〈真鶴ピザ食堂ケニー〉
真鶴で理想の暮らしを手に入れた
夫婦がつくるハッピーなピザ

誰もが入りやすい、まちのピザ食堂をつくる

「ピザ屋ができるらしい。それも、どうやら移住したての若い夫婦がやるらしい」――。

神奈川県の小さな港町真鶴で、その噂はすぐに広まった。
2016年11月に駅から少し離れた場所で工事が始まると、
翌月17日にあっという間に開店した。

「移住したての若い夫婦」が始めたにもかかわらず、
そこにはまちにあるさまざまなお店から開店祝いの花が並べられた。
まるでみんながこのピザ屋を待ち焦がれていたようだ。

それに来店するのは若者だけではない。
子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで世代を超えてやってくる。
高校生が学校終わりに来ることもある。こうしてあっという間に
「まちの食堂」のひとつに仲間入りしたのが、〈真鶴ピザ食堂ケニー〉だ。

「どんな人でも、ちびっこたちからおじいさんまで
来てもらえるお店にしたかったんです。ピッツァじゃなくて『ピザ』。
トラットリアやピッツェリアじゃなくて、『食堂』っていう感じ」

そう語るのは夫婦でケニーを運営する向井日香(にちか)さんだ。
向井さんたちは2016年6月に真鶴に移住してきたので、
移住からわずか半年足らずでお店をオープンしたことになる。

向井日香さん。お店を運営しながら、造花作家としても活動する。

お店のメニューを見ると、干物を乗せたピザや
塩辛を使ったパスタ、うつぼのアヒージョなど、
普通のイタリアンレストランではまず見ないであろう素材が並んでいる。

「まちに根づいてやっているお店の店主さんとつながれることが、
使わせてもらうことだったんです。
まだここに越してきて浅いですが、自分たちがいいなと思ったまちの特産品を
『こういう食べ方もあるんだ』っておもしろがってくれたらいいなと思っています」
シェフを務める向井研介さんはそう語る。

外には暖簾をかけ、店内にもスケートボードを飾るなど、
レストランというよりやはり食堂の雰囲気だ。

「都内にいるときは店構えも内装もしっかりしたところでやっていたんです。
でもそうするとそれだけで踏み入れる客層が決まっちゃうんですよね。
自分たちがかっこいいなと思うイメージと、お客さんが入りたいなと思うイメージを
すり合わせたところがいまの感じだったんです」

生地は、国産小麦100%で毎日手ごねでつくっているという。
実際にピザを食べてみても食感がよく、具だけでなく生地の味もしっかりと楽しめる。
ピザ以外も「サバのみりん干しとマッシュポテト」など
意外な組み合わせが多く驚くが、食べてみるとその組み合わせに納得する。
この驚きもここに人が集まる理由のひとつかもしれない。

値段も良心的で、1000円以下にこだわる。(上から時計回りに)アジのみりん干しとタケノコのピザ、アジの塩干しとオリーブのピザ、ウツボのみりん干しとししとうのアヒージョ。もちろん、干物を使ったピザ以外にマルゲリータなどの一般的なピザもある。

友だちの家に遊びに来たような内装。内装工事はほとんど自分たちで改修を行った。

より過ごしやすい環境を求めて

福島県に生まれた研介さんは、「山と田んぼしかない」田舎町の
居酒屋を営む家で育った。まちで人気の居酒屋だった。

「父親が、マスター!マスター! って呼ばれてるんですけど、
なんでマスターって呼ばれてるんだろうって思っていました。
いまや自分がたまに呼ばれるんですけど(笑)」

親の姿を見ていて、大人になったら自分もそうなるだろうと、
その姿しか想像できなかった。福島県郡山市のカフェで働いていたとき、
系列店への異動で東京に呼ばれた。それが21歳のときだった。

しばらくしてその会社を辞めたあと、別の会社で約6年、
イタリアンやビストロなどの飲食店の立ち上げに料理担当として関わった。
そして、吉祥寺のレストランで働いていたときに日香さんと出会った。

一方、埼玉県郊外の住宅街で育った日香さんは、
高校を卒業して文化服装学院に進んだあと、
ウエディングドレスをつくるアトリエに入った。
そこで、装飾担当として髪飾りや刺繍をしていた。

そんななか、二十歳のときに働きながら参加した造花教室をきっかけに、
造花に可能性を感じるようになる。最初は趣味として造花を始め、
2013年からは飲食店でアルバイトをしながら「造花作家」と名乗り活動を始める。

日香さんの作品。材料は、熱を当てるとかたくなる加工がしてあるシルクを使う。コサージュのように身につけられる作品もあれば、箱に入れて飾る作品も。木の枠は研介さんがつくっている。(写真提供:向井日香さん)

シルクは自分で草木染めを行う。染色は独学で学んだ。植物らしい形で、植物らしくない色をつける。(写真提供:向井日香さん)

型は自分で画用紙などに描く。「バラとかじゃなくて、ヨモギやオオバコなど、道路の脇に生えているような身近な植物をモチーフにしたいんです」

はじめに千駄木にあるカフェ兼ギャラリーの〈HAGISO〉で小さな個展を開いた。
それが美術館ショップのオーナーの目に止まり、
東京丸の内の〈三菱一号館美術館〉でも展示販売を行った。
順調に作家としてのキャリアを積んでいるように見えるが、
ある言葉を機に移住を考え始めたという。

「当時は都内の小さなアパートで、キッチンにブルーシートを敷いて
制作していたんです。しかも週5日飲食店でアルバイトをして、
休日に制作活動をして、結構大変で。
ある日、昔のウェディングの職場の手伝いをしていたら、
『目が弱ったね』と言われたんです。
造花の制作は、何もないところから作る必要があるんですが、
発想したり考えたりする力が弱まってしまったみたいで。
私は環境に流されやすいタイプなので、
一度、環境を変える以外手段がないなと、移住を考え始めました」

HAGISOでの個展風景。HAGISOは古民家を人が集まるスペースに改修したスペース。(写真提供:向井日香さん)

研介さんも、日香さんとの結婚を機に移住を検討し出す。

「もともとずっと福島に戻りたいと思っていたんです。
もちろん自分の家族もいるし、友だちもいる。
だけど一番大事なのは自分がつくる家族だから、
その家族がより過ごしやすいところがいいなと思って、福島以外でも探し始めました」

〈中川一政美術館〉で
一政の書の魅力を
書家・川尾朋子が読み解く

中川一政と現代の書家のコラボレーション

目の前に広げられた和紙の前に正座し、精神統一するかのように佇む女性。
やがて立ち上がると、大きな筆にしたたるほどのたっぷりの墨をつけ、
一気に文字を揮毫する。全身を使って文字を書いていくそのようすは、
まるでコンテンポラリーダンスのようだ。

ふだんなかなか見ることのできない書のライブパフォーマンスに、町民たちも息をのむ。書き切ったあとは息切れするほど、全身を使って書き上げた。

この女性は、書家の川尾朋子さん。
神奈川県真鶴半島の「お林」と呼ばれる豊かな森に隣接する
〈真鶴町立中川一政美術館〉で行われた、ライブパフォーマンスのようすだ。
続けて、町内の小学生を対象にした書道のワークショップも行われ、
子どもたちはいつもの「お習字」とは少し違う世界を体感できたようだった。

川尾さんの「習字は枠の中に収めるけれど、書道は紙をはみ出して書いてもいいので、いまからはみ出して書いてみてください」という言葉に、子どもたちもハッとさせられたようだった。

この日、川尾さんが書いたのは「生命」という文字。
「中川先生は生命感あふれる作品を描いています。
バラの絵もたくさん描かれていますが、いろいろな生きているものを
愛した人なのではと思って、この言葉を選びました」と川尾さん。

書からデザインまで。多様な作品に触れる

中川一政は日本における洋画の黎明期から活躍した日本を代表する洋画家のひとり。
戦後間もない1949年から、1991年に亡くなるまで真鶴のアトリエで絵を描き続け、
その多くがこの中川一政美術館に収蔵されている。
また一政は油絵だけでなく、書の作品も数多く残しており、書家としても人気が高い。
今回のイベントは、そんな一政の書家としてのすばらしさにも触れてほしいと
美術館で開催された。

現在開催中の企画展『中川一政の装丁とデザイン』(3月28日まで)では、
一政の書の作品も展示するほか、本の装丁や挿画、パッケージ画など、
一政の多様な作品に触れることができる。
川尾さんも、興味深く展示作品を見て回った。

一政の書はとても独特。少し角張った文字だが
大小が異なり整然としておらず、バランスが悪いようにも見える。
が、それがとても味わい深く、どこか人間臭さが感じられる。

川尾さんはそんな一政の書はとても上手だという。
「非常に書をよく学んでいらっしゃると思います。そのうえでどうバランスを崩すか、
そのズレの妙をよくご存知だったのではと思いますね。
文字の大きさも含めて、とても計算されていると思います」

中川一政美術館のロゴも一政自身が書いた。「このバランスの崩し方がおもしろいですね」と川尾さん。赤いマークは、矢印を一政がデザインしたもの。

一政はきれいな楷書も当然書けるうえで、既成概念にとらわれず、
どう作品として美しく見せるかを考えていたのではないかというのが川尾さんの推測だ。
その証拠に、もともとの文字のうまさが、ところどころに表れているという。

「作品ではうまさを出したくなかったんでしょうね。技を見せないようにしているけど、
実はその裏にはたしかな技がある。そこがかっこいいですね」

「先生の書は本当に上手なんです。それをみなさんに知ってほしい」

一政の書を見ながら、何度も「かっこいい」を連発していた川尾さん。
もうひとつ着目したのが、書の作品における色。
通常、墨の色は均一であるのがふつうだが、
一政の作品ではひとつの作品の中にも墨の濃淡があり、
それもわざとそのようにしているのではないかと見る。

また色がついた線で枠を描いたり、文字の背景に色があるものもあるが、
それは、「料紙」から自分で描くということでは、と川尾さん。

「日本では平安時代に和歌を書くことから書が広まりました。
その和歌を書く紙である料紙には、
いろいろな絵や模様を施すという文化があるのですが、
料紙から自分でつくるということをされていたのでしょうね。
そういうところも、絵画を描く人だなと思います」

写真提供:中川一政美術館

真鶴の潮風を受け
オーガニックで果樹を育てる
〈オレンジフローラルファーム〉

自然と共存しながら、クリエイティブなことをする

神奈川県真鶴半島の先端、「お林」と呼ばれる森の少し手前にある入り口から
ゆるやかな坂を下りると、眼下に相模湾を望むウッドデッキテラスが見えてくる。
テラスを中心に、海からの風と太陽の光をたっぷり浴びた柑橘がたくさん植えられ、
果実や葉がやわらかい春の光に輝いている。

ここ〈オレンジフローラルファーム〉は、真鶴に移住して13年目の
佐宗喜久子さんたちの会社が運営する果樹園。
スローフード発祥の地、イタリアの“自然と人と食”の考え方に賛同し、
2002年からイタリアスローフード協会の国際会員に登録しており、
ナチュラル&オーガニックにこだわった、 皮まで食べられる安心なものを提供している。

ウッドデッキテラスにはテーブルなどが用意され、BBQなどに利用できる。 坂を下りたところにもレモン畑がある。

レモン、ライム、みかん、ダイダイ、プラム、ブルーベリーなどが実り、
11月にはさまざまな花が咲くオレンジフローラルファーム。
農薬を使わずに自然の恵みを生かし、海からの風が吹き抜ける畑は
お林からの落ち葉と適度な塩分で、良い腐葉土ができる。

ここでは果樹園でできた柑橘を限定で通信販売するほか、
レモン狩りや農業体験などの各種プログラムも行っている。
「来園者に丁寧に対応したいので、予約制にして
一度に対応する人数の上限を決めています」と佐宗さん。

果樹を丁寧に育て、来園者にも丁寧に接してくれる佐宗喜久子さん。11月中旬から12月はみかんの収穫期。(写真提供:オレンジフローラルファーム)

