもらったり。
それくらいレモンは身近な存在。
雨が少なく日照時間の多い島の気候は、柑橘が育つのに適してるんだろうな。

黄色く色づいたレモン。小豆島には大きなレモン畑は少ないけど、畑の隅などにぽつぽつとレモンの木が植えられている。防腐剤などを使ってないものは皮まで安心して使える。

そんなレモンを使って、いま新たな商品をつくろうとしているのが、
友人の「i's Life」の堤祐也さん。
小豆島で栽培しているレモンを使って新たな調味料を試作。
先日、うちで島の友人たちと試食会をしました。

小豆島産のレモンを使った新商品の試食会。

試食会の準備。

i's Lifeの堤さん(右から2番目)。今回つくった加工品の説明など。

露地で栽培しているレモンが収穫できるのは、
小豆島では12月頃から5月頃までの約半年間。
農作物の難しいところは、工業製品みたいに通年同じように生産できるわけじゃなくて、
限られたシーズンしかつくれない。
さらに収穫したあとは長くもたないものが多く、販売できる期間が限られる。
だからこうやって加工することで、育てたレモンを無駄なくいかすことができて、
収穫シーズン以外でも販売できるようになる。

試食会では、肉料理、魚料理、サラダ、お素麺などいろんなものにかけて味をみました。
試食会という名のおいしい小豆島ごはん会だったような気も(笑)。
食べながらあーだこーだと意見を言い合い、もう少し改良することに。

AとBの2種類の試作品。味の違いをみながら。

鶏肉のソテーとズッキーニ。いろんなものにかけてみる。

瀬戸内海産のスズキ。試食会だけど、地元産の食材豊か。

新しい商品をつくるのにはとても時間がかかる。
食品ならその味はもちろん、使う食材、保存期間のことも考えないといけない。
そして、中身が完成してもパッケージや売り方までやることはたくさんある。
大変だけど、この過程はとても楽しくワクワクする。
自分たちの手で新しい商品を生み出してる感がたまらない。

この新たなレモンの加工品が商品になるかどうかはまだわかりません。
近いうちにどこかのお店で見かけることを楽しみにしています。

子育て Ⅰ(チコリ編)

朝に家を出るなり、「(保育園まで)歩いて行きたい」とチコリが言った。
車なら3分、徒歩ならたっぷり15分はかかる。
しかも、車ならそのまま児島の事務所に向かえるが、
徒歩だと一度歩いて家に戻らなければならない。
それでもぼくは「いいよ」と言って、
チコリとふたり、とぼとぼ歩いて保育園に向かった。
周囲の田んぼは田植えを直前に控え、たっぷり水がはられていた。
瀬戸大橋線の線路に沿って走る農道に人の姿はなく、チコリはずっと穏やかだった。
歩調はゆっくりのんびりで、蝶だったり用水のなかの魚だったり、
なにか目についたものがあればすぐに立ち止まる。
ぼくも遅刻を気にしないことにしたら気が楽になって、
一緒に歌を歌ったり、綿毛のついた野草の種子を見つけて飛ばしたり。
なかなかよい時間だった。チコリにとってもぼくにとっても。
毎日とはいかないだろうけど、
ときどきこうしてチコリと歩いて保育園に行くのもいいかなと思った。

最近、どうやって子どもと向き合うかを真剣に考えさせられるできごとがあった。
2週間ほど前のことだ。その夜の食卓でのチコリはまさに悪鬼のようだった。
椅子の上でふんぞりかえって、
片膝を立てたまま何度もフォークを食器にたたきつけたり、
突然ご飯をがつがつとかきこんだかと思うと今度は素手で食べようとしたり。
タカコさんがキツい調子でたしなめても、下からねめあげるようにして、
3歳児とはとても思えない反抗的な目を向ける。
そうかと思うと、突然つぶれたような声で笑いだして、
ぼくとタカコさんに交互に三白眼の目を向ける。
部屋の空気はすさみきって夕飯どころじゃなかった。
普段の振る舞いが決していいわけじゃない。というか、実は結構ひどい。
親の言うことはまず聞かない。やんちゃは度を大きく超えて、
やることなすことハチャメチャである。
でも、そんな振る舞いの根っこのところには
いつも底抜けの明るさやひょうきんさがあって、
だからぼくも始終尻拭いに追われながらも
「ホント、バカだなあ」と言いながら笑っていられる、そんな女の子なのだ。
ところが、どういうわけかその夜は本来の明るさがまったくなかった。

普段、滅多に叱ったりしないというのもあって、
ぼくが「さあ叱りますよ」的なモードに入ると部屋の空気がぴりっとした。
「チコリ、こっちに来なさい!」
毎度のことなのだが、ぼくが少々声を荒げたぐらいでは
そよとも揺らがないのがうちの娘である。
そのときもチコリはこっちを見ようともしなかった。
でも、彼女が座った椅子を力まかせに膝もとに引き寄せると、
いつもとは違うというのを悟ったらしい、まっすぐ視線をぼくに向けた。
しばし無言のにらみ合い。
次の瞬間、タカコさんはぼくの平手が飛ぶと思ったかもしれない。
まだ手らしい手をあげたことがないとはいえ、そうなってもなんら不思議はなかった。
まさにそんな場の空気だった。
しかしぼくがやったのは、その瞬間までぼく自身まったく思ってもいなかったことだった。
目の前のチコリをはしと抱きしめて、「ごめん」と謝ったのだった。

同日夕方のこと。いつもは元浜倉庫を午後5時に出て
早島町にある保育園にお迎えに行くのだが、
その日はタカコさんの焙煎所に遅い来客があり、
倉庫を出たときは5時を大きく回っていた。
雨が降っていたこともあって、あずかってもらえる定時の6時に間に合いそうになかった。
そこでアパートの階下に住んでいる隣人に電話して、
初めてチコリのお迎えをお願いした。
彼女の下の娘さんも同じ保育園に通っていて、
「ついでだから、忙しいときはお迎えに行きますよ」と何度か言われていたのだ。
タカコさんと一緒にまっすぐアパートに戻ると、
チコリたちもちょうど戻って来たばかりらしく、一階の玄関の前で鉢合わせした。
顔を見るなり、ぼくとタカコさんはチコリに「ごめん!」と謝った。
チコリはまったく普段通りで、動揺した様子もなく、
謝られているのがなんのことだかわからないという風だった。
もともと階下の子とは姉妹のように仲がいいし、
お母さんとも昔からの顔なじみだ。
初めてのことではあったけど、さほど気にすることはなかったようだった。
少なくとも、ぼくもタカコさんもそのときはそう思った。

チコリはしばらくぼくの腕のなかで身動きひとつしなかった。
彼女を抱きしめたままぼくはお迎えに行けなかったことをあらためて謝り、
「明日からはなるべく早く迎えに行くから」と約束した。
チコリは回した腕を離した後も、しばらくぼくの膝の上で甘えていた。
そこに悪鬼はもういなかった。チコリに本来の明るさが戻ったのがわかった。

世の中難しいことは山とあって、
ぼくも人並みにいろんな類の難しさを経験しているけれど、
そんないろいろのなかにあって子育てというのは最高に難しいものだとつくづく思う。
その夜はたまたま正解に近いゾーンにたどりつけたかもしれないが、
間違った対応をしていることの方が圧倒的に多いのだ。
普段ゆとりをもって対応できていないというのは理由のひとつだ。
朝は保育園へ連れて行く時間的なリミットがある。
夜は夜で「早く寝させないといけない」という強迫観念のような思いがあるから、
とにかく時間的な余裕がない。精神的にも余裕があるとは言えない。
目の前でやらかしていること、そのあまりのひどさに心の余裕を奪われるのである。
でも、時間と心に余裕がもてたとしても、
子どもの捉え方を間違うとなんにも意味がない。
最近よく感じるのは、子どもとして扱うべきでないときがままあるということ。
ついつい「子どもだから理解できない」という前提で対応していて、
言葉にしてちゃんと説明するとか、理解させようという努力を怠ってしまうのだ。
その夜のチコリの悪鬼のような振る舞いも、
もとは「子どもだから気にならなかった」と、
間違った捉え方をしてしまったがために起こったことだった。
子どもの理解力をなめちゃいけないのだ。
3歳とはいえ、チコリにはすでにぼくと同じか、
あるいはもっと複雑なレイヤーの構造があったりする。
そこのところは刺青を入れるかのごとく、頭の芯の部分に彫り込んでおきたい。

親として自分はどうなのかを考えて自己嫌悪に陥ることがある。
そこそこ自分はできるのではなんて思っていたんだけど、なんか全然ダメなのだ。
チコリのわがままや振る舞いのひどさを見るにつけ、自己採点は厳しくなる。
いまやぼくの点数は0点に限りなく近い。救いはチコリの明るさだ。
彼女が明るさを保てている間は、まあ10点ぐらいはやってもいいかなと。
でも、この10点は死守すべき点数であって、
チコリのあの火を消さないようにしてあげることがぼくの絶対の務めなのだ。
その務めの一環といっていい、
ひとを笑わせるのが大好きなチコリのためにふたりで漫才の練習を始めた。
舞台の袖から出て来るように、小さく手をたたきながら「どうもォ!」。
つづけざまに舞台の中央に立ったつもりで自己紹介。
と、まだここまでの入りの部分しかできていないのだが、
タカコさんのウケは存外にいい。

チコリがモデルデビューを飾った岡山・倉敷シルバー人材センターの募集広告ポスター。2013年秋からハローワーク等の公共施設にお目見えした。チコリは、まあこんな感じの子です。「奈良美智の絵に出てくる女の子にそっくり!」と言われ続けて3年になります。

渡船に乗って、沖ノ島で親子自然観察会

近くの島の自然に触れる。

小豆島、この場所自体が「島」なのですが、
この島のまわりにも小さな島がいくつかあります。
島から島へ船で渡る。
というわけで、先日小豆島の南西にある
沖ノ島(おきのしま)という小さな島に行ってきました。

沖ノ島は、約80人が暮らす小さな島。
多くの人は漁業に携わり、また島のあちこちには当たり前のように畑がある。
いわゆるお店や学校はなくて、何か用があるときは船に乗って小豆島本島へ出かける。
そんなふうにしてここでは暮らしが営まれています。

小豆島本島から見た沖ノ島。島同士をつなぐ渡船。

漁業を営むご夫婦。イカをさばいていました。

堤防に干された玉ねぎ。島のあちこちに畑が。

小豆島で暮らしていても、なかなかこの沖ノ島に行く機会はない。
なんだけど、最近雑誌やWebの記事で沖ノ島をよく見かけて、気になっていた場所。
そんなときに「春の親子自然観察会 渡船に乗って、沖ノ島の自然を観察しよう!」
という絶好の機会。
これは行くしかない! と思い、友人家族も誘って皆で沖ノ島へ。

沖ノ島へは、小豆島本島の小江(おえ)という地区にある
渡船のりばから10人程度が乗れる船に乗って渡ります。
船に乗って海を渡って降りて、全部で3分くらいなんじゃないかという距離。
たったこれだけの距離を移動しただけなのに、
島というのは不思議で、なんとなく雰囲気が違う。
陸がつながっていないのはやっぱり大きくて、
独特の暮らし方だったり文化が残ってるんだろうなと思う。

小江(おえ)にある渡船のりば。

渡船の時刻表。噂では、港に誰か来たら時刻表と関係なく運航してくれるとか。

屋根付きの小さな船は乗るのもワクワクします。

てくてくと歩きながら、普段見過ごしてしまっているものを
丁寧にひとつずつ見たり触ったり。
ところてんをつくるために干してあるテングサ。
畑の肥料にするために干してあるヒトデ。
海岸に流れ着いた銃みたいな形の流木。
浜辺に咲くハマヒルガオやハマダイコン。
望遠鏡の先に見えるカワウ。

堤防に干されたテングサ。これでところてんを手づくりします。

乾燥させたヒトデ。畑の肥料になるそう。

流木っていろんな形があって面白い。ついつい持って帰りたくなる。

浜辺に咲くハマヒルガオ。小さな花がいくつも咲いていました。

望遠鏡の先にはカワウが見えます。思ったよりずっと大きく見える。

今回この企画をしてくださったのは「小豆島自然観察会」の皆さん。
小豆島の自然の中で自然観察しながら、
親子でふれ合う「親子自然観察会」を春夏秋冬の年4回開催しています。
沖ノ島も小豆島本島も、本当に自然が豊かなんだけど、
なかなか深くじっくり入り込めない。
それは私たちが自然との接し方をあまりよく知らないから。
だから、自然への入り方や、自然の楽しみ方を教えてくれる
こういうイベントはとても大切で素敵だと思う。

岩場で貝を探したり。磯にはいろんな生き物がいる。

この日のおやつはサクランボ。大人にも子どもにも大人気。

お母さんと手をつないで堤防散歩。

豊かな自然がある。
それを楽しむ方法を教えてくれる人たちがいる。
沖ノ島も小豆島もそんな場所であり続けてほしいなと思います。

町のパン屋のような本屋とはいかに

忘れられない出会い

勝山で本屋を開こう――。
そう思い立つと、ある人の顔が僕の脳裏に鮮やかに浮かんできた。
いや、あの人との出会いがあったからこそ、
「いつか本屋になりたい」という思いを、今日まで温め続けることができたのかもしれない。

その人は、夏葉社という出版社を営む島田潤一郎さん。
2009年9月、たったひとりで夏葉社を立ち上げ、
5年近くのあいだに11冊の本を世に送り出してきた。
昨年7月には、日本各地の町の本屋を紹介する『本屋図鑑』を刊行し、
本好き、本屋好きのあいだで話題を集めた(本連載のイメージ画像を飾る本でもある)。

僕が島田さんに会ったのは、2011年はじめの取材でのことだ。
その時点で、夏葉社からは2冊の本が刊行されていた。
一作目の『レンブラントの帽子』(バーナード・ママラッド著、2010年5月刊)と
二作目の『昔日の客』(関口良雄著、2010年10月刊)、
いずれも30~40年ほど前に出版されたものの絶版となり、
古書店でなければ手に入らない本を復刊したものだ。
「出版不況」が叫ばれる昨今、ひとりで出版社を始めること自体が稀有なことなのに、
けっして広く知られているわけではない絶版本を復刊したことも、
大きな驚きを持って受け止められ、各種メディアで取り上げられて話題を呼んだ。

島田さんがつくってきた本の数々。右端に立ててあるのが『レンブラントの帽子』(バーナード・マラマッド著、小島信夫・浜本武雄・井上謙治訳)。装丁は和田誠さん。島田さんのつくる本からは、ものとしての本への愛が溢れ出ている(撮影:島田拓身)。

島田さんを訪ねるまで、たったひとりで出版社を立ち上げた島田さんを、
威風堂々と自信に満ちた人だと、僕は勝手に想像していた。
ところが、実際に会ってみた島田さんは、拍子抜けするほど控え目な物腰で、
話すときと言えば、はにかみながら訥々(とつとつ)と、
頼りなげにすら聞こえる声で言葉をつなぐ。
そのとき、自分の浅慮に気づいてひとり恥じた。
本は人をあらわすとも言うけれど、
わざわざ出版社を立ち上げてまでつくった本ならばなおさらだ。
この2冊の本が、島田さんという人を何よりも表しているに違いない。
心に沁みる文学をこよなく愛する繊細な人なのだと思いを改めた。

僕に似たひと

ところが、挨拶をひと通り終え、取材を進めると、
島田さんは、物柔らかな仕草や口ぶりからは想像もつかない荒ぶる魂を見せ始める。
自身が語ってくれた自身の半生をかいつまんでまとめると、およそこんな流れになる。

大学に入った18歳の夏、にわかに浮き世に嫌気が差し、
カミソリで頭を剃り上げる「出家未遂事件」を起こすと、
それ以来、生きるよすがを求めて文学の世界にのめり込み、
アルバイトをしながら小説家を目指す20代を送る。
(その間、大失恋と傷心のアフリカひとり旅も経験するおまけつきだ)
20代も終わりを迎え、ようやく仕事に就いたと思っても長続きしない。
いくつかの会社を転々とし、33歳になった2009年春には、
転職先も決めずに会社を辞めてしまう。
そこに待っていたのが、リーマン・ショック(2008年9月)後の大不況。
一風変わった経歴もあいまって、転職活動は50社にエントリーするもあえなく全滅。
再就職を諦めた島田さんが選んだのが、自分で出版社を立ち上げるという道だ。
それまで1冊も本をつくったことがないのに、
はたから見れば無謀としか思えない挑戦に打って出た。

この、繊細さの裏返しとも言える危なっかしいまでの思い切りのよさは、
会社を辞め、ライターとしての人生を歩み始めたばかりの僕の目に、燦然と輝いて見えた。
「やりたい」と「やる」では雲泥の差があると言うけれど、
やる人は、やると決めたら、四の五の言わずにやりきるのだと思い知らされた。
奇しくも、島田さんは僕と同い年。鬱屈を抱えた20代を過ごし、
三十路を超えて新たな人生を歩み始めたところも僕と似ているような気がした。
(島田さんほど激しい人生を送ったわけではないけれど……)
僕もいつか島田さんのように、心に決めたことに果敢に挑戦できる男になりたいと、
取材のかたわら、自分の目標とすべき人と出会えた喜びで胸を熱くしていた。

島田さんには、本のある風景がよく似合う(撮影:キッチンミノル)。撮影場所は、2013年9月、惜しまれながら閉店した神戸の海文堂書店。ちなみに、いまの島田さんは「2度目の出家」をして頭を丸めている。その様子については……、またの機会のお楽しみに。

昔の「本屋」はかくありき

その島田さんが、インタビューの最中にこんなことを口にした。

夏葉社は出版社ですが、まちのパン屋さんみたいな商売の形を目指したいと思っています。
お客さんの顔が見えて、顔馴染みがいて、それでいてすべての人に開かれていて、
誰でも気軽に立ち寄れる。そういう出版社でありたいと思っています。
いい本をつくるのはもちろんですが、本を売ることも、
書店さんや読者の顔を見ながら、丁寧に取り組んでいきたいと思っています。
(「夏葉社は、まちのパン屋さんのような出版社を目指しています」より引用 

この言葉が、なぜか僕の耳にこびりついて離れなかった。
しかも、島田さんの言葉は僕の脳内で微妙に変換され、
「出版社」の部分が「本屋」に置き換わって記憶に定着した。
インタビューを終えてからというもの、
「町のパン屋のような本屋」とはどんなだろうかと、しきりに空想するようになった。

ちょうどそのころ、本と本屋の歴史が気になって、その手の本を読んでいた。
『江戸の本屋さん』(今田洋三著、平凡社ライブラリー)、
『江戸の本屋と本づくり』(橋口侯之介著、平凡社ライブラリー)といった本だ。
これらの本によれば、日本の商業出版の始まりは、江戸時代にまで遡ることができるという。
何百年も前の人たちが、本をつくり届けることに情熱を注いでいたと知って嬉しくなり、
現代の出版のあり方との違いや共通点も見えて勉強にもなった。
なかでも僕の心に強く残ったのが、当時の「本屋」のあり方だった。

いまの出版業界は、本をつくる出版社と、本を読者に届ける書店、
両者をつなぐ流通業者としての取次(とりつぎ)が、それぞれ別個の組織として存在する。
それが本の世界の「当たり前」だと思っていたけれど、江戸時代はそうではなかった。
当時、「本屋」と言えば、これらのすべての機能を担うのが通例だった。
「本屋」は、本を「つくる」ことと「届ける」ことの両方を手掛け、
自分たちがつくった本だけでなく、他の「本屋」からも本を仕入れて販売する。
新刊書も古書も等しく扱い、ときには本を貸し出す貸本業を兼ねることもあった。
いわば、本にまつわる「すべて」を「本屋」が一手に引き受けていた。
喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出し、
江戸の出版プロデューサーとして名高い蔦屋重三郎も、自前の店を持つ「本屋」だった。
(書店事業に力を入れる「TSUTAYA」は、その名を蔦屋重三郎にあやかっている)
ここで余談をひとつ付け加えると、本屋が薬屋を兼ねることも多かったというから面白い。
本屋の複合業態化は、いまに始まったことではないのだ。

本をつくっていると、自分で本を届けたくもなる。
本に携わるひとりとして、自分が本の「すべて」に関わることができたら楽しいだろうなと、
江戸の「本屋」を羨ましく感じていた。