実は佐宗さんは、果樹園を運営しながら、
海外企業のコンサルティングなども行っている。
そしてこの環境が、それらのビジネスにもいい影響を与えているという。

「自然と向き合っていると、謙虚になるんです。自然と共存することで、
心が広くなって、ビジネスの現場でも広い視野を持てるようになった気がします。
多忙な日々のなか、こういった環境ではものすごくリラックスして
クリエイティブなことにも専念できます。
都会にいるときよりももっといい仕事ができるようになっている、
それはたしかですね。心と体のバランスが、真鶴に来てとれ始めたんです」

一見関係のなさそうな果樹園の運営と海外とのビジネス。
しかし、佐宗さんは真鶴という環境にいることを生かし、
楽しみながらビジネスに取り組んでいるようだ。

葉裏にいいレモンがあることが多い。5月には柑橘の花が咲き、近隣にも爽やかなシトラスの香りが漂う。「レモン狩りを始めた当時は、オレンジフローラルが日本で初めてだったと思います」と佐宗さん。

実を枝から切ったあとは、ほかの実を傷つけないようにもう一度ヘタを切る。とれたてのヘタからはレモンの芳香が。

アートでまちをもっと幸せに!
〈真鶴まちなーれ〉

商店街に、もう一度賑わいを

2017年3月4日、神奈川県の真鶴町で、
〈真鶴まちなーれ〉というアートイベントが始まる。

真鶴まちなーれは今回で3回目。期間は3月20日までの17日間で、
期間中まちの各所に現代アートの作品が展示される。
また、同時に「アートで遊ぶ」をテーマにさまざまなワークショップも開催される。

実行委員は有志で集まった7人。真鶴生まれの人もいれば、
移住してきた人も、隣町の湯河原から参加している人もいる。
年齢も20代から50代までさまざまだ。

取材に応えてくれたのは実行委員のうち4人。左から平井宏典さん、遠藤日向さん、卜部美穂子さん、草柳采音さん。

今回まちなーれの中心となる会場は、真鶴駅から港に向かう途中にある、
「西宿中通り(にししゅくなかどおり)」と呼ばれる商店街。
普段はシャッターが降りる店が多く静かな通りだが、
かつては「真鶴銀座」とも呼ばれるほど賑わいを見せた商店街であった。

西宿中通りの交差点。両脇のシャッターが降りるお店も、今回のまちなーれの会場となる。

「私が子どもの頃おつかいに行っていたときは、
シャッターはほとんど開いていたんです。お店があって、にぎやかな場所。
人と人が買い物の間におしゃべりをしたりするようなことが、
ほんとにあった場所なんです」

そう語るのは、真鶴まちなーれの実行員のひとりである草柳采音(ことね)さん。
現在大学3年生だ。

第2回目からまちなーれに関わっている草柳采音さん。真鶴生まれ、真鶴育ちで、実家はまちの人気酒屋〈草柳商店〉。

今回のまちなーれのテーマは「懐かしい賑わい 新しい眺め」。
なんとこの西宿中通りの閉店したお店にアート作品を展示し、
かつての賑わいを取り戻そうというものだ。

対象となるお店は、元魚屋、元文房具屋、元薬屋、元中華料理屋などさまざま。
アート作品の展示だけでなく、3月19日(日)には
ワークショップもこの通りで一斉開催する。
この日が今回のまちなーれの最も盛り上がる日だという。

真鶴まちなーれの楽しみ方

まちなーれがほかの芸術祭と違うところは、
アート作品を巡るのに、自分たちで自由に訪れるのではなく、
1日2回行われるガイドツアーに参加する必要があるところだ。
この仕組みについて、実行委員長である卜部美穂子さんは言う。

「現代アートって難しくて、私も初めて見たときに
どう見ていいのかわからなかったんです。だけどガイドツアーに参加することで、
少しだけアーティストの考えていることにアクセスできたりするんです。
アートって答えがないと思うんですけど、アーティストの考えることに
少し触れるだけで、世界が広がる感じがする。
ガイドツアーで回ることで、もっと広がりが見えると思うから、
絶対参加してほしいですね」

実行委員長の卜部美穂子さんは真鶴への移住者。第1回目のまちなーれから、子育てをしながら関わる。

ガイドツアーは、アートに興味がある人も、初心者の人にも楽しんでもらいたい、
そんな思いが込もった仕組みなのだ。

さらに、このツアーの魅力は作品についてよりよく知ることができるだけではない。
それは「対話」による新たなつながりだ。
地元の大学生の遠藤日向(ひなた)さんはこう言う。

「ガイドツアーのなかでは、真鶴の話をすることもあれば、
すれ違ったまちの人と交流することもあります。
ときには、ガイドさん以外で、長く真鶴に住んでいる参加者が
ガイドし始めることもあるんです(笑)。昔はこうで、ここの道は通れたんだとか。
外から来た人と、まちの人。いろんな方向から作品を楽しめる要素が
詰まってるんです。1回だけでなく、何度でも参加してほしいですね」

遠藤日向さんは草柳さんの幼なじみ。同じく現在大学3年生だ。

小道が多く、歴史もある真鶴は、歩いていると思わず隣にいる人と話したくなるまちだ。
だからこそまち歩きをするだけで交流が生まれるのかもしれない。

みかん畑でドッグラン? 
歴史と自由なスタイルが入り交じる
真鶴の観光農園〈松本農園〉

絶景ロケーションの農園を散策

「あの高い建物が横浜のランドマークタワー。今日はスカイツリーが見えないねぇ」

神奈川県の西、真鶴駅から車で山道を走ること約10分。
松本茂さん一家が営む〈松本農園〉に到着すると、
その眺めに思わず「わぁ」と声が漏れた。
視界を遮るものは何もなく、相模湾を眼下に、
三浦、房総、大島、初島まで見渡せるのだ。空も海も青く美しい。
なんて気持ちのいい場所だろう。

ときに大きな勾配のある散策コースは、1周すると程よい疲労感に包まれる。園内の看板はすべて松本さんの手づくり。

約5ヘクタールにも及ぶ敷地には、みかんの木が4000本も植えられ、
繁忙期の10月から12月にかけては1日に500人のお客さんが
みかん狩りをしにやってくるという町内最大規模の観光農園だ。

3月下旬から5月上旬にかけては、甘夏をはじめ、
レモン、キンカン、ニューサマーオレンジなど
10種類ほどの柑橘を楽しめる雑柑狩りも行っており、
2月上旬のこの日も園内には鮮やかな実がなっているのを見ることができた。

このほかにも水仙花摘みやクロスカントリーとドッグランのコースも設置。
なんと犬のブリーダー事業も手がけ、園内にはレンタル犬もいる。
いずれもお客さんの要望に応えるかたちで、さまざまな事業に取り組んできた。

みかんの木を炭にしている松本さんは、みかんの実の炭もつくっている。お菓子の空き缶に並べるのは、窯の中で型崩れするのを防ぐため。松本さんのアイデアから生まれたみかんの炭は商品化され、観光協会では真鶴土産として販売中。オブジェに、冷蔵庫などの防臭材にと人気がある。

茂さんと長男の悟さん、手伝ってもらっている男性スタッフの3名で
畑の手入れや贈答用のみかんの出荷作業を行い、
茂さんの妻の紀子さんと悟さんの妻りえさんが接客を担当しているという。

先代から続く、規則に縛られない農業のかたち

松本さんは、東京農業大学で学んだ後、アメリカで1年間の農業研修を経験。
帰国後すぐに家業を継ぎ、40年以上にわたり運営に携わってきた。
松本農園の特徴は、除草剤は一切使用せず、雑草を刈りこんで肥料とし、
農薬も極力減らした、環境に負担のかからない農法を採用していること。
雑柑に至っては、農薬も除草剤も一切使わずに栽培しているそうだ。
その理由はいたってシンプルで、「畑の真ん中に自宅があるから」。

「やたら農薬を使うと、全部自分のところに返ってくるでしょう? 
その昔は、農薬もいまと違って『虫が死ぬか、人間が死ぬか』と言われるくらい
危険なものも多かったの。農薬をまいたところにはドクロマークをつけて、
立ち入り禁止にしたりしていたんだよ。でも、うちではそれができない。
この環境がいまのやり方につながったんだね」

農薬をあまり使わず、しかもこれだけの広さの農園となると、草刈りは大変。
農家にとって草刈りは大仕事だとよく耳にするが……?

「いや、楽しいよ~! 意外にね、農家の人って、草刈りを楽しんでやってると思う。
だってほら、機械で刈っていったところがきれいになるじゃない。
俺なんて、ゴルフに行くのと変わらないって思ってるよ。腰の振りが似てるでしょ」

茂さんの言葉と目の前に広がる景色がときに重なる。
おおらかで、たくましくて、気持ちのよい風を感じるのだ。
そんな快活さの裏には、父・敬さんの決断も影響しているようだ。

「うちは親父の代から農協に入っていないんだ。
だから、規則に縛られることなく、自分たちの好きなようにやってこれた。
この農園自体は明治時代からあるんだけど、観光農園を始めたのはここ50年くらい。
それ以前については、親父が話したことが新聞記事になってるよ」

家をつくる、暮らしをつくる、
〈HOMEMAKERS〉

離れを少しずつ直して、宿泊棟に

農家の冬は夏に比べたらだいぶゆったりしています。
夏は何よりも暑さと草との戦い。
すごい勢いで成長する雑草たちに負けないように刈り続け、抜き続け、
そしてトマトやピーマン、ナス、キュウリなど毎日収穫、
メンテナンスしないといけない野菜たちの世話。
雨が降らなければ、水やりも欠かせない。
それを猛烈な陽射しのもとでやらないといけない。
畑仕事以外のことはほとんど何もできずに毎日が終わっていきます。

冬は、野菜も雑草も成長スピードがゆっくりなので、そこまで追われ続けません。
ただ春に向けての準備や、収穫・販売の作業はあるので決して暇ではないのですが、
私たちは毎年1月2月はカフェ営業もお休みし、自分たちの体も含め、
働く環境、暮らす環境のメンテナンスをする期間にしています。
私たちにとってこの期間は本当に大事な時間です。

ほこりを被っていた大きな棚。拭いて塗って蘇る。

とにかく掃除。流木や引き出しなどいいなーと思ったものをどんどん集めてきてしまうので、とにかくうちはものが多い。

置き場に困っていたソファを外に置くことに。ここを畑作業の憩いの場にします(笑)。

今年の冬はどこに手を入れようか。野菜出荷場、農具や工具の収納場所、
これから民泊できるようにしようと思っている離れの建物。
それから家のリビングやデスクまわり。
直したいところは山ほどあって、たぶんこの冬中には全部できないので
できるところから。

自分たちの暮らす場所、働く場所をつくりあげていくことは、
私たちにとって何よりも楽しい時間。
自分たちが毎日過ごす拠点=HOMEを快適で楽しい場にする、
そしてそこにいろんな人たちを招き、いい時間を共に過ごす、
それこそが私たちのしたいことなんだよなーと思っています。

そのHOMEっていうのは、家という物理的な建物だけじゃなくて、
庭も畑も含まれているし、もう少し広げて、
私たちが暮らしている肥土山(ひとやま)地区、さらには小豆島も。

ただあまり広げすぎてしまって、真ん中の部分が手抜きになってしまったら
楽しくないし強くもないので、まずは自分たちの拠点をひとつずつ、つくっていきます。

イルミネーションを屋根の下にとりつけ。夜になってピカピカさせるといい雰囲気。

蔵と離れの間のスペースがだいぶスッキリしました。休みの日はいろは(娘)もお手伝い。

ストーブを直すたくちゃん(夫)の横で、宿題をするいろは。うちはいつもこんな感じ。

真鶴の豊かな海を発信する
〈ディスカバーブルー〉と
〈真鶴町立遠藤貝類博物館〉

磯の下に広がる世界

「海で遊ぶ」というと、どんなものを思い浮かべるだろうか? 
海水浴やサーフィン、スキューバダイビングなど、
海の中に入って楽しむものを想像する人が多いかもしれない。
しかし、神奈川県南西部にある真鶴町では、海に入らなくても遊ぶことができる。
「磯遊び」だ。