「パン屋」に学ぶ「本屋」の姿

前回紹介した「パン屋タルマーリー」さんと出会ったのは、そういうタイミングだった。
「町のパン屋のような本屋」に思いを巡らし、
本をつくって届ける江戸の「本屋」を羨望していたら、
パンをつくって届ける現実のパン屋さんとのご縁ができた。
それも、ただ知り合ったという次元ではない。「パン屋の本」をつくることになったのだ。
この辺から、僕の思いはぐちゃぐちゃに入り交じる。
いつか「町のパン屋のような本屋」になりたいという思いが、
心のなかで少しずつ、そして確実に大きくなっていった。

タルマーリーさんの本をつくる過程で、タルマーリーさんから教わったことは数知れない。
そのすべてをここで言い尽くすことはできないけれど、
(面と向かっては恥ずかしくて言えないけれど、じつは人生の師匠だとさえ思っている)
自分の手で何かをつくり、それを自分の手で届けることは、
働く大きな喜びであることをはっきりと気づかせてくれた。
自分でつくったものを自分で届けたくなるのは自然な心の動きだし、
届ける責任を負うからこそ、つくることに真剣に向き合うことができる。

パンと本では、仕事のやり方も扱うものの性質もまったく異なるけれど、
本でもパンと同じようなことができないだろうかと、妄想が頭をよぎる。
いまの時代に、「つくる」ことと「届ける」ことを両方手掛けることはできないだろうか。
江戸の「本屋」と同じように、本の「すべて」を引き受けるような、
そういう「本屋」になれないだろうかと思いが膨らむ。

夏葉社の島田さんと出会い、タルマーリーさんと出会ったことが、
僕の「本屋」への思いを静かに育むことになったのだ。

「パン屋タルマーリー」の店主・職人の渡邉格(いたる)さんと、奥さんで女将の麻里子さん。自分で店を始めようとして、ふたりがやってきたことのすごさをあらためて痛感。(写真提供:パン屋タルマーリー)

本屋をつくる取材の旅

ほかにも思い浮かぶことはいろいろある。
町の奥行きが浮かび上がるような本屋とか、
もっと単純に、人と本が出会える場所をつくりたいという思いもある。
とくに、子どもに対してそういう場をつくりたいと強く思う。

何をどこまでできるかは、正直やってみないとわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
それは、僕には本を「届ける」現場での経験が、決定的に欠けているということだ。
本をつくったこともなく、いきなりひとりで出版社を立ち上げた島田さんに、
「無謀ですね」とからかわれる。でも、いったいどちらが無謀なのだろう――。
それに対して、「新参者」だからこそ挑めることがある、
などと言うのは、単なる強がりでしかない。
心の内では、そんな状態で「本屋になる」と公言してしまったことへの怖さと、
ある種の申し訳なさのようなものが渦巻いている。

どうにかして、現場経験のなさを補う術はないものかと気持ちばかりが焦る。
すると幸い、島田さんが町の本屋のあり方を考える活動を始めるという。
その名も、「町には本屋さんが必要です会議」(通称:町本会)。
各地の町の本屋を訪ね、町の本屋の現状を聞き、
集まった人たちでこれからの本屋について議論を重ねる。
そこで得られたなにがしかを、『本屋会議(仮)』なる一冊の本に編み上げるのだそうだ。

僕にとっては、他ならぬ島田さんが取り組む活動だ。
島田さんが訪ねる町の本屋のいまを見てみたい。
本を「届ける」現場にいる人の声を聞いてみたい。
『本屋図鑑』以降の、島田さんの本屋への思いも探ってみたい。
もちろん、自分が気になる本屋にも足を運ぶ。

これは、本屋をつくるための取材の旅だ。
つくるべき本のかたちが、取材を積み上げた末に見えてくるように、
僕が目指すべき本屋の姿を、取材を重ねて浮かび上がらせていきたい。
その過程で、現場経験のない僕がやるべきこともはっきり見えてくるはずだ。

島田さんを追いかけて、僕が最初に向かったのは瀬戸内海に浮かぶ小豆島(香川県)。
ただし、島田さんが訪ねたのは、正確には本屋ではない。
小豆島で出版レーベル「サウダージ・ブックス」を展開する淺野卓夫さん。
文化人類学から本の世界に足を踏み入れた淺野さんは、人類史を俯瞰して本を語る言葉を持つ。
本のつくり手として、僕もかねてから気になっていた人だ。
島で本をつくる淺野さんは、いま、本と本屋について何を語るのか――。
期待を胸に、高松港から、小豆島行きのフェリーに乗った。

いろんな種類の野菜をつくる

待ちに待った野菜たち。

ここ最近、天気予報を見ていると30度越えの日が!
まだまだ春かと思いきや、季節は確実に夏に向かいつつあり、
畑で作業をしていると汗ばみます。

陽射しが強くなってきた小豆島。田植えも終わり、稲の緑が力強くなる季節。

この季節は、ひと雨ごとに植物がぐんぐん育っていきます。
野菜も雑草も。
畑はどんどん緑の面積を増していく。

花咲くじゃがいも。6月中旬頃収穫予定です。

フェンネル。イタリア野菜です。独特の香りがたまらない。

トマト。どんどん大きくなります。実がなるのはもう少し先。

シスコ(結球レタス)。シャキシャキの葉。

そしてようやく春夏野菜を収穫できるようになってきました。
玉ねぎ、赤たまねぎ、ズッキーニ、そしてもう少しすると
じゃがいも、ニンニク、いんげん豆。
待ちに待ったお野菜たちです。

畑では、収穫できる野菜の種類が少ない
「端境期(はざかいき)」という期間があります。
地域によっても異なりますが、冬野菜と春野菜の間に起こる
冬の端境期は、2月から4月にかけて。
私たちは何種類かの旬野菜をセットにして販売しているので、
この時期はどうしてもそのセットをつくるのが難しい。

野菜は収穫するまでだいたい2、3か月。
12月から2月頃までは寒さが厳しく、
露地栽培(ビニールハウスなどは使わず野外で野菜を育てる方法)では
種をまいても芽が出ない。
なので、その2、3か月後の2月から4月にかけては
収穫できる野菜が少ない端境期となる。

この端境期を通り越して、春夏野菜が収穫できるようになるこの時期は
本当にワクワクします。
旬野菜のセットも再び販売できるようになりました。

ベビー人参。生で食べられます。

収穫が始まったズッキーニ。

去年の10月に種まきした赤玉ねぎと玉ねぎ。やっと収穫。

そして収穫しつつ、次は夏秋にむけて、生姜やサツマイモなどの植つけ作業。
季節のいろんな野菜をつくっていくということは、
土づくり、植つけ、手入れ、収穫を時期をずらして繰り返していくということ。
次から次へと作業があって、最近はやりきれていない部分も結構ある。
それでも、何種類かの旬のお野菜をつくるのは飽きないし、
自分たちの食にも繋がってる。

収穫作業。丁寧に1本ずつ抜きます。

生姜の植つけ準備。友人に手伝ってもらって。

旬野菜セットとして販売する野菜6〜8種類を収穫します。

もうすぐ梅雨。
そしてあと2か月もしたら1年でいちばん暑い季節がやってきます。
キュウリ、ピーマン、ナス、トマト、収穫できることを楽しみに日々作業です。

これが全て蘭?!福岡の蘭専門店が美しくも野性味あふれる「原生蘭」の魅力を伝える

福岡市に店舗を構える蘭専門店
PLACERWORKSHOP(プラセールワークショップ)」。
蘭といえば白く美しい胡蝶蘭をイメージしますが、
こちらの店主・内田洋一朗さんが扱うのは
品種改良を施していない原種が中心です。

これが蘭?壁から生えているのもありますね

手書きのタイポグラフィと蘭のコラボが見所

タイポグラフィは内田さんがストレスを抱えたときに壁に書き出したところハマってしまったそう。「MOGNO6.」名義で活動されています

蘭のイメージが「きれい」から「かっこいい」に変わる

原種で2万6〜8千、
品種改良を入れて10万種以上もあるといわれる蘭。
そのなかのほとんどの蘭は
木に着生する性質を持っていて
うまくやれば鉢植えで買ったものを
色んなものに着生させることができるそうです。
内田さんはコルクほか、靴や歯磨き粉のチューブなど
身近にある蘭の「器」探しにも挑戦しているとか。

このたび、そんな野性味溢れる蘭とグラフィックワークを交えた
インスタレーション「LET IT GO, LET IT GO. 」が
東京にやってきます。
場所は東京都港区にあるCURATOR’S CUBEにて、
期間は6/15(日)まで。
根っこをむき出しにした蘭を
コルクに付ける(着生させる)ワークショップもあり、
蘭の意外な魅力を知ることができます。
なんだか蘭の見方がガラリと変わりそうですね。
ぜひ覗きに行ってみてください!

【LET IT GO, LET IT GO.
MOGNO6. and PLACERWORKSHOP EXHIBITION curated by Playmountain】
会期|5月31日(土)~6月15日(日)不定休
会場|CURATOR’S CUBE
東京都港区愛宕1-1-9
営業時間|12:00~19:00
Tel. 03-6721-5255
http://curatorscube.com/

・ランいじりワークショップ
以下のいずれかが選べます。
1、メンテナンスついでにお好きな器を持ってきていただいて植替え。
2、メンテナンスついでに根っこむき出しにしてコルクに付ける。
3、器だけ持ってきて用意されたランを付けるか植込む。
4、手ぶらできて、用意されたランをコルクにくっつける。
開催日:6月7日(土)、8日(日)、14日(土)、15日(日)
時間:10:00〜(2時間程度)
参加費:3,000円(税込)
受付は、placer@placer-workshop.com (ご希望日、お名前、ご連絡先をお願いします)
お問い合わせは、placer@placer-workshop.com へ

PLACERWORKSHOP(プラセールワークショップ)

地元のおじいちゃんおばあちゃんを スタイリッシュに発信する 『鶴と亀』待望の第弐号

長野県『鶴と亀』

発行/鶴と亀編集部

長野県飯山市から、地元のおじいちゃんおばあちゃんにフィーチャーするクールなフリーペーパー、待望の2号がリリース。稲刈り作業中のおじいちゃんのファションスナップなど、見ず知らずのおじいちゃんおばあちゃんたちのスナップ写真には、なぜだかとっても癒されます。今号も田畑がひろがるのどかな飯山市からイケてるおじいちゃんおばあちゃんを発信中です。

鶴と亀

http://www.fp-tsurutokame.com/

発行日/2014.3

老若男女が集う新しい公共空間、Umaki camp

いろいろな人をつなぐ場所。

小豆島には「馬木(うまき)」という地区があります。
お醤油蔵が立ち並び、「醤の郷(ひしおのさと)」という
観光エリアにもなっているところ。

そのエリアの住宅地のど真ん中に、Umaki camp(以下、馬木キャンプ)があります。
馬木キャンプは、瀬戸内国際芸術祭2013(以下、瀬戸芸)の作品として、
大阪を拠点に活動されている「ドットアーキテクツ」さんの
設計・施工によってつくられました。

瀬戸芸の会期終了後も、地域の人たちが集まったり、
イベントの会場として使われたり、公共空間として地域に開かれている場所。
ひとことでは説明できないこの空間は、ヤギと遊べる公園でもあるし、
おいしいものが食べられるキッチンでもあるし、ライブ会場でもある。
使う人と使われ方によって、ほんとにいろんな表情をする。

馬木地区にある馬木キャンプ。住宅地のど真ん中にあります。

馬木キャンプのキッチン。外に対してとてもオープン。

そんな馬木キャンプで、先日「SASAKLA Live in 小豆島」が開催されました。
SASAKLAさんは去年も小豆島でライブをされているミュージシャン。
今回はスピーカーなしで、私たちのとてもとても近くで
ギターを弾きながら歌ってくれました。

「SASAKLA Live in 小豆島」スタート。最初は屋内で。

接する道路からの眺め。こんなふうに明かりと音が漏れてくる。

ライブは平日の夜6時半からスタート。
まずは腹ごしらえと、無料で振る舞われたカレーをいただきました。
実は馬木キャンプには最近ピザ窯がつくられて、
その窯で焼かれたパンやチャパティ(インドの薄焼きパン)も振る舞われました。
まさに焼き立て、最高の晩ごはんです。

この日はカレーやご飯などが無料で振る舞われました。

カレー大盛り(笑)。

ピザ窯でパンを焼いてくれる友人のちほちゃん。焼き立て最高。

少しずつ暗くなる中、SASAKLAさんの歌声が優しく響く馬木キャンプ。
後半は、外で焚き火を囲んで。
子どもも大人もみんながその場の雰囲気を楽しんでいました。

馬木キャンプの前の広場で焚き火を囲んでSASAKLAさんの歌。

子どもも大人もみんな一緒に。

そのライブには、島のエリアを越えて、世代を超えて、
ほんとにいろんな人たちが来ていました。
地域の人だけじゃなくて、その外の人も一緒に。
若者だけじゃなくて、子どもも年配の方も一緒に。
そういうさまざまな人が集まる場。

馬木キャンプは、まさにそのコンセプトである
「このエリアに暮らす人たちと、ここを訪れた人々をつなぐ仕組みをつくり出す」
そんな場所になりつつあるんあだなと感じました。
まだまだ続くこれからこの空間で起こることがとても楽しみです。

デコトラ、ブチ上げ改造単車、相田みつを。広島・鞆の津ミュージアムで「ヤンキー人類学」

広島県福山市の鞆の浦にある、
「アール・ブリュット鞆の津ミュージアム」。
2012年にオープンした、築150年の蔵をリノベーションした美術館です。
ここで展示されるのは、普通のお行儀の良い美術作品ではありません。
「アール・ブリュット」または「アウトサイダー・アート」と呼ばれる、
芸術の伝統的な訓練を受けていないアーティストたちによる
自由で型破りな表現の作品たちが中心なんです。

こちらで現在開催中の展覧会の名は「ヤンキー人類学」。
そう、70~80年代にかけて全盛だった
リーゼント・変形学生服・特攻服・改造車などに代表される
文化を好んだ若者たち、「ヤンキー」がテーマ。
いまではその姿をほとんど見られなくなった、時代の徒花的
存在に大きくスポットを当てた展覧会です。
一般的には否定的な目で見られてしまう「ヤンキー」文化を
肯定的にとらえ直す、大変意義深い試みなのです。

丸尾龍一さん:12歳の頃、デコチャリ(デコレーション・チャリンコ)の存在を知り、独学で制作を開始。沢山の電球を使用した電飾や、カーステレオ、カーナビ、ワンセグ、バックモニター、無線機などを全て搭載した豪華なデコチャリを作り続けている。

展示されるラインナップはこちら!

・伊藤輝政さんによる超精巧なデコトラのミニチュア
・自作のデコチャリ
・ブチ上げ改造単車
・ド派手な成人式の衣装
・相田みつをの書
・メンズナックル
・新潟県南魚沼市にある日本最大級のアウトローショップ「BIRTH JAPAN」
・平成8年、北海道枝幸郡枝幸町で結成されたYOSAKOIソーラン団体

「ヤンキー」、それは、自らを表現せずにはいられない強烈な主張。
いずれも権威や常識、既成概念に反発し、自由な編集性を持つ、
生命力に満ちた表現たちです。
展覧会を企画した「鞆の津ミュージアム」キュレーターの
櫛野展正さんにコメントを頂きました。

「本展覧会展示作品は、どれも実現に向けて自分の足で探したり、
人づてに頼んだりして、リサーチや作品収集を行ったものです。
そもそも展覧会というものに初出展の方がほとんどのため
苦労した点は作品の選定でした。
実現には1年かかっています。

見どころは、市井の人たちが作ったデコチャリ、改造単車、
アートトラックという3つの乗り物系が揃っていること。
そして、相田みつをさんも展覧会の出展者と
なっていることでしょうか」(櫛野さん)

地下格闘技団体「漢塾(おとこじゅく)」塾長の前田島純さん

会場においては、展示だけでなく
茂木健一郎(脳科学者)や斎藤環(精神科医)によるトークイベント、
光輝くデコトラを撮影する「アートトラックチャリティー撮影会」
など、催しも盛りだくさん!
ぜひ日本文化のひとつ「ヤンキー」が放つ
仏恥義理(ぶっちぎり)のパワーを感じてください。
開催は7月21日〈月・祝〉まで。

鞆の津ミュージアム「ヤンキー人類学」

こうして僕は、町に本屋をつくることにした

「ないないづくし」のスタートライン

吾輩は本屋になる。名前はまだない。物件もなければ、本屋で働いたこともない。
しかも、手持ちの資金は200万ほど、潤沢な資本もない。
おまけに、本の世界はインターネットの影響で大きな変化に直面し、
本屋は町からどんどん姿を消している。
1999年に22,296店あった本屋は、
2013年には14,241店にまで減った(調査会社のアルメディア社調べ)。
数字を眺める限り、本屋は右肩下がりの斜陽産業、夢も希望もないように見える。

こんな「ないないづくし」の状態で、僕は「町の本屋」になろうと思い立った。
不安はどうしたってつきまとう。
それでも、交錯するさまざまな思いが、僕の気持ちを本屋へと向かわせる。
心のうちには、本屋という場所への確信にも似た思いがある。
一冊の本に力があるように、本が集まる場所にも大きな力があるはずだ。
本と本屋に助けられてきた実感を持つひとりとして、
そういう場所が、人の暮らしのすぐ近くに必要だと思うのだ。

僕は、人生ずいぶん遠回りをした挙げ句、
30代半ばで本づくりに携わるようになった(5年ほど前のことだ)。
まだまだ本づくりの何たるかもわかっていない「新参者」の分際ではあるけれど、
激変する本の世界に身を置いて、
自分の仕事と本の世界の「これから」が気になって仕方がない。
うまくは言えないけれど、その両方を考えるヒントが、
本を「つくる」ことと「届ける」ことを近づけることにあるような気がしている。
自分(たち)で本をつくって届けること――。
それが、本の原点であり未来であるような気がするのだ。
本を「つくる」ことと「届ける」ことの両方を視野に入れ、
本の世界に関わっていきたいという思いが、僕を「町の本屋」へと静かに駆り立てる。

いま、町に本屋をつくるとしたら……

勝算は、あるのかないのか、自分でもよく分からない。
本屋はもう商売として成り立たないという意見を目や耳にすることもある。
であるならば、無理して本の販売で収益をあげなくてもいいのではないかとも思う。
本以外のもので収支を合わせるという手もあるだろうし、ほかの方法だってあるかもしれない。
もちろん、商売として成り立たせる可能性は、全力で探っていきたいけれど……。
それがはたして「本屋」なのか――という疑問も確かにある。

ただ、「本屋」の存続が厳しくなっている(と言われる)いま、
「本屋」のあり方を見つめなおすことにも意味があるのではないだろうか。
それは、本の世界に足を踏み入れたばかりで背負うものの少ない、
「新参者」だからこそ挑めることのようにも思えてくる。
のっけから大風呂敷全開で、巨大な壁に体当りする小バエのようで滑稽でもあるけれど、
蝶の羽ばたきが遠隔地の天候を左右するという「バタフライ・エフェクト」なる言葉もある。
何事もやってみなければわかりはしない――と、
気を抜くと腰が引けそうになる自分にしっかりと言い聞かせる。

本屋を僕なりに見つめなおすにあたり、本をつくるように本屋をつくることを目指したい。
「ああでもない、こうでもない」と思索を巡らせ、取材をして筋書きをつくり、
書いてはボツにしてはまた筋書きを練り直す。
そんなふうにして、これからの「町の本屋」のひとつのかたちを浮かび上がらせてみたい。
これも、本を「つくる」ことと「届ける」ことを近づける僕なりのひとつのアプローチだ。

JR中国勝山駅に降り立つと、山並みが静かに出迎えてくれる。同じ駅でも、東京の駅とは佇まいがずいぶん違う。電車の本数は上り下りあわせて1日なんとわずか20本!