真鶴半島の先端、崖の上から急な階段を降りると、180度海が見渡せる磯にたどり着く。
右を見れば伊豆半島。左を見れば三浦半島や、遠くに房総半島も見える。
この場所、実は潮が引くと、正面にある「三ツ石」と呼ばれる
3つの大きな岩までの道が現れる。そうなったときが磯遊びのチャンスだ。

正面に見えるのが三ツ石。引き潮のときだけ陸続きに歩くことができる。

「磯の観察をするときは、引き潮になるときを狙います。
風向きによって波が立っている場所が変わるので、
なるべく穏やかなところのほうがいいですね」

楽しそうにそう語るのはNPO法人〈ディスカバーブルー〉の寺西聡子さん。
真鶴に事務所を構えるディスカバーブルーは、海の魅力や生き物を知ってもらうために、
町内外に向けてワークショップや研修を行う団体だ。
取材中も寺西さんは、滑りやすい海藻のつく岩の上を慣れた足で飛び越え、
どんどん先に行ってしまった。

ディスカバーブルーの寺西聡子さん。2012年から活動に参画したという。

寺西さんが磯に入って数分。あっという間にナマコを見つける。

「これは脱皮直後のヒライソガニです。触ってみるとわかりますが、脱皮したてだとまだ甲羅がやわらかいんです」

遠くで見ればただの岩場でも、石を持ち上げるだけで違う世界が広がる。
たった数分でそのことを実感できてしまった。

大地と人が守った生態系

寺西さんによると、真鶴の海にこれだけの生き物が集まるのは偶然ではないという。
それは真鶴半島の成り立ちにまで遡る。
真鶴の土地はもともと、火山の噴火によって流れ出た溶岩でできている。
砂が堆積した土地と違い、真鶴のように溶岩でできた土地の場合は、
固定されているので海藻が育ちやすい。海藻が育つと、それを食べる生き物が増える。
さらにその生き物を目当てに魚が集まる……というように生き物が増えていくのだ。

もちろん、神奈川県内だけでも三浦や葉山など、砂浜でなく磯の海岸はある。
しかし、その中でも真鶴は圧倒的に生き物の数が多いという。

「真鶴は磯の手前に道路を挟んでいないんです。山から海まで一直線につながっている。
これはすごく生き物にとっていいことなんです」

神奈川県の海岸線沿いの多くには、大きな道路が走る。
しかし道路があると、車の騒音やライトなど、
生き物にとっての海の環境が悪くなってくるのだという。
しかも、土地がコンクリートで埋め立てられていると、
雨が降ったときに本来土を通り抜けて流れるはずの雨水が直接海に流れ込む。
そうすると海水の塩分が急激に下がり、海の生き物が生きづらくなってしまうのだ。

真鶴は半島が突き出ているため道路が海岸線沿いを走らない。
代わりにあるのが「お林」と呼ばれる豊かな森だ。
かつて皇室が所有していたこの森は開発から免れ、
いまでも県立自然公園として保護されている。

「土地と歴史。あとは海流や海の深さ。いろんな条件が重なって、
真鶴は海の生き物にとってすごく生きやすい環境になっているんです。
私もすべての海に行ったわけではないですが、石をひっくり返すだけで、
あんなに簡単にナマコを見つけられるところはなかなかありません」

入学予定の小学校は在校生8人!
少人数学級ならではの魅力とは?

移住する一番の問題は、息子の小学校入学

岩見沢の中山間地、美流渡(みると)への移住計画については、
この連載で何度も触れてきているが、今回は、
息子がこの春から入学する小学校のことを書いてみたい。

そもそも、この時期の移住を決めたのは、
息子が新1年生になるタイミングというのが大きかったし、移住計画の当初、
親戚や知人が反対する一番の理由に、息子の小学校問題があったからだ。

現在の住まいは、岩見沢駅から車で5分ほどのところで、
この学区にある小学校の児童数は約300人。
1年生は2クラスあり、人数は岩見沢市街のほかの学校と同様の規模だ。
しかし同じ市内であるものの、ここから車で30分ほどの美流渡地区にある
美流渡小学校まで行くと、在校生はたったの8名(2016年度)。
昨年入学した1年生はおらず、2・3年生と5・6年生が同じ教室で学ぶ、
複式学級となっているのだ。

美流渡小学校は、現在の児童数は少ないが、ほかの市街地の小学校と校舎の規模は変わらない。一部の壁にレンガが使われていて味わい深い。

移住を懸念していた親戚や知人は、生徒数の多い学校のほうが、
学力の面や学校行事を行ううえでも安心感を持っているようだった。
自分自身を振り返れば、1学年5〜6クラスという
第2次ベビーブーム世代であったため、わずか10人に満たない学校が
どんなところか想像が及ばず、児童数が多い学校のほうがいいのではないか? 
という意見に、なんと返したらいいのか言葉につまってしまうことも多かった。

そんななか、美流渡小学校について知っていくにつれて、
少人数には少人数なりの良さもあるんじゃないかと思うようになった。

改装中の古家からの通学路。両脇の雪を崩し崩し息子は歩く。

異学年が一緒に教室で授業を行う複式学級とは?

昨年秋に、学校の様子を知りたいと、美流渡小学校に見学に行ったことがある。
複式学級の授業とは、ひとつの教室に異学年の生徒がいて、
授業時間をだいたい半分に分けながら、
先生が各学年の授業を進めていくというやり方だ。

例えば同じ学級となっていた2・3年生の教室を見ると、
前と後ろに黒板が設置されていて、先生が2年生の授業を前の黒板で行ったら、
次に後ろの黒板に移って3年生の授業を行っていた。
別の学年の授業が行われているあいだ、もう1学年の生徒は
自主的に学ぶ時間となり、生徒はプリントで問題を解いていた。

このように先生が語る時間は限られるが、このとき2・3年生はひとりずつのため、
ほぼマンツーマン。もし理解ができていない部分があったら、
個別に対応できる環境があることがわかってきた。

また、人数が少ない場合に工夫が必要な授業は体育。
全学年で行うほか、他学校との交流授業などをしながら
カリキュラムをつくっているという。

2月になってこの春新1年生となる子どもたちの体験入学が行われた。
この日、移住予定の美流渡の古家から、息子と通学路を歩いてみることにした。
今年、岩見沢は降雪量がとても少ないが、それでもこの地区には雪がたっぷり。
大人の足だと小学校までは15分ほどだが、息子は雪山で遊びながら歩くので、
倍くらいの時間がかかった。

美流渡の古家。屋根につもった雪が玄関先に落ちてきており、山になっている。除雪をしないとなかに入れない状態。

息子はたっぷりの雪に大喜び。「学校に行くよ〜」と声をかけても知らんふりで、ソリ遊びに夢中。

通学路の途中でばったり会ったのは、この地域で果樹園を営む東井さん母子と、
美流渡の駐在所に夫が勤務している曽我さん母子。
子どもたちは、わが家と同じ新1年生。
すでに息子と何度も遊んだことがある友だちで、
お互い笑い合いながら、並んで学校のほうへと駆け出した。

2017年度の1年生は、いまのところ息子を含めて4人(例年に比べると多い!)で、
そのうちの2人の両親とはすでによく知る間柄というのは、
実はわたしにとって、とても心強いことだった。

以前から、父母会などの集まりには、すぐに馴染むことができず、
初めてのママさんたちとの会話は結構苦手。
息子の幼稚園が新学期になって顔合わせの父母会があると、
ちょっと気が重いような、そんな気持ちになっていた。
ましてや小学校など新しいところに飛び込むとなると、
わたし自身も相当なプレッシャー。
だから、美流渡小学校に知り合いが多いというのは、本当にありがたいことなのだ。

通学路でばったり会った新1年生の友だち。学校の雪山に登ってさっそく遊びが始まる。

地元で自分の好きなことを仕事に。
似顔絵からデザインまで手がける
〈ポトレト〉山本知香さん

やりたいことを実現するため東京へ

やりたいことがあっても、生まれ育ったまちにそれをやれる場所がなかったら……。
そんなとき、あなたはどうするだろう?

山本知香さんは、まさにそんな境遇にいたひとりだ。
神奈川県真鶴町で生まれ、幼い頃から絵を描くことが大好きだった山本さんは、
高校卒業後にデザイン専門学校に進学した。
卒業後は、住まいも東京に移し、8年にわたりグラフィックデザイナーとして活躍。2011年から真鶴で暮らしている。

現在は、〈ポトレト〉の屋号で似顔絵作家・イラストレーター・
デザイナーとして活動し、真鶴で行われるイベントへの出店にも積極的だ。
2014年にスタートした芸術祭〈真鶴まちなーれ〉や、
毎月最終日曜日に開催される〈真鶴なぶら市〉にもこれまで何度も参加してきた。

山本さんが彫ったさまざまな絵柄の消しゴムはんこを真っ白な生地にペタペタと押していく「ハンカチづくりワークショップ」。今年も3月に開催されるまちなーれで開催予定。(写真提供:山本知香さん)

消しゴムはんこを使って缶バッジづくりのワークショップをすることも。(写真提供:山本知香さん)

真鶴らしい柄も!(写真提供:山本知香さん)

山本さんがこうした参加型のものづくりワークショップを始めたのは、
真鶴の子どもたちや友人の親子に、都心に行かなくても充分楽しめるよ、
ということをわかってほしいからだという。

山本さん自身は、自分がやりたい仕事をするためには東京に出ないと、と思っていた。
でもいまは、アイデアさえあれば、本人の努力次第で
どこででも、何でもできる、そう思っている。

ひょうたんにアクリル絵の具で顔を描いたひょうたんダルマ。「友だちがひょうたんをいっぱいつくってるんだけど、知香ちゃん絵を描かない?」と、知人から大量のひょうたんを譲ってもらったのがはじまり。こちらもまちなーれでワークショップを開催予定。(写真提供:山本知香さん)

「実は思春期の頃は、あまり真鶴のことが好きじゃなかったんです(笑)。
つながりの強いコミュニティでの暮らしを少し窮屈に感じたりして。
あと単純に東京へのあこがれもありました」と話す山本さん。

もともと絵が好きだったが、絵で生活するのは難しい。
進路を考えていたとき、たまたま高校の美術の先生に渡された
雑誌『広告批評』に感銘を受けて、グラフィックデザイナーを志し、東京で働くことに。

「広告も人と人をつなぐもの。そんなツールを
かっこよくつくる仕事があるということに、とてもドキドキしました」

まちを知ることは、まちを好きになることのはじまり

東京のデザイン事務所では、企業の販促物、パッケージデザイン、
雑誌広告などに携わった。
東京でデザイナーとして働くという夢を叶えたものの、
自分の手がけたものが量産され、次々と消費されていく様子に
違和感を感じるようになったという。

「デザインすることは楽しいし、好きだけれど、まわりの先輩たちみたいに
『三度の飯よりこの仕事が好き!』というほどではないな、と思ったんです。
私はやっぱり、生活が一番大事。
そしてもっと顔の見える仕事がしたい、そう思いました」

そう気づいてから半年後には仕事を辞め、真鶴に帰ることに決めた。
かつては窮屈だと感じたまちに戻ってきたのは、
「帰ってきなさい」という母親からのひと言があったから。

「そのときもどちらかといえばまだ真鶴に帰りたくなかったんです。
私は真鶴にないものを求めて東京に出て行ったわけですから。
でも、母が『なんで東京に縛られているの? どこでだってできるじゃない』
って言うんですよね。それから、たまに真鶴に帰ってきていたのですが、
あるとき東京に戻るホームで『あぁ~東京に帰りたくないなぁ』と思ったのが、
『もう真鶴に帰ろう!』と思ったきっかけです」