勝山の町に魅せられて

と、御託を並べてみたものの、
かねてから頭にあった本と本屋を巡るさまざまな思い(というより妄想)が、
具体的なかたちと質感を帯び始めたのには、ひとつのはっきりとしたきっかけがある。

それは、僕が魅せられた町に本屋がなかったことだ。
町の名は、岡山県真庭市勝山。鳥取県との境に近い山間の町だ。
岡山市からクルマで1時間強、電車ならローカル線を乗り継いで2~3時間はかかる。
人口8,000人弱、毎年100人ほど人口が減り続ける過疎の町だ。
商売を成り立たせるのが難しい場所であることは、商売に疎い僕でも察しがつく。
「ないないづくし」のスタートには、このマイナス要素も付け加えておかねばなるまい。

勝山とのご縁は、昨年秋に出版された一冊の本の制作に関わったことに始まる。その本とは、
勝山にある「パン屋タルマーリー」の店主・渡邉格(わたなべ・いたる)さんが出した
『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』(講談社)だ。
タルマーリーさんの取り組みは、コロカルでも紹介していただいた。
本をつくる過程で、勝山に何度か足を運んだ。
初めて勝山を訪ねたとき、なんだかとても懐かしい気分になった。
日に何本かしかない電車で駅(JR西日本の中国勝山駅)に降り立つと、
町を取り囲む山々が、静かに僕を出迎えてくれる。
山の向こうには青々とした空が広がり、
山の空気を目いっぱい吸いたくなって、思いっきり伸びをして深呼吸をする。
山間の町の平日の昼間に、はばかるほどの人目はない。

駅から歩くことおよそ5分、タルマーリーが店を構える通りに足を踏み入れると、
タイムスリップしたような感覚に襲われて思わず歩みを止める。
白壁と格子窓の昔ながらの日本家屋が立ち並び、
軒先にかかる色とりどりの暖簾が、静かに風をいなしている。
勝山は、古くから交通の要衝として栄えた地だ。
町には出雲(島根県)と姫路(兵庫県)をつなぐ出雲街道が通り、
古代には出雲の鉄を大和(奈良県)に運び、
中世には、隠岐島(島根県)へ流罪となった後鳥羽上皇や後醍醐天皇が通ったこともある。
江戸時代には、参勤交代や物資の輸送、出雲大社への参拝の道として賑わい、
城下町としての役割も担った。
タルマーリーが店を構える通りは当時の町人街、いまも町の人たちがそこで暮らしを営む。

写真左手、看板が見えるのが「パン屋タルマーリー」さん。右手でのれんがはためいているのが、勝山の町づくりの中心人物・加納さんが営む「ひのき草木染織工房」。この風景を、はやく僕の日常にしたい……。

2つの拠点、2つの視点

大阪の外れで生まれ、神奈川で育った僕は、東京的なものにずっと馴染めずにいた。
東京の巨大さにちっぽけな自分が飲み込まれてしまうのではないかとビクつき、
次々と押し寄せる流行の波に戸惑い(大縄跳びにうまく入れないあの感覚に似ている)、
たまに大きな町に行くと、人やクルマ、目と耳に押し寄せる情報の多さにめまいを感じる。
そんな東京から離れたくて、首都圏の大学には目もくれず、みずから望んで京都に行った。
それからいろいろあって、東京での暮らしも経験し、育った神奈川に戻ってはきたものの、
「自分の場所ではない感覚」がつきまとって離れない。
座りの悪い椅子に我慢して座り続けているような、そんな落ち着かなさをずっと感じていた。

「ここが自分の居場所だ」と思える地は、世界のどこかにあるのだろうか――?
三十路を過ぎて思春期の少年のような青臭い悩みを抱える僕を、
初めて訪ねた勝山は温かく迎えてくれた。少なくとも、僕にはそう感じられた。

僕は、勝山に住む人たちにも魅せられた。
ここには、自分の手でものをつくり出す職人が多く住まう。
タルマーリーは、発酵の担い手である菌と向き合い素材を見つめ、
優しくも力強い味わいのパンをつくる。
その向かいでは、草木染めの職人・加納容子さんが「ひのき草木染織工房」を営む。
加納さんは、通りの軒先にかかる暖簾をすべて手がけ、
勝山の町づくりを語るうえでも欠かせない存在だ(過去にコロカルでも紹介されている)。
通りを少し歩けば、創業1804(文化元)年、
200年以上の歴史がある日本酒蔵元「辻本店」があり、
勝山伝統の竹細工に人生を賭ける、僕と同世代の平松幸夫さんもいる。

みな、地にしっかりと足をつけ、確かな実感を得られるものを自分の手で紡ぎ出している。
僕には、その姿がとてもたくましく、生きる力で満ち溢れているように見えた。
この町と、ここに住む人たちがいっぺんに好きになった。
本ができてからも勝山に何度か通い、やがて「ここに住みたい」と思うようになった。
幸い、仕事はさほど場所を選ばない。
取材をしたあと、書くときはどうせ家に引きこもる。
その場所が神奈川でも勝山でも、それほど大きな違いがあるとは思えない。
条件をいろいろ考えると、東京と勝山を行き来する
「2拠点」生活が成り立つような気がしてきた(神奈川に実家があるのも大きい)。
むしろ、自分にいい刺激を与えてくれる人たちのそばで日々を過ごすのは、
暮らしの面でも仕事の面でもプラスに働くようにも思えてくる。
東京(都会)と勝山(田舎)の両方の視点を持つことが、
本づくりに活きることだってあるはずだ。
そう、最初は「住む場所」と「本をつくる場所」の問題だったのだ。

やってみなけりゃ始まらない

移住を視野に入れ、何度か勝山に通ううち、ふとひとつの事実に気がついた。
この町には、本屋がない――。
勝山は、自然が豊かで、誇るべき歴史もあり、たくましく生きる人たちもいる。
それなのに、ここには本だけがない。本だけが、町からごっそり抜け落ちている。
「こんなに面白い町なのに、本と出会う場がないのはもったいない」
「ここに本屋があったら、町はもっと面白くなるだろうな……」
そんな思いが、頭をよぎる。
そうこうするうち、目の前の風景と、
かねてから抱いていた本と本屋への思いがひとつに結びついた。

そうだ、ここで自分が本屋をやればいいんじゃないか? 
この場所で、本を「つくる」ことと「届ける」ことの両方を手掛けてみたい――。
ほのかに芽生えたその妄想を、タルマーリーさんに話し、加納さんに伝えると、
嬉しい答えが返ってきた。
「いいじゃないですか、やりましょうよ」とタルマーリーの渡邉さん。
「あらいいじゃない、やってやって」と加納さん。加納さんの息子さんも娘さんも、
そのとき初対面の僕に、「楽しみにしとるけんね」と温かい言葉をかけてくれる。

僕の心に芽生えた妄想は、町の人たちの期待も背負う目標になった。
というか、心のどこかでずっと本屋を始めるきっかけを探していた僕は、
勝手にそう思い込んだ。
僕は根が単純な人間だ。おだてられたり喜ばれたりすると、
ブタよりも木登りが下手くそなくせに(めちゃくちゃ不器用なのだ)、
尻尾を振って木に登ろうとしてしまう(ブタも嬉しいときは尻尾を振るらしい)。
それで案の定、何度も木から落ちる痛い目に遭うわけだけれど、
諦めが悪いというか状況を理解する力が乏しいというか、落ちたことにも気が付かず、
木の皮肌にしがみついて何とか登ろうとする。

この、要するに戦略なき気合い至上主義は、我ながら始末が悪い気もするけれど、
「一念岩をも徹す」と言えば格好がつくだろうか。
念力で岩を砕くように、なんとしてもやるしかない。
と、勇ましい言葉に頼るのは、ひとえに自分を奮い立たせるためだ。
内心けっこうビビってもいるけれど、とにかく、やってみなければ何も始まらない。
僕はこうして、勝山の町に本屋をつくるべく、
木登りには向かない爪をひとりせっせと研ぎ始めたのだった。

勝山の町を流れる旭川から望む町の風景。広い空、雄大な山々、歴史の面影……。川っぺりで本を読んだら、そりゃ気分は最高に決まってます。

島に眠っている資産、ワクワクする古い家

ここでの暮らしを想像しながら。

先日、私たちが運営しているHOMEMAKERSのFacebookページに
1件の問い合わせがありました。

震災後、ライフスタイルについて考えるようになり、海外の農場へ研修に。
そこで体験したようなライフスタイルに少しずつシフトしていきたい。
家族がかつて小豆島で暮らしていて、現在は誰も住んでいない家と畑が残っている。
その小豆島で農業をしている私たちのことを偶然知り、一度お話したい。

そんな内容のものでした。
その誰も住んでいない家と畑は、私たちの家から車で10分ほどの場所に。
すごく近くなのに行ったことのない集落で、
前々から一度行ってみたいなと思っていたので、
ぜひそこを見に行ってみたいとお返事して、
その2週間後にさっそくお会いする約束をしました。

せわしないゴールデンウィークが終わり、ほっとひと息のその日。
通ったことがない道を走り、ワクワクしながら現地に向かいました。
1年半住んでいても、まだまだ小豆島には行ったことがないところがたくさんあります。

ご連絡をくださった方と挨拶をして、さっそく敷地内へ。
家のまわりは植物が成長し、まさに映画『天空の城ラピュタ』のように
植物が建物をとりまいているような感じ。
植物をかき分け、家の中へ。

ご挨拶をしてさっそく敷地へ。お隣には棚田が。

植物が行く手をさえぎる(笑)。かき分けて中へ進みます。

玄関にもツタが。

植物の力はほんとにすごい。すぐに家を飲み込んでしまいそう。

築80年のその家は立派な材でつくられていて、すごく味がある。
特に小屋組(木造建物の屋根部分の骨組み)は見上げると、おぉっとなります。
一方で、床が腐っていたり、家自体が多少歪んで窓がちゃんと閉まらなかったり。
直さないと住めないなあと思う部分はありましたが、
ここをこんなふうに直して、あそこの壁は抜いて……なんて
勝手に想像しながら終始ワクワクしていました。

立派な梁が。木造建築の小屋組は本当に美しい。

床を直して、この壁は抜いて、など妄想。

家のまわりには大きな木が。ハンモックやブランコを吊るして、と想像するとワクワクする。

タバコの葉の乾燥部屋も。

そして、家の外の畑へ。
なんと、畑からは海が見える!
「子どもの頃に見たこの景色がずっと頭の中に残っていて」
とその方は何度もおっしゃっていましたが、確かにこの景色はたまらないなあ。
しばし、その畑で海を眺めながら立ち話。
どうやったら家を直せるか、ここでどんなふうに暮らすことができるのか。

畑からの風景。山と山の間に瀬戸内海が見えます。

どうやって家を直すか、ここでどんな暮らしができるか畑で立ち話。

この古い家の窓が開いて、明かりが灯され、
誰かが暮らす日が来るかどうかはまだわかりません。
眠っている古い家に手を入れて、直して暮らす。
そこには便利さや快適さは少ないけれど、
それでも暮らしたいと思わせる何かがあるんだなと思います。

元浜倉庫

元浜倉庫のそもそものはじまりは2008年の初夏にさかのぼる。
当時ぼくは児島の同じ元浜町にあった「Womb(ウーム)」という
雑貨屋とカフェが一緒になったお店の2階をひとりで間借りしていた。
文句のつけようのない環境だった。
部屋は東側の壁一面がすべて窓、そこからほぼ180度瀬戸内海が見渡せた。
事務所の什器は店主のマコトくんがすべて売りものから無償で揃えてくれるし、
毎日のように彼の奥さんのマキちゃんがお茶とお菓子を2階にもってきてくれるしで、
いま思い返しても夢のような環境だった。
そんな贅沢を絵に描いたようなぼくのオフィスに、
その夏ひとりの年配の女性がやって来た。
聞くと、一度だけ階下のカフェで言葉を交わしたことがあるという。
いずれにしても初対面同様で、
にも拘らずほとんど前置きすることなくずばり用件を切り出した。
「うちの倉庫を借りてほしいの」
これまで誰にも倉庫を借りたいなんてことは口にしたことがない。
モノに執着のない性格ゆえ、だいたい倉庫が必要であったためしがない。
同年代の日本人男性の平均よりもずっと身軽で生きてきた自負さえある。
その後に継がれた彼女の説明を要約するとこういうことだった。
その倉庫はもともとご主人が営んでいた鉄工所で、
ご主人が亡くなった後つい最近までは水産加工会社が魚の加工工場として使用していた。
現在、その倉庫が空いている状態なのだが、これからは倉庫とか工場ではなく、
地場の若い人たちが集まるような場にならないかと。
「で、なぜにぼくのところに?」
「だって赤星さんのところにはいっぱい人が集まってくるでしょ?」
「そりゃ誤解です、若い人が集まって来るのは下のカフェですよ」
「とにかく一度見てほしいのよ、すぐ近くだから」
後に大家さんとなるこのAさん、
とにかく豪腕で根こそぎさらっていくようなところがある。
そのときもはっきり断っているんだけど、気づくと一緒にその倉庫に向かっていた。
歩いてものの2分、
はたしてぼくが子どものころしょっちゅう遊んでいた港のすぐそばにあった。
外観はかなり年期の入ったスレート造り。
元鉄工所とあって、ゆうに3階建てマンションほどの上背がある。
なかに入るとさらに「ザ・倉庫」で、
ソフトボールの内野がすっぽりおさまりそうなほどのだだっ広い空間があるだけ。
ぼくはその場で再度はっきりお断りした。
「じゃあ鍵だけ預かっておいて」
「はあ?」
「まわりで興味がありそうな人がいたら見せてあげて」
「いや、こんな倉庫を借りたいなんて人はそうそういないですよ」
「いたらでいいのよ」
「いないと思うけどなあ」
「いいの、もってて」
そんなわけでそれから数か月もの間、
その鍵は一度も誰の手に触れられることなく、
オフィスの机の一番上の抽き出しでこんこんと眠りつづけた。

その年の秋、事態は一変する。
唐突にマコト&マキから店の移転を告げられたのである。
そこであの倉庫のことを思い出して————という展開はもう少し先の話。
Wombの移転→事務所の立ち退きはたしかに寝耳に水ではあった。
しかし、実は「もしも事務所を移るなら」と密かに見当をつけていた物件があり、
日頃からよく前を通ることもあって、
ここ2年ほどずっと空き家の状態であることを知っていたのだ。
夫妻から移転を告げられたその夜、早速ぼくはその物件の場所に行き、
窓に貼り出された不動産屋にその場で電話をかけた。
「マクドナルドがある港のすぐ目の前のヤツです、2階の角の部屋。
あれ、明日にもなかを見せてほしいんですけど」
「うわあーっ!」
「……うわ?」
「いやあ、あそこね、ずっと空きだったんですよ」
「空きだった……」
「ホント今日の今日ですよ。話があって、明日にも契約なんです」
その日、2度目の予想だにしない展開。
しかし最初のそれはこの物件がすぐにも借りられる算用があったから、
さも申し訳なさそうに話を切り出したマコトにも
「気にするなよ、それよりいままでありがとうな」
なんて懐の大きさを見せる余裕もあった。
むしろこの2度目の方がショックは大きかった。
真っ暗な港で、ぼくはひとりマックのネオンを眺めながら途方に暮れた。

『スライディング・ドア』という映画がある。
主人公の女性が地下鉄にギリギリ間に合って乗車できた場合とできなかった場合、
そのふた通りのその後の人生を描いている。
とてもユニークな映画なのだが、
まったく異なる人生が待っているというのは容易に察しがつく。
でも、タイミングの違いでその後が大きく変わるというのはままあることだと思う。
夜の港でマックのネオンを見ながら途方に暮れたことを思い出すたび、
この映画のことが頭をよぎる。
マコトが数日早く店の移転を伝えていたら、たぶんいまの元浜倉庫はなかった。
しかしそれよりなにより、
Aさんがあそこまで強引に倉庫に引き合わせるようなことをしなかったら……。
いずれにしても、いくつもの偶然を経て、
元浜倉庫は向こうからぼくのもとに転がり込んできたのである。

そして今年で6年目を迎えた元浜倉庫。
ぼくのパートナーのタカコさんが切り盛りする元浜倉庫焙煎所が春から加わったことにより、
昨年までと倉庫の様子は大きく変わった。
豆売りのショップを構えただけじゃない。
コーヒーの試飲スペースとして倉庫の前にベタなウッドデッキまで作った。
一般の人がちらちら出入りするというのも
これまでにはなかったことだし(カフェと間違えての来店も多い)、
たぶん遊びに来やすいのだ、友人や知り合いが訪ねて来る機会もめっぽう増えた。
「人が集まる場にしてほしい」という大家さんの念願が少しはかなったかもしれない。
それにしても宣伝の類は一切していないのに、この元浜倉庫焙煎所の調子がいい。
当然、店主のタカコさんは気をよくしていて、やる気にも拍車がかかっている。
そんなある日のこと、3歳になる娘のチコリが夜中に熱を出した。
翌朝には幾分か熱は下がったものの、保育園に連れて行けるような状態ではない。
「じゃあ、今日はチコリをよろしくね」
慌ただしい朝の、不用意なぼくのその一言でタカコさんの顔色が変わった。
いや、正確に記述すると変わったのは顔色じゃない。目もとの様相だ。
彼女についてわかってきたことのひとつ。
気に障ることがあると普段は愛らしいたれ目が、瞬間、
クリント・イーストウッドのそれになる。いったんそうなると後悔先にたたず、
地雷を踏んでサヨウナラだ。
「私の仕事って、そんな程度なわけ?」
いやあなたの仕事を軽んじているわけではもちろんなく
今日はたまたま仕事がつまっているからお願いしているのであって
ぼくが空いていればぼくがチコリの面倒をみるし
そのあたり臨機応変に対応していこうよ————。
一気の取り繕いでなんとかことなきをえたが、危険危険、
そこには新しい地雷があるのだ。今後も常にその位置を認識していなければならぬ。

かくして今日もコーヒーの香ばしいにおいが漂い、サブの欠伸を誘うような、
ゆるい時間が流れる元浜倉庫。
しかし、そこにあって当然のように見えるものも、偶然の重なりと、
ひとへの気遣いや思いやりによってもたらされているというお話でした。

Wombとぼくのオフィスがあった元浜町の名物的な建築物。5年ほど空きの状態だったが、この春から新モノ旧モノを扱うお洒落なセレクトショップ「The easy shop」として再生した。オノちゃんという好青年がひとりで切り盛りするナイスなお店です。 倉敷市児島元浜町790-2 電話086-486-1962 12:00〜20:00(金・土は22時まで) 木曜日定休

春スイッチが入った 名古屋の港まちからお届け! 『ぶらり港まち新聞』 No.08 はる号

愛知県『ぶらり港まち新聞』

発行/港まちづくり協議会事務局

ぶらり港まち新聞【08】はる号は、春スイッチが入った名古屋の港まちからお届け!まちの名物、灯台をかたちどった名店の紹介から、賢くもかわいい麻薬捜査犬「ブレイブ」くんの一日、子どもたちとかんがえる「防災+まちづくり」など盛りだくさん。

ぶらり港まち新聞
http://www.minnatomachi.jp/shinbun/

発行日/2014.3

肥土山農村歌舞伎、みんなで作る割子弁当

一緒に作って食べる、楽しい時間。

5月3日、毎年この日に肥土山農村歌舞伎が開催されます。
肥土山農村歌舞伎は、300年以上途絶えることなく続いている地元の伝統行事。
ここで暮らす人々自身が役者であり、大道具、衣装、舞台の準備なども
すべて自分たちの手で行っています。

はじまりは江戸時代。
当時、水不足で苦しんでいた農家を救うために、
この地の庄屋、太田典徳さんが私財を投じて蛙子池(ため池)を造成。
その完成のお祝いに、農民たちが小屋を建てて芝居をしたそうです。

300年以上続く肥土山農村歌舞伎。毎年5月3日に開催。

快晴。この季節は本当に気持ちがいい。歌舞伎に出演した地元の子どもたちが控室の窓から。

この歌舞伎の楽しみのひとつが、割子弁当(わりごべんとう)。
大きな木箱の中に、20人分の小さなお弁当が入っています。
これを昔は各家庭ごとに作り、親戚や知人たちと一緒に食べながら
歌舞伎を鑑賞したそうです。
いまでは、大家族が減ってしまったためか、
割子弁当を持ってきている家庭はとても少なくなりました。

そして今年は、その割子弁当を友人たちとみんなで作って
持っていこうということで、午前中からうちに集まって割子弁当作り。
お弁当の作り手は、20〜30代の女子7人。
それぞれ、お弁当に詰める一品を担当。