真鶴に戻ってからの2年間は、「とりあえず、いまできることを」と
派遣でネットショップページの制作や個人で受注した仕事をして
暮らしていたという山本さん。
その後、すぐにはデザインの仕事を本格的に再開する気にはなれず、
思い切って都内の似顔絵スクールに通うことに決めた。

「デザイン事務所に勤めていたときに、送別会とかで
色紙の真ん中に似顔絵を描いていたんですよ。
受け取った人がそれを見てすごく喜んでくれたのがうれしかったことを思い出して、
似顔絵を描けるようになりたいなって思ったんです。
ひょっとしたら仕事につながるかもしれない、という気持ちもありました」

スクールで知り合った人に誘われ、イベントに出展したり、似顔絵のみならず、
イラストやデザインの仕事が少しずつ増えていくなど、
この時期の活動が、いまのような仕事のベースになっているという。

飛騨に移住した人たちに聞く
「起業」
「ルールもマナーもわからない」。
思いきった方向転換を果たした
2人の起業の心得

Uターンして飛騨市で〈kongcong〉を立ち上げた千原誠さんと、
白川村に移住し〈ホワイエ〉を起業した柴原孝治さんに、
飛騨での仕事のつくり方について聞いた。

飛騨であえてクリエイティブディレクション

飛騨市古川町にある〈kongcong(コンコン)〉は、
一見カフェと見間違えてしまいそうなクリエイティブオフィス。
雪を連想させる名前。ともに雪国・飛騨出身でUターンしてきた
千原誠さんと森瀬なつみさんのユニットだ。

クリエイティブディレクターの千原さんは、古川のまちで育ち、高校卒業後、名古屋へ。
25歳頃までは音楽活動をしていて、インディーズながらCDもリリースしていた。
音楽のイベント制作会社の人たちと一緒にイベントをつくり上げていくなかで
広告の大切さやPRすること自体に興味を持ち、広告代理店に入社。
その後は独立してフリーランスでディレクター職に就き、
百貨店のディスプレイ企画や催事のキュレーションなどを手がけるようになる。

kongcongのクリエイティブディレクター、千原誠さん。

この頃には少しずつ「地元、飛騨の魅力を外へ伝えることを、
クリエイティブの力でやりたい」と思うようになる。
また、現在の仕事のパートナーである森瀬さんも、ひと足先に飛騨に戻っており、
当時の仕事から独立しようとしていた。
いくつかのタイミングが重なり、千原さんも家族でUターンすることにした。

グラフィックデザイナーの森瀬なつみさんも、古川出身でUターンしてきた。

そして2016年5月からkongcongをスタートする。
飛騨に来て地ならしすることもなく、移住していきなり自分たちの事務所を始めた。
高校生までいたとしても、飛騨での社会人経験はない。
飛騨に自分のような職種の需要があるのか、
飛騨の人たちが何を大切にしているのかなどもわからない。

「すごく不安でしたよ。だから飛騨に帰ると決めてから、たくさんの人に会いました。
飛騨の人にも、東京の人にも、名古屋の人にも。
僕が『飛騨でこういうことをやりたい』と話すと
『それならこうしたら?』とか『こういう人がいるよ』とか、
みんなアドバイスをくれましたね。
そのなかで出会ったつながりはいまでも残っているし、
話していくうちに自分の考えもまとまって、移住後の仕事の方向性が見えてきたんです」

千原ファミリー。奥さんの清花さんも、子育てと並行してフリーランスライターとして活動している。

ローカルの視点と都会の視点

現在ではさまざまなイベントの企画、ブランディングなど
クリエイティブディレクターとして働いている。
職種としては名古屋時代とそう変わったわけではないが、飛騨での位置づけを考えた。

「働き方や事務所としてのコンセプトはすごく考えました。
ただでさえわかりにくい仕事なので、ちゃんと言葉にすることで、
自分たちのできることや大切にしたいと思っていることを、自分でも再認識し、
関わっていただける人たちに伝えたいと思いました」

立ち上げ当初に考えたコンセプトシートの一部。

千原さんはUターン。その強みは存分に生かしながら、
しかし自分が外から持ってきた視点も忘れないように気をつけているようだ。

「飛騨に暮らすことで、人の結びつきや思いに直に触れられるので
課題は見えやすくなると思うのですが、
その分、客観的な立ち位置でものごとを見ることが難しくなっていきます。
愛着や思いが出てしまうので……。だからバランスがすごく大切だと思っています。
クライアントさんの思いはちゃんと受け止めつつも
アウトプットするときに自分が客観的な立ち位置でどう魅力を引き出せるのか。
この仕事の一番の難しいところでもあり醍醐味でもあります」

カフェと間違える人が多いらしい。

はるかに効率がいいローカル特有の働き方

「クライアントさんとの距離が物理的に近いので
電話しているうちにオフィスに来ちゃったり、突然やって来たりすることもありますが、
これは僕とクライアントさんの気持ちの距離感みたいなものが
ぐっと近くなったことでもあります。
意外ですが、結果として信用していただける部分も増え
ミーティングなどの時間が全体的に減りました」

直接的に会って話すことが多くなるのが地方での働き方。
だからこれまでの時間の使い方とは大きく変わるだろう。

「午前中に資料整理しようと思っていたら、年賀状のつくり方がわからないとか、
野菜を持ってきたよとか、訪問客が結構来ます。
名古屋で仕事をしていたときは基本的に、
自分ひとりであれこれ考えて働いていましたが、
飛騨に来てからは、子どもと過ごしたり、
いろんなことを妻やなっちゃん(森瀬)に相談したり共有することで、
作業の効率が格段に上がりました。
名古屋にいた頃には、考えもつかないやり方でした。
kongcongはデザイナーも妻も子どもも含めてkongcong。
飛騨に来てクリエイティブをする環境として一番大切な場所になっています」

就農を支援するパンフレットを制作。

kongcongとして、飛騨での具体的な仕事を教えてもらった。
まずは〈JAひだ〉との仕事。
JAひだはこれまで年に100回程度もワークショップやイベントを企画していたが、
もっと若い世代の人にもこの活動を知ってほしいという相談がきた。
そこで期間限定カフェイベント〈LOL -Laugh out Loud in Hida-〉を企画。

若者を呼ぶには若者を知ることからということで、
農業を料理の側面からわかりやすく伝えながら、
空間やデザイン、プロダクトなどのライフスタイルを
飛騨で活躍する人たちとともにつくることで、クライアント自身も学びながらPRした。

「実際、本当の始まりはこれからだと思っています。
たくさんの課題が見つかったことで今度はそれをどうしたらクリアできるか。
僕自身、クライアントさんも含めて一緒に向き合っているところです。
まだまだ道半ば! というのが本当のところです」

〈三寺まいり〉を斬新なかたちで提案。

幾何学的でポップなデザインのお守り。

古川では毎年1月15日に〈三寺まいり〉という300年以上続く伝統行事がある。
文字通り古川にある3つのお寺をお参りするもの。
雪で覆われたまちが、和ろうそくや雪像ろうそくで灯され、幻想的な風景になる。
これをきっかけにした、通年楽しめる仕掛けを考えたいという仕事を受けた。

そこで「きつね火レッド」「春祭りピンク」「大銀杏イエロー」「白壁モノトーン」
などの、古川のまちをイメージしたお守りを用意。
来た人はそれを購入し、お寺にあるスタンプを捺し、
願いごとを書いてお守りに入れる。この仕組みが3月から始まる。
これで年1回の三寺まいりのアピールにもなるし、通年訪れるきっかけにもなる。

「ちゃんと機能するものをつくりたいと思って、客観的な目線は大切にして考えました。
このご相談については主体者の方はすごく熱意を持っておられたので、
あと大切なことは“外の目線”かなと、何となく感じました。
どちらかに依存して進めるのではなく、一緒に悩んで一緒にぶつかること。
継続的に続けたいと思ったので、いまはそうやって一緒に
“あーでもないこーでもない”と準備しているところです」

千原さんにとって、飛騨に移住して得た一番の財産は
「家族や仕事仲間とコミュニケーションする時間が増えたこと」だという。
本人がそうであったように、子どもにもこのまちを好きになってもらいたい。
そのために飛騨をおもしろい場所にしていきたい。そんな野望で道を拓いていく。

information

kongcong 

■『グッとくる飛騨』では、こちらのインタビューも↓

市の就農パンフレットにもデザインを、飛騨市が仕掛ける明るい就農支援

農産物を加工し魅力的に発信。
和歌山〈FROM FARM〉
大谷幸司さん

“緑のダイヤ”と呼ばれる、和歌山の特産品

みかん、梅、はっさく、柿などの生産量が日本一として知られる和歌山県。
しかし日本一の生産量を誇るのは果物だけではない。
全国収穫量のうち、和歌山県が約70%を占めているのが山椒。
また和歌山県有田郡が原産とされる、紀州独自品種の「ぶどう山椒」は
“緑のダイヤ”と呼ばれるほどの最高級品とされている。

山椒は実はミカン科の植物。ぶどう山椒は粒が大きく、畑では柑橘のような香りがするという。(写真提供:FROM FARM)

七味唐辛子の原料として、そして鰻の蒲焼きを食べるときに欠かせない存在である山椒。
誰もがその風味をイメージできる香辛料だが、
日常的に料理に使っている人は少ないかもしれない。
そんな山椒と和歌山の農産物を組み合わせて、
新しい魅力を生み出している人が和歌山県海南市にいる。
農業を営みながら、和歌山の農産物を生かした加工食品の
製造・販売を手がける〈FROM FARM〉の大谷幸司さんだ。

〈FROM FARM〉代表の大谷幸司さんと奥様の奈穂子(なおこ)さん。

周辺にはみかんの畑が広がる。

現在FROM FARMの定番商品となっているのは
ドライフルーツ、グラノーラ、ミックスナッツの3種類の商品。
そのどれもに山椒をはじめ、はっさくや不知火(しらぬい)などの柑橘、
キウイや柿といった地元で収穫された農産物が原料として使われている。
どの商品も和歌山県外のセレクトショップでも取り扱われていたり、
そのおいしさが評判となってメディアで取り上げられていたりすることもあり、
パッケージに見覚えがある人もいるだろう。

定番商品のミックスナッツは「メープルシロップ&山椒」と「メープルシロップ&はっさく」の2種類の味わい。

メープルシロップでコーティングし、ぶどう山椒で風味づけされたミックスナッツ。あとを引く味わいを、山椒の爽やかな風味とメープルシロップのやさしい甘味が生み出している。

「いまでこそFROM FARMというブランドを僕たちは手がけていますが、
当初はそういうことをまったく考えていなくて」と大谷さん。
地元の農家に生まれた大谷さんだが、農業を始める前は
愛知県で会社勤めをされていたのだそう。

「10年くらい前に父親が体調を崩してしまい、
そのタイミングでUターンをして家業を引き継いだんです。
ちょうどその頃、施設園芸を始めたばかりだったこともあり、
6〜7年ほどは専業農家としてスプレーマムという品種の菊を生産していました。
その頃に農家さんたちと話をするなかで、
農業がおもしろいなと思い始めてきたのと同時に
『農作物を一からつくるのとはまた違う、自分にできることがあるんじゃないかな?』
と考えるようになったんです」

家業が軌道に乗り、またお父さんの体調が戻った4年ほど前から、
和歌山の産物を使った加工品づくりに取り組み始めた大谷さん。
そのとき、注目したのが山椒だった。

グラノーラは「山椒」「柿」「不知火(しらぬい)&キウイ」の3種類。ミルクやヨーグルトとあわせるのはもちろん、そのまま食べても美味。

真鶴の高台のアトリエから。
〈スクランプシャス〉の
細やかな洋服づくり

アンティークショップからオリジナルの服づくりへ

肘から袖口にかけてたっぷりとギャザーの寄ったインディゴ染めのワンピース。
凛とした美しさが溢れ、どんな気分やシチュエーションにも
寄り添ってくれそうな一着だ。

中山靖さん、則美さん夫妻が手がける〈スクランプシャス〉の洋服は、
神奈川県の南西部、真鶴の高台にあるアトリエから生まれる。
玄関を上がってすぐ左の階段を上ると、正面には海を望む大きな窓があり、
中央の長テーブルを囲むように服や小物がディスプレイされている。
左奥のスペースは作業場として使われていて、
ヨーロッパから仕入れたという生地やリボンが並ぶ。

役割はどのように分担しているのか尋ねると
「僕は言葉がいらない作業を」とはにかむ靖さん。
それぞれが得意な作業を担当し、ときに率直に意見を言い合うのが基本だ。

「僕がパターン引きや縫い物といった実作業を担当して、
事務的なことと人とのセッションは嫁に任せています。
そうは言っても完全に分業しているわけではなくて、
新しく服をつくるときには、まずはふたりでデザインし僕が形にする。
それに対して『女の人はこうなっていたほうがいい』という意見が入り、
つくり直して……という作業を繰り返します」(靖さん)

オリジナルの商品をつくるうえで大切にしているのは、
アンティークの洋服に見られるような繊細なものづくりへの尊敬と独自性。
1999年にスクランプシャスとして活動を始めた当時は、
海外で買いつけた古着やジュエリーを扱うアンティークショップを
運営していたというふたりらしい理由だ。

「昔のものづくりは、いまでは考えられないような細やかなものが多いですし、
同じものがいくつもあるわけではありません。すばらしいものなのに、
『この服は、たった1着しか存在しないんだ』と残念に思えて……。
オリジナルをつくり始めたきっかけは、古いものを復刻させる気持ちで
つくった洋服をせめて何人かの方にお届けできたら、
それはすてきなことだなと思ったからなんです」(則美さん)

定番として並ぶのはトップス、スカート、ワンピースなど10種類ほど。
在庫は持たず、顧客からオーダーが入ると
靖さんや縫い子さんたちの手作業で仕上げていく。
オーダーから商品が届くまで、時期によっては数か月かかってしまうが、
自分たちで決めたルールを守るには工場には頼れないのだとか。

「例えば、袖のギャザーは、広幅の布を細かく手で寄せていくのですが、
大量生産で洋服をつくっている工場だと『割りに合わないからできない』
と言われるんです。ギャザー以外も、ボタンホールも糸を編んでつくっていますし、
通常ミシンだと縫い目のスパンが3ミリ程度離れるのですが、
うちは約1~1.5ミリなんです。こうすることで時間はかかりますが、
長く着るうちに糸が切れても一気にほどけるようなことはありません」(靖さん)

ボリュームスリーブトップは2012年に生まれたこのブランドを代表する1着。袖のギャザーが特徴で、その作業の細かさに「割りに合わない」と工場に受け入れてもらえなかった。

「さすがに僕ひとりでは手が足りないので、
一昨年自分たちのウェブサイトを通じて縫い子さんの募集をかけてみたんです。
やっていくうちに直接伝えたいことも出てくるだろうと思って、
近県の方にお願いができればと書いていたのですが、
湯河原、伊豆、東京のほかに長野や広島在住の縫い子さんもいらっしゃいます。
僕が布をカットした状態で送る方もいますし、
裁断から全部やってくれる方もいます」(靖さん)

「工場にお願いできないとわかったときに、何としてでも
縫い上げる気持ちがある人じゃないとできないんだと思いました。
いま、お願いをしている縫い子さんの中には
『縫えないけれどやってみたいです』という心意気の方もいて。
そういう方はレクチャーをしたあと、自主的に何度も何度も練習を繰り返して
縫製のクオリティをあげてから、本番を縫ってくださっています。
5年10年かかってもみんなが技術の高い縫製ができるようになれば、いまは大変でも、
きっと唯一無二のお針子チームになれると思っているんです」(則美さん)

農園で研修、香川の有機農園
〈よしむら農園〉

有機JAS認証の農園で学んだいろいろなこと

私たちは農業を生業にして田舎で暮らしています。
まだまだ生業とは言えないような所得ですが、それでも野菜を育てて、売って、
そのお金が生計の大きな部分を占めています。

移住を考えてる人やまわりの人などから
「どうやって農業を勉強したの?」
とよく聞かれます。
たしかに農業っていきなりやろうとしても、何から始めたらいいのか、
どんな道具がいるのかまったくわからないですよね。
今日はそのことを書こうと思います。

私たちが小豆島に引っ越してきたのは、2012年10月。
そのときは自分たちが食べる分くらいの野菜を育てたいなと考えていました。
『半農半Xの種を播く』『家族で楽しむ自給自足』『月3万円ビジネス』
そんな本を読みながら、思い描く暮らし方はありました。

ただ具体的な働き方、稼ぎ方は、いまにして思うと明確には決めていませんでした。
そんな状態で夫婦揃って会社を辞めて引っ越してきたんだから、
ある意味すごい勇気だなと自分たちのことながら思います(笑)。
ま、でもそれくらい当時の働き方、生き方を変えたいという思いが
強かったんですけどね。

引っ越してきた数日後には、じいちゃんが残してくれた道具を使って畑を耕し始め、
種をまいたり苗を植えたりしていました。
名古屋で暮らしていた頃は、プランターで
ミニトマトくらいしか育てたことがなかった私たち。
とにかく見よう見まねでやる、近所のおじちゃん、おばちゃんたちにも教えてもらって、
少しずつできることが増えていきました。

大きな転機は翌年の春。
小豆島で暮らすようになり半年経った頃、農業に関する補助金の話もあり、
本格的に農業を頑張ってみよう! と新たに農地も借り、
中古の軽トラも購入し、野菜の販売も始めました。

ただ圧倒的に知識も技術も足りない。
農薬は使いたくない、化学肥料は使いたくない、
そんな何も知らない素人の思いだけしかない。
有機農業をしたいならちゃんと研修を受けたほうがいいという
まわりからのアドバイスもあり、農園に研修に行くことになりました。
そのとき出会ったのが、香川県にある〈よしむら農園〉さんです。

よしむら農園の皆さん。

よしむら農園で育てられたお野菜たち。

よしむら農園は、香川県・讃岐平野のほぼ中央部、丸亀市にあります。
化学農薬、化学肥料や除草剤を使わない有機農業で野菜を栽培し、
有機JASの認証も受けている農園です。
常に研修生が何人か来ていて、私たちが連絡したときも空きがない状態だったのですが、
運よく研修させてもらえることになりました。

寒い寒い冬の作業。レタスの苗を植えます。

ひと苗ひと苗、丁寧に。

苗を植えてから、これまた丁寧に水やりします。

飯能〈おらく〉
やきとりに、湯豆腐も。
創業70年の居心地いい居酒屋

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思わぬ電車の旅でたどり着いた、老舗居酒屋で一杯

その日の私のバッグは、斜めがけしたポーチ、
サブバッグのトートバッグ、買い物した紙袋と3つ。
年末の混み合うラッシュ時間の電車で網棚にのせたトートバッグを、忘れ物。
問い合わせたところ4社目で見つかり、ようやく安堵。
東横線で私に置いてゆかれ、副都心線で気づかれることもなく、
西武線で長らく揺られ、終着駅の飯能駅にあるそうな。

都心近郊の乗り入れ電車は続くよどこまでも。
取りに行くのは、片道2時間ちょっとのゆられ旅です。
大事な商売道具のペンケースとスケッチブックの入ったトートバッグを受け取って、
せっかくなので、知らないまちの駅を降りてみます。

夕暮れ時のロータリーに見つけたのは、やきとりと寿司の文字。
ガラガラと引き戸をを引いて「居酒屋おらく」の暖簾をくぐります。
先客はなく本日最初の客のよう。奥まで広い。
左手のカウンターには、予約席とあったので、右手のくの字のカウンターへ座って、
再放送の、事件の起こるドラマが流れているテレビを斜め上に観つつ、
瓶ビールを注ぎます。

目の前のカウンターの2段目の漆塗りに気がついて、
聞いてみると寿司カウンターだったそう。
創業70年、きつく結ばれたハチマキがお似合いの大将が3代目で、
壁の写真のおばあちゃんの時代は、お寿司もやっていたので、
遠くにかけられた小さなホワイトボードのおすすめメニューの上部は魚介類。

しらこのポン酢和えと湯豆腐を注文して。
お通しのマカロニサラダをいただきながら、じんわり、ほっこりする居心地のよさ。
大将の持ち場は、左のカウンター内、串打ちしたり何かと忙しそうです。
湯鍋敷きと味ぽんが置かれて、湯豆腐待ち。

北海道・長沼のまちの大工さん
〈yomogiya〉の
すてきな小屋と心地いい空間づくり

写真提供:yomogiya

夫が憧れた大工、yomogiyaさんに、会いに行く!

あるとき、珍しく夫がわたしに頼みごとをした。
それは、「取材という口実をつくって、
〈yomogiya〉さんに連絡をとってほしい」というものだった。

yomogiyaとは、岩見沢から車で30分ほどのところにある
長沼の大工・中村直弘さんの屋号。
2年ほど前に同じ町内の南インドカレー屋さん〈shandi nivas cafe'〉の敷地に
古材を使った物置小屋を中村さんが建てており、建築途中を見た夫は、
同じ大工仲間として、その仕事ぶりに大きな共感を抱いたことがあった。

そして、わたしたちがいま改装をしている美流渡(みると)の古家について、
中村さんに一度相談をしてみたいと夫は考えており、
そのきっかけをなんとかつかみたかったようだ。

shandi nivas cafe'(シャンディ ニヴァース カフェ)は、カレーとともにスイーツもおいしいお店。店舗脇に建てられた小屋の制作中の様子。(写真提供:yomogiya)

完成した小屋。屋根のトタン以外は、すべて廃材とデッドストックの材料でつくったそう。(写真提供:yomogiya)

わたしもyomogiyaさんの活動にはとても興味を持っていたので、
ぜひ取材をしてみたいと思っていた(口実ではなくて本当に!)。
ホームページのコンセプトにあった「yomogiya」=「町の大工さん」
というフレーズに心惹かれるものがあったからだ。

手がけるのは「小屋づくり、リフォーム、店舗づくり」といった大工仕事だけでなく、
「古物のリメイク」、そして「web作成、チラシ作成」まで。
きっと何十年か前の大工さんって、住民の困りごとに
なんでも気軽に応えてきたんじゃないかと想像するが、
そんな関係をいまに蘇らせようとしているように感じられたのだ。

長沼の隣町・由仁町にある〈Gallery teto²〉。このギャラリーはこれまで縁側から入る構造になっていたが、古材を使って玄関を増設。わたしと夫も、ときどきここを訪ねており「yomogiyaさんの仕事なのか!」と興奮しながら見たことがあった。(写真提供:yomogiya)

知人を介して中村さんに連絡をとり、
自宅兼仕事場を訪ねることになったのは昨年11月のこと。
この日、中村さんは札幌に納品するための仕事を抱えて忙しそうな様子だったが、
にこやかにわたしたちを迎え入れてくれた。まず案内してくれたのは、
事務所兼モデルハウスにしようと考えているという制作中の小屋。

「週末に、ちょっとひとり暮らしができるくらいの小屋をつくろうと思って」

長沼の自宅であり仕事場に、小屋を建てていた中村さん。

6畳以下の小屋は建築確認申請が不要なサイズ。スペース的には小さいが、ここで最低限暮らせるようにと中村さんは考えている。

全体が6畳と小さいものだが、随所に中村さんのアイデアが生かされていた。
コンポストトイレを設置し、水道は引かずタンクに水をためて使うなど
オフグリッドな小屋を目指しているのだという。

感心しながら中村さんの話を聞いていた夫は上機嫌。そして、こんな話を始めた。
「カレー屋さんで小屋の骨組みを見たとき、
こういう仕事をする人が北海道にいるんだと、すごく感動しました。
納め方に誠実さを感じるんです。ずっと友だちになりたいと思っていました」