割子弁当。地元で共有で管理しているものをお借りしました。

みんなで一緒に料理。教えたり、教えてもらったりしながら。

巻き寿司作り。ワイワイ言いながら作るのはほんとに楽しい。

みんなでワイワイ言いながら、巻き寿司を作ったり、夏みかんの皮をむいたり。
それそれは楽しい時間だった。
婦人会のおばちゃんたちが、地域の行事などで
お弁当を作ったりするときの雰囲気はきっとこんな感じなんだろうなと。
20人分のお弁当を私ひとりで作るとしたら、
それはすごくプレッシャーで大変だけど(というか作れない、笑)、
みんなで集まって料理をすれば、それ自体が楽しい時間になる。

畑で採れたスナップエンドウの和え物、掘りたてタケノコの醤油漬けなど。
地元の食材も使って、なんともおいしそうな割子弁当の完成。

それぞれが作った一品。これを割子弁当に詰めます。

おいしくみえるように割子弁当に詰める。これを20人分作ります。

木箱に収納。この大きな木箱を抱えて歌舞伎舞台まで行きます。

木箱に入れて、いざ歌舞伎舞台へ。
最高の天気の中、子どもたちと一緒に、水の張られた田んぼの横を歩いて行きました。

水の張られた田んぼの横を通って歌舞伎舞台へ。

みんなで作った割子弁当や持ち寄ったおやつを食べながら、
お酒を飲みながら、みんなで一緒に歌舞伎を見る。
出てくる役者は地元のよく知った人たちで、
あの人が演じてるんだなと思いながら見る。
それがこの農村歌舞伎の楽しみ方なのかなと。

木箱の中からじゃーん! さぁ食べよう。

友人、知人にふるまって、みんなで一緒に食べました。

来年は私たちの組が歌舞伎の当番(肥土山地区には6つの組があって、
交代で歌舞伎の準備、運営をしています)。
たくちゃん(夫)といろは(娘)も出演予定。
これまた楽しみです。

たくさんの『ありがとう』であふれる温泉。埼玉・玉川温泉「母の日100のありがとう風呂」

昭和レトロな雰囲気と露天風呂が人気の湯郷玉川温泉。
ただいま母の日にちなみ、様々な「ありがとう」のメッセージが書かれた
入浴木が女性風呂に浮かんでいます。
その数は99個。
残りの1つの「ありがとう」は
あなたからお母さんに伝えてほしい、というのが趣旨。
18日(日)まで行われています。

この「100のありがとう風呂」は全国各地の温泉施設で開催されているプロジェクト

玉川温泉の湯船にうかぶ入浴木は
地元ときがわ産ヒノキの間伐材を加工したもの。
またメッセージは町内の学童保育の
児童たちに書いてもらったそうです。

みんな照れずに書けたかな?ときがわ町学童保育「しいの子会」

夏にはホタルが舞うほどの山間にある静かな場所にある玉川温泉

良質なアルカリ性単純泉の温泉。全国でも有数の良質な泉質です

体と一緒に心も温まる温泉。
なかなか素直に伝えられない日ごろの感謝を
温泉を利用して伝えてみてはいかがでしょうか。

湯郷玉川温泉
全国一斉!100のありがとう風呂Facebook

今号は「中野区」に深くつっこむ!毎号1つの区がターゲットのタウンマガジン『TOmag』

毎号、東京23区からひとつの区に焦点をあて
ディープに街を紹介していくタウンマガジン「TOmag」。
足立区、目黒区に続く第3号は「中野区」を特集、
4月25日(金)に発売されました。
表紙を飾るのは、上京後に約5年間中野区に住み
青春時代を過ごしたという女優の長澤まさみさん。
巻頭では当時の同級生を呼んで同窓会を開いています。

また、中野区在住歴20年超の掟ポルシェさんの濃厚な中野区談義や、
中野駅の北口の人たちによる
「北口に来たらこの6人に会うといい」
南口の人たちによる
「愛すべき南口のはなし」といった
同じ街でも全く違った側面がのぞける
趣きあるコンテンツも。
色んな角度から中野区の魅力を徹底的に掘り下げ
凝縮した一冊になっています。

誰しもが持ってる「地元に帰ると食べたくなる味」を紹介するページ。中華屋のオヤジさんのやりがいにフォーカス

マニアックな店はブロードウェイだけじゃない!と、全国のインスタント麺や焼酎が集まるお店を紹介

「真 中野十景」。あまり中野区のイメージにない風景ですが、地元の人にはあるある?ちなみに右は元DPEショップを再利用したギャラリーだそう

7年前から中野に住む芸人やついいちろうさんは「中野駅は南口がアツイ!」と豪語

そこに住む人たちならではの
情報、風景、おもしろエピソード。
中野区のことボンヤリとしか知らない人には新発見が、
地元の人には共感と再発見が
きっとできると思います。ぜひ!
ちなみに次号は品川区を予定しているとのこと。

【コンテンツ】
・長澤まさみの呼びかけで、中野で同窓会をひらくことになりまして。
写真:大森克己 インタビュー:掟ポルシェ
・真 中野十景
写真:酒航太
・中野ブロードウェイ 地上10 階、地下3 階建ての物語は終わらない
写真:後藤啓太 文:川田洋平
・ホール文化の行方
写真:塩田正幸 文:北沢夏音
・中野サンプラザ ライブ伝説
さやわか/鹿野淳/モリタタダシ/杉作J 太郎
・北口の人たち − 北口に来たらこの6 人に会うといい。
・南口の人たち − 潜入!中野会。夜な夜な、愛すべき南口のはなし。
やついいちろう/松本素生/峯田和伸/庄司信也
・コラム特集:中野クロニクル
・西武新宿線で一日を楽しく過ごすために。
・中野の味。
・中野でお宝さがし。
東京都内の各書店で販売。価格は1,000円(税別)。

TOmagazine

田舎に人が来る場所をつくる

ここでいろいろな人と、いろいろな出会い。

カフェをオープンしてから2か月が経ちました。
2か月といっても、週に2日の営業なので
まだ10日くらいしかお店を開けていませんが(笑)。
季節はすっかり冬から春になり、まわりの山々がどんどん緑になっていきます。

それにしてもこの2か月、いろは(娘)の卒園、1か月もの春休み、
そして入学、慣れないカフェの営業、夏に向けた畑作業、
振り返る余裕などまったくないほどにバタバタ。
毎週あっという間にカフェの営業日が来て、終わって、
また1週間過ぎてという感じでした。
最近ようやく平日の畑作業、週末のカフェ営業のリズムができてきて、
少しだけ落ち着いたような気がします。

ずっと手入れしたかった庭の工事をスタート。カフェの外席も作る予定。

カフェの営業中は、収穫したお野菜を販売しています。

少しだけ余裕ができたので、メニューの改良や新しいメニュの追加も。

カフェとして週に2日家を開けるようになって、
本当にいろいろな方々が来てくれています。
そもそもこんな田舎のさらに奥のほうまでお客さんは来てくれるのだろうか、
そしてどんな人が来てくれるのか。
ワクワクと少しの不安でオープンしましたが、
いまのところそこそこ順調に営業中です。

11時にお店を開けても1時間くらい誰もお客さんが来ない日もあるし、
1日の売上が1万円に届かない日もあったり。
それでも、近所のおばちゃんグループのお茶会の場になったり、
島で暮らす同世代の人たちがカレーを食べにきてくれたり、
友人が友人を連れてきてくれたり。
いろいろな人が来てくれて、いろいろな出会いがあります。

この連載を読んで、わざわざ東京から来てくれる方も。
移住の相談に来られたり、自分たちの結婚式でうちのお野菜を使いたいと来てくれたり。
本当にありがたく、嬉しいな、楽しいなと思う瞬間がよくあります。

前日に偶然出会った東京からのおふたり。畑作業を一緒にしました。

島の友人たちとその友人。カウンターで討論したり、世間話したり。

カフェの営業時間以外にも、何か使ってもらえたらいいなと
ひそかに思っていたのですが、先日は、オリンパスの方に来ていただいて、
「小豆島カメラ」プロジェクトの一環でカメラの使い方講座を開催してもらいました。
まさにこんなふうに人が集う場所になるといいなと思い描いていた感じ。

オリンパスの菅野さんによるカメラの使い方講座を開催。

お昼はカフェ、夜は勉強会。こんなふうに使ってもらえてほんとにありがたい。

いまの私たちにとって一番嬉しいことは、ここに人が来てくれること。
カフェだけじゃなくて、畑作業を一緒にしたり、宿泊したり、勉強会をしたり、
いろんなかたちでここで過ごしてもらえたらいいなと思っています。
まだまだワクワクとバタバタが続いていきそうです。

港にて

児島の桜が満開を迎えたその翌週の、とある日の昼下がり。
サブの餌を買いに行ったホームセンターからの帰りみちに、
そのおばあちゃんの姿を見た。港に沿った側道に入ったところ、
すぐ横の歩道を歩いていた。
歳の頃は八十代半ばか後半あたりか、
腰は曲がりきって歩くのもつらそうだった。
目と目が合った。こっちは車の運転中なわけだから
次の瞬間にも視線が離れようものだけれど、
このおばあちゃんの視線がやけに絡みついてくる。
おまけにぼくの車が横を通り過ぎると足を止め、
振り返るようにして粘っこくこっちを見つめている。————おばあちゃんの圧勝。
敗者のぼくはすぐ脇の港に車を停めた。ため息のひとつもついたと思う。
元浜倉庫は目と鼻の先だった。