夫は自分の意見を物怖じせずに言うタイプだが、
自分よりも10歳くらい若い大工さんに向かって
「友だちになりたいと思っていました」という素直な発言には正直驚いた。
よほど「納め方」にほれ込んだのではないかと思う(納め方とは、大工さんが
よく使う言葉で、仕上げにセンスがあるとか、出来がいいとかそんな感じだろうか)。

中村さんも、わたしたちが古家を改装していることに興味を持ってくれたようで、
いずれは美流渡に行きたいと語ってくれた。

〈真鶴なぶら市〉
地魚から家庭菜園の野菜まで。
人と人をつなぐ手づくりの市

新たな出会いや交流の場に

「なぶら」という言葉をご存知だろうか。
なぶらとは、海面で魚の群れが飛び跳ね、バチャバチャ集まっていることを指す。
このなぶらをそのまま名前に使った〈なぶら市〉という市が、神奈川県真鶴町にある。

なぶら市は月に一度、最終日曜日に真鶴港の岸壁広場で行われる。
始まってから2017年2月で2年。すっかりまちにも定着し、
より良いものを買おうと朝10時の開始前から港に集まる町民もいる。

真鶴は港町だけあって、なぶら市では鮮魚や干物も販売している。
真鶴を拠点としているオーガニックワインやハンドマッサージといった
お店の出店もあれば、普段は販売していない手づくりの品を出す人もいる。
キッチンカーによる食べ物の販売もあり、食べる場所も用意されているので、
港前で海風を感じながら食べることもできる。

移動販売車「真鶴おさかな号」に乗せて、漁協が直接地魚を販売。(写真提供:なぶら市実行委員会)

写真提供:なぶら市実行委員会

なぶら市の実行委員である朝倉嘉勇さんは、真鶴町役場の産業観光課に勤めている。
朝倉さんは、なぶら市が始まったきっかけをこう語る。

「もともとは町長の指示で、町民と役場の職員を合わせた
プロジェクトチームをつくったのが始まり。
フェイスブックを始めたり、町の看板をつくったりしていくうちに、
『人が交流する場をつくりたいね』という話になったんだよね」

取材した12月のなぶら市当日はクリスマス。サンタの帽子をかぶりながら話してくれた朝倉さん。

その言葉の通り、なぶら市にはたくさんの町民が集まる。
もとから真鶴に住んでいる人もいれば、
近年真鶴に移住してきたばかりの人もやってくる。
そこで人と人を紹介しあって、新たな出会いになることもよくある。
なぶら市がハブとなり、人と人のつながりの輪が広がっていくのだ。

「店が増えないとか、いつも同じものしか売ってないとか、
いろんな文句も聞くけど、でもみんな来るんだよ(笑)。
それってなんでかって言うと、ここに来ると話をする人がいるからだろうね」
と朝倉さんは笑う。

月に一度、ここに来れば誰かに会える。この日も移住者同士で近況報告をしあっていた。

「継続性のあるイベントにしたい」という思いから、
なぶら市は町のこれまでのほかのイベントと違い、補助金に一切頼っていない。
けっして無理をしない、自分たちのペースで運営する。

「頑張りすぎない。かといって続けていくためには締めるところは締めないといけない。
そのバランスが大事かなと思うね」と朝倉さんは言う。

たしかにメンバーを見ていると、運営にピリピリした空気はなく、
とにかく楽しそうだ。13時になぶら市が終わり、片づけも終わると、
「反省会」と称した飲み会が夜まで続くという。
誰よりも運営メンバー自身がなぶら市を楽しみにする。
だからなぶら市は、この2年間欠かさず毎月行われてきたのだろう。

なぶら市の本部でお客さんと話す朝倉さん(写真左)と、同じく実行委員の青木理佳さん(写真中央)。本部からはいつも笑いが絶えない。

実行委員であり、町民の柴山高幸さん(写真左)は、自身が真鶴で運営するファブラボ〈真鶴テックラボ〉の技術を子どもたちに披露していた。

飛騨の移住者たちに聞く「働き方」
地域のためになる仕事、
地域だからできる働き方

Uターンして高山市で飛騨信用組合に勤める古里圭史さんと、
下呂市でNPO法人〈飛騨小坂200滝〉に勤める熊崎潤さんの、飛騨での働き方を聞いた。

肉体労働から金融という異業種へ飛び込む

大学浪人&留年、就職活動もしなかったような男が、公認会計士の資格を取り、
いまでは飛騨のために働いている。
〈飛騨信用組合〉(ひだしん)の経営企画部長である古里圭史さんは、
一般的には遠回り人生を送っているようだが、
豊かな人生経験が、飛騨で人に会う仕事に生きているようだ。

〈飛騨信用組合〉の経営企画部長である古里圭史さん。

飛騨市の古川町出身で、高校卒業後名古屋で1年間大学浪人生活。
その後、早稲田大学に入学するも、留年して1年余計に通い、
大学5年目には日雇いの肉体労働系アルバイトばかりしていた。
その後、派遣会社を通して、総務の設備関係、そして監査対応の仕事に就いた。
経済・金融はまったく未知の世界だった。

「監査対応の仕事がおもしろいと思って、簿記や公認会計士の勉強を始めたんです。
昼休みにおにぎり片手に勉強していましたね。
“1浪1留”で就職も遅れていて、同級生たちに遅れをとっていたので、
焦りの気持ちもありました」

その後、監査法人の〈トーマツ〉に入社。働きながら公認会計士の資格も取った。
古里さんの人生が大きく舵を切っていく。

飛騨の木材を使った吹き抜けのフロアは明るく気持ちがいい。

Uターンして気がついた地方の「経済生態系」

「飛騨信用組合の方々に、
“戻ってきて一緒に働かないか”と声をかけてもらいました。
東京にまで会いに来てくれて、夢やビジョンを語ってもらいました」

これを帰るチャンスととらえた古里さん。
2012年にUターンし、飛騨信用組合に入社する。
トーマツで働いていた6年間は、一部上場企業や
上場を目指す有力なベンチャー企業などを相手に仕事をしていた。
ところが、飛騨では中小企業や小規模事業主が仕事相手になる。

「これまでの正論がまったく通用しないんですね。
数字だけ追っていると実態が見えない。
中小企業を取り巻く、まったく新しい生態系があることを知りました。
しかしよく考えると、そういう会社のほうが日本には多くて、
実際に日本を地方から支えている。実はここが一番大切なのではないかと」

それまでの監査の仕事とは、扱うものは同じ「お金」であっても、
仕事内容のベクトルは正反対なのだ。

高いパーテーションやポスターなどがなく、落ち着いた雰囲気のカウンター。

イベントなども開催しているひだしんの中庭をバックに。

地域にフィットするクラウドファンディングを!

飛騨の中小企業の現状を見ていて、
「飛騨で新規のベンチャーなどが生まれてこない理由のひとつに、
お金の調達手段が少ないことに気がついた」という古里さん。
そこでメニューを増やそうと試みる。
東京では、いろいろな資金調達のメニューがあり、
それらを組み合わせて事業を運んでいくことができる。

そこで〈ミュージックセキュリティーズ〉と業務提携した
投資型クラウドファンディングや、
もっと手軽な購入型クラウドファンディング〈FAAVO飛騨・高山〉を立ち上げる。
また、子会社を立ち上げてより本格的なシステムとして〈結ファンド〉もつくった。

「地元企業がもっとチャレンジをしやすいように、とにかくツールを揃えたい。
金融機関の役割ってそういうことなんじゃないかなと思っています」

信用組合というのは、一般的に規模としては一番小さい業態の金融機関だ。
ひだしんは、飛騨市、高山市、白川村でしか営業できない。
地元の人としか取引ができない。
だから地域が衰退すれば、ひだしんもともに衰退していく。
“売り上げが悪いから飛騨から撤退”なんてことはあり得ないのだ。
だから地域との接点はおのずと増えていく。

「クラウドファンディングは、地域特化していれば、
より企画を練り込んでいくことができます。
また資金調達以外にも、地元の人たちのおもしろい活動にお金を出すことで
当事者意識を持つという、ネットワークづくりにも役立っていると思います」

ひだしんにも地域のナレッジが集まり、
活動を「見える化」することにもつながるだろう。

「少しずつ地域カタログのようになったらいいなと。
僕が東京にいたときは、飛騨のことが全然わかりませんでしたから」

「ビズコン飛騨」では、ビジネスのコンシェルジュとして、ひだしんの取引先でなくても、誰でも無料で相談を受けつけている。

人に会って、親身になって、一緒に何かを生み出す

古里さんと一緒に〈エブリ東山〉というスーパーマーケットを訪れた。
もともとひだしんの取引先であったが、
一番目立つ場所に支店である〈ひだしんリビング〉と
ファブリケーション施設〈フレッシュラボ高山〉がある。

「最初にひだしんリビングに勤務していた支店長と次長は、夫婦でした。
本来ならあり得ないことですが、スーパーに土日に来る家族や夫婦にとって
一番の相談相手になるんです」

夫婦で店舗を回すなんて、まるで定食屋かラーメン屋か。
そんな親密感もあって、売り上げも上々。
窓際で明るく、子どもが入りやすい開けた店舗設計。
制服もなく週休3日制と、実験的な働き方も進めている店舗だ。

金融機関とは思えないひだしんリビングの店舗。

子どもに人気の木彫りのクマさん。チェーンソーでつくられた作品だとか。

隣には〈フレッシュラボ高山〉。
スーパーの施設であるが、レーザーカッターや3Dプリンターなどのツールがあり、
キッチンスタジオも完備したファブリケーション施設。
食関連のイベントなども行われている。

「この場所をつくらせてもらったときに、いろいろと関わらせていただきました。
どんな場所にしたいかというワークショップにも混ぜてもらいました」

フレッシュラボ高山の山下貴士さんと近況報告。

スーパーマーケットに突然ファブ施設!

このように地域と密接になって、“どうしたらうまくいくか”考える。
常にそれを意識していくのが、地域の金融機関における古里さんの働き方。

現在のように足を使って、人に会って、親身になって、
一緒に何かを生み出す働き方が合っているのかもしれない。

「飛騨ではリアルな対面のコミュニケーションが重要です」
こうして地域のハブになろうとしている。

information

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飛騨信用組合

■『グッとくる飛騨』では、こちらのインタビューも↓

恩師が見てきた、古里さんのアナザーストーリー

宿と喫茶〈おかげ荘〉 真鶴の食材を使った創作料理で 迎えてくれる三姉妹のような母娘

神奈川県南西部の真鶴町に、〈おかげ荘〉という少し変わったネーミングの民宿がある。
おかげ荘は1日1組限定の宿で、昼間は〈おかげカフェ〉という喫茶店も営む。
約30年続くこの民宿は家族経営で、創業からスタイルを変えながら、
家族みんなにずっと守られてきた。宿でありながらも、
地元の町民にも愛されるその場所には、代々受け継がれている心遣いがあった。

「自分たちだけの時間」を過ごせる宿

おかげ荘は、真鶴港から海に背を向けて少し坂を登った場所にある。
かわいらしい手づくりのウェルカムボードを横目に玄関を開けると、
手づくりの雑貨が壁に飾られ、おばあちゃんの家に遊びにきたように
ホッとする感覚になる。常連客になると、
「ただいま!」と言って入ってくる人もいるという。

中に入って左手、1階の大広間には低いテーブルと椅子が並ぶ。
普段はおかげカフェとして、近くに住む人たちが
ランチやデザートを楽しむ場所になっているのだ。

2階に上がると12畳の和室と、6畳の和室がひと部屋ずつ。
宿泊する人は、1泊2名からこれらの部屋を貸し切りにできる。
窓からは建物越しに真鶴港が見え、どの部屋も暖かい光が差し込む。

「1日1組限定にしてから、子連れのお客さんが増えましたね。
大人より子どもが多いときもあります。大人4人に子ども7人とか。
貸切だと、ほかのお客さんに気を遣わなくていいから好まれるみたいです。
これからベビーチェアやベビーバスも入れて、
もっと子どもたちが安心して泊まれる場所にしようと思っています」

そう語るのは“広報担当”で長女の青木千春さん。普段はスーパーで働きながら、
HPの運用やイベント出店の際に宿の手伝いをしている。

おかげ荘は家族経営。まるで3姉妹のような母娘は、左から長女の千春さん、母の美代子さん、次女の佳美さん。

「チェックインをして、そのままどこにも行かずに帰っていくという人も結構います。
きっとそういう人は自由な時間、自分だけの時間をつくりにいらしてると思うんです。
だから私たちも、基本的には”何もしない“ことを心がけています」

おかげ荘の3人は、おいしいごはんと、静かな場所を提供するだけ。
あとはどう使うかは泊まる人たち次第。
ママ友同士で集まって、子どもたちの運動会が始まることもあれば、
仕事仲間で集まって、泊まりがけで経営戦略を立てる、
そんな使い方をしている人たちもいる。

静かな港のまわりで、そこでとれたおいしい魚を食べながら、
まわりの人の目を気にせず泊まれる場所。
こういう使い勝手のいい場所は、ありそうでない。

おかげ荘は料理が自慢。朝食では港前のひもの屋〈高橋水産〉の地魚を使った干物が楽しめる。

真鶴の新名物も。 伝統と革新の干物店〈魚伝〉

神奈川の南西部、真鶴は魚のまち。
戦後は「ブリバブル」と呼ばれるほど、ブリで財を成した。
その後も豊富な魚を干物にして、観光バスが来たり、
多くの観光客が干物を買っていった。
その頃はたくさんの干物屋さんが軒を連ねていたが、
現在、真鶴で自家製造販売している干物屋さんは、
青貫水産高橋水産魚伝の3軒を残すのみ。
どこも小規模ながら毎日丁寧に魚を開き、干している。
今回は〈魚伝〉のお話。

明治10年創業、120年の伝統の味

真鶴の干物屋さんのなかでも、ひと際、趣のある建物がある。
明治10年創業の〈魚伝〉だ。現店主は4代目青木良修さん。
奥様の典子さん、5代目の青木良磨さんとお店を切り盛りしている。
創業から2代目までは、干物ではなく、おもに魚の仲買い業だった。

「波が荒れると入り江になっている真鶴に魚が集まったんです。
いまは周辺の港や市場も整備されているけど、
かつて天候が悪いときは真鶴に魚も人も集まりました」(良修さん)

4代目青木良修さん。

真鶴でよくとれた魚は、サバ、アジ、アオリイカ、ワラサ、ブリ、トラフグなど。
季節を問わなければ、かなり多くの魚種がとれる。
時代は変わっても魚種にそれほど違いはない。しかし漁獲量は格段に減っている。

「かつては市場に上がりきれないほどでした。
1日で5~10トンという漁獲量だったのが、いまは1トン以下。
イカはとれないからすごく高いし、
ウマヅラハギもほとんどとれないですね」(良修さん)

現在の主力は、真アジみりん干し、イボダイ開き、カマス開き、サバ文化干しなど。

同時に魚の値段は上がっている。
「親の時代は木箱1箱にいっぱいで500円でしたよ。いまは1万円以上です」
と物価の変動を差し置いても、かなりの高騰。
魚で生きている人たちにとって、大きな変動のときだったのかもしれない。

そうしたなかで干物業を始めたのが、良修さんのお父さんで、3代目の英雄さんだった。

「やはり魚のとれる量が減ってきたので仲買いだけではなく、
干物をつくり始めたようです。漁業のまちだから、
みんなある程度は干物づくりなんかできましたね。
私も教わったわけではありませんが、毎日子どもの頃から見ていますから、
見よう見まねで」(良修さん)

真鶴でこの日の朝にとれたイボダイ、手際のいい腹開き。開くコツは体で学んだ。

1枚ずつ開いた魚は、きちんとブラシで血を洗う。
いまではパパッとホースで水をかけて洗うだけのところも多いというが、
こうしたひと手間で臭みは取りながら、旨みを残すことができる。
使用している塩は、内モンゴル産の「古代天日塩」。まろやかな甘みがある。

「生で仕入れたものは、なるべくその日のうちに開いてしまいます。
生と冷凍では、身の色が違ってきますね」(良修さん)

内モンゴル産の「古代天日塩」。さらさらの自然岩塩。

小豆島でボルダリング! まちの課題をスポーティーに解決

スポーツで島を楽しく、豊かに

小豆島にはおもしろい人たちが次々に引っ越してきます。
カカオ豆を焙煎する人、豚を育ててる人、カフェを営んでいる人……。
先日もハーブティをつくられてる方から連絡があり、
この2月に小豆島に引っ越してくるそう。
ほんとにおもしろい人たちがいっぱいで、
この連載でももっともっと紹介したいなと思っています。

そんな外から来た人たちと島の人たちが一緒になって、
この1月に期間限定でオープンしたのが小豆島初の「クライミングウォール」。
私がずっと挑戦してみたかった「ボルダリング」を楽しめる場所です。

まちの体育館の中にできたクライミングウォール。

壁に取りつけられたホールドを使って登っていきます。

ボルダリングというのは、クライミングの一種で
ロープを使わずに身ひとつで登っていくスポーツです。
山や川、海など自然の中にある岩(ボルダー)を登ったり、
ボルダリングジムなどの人工的につくられた壁を登ったりします。

この施設はたくさんの人たちの手によって実現したのですが、
主体となって企画されたのが、数年前に移住されてきた渡部勝之さんと
去年移住されてきた渡利知弘さん。

渡部さんは、土庄町役場に「町の課題をスポーティに解決する」プロジェクト
(愛称トノショーチョースポーティプロジェクト)を持ちかけ、
町役場と島民が運営する団体〈小豆島スポーティサービス〉の発起人です。
これまで、プロバスケットボールチーム球団運営経験を生かして、
プロ球団の小豆島でのキャンプや、子ども向けのイベント
「小豆島スポーツパーク」などを企画する、いわばスポーツの仕掛け人。

一方、渡利さんは20年以上登り続けているクライマーであり、家具職人。
実はちょうど1年前の冬に東京のイベントでお会いし、
「近いうちに小豆島に移住しようと思っていて家を探しに行きます」
という感じのお話をしたような。
奥さまのみきさんとご夫婦で小豆島に引っ越してこられました。

子どもたちに登り方や決まりなどを話す渡利さん。

登り方を教えてくれるので、初心者でも楽しくできます。

その渡部さんと渡利さんがタッグを組んで完成したのが今回のクライミングウォール。
小豆島スポーティサービスのプロジェクトとして、
島で暮らす人々がスポーツを楽しむ場がつくられました。

今回のクライミングウォールは約1か月間の期間限定でオープン。

「あそぼっ」と書かれた看板。体育館というより室内の公園という雰囲気だった。

美流渡に古家リノベ仲間あらわる! 27歳DIY女子の空き家改装

美流渡の空き家を活用する実験がスタート!

北海道・岩見沢の中山間地である美流渡(みると)に、
いよいよ春に移住しようと思っているわが家。
住まいとなる古家は改装が必要なのだが、連載で何度も書いているように、
大工である夫の作業は遅々として進んでいない(う〜ん)。
夫の重い腰がいつ上がるのか、いい加減ハラハラしてきたなかで、
ひとつうれしい知らせがあった。

連載第16回で紹介した地域おこし推進員(協力隊)の吉崎祐季さんが、
わが家よりさらに山あいの上美流渡で、この冬に古家を取得し、
なんと改装に乗り出したのだった。
ご近所に改装仲間がいれば、夫のやる気にも弾みがつくかも!! と期待が……。

築年数は不明。炭鉱街としてにぎわっていた時代は遊郭として使われていたそう。右の丸窓がその名残り。

家には増築の跡があり奥がかなり広い。1階は5部屋、2階は2部屋。

吉崎さんから最初に古家取得の話を聞いたときには、
思い切った決断をしたものだと驚いたが、同時にこれまで自分が考えてきたことを、
いよいよ実行に移すときが来たのだと納得もした。

彼女は地域おこし推進員であり、インテリアデザイナーという顔も持っている。
ただし、一般的なデザイナーのようにデザインだけをするのではなく、
DIY精神を生かし、模索しながら自分の力で改装を行っているのだ。
札幌の実家が経営していたアパートの一室を自ら改装したのを手始めに、
美流渡の花屋さんや自宅の内装も行い、
そのプロセスを『earth garden』というウェブで発信もしてきた。

自宅を少しずつ改装中。奥にあるドアには板を細かく貼って模様を描いた。手前のスタンディングデスクもお手製。

こうした経験を持つ彼女にとって、美流渡の空き家は
宝の山のように感じられるのだという。

以前は炭鉱街として栄え、閉山後に急激に人口が減少したこの地域には、
築年数もわからないような古家がいたるところにある。
それらは所有者がわからないものも多いが、吉崎さんは2年前に
地域おこし推進員になってから、NPOと連携しながら古家の調査を実施。
昨夏には活用方法をみんなで考える取り組みとして、
〈美流渡ビンテージ古家巡り〉というイベントも開催した。

「空き家はあるけれど、いまは活用する人がいない状態です。
移住希望者に空き家を見せる機会もありますが、ほぼ“廃屋”みたいな家がほとんど。
『直せば住めますよ』なんて言っても、なかなかイメージしにくいもの。
わたし自身も内装はやっていますが、廃屋を直すなんて
やったことがないので全然説得力がない。だからまず自分が実践して
“After”の状態をみんなに見てもらおうと思いました」

吉崎さんはさっそく改装を始め、1月には内壁をはがす作業を実施。
多くの仲間が集まった。ワークショップのように人を集めて改装をしていくことで、
地域の人たちのリノベーションスキルがアップすれば、空き家活用の機会が
さらに増えていくんじゃないか、そんな想いも持っているのだそう。

壁や天井をはがすと50年以上たまったホコリが! 前が見えなくなるほどの煙が舞い上がることもあったとか。

キッチンスペースの内壁もすべてはがすことに。

はがし終わったところ。仲間が手伝ってくれたので1日でここまで完了。

〈青貫水産〉 干物もロゴも手づくり。 絶品塩辛が人気の真鶴の名物店

神奈川の南西部、真鶴は魚のまち。
戦後は「ブリバブル」と呼ばれるほど、ブリで財を成した。
その後も豊富な魚を干物にして、観光バスが来たり、
多くの観光客が干物を買っていった。
その頃はたくさんの干物屋さんが軒を連ねていたが、
現在、真鶴で自家製造販売している干物屋さんは、
青貫水産高橋水産魚伝の3軒を残すのみ。
どこも小規模ながら毎日丁寧に魚を開き、干している。
今回は〈青貫水産〉のお話。

いつも人で賑わっている干物屋さん

お店にお邪魔するとたくさんのお客さん。みんなひと言会話をして買って行く。
それどころか店舗奥の作業場に足を踏み入れる常連さんも多数。
取材で店内にいる間、ひっきりなしに顔見知りのお客さんが訪れてきた。
そのたびに、店主の青木孝光さんは、
「最近どうよ?」「みかん食べなよ」などと声をかけていく。

〈青貫水産〉は地元に愛されている干物屋さんのようだ。
店舗にいた短い時間でもそれを充分に感じることができた。

青木さんは3代目にあたる。
小田原で生まれ、大学を卒業後、東京のデパートで
4年ほど衣料関係の仕事に従事していた。
青貫水産は、大学時代に知りあった現在の奥さんのご実家。
青木さんは婿となって、跡を継ぐことにした。

「跡継ぎがいなくてつぶれるっていうから、オレが来たんだよ! 
妻がひとり娘で、オレは6人兄弟の3番目だから。救世主だね」
と自分の顔を指差して豪快に笑う。

長年、魚を開いてきたことを物語る指を見せてくれた青木孝光さん。

当時の真鶴は観光で賑わっており、干物屋さんもたくさんあって、よく売れた。
従業員もいたので、まったくの未経験だった青木さんも、
お義父さんや従業員たちと一緒に働きながら自然と仕事を覚えていったという。