おばあちゃんは立ち止まってぼくを待っていた。
細かな柄の入った薄いグレイのブラウスに無地のグレイのパンツといういでたち。
やわらかそうな白い布のバッグを手にして、
足もとは白のソックスに黒の革靴をはいていた。
「おばあちゃん、送っていきましょうか」
「すいませんな、お願いします」
聞くと、実家に帰る途中だと言う。
耳をかすめたことのある児島の地名を口にした。
現在の住所表記では使われていない古い呼び名だというのはわかる。
でも、こっちのブランクの長いぼくにはどのあたりなのか見当がつかなかった。
「琴浦の方ですかね?」
「いや、そこまで行かん。もっとこっちじゃ」
「どこだろう? 実家の近くにお店とか目印になるようなものがありますか?」
「酒屋のキシダがあるわ」
「キシダ……ほかになんかないですか?」
「キシダんとこの路地を入ったらすぐなんじゃけどな」
もう少し話してみたがらちがあかなかった。
携帯電話で検索してというわけにもいかない。
ぼくの携帯はネットにはつながっていないのだ。
と、そのときひらめくように頭に浮かんだのが、
児島にある大手学生服製造会社の総務部長Kさん。
とにかく物知りで、しかも児島の地の人である。
この際クライアントだろうが四の五の言ってられない。
迷うことなく携帯を鳴らした。Kさん、つかぬことをうかがいますが。
「そりゃあのへんじゃがな、
酒屋はあそこんとこの角のがそうじゃ……かどかどかどかど……そうそうそうそう!」
一切理由を聞くことなく、短い挨拶だけしてKさんは電話を切った。
こうして無理そうに思えた絶壁を記録的なタイムで踏破した後、
おばあちゃんとつかの間のドライブ。
その間の会話から、おばあちゃんがいま向かっている先のあたりで生まれ育ち、
ずいぶん昔に、児島の漁師町のひとつで、
元浜町からもほど近い漁師町の大畠(おばたけ)に嫁いで行ったことなどがわかった。
「実家にはいま誰が住んでるんですか?」
「おじいさんやばあさんがな」
「長生きの家系ですね。ところでおばあちゃんはおいくつなんですか?」
「ううん、なんぼじゃったかな。まだ三十にはならん思うけどな」
「結構若いな、ははは………」
そのとき初めてだった。
ぼくの頭のなかに「痴ほう」とか「徘徊」という熟語が漂いはじめたのは。
でも、隣にいるこのおばあちゃんがボケているようには到底見えなかった。
耳は普通に聞こえているし、身なりも清潔でちゃんとしている。
少々ピントがズレてはいるけど、なにより会話のキャッチボールが成立している。
ぼくの母よりも年齢はほんの少し上だと思う。
でも、母との間ではこんなやりとりはもう何年も前からできなくなっていた。

母が脳梗塞で病院に運ばれたのは2004年の9月末だった。
後遺症は右半身の麻痺と言語障害。
それだけだったら回復もいくらか望めたろうし、
気持ちもどれだけ楽だったかしれない。
決定的な痛打となったのは2か月後に発症したうつ病だった。
それからの苦労はなかなか言葉で表せるものじゃない
(その苦労のほとんどは父が背負った)。
あれから10年になる。施設の類には絶対に入れないという父の意志で、
これまで母を自宅で介護してきた。
でも、この一年ほどで主たる介護者である父の老いが急速に進んだ。
激しく腰が曲がり、体重も10キロほど落ちた。さすがに限界だった。
今年の正月を明けてすぐ、月曜から金曜までの平日の間、
母を介護施設へ預けることにした。
ところがその後の週末だけの家の滞在も父には負担が大きかった。
4月になってすぐ、父は力のない声でぼくにこう言った。
「お母さんの、土日も通しで預かってもらうことにしたけん」
こうして週を明けての月曜朝、
母はいつものように送迎の車に乗せられ施設へと行った。
この元浜の家に戻ることはないかもしれないと理解できないまま。

酒屋の駐車場に車を停めた。
駐車場のすぐ横に、入り口をつい見落としてしまいそうな細い路地がある。
実際、見落とした。
その次の路地に入って狭い道をさんざんぐるぐるした挙げ句、
ここに引き返してきたのだった。
「おばあちゃん、この路地でいいのかな?」
「ああ、うーん、どうかな。そうじゃろうかな」
いまひとつはっきりとしない。
ぼくはおばあちゃんに車で待つように言い残して、
ひとりで歩いて路地に入った。路地はほどなくして右に折れ、
すぐの右手に平屋の一軒家があった。
さらに進むと急なこう配になっており、のぼり口の左手に木造の古い廃屋があった。
その右手には未舗装の駐車場があって、奥に白いモルタルの一軒家がある。
視界にある家はそれだけで、
路地のこの先に家がどれだけあるかはこう配を上ってみないとわからなかった。
そのとき、買い物袋を手に下げた女性が路地をこちらに向かってきた。
ぼくはすぐに声をかけ、おばあちゃんから聞いていた旧姓を彼女に伝えた。
このあたりの集落に思い当たる家はないようだった。
理由を聞かれたので簡単に経緯を説明したところ、
彼女はさも申し訳なさそうな顔で「警察に行かれた方がいいですよ」と言った。
ぼくはお礼を言って、まっすぐ酒屋の駐車場に戻った。
車のドアを開ける瞬間まで、彼女に言われた通りそのまま警察に行くつもりでいた。
ここで切り上げても、「もうやることはやった」と自分で納得できる。
ところが、おばあちゃんのしわだらけの顔を見て、どういうわけか気が変わった。
「ちょっと降りて歩いてみましょうか?」
しばらくおばあちゃんと手をつないで路地を歩いた。
ぼんやりしたおばあちゃんの反応からは、この路地が正しいのかどうかはわからない。
歩いていても、のどの奥の方からかすれたような乾いた音が漏れるだけだった。
急なこう配にさしかかったあたりで、おばあちゃんが口を開いた。
「そこんとこがな、昔はうちの工場じゃったんじゃ」
そう言って左手にある廃屋を指した。
そしてぼくの先に立ち、これまでの足どりが嘘のようにすたすたと歩いた。
向かう先は右手に見える白いモルタルの二階建ての家。
家のなかでゴールデンレトリバーが窓のガラス越しにこっちを向いて吠えつづけている。
おばあちゃんはおかまいなしでまっすぐ玄関に向かって歩いた。
赤の他人であればすでに完全な住居侵入だ。
ぼくはやきもきしながら金魚の糞の体でおばあちゃんの後ろを歩いた。
てっきりその家に入るのかと思いきや、おばあちゃんは玄関先をかすめ、
迷いのない足どりでさらに敷地のその奥へと足を進めた。
そこにこつ然と、屋根の低いプレハブ小屋が姿を現した。
ドアの上に木の表札があった。
そこに人名はなく、筆で書いた文字で「河童ビリヤード」。
おばあちゃんは迷わずドアの把手に手を伸ばした。
……ビリヤード場? かっぱ……? わけがわからなかった。頭がクラクラした。
しびれたような頭のなかで、いろんなものが音をたてて回っていた。

ドアまわりの長く打ち捨てられたような雰囲気のせいで、
鍵がかかって開くわけがないと思ったドアは存外にするりと開いた。
おばあちゃんはその奥へと入っていった。
背中越しに室内をのぞいてみる。カビの匂いがつんと鼻をついた。
目に飛び込んできたのは、ブルーシートに覆われた大きなテーブルのような台。
サイズといい高さといい、ビリヤード台であるのは間違いない。
左手に1台、建物の奥に向かって3台が縦に並んでいた。
その板壁には炭のように黒々としたキューが何本もたてかけられている。
長く稼働していないというだけで、紛うことなくビリヤード場だった。
紛うことのないビリヤード場ではあるんだけど、
ぼくにはこの世界のどこでもない場所に足を踏み入れたような感覚があった。
 おばあちゃんが向かっているすぐ先で、突然黒っぽい塊が動いた。おばあちゃんの向こうでおばあちゃんが振り向いた。
齢九十超えはかたい大おばあちゃんがいた。
ふたりは一瞬顔を見合わせた後、大おばあちゃんが
「あんた、どうやって来たん?」
「うん? 乗してきてもろうたんじゃ」
小おばあちゃんがそう言ってぼくの方を振り向く。
ああ、どうもとぼくは挨拶したが、大おばあちゃんはぼくの方をまったく見なかった。
「おじいさんはどうしたん? どこにおるん?」
「はあ? なにゆうとん? おじいさん、おらんよ」
「おらんの? 死んだん?」
「死んだ。二十三年(おそらく平成23年のこと)」
「そうかな……そうかな」
言いながら、小おばあちゃんはそこにあったソファに腰を下ろした。
「あんた、ここにおってもろうても困るよ。
わたしゃこれから降りるんじゃから。乗して帰ってもらい」
「ああ、そうな……」

結局、ものの5分といなかった。
そこがおばあちゃんの実家だったとすれば、なんとも滞在時間の短い里帰りだった。
ぼくたちはその魅惑的なビリヤード場を出て、駐車場で大おばあちゃんに別れを告げた。
小おばあちゃんは終始素っ気ない感じで、振り向きもせず路地をすたすたと降りて行く。
大おばあちゃんはぼくに「申し訳ないね、すまないね」と最後まで繰り返していた。

さて、帰りもすんなりとはいくはずもない。
まず大畠というエリアはわかっているが詳しい住所がわからない。
近隣の知り合いに電話したりしてのすったもんだは省略して、結果からいうと、
すべてはおばあちゃんの手に下げた白い袋のなかにあった。
住所だけでなく電話番号まで記した名札のようなものが入っていたのである。
そしてその住所は大畠ではなく、なんと元浜町、元浜倉庫があるエリアである。
電話にはおじいちゃんが出た。すぐに迎えに行くと言う。
ぼくも元浜町に帰る旨を伝え、
元浜エリア最強のランドマーク「大たこ」の前で落ち合う約束をした。

 

はたして、夕陽に染まった大たこの前におじいちゃん本人がいた。
息子の嫁とか娘とかでなく。おじいちゃんも齢は80代半ばあたり。
白髪あたまはぼさぼさ、しかし浅黒い顔に
よれた感じの薄いブルーのブルゾンがやけにしっくりとしていた。
おじいちゃんは大たこの向かいある低い堤防の上に腰を下ろしていた。
杖代わりに使っているのだろう、
隣には布地の部分がひどく色褪せした古いカートが置いてある。
おじいちゃんの表情は終始穏やかで、
おばあちゃんには叱るような言葉を一切口にしなかった。
「ばあさんには、出て行ったらいけんと日頃から言うとんですけどなあ」
むしろやさしげな笑顔さえ浮かべてぼくにそう言った。
おばあちゃんはというと、おじいちゃんに謝るでもなく、
目も合わようともせず、
それでもおじいちゃんの隣にちょこっと腰を下ろしてじっと海の方を見ていた。

そしてぼくはというと、このふたりの姿に、
10年前に母が病気をしなかったら現在こうであったかもしれない、
父と母の姿を見ていた。

もともとはたこ焼き屋さんだったが、現在は高齢者向けの最大の娯楽スポット。昼間からカラオケの音が近所に響きまくっている。タクシーで乗りつける常連のお客さんの姿も。

*当連載に登場する人名・店名等はプライバシー保護のため
一部仮名を使用させていただいています。