「実はオレも小田原の浜町という海沿いのまち出身で、周りは魚関係ばかり。
親父が板前で、おじいさんは魚屋だったんだよ。みんな職人。
気がつけば魚に馴染みがあったんだねぇ。
むしろ自分にとっては東京のほうが違和感があった。
仕事するにはいいけど、住みくいと感じた。やっぱり海が見えるまちがいいね」

新鮮なイカとカマス。

地元に根づいて、常連を大切に

こうして、晴れて海に戻ってきた青木さん。
しかし真鶴の観光業は徐々に衰退し、いまでは干物屋も数えるほどになってしまった。

「大型観光バスなどを相手にしていた大きなところがつぶれてしまったね。
うちみたいな家族経営でぼちぼちやっているところが残った」

かつては路面店や観光バスの呼び込みが必要だった。
しかしそのやり方ではリピーターがつかないから、
その客層がいなくなったときに何も残らない。

「うちは地元を大切にしてリピーターを増やしてきた。
いまは流通も発達しているし、きちんとおいしいものをつくっていれば
やっていけると思う。それが基本。こんな小さい店でも、
全国から注文はくるよ。世界中どこでも通用するんじゃない?」

青貫水産の干物は、防腐剤など使用していない。
だからおのずと持ち帰れる人たちがターゲットだった。
青木さんの代でつくり始めた商品もある。〈いか塩辛〉だ。
いまでは青貫水産の人気商品ともなっている。

「イカがとれると、ちょうどいいサイズのものは干物にしてよく売れるんだけど、
大きいイカや小さいイカは、安く売らないといけない。
それだったら、最初から塩辛にしてみようかなと。
小田原出身だから昔からイカの塩辛が好きだったんだ。
ほとんど自己流だね。最初はおばあちゃんの塩辛を思い出しながら
つくっていたんだけど、そのレシピだと、現代では塩分が多く過ぎてしまう。
健康に良くないから、ちょっとずつ味はアレンジしてるよ」

名物〈いか塩辛〉。ちょっとずつ混ぜながらいただく。

飛騨の移住者たちに聞く 「教育・子育て」 ローカル特有のつながりで育む、 子どもたちの未来

高山市で35年以上培ってきたアートやものづくりの土壌

〈ぽころこアートスクール〉では、35年以上前から高山で美術を教えている。
鹿児島から移住してきた弓削義隆さん・陽子さんの夫婦が始めた教室だ。
現在ではふたりに加え、息子の一平さんと奥さんの知嘉子さんも加わり、
4人で運営に当たっている。
親のアートスクール仕込みで自由奔放に育った一平さん。
現在は高山に落ちついているが、それまでは動き回っていたユニークな経歴。
高校までは高山で育ち、その後フランスに渡る。

「フランスではいろいろやりました。
アンティークのギャラリーで家具の修復とかクリーニングをしたり、
古着の買い付けやカメラマンのアシスタントもやりましたね。
本当は芸術学校に入ろうと思って行ったのですが……」

その後は、世界各国を旅して回る。
登山が好きだったので山行を中心に、アメリカや南米を旅する。
アンデス山脈のアコンカグア、アラスカのマッキンリーにも登った。
合間には日本に帰ってきて、北アルプスの焼岳や富士山などの山小屋で働き、
お金を貯めては海外を旅する生活。その旅の途中で、知嘉子さんとも出会った。

高台にあるアトリエは遠く山々を望む。

旅も落ち着き、一度東京で暮らす。
しかし、両親がアートスクールの行く末を迷っているタイミングでもあり、
高山に戻ることを決めた。

「高山の自然の中で育った一平くんは、東京よりも、
やはり高山のほうが生き生きとしているように感じました。
それなら私がこっちに移住しようかな」と、
東京生まれ東京育ちの知嘉子さんも高山への移住を決意した。

一平さんにとっては海外も含めた大きなUターン、知嘉子さんはIターンである。
こうして、高山で両親とともにアートスクールに携わっていくようになる。

階段や家具など、義隆さんの手づくりも多い。

自然とともに遊びながら学ぶ〈ぽころこアートスクール〉

現在、ぽころこには幼児から高校生まで50人以上の生徒がいる。
幼児は母親の陽子さん、高校生が父親の義隆さんが担当し、一平さんは小学生担当だ。
父親の代から、ぽころこは単純なアートスクールではなかった。
デッサンなどのアートは教えるが、それ以外の部分も充実している。

「凧をつくって揚げたり、ブーメランをつくって飛ばしたり。
この間の合宿ではイカダをつくりました」

広義のアート。木工のまち高山らしい取り組みともいえる。

「デッサンだけは毎回やるようにしていますが、
いろいろ広がり過ぎて、もうアートスクールなのかも微妙ですね(笑)」

ときには知嘉子さん主導で料理もつくることもある。
スパイスをゴリゴリ摺ってカレーをつくったり、
生クリームからバターをつくってホットケーキを食べたり。
「食の成り立ちを学ぶ」ことが目的だ。

子どものうちに経験したことは、大人になったとき、自分のなかに意外と残っている。
だから子どものうちにたくさんのことを経験させたいという。

「大人になったときに、自身が体験してきたことを組み合わせることで、
新しいアイデアが生まれるんだと思います。だから経験は大切」

遠くから見てもすぐにわかるユニークな建物。

現在、高山市街地の教室と、アトリエであり両親の自宅でもある
「国府教室」の2か所がある。
国府教室の裏はすぐに山で、羊が2匹いて、ツリーハウスもある。
市街地から車で20分程度だが自然が豊か。
必然的にこちらの教室ではアウトドア要素が強くなる。
特に一平さんは、親の代から受け継いで、自分だからできることを目指したいという。

「僕が得意なことをどんどんやりたい。
毎年、焼岳の3000メートル近いところまで登る登山教室も開催しています。
国府教室のほうが、みんな伸び伸びしていますね。
お題を与えなくても、勝手にそのあたりに落ちている枝で
何かをつくり始めたりしています。
デッサンに使う題材も、捕まえてきた虫とか、カエルとか(笑)」

生徒たちも製作を手伝っているツリーハウス。「くれぶき」という屋根の技法が用いられている。

「小屋をつくったり、羊の世話に追われている」と一平さんは笑う。

自分で集めて、自分で考えて、自分でつくったほうがおもしろい。
それには都会ではないほうがやりやすいことが多い。

「美術館やギャラリーに行って刺激を受ける、
ということに関しては都会よりも不利だと思います。
しかしそれ以外は有利なことがほとんど。
展示に行くにしても、それを選びとって、しっかりそれを見てくるという意味では、
体験や深さとしては意味がある。
僕がパリにいたときは、美術館やギャラリーによく通っていましたが、身近過ぎて、
いま考えると、その価値までしっかりと感じ取れていなかったと思います」

この日は凧づくり。

身の回りに溢れているがゆえに漫然としているより、数少なくても、
自分の意志が込められている体験のほうが、結果、強く残る。

「教育の環境としては、完成されたものばかりを“見る”より、
やわらかく自由な発想で“考える”ことが重要だと思います」

余計な知識は入れないで、感性に任せること。
それが一平さんの考える教育方針。

子どもたちの自主性を遮らないように気を配っていた。

生徒の親は弓削さん夫婦と同世代だったり、実際の同級生もいる。
そうした人たちのなかで、ぽころこ卒業生のモデルケースが一平さんなのかもしれない。

「一平くんがのびのび育ったのを見て、ぽころこに通わせるのが
いいんじゃないかという親の視点もあるみたいです」と知嘉子さん。

「ぽころこ出身の人は高山にもたくさん住んでいて、おもしろい人が多い。
2代どころか、3代で通っている人もいますよ。
高山なので木工関係などものづくりの仕事に就いている人も多く、
子どもに芸術やものづくりを学ばせることに理解のある親も多いです」

自然環境が豊かというほかに、木工のまちであるということ。
さらにはぽころこが35年以上にわたって
この地に培ってきた芸術的センスやクラフトマンシップの感性。
それがまた高山のものづくりへとフィードバックされているのかもしれない。
もともとの飛騨の手仕事DNAに加えて、こうした「ものを生み出せる子どもたち」が
クリエイティブなまちをつくっていけばすばらしい。

小学生と接する一平さんと知嘉子さん。
無邪気な子どもたちは、世話をするのに手を焼く。
しかし上からでも下からでもなく、素直に向き合っているようにみえる。
子どもたちが、自由に楽しく創作に向かえるように。

information

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ぽころこアートスクール

桐生教室

住所:岐阜県高山市桐生町2-173 岡田ビル1F

TEL:0577-34-7286

国府アトリエ

住所:岐阜県高山市国府町名張596

TEL:0577-72-3895

http://www.hidatakayama.ne.jp/pocoloco/

■弓削さんたちの教育についてはこちらのインタビューも↓

弓削さんに羊飼いになることを
勧めた夫婦

〈高橋水産〉 真鶴の魚で究極の干物を 目指す求道者

神奈川の南西部、真鶴は魚のまち。
戦後は「ブリバブル」と呼ばれるほど、ブリで財を成した。
その後も豊富な魚を干物にして、観光バスが来たり、
多くの観光客が干物を買っていった。
その頃はたくさんの干物屋さんが軒を連ねていたが、
現在、真鶴で自家製造販売している干物屋さんは、
青貫水産高橋水産魚伝の3軒を残すのみ。
どこも小規模ながら毎日丁寧に魚を開き、干している。
今回は〈高橋水産〉のお話。

真鶴の伝統と革新をこめた干物づくり

真鶴の干物屋さんのなかでも、ひときわ異彩を放つ店頭ディスプレイ。
「毎日修業」「一人製造」「独学干物」といったスローガンが貼られている。
それだけでもすごく興味を惹かれてしまう。
店頭には七輪が置かれ、数種類の干物が試食できる。一杯やりたくなるくらいだ。
ここで試食してしまうと、買わずにはいられない。それくらい旨みが凝縮している。

試食コーナーは交流も楽しい。表面にプツプツと塩が浮いてきたら食べ頃。

高橋水産の現店主は辰己敏之さん。もともとは辰己さんの祖父が、
湯河原から真鶴へ干物屋を移転してきて始めたお店だ。

「干物が身近にある環境で育ったので、
子どもの頃から干物が大好きでした。食べ放題でしたからね。
昔から真鶴の人は魚の味に厳しいのでおいしい魚が食べられました。
だから真鶴の子どもは魚に対して舌が肥えてしまうんですよ」

当時、祖父のお店は調子がよく、現店舗以外にも
観光バスが何台も着くような大型店舗も構え、干物も大量生産していた。
辰己少年はそうしたお店に顔を出しながら、干物を食べ、
結果的に現在につながる“味覚を鍛える”日々となった。

店内には干物がたくさん干されている。

本人いわく「夢も何もなく」高校を卒業して、
お金がないので、祖父の干物屋をなんとなく手伝いながら、過ごしていた。
ところが時代の流れは避けられない。
10数年前に業務を縮小、大型店舗も閉め、現店舗のみとなった。
祖父も引退し、従業員もわずか数名に。

「見よう見まねで僕も干物をつくってみたけど、なかなかうまくいきませんでした。
でもだんだんと慣れてきたので、祖母にも引退してもらって、
ひとりでやることになりました」

ここから辰己さんの「干物求道者」たる道が始まる。
「夢も何もなかった高校生」なんて言いながら、
凝り性な側面がむくむく湧き上がってくる。

「じいさんから伝わってきたマニュアル通りにやっても、
子どもの頃食べていた味と違うんです。魚はとれる場所や時期、
サイズもバラバラ。だからマニュアルが通じないこともある。
すごくしょっぱくなったり、味がしなかったり。
じいさんがつくっていた塩度の少ない味つけを再現したかったんです。
ある程度納得できる味になるのに何年もかかりましたね」

高橋水産の辰己敏之さん。干物愛にあふれている